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戦争と文学 ――自己と他者の認識に向けて

  一、「新しい戦争」と教育制度

 

 二〇〇一年は国連によって「文明間の対話年」とされたが、残念なことにその年にニューヨークで旅客機を用いた同時多発テロが起きた。むろん、市民をも巻き込むテロは厳しく裁かれなければならないし、それを行った組織は徹底的に追及されなければならないことは言うまでもない。ただ、問題なのはこれを「新しい戦争」の勃発ととらえたブッシュ政権が、「卑劣なテロ」に対する「報復の権利」の行使として市民をも巻き込む激しいアフガニスタンの空爆を行い、それを「文明」による「野蛮の征伐」の名のもとに正当化したことである。

 そして、「野蛮」なタリバン政権をあっけないほど簡単に崩壊させると、ブッシュ政権は敵対しているイラクや北朝鮮だけでなくアフガンの際には協力を求めたイランをも「悪の枢軸国」と名付けて、これらの国々に対する攻撃を示唆し、さらにイラクが国連決議を無視し続けていると厳しく批判した国連総会の演説に続いて、アメリカが「敵」とした国に対しては核兵器の使用も含む先制攻撃が出来るとするブッシュ・ドクトリンを公表し、実際にイラクへの攻撃を開始したのである。

 「イラク戦争」が終わってすでに一年以上が経った現在も、攻撃の根拠となった「大量破壊兵器」はまだ見つかっておらず、イギリスではこの戦争を支持したブレア首相が窮地に立たされている。しかし、「同盟国」を助けることが「常識」であるとして、自衛隊の派遣を決めた日本政府は、その一方で行きすぎた「欧化」による弊害を防ぐためとして、「国家」としての一体感を確保するためには、「欧米的な理念」に基づく教育基本法を改変し、「自国」の独自な伝統や文化の価値、さらには「愛国心」をより強く教えるべきであるとする方向性をも強く打ち出している。

 これら一連の事態をまだ多くの人々は、自分にはあまり関わりのない遠い出来事のように感じているようである。しかし、司馬遼太郎は山県有朋を「市民政治、議会政治」に対抗するためにあらゆることをしたと批判したが、実際、一八八二年に『軍人勅諭』を発布していた山県は、帝国議会が開かれた一八九〇年には『教育勅語』を渙発して、命令に忠実な「臣民」の養成を図っていた。こうして、教育は国家目的に添うことが強調される中で、第一高等学校の教師・内村鑑三が、「教育勅語」の末尾に記された天皇の署名に対して最敬礼をしなかったことを「不敬」として咎める事件が起きたのである(高橋誠一郎『この国のあした——司馬遼太郎の戦争観』のべる出版企画、二〇〇二年参照)。

 しかも、「国家重視」の方向性は、当然教育にも反映されることになる。司馬は『坂の上の雲』において正岡子規の東京大学退学に関連して、近代的な教育体制の問題点にも注意を促していた。すなわち、当時「東京大学政治学科の学生」であり、後に「大蔵省の参事官」や「総理大臣の秘書官」を歴任することになる佃一予という人物にとっては、文学は「日本帝国の伸長のためにはなんの役にも立たぬもの」であり、「官界で栄達することこそ正義であった」と記した。このような佃の視点から見ると、文学の研究に熱中していた正岡子規の活動は罪悪のように見えたのであり、このために子規は「常磐会給費生という名簿からも削られてしまった」のである。そして司馬は「この思想は佃だけではなく、日本の帝国時代がおわるまでの軍人、官僚の潜在的偏見」となったと指摘している。

 一方、高野雅之は文部大臣ウヴァーロフが出した通達を「ロシア版『教育勅語』である」と呼んでいるが(『ロシア思想史——メシアニズムの系譜』早稲田大学出版部)、「欧化」の流れに対抗するためには、「ロシアにだけ属する原理」が必要と考えたウヴァーロフは、「わが皇帝の尊厳に満ちた至高の叡慮によれば、国民の教育は、正教と専制と国民性の統合した精神においてなされるべきである」とする通達を一八三三年に出していた。その後この通達に基づいた検閲を強化していたロシア政府は、ハンガリー出兵の前年にドストエフスキーを初めとするペトラシェフスキー会員たちを逮捕し、それから数年後にはロシアの根幹を揺るがすことになるクリミア戦争に踏み切ったのである。

 ここでは比較文明学的な視点から現代の戦争をめぐる状況を分析するとともに、ドストエフスキーや司馬遼太郎の作品を中心に、戦争と文学の問題を考えてみたい。

 

  二、「監視と体罰」の思想と「犯罪とテロ」の発生

 

 新しい「対話的な世界」への展望が開かれるかに見えた今世紀は、九・一一の同時多発テロ以降、これまでの価値観を根源的に問い直すことなく、危機感が煽られる中で「不安の時代」へと突き進んでいるように見える。

 このような価値観の混迷を反映して、『世界がもし一〇〇人の村だったら』(マガジンハウス)というユニークな題名の著作が、複雑な「世界」を分かりやすく描いたとして話題となった。だが、オムスク監獄における囚人の生活や看守たちとの係わりを描いたドストエフスキーの『死の家の記録』もすでに、現代にも通じる「世界」を描きだしていていたと思える。むろん、監獄の社会をそのまま市民社会と同一視することはできないが、しかし、ドストエフスキーは日常生活における様々な「虚飾」をはぎ取られた監獄という状況を逆手にとることで、ふだんはなかなか見えにくい生身の人間の様々な関係を、「支配と服従」という視点から見事に浮き彫りにしたのである。

 監獄の機能としてはまず体罰が挙げられる。『死の家の記録』でドストエフスキーは「静かに、そして平和に暮らし、きびしい生活をじっと耐えて」いた男が、突然に「ぷつりと切れ」、「もう我慢できなくなって、彼の敵や抑圧するものをナイフで刺してしまう」ことがあると記していた。ここで彼はその理由として、屈辱的な体罰とともに、「おれはツァーリだ、おれは神様だ」などという言葉ほど、「身分の低い者たちを憤慨させるものはない」とし、「この自分はえらいのだという傲慢な気持、この自分は正しいという誇張された考えが、どんな従順な人間の心の中にも憎悪を生み、最後のがまんの緒を切らせるのである」と分析していた。

 最近の日本の統計でも殺人などの凶悪犯罪を犯した青少年の半数以上が、「いじめる」側によってではなく、「いじめられる」者が凶器を手にした時のものであったことが明らかになっているが、ここには現代の青少年の犯罪や、「支配者」の「殺人」を「正義」と見なすような「非凡人の思想」がなぜ発生するのかという理由にも迫るような「支配と服従」の透徹した心理分析がある(高橋誠一郎『欧化と国粋——日露の「文明開化」とドストエフスキー』刀水書房、二〇〇二年参照)。

 さらに監獄は、フーコーが指摘しているように、「少数者」が「大多数の者」を常に監視できる構造を持つのであり、技術の発展した近代においては「監視」の面でも、「権力を持つ」「唯一の者」に、「大多数の者の姿を即座に見させる」ことさえ可能となったのである(フーコー『監獄の誕生——監視と処罰』新潮社)。

 ドストエフスキーはこの監視(検閲)という問題にきわめて深い関心をよせており、出獄後には文人劇で官僚たちの腐敗を暴いたゴーゴリの『検察官』で私人の手紙を読む郵便局長の役を演じている。つまり、西欧列強に対抗するための急激な「文明開化」が行われたロシアでは「国家」の発展が優先されて、程度は異なるにせよ、監獄の中だけでなく、市民生活においても監視も正当化されていたのである。

 しかし、テロの撲滅の名のものとに「監視」と「体罰」的なものとして戦争を正当化しているブッシュ政権や、それに追随して国会での議論もほとんどないままに、「テロ対策法」や「住基ネット」法案がつぎつぎと決定されていく日本の現状を振り返るとき、『死の家の記録』の世界をロシア的な「野蛮な世界」と一笑に付すことができるだろうか。

 

  三、「報復の連鎖」と「国際秩序」の崩壊

 

 アメリカが危険と認めた国に対しては核兵器の使用も含む先制攻撃が出来るとするブッシュ・ドクトリンに対しては、仏独などの同盟国からも「国際法違反」との厳しい批判が出された。

 この意味で興味深いのは、ドストエフスキーがすでに『虐げられた人々』(一八六一年)において、プーシキンによって鋭く提起されていた「血の復讐」の考察を深めて、一見正当に見える個人的なレベルでの「復讐の権利」の行使でさえ、「階級」や「国家」にも持ち込まれることによって「階級闘争」や「国家間の戦争」が拡大し、際限のない「報復」の連鎖となることを示唆していたことである。

 イラク戦争勃発の危険性が高まるとともに、改めて「湾岸戦争」との係わりも論じられ始めた。この節では一九九一年の「湾岸戦争」の勃発時に同人誌に書いた文章からいくつかの論点を抽出することにより、「報復の連鎖」という視点から「湾岸戦争」と「新しい戦争」との係わりを見ておきたい。

 「一月一七日未明、ついに懸念されていた戦争が勃発してしまった。むろん、隣国を武力で併合したフセイン大統領の非は議論の余地無く明らかだ。だが、既に経済制裁がかなりの効果を挙げており、しかも撤退期限をほんの一六時間越えただけの時点で、犯罪的行為を理由に宣戦を布告したブッシュ大統領(注——父親)の『決断』も同じように大きな誤りであるように思える」。

 なぜならば、「同じアラブの人々の大量の血が流された後では、反米、反イスラエルの感情が高まることはほぼ確実」であり、「戦争の後に平和が訪れたとしても、大量の爆弾とともにイラクやパレスチナの国民の心にまかれた憎しみの種は、もはや消える事はないのである」。

 「今回の危機が、湾岸戦争に至ったことで、否応無くキリスト教世界とイスラム教世界との対立が深まるだろう。そして、それは国連決議に賛成したゴルバチョフ大統領に対するソ連内のイスラム系民衆の反感を招き、ソ連の分裂へと連動していくように思える。その一方で、多国籍軍側の徹底的な空爆は、ソ連軍部に恐怖感を植え付け、保守化に一層の拍車をかけるという危険性をも生み出したのではないか」。

 しかも、国連安保理決議に従わずに占領を続ける「イスラエルに対しては経済制裁をもしなかったアメリカが、同じように他国の占領という暴挙に出たイラクの非を一方的に主張」する一方で、イスラエルの「報復の権利」を認めたことは、アラブの民衆の間に不正義に対する怒りと絶望を生み出すのである。

 そして、出口のない絶望から「非凡人の理論」を生みだしてついに、高利貸しの老婆を殺害した『罪と罰』の主人公の心理に言及して、「『国際秩序』の確立を目的に始められた今回の戦争は、長期的な視野に立つとき、これまであった『国際秩序』すらも著しく破壊してしまったように私には思える」と結んだ(『人間の場から』第二二号、一九九一年参照)。

 残念ながら、「湾岸戦争」後の経過は私の危惧の正しさを証明したように思える。すなわち、イスラエルのシャロン首相は、「報復の権利」を正当化したアメリカの論理にのっとって自爆テロに対する「自衛権の行使」として、パレスチナ自治区への武力侵攻を行い、お互いの「報復の応酬」によって、中東情勢は混迷の色を濃くしているからである。

 このような中アメリカはようやく重い腰を上げて和平交渉に乗りだした。しかし、パレスチナ国家樹立への前提条件としてブッシュ政権はアラファト議長の退陣を強く示唆した。たしかに「自爆テロ」に断固とした対応をとれないでいる議長の排除は、アメリカ国内では評価されるかも知れないが、アナン国連事務総長がこの案の偏りを批判したように、国際的にはアメリカの「裁きの不公平さ」、あるいは「価値の二重性」を印象づけたように思われる。

 このような「裁き」の危険性は、遠く江戸時代に起きた事件を想起するだけでも明白であろう。すなわち、殿中松の廊下での刃傷沙汰に対して吉良上野介の罪を問わなかったお上の裁きは、「喧嘩両成敗」の慣習に反するとして一般庶民からも批判され、「赤穂浪士」たちによる「復讐」が喝采を浴びることになったのである。

 

  四、「非凡人の理論」とブッシュ・ドクトリン

 

 自分を現在の法に従うべき「凡人」ではなく、未来の法の創り手である「非凡人」であると見なした『罪と罰』の主人公は、多くの者に嫌われている高利貸しの老婆を「有害な悪人」と規定して、その殺害に踏み切った(高橋誠一郎『「罪と罰」を読む(新版)——〈知〉の危機とドストエフスキー』刀水書房、二〇〇〇年参照)。

 興味深いのは、ドストエフスキーが一八六六年に『罪と罰』で鋭く批判したこの「非凡人の理論」が、二一世紀の初頭に発表されたブッシュ・ドクトリンときわめて似ていることである。すなわち、ブッシュ・アメリカ大統領は、一国単独行動主義を採って、ABM制限条約脱退や温暖化防止京都議定書の批准拒否、さらには国際刑事法廷への不参加など国際社会の協調を乱す一方で、イラク・イラン・北朝鮮を「悪の枢軸国」と名付けて、自国の安全を脅かすこれらの「ならず者国家」に対しては、核兵器などの先制使用も許されるとして、国連憲章に違反したイラクへの先制攻撃に踏み切ったのである。

 司馬遼太郎は日露戦争後に「国粋」の流れが強まり、反対する者を弾圧あるいは暗殺して「新たな戦争」に突き進んだ日本の歴史を分析して、「戦争は勝利国においてむしろ悲惨である」と記した。「冷戦」に勝利した「多民族国家」アメリカにおいて現在起きていることも、自国を「絶対化」し自国を批判するものを「悪」として排除するような「国粋」の流れのように見える。

 しかも、ドストエフスキーは主人公のラスコーリニコフに自分の理論が、頭の中で考え出されたゲームではないかとの疑いを抱かせていた。トルストイも『戦争と平和』において、戦争をゲームのようにとらえたナポレオンを厳しく批判するとともに、戦争においては「犯罪行為」も正当化されてしまうと指摘した。

 しかし、驚かされたのはイギリスやスペインの首相との三者会談のあとで、戦争の必然性を説いたブッシュ大統領が、そこでトランプのゲームを意識しながら、拒否権というカードが示された以上議論は無駄だと語り、さらに闘牛において「最後の一撃」を意味する「真実の時(正念場)」という単語を用いて、決戦への決意を語っていたことである。

 多くの人命が失われることが確実視される戦争の必要性を、情念的な用語で説いたアメリカ大統領の演説は、「正義の戦争」が、テロのような「正義の犯罪」の論理と同レヴェルにあることを物語っている。

 アメリカ大統領が「神の名を出して戦争を正当化」していると批判したローマ法王は、その翌日にも声明で「イラク戦争は人類の運命を脅かすものだ」と厳しく批判した。実際、「他国」を「悪」と規定するアメリカの姿勢に反発するかのように、フセイン大統領もアメリカを「悪」と断じて、「神の名」により「祖国防衛戦争」の正義を主張したのである。

 しかし、ニューヨーク・タイムズ紙のフランク・リッチは、タリバン政権への攻撃には「反対しない」としながらも、「(アメリカ)国民の多数は、米国が冷戦中にアフガニスタンでイスラム過激派をソ連と戦わせていたことも、そしてその後にソ連が退却すると、アフガニスタンを見捨てたことも、理解していない」と指摘している(朝日新聞、二〇〇一年一二月七日)。つまり、アメリカ政府は「テロ」の「野蛮さ」を強調する一方で、なぜテロリストが生まれたのかを国民に説明しないまま「新しい戦争」へと突き進んでいたのである。

 ドストエフスキーは『罪と罰』のエピローグにおいて、自分だけが「真理」を知っていると思い込んだ人々が、互いに殺し合いを始め、ついに人類が滅亡に瀕するという悪夢を描いた。今度の戦争はそのような危険性すらも孕んでいると思える。

 

  五、「核兵器の先制使用」と「非核三原則の見直し」

 

 実際、アメリカに協力してアフガニスタンでのタリバン政権を崩壊させたばかりのパキスタンとインドとの間で軍事紛争が勃発し、一時は両国首脳が核兵器の使用も真剣に考えるほどに緊張が高まった。この危険は一応は回避されたが、このような緊張の高まりの背景には、国際連合などが有した「公平な裁き」に対する深刻な不信感があり、軍事力の増大によってしか自国を防衛できないという意識を各国が持ち始めたことにあるだろう。

 このような国際機関の調停能力の低下には、インドとパキスタンの核実験に対しては経済制裁を両国に課すなど強力な批判を実行しつつも、核の超大国となったアメリカの度重なる未臨界実験や弾道弾迎撃ミサイル制限条約からの一方的な離脱にたいしては、苦言を呈することもできない被爆国日本の核政策もその責任の一端を担っていると、残念ながらいわざるをえないだろう。

 こうして現在世界では核戦争が勃発する危険性すら生まれている中でブッシュ政権は「ならず者国家」に対する核兵器の先制使用をも言明した。ここには核兵器の使用が日本にもたらした惨状への無知が顕著であるが、このような中「有事法制」の制定を急ぐ日本政府からも、「非核三原則」の見直しを示唆するような福田官房長官の発言や、それを支持する石原都知事の発言が続いた。この発言が大きな反響を呼ぶと福田長官は、現政権では見直しは全く考えていないと弁明したが、問題は閣僚ではないとしても公職にある石原氏の発言が、「日本の核武装」を唱える氏の持論であることである。

 こうした流れを受けて「いつまで日本はアメリカ帝国の属国でいるのか?」という刺激的な問いかけと共に、日本を「アメリカの核の傘の下で『平和病』にかかり、北朝鮮に国民を拉致されても何もできない腰抜け国家」と呼び、「自国を自力で守れない国は『国家』とは言わない」との説明を持つ『日本核武装』という本さえ上梓されるようになっている。

 このような強硬な主張は、「野蛮視」された結果、広島と長崎の二都市に原子爆弾を投下された日本の国民の激しいルサンチマン(弱者の強者に対する怨恨や復讐の感情)を煽る一方で、近隣の諸国に対しては強大な軍事力を持つ日本への恐怖心を与え、また「赤穂浪士」の上演を禁じるほどに日本からの復讐を恐れたアメリカにも、日本の将来に対する「深刻な不信感」を与えたように思える。

 なぜならば、哲学的な書物においてルサンチマンの心理を鋭く分析したニーチェ自身の内に、「平等や自由」を普遍的な理念として自国の優位性を主張したフランス「文明」へのルサンチマンが強くあったように思えるからである。このような激しい感情を利用してドイツ国民の復讐心をあおり、「新しい戦争」へと駆り立てたのが天才的な大衆の煽動者だったヒトラーなのである。

 この意味で注目したいのは、坂本龍馬の志を継いだ中江兆民が明治憲法発布の二年前に書いた『三酔人経綸問答』において、軍拡主義者の「豪傑君」に、文明の発達につれて「武器はいよいよ優秀に」なり、強国プロシアとフランスの国民は、「おたがいに以前の敗戦を恥じ」、「いつまでも絶えることのない復讐心」によって、「臥薪嘗胆」に耐えつつ「富国強兵」に努めたのだと説明させていることである。実際、ナポレオン戦争以降の世界では、戦勝国は一時的には繁栄を得たが、それは敗戦国の憎しみを生んで新たな「復讐」に遭い、互いに武器の増産と技術的な革新を競いあう中で、ついには生物・化学兵器や原子爆弾などの大虐殺兵器さえもが使用されるにいたったのである。

 宇都宮徳馬は「核兵器の現状が人類を十回以上も死滅させる大量破壊能力をもつことはよく知られているが、それが人間を死にいたらしめるまでの激しい永続する苦痛については充分に知られていない」とし、その理由として、核兵器の使用者である米軍の当事者が、「被爆者の死にいたるまでの名状し難い苦しみや痛みを秘匿する政策」をとったばかりでなく、「日本の当局者もその顰みにならって現在にいたったからである」と指摘している。つまり、戦争犯罪は被害国が告発しなければ立件されないために、第一次世界大戦で用いられた「毒ガス」の使用は「戦争犯罪」として裁かれることになったが、日本政府が告発しなかったために三〇万人以上の日本人が苦しみながら亡くなった核兵器使用の非人道性は、アメリカ国内ではいまだによく理解されておらず、現在でもその使用は「戦争犯罪」にはあたらないとされているのである。

 圧倒的な軍事力を有するアメリカの核の傘の下で「平和病にかかっている」日本政府は、世界中を永久的な戦争状態におとしいれる危険性のあるブッシュ・ドクトリンや、イラク戦争に際してアメリカ軍が劣化ウラン弾を使用したことに対してなんらの批判もしていないが、日本が真に自立していることを示すためには、いまだに一九世紀的な思考法で軍事力ですべての問題を解決できると考えているアメリカの錯誤とその危険性を指摘すべきであろう。

 

  六、「日英同盟」と「日米同盟」

 

 二〇〇一年に起きた「同時多発テロ」に際しては、日本では「同盟国」であるアメリカの「戦争」を助けることが「常識」とされて、国会での議論もあまり行われないままに一連の「テロ関連法案」が通過した。

 この意味で興味深いのは、日米安全保障条約の発効五〇周年に当たったこの年が、奇しくも日英同盟締結一〇〇周年にもあたることである。ロシアを仮想敵国としたこの同盟の締結から二年後に日露戦争が勃発すると、同盟国日本の戦いを「正義」とする主張がイギリスで起き、ロンドンで刊行された"Japan's Fight for Freedom"という三巻の書物は、「ロシアは野蛮と反動の側にある」と断じる一方で、「日本こそが、文明の諸理想、人類の思想の自由、民主的諸制度」など、「我々が進歩という語によって理解するすべてを代表している」と高く評価したのである(俵木浩太郎『文明と野蛮の衝突』筑摩書房)。

 しかし、『戦争と平和』においてロシア人の勇敢な戦いを描きつつも、この戦争を「人間の理性と人間のすべての本性に反する事件」とよび、「略奪、放火、虐殺」などの「犯罪を犯し合い」ながらも、「それを犯した人々は、それを犯罪とは思わなかった」と厳しく批判をしていた。そのトルストイは日露戦争に際しては、「悔い改めよ」と題する論文を発表して、「戦争は又もや起これり、何人にも無用無益なる疾苦此に再びし、譎詐(けっさ)此に再びし、而して人類一般の愚妄残忍亦茲に再びす…中略…人は其夢なるを信じて速かに醒め来らんことを希ふ」と記して、殺生を禁じている仏教国と「四海兄弟と愛を公言している」キリスト教国との間の戦争を、厳しく批判していたのである。

 実際、ヨーロッパの「大国」イギリスとの「同盟」を結んだ日本は、イギリスの強大な影響力の力で「野蛮な」ロシア帝国に勝った。しかし、「非戦論」を書いたトルストイを日露戦争後の一九〇六年に訪れた徳冨蘆花は、眼下にモスクワを見下ろして勝利の喜びを感じたナポレオンがほどなくして没落したことにふれて、日本の「独立」が、「十何師団の陸軍と幾十万(トン)の海軍」や「軍事同盟」などで維持されるのならば、それは哀れなものであり、日露戦争での勝利がかえって「亡国」のはじめとなりかねないとの強い危機感を表明した。

 実際、それまで日本の「文明性」を讃えていた英米の論調は、日本が軍事大国となると今度は一転して日本を「野蛮」視するようになった。こうして、日露戦争の勝利からわずか四〇年後に日本は、これらの「文明」国と戦って大敗北を喫することになるのである。

 しかも、「同時多発テロ」が発生した際にアメリカの幾つかの報道機関では「自爆テロ」の問題を、日本軍による真珠湾の奇襲攻撃や「神風特攻隊」と重ねて論じたが、日米開戦日前日の一二月六日にはラムズフェルド国防長官が「明日は二〇〇〇人以上の米国人が殺された急襲記念日だ」と発言し、「対テロ戦を行う上で、あの教訓を思い出すのは正しい」と強調した。このような政府首脳の発言もあり、アメリカの新聞も「タリバーンは旧日本軍と同じ狂信集団。核兵器の使用を我慢しなければならない理由は何もない」などという論評を相次いで載せ、「世論調査会社が調べると、五四パーセントが『対テロ戦争に核兵器は有効』と答えた」のである。

 つまり、キリスト教原理主義を基盤とするブッシュ政権においては、「異教徒」の国家である日本に対する原爆の投下は当然とされているのであり、「国益」が対立した際には、再び日本が「野蛮」と非難される可能性が高いのである。現在、日本政府は「超大国」アメリカとの「軍事同盟」に依拠しつつ、有事法制の制定など「国権」と「軍事力」の強化を急速に進め、小泉首相はイラクに自衛隊を派遣することが「世界平和に積極的に貢献」することになると「戦没者追悼式」で語った。しかし、長い目で見るとき、自国の利益に合わない相手を一方的に「悪」と決めつける「好戦的な」アメリカ政府への「追随」が、日本の「国益」をも甚だしく損なうことは明白だと思える。

 この意味で注目したいのが先に見た『三酔人経綸問答』であり、この書において中江兆民は登場人物の「哲学者である洋学紳士」に、日本が全土を「道徳の花園とし、学問の畑」として、「世界連邦を提唱し、世界平和実現の先駆者となるべきではないか」と述べさせているのである。トインビーは第一次世界大戦が生みだした戦争の惨禍を反省して大著『歴史の研究』を書き、それまでの西欧の歴史観を「自己中心の迷妄」と断じた。中江兆民の平和論も「富国強兵」を競い合うなかで「報復の応酬」となり、戦争を大規模化させてきた近代の現実を踏まえた理論だったのである。

 それゆえ『三酔人経綸問答』を「明治の文明を代表する最高の作品」と位置づけた桑原武夫は、兆民の理想は「大戦の大雷雨ののちに戦後の平和憲法となった」としたのであり、二一世紀を迎えた今こそ、他者を脅かす「古い軍事同盟」を脱却して、他者との共存を可能とする「新しい国際関係」を構築すべき時にきていると思われる。

 

  七、『罪と罰』と『坂の上の雲』の誤読と「戦争の正当化」

 

 二〇〇四年が日露戦争開戦一〇〇周年ということやNHKで『坂の上の雲』を放映することが決まったということもあって、『文藝春秋』が特集「よみがえれ『坂の上の雲』・偉大なる明治の『プロジェクトX』」と題して大々的にこの作品を取り上げた(二〇〇三年七月号)。日露戦争の問題と絡んでこの作品への言及は今後もマスコミで増え続けることが予想される。

 文学作品の解釈にはそれぞれの味わい方があってよいと思えるが、情念に訴える力の強い文学作品の誤った解釈が広がることは、時に国家の方向性をも誤らせることになるので、ここでは『罪と罰』の場合と比較しながら『坂の上の雲』の問題を再考察しておきたい。

 松本健一はドストエフスキー文学に「近代や合理や西欧への抵抗」を見た堀場正夫が、真珠湾攻撃の翌年に出版した『英雄と祭典』において、「大東亜戦争」を「西欧的近代の超克への聖戦」と捉えるとともに、この戦争を「ドストエフスキーの意思の延長上に理解」していたと記している(白馬書房、一九四二年)。このような堀場の解釈は現在のレベルでの研究を踏まえた上での読みから見れば、明らかな誤読である。

 つまり、ドストエフスキーは『罪と罰』のエピローグにおいて主人公に「人類滅亡」の悪夢を見させることにより、自分には「悪人」とみなした「他者」の殺害が許されていると考えた主人公の「非凡人の思想」が、「自国の正義」を主張して戦争を正当化した「国民国家」史観に基づいていることを示唆していた。

 しかし、ニーチェの哲学を踏まえたシェストフは、ドストエフスキーを「超人思想」の提唱者であるとしたが、このような解釈が受け入れられた日本でも優れた評論家であった小林秀雄ですらも、「近代の超克」をテーマにした開戦時の座談会において、「近代人が近代に勝つのは近代によってである」として「大東亜戦争」の意義を強調したのである(『世界史的立場と日本』中央公論社一九四三年)。

 問題は同じようなことが『坂の上の雲』の解釈でも起きうることである。「大東亜戦争」の敗戦から六〇周年にあたる二〇〇五年は、日露戦争の戦勝一〇〇周年にもあたるのである。ヒトラーは普仏戦争に勝ったドイツ民族の「非凡性」を強調し、ユダヤ人への憎しみをかき立てることで第一次世界大戦に敗れて厳しい不況に苦しむドイツ人の好戦的な気分を高めることに成功していた(『わが闘争』角川文庫)。

 教育学者の藤岡信勝氏は、『坂の上の雲』を日露戦争が「『国難』に際してすべての国民が立ち上がった」戦争と讃え、「明治国家」における「勤労と奉公」の精神の重要性を強調していると解釈している。このような主張は、「大東亜戦争」に負けた日本人の自尊心に訴えかけることにより、好戦的な気分を高揚させて、この長編小説を「富国強兵」の必要性と「教育勅語」的な古い道徳の復活へと導く旗印とさせてしまう危険性が強いのである。

 実際、「武士道と忠義の観念」を論じた「読み物のコラム」で赤穂浪士による「復讐」を大きく取りあげ、さらに「日本人が結束して外国にあたることを説いて人々を深く感化した」と「尊王攘夷の思想」を紹介した『市販本・新しい歴史教科書(改訂版)』(代表執筆者・藤岡信勝、扶桑社、二〇〇五年)は、「有色人種の国日本」が「白人帝国ロシアに勝った」ことでアジアやアフリカの民族に「独立への希望をあたえた」として日露戦争を高く評価しつつ、欧米による「経済封鎖」などを理由に「大東亜戦争」の正当性をも訴えているのである。

 一方、全体的な構造を踏まえつつ、正岡子規や徳冨蘆花への言及に注意しながら秋山真之の戦争観の変化を考察するならば、『坂の上の雲』では「明治国家」が「国民国家」から徐々に「皇国としての帝国」へと変容する過程が克明に描かれていることに気づく。

 たとえば、子どもの頃に「正岡子規と徳冨蘆花の著書またはそれについての著作物」を読みなじんでいた司馬は、蘆花がトルストイを訪ねていることにふれつつ、徳冨蘆花の国家観を次のように分析している。「日露戦争そのものは国民の心情においてはたしかに祖国防衛戦争であった」が、近代化を進めた「明治国家」は、「江戸国家よりもはるかに国民一人々々にとって重い国家」となっており、「蘆花は、そういう国家の重苦しさに堪えられなかった。かれは国家が国民に対する検察機関になっていくことを嫌悪」した(『坂の上の雲』「あとがき五」文春文庫)。

 そして、司馬遼太郎は日露戦争後に正岡子規の墓参りをしたことに触れたあとで、秋山真之が「人類や国家の本質を考えたり、生死についての宗教的命題」を考え続けたと記し、「明治のオプティミズム」の「終末期は日露戦争の勝利とともにやってきたようであり、蘆花の憂鬱が真之を襲うのもこの時期である」と書くのである(『坂の上の雲』「雨の坂」)。

 つまり、終章に付けられた「雨の坂」という題名に注意を払って読むならば、「白い雲」をめざしてまっしぐらに坂を上ってきた主人公たちが目にしたのは、「大東亜戦争」の敗戦にまで続くような「黒い雨雲」だったのである。こうして『坂の上の雲』を丹念に読み直すならば、この小説を「反戦小説」と名付けることは難しいにせよ、様々な戦争を直視したことにより司馬が、ナショナリズムの上に成立した「国民国家史観」の欺瞞や科学技術の成果を駆使した戦争の悲惨さを明らかにし、「現実」としての「平和」の重要性を示していたと言うことは可能だろう(高橋誠一郎『司馬遼太郎の平和観——「坂の上の雲」を読み直す』東海教育研究所、二〇〇五年参照)。

 

  八、自己と他者の認識と方法としての文学

 

 この意味で注目したいのは、ドストエフスキーが一八六二年の西欧旅行の後に書いた『地下室の手記』において、主人公にバックルは「文明によって」人間が「穏和になり、したがって残虐さを減じて戦争もしなくなる」などと説いているが、実際にはナポレオン戦争や南北戦争では「血は川をなして流れている」ではないかと、「正義の戦争」を正当化する近代西欧文明に対して鋭い問いを発しさせていることである。

 しかも、バックルは「理性と科学の指示どおりに行動する習性」ができれば「古い悪癖」がなくなるとしたが、これに対して『地下室の手記』の主人公は、「人間というものは、もともとシステムとか抽象的結論にはたいへん弱いもので、自分の論理を正当化するためなら、故意に真実をゆがめて、見ざる聞かざるをきめこむことも辞さないものなのだ」と指摘した。

 イギリスの研究者ピース(R.Peace)は、ここでドストエフスキーは主人公にバックルが「主唱した楽天的な進歩史観にたいして敢然と立ち向かわせている」と指摘した(池田和彦訳『ドストエフスキイ「地下室の手記」を読む』のべる出版企画、二〇〇六年一月)。たしかにドストエフスキーはここで一見客観的な「事実」に基づいているように見えるバックル流の「国民国家」史観が、実は自分の見たくないアジアやアフリカの「事実」からは目をそらし、また戦争の原因を他国に求めるような、きわめて情念的な歴史観であることを明らかにしたのである。

 しかも、ドストエフスキーは小説の終わり近くで主人公に「小説にならヒーローがいるが、ここにはアンチ・ヒーローの全特徴がことさら寄せ集めてあるようじゃないか」と語らせただけでなく、「ぼくらは死産児だ」とも断言させている。この小説は暗く救いがないように見える。だが、その後でドストエフスキーは主人公に「ぼく個人について言うなら、ぼくは諸君が半分までも押しつめていく勇気のなかったことを、ぼくの人生においてぎりぎりのところまで押しつめてみただけの話なのだ」とも語らせている。

 実際、哲学的な独白が記されている第一部の冒頭で、主人公は「自意識は、ぼくの考えでは、人間にとって最大の不幸だ」という言葉を記しているが、ドストエフスキーはその第二部で感情や身体さらに他者との対決をも描ける小説という形式を最大限に生かしながら、真の友情や愛情を求めながらも自尊心や性格の弱さのために、ついに自分の内に閉じこもるようになった人物の苦悩を活写したのである。

 つまりこの主人公は「何者にもならなかった」が、彼は何者かになることを拒否することによって、自分の内にある正と負の両方の可能性に注意を喚起しえているのである。この作品を通してドストエフスキーはいかに現実が矛盾し、醜く見えようとも、まず現実をこそ見すえなければならない。厳しい現実を見すえる者は苦しくとも少しずつでも歩むことができるが、現実から目を背ける者は、夢を見ながら一層の悲惨さへ落ち込んでいく、ということを示したように思える。

 「二二が四というのは、もう生ではなくて、死の始まりではないだろうか」というような表現も記されているこの『地下室の手記』を、ニーチェやシェストフなどは、道徳や理性を批判した作品と解釈した。しかしドストエフスキーは『罪と罰』に先立つこの作品において、理論の盲信におちいり感情と無意識の存在を無視した場合に強い注意をうながしながら、「知の力」により「自己」を絶対化しようとした西欧派知識人の悲劇を文学的な手法で鋭く描き出し、近代西欧の個人や国家における「自我論的なパラダイム」の問題点を明らかにしていたのである。

 

  九、文学的方法の独自性と文学の復権

 

 興味深いのは、ドストエフスキーの西欧旅行から約四〇年後にロンドンへ留学した夏目漱石が、「Self-consciousness の結果は神経衰弱を生ず。神経衰弱は二〇世紀の共有病なり」と書き記し、「二と二が四となるとは今世論理の法則である。昔はそうも相場がきまっておらなかった。きまらぬ所に面白味があった」と書いていることである。さらに漱石は、「ニーチェはsupermanを説く。バーナード・ショーも ideal manを説く」(『漱石文明論集』、岩波文庫)とも書いているが、これらは『地下室の手記』や『罪と罰』におけるドストエフスキーのテーマとも重なるのである。

 これらの類似は両者の思考の類似性を物語るだけでなく、日本でも「文明開化」が進んでその否定的な側面も見えるようになった結果、漱石も「弱肉強食」の論理が幅をきかせていた近代西欧文明の問題点に深く気づくことが出来るようになったといえるだろう。

 こうして日本の近代化の問題に気づいた漱石は、『三四郎』(一九〇八年)の第一章において、自分と同世代の登場人物広田先生に、「いくら日露戦争に勝って、一等国になっても駄目ですね」と語らせ、「(とら)われちゃ駄目だ。いくら日本のためを思っても贔屓(ひいき)の引倒しになるばかりだ」と説明させていた。

 この言葉を聞いた三四郎は「熊本にいた時の自分は非常に卑怯であった」と悟るのだが、『坂の上の雲』を書き終えた後で司馬も、「亡びるね」と断言した広田先生の「予言」が三八年後の一九四五年に的中していることに読者の注意を促し、「明治の日本というものの文明論的な本質を、これほど鋭くおもしろく描いた小説はない」と絶讃するようになる。

 現在日本では「グローバリゼーション」の強い圧力下に「国際的な対話能力」育成のためとして幼児期からの英語学習の必要性が強調されているが、その反面で、「ゆとりの教育」という名目のもとに、これまで国語教育において重要な役割を担ってきた夏目漱石や森鴎外などの明治の古典文学作品が中学校や高等学校の教科書からほとんど除外され、「話すこと」や「聞くこと」などより技術的な面が強調されることになった。

 しかし、欧米との烈しい文化的な摩擦のなかで創り上げられた漱石や鴎外の文体や作品は、単に彼らの個人的な思想や感情を著しているのではなく、当時の日本の歴史や文化をも色濃く反映している。思考の基礎をなす言語や文化の理解が単純化されることは、国民の意思を統一するには一時的には役立つかもしれないが、漱石や鴎外などの作品を素通りして国語教育が行われることは、一九世紀的な「自国中心的な歴史観」の問題点を認識できないままに子供たちが大人になることをも意味している。

 正岡子規の考察を通して司馬は、明治以降の日本では文学が「日本帝国の伸長のためにはなんの役にも立たぬもの」として軽視されてきたことを指摘したが、「自己と他者」の問題を根源的に考える文学は、現在でも一部の文部官僚たちから軽視されているように見える。

 しかし、「われわれは、まだ先のある民族です」とした司馬は、「急がずに、きれいな言語をつくっていったらいいですね」と続け、「明治の人々が縄をなうようにして自分の文章をつくったように、そしてそれが夏目漱石によって千曲川のように大きな川になったように、将来は大きな日本語になることができるかもしれません」と語っていた。

 「グローバリゼーション」の名のもとに圧倒的な軍事力を背景にしたアメリカ的な価値観の押しつけに対する反発から、二一世紀を迎えた現在でも世界の各地でナショナリズムが強まる中で、テロとそれに対する「報復の戦争」も続いている。他方で、現在も続く自己(自国)中心的な「自然支配の思想」のために地球自体が温暖化などで悲鳴を上げ始めている。それゆえ、再び世界大戦の惨禍や未曾有の自然災害を招かないためにも、「自己と他者」の問題を根源的に考えることのできる文学的な方法の確立と文学の復権は、焦眉の課題といわねばならない。

 

 (本稿は日本価値観変動研究センターの季刊誌「クォータリーリサーチレポート」に連載した八編の論考を文学論的な視点から再構成して同人誌に掲載した評論に、時間的な経過を踏まえて改訂を行ったものである)。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2005/11/04

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高橋 誠一郎

タカハシ セイイチロウ
たかはし せいいちろう 評論家 1949年 福島県に生まれる。

掲載作は2004(平成16)年「全作家」第59号に発表され、一部改訂を加えたものである。