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うぶげの小鳥

  きりさめかかるからまつの

   もえぎのめだちついばむか

    うぶげのことりねもほそく

     みしらぬはるをみてなけり

        —北原白秋—

 

    (1)

 

 台東区の一角に寺の多い区域がある。近隣の人々は昔から、その辺りを寺町と呼んでいる。上野隆の育った浄福湯も寺町の中にあった。

 浄福湯の斜め前に小料理屋「清川」がある。清川には上野隆とおない年の斎藤清子がいた。隆と清子は幼稚園の頃から、お互いの家に行ったり来たりして遊んでいた。少女の清子には男湯の情景は興味があったが、同時に怖い場所でもあった。自分にないものを、みんながひとりひとりしっかりと身につけているのが、不思議だった。それをみんなはどこで買って来たの、と隆に尋ねたことがある。隆は考えてもいなかった質問であったので、答えようがなかった。

 二、三週間後に今度は女湯の洗い場で、たまたま水遊びをしていた清子が、男の人のあれは女の人があげたのだ、と誇らしげに言い出した。

「隆君のそれも、私があげたのよ」

 清子は真顔でそう言って、隆の下腹部にお湯をかけた。

「貰ったりしないよ」

 隆は腹立たしげに言いながら、お湯をかけ返していた。まだあげていない赤ちゃんや小さい子もいると清子は言い張った。隆も誰かにあげれば、私と同じになれると清子は何回も言った。隆は男と女の区別が何でもないように思えてきた。どうして男湯と女湯の境があるのだろうとさえ思い始めていた。隆には清子が生意気なお姉さんに見えてきた。

 清川の一階は日舞の練習場にもなっている。男の隆には、清川の日舞の練習が面白く映った。小学二、三年の女の子でも、幼稚園に通っている頃の隆には、お姉さんにも大人にも見え、周囲から見下ろされているような感じであった。浄福湯に来る人はみんな女の人でも何もつけずに、足を組んだり、活発に振る舞うのに、清川の練習場では手と顔しか見せない。何もかも隠して静々と摺り足で歩く。どちらが本物なのだろうかと疑いの目で両方の女たちを眺めていた。

 清子が小学校に入って、母に稽古をつけて貰い、本格的に日舞の練習をするようになった。そんなある日隆が風呂に入っている時と踊りの練習をしている時と、どちらが楽しいかと清子に質問した。それはどちらが本物なのかと尋ねることと同じであった。その時清子は桃太郎か、金太郎のような紙製のかつらを頭にのせていた。清子は質問の意味が解らないため、どちらとも答えられないで、息をはずませて立っていた。隆は清子の手を急に引っ張って、稽古場の裏にある清子の母の部屋に連れ込んだ。隆には思い切った行動であった。母の部屋は暗く感じた。雨戸が閉じられていて、板の節穴から白い光が射し込んでいた。

「何するのよ、隆君ったら……」

 ようやく手の力を緩めた隆の手を振り払って、清子が叫んだ。

 隆は次の瞬間には清子を押し倒して、清子の下腹部に手を入れ、何かをまさぐっていた。

「ない、まだ貰っていない」

 隆はがっかりしたように呟いた。

 清子は一連の出来事に驚き、先程のように勢いよく叫ぶ元気をなくしていた。

「君も誰かから貰えば、僕と一緒な男になれるのに……」

「何言ってるのよ。女はずっとこれからもこのままよ」

「さっきは男の練習をしていただろう。だから僕の知らない間に、誰かから貰ったのかと思ったんだ。それにこの前、大きくなったら君は清太郎って名前を貰うって言ったじゃないか」

 上野隆は泣きべそをかきそうになっていた。

「全部、お稽古ごとなの」

 清子はようやく落ち着いて、隆を慰めるように説明していた。幼稚園の頃は本気であげたり、貰ったりできるものだと思っていたが、今はもうそうは思っていないと清子が言った。

「自由にあちこちできるものじゃないのよ。だから隆君もこれからはずっと男の子でいると思いなさい」と、説得するような口調で付け加えた。

 隆は清子が急に大人びて、自分から遠のき、自分が置いてけぼりにされたような淋しさを味わった。その後も時々浄福湯に隣接する禅寺の境内で、一緒に遊ぶようなことがあったが、以前のような解け合った行動は見られなくなった。隆の心の中では、清子は頼もしいが近付きがたい存在として成長し続けていた。

 小学校五年生になり、上野隆は有名な私立中学に入るために、塾に通わされるようになった。この頃になると隆は清川にはすっかり行かなくなった。行かなくなると、ますます清子のことが頭の中で踊り跳ねるようになった。塾で前の席に坐っている少女の、背中の真ん中まで伸ばした髪の後姿が目に入ると、隆は反射的に目を閉じてしまう。清子の白い笑顔が浮かび、眩しいばかりに派手な衣装をつけた日舞の発表会の日の姿が、頭の中に鮮やかに甦る。少女の長い髪が隆のノートの上をバサッと掃いたりすると、隆はようやく目が覚める。これからもずっと男なんだと思うと、隆はがっかりした。清子と離れるばかりだと思った。

〈男は女と違って……、妻や子供を養い、守っていかなきゃいけないからなあ〉

 薪を焚き口に放り込む父が、怒鳴るように諭す声が隆の耳に響く。それでもとにかく塾に真面目に通っていれば、何とかなりそうな気がする。講義を受けていてふと清子のことを思い出すと自分の体を自分で押さえておれなくなる。父の声よりも清子の笑い顔や優しい仕草が頭の中に広がってくる。清子に会ってけじめをつけ、活力を養おうと思う。隆は仮病を装って塾を出た。

〈明日からしっかりやるんだ〉隆はこう思って暗くなりかけた街で、バスを待つことがしばしばあった。心の整理はいつまでたってもつかなかった。両親が望んでいたような中学には入れなかったが、隆はそれを特に気にはしていなかった。塾の先生や学校の教師が、案外無責任なことを言い、言葉ほどには生徒のことを考えてくれていなかったことを知り、失望していた。〈やれば出来る〉と言われて煽てられたりしたが、やっても出来ない者もいたし、そもそもやれない性格の者もいることに、隆は気付いていた。隆は瞬間的には燃焼するが、持続のきかないところがあるのを、自分でも何となく分かっている。一日一日が燃焼と持続の連続であり、戦いであった。二、三日じっと耐えて塾に通っていたかと思うと、次の日には〈これでいいのか〉と教材を捨てて、〈何か大事なことを忘れている〉と手に汗を握り興奮するのだった。

 中学一年の学年末の成績はさんざんだった。担任は隆の学問に対する筋はいいが、努力が不足だと母を前にして説明していた。有頂天になり、一寸勉強すればたちどころに首席になるように思えてくる。しかし次の瞬間には我慢して努力の出来ない自分は、結局どうにもならない厄介人間に思えて、落胆することもあった。

 担任は多くを語ったが、隆の耳に残った言葉は、〈隆君は失望しても、絶望しないから駄目だよ〉だった。学校にいては絶望できないような気がし始めていた。学校はどこまで行っても、結局は育てるところだから……と思った。人一倍不幸になりたいとも隆は思った。父も母もいて、経済的にも一応安定しており、中学も中程度、何から何まで過不足なく整っている。担任が言う絶望なんて、今のままでは駄目なように隆は思った。担任自身は絶望したことがあるのだろうかと考えた時、隆は肩の荷が下りたように思った。

 中学二年になった夏休みの午後、恥ずかしいと思う心が芽生えてから久し振りに、隆は番台に立たされた。父は風呂代値上げの件で、最終の詰めをするとかで、組合事務所へ出かけていた。

「この頃のマンションは風呂付きだし、昔からの家も改築して風呂場を作るでしょう。風呂屋も先行き、暗いのよ」

 母は番台に出るように言い付けながら、ぼそぼそと愚痴をこぼす。隆は弱音を吐く母が嫌いだった。父にしても母にしても、こんな詰まらぬ仕事によく一生をかけていられる、と隆は不思議に思う。毎日毎日湯垢を落し、釜の掃除をし、ありがとうございます、ありがとうございますと馬鹿丁寧に、深々と頭を下げて明け暮れている。もっとしおらしい仕事はないものかと隆は反問する。成り行きが怖い。惰性は絶望の敵だ。こうして親の言うがままになっていたら、自分が駄目になってしまう。いつか踏ん切りをつけて、納得のいくけじめをつけなければいけないと隆は思う。〈絶望は負け犬ではない〉と言った担任の言葉を思い出す。しかしそれは隆には霧の中の人影のように、輪郭が周囲の霧にぼんやり溶け込んでいた。

 明るい夏の陽が散乱していて、洗い場のタイルが白く光っている。隆は一年でも早く父や母に負担を掛けない身分になりたかった。両親を安心させ、楽をして貰いたいからではなかった。ひと月でも早く親元を離れて、独り立ちがしたかったのである。そのためには落ち着いた勉強が必要だとは思い当たらなかった。明るい陽射しの中で、心細い愚痴や決まりきった忠告は聞きたくなかった。仕事の喜びや使命感などについては少しも語らず、いつも小言とお金のことだけに明け暮れているような生き方が嫌で嫌でたまらなかった。隆は父たちの大人の世界がつまらなく思った。学校や塾通いは、時が来れば終わるから我慢ができる。しかし大人の仕事は死ぬまで終わらないのだと思い、隆はうんざりしている。いつかは迎えなければならない大人の世界を思い、ぞっとするほど不安になっていた。

 渋々番台に坐ると間無しに、清川の斎藤清子が浴衣がけでやって来た。下足板を隆の膝元に置き、びっくりした表情で西陣織の財布から百円硬貨を摘み出した。作り笑いを投げ掛けながら、隆の手に渡そうとしていた。隆はすぐには手を出せないでいた。ニスの剥げた番台の上に、下足板のように、硬貨を置いてくれればよいのにと隆は一瞬思った。挨拶もろくに出来ないで畏まっている隆を見て、清子が今度は本当にくすっと笑った。硬貨は重ねて板の上に置かれていた。

 清子は一番奥の道路側の衣類入れの前に立っていた。逆光の中でみごとな影が浮き上がっている。隆は近付きがたい美しさと、同時に淋しさを感じていた。いつからこんなになったのだろうと考え始めていた。寺の境内や稽古場で遊び過ごした頃の間柄が、懐かしく思い出された。清子は後からやって来た老婆らと一緒に、タイルの上を気取って歩いている。清子の豊かになりかけている胸の線や白い脚線があまりに美しく、眩しくて隆は凝視できなかった。

 

    (2)

 

 両親はあれやこれやと隆を罵倒したり、皮肉を言ったり、煽てたりしたが、隆はいっこうに集中して勉強しなかった。結局隆は母たちの言う変な高校にしか入れなかった。隆は学校に通いたくなかった。中学もそうだったが、あまり真剣みがなく個性のない教師と、勉強なんかどうだっていいと思っている半端な生徒の集団だと思い込み、うんざりしていた。中学一年生の時の担任は違っていたと隆は時々思う。生徒たちは教師から同じことを繰り返し何回注意されても、少しも改めようとしない。泣き言と愚痴、不平と軽蔑が入り乱れ、学校中に充満している。上野隆も三年が過ぎれば卒業証書が貰え、それでもよいと人並みに思うようになっていた。

 幼い頃は清子とあんなに子犬のように戯れ合って、一緒に遊んだりしていたのに、年がたつにつれて、二人は次第に遠のいて行くように隆は思った。会うたびに清子は女らしくなり、大人っぽくなっていく。自分が子供に思えて仕方がなく、不安になることがある。学校帰りに清子にばったり出会ったりすると、どちらからともなく喫茶店に入って行くことがある。上野隆はそんな時、清子の方でついて来てくれたと思い、得意に思う。席についてもしっかり清子を見詰めることが出来なかった。それでいて清子のことを何から何まで知り尽くしたいと思う。清子がどんなノートを使っているかでさえ、隆にとっては貴重な関心事となった。

 清子が窓外の長土塀に目をやっていることが分かれば、隆はそっと頭を起こして、清子の横顔を安心してゆっくり眺める。美しい鼻の形と豊かな頬の丸みに隆は胸を撫で下ろした。まだ微かに昔なじみの名残りが認められたからである。自分はひどく興奮しているのに、平然と振舞っている清子に、隆はこれまで感じたことのなかった新鮮な苛立ちと気後れを強いられた。別々の中学や高校に進み、気持の上でも離れ離れになり、おいてけぼりを喰うようになってからの方が、清子のことをより深く知りたく思うようになったと、隆は不思議に思う。

 清子は名取りになって清太郎の名をもらった。幼い頃から聞かされていたことであったが、実際に手にしたとなると、それはやはり快挙だと隆は思った。園児の弟子もいると清子が付け加えて説明した。

「ひやっ、それは大したものだなあ」

 隆は唸るように叫んだ。感心して驚いている隆に、清子は父や義理の兄について初めて告白した。清川での清子の地位が上がったのだと隆はとっさに思った。清子の父は吉祥寺に住んでいるとのことであった。

「死んだんじゃなかったの」と、下を向いたまま小声で尋ねた。

 清子は頷いて話を続けた。吉祥寺にあるお寺のお坊さんが、清子の父だとのことだった。

「お坊さんかい、君のお父さんは……」

 驚きとも軽蔑ともつかない隆の声が、喫茶店の静かな空気を震わせた。

「吉祥寺には六つ年上の兄がいて、今は京都の仏教系の大学を出て、寺づとめをしているの」

 清子の得意気な表情が隆をまた苛立たせた。隆は呆れたと言わんばかりの表情だった。この頃になってようやく隆は、にこやかに笑っている清子と正面向かって話せるようになった。整った美しさを持っている清子にも、それなりの欠点や傷跡があって、そのために一つ一つ自分とお相子になっていくように隆は思った。清子の兄と言っても、吉祥寺の母の連れ子だから、清子とはまったく血の繋がりはない。吉祥寺の母は、父の檀家の未亡人だったと清子は何のためらいもなく話を続ける。「私の家も吉祥寺のお寺さんの檀家なの。父はうちへお経をあげに来ていて、踊りの師匠だった母と懇ろになってしまったってわけ。そして私を生んだの」と清子の口調は、納得したでしょうと言わんばかりであった。

 京都にいる義兄は、龍徳院という寺にいて、中学からずっと小僧に入っていたらしい。大学を出て龍徳院でいろいろな資格を取る修行を続けているらしい。それには大変なお金が掛かり、吉祥寺の父が金策に苦労している。そのとばしりが清川にも及んでいると言う。清川をそっくり売却するか、新しく分譲マンションを建築するかを検討しているとのことだった。清川の店や日舞の稽古場は、何らかの形で残してくれるように、母が腰を入れて頑張っているらしい。隆には、清子の話は複雑で要領を得なかった。

「お坊さんもなかなかやるんだね」

「そうよ、お坊さんもなかなかよ。松崎だって隅におけないわよ。ああ、松崎って、吉祥寺のお父さんの姓なの。今、言った松崎ってのはね、龍徳院へ行っている、智典兄さんのことなの。結構、真面目な人よ」

 松崎だって……と言った清子の声が、隆の耳底に居心地悪く止まっていた。

「以前にも言ったことがあると思うけれど、浄福湯の玄関はお寺さんの山門みたいだし、屋根も寺院造りだわね。トタン屋根でなく、瓦がのっていたら、知らない人はきっとお社かお寺と見違えるわ。塀だってあるんだし……。でもあの煙突はぶっ壊しね。そう言えば隆君は、今は髪を伸ばしているからだけれど、小さい時坊主頭をしていて、似合ったわね。隆君はお坊さんが一番似合うんじゃないの」

 隆は清子の言葉をからかいだとは思わなかった。寺町に住んでいて、寺町の雰囲気が気に入っている方だった。清子の話した色々なことは次々と忘れたものが多かったが、〈お坊さんが一番似合う〉と言った清子の言葉は、カドミュームのように、体内にしっかり蓄積されていった。どうして清子が父や義兄のことを言い出したのか、隆には理解できずにいた。清子の身の上に、何かそのことを告白しないではいられないことが起こっているのだろうと隆は想像していた。このような時隆は忘れようと努力していた清川の暗い部屋で、清子を押し倒した光景や、男湯で一緒に遊んだ時の裸の姿、逆光の中の金色に縁取られた美しい清子の姿などをまたまた回想するのであった。

 中学や高校の入試の時は、難しくて入れないと分かると、隆は中学や高校の教育そのものの不必要を心の中に描いた。対象の価値を無視することによって、自分とのバランスを保とうとしていた。それは負け犬の常套手段であり、童話の中の狐と青ぶどうであった。

 高校三年生になり、大学受験の時はかなり心境の変化があった。自分の思いのままに生きるのに、たとえ不必要であっても大学の合格証を手にしようと決心していた。大学に合格出来ないから逃げを打ったなどと、両親に思われたくなかった。大学の入試に合格しても、大学に行かずに小僧になり修行しようと思った。家業を継ぐのが何としても嫌だった。受験に失敗しても、大学進学を諦めて小僧になろうと心に決めかけていた。大学に行けないから、小僧になったのでは情けなく気に喰わない思いが強かった。何が何でも大学に合格したかった。隆は夏休み後の四、五か月間、必死になって勉強した。大学に行きたくないから真剣になることが出来たように思う。

 隆は渋谷にある有名私大に挑戦した。隆の受験を担任を初め、誰もが無謀なことだと思っていた。隆自身、自信があったわけではなく、意地になっていたのである。袖にする以上、その価値のあるところでなければ自尊心が傷付くと思った。渋谷のマスプロ大学は挑戦するのに不足はなかった。試験を終えて、大学構内のポプラ並木の道を歩きながら、上野隆は斎藤清子の義兄に会いたいと思った。冬空にポプラの枝が黒く広がっていた。水色のポールの先に、水銀灯がコブラの頭のようについていた。コブラの頭が列をなして、ずっと遠くまで並んでいた。

 その日の夕方、上野隆は浄福湯に隣接している禅寺に向かった。住職は幼い頃から隆をよく知っている。住職は境内で遊んでいる少年たちに声を掛け、話をしてやっていた。他の少年たちはじっと坐っているのが嫌で、菓子や果物などを食べ終わると、逃げるように退散して行った。そんなときでも隆少年は正座したまま、何も言わずに眼を閉じていた。住職は、この子は変わった子だと隆の父や母に何回となく話したことがある。隆は物が動かず、音も消えたような寺の雰囲気が、何となく好きであった。水が動き、騒ぎたてている浄福湯にはない世界であった。

 御堂を横切りながら、この静かな、薄暗い、ローソクの光だけが輝く御堂の中で、ベートーベンの交響曲を最高のボリュームに上げて聴きたいと隆は思った。手に汗を握って御仏の前でベートーベンを聴けば、生まれ変わることが出来るように思えてきた。今思い切って踏ん切りをつけなければ、一生が駄目になり、台無しになってしまうような気がした。何かに追いかけられているように思った。とにかく漕ぎ出さなければいけない。いつどこへ、何のために、どのようにして……などと考えていたら、青春はないと隆は思った。人生の入り口に立ち、納得のいく門出をしたいと思った。今の自分は白秋の謳う〈うぶげの小鳥〉だと思った。禅寺の冷たい床板を踏みながら、何かしっかりした区切りが欲しいと隆は考えていた。

「小僧になりたいのですが……」

 隆は住職にすすめられて、掘りごたつに入った途端、叫ぶように言った。何百人も入る大学の大教室で受験していた時、ぼんやり考えていたことがここで導火線が弾けたように隆は思った。住職はこたつの中で足袋を脱いでいるようだった。片手をこたつの中に突っ込んでいる。掘りごたつの中に冷たい空気が沈んでいく。

「無理ですか」

 隆は腹立たしげに、ぶすっとした表情で待ち切れずに尋ねた。

「藪から棒にそんなことを言われてもだなあ、これまでのいきさつや、それに目的などを聞かないことには……」

「出直したいのです。生き返りたいのです」

 上野隆は住職の話を聞いて、がっかりしていた。住職は昔はこんなではなく、もっと話の解る人だと思っていた。年をとったものだと隆は思う。それでも訪ねて来てよかったと思っていた。

「小僧になったって、何になったって、生まれ変われるものじゃない。器を変えても中味は同じじゃによって……。小僧もよかろう。しかし今どき僧になるには大学を出て、しかも仏教系のちゃんとした大学を出てからじゃなきゃ、出世はできないなあ。つまり名僧にはなれんと言う訳じゃよ。いろいろと厄介な問題っていうか、手続きっていうか……」

 住職はみかんの皮を剥きながら、にこやかな表情で言った。「慌てぬことじゃ、じっくり考えてからにするがよい」と言い聞かせ、説得する低い声であった。「それに筋というものがあってなあ、在家の者が僧になるのは、なかなかのことじゃ。人はそれを因縁と言っておるが……。また君のお父さんに、それだけの理解があるとは思えぬし、のう」

「名僧になろうとは思っていません。筋が悪くても、父に理解がなくてもいいのです。知らない間に学校や塾で無くしたものを取り返したいのです。学校や塾では得られなかったものを、何とかして寺で獲得したいのです」

 隆は興奮している自分を抑えることが出来なかった。身震いをしていた。

「修行はいい。信仰も自由だ。じゃが、あまり寺に期待しない方がいい。職業として僧になることは容易なことではない。修行が難しいというだけの意味ではないんだなあ、これが……」

 住職は歯に挟まったみかんの筋を取ろうと口の中に指を突っ込んでいた。口尻からよだれが垂れている。住職は時々それを啜り、濡らしたタオルに指を押し付けていた。

 禅寺の境内から浄福湯の煙突と、清川の新築された四階建てのビルが、松林の向こうにぼんやり見えた。暮れかけた冬の空は見る見る暗くなり、街の灯が急に明るさを増していた。山門を出ると隆は清川の暖簾を分けた。一間半ほどの玄関が、ビルの中に食い込んでいる感じであった。以前のような板塀はなく、赤茶色の装飾レンガに張り詰められた壁が、ずっと上まで広がっている。三、四階の部分にはベランダがあった。ベランダからは浄福湯や禅寺が見下ろせるに違いない。きっとすばらしい眺めだろうと隆は想像した。寺の多いこの地域では、まだ目隠しになるようなビルは少なかった。

 清子の部屋で隆は龍徳院の住所を清子から教わった。龍徳院は京都の郊外にあった。

「本当に松崎を訪ねて行くの」

 小奇麗な着物に黄色の帯を締めた清子が、心配げに尋ねた。

「この辺でけりをつけなきゃ」

「松崎はもうすっかり龍徳院に居つき、相当な地位らしいわ。吉祥寺の父がどんどんお金を送っているもの。そのためにここだってこんなになっちゃったの。分譲マンションにし、かなりの高値で売ったらしいわ」

 隆は清子がかつては、吉祥寺のお父さんと言っていたのに、今は父と言い、兄を松崎と呼び捨てにしたりしたので、身近な存在になったのだろうと思った。

「僧になるのに、どうしてそんなに多額なお金が必要なんだろう」

「資格よ、資格だわ」

「そんなものかなあ。その辺のことは僕には分らないよ。君、この頃うちにあまり来ないんだってね。母がそう言っていたけれど……」

「こんな建物になったでしょう。うちにお風呂ができたのよ。二、三か月行ってないわね」

 清子はすっかり大人になっていたが、隆はまだ少年のままであった。それでも自分の世界をしっかり築こうと考え始めるようになってからは、かつてのような引け目は感じなくなった。気さくに話し合えるが、しかしそれ以上のものはどこかへ遠ざかってしまっている感じだった。清子は小料理屋へやって来て、商談や会合をする男たちを相手にしていると、こんなになるのだろうかと隆はひどく淋しく思った。清子には母の手伝いはして欲しくなかった。昔の建物が取り壊された時、清子が持っていたよい面も一緒に壊されてしまったのだろうかと隆は思った。

「うちの大きな鏡で全身を映さなければ、着こなしに緩みが出て、芸が小さくなりはしないかなあ。余計な心配だけれど……」

 上野隆はいつか母が言っていたことを思い出し、思い切って話した。清子は別段嫌な顔もしなかったので、隆は安心した。是非とも清子に浄福湯に来て欲しかった。清子にいやらしいと思われてもいいと隆は思った。

「そのうちゆっくり入りに行くわ。確かに小さな三面鏡じゃ、全体が見えなくて駄目ね。でも今度の稽古場には大きな鏡があるの。いちいち降りて行くのは不便だけれど、それくらいは仕方がないわね、我慢しなくっちゃ」

 清子は一階の稽古場を隆に案内し、赤絨毯の敷かれた狭い廊下を肩を並べて歩いていた。清子の母の暗い部屋はなくなっていた。どの部屋からも明るく、賑やかな客の声が洩れ出ていた。

 

    (3)

 

 龍徳院の山門は茅葺きで、枯草が何本も宙に伸びていた。門柱は土台の所で新しい木に接がれていた。渋谷の大学に広がっていた雰囲気とは、まったく違ったものである。山門を潜るとなだらかな丘が開け、右手に屋根瓦が黒く光る平屋の建物が静かな佇まいを見せていた。その奥は木立が茂り、建物らしいものは見えなかった。数多くの伽藍が木立や丘の向こうに点在するようには思えなかった。山門の前で見た伽藍配置図は、要領を得なかった。この近くで松崎智典が、斎藤清子の言うように、修行しているとはどうしても思えなかった。何百人もの僧侶、修行僧が生活している活気はどこにも見当たらなかった。

 玄関脇に受付があり、少年僧が週刊誌を読んでいた。小さなガラス窓を軽く叩くと、少年層は面倒くさそうに立ち上がった。週刊誌の読みかけの所を広げたまま伏せた。表紙の女優の顔には見覚えがあった。龍徳院がいっきに身近なものに思えて来た。

「東京の吉祥寺からいらっしゃっている松崎智典様にお会いしたいのですが……」

 上野隆は自分より年下の少年僧に対しているのに、身震いしているのに気がついた。下腹に力を込めて、震えを押えようと努めていた。用件は何か、松崎をどうして知っているのか、予め連絡は取ってあるのかなどを、矢継ぎ早に尋ねられた。少年僧の言葉は優しいが、口調は激しく、苛立っているようであった。

「お会いすれば松崎様は分かって下さると思います。お取り次ぎをお願いします」

 隆は祈る思いになっていた。普段使ったことのない言葉遣いが、自然に出来たのが隆には不思議だった。まだ一度も会ったことのない斎藤清子の義兄が、今の隆にはたった一人の頼ることのできる人だった。少年僧が松崎智典を伴って戻って来た。松崎は後頭部からうなじにかけての線がすっきりした青年であった。その力に負けないだけの鼻立と額が凛々しく広がっていた。血色がよく、僧侶に見られがちな青白さはなかった。

「松崎さまですか。僕は寺町の斎藤清子さんと幼ななじみの上野隆と申します。このたび思うところあって、この寺で修行させて頂きたく思い、参上いたしました」

 上野隆は先程より一層激しい武者震いをしていた。「松崎様には、絶対にご迷惑はお掛け致しませんから……」と、大声で慌てて付け加えた。

 松崎智典は少年僧と上野隆とをせわしく、交互に眺めながら困惑していた。

「これ以上の迷惑はないよ。望みは叶わないことと諦めて、帰った方がいい」

 悪い事は言わないから……という表情がありありだった。

「僧主様が直接駄目だとおっしゃるなら、僕は諦めて東京に戻り、番台にも立ちます」

 一歩も下がらないという勢いだった。実りのない押し問答がしばらく続いた。少年僧は椅子に腰を掛け、読みかけの週刊誌を再び読み始めた。僧主様がはっきりと断れば、本人も納得するに違いないと松崎は思っているらしかった。

 龍徳院にはいろいろな役僧がいるが、松崎智典が一番世話を受けているのは、僧主様だと隆は斎藤清子に聞いて来た。僧主様は、それでも役職の上では上から四、五番らしい。僧主様より上役の人とは松崎でさえ、殆ど口をきいたことがないらしい。紫色や真紅の袈裟を身につけ、遠くを歩く姿や、内陣の大きな柱の陰から読経する姿を見上げるだけだった。

 松崎智典は幾度か角を曲がり、長い回廊を進み、僧主様のいる書院へ、上野隆を案内した。書院では僧主様が金文字で写経をしていた。上目づかいに少年を見たが、筆は休めない。松崎が少年の望みを僧主様に伝えた。渋谷の大学に合格していながら、それを棒に振って出て来たことも付け加えた。上野隆は清子がそんなことまで連絡していたのを知り、戸惑った。自分一人で、何ごとも知られないで、そっと出て来たかったのに、と上野隆は不満に思った。出だしが台無しにされたような気がした。松崎が受付で、諦めて帰った方がいいと言ったことが腑に落ちなかった。

「出家なさりたいのですか」

 歯切れのいい声が冷たい空気を震わせた。壁土の落ちたところもある床の間には、目玉の大きい僧の顔を描いた掛け軸が掛かっていた。目と鼻と口と眉しか描かれていない。隆は睨み付けられているように思った。

「出家ではありません。僕なんかのやることは家出です」と、緊張しながら大まじめに訴えた。

「君はなかなか面白いことを言うね。確かにその通りだ。これ以上のことは何も言うまい。修行を積まれるがよい。松崎君に面倒を見て貰いなさい。何でも教わることだね」

 僧主様の許可が出て、驚いたのは松崎の方だった。板目が雨に打たれて浮き出た回廊を歩きながら、松崎は受け入れて貰えたことを、特別だ、例外だと何回も繰り返して言った。差し当たり知っておく必要のある場所を、ひと通り連れ歩いた後で、松崎智典は自分のやっていることを真似ていれば間違いない、と隆に説明した。

「俺は僧堂に行って来る」

 松崎智典はそう言って、黒い棒梯子をゆっくり下りて行った。斎藤清子のことはどちらからも話題にならなかった。

 松崎の姿が床下に消えてしまうと、耳の奥で蚊の羽音のような音が響き始めた。浄福湯の営業が終わり、蛍光灯の下で受験勉強をしていた時の音だと思った。龍徳院の屋根裏部屋の薄暗さに慣れてきて、辺りを見回すと、貧弱な薄布団が壁際にずらりと畳んであるのが見えてきた。自分が来ない何十年も昔から、ずうっとこの光景が広がっていたのだと思うと、隆は間違った風景の中に、迷い込んでしまったように思えてきて、不安になった。

〈今ならまだ間に合う〉上野隆はボストンバッグの底に手を入れながら思った。そこには渋谷の大学に送金するようにと、父から預かった数十万円の金があった。隆は金を受け取ると両親に見つからないように、家を出て来たのだった。

 塾通いに明け暮れした、あてがいぶちの生活にさよならがしたかった。自分の世界を作りたかった。大学生の生活は、隆にはやはりお仕着せの生活でしかないように思えた。大学に送金すれば、今ならまだ大学生活を始めることができる。僧主様に修行を許され、ここまで来て、そんなめめしいことができるものかとも思った。東京を離れる時には、少しもこのような揺らいだ気持はなかった。自分の最大の希望が叶えられた途端に、後悔の気持が頭をもたげてくるなんて、なんと意地悪な心の動きだろう、と隆は腹立たしく思った。

 僧主様は何一つ隆の生い立ちや、行く末の願望など聞こうとはなさらなかった。隆はそれが不満であり、不安であった。僧主様は、隆が〈家出です〉と言ったのに、出家を許して下さった。もしかしたら家出人に逃げられないように、体を引き留めておいて、後で身柄を警察署に引き渡すつもりなのかも知れないと隆は思った。松崎智典は渋谷の大学に隆が合格したことを清子から聞いて承知している。他のこともこまごまと伝え聞いているかも知れない。あれこれ考えているうちに僧主様は父親が捜査願いを出すのを待っているのかも知れない、という疑念がふと湧いて来た。抜き差しならないところに身を置いてしまえば、ふた心も起こらず迷わないだろう、とこのところずっと考え続けていた。一刻も早く自由過ぎる形式張った生活を打ち切り、自ら束縛してしまうことだと考え続け思案していた。京都駅からのバスの中で郵便局の〒の字を見た時、隆の心に迷いが走った。背筋が強ばりボストンバッグの取っ手を無意識に握り締めていた。

 龍徳院に着いた時には、もう成り行きに任すしかないと思っていた。勇んで出家する気持は、かなり薄らいでいた。どう思い直してみても、家出の気分が強かった。松崎智典や僧主様の応対の仕方一つで、どうにでも展開する身の振り方だった。大学に入学金や学費を納めずに、納入期限が切れてしまえば、晴れて大学生にならなくてすむ。しかし〈まだ間に合う〉と隆はまた振り出しに戻る。バッグの底の金を大学に送金すれば、大学生としての生活が四年間は開ける。両親は最後に大きな孝行をしてくれたと言って、これまで以上に好き放題をさせてくれるだろう。担任は自分のクラスから渋谷の大学に入ったものがいると言って、何年も吹聴し続けるだろう。自分自身も気球のように宙に浮いた生活をして、大切な四年を過ごしてしまうだろうと隆は不愉快に思った。

 でも今は、乱れる心を静めて、じっと時が頭上を通過して行くのを待っているしかないと隆は思った。時間がすべてを解決してくれる。隆はそう思いたって、巨大な黒い柱に向かって正座を始めた。目を閉じて胸を張ると、今まで気付かなかったローソクや沈香の匂いが鼻を突いた。

 

    (4)

 

 粗末な朝食の準備は小僧たちの仕事であった。上野隆も四時には布団を折って隅に置き、梯子を降りて行く。初日は声を掛けて貰わなければ、起きられなかったが二、三日すると、それにも慣れた。暗い廊下を小僧たちが忙しく行き交い、御堂では僧がローソクの火を分ち、点じてまわる。ローソクの明かりが至るところで、ちらちらと輝き、荘厳な雰囲気が七堂伽藍に広がる。上野隆は東司の掃除をした。板製の便器を雑巾で丁寧に磨く。汚いとも臭いとも思わないのが不思議であった。僧たちの食べ物のせいかも知れないと隆はふと思った。

 辺りがようやく白み出す頃には、読経の声が流れ、線香の煙のように堂内に舞い上がるように思われた。隆には読経の経験がなかったが、聞いているだけで心が引き締まり、魂が洗われるように思った。こんな時は家出をして来てよかったとつくづく思う。

 松崎智典が赤い表紙の教典を隆に持たせ、読み進んでいるところを指で指し示している。あまりの早さに文字を追うのも精一杯だった。端座している膝が痛み出して来る。朝の清々しい空気を震わす鉦の音が鳴り響いた。一日も早く一人前に唱和できるようになりたいと隆は思った。後半の三十分くらいは教典なしで読経が行われていた。言葉が消えて、音だけが吐き出されているように思った。僧侶専門の経に違いないと隆は思った。目を閉じて読経を続けている松崎の横顔を眺めながら、隆は羨ましさを覚えた。このほかにも松崎の行動には張りがあり、整然としたものがあった。しかしどこか胸を張り過ぎているように隆には思えた。

 聞き耳を立てれば立てるほど、松崎智典の読経の声はみごとなものであった。めりはりがしっかりしていて、重厚な艶もある。品位と風格の感じられる声で、際立っていた。惚れ惚れする響きがあった。空いた下腹に力を込めて、背筋を伸ばして黙想をしていた。さらりとした瞼の裏に父母や斎藤清子の慌てふためいた姿がよぎって行く。読経の途切れた瞬間は、耳鳴りがするほどの静寂な世界が広がる。真夏の蝉時雨か、ストロボの電源を入れて耳もとに近付けた時のような音が、耳の底にずっしりと広がる。目を開けるとローソクの光が鮮やかに飛び込んで来た。

 合掌を繰り返し、朝食の膳につく。親元にいた時のおやつほどの量もなく、朝食は終わる。無言の食事が静かに過ぎる。合掌して目を閉じると、目蓋がかすかに痙攣している。昼食時まで飢餓感に悩まされるだろうか、などと考えながら椀に湯をなみなみと注ぐ。上野隆は隣の松崎や小僧たち、それに遠くの僧主様たちの様子をこっそりと窺う。松崎智典の満腹げな態度に、多少腹立ちと反感を覚えた。

粥坐(しゅくざ)はいつも六時と決まっているのですか」

 上野隆は初めて知った朝食のことを、誇らしげに松崎に尋ねた。粥坐は朝食と言っても、丸頭が表面に映るほどの麦が七割ほど入った薄粥であった。沢庵が二切れ、梅干が一個出る。これだけであった。

「六時が粥坐の時刻だね。昼食は斎坐と言って、麦が七割の御飯だ。実際には麦がもっと多いように思っただろう。でもあれで七割なんだ。それに一汁一菜がつく。寺は本来、二食だから粥坐と斎坐で一日は終りだね」

「四時頃に食べたあのおじやのような食事は……」

「一日二食が昔からの仕来たりだから、あれは薬石と名付けているんだ」

 隆は松崎の説明を聞いて、急に嬉しくなった。何と言う名前でもよいから、一日三食が欲しかった。このように貪欲な自分が、細身の僧にふさわしいしなやかな体つきに、果してなれるだろうかと隆は不安になった。粗末で量も足りない食事では、病気になりそうに思った。

 隣の松崎は他の小僧や青年僧のように、顔色は青白くなかった。赤みを帯びたリキのある皮膚だった。栄養失調になりかねない食生活を、何年も続けながらこれだけの色艶を保っていられるのは、やはり松崎の信心の篤さ、信仰の力なのだろうと感服していた。松崎が持っていて、他の人には見られない宗教心の深さを見たような気がして、隆は怖くなった。

 二、三日して庫裏脇の空き地で薪割りをしている所へ、小僧が隆を呼びに来た。僧主様じきじきのお呼び出しとあって、小僧の言葉も馬鹿丁寧だった。隆は苦笑いをしながら斧の柄を置いた。腰から手拭いを抜き、額の汗を拭いた。風呂屋の倅だから薪割りは得意であった。二、三日の間にそのことが雲水仲間に漏れ伝わり、薪割りは隆の専門の仕事みたいになった。慣れない仕事より気楽ではあったが、やり切れない気持に襲われることもあった。

 回廊の板目に当る午後の日射しにも、春の息吹がかすかに感じられた。苔も青みがかって来ていた。作業衣のまま僧主のいる書院に上がってもいいものかと、ちょっと気になっていた。入口に近づいた隆は立ち止まって思案していた。用件を気にする胸の騒ぎが、これまでと違った速さで広がっていた。

「上野君かね、お入りなさい」と、小声ながら突き抜けるような僧主様の声が響いて来た。

「作業衣のままですが……」と隆は板の上に膝をつき、半腰になって板目に手を掛けていた。

「構わないから、お入りなさい」僧主様の優しい声が響いた。隆は両手で板戸を開け、畳の上に座した。経典から目を外した僧主様が、にこりと笑みを投げ掛けた。

「実は今しがた、お前さまのお父様がお見えになられて、これを置いて行かれたのじゃ」

 言葉遣いも声も、これまでの僧主様とはまったく違っていた。親しみのある話し方だった。

 僧主様はそう言って、紺色のナイロンカバーのついた手帳を隆に手渡した。上野隆は生唾を呑み込み、喉の奥で唸り声を上げた。

「お前さまは、本当に大学を合格なすっていたんだね。なんしてまた物好きに、このようなところへお出でなすったのかね」

「出家しに参りました」

「先日は家出だと申したろうに……」と、僧主様は意地悪そうに笑っている。

「この前は確かに家出でしたが、只今はもう出家です」

 隆はここで頑張らなければ、父と一緒に東京の寺町へ帰されてしまうと思った。

「それはそれでよろしい。だがのう、お父様は数十万円ほどの授業料などを納入されて、このように身分証明証も戴いて来られたのじゃよ。悪いことは申さん、今ならまだ大学に戻れるのだから、今すぐ東京に帰られるがよろしい」

 僧主様はそう言って、今しがた手渡した身分証明証付きの学生手帳を指し示していた。

 上野隆は後悔していた。目の前が真っ暗になり、頭の中で色とりどりの星がはじけているようだった。合格証や学費などの納入票を自分の部屋の机の中に置いてきた自分ののろまさに呆れて、腹が立った。納入金を押えれば、自分の世界が開けると思い込んでいた自分が、情けなくなってきた。そして合格証などから少しでも遠ざかり、一刻も早く大学のことを忘れようと努めていたのだった。破り捨てるなり、焼き捨てるなりして、完全に処分しておくべきだった。そのまま放置して、逃げていたのは実にまずかった。しかし一体あの時誰がそんな冷静な行動ができただろうか、と隆は不思議に思った。父や母が気のつく振る舞いではないように思われた。きっと何としても自分の手柄にしたいクラス担任の仕業に違いないと、隆は想像した。校長の笑顔も脳裏をかすめて消えた。

「戻る気はまったくございません」

「今夜のうちにでもお返しすると、お父様に約束をしてしまいましたわ。わしの顔も立てて貰わなくてはのう」

「僧主様の一存では困ります。僕の口からはっきり断りますから、父に会わせてください」

 隆は息を詰まらせながら、苦しそうに言った。

「お父様にはお帰り願った。何十万円もお納めになったのだから、その辺のこともよく考えて、後で悔いることのないように……」

「僕はかりそめにも出家を志した身です。このようなものは不要です」

 隆はそう言って手帳の表紙をむしり取り、身分証明証を引き裂いた。胸が晴れて快適だったが、僧主様はそれでも何一つ動揺した様子がなかった。

「その意気込みは見上げたものです。だがのう、意気込みと信仰の深さとは、必ずしも一致はいたさん。また信仰することと、僧になって布教することとは別問題だということも、考えておくことが大切だね」

 これまで以上にはっきりした口調だった。僧主様は自分の心の隅々まで、くまなく知り尽くしているように隆は思った。父を帰してしまった僧主様の仕打ちを憎く思い始めていた。自分の気持を父にはっきり表現したかった。やり場のない憤懣がもくもく湧き上がってくる感じだった。

 隆は破ったものを左手にしっかり握っていた。バッグの中のお金を近々親元に送り返そうという考えが湧いてきた時、隆は少々気持が落ち着き、興奮が冷めて楽になった。

 

    (5)

 

 三月中、上野隆は松崎智典に案内されて、龍徳院の重要な建物や施設を丁寧に見て歩いた。朝四時に起きて東司の清掃を終えると、少年僧と粥坐の手伝いをしたり、広い御堂の古びた畳の雑巾がけをしたりした。僧主様のいる書院に上がり、僧主様の身のまわりの手伝いもした。この時は松崎が隣に付きっきりだった。僧主様はいつもにこやかな顔で、腹立ちや蔑みを知らない人のように隆は思った。かえって淋しい思いがしていた。

 僧主様より地位が上だと考えられている人たちの部屋は、もちろん入ったことがないし、その部屋がどこにあるのかさえまだ知らない。大事な行事や食事時になると、どこからか、すっと姿を現す。御堂の仏像が安置してある後ろ脇の暗い所から姿を見せる。食事はいつもというわけではなく、何か縁日の日だけ膳につかれる方もある。

 松崎智典もその人たちのことを、詳しくは知っていないようだと隆は思った。十年以上も龍徳院に住まっていて、そのようなことが実際にあり得るのだろうか。隠し立てをしているだけなのかも知れない。あの人たちの世話をしている人々も、同じ龍徳院の中にいるのだと思いを巡らすと、龍徳院が限りなく広がっていくのを感じ始めた。それは塾通いをしていた頃、志望校がどんどん移り変わり、将来なりたいと思う夢が黒い雨雲のように、心の中にいっぱい広がり続けた無気味さに似ていた。

 大学に、それも渋谷の大学に合格しながら、それを未練もなく捨てて、龍徳院に来たことは雲水たちの間でもすぐに話題になった。少年僧の中には憧れの目で見るものさえいた。隆はちょっとした英雄だった。隆自身は気付いていないが、龍徳院内では何から何まで特別扱いされていた。松崎があまりにも目にあまる甘やかしには、ストップをかけるくらいであった。

「上野隆のような逸材を育て上げることができる龍徳院でなければならない」

 僧主様は時々、松崎や重い地位の人たちに、そう言って胸を張る。黴が生え、蛆が湧くほど何百年もの間伝わってきた規律づくめのよ淀んだ育成のあり方に、僧主様が挑戦している。明かりをつけようとしているのだ。何百年も護り続けてきた法灯のかわりに、火花を散らし、しかも燃え盛っている最中に、水の入ったバケツに投入するような荒っぽさがあった。

 面倒は見ているが、松崎智典は内心では上野隆を快く思っていない。義妹の斎藤清子から説明され、頼まれた時点で、〈きざな奴だ〉と思っていたらしい。修行がどんなものか、縁のない者は二年と寺にはいられないことを、身をもって教えてやろうと密かに考えているらしいふしが見られた。松崎は吉祥寺の寺に母と途中から入り、龍徳院に預けられた。龍徳院大学を首席で卒業し、将来を嘱望されている。松崎にはその自覚と自負心があった。

 僧主様は松崎を通じて、上野隆に托鉢に出るように命じられた。四月一日のことであった。そのことを表立って批判する人はいなかったが、重い地位にある人たちの中には、〈僧主の悪い癖が出た〉と眉をひそめる人もおられたようだ。龍徳院では四月一日、十月一日はそうしたことを命じる大切な日になっている。

 隆は松崎智典が整えてくれた、首から提げる頭陀袋と鉢の子を持って、龍徳院を出なければならない。地方の末寺から修行に来た三人の小僧も同行だった。黒木綿の法衣と脚絆、それにわらじを与えられた。隆は浅草寺の仁王門裏に吊るされたお化けわらじか、民芸わらじしか知らず、本物を見るのは初めてであった。洗濯はされているが、黄ばみのある白足袋をはいた。小僧たちはコハゼを上手に扱って足袋をはき、わらじの紐を結んだ。

「みんなで行動するときは、他の人を待たせないように、間に合わないようならハゼも一つにしておいて、残りはあとで一人になった時きちんとするものだ」

 師家を言い付かった松崎が激しい口調で言った。二十四、五で師家をつとめるのは、伝統を重視する龍徳院では、松崎が初めてであった。重い職について半年以上になる。

 返事も十分にできないでうろたえている間に、三人の小僧は網代笠を手にして並んでいた。慣れない手付きの隆を見下ろしている。緊張している隆の手は、震えが止まらない。結び終わっている小僧の足元を見て、ようやくわらじの紐を結んだ。足袋を通して伝わってくるわらじの、ざくざくした感触はとてもよいものだと隆は思った。昨夜松崎が剃刀で剃ってくれた頭が、とても寒く感じられた。冷汗を拭いながら、松崎にぺこんと頭を下げた。

 龍徳院の庭を四人の見習い僧が、「ほう、ほう」と唱じながら出て行く。三人の小僧が先を行き、上野隆が続く。最後は師家の松崎智典だった。朝露に濡れている石畳や苔の上に、薄く弱い朝日が樹木の茂みから漏れ射している。隆は心が冴える思いになっていた。伽藍脇のゆったりした坂道を登って行く。上野隆は夏の朝、あの食事前に湖畔を走った高校時代の合宿のことを思い出していた。あの時の「ファイト、ファイト!」の掛け声が、今は「ほう、ほう!」に変わっているだけだった。掛け声の落ち着いた息遣いが酷似しているのに驚いた。高校時代の合宿の時は、ホテルの窓から声援を受け、ばつが悪かった。

 龍徳院の受付の建物が近くなるところは、もうそろそろ岡の頂上で、辿って来た道は深い樹木の茂みに消えている。塔や堂も杉木立の底に沈んでいる。場所によっては甍の黒い広がりが段々に見えるところもあった。東京にはこんな広大な敷地を持った寺はないと隆は思った。七堂伽藍がなだらかな丘陵に配置されていた。

 境内で出会う人は、ことごとく合掌する。座り込んで遊んでいる幼児でさえ、付き添いの人に促されて頭を下げる。五人も一斉に静かに礼をし、また歩き続ける。龍徳院は別世界だと隆は思った。礼のすばらしさを改めて教わる思いがした。唇を噛んで、涙の浮かぶのに耐えた。寺町ではあまり礼をしない生活をしていたと隆は思う。頻繁に礼をしたのは、番台で風呂代を貰う時くらいだった。挨拶、礼は双方の息が合ってこそ美しい。隆は幼児の素直な礼を思い出していた。

 この頃は至るところに自動販売機が増え、切符を買うにも、ジュースを飲むにも挨拶や礼を交わさなくなった。挨拶を交わして、品物を受け取り、お金を渡し、釣り銭を貰い礼をするようなことは少なくなった。手に握っていた温かいお金をやりとりすることも滅多にない。販売機では心が通わない。もの言わぬ販売機に冷たい硬貨を投入する。コチン、ポン、ジー、ストン。カタリ、カタリ。人手を省いたために、同時に心も抜けてしまった。

 店の主人は店頭に様々な自動販売機を幾台も設置して、店内で煙草を吸ったり、テレビを見ている。表では、コチン、ポン、ジー、コチン、ポン、ジー、ストンと響いている。売る方も買う方も礼はしない。冷たい硬貨を投げ入れ、落ちてきた品物を掴み取って去って行く。店主は店仕舞前に、見知らぬ不特定の人たちのために、物品を販売機に準備する。主人はくわえ煙草で投げ入れているだけで、挨拶や礼のことなど考えてもいない。礼が廃れた時、礼を説いても効は薄い。

「ほう、ほう!」

 わらじのざくざくした感触はまだ足の裏に伝わってきている。こんなに早く、こんなに激しい生活の変化が、隆には多少不安であった。読経もまだ空では殆ど唱えられない。何回となく繰り返す部分だけは、辛うじて唱じることができる。それではまったく経にならない。上野隆は、それは数え歌で、「そいつあ豪気だね、そいつあ豪気だね」だけを自信なげに歌うようなものだ、と苦々しく思った。

 

    (6)

 

 上野隆は松崎から昼食時までに戻って来るように言い渡された。隆は心細い思いで、托鉢に出向いた。松崎と他の三人の小僧は、「旅のお宿」と白く染め抜かれた茶色の布のれんの前で、隆を見送っている。経験者の余裕であろうか、見送る者たちには笑いがこぼれ出ていて、明るい雰囲気に満ちていた。

 隆は経典に目をやりながら、行き先のあてもなく読経を続けていた。行き交う人にぶつかりそうになることも、たびたびであった。托鉢に出て、経を読めない情けなさを、嫌というほど知らされた。僧主様のお慈悲だと隆は思った。一刻も早く、経文一巻を諳んじられるようにならねばと決心した。そんな自分が提唱という経文の講義の時間に、自分なりの批判が出てくるのは、まだまだ本当の仏門に入っていない証拠だと気付いてきた。寺にいて経を読む時間を、何と無駄に過ごしていたのだろうと悔い始めていた。

 寺町に育ったせいか、隆は托鉢僧の姿には見慣れていた。浄福湯の勝手口へも、昔ほどではないが、時たま托鉢僧が訪れる。自分が現に今、見知らぬ土地であのような姿をしているのだと連想し、妙な気分で受け止めている。勝手口で鈴を鳴らし、読経をしているお坊さんの鉢に、なにがしかの金品を入れる。僧は礼をしたままの姿だったと思う。隆もあの時礼をしたのを思い出した。

 施しを受ける側も、施す側も双方が同時に合掌して授受する、美しい作法である。隆は幼い頃、施しを与える自分たちが礼をするのはおかしいと思い、母にそのことを尋ねたことがあった。隆の母はこうした話が得意であった。施しを受ける人だけでなく、施しを授ける人も金品への執着を捨てる契機を与えられ、修行させて貰っているからだと説明を受けた。また経の功徳が我が身に及ぶからだとも聞いた。経に対して施しを受けるのだという母の話を、隆は思い出していた。しかしそれらは今の今まで、一片の知識に過ぎなかった。

 自分の命を保つに必要なだけの施しを受けて、それ以上求めてはならないと松崎智典が龍徳院を出る時、戒めてくれたのを思い出していた。それ以上を求めれば在家に迷惑を掛けることになり、その行為は修行ではなく、貪欲な乞食である。乞食(こじき)と乞食(こつじき)は姿は似ていても、まったく別物だと声高に松崎が教えてくれた。松崎の声がはっきりと隆の耳に残っている。経を読めない者が在家の戸口に立って、施しを受けるのは偽善だと隆は思う。授けるものもなくて、ただ求めるのは賤しい心だと思った。それに托鉢をしなくても今日の命は十分保てるだろう。そう思い始めるともう足が進まなかった。

 大寺院の甍が聳えている片隅に、幼稚園があり、遊園地があった。幼稚園の鉄格子は閉ざされていた。少しばかり芽を吹き出しかけている柳の木の下のベンチに腰を降ろし、経を一心に読み始めた。持って来た一巻の経典を何回も読み返していた。いつしか網代笠をかぶったまま、砂場に跪き幼稚園の門を背にしていた。ようやく危なげながら諳んじて経を上げられるようになっていた。上野隆は深く息を吸い込み、経典からゆっくり目を離した。開け放された本堂の暗い内陣で、大きなローソクが光っているのが見えた。仏像が浮き出て、微笑んでいらっしゃる御仏のお顔が見えたように思った。隆ははらはらと涙をこぼし、念仏を幾度も幾度も口軽に唱えた。

 砂場を出て、脚袢やわらじについた砂を払っていた時、ベンチに置いておいた鉢の子の中へ、幼児がビー玉を一個そっと入れた。三色が混ざった美しいビー玉だった。

「ボク、駄目よ、そんなことしちゃ。ごめんなさいね」

 付き添っていた二十歳過ぎの若い母が子を諫め、隆に慌てて詫びた。

「マンマンチャン、アーン、アーン」

 幼児はこう言って、鉢の子の中のビー玉を取り出そうとする母の手を押さえた。頭を深々と下げると、今度は小さな両手を合わせた。

 上野隆は仰天した。幼い頃隣の禅寺の境内で、何にでも手を合わせ、〈アーン、アーン〉と言ったのを思い出したからである。母から何かの折には笑い話として聞かされた。隆は幼児に向かって深々と合掌した。幼児も「アーン」と言って手を合わせ、頭を下げた。

「変な子ね、この子は……」

 母親はそう言ってまた、ぺこんと頭を下げて詫びた。

「坊やありがとう。坊やの宝物、頂いておくからね」

 隆はそう言って、取り出したビー玉を鉢の子の中へ戻した。経文一巻をようやく諳んじることができるようになった。上野隆はそわそわしていた。経文を離れ、景色を眺めながら、目当てをつけて托鉢ができるようになった。恥ずかしい気持と晴れがましい気持が入り乱れる複雑な気持で、初めて在家の戸口に立った。足ががたがた震えて、鉢の子を持っているのがようやくであった。ひっそり閉ざされているガラス戸に托鉢僧の影が映っている。経文一巻をあげ終えても人影はなかった。右手一本で合掌し、頭を深々とさげた。指先に温かい鼻息を感じた。

 小川に架けられた小さな板橋を渡って、隣家に移った。表札を拝み、そこに書かれている多くの人たちの健康を祈った。小さな泥つきの靴や鼻緒の切れた大人の下駄が散乱していた。玄関脇の大きな庭石の上で、汚らしい男の子が立小便をしていた。黒土の上に飛沫が上がり、小さな流れになって、先は土に染みこんでいる。わらじや足袋を通して飛沫が飛び込んでくるように思い、隆はつい顔をしかめた。経を上げている間、先ほどの男の子を先頭に這い出してくる子など、四人もいた。四人はざれながら経を唱える隆を面白がっている。大人は誰も出て来なかった。手を合わせて板橋を戻って来る時隆は何か寂しいものを感じた。いったい自分は何を期待していたのだろうか。お布施をあてにしていたのだろうか。またはその大小によって、自分の功徳を計ろうとしていたのかも知れない。恐ろしいことだと隆は思った。諳んじた経文を、四人の子供たちが初めて聞いてくれたのだ。もうそれだけで喜ばなくてはいけない。まだろくに経も読めない者が、無心でいられないなんて……。生涯を御仏に仕えるなど到底できるものではない、と上野隆は自戒していた。

 短かい経文しか諳んじていない自分は惨めだと隆は思った。このような状態の自分を、僧主様はどうして托鉢に送り出したのかを隆は不思議に思い始めた。師家役に当たっている松崎智典にしても、よくも無責任に合点したものだとも思った。それは二人の御慈悲なのだ。隆はこの托鉢で何を学べばよいのか思案していた。たかだか今はこうして托鉢を通じて、いかに龍徳院での生活が大切かを知ることにあるのだと思った。薪割りにしても、雑巾掛けにしても、東司の掃除にしても、あらゆるものが重要であった。それらは同等に、以下でも以上でもなく、まったく同等に読経や提唱にもあるに違いないと思い始めた。そう思うと托鉢に出された謎も、霧が晴れるように解けた気がした。何をしていても坐禅と同等な価値があるのだと隆は気が付いた。

 

    (7)

 

 上野隆は昼食時に、「旅のお宿」の布のれんを潜って中に入って行った。松崎智典は脚袢をはずして、酒を飲んでいた。他の小僧たちもビールを口にしたらしく、ビールびんが二本ばかり横になっていた。焼き鳥の竹串が皿の上に何本も、焼け焦げた肌を見せていた。小僧は眠そうな目をやっと開けている。隆の姿を見た小僧たちは姿勢を正そうとしたが、体が思うように動かない様子で、だらしがなかった。それを見た松崎が、平手を横に振り、その必要はないと制している。

「托鉢はどうだったかね」

 松崎は欠伸をするついでに、そう尋ねた。

「いい勉強になりました」

「勉強じゃしょうがない。成果がなくっちゃ」

「成果と言われても……」と隆は困惑していて、それ以上何も言えないでいた。

「鉢の子を見せてみな」と松崎が盃を口に運びながら、鋭い目付きで言った。

「何もありません」

 隆は鉢の子の中のビー玉に目を落としながら、気落ちした声で言った。

「だろうなあ。でも中を見せてみな。お前のことだから五千円札の一枚も入れておくかも知れんから……。入学金など持ち逃げして来たと言うじゃないか」

 意地悪そうな笑いを浮かべていた。ビー玉が転がってチリチリと鈍い音が響いた。松崎はその音を聞き、身を乗り出して、隆の鉢の子を覗き込んだ。

「ビー玉じゃないか。人を馬鹿にして……」

 見咎めるような冷たい視線が隆に投げかけられた。

「幼児が自分の宝を……」

 隆はそう言いながら幼児の清らかな顔と、ローソクの光に照り輝いていた御仏のお顔を思い出していた。あの子は施しの喜びを知っていて、手を合わせてくれたのだと主張したかったが、松崎の怒りを含んだ赤ら顔を見て勇気をなくした。自分の信仰の薄さがちらっと気になった。

「托鉢は遊びではないんだ。幼児のビー玉なんか鉢の子に入れて……」

 松崎は貪欲に焼き鳥にかじりついた。龍徳院での厳格な生活に反発しているかのように隆には見えた。

「手を合わせていただいたからには、ただのガラス玉ではないと思います。少なくとも僕には托鉢をして最初に頂いたお布施で、僕にとっても縁のある宝なのです」

 隆は思い切って言った。今しがた応答のない家を何戸か訪ねて、自分が気付かずに思い違いをしていた分を、はっきりと戒めておきたく思っていた。

「何とでも理屈を言っているがいいさ」

 松崎は酒を飲みながら、見向きもせずに言った。

 上野隆は何もかも不思議でならなかった。龍徳院では精進料理を、しかも少量しか摂っていないのに、松崎はどうしてこんなにがつがつ飲み食いができるのだろう。どんな胃袋をしているのだろう。代金はどのように払うのだろう。飲食店に入らずに、お宿ののれんを潜るのは何故だろうなどと考えていた。

 五人の間にどことなく気まずい空気が流れていて、特に隆は視線の定めようがなかった。三人の小僧たちももじもじしている。松崎一人はテーブルに片肘付いて、酒を飲み続けている。隆は空腹のせいもあって、時々夢を見ているような気になった。師家の松崎智典が餓鬼の苦しみを教えてくれているようにも思った。

「それが托鉢の成果いうもんや。よう覚えておいたらええ。今日のところ、渋谷の大学生はんはビー玉でも舐めておったらええのや」

 松崎の声は、みごとな京都弁だったが、寂しげな低いものであった。自分に言い聞かせているような妙な口調だった。隆は吉祥寺育ちの人でも長く京都で生活しているとこんな言葉遣いになるのだろうかと思った。東京弁と京都弁を使い分けている松崎の生活は不自由だろうと同情していた。お坊さんには京都弁が似合うように思った。

 上野隆のおなかがぐぐっと鳴った。小僧たちは気の毒そうに同情の眼を向けた。松崎は聞えない振りをして、煙草に火を点けた。煙草の煙がすうっと昇って、小僧たちの頭上に広がった。

「さあ、戻ろうか」

 くわえ煙草をしている松崎智典が、脚袢に手を伸ばしながら言った。「上野君、君はもうしばらくここにいるといい」柔らかな京都弁は使わなかった。

「でも……、ご一緒しないと……」

 隆は網代笠を持って立っていた。

「お僧主様にはうまく言っておくから、心配はいらない」

 強い口調で松崎の苛立ちが煙草の煙のように広がって見えた。酒のせいだと隆は心に言い聞かせていた。松崎と小僧たちは逆光の中を出て行った。最後の小僧がじっと振り返っている姿が、影絵のように四角い枠の中に浮かんでいる。

 隆はたたきの上にわらじを脱ぎ、ふくらはぎを親指で何度も押した。畳に足を上げるのが気がひけるほど、足袋は汚れて濡れている。足を土間に投げ出し、テーブルに肘をついてぼんやりしていた。ビー玉を施してくれた幼児や、軒下で立ち小便をしていた子供たちの顔がくるくると頭の中を廻っていた。

 店のサンダルを突っ掛けた卵色のスーツを着た女性が代金を支払っている。西陣織の財布を広げている。その手つきを隆はどこかで見たような気がして、目を擦った。アイシャドウを塗り、アイラインを引き、付け睫をした厚化粧の女だった。真紅の口紅を塗り、ふっくらした頬には薄い紅が掃いてある。大きな瞳を覗き込むようにして、隆はようやくそれが斎藤清子であるのに気が付いた。かつての清純な名残がないほどに、艶やかに変身していると隆は思った。日舞の舞台に立つ時以上の変わり方だと思った。

「どうしてこんな所に君が……」と、意図的に気を静めながら隆が尋ねた。

「松崎にお金を持って来たの」

 納得を迫るような言い方だった。松崎は師家役に付き、いよいよ本格的な資格が与えられる段取りになっている。そのためには表から、裏から多額なお金が必要だという。お金の方は吉祥寺の義父が、寺町の「清川」のマンションを分譲して工面しているらしい。

 松崎智典は大学生の頃からなのだが、龍徳院の生活そのものが肌に合わず、托鉢をしても、行脚をさせられても、それらの修行を正面から積むことができず、居直ったり歪んだりしているらしい。僧になることと、大学で学問を身に付けることとの間には、難しい問題が隠されているらしいと清子が説明した。何年も前からそうした時のために、このお宿の一室を斎藤清子の名義で借り受けている。

 夏休みなどには清子も日舞の発表会を見物がてらに、たびたび来ていたらしい。

「どうしてそんなことまでして僧になるのかね。何のため、誰のためになるのだろう」

 隆は汚れた白足袋をぶらぶら振りながら呟くように言った。

「父は吉祥寺の寺を何としても継がせたいのよ。吉祥寺を足がかりにして、もっと大きく、格式の高い寺を狙っているんだわ。このままうまくいけば、何とかなりそうなの」

 いつしか清子はテーブルを挟んで、上野隆と対して坐っていた。

「そんなものかなあ」

「そんなものよ」

 隆は清子のさらりとした言い方に、がっかりしていた。汗だくになって酒を飲み、がつがつ焼き鳥を食べていた松崎智典の顔が、ちらちらと脳裏にちらついていた。

「こんなことを龍徳院の僧主様はご存じなのかい。まともに修行もせず餓鬼畜生のように飲み食いしている者に、貴重な資格を与えるのかね。まったくどうかしているよ。何だかがっかりだね」

 睨みつけるような鋭い形相だった。激しい息遣いが清子にも伝わっていた。

「こんなからくり仕掛けは、僧主様はご存じじゃないわ。お知りになったら大変な大騒ぎになるもの。松崎のこれまでの労苦がお釈迦だわ、間違いなく……」

 伏し目がちに清子が言った。「でもあなたも同罪だわ。ここにこうして一緒にいたんだから……」と付け加えた。

「僕は卑怯な真似はしていないよ。僕は飲み食いをしていないもの。松崎様は僕を同じ罪に陥らないように僕を誘わなかったのさ。君の兄さんは聡明だから、僧主様に訴えたりする僕ではないことを見抜いてもいたんだ」と言う隆の断定的な声が、力強く辺りに響いた。

「今日のことじゃなくってもよ。この前ね、隆君のお父さんもここに泊まって行かれたのよ。そのことだってあるわ」

 清子は隆の弱点を掴んでいることを、得意気に話した。

「何だって……、まさか僕の父が……」と、隆は無意識に畳の上に正座していた。

「隆君が龍徳院に着いた頃、お父様に隆君のことをお知らせしたの。松崎を訪ねて行ったこともお教えしたわ。授業料を納めて、身分証明書をあなたに見せれば、もしかしてあなたの心が揺らぐかも知れないって提案したのも、この私なの」

 清子は得意そうに浮いた声で言った。

「担任じゃなかったのか。でもそれは失敗だったね」

「そのうち気が変われば大学に戻ればいいのよ。松崎もそう言っていたわ。だからこうして松崎はあなた一人をここに置いて行ったのよ」と、清子は微笑んでいる。

「僕は破り捨ててしまったよ、あんなもの……」

「破ったって同じことよ。再交付願いを提出すればいつだって、何回も手に入るのよ。大学の原簿まではあなたにだって抹消できないわ。どう……、まだ未練があるんでしょう」

 女性特有の意地悪さが漂っているようだった。隆はそんな清子を、女のちょっとだらしのない美しさがあると思った。あなたと言われるのが何となく嫌だった。高校の卒業式を終えてまだ何か月にもならないのに、急に大人になったような気がして、気遅れを感じた。

「親父は心配して帰ったんだろうな」

「ううん、何も心配していなかったようね。小さい時から風変りな子だから、何とかやって行くだろうって、割合呑気ぶっていたわね。辛抱してくれたらいいって……」

「そんなだったら身分証明書なんか、持って来なきゃいいのに……。何十万も出して……」

 二人の話は続いていた。隆は空腹と時間の経過をすっかり忘れてしまっていた。からからと笑う二人の会話が、お宿のたたきにこぼれていた。

「吉祥寺の兄はこのところ苛立っているのね。資格を取り、そのたびにそれを披露するのに何十万円もかかるってことで……。だから松崎はね、ああして精一杯の抵抗をしているんだわ。大学に入学した頃は、あんなじゃなかったもの。十日間の断食だってやってのけたし、どんな難行苦行にも耐えたのに……」と斎藤清子は、急にしんみりした小声で言った。

「山川の清流のような新鮮さがなくなってしまっているわ。都会の水道の蛇口から出る水みたいなものね。要するに中身は全部、溜まり水よ」

 付け加える清子の声は震えていた。上野隆は黙って耳を傾けていた。自分もいつかは溜まり水になるのだろうかと思ったりしていた。この時は清子を一回りも二回りも大きな女性になったと思った。

「俗界を離れて龍徳院で修行している松崎さんが、溜まり水かね」

 上野隆はわがことのように、問い正した。

「私たちもそうよ。職業ってことになると、ついつい溜まり水になってしまうのよ。厳しい戒律のある寺院など、特に淀みがちみたいね。松崎がそう言っていたわ。あなたの生き方は、かつての自分にそっくりだって……。怖いくらい似ているんですって……。だから決してうまく運ばないから、大学に戻るように私からすすめなさいって……」

「で、君はすすめないのかい」

「私の言い分を聞くあなたでないことぐらい、百も承知しているもの」

「そんな話、ここでしたの?」

「小僧さんたちもいるし、そんなことできないわ。二人だけで二階のお部屋で……。あれでも松崎は苦しんでいるのよ」

 清子のぎごちない言い方が、隆には気になった。兄のことを松崎と呼び、松崎がぐんと清子に接近し、清子が手の届かない所まで押しやられたような違和感を、隆は持ち始めていた。

 

    (8)

 

 何度目かの托鉢を終えて、龍徳院に戻って来た時、上野隆は僧主様に呼びつけられた。心を冷やして奥の書院に出向いて行った。庭の桜も葉桜になり、緑鮮やかな五月になっていた。僧主様はいつものようなにこやかなお顔ではなかった。

「托鉢を何回重ねても、まだ心が濁っているね。十分な施しを受けていないのも、その証拠の一つだと思われますぞ。上野君はまだまだ信仰が薄いのです。松崎君を見習うがいい。彼は托鉢や行脚に出れば、その都度必ずと言ってよいほど顔色がよくなり、施しも沢山受けて戻って来てます。問題は信仰の篤さと情熱の深さだね」

 疲労のせいか、隆には僧主様の口調が激しく思われた。松崎のいつかの京都弁を聞いた時の驚きを、僧主様にも感じた。

「僧主様……」

 上野隆は松崎智典の不届きな行為や、宿を設け、そこに義妹の斎藤清子がいることなど、目にあまる振舞いを打ち明けようかと、一瞬思った。そうしないと龍徳院が駄目になってしまうような気がした。うぶげの小鳥のように、細い声でもいいから見たこと聴いたことを訴えようと思った。しかし僧主様がそのような松崎の院外での生活を見透かさないはずがない、とすぐに思い直した。見逃されているにしても、それだけの重いいわれがあるに違いないと思い、明かすのを思い止まった。

「僧主様、さらに修行を積み、信仰を深めますから……」

「分かっておることです。お前さまには松崎ほど篤くはないが、しかし純粋な信仰心がある。大事にしなくてはいかん。さらにそれを深めなくてはいけない。明日より十四日間行脚に出なさい。期待しておるからこその命令です。京の町を離れて、雲の如くに生きてゆくのです。よろしいかな。二週間後にはまた新たな修行が待っておるのです」

 厳しい表情は薄れ、いつもの優しい声に戻っていた。

 夜になって松崎智典が袈裟文庫を用意してくれていた。文庫は菓子箱くらいの大きさで、その中に袈裟や安名を収める。松崎智典が袈裟文庫の底に一万円札を一枚入れた。それは昔からの決まり切った形式だった。

「もしも修行中に行き倒れになったりしたら、これがその時の火葬代の一部だ」

 松崎はそう言ってにやりと笑っていた。持鉢と名付けられた食器や砥石や剃刀など一つ一つ説明を加えて頭陀袋に納めてくれていたが、隆はほとんど身を入れて聞いていなかった。行脚に出るということ自体がどういうことなのか隆には、想像もできないでいた。とにかく二週間龍徳院を離れていることだと思った。

 どこへ行けばよいのか、見当もつかずに暗い屋根裏の部屋で、いつまでも目を開けて考え続けていた。浄福湯を抜け出て来た時から、自分の行脚が始まっていたのだと気付いた時、ようやく少しばかり気を落ち着けることができた。〈試されているのだ〉と言った松崎の声や、〈ならないものはならない〉と教えてくれた隣の禅寺の坊さんの声が重なって聞えている。

 龍徳院を出る時、「潤いのある心を持ち続けて行脚しなさい」と僧主様が隆に公案を与えた。隆は深々とお辞儀をした。一人で旅行をした経験のない隆が、行脚することは大変な冒険であった。好き勝手に旅をする放浪とは違う。旅の中に潤いのある心を求めて旅をするのが行脚である。

 その日は歩けるだけ歩き、晩鐘の響く前に山寺に一泊の宿を頼んだ。村はずれの小さな御堂だけの粗末な寺であった。

「頼みましょう」と言って、隆は玄関に坐って頭を下げた。

「どーれー」

 太くリキのある返事が返って来た。「いずこより来られたのかな」と尋ねられた。

「一介の旅の雲水です。一夜の宿を与えて下さい」

 上野隆は淡々とした口調で言った。これ以上何一つ身分を明かす必要はない。それがむしろ礼儀とされている。投宿を許されて愉快な気分が湧いてきていた。

 丹後の春はフェーン現象のせいか、蒸し暑かった。丸い木桶の風呂が立てられ、汗を流すようにすすめられた。積もった旅の疲れが、じわじわと噴き出してくるように思われた。風呂上がりに青竹の樋を流れてくる水を口に含んだ。冷たくてよい味がした。隆は都会の人工的な溜り水とは味が違うと思った。

 住職一人しかいないようだったが、小ざっぱりと綺麗な夕飯を準備してくれていた。丹後ちりめんで作られた座布団の肌触りが、風呂上がりの足に快適だった。行脚は疲れが残るから、どしどし食べなくては駄目だと住職が勧めていた。自分の体験を他人に生かせるのはすばらしいことだと隆は思った。夜になっても気温はいっこうに下がらず、寝苦しい一夜だった。

 昨夜のことをそれとなく思い出していた。コンクリート工場の太いヒューム管の中で一夜を過したことが、遠い昔のことのように思われる。顔や足先に風が流れ、一晩中車の走る騒音が管の中を渦巻いていた。袈裟文庫を隣のヒューム管の中に置いたのが、気になり続けた。御仏を粗末にしているというより、いつも何かを所有していないと安心しない自分に気付いた。行脚を通じて日頃の自分が、如何に衣食住や名声などに、拘泥しているかを嫌というほど知らされた。山寺に一夜の宿を求めたのも、結局はヒューム管の中や橋桁の下の宿りに飽き、所有の生活をしたかったのであろう。

 行脚に出して下さった僧主様に、上野隆は素直に感謝することができた。生まれて初めて自由に物を見、事をありのままに考えることができたように思った。日頃は勝手気ままなことをして、それを自由だと考えていた。定まった身分にあっては、そのことが邪魔になって自由に考えることはできない。まして自由放題に生きることは不可能だと隆は思った。物を手にすることが自由の証みたいに考えていた、これまでの生活は間違いだと分かってきた。柔らかな布団の中で、隆は目を閉じて両手を合わせていた。蓮華坐に静かに坐っておられる菩薩の姿が目蓋に浮かんだ。ふっくらとした頬の線が印象的だった。飛び起きて布団の上に座禅を組み、隆は恐る恐る目を開いた。菩薩の姿がすっと消滅する。目を見開いて前方を凝視したが、もうそれらしい気配すらもなかった。色褪せた破れ障子が見えるばかりであった。

 木魚の音を聞いて上野隆は布団を飛び出た。破れた障子の間から白い朝の光が射し、障子全体がのしかかってくるように思えた。その山寺には観音菩薩は、どこにも見当たらなかった。隆は潤いのある心を持って、行脚が続けられるように思った。

 

    (9)

 

 龍徳院に戻った時、上野隆はすっかりやつれていた。頬肉が落ち、目は黒ずんで窪んでいた。足は浮腫んでいて、血管が青黒く走っていた。二週間の行脚がどんなに苦しいものであったかを物語るものは、他にもいくつかあった。

「潤いのある心を持ち続けて、行脚ができましたか」

 僧主様が隆のわらじのひもを解きながら、お尋ねになった。労り深い声だった。

 隆は十分な返事ができず、頭をゆっくり横に振った。髪は乱れて汚れていたし、髭は伸び放題だった。四、五日目ぐらいまでは顔を洗ったり、髭を剃ったりしたが、雨の日に橋の下で寝そべって過ごしていたら、次の日剃刀を当てるのが怖くなっていた。その日以来、剃刀はどうしても使えなくなっていた。

 重湯を一椀すすってから風呂に入った。普段は大方の僧侶たちの入浴が終わってから、隆たちの番だが、行脚から帰った日はまだ夕方の光が浴室に射している明るい時刻に、湯場に入った。二人の小僧が隆の髪を落し、髪を剃り、体を入念に洗い、湯を流した。黒く汚れた湯が白いセメント張りの上を、薄墨を撒いたように流れた。僧主たちはいつもこうして二人の小僧に手伝わせて入浴するのだった。僧主たちは毎日龍徳院で心の行脚をなさっているからだ、と隆は思った。

 湯舟に体を沈めると、体が浮き上がるように感じた。熱い湯が全身に染み渡るように思われ、痛みさえ覚えた。洗い場に戻った時、隆は眩暈がし、セメント張りの上に倒れ込んでしまった。小僧たちは少しも慌てずに名前を呼んだが、隆はただゆっくり頷くだけで、体を起こそうとはしなかった。頭の青い剃りあとが赤みを帯び、湯気をたてていた。

 その夜上野隆は久し振りに龍徳院の梁の見える、天井の低い部屋で冷たい布団にもぐった。階下の足音や話し声、かすかな読経の声が丹後の海の音のように聞えた。沈香やローソクの匂いが磯の香りに思えた。紫色がかった海の色が脳裏に鮮やかに浮かび、黒紫色の波が松原に押し寄せている。山頂の神社の社が浮かび、山寺の鐘の音が響いてくる。体中が火膨れしたように痛み、節々がポキポキ音をたてている、と隆は思った。松崎智典がやりとげたという十日間の断食は、一体どんなだったのだろうとふと思った。

 三日後に隆は庭詰を許された。いよいよ本格的な修行に入るのだと気持が浮き立っていた。大学を出ていない隆は、これまで托鉢や行脚を先に試みて、どれだけ真剣に仏門に入りたがっているのか、その真偽のほどを探られたのだと分かった。道場の上がり口に横坐りになって頭を下げ、入門の行を続けなければならない。入門が許されるまで、低頭し続けなければいけない。こんな馬鹿げた愚かなことに耐えることを考えれば、寺町での生活や塾の勉強などは、遊びみたいなものに思えてきた。

 強硬不動の意志を示し、入門許可が出るまで頑張る。三日でも四日でも低頭し続ける。単純なことほど耐え難いものはない。三度の食事も上がり口に運ばれ、そこで摂る。食事の時と東司へ行く時以外は、絶対に頭を上げてはいけない。頭を上げれば元の木阿弥。そのようなことが再び重なれば、入門は許されず、修行を積むことができなくなる。庭詰の行は、寝る場も食事も定まっていない行脚より、はるかに厳しい行であると隆は思った。低頭は実に苦しい行で、礼の美しさなどを考えてはいられない。幾度もばかばかしく思い、頭を上げようと思ったか分からない。

〈潤いのある心を持ち続けなさい〉と言った僧主様を思い出してさらに頑張る。僧主様の言葉がしらじらしく思われ、僧主様を憎む心さえ湧きあがってくるのだった。時々もうどうなってもよいと思うことがあった。

 食事を運んでくる小僧に話しかけたくなる。そんな時小僧は子犬のように片足を膳の上に投げ出して、おどけたりする。ある時は、膳の隅に斎藤清子の舞台写真が置いてあったりもする。〈何か知っているの?〉と、今にも訊ねてみたくなる。隆は唇を噛み、目を閉じてじっと我慢した。師家の松崎智典の悪戯だと分かると意地にでも頭を下げ、歯を食いしばった。

 今度松崎が低俗な悪戯を小僧にさせたら、からから笑って頭を持ち上げてやろうと思って、板の目を睨んでいた時、入門の許可が出た。肩をがくりと落し、溜息をついた。隆はその場に大の字に寝そべってしまった。四日目のことであった。この四日間は、二週間の行脚の幾倍にも長く感じられた。

 庭詰の修行が終ると、日過詰の修行が待っていた。僧堂の壁に向かって坐り続ける行である。師家の松崎智典が、〈君なら大丈夫だ!〉と笑いながら言ったのを、隆は執念深く思い出していた。三日ほどもすると足腰が痛み、坐っていられなくなる。痺れた筋肉の中に骨が食い込み、遠のく感覚をじっと我慢している態であった。壁に向かっている自分の存在すら自覚できないほど、気が遠くなり慢性失神状態になる。達磨大師は面壁九年と伝えられ、そのため手も足も用をなさなくなり、達磨さんになってしまわれた。台東区の生家に隣接した寺の境内での清子らとの達磨さんごっこを懐かしく思い出していた。

 日過詰が合格すれば、ようやく新到参堂の新人として認められることになる。新到は少なくとも三年の修行が必要であり、この間は何があっても外部の人たちとの接触は禁じられている。日過詰は普通一週間と聞いていたから、上野隆は何十回となく、過ぎた日数を指折り数えたかしれない。蒸し暑い日などには、向かい合っている壁を刳り貫きたい衝動にかられた。いっそのこと真冬だったら、我慢できるのになどと勝手な思いが湧いたりしてくる。過ぎてしまえば何もかも大したことはなく思われ、日過詰もついに合格した。

 新到参堂の儀式もしめやかに終え、師家の松崎智典は一段と僧主様に見込まれ、僧侶たちも彼に敬服した。この頃になってようやく行脚の時の足の浮腫も引き、体調も復調したように隆は思った。もう一、二か月して夏になると三時に起床し、読経、坐禅の生活に明け暮れることになる。多分一時間早く起きるのは辛いだろうとしみじみ思った。夜は夜で九時まで坐禅である。九時過ぎても暗い境内や堂内で夜坐という坐禅も組む。やはり日本では何と言っても僧侶が一番勉強をしていると隆は思い、龍徳院にいること自体得意に思ったりしていた。

 松崎智典は上野隆が新到になってから、非常に優しくなり、心おきなく何でも話せるようになった。かつてのような厳しさは消え、清子の義兄だとすぐ結びつけて考えられるようになった。

 日過詰を終えてほっとしている間もなく、月に一度坐禅を重点的に行なう接心の時がやってきた。接心はひたすら坐禅を続ける不臥の行で、隆も接心に加わることが許された。接心の折御仏の御姿が目の前に現われることがあると聞いた。松崎智典はしばしば御仏の姿に接するらしい。

 堂内の静寂は初めの間はむしろ精神統一の妨げになり、さまざまな思いが浮かんでは消えていく。滝に打たれて行をする場合には、水の瀑音が耳をつんざき、心を静めることができない。しかし心を落ち着かせて一心に御仏を念じていると、飛沫の瀑音は宙に吸収されて、静寂な世界が深々と広がってくる。炎の前で行をする場合には、燃え上がる炎の音と熱気で、気持を一つにすることがなかなかできない。しかし行を重ねるうちに、炎の中に御仏の生きた姿をありありと見ることができるようになるという。堂内の静寂も坐禅に専心しているうちに、妙なる音の世界になり、かぐわしい香り高い空間に導かれるらしい。

 上野隆は御仏の実像をついに見た。頬のふっくらした、線のような細い目をなさった、見上げるほどの御仏様のお姿だった。蓮華坐に静かに坐っていらっしゃる御姿に、隆は深々と頭を垂れて、手を合わせた。音楽が消えていくように、御仏の姿も静かに消えていった。腰が抜けるように体の力も尽きて、だらしなく前こごみに坐っていた。隆は薄れていく意識の中で、松崎智典もこうした尊い経験をたびたび持つのだと思った。

 境内の隅に戒壇院と名付けられた古い御堂がある。松崎智典が戒壇院で受戒する日が巡って来た。松崎は相変わらず血色のいい顔をして、精力的に龍徳院の数多くの堂を廻っていた。位階がまた一段上がったらしい。御仏の御姿に接したというのが、その日の確かな理由であった。

「松崎様、おめでとうございます」

 薬石のあと、たまたま東司で隣り合わせた松崎に隆が声をかけた。ここ二、三日離れて生活していて、食事時も隣り合わせなかった。

「清子から聞き及んでいるだろうが、今回もまた今日の受戒のためにだね、何十万とかかっているんだ。まあ、資格を買っているようなものさ」

「そんな……、でも松崎様は御仏の実像にお会いできるだけの、深い行をなさっているんでしょう。すばらしいですね」

「隆君、……妄想か、幻想でなければ、今どきそんなものが見えるわけがないだろう」

「ええっ……」にやにや笑っている松崎の横顔を、隆はしげしげ眺めた。「松崎さんはたびたび御仏のお姿にお会いできる、と小僧たちも言っています」小声だが訴えるような口調で付け加えた。

「どおせ、お宿で一緒だった小僧たちだろう」と、松崎智典はひときわ明るい声で言った。

「実は僕も二度ばかり御仏のお姿に接したんです」

 隆は真剣な口調で堰を切るように言った。松崎に伝えないではいられない心境だった。

「君、馬鹿を言っちゃいけないよ。そんなもの、幻覚だよ!」

「松崎さん、信じて下さい。本当なんです」

「そりゃ、信じるさ。僧主様だって俺のことを信じて下さっているんだから……」

「僕のは本当なんです。二度もですよ」と隆は、口早に憤りながら言った。

「お金を持って来てくれた清子だって、俺は御仏の御姿に接していると信じているさ」

 松崎智典の乾いた声が東司内に響き、明るい笑いが反響していた。隆は肩を落し、屈み込んでしまっていた。松崎と一緒に東司を出ることができなかった。東司の木の戸が音をたてて閉められた。松崎が清子と呼び捨てにして、妹と言わないのが、隆には何となく居心地悪く聞えた。

 

    (10)

 

 龍徳院での一年余りの生活は、上野隆には今となっては夢のようで現実味が薄らいでいた。朝早く起き、夜も遅くまで経を唱じたり坐禅を組んだりした。托鉢に出たり、薪割りもする。粗食にもすっかり慣れた。

 上野隆は松崎智典の二重生活を知り、松崎に落胆しただけでなく、松崎を生かし大切にしている僧主様に失望し、龍徳院に絶望した。その後も斎藤清子はしばしばお宿に行き、松崎と時を過ごし、金を手渡していた。松崎は青白く痩せ衰えるどころか、ますます赤みがかった艶のある顔色になり、リキのある皮膚になった。位階も着実に一段一段昇り詰めている。

「君は個人的な理想論ばかり言っていて、仏教界全体の隆盛などを考えていない。修行だけでは己の自己満足はあっても、凡夫を救うことはできないんだよ」

 松崎智典は、小僧が幾人かいる時に限って、大声でそう言うのだった。

「松崎さんは他人を救えると、本気で考えておいでなのですか」

 上野隆はついに我慢ができずに叫んでしまった。傍らの小僧たちが驚いて、上野隆の顔をしげしげと覗き込んだ。それは決して軽蔑の眼差しではなく、同情的な、好意的な輝きがあるのを感じ取っていた。

「他人を救えないで、どうして僧が勤まるかね。まったくどうかしているよ、今日の君は……。僧主様もおっしゃっていたが、君はもっと素直にならなくっちゃ駄目だよ」

 松崎は、先人が救えると言っているのだから、自分も救えるのだと論陣を張り、現に救っていると信じている。位階も着実に上がっているし、小僧たちも松崎の思うように動いている。龍徳院の折々の法会、受戒式などの際には、信者から松崎あての供物や寄進がかなりある。若手僧の中では群を抜いた勢力を築きつつあった。

「松崎さんご自身、心に救いと安らぎがありますか」

 上野隆は大真面目で、にこりともせずに尋ねた。

「クリスチャンみたいなことを言わないでくれ。自分が救われていないで、人を救えるかね。上にいなきゃ、手を差し伸べられないだろう」

 松崎の語調には激しいものがあった。

「そうですよね。自分が救ってほしい立場にあって、人さまを救うことは無理ですよね」

 上野隆の納得したような言い方が、松崎の気に障った。松崎は首筋を真っ赤にして隆を罵倒した。隆のように自分が救われたい一念で、修行をしているのは身勝手な我ままだと松崎は言う。自分一人の生ではなく、自分の生は同時に人類に何らかの奉仕に通じるものでなくてはならないと松崎が主張した。隆は確かにそれはそれで当然のことと思った。しかし今の松崎は……とつい隆は考えてしまう。吉祥寺の父がいて、「清川」があって松崎は支えられているのだと隆は思った。

「君だって俺だって父や母があって、こうしているのだ。一方では救われ支えられているんだ。それは事実だ。しかしだからといって人を救っていることに、何ら傷が付くものでもないんだ」

 上野隆は、こうした松崎智典の話を聞くと一から十まで、一つ一つが納得できることばかりなので、ますます腹だたしくさえ思えてくる。確かに理窟ではその通りなのだ。しかし実際の松崎の生活はそんなではないと隆は思う。どこがどうなのかを、指摘できない苛立ちが頭の隅から体中に広がっていくのであった。

「でも清子さんなんか、松崎さんの位階が上がるたびに、大変な犠牲と苦しみを受けているんですよ、違いますか」

 上野隆は小僧たちが庭の草取りや掃除に出て行ったのを見はからって、小言のように松崎智典にもぐもぐ言った。

 気にしていることや不都合なことはよく響く。松崎の首筋に太い血管が浮き出てきていた。

「君は何にも知らないんだ。清子たちは喜んで協力してくれているんだよ。注ぎ込んだものは、何年か後に五倍、十倍にもなって戻って行くんだ。決して損な話じゃないんだよ」

 松崎の声はかすかに震えていた。平静を装おうと努力しているのが、隆にもよく分かった。

「松崎さんのところへ戻ってくるだけでしょう。五倍、十倍になって帰ってきたにしても……」

 上野隆の気は立っていた。ここまで長い間我慢し、誰にも言わないで堪え忍んできたことが、一旦口を切ると止めどなく言葉が続いて流れるように出て来る。隆自身不思議に思った。正しいことを主張して通じると思ったら、大間違いであった。間違ったことでも、正々堂々とまかり通ることこそが、世の中の常であるかのように思えてくる。隆は今まで世の中は正義は通り、道理が幅をきかすところだと思ってきた。些細な間違いや、ちょっとした横暴はいつだって、どこにでも落ちていると想像していた。でもそれらは正義や道理が少しでも顔を出せば、暗闇も月の光の中に吸収され、辺りは明るくなると信じていた。龍徳院の茂みや巨大な甍は、それほどのことでは少しも明るくならないことに、隆はようやく気付いた。隆はそれどころか、自分の知らない深い暗闇が、どこかにありそうな気がしてならなかった。

 龍徳院を初めて訪ねた時、配置図通りの大伽藍がどこにあるのか見当がつかなかった。今もまだ、どこで、何がどうなっているのか分からないことが多い。松崎智典は龍徳院の深く淀んだ溜り水の中で大活躍をしている。松崎はそれができる人だと隆は思った。松崎の背後にはまだ会ったことのない吉祥寺の住職の陰が、色濃く出ているように思った。斎藤清子がその手足になって蠢いている。清子の母だって吉祥寺の住職の言うがままになって、協力している。彼女たちの幸せは、そうすることによって、ようやく息づいているのかも知れない。

 一度許した心の緩み、そっと支えて欲しかったか細い依頼心が、何年か後には不動の関係に根づいてしまうことがある。松崎もきっと一度や二度は、龍徳院を逃げ出ようと思ったに違いないと隆は思う。思案に暮れて、ぼんやりしている間にも、時間は刻々と確実に流れて行く。松崎自身も流されたに違いない。底なし沼に足を取られるように、もがけばもがくほど腰も、胸も沈んでいく。松崎は気の毒だと隆は同情した。一人のために二軒の家が崩れてしまう。松崎智典も龍徳院の谷間の書院を占める僧になり下がってしまうのだろうか、と隆は不満に思った。

〈今ならまだ逃げられる〉上野隆は、こう思いつめた時、挨拶もせず、書き置きもしないで龍徳院を逃げ出た。僧主様に挨拶する勇気はなかった。僧主様は、隆の将来を期待していて、松崎智典の後を継ぐ立場だと言っていた。お金は多少かかるが、両親がそれだけの覚悟をし、援助できるなら、位階はどんどん上がるだろうとも言った。両親に相談するように幾度となく勧められたが、隆は父にはそのことを一度も話さなかった。父の経営する浄福湯は、景気のよい仕事ではないことをよく承知していた。清川のように粋な金も入らないし、分譲マンションを建てるわけにもいかない。浄福湯は代々受け継がれて来て、寺町の人々に喜ばれてきたのだと隆は誇りに思う。浄福湯を絶やしてはいけないとも思った。

 

 上野隆が龍徳院を出て、寺町の浄福湯に戻ったのは梅雨も明け、すっかり暑い夏になった頃であった。入谷の朝顔市や浅草寺のほおずき市も過ぎていた。四万六千日の縁日もすでに終わったあとだった。浄福湯には夏用の千鳥と波を白く染め抜いた青い布のれんが掛けられていた。隆が戻って来たのを知って、父親は落胆した。出たからには目的地に着いて欲しかったし、辛抱して欲しかったのである。いつかは松崎智典のような立派な僧侶に育つと信じていたのに、といつまでも愚痴を言った。

「お前は何でも中途半端に投げ出してしまうからいけねえ。今度は立派に勤めあげてくれると思っていたのに……」

 これまではどちらかと言えば、何事にもあまり口出しせず、理解していた父が、いつまでもうるさく愚痴を言うのに隆は驚いていた。母はとにかくよかったよかったと、顔を歪めて泣いた。家に帰って来たことを、母がこんなに喜んでくれるとは、隆は考えてもいないことだった。龍徳院で父や母のことを気にして、帰ろうか、辛抱しようかと長々迷っていたのをばかばかしく思い始めていた。

 父も母も、まして世間の人々は結局隆のためでなく、自分自身の立場でしかものを考えられないのだと隆は気付いた。同じように自分も、龍徳院の湿った屋根裏部屋で、父を思い母をしのび、世間体を気にして悩んでいたが、少しも父のためになってはおらず、母をいたわってもおらず、まして世間体に恥じない行動など、結局どこにいてもできなかったのだと気付いた。どんなに人のため……と言葉では言っても、決してそれは人のためではなく、自分のためが第一なのだと隆は思うようになっていた。人のために働くとか、世の中のために悩むとか恰好のよいことは言えない。人のために働かされ、悩まされただけなのだ。ほんとうに自分のために悩み、働くならば結局人のためにもなるような気がした。この気持になれた時、上野隆は振り返らずに龍徳院を出てくることができた。

 大学の入学を拒否し、龍徳院からも抜け出て来たが、人生の入口をしっかり見て来たように隆は思った。隣の禅寺の住職は、〈やっぱり筋が悪いから……〉と笑って迎えてくれるだろうと隆は思った。木枯らしが吹く頃には、寺町の人たちも浄福湯の息子の話には飽きているだろうと思い、隆は肩で息をしてほっとした。

 番台に坐っているのは、坐禅をしてきた隆には何でもないことであった。食事に慣れる方が幾倍も大変だった。これまでの長い塾生活や龍徳院での人間関係のようなことを、一切気にせずに浄福湯の仕事に精を出すことができる。大の男が、人を裸にして小銭を集めて……情けない、恥ずかしい仕事だと思い、父を軽蔑していたこれまでの自分を隆は恥ずかしく思った。今は龍徳院などに出かけないでも、自分の仕事に誇りと信念を持って働き続けてきた父や母に心から感謝できるし、尊敬できる気持になっていた。隆は立派に浄福湯を継いでいける自信が湧いていた。

 夏の日差しが道路側の窓に射し、脱衣場も洗い場も、湯舟の辺りも眩しいほど明るかった。のれんを出したばかりで、外の車の音以外は耳に入らない。静かに目を閉じていると、龍徳院での坐禅を組んでいた時間とが溶け合うように思われた。

 左手に柔らかい赤子の手が触れたような気がして、上野隆は目を開けた。前方の明るさに目が眩んで、柱の蔭になっている番台の辺りはよく見えなかった。目を擦って見下ろすと、赤ん坊を不器用に抱いている女が立っていた。「清川」の清子だと分かったのは、脱衣場の隅で赤子の着物を脱がせているのを見た時だった。逆光の中で母と子が蠢いている。清子は爪立てしながら赤子を抱いて、洗い場に入って行った。タイルの上で湯が勢いよく弾いている。手桶のぶつかる湿った音が響いてくる。湯舟の湯が明るく反射して、浴客の姿がくっきりと浮き出て見えた。清子は隣席の女に教わりながら、赤子の頭を洗っている。耳を押さえ、頭を支えている手がぎごちなく見えた。清子が赤子に何かぶつぶつ言い聞かせている様子が、車の騒音の中に響いていた。

 赤子の後頭部からうなじにかけての線がすっきりしているように隆は思った。その線に負けないだけの鼻立ちと額が広がっているようでもあった。その子は〈まだ貰っていない〉ようだと思い、隆は一人で何気なくにんまりと笑った。

 上野隆は黙って風呂代を受け取ると、急に口を真一文字に食いしばって目を閉じた。清子の日舞の芸が大きくなるだろうという快い考えより、どことなく淋しさが漂い、侘びしい思いが一気に隆を占め始めていた。もはや目を開けて洗い場の様子を眺める気力は失われていた。清子が帰る時、松崎智典のその後の消息は、聞かない方がやはりいいだろうと隆は思い始めていた。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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杉本 利男

スギモト トシオ
すぎもと としお 小説家 1938年 福井県に生まれる。

掲載作は、1983(昭和58)年6月、『宴』復刊第7号 初出。

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