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大鷲

     

――社長、村井代議士からお電話でした、なんですか、是非お会ひしたいつて申しまして、中の三百三番にお電話をいただきたいと。

――社長、東京へ行かれるさうですな、お立ち前に決裁していただきませんと。

――社長、中央バスの重役会が来週の火曜日と言ふ通知がありました、自社(うち)のも月曜日になつて居りますし、中部機械の方もたしか火曜日でしたが、それまでにお帰りを願つて。

――社長、第三工場の拡張工事の見取図ができましたので、一応お目にとめておいていただきまして。

 藤田社長が藤田毛織物会杜の社長室に、葉巻をくはへて現はれると、社長附きの秘書が背のびして、厚い毛の外套を脱がせる前に、もう、広尾秘書課長や吉田会計課長や横田庶務課長等が、どやどや二階に駈けあがるやうにして、われ勝ちに、銘々の分担事務の報告をする、社長がそれを好むのだが、社長のある處には、常に騒々しい雰囲気が醸されてしまふ。特に、多くの会社の社長をしてゐるが、藤田毛織は株式会社と言ふものの、藤田社長個人の所有にも等しくて、社長も我家に帰つたなどと言つて、寛ぐのだが、社員も亦株式会社の社員であるよりも、藤田個人の使用人と言つた調子で、社長が他の会社を看廻つて帰ると、用がなくても集つて来る。

「村井代議士か、解散前で又軍資金のことだらう。電話はかけないでもよろしい。……忙しくて、十分以内に出発だ。本宅へ電話を掛けさせて……うん? これは先週の製品表か――」

 社長は社長椅子にどつかり掛けるより先に、すぐ事務に取りまかれる習慣である。

「バスの重役会か、出席の通知をして置き給へ。それまでに帰るかつて、明日のことは明日にならなければ解らないよ。……下の応接間に、山田つて靴屋が待つてる筈だが、上げてくれ。電話か、忙しい奴だ――うん、奥さんは? 婦人会だつて、又か、困つた奴だ、お嬢さんは? さう、東京へ行く時のいつもの鞄を持つて、すぐ来るやうにつて、解つたね。……君、工場の拡張工事の見取図は、旅行中に緩り研究するから、預かつて置かう。……山田君か、うん、君の親爺はよく識つてゐる。中央電鐡(うち)の轉轍手で、真面目に働いてくれてね。靴屋を開店したつて? よしよし、お祝に今穿いてゐるのと、同じのを作つてもらうかな、皮も型もね、友達甲斐に価は高くしていいぞ。……おい、君達もこれから、山田君の靴を穿くんだな。山田君、顧客は作つてやるから安心して、立派な靴を作るんだ、いいか。……広尾君、××銀行の頭取の返事はなかつたかね、矢張り。又電話だつて? 村井代議士か、困つた奴だ、どれ――村井さん、失礼しました、十分以内に出発しますよ、忙しくて、話が簡単ならばお待ちしませう。……うん足をはかるつて? よろしい、勝手に計つてくれ、いたいた、痛い、脚に針をとほしては困るよ、山田君」

――社長、又リユウマチスですか。

「リユウマチなんてやつてゐられないよ、困つた脚だ。山田君、この靴は東京の××で作らせたが、この通り穿きよく作らんといかんぞ、序に課長さん達の足の寸法も取つて帰り給へ。……横山君、藤田毛織の方は、これから一ケ月は汽車に乗つたつもりで、僕に相談なしに、前月通りに製造して、前月通りに売つて行け、忙しいんでね。村井代議士先生、面倒な話を持つてくるのだらう、中央バスと循環バスの合併問題だらうかな。……吉田君、決裁書つて云ふのはこれだけかね、君を信用して、読んで見なくてもよからう。山田君、まだ居たのか、いや待ち給へ、下の会計に電話をかけとくから、靴の代を好きなだけ前金をもらつて行け。――うん現金出納系へ、中村かね、山田と云ふ靴屋が行くから、請求額だけ払つてやれ――」

 藤田社長の注意は、散漫に見えるほど、思ひがけない方面に四散する。受話器を取ると思ふと右に話しかけ、左と打合はせるかと思ふと決裁書に印をする。その話題も、藤田毛織に関する事務ばかりではなく、社長をしてゐる中央電鐡の秘書にも飛び、中部機械の技術をも論じ、中央バスのお客の数をも計算すると云ふ始末に、各課長は緊張して応へるつもりが、ただおろおろ立つて、社長に厭倒せられたやうな、情けない恰好になつてしまふ。

「――廣尾君、村井さんが来るならば、その前に、眞野や平津に電話で打合はせておかんといかんな。……吉田君、今夜、中央電鐡の部長連が○○局の役人を中屋に招ぶから、君も出席して、よく監督してくれ給へ、新しい事務官はなかなか堅藏らしいが、将棋自慢ださうだから、特に注意してなア。廣尾君、眞野もゐない? 平津も上京中だつて? 肝心な時に用の足りない奴等だ。鳴呼忙しい、家内を電話に呼び出してくれ」

 眞野も平津も、藤田社長が資金を提供して、代議士になり、藤田のからくる糸にあやつられて、藤田の事業に、隠れた腕となり脚となつて働くが、何れも上京中であるならば、村井代議士の意外な訪問の目的を予め知る術がない、特に、××党の支部長である村井氏がわざわざ訪ねて来るやうな場合に、こちらに利益になつた験がない。待たずに、出発してもいいのだが、鞄がまだ届いてゐない。

「――電話? うん、鞄は? もう持つて出たつて、よし、奥さんがどうしたつて? 兵隊を送つて駅に行つて、こつちに廻はるつて? 馬鹿、鞄さへ来ればそれでいい。兵隊について満州へでも好きな處へ行け。困つた奴だ。……村井さんだつて? よしよし。……やあ暫らく、さあどうぞ、僕は忙しくて、いいや、十分以内に出掛けなければならないんで、これは自社の者で、遠慮はいりません。……さうですか、矢張り解散ですか、議会も時々解散がないと沈滞しませうで。廣尾君、中央電鐡に自動車を廻はすやうに言つてくれ。……それで村井さん、さうですか、とんでもない、僕に立候補する意志がないかつて? 冗談を言つてはいけません。……僕は商売人ですよ、政治は政治、商売は商売、商人が政治に関係したら、堕落しますよ。……なに? 娘が来たつて? よろしい、待つてゐた、とほしてくれ。……村井さん、長女です、廿四ですが、そのお話より、どこかいい嫁の口は有りませんか、女子大学を出まして、僕とは異つて才女です、インテリつて言ふのでせうかね。本ばかり読んでゐるのが、欠点ですが、器量はご覧のやうですし、一つお頼みします――」

 登和は村井代議士に黙礼したが身の置きどころに窮して、鞄をさげたまま、窓側にずり寄つて、じつと父を凝視した。艶々としまつた顔に、白髪を丁寧に分けて、嗚呼黙つて唇を閉ぢてくれたら、どんなに立派であらうに! と村井代議士の禿げて、のつぺらした性欲的な表情に較べて、それが惜しいが、ふと見上げた父の目に睫もなく、平生の卑しい濁りを見て、口をついて溢れるやうな、汚れた言葉も当然なことに思はれる、肥つて逞ましい骨格が、爛れたものの塊のやうで、こちらの体までぞくぞく悪寒が伝はる、目をそらせば、灰色に汚れた白壁には、ところかまはず、各関係事業会社の事業成績の表が、べたべた貼りついて、どこからも、そら利潤だ、そら利益だと呼びかけて激励してゐるらしく、父の笑を混へた濁つた話を反響する、穢はしいことだ、そつと外に抜け去りたい。

「――僕のやうな商人は算盤を持つて、あくせくして、損をしてゐるのが任務ですからな。立候補なんて、もつてのほかです、まあその案は引込めて下すつて。……如何です、いつ御上京です。今晩?……僕も今度は総裁に会つて来ますがね。登和子! そこに掛けなさい、村井さんがわしに代議士になれつて言ふんだよ、代議士に。××党で公認するつて、あははア、代議士になつた方が、お嫁に行く條件が立派になるかな。……廣尾君、どうだね、みんなここだけの話だぞ、いいか。――村井さん、貴方に靴を贈りませう、僕のと同じのを。おい、山田はまだ下に居るだらう。僕の会社に四十年もゐた男の息子ですが、東京の××より上手に作りますから、失礼ですが、穿いてみて下さい。――どうした、お前も来たのか、まるで家族会議だなア、これでは。――家内です、村井さんだ。……うん東京に行く、忙しいんだがね」

 秋子夫人は黒紋付に、胸に小さい日の丸の徽章をつけて、息をはづませてゐる。愛國婦人会の幹事会に出席してゐて、家からの電話を受け、もう四日間妾宅から帰らない良人ではあつたが、満洲出征の軍人を駅に見送りに出て、急いで駈けつけた。気の早い良人が、一時何分かの急行で出発してしまつた後かと慌てたが、社の前に、緩り走しる大型であることから馬車と市内で呼ばれてゐる良人のパツカードが、狭い道路に横付けになつてゐる、遅参したことを、いつもの調子で、呶鳴りつけられるだらうと、階段を草履が脱げさうに駈け上ると、村井氏や娘の登和が良人の前に控へてゐる、よかつたと安堵したものの、突嵯に言葉をなくして、黙つてただ頭をさげるばかりだつた。

 それに、村井氏は良人が紹介するまでもなく、お互によく識合つてゐるばかりか、例へば市内の知名な家の結婚式などには、殆ど常に、一緒に招待せられて、しかも、同じメーンテーブルに就かされるやうな間柄であるから、何気ないやうにしろ、紹介したことが、何かの意味がありさうで、用心しなければならない。良人は一つの仕草にも、必ず計算がある、さう取らなければ、屹度後で失敗を詰じられる結果になるが、さて、この場合、どんな計算があるのか、娘から答案を暗示されたいが、登和は、立候補を××されたことに有頂天になつたのだと推測して、益々父が穢はしく、見るに堪ゑないとばかり、そつぽを向いて、応えない。一体娘はどうして普段着のまま出て来たのか、羽織ぐらゐ着換えてくれればよかつたのに、あれほど言つても、白粉気なしに、さばさばした顔で、こんな場合にも出歩く、困つたものだが、あの頭の中には、どんな想念(かんがへ)が蓄へられてあるのか。秋子夫人は失礼して、娘の横に席を移したが、登和は土でできた人間の如く硬い表情を動かさない――嗚乎、いつも黙り勝で、娘の胸がのぞけない、良人は良人で、発散するやうに言葉が多いが、肝心な心を滑べらせてしまふし、「――山田君、村井さんのは念を入れて、立派にして、お届けするんだ。なに? 電話だつて? もう社長は出発したよ。……いいや、どうも失敬しました、そのお話は、又解散にでもなつてから熟考するとして、それより、娘のことを頼みますよ、出発前で失礼して――」

 秋子夫人も周章てて、村井代議士を戸口に送つて出たが、藤田社長は自席に戻ると、前の安樂椅子を引き寄せて、両脚を載せかけるなり、暫時、額に皺をたてて考へ込んでゐる、その静粛な容子が、夫人には、いつもの癖の、訳の解らない憤りを爆発させる前のやうで、却て不安で、良人の顔をみまもつたが、突然、びつくり飛び上るほど大声で、笑ひ出すのだ、「代議士なんて、どだい無茶を言ふもんだなア。廣尾君、もう三時の特急より他にないが……止むを得ない……判を押すものはないかな。なければ出掛けるが。中部機械の長見君に、三時にしたつて、電話で言つてくれ、今度は長見君が一緒だ、退役陸軍中佐殿がお供ならば、こんな時勢でもまあ安心だらうでなア。……その前にバスへ寄るかな。まだ時間はあるが。ああなんだ、お前達もゐたのか、登和子は顔を磨かんといかんぞ、うん? 不景気な顔をして、金はわしが稼ぐ、心配しないでうんと使ひな、女学校の教師つて恰好は止めろ、わしは嫌ひだ――」

 秋子夫人は、途方もない良人の笑声が、村井代議士に、背後から浴びせかけたやうに、聞きとられたらばと身顫した。用談の内容は知らなくても、村井氏は神経質に上衣の襟を、幾度もなほしたが、指先が顫えてゐた、唇を喰ひしばり、異様に輝いた目を据ゑて、普段の派手な顔に、憂愁な皺がかげつてゐた、そして、送つて出た時に受けた白々しさは、老代議士が激怒してゐたからであらう、良人が又敵を作つたのだらうか、村井氏は政党の支部長であるばかりではなく、一地方新聞の経営者であるのにと、溜息が出る。登和も亦父の言葉に憤つたやうに、立つて窓の外を向いてしまつたし、夫人は何とか良人を宥めなければならないが――

「村井さんには、母の会などで御厄介になつてばかりゐまして――」

「今度は登和子のことで厄介になるか、あははア、あれの写真はもうないか、うん? 綺麗にして写させて置きな、商工大臣に会ふから頼んで来る、忙しいことだ。……ねえ、廣尾君、親爺は辛いぞ、長男は純文学だなんて理屈をこねて、四十になつても、わしの懐をねらつてゐるし、君、純文学つて読んだことがあるかね、昔の女郎の手紙そつくりだね、解り切つたことを綿々と書いて、読んで見給へ、次男はわしの片腕のつもりで得意らしいが、どうして金ばかり使つて、おまけに足手まとひになるしさ、見ちやゐられんよ、長女ときたらお姫様のやうに空ばかり眺めてゐるし、奥さんは婦人会だ、兵隊だつて、金を撒いて歩くしさ、僕一人が稼がなくちやならんわい。……さあ出発だ。いたいた、痛い、リユウマチなんかやつてゐられるかい。……お前はどう思ふな、わしが代議士になつたら? さうか、お前が代議士夫人になるか……ははア、お前が代議士夫人か。……箔がつくか、あははア」

 

「お前はお父さんをお送りしないのかね」

 登和は玄関に雪崩れるやうに送り出る人込みに混つて、母の自動車にそつと乗つて目を閉ぢたが、母はさう咎める、何も彼も騒々しくて厭だ、厭だ。

 社長は月に二三回、社用で上京するのだが、課長達は洋行でもするかのやうに、その都度、駅まで見送りに出る、見送る回数で、忠勤の度を計られる惧があるからだらう、機械のやうに整備した会社組織では、課長達の能力が個人の成長となつて、目に見えない、成績は社長の気紛れな主観に刻みあげられる目盛に出る、俸給も手当も地位も、その目盛によつて動揺する――さう思へばこそ、登和は、社員達を気の毒で見るに堪えないのだ。立派な鬚を蓄へた廣尾秘書課長は、柔道三段の法学士だと言ひ、家には三人の子供があつて、給士のやうに父に尾を振つてゐる、眼鏡をかけた吉田会計課長も、よく八事山の屋敷に来て、二段と言ふご自慢の将棋を、わざと何回も父に負けて、微笑む時の、あの卑劣な調子を、会社に来てまでしてゐる、あの禿げた横山課長も同じである、みんな、藤田社長万歳と、それこそ三唱して送り出しかねまじき容子だ、嗚呼穢らしいことだ、しかし、これとて父のせゐである、思慮の足りない父が立派な人々をこんなにしてしまふのだ――

「なぜお父さんをお送りしないね?」

「お母さま送つたらいいわ」

「おつねさんが一緒だつたら、気の毒ですからね」

「だから、お母さまも御一緒に東京へ行つてあげればいいのよ」

「そんな、辱しいことができますか」

 ふとい金鎖を胸にだらりさげて、妾のおつねを連れながら、多くの社員に取りまかれて傲慢に、落着かない恰好で汽車に乗り込む父を想像するのは、登和には堪えられない風景である、お父さんの馬鹿!

「さうだね、そんな普段着では、駅には行かれませんね、私が無理にそんな風をさせておくやうに、人さんは取りますよ、もつとおやつしをしてくれないと」

「お母さまの質素だつてこと、誰でも感心して褒めてますわ」

「お母さんは別ですよ、お父さんがあんな風な方ですから、かうしてゐなければ、世間にすみませんが、お前はこれからお嫁に行くのだから――」

 車は混雑した塵ぽい裏街を分けるやうにして緩かに走つてゐる――勿体ない、藤田さんの奥さんでも、あんなに質素な風をなさるのだから、みんな倹約をしなければと、この裏街の人々は、藤田の会社か工場に関係のある者が多くて、病人や怪俄などのあつた場合に、秋子夫人が地味な容子で、気軽く見舞に来るのを、殆ど皆さう感激してゐるし、新聞にも、良妻賢母であるとして幾回も、称揚せられてゐるけれど、登和は此頃、それを褒むべきことどころか、恥ぢてゐる。大鷲が地に下りて荒し廻はるやうな父の所業を、母までが世間の眼を晦まして助けてゐるのではなからうかと、美徳とされてゐる母のとりすました行爲に、疑惑を持ち始めた。貧乏な頃を忘れては罰があたると言つて、髪結をも呼ばずに髪を束ね、黒ぽい衣裳をつけて、婦人会や母の会などあらゆる婦人の慈善団体で、我を忘れて働いたり、父の妾ともさも仲睦まじさうに往来して、妾腹の子供を当然のことの如く引取つたりするが、結局は世間相手のさもしいお芝居に思はれる、その証拠に、世間では父を非難する者はあつても、母を崇めない者は殆ど絶無なほど、その効果があがつて、母の美徳を臆面もなく父に称へる者も多く、その場合に、普段は母の人格などてんから無規して認めない父が、満足し切つた容子で、それを聞いてゐて、「うん、あれは女丈夫で、僕も安心してゐられるし、感心してゐます」と微笑するが、その時の父の毒々しい表情は、登和には、父に関する総ての愉しい記憶を消してしまふほど憎いものだ。

「お前が綺麗にしてゐてくれれば、私も嬉しいのだよ、お父さんだつて――」

「藝者のやうにお化粧をさせたいのよ、近頃は売物として、虚飾をさせたいのですわ」

「私の娘の頃は、帯一本でも新しいものをして喜んだのに、どうして、お前は娘らしくないでせうね」

 母には解らない、話しても仕方ない。子供の頃、人形を貰つても、人形が本当に自分のものではなくて訪問客のやうに帰つてしまひはしないかと心配で顫えてゐたが、その時のやうに、現在も自分の所持してゐる物が自分の物ではないやうで不安でたまらない、この羽織にしても、母にはただ一枚の羽織だらうけれど、これを作るのに針を運んだ娘の目や、織つた女の痩せた手の甲や、?を飼つた農婦の後姿が目に見えて去らない、これを作つた総ての人々が自分を責める、紡いで織る音が聞える、疲労の溜息が感じられる、憎悪の声をかけられる。まして、新しい贅沢品を身につけたなら、それだけ強く鮮かに責められて、苦悩が増すばかりだ。こんなことを話したとて、父は勿論、母にも解りはしない。子供の頃、人形を貰ふ代りに自ら作つて安心したやうに、與へられてばかりゐないで、自ら創つて與へるやうな女の道はないものだらうか。

「そんなことをしてゐたらお嫁に貰つてくれ手もないだらうつて、私は心配で――」

「お妾の幾人もある人の娘なんか、眞面目な世間は相手にしませんわ」

「でも、円満な家庭だつて褒めてるのにね」

「嗤つてますわ、その円満だつてことを」

 朽ちかけた橋を渡つて、八事山の屋敷が見えて来た、それでなければ、登和は、母に代つて、父の妾に嫉妬しさうになるとは気付かずに、運転士の存在をも忘れて、もつと悪口雑言のありつたけを、吐かないではゐられないやうに、胸がもやもや燃えてゐた。

 

 しかし父の藤田社長は、妾を連れて上京したのではなかつた。関係のある数箇の会社の業務について、逓信省、鐵道省、商工省等の官廰を歴訪したり、社債の借替に関して金融業者に会見しなくてはならず、頭には事業のことがこちこち詰つて、妾宅の敷居をまたいだ瞬間に、若い妾のことも、妾と一緒に樂しんでゐる清元のことも忘れて、思慮の整理箱には、四分八厘の新社債の数字が計算器から解れたやうに一杯になるし、村井代議士を送り出すとすぐに、立候補のことに代つて、中央電鐡の電燈配給地域を×電燈会社に譲渡する案が開展する――と云ふ調子で、彼の心臓は事業、事業と鼓動してゐるらしく、停車場に見送る課長達を眺めても、個性を持つた廣尾氏でも、吉田氏でもなく、事業の各部分の表象の如く、言つて見れば、仕事の帳簿を、手離したくないやうに、列車が動き出すまでその人々を身近く寄せて置きたい一種の本能から、見送られるのを喜ぶのだが――

「社長、村井代議士がお乗りですよ」

「うん、僕は睡いから、君が相手をしてくれ給へ」

 発車まぎはになつて、村井代議士があたふた乗り込んだのを、藤田社長は厄介なことになつたと、苦々しく思つたが、長見退役中佐に委せて、自分は展望車の安樂椅子で、眠つたやうに装つて、東京まで話す機会を作るまいと決心した。と言ふのも、立候補の勧誘が、全く意外なことで、その意図や村井氏の眞意が汲めず、今、可否何れとも相手に要領を得させてはならない。熱田の森を過ぎた頃、村井代議士が早速近づいて、前の椅子に掛けたのを、長見を紹介して、長見に話しかけさせ、それを聞きながら、うとうと眠り始めた。

 しかし、実際は眠つたのではなく、さうつくろつて、独り想念の糸をたぐつてゐた――議会が解散になれば、各政党の運動費に献金するのは、習慣であるから仮令、現在では政党が政権から離れる傾向にあるにしろ、先づいつも通りの資金を提供するのは厭ひはしない、その用件ならば、簡単に話がすむことぐらゐ、村井支部長として心得てゐる筈である、それと、拗く上京する機会を掴んでまで持ちかけようとするのは、よくよくのことではなく、立候補の勧誘か、他に意味のあることであらう。特に事業に専念して、政治方面には、全く野心も、興味すら持てないと、日頃から宣伝してゐるのだから、その点充分、村井氏も承知してゐる筈だ、それに、政府の大官が、よく伊勢神宮や熱田神社の参拝に西下する場合、市の実業家が必ず歓迎会や懇談会を開催するが、それにさへ欠席して、明に政治に無関心なことを表明してゐるに拘はらず、立候補するなどとお伽噺のやうなことを、眞顔で持ち出すのは、一体如何なる所存であらう――

 藤田社長ははつと思ひあたつて、驚いて目を開けた、村井代議士の大きい禿頭がスチームのためか汗ばんで目に映つたが、注意してゐたらしく直ぐに、こちらを向いて話しかけさうになる。周章てて、さも列車の動揺に目をさましたやうに装つて再び目を閉ぢたが、さて、その時村井氏の投げた精悍な視線は、胸の蕊まで透すやうにひやりとして、突然ある時の同じ視線を思ひ出させる。

 前年の春だつたらうか、××党総裁たる商工大臣が、伊勢大神宮に参拝の帰途、名古屋駅の貴賓室で小半時間休憩して、上り特急を待合はせたことがある。藤田社長は全く偶然のやうにして、貴賓室に総裁を訪ねた。彼は明治廿年代に、一高が一つ橋の高等中学校と言つてゐた頃、この大臣の同級生であり、しかも、同じ下宿屋に一年間同居して、藤田が手車に荷物を積んで挽き、その後を大臣がランプを丁寧にささげて、神保町の下宿に移つた記憶のあるほど親しい仲である。ただ、藤田は眞面目な勉強家ではなく、吉原通ひなどをして、当時から謹嚴だつた総裁から、多少軽蔑せられてゐたが、高等中学を卒業する前に、父が死亡し、それを幸に帰国して、貧しい業務に服した、それから何十年過ぎたか、一方は一政党の総裁、大臣になつたが、藤田も亦、資本主義勃興期の潮にのつて、中京に於ける実業家として成功した。しかし藤田は、蔭から政治家を繰つても、政治家に繰られるのを極力避けるのが、実業家の成功の秘訣であるとして、この友人が総裁になつても、決して旧友である気振も見せなかつた。ところが政治家の歓迎会にも出席したことのない藤田が、ふらふら貴室賓を訪ねたのだ。

「やあ暫く、君も白髪が多くなつたね、写真よりも目立つよ」

「君がここで成功してゐる噂は聞いてたよ」

「成功つて、君がトップだらう、こんな時勢でなければ、先づ総理だものなア」

 こんな調子の会話を傍で聞いて、村井代議士は呆然として驚いた、貴賓室には秘書官や県知事等も厳粛に控へて、緊張してゐるのに、藤田は大臣の肩を叩いて冗談も言ひかねない親密さである、村井支部長は、我党の総裁と藤田社長とが、それほどの親友であることを発見して、歓喜に目を輝かした。

「藤田さんが大臣の旧友だとは存じませんでした、藤田さんは、当市では屈指の実業家、いいや資産家でして――」

「そんなに儲けたら、一つ我党に寄附してもらうかね、君」

 めつたに冗談も言つたことのない総裁が、大きい鼻腔から息を吐くやうにして、笑ふのを見て、村井支部長は、この会見を一挿話に終らせてはならないと思つたが、その考は直に、藤田に感応したらしく、彼は村井のその時の視線に、深い印象を受けたが、翌日、村井の経営する新聞に、大臣と藤田との旧友物語が、写真入りにでかでかと掲載せられたのを、渋い表情で眺めながら、その視線を思ひ出し、前日訪問したことが千慮の一失であつたと肯いたのだ、が、今また、列車の中で同じ視線を発見して愕然とした。

 それなら、村井代議士は単に自分を××党に引き入れようとするのか、事業家として、一政党に入党することは不利益の伴ふものであるが、近年の如く政党が政権から離脱した時代には、党員になつたからとて、利益も尠からうが、不利益も亦かうむりはしなからうから、入党するもよろしい、しかし自分が立候補することが村井氏にどれほどの利益があるか、××党にどれほど必要であるのか、いいや、これは公認候補と言ふ一見立派な、その実なかなかの難題を持ちかけて、何かそれ以上の面倒を要求しようとの下心があるのだらう。こちらは眞野や平津を使つてそれを探らうし、総裁にも会はふ――さう思ふと、村井代議士の執拗さが可笑しくて、危うく吹出しさうになつたのを、漸く堪えて、そつと、村井の去るのをうかがふけれど、いつかな動く気配もない、それならこちらも負けずに、東京まで眠つてやるぞと、汽車の軌りに合はせて、本気に鼾をたて始めるのだつた。

    

「早く着換をしなければ駄目ですよ、何處をうろうろしてゐたんです」

 今年の冬には珍しく暖かな晴れた日曜日だつた。登和は八事山と云はれる一帯の小松の多い自然林を取入れた広大な庭園を南に下り、丘の麓の羊毛研究所を訪ねてゐて、家から呼び戻され、帰つて日光室の方かち上らうとすると、母はとげとげしく頭からそんな言葉をふりかける。

 研究所と言つても、大袈裟なことの好きな藤田社長がさう呼ぶのだが、実は小さい一種の研究室であり、水澤と云ふ青年がただ独りで、人造羊毛の発明に専心してゐる。彼は工業大学で応用化学を勉強してゐたが、欧洲大戦当時に独逸で発明せられ、その後実用に供するに到らなかつた人造羊毛からヒントを得て、藁から人造羊毛を製造したらばと、夢のやうな希望を抱き、その考に憑かれたやうになつて、学校は追はれ、世間からは夢想家と軽蔑されて、窮乏のうちに塵のやうに惨めに埋もれてゐたのを、藤田に拾ひあげられた。藤田は屋敷の一角に、彼の希望通りの小研究所を建て、彼の註文通りの設備をして、成功する日まであらゆる物質的援助をする約束で、気永に激励してゐる――人造絹糸が実用品として、自然蠶糸を壓倒するやうな今日、人造羊毛の製造が不可能な筈はないと、堅く信じて、人造羊毛の発明が人造絹糸の如く完成したらば、県下一円に盛になつた毛織業を、わが藤田毛織会社が掌握するばかりか、牧畜業の発達する余地がなくて、毎年多額の羊毛を輸入しなければならない日本の産業界に、偉大な貢献をすることになるのだと、それこそ、藤田社長の方が、青年より熱心になつて、

「羊も草を食べて毛が延びるのだから、雑草から羊毛を創ることも必ず成功するよ、君、ただ成功を急いではいけない。根気よくやるんだ」さう肩を叩いて、時々絶望する青年を、勇気づけるつもりで、却つて絶望の淵を深くする。

「その時は全日本の軍隊が、藤田毛織の服地の軍服を着用することになるんだ、十年先でもよし、二十年先でもよし、全日本軍がわが人造羊毛の服地で出征する時のことを考へて見給へ、わしの仕事のうちで、最も大きくて社会にのこる事業になるんだ」

 こんな風に、偶に本宅に帰る折にも、必ず庭伝ひに研究所に下りて、得体の知れない薬品の臭をかぎながら、わしの秘密の娯楽室だ、道楽道場だと、称して、小半時留まつて、成功の日を愉し気に想像するが、青年が研究の過程を報告しようとすれば、その都度、急いては失敗する、成功した時に結果を聞かせてくれればよいからと遮り、元気になつて引上げて行く。そして研究費についても、これだけの大事業だ、資本がかかつても取返へす時がある、さう肚で計算して、出ししぶつた験がない。屋敷に客のある場合など、古風な庭に案内し、遠く名古屋城を見下したりして得意な容子であるが、実は、続いて自然林の中の小径を辿り研究所の窓を叩いたのだ。

「これは藤田毛織の顧問学者ですよ」と、困却して後じさりする水澤を無理に引合はせたり、「八事山の詩人です」と豪傑笑をして紹介したりするが、どの訪問客も、八事山御殿と称せられる藤田の豪奢な屋敷に驚嘆する以上に、謎のやうな青年と研究所とに、興味を持つのだ。「いいや、わしの道楽を代つてやつてくれてるのですよ、別にたいしたことではなくて」さう微笑しながら、人々を小松林の方に案内し去る藤田には、普段と異つて、慾気や金気の微塵も染まない童顔があつて、登和でさへ父を見直ほすことがある、それは、彼女が水澤を秘かに愛してゐるから特にさう感ずるのではなく、藤田は人造羊毛の製造と言ふ観念を夢か憧憬のやうに抱いて、研究所に来る度に、彼こそ詩人の如く陶然として、珍らしさうに薬品を眺め、童心に帰るのであつて、彼にとつては、この青年は夢の実現者であり、あそびの相手だつた。

 その日曜日、水澤青年が久振りに開け放つて研究所一杯に陽を入れ、窓の敷居にのつて腰掛け、煙草の煙を青空に送りながら、遠く地平線に水晶の如く連なる日本アルプスの峰を眺めて、のどかに我を忘れてゐる時、邸内電話が響いて、藤田夫人の声で、登和が行つてゐたら至急帰るようにと、きんきん催促した。受話器を掛けて、小松林の方を透かして見ると、ラクダの肩掛をした彼女が、喘ぐやうにして下りて来る。

「奥さまがお宅でお呼びですよオ」さう大きな声を送つたが、わが声の反響が八事山中に響きわたつて、こちらははつと口をおほつたが、登和は頓着なく降りて来て、泪ぐんだやうな目をあげて、「追ひかへしたいの?」と、息をはづませて詰る「電話でしたよ――誰か見てゐるかも知れないから」

「人が見てゐたらどうなの、私はもうこんな家で我慢ができないのよ」

 しかし、彼は敷居を越えずに、手を差出したが、独言のやうに、泣いてる? と訊ねた、彼女は拗ねて見せて、その手も握らずに、「一日中お休みでも外出しないでゐて下さいね、ゐるんだと思ふと気丈夫ですから」さう言ふなり、彼を不安に残して、急いで自然林の中の小径を登つて去つた。しかし、息を切らせて母屋に引返へすと、母は胸にこたえるやうな言葉を浴びせて迎へたのだつた。

「お父さんがいらつしやるつてよ、お客様をお連れして、大事な相談があるから、茶室と隣の山部屋を掃除して、中屋から料理を運ばせるのだつて――お前もお化粧しなければ困りますよ」

 登和は日光室の椅子に、庭に向いて掛けた、偶にしか家に帰らないからとて、父の帰りを、さうおろおろ騒ぐ母がおぞましい。平生、日曜日は絶対の慰安日だと称して、海辺の妾宅で、若い妾と清元か踊りのおさらひをして樂み、如何なる急用があつても、会社からも本宅からも電話さへ掛けてはならないと、堅く禁じてゐる父が、まるで風のやうに突然勝手に戻つて来て、しかも、数人の客を伴つて密議をこらすのだとは、父には重大な問題があらうが、それでは余りにこちらを無視した気儘な仕打ちと言ふものだ、それを有頂天になつて取乱してゐる母も母だが、日曜日に突然呼出された沼上執事の目を据ゑたやうな狼狽の仕方もみつともない――

「まあ、坐りこんだりして、なぜ着換えないのだね、お前が綺麗になつてゐないと、お父さんのご機嫌がよくないから。それに、お客様が若し縁談のご用でもあつたら、え? なぜ黙つてるのだね」

「なんと言つたらいいの? お父さまが家に来るからつて。お母さまこそお召換えなさる方がいいでせう」

 母はこの三四年、登和の写真をポスターのやうに配るために、婦人会や母の会に出席するやうだつたが、その間、父は笑つて、女学者が見ず知らずの男と土俵にはのぼれまいなどと、登和を前にして、顔のほてるやうなことを平気で話して、縁談を急ぐ母を取合はなかつたが、近頃では、有望な青年を見さへすれば婿にどうだらうと自然に品定するやうになつたと勢込んでゐるから、他の事業の用件の中に、娘を投機物として娘の結婚と言ふ一項をも加へてしまつたらしく、何に、簡単に商談として事務的に、決議されるか解らない。その父の計算を、せめて自分だけでも狂はせてやつて、父や母に人生について反省してもらひたい、さう登和は目を閉ぢて考に沈んだ。

 しかし、暫らくすると、藤田社長は廣尾課長と長見退役中佐とを伴ひ、未知の客を二人案内して、外から雷のやうに独りで騒ぎたてながら日光室に入り、社長室に於けると等しくまるで野原にでも立つたやうに、

「――如何です安部君、お茶をたてさせませうか、××伯爵が稀に見る風雅な茶室だと褒めてくれたが、僕はお茶は嫌ひでしてね、わが中京が、この恵まれた自然と地の利とに拘わらず、産業の発展しない所以は、実業家が、やれ茶道だの、やれ花道だのと、徳川時代の退嬰的な感情から抜けないからですよ、僕など、野人だと軽蔑されることを却つて光栄だとしてゐますがね。……家内です、こちらは長女です、又お世話を願ひます、山部屋を用意したな、山男のやうに女気抜きに、精進料理をやりませうか、安部君。……名古屋城を(みおろ)せるつて、いいや、家は住む機械だからつて、長男が大変反対しましたがね、純文学なんど道樂をやつてる奴も、時には面白いことを吐くものでして、本当にこの屋敷ももう住むのは適しない機械になつてしまひましてね。安部君は俳句をおやりださうで、長男の純文学をどうお考へですな……いいや親の僕でも読みませんからな。廣尾君、執事の沼上とよく打合はせて、山部屋の用意を急いてくれ給へ、十分以内に、忙しいんだ、誰も入れてはいかん、燗もあそこの爐ですればいいぞ。安部君、一つ丘の下の僕の道樂道場へご案内しませうか――うん? お疲れだらうからこの次にしたらつて? さうか、奥さんの命令に偶には従ふか。さうさう、又沿線で百姓が昨夜轢かれたさうだから、お前に見舞に行つてもらはなければならんだらうなア、この際、沿線の住民を大切にしなければ、あははア……道楽道場ですか、いいや、たいしたものではありません、水澤君は今日もゐるかな」

 日光室はベランダ式に造られて、最も展望のよい部屋ではあるが、ここに庭から直接案内せられて、父にまくしたてられて茫然たる二人を観察すると、いつも父の伴ふ客が悲しいことに、どこか卑しく似ている、決して、家では音楽のやうにたのしい話は聞けないのだらう、安部氏と言ふ縫紋の羽織に白足袋の六十歳前後の紳士は、蒼くむくんだやうな顔に、年齢に似合はない狡さが刻まれてゐる、他の森山君と言ふ背広の青年は、卑屈な眼指に愛嬌らしい髭が調和しない。

「――どうです、男子だけで山部屋に参りませうか。おい沼上はどうした、困つた奴だ、執事は? 要領を得ないなア、忙しいんだ、廣尾君、よく監督をしてくれ給へ、長見君、こんな場合につくづく軍隊式がいいなア、いいや君はお客様だ、今日は。沼上、用意はできたか、お客様をご案内しろ――忘れてたが、安心しなさい、商工大臣から便りがあつて、写真では気に入つたから、選挙が終り次第に見合をして話をまとめたいつてね、登和は顔を磨かせないといかんぞ、あんななりをさせて置いて――」

 最後の句を秋子夫人に囁いて、藤田も急いで一行の後を追つた、夫人はそれを見送つてぼんやり独言した、

「今日はご機嫌はいいが、安部さんて誰だらうね、密談つて何のことだらう、おかしな人達だから疑つてかかるといいけれど、お父さんは子供のやうに信じ易くて――」

「あの人達こそお父様を疑つてかかるべきですわ――それよりお母さまここにゐたら失礼よ、お父さまに又呶鳴られてよ」

 登和は庭の向ふに水澤を見つけて、急いで後の句を加へて、母を無理に山部屋の方へ送り出した。秋子夫人が山部屋に入らうとすると、執事の沼上が入口で遮つて――社長が立候補することで話があるらしいが、他日、届出前の運動と見られる惧があるから、社長は嘗て日曜日本宅にゐた験がないことにして、と、さう小声で注意する。選挙をするのか、選挙をするのかともう体中ががんがん顫へだし、不安で娘のところに引返へしたが、日光室の庭先に、水澤と登和とが親しさうに囁いてゐる、胸にこたえて、居所のないやうな苛立たしさから、若い二人が竦然と振向いたほど冷かに言つた。

「水澤さん、社長は今日も留守ですよ」

「あの、奥さま――お帰りのやうに聞きましたもので」

「貴方の、なにかの聞き違ひです、用ですか」

「社長に申上げたいことがありまして――」

「雇人も暫くゐると主人になつたつもりになるものらしいよ、お前、沼上が私に命令して、山部屋に行つてはいけないつてさ。水澤さんは社長に信用があるらしいが、気違ひじみた考を吹込まないで下さいよ、それでなくても、とんだ考が頭に一杯ですからね」

「僕が――?」

「さうです、社長は家に帰つても、研究所のことしか言ひません、人造羊毛の洋服を着る寝言を言ひますよ」

「いいえ、僕はむしろ人造羊毛の製造が一朝一夕のことではないと説明するのですが、社長は自信たつぷりに、却つて僕が自信がなさすぎるつて、お叱言でして――」

「社長が正気でないつて言ひたいやうですね、いいえ、さうですよ、会社のことは感心に立派にしてゐますが、その他のことでは、本当に子供らしいことばかりしでかしまして、研究費、研究費つて沢山なお金を溝へすてるやうな真似をしたり、今度は又、選挙だなんて、皆さんにかつがれたりしてね」

 水澤は非難されてゐる自分を感ずるよりも、藤田社長の場合を夫人に詳しく説明してやりたい欲望ばかりだつた――大実業家によくある本能のやうなものだからと支配し、成功することに慣れて、自然に自信に溢れて、新しいものを常に創造してゐなければ満足できないのだからと。新しい障害を越える悦をたのしみたいからだと。しかし、控へるようにと言ふ登和の視線を感じて、堪えたが、夫人も暫時愚痴をならべて、気を軟めたらしく、歎息した。

「私は又水澤さんが社長に信用があつて、影響力を持つてると思つてましたが――」

「それには水澤さんは貧乏過ぎるのよ、遠慮深いから駄目、お父さまは金持でなければ――」

「お前に質いてるんじやありませんよ、寒いから硝子戸をしめたらどうです」

 水澤は止むなく挨拶して去つた、若い二人の黙つて、それでゐて物を充分言ひ合ふやうな容子が、秋子夫人には神経にぴたぴたと応へて悲しかつたが、それにもまして、登和は打ち挫がれたやうに項垂れた。母が日頃慈善、慈善と口癖に云ひ、実際そのために世の誉を受けてはゐるが、慈悲がなく、心は硬化したやうに冷え切つて、豊かなもののなくなつたのを、厭と云ふほど示された、信頼にみちた母の微笑を見たことがあつたらうか、義務、義務とただ義務だけで、良人にも子供にも仕へたからだらうか――さう、登和は立つたまま硝子に顔をあてるやうにして庭を眺め、母を見まいとした。ずつと離れた山部屋から、聞きなれない癇高い怒号する声が断片的にもれて来る、利益について卑しく啀合つてゐるのだらう、耳をおほひ度いが、すぐ背後では、母が安楽椅子にうづくまつて吐息して、「私ほど不幸なものはないよ、二人しかない子供が、長男は学問にこつてお父さんから勘当同様だし、娘と言つたら何を考へてゐるのか、ろくに口もきいてくれないし、鳴呼、金持になつた甲斐もありはしない」とさも聞えよがしに、さう独言するが、こちらも、私のせゐじやありませんと叫びたいほど、胸が脹れた。

 

 山部屋と呼ばれる古風な田舎屋を思はせる鄙びた座敷で、男達は爐を囲んで、酒杯をかはしてゐたが、突然、安部は長見にくつてかかつた。

――俺はこれでも政治が生命だぞ、その俺に立候補を断念するかつて、とんだことを言ふない。自殺をしろつて言ふ気か、え? え?

――まあ大将、しづかに、しづかに、

 安部が愚かしくて、書くのもはばかるやうなことを呶鳴り続けるのを、皆が狼狽して、一生懸命に宥める。藤田は山部屋に坐ると無気味なほど言葉を節約して、長見に安部の腹を探らせたが、安部の怒つて叫ぶのを幸なことにして、黙つてじつと観察しながら、安部は金が欲しさうだが、どの位の金額かしらと、その怒り振の巧妙さうに見えて、その実、たわいないことから、案外組し易いぞと頬笑んで、自分の出る幕を待つてゐた。

 過日、藤田社長は村井代議士と同車して、居眠りながら上京した日、早速、隠した双腕のやうな眞野と平津の両代議士を宿所に招いて、村井支部長から立候補を勧誘せられた?末を語り、党の情勢や支部長の眞意を知らうとしたが、二三日してその報告に依ると――

 愛知県第○選挙区は大体反対党○○会の地盤で、定員三名のうち二名は必ず○○会から当選するに確定してゐるが、他の一名も、候補者に依つては、わが××党で獲得する自信を持たない状態である。と言ふのは、前回の総選畢に××党から選出された安部代議士は、その後脱党して、新に結成せられた國同に参加した今日、安部が第○区から立候補すれば、××党の地盤であるよりもむしろ安部個人の地盤である関係上、仮令政府党として行ふ選挙であつても、この区では、××党は全敗の憂目を見る危険が充分にある。しかし憲政の常道復帰に努力する××党としては、この総選挙は是が非でも勝利を得なければならない一戦であり、支部長は名誉にかけても、第○区で一名は獲得すべき場合であるから、先づ安部を破る策を講じなければならない、しかし、安部と票を争つて、当選の見込のあるものは、藤田社長を措いて他に考へられない。

 蓋し、藤田社長は政党に関係はないが、旧友である総裁を援助する意味で、××党に入党しても差支へない、それに、第○区は藤田の経営する中央電鐡が土地を開発したのであり、特に最近は、その中部機械が工場をこの地方に増設して、地方民を軍需品景気で潤ほして居り、政治的地盤はなくても、藤田が出馬すれば、恩義を感じて地方民は皆応援して投票するであらう。他方、藤田社長の抱負とする中央バスの合併問題や電燈地域譲渡問題などについても、××党の反対に遭へば不成功に終ることは明かであるが、藤田が公認候補を承諾すれば、党に於ても、その問題に充分な便益を与へるから、総裁に対する友情にかけても出馬して欲しいと言ふ――全く選挙費が豊富な上に、総裁を旧友に持つために、喰ひつかれたやうな形だつたが、藤田は、立候補を辞退した場合には、報復手段があるぞとにほはした村井支部長の要求が、気に入らなかつた。

「そうか、でも僕は忙しくて、代議士なんかになつて遊んでゐられんな」

「社長、今度は立候補だけはしなければいけません、あの支部長の意見では。立候補して一応顔をたてて、代議士がそれほどお厭ならば、落選すればいいのですよ」

「さうです、社長が今更代議士でもありません、そろそろ貴族院に出る頃ですからね、わざと落選するつもりで、立候補するなんて、社長でなければできない、愉快なことです」

「総裁が名古屋に寄つた時訪ねたのが、とんでもない失策だつたなア」

 特更に、さう豪傑らしい笑声に紛はしたが、肚の底では、二人の代議士を折角養つて置いたのに、こちらを窮地に陥すやうな気配が党支部にあつても、手を拱いてゐた上に、今又金主(パトロン)をなくしてはと惧れて、落選することを勧めたりするさもしい魂胆を見て取つて、秘にそれを嘲笑し、出馬した以上落選できるものかと歯ぎしりしながら、残念だが立候補すべきだらうと考へた。彼の事業の中には一種の政商の部分もあり、洗ひたてられれば、脛に必ず古傷を持つてゐるが、それを明みに出されることも怖ろしいと、バスの合併その他で今後受取る利益を思へば、選挙で五萬十萬の金を撒いたからとて、安いものだらうと、独り胸算もした。そして、「電車の宣伝したと思へば、落選しても面白い勝負だからなア」と、二人に相槌を打つてゐたから、傍に控へた長見中佐も、本気にさう思ひこみ、それを実業家らしい愉快な考方として感心したが、その時には、藤田社長は出馬する覚悟もでき、彼の心には今後の手段が一から十まで次々に用意された。

 藤田は先づ××党の総裁たる旧友に友情や恩義を押しつけておくべきであるとして、商工省の大臣室に彼を訪ね、たゞ君の友人だからとそれだけの理由で、難しい第○区から出馬を強要されてと、困却した表情で相談するやうにつくろつた、総裁は村井から話してあつたものらしく、気軽に、今回の選挙は乾坤一擲奮闘して勝利をはくする決意だからとて、援助を頼んだ、総裁に頭を下げさせておけば、後は着々実行すればよしと、宿に帰るなり、長見中佐に、安部代議士が止むなく立候補を断念するやうな方法を考へてくれ給へと命じた。

「社長は落選する目的で立候補するのではありませんでしたか」

「君も軍人じゃないか、戦争するのに最初から敗戦を予定するなんて戦法はあるまい、操典には? 選挙は政治家の職場だよ、僕は政治家ではないが、破れたさに戦場に臨むと云ふやうな卑怯な眞似はしないよ、考へても見給へ、中央電鐡の沿線で、僕がどんな理由があつても落選したとあつては、それだけで藤田の信用に傷がつく、藤田の商標がよごれてしまふ、ここは考へどころだが、それより戦はずして勝つと云ふ戦術を使つたらどうかなア、それには賛成だらう? 選挙して安部を破るよりも、安部と云ふ敵を手なずけることを考へないか、眞野も平津もあれでは立派な政治家にはなれんわい、困つた奴等だ、どうです、その策戦を実行して成功を納めるんだ、君に一手柄挙げさせるか、あははア、そしたら第○区は無投票区になるぞ。さあ前祝に実戦に出征するかな、十分以内に出発だ、偶には浩然の気を養ふのも亦よからう、眞野は野心家だ、呼んでやれ、あれは女が好きだから喜ぶぞ、あははア」

 藤田社長は長見中佐に、安部代議士の財産状態を至急調査させ、それには眞野陣笠に打開けて相談するやうに注意した。安部は第○区の小地主で、××党から二回公認せられて出馬したが、常に自前で、そのために数万円の負債を残し、相当高利のものもあるらしく、先年國同に走つたのも、金で買収せられたのだとも、債鬼の掌を脱出しようとしたのだとも、一般に観測せられてゐた。藤田は早速長見を帰国させて、二三万円見当まで、安部の債務を買取る方法を講じさせた。他方眞野には、安部に復党する意思があるか否か探らせると共に、それとなく復党することを勧告させた。眞野の報告に依れば、國同は新党を結成した当時の意図に反して、各派連合の挙国一致内閣を組織することに失敗したから、安部のやうに、最初から政綱に賛同したのでない者は、××党が政府党のやうな立場で総選挙を行ふことになつたので、私に復党を希望して運動も始めたが、脱党当時の支部との縺れもあつて、蕩児が帰宅するやうに、簡単には復党が容されさうもない状態である――この情報があつて間もなく、長見からも、安部が不動産を抵当に負債をしてゐる銀行が、藤田の一取引先であるから、その他に二万円ばかりの債権を掌に入れるのは易しいが、それにも及ぶまいと、通知を受けた。藤田はこれで何時議会が解散してもよしと、此の次には、僕もその徽章をつけて上京するわいと、見送りに出た眞野の背広のボタン穴の菊花の代議士章を珍しさうに弄つて、子供のやうに幸福に東京駅を立つた。

 藤田は友人である取引銀行の頭取りを動かして、先づ安部の負債をきびしく督促させた。銀行に抵当物を処分することが、農地であるだけに困難を伴ふからとて、規帳面に利息を払込むことで満足して、兎に角、弁済期限を延期してゐたが、安部が今度の総選挙に出馬して負債を重ねる場合には、その回収が益々困難になるばかりでなく、彼が絶対少数党たる國同に所属する限り政治的厭迫を感ずる憂も全然なく、藤田社長がいざとなれば抵当地は買取ると申込むのであるから、債務の督促をしない訳がなかつた。

 他方、藤田に好都合なことには、安部の秘書であり、選挙事務長だつた森山は、長見中佐の現役時代に、幹部候補生としてその部下にあつたことも解り、それ故、長見から森山を説かせて、立候補を断念するやうに安部を追ひこました。その結果、議会が解散になる頃には、安部は國同から立候補するのを躊躇し始めた。彼は第○区から國同公認候補として出馬すれば、一つの議席を当然に××党の公認候補と争ふ結果になるが、この場合、当落の見当がつかず、それに加へて、資金を得る途も塞つてしまつた始末なので、××党に復帰してそこから立たなければ、政治的生命が危うく感じられた。しかし、復党の希望を露骨にして、膝を屈したが問題にされず、さりとて折角の個人的地盤を放棄するのは残念であるが、何か物的代償を受け、他日立派に更生できる名目でもあつたらばと、焦慮してゐる時、森山や長見から藤田に引合はされて、この機会に巧に藤田を掴み、藤田を土台にして翔け上らうとたくらんだ――こんな訳で、晴れた日曜日に、八事山御殿の山部屋に出向いたのだが、実は藤田のかけた罠に、ぢりぢり、陥ちて来たのだつた。

「安部君、そんなに興奮しないで、まあ、聞き給へ、君が希望ならば、僕が復党できるやうにはからひませう、支部の方は勿論説得するし、総裁も僕個人で受合ひますが、如何です、ただ一つ、この際、党に対する忠誠を示してもらひたいことがあるのですがな」

 藤田は安部の怒るのを冷かに眺めて、現金を出さずに簡単に落城できると見込んで、相手の思ひがけない時に、さう言葉を挿んだが、安部は水を浴びたやうに、心に端坐して顔を見上げた。

「聞けば、銀行からは負債の督促がやかましいさうですが、この際、とても國同から出馬はできないでせうから、君の地盤を失なはないために、僕が身代わりになつて今期立つて――いいや僕には野心はない、総裁から頼まれて、友情のために一つの議席を占めてやるに過ぎないから、僕の選挙の参謀になつてくれませんか。それは腹も立たうさ、無念でもあらうさ、君の心情はよく解るが、君の利益のためにこんな提案をするのですよ。それで、君は一に地盤をつないで置ける、二に××党に対して忠誠を披瀝することにもなる。なア森山君、君も運動員として一肌ぬいて努力してくれ給へ。僕は安部君のやうな人物が、第○区から××党を代表して議員にならないのを、遺憾に思へばこそ、こんなことを言ふのだ、参謀になつたことを土産にして、次回は復党して堂々と立つさ。この回だけは、僕が君の身代わりだと思へばよく、それも、一年の我慢か、長くて四年だ。僕は選挙には素人だし、忙しいから一切君に委せる。君がこの提案に不賛成ならば、喜んで引込めるよ、強いべきことではないからね、いいや僕は別に立候補しなくてもいいのだからなア、ただ君の窮地を見るに忍びずにさ、あの区では仕事に密接な関係があるので、君のような人物を引立てて置きたいと思ふばかりで、他意はない。それを了解してもらひたい、その上で握手できますかな?」

 安部の表情には、苦しい胸の中が刻々にかげつたが、藤田はその色合を一つも見のがすまいと凝視して、効果的な言葉を探して続けたが、安部もたわいなく威厭される小鳥のやうに、藤田には感じられた。

   

 藤田社長は立候補の届出を済ませた、選挙事務所を設けた、ただ友情のために立つと美しい宣伝をした眞野を招いて強制的に経験者である彼の事務長杉を、自己の選挙事務所に据ゑた、廣尾課長を会計であるとして、杉を暗に監督させると共に、選挙法による運動費のみを扱はせた。買収その他不正の運動費は長見退役中佐が秘密に扱ひ、藤田が事業に多忙であるからとて、事務所と候補者との連絡を取ることにした。関係各会社から数人選抜して運動員とした――かうして陣営をととのへて、藤田社長は、一切選挙から離れ、ただ肝心な演説会場でのみ挨拶に立つ建前にした、それ故、藤田の参謀になる名目で、立候補を断念した安部が、自己の事務長の森山や運動員を引き具して、事務所に現はれても手の下しやうがなく、事務所の二階に、消化不良の蒼い顔に皺をよせて、終日端坐してゐるより他になかつた。

 しかし、安部は豊満な藤田の運動資金を費つて、自己の地盤を肥やして次回に備へるのは勿論、あはよくば、懐をも暖めようとの計画で胸を脹らせてゐたのに、藤田がこの選挙に流行語となつた選挙粛正の声に脅えたらしく、運動費を提供しないために、その計画が齟齬したやうな焦慮を感じた。特に、森山をはじめとして彼の子分達は、この機会に実業家たる藤田と関係を持たうと云ふ慾望に熱心のあまり、杉や長見の命令通りに、割当てられた部署に忠実について、事務所の二階で退屈らしく新聞を、開いたり、第○区有権者地図などを眺めたりしてゐる安部のところに、挨拶に上つても来なかつた。安部は杉を二階にそつと招いて、眉を神経質に寄せながら小声で言つた。

「今日も候補者は来ないかね、困るですな――君、解つてようが、選挙粛正、粛正と言つても、それは選挙の素人瞞しだ、玄人が本気にしたら失敗するぞ。大臣や名士の推薦状や言論戦などはいくら景気がよくても、花火のやうに賑かなだけですぐに消えてしまふが、最後は何と言つても実弾だからな。こんなことは君も経験者で充分承知してゐるだらうがね、ただ問題は粛正などと云ふ看板があるから、実弾の打方には技巧を要するが、まあ政府党だから、それも樂さ。どうも藤田君は、実弾の用意のない人ではないが、一体どの位、実弾を打つ気だね」

「どうも、私も聞いてませんよ、必要な時はどれだけでも出せるだらうと安心してゐますが」

 杉は探るやうに、こちらの目を見入つて、要領を得させない、廣尾を呼びあげて同じことを質問するが、「事務長はどう申しますか、私は選挙に不馴れで解りませんが」と、おづおづ逃げてしまふ、長見に話してみると、「実弾ですつて? ご安心なさい、戦争が始まれば、勿論用意しませう、私も違ふ実戦ではあるが、戦塵をくぐつて来たものですから、心配はかけません」と、非常にはつきりしてはゐるが、こちらの意を汲まうとはしない。そして、三人は顔を見合はせるやうにして、安部を避ける気配が濃厚である。

 しかし、二三日たつて、恰度、解散後、九日目の地方新聞には、藤田が立候補してから、○○会の公認候補が二名届出をしたばかりで、結局第○区が無投票になるだらうと書きたてた。実際、立候補すると噂さのあつた他の二人の者も、届出する気配がなくなつて、安部は苦り切つてゐたが、ふと、藤田社長の手が廻つたからではなかろうかと、長見の言葉から疑惑を持つた。このまま無投票区となつては、「所期の望」を一つも充すことができないばかりではなく、巧に藤田に利用せられて、しかも、藤田に恩を押売ることもできない裂目になりさうである。中立を標榜して誰かを出馬させなくてはならないと決心して、事務所には、戦況を観察すると称して、自己の地盤を廻り、安部の断念したことを不満に思ふ前の子分を煽動して、その一人を「政治を財閥の手から護る」と云ふ標語を以つて、立候補させた。藤田は無投票区にしたさに、立候補の気配のある者は、一つ一つ芽を摘むやうに、人をして金で厭へるつもりであつたが、足もとから敵が飛び出すやうになつては、堂々と戦ふに如かずと覚悟して、始めて、彼等の所謂実戦が第二区に展開したのだ。

 雪の夜だつた。登和は父の自動車が阪道をのぼつて来るのを聞いて、窓から真白な外を透して車の燈を眺めたが、下りて行かなかつた。この数日、藤田はパッカードをシボレに代へ、贅沢な毛套を脱いて普通のにして、毎晩十時頃に八事山の家に、誰かを連れて必ず帰り、朝早く一緒に出掛ける。選挙が父の生活を変化させることを、登和はたのもしく眺めて、家の中が旅館のやうに落着かなくなつたことをも我慢したが、殆ど父と顔を合はせる機会がなくなつた――今夜は誰が一緒だらう、外は雪で凍りついて持病のリウマチスでも起きはしなかつたらうか、などと、会はずに父を想像するのは矢張りこころよく、暫くして階下もしづまつてお休みだらうかと、書物を投げだして寝ようとしてゐるところへ、母が上つて来て、父が用があるから降りるようにと急きたてた。普段の洋間だらうかと思つたが、茶の間に、丹前姿の父と長見とが盃を重ねてゐるのを見出すと、羽織紐を弄つてゐた指も凍りついた如く、挨拶もできなかつた。

「登和か、お酌をしてもらうかな、うん? 本ばかり読んでゐないでお酌も稽古をしないと、亭主に嫌はれては困るからなア、さあこつちに来て、お銚子を持つたり!さあつぎな、そんなつぎ方があるか馬鹿、もう少し緩り、うん? 寒いのか、長見さんにもついてあげるんだ、君も遠慮することはないぞ」

 登和は呆気にとられて、命ぜられるままに、機械的に自然と手が動いて、顫えながらも、兎に角、見眞似でお酌のできたのが、不思議でもあり、腹立たしかつた。リユマチスや疲労を心配してゐたが、どうして、長見中佐と同じく艶々と、剽悍な動物のやうな容子で酒を飲む、これが自分の父だらうかと熟々見た。

「女中達はさがつてゐてよろしい、奥さんとお娘さんがゐれば――長見君、娘に酌をさせろ、それから早速聞かうか、例の運動員のことを。なんだ帳面に書きこんでるのか、いかん、いかん、ここで読みあげて、皆焼いてしまふんだな、焼いたら君もすつかり忘れて、誰にも渡さなかつたことにするんだ、いいな、解つたね」

 長見は小さい手帳を取出し、日を追つて金額を次々に挙げるが、藤田はいちいち点頭されながらそれを鸚鵡返へしに繰返へして、夫人と娘との記憶にも留めようとして、席に呼んだらしく、

「――なに? 十四日に安部に五百円と七百円、×町の事務所費と云ふ名目だつて? 名目は何とでもつくが、結局実弾つて云ふのだらうから、それは報告せんで金額だけでいい。十五日か、安部に又千三百円と、十三日以来これで三千五百円だな、森山に七百円、森山にはこれが最初だなよろしい、林田に千二百円よろしい、木村に千三百円よろしい、林田も木村も安部の子分だな。十六日か、安部に五千円、すると都合八千五百円か、無茶だな、森山に三百円、中村に千円と木内に三百円、この二人とも安部の子分か。吉田に千円か、会社の者ではこれが最初だな、よろしい千円、中部電鐡の秘書が千六百円、さうか、バスの中田が五百円、うん、毛織の津村が千二百円、あの津村がなア、あの津村が千二百円か、解らんものだ、十三日以来、大体二万二千円だな。十七、十八、十九の三日間は最期の実弾戦だから、一日に一万円用意しろつて? 安部がさう言ふのか、あははア、欲しいだけ渡してやれ。うん? 藤田は金持だからたかれるだけたかれつて、有権者が言つてゐて困るつて? 安部が言ふのか、さうか、それは面白い、誰にも彼にも思ふ存分たからしてやれ、藤田はそんなことに驚きはしないつて言つてやれ、あははア」

 登和はその話を聞きながら、胸の芯が暖まるやうな異様な愉しさを感じた。他人の掌から掻き集めても富を築くことしか考へないやうな父の懐から、選挙民が挙つて金を奪はふとする修羅場のやうな光景を想像すると、遂にみんなが復讐する時が来たやうな気がして、手を拍つて応援してやりたくもあり、その光景を兎に角鷹揚に眺めてゐなければならない父の顔に嗚呼楽しく笑つて慰めてあげたい、こんなことが嘗てあつたらうがか(ママ)愉快になつて母を振向いたが、長火鉢の前で、居眠つてゐる、後生のよい母だ。

「――安部が欲にかかるのは最初から解つてゐる、初めから勘定に入れてある、しかし、社長の恩を返へすために一肌脱いて働きますなんて、恩をきせながら、儲けようとする奴は罪が深いなア、儲けるのじやないつて? さあ誰に解るものか、全部有権者に渡すか、懐におさめるか、選挙違反にでもなつて検挙されて、調べられたら泥を吐く奴もあるだらう、それこそ観物だなア、実弾、実弾つて偉さうに言つてゐて、その実弾でこつちが負傷したらどうする、僕は選挙違反は真平御免だぞ、長見君は最後まで知らないと頑張る肚を今のうちから作つて置かんといかんぞ、皆腰の弱い奴が多いから、必ず君の名を出すにきまってゐるからな。でも安部の戦術は古い、もう旧時代の人間で役には立たない、選挙粛正ならば、粛正らしい戦術がある筈だ。棄権防止の名目で、僕は全部の工場や会社を有給休日にする、全体で六千人はあるかな、その八割が第○区に住んでゐるとして、四千八百票買収したとは言ふまい、あははア、棄権防止の精神から休日にするんだからなア、さあ飲め」

 登和はこの言葉に身をそがれる思ひがした、父の鷹揚に金を撒くことを喜んだが、結局、代議士に成上りたさに、有権者に一人一人法律を犯させるのだつた、父はいつも、どんな場合にも、自分の卑怯な慾望を充すためには触れる者を誰でも不幸にして恥ぢない、父の会社に勤める人、父の工場で働く人が個性を喪失し、微笑をなくしたのもそのためである――父の工場地帯などで、偶然に不幸さうな婦に会つても、鳴呼父の過失で不幸になつたのではなからうかと胸を締めつけられるが、これからは、広い第○区で会ふ人々に同じやうな不安や責任を感じなければならないだらう。長見中佐のやうに一ケ中隊を指揮した武人でさへ、しかも、野望を持つて実業界に投じたと言はれる豪の者が、父に会つては骨を抜かれて「社長安心して下さい、選挙違反がやかましくなつて、万一私が問はれるやうなことがあつても、割腹したつ…………は致しません」と、悲壮に宣言してゐる、鳴呼父が毒素を蓄へて皆を不幸に変化する。――登和は猩猩のやうな二人に酒を注いで、ありつたけの毒気のある言葉を吐かしてゐるのが、浅間しくもあり、自分もその酒を煽つて、二人の頸でもしめたい衝動が全身を冷くする、居眠をしてゐる母に注意して、坐をはづし、女中達に茶の間に代るように命じて、急いで私室に駈け上つた。

 寝台にもぐつて毛布を顔にかぶつたが、泪も出なかつた、体中が凍つた繊維のやうで、自分と云ふものの中心のないやうな苛立たしさに、父がいけないのだ。家をも地獄にしたと、何度も寝返つた。父の家で一度だつて、穏かな目を見たことがない、素直な魂を響かせる言葉を聞いたことがない、来る者も来る者も、忙しげな目、物欲しさうな目、怨めしい目をして、本心を隠くし、作り笑をして、犠牲者だ、共謀者だと云ふ恰好をしてゐる、どこから父が連れて来るのか、再び訪ねてくれる者が尠い、みんな父がその人々の智慧を奪ひ、計画を盗み、実を取り、魂まで奪つて追ひかへすからだらうか、その不幸にされた人々の声が自分には聞える、その人々に責められるのだ――返してくれ、仕合はせを返せと叫びながら、雪路を汚して、黒山のやうになつて、朽ちかけた橋の向ふから、八事山御殿に雪崩て来るやうである。家の戸口に父が立つて、気嫌よく紙幣を一枚づつ手渡しする、それをもらつて人々は素直に帰つて行く、しかし、その人々が喜んで紙幣を懐に入れた瞬間に、紙幣が一枚の投票紙に変化してゐることには気付かない。紙幣ではありませんよ、瞞すのですよと注意したいが、声が出ない、父は全部の人を瞞し終ると、大声をあげて嘲笑する、その憎らしさに飛びかかつて行かうとして、夢からさめたのだが、登和には夢とは思へなかつた。もう眠れなかつた、現実のやうな夢が焼きついてじつと部屋にもゐられなかつた、陽が上るのを待つて雪の中の林に出て、神経をしづめた。

 輝かしいまで晴れた雪の翌日だつた。登和は父達の自動車が去つた後、選挙区に出掛けて見た。労働者街では、どの家も開け放つて、婦達は洗濯を乾かして、子供達は雪にまみれて戯れてゐる。「××党公認候補者藤田良造」と云ふ立看板が、よごれて、町角に目立たずに立つてゐた、中央電鐡の小さい駅の向ふに、事務所にあてた二階屋が、人の出入りもないやうに、大きい看板の横に自転車が数台たてかけてはあるが、ひつそり閑としてゐる。どこにも実戦だと云ふ選挙がないやうで、よかつた、よかつたと安堵して、前夜の父の話が却て悪夢のやうに思はれて心軽く帰つたが、しかし、朽ちた橋を渡つて、八事山の屋敷を仰いた時、突然死の衝撃にあつたやうに竦んでしまつた。嘗て感じたことのない衝動であつた――丘も林も家も、前夜襲つて来た人々の幸福を奪つて成つた堆積のやうで、足許からも頭上からも、盗人!盗人!と呼びかけられるやうで、怖ろしさに狼狽して駈け出した、その時家を脱出した兄の顔を偶然思ひ浮べた、家を棄て父から勘当せられて純文学をしてゐる兄の心を、初めて覗いたやうに思つた。屋敷に帰ると家に寄らずに、庭の白雪に足跡を残して自然林の中を松の枝につかまつて滑るのを防ぎながら、羊毛研究所にたどり着いた。水澤の顔を見ると訳もなく泪がこぼれて、東京に逃げようと一思ひに言へなかつた。水澤は控室に迎へ入れると、硝子戸を閉じたが、顫えてゐる女の体を、薬品の香のしみた白衣のまま抱擁することを躊躇した。

「昨夜来たかつたんです、もう家には我慢できません、このままでは自分を憎んだり、貴方まで怨んだりしさうで、それが怖ろしいのです、父が気でも狂つてるんならどんなにも我慢しますけれど――」

 床に膝まづいて、顔を水澤の膝に伏せて泣き崩れたその背に、暖な掌を置いて、彼は慰むべき言葉が探し当ならかつた。四年かかつて研究した結果に未練もあり、人造羊毛を完成して藤田社長に祝福せられて結婚したい、二人で東京に逃走しても、ただ貧困に陥るばかりである、貧しさは独りならば怖れなくても、登和と一緒ではとても堪えられない――かう本音を吐いて、今迄何度彼女の心を堰めたか知れない。しかし、今日はもう待つてはゐられないと泣く、止むなく登和の髪を愛撫しながら、「ここにもつと人生の本当の姿を入れてやりたい、君はお父さんの罪に苦しむと言ふが、君自身の感情をもてあましてゐるんだよ、お父さんに人間以上のことを要求してはいけない、僕が藤田さんにご恩になつてゐることを考へて、良い点も見なければ――」と宥めた、登和はその愛撫をうれしくうけてゐたが、その言葉に、嗚呼恋人まで父の魔に厭倒せられて、変つてしまつたと、愕然と跳ね起きて、啜上げながら窓を開けた。父が恩人だと云ふほど皮肉はない、父や母を嫌悪して復讐のためには、父の工場の男達に自分の体をなげ出してしまつたら、この欝積したやうな自分が解放せられて、みんなからも赦されるだらうと、野蛮な熱情に燃えてゐるのだと、さう科学者らしくとりすました恋人に叫んでやりたかつた、ただ雪の上にそそぐ陽がめいて辱しく黙つたが。

 

沼津市芹沢光治良記念館

 

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2011/12/21

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芹澤 光治良

セリサワ コウジロウ
せりさわ こうじろう 小説家 1897・5・4~1993・3・23 静岡県駿東郡(現・沼津市)に生まれる。第5代日本ペンクラブ会長 ノーベル文学賞候補 フランス政府文化勲章コマンドール受賞。

掲載作は、電子文藝館「国際版」に掲載されている「A Rich Poor Father」の原作で、初出は、1936(昭和11)年に刊行された雑誌「改造」5月号。

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