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司馬遼太郎の夏目漱石観   ―比較の重要性の認識をめぐって―

  はじめに 日露の「文明開化」と夏目漱石

 

 夏目漱石は講演「現代日本の開化」において、明治維新以降の日本の「文明開化」を、それは「己を棄てて先方の習慣に従」い、「器械的に西洋の礼式などを覚える」ような「外発的」なものであり、「皮相上滑りの開化」であると厳しく批判した*1。ロシアの思想家チャアダーエフも、『哲学書簡』の「第一書簡」で、ピョートル大帝以降のロシアの「文明開化」について、「われわれには内的発展」がないと批判し、それは「輸入と模倣の文明が当然招いた結果」であると厳しく批判していた*2。日本とロシアの近代化を比較した山本新は、「文明論的意味で、漱石のこの『講演』に不思議なほどよく似ている。しかし、この類似性に気づき、それを問題にしたひとはいない」とした*3。

 この意味で興味深いのは、ロシアのチャアダーエフ(一七九四~一八五六年)と夏目漱石(一八六七~一九一六年)が、ともに日露両国における「欧化」から「国粋」への転換期に壮年期を迎えていたことである。つまり、山本新は「教育勅語」の末尾に記された天皇の署名に対して最敬礼をしなかったことから「不敬事件」として騒がれた一九〇一年の内村鑑三の事件を、「国粋」の台頭を象徴する事件となったと位置づけているが*4、チャアダーエフもまた「専制、正教、国民性」をロシアの教育理念として義務づけた文部大臣ウヴァーロフの通達と一八三三年に接していた。こうして、日露の二人の知識人は、「富国強兵」に向けた「欧化」政策の問題点を深く感じるとともに、これに対する反発から「自国中心」の「国粋」的な政策がとられるという時期を経験していたのである。

 それゆえ漱石は『三四郎』(一九〇八年)の第一章において自分と同世代の登場人物広田先生に、「いくら日露戦争に勝って、一等国になっても駄目ですね」と語らせたのである*5。興味深いのは、日露戦争を中心に描いた長編小説『坂の上の雲』を書く過程で司馬遼太郎が、日露両国を比較しつつ戦争を考察するなかで、日露両国の近代化の類似性の認識と文明論的な視野の広がりを得るとともに、当初はそれほど重きをおいていなかった夏目漱石への関心も深めていくことである。

 そして、晩年ともいえる一九九三年の対談で司馬は、「ぼくは年をとって、漱石が好きという以上に恋しくなっています」と言い、「漱石において、ラブレターも書けて地球環境論も論じられる、そういう文章日本語が成立したわけです」と語るほどに、きわめて高く評価するようになるのである*6。

 本稿ではロシア文学と比較文明学の研究者の視点から、日露戦争を描いた長編小説『坂の上の雲』の構造に注意を払いながら、司馬遼太郎における夏目漱石観の深まりとその比較文学的な意義を、『吾輩は猫である』、『坊っちゃん』や『三四郎』への言及を具体的に分析することにより明らかにしたい*7。

 

  一、『坂の上の雲』における教育制度の考察と『坊っちゃん』

 

 『坂の上の雲』第一巻のあとがきで、「維新によって日本人ははじめて近代的な『国家』というものをもった」とし、「不馴れながら『国民』になった日本人たちは、日本史上の最初の体験者としてその新鮮さに昂揚した」と記した司馬遼太郎は、第三巻においては「日清戦争から日露戦争にかけての十年間の日本ほどの奇蹟を演じた民族は、まず類がない」と記した*8。その一方で敵国となるロシアについては、その「態度には、弁護すべきところがまったくない。ロシアは日本を意識的に死へ追いつめていた。日本を窮鼠にした」(3・「開戦へ」)と断定的に書いた。

 さらに、司馬は民衆には将校になる可能性がほとんどなかったロシアの場合と比較しながら、「日本ではいかなる階層でも、一定の学校試験にさえ合格できれば平等に将校になれる道がひらかれている」明治の新しい教育制度のよさに注意を向けている(1・「七変人」)。実際、秋山兄弟はそのような教育制度の中で士官学校や海軍兵学校を卒業して、士官として日露戦争に参加することになるのである。こうして『坂の上の雲』の前半において特徴的なのは、「野蛮」なロシアと「文明」的な日本の比較が教育制度の考察を通してなされていることだろう。

 この意味で注目したいのは、『坂の上の雲』の前半では初期の自由民権運動における福沢諭吉の重要性とともに、松山中学における正岡子規と自由民権運動の係わりがかなり詳しく描かれていることである。そして、このような文脈を重視して読むと、『坊っちゃん』において重要な役割の一端を担っている「あだ名」が、松山中学における自由な批判的精神の現れともとれることに気づく。

 たとえば、司馬は「福沢諭吉は言葉の文明をおこそうとした人でした」とし、彼は「三田に『演説館』をつくり」、「そこで学生に稽古をさせ、ここから日本人のスピーチは始まりました。福沢が考える文明とは、自由と権利、そして演説だったのでしょう」と結んだ*9。

 実は、正岡子規が学んだ松山中学はそのような福沢諭吉の理念とも深く結びついていた。すなわち、司馬は土佐出身の権令・岩村高俊が松山でも自由民権運動を奨励したことを指摘するとともに、彼が「草間時福という慶応義塾出身の青年」を松山中学校の前身である「英学所」の校長としたことに注意を向けている(1・「真之」)。

 こうして、このような環境で学んだ子規について、司馬は「明治十四、五年ごろになると松山市内に青年演説グループがいくつもできたが、子規は一人でその三グループの会員になるというほどに熱心だった。自由とはなんぞやといった演題で、子規は市内の会場をぶってまわったりした」と書き、「高名な植木枝盛が松山にきて鮒屋旅館にとまったときも、中学四年生の子規はなかまと一緒に旅館におしかけ、意見をきいたこともある」と続けた(1・「真之」)。

 しかも、漱石の『坊っちゃん』において「あだ名」の問題がきわめて重要な役割を果たしていることはよく知られているが、司馬はここで子規が学んだ頃にも、松山中学では数学の先生が「うめぼし」、漢文が「あんころ」などというあだ名をつけられていたことを紹介している。そして、「先生にあだ名をつけることががさかんなのは、後年、子規の友人でこの中学の英語教師になってやってきた夏目漱石が小説『坊っちゃん』でそのことを書いているが、すでに開校当時からその風があったらしい」と続けているのである(1・「真之」)。

 しかも、この「あだ名」の問題には後でも触れられており、東京で習った英語の教師にも子規が「まるでだるまさんじゃな」といったことが「この教師の生涯のあだ名になった」とし、「教師は高橋是清といった」(1・「騎兵」)と書いているのである。

 このように見てくる時、『坊っちゃん』における「あだ名」の問題は、単なる「揶揄」ではなく、むしろ「既成の権威」を批判する自由民権的な精神の現れとして用いられていたことが明らかになるだろう。

 このような自由な雰囲気の中で勉学を続けた子規と秋山真之は叔父の加藤恒忠と兄の秋古を頼って上京し、「大学に付属した機関で、のちの旧制高校もしくは大学予科に相当する」大学予備門に入学した。この予備門には子規が「剛友」と呼んだ秋山真之や「畏友」と呼んだ後の夏目漱石など全国の秀才が必死に勉学に励んでいた。この頃の状況について司馬は、「『明治二十三年を期して国会をひらく』という詔勅はすでに同十四年に出ており、このため天下の青年の志は政治にむかっていた」とし、「子規も真之も、松山中学のころにルソーの『民約論』を服部徳の翻訳でよんでいた」と書いている(1・「七変人」)。

 こうして、この後でもこの長編小説の圧倒的な量において戦争の描写や作戦の分析がなされているが、しかし、分量的には劣るが一貫して流れているのは日本とロシアの教育制度や社会制度などの比較考察であり、皇帝の専制国家である「野蛮」なロシアと、アジアで初めて「憲法」も持った「文明化した」日本の比較を行っていることである。

 漱石が出会ったのは、このような豊かな批判的精神の持ち主の正岡子規だったのであり、大学を退学することになった後も、真剣に独自の道を模索する子規の姿は、漱石を烈しく動かしもしたのである。

 『坂の上の雲』において漱石には、主人公の一人である正岡子規を引き立てるための脇役程度の役割しか与えていないように見える。実際、「私は子規の散文が好きなんですよ」と後に語った司馬は、子規が『墨汁一滴』において「そのころ牛込に住んでいて、そこの近所は田んぼだった」にもかかわらず、漱石にはそこに植えられている稲から米が取れることを知らなかったと書き、「われわれ松山の人間は草鞋(わらじ)から味噌から何もかも自分でつくるから何でも知っているが、東京の人はそうでもないようだ。しかし、この東京の風潮はこのごろ地方にもだいぶ及んでいるらしい」と記していることに注意を促している*10。この後で司馬は「漱石の文学論を私は青少年期に読んだことがあります」としながらも、それは「眠り薬のようなものでした」と語っているように、ここには伝統や自然の知識が欠けた「文明開化」の中心地である東京の知識人としての漱石への批判が濃厚にあらわれていると思える。

 しかし、『坂の上の雲』で漱石と子規との係わりを考察したことは、後の漱石への高い評価につながっていく。たとえば、後に司馬は『福翁自伝』に言及しつつ、「福沢諭吉の文章もまた、漱石以前において、新しい文章日本語の成熟のための影響力をもった存在だった」とした*11。そして、ここでは「明晰さにユーモアが加わり、さらには精神のいきいきした働きが文章の随処に光っている」とし、「知的軽忽(きょうこつ)さを楽しんだあと、すぐ漱石の『坊っちゃん』を読むと、響きとして同じ独奏を聴いている感じがしないでもない」と両者を絶讃したのである。

 

  二、事実の重視と『坂の上の雲』における日露の近代化の比較

 

 『坂の上の雲』の第二巻で司馬は、夏目漱石が「松山中学の英語教師として」赴任してきて下宿した時に、子規がその階下の二間を借りてそこで俳句会を始めて漱石をも引き込んだことを記している。そこで、子規は『源氏物語』における写生力のすばらしさを讃えて、「写実の上でもいまの小説は源氏にはるかに劣っている」とし、「あしは俳句復興の松明(たいまつ)になるつもりじゃ」と漱石に宣言したのである(2・「須磨の灯」)。

 事実、子規は闘病生活の中で方法論を深め、雑誌『日本』に十回連載された『歌よみに与ふる書』という文章では、「貫之は下手な歌よみにて、古今集はくだらぬ集に有之候」とまで記したのである。司馬は子規が「歌をよむための歌よみの歌というのは芸術ではない」として、「歌は事実をよまなければならない」(傍線筆者)ことを強調したとしている(2・「子規庵」)。

 こうして、「歌は事実をよまなければならない」とする子規の方法で、日露の近代化の比較を行い日露戦争の実態を綿密に調べながら書くことによって、司馬自身も日本の近代化の問題点についての理解も深めていくのである。たとえば、司馬は「当時の西ヨーロッパ人からみれば半開国にひとしかった」ロシアの「文明開化」を行ったピョートル大帝が使節団を西欧に派遣したり「ひげをはやしている者には課税」するなど岩倉使節団や断髪令など日本の明治維新に先行して「つぎつぎに改革と西欧化を断行した」ことを指摘している。そして、司馬は言葉を継いで、「この百五十年という大きな落差で日本がやっと開化したというのは、維新後、日本の欧米に対する運命のようになってゆく」と記している(2・「列強」)。

 しかも、子規の方法への関心は司馬による漱石文学の理解の深まりとも係わっているように思える。たとえば、子規記念博物館での記念講演では、「われわれは物をありのままに見ることが、きわめて少ない民族だ。だから日本はだめなんだ」という子規の言葉を引用しながら、「身を震わすような革命の精神で思った言葉が写生なのです」と説明している*12。さらに「私の漱石」と題する講演で司馬は、子規が根岸の小さな家で始めた「山会」にふれて、「山というのはテーマのことらしい」とし、「ただ文章の名文がつらねられている」これまでの美文を批判して子規が、「あれはだめだ、文章というのは、言わんとするためにあるんだと考え」、「短い文章を持ち寄って朗読」していたことを記している。そして、「山会」を受け継いだ高浜虚子が、「夏目さん、この『ホトトギス』という小さな雑誌に、小説というものを載せたいんだけれども、何か書いてくれませんか」といったことが、『吾輩は猫である』の誕生につながったと説明するのである*13。

 このように見てくる時、『坂の上の雲』の前半部分の明るさは、病苦に悩まされながらも新しい文学の創造に燃えていた正岡子規によるものが予想以上に大きかったことが判明する。それまで「心象の中の像が大き」かった秋山真之ですら、彼が「子規の下宿を去って」、「海軍という一種の人格性をもった組織に入ってしまってからは小さな粒子にすぎなくなる」のである(_「あとがき五」)。

 むろん、子規の死後も司馬遼太郎は『坂の上の雲』の筆を止めることはなく、日露戦争へ至る過程や、そのクライマックスともいえる日本海海戦の詳しい戦術の描写へと筆を進めていく。しかし、そこにはそれまであったような個人の鼓動が聞こえてくるようなことはまれになってくる。たとえば、第四巻のあとがきには「当時の日本人というものの能力を考えてみたいというのがこの作品の主題だが、こういう主題ではやはり小説になりにくい」と記され、その理由としてこのような小説は「事実に拘束される」が、「官修の『日露戦史』においてすべて都合のわるいことは隠蔽」されていることが挙げられている(「あとがき四」)。

 そして、「日本人にとってきわめて不幸な事件」となった堅固な要塞である旅順攻撃の惨劇を、「戦いの惨烈さは、近代戦のそれを十分に予想させる」クリミア戦争の激戦である「セヴァストーポリの攻防戦」と比較しながら描く中で、近代戦争としての日露戦争の悲惨さに気づくのである。実際、「日露戦争は戦費の規模からいうと日清戦争の七・六倍、兵力数では四・五倍(約一一〇万人)、戦闘死者数では実に四二・四倍」に達していたのである*14。

 「セヴァストーポリの攻防戦」に「まだ二十七歳の青年だったトルストイ」が、「下級将校として従軍」していたことに注目した司馬は、彼が「籠城の陣地で小説『セヴァストーポリ』を書き、愛国と英雄的行動についての感動をあふれさせつつも、戦争というこの殺戮だけに価値を置く人類の巨大な衝動について痛酷なまでののろいの声をあげている」と記す(5・水師営)。

 この時、司馬の視野にはナポレオンとの戦いを描いたトルストイの『戦争と平和』が大きく全面に現れてきたと思われる。なぜならば、日露戦争の勝利は日本人に民族意識の昂揚をもたらしたが、トルストイが大作『戦争と平和』において描いたのも、「祖国戦争」と呼ばれるロシア人の民族意識の昂揚を呼び起こした戦いだったのである。

 しかし、トルストイは『戦争と平和』においてロシア人の勇敢な戦いを描きつつも、戦争を「人間の理性と人間のすべての本性に反する事件」とよび、「数百万の人々がたがいに数かぎりない悪逆、欺瞞、背信、窃盗、紙幣の偽造と行使、略奪、放火、虐殺」などの、「犯罪を犯し合い、しかもこの時代に、それを犯した人々は、それを犯罪とは思わなかった」と厳しく批判をしていた*15。そのトルストイは日露戦争に際しては、「悔い改めよ」と題する論文を発表して、戦争を厳しく批判したのである*16。

 一方、日露戦争の時代を生きた夏目漱石も、滑稽な場面が多い作品と見られている『吾輩は猫である』で、「わたしねえ、本当はね、招魂社へ御嫁に行きたいんだけれども」、「御ねえ様も招魂社がすき? わたしも大すき。一所に招魂社へ御嫁に行きませう」という主人公の苦沙弥先生の七歳と五歳の幼い娘たちの会話を記していた。谷口巌は「招魂社は靖国神社の旧称、この年五月、臨時大祭盛大に行われ日露戦争前半期の戦死者約三万人を合祀、大勢の参拝者があった」ことや、日露戦争における「総戦病死者数は約一二万」となったことを説明し、「国家によって〈強制〉された死は、国家によって〈美化〉」されねばならなかったとし、「子供たちの発言が無心で可愛いものであるだけに、それだけ〈時局批評〉としての凄さを秘めている」と記している*17。

 さらに、漱石は『趣味の遺伝』と題する作品では、「(いくさ)は人を殺すかさなくば人を老いしむるものである」として(1)、旅順の戦闘で塹壕に飛び込んだ友人「浩さん」の死を次のように描いているのである。「狙いを定めて打ち出す機関砲は、杖を引いて竹垣の側面を走らす時の音がして(またま)く間に彼等を射殺した。殺された者が這い上がれる筈がない。石を置いた沢庵の如く積み重なって、人の眼に触れぬ坑内に横はる者に、向へ上がれと望むものヽ無理である。…中略…日露の講和が成就して乃木大将が目出度(めでた)く凱旋しても上がる事は出来ん」(2)。

 そしてこの小説で一人息子に先立たれた老母の悲しみを描いた漱石は、『三四郎』でも広田の向かいに坐った老人に「一体戦争は何のためにするものだか解らない。後で景気でも好くなればだが、大事な子は殺される、物価は高くなる。こんな馬鹿気たものはない」と嘆かせていた(1)。司馬も後に当時「製艦費ということで、官吏は月給の一割を天引きされて」いたことに注意を向けながら漱石の文章を引用して、「爺さんの議論は、漱石その人の感想でもあったのだろう」と説明するようになる*18。

 『坂の上の雲』を書くことによって司馬は、ロシアの「祖国戦争」での勝利とその後を描いた『戦争と平和』の意味を理解したと思える。たとえば、司馬は子どもの頃に「正岡子規と徳冨蘆花の著書またはそれについての著作物」を読みなじんだことや蘆花がトルストイを訪ねていることにふれた後で、徳冨蘆花の国家観を次のように分析している*19。

 「日露戦争そのものは国民の心情においてはたしかに祖国防衛戦争であった」(傍線引用者

)が、「近代を開いたはずの明治国家が、近代化のために江戸国家よりもはるかに国民一人々々にとって重い国家をつくらざるをえなかった」。「蘆花は、そういう国家の重苦しさに堪えられなかった。かれは国家が国民に対する検察機関になっていくことを嫌悪」した(「あとがき五」)*20。

 そして、司馬遼太郎は秋山真之が、日露戦争後に正岡子規の墓参りをしたことに触れたあとで、「人類や国家の本質を考えたり、生死についての宗教的命題」を考え続けただけでなく「海軍をやめて出家しようとし、そのことを部内のひとびとからとめられると」、僧になることを自分の長男に託すようになったと記して、「明治のオプティミズム」の「終末期は日露戦争の勝利とともにやってきたようであり、蘆花の憂鬱が真之を襲うのもこの時期である」と書くのである(「雨の坂」)。

 こうして『坂の上の雲』を書き終えた司馬は、戦争以降に顕著になった「時世時節の価値観が事実に対する万能の判定者になり、都合のわるい事実を消す」という傾向を指摘し、日露戦争の戦史が事実を伝えていない事が多いことに触れて、「日本人は、事実を事実として残すという冷厳な感覚にかけているのだろうか」という深いため息にも似た言葉を記している。つまり、一般には日露戦争の意義を高らかに主張したかに受け取られている、この歴史小説の終章で、司馬は近代的な戦争の問題点を指摘しているのであり、「白い雲」をめざしてまっしぐらに坂を上ってきた主人公たちが目にしたのは、坂の上を覆う「黒い雨雲」だったのである。

 

  三、比較の重要性と「欧化と国粋」サイクルの危険性の認識

 

 こうして『坂の上の雲』を書き終えた後、明らかに司馬の漱石への評価も変わるのである。たとえば、司馬は「漱石という人は奥の深い人です」と記し、「明治のおもしろさというより、頼もしさを感じますね。日露戦争という、国家が滅びるかどうかというようなことをやっている最中に、夏目漱石は『吾輩は猫である』を、つまり彼にとって最初の小説を書いていたわけなのですから」とし、「そういう明治のおもしろさは、とても昭和時代だけを知っている私どもの年齢の者にはわかりにくいですね」と続けている*21。

 この意味で注目したいのは、「京都には狩野という友人有之候。あれは学長なれども学長や教授や博士(など)よりも種類の違ふたエライ人に候」*22と漱石が門下生に書いて敬愛の念を記していた狩野亨吉(こうきち)に、司馬が大きな意義を認めていることである。

 すなわち、秋田県大館市出身の狩野亨吉(一八六五~一九四二)について、司馬は「とびきりの秀才で、第一高等学校の校長となり、四〇歳ごろ京都帝大初代の文科大学(文学部)の学長に招かれ」たが、「二年もすると辞めて」しまったと書いている*23。このような狩野と夏目漱石との交友について水川隆夫は、狩野が「東京帝国大学文科大学哲学科三年のとき、漱石が英文学科で入学してきて、やがて親密な交際をするように」なり、後には「第一高等学校英語嘱託と東京帝国大学文科大学講師の地位を見つけてやった」と書いている*24。しかも、明治三十九年(一九〇六)に「京都帝国大学文科大学の学長に任命」されると狩野は、「ぜひ漱石を英文学科の教授として招きたいと考えて、早速依頼の手紙を書いた」。これに対して漱石は取りあえず断りの返事を出したが、それは「正邪曲直の衝突せる場合に正直の方より手を引くときは邪曲なるものをして(ますます)邪曲ならしめ候」という理由からだった。さらに、狩野が重ねて依頼の長い手紙を書いたときに漱石は、「友人の厚情に感謝しながらも、十月二十三日に二度つづけて長文の手紙を出して、京都に逃避するのでなく、東京の烈しい世の中に立って、世の為にならない『敵』と討死する覚悟で戦いたい」と書いてきっぱりと断った*25。

 司馬遼太郎は狩野亨吉について「今で言う文学部、文科大学の学長として、教授を選び、図書を選び、基礎的なあらゆることをやった」と記し、「独創的な人で、教授陣選びも独創的でした」とし、桑原武夫の父親である桑原隲蔵(じつぞう)だけでなく、師範学校しかでていないという「学歴から、文部省の役人は反対」していた内藤湖南も「説得を重ねて招聘」したことに触れている*26。このような司馬の説明を読むならば、漱石の招聘もまた、このような狩野の大学構想の一環だったことが分かるのである。

 よく知られているように、狩野の依頼を断って東京大学に職を得た漱石は、その後、東京大学教授の職を断って朝日新聞社に入社し、小説家として作品の執筆に専念するようになる。このことを司馬は「漱石という人は、明治時代という立身出世の時代に、立身出世のカードを全部捨てた人であります」として高く評価した*27。

 それは狩野亨吉にも共通していた。司馬は「明治時代は大変な模倣の時代」であったことに言及しながら、狩野亨吉は「日本人にオリジナリティがあるのか。日本人は創造的な能力があるのか」という問題に悩んだとし、「給料のほとんどを古本の購入に充て」たとしている。そして、「あっさり官職を捨」ててからは、「古本に埋もれて暮らした。江戸時代の有名な人はみな調べたと言っていいぐらい」であると語った*28。さらに、「狩野亨吉は、安藤昌益(一七〇三~一七六二)や、志筑忠雄(一七六〇~一八〇六)のような埋もれた独創的思想家を発掘した点で、日本思想史の分野に顕著な足跡を残している」と司馬は記し、さらにその研究の動機にふれて、「道理は国土によって変わらぬものであれば、学問も東西の区別のなかるべきはずである。…中略…ただいつでも、彼方の真似ばかりでは、此方が劣ったような感じがして、はなはだ心細い次第である」と狩野が記していたことを強調しているのである。ここには西欧の列国と対抗するために行われた急激な上からの改革や近代化のあり方に対する鋭い批判がある。

 こうして司馬遼太郎は、一九八七年にケンブリッジで開催された講演で、「明治という日本の近代の開幕は、江戸時代に準備された結果にすぎない」とし、「文化という意味では」、明治を「徹底的な旧日本否定ということで」「フランス革命よりは過激だった」かもしれないと規定した。そして、夏目漱石には「歯切れのいい江戸弁」と漢文の素養、さらに英文学の「三つの言語が入っていた」と彼の多文化的な素養を強調し、「漱石によって、大工道具でいえば、(のこぎり)にも(かんな)にも(のみ)にもなる文章」ができあがったと高く評価するのである*29。

 さらに日露戦争後に書かれた『三四郎』について司馬は、「明治の日本というものの文明論的な本質を、これほど鋭くおもしろく描いた小説はない」と絶讃している*30。漱石は自分と同世代の登場人物広田先生に、「いくら日露戦争に勝って、一等国になっても駄目ですね」と語らせ、「然しこれからは日本も段々発展するでしょう」と弁護する三四郎にたいして「亡びるね」と断言させ、三四郎に「熊本でこんなことを口に出せば、すぐ擲ぐられる。わるくすると国賊取扱にされる」と感じさせていた(1)。こうして、漱石はロシア文学において重要な役割を演じた「世代論」な視点を取り入れることにより、「文明開化」の第二世代である東京の知識人広田先生を、日露戦争後の「自国中心」的な教育を受けて育ったことにより批判的な精神を失いつつあった「第三世代」の、熊本という「地方」出身の若者三四郎とを比較することにより、若い世代の問題点を指摘し得たのである。

 このような司馬遼太郎の漱石観の深まりは、彼の文明観の変化とも深く係わっている。すなわち、福沢諭吉は一八七九年には日本が「開国二十年の間に、二百年の事を成した」と書いて、日本の「文明開化」の速度を誇った*31。しかし、日露戦争の世代である夏目漱石は、『三四郎』で「明治の思想は西洋の歴史にあらわれた三〇〇年の活動を四〇年で繰返している」と記し(2)、「現代日本の開化」が「皮相上滑りの開化」であるとして日本の「近代化」を西欧文明の物真似として鋭く批判した。司馬遼太郎も『坂の上の雲』を書き終えた後ではこのような漱石の批判を受け継ぐかのように、「日本は維新後、西洋が四百年かかった経験をわずか半世紀で濃縮してやってしまった」と記し、「日露戦争の勝利が日本をして遅まきの帝国主義という重病患者にさせた」と厳しく批判するようになるのである*32。 

 この意味で注目したいのは、『吾輩は猫である』の第六章の末尾近くには、すでに苦沙弥先生が読み上げた次のような自作の短文が書かれていることである。それは「大和魂!と叫んで日本人が肺病みの様な咳をした」という文章で始まり、「東郷大将が大和魂を有つて居る。肴屋の銀さんも大和魂を有つて居る。詐欺師、山師、人殺しも大和魂を有つて居る」と続けて、「誰も口にせぬ者はないが、誰も見たものはない。誰も聞いた事はあるが、誰も遇つた者がない。大和魂はそれ天狗の類か」と結んでいた。谷口は猫が苦沙弥の態度を「(いささ)か本気の沙汰」と評していることに注意を促しながら、ここで言及されている「大和魂」は、「客観的な根拠に立たぬ単なる精神主義であり、理性を離れた独善性と行動の暴発性を孕む、危険な〈呪文〉の類であった」と述べている*33。

 実際、漱石は『三四郎』で広田に彼が高等学校の生徒だったころ「たった一度逢った女に、突然夢の中で再会した」と語らせているが(_1)、葬列の馬車に乗っていた彼女の姿を見たのは、教育に「修身」や「教育勅語」のような国教的な倫理を持ち込むことに反対していた文部大臣・森有礼が暗殺され、彼の葬儀の列を見送るために路傍に整列していた時なのである。この意味で注目したいのは、林竹二がこの翌年に「教育勅語」が渙発されたことを指摘しながら、この暗殺の背景には「欧化と国粋」の対立があったことに注意を促していることである*34。実際、「欧化」の流れに危機感を強めた天皇の侍講元田永孚は、すでに一八七九年に「教学大旨」を著して、「専ら智識才芸のみを尚び、文明開化の末に馳せ、品行を破り風俗を傷ふ者少なからず」と欧風の新教育を鋭く批判し、これを受けて文部省は翌年、福沢の書いた欧米の紹介を行った本などを教科書として用いることを禁じて「小学修身訓」を編んでいたのである*35。

 司馬は漱石が広田に「囚われちゃ駄目だ。いくら日本の為を思ったって贔屓の引倒しになるばかりだ」と語らせていることに注意を促し、日露戦争に「勝ったあとに日本がおかしくなった」と記して、「日本では軍部が擡頭し、やがて軍を中心に、アジア侵略によって恐慌から脱出する道をとり、破滅にむかう」と続けた。そして司馬は、「日露戦争の終わりごろからすでに現れ出てきた官僚、軍人」などの「いわゆる偉い人」には、「自分がどう出世するかということ」には「多くの関心」があったが、「他者を愛する思想はなかった」という厳しい評価を記したのである*36。

 それは司馬の青年時代と重なっているのである。つまり、国際社会における日本の地位が悪化し、二・二六事件がおきるなど国内の治安も悪化した一九三六年に福田定一(司馬)は中学校に入学していたが、その翌年に文部省は『國體の本義』(以下、『国体の本義』と表記する)を発行して「教育勅語」の意義の徹底をはかっていた。後に司馬は「自国に憲法があることを気に入っていて、誇りにも思っていた」が、「太平洋戦争の最中、文化系の学生で満二十歳を過ぎている者はぜんぶ兵隊にとるということ」になって、自国の憲法には「徴兵の義務がある」ことが記されていることを知って、「観念」したと書いた*37。

 司馬は自分の青少年時代を振り返りながら、「私はこれから教育勅語論をするのではなく、教育勅語の文章、日本語としての教育勅語の話」をしたいと語り、「とにかく、あらゆる式の日に非常に重々しい儀式を伴いながら、教育勅語が読まれた」が、その意味が分かりにくかったとし、「教育勅語の文章を原稿にするとき、おそらく元田永孚は漢文で書いたと思うのです。その後に返り点、送りがなをつけ、ようやく日本語化した」のだろうと想定し、「教育勅語は日本語というよりも漢文」だったとした。そして、近代日本語が成立し始めていた頃にわざわざ漢文が導入された理由を、「日本人にとって漢語はヨーロッパにおけるラテン語のようなもの」であり、「ひとつの観念を表現したり、あるいは難しいことを表現するときに、日本人は和文より漢文だと思い込んでいた」ところがあると指摘した。こうして、司馬は「教育勅語」の文章を「難しいというよりも、外国語なのです」として、「教育勅語」の文章としての弊害を鋭く指摘したのである*38。

 『国体の本義』でも、まず明治期の自由民権運動を想起しながら、「極端な欧化は、我が国の伝統を傷つけ、歴史の内面を流れる国民的精神を萎靡(いび)せしめる惧れがあつた」とし、「欧化主義と国粋保存主義との対立」を指摘しつつ、このような混乱を収めた「教育勅語」の「渙発」の意義を強調した。そして、その後も「欧米文化輸入の勢いは依然として盛んで」、「今日我等の当面する如き思想上・社会上の混乱を惹起し」たと大正デモクラシーを想定しながら「欧化」の弊害を説き、改めて「教育勅語」の意義を強調したのである*39。

 

 さらに教学局は「国体の本義解説叢書」の一冊として、『我が風土・國民性と文學』と題する小冊子を発行し、「敬神・忠君・愛国の三精神が一になっていることは」、「日本の国体の精華であって、万国に類例が無いのである」と強調した*40。

 しかし、高野雅之は国民にたいして「正教・専制・国民性」という、ロシアの「三位一体」の理念を遵守することを求めた、ロシアの文部大臣補佐ウヴァーロフの通達を「ロシア版『教育勅語』である」と呼んでいる*41。西欧化の流れの中で若者にも影響力をもち始めていた「自由・平等・友愛」という理念に対抗するために、「ロシアにだけ属する原理を見いだすことが必要」と考えて、ウヴァーロフは「わが皇帝の尊厳に満ちた至高の叡慮によれば、国民の教育は、正教と専制と国民性の統合した精神においてなされるべきである」とする通達を一八三三年に出していた。「敬神・忠君・愛国の三精神が一になっていること」を「日本の国体の精華」としたそれは、「正教・専制・国民性」という「三位一体」の理念を守ることを教育した「ロシアの理念」と酷似しているのである*42。

 実際、「欧化と国粋」の対立の激化の中でテロが続いたロシアは、ついには革命へと突き進むことになったが、晩年の『風塵抄』で司馬は、「健全財政の守り手たちはつぎつぎに右翼テロによって狙撃された。昭和五年には浜口雄幸首相、同七年には犬養毅首相、同十一年には大蔵大臣高橋是清が殺された」と記し、「あとは、軍閥という虚喝集団が支配する世になり、日本は亡国への坂をころがる」と結んだ*43。

 司馬遼太郎は『坂の上の雲』を書き終えた後では、「名状しがたい疲労と昂奮が心身に残った」と書いたが、この時彼はロシアという「異種の文明世界」を考察することにより、「明治国家」の実態にも迫り得たのであり、「名状しがたい疲労」の一端は、憲法を持ちロシアよりも「自由で民主的」だと考えていた「明治国家」が、ロシアをモデルにした「軍人勅諭」や「教育勅語」などの制定や『国体の本義』の発行により、ロシア的な姿をとるようになったことを知ったためでもあろう。

 

  結語

 

 「グローバリゼーション」の強い圧力のもとで、日本では幼児期からの英語学習の必要性が強調される一方で、行きすぎた「欧化」による弊害を防ぐためとして、「国家」としての一体感を確保するためには、「欧米的な理念」に基づく教育基本法を改変し、「自国」の独自な伝統や文化の価値、さらには「愛国心」をより強く教えるべきであるとする議論や、かつての「教育勅語」の見直しなども語られるようになってきた。

 その一方で、「ゆとりの教育」という名目のもとに、これまで国語教育において重要な役割を担ってきた漱石などの明治の古典文学作品が中学校や高等学校の教科書からほとんど除外され、「話すこと」や「聞くこと」などより技術的な面が強調されることになった。

 しかし司馬は、「われわれは、まだ先のある民族です。急がずに、きれいな言語をつくっていったらいいですね。明治の人々が縄をなうようにして自分の文章をつくったように、そしてそれが夏目漱石によって千曲川のように大きな川になったように、将来は大きな日本語になることができるかもしれません」と語っていた*44。

 実際、欧米との烈しい文化的な摩擦のなかで新しく創り上げた漱石や鴎外の文体や作品は、単に彼らの個人的な思想や感情を著しているのではなく、当時の日本の歴史や文化をも色濃く反映している。思考の基礎をなす言語や文化の理解が単純化されることは、国民の意思を統一するには役立ち、一時的には繁栄につながるかもしれない。しかし漱石や鴎外などの作品を素通りして国語教育が行われることは、「文明開化」に際しての歴史的な葛藤や様々な心理的苦悩を素通りして、一九世紀的な「自国中心的な歴史・文化観」を有したまま子供達が大人になることをも意味している。晩年司馬は、「われわれはひょっとしたら単一の文化の時代の中に住んでいるのではないかと、そういう脅え」を抱くようになったと記した*45。比較を忘れた国家は司馬が指摘したように、「無敵皇軍とか神州不滅とかいう、みずから他と比較することを断つという自己催眠の呪文」によって*46、再び無謀な戦争へと踏み出すことになるのである。

 「漱石の悲しみ」と題する講演で、「『菫ほどな小さき人に生まれたし』…中略…これは漱石の基本的な悲しみだったろうと思います」と語った司馬は、「私も文章を書くはしくれですから、近代日本語の文章の先祖にありがとうございましたということで、きょうの話しは終わります」と結んでいた。司馬遼太郎が行った夏目漱石の考察と「比較という方法」の認識の深まりは、現代の日本においても重要な意味を持つと思われる。

 

注 

*1 夏目漱石「現代日本の開化」『漱石文明論集』三好行雄編、岩波文庫、一九八六年、三四頁

*2 チャアダーエフ、『哲学書簡』外川継男訳、(『スラヴ研究』第六巻)、七七~八頁、一九六二年

*3 山本新『周辺文明論—欧化と土着』神川正彦・吉澤五郎編、刀水書房、一九八五年、一一一頁

*4 同右、一七三頁

*5 以下、夏目漱石の作品からの引用は、原則として本文中にローマ数字で章を示す

*6 司馬遼太郎「新宿の万葉集」『九つの問答』朝日新聞社、一九九五年、一〇一~二頁

*7 司馬遼太郎の文明観の深化については、高橋『この国のあした—司馬遼太郎の戦争観』のべる出版企画、二〇〇二年参照

*8 司馬遼太郎『坂の上の雲』第三巻、文春文庫、一九七八年、四三頁。以下、『坂の上の雲』からの引用箇所は本文中に巻数をローマ数字で示し、章の題名を記す

*9 司馬遼太郎「言葉の文明」『司馬遼太郎が語る日本』(以下、『語る日本』と略記する)第三巻、週刊朝日増刊号、一九九七年、一三六頁

*10 司馬遼太郎『「昭和」という国家』NHK出版、一九九八年、一二六頁

*11 司馬遼太郎『この国のかたち』第六巻、文春文庫、二〇〇〇年、一三二頁

*12 司馬遼太郎「松山の子規、東京の漱石」『語る日本』第二巻、二〇七~八頁

*13 司馬遼太郎「漱石の悲しみ」『語る日本』第一巻、一八二~三頁

*14 中村政則『近現代史をどう見るか—司馬史観を問う』岩波ブックレット、一九九七年、二五頁

*15 トルストイ、工藤精一郎訳『戦争と平和』第三巻、新潮文庫、昭和四七年、七頁

*16 幸徳秋水「トルストイ翁の日露戦争論」『幸徳秋水全集』第五巻、昭和五七年参照。トルストイの反戦論が巻き起こした日本における反響については、柳富子『トルストイと日本』早稲田大学出版部、一九九八年、二一~三一頁参照

*17 谷口巌『「吾輩は猫である」を読む』近代文芸社、一九九七年、一七一~二頁、一七五~六頁

*18 司馬遼太郎『本郷界隈』朝日文芸文庫、一九九六年、一九六頁、二七八~九頁

*19 司馬遼太郎のトルストイ観と徳冨蘆花観については、高橋「司馬遼太郎のトルストイ観—『坂の上の雲』と『戦争と平和』をめぐって」『比較思想研究』第三〇号(二〇〇四年三月発行予定」)参照

*20 徳冨蘆花のトルストイ観については、阿部軍治『徳冨蘆花とトルストイ—日露文学交流の足跡』彩流社、一九八九年参照

*21 司馬遼太郎、前掲書(『「昭和」という国家』)、一六二頁

*22 夏目漱石『漱石手紙』岩波文庫、明四〇年三月二三日付

*23 司馬遼太郎「東北の巨人たち」『語る日本』第一巻、朝日新聞社、一九九六年、二三五頁

*24 水川隆夫『漱石の京都』平凡社、二〇〇一年、一九頁

*25 同右、二〇頁

*26 司馬遼太郎「日本の朱子学と楠木正成」『語る日本』第一巻、朝日新聞社、二八一頁

*27 司馬遼太郎、前掲論文(「漱石の悲しみ」)、一九〇頁

*28 司馬遼太郎『「昭和」という国家』NHK出版、一六〇~一頁

*29 司馬遼太郎「文学から見た日本歴史」『十六の話』中公文庫、一九九七年、三五~七頁

*30 司馬遼太郎、前掲書(『本郷界隈』)、二六七頁

*31 福沢諭吉『福沢諭吉選集』第四巻、岩波書店、一九八一年、三二六頁

*32 司馬遼太郎「『坂の上の雲』を書き終えて」『歴史の中の日本』中公文庫、昭和五一年、一〇四頁

*33 谷口巌、前掲書、一七八頁

*34 林竹二『明治的人間』(『林竹二著作集』第六巻)筑摩書房、一九八四年、四三頁

*35 高橋『欧化と国粋—日露の「文明開化」とドストエフスキー』刀水書房、二〇〇二年、終章参照

*36 司馬遼太郎、前掲書(『「昭和」という国家』)、二九~三〇頁

*37 司馬遼太郎『この国のかたち』第五巻、文春文庫、一九九九年、二六八頁

*38 司馬遼太郎「教育勅語と明治憲法」『語る日本』第四巻、朝日新聞社、一九九八年、一六二~五頁、

*39 文部省『国体の本義』、昭和一二年、四~六頁

*40 教学局編纂『我が風土・國民性と文學』(國體の本義解説叢書)、昭和一三年、六一頁

*41 高野雅之『ロシア思想史—メシアニズムの系譜』早稲田大学出版部、一九八九年、一八二頁

*42 高橋「司馬遼太郎のドストエフスキー観—満州の幻影とペテルブルクの幻影」『ドストエーフスキイ広場』第一二号、二〇〇三年参照

*43 司馬遼太郎『風塵抄』第二巻、中央公論社、一九九六年、一一一頁

*44 司馬遼太郎、前掲論文(「言葉の文明」)、一三六頁

*45 司馬遼太郎、前掲書(『昭和という国家』)、一六三頁

*46 司馬遼太郎『歴史と視点』新潮文庫、昭和五五年、八一~二頁

 

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日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2004/03/10

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高橋 誠一郎

タカハシ セイイチロウ
たかはし せいいちろう 評論家 1949年 福島県に生まれる。

掲載作は、「異文化交流」(第4号)初出。