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錆びた十字架

     (1)

 

 北品川の工場地帯に住宅街が割り込んでいる地域がある。山の手側は外国大公使館の厳めしい建物が、濁った青空を背に広がっている。線路一つの隔たりが、石垣の色や庭木の育ちまでも違わせている。

 木造二階建ての古いアパートに土井一家が越して来たのは、花曇りの日であった。主人の芳雄は四十過ぎで、いかにも意志強固と見えて、いつも歯を食いしばっている。そのせいか 下顎の筋肉が発達していた。美佐代と呼ばれる土井夫人は、夫の芳雄より年上に見える。生活の気苦労のせいで、年齢より老けて見えるのかもしれない。薄汚れたエプロンをいつも身につけていて、髪には艶がなく、化粧は全くしていない。男物かと思われるほどのズボンをいつも穿いている。

「何も持ち物はないと思っていたのに、結構あるわね。増やさないようにしているのにね」

 飴色に光る松板の卓袱台(ちゃぶだい)を、ガラス戸を開け放った室内に運び入れている。部屋の中は湿った匂いで充満していた。

「この匂い、何とかならないかしらね。礼拝に来た人たち、きっと我慢できないわよ」

 土井芳雄は妻の言葉に頷き、本の詰まった段ボール箱を膝の上に置きながら、一歩一歩家の中に運んだ。子供たちも手伝おうとするために、かえって仕事の邪魔になった。小型四輪自動車の荷台の荷は、昼前には一通り片づいた。清掃車の青年運転手は二、三日後の打ち合わせをして、茶も飲まずに帰って行った。

 玄関は直接道路に面していて、ガラス戸にはビニールテープが放射状に走っている。車が小石でも跳ね上げたのであろう。土間はとても狭く、四、五足靴でも脱ぎ捨てれば、足の踏み場がなくなるくらいである。杉板の申しわけばかりの廊下が、六畳間と左側の勝手へと延びている。丹念に拭いても何の変化も見えない杉板は、アパートの長い歴史を物語っているようであった。

「掃除垢がこびりついていて不潔よ。ナイフで削り取りましょうか」

 美佐代は年下の男の子を抱き上げながら、いまいましそうに言った。

「信仰のない人や、異教徒を僕たちの信仰にむりやり入れるようなものさ。……無理に誘って押し入れても、双方が傷つくだけだよ」

 そう言いながら芳雄は、段ボール箱に詰まっている本を木製の本棚に並べている。本棚は落ち着きが悪く、本を入れるたびにぐらついている。本棚の横板には楔形の止め木がいくつか欠けていた。

 

 「北品教会」と書き入れられた白ペンキ塗りのベニヤ板が、ガラス戸の上に打ち付けられたのは、土井一家が越して来て間もなくであった。白ペンキは波打っていて、塗りむらがあった。幼稚園に通い始めた長女に手伝わせたからだった。北品教会の四文字は丸々太った字であった。

「二階の手摺りのところに、僕らの十字架を取り付けて、教会の目印を作らねば……」

 芳雄は錆びた鋸で板を引いていた。道路に面した二階の廊下の手摺りに背丈ほどの十字架を針金で縛りつけた。芳雄と美佐代は道路から、取り付けたばかりの十字架と北品教会の看板を、交互に眺めながら笑みをこぼしていた。二人の間を二人の子供がはしゃぎ回っている。

 

 二階のアパートに住む人たちが、手摺りの所の板が十字架だと知ったのは二、三か月も過ぎた夏のことであった。

「風通しが悪くてしょうがないや」

 首にタオルを巻いた大学生風の男が、ペンチで針金を無造作に切った。板の十字架はその男の手によって、脇奥の空き地に投げ落されてしまった。十字架は背丈の伸びた向日葵をなぎ倒して、板塀に当たった。

 子供が怪我をしたのでは、と美佐代が勝手口から飛び出て来た。長女と長男は二階への階段をじゃんけんをしながら、上り下りしている。美佐代は胸を撫で下ろし、ジーンズの膝を幾度もさすっている。

「今の音、何の音……」

 美佐代が下から笑顔で尋ねた。二人の子供たちは遊びに興じていて、母親の質問が耳に入らないようだった。

「何の音だったかって、聞いているのよ」と、さらに気短に問いただした。

 甲高い声に変わったので、子供たちはじゃんけんの手を止めた。

「パパの作った十字架をね、二階から投げ捨てた音よ。暑くてやり切れないって……」

 長女は弟がずるをして、階段を一、二段上りはしないかと見届けながら言った。弟は塗料が落ちて斑な手摺りに手をかけながら、じゃんけんを待っている。

「誰が……」

「おじさんよ、……石並べをしている」

 子供たちはまたじゃんけんに夢中になった。十字架が投げ捨てられたことを、主人が耳にしたらどんなに怒り、どれほど失望するか知れないと美佐代は思った。短気を起こす一本気な夫が恐かった。越して来て、ようやく落ち着きかけて来たのに、ここで面倒は起こしたくないと彼女は願っている。

 美佐代は階段脇の狭い通路を進んで、奥の空き地に出た。夏草の匂いが、体調を乱している彼女の鼻に飛び込んで来る。湿った土と板塀に塗られた茶褐色のペンキの匂いが吐き気を誘った。深呼吸をして気持ちを落ち着かせ、目を意識的に見開いた。下腹部の太った体がやっと通れるような通路を、美佐代が十字架を運んでいる。彼女は十字架を投げ捨てた男より、夫の作った十字架が投げられるのを、見ていて平気だった自分の子供たちを憎く思った。子供たちの目には、それは父母が拾って来た板切れが、他の人に投げ出されたとしか映らなかったのだろうか、と彼女は口を真一文字に結んで考えた。

「あんたたちも手伝ってちょうだい。この十字架はパパにとっては、神様の次に大切なものなんだから……」

「暑くて仕方ないって……。風通しが悪くなるって……」

 じゃんけん遊びに飽きてきた長女が、母を見下ろしてそう言った。上の段にいる長男は中断しているのが我慢できない様子である。

「お姉ちゃんは負け出すと、いつも止めるんだ」

 美佐代は二人の言い合いを制止して、十字架を二階に運び上げた。主人も長女のように、苦しくなれば宗教活動を止めてくれればいいのに、とふと考えた。彼女は長女に針金とペンチを持って来るように、と早口で命じた。

 開け放した二階の一室から、麻雀の音が流れて来る。煙草の香りが風に運ばれて来た。夫が煙草を吸わないので、彼女は煙草の匂いに敏感であった。だが嫌な匂いには思わなかった。二階の手摺りから道路を見下ろすのは初めてのことであった。

 買い物に行く主婦が通る。郵便配達人の赤塗りの自転車が走る。自動車が行き交う。老人が杖をついて散歩をしている。恋人たちが腕を組んで路地角に姿を消す。

 下の路地を見下ろしている時、美佐代は薄汚れた衣服をまとい、腰を曲げ気味に元気なく通り過ぎる自分の姿を見たような気がした。夫が肩を怒らせて、毅然とした態度で前を歩いている。二人の子供たちは親とは関わりなく、はしゃいでいる。美佐代は胸がむかむかしてきて、軽い眩暈を覚えた。

 美佐代が長女に手伝わせて、板の十字架を取り付け終えた時、麻雀をしていた連中が、食事をするために部屋を出て来た。土井家には一度も響いたことのないような、明るい笑い声が二階の廊下に拡がった。

 美佐代はまだぼんやりと下の通りを眺めている。子供たちは階段を降りて、家の中に入ってしまっていた。

「小母さん、またその板切れを取り付けたの? 風通しが悪いじゃないですか」

 青年はアパートの部屋に鍵を掛けている。他の三人は鉄製の階段を音をたてて降りている。

「神様の目印を粗末に扱ってはいけません。それに煙草などの火の始末は大丈夫でしょうね。気をつけて下さいよ」

 美佐代は自分自身に言い聞かすように大声で言った。主人が知らなければ、他の人達がどのように感じようと構わない、と彼女は思っていた。芳雄を可哀想だと、最近折に触れて思うようになっている。知り合った時などは、神の啓示によって生きている土井芳雄を崇拝さえしていた。彼の語る話は、自分などには及びもつかない神々しいものに響いたのを、鮮やかに記憶している。

 同年代の青年たちは、麻雀をやっていた四人の男たちのように、溌剌としていたのを美佐代は思い出している。芳雄はそうした青年の中で、まったく様子が違っていた。芳雄は醜いあひるの子だ、と美佐代は信じていた。彼は下顎が張り、目玉ばかりが大きくて、動作は極めて緩慢だった。背も低く、鼻筋は通っていない。どんなに贔屓目に見ても、若い女性が振り向くような点は見当らなかった。そんな芳雄に目を注ぐ自分の行為そのものに、美佐代は酔っていたのかも知れない。それでも最近までは、一つのことに集中できるそんな献身的な自分を、幸せの絶頂だと思っていた。その頂上は永遠に聳えていて、衰えることがないと固く信じ続けていた。

 結婚しても芳雄に対する考えは変らなかった。子供ができて、ますます現実の幸せを感じるようになった。信仰に生きている彼を見ていると、どんな苦しみも悩みも瞬時にして消えてしまう。そんな時は自分の罪深さを身にしみて思い知らされ、夫は強い人だと美佐代は思い続けていた。後光が差して見えさえしたのである。

「神様の目印って……、十字架のつもりだったんですか」

 青年の唖然とした表情が、美佐代をいっそう悲しませた。しかし理解されないことは幸せなことかも知れない。中途半端な理解は誤解より癖が悪い。学生風な青年たちが軽々しく出て行く姿を見ていると、美佐代は時間の無風状態を感じた。芳雄の友だちもかつてはそうだった。厳密には現在もそうだ。今は職業が違い、住む地域も異なっている。関心は持っているが、結局どうもしてやれないと皆が考えているらしい。そうして自分自分の砦にそれぞれが君臨しているのだった。

 

 芳雄は、朝は仕事に出るのが割合早い。子供たちがまだ寝ている頃、彼はリヤカーを引いて北品川の町工場の軒下を巡っている。ゴミ捨て場に投げ出されている段ボール箱を、丹念にリヤカーに積む。一巡して早い朝食に戻る頃には、かなりな量になっている。北品教会を、つまり家庭を維持していくには、こうした仕事が余分に必要である。

 北品教会はどの派にも属していない。頑固一徹な土井芳雄は、各派の団体や協会からの援助や資金融資の話などには一切耳を貸さない。融資を受け、団体に属すれば、各種雑誌や新聞などに、広告文を出すことができる。それを見て訪ねて来る者もいるだろうし、献金の制度も確立できるに違いない。

 美佐代は子供が大きくなり、食費もこれ以上切り詰められないところまで、節約しているのを知っている。これ以上のことをすれば子供の健康を損ねかねない。着る物は冬は暖を取れれば何を着ていても十分である。人目に貧しく映っていても、子供たちの肉体を蝕むことはない。美佐代は十分な食料品を買い込めない時だけ、芳雄の頑固さを憎く思う。かつて考えていたように、融通のなさを力強く思うことは少なくなりかけている。それどころか自分たちを哀れにさえ思うことがある。組織に入れば自分たちだけが苦しむことはない。皆が協力してくれて、子供たちの精神的な労苦までを強いられることはない。

「そうすれば信者の方も来てくださるわ、きっと」

 美佐代はついに大声で言ってしまったのを、苦々しく思い出した。

「そんな風にして訪ねてくれても、つまりは去って行く人たちだよ」

 芳雄の声が美佐代の耳から離れない。美佐代は去って行く人でもいいから、来て欲しかった。似而非(えせ)信者でも、異端者でもよいから、とにかく来て欲しいとまで思った。こんな考えは一番主人に責められるべきものであることは、彼女も重々承知していた。多くの人々が主人の前に現われ、彼の説教に耳を傾けてくれたら、と願うようになっていた。

 

     (2)

 

 日曜日の午前十時は北品教会の礼拝の時間である。土井牧師は北品教会を開設してからというもの、土曜の夜は楽しい夢を見る癖がついていた。六畳の居間兼寝室を開放して、公同礼拝室にしている。汚れた畳の上に、疲れた顔をした老人やかつての自分のように意気盛んな青年たちが大勢座っている。折り重なるように、信者が押し寄せて来る。啓示を得意顔で語る牧師、礼拝室は熱気で汗ばみを感じる。

 土井芳雄は二十年以上も前、気がふれたかのように霊感に打たれた。彼の父も母も、息子の言い分を本気で受け止めはしなかった。青年が一度は罹る熱病で、時間がたてば自然に消え失せるものだと考えていた。

「神の御教えを拡めるために、今日で大学を止めるよ。四月からは、何としても神学校に行くんだ」

 上野の高台にある寺院群の森から、除夜の鐘が鳴り響き出した瞬間だったので、父母は芳雄のいつもの虫が暴れ始めたのだと思っていた。大寒までも保つまいと高を括っていた。この時の啓示は、それまでのものと違って、いつになっても勢いが衰えなかった。

 正月五日が過ぎ、七草粥を迎えても大学に出かける準備に取りかからなかった。法律の勉強が嫌になり、牧師になると表明して、逃げを打っているのだと誰しも思っていた。

「法律では人を救うことはできない。神の御教えで救わなければ、誠の救いはないんだ」

 芳雄の目は輝いていた。屈託のない笑顔だった。成人式の日を過ぎても、芳雄は大学に出なかった。法律などの本を机の上から下ろして、天袋の中に片付けてしまっていた。二月の単位修得試験も受けなかった。芳雄は語学の勉強と聖書の研究に精を出していた。紫色に塗られた聖書は、それでもなかなか読破はできない。

「せっかくの大学を無駄にしてしまうのかい」

 芳雄の父はついに愚痴を口にした。

「二年の無駄に気付いて幸いです。三年も四年も、これ以上無駄にする余裕は僕の人生にはないんです」

 芳雄はそう言って、日増しに神学校への準備に勤しんでいた。

 彼はその頃見た夢を、土曜の夜しばしば見る。物質的には恵まれているが、心の安らぎが与えられずにいる紳士が、粗末な場末の教会を訪ねて来る。紳士は牧師の教えに従い、真の幸せを手に入れる。そのような夢であった。

「僕は神の啓示によって日々、生きているんだ」

 土井芳雄は口癖のように、こう叫んだ。夢の中でも、そして現実にいつ、どこででも……。神学校の入試の面接で、どうして神学校を志望するのかと土井青年は問われた。

「僕には、迷える人たちを救ってあげなければならない、重要な使命があるからです」

「人を救おうだなんて、それはあなたの思い上がりではありませんか」

 質素な牧衣に身を固めた教師が、小声で独り言のよう言った。彼は受験生の意気込みを透かし見た思いがしていたのだろう。

「神の啓示があったのです」

 土井芳雄は試験官を見据えて訴えた。

「ところで、あなたは幾人の人を救わねばならない使命がおありですか」「一人かも知れません。啓示によっては、それを知ることができませんでした」

「たった一人の人を救うために、あなたは大学を退学してまで神学校に入るのですか。信仰と学問はどうも一つのものではないようです。神学校においでになっても、信仰は必ずしも深まりは致しませんよ」

 その時土井芳雄はそうかも知れないと思ったのを、その後も鮮やかに記憶している。

 

 東側でも日当たりの悪いガラス戸の上の壁に、青錆の吹き出た十字架が吊されている。土井牧師はうたた寝をしながら、時折十字架を見上げている。長野の神学校を終えた時、神父さまが一言の説明もなく分け与えてくれた、古い青銅の十字架だった。間借りをしている土井夫妻の古びた居間の壁では、あまり目立たなかった。礼拝室の十字架にしてはあまりにも小さかった。

 襖で仕切られた隣の三畳間では、土井牧師の妻美佐代が、二人の子供たちの破れた衣類の繕い物をしている。風邪気味なのか、しきりに鼻水をすすっている。子供たちは長女も長男も外へ出て遊んでいる。ビニール製の縄跳び縄と空気の抜けかけた弾力のないゴムまりを持って、路地へ出ていた。母親が時折心配顔で様子を伺いに姿を見せる。子供たちは雨降りも強い風も厭わない。

 北品教会は真冬でも暖かい。鉄製のダルマストーブが台所脇に据えられているからである。勝手口には小さく切られた木片や棒切れが山と積まれている。子供たちはゲームを楽しむように、棒切れや木っ端をストーブの中に投げ込む。礼拝室も三畳間も、そして玄関口まで暖かい空気が流れている。

 家主は土井家に対して、一冬の間に何度となくダルマストーブの使用を止めてくれ、と頼んだり命じたりした。

「北海道じゃ、これが重宝していますよ」

 美佐代は、今ではこう言えるようになった。

「二階の住人からも苦情が出ているんですよ。階下で、こうも焚き付けられたんじゃ、危なくてたまったもんじゃないってね」

「十分気をつけます。ガスにしても灯油にしても高くつきますので……」 家主はそれを言われると、黙って引き下がるより仕方がない。牧師一家は実につましい生活をしている。二年にもなるが、それでいて一度も家賃を遅らせたことはない。教会とはいえ、信者がどやどや出入りして、壁や襖を痛める心配は微塵もなかった。二階の二世帯のように麻雀の泊まり客が来るでもなし、いつもひっそりしている。二階は両方とも客の出入りが激しい家である。煙草の煙と酒の匂いが壁にも柱にも染みついてしまっている。

 

     (3)

 

 北品教会へ一人の若い女性が公同礼拝にやって来た。彼女は教会前の路地を幾度も行きつ戻りつしている。それでも動きの悪いガラス戸を開けて狭い玄関に立った。しげしげと奥の間を覗き見ている。土井芳雄は礼拝室の畳の上で体を休めていたが、ガラス戸の音を聞いて瞬時に身を正した。あわてて座り直してから、錆びた十字架を見上げた。

 十時を少々過ぎていた。土井牧師は公同礼拝に入ろうとしている。古びた畳の上に上がって来た若い女性は、どの方向に座ってよいのか判らず、困惑している。普通、礼拝堂には巨大な、ぴかぴかの十字架が配置されているため、自然に位置が定まるものだった。注意深く見回したが、それでも彼女は錆びた十字架を見定めることが出来なかった。

「どうしてここをお知りになりましたか」

「この前たまたま家の用事で、この路地を通ったのです。その時傾いた木製の粗末な十字架を、目にして知ったのです。印象的でした」

 女の声は小声ながら、いかにもはっきりした口調だった。

「でもどうして、ここに入って来なければいけなかったのでしょうか。

何か迷いや悩みでもおありですか」

「迷いも苦悩も、何もありません」

「じゃどうして……、それ以外に理由があるのですか」

 土井牧師は彼女の来訪が嬉しくて、あれこれと訊ねてみたくなった。長年の辛苦労苦が瞬時に結実するように思えた。襖の向こうでは妻が、これまでの苦労や愚痴がいっきに消え去るのを、一緒に喜んでくれていると思った。

「一か月に一度以上は、必ず礼拝に出なければいけないことになっているのです。学校から半強制的に奨められているのです」

 浅黒く理性的な顔立ちをした若い女性は、そう言って微笑んだ。「もちろん証明書の類は要りませんが……」と付け加えた。

 土井牧師はすっかり落胆してしまった。

「啓示を受けて、ここにお見えになったのではないのですか。もっとも啓示は無自覚の時もありますがね」

「啓示ですって……? 啓示だなんて、すてきな考えですわ。でも今受けする言葉じゃないですわね。大学でも最近はそのような用語は、めったに用いませんもの」

 彼女は何の見境もなく、北品教会にやって来たことを深く後悔している様子だった。民間のアパートでも、これほど粗末なものはそうは見当らない。素晴らしい信仰は、このようなところに芽生えるのかも知れない、と彼女は考えてもみた。そうしたものは長い時間をかけて生い育つのだろうか。時間がたつにつれて、彼女は今まで通ったどこの大聖堂、大教会より厳かさを感じ始めていた。

「先生は、啓示を信じておいでなのですか」

 若い女性は何の臆面もなく、しかし真面目な表情で牧師に訊ねた。

「信じるかって……? それは私に対しては愚かな質問ですよ。私はね、啓示によって生きているのです。一日たりとて啓示を受けない日はないと言ってもいいくらいです。啓示によって夢さえ見るのですからね」

 土井芳雄はそう応えながら、この女性は興味本位で訊ねているだけで、信仰の人ではないと考え始めていた。同時に土井牧師は、

『一人でも救えれば、それでもう君は自分の使命を十分果したことになります』と、教示した神学校の恩師を思い出している。この人はその人ではないと彼は思った。この部屋を出て行けば、二度と訪ねて来る人ではない。さらにどこかの教会へ出かけて行って、ますます自分の信仰のなさを自覚していく人だと彼は思った。それでも公同礼拝に信者が訪ねて来たことは、芳雄を有頂点にさせた。一人でも来てくれることは悦ばしいことであった。二十年以上も続けて来た自分の仕事が、そして生き方そのものが間違っていなかったことを、証してくれているように思えたからである。

「啓示って、言い換えれば妄想のことじゃないのでしょうか」

 女子学生は再び真面目な顔付きで言った。

「バカなことを言っちゃいけません。神聖な啓示をそんなに、軽々しく妄想だなんて……、救いを求めることですね」

 いかにも説教調だったので、土井牧師自身が驚いてしまった。彼は今朝の仕事の汚れが取れず、自分の手や首筋に染みついている匂いを、いつになく気にしていた。

「狂気に酔っていらっしゃる男の人は幸せですわ。でも奥様やお子さまは気の毒です。一人の男の人の我が儘で、一家の進路が決定するのでしたら、女子供には犠牲が大き過ぎます。そのほうが却って気の毒です」

女子学生は苛立ちながらそう言った。どんな相手と、どのような暮らしを営もうと、結局こんな風に男に巻き込まれるのだと思うと、彼女はいたたまれなくなった様子だった。豊富な品物が町に村に氾濫しているご時世に、玄関口でみすぼらしい女や子供たちに出会った時、そのようなことを考えたのを、ふと思い出しているらしかった。

「何を見て、君はそのように言うのですか」

「奥さまのあの姿を拝見しまして、そんな風に思ったのです」

「そんな風にしか受け取れなかったのですか、お気の毒に……。人は外見のためにだけ、生きているのではないでしょう」

 蔑みとある種の同情の気持が、土井牧師の顔にありありと表れていた。

「牧師さまは女ごころをご存知じないからですわ」

 彼女は口を突き出し、不満げに言い張った。

「君はまだ信仰に生きる女ごころを理解していないんだ。それに愛情の世界がまるで分かっていないようだね」

「美しく着飾った女性より、素朴な素顔の女性がきれいだっておっしゃりたいのでしょう」

「その通りです。信仰も教養も着飾りの一種なのです。だからそれらを身に付けていれば、それでもう十分うつくしいのです」

 土井牧師は断定的に、そう言った。

「信仰を持ち、教養を身に付け、そのように化粧し着飾る女性が一番美しいのですか」

「間口を拡げれば却って深みがなくなり、けばけばしくて醜いだろうね」

土井芳雄は目を閉じて静かに話し続けた。

 若い女性は、ベニヤ板の汚れた壁に掛かっている、小さな錆びた十字架には気が付かなかった。土井牧師が、背後の本棚に収められている大判の分厚い聖書を取り出そうと体をねじった時、女子大生が席を立った。通り一遍の挨拶をすますと、畳の汚れを気にしながら部屋を出た。土井牧師は複雑な気持で彼女を見送っていた。

 

     (4)

 

 北品川の冬は浜風が容赦なく吹き付けて寒い。夏、蒸し暑い場所は冬寒い。土井芳雄は清掃員助手として真面目に働いている。砂ぼこりや浜風に吹かれて、鼻がかゆい。タオルで顔を覆い、厚手の手袋をはめている。破れた合羽の隙間から、寒風が忍び込んでくる。一刻も早く教会に戻りたいという衝動が働く。信者が訪ねて来そうな予感がしてならなかった。この自分が救済しなければ、その人は永遠に迷っているのだと芳雄は確信している。

 子供たちはダルマストーブに木片を投げ入れて暖まっているだろう、と芳雄は誇らしく思う。木切れも十分に手に入る。冷蔵庫も洗濯機も、そしてミシンも手前の手入れで使えるようになった。食べ物こそ拾わないが、衣類にしても荒物にしても、拾ったもので大抵用を足している。 

居間の隅に机や椅子も秋口に揃えた。組でなくて不揃いだが、それがまた芳雄の自慢だった。個性的で自由な雰囲気が漂っていて、束縛感がないからであった。

 

「大学まで出ているのに、どうしてこんな仕事をしているのですか。一度尋ねようと前々から思っていたんです」

 清掃車を所有している運転手の男が、首を傾けて言った。

「大学を出ているからこそ、自動車がなくても、運転免許がなくてもこうして使って貰えるんです」

 土井芳雄は二十五、六の青年に向かって、笑いながら応えた。青年は自動車と免許証を持っているから、大学卒の男を雇用できるのだと付け加えた。

「あなたが大卒だって以前に知っていたら、車に乗って貰わなかったね。あなたは別だが、大学を出ている人は使いづらいですよ」

 夢の島のゴミ山の谷間道を何台も車が走っている。野球の優勝試合が終わった時のような紙吹雪が舞い上がっている。風の強い日だった。

「今日はもう上がろうか。道路が割合空いていて仕事が捗ったからね」

 青年は冬の陽がまだ弱々しく輝いているのを見ながら、芳雄にそっと声を掛けた。

「ありがたいですなあ」

 芳雄は子供のような笑顔で言った。今日は二か月前に生まれた男児に土産があった。助手席の背にオルゴールメリーが見えた。もう子供を産まない予定の夫婦が整理したものであろうか、まだ紅白の玉も潰れておらず、吊しものも飾りなどもみな新品同様に見えた。

「今日は久し振りに、お宅まで送りましょう、教会まで……」

 教会まで、は小声だった。

「そうして貰えればありがたいね」

 芳雄は先ほどと同じような調子で言ったが、『教会まで』の青年の言葉は何よりも嬉しく、すばらしい贈り物だった。

 外国大使館などのある山の手を走っている時、二人はどことなく落ち着かない気持であった。厳めしいたたずまいの庭園などが目を射る思いがするのであった。ガードを潜って北品川の工場地帯に入ると、二人とも故郷に戻ったような安らぎを覚えた。人情味もゴミと一緒に捨てられているように思った。自分たちは、ゴミを集めながら人情も拾って回っているように芳雄は思っている。

『一人でも救えれば、それでいいのです』と、恩師の声が響いた。それは音の啓示である。芳雄は、『今日こそ、その日だ』と感じた。芳雄は町工場の色褪せたトタン板の壁に、錆びた十字架が冬の陽に輝いている幻影を見た。『今日こそ、その日だ』と、彼は再び思った。

 北品教会が近づくと、芳雄は背後に置いておいたオルゴールメリーのネジをゆっくり巻き始めた。

「明後日もまた七時半にお願いしますね」

 青年はハンドルを持ったまま、ぺこんと頭を丁寧に下げて言った。

「私の方こそよろしくお願いしますね」

 芳雄はドアのハンドルに手をやって、教会への曲がり角で車を降りようとしていた。

「前まで送りますよ」

 青年は車をゆっくり北品教会のある通りに入れた。車の窓越しに真っ赤な炎が見えた。黒い油煙は見えず、珍しく明るい炎だった。芳雄は重いハンドルを回してガラス窓を開け、顔を押し出して前方を見やった。消防自動車や救急車がけたたましくサイレンを鳴らして、二人の車を追い越して行った。普段は車数の少ない静かな通りがうそのように騒々しかった。清掃車はもうそれ以上進むことができなかった。

 芳雄はオルゴールメリーを背にして車を降り、通りを急いだ。二、三十メートルも歩いた時、彼はオルゴールメリーを投げ捨てて、北品教会の方へ駆け出していた。蓋のない側溝の中でオルゴールメリーが歌いながら踊っていた。

 北品教会のあるアパートが炎上している。乾燥し切った木の燃える色は美しく、音も快適なものだった。芳雄はなすすべもなく、冬の陽を忘れさせる炎に照らされて佇んでいた。

 

     (5)

 

 木造りのアパートはばりばり音をたて、めらめら炎をあげて燃え続けた。消防車が重苦しい音を響かせて水を送っている。時折ため息をつくように音が消える。それに呼応して放水の勢いも衰える。そのたびに消防士の叫び声が浮き上がって聞こえた。消防車の屋根に取り付けられている赤いランプがくるくる回っている。エンジンの唸り音がまた一段と高まった。

 消防車や警察の車を遠巻きにして、瞬く間に野次馬が黒山に集まって来ていた。火の手が上がり、火勢が増すと群衆の歓声も高まる。

「この冬空に大変だわ」

「被災なさった方にはお気の毒だけれど、こんな鮮やかな炎の色は……」

「深夜でなくて、まだ不幸中の幸いよ」

……同情的な温かい言葉の陰に、鋭く冷たい野次馬根性が覗いている。

消防車が寂しげなリンを鳴らして一台ずつ、静かに戻って行く。くるくる回る赤いランプが道路の水に映って、流れて行く。最後まで残っている消防車が、火の手のとどめを刺すために燃え殻に放水を続けている。所どころで白い煙が地獄谷のように上がっている。

 道路の人だかりも見る見る姿を消し、一際静寂が周囲に広がってきた。呆然と我を忘れて佇んでいた土井芳雄が、水浸しになった燃え殻の上に足を踏み入れた。

「おい、そこの人、そのロープの内側に入っちゃいかんよ。まだ検証が終わっていないんだから……」

 けたたましい笛の音がして、怪獣のような格好をした消防士が飛び込んで来た。腕を取って芳雄をロープの外へ連れ出した。消防士の腕は丸太のように太く、抵抗のしようがなかった。道に連れ出された時、北品教会が焼け落ちるというのに、どうして炎の中に飛び込もうとしなかったのだろう、と芳雄はそんな自分を情けなく思った。

 紫色の聖書、落ち着きの悪い本棚、不揃いの机や椅子、手作りの十字架、そしてあの錆びた青銅の掛け十字架……、すっかりそれらの存在を忘れていたではないか。何という不信仰、許されぬ数々の冒涜! 土井牧師は身震いをした。二十数年前の大晦日に経験した身震いを思い出した彼は、いっそう身体の緊張を覚え、失神寸前の状態に陥った。

 あの時とは違うと芳雄は思った。あの時は我が身一つだった。今は妻も子もいる。あの頃は我が身以外は失うものがなかった。それだけで勇んで神の道へ躊躇なく飛び込むことができた。しかし今は妻や子供たちがいるのだと彼は再び思った。彼はようやく妻や子供たちのことが気になり始めた。

 芳雄は道路から焼け跡をぼんやりと眺めている。左手に鉄製の階段が高く冬空を背に立っていた。火が完全に消えてしまうと、辺りを吹く風は刻々冷たさを増してくるようであった。肩を落とした美佐代が芳雄の側に来て、黙って立っていた。三か月にもならない赤子を力なく抱いている。長女もその弟も美佐代の後ろに姿を隠すように連れ添っていた。

 自動車のヘッドライトが土井一家の人たちの姿を、時々浮き彫りにして走り去って行く。

「また、やられちゃたなあ」

 芳雄の元気のない言葉が溝の中に落ちていった。美佐代は黙って頷いていたが、芳雄にはその応対は見えなかった。

「パパ、寒いよ。それにチビが先程からおしっこをしたがっているの」

「させてあげなさいよ。お姉ちゃんが面倒を見てあげなきゃ」

 美佐代の甲高い声が響いた。

「だってお巡りさんがずうっと、今でもまだ見張っているんだもの」

 長女のはっきりした不服そうな声に混じって、勢いのよい水の音が聞えて来た。

「パパ……」

 弟が身震いしながら言った。父も母も、彼が何を言おうとしているのかはよく分かっていた。少年の口から聞きたくもなかったし、親として言わせたくもなかった。

 すっかり暗くなった路上に一台の清掃車が止まった。小型の四輪自動車だった。あかりの中に土井一家の人々がくっきりと浮かび上がった。エンジンの音で少年の言葉は誰にも聞えなかった。

「大変なことになりましたね。取りあえず僕の車に乗って下さい。土井さんにも色々なあてはあるでしょうけれど……」

 清掃車を所有している青年が、頭に手拭いの鉢巻をして車の脇に立っていた。

「あてなんて……。面倒を掛けるね。ありがとう」

 土井芳雄は下顎を左手で撫でながら、頭を深々と下げた。

「さあ、奥さん! 元気を出して下さい。生きて行くうちにはどんなことでも起こりますがな。奥さんと赤ちゃん、それにもう一人、無理をすれば乗れるだろうね。お姉ちゃんかい、お兄ちゃんにするかい、助手席に乗るのは……」

 青年はそう言って、長女と弟の方に両手を差し伸べた。子供たちはいつものように、父の判断を仰ぐために芳雄の方を眺めている。芳雄は震える手で、長女の肩を青年の方に押しやった。青年は少女を抱きかかえて運転台に乗せた。

「旦那と兄ちゃんは荷台だな。少し臭いけれど我慢して頂戴よ。お父さんはさ、毎日、これに乗って働いているから慣れていらあねえ」

 青年の明るく大きな声がエンジンの響きを破って聞えてきた。青年は、土井芳雄と男の子が荷台に乗り終えると、運転台に上がった。揺れる車の上で長男が、少しも臭くないと父親の耳許で言った。

「小父さんが毎日、丁寧に磨いているからな」

 芳雄は泣き声で言った。子供に涙を見られてもいいと思った。

「どうして洗うの。すぐ汚れて臭くなっちゃうのに」

「人と同じで汚れて臭くなるとまずいから、毎日洗うんだ。車は宝物さ」

「ぼく、そんなこと分らないよ」

「今に解るさ。寒くないかい」

 芳雄は子供を抱きかかえて、風から少しでも守ってやろうとしていた。それにしても青年は、今日は念入りに車を洗ってくれたなあと芳雄は思った。涙が止まったら今度は鼻水がどんどん流れた。腰のタオルで拭うと、臭い匂いが鼻をついた。

 町工場の建ち並ぶ路地を幾つか曲がって、青年の家に着いた。粗末な家並みを見慣れている土井芳雄でさえ、生唾を呑み込んだ。荷台の上から家の中の蛍光灯が丸見えだった。ガラス越しでなく、板の隙間からであった。柱が傾いていて、家は今にも崩れそうである。四方の柱が寄り合っているから崩れずに、かろうじて建っているようなものであった。芳雄も美佐代も子供たちもみな、青年が低い軒下の隅に清掃車を収めるまで、湿った空き地で待っていた。

「むさ苦しい所だけれど、まあ入って下さい。今、暖かくしますからね。冷え切っちゃったでしょう」

 青年は相変わらず明朗に話した。戻って来た青年を見て芳雄が、

「あっ!」と声を上げてしまった。青年は片手にオルゴール付きのメリーを大事そうに吊し持っていた。

「お父さんからのプレゼントだよ」

 青年はそう言って、それを赤子に見せ、美佐代に手渡した。赤子は寝てしまっているらしく、母の胸に動かずにいた。

 

     (6)

 

 次の日曜日、土井芳雄たちが北品教会の焼け跡に着いた時には、もう警察のロープは外されていた。

 焼けた板塀の脇に鉄製の階段が、にょっきり宙を突いて天に懸かっていた。孤独に耐えているように見える。道路側は綺麗に焼け落ちていて、北品教会の玄関も神の目印の十字架も跡形もなかった。東側の壁は遺跡の壁面のように黒々と残っていた。木造の建物でこのような焼け落ち方をするのは不思議なことであった。

 玄関脇の赤焦げになったリヤカーが、炭になった柱や板の下敷きになっていた。芳雄は取っ手を持ち上げて、リヤカーを起こしてみた。タイヤは焼け熔けていた。荷台の板も大半は炭になっていた。

 空は抜けるように青く、雲一つなく明るかった。陽当たりが悪く湿っぽく感じていたのは、これまで隣家のせいだと思って暮らしてきた。だがそれは間違いだと判った。自分の家の天井のせいだったと芳雄は思い直した。冬の陽を受けた燃え殻が所どころできらきら輝いている。

「このダルマストーブは暖かだったなあ」

 芳雄が赤子を抱いた美佐代に話しかけた。美佐代はこっくり頷いただけだった。長女と長男が鉄製の階段でじゃんけん遊びをしている。子供たちのはしゃぎ声が、水をたっぷり含んで炭になった柱やうづたかい木端の中に吸い込まれていく感じだった。

「今頃は公同礼拝の時間だなあ」

 土井牧師が小さな声で呟くように言った。

「そうね、この辺りが礼拝室の場所だったわ」

 壊れたコップや麻雀の牌などが撒き散らされている場所を、気遣いながら美佐代が歩いている。本棚の本が無惨に焼け焦げ、水を被って重なっている。

「これらの本が僕の全財産だったのになあ」

 牧師の消沈し切った声が、子供たちの騒ぎ声に消されてしまう。彼は肩をがっくり落とし、本を手にページを繰っている。

「一冊でも読めるのがあればいいのにね」

「周りが焦げているだけで、中身は大丈夫だろう」

 土井牧師の溜息混じりの小声が響いた。「ここでは結局、人ひとりも救えなかったね。救って貰ったのは自分たちの方だった」と、元気のない彼の声が広がった。

「そう言えば、あなた、この前のあの日、私たちに火事のことを告げて下さって、私たちを安全な外へ導いて下さったのは、いつだったか公同礼拝にお見えになった、あの女子大生じゃなかったかしらね。どこかで、いつかお会いしたように思っていたの。あの人よ、きっと。でもどうして思い出せないでいたのかしらね。間違いなく、あの人だったわ」

 美佐代の声は次第に大きく、明るくなっていた。土井牧師はまだ本を一冊一冊吟味している。牧師の指は紫色に染まっていた。

「ここだってこんなに明るい。重苦しくて壮大な教会は、やはり要らないよ。僕は間違っていなかったんだ。聖書と繋がればいいんだ。教会は雨露をしのぎ、聖書を読める場でありさえすれば十分なんだ。こうやって教会が焼かれ、そのことを一段と悟らされた思いがする」

「そうよ、これからもこれまでのあなたでいいのよ」

「三人目の子ができ、物に囚われる心が湧き、信念に迷いの暗雲が広がって来ていたんだ、無意識に」

 土井牧師は自信を取り戻しつつあった。彼の下顎が一際張ってきたようであった。彼は久し振りに啓示に撃たれていた。子供たちのじゃんけん遊びの声を聞きながら、土井夫人は貧乏生活はまだまだ限りなく続くのだと思った。美佐代の腕の中には目玉の大きな下顎の張った男の子が冬空を見上げていた。

 おびただしい灰の中から、土井牧師が錆びた十字架を拾い上げたのは、その後間もなくのことだった。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2003/10/20

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杉本 利男

スギモト トシオ
すぎもと としお 小説家 1938年 福井県に生まれる。

掲載作は、1980(昭和55)年「宴」復刊第4号初出。

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