最初へ

死者との對話

 死者は生きのこった人の記憶のなかにしか生存できないという。人の記憶は時とともにうすれて、やがて死者も生きのこった人の記憶に存在することが難しくなるであろうし、生きのこった人自身、この世を去ってしまう時が来るが、その時死者がこの世にかけた願望や精神はどうなるのであろうか。

 和田稔君。

 君の戦死したのは(昭和)廿年七月廿五日で、君の死を知ったのはその年の暮のこと、ちょうど二年前である。出陣の前月まで月に二回僕の家に集った二十數名の諸君のうち、戦歿したのは君一人、比島へ()った岩見君が行方不明のほか、他の諸君はみな無事に復員した。あれから二年間、世の中は騒々しく、生活はあれて、お互に動物のように自己の生存を(まも)るのに血眼で、復員した諸君にも会う機会がほとんどない有様で、君を(とむら)い君のいこう場を胸のなかにもうける余裕もなかった。

 つい数日前、新聞の広告面に、A誌の執筆者名のなかに、大きく君の名を発見して、胸をつかれ目を疑ったが、珍らしい君の姓名に同名異人がある(はず)はないと思ったとおり戦歿学生の手記としてある。彼岸(ひがん)から呼びかけられたようにまちかねて、A誌が市場に出るとすぐ君の手記を読んだ。

 それは、君が十八年の十二月大竹海兵団に入団して、二十年七月人間魚雷回天の搭乗員として戦死するまでの間に、君が誠実に若い心情を()べた日録や書簡を抜粋(ばっすい)したもので、(わず)かな分量ではあるが、学徒出陣と華かに送られるうらに懐いていた疑惑を克服して、冷静に死に向うまでの君の精進が、痛いまでに感じられたが、いつか君が眼前に彷彿(ほうふつ)とあらはれて微笑(ほほえ)みかけていた。君の癖だ、眼鏡のうらで神経質に顔をしかめるような()ばたきをしながら……

 出陣する時君はわりきれない気持をもてあましていた。僕の家で諸君の壮行会をして、みな故鄕へ帰ったものと思われるころになって、君はひょっくり独りで訪ねて来られた。叔父さんの家が近所にあって、そこへ招かれて来たが、まだ早くて叔父さんが勤先からもどっていないから、しばらく話したいと、独りで訪問した言訳を、そんな風にいった。

 一高の諸君はいつも二三人つれだって来るのが習慣で、君が独り訪ねて来たのは、それが初めてでしかも最後であった。独り訪ねたのは、壮行会に集った時にいえなかったことを話すつもりであったらしく、君は戦争に懐疑的であるばかりでなくてまだ死の覚悟ができていないからと、神経質な目ばたきの癖でいった。君は死の覚悟をもつために哲学書、特に西田博士のものを一所懸命に読んだが、なにも得るところがなくて、(かえ)っていらだつばかりだったと苦笑していた。

 僕は君の心には共感したが、戦争にどう疑問を持つとも、国家の強制で()かなければならず、戦闘にのぞめば必ず戦うことに勇敢になれようし、死の覚悟も行動から自然に生ずるであろうからと、非情なことしか君に話せなかった。そして死をいそいではならないといましめることが精いっぱいだった。覚えているかしら、その時君はいった。

「死を前に純粋な心でこれほど切実にもとめるのに、何もこたえてくれない哲学というものは、人生にとってどんな価値があるでしょうか。それは日本の哲学者はほんとうに人生の不幸に悩んだことがないので、人間の苦悶から哲学をしなかったからでしょうか、それとも哲学というのは、生や死の問題には関係のない学問で、学者の独善的な観念の体操のようなものでしょうか」

 僕は答に窮して、フランスに遊学時代に会ったことのあるベルグソンの話をしたのを思い出す。

 つい一ヶ月ばかり前に、東海の或る都市で講演したことがある。僕といっしょに、西田博士を想うという題で、博士の愛弟子の一人が講演した。講演後、山ぞいの古寺の書院で座談会を催したが、集ったのはその都市の高等学校の生徒がおもだった。学生の質問は主として若い哲学者に向けられたが、学生諸君は敗戦後の混乱のなかに、生活の秩序をもとめ生きる希望を得ようとして、みなひたむきに哲学、特に西田哲学を読んでいるといっていた。しかし、その哲学は学生諸君のひたむきな心にはこたえてくれないといって、うったえていた。哲学を理解するのにはそれだけの準備がいるのだろうが、西田哲学の難解はその準備が足りないためではなくて、人生の苦悩の上につくられた哲学でないばかりか、表現も一般人の理解できないものをつみかさねているが、これは、哲学が本質上凡人の縁のない観念的な遊戯であるからだろうかと、次々に若い哲学者に質問した。

「哲学は実生活にすぐ活用できる応用学ではないから──」

「僕たちが哲学にもとめるのも、そんな手近なことではなくて、生死の問題にかかるようなものをもとめるのです」

「それは宗教にもとめるべきだろう──」

「先生はさっき西田哲学は世界に出してはじない哲學だというように話しておられましたが、日本人の僕達が必死に読んでも、読後少しでも生き方を変えるようなものを与えられずに、ただ脳神経のくんれんをしただけの印象を受けるのですが、それでも世界の人を動かし得るのでしょうか」

 そんな問答を聞きながら、ふと僕は最後に君が訪ねて来た時のことを思い出したのだ。

 君の戦死以來、それが初めて君を思い出したのかも知れない。高等学校の学生は十一月というのに、みな夏のしもふり服を着て栄養の足りない顔できちんと坐り、真剣な面持を僕達の方へ向けていた。諸君が僕の家に集った時にも、やはり高等学校時代であったが、もっとゆとりがあった。この若い人々が諸君が死に(おもむ)く時と同じ不安と焦慮で生に向っていることに、僕は感動したから、君を思い出したのであろうが、あの時君に話したように、僕に向けられた質問ではなかったが、ベルグソンのことを話してみる氣になった。

 ベルグソンの哲学について、僕が知識があるのでもない。諸君と同じ青春時代に、西田博士の「善の研究」とともに、ベルグソンの創造的進化を精読したこと、大学時代にソレルの社会思想の勉強からベルグソンがソレルに与えた思想的影響について調べてみようとしたことがあるぐらいのものだ。それが、パリに遊学中に同じ研究室の同僚のラバスール君に、偶然のことからこの哲学者の家へつれて行ってもらったことがある。

 ラバスール君はベルグソンの門弟の一人であったが、僕はまだ若くて、全く恥ずかしいことだが若さの無遠慮や傲慢から、この偉大な哲学者に一度会っておきたいという好奇心しかなかった。

 その訪問については、記憶もほとんどうすれたが、この哲学者が深山の湖のように静寂な顔に、仄々(ほのぼの)とするほどおだやかな光のような微笑をたたえて、主としてラバスール君の話を聞いていた様子が、親しみをもって今でも眼前にうかんで来る。

 話題の中心は、ラバスール君や僕の研究していたデュルケームの社会学に於て、社会事象を集積して、そのなかからどうして当為が生ずるかという問題であった。それはある秋の午後で、哲学者の広い書斎であったが、全く思いがけない時にドアがあいて、若い婦人がすうっとはいって来た。婦人が美しくて顔色の蒼白であるのも、印象的であったが、その婦人は立ち上って黙礼したラバスール君を黙殺して、哲学者の前へすすみ、金属的な声を発して、哲学者に大きな紙を示した。その声は頭のてっぺんからでも出るような奇声で、声というよりも音で、意味をなさなかったから、僕はとびあがるばかりに驚いた。

 哲学者は少しも動ずることなく、その紙を眺めた。紙は数枚あったが、どれにも多くの女のデッサンが描いてあった。哲学者は一枚ずつていねいに見ては、ゆっくり批評したが、婦人は哲学者の顔を穴のあくほど激しい目で眺めながら聞いていては、大きくうなずいているばかり。哲学者の表情は、夕日が深山の湖面にさしかかったように輝いて、ゆっくり批評する言葉の一つ一つに愛情をこめていた。

 僕は感動にふるえながら、この異様な二人を眺めた。批評の言葉も、專門的であったが、ここはずっとよくなったとか、ここはやっと解決したねえとか、はげましを加えて、最後に、さあ勇気を出してもう一踏張(ひとふんば)りだといって、その婦人を送り出した。僕はそれでやっと婦人が白のガウンを着ていたことに気付いたほど茫然(ぼうぜん)としていたのだが、哲学者は僕達に、

「娘がデッサンで長い疑問がやっと解けたと喜んで見せに来ましたから」

 と、詫びて、すぐに又もとの静寂な様子で話題にもどられた。

 しかし、僕はその時の感動で心が動揺して落着をうしなったが、哲学者の家を辞してから、その婦人が哲学者の独り娘で、唖者で、彫刻をしているのだと、ラバスール君から、聞かされて、ますます感動をゆすぶられたものだ。

 哲学者からの帰途、ラバスール君の行きつけのキャフェによって休んだが、僕はその感動をいろいろな言葉で友に語った。それ等の言葉はみな忘れてしまったが、ベルグソンの哲学のなかに、独り娘が唖者であるという人間的な不幸が、影をとどめていない筈はなかろうと、話したことを覚えている。

 ベルグソンの哲学自身難解ではあるが、いろいろ卑俗な日常性のなかに面白い引例をたくさんして、理解させようと努力しているスタイルの平易さは、唖者の娘に話して、唇を見ているだけで理解されるようにという父性愛からうまれたのではなかろうかとも話した。

 若い者の無躾(ぶしつけ)な言葉で、今考えれば穴にでもはいりたいと思うが、実は、僕も東海の高等学校の生徒のように、日本の哲学書の難解に辟易(へきえき)した経験があったから、哲学者という者は、我々のような平凡人とはちがって、観念だけの世界に安住している超人だと思いこんでいたからだ。ラバスール君は僕の言葉を笑いながら聞いていて、最後にいった。

「哲学がその表現のために難解だなんて意味をなさないよ。元来哲学はソクラテスが街々で若い凡人と対話したことからできた学問じゃないか」

 僕はその時、ラバスール君に自分の考えていることを伝えられないような焦慮を感じたが、考えてみると、学問のあり方や学問と大衆との関係などが、日本とフランスとでは相違があったので、ラバスール君と僕とがちぐはぐな感じであったのもやむをえないことだろう。

 手取早(てっとりばや)くいえば、日本では、学者にとって大衆は唖の娘であろうが、学者は頭から唖だときめて、唖の娘にも分るように話そうと努力してくれないのだ。そして、学問も結局は唖の娘に理解させ、唖の娘を一人前の娘に育てることであるが、それを忘れて、学問のメカニズムにばかり心を奪われて、それを学問だとしてしまう。それ故、唖の娘はいつまでたっても一人前の娘にならず、不具な娘にとどまってしまうのではなかろうか。

 君が出陣の直前最後に訪ねてあんな風にうったえた時、僕は唖の娘のなげきとして聞きとるとともに、唖の娘として見すてた学者に対する(いきどおり)としても受けとったから、あのベルグソンの話もし、日本人の不幸であるとして、君や僕が唖の娘だという立場で話したことを今もおぼえている。その時、君はあの癖のまばたきをして眼鏡のうらに涙の粒をごまかした。僕は君の涙の意味がよく分らなかった。今も分らない。

 しかし戦争がすすむにつれて、僕たちの日常生活も苦しくなったが、僕は君や僕も唖の娘であるとしていたが、実は、西田博士ばかりでなく、僕や君をふくめてすべての日本の知識人が、大衆を唖の娘にしていたために、唖の娘に復讐されるような不幸な目にあっていることに、おそまきながら気がついたのだ。学者や芸術家など、あらゆる知識人が、現実からはなれ、現実に背をむけ、凡俗を軽蔑して、自己の狭い専門を(とうと)いこととして英雄的に感情を満足させている間に、一般の大衆はもちろん、軍人も政治家もかたわな唖の娘になって、知識人の言葉も通じなくなって、知識人を異邦人扱いするところから、日本の悲劇も生じたが、知識人は復讐を受けるような不幸にあったのではなかろうか。

 

 ……そうだ、君が回天によって第一次出撃する直前ではないか、二十年五月三十日の日づけの短信がおくれて僕のところへ届いた。

 その頃僕は戦災にあって、信州の高原に疎開していた。今度発表せられた君の手記には、翌六月一日に書いたみごとな文章があるが、それには従容(しょうよう)として死に赴く精神がりんりんと高鳴っている。出陣して一年半で、それまで成長した君を、今もいろいろ想像するのだが、それよりも、死の決行をする前日僕を思い出したことに感慨深いものを感ずる。というのは、君は出陣後、その短信の他には十九年の春の鎌倉の絵ハガキに、日曜日に鎌倉の桜を見物に出たことと、目が近いので飛行機の方ははねられて船の方にまわったことだけを、書いて来たきりだから。

 僕は君に通信しなかった。君ばかりでなく諸君にご無沙汰した。

 ソロモン海戦後、海軍省に呼ばれて、一年間艦上生活をするように命ぜられて、病身であるからという理由で拒んだことから、軍からにらまれていた故、僕の手紙が諸君にとどくことで、諸君に迷惑をかけてはならないと怖れたからだ。実際には迷惑をかけなかったかも知れないが、戦局が不利になると、あらゆる面が神経質になった。君は消息のない僕に、最後の瞬間、遠く手探りするようにして、祈願の詞を送ったのであろう。

「先生、ご健勝でしょうか。長生きして、いい仕事をして下さい。それをのみお祈りしています。万感の想をこめて、稔」

 そう読んだ時、君が人間魚雷で出撃するとは知らなかったが、衝撃をうけた。その頃僕の日記をしらべてみると、君の詞が着いたのは六月二十七日であるが、君が永遠の別れとも遺言とも思って書き送った詞であり、すでに戦死したのであろうと、家内中ではるかに黙祷(もくとう)をささげた。日記をしらべていて気付いたが、その頃、僕は毎日下痢(げり)がつづいて、腸結核になったのではないかと(ひそ)かにうれえている頃で、長生きどころではなかった。

 五月廿五日に罹災(りさい)して、高原の山に疎開したが、主食の配給が少なく、野菜や魚の配給もなくて、野草をあさって飢をしのいでいたが、野草は下痢するものだ。

 僕は疎開するとすぐ開墾をはじめたが、高原は野菜の成育がおそく、知りあいの百姓に頼んでも、食糧になるものを()けてくれる農家は一軒もなかった。闇買いすることもまだ知らないままに、野芹(のぜり)をつみ、にわとこやあざみの芽など、食糧になるものはみな採って食膳に供したが、何しろふだん人口の少ない高原の部落に、疎開民が蝟集(いしゅう)したのでついには食糧になる野草が附近の野山になくなってしまった。

 僕のところは、ご存じのように家族六人で、それに、諸君のうちの一人K君が、病氣のために軍隊を解除せられて、どうした訳か、勤労動員で僕の家のある小山の麓の佐久木工に来ていて、僕の家に止宿していたから、七人家族で、しかも、食べざかりの子供等に満腹感でも与えて、食べたい、という言葉を封じようと考えて、野に出て近所の山羊のつないであるそばで、じっと山羊の食べる野草を観察して、それを採って帰ったこともある。たしかに山羊の食べる野草は毒草ではなく、青臭いけれど人間にも食べられたが、僕の腹にはあわないらしく、ただ腹のなかをすどおりするに過ぎなかった。しかし、子供等には兎の食べる野草でも、空腹よりはましらしく、下痢もしなかったが、三番目の茶目な子供は、こんなに草ばかり食べていて兎のように耳がのび出したらどうしようかと、真面目臭(まじめくさ)って心配したものだ。

 こんな不幸に堪えるのには難しくはなかった。それは近所の疎開者がほとんどの家庭でも同様であったから。ところが、君の短信を受けた二週間ばかり前に、僕の部落に異変が起きた。

 君は僕の山の家を知らなかったね。国際避暑地として有名なK町から、四五(キロ)はなれた山のはざまに、H温泉と呼ぶ鉱泉がある。家庭的ではあるが、おそまつな旅館が一軒あるきりだが、入湯好きな日本人らしく、その鉱泉を中心に二百軒ばかり夏の家が集っている。元來夏だけの家であるが、十九年の秋ごろから疎開者があって、その頃には、一軒に二家族はいっているところも珍しくはなかった。

 僕の家はその旅館の前の小山の上にあるが、K君の動員している佐久木工は、その温泉宿の主人の経営で、旅館から三百(メートル)とはなれていなかった。

 とにかく、そこに集った人々は食糧難に苦しんでいたが、毎日温泉に浴することができるのを、唯一の幸福と思い、入浴をたのしみにしていた。ところが、或る日、午前中の入浴が禁止された。理由はK公爵が前夜その旅館にとまったので、公爵が帰るまでは、何時(いつ)公爵が入浴するか分らないからと、公爵が宿泊したということを自慢しながら説明した。

 温泉の主人が自慢したのももっともなことだったろう。何しろ、K公爵といえば、東条が首相になるまで幾回も総理大臣をつとめたことがあり、位人臣をきわめ天皇のご信任も厚く、日本の希望のように国民も仰いでいたのだから、その公爵がむさぐるしくて客蒲団に(しらみ)がいたなどと不当に噂される旅館に、宿泊するというのは鶴が掃溜(はきだめ)におりたようなさわぎにちがいなかった。

 ただ僕達が不審をいだいたのは、公爵が広壮な別荘を四粁ばかりはなれたK町に所有しているのに(かか)わらず、四五日おきに必ずそのそまつな旅館へ来て宿泊し、その都度(つど)、入浴禁止になることだった。

 しかし、その秘密は長くたもてなかった。元来その温泉附近の夏の家は、その旅館主が財政の不如意な時代に、いろいろな縁故で無理に土地を売りつけられた者が多いが、戦争末期になって旅館主は佐久木工その他様々のおもわくで一儲(ひともうけ)したので、夏の家へ疎開の目的で集って来ては、以前の関係をたてに、食糧や燃料の世話まで持ちこまれるのは、迷惑千万だという様子があった。その態度に疎開した人々は不平で、ややもすれば苦情をのべるのだが、旅館主は或る時、

「今は時代がちがってK公爵から愛妾をたのまれてあずかるような身分になった」

 と、自慢らしく打明けてしまい、

「日本財閥の岩崎家の家族が、旅館の六畳の座敷におって、自ら飼っていた犬よりもそまつな食物で我慢している世の中になったのだから、普通の人は生きていられればそれだけで満足しなければならない」

 と、いうことまで加えたので、K公爵のお妾が温泉にいるのだという噂は、疎開者間へ怒りの速度をもってひろまった。

 旅館には、背が高くていつも色めがねをかけた若い美人が、最上の部屋を占領していた。

 それが公爵の愛妾だとすぐ知れわたった。公爵はK町の別荘に疎開していて、時々愛妾のところへかようのだが、その都度、温泉は公爵の専用になって、多くの人々が入浴禁止になるのだから、不平も出た。特に、息子や良人(おっと)が戦死したり、罹災した人々は、すでに公爵を戦争責任者であるとして、その公爵に眼前で面白くない真似を見せられては黙してはいられないといきまき、公爵を面罵(めんば)してやると待ち構えていた者もあった。

 公爵はずばぬけて背が高いから、微行でも見破るぞとかいう者もあった。しかし、それもひそひそ私語するだけで、大声を出したら、意味もなく敗戦論者だとして、検挙せられたかも知れない。

 愛妾は散歩もした。二階の欄干(らんかん)によっていることもあった。公爵の秘書だという背の高い紳士がよくいっしょで、公爵だろうかと噂された。

 公爵は朝は珈琲(コーヒー)とトーストパンだとか、愛妾はチョコレートが好きだとか、今夜はビフテキだったとか、旅館の賄方(まかないかた)からの放送が、その日その日の献立(こんだ)てがすぐ四方にとんで、特に、女湯などでは口やかましく噂されるとみえて、僕の娘なども、温泉からもどると、Kさんのお妾は今日は何と何を食べたそうだと、はしたないことをおくめんもなくいう始末。兎と同じように野草で腹をみたしていた子供等には、トンカツだとかチョコレートだとかトーストパンだとか、みな天国のものであったろう。そうした天国のさまざまな食物が、K町の別荘にいる特殊な人々には、警察署長が手配して配給せられるということでもあった。

 僕の家から佐久木工に通勤していたK君が、こんな有様を()忿怒(ふんぬ)したのはいうまでもない。しかし、その憤は腹におさめて涙を拭っているより他になかった。K君は戦場にあって刻々戦死している諸君を想って、己の怯懦(きょうだ)をいつも恥じていたが、K君には他に生き方もなかった。

 その頃、K君と僕は二三駅はなれた御代田へ勤労奉國隊として強制的に動員させられた。朝五時に(くわ)を持って駅へ出て、一番で御代田駅へ行き、そこから三四粁山へはいって、軍人の監督のもとに山腹へ無数にトンネルを掘る仕事を課せられたのだ。附近の村々から動員されたのであろうが、毎日、男女数百名が、鍬とモッコと天秤棒(てんびんぼう)という(およ)そ原始的な道具をもって、堅い土質の山にすぼりのトンネルをほって、それを軍は最後の勝利のために使用するのだというのだ。

 その土木工事が、僕にどんなに(つら)いことか想像してくれ給へ。特に、毎日野草で下痢がつづいて、衰弱していたのだから、鍬をかついで三四粁山路を歩くだけで疲れきって、いざ作業にかかっても、モッコをかついだりする力はなかった。

 附近の農村からかり出される農婦はみな丈夫で、一尺掘ることはそれだけ日本の勝利に近づくかのように熱心で、見ていて氣持いいほど身軽に働くのだが、僕やK君が男のくせになまけているのが目障(めざわ)りだといって、非國民だとか、意気地なしだとか、口ぎたなくののしり、監督の伍長にいいつけるのだ。

 僕達はなまけるのではなくて、農婦のように体力がつづかないから、休息、と軍隊式に伍長の発令のあるのが待てなくて、時々天秤棒や鍬をたてて空を見ることがあったのに過ぎない。僕達は体力を(おもんぱか)るあまり鍬を持って、土を掘り出すような恰好をしていなければならない時もあった。休息、と号令が出ると、その場で地べたに寝ころんで、すぐ仮眠してしまうほど、僕達は空腹と過労だった。

 こんな場合人間はいやしい動物になるものらしく、僕は農婦達がひらく弁当が、重箱にいっぱい白い飯であることや、大きなのりまきの握飯が十数箇あることを横目でみやり、その一つでも食べたらもっと腹に力がはいるだろうと、いやしく考えたものだ。僕もK君も弁当といったら、種いもの残りのような馬鈴薯のふかしたのが二箇あったり、野草をたっぷりいれたふかしパンが二(きれ)あったりした。

 こんな状態では、命がつづかないので、時々欠勤して休養するのだが、そんな非国民には主食の配給を停止するといって脅迫した。これが二ヶ月つづいたら、僕は完全にのびたであろうが、一ヶ月半ばかりで、この作業から放免せられた。しかし、それは他の困難が待ち構えていたからだった。

 そのころ戦局が不利で、K町に疎開している所謂(いわゆる)日本の指導階級の見透(みとお)しでは、K町附近も爆撃をまぬかれなく、敵は本土に上陸して進撃するであろうから、その準備をしなければならないということで、信州の奥地へ再疎開のために家を探したり、町のあちこちに防空壕をほったり、指導階級という人々は、県知事から許可証を作らせてトラックに家財をはこび出させるというさわぎに、僕達の部落も急に落着をなくした。

 旅館の主人が疎開者を集めて、時局談をして、各戸に防空壕や火叩きやバケツの用意をするようにと訓示である。

 僕達は東京で同じことを二三年もさせられて、それが実際には何の役にもたたなかった苦しい体験があるので、ちがった方法を講じようとするが、ちがった方法がないからするのだときつい命令で、違反者は非国民だといって、各戸点検するしまつ。その訓示するのには、同じ住民で、退役の陸軍大将閣下が、国民服で上座にひかえていた。

 それに加えて僕達の部落は落葉松(からまつ)地帯で、秋にでもなってから爆撃せられれば、山火事が起きるであろうが山火事の惨害はとうてい都会人の想像も及ばないものであるといって、色々巧みにその怖ろしさを誇張して話し、ともかく軒から十間以内にある樹木はさしあたりすぐ伐採(ばっさい)するようにと忠告した。

 その頃には、K公爵の愛妾という婦人も、新に疎開する土地に、公爵と下検分に自動車で出かけたとか、信州の松代に地下大本営が造営せられて、すでに陛下もお移りになり、K町に疎開せられている皇太后様もそちらへ移られる用意をととのえられたとか、噂がとんで、僕の家では軒に近い落葉松を切りたくてものこぎりがなくて不安なうちに、やっと佐久木工から職人が來てくれたが、五十年以上の落葉松をどんどん切り倒して、工場へはこんで行ったが、その木材がどう処分せられたか、所有者の僕には話がなくて、爆撃せられれば山から高原一面の火に化するであろうと(おど)かすばかり。庭へ防空壕を掘ろうとしても、火山灰で崩れやすく安全感がなくて、子供等はどうせ死ぬなら東京へ行こうといい出した。

 僕も家族五人つれて焼けあとへ去ろうかと迷い出した。僕の焼あとには、あの小さい書庫が焼けのこった。友人の小田さんが焼あとに壕舎をつくって神田から移り住んでいた。書庫はコンクリートで上下ともに六畳はあろうから、六人の家族が雨露をしのげる筈であった。焼あとでもう空爆される心配がないからではなくて、山の家をとりまいて吠えかかるような人間からのがれ、曠野のような焼野の真中で親しい者だけかたまって、飢えるもよし、上陸軍に捕われるもよし、もうあくせくせずに静かに運命の手にまかせようと決心したのだが……

 

 ……こんな経験をなぜ君にくどくど語ったのか。僕達のなめた不幸が戦争から生ずる不幸であるよりも、僕達日本人の人間としての低さから生じた不幸であったことを、君にいいたいばかりだ。

 みんなで避けようとすれば避けられる不幸だった。それに苦しめられながら、僕はあの唖の娘のことを思いつづけた。西田博士ばかりではなく、日本には多くの善意を持つ偉い学者や芸術家や思想家がおろうが、この人々がみな仲間同志にしか通用しない言葉を使って、仲間のために仕事をして来たので、日本人は唖の娘としておきざりされて、民度をたかめることもできなかったが、これはそうした知識人の裏切りであったと、最後に君にあった日に憤ったのだった。

 しかし、僕は不幸をなめながら、僕自身もその裏切人の一人であったことを意識して、唖の娘から復讐せられるものとして、甘んじて、不幸を堪えた。僕だけではなく、君がいたらば、君をもまたその裏切人の中へ数えいれたかも知れない。

 東海の高等学校の生徒達にベルグソンの話をした時、当の学生諸君をも西田博士の側に入れて、僕は唖の娘のことを話した。

 学生諸君は深刻な表情をして、高邁(こうまい)な思想をもとめているが、凡人を軽蔑して、家に帰っては母や妹とも友人に語る言葉では話さないのだから、恐らく君は一高時代の生活を省みてうなずいてくれるだろう。

 同じ言葉を使わないことは、いつか思想を同じくしないことになって、外國人同志のような滑稽な悲劇が起きる原因になる。そうだ、君に極東裁判の法廷を見せたいと思う。日本では、陸軍は陸軍の言葉を、海軍は海軍の言葉を、外務省は外務省の言葉を、陛下の側近者は側近者の言葉といふ風に、めいめいちがった言葉を使っていて、他の者を唖の娘扱いしていたので、お互に意思が疎通しなかった滑稽を暴露している。

 誰も戦争をしたくはないが、その意思がお互に通じあう言葉がないから、(はら)をさぐりあっているうちに無謀な戦争に突入して、戦争になってみんなあわてたが責任がどこにあるのか、分らないといいたい様子だ。おかしなことだ。国民はもちろん太平洋戦争のころには戦争に飽いていたから、日本人全体が同じ言葉を使っていたらば、戦争にならなかったかも知れない。

 敗戦後、僕達はその過失に氣付いた筈だ。敗戦後は君の想像を超えるような不幸を日々なめているが、これとて、僕は唖の娘に復讐されているものとして我慢し、今度こそ唖の娘を一人前の娘として育てなければと考えている。あらゆる分野が他の分野を唖の娘として扱って無視して来たのだから、敗戦後は唖の娘同志の叫びあいや誤解や争いやその騒々しい混乱といったら、お話にならない。

 敗戦後、民主主義ということが流行しているが、すべての唖の娘が口をきき出して、しかも同じ言葉をどの方面に向っても話すということでなければ、民主主義も戦争中にいくつも掲げられた標語と同じことだろうと、.僕は心配している。

 君の世代の人々もすでに文学の世界で仕事をはじめたようだ。立派な作品を発表している者もあるが、みいちゃんはあちゃん、太郎くんはもちろん、大衆を唖の娘としてうちすてて、やはり同じ仲間の言葉でしか物を書いていないようだ。

 君は長生きして、いい仕事をするようにと、回天で出撃する日遺言のように、僕に詞を送ってくれたが、そのいい仕事とは、唖の娘にもわかるように努力して唖の娘の言葉で書きながら、なお芸術的な作品であると理解している。君の手記はA誌に掲載せられたものの他に多くを、友人達の手で、一本にまとめて世に送られると聞くが、両親に宛てた手紙や日誌である関係もあって、決して仲間だけの言葉で書いてはないが、読む者の胸をゆすぶり、そこに君の精神をのこし、君のいのちを植えつけて行くのであるから、僕も唖の娘を対手(あいて)にしたからとて立派な仕事ができない筈はない。

 そう、そう、忘れるところだった。十九年十月九日の手記に、君は書いている。

「この頃私は、時々女の夢を見る様になった。大竹は勿論、武山でも夢といえば、食物か家の夢しか見なかったのだが、身体と気分が楽になって、そろそろ私にも男性としての本来がもどって来たのかもしれない……」

 女のことを書いてるのはこれがただ一回ぎりであるし、長い師弟関係の間、君が女のことを僕に語ったのもただ一回ぎりだった。

 壮行会でみんな集った時、諸君は出征前に会っておきたい人々の名を次々に挙げて、女流作家に会って行きたいが誰がよかろうかと、冗談らしく僕に質問した。僕はその時宇野女史の名をあげた。その少し前に、出征している夫を思う妻の手紙という形式で愛情にみちた美しい小説を発表していたし、人柄といい薔薇のようなきれいな印象を諸君にのこしてくれるだろうと考えたからだった。次に野上(弥生子)女史の名をあげた。諸君に理解ある母を感じさせるだろうと考えたからだった。殺伐たる戦場で、諸君が遠く故国を想う時に、宇野女史も野上女史も諸君の胸をあつくはげますような印象をきざんでくれるだろうと信じたからだった。

 その時、僕は諸君に誰も紹介状を書かなかったが、諸君は紹介状はなくても、どんな人物の門をも叩くフリーパスを持っている様子であったから、必ず二人の(いず)れかを訪ねるものと思っていた。ところが、君は最後に独り訪ねて来た時にいった。

「先生、宇野千代さんに紹介状を下さい。女を訪問するに紹介状がなくては失礼でしょう」

 僕は、うん書くといいながら、紹介状を書く前にいろいろ話しているうちに、ベルグソンの話になり、その果てに、君は訳のわからない感動に涙をこぼして、それがてれくさくもあったのだろうし、又、叔父さんの家の晩餐の時間がとうにすぎたのを気付いたのであろう、あわてて帰り支度して、紹介状のことも忘れて帰って行ってしまった。出征前に宇野さんを紹介状なしに訪ねたのであろうか。あの翌日、紹介状をわたさなかったことに氣付いたが、もうおそい気もして苦にした。帰還したらばおつれすればいいだろうと、家人は簡単に僕を慰めた。君が戦死しようとは考えなかったのだ。

 今日も君の手記の十月九日の手記まで読んで、はっとして、紹介状をわたさなかったことが、またしても悔いられた……

 それにしても、人間魚雷とは、悪魔の仕業のように怖ろしいことだ。それを僕達の唖の娘はつくりあげて、それに、君があれほど苦しみぬいて神のように崇高な精神で搭乗して、死に赴いたのだ。

 君の手記は、その悲劇を示して僕達に警告している。僕達がまた唖の娘にそっぽを向けていたらば、僕達は崇高な精神に生きながらまた唖の娘のつくるちがった人間魚雷にのせられて、死におくられることが必ずあることを。

(昭和二十三年十二月)

 

 

沼津市芹沢光治良記念館

 

 

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2001/11/26

背景色の色

フォントの変更

  • 目に優しいモード
  • 標準モード

芹澤 光治良

セリサワ コウジロウ
せりさわ こうじろう 小説家 1897・5・4~1993・3・23 静岡県駿東郡(現・沼津市)に生まれる。第5代日本ペンクラブ会長 ノーベル文学賞候補 フランス政府文化勲章コマンドール受賞。

掲載の「死者との對話または唖の娘」は昭和23年3月「社会」に初出、以後繰り返し全集等に掲載さる。底本は筑摩現代文学大系54に拠る。

著者のその他の作品