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司馬遼太郎の教育観   ――『ひとびとの跫音』における大正時代の考察

  はじめに――グローバリゼーションとナショナリズム

 

 国際政治学者のハンチントンはソ連が崩壊して、旧ユーゴスラビアなどで紛争が頻発するようになった二〇世紀末の世界を分析した大著『文明の衝突』において、「世界的にアイデンティティにたいする危機感」が噴出した結果、世界の各地で旗などの「アイデンティティの象徴」が重要な意味を持つようになり、「人びとは昔からあった旗をことさらに振りかざして行進し」、「昔ながらの敵との戦争をふたたび招くのだ」と指摘した(*1)。実際、彼の指摘を裏付けるかのように、インド・パキスタンの相次ぐ核実験やイラク戦争など、「文明の衝突」が続いて起こり、世界の各国でナショナリズムの昂揚が野火のように広がっている。

 日本でも司馬遼太郎が亡くなって「司馬史観」論争が巻き起こった翌年の一九九七年には、「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」が立ち上げられ、戦後の歴史教育を見直す動きが始まっていた。

 こうした中、イラクへの自衛隊派遣が国会で承認されたことや二〇〇五年が日露戦争開戦百周年にあたることから、この二つの戦争を結びつけながら、日露戦争を肯定的に描いた作品として『坂の上の雲』を再評価しつつ、「教育基本法」を改正して、平成の青少年に「愛国心」や戦争への気概を求めようとする論調が強くなってきている(*2)。

 たしかに『坂の上の雲』(一九六八~七二)の前半で司馬は日清戦争を考察しながら、「侵略だけが国家の欲望であった」一九世紀末において、「ナショナリズムのない民族は、いかに文明の能力や経済の能力をもっていても他民族から軽蔑され、あほうあつかいされる」と書いて、ナショナリズムを「国民国家」に必須のものとしていた(Ⅱ・「列強」)(*3)。

 しかし、『坂の上の雲』の前半と同時期に、徳富蘇峰の『吉田松陰』を意識しながら『世に棲む日々』(一九六九~七〇)書いていた司馬は、史実を詳しく調べながら日露戦争を描いていく過程で、次第にナショナリズムの危険性を明らかにしていくのである(*4)。

 しかも「司馬史観」は、「『明るい明治』と『暗い昭和』という単純な二項対立史観」であり、「大正史」を欠落させていると厳しく批判されることが多い(*5)。しかし、日露戦争を考察した『坂の上の雲』の後日譚ともいえるような性格をもつ『ひとびとの跫音』(一九七九~八〇)において司馬は、子規の死後養子である正岡忠三郎など大正時代に青春を過ごした人々を主人公として描いていた。

 そして司馬はこの長編小説のクライマックスの一つにあたる「拓川居士」の章で、正岡子規にも大きな影響を与えた伯父・加藤恒忠(拓川、一八五九~一九二三)の「愛国心と利己心とは其心の出処も結果の利害も同様」なので、「愛国主義の発動はとかくに盗賊主義に化して外国の怨を招き」やすいと指摘した文章に注意を向けているのである。

 この意味で注目したいのは、歴史家の磯田道史氏が「たった一人で日本人の歴史観を一変」させた「在野の歴史家」として頼山陽(一七八〇~一八三二)、徳富蘇峰(一八六三~一九五七)とともに司馬遼太郎(一九二三~一九九六)の名前を挙げ、戦前から戦中の日本で大きな位置を占めた蘇峰の「尊皇攘夷」の歴史観と比較しつつ、司馬が「日本人に染み付いた徳富史観を雑巾でふきとり、司馬史観で塗りなおしていった」と指摘していることである(*6)。

 実際、第一次世界大戦の最中の一九一六年(大正五)に書いた大作『大正の青年と帝国の前途』で、徳富蘇峰は中江兆民や福沢諭吉などの強い影響を受けて「個人的平民主義」を標榜していたが、次第に「自由平和の理想家より、力の福音の信者となり」、ついに「帝国主義者」となったことを自ら認めていた(*7 註・以降同書の引用頁数は()の中に算用数字でしめす)。その上で蘇峰は、明治期の青年と大正期の青年を比較しながら、「此の新時代の主人公たる青年の、日本帝国に対する責任は奈何」、さらに「日本帝国の世界に於ける使命は奈何」と問いかけて、「吾人は斯の如き問題を提起して、我が大正青年の答案を求むる」と記して、「世界的大戦争」にも対処できるような「新しい歴史観」の必要性を強調していた(79)。

 ここで蘇峰が示した方向性は、大正や昭和の青年たちの教育に強い影響力を有してその後の「帝国の前途」を左右したばかりでなく、これからみていくように平成の青年たちの未来にも深く関わっているのである。

 以下、本稿では蘇峰の歴史観にも注意を払いながら、大正の青年たちを主人公にしたこの小説で司馬がどのように教育の問題を考察しているかを分析したい。この作業をつうじて私たちは大正時代に生きた若者たちを主人公としたこの小説で、司馬がナショナリズムの危険性を鋭く指摘しながら、明治末期から大正を経て昭和に至る戦争への流れを見事に描き出していることを明らかにしたい(本稿においては、歴史的な人物の敬称は略す)。

 

  一、 父親の世代の考察――構成と作風の変化をめぐって

 

 『ひとびとの跫音』(中公文庫)は次のような章から成り立っている。

 (上巻)電車、律のこと、丹毒、タカジという名、からだについて、手紙のことなど、伊丹の家、子規旧居、子規の家計/(下巻)拓川居士、阿佐ヶ谷、服装、住居、あるいは金銭について、ぼたん鍋、尼僧、洗礼、誄詩

 「電車」と名付けられたこの小説の最初の章で司馬遼太郎は、かつて阪急電鉄株式会社に車掌としてつとめていた「忠三郎さんのことを書こうとしている」とし、「昭和五一年九月十日の朝、忠三郎さんは脳出血による七年のわずらいのあと、伊丹の自宅の近所の病院でなくなった。七十五歳であった」(太字引用者)と記した。

 市井に生きる無名の人々の人情や自然の風景を、とぎすまされた感性で描いた藤沢周平は、司馬遼太郎の主な長編歴史小説を読んでいないことを認めつつも、自分が『この国のかたち』や『街道をゆく』シリーズの「人後に落ちない愛読者であった」と認め、さらに「『ひとびとの跫音』一冊を読んだことで後悔しないで済むだろうと思うところがある」と書き、『ひとびとの跫音』においては「ふつうの人人が司馬さんの丹念な考証といくばくかの想像、さらに加えて言えば人間好きの性向によって一人一人が光って立ち上がって見えてくる」として絶讃した(*8)。

実際、随筆風に書き進められているかに見えるこの小説でも、やはり読んで行くに従って、司馬遼太郎に独特の堅固で緻密な構成と明確な主題を持っていることに気づかされる。

 たとえば、後にこの忠三郎が加藤拓川の実子であるとともに、正岡子規の死後に家を継いだ妹律の養子となった人物であることが明らかにされるのだが、この小説を読んでいくと最初の章に記されたさりげない多くの文章が次第に重要な意味を持ち、次の章の主題と直結していることがわかる。

 たとえば、忠三郎の「七年のわずらい」を看病した妻のあや子についての描写は、「二十代から三十代にかけての七年間、兄の看病のために終始し、そのことにすべてを捧げた」子規の三歳下の妹律を描いた「律のこと」や「丹毒」の章へとつながるのである。しかも、そこで司馬は兄の死を看取った後で律が東京の共立女子職業学校で学んだことや、さらにそこを卒業した後は母校で教鞭をとっていたこと、さらにその律の養子となった忠三郎と律や実母ひさ、さらにはあや子と二人の義母との関わりなど、それまでほとんど知られていなかった事実を淡々と描いている。

 さらに名字を省いて主人公を単に「忠三郎さん」と紹介するという方法は、自らを「タカジ」と呼ばせた西沢隆二について描いた「タカジという名」や「からだについて」の章にも直結しており、それに続く「手紙のことなど」の章では二高時代のタカジと忠三郎との友情が描かれることになる。

 そして、「伊丹の家」、「子規旧居」、「子規の家計」などの章でも日中戦争の年に結婚した忠三郎とあや子との結婚の話を核としながら、彼らの生活を通して母となった律や実父加藤拓川、実母との関わりが描かれているだけでなく、実父加藤拓川と秋山好古や陸羯南との関わりなど子規を形作った人々について記されているのである。そして、これらの章の後に本書のクライマックスの一つといえる「拓川居士」において、拓川の愛国論批判が紹介されることになる。

 忠三郎の葬儀がカトリックの教会で行われたことも第一章でさりげなく記されているが、このことは彼の「六つ下の末の妹」の「たへ」が洗礼を受けて「ユスティチア」となったいきさつや、彼女たち修道女が日本軍の占領政策のためにフィリピンへと行くことが描かれる後半の章「尼僧」や、忠三郎が妹の意をくんで洗礼をうけることになる「洗礼」の章とも深く関わっていたのである。

 そして、忠三郎の葬式に際して葬儀委員長を引き受ける羽目になった司馬がなれぬ葬儀場の手配や「死亡記事」の扱いなどで振り回されたいきさつが記されているのだが、続いて彼はさりげなくこう書いていたのである。「そのあと八日たち、伊丹の正岡家の通夜の日、薄暗い台所で音をたてていたひとの亭主が、信州の佐久でなくなった」。そして、「ほどなく私事だが」、「私自身の父親が死んだ」。こうして、ここには「誄詩(るいし)」と題された終章につながる主要なことが提示されていたのである。

 

 司馬はこの作品の執筆理由の一つとして「忠三郎さんとタカジというひとたちの跫音を、なにがしか書くことによってもう一度聴きたいという欲求があった」と書いているが、彼らは大正時代に青春を過ごした司馬自身の父親と同じ世代の人々であり、さらに司馬は忠三郎の父親の世代である正岡子規や律などを調べることによって、明治以降の三代の世代をも再考察しているのである。

 この意味で注目したいのは、この作品では大正時代に生きた人々が主人公として選ばれていることに注目した評論家の小林竜雄氏が、この小説には「さりげなく隠されたものもある」とし、「司馬遼太郎自身の父親」のテーマも根底にあることを指摘していたことである(*9)。まず、小林氏は「誄詩」の章で短く触れられた次の文章に注意を向けている。「私の身辺にも、タカジよりすこし年上の父が、食道や気管にできた癌で入院していた。このとしは、その種のことで多忙だった。父は、忠三郎さんやタカジが亡くなってから、ほどなく死んだ」。

 そして、小林氏は司馬の父「是定は頑固な父・惣八のせいで、江戸期のように寺子屋で学ばされ中学校にも行けなかった。そこで独立して試験を受け薬剤師となったのである。そこには"明治の父"に振り回された"大正の父"の姿があった」とし、「司馬はその父の『跫音』もこの物語から聞いていたのだろう」と書いた。

 司馬の内面にも踏み込んだ鋭い指摘であり、大正末期に生まれた司馬が昭和初期に青春を迎えていることを考慮するならば、ここには明治から昭和にいたるまでの市井の人々の生き方が淡々と描かれているといっても過言ではないのである。クリミア戦争に負けて価値が混乱したロシアでは、価値観を巡る世代間の対立が激化して、ツルゲーネフの『父と子』やドストエフスキーの『虐げられし人々』などの作品が書かれたが、『ひとびとの跫音』においても大正時代に青春を過ごした忠三郎と父親の世代の子規や加藤拓川との関わりや、さらに忠三郎の子供の世代ともいえる大岡昇平や司馬遼太郎の世代にいたる三代の青春が描かれていることに気づく。

 実際、司馬は忠三郎が中学校二年の一九一四年に、日本が日独戦争と呼んだ第一次世界大戦が始まったこと、司馬が生まれた一九二三年(大正一二)には関東大震災があったこと、忠三郎が就職した一九二七年(昭和二)には、「金融恐慌が進行して」いたこと、さらに忠三郎があや子と結婚した一九三七年が日中戦争の勃発の年であったことなど、個人の体験を日本史の流れの中に位置づけつつ描いているのである。

 ただ、小林氏は司馬の父是定を「"明治の父"に振り回された"大正の父"」としたが、単に「振り回された」と言い切れるだろうか。司馬は最後の章「誄詩」で、「この稿の主題は」、「子規から『子規全集』まで」というべきものであったかと思っているとしているが、「言語についての感想(七)」という随筆や『坂の上の雲』のあとがきで司馬は正岡子規や徳冨蘆花の小説と出会ったのは、父親が買った全集によってであったと記しているのである(*10)。

 すなわち、司馬はここで「私は少年のころ、父の書架に、正岡子規と徳冨蘆花の著書またはそれについての著作物が多く、つい読みなじんだ。この二人はほぼ同時代でありながら文学的資質に共通点を見出すことがむずかしい。また明治国家という父権的重量感のありすぎる国家にともに属しつつも、それへの反応はひどくちがっていた」と記して子規だけでなく、蘆花の全集にもふれていた。そして司馬は「蘆花の父一敬は横井小楠の高弟で、肥後実学を通じての国家観が明快であった人物で、蘆花にとって一敬そのものが明治国家というものの重量感とかさなっているような実感があったようにおもわれる」とし、「また父の代理的存在である兄蘇峰へも、一敬に対する嫌悪と同質のものがあり、しだいに疎隔してゆき、晩年は交通を絶った」と続けて父や兄との世代間の葛藤や対立にもふれていたのである(Ⅷ・「あとがき五」)。

 つまり、「私事」としてあまり強くは語られてはいないが、「生涯、記録に値するような事跡はみごとなほどのこさなかった」が、「そのことでかえっていぶし銀のような地張りを感じさせてしまう」市井のひと、忠三郎という人物の姿は、強烈な個性を持ち、政府の欧化政策に反抗して学校にも入れなかった祖父のもとで、あまり反抗的な自己主張はしなかったが、子規や蘆花の全集を買い求めて読み込んでいた父親への思いが重なっていたように思えるのである。

 徳冨蘆花は日露戦争後に書いた「勝利の悲哀」と題するエッセーにおいて、「一歩を誤らば、爾が戦勝は即ち亡国の始とならん、而して世界未曾有の人種的大戦乱の原とならん」と強い危機感を表明していた(*11)。

 司馬も「勇気あるジャーナリズム」が、「日露戦争の実態を語っていれば」、「自分についての認識、相手についての認識」ができたのだが、それがなされなかったために、日本各地で日本政府の弱腰を責めたてる「国民大会が次々に開かれ」、放火にまで至ることになったと記して、ナショナリズムを煽り立てる報道の問題を指摘した(*12)。さらに『この国のかたち』の第一巻において司馬は、戦争の実態を「当時の新聞がもし知っていて煽ったとすれば、以後の歴史に対する大きな犯罪だったといっていい」と記して、当時の新聞報道を厳しく批判した。

 蘇峰が『蘇峰自伝』の「戦時中の言論統一と予」と題した節で、「予の行動は、今詳しく語るわけには行かぬ」としながらも、戦時中には桂内閣の後援をして「全国の新聞、雑誌に対し」、内閣の政策の正しさを宣伝することに努めていたと書いていることを考えるならば、司馬の鋭い批判は、蘇峰と彼の『国民新聞』に向けられていたと言っても過言ではないだろう。実際、ビン・シン氏の考察によれば、「そうなら国民に事情を知らせて諒解させれば、あんな騒ぎはなしにすんだでしょうに」と問い質した蘆花に対して、蘇峰は「お前、そこが策戦(ママ)だよ。あのくらい騒がせておいて、平気な顔で談判するのも立派な方法じゃないか」として、敵と交渉をするためには味方を欺くことも必要だと答えていたのである(*13)。

 しかも、天皇機関説論争が激しさを増した一九三五年(昭和一〇)に「第一天皇機関などと云ふ、其の言葉さへも、記者は之を口にすることを、日本臣民として謹慎す可きものと信じてゐる」と徳富蘇峰が書いていることを紹介した評論家の立花隆氏は、明治四五年に美濃部の『憲法講話』が公刊された際にも、すでに蘇峰の『国民新聞』に「美濃部説は全教育家を誤らせるもの」という批判記事が載っていたことを記している(*14)。

 実際、歴史家の飛鳥井雅道氏によれば、この記事の筆者は「しきりに乱臣賊子にあらざることを弁解するに(つと)むるも、其言説文字は、則ち帝国の国体と相容れざるもの多々なり」として美濃部達吉を厳しく批判し、『国民新聞』も社説などで美濃部の説を「遂に国家を破壊せざれば、已まざるなり」とした職を去ることを強く求めるキャンペーンを行っていたのである(*15)。

 『ひとびとの跫音』においてもタカジと父親との対立も描かれていることを考えるならば、私たちはこの小説に「さりげなく隠された」テーマとして日露戦争後に平和を主張した蘆花と蘇峰の対立の問題も考慮にいれる必要があるだろう。

 

 ところで司馬はこの小説について「歴史小説などとは違い、主人公たちは、ついさっきまで市井(しせい)を歩いていたのですからまずファクト(事実)がある。だから読めば気楽に読めますけれど、一点一画もおろそかにしてはいけないという気持ちで執筆しました」(太字引用者)と書いていた。

 この言葉の意味は非常に重く、司馬遼太郎の歴史認識と作風の変化自体にもかかわっていると思える。この意味で注目したいのは、司馬が歴史小説を書き始めた頃に司馬が「私の小説作法」として、自分が鳥瞰的な手法をとることを明言していたことである。「ビルから、下をながめている。平素、住みなれた町でもまるでちがった地理風景にみえ、そのなかを小さな車が、小さな人が通ってゆく。そんな視点の物理的高さを私はこのんでいる。つまり、一人の人間をみるとき、私は階段をのぼって行って屋上へ出、その上からあらためてのぞきこんでその人を見る。同じ水平面上でその人を見るより、別なおもしろさがある」(*16)。

 司馬の歴史小説のおもしろさの一端がここにあったのは間違いないだろう。磯田道史氏は蘇峰や司馬の歴史観が「大衆から圧倒的支持をうけた」と指摘し、「支持された理由は簡単である。ものの見方が実に大局的であり、わかりやすい言葉で語りかけたからである」と説明していた(*17)。実際、多くの読者が書き手である司馬と同じ歴史上の場面を見ながら、司馬の断言的で明快な解説により、それまで複雑で難解だと思っていた歴史に対する興味を持つようになったのである。

 ただ、司馬は「鳥瞰的な手法」で歴史を描くとしたが、そのような視野を得るためには何らかの「基準」や「史観」が必要とされていたはずであり、それなくしては上からの風景は単なる「無秩序」になったと思える。それゆえ、「皇国史観」や「唯物史観」という特定の見方からの歴史観を排しつつ、『竜馬がゆく』など「国民国家」を形成する歴史上の人物を主人公とする作品を描き始めたとき、司馬自身はあまり意識していなかったにせよ、彼が依拠していたのは「自由や個性」を重視していた福沢諭吉の歴史観だったと思える。

 しかし、すでにドストエフスキーが『地下室の手記』において厳しく批判していたように、福沢諭吉が依拠したバックルの『イギリス文明史』などの近代西欧の歴史観では、「文明」による「野蛮」の征伐が「正義の戦争」として認められており、また、「国益」が重視されることにより、個人間の場合の道徳とは異なり、自国の「国益」にかなわない「事実」は無視されるか、「事実」とは反対のことさえも主張されていたのである(*18)。

 このことに気づいたあとでの執筆上の苦悩を司馬は『坂の上の雲』の中頃、正岡子規の死を描いた「十七夜」の次の章の冒頭でも次のようにうち明けている。「この小説をどう書こうかということを、まだ悩んでいる。/子規は死んだ。/好古と真之はやがては日露戦争のなかに入ってゆくであろう。/できることならかれらをたえず軸にしながら日露戦争そのものをえがいてゆきたいが、しかし、対象は漠然として大きく、そういうものを十分にとらえることができるほど、小説というものは便利なものではない(太字引用者、Ⅲ・「権兵衛のこと」)。

 そして司馬は第四巻のあとがきでは、「当時の日本人というものの能力を考えてみたいというのがこの作品の主題だが、こういう主題ではやはり小説になりにくい」と記し、その理由としてこのような小説は「事実に拘束される」が、「官修の『日露戦史』においてすべて都合のわるいことは隠蔽」されていることを挙げるようになるのである。

 ここには大きな歴史認識の変化が現れているといえるだろう。つまり、後期「福沢史観」と決別したとき司馬は、比喩的にいえば、羽を失って飛べなくなった鳥と同じ様に鳥瞰的な視野を失ったのである。こうして司馬は「国家」の作成による「歴史」ではなく、日露の歴史書を比較しながら自ら判断して書かざるをえないという事態と直面したのである。

 それゆえ、『坂の上の雲』を書き終えた司馬遼太郎にとって、大きな課題として残されたのは、「国民」を幸せにすることを約束しつつ、富国強兵に邁進して「国民」を戦争や植民地の獲得へと駆り立てた近代西欧の「国民国家史観」や、そのような歴史観に対抗するために、「自国を神国」と称する一方で、「鬼畜米英」に対する防衛戦争の必然性を唱えて無謀な「大東亜戦争」へと突入することになった「皇国史観」に代わる歴史観を模索し、それを提示するという重たい課題であったと思われる。

 この意味で注目したいのは、評論家の関川夏央氏との対談で歴史家の成田龍一氏が「『ひとびとの跫音』は時として異色の作品といわれることもあるようですが、私は非常に司馬遼太郎らしい作品だと読みました。同時にここでは司馬遼太郎が一九八〇年前後に新たな試みをはじめている」ことに注意を向けるとともに、司馬自身が登場人物の一人となっていることにも注意を促していることである(*19)。

 つまり、この作品で司馬は鳥瞰的な視点から人物や歴史を描いているのではなく、司馬遼太郎自身が同じ平面にたって彼らと対話を交わしながらこれらの人物を描いているのである。そしてこの作品では司馬自身も自分が敬愛した正岡子規を同じように敬愛し、「子規全集」を出版しようとする熱意に燃えるひとびととの交友をとおして、新しい歴史観と文明観を提示し始めていたのである。

 

  二、大正時代と世代間の対立の考察

 

 「丹毒」の章で司馬は、「大正デモクラシーの時代に青春を送った世代である」忠三郎とタカジを、世代論的な視点から子規の青春時代と次のように比較している。

 「正岡子規のように、明治期の一ケタのころの青年が、東京にしかない大学予備門をめざして田舎から笈を負ってやってきて、自分の人生と天下国家を重ねて考えたという時代は、すでに遠くなったのである。忠三郎さんの二高入学は、大正八年であった。第一次大衆社会というべきものが現出しつつあり…中略…自分の運命と国家をかさねて考えるなど大時代な滑稽さとしてうけとられる時代がはじまって」いると指摘されていたことである。

 ここで思い起こされるのは、蘇峰が第一次世界大戦中の一九一六年(大正五)に書いた『大正の青年と帝国の前途』において、明治時代の自分から「飜つて大正時代の青年を見れば、恰も金持三代目の若旦那に似たり」としていたことである(69)。そして蘇峰は大正の青年を「されば彼等は新聞、雑誌、小冊子、講演、遊説、其他あらゆる目より入り、耳より入る学問にて一通り世間と応酬するに差支なき智識を得、且つ得つゝある也」としてその情報量の多さを指摘しつつも、「彼らに共通する特色の一は、時代と無関係なり、国家と没交渉なり。而して彼ら一切の青年を統一す可き、中心信条なく、糺合す可き、中枢心系なく、協心戮力して、大活動せしむ可き、一大根本主義なきにあり」とした(78-9)。

 このような時代にタカジや忠三郎は青春を送っていたのだが、司馬は「手紙のことなど」の章で、関東大震災の翌年である一九二四年(大正一三)は、「タカジが京都大学に入ったばかりの忠三郎さんあてにしばしば手紙を――富永太郎もそうだが――書いていた時期であった」とし、タカジは前々年に二高を退学して仙台を去り、東京でなすこともなく日をすごしていた」と書いていた。そして司馬は忠三郎にあてた手紙でタカジが、父から「小説家(註・タカジのいう"志望"がそれであるらしい)なんて云う物は世の中にいらん物だ」と言われたと手紙に書いていることを紹介している。

 この言葉は自分は「正直に云えば、我が青年及び少年に歓迎せらるる書籍、及び雑誌等は、半ば以上は病的文学也、不完全なる文学也」と断言した蘇峰の言葉を想起させるのである(281)。文学に夢中になって青春を過ごしていた忠三郎とタカジもまさに典型的な大正青年であり、かれらもまた徳富蘇峰的な教育観の批判の対象であったといえよう。

 さらに司馬は、当時の忠三郎について富永太郎が、「独自のボヘミアン的孤立生活者のスタイルを作り出していた」と言っていたと大岡昇平から教えられたと記しているが、樋口覚は子規全集の編集に拘わっていた司馬と大岡の忠三郎への関心を「出征から帰って来て戦後に小説家になった二人それぞれが忠三郎の前半生と後半生を見ているという感じ」であるとし、司馬は富永三郎や中原中也など「詩人たちの生涯については大岡さんにおまかせして、自分はあくまで関西で知った忠三郎、詩を捨てて一般人として、一個の虚無として生きた人生に関心をもった」と説明した後でこう続けた。「つまり対象の描くべきところをそれぞれ棲み分けをしたというようなことですが、この二人にとって忠三郎の存在はそれほど大きい」(*20)。

 実際、司馬はここで忠三郎がタカジだけでなく二高の同窓富永太郎からも手紙をしばしば受け取っていたことにふれて、「太郎にそれを書きつづけさせた若いころの正岡忠三郎という存在がある」とし、「太郎の場合、忠三郎さんというのは一個の巨大なふんいきで、それにくるまれてさえいれば自己を解放でき、手紙をかきつづけることによって自己が剥き身になり、意外なものを自分の中に見出すことができるという存在であったろう」と記した。

 ここで注目したいのは、そのような「忠三郎さんにおける手紙の保ちのよさ」にふれつつ司馬が、「私は大正十二年に生まれたために、大正も知らぬままにその年号を半生背負ってきた。いまタカジや富永太郎や忠三郎さんのことを考えねばならない必要から、その時代の青春のにおいをむりやりに嗅ごうとしている」として、手紙に張られていた切手について次のように考察していることである。

 「切手はいずれも赤地で、三銭もしくは参銭とある。切手の意匠も印刷インキもいたいたしいほどに安っぽい。『三銭』のほうは中央やや上に十六弁菊花章があり、その 両側に満開のサクラがあしらわれ、下に富士山が描かれているのは、花札の意匠に影響された感覚かもしれない」。

 そして司馬は「赤っぽい花札風の切手一枚で大正期の国家や社会という巨大なものを想像することはまちがっている。ただ、(こんな切手の時代にうまれたのか)と、自分のことを思い、くびをすくめるような思いがしないでもなかった」と記して、「大正国家」の薄っぺらさに注意を促していたのである。

 これに対して蘇峰は、「大正青年に愛国心の押売を試み」ようとするものではないと断りつつも(81)、自分は「大正の青年諸君に向て、先づ第一に卿らの日本魂を、涵養せんと欲す」して、「日本魂とは何ぞや、一言にして云へば、忠君愛国の精神也。君国の為めには、我が生命、財産、其他のあらゆるものを献ぐるの精神也。如何なる場合にも、君国を第一にし、我を第二にするの精神也」と記し、「若し日本国民にして、此の忠君愛国の精神を失墜せん乎、是れ帝国は精神的に滅亡したる也」として、「此の精神」の「涵養」と「応用」に「国民教育の要」があると主張したのである(282-3)。

 こうして蘇峰は「大正の青年」の教育という視点から論を展開しているのだが、興味深いのは司馬が、蘇峰と同じく「明治の青年」であった西沢隆二の父親である吉治が、軍部と結んで事業を大きくしたことについても触れることで、「大正の青年」たちが父親の世代の政治に不安を覚えた理由を記していることである(「手紙のことなど」)。

 すなわち吉治は日清戦争の末期に「近衛師団に従って、酒保(日用品販売所)の業者として師団とともに渡海」し、その後この師団が「土匪討伐」などということで台湾に行くと、「台湾開発」によるセメント事業の波に乗ってまたたくまに事業を大きくしたのである。しかも、吉治は台湾の近くの無人島で燐鉱石が産出されることを知ると、明治四十年にはそこを占拠して西沢島としたが、後に清国政府から日本政府への抗議が来て、島は清国が買い取ることになったので、吉治は「投下した資本」に見合わぬ膨大な負債を背負って台湾を去ることになっていたのである。

 このとき日本はペリーと同じように三隻の軍艦を背景に「砲艦外交」を行ったが、その時の委員長が軍艦「明石」の艦長である鈴木貫太郎であり、もう一人が秋山真之であった。それゆえ、このとき始まった海軍との交際から一九一四年(大正三)の第一次世界大戦を契機にふたたび吉治にチャンスが回ってくる。

 すなわち、「タカジが中学校一年、忠三郎さんが二年のときに、日本が第一次大戦――日本側は日独戦争とよんでいた――に参戦し、多分に欧州のどさくさにつけ入るようなかたちで、アジアのドイツ領や権益をおさえたとき、海軍はドイツ領南洋諸島を占領した」。その中に燐鉱石が産出されるアンガウル島があったが、海軍によって「この島の開発と採掘」を命じられたのが、民間人の吉治だったのであり、「資金については、この当時、大正の船成金の象徴的人物といわれた内田信也から出た」。しかし、今度も「わが国の新領土の開発を一私人の手にゆだねていいのか」ということが帝国議会で問題となり、結局、一年で海軍省直営となったのである。

 こうして挫折したかに見えた吉治の事業は、司馬が「古風な表現でいえば涜武の典型」であり、「国家的愚挙のはじまりであった」と厳しく批判したシベリア出兵(一九一八)のときにもう一度だけ希望がみえたかに思えた。すなわち、吉治はこれに乗じて「シベリア開発会社」を設立したのだが、「吉治の沿海州・樺太の夢も、反革命軍の崩壊と大正十一年の撤兵によってやぶれた」とし、「吉治の生涯は、噴火口から噴出する熱いガスのなかで熱気球を挙げようとする図に似ていた。たかく太虚に舞いあがっては、気球が破裂して墜落してゆく」と記したのである。

 タカジや忠三郎たち大正の若い知識人が、海外へと「膨張」を続ける日本の将来に抱いた不安は大きかったのであり、このような時代に青春を送っていたタカジは二高を落第したのちに東京で、詩人たちの同人誌「驢馬」の会に近づき、次第に革命家へと変貌していくことになる。司馬はその変貌の過程を「阿佐ヶ谷」の章で描くことになるのだが、その前の一連の章で子規に強い影響を与えた叔父・加藤拓川と陸羯南の人物と思想に触れている。

 

  三、ナショナリズムの批判――陸羯南と加藤拓川の戦争観

 

 「伊丹の家」の章は、秋山好古の娘である土井健子の仲人によってあや子と所帯をもつにいたった忠三郎を中心に話が進められていく。それとともに、ほとんど同年の生まれであった子規と秋山真之と同じように、忠三郎の実父拓川が好古と同じく「井伊直弼が大老職にあった安政六年(一八五九)のうまれで」、幕藩の世に呼吸しており、藩校明教館に入った彼らが「めずらしいことに、九歳で相並んで助手」を命ぜられたことや二人ともほぼ同じ時期にフランス留学を経験したことも紹介している。

 そして、拓川について「天性、文明と人間を批評する資質にめぐまれていたし、ルソーの刺激をうけて独自の自由主義思想をもっていたが、かといって思想家としてなにごとかを遺したひとでもなかった」と述べた司馬は、「忠三郎さんは世俗のなかでは、世間と不調和になることを案じつつも秘かに独自の倫理的スタイルをもっていた点、拓川に酷似している」とも記している。

さらに「子規旧居」、「子規の家計」では、患っていた子規の面倒を見続けた大原・加藤家や拓川の親友であった陸羯南とその家族のことが中心に記されている。すなわち、司馬は子規の父が亡くなった後、「正岡家は大原家の家督をついだ伯父恒徳(つねのり)(拓川の長兄)の後見をうけ」、「大原恒徳の手をへて出されてくるこの金を小出しにして食べていた」ことに注意を向け、「子規の拓川あての書簡が幾通も伊丹の忠三郎家にのこっている」が、「内容は一、二の例外をのぞき、月々の家計の不足を告げ、援助を乞うというものであることにおどろかされる」とし、拓川は「貯えはつねに乏しかった。それでも子規から手紙がくると、そのつど応じ、一度も渋い色を見せたこと」がなかったと書いた。

 そして、「子規の東京での学資は、旧松山藩の奨学制度である、常磐会から出ていた」が、「大学国文科二年の学年試験に落第し、中退したことで、この支給は絶え」、中退を決意したとき、子規が働くことにしたのが拓川の親友だった陸羯南の「主宰する日本新聞社」であり、月俸は十五円と少なかったが、子規が「人間は最も少ない報酬で最も多く働くほどエライひとぞな。…中略…人は友を択ばんといかん。『日本』には正しくて学問の出来た人が多い」(「子規の家計」)として、他の新聞社ではなく『日本』を選んだことを誇りにしていたと記したのである。

 こう記したとき『坂の上の雲』においてはあまり『日本』に言及していなかった司馬もまた『日本』に強い関心を評価をするようになっていたといえるだろう。なぜならば、司馬は、『子規全集』の刊行に尽くした自分と同年生まれの松井勲が亡くなった後に、友人たちの手で出版された非売品の遺稿集には、『新聞「日本」の人々』という題がついていることに注意を促して、「かれは編集という埒から、そういうことを調べるところにまで入りこんでいた」と後に書いているからである(下・「洗礼」)。そして、司馬自身も後に後輩の青木彰に手紙で、「たれか、講師をよんできて、"陸羯南と新聞『日本』の研究"というのをやりませんか」と呼びかけただけでなく、さらに「もしおやりになるなら、小生、学問的なことは申せませんが、子規を中心とした『日本』の人格群について、大風に灰をまいたような話をしてもいいです。露はらいの役です」とも記したのである(*21)。

 この手紙は『ひとびとの跫音』を執筆していた当時の司馬の陸羯南に対する関心のあり方をも語っているように見える。なぜならば、蘇峰は一八九九年に「帝国主義の真意」と題する記事で、「帝国主義」は、「平和的膨張主義」であると主張していたが、陸羯南はその翌日に「帝国主義」は「侵略主義」であるとしてこれを批判した論文を新聞『日本』に掲載して、「膨張主義」の危険性を指摘していたのである(*22)。

 この意味で注目したいのは、鹿野政直氏がついに太平洋戦争にまで突き進むことになった日本のナショナリズムについて考察して、「なにか別の可能性はなかったのだろうか」と問い、このような視点から見るとき、最初に現れるのは「明治二十年代のナショナリズム」であり、「その代表的な思想家としての陸羯南(一八五七~一九〇七)と三宅雪嶺(一八六〇~一九四五)」であるとし、彼らはいずれも、「それまで<欧化>へのみちを追求してきた日本の思想界にあたらしい視点を提供した」と高く評価していることである(*23)。

 そして、鹿野氏は『日本』が、「一八八九年の大日本帝国憲法発布とともに第一号を出した」ことを紹介しつつ、「国粋主義もしくは日本主義と称されるこの思潮は、この当時の表面において、政府のとる"貴族的欧化主義"および徳富蘇峰の主宰する『国民之友』『国民新聞』の"平民的欧化主義"と鼎立した。とりわけ蘇峰の平民主義と、羯南や雪嶺らの国粋主義は、ともにあたらしい世代の明治青年たちの自己主張として、大きく論壇をリードしてゆくことになった」と説明している。

 ただ、鹿野氏は一年前に発行されていた三宅雪嶺の『日本人』における定義や、それまでの慣例に従って『日本』の思潮を「国粋主義」と規定している。しかし陸羯南自身は、自分たちの思潮を「国民論派」と呼び、これが「欧化風潮に反対して」起こったことを認めつつも、「国粋保存と言える異称」が自国の伝統以外を認めない「守旧論派の代名詞」として、「国民論派の発達を妨げる一大妨障なりき」とこの呼び方を批判している(*24)。

 実際、「創刊の辞」において陸羯南は、「『日本』は国民精神の回復発揚を自任すといえども、泰西文明の善美はこれを知らざるにあらず。その権利、自由道義の理はこれを敬し、その風俗慣習もある点ではこれを愛し、とくに理学、経済、実業のことはもっともこれを欣慕す」としている(*25)。このことを考えるならば、本稿では『日本』の思潮を陸羯南の用語にならって「国民主義」と呼ぶ方がよいと思われる。

 なぜならば、鹿野氏が指摘しているように、「大日本帝国憲法で、日本が『臣民』と規定されたのをよそにみながら、かれがあえて『国民』の名に固執したのは、やはり、国家の設定した臣民的コースからの抵抗であった」と考えられるからである。

 このことは、『国民新聞』などで相変わらず「国民」という用語を用いながらも、一九一六年に著した『大正の青年と帝国の前途』においては、「されば帝国臣民

の教育は、愛国教育を以て、先務とせざる可らず」(281、太字引用者)として、「国民」を「臣民」と考えるようになっていた蘇峰の場合と比較すればより明白であろう。すなわち、蘇峰はここで「明治の元勲」が「愛国心」を持ちつつも、「怖外心と崇外心とを長養」する一方で、「力の福音を閑却」し、「無差別的な欧化主義を宣伝」し、「自屈的外交」を行ったと鋭く批判した(158)。そして、蘇峰はスペンサーが「日本人種」を「劣等人種」と見なしたとして(163)、「白閥を打破し、黄種を興起」することが、「我が日本帝国の使命にして、大和民族の天職」であるとして、そのためには青年が「日本帝国を愛し、日本帝国に全身を献げ」るように、「国家を宗教とせんことを望む」としたのである(316)。

 一方、陸羯南は「創刊の辞」において、「ゆえに『日本』は狭隘(きょうあい)なる攘夷論の再興にあらず、博愛の間に国民精神を回復発揚するものなり」とも述べている。私たちの視点からきわめて興味深いのは、このような蘇峰の「国民主義」の主張が、大改革の時期にドストエフスキー兄弟が「欧化」を批判し、自己中心的な「国粋」をも諫めて、自分の大地であるロシアに立脚しつつ、そこから世界にも通じる普遍的な理念を生み出すべきだと主張したドストエフスキー兄弟の『時代』誌の「大地主義」に似ていることである(*26)。

 このように見てくるとき、司馬遼太郎が下巻の冒頭に「拓川居士」の章をおいて中江兆民と陸羯南や拓川との関わりを再考察していることはきわめて重要である。すなわち、司馬は明治初年には「私塾は相変らず貧困であった」が、「このようなありさまのなかで、明治七年、フランスから帰ってきた土州人兆民中江篤介の存在」は大きく、「明治十年、私塾仏蘭西学会(のち仏学塾)を麹町中六番四十五の借家でひらいた」。一方、正岡子規に頼られることになる若い伯父の拓川は、「廃刀令が出た明治九年」に、「十八歳で給費の官吏養成所である司法省法学校に入り、フランス語とフランス法」を学んだが、「司法省法学校を退学した明治十二年に、この兆民の塾に入っている」とした。

 そして司馬は、「兆民の第一の門弟ともいうべき同郷の幸徳秋水」が、『兆民先生』で「先生は仏蘭西学者として知られて居たけれど一面立派な漢学者であった」と記していたことに注意を促して、「この言葉は、拓川についてもあてはまるようである」とした。

 さらに司馬は「拓川にとって法学校以来の友人である陸羯南」が、「明治二十四年、一種の同時代史として『近時政論考』(日本新聞社刊)一巻をあらわし、維新以来の政論の変遷を分類」して、「兆民らの思想と運動」を「それ以前の悒鬱(ゆううつ)民権や翻訳民権よりも「一層深遠」で、「西洋十八世紀末の法理論を祖述し多く哲学理想を含蓄した」と高く評価したことに注意を促している(「拓川居士」)。

 興味深いのは「フランスのベトナム侵略を機に始まった清仏戦争」を論じた福沢諭吉が、個人における「修身」とは異なり、国家間の外交では「国家はたとえ過誤を犯しても容易に謝罪すべきではない」と主張し、フランスが「国益」のために「力を尽くして罪を支那に帰するの策」を講じるのは当然であるとしたが、拓川の反応が福沢諭吉とはまったく反対であったことである(*27)。

 すなわち、司馬は「兆民の徒である拓川にとって不幸なことに、かれがながい船旅のあげくにパリについたとき、仏蘭西の新聞は、フランス政府が極東侵略(ヴェトナム支配や対清戦争)に熱中しているのを、連日、記事や銅版画で報じつづけていたことであった」と指摘した。そして司馬は拓川がフランス留学をすることになった時期に、故国日本では官憲が「沸騰する民権運動やその刊行物をおさえこむことで、気ぐるいしたようになって」、「新聞、出版に関する取締条例を強化し、さらには政論に関する集会を綿密に監視し、ささいなことでも解散を命じたり」するようになっていたことにもふれてと、拓川は「維新を経た少年のころの攘夷家として憤りを感じた」にちがいなく、「国家や愛国ということの本質を、そこざらえにして考えざるをえなかったのではないか」とした。

 そして、司馬は「世間に瀰漫している愛国主義を嫌悪」した拓川がフランスで書いた論文「愛国論」の本文は七章から成り、「第一章は愛国の本義、次いで愛国心の過去未来、土地所有権と愛国心の関係、電信鉄道と愛国心の関係、愛国心より起る古今経済学者(註・この場合の経済は政治という意味)の謬説」とつづき、「第六章にいたって『天下を乱るものは愛国者なり』という見出しがつき、第七章では『愛国の臣たらんよりは寧ろ盗臣たれ』とまことにはげしくなる」と記した。

 すなわち、拓川によれば「愛国心と利己心とは其心の出処も結果の利害も同様」なので、「愛国主義の発動はとかくに盗賊主義に化して外国の怨を招き、外国の怨は人類相対の怨となる」のである。そして司馬は、こうして人間世界に愛国心があると「天下太平は望みがたし」と考えた拓川が、「孔子が説きつづけた仁の実践方法というべきもの」である、「おのれのまごごろをつくし、他人への無限の思いやりをもつという忠恕」こそが、「地球を『同類相喰』の場から救う」と考えたのだと説明した。そして、拓川が「たとへ我国人に利あるも世界の人に害ある事は是罪悪なりと仏国の学者(モンテスキュー)は言へり」とも説いていたこと紹介していたのである。

 司馬は、もし拓川が「このまま思想と文章による在野活動をしていれば」、「幸徳秋水よりもさきに似たような思想を先唱する人になっていたかもしれない」と結んでいた。実際この先の文章は拓川の思想が、日露戦争後に政府やジャーナリズムなどによって煽り立てられるナショナリズムの危険性を鋭く認識して「爾が戦勝は即ち亡国の始とならん、而して世界未曾有の人種的大戦乱の原とならん」と強い危機感を表明した徳冨蘆花や将来の世界大戦の「帝国主義」の危険性を指摘した幸徳秋水の思想に先んじていたことを明らかにしていたといえよう。

 

  四、治安維持法から日中戦争へ――昭和初期「別国」の考察

 

 このような「拓川居士」の章の主題は忠三郎の親友・タカジと、大正から昭和への変わり目に一年だけ存続した同人誌「驢馬」とのつながりや、詩人だったタカジが革命家へと変貌する過程を描いた「阿佐ヶ谷」の章へと直結している。

 しかもそれは唐突なことではなく、すでに司馬は「伊丹の家」の章で、忠三郎が結婚をした一九三七年の七月に「ふたりで外出中、号外で戦争の勃発を知った。宣戦布告という形式こそとられていないが、北京南郊の蘆溝橋で日華両軍が衝突し、交戦がつづいているということは、このあとの段階をどのようにも深刻に予想することができた」として、主人公たちと時代との関わり注意を向けていた。このような流れは、弟蘆花の厳しい指摘にもかかわらず、「要するに我が日本国民は、国家が剃刀の刃を渡るが如く、只だ帝国主義に由りて、此の国運を世界列強角遂の際に、支持せざる可からざる大道理」を、まだ徹底的には会得していないと主張して、さらなる「平和的膨張」、すなわち侵略を主張していた蘇峰の『大正の青年と帝国の前途』とも深く関わっていただろう(221)。

 なぜならば、司馬はこのとき「歩いている忠三郎さんの表情が暗くなり、度のつよいめがねだけが、凍ったように光っているのをあや子さんは見た」とし、彼女が自分の夫を「ただの気のいい呑気坊主とは見ていなかった」と続けていたからである(「伊丹の家」)。ここで司馬が「呑気坊主」という少し文章の流れとは違和感のある単語を用いているが、実は蘇峰の『大正の青年と帝国の前途』には「大正青年は、八方を見廻すも、未だ嘗て日本帝国の独立を心配す可く、何らの事実を見出さざる也」とし、「亦た呑気至極と云ふべし」という表現が用いられていたのである。

 そして蘇峰は、このような精神のたるみは「全国皆兵の精神」が、「我が大正の青年に徹底」していないためだとし、『教育勅語』を「国体教育主義を経典化した」ものと評価しつつも(215)、「尚武の気象を長養するには、各学校を通して、兵式操練も必要也」とし、さらに「必要なるは、学校をして兵営の気分を帯ばしめ、兵営をして学校の情趣を兼ねしむる事也」と記していた(293)。

 一方、小学校時代から「とにかく、あらゆる式の日に非常に重々しい儀式を伴いながら、教育勅語が読まれた」が、その意味が分かりにくかったとした司馬は(*28)、「太平洋戦争の戦時下にみじかい学生時代を送った」が、「そのころから軍人がきらいで」あったが、それは「どういう学校のいかなる学生生徒にも好意をもたれなかったはずの学校教練の教師というものが予備役将校で、たえず将校服をきていたことと無縁ではないかもしれない」と記していた(「律のこと」)。こうして、蘇峰が主張した「学校をして兵営」となすという教育方針は大正から昭和にかけて徐々に実現していったのである。

 

 この意味で注目したいのはタカジを中心に描いた「阿佐ヶ谷」の章で、司馬が「大正がおわる一九二六年からその翌年の昭和二年にかけての一年余が、タカジにとって重要な青春であった」とし、「かれらの詩の同人雑誌である『驢馬』ができ、一年余で全十二冊を出し、いさぎよく終刊になった」と記していることである。そして司馬は、「『驢馬』とその同人たちは、「タカジの生涯にとって一塊の根株のようなもの」であり、「さらには、同人の中野重治を知り、これに傾倒することによって革命運動の徒」になり、「悪法とされる治安維持法違反」で逮捕されたと続けている。

 そして司馬はこの前年の一九二五年(大正一四年)に制定された「治安維持法」を、「国体変革と私有財産制否認を目的とする結社と言論活動」に関係する者に対し、国家そのものが「投網、かすみ網、建網、大謀網のようになっていた」とし、「人間が、鳥かけもののように人間に仕掛けられてとらえられるというのは、未開の闇のようなぶきみさとおかしみがある」と鋭く批判した。

 治安維持法と同じ年に全国の高校や大学で軍事教練が行われるようになったことに注意を促した立花隆の考察は、この法律が「革命家」や民主主義者だけではなく、「軍国主義」の批判者たちの取り締まりをも企てていたことを明らかにしているだろう(*29)。すなわち、軍事教練に対する反発から全国の高校や大学で反対同盟が生まれて「社研」へと発展すると、文部省は命令により高校の社研を解散させるとともに、「学問の自由」で守られていた京都大学の「社研」に対しては、治安維持法を最初に適用して一斉検挙を行ったが、後に著名な文化人類学者となる石田英一郎が、治安維持法への違反が咎められただけでなく、天長節で「教育勅語」を読み上げ最敬礼させることへの批判が中学時代の日記に書かれていたとして不敬罪にも問われていたのである。

 そして立花隆は京都帝国大学法学部の教授全員だけでなく助教授から副手にいたる三九名も辞表を提出し抗議した「滝川事件」にふれて、滝川幸辰教授に文部大臣が辞任を要求した真の理由は滝川教授が治安維持法に対して「最も果敢に闘った法学者だった」ためではないかと推定している。

 二・二六事件の頃に青年時代を過ごした若者を主人公とした長編小説『若き日の詩人たちの肖像』の著者である堀田善衛などと一九九二年に行った対談では司馬も、同人雑誌『驢馬』にも寄稿していた芥川龍之介が一九二七年(昭和二)に自殺し、その後でこの雑誌に係わっていた同人たちが「ほぼ、全員、左翼になった」とていることを指摘して、「そういう時代があったということは、これはみんな記憶しなければいけない」と続けて、「国家」の名の下に青年から言論の自由を奪い、学校を兵営化することの危険性に注意を向けた(*30)。

 しかし、大正の青年に「戦争への覚悟」を求めた蘇峰は、「忠君愛国は、宗教以上の宗教也、哲学以上の哲学也」として(284)、「日本魂」育成の必要を説き、「然も若し已むを得ずんば、兵器を以て、人間の臆病を補はんよりも、人間の勇気を以て、兵器の不足に打克つ覚悟を専一と信ずる也」と記したのである(293)。

 そして蘇峰は『教育勅語』の徹底とともに、「錦旗の下に於て、一死を遂ぐるは、日本国民の本望たる覚悟を要す。吾人は此の忠君愛国的教育に就ては、日本歴史の教訓に、最も重きを措かんことを望まざるを得ず」と主張していた(319)。

 このような教育によって学徒出陣を強いられた若き司馬は、ノモンハン事件について「ソ連のBT戦車というのもたいした戦車ではなかったが、ただ八九式の日本戦車よりも装甲が厚く、砲身が長かった」ことに注意を促し、「戦車戦は精神力はなんの役にもたたない。戦車同士の戦闘は、装甲の厚さと砲の大きさだけで勝負のつくものだ」と書き、「ノモンハンで生きのこった日本軍の戦車小隊長、中隊長の数人が、発狂して癈人になったというはなしを、私は戦車学校のときにきいて戦慄したことがある。命中しても貫徹しないような兵器をもたされて戦場に出されれば、マジメな将校であればあるほど発狂するのが当然であろう」と結んでいたのである(*31)。

 ここではこのような事態を生み出した「皇国史観」の担い手であった徳富蘇峰を直接的には批判していない。しかし、吉田松陰を主人公とした長編小説『世に棲む日々』(一九六九~七〇)のあとがきで司馬は、「日本の満州侵略のころ」、自分は「まだ飴玉をしゃぶる年頃だったが、そのころすでに松陰という名前を学校できかされ」、「国家が変になって」くると、「国家思想の思想的装飾として」、「松陰の名はいよいよ利用された」と続け、「いまでも松陰をかつぐ人があったりすれば、ぞっとする」と記していた(*32)。一方、蘇峰は日露戦争後に改訂した『吉田松陰』(一九〇八)において、「松陰と国体論」、「松陰と帝国主義」、「松陰と武士道」などの章を書き加えていたのである(*33)。

 しかも司馬はここで、「松陰という名が毛虫のようなイメージできらいだった」ときわめて感情的な表現を用いていたが、自作では司馬が松陰を明るいすぐれた教育者として描いていることを想起するならば、「毛虫のようなイメージ」は、改訂版の『吉田松陰』において、松陰を「膨張的帝国論者の先駆者」と規定した徳富蘇峰とその歴史観に向けられていたと言っても過言ではないだろう。

 実際、『大正の青年と帝国の前途』において蘇峰は、白蟻の穴の前に硫化銅塊を置いても、蟻が「先頭から順次に其中に飛び込み」、その死骸で硫化銅塊を埋め尽し、こうして「後隊の蟻は、先隊の死骸を乗り越え、静々と其の目的を遂げたり」として、集団のためには自分の生命をもかえりみない白蟻の勇敢さを讃えて、「我が旅順の攻撃も、蟻群の此の振舞に対しては、顔色なきが如し」とする一方で、「蟻や蜂の世界には、彼の非国家文学なきを、寧ろ幸福として、羨まずんばあらず」(320)と記していたのである。

 司馬は「尼僧」の章で、日本の修道女が「布教ということを看板に、親日感情をもたせよう」としてカトリック国のフィリピンに送られることになったときの修道女となった妹たえに対する忠三郎の思いやりを描くとともに、「統帥権という超憲法的な機能を握ることで満州、華北を占領し、やがて日本そのものを占領した軍人たちは、アジアを占領するというばかげたこと」を思いついたとして、「平和的膨張主義」を唱えて侵略を正当化した思想家や昭和初期の軍人たちを厳しく批判した。

 こうして司馬は、『この国のかたち』では拓川と同じ様に「ナショナリズムは、本来、しずかに眠らせておくべきものなのである。わざわざこれに火をつけてまわるというのは、よほど高度の(あるいは高度に悪質な)政治意図から出る操作というべきで、歴史は、何度もこの手でゆさぶられると、一国一民族は潰滅してしまうという多くの例を残している(昭和初年から太平洋戦争の敗北までを考えればいい)」と記して、「愛国心」を強調しつつ、「国家」のために「白蟻」のように勇敢に死ぬことを青少年に求めた蘇峰の教育観を鋭く批判したのである(*34)。

 

  五、記憶と継続――窓からの風景

 

 タカジは詩集『編笠』に書いた「驢馬物語」において、監房で「最初に読んだものは正岡子規全集でした。正岡子規の文章は、私をとらえて、まったく夢中にさせてしまいました」と書いた。このことにふれて司馬は、「子規の場合、その写実論は晦渋な評論用語で語られるべきものではなく、自他に対する異常なばかりの正直さという平らかな言葉で言い切ったほうがそれにふさわしい」(「子規旧居」)と書いた。

 そして司馬は、タカジが非合法生活のころに兄の基一と会って父の死を聞かされて「青山のほとりをひそかに兄と歩みいたるに父失せぬと云う」と記すとともに、その基一が正岡忠三郎と出会った時に、「弟のやつも困ったもんだ」と軽い調子でいったところ、「いいじゃありませんか、ひとつ家からお坊さんが出れば九族が天に生きるといいますから」と小気味いい笑顔で答えたという「驢馬物語」のエピソードを紹介している(「阿佐ヶ谷」)。

 さらに赤尾兜子(とうし)との対談で「ぬやまさんという人は、どうも僕はこの世で一番好きな人の一人ということになるかな」とした司馬は、正岡忠三郎を「豪宕不羈(ごうとうふき)な人で、そのくせすみずみまで面倒見のいい人」だったとし、「出家も共産主義者も同じようなものだとしているあたり、やっぱり子規の養子という面目があります」と語っているのである(*35)。

 このとき司馬遼太郎は、自らは業績を残さなかったが、他者の価値を認める寛さを持った忠三郎の目でタカジをも見始め、暗い昭和初期の時代に抗して新しい道を模索して、牢屋に入れられると驢馬のように頑固に節を曲げずに「十二年間、敗戦まで出てこなかった」タカジへの理解を持つようになったと思える。

 「洗礼」の章の冒頭近くで司馬は「子規全集を出したいんだ」と言ったタカジが、「忠三郎の生きているうちに一冊でも手にとらせてやりたいんだ」と切迫した様子で続けたことに注意を促した。そして、司馬はタカジが「しきりに子規の俳句・短歌を例にひき、その写生論を論じた。獄中で食い入るようにして読んでいたせいか、あまり人口に膾炙していない句まですらすら飛び出し」、さらにタカジが「子規の思想が日本に徹底しておれば、公害問題などおこらなかったんだ」、と「飛躍した」のには驚かされたと続けた。しかし、「人間の生存の基礎である土地が投機の対象にされるという奇現象」が、「大地についての不安」を生み出し、「わたしどもの精神の重要な部分を荒廃させた」と考えていた司馬がこの言葉に動かされたことはたしかであろう(*36)。

 なぜならば、入院したタカジから「病院の窓のそとは春がいっぱいで、すばらしい景色です」という旨の手紙が届いたことにふれつつ、司馬は「在獄中、タカジは、小さな明りとりの窓枠で切りとられたそとの景色にかぎりない想いをひろげつづけて、ついに自分の筆名を、ぬやま・ひろしとつけたことを私はおもいだした。野山をぬやまと読んだのは、かれが獄中で『万葉集』を読みつづけたことの痕跡のひとつである。野をぬと訓むのは『万葉集』に出てくる東国なまりに拠っている」と説明していたのである。

 ところで司馬は「阿佐ヶ谷」章でタカジが獄中で編んだ詩集『編笠』が、「窓」と題された「一寸の空さ青なり三尺(さんぜき)のみ空仰がんと窓によりふす」という「このみじかい詩からはじまっている」ことに注意を向けていた。そして司馬は「誄詩」の章でタカジが「子規の作品のなかでも、死の前年の作である、『瓶にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上にとゞかざりけり』という一首をとくに好んでいた」ことを紹介した後で、「獄中のタカジも、想念のなかで、子規の視線と合わせてきた」と続けた。

 この「窓」という用語に注目しながら、この文章を読むとき、司馬のタカジにたいする深い想いの一端が理解できるだろう。司馬もまた「敵戦車が出現した瞬間」に死を迎えなければならないような状況の中で、前方の小さな窓を見つめつつ「国家とか日本とかいうものは何かということ」を考え込み、「無敵皇軍とか神州不滅とかいう、みずから他と比較することを断つという自己催眠の呪文」によって無謀な戦争へと踏み出した日本について、もし生きて帰れたら「国家神話をとりのけた露わな実体として見たいという関心をおこした」のである。司馬もまた、戦車の閉ざされた空間で、「想念のなかで、子規の視線を合わせてきた」といえるのである。

 最初の章「電車」の終わり近くで司馬遼太郎は、忠三郎の実父が外叔父として子規の保護者的な役割を果たした加藤拓川であることを紹介するとともに、子規が「自分の死後に養子になる従弟の誕生を知っていた」とし、子規が「雀の子忠三郎も二代哉」という出生を祝う句を書いていることに注意を向けている。つまり、これらの人々の死は単なる滅亡で終わらずに、次の世代への架け橋となっていることが強く意識されているのである。

 この小説の終章では忠三郎の死だけでなく、もう一人の主人公「タカジ」の死も記されているが、それにもかかわらずこの小説が持つ明るさは、死が「終わり」ではなく、記憶することにより「継続」へと変わることが示されているためであろう。

 「洗礼」の章で司馬は、忠三郎の生きている間に『子規全集』の「最初の一冊でも手にとらせてやりたいんだ」と語ったタカジの思いについて、「かれにとってこの地上でもっとも敬愛している人物が、生涯なにごとをしたわけでもないままに、一期を()えようとしていることに、激しい感傷をもっていた」とし、病院での「忠三郎が死んでたまるか」という彼の叫びを記している。

 その叫びは「生涯なにごとをしたわけでもない」が、子規全集や蘆花全集をとおして司馬に、明治の文学や思想への関心を起こさせてくれた父是定への司馬の内面の叫びとも重なるものでもあっただろう。その父も忠三郎やタカジの後を追うように亡くなっていたのである。すでに病気のために忠三郎の葬儀には出席できずに、彼自身もまもなく死ぬことになるタカジの「誄詩」を司馬が最後に掲げているのは、タカジの忠三郎への想いをとおして、司馬自身の父への想いも重ねられているように見える。

 「死ぬということは/もう会えないということだ/それから上でもなければ下でもない/だから悲しいんだ。…中略…/忠三郎よ/おまえの顔はどんな顔でも/俺たちの胸にしみついている/どんなでも思い出すことができる/俺たちが生きているかぎりおまえも生きている」

 藤沢周平が「一人一人が光って立ち上がって見えてくる」と絶賛した『ひとびとの跫音』という作品は、一見地味だが、ここには司馬の先人への深い感謝の念と共に、次世代への熱い想いが秘められているのである。

 

  六、司馬遼太郎の憂鬱――昭和初期と平成初期の類似性

 

 このように見てくるとき、『ひとびとの跫音』を書いた司馬は、大正から昭和に至る時代の流れを凝視することで、昭和末期から平成に至る教育の変化との類似性にも気付いて強い危機感を抱くようになっていたといえるであろう。

 一九六九年に行われた司馬との対談で、小説家の海音寺潮五郎は孔子が「戦場の勇気」を「小勇」と呼び、それに対して「平常の勇」を「大勇」という言葉で表現していることを紹介しながら、日本には命令に従って戦う戦場では己の命をも省みずに勇敢に戦う「小勇」の人は多いが、自分の意志に基づいて行動しなければならぬ日常生活では「危険や迫害をかまわず、おのれの信ずるところを堂々と主張する」「大勇の人」は、まことに少ないとして「大東亜戦争」に際して口をつぐんだ日本の知識人を厳しく批判していた(*37)。

 興味深いのは、司馬が海音寺潮五郎の言葉を受けるように、「私は戦後日本が好きである。ひょっとすると、これを守らねばならぬというなら死んでも(というとイデオロギーめくが)いいと思っているほどに好きである」と書いていることである(*38)。このことを紹介した田中彰氏は、明治期の日本には「帝国」化することなく自立した「小国」を目指す流れもあったことを紹介して、「明治維新以来、百三十年の歴史の結実としての『日本国憲法』が『大国主義』を主張する人びとによっていまや邪魔にされはじめている」と指摘し、このような傾向に対する危機感は自分たちよりも司馬のほうが、「より切実だったにちがいない」と続けていた(*39)。

 しかし、『大正の青年と帝国の前途』において徳富蘇峰は、「愛国心」を強調することによって「臣民」に犠牲を強いつつ軍国主義に邁進させていたが、この書における「大正の青年」の分析に注目した「新しい歴史教科書を作る会」理事の坂本多加雄氏は、「公的関心の喪失」という明治末期の状況が、「『英雄』観念の退潮と並行している」ことを蘇峰が指摘し得ていたとして高く評価した(*40)。そして坂本氏は、「若い世代の知識人たち」からは冷遇されたこの書物の発行部数が百万部を越えていることを指摘して、「一般読者の嗜好」には適うものであったとしながら、蘇峰を「巧みな『物語』制作者」であるとし、「そうした『物語』によって提示される『事実』が、今日なお、われわれに様々なことを語りかけてくる」として、蘇峰の歴史観の現代的な意義を強調したのである(*41)。

 このような蘇峰の歴史観を再評価しようとする流れの中で、『坂の上の雲』では「エリートも民衆も健康なナショナリズムに鼓舞されて、その知力と精力の限界まで捧げて戦い抜いた」ことが描かれているとする解釈も出てきたのである(*42)。そして、現在「グローバリゼーション」の圧力や「テロ」との「新しい戦争」を強調しながら、「大正」を「平成」と入れ替えただけでほとんど同じ文脈で自国の優越性が語られ、青少年に対して「愛国心」や戦争への覚悟を求めるような教育改革が始められているように見える。

 たとえば、石原慎太郎・東京都知事は、「大東亜戦争の歴史的意義」を強調する八木秀次氏と行った対談では、「わが国の風土が培ってきた伝統文化への愛着、歴史を担った先人への愛惜の念」や「集団としての本能に近い情念」の重要性を強調するとともに、「もっとこの国に危機が降り積もればいいとさえ考えている」とし、「いっそ北朝鮮からテポドンミサイルが飛来して日本列島のどこかに落ちればいい。そうすれば日本人は否応もなく覚醒するでしょう」とさえ語っているのである(*43)。

 しかも、西村眞悟氏との「今こそ興起せよ、大和魂」という題名の対談で石原氏は、「司馬遼太郎さんが、『石原さん、日本人にとってはある種の観念のほうがよっぽど現実より現実的なんやなあ』と言ったことがあったけど、そういう滑稽な現象があちこちに見受けられるのが今の日本だね」とも語っていた(*44)。

 しかし司馬は「ある種の観念」という言葉で、左翼的な思想ばかりでなく、日露戦争以降の徳富蘇峰のように「大和魂」を協調することで国民を戦争に駆り立てた「自国中心的な歴史観」をも強く批判していたのである。

 たとえば、『「昭和」という国家』において「高等学校を出たばかり」の女の子が「日本という国は息苦しい」と言ったことを紹介した司馬は、「これは大きな何かを暗示していることだと思うのですね」と語っている(*45)。この時司馬は、「国際化」に対応するために個性の尊重を謳いながら、実質的には、多発するようになった青少年犯罪を「行きすぎた欧化」のせいであるとして、「権威」や「国家」への「服従」を求める「国粋」的な傾向を強めている教育のもとで、日本の国民は再び「従順な羊」になり始めているのではないかという深刻な不安を持ったはずである。

 それゆえ司馬は、「ひとつの国が単純なひとつの文化で支配されているような状態では、結局その国、あるいはその社会は衰弱するだろう」として、「自己の多様性を、なんとかつくり出さなければいけないのではないか」と記すとともに、「相手の国の文化なり歴史なりをよく知って、相手の痛みをその国で生まれたかのごとくに感じることが大事」と強調したのである(*46)。

 しかも、『坂の上の雲』を書く中で原子爆弾の投下に到る近代戦争の悲惨さを認識した司馬遼太郎は、『ひとびとの跫音』と同年に書き始めた『菜の花の沖』において、日露の衝突を防いだ江戸時代の商人・高田屋嘉兵衛に「好んでいくさを催し、人を害する国は国政悪しき故」と語らせることにより「平和の理念」が「多様性」を有していた後期江戸時代から受け継がれたものでもあることを明らかにしていた(*47)。

 実際、第二次世界大戦のあとも民族対立や大規模な紛争が続き、超大国となったアメリカが京都議定書を拒否する中で現在、温暖化など地球の環境が急激に悪化している。残念ながら、原子爆弾や劣化ウラン弾などの核兵器の悲惨さを直視する勇気のない政治家の一部からは、日本も核武装をすべきだなどという声も聞こえてくる時代になってしまった。このような時代に重要なのは、日本で生まれた「平和の理念」が、単に「理念」に留まらず「地球」という「公」を守るための「現実的な政策」であることを世界に向けて語る小さな勇気を一人一人が持つことであろう。

 

 (本稿は「司馬遼太郎の文明観」という特集に「ナショナリズムの克服――『ひとびとの跫音』考」という題名で発表した論文に、その後の時間的な経過を踏まえて訂正と加筆を行ったものである。)

 

 

 * 1 ハンチントン『文明の衝突』、鈴木主税訳、一九九八年、集英社、一八五~六頁

 * 2 たとえば、「『坂の上の雲』をめざして再び歩き出そう」というタイトルで「新しい歴史教科書を作る会」会長の八木秀次氏と行った対談で石原慎太郎・東京都知事は、日露戦争の勝利を「白人支配のパラダイムを最初に痛撃した」と評価しながら、「大東亜戦争」の正しさを教えられるような歴史教育の必要性を主張している(『正論』二〇〇四年一一月号、産経新聞社、五八頁)

 * 3 司馬遼太郎、『坂の上の雲』、文春文庫、第三巻。以下、巻数をローマ数字で、章の題名とともに本文中に記す。なお、『ひとびとの跫音』(中公文庫)も同様に記す

 * 4 高橋誠一郎「司馬遼太郎の徳冨蘆花と蘇峰観――『坂の上の雲』と日露戦争をめぐって」『コンパラチオ』九州大学・比較文化研究会、第八号、二〇〇四年参照

 * 5 中村政則『近現代史をどう見るか――司馬史観を問う』岩波ブックレット、参照

 * 6 磯田道史「日本人の良薬」『一冊の本』(二〇〇三年一〇月号)、朝日新聞社、二二~三頁

 * 7 徳富蘇峰『大正の青年と帝国の前途』筑摩書房、一九七八年、六五頁。以下、引用頁数は本文中の()の中に算用数字で示す

 * 8 藤沢周平「遠くて近い人」『司馬遼太郎の世界』、一九九六年

 * 9 小林竜雄『司馬遼太郎考――モラル的緊張へ』中央公論社、二〇〇〇年

 *10 司馬遼太郎『この国のかたち』第六巻、三二七頁

 *11 徳冨蘆花「勝利の悲哀」『明治文学全集』(第四二巻)、筑摩書房、昭和四一年、三六七頁

 *12 司馬遼太郎『「昭和」という国家』NHK出版、一九九八年、三六頁

 *13 ビン・シン『評伝 徳富蘇峰――近代日本の光と影』、杉原志啓訳、岩波書店、一九九四年、および徳富蘇峰『蘇峰自伝』中央公論社、昭和一〇年参照

 *14 立花隆『天皇と東大――大日本帝国の生と死』文藝春秋、二〇〇六年、下巻・一三五頁、上巻・四三四頁

 *15 飛鳥井雅道『明治大帝』講談社学術文庫、二〇〇二年、四七~五一頁。なお、日露戦争後の教育をめぐる状況については、高橋『司馬遼太郎の平和観――「坂の上の雲」を読み直す』東海教育研究所、二〇〇五年参照

 *16 司馬遼太郎『歴史と小説』集英社文庫、一九七九年(初出は一九六四年)、二七五~六頁

 *17 磯田道史、前掲エッセー、二二頁

 *18 科学的な装いをこらした西欧近代の「自国中心的」な歴史観に対するドストエフスキーの批判については、高橋「『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』第四章参照(刀水書房、二〇〇二年)

 *19 関川夏央・成田龍一「(特別対談)『ひとびとの跫音』とは何か ある大正・昭和の描き方」(『文藝別冊 司馬遼太郎 幕末・近代の歴史観』河出書房新社、二〇〇一年、四〇頁、四八頁

 *20 樋口覚「歌のわかれ、英雄の陰に魅かれて」『司馬遼太郎 幕末・近代の歴史観』(『別冊文藝』)、一八三頁

 *21 青木彰『司馬遼太郎の跫音』、三六八頁

 *22 宇野田尚哉「成立期帝国日本の政治思想」『比較文明』第一九号、行人社、二〇〇三年、二六頁

 *23 鹿野政直「ナショナリストたちの肖像」、『陸羯南・三宅雪嶺』、(『日本の名著』第三七巻)、中央公論社、一九八四年、一一頁

 *24 陸羯南「国民論派の発達」、前掲書(『陸羯南・三宅雪嶺』)、一二四頁

 *25 同右「創刊の辞」、二三一~二頁

 *26 ドストエフスキー兄弟が掲げた「大地主義(土壌主義)」については、高橋『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』刀水書房、二〇〇二年参照

 *27 松永昌三『福沢諭吉と中江兆民』中公新書、二〇〇一年、一四七~八頁

 *28 司馬遼太郎「教育勅語と明治憲法」『司馬遼太郎が語る日本』第四巻、朝日新聞社、一九九八年、一六二~五頁

 *29 立花隆『天皇と東大――大日本帝国の生と死』文藝春秋、二〇〇六年、下巻、四一~五一頁

 *30 司馬遼太郎・堀田善衛・宮崎駿『時代の風音』朝日文芸文庫、一九九七年、四二~四四頁。昭和初期の日本とクリミア戦争前のロシアの類似性については、高橋「司馬遼太郎のドストエフスキー観――満州の幻影とペテルブルクの幻影」『ドストエーフスキイ広場』第一二号、二〇〇三年参照

 *31 司馬遼太郎「軍神・西住戦車長」『歴史と小説』、集英社

 *32 司馬遼太郎「あとがき」『世に棲む日々』第四巻、一九七五年、二九四頁

 *33 米原謙『徳富蘇峰――日本ナショナリズムの軌跡』、中公新書、二〇〇三年、一〇五頁、一〇八頁

 *34 司馬遼太郎『この国のかたち』(第一巻)文春文庫。なお、このような偏狭な愛国心を煽ることになった戦前の英語偏重教育の問題点については、高橋「司馬遼太郎と梅棹忠夫の情報観と言語観――比較文明学の視点から」『東海大学外国語教育センター紀要』第二四輯、二〇〇三年参照

 *35 「空海・芭蕉・子規を語る」対談者・赤尾兜子『日本語と日本人』中央公論新社、一九八四年

 *36 司馬遼太郎 「あとがき」『対談集 土地と日本人』、中公文庫、一九八〇年(初出は一九七六年)。   なお、高橋「司馬遼太郎の福沢諭吉観――「公」の概念をめぐって」『文明研究』第二二号、東海大学文明学会、二〇〇三年参照

 *37 海音寺潮五郎・司馬遼太郎『日本歴史を点検する』講談社文庫、一九七四年、一二七頁

 *38 司馬遼太郎『歴史の中の日本』、一二三頁

 *39 田中彰「<雑談『昭和』への道>のことなど」、前掲書(『「昭和」という国家』)、二三九頁

 *40 坂本多加雄『近代日本精神史論』講談社学術文庫、一九九六年、一二九~一三六頁

 *41 同上、二八九~三一四頁

 *42 藤岡信勝『汚辱の近現代史』徳間書店、一九九六年、五一~六九頁

 *43 石原慎太郎・八木秀次「『坂の上の雲』をめざして再び歩き出そう」『正論』二〇〇四年一一月号、産経新聞社、五〇頁、六一頁 

 *44 石原慎太郎・西村眞悟「今こそ興起せよ、大和魂」『諸君!』二〇〇二年七月号、文藝春秋、三〇頁

 *45 司馬遼太郎『「昭和」という国家』NHK出版、一九九八年、一八四頁

 *46 同上、一八二頁

 *47 高橋『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』のべる出版企画、二〇〇二年、第四章~終章参照

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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高橋 誠一郎

タカハシ セイイチロウ
たかはし せいいちろう 評論家 1949年 福島県に生まれる。

掲載作は2004年の『異文化交流』第5号に掲載したものに、訂正、加筆したものである。