暮れ烏(がらす)
(1)
辺りが白み始める頃、鈴木千代乃は裏の畑へ出て行った。千代乃の畑には茄子、隠元豆、ピーマンやトウモロコシなどが栽培されている。彼女の畑の隣には、ビニールの温室が工場のように広がっている。夏になった今は廃屋の惨めさを曝すように、ビニールがだらしなく垂れ下がり、骨組のビニールパイプをむき出しにしている。実を取られた茄子の枯れ茎などが林立している。
千代乃の畑では昔ながらのやり方で、野菜などが作られている。六十七、八歳になる彼女は、息子夫婦が手入れもせずに放置しておく五畝ほどの畑を、一人で切り回している。
息子夫婦が畑の世話をしなくなり、町の工場へ通うようになってからは、昔のように千代乃の畑になった。息子夫婦がビニールハウスを作って、野菜作りに専念するには畑が狭すぎる。畑を出し合って共同でハウス事業を起こすにも小口過ぎて、誰も仲間に入れてくれなかった。
「町の工場へ行くよ」
息子にそんな思いをさせることが、千代乃には切ないことだった。夫を戦争で亡くし、行商や工事現場の手伝いなどをして、精一杯働き、子供たちには何一つ不自由はさせまいと意気込んできたのだが、土地や財産のことになると二の句がつげなかった。自分が生き、子供たちが食べるので精一杯で、ゆとりは少しもなかった。それでも先祖から受け継いだわずかな畑と屋敷を守り抜いた誇りが、千代乃の頭を時折かすめて通る。
千代乃が鈴木家に嫁に来た昭和九年には、病弱な舅と勝気な姑がいた。それに気難しいが、根は優しい主人の弟もいた。舅は五畝ほどの畑を自慢し、手入れの仕方では五、六人の家族が十分暮していける作物が取れると言った。千代乃は舅の言葉を信じ、毎日畑に出て草を取り、糞尿を運んで野菜の栽培に精を出した。戦前は誰もが人糞を肥料としていたので、臭いとも感じず、恥ずかしいと思う者もいなかった。敗戦後は化学肥料が普及し、糞尿を使用する者はほとんどいなくなった。
「
近所の青年が三十過ぎの千代乃に言った。
「化学肥料を使った野菜なんか、うまくないわ。
千代乃は
姑と二人で三反歩ほどの水田を小作し、年貢を納め、ようやく家族が一年間食べて行く米だけは確保していた。米と野菜、それに味噌、醤油があれば、あの頃は暮せたものだと思い出している。国民学校の費用や舅の嘗め蜂蜜のような贅沢品の代金を、どうして工面しようかとあの頃は思い悩んだものだった。千代乃は朝露を受けた茄子の実を取り入れている。
「行商をしたら……」
今は
「何を商うのかね。うちには金になるようなものは何一つないじゃないの」
「それはどこも同じだよ。東京はもっと食べ物がなくて困っているのよ。米一升でも、茄子五個でもお金になるわ」
「うちには米もないわあ」
「この村には地主さんも何軒かある。あの人たちは供出米のほかは、持て余して困っていなさる。食管法とかで勝手に米の売買はできないことになっているから……」
雪江に知恵を借り、勇気づけられて千代乃は地主の家へ出入りし、白米を分けて貰うようになった。大口を扱う男たちは玄米で取引をしていた。米の値は日毎に上がっていた。気味が悪いくらいであった。ある地主のところでは枡に棒をあてず、うず高く盛ってくれた。別の地主は決してそんなことはしてくれず、それどころか米価の変動にうるさく、行商人に甘味のないぎりぎりまで追い詰めたりした。仕事がない時には、そんな地主の米でも買わねばならなかった。
「行商も甘くないわね」
帰りの電車の中で、雪江が疲れた表情で言った。毎日行商をしている雪江に、千代乃は申し訳がたたなく思った。次女が腹痛を起こし、四、五日付き添っていたため、この前買っておいた米が二割ほども高く売れたからである。都合で怠けていた者が余計に儲かるのは気まずいものだと、千代乃は小振りな茄子を手にしながら思い出していた。この茄子は二、三日後に取り入れようと思い、そっと実を放した。茄子は今日が初物であった。
隠元豆の棚に近づき、隠元豆の房を幾つももぎ取った。縁の薄赤みが青白い
トウモロコシも十数本折り取った。トウモロコシの糸鋸のような葉が、千代乃の日焼けした浅黒い腕に触れ、切り傷をつけた。黒い爪垢の詰まった人差し指を口に突っ込み、糊をつけるように唾を腕に塗った。ぴりりとした痛みが走る。二日もすれば蟻の行列のような、黒い血の固まりが並ぶのを千代乃は想像していた。
家の前の小川に足をつけ、もんぺについた草の実などを洗い落とす。小川の表面が眩しく光っていた。千代乃は腰に手をあて、ぽんぽん叩いている。千代乃は腰が曲がって、もう以前のように真っ直ぐにはならないように思った。体も気力も、何もかも一つ一つ駄目になっていくのを自分で確かめているように思う。雪江はもうそれさえできない。今の間にできることは何でもしておきたいと千代乃は思う。どんなに生活が苦しく、仕事が厳しくても、子供に手のかかった若い頃がよかったように思う。一人歩きできない間だけ、子供たちは慕ってくれた。少しでも歩けるようになると、それだけ子供たちは親から遠ざかってしまう。嫁いだ娘たちは年に一、二度やって来るだけで、彼女たちの幼児の頃を忘れてしまいそうだと千代乃は思う。
家の中に入り、千代乃は板の間にどっかと腰をおろし、足を投げ出す。手に握った日本手拭で額をごしごし擦った。煤けた鍋底を擦るようなもので、額は色変わりもしなかった。
「母さん、早くしな。出かけるから……」と、長男の義雄が慌ただしく声をかけた。
千代乃は頷いた後で、煙草に火を点けた。紙巻き煙草を三つに切って、
「先に行っていいよ。今朝はまだ荷物を作っていないから……。久子さんを乗せて行ってあげなさい」
母を残して妻を乗せて行くのに気兼ねをしている息子に、千代乃は久子さんを……、と言って助け舟を出してやった。煙草の煙が縞状に漂っている。義雄は四十を過ぎ、娘の洋子が歌手を志望する今になって、ようやく妻の久子と睦まじくなったように思う。娘に金がかかるので、防衛本能が働き夫婦の心が一つになったのだろう。それにそれまで何と言っても千代乃に遠慮があったに違いない。母一人の手で三人の子供を育て上げ、二人の娘を嫁がせ、それぞれに文句を言って来ないだけのことをしてやったのである。義雄にしてもそれは感謝する気持より、同情の念がはるかに強かったかもしれない。
同情されず、自動車にも快く乗せて貰えないこの頃の方が、本当の親子関係のように千代乃には思えた。義雄と久子の夫婦関係も、ようやく一人前になってきたように思う。三十そこそこで夫を失った自分は、本当の夫婦の喜びや悩みを経験せず過ぎてしまったように、千代乃は思った。子供を育てるだけで手一杯で、他のことは何一つできなかった。与えられた千五百メートルを、それはとても長かったが、脇目も振らず駆け抜ける走者みたいな生活だったと千代乃は思う。ハードルや棒高やさまざまな種目があり、それぞれに楽しいものだということも、それらの存在すらも知らずに、過ごして来てしまったと思う。
自動車の警笛が二、三度鳴り、久子が手提げ袋を掴んで慌てて家を出て行った。辺りは一段と静かになった。
先日久し振りに、義雄の横の席に荷を置き後部座席に坐って、国鉄の駅まで出た。気兼ねのいることであった。
「母さん、行商なんかやめて頂戴よ。洋子の仕事に差し支えがあってはなんねえから……」
嫁の久子が遠慮もなく、義雄を前にしてこんなことを言うのは、ごく最近のことだった。千代乃は七十歳にも近くなり、久子も四十三、四歳になっている。行商で訪ねる家の主婦の中にも、久子と同年輩の者がいるが、その人たちはやりたい放題、言いたいままの生活をしているのだから、久子がそんなことを言うのは仕方がない、と千代乃は思う。義雄にしても、久子のそのような発言を聞いて窘めるどころか、してやったり顔にハンドルを取っている。千代乃には義雄の後ろ姿が憎かった。
「洋子もここ一番ってところだからなあ」
黙っている千代乃に、義雄が諭すように付け加えて言った。
「親が大金出して、何が歌い手かね。レコードを出す計画らしいが、一枚もまともに買って貰える予約が取れておらんちゅうじゃないかい」
千代乃はもんぺの上で手もみをしながら、憤慨して叫んだ。
「初めは誰だってそうだよ。何回も何曲も出しているうちに、一曲ぐらい当たるかも知れないってもんさ」
厳しい表情になったのが、義雄の後ろ姿で見てとることができた。
「そう信じて、夢見ていればいいさ」
千代乃は意識的に大声で言った。
「母さんは旦那なしで苦労なさったから、普通の夫婦の夢がよう解らないんだわ」
久子の丁寧な物言いが、ますます千代乃の居心地を悪くした。
千代乃はもう一服煙草に火を点けた。夫婦の夢なんて、自分たちにはなかったと千代乃は思う。敗戦になるまでの、三十歳過ぎまでは、お国のため、敵国をやっつけるためにだけ終始した。あの頃は自分や自分たちの考え、生き方はなかったと千代乃は思う。特に夫は人生の一番大切な、よい時期を戦争で過ごし、南方の海か、見知らぬ土地で果ててしまったのだと千代乃は悔しく思う。一緒に暮した抜け殻のような十数年が、睡蓮の花のように質素で美しいものに思えてならなかった。三十数年の時の流れが、自分たちの空ろな生活を浄化してくれている。しかしそれでもなお、楽しいものへと風化する力はなかった。
洋子はまだ寝ているらしく、家の中は森閑としている。庭というには粗末な、裏の空地の桜の木で蝉がひとしきり激しく鳴いている。今朝はすっかり遅くなってしまったとやおら立ち上がり、千代乃は行商のための荷造りに取りかかった。
(二)
国電田端駅はおかしな駅だ、と鈴木千代乃はこれまでに何十回思ったか知れない。米や野菜を大きな籠に詰め、黒い大風呂敷で包み、それを背負って一段ずつゆっくり登って行く。近頃はその足取りがすっかり衰えてきたのを、何かの折に自覚するようになっている。二十四、五年も前ならまだ四十二、三歳で足など震えたりはしなかった。足許の安全より、階段を駆け上って行く〈からす部隊〉の姿が目に入り、先を競ったものだった。田端の駅は往きも帰りも同じ方向に階段を登る。右手に改札口を見て、駅前のそば屋ののれんに目をやり左に折れて、同じ方向に階段を降りる。心理反応のための実験をされているように思う。田端の駅は愛想のない駅だと千代乃は膝頭に手を当て、背中の荷物を支え、一段一段登って行く。
近年は野菜や米の行商人はすっかり姿を消し、駒込駅を降りるのは千代乃ぐらいである。
〈からす部隊〉と呼ばれ、田端の駅で乗り移る十数名の行商人の写真が、総合雑誌のグラビアを飾ったのは、もうずいぶん昔のことである。黒や濃紺色の大きな荷を背負った隊商は、群れをなす
千代乃は写真に撮られるのが嫌いで、モデルに頼まれたが、断固として断った。重い荷を座席に据え中腰で休んでいる姿。帰りの中距離電車内でからす仲間と談笑して煙草をすっている所、白黒写真で黒い荷と白い煙草の煙を効果的に表現したいと大学生が説明していた。三、四人の子供に取り巻かれている夫人に、野菜を商っている場面など……、大学の写真部の学生の注文に応じることだった。千代乃はかたくなに断った。戦争で夫を亡くした女が、必死に生きている生き様を雑誌のグラビアなどに曝したくなかった。あの時の大学生は千代乃たちの生き様をからす部隊の写真に託したかったのかも知れない。
半年ほどしてすっかり忘れていた頃、からす部隊のみごとな写真がグラビアとなって現われ、市井の話題になった。田端の駅で電車を乗り換えるからすの大部隊が第一頁を飾っていた。黒い大きな荷を背負って、同じ方向に階段を登って行く大勢の後ろ姿だった。荷の締め方と、黒い荷の上の枕状の荷の積み方で千代乃だと分かった。疑いもなく焦点は千代乃にあった。大学生はその雑誌をみんなに配ってくれたはずだが、千代乃は持っていない。モデルになった友人にくれたような気もする。グラビアの中の友人たちの取り繕ったような明るい顔が浮かんでくる。
田端の駅で味気のない電車の乗り移りを繰り返している間に、からすの仲間が一人二人といなくなっていった。からすをやめて、すっかり仕事をやめた者もいた。また彼女たちの中には村の畑の中にできた縫製工場や給食センターへパートで働きに出る者もいた。中にはそこで退職金を貰ったり、失業保険をちゃっかり手にする者もたくさんいた。戦場から今でも帰還しない夫と同じように、千代乃は取り残された烏であった。転職した人たちは小奇麗な格好をして、バイクで工場やセンターに通っていた。千代乃と同年代の者は、そうした勤めもやめて、今はひい孫の世話をしたり、老人クラブから旅行に出かけたり、ゲートボールに興じたりしている者も多い。
背中の荷物を異常に重く感じ、膝ががくがく震える最近になるまでは、からすを途中でやめ、転職した仲間たちを羨ましいなどと思ったことはなかった。それどころか自分の仕事に確信の持てない仲間たちに同情し、可哀想にさえ、思っていたくらいだった。
薄い皮だけの、中身の何も入っていない鞄を持った大勢の高校生たちが、千代乃の大きな荷物をよけて、走り抜ける。教科書や帳面も持たずに、一体なにをしに学校へ行くのだろう。図体ばかり大きくて、使いものになりゃしないと千代乃は思う。夫の敏夫は違っていたと腰を伸ばしながら思う。敏夫は小柄だった。高等科にも行かず、鈴木家の狭い田畑をよく耕して、米や野菜を上手に作った。田の畔や畑の境には大豆や小豆を植えた。千代乃は敏夫から教わったやり方で、今でも味噌、醤油を造っている。手間のかかる仕事だが、義雄たちはいい顔をしない。
敏夫とは十年足らずの結婚生活で、何もかもお別れだった。十年と言っても、その大半は戦地に出向いていて半年とか、何か月とかを一緒にとびとびに過ごしただけだった。大豆や小豆を穴に埋めて灰で蓋をした日、敏夫はまた国のために、ちょっと行って来ると言って出征したのが最後だった。舞鶴に呼びつけられていたが、千代乃が尋常科で使った国定教科書で舞鶴を探している頃には、瀬戸内海の呉に回されていた。景色の綺麗な所だと絵葉書を貰って胸を躍らせている矢先に、駐在が自転車でやって来て、ボルネオだか、スマトラだかに配属されたらしいと告げた。敏夫に置き去りにされた感じで、千代乃はもう追って行けなかった。二人の間には広い太平洋が横たわっていた。
敏夫が朝早く起きて蒔いてくれた大豆や小豆が実っても、千代乃の夫は帰って来なかった。その年の暮、次女が生れた。自分の田畑で収穫した米や小豆を使って、祝いのおはぎを作る頃になっても、夫からは便りもなかった。小豆を蒔いてくれたこともあってか、何故か次女を、夫の出征ぎわに生れた子供とよく思い違いをする。そんな時千代乃を元気づけたのは、赤ん坊の成長と、便りのないのはよい便りという古来からの諺だった。立派に育っている義雄や二人の娘を敏夫に一日も早く見せたかった。千代乃は子供たちのことを、夫から授かった宝物のように思って、いつも暮していた。
あの忌わしい八月十五日を迎えても、南洋からのよい知らせは来なかった。村の男たちが各地からぽつりぽつりと戻って来た。怪我をしている者、失明している者、死んで帰る者など、いろいろな場面があった。静かな村が悲しみや笑いにおたおたする日が続いた。敏夫の消息は依然として伝わって来なかった。引揚者が戻って来る頃になって、千代乃はようやく、もしかしたら御国のために名誉の戦死をしたのかも知れない、と疑うようになった。それでもまだ敏夫は若くて元気のよい年頃だから、戦地の後始末を進んでやっているのだろうと一縷の望みを抱いていた。
千代乃が三十歳を一つ二つ越し、義雄が国民学校の高学年になり、長女は高等科に入った時、夫の消息がどうしても掴めないから、死亡したものとみなすという一本の葉書が村役場から届いた。その後かなりの期間変な気持の日が続いた。
敏夫の母は、千代乃に世話になるのが嫌で、高等科から土地の農林学校を出て役所勤めをしている敏夫の弟の家へ転げ込んで行った。蜂蜜の好きな舅はすでに死んでいて、不幸な戦後を知らずにすんだ。千代乃は鬼のような若嫁だと評判だった。義雄がいたから、千代乃は鈴木家を護る気になっていた。敏夫の血を絶やしてはいけないと思っていた。姑も鈴木家を護ってきた人には違いない。自分や義雄はこれからの鈴木家を護って行く人間だと思っていた。千代乃には敏夫が応援してくれているという信念がずっとあった。次男の所に行くと言って喚き散らす姑を、千代乃は敢えて留めようとはしなかった。
「お母さんのいいようにして下さればいいわあ。私はこの家で義男をりっぱに育て上げ、主人の帰りを待っているわね」
千代乃は仕事をするには、次女がまだ何かと足手まといになることを、考え及んでいなかった。次女のお
戦争に行って無疵で帰って来た西隣の主人が笑いながら言った。千代乃は今でもその時の情景を思い出すと虫唾が走る。
「鈴木さんの敏夫さんは真っ正直過ぎて駄目だ。進めって言われて、すぐ飛び出す者は標的にされて蜂の巣にされるに決まってる。そんな時、わしなんか木陰に隠れていて、敵さんが弾を無くし、疲れた頃合いを見計らって出て行ったもんだ。この方が手柄にもなり、位も上がる。恩給も段違いさ。今度戦争があったらそうするんだよ。義雄君によく教えておきな。そうしないと馬鹿を見るんよ」
敏夫の帰って来ない戦争なんて、真っぴらもう御免だと千代乃は思った。義雄にそんな話を聞かせる気は毛頭なかった。
西隣の主人はブローカーで大儲けをした。ブローカーは仲買人のことらしいが、西隣の主人はどうせ戦場と同じように、規則を破って得をしているのだ、と千代乃は思う。洋館風のりっぱな家を建て、優雅な生活をしている。今は隣も息子の時代になり、先代と同じようなやり方で上手に商売をしている。血筋は争えないものだと思う。敏夫が戦地から帰って来ても、やはり鈴木家の地味な生き方は同じだったように千代乃は思う。
人生もたそがれて、人生を考え悩まなくてもよい頃になって、ようやく人生の輪郭がぼんやり見えかけてきたように千代乃は思う。腰に両手を宛がい、籠を押し上げ胸を張る。要領が悪くても、敏夫の生き方は正しく、それでよかったと思うようになっている。でも死んでしまうなんてちょっとお馬鹿さんだったと思う。ひと頃は夫を憎く思った。利口に立ち回ってなぜ帰って来ないかと……。しかも無駄な死だったと……。
若い頃は子供たちを、特に義雄を育てるので一心だった。戦後の農村は、都会に比べて食べ物は豊かであった。米や野菜はかなり収穫できた。都会は食糧事情が最悪だった。重湯がすいとんとして売られていた時代だった。女、子供はそれも口にすることことができなかった。都会の大部分の人々が飢餓に曝されていた。農家でも現金を得るために、自分たちの生活に必要な米でさえ売り
そんな日本を、都会も山村漁村も丸呑みに救ってくれたのは、朝鮮戦争だった。糸偏ブームを生み、特需産業が栄えた。沖縄はまだ占領されたままだった。国全体が
千代乃は、人も国も何か他の犠牲を足場にしなければ幸せにも、豊かにもなれないような気がしてきている。だから不幸も誰か他の人から、トランプの
敏夫は正直者だから号令一番、自ら進んで標的になった。必要な人材だったのだろう。どの家のどんな大切な命であろうと、またどんなに誠意のある生活をしてきていたとしても、そんなことはどうだってよいことだった。調達しなければならないものは、何がどうであれ、かき集める。敏夫は赤紙一枚で南方の海か、ジャングルの中だかに散って行ったのだ。この世にいた三十数年と、死を認められてからの時間がほぼ同じになったのに、夫のことは脳裏をなかなか離れようとしない。自分と同じ人間がこの地球上に無数にいるのだと思うと、千代乃はこわくなった。
高校生たちはくちゃくちゃガムを噛み、薄っぺらな鞄をさげ、女子高生と肩を並べ、腕を組んで階段を降りて行く。敗戦直後、占領軍の兵士たちがガムを噛みながら、街角に立っていた情景を、千代乃は思い出している。あの頃の日本人は押しなべて、そんな兵士たちの行動を憎悪していた。それが今は日本の子供たちが皆、あの頃の兵士たちと同じことをやっている。千代乃は男の人と肩を並べたり、腕を組んで歩いた経験は生涯に一度もない。首に巻いた手拭で顔の汗を拭きながら、蟹のように中央の鉄製の手摺に掴まりながら、一段一段降りて行く。夫の敏夫とでさえ、あんなにして手を繋いで歩いたことはなかった、と千代乃は思う。家の中でも二尺は必ず間隔を取って離れていた。べたべたくっついていたら、夫の敏夫が駄目になってしまうように考えられていた。布団の中でもめったに体を触れさせたりはしなかった。ゆっくりと寝て貰うことが妻の務めであった。一度や二度の誘いで敏夫の布団に身を移すことはなかった。もっと格式のある家では、夫と妻や子供の部屋は別々であった。まして自分から敏夫の布団に潜ることはなかったし、自分の布団に敏夫を誘うようなことは決してなかった。
「あれじゃ、野良犬だ」と、千代乃は年甲斐もなく呟く。泥のついた野良犬が尻をくんくん嗅ぎ合っている情景を、頭の中に描いている。孫娘の洋子はどんなだろうとふと思った時、目の前の高校生の姿は消えていた。
洋子は今、歌の練習に精を出している。専門の歌い手になりたいらしい。千代乃は反対である。舞台に立つ歌い手など、いい職業ではないと千代乃は思っている。人間は野良や工場で汗を流して働くべきだ。ネクタイを締め、涼しい顔をして室内にたむろしているような奴は、碌な人間ではないと信じている。汗して働く人間の幸せを奪い、不幸の婆札をそおっと回す人間だと千代乃は思っている。歌い手なんか水商売だぞと、千代乃は幾度となく義雄や洋子に叫んだのを思い出していた。派手で楽な生活は、とにかくいけないと思っている。
(三)
駒込の高台には千代乃の馴染みの家が並んでいる。改札口を出ると一歩一歩緩やかな坂道を登って行く。高層ビルが増え、年々街の様子が変っていく。三十年来の親しさがじわじわと崩されて行っているように思われる。家も行人の姿も目新しいものに変っているのに、自分だけが取り残されているように千代乃は思う。みんな帰って来たのに、まだ南方のどこかに取り残されている夫とそっくりだと思う。
坂を登り切った所にある公園で、老人たちがゲートボールを楽しんでいる。千代乃より年若いと思われる人もいた。色とりどりのスポーツウエアを着込んで、白い球を足で踏みつけ、木槌で打つ。白い球、赤い球が鉄のゲートを出入りする。
煙管に紙巻き煙草を詰めながら、あの浮かれた笑い顔は……とこだわっていた。太平洋戦争で島々を次々と占領した喜びに沸いていた、国民のあの笑顔だと気付いた。でも夫の笑い顔は思い出せないでいる。村人の明るい顔にまじって、不思議と義雄の物ねだりする童顔が重なった。昔のことを何もかも忘れて、ゲートボールに興じていられる老人たちを眺め、どことなく千代乃は苛立ちと不安を感じた。あの人たちは、この辺りも空襲を受けて多くの人が死に、ひどい生活をしていたのを忘れてしまったのだろうか。表向きの華やいだ生活や優雅な暮しをすることによって、かつての苦い思い出を忘れようとしているのかも知れない。それらは忘れられるはずのものではないことを知った時、千代乃はゲートボールをしている人たちに、同情の憐れみが湧いて来ていた。
児童公園を出て、ホテル街の間を進み、崖に面した数奇屋風の家へ行った。この家は戦時中、農家から養子を貰いたがっていた。独り息子が戦争に出ていて、恐らく帰還できないと夫婦は考えていた。自分たちの老後を看て、家を護ってくれる子供が欲しいとのことだった。隣の雪江が行商に来ていて、そのたび誰かいないかと尋ねられた。
「東京に親戚があるって、恰好がいいね」
雪江は嬉しそうに言った。今でも千代乃はあの時の雪江の白い歯を印象的に覚えている。
「誰をやるの」
「弟が行くのよ。都会に憧れているし、百姓仕事はこりごりだって……、生意気にね」
「別れ別れになってもいいの」
千代乃の言葉に、雪江はちょっと淋しそうになった。
「どこで暮らすのも同じだもの。それにうちは兄弟も多いしな」
自分を諭しているような口調だった。
雪江の弟は新学期から駒込の家に貰われて行った。東京の学校は、農村の学校と違い学級数が多いので、特に新参者ということで目立ちはしなかった。言葉遣いが変っているのと、行動に機敏さがなく、からかわれることが多かったらしい。
「弟は、〈ぼく〉……と言えずに苦労しているらしいの。おかずもご飯も少なく……、ひもじい思いをしているようでな」
その頃雪江は弟のためにと、毎日のように魚や野菜を根気よく運んでいた。弟がひもじい思いをするわけがなかった。弟に食べさせずに、何処かほかに回して金にしているのだと雪江たちは考えた。そのことを確かめることはできなかった。田舎から見れば狭いが、東京で土地があり、家があることは誰が見ても頼もしいものだった。
「東京で家持になるなんて、幸せ者だよ。辛抱させにゃなあ」
会う人ごとにそんなことを言われ、雪江は自分ごとに思い、せっせと米などを運び込んだ。雪江の夫も自分の弟に財産分けをするようなものだと考えていた。義姉が運んでくれた米や野菜を食べさせてもらえず、空腹であっても、いずれは家ごと自分の財産になるのだと雪江の弟も考えていたようだ。
朝鮮戦争が始まって、皮肉なことに日本の経済がすっかり立ち直った。その頃は千代乃も雪江に誘われて、すでに行商に出ていた。雪江の弟が駒込の家にいたところを千代乃は見たことがない。実業学校へやってくれという雪江の弟の夢は、叶えて貰えなかった。それどころか、弟は家風に合わないとかいうことで、里へ返されてしまった。数年間一緒に暮していたのに……と千代乃は隣家のことでも、今なおはがゆく思う。
「米や野菜を運ばせる策だったのよ」
普段は豪気な雪江が、からす仲間の中で声を出して泣いた。
「やっぱり田舎者には都会は馴染めないんだよ」
千代乃はそう言って、苛立ちながら雪江を慰めていたのを憶えている。
「弟があっさり文句も言わずに帰って来たのが不思議だわ。やっぱり戦争のせいよ。戦争は何もかも諦めさせてしまうものね」
あの頃雪江は戦争のせいにして、すべての苦しみや悲しみから遠ざかろうとしていた。千代乃は夫を失った戦争を、そんなふうに許し、そんなふうに忘れることはできなかった。
千代乃は、雪江のように都合のよい仕事へと、身軽に移って行くことができなかった。そのために雪江のような被害にも遭わなかった。何もかもみんな昔のことになってしまった。
「野菜を持って来たよ」と声をかけ、千代乃は勝手口に腰を降ろし、腰を伸ばした。
「若い者が温泉場に行っておりますからね。年寄りはあまり食べませんもの」
年の割には派手な洋服を着た老女が、綺麗に揃い過ぎた入れ歯をかちかち鳴らして言う。
「若夫婦さんはどちらへ行かれたのかね」
「ゴルフをするとかで、甲州の方へ……」
「いい身分ですね、都会の人は……。ゴルフに出かけたり、朝からゲートボールをしたりしてさ。田舎もんには考えられないことですがね」
「同じことですよ。その代わり田舎の人は病気をしても気丈にいられますもの。老後もちゃんと看てくれる家というものがありますものね」
老女はそう言って、くすくす笑った。
千代乃は老女の笑いを理解できなかった。
「おたくもこんな立派な家があるじゃないですか」
「田舎の人はご存知ないのですよ。この家の下の土地は借り物なんです。自分のものじゃないのですよ。建物だってまだ借金がついていますし……。戦争にでもなれば、まず食べ物に窮してしまいます。農家の方は非常時は安心ですもの。米も野菜も、それに味噌でさえ自家生産できるのですから……」
老女は歯切れよくそう言ってから、冷やした番茶を千代乃にすすめた。
今は戦時に強い農家が、どんどん減ってきている。田圃の真ん中に高速自動車道や鉄道が敷かれ、縫製工場や電気部品工場の敷地となって潰されている。食糧を海外に依存しなければならないように、自分で自分の首を絞めているみたいだと千代乃は思う。この老婆は戦時中、敗戦直後には、雪江の弟を家に連れ込んで飢餓を免れた知恵者だ、と千代乃はしげしげと眺めた。
最近は鈴木の家でも……と千代乃は思う。畑に大豆を植えても、義雄たちは取り入れをしない。一日かけて穫り入れても、人件費にもならないと義雄は言う。その分工場へ一日働きに行けば、収穫の二倍、三倍の大豆が買える給料が貰えると言う。働き損のくたびれ儲けだと義雄は強調する。千代乃はなるほどとも思う。しかしもったいなくて千代乃は味噌豆を畑に放っておけない。暑い日差しの中を、大豆の枝を集めて歩く。幾日もかけて美しい大豆の粒を集める。暮には味噌を造るが、義雄たちは少しも喜ばない。久子は千代乃の目を盗んでは、パック入りの市販味噌を使う。千代乃の味噌は塩辛いだけだと義雄たちは言う。孫娘の洋子はパン食だから、味噌汁はほとんど飲まない。
「孫娘がいずれレコードを出すんですよ。出たら一枚買ってやって下され」
千代乃は多少気取った口調で言った。
「どうせ今ばやりの歌でしょう。流行り歌はどうもね。誰でもレコードを出す時代になってしまいましたね。誰でも海外旅行に行くようになりましたし、世の中がすっかり変わっちゃいましたよ。時代のせいでしょうかしらね」
老女の歯がかちかち音をたてた。
千代乃は雪江や雪江の弟を可哀想に思った。雪江たちは老女の資産を、狭いながらも土地持ちの家と思い込み、弟を養子にやったのだろう。裏があるのを知らずに、表の姿に目が眩んだのだと千代乃は思った。
「流行り歌でも人さまが喜んでくだされば……」
千代乃はちょっと腹立たしげに言った。よく思っていない洋子の歌を、こんな時にはいつも孫娘の肩を持つ自分がおかしかった。
「レコードの予約はたくさん取れていますか」
「レコードはまあまあだね。リサイタルとかが人気で、これからが楽しみだと言って、力を入れて下さる方が大勢いるみたいでな」
「ふうん、でも田舎にいたのでは、お嬢さんも何かと不便でしょう。よければこの家を根城に利用なさってもいいですよ。鈴木さんとは長いお付き合いで、親戚以上ですものね」
老女はそう言って、にやにや笑った。
千代乃は、そうはいかないぞ、と心の中で思った。下腹に力を込めて言った。
「ありがとうさん。レコードを買って貰えるだけで、もうそれで結構だよ。雪江さんの弟みたいにな、何年か後にひどい仕打ちをされたら、孫娘が可哀想だからな」
千代乃は何気ない様子を装いながら、老女にグサリと皮肉の矢を放った。その後で目の利く老婆がこのようなことを口にする状況なら、戦争が間近に勃発するのだろうか、と千代乃はぞっとした。
「いい弟さんでしたよ。でも最後まで都会の生活には馴染めなかったわね」
「今は東京で塗装業をやって、成功しているらしいね」
「それはよござんした。慣れられるまでにはご苦労があったでしょうね」
関心のなさそうな相槌だったが、言葉にはさすがにそつがなかった。
「初物のナスはいかがですか。七十五日、長生きできるっていうから……」
「八百屋のお茄子はもう何度か食べましたけれど、鈴木さんの初物はありがたいですわ。五個、下さいな」
「隠元豆もおいしい時期でな」
千代乃は茄子と隠元を老女に渡した。この家に雪江の弟がいてくれたら、行商をするにもどんなにか心強いだろうのに……と千代乃は思った。ゴルフに出掛けた若夫婦はどうせ二人とも養子養女なのだろうが、一体どんな関係で居ついたのだろうと思った。老婆にしても実の息子を戦死させたのだから、考えてみれば不幸な人だと千代乃は思った。今までにこんなことを考えたことはなかった。黒い風呂敷で籠全体を包んで、数寄屋造りの家を出た。隣接の背高なビルに東側を覆われて、屋敷には朝日は射さなかった。
(四)
狭い土地に六階建の建物が建っている。そこの家主はつい半年ばかり前までは、製本屋をやっていた。一階は工場になっていて、糊付けされ背を板に挟まれた本が
モルタル塗りの壁にブザー用の釦が取り付けてあった。気取った雰囲気はなく、気さくな感じが漂っていた。癌で夫を亡くしたあと、気丈な未亡人が階下の製本所を経営していた。経理を公開しているので、職人は無理を言えず、また立ち去る不義理もできずに困っている。近年書籍は視覚に訴えるものが多くなり、写真や図版をふんだんに取り入れ、厚手の紙を使用している。小企業の製本所では、そのための大型機器を据え付ける財力がない。旧態依然として文庫本の製本を第一の業としている。資本力のなさは競争力のなさにも一致し、零細な製本所は大企業に吸収されるか、倒産するかであった。
女社長は代々続いて来た製本業に見切りをつけ、土地を担保にして六階建てのこざっぱりしたビルを建てた。一階、二階を貸し店舗にし、三階から五階までを貸しマンションにした。六階を自分たちの住まいとして利用している。六階は日照権の関係で五階より狭い。西側の半分が切り落とされた形になっている。六階は二間と少し広めの居間しかない。その他には身動きも十分にはできない、形ばかりの風呂場と洗面所が付いているだけである。
未亡人と若夫婦、それに女児が一人の四人暮しである。製本所を取り壊した時、それまで使っていた古い大型の家財道具は全部焼却してしまった。狭い場にふさわしい小型の家具を新調して、身軽にならなければならなかったから……。若夫婦は小綺麗になるのを非常に喜んだ。食卓用のテーブルは、使わない時は折り畳んで部屋の隅に置けるものを買った。
食事時になると空飛ぶ鳥のように両側に翼を広げるものだった。
千代乃は居心地の悪い気持でエレベーターの釦を押した。扉が閉まると天井に嵌め込まれた換気扇がかたかた音をたてて動き出す。扉の外に誰かが慌てて近付いた気配を感じた。
千代乃はエレベーターに乗るといつもこんな気持になり、人をおいてけぼりにし、自分だけがこっそりと、卑怯にも上がって行くように思えてならない。水際で溺れかけている子供を見ながら、素知らぬ顔で通り過ぎるような不快な気分になる。始動する時の機械のせいだと判り、ほっとした気持でエレベーターを出る。エレベーターホールの隅に太いゴムの木の植木鉢が置いてあった。ゴムの木は途中で幹が切り取られていた。派生した小枝が何本も太い幹を越えて、自由に伸びている。主人を亡くした家の姿をそのままに表わしているように、千代乃は思った。夫を継ぐべき芽は切り取られたすぐ近くに、細く弱々しく、葉も小さく伸びている。
正面のプラスチィクの表札には若夫婦の名前が書かれていた。女社長の名は反対側の、勝手口兼非常口の方に小さく出ていた。家の中は一つでも顔は二つだった。一枚のプラスチィクに纏められないのが戦後の悩みであり、この家の姿だと千代乃は思う。
女主人は赤い縦縞の入ったスポーツシャツを着込み、白いスラックスをはいていた。千代乃は日本手拭で額の汗を拭き、時候の挨拶をした。女主人はスリッパラックをさらに隅に押しやり、千代乃が荷を下ろせるように場を広げた。靴脱ぎと床との差があまりない造りなので、千代乃は荷を下ろすのに一苦労だった。靴箱の上のガラス製の鳥の置き物に荷を当てないかと気掛かりだった。
「今日は、何を持っていらっしゃったの? ずい分重いわね」
女主人は手を貸しながら言った。
「じゃがいも、カボチャ、トウモロコシ……。重いものばかりさ」
「年を取ってから重いものを運ぶのは大変ね。私なんかも半年前までは、重い本を一日中あちこち動かしていたけれど、大変だったもの。腰が痛むほどだったわ。でも今は嘘みたいに楽ですよ。下の事務所で電卓を叩いたり、家賃を集めたり、税金を支払ったりしていればいいんですものね」
「そりゃ奥さん、これまでの苦労があったればこそのことで、なあ」
「それはそうだと私も思います。主人はご先祖さまのお蔭だと感謝しておりましたわ。でも息子夫婦はそうは言いません。こんなだったらもっと早くにこうすればよかったなんて、不満ばかり申しております」
「今どきの若い人は、みんな、そんなだなあ。うちの若い者だってそんなだもの」
千代乃は女主人を慰めるように言った。黒い風呂敷を解き、野菜を手に取って見せた。女主人は白いざらざらしたトウモロコシの産毛を避けて、軸のところを掴んでいる。茶黒い毛がふわりと揺れて、茄子を撫でているようだった。
「今日はこれだけでいいわ」と、女主人は小声で呟くように言った。
「これは初物だよ。サービスって言ったかね、こんなの……」
「丹精込めて作ったものをただでいただくのは、ちょっと気がひけるわ」
女主人は財布を開けたまま、坐っていた。
「初物だもの。今年もお天道様のお蔭で、茄子もりっぱな実をつけたものなあ。有り難いことでな。これもお裾分けの、サービスだよ」
「それは有り難うございます。さっそくご先祖様にお飾りしますわ」
女主人は数個の茄子を胸に抱えて、なかば上気しているようであった。襖の向こうでリンの音がした。膝元の新聞紙の上のトウモロコシは投げ出されているように見えた。千代乃は女主人にこんなに喜んで貰えたことを、とても嬉しく思った。地元では嫌がられている野菜の小口栽培も、こうして町の人に喜ばれる瞬間は、千代乃はこの仕事を続けて来てよかったと感激している。
若夫婦は女児を保育所に預け、副都心にある経理事務所に勤めている。二人とも同じ時間に同じ所に行き、夕方同時に退勤して来る。製本所を経営していた頃の、女主人の友人が一年ほど前に事務所を開いた。二人は勤め始めて半年ぐらいになるが、まだ二人で仲良く出勤している。製本所の時も年がら年中、四六時中一緒に行動していたので、それが習慣化してしまったのだろうと女主人は説明している。彼らは深夜まで働くことはなくなったらしい。
「この辺りはすっかり静かな町になってしまったね。町工場などもずい分姿を消したし、ここの住人も副都心の池袋や新宿に出て行くし、寂れてしまったなあ」
千代乃は公園で老人たちが、ゲートボールをやっていた静かな情景を思い浮かべていた。過密都市東京でも、人々は高層ビルやその周辺に密集し、他の多くの地域は森閑としている。住宅地は日中でも通りには人影は疎らである。
「六階で一人で昼食をしている時など、子供たちや孫が遠くへ行ってしまい、もう戻って来ないような気がすることがありますの」
「こんな高い所じゃ、下の街を見下ろしても淋しくなるばかりだろうからね。その点で言えばみんな一緒に働いていた前の仕事はよかったなあ」
千代乃は野菜を片付けながら言った。
「言い争ってもいいから、息子たちと一緒にいたかったですね。一人でいるって本当に寂しくて辛いことだものね。時々自分でぞっとすることがあるのよ。道路に通行人がいるだけでほっとすることがありますの」
女主人は新聞紙ごとトウモロコシを抱えて話していた。
「夜は一緒だから安心でしょう」
「それがねえ、息子たちは夕飯を食べ終えると、自分たちの部屋に籠もってしまって、出て来やしませんもの。居間を挟んで西と東に部屋が別れていて、お互いに相手の部屋に入らないことになっているんですもの。変な家でしょう」
「お孫さんは、両方の部屋を行き来するってわけかね」
「孫だって最近はノックをすることを覚えましてね、……滅多に来なくなりましたわ。親の差し金かも知れませんわ」
「それは年寄りの
「こんなコンクリートのビル生活になってから、こんなふうに考えることが多くなりましたよ。息子夫婦は不自由はしていない様子で、今の生活を喜んでいるみたいですがね」
「三代が一つの屋根の下に暮しているって、おたくは近所で羨ましがられていますよ」
千代乃はそう言ってから、家の中は外見では見透かせないものだとつくづく思った。エレベーターホールのゴムの木や表札を思い浮かべていた。
(五)
鈴木千代乃が路地を歩いていると、生垣の向こうから声をかけられた。両膝に手を宛がって、近付いて来る足音を待っていた。生垣のある家は絵描きの家で、先代は医者をしていた。先代が亡くなった時、隣町の寺で葬儀が行なわれた。千代乃も荷物を山門脇に置いて線香を上げた。
夏の日に当たり、吐き気がして病院の門柱の前に佇んでいると、心がなごむ思い出がある。患者から聞いたと言って飲み薬を届けて貰ったことがあった。院長の息子が、医学専門学校に行きたくないとごねていた頃だから、ずい分昔のことである。
「日中は木陰で休んでいて、歩かない方がいい。日中のお天道様は体に毒だから……」
そう言って先代は待合室で休ませてくれた。千代乃は待合室にいる大勢の患者たちを見て、自分が病んでいない事実を幸せに思った。子供たちや老いた義母のために、元気に働かせてくれているのだと、その時から考え始めた。強い日差しが吐き気を催させることで、ややもすると後家の苦労を愚痴に思っていたが、それを間違いだと気付かせてくれたのだと、あの時自分ながらに悟った。その後も時々病院に行き、野菜を買って貰ったりしたが、そんな時は必ず玄関脇の待合室を覗いたものだった。長椅子にたくさんの病人が坐っているのを見ると、反射的に自分の健康が保障されたかのように思い、安堵を覚えた。
息子はとうとう医者にはならず、相変わらず絵を描いて過ごしていた。息子の代になってからは、あまり出入りしなくなった。どことなく息詰まる空気が広がっているように思えて、伺いづらかった。
「奥様がお呼びです」
見下ろすような恰好で、若い女が千代乃に声をかけた。「こちらです」と少し前を歩きながら、待ち切れないように幾度も早口に促した。二人は伸び放題になっている庭木の間を、玄関の方へと進んだ。自分たちの影が車廻しに落ちていた。昨日のように思えるこの前の訪問だったが、その間に何もかもみんな移り変ってしまったように思われた。この前の影はもっとくっきりしていて、
勝手口の方へ廻ろうとしたら、若い女が玄関の方へと案内した。医院だった頃とは部屋の使い方が違っているのだろうと、その時ふと思いついた。勝手口の奥の庭で何匹もの猫が争っているらしい鳴き声が不気味に聞えている。
「猫を飼っていなさるのかね」と千代乃はぎごちなく言って、緊張していた。
「先生が……」
女はそう言って後を言わなかった。
「奥様、鈴木さんを呼んで参りました」女はそう言って、奥の部屋に姿を消した。
千代乃は感慨深げに辺りを見回していた。時間がすべてを解決し、何もかも変えてしまうのを目の当たりに見る思いだった。
「鈴木さん、新鮮なお茄子、あるかしら?」
ネグリジエのような、千代乃には名前の知らない派手な服を着た女が出て来た。医者にならなかった道楽息子の連れ合いだと千代乃は思った。それにしても彼女たちが自分の名前を知っているのを不思議に思った。
「初物を持って来ているよ。いい色をした茄子ですでな」
「主人は茄子は描かなくってよ」
「そうでしたか。そりゃ、味もいいでな」
「二十ほど下さいな。値が張ってもかまわないわよ、初物なら……」
「二十もかね。そんなにはないな。初物は少しずつ分けて食べるのがいいさ。わしもみんなの家に持って行きたいからね」
ぎごちない口調がまた気になった。丹精して大きくした初物を、こんなに求められるのはとても嬉しいことだった。それでも一軒の家に二十個も分ける気にはなれなかった。
「うちはたくさん必要なのです。八百屋さんのだと新鮮さが失われているでしょう、どうしても。鈴木さんのは真新しいものねえ。昨夜主人と話していて、行商の鈴木さんのことを思い出したのね。私は存じていなかったのですが、主人は昔から存じ上げていたらしく、ぜひお願いしてみろって申しまして……。亡くなったお父様が鈴木さんととても懇意だったとか……。おかしな、お父様でしたわね」
「昔のことだね。旦那様にはようして頂きましてな、ありがとうさんに思っていますだよ。息子さんはお医者様にならないで、絵描きさんをしておられるんだって、なあ」
「画家ですわ。絵描きとは違います」荒立った女の声に、千代乃は少し驚いていた。
「おなじだろうがね、どっちも……」
「大違いですわ。作家と物書きとは大分違うでしょう」
「わしにはどちらも同じに思われるがね」と、千代乃の声が玄関に響いた。
「お茄子を二十個、あの子に売ってやって下さい。新鮮なのを……」
女は肩をいからせて奥の部屋へさがって行った。
「二十も要らないでしょう。漬けても一夜で食べるのが美味しいからな。色もいいしね。生ものだからたくさんは要らないだろうさ」
「鈴虫にやるんです、半分に割って……。十五は必要です」
「なに、鈴虫じゃと……」と、千代乃は若い女を睨みつけて叫んだ。
「馬鹿にしくさって……。初物の茄子を鈴虫なんぞにやれるものかい。他に差し上げたいお宅がたくさん、あるのに……」と言って、荷を纏めにかかった。
「売って下さらないと私が、また叱られます」
「叱られたらいいだろう」
千代乃は駄々っ子のように言った。
「誰が初物の茄子をやれるかね、ばかばかしい!」
「奥様は新鮮な茄子を食べさせて、鈴虫を大事にお育てになる。それはいいことだと思います。小母さんの大切な茄子を何百匹もの鈴虫が喜んで食べるのですよ。うちの先生や奥様が文句を言って食べるより、ずっとすばらしいことだと思いますけれど……」
女はそう言って十個だけでもぜひ分けて欲しいと、頭を下げて懇願した。丁寧さの中に気品を感じさせるものがあった。使われているだけの人ではないように千代乃は思った。先代の先生から受けたご恩に免じて、初物を十個だけ分ける気になった。
「面白い人たちの集まりだね。鈴虫にやる茄子をわざわざ行商から買うなんて……。やはりどこか狂っているわなあ」
若い女は茄子を受け取ると、安心したようにぺらぺらと話し続けた。自分はまだ幸せな方で、先生の弟子の正夫は可哀想だと言う。正夫は二年ほど前に、先生の弟子となってこの家にやって来た。弟子の仕事はまずアトリエの掃除、整頓から始まる。本格的な絵の勉強は二年経った今でもさせて貰えないでいる。この頃は正夫も先生の信頼、特に奥様の信用を得て、先生の画材の吟味に力を注いでいる。
先生は〈猫先生〉と言われ、猫の絵しか描かない。アトリエだけでなく、家中どこにでも猫の剥製が置いてある。先生はこの頃シャム猫に凝り、週に一度ぐらい都心のペットショップに行き、気に入ったものがいると、後先のことなど少しも考えずに買って来る。数えたことはないが、十何匹いるか分らない。先生は飼い猫が死ぬと丁寧に葬り、戒名まで貰って手厚く供養する。飼っていた猫は決して剥製にはしない。動物ばかりを供養する郊外の墓地に、猫の墓がある。猫が死ぬと先生は涙を流して悲しんだり、気を乱したりする。家中の者が郊外の寺へ出かけて、僧侶に猫のために経を上げて貰う。
「供養することはいいことだよ。猫畜生であっても、因縁あって一緒に暮したんだもの」
「度を越してますよ。先生のお父様やお母様の法事はなさったことがないんです。私たちはまだこの家の願い寺が、どこにあるかも知りません」
若い女は口を突き出して、日頃の不満をいっきに吐き出している感じだった。
「法事は何十年に一度になってしまうからね、十三年を過ぎると……。法事に出合わなくても不思議はないでな」
千代乃は女が夢中で話しかけてくるので、荷物を背負う折がなかった。先代の先生の暮しとはずい分違うなあ、と千代乃は思った。この家の変りようは尋常ではないが、自分の息子たちの生活にしても、隣近所の暮し方も、そして日本中がおかしくなってしまっている。寂しいと言うより、呆れるほどだと千代乃は思う。今では村の者も近くの町へ自動車で出かける。並みの大人は大抵一人が一台自動車を持っている。庭先は自動車で埋まってしまい、道路はどこの道も狭くなってしまった。村も町も変ってしまった。町と村の差が縮まってきている。建物は町の方が異常なほど高層化しているが、生活そのものはほとんど同じになってきている。それぞれのよさが失われて、面白くないと千代乃は思う。
「鈴虫を大事になあ、猫くれえに……」
千代乃は皮肉交じりに言ってから、荷物を担いだ。少しずつ野菜などを売り捌いても、時間とともにその分、体が疲れてくるから、考えているほどには軽くも楽にもならない。若い女が気をきかせてドアを押してくれていた。千代乃は礼を言って、戸口を出た。勝手口の方では、まだ猫が騒いでいる鳴き声が聞えていた。
(六)
若い女が目配せをして、千代乃を勝手口の方へ案内した。勝手口の奥には庭が広がっている。先代の頃は前庭と同様に手入れが行き届き、ひっそりと広がっていた。千代乃は都会の庭を羨ましく思ったことがある。田舎の庭は石こそ立派だが、大きいだけでぴりりとしたところがない。樹木も田舎の庭は山から持ち込んだものが多い。都会の庭石は小さいが芸術的で、庭木も珍木名木が多く、一つの世界を作っていると千代乃は思った。
庭の隅の
「小母さん、あの猫の食べている肉ね、あれは……」
若い女が独り言のように言った。奥様に言いつかって肉屋に出かけ、上等の肉と並みの肉を買って来た。上等の肉は肉屋に特別に注文してあったらしく、店員がわざわざ奥の冷蔵庫に仕舞っているものを出して来てくれた。量も多くて並みの肉の何倍もの代金を支払って、彼女は浮き足立てて帰って来た。
「正夫さんに、今日はご馳走よって言ったら、正夫さんはただただにやにや笑っていたのよ。しょっちゅう食べている人は、さすがに違うなって思ったわ、あの時は……」
女は憎々しげな声で訴えるように言った。「私たちが食べたのは並みの方だったのよ。小母さん、上等な肉は全部猫の餌だったんです。悔しいったらありゃしない。猫は食べ切れなくて残したっていうのに、私の方はちっとも食べた気がしなかったわ、忌々しい」
「猫は普通、健康なら食べ残したりはしないんだがね」
「あの時は本当に残したんですよ」と、若い女はむきになって言った。
「先生様や奥様はどちらの肉を食べなすったかね」
千代乃は百日紅の枝にいるシャム猫に目をやりながら尋ねた。
「私たちと同じものを食べておいででした」
「それじゃ、いいじゃないかね。文句は言えねえなあ。平等だから悔しいことなんかないだろうがね。先生様や奥様が上等の肉を食って、お前さんらが猫と同じ並の肉を食わされても、それでも使われもんは文句は言えんがね。でもちょっと腹も立つだろうけれど……」
千代乃は絵描きの態度が少しは理解できるように思った。初物の茄子を鈴虫に与える奥さんの気持も解るように思った。自分が経験した先ほどの苛立ちと同じ種類のものを、若い女は何か月経っても、まだ許せず理解もできずにいるのだと思った。
「小母さん、そんなことおっしゃっても本当に腹が立ちます。肉を買いに行った人間の気持はどうなりますか。正夫さんだって癪に障ったと言っていましたよ」
若い女は仲間がいることを強調した。
「それは、自分勝手な早合点というものでな、会社の給料を計算する係が、今では経理って言ったかな、その係の人が銀行へ何百万円って給料を取りに行く時とおんなじだよ。自分はほんのちょっぴりしか貰えないんだからと言って、腹を立てるのと似ているね」
千代乃は腰を伸ばし、静かな口調でそう言って女を
「それとこれとは違います。私たちの場合は相手が猫ですよ」
「そうかね、猫だと違うかね。でも先生様にとっては猫は絵の対象で、きっと神様みたいな存在だよ。お医者様をなすっていた先代の法事は小刻みになさらなくても、猫は手厚く葬りなさるわけさ。正夫さんは、その間の事情が解ってきて、まだ絵の具も持たされないでいるのに辛抱なさっている。感心なことだね。うんと今のうちに我慢して辛抱なさることだね。今が一番いい勉強をしているいい時期だって、教えてあげなさいよ」
千代乃は孫娘の洋子に聞せているような気分になっていた。孫娘は歌い手になりたいと言っているが、千代乃は心から反対している。
「正夫さんは私が来てからは、私が肉の買出しをするようになり、もう楽をしているもの」
「じゃ鈴虫に初物の茄子を食わせる奥様の態度は、理解できて許せるかね」
「茄子ですもの、初物って言っても……」と若い女は、にっこり笑いながら言った。
千代乃は両膝を少し曲げ、女を睨み上げた。すぐに睨む力は薄らいだ。今どきの若者は肉には憧れるが、茄子やかぼちゃには見向きもしないのだと思い直した。自分が惨めになるような、茄子の例を言い出した自分を、考えが足りなかったと思う。でもいつかこの子は猫も鈴虫も、そして牛肉も茄子も同じような関係にあることが解る日が、必ず来るに違いないと思った。
「正夫君、百日紅の上の猫を仲裁して、お食事をさせなさいよ。急ぎなさい!」
奥さんの金切り声が聞えてきた。
「正夫は肉鍋や大きなスプーンなどを、平らな庭石の上に置いて、百日紅の方へ急いで走った。彼は百日紅の木を登るのも上手になっていた。勢いをつけて、幹の分れた所までいっきに駆け登った。分れた大枝に足を掛け、両手を広げて大の字になって、徐々に上り詰めて行く。猫はまだ見合って唸っている。
「この前も、もうずい分前になるけれど、やはりあの百日紅の木に登った猫を下ろす時、どんなに丁寧に誘っても、静かにお願いしても一向に聞き入れてくれる気配がないので、正夫さんはついに腹を立てて、竹竿で猫を叩き落したんです。小気味よかったわよ、小母さん。あの時は胸がすっとした。高い小枝から落ちて行く塊が今でも目に映るわよ」
女は自分の言葉に酔っているようであった。
「そんなことがあったのかい。今日は竹竿を使わないのかな」
千代乃は正夫が大の字になって双方の猫に何か話しかけながら、喧嘩を仲裁し、食事に降りてくるように諭している姿を、目を細めて見ていた。
「この前竹竿を用いて猫を叩き落したら、先生が激怒されて正夫さんを平手で数限りなくはたかれたのよ。普段は優しい先生が人が変ったようでした。猫を侮ったと仰って……」
「先生さまは、よほど猫を大事になさり可愛がっておられるんだね」
「奥様は見ていらして、止めに入る様子もありませんでした。先生は火がついたように怒り続けていたのです。それ以上我慢していられずに、私は先生と正夫さんの間に止めに入りました。私なんか、先生の一突きで部屋の隅に投げ飛ばされてしまったわ。あんなに痩せた華奢な先生だと思っていたのに、意外や意外、気違いのように真剣な時は怖いものですね。迫力があったわよ。気に入らないけれど、先生には何か大切な使命をお持ちのように、あの時は思いました。正夫さんもこの家を逃げ出そうとしていたのですが、結局目に見えない先生の魅力に引き留められてしまったわ」女はそう言って、長い溜息をついた。
「それじゃ、それでよかったじゃないかね」
「でもね、小母さん、二年が過ぎても絵筆一本持たせて貰えないなんて、悲劇ですよ」
「そうじゃないんだよ。今の世の中が狂っているんだよ。心の仕度も、腕の修行もなくて、今はいきなり絵を描き、曲を作り、詩を詠うだろう。間違っているよ。こんなじゃ本物はできっこないもの。何でもすぐ銭っこになり、誰でも騒がれる。生徒は勉強もせずに学校に行く。楽ばかりしくさって……。今に国中のもんが、泣きべそかくことになるさ。昔のことも忘れて、いい気になり過ぎているよ、……日本中だよ」と、千代乃は興奮している。
「あの時先生は、猫のお陰で今日の地位があるのだと言って怒鳴られた。そんな恩義のある猫を粗末にしてはいけないって……。猫は、どの人間よりも正直だって。猫は犬みたいに主人に媚びたり、
「りっぱな先生じゃないの。さすが先代のお医者様のご子息様だね。ただの道楽もんだとばかり思っていたけれど、なかなかなもんじゃないかね」
千代乃はほのぼのとした嬉しさに包まれていた。
「鈴木さんは、先代の先生に大事にされたんですってね。そんなこと伺っていたから、最初からただの他人のようには思えなかったんですよ。鈴木さんなら、こんな話も何となく解って貰えるような気がしていたんです。でも
正夫がようやく一匹のシャム猫を腕に抱え込んで、百日紅を降りて来た。他の一匹も静々と正夫のあとを、爪立てて降りていた。
若い女は肩で息をしてから、勝手口のドアを開けた。壁に猫の絵が肖像画のように幾枚も吊るしてあった。本物の猫が死んでしまった後も、描いた猫はいつでも生き続けているのだと千代乃は思った。尻尾を宙高く上げているシャム猫の絵の隣に、田端駅の階段を登って行く〈からす部隊〉の大きなパネルが掲げられていた。外から差し込む光の具合もあったが、全体的にくすんで見えた。
「ねえ、お姉さん……」と、千代乃が若い女に声を掛けた。
「まだ、何か……」と、女はドアの向こうから怪訝な顔で振り返った。
「これを先生に渡して欲しいんだよ」
千代乃は、そう言って笑顔を作り、手作りの名刺を女に渡した。電子部品を作る町工場が作業員を募集している広告紙の裏を張り合わせたものだった。〈私は鈴木洋子の祖母です。からす部隊の一員〉と書かれていた。その裏面にはやはり鉛筆書きで孫娘のリサイタルの日時、場所が書き込まれていた。芯を舐め舐め書いたのか、艶のある紙に濃淡のある字が踊っていた。
(七)
鈴木千代乃は野菜や米を売りつくし、軽くなった籠を背負って駒込の駅へ急いでいた。自分が手塩にかけた野菜などを、ひとつも残さず売り捌くことは喜びのある仕事だった。隣の雪江のように町の工場へ行き、スポーツウエアを縫製することにも作る喜びがあったに違いない。同じ喜びでも質が異なるように千代乃は考えている。
〈洋子はわしの血を引いたんだ。久子の子というよりは、わしの孫と言った方が正しいのさ。誰が何と言おうが、あの子は……〉
千代乃は地下足袋を履いた足に力を入れた。雪江の家には洋子みたいな歌い手は出まい、と誇らしげに思う。広告紙の白い裏紙を張り合わせて作った名刺を、心の置ける家々に置いて来た。洋子の歌の入ったレコードが出たら、一枚でも買ってやって欲しかった。千代乃は洋子の歌を少しもうまいとは思っていない。洋子の心が少しも伝わって来ないように思う。頭の芯から叫ぶような甲高い声で歌うだけだと思っている。
洋子がまだ高校生の頃に、一度だけ歌うのを見に行ったことがある。千代乃は上等の簡単服を着せられて、落ち着かない気持で都心の会場へ連れて行かれたのを憶えている。他の女の子もそうであったが、肩をあらわに出し胸元を大胆に開け、短いスカートをはいていた。赤や緑の光りの束がくるくる投げ掛けられていた。娘たちは踊りが中心みたいで、歌はほんの掛け声みたいなものであった。千代乃は、踊り子まがいの孫娘を可哀想に思い、自分は情けない思いをしていた。舞台を走り回っているだけで、少しも美しいとは思わなかったし、楽しい気分にもなれなかった。
「おばあちゃん、歌手よ。ダンサーじゃないわよ」
洋子は千代乃のいう踊り子という言葉が気に入らなかった。
「どっちにしても、あんな恰好で恥ずかしいことをしているね、……だろう」
テレビなどでは放蕩な若者が朝から晩まで、晩から朝まで碌に仕事もしないで時間を潰している。孫娘もそんな戦後の大きな渦の中に巻き込まれて、あぶくのように押し流されているのだろうか、と千代乃は不安だった。洋子たちのあのような歌や踊りがはやり、いい若者がお金を出してまで見に行く、気心が知れなかった。
「おばあちゃんは古いのよ。時代の流れを知らないのよ。そりゃ無理よね。父ちゃんたちだって、本当の価値なんか、解っちゃいないんだから……」
洋子にそう言われると、千代乃は解らないのが当たり前だと思った。解らないにしても、何か一つくらい心を引くものや、胸を打つものがあってもよさそうだと思う。今、孫娘がやっていることは、自分たちが時を忘れて没入しているだけで、他人や観客を一緒に引き込むものを持っていない。無理もないことだと千代乃はつくづく思う。たった一つのことだけに一生を投げ打つ生き方が、今はできなくなっている。あれもこれも何にでも手を出し、足を運ばなければならない仕組みになっている。現金がなければ生活ができない世の中になっている。昔は金が無くてもりっぱに暮せたのに……、と千代乃は思う。今は一つのことにじっくり腰を据える暮しは、どこにいても許されないのだから可哀想だと思う。
〈自分がいいなら、それでいいだろうさ〉
千代乃はいつだって最後にはこう言って、問題を終結する。それでいて戦後は、義雄にしても久子にしても、その自分がないのだから情けなくなる。千代乃は肩紐に手を掛けながら、洋子が高校生のあの頃と、二十歳になった今と、何にも変ってはいやしないと思っている。
今日のリサイタルとかいう発表会も、義雄と久子が相当な金を出して開催するらしい。何回開いたかが実績になるらしかった。一回目に何人来たとか、二回目にはどういう評価を受けたかは、二の次の問題らしい。もちろん大勢が押し掛け、反響が高いに越したことはない。数回のリサイタルの経験を持てば、ようやくレコーディングを請け負う会社も現われるらしい。また実費を負担すればレコーディングを最初から引き受けてくれる会社もあるらしい。レコードが売れるか否かは、歌のよしあしとは別問題である。ある筋が気に入れば親衛隊が編成され、レコードも上手に宣伝され、どんどん買われて人気も上昇するらしい。人々は作られた流行を追い、でっち上げの人気に踊らされ、振り回されている。嫌な時代になったと千代乃は思う。敏夫も、あの時祭り上げられた偶像を拝み、作られた報道と似せられた精神に踊らされていたのかも知れない。上等な肉を買って来て、自分たちが食べるのだと思っていたら、シャム猫に食べられてしまった、あの若者たちの落胆もまた敏夫の裏切られた期待も同質のものだ、と千代乃は思った。
力のない者は仕事を奪われてしまう。洋子はまだ歌い手を続けている。なり振り構わずに歌い手になることに執着している。大宮界隈の〈からす〉は殆どが町工場に勤めたり、会社の雑役婦になって高い収入を得ている。老いぼれたものも大勢いる。千代乃はからすをやめられずに、老いた体に鞭打って働いている。からすをやめた者は、昔の恩を忘れた不届きな人間で、力の無くなった者だと千代乃は強がっている。町の人たちは、からすの來訪を待ってくれていると信じている。
〈洋子も、いつかは自分の歌がヒットすると信じているんだろうな〉
午後の山手線に乗り込みながら千代乃はそう思った。義男や久子は洋子の言うがままに金を出し、彼らは娘がいつかは晴れ舞台に立てるとひそかに信じている。娘に幸せを買ってやっているつもりだ。その期待のために、義雄たちは現実の幸せや何かをすべてかなぐり捨て、犠牲にしている。現実に生きている猫が死んでしまっても、絵に描かれた猫はいつまでも生き生きと生きている。果たして義雄たちの期待や洋子の歌は、勝手口で見たあの猫ほどに生き残れるだろうか、と千代乃は思った。
〈夫の願いは……〉
千代乃がこんなことを心に思い浮かべている時、山手線の電車が田端の駅に着き、たくさんのドアが一斉に開いた。プラットホームでは長年聞きなれた甲高いベルの音が鳴り響いていた。千代乃は珍しく乗り換えるのを億劫に思った。義男や洋子のことを考える時は、心にも張りがあり、元気づく。特に今日みたいな仕事あけに夫のことを考えると、急に疲れが出て体中に悲しみが走るように思えてくる。洋子が小学校の頃までは、そのようなことはなく、どんな心の動きや体の欲望も抑えることができた。洋子は中学生になって、個性的な発言や行動をする。自分は六十になり女の生理と体の自由が完全に無くなった時、精神も一緒に開放されてしまったように思う。若い女性の知らない世界だと千代乃は思った。それは開放ではなく肉体に見放された精神で、節制をなくしたもののように思い、多少苦く恥かしいものであった。
四十年近くにもなる戦後の後家としての生活の空白を、千代乃はいっきに埋めたい衝動に駆られた。朝と同じ方向に階段を登り、同じ広告を見、改札口の向こうに広がる同じ景色に目をやって、同じプラットホームに降りて行くのに耐えられなかった。千代乃は目を閉じてドアの閉まるのを待った。胸がどきどきっと変則的に高鳴っていた。
駆け込んできた高校生たちは、空席に足を投げ出して坐った。皮だけが重なっているような薄い鞄を持っている。シャツのボタンを三個もはずして胸をはだけた生徒たちが多い。下着を着ている者はいなかった。バンドをしていない者、していても細いひも状のベルトの者。グレーのズボンは規定のものらしい。教科書を二、三冊手にした別の高校生はラメ入りの黒いシャツを着て、サングラスをかけ、女物のサンダルを履いている。足がはみ出てサンダルは電車が揺れるたびにがくがく動いている。女生徒はマニキュアを塗り、口紅をつけている。髪を赤茶色に染め、パーマをかけている。十七、八歳にはとても見えず、婆さんくさく見える。不健康な老け、老いの疲れが顔に出ている。
〈この子たちが流行を追い、流行を作り、世論を動かして行くのだ〉
千代乃は騒ぎたてている高校生の姿を見ていて、こう思った。〈この子たちには力があるんだ。夫も当時は、結局この子たちと同じ世界に生きていたんだ。そして……、この子たちは自覚するとしないとにかかわらず、敏夫と同じ道を歩む人たちだ。今のうちにできるだけ喜びや楽しみを、将来の悲しみや苦しみに打ち勝つために、経験し貯えておかねばならないんだ〉と千代乃は考えていた。
「君たちさ、鈴木洋子って、若手の歌い手を知っているかい」
千代乃は隣にいる男子生徒に、思い切って声を掛けた。
唐突な話しかけに驚いた高校生は、一瞬体を縮めてから隣の友人にぼそぼそと説明していた。集まった数人の生徒たちは、千代乃の黒い荷物やもんぺ姿を不思議そうに見比べていた。意識的に千代乃に顔を背ける少年もいた。
「鈴木洋子だって……、知るかい、そんな奴」
両手を吊り革に当てた大柄な男が、半ば笑いながら言った。
「小母さん、その子がどうしたの」
サングラスを掛けた少年と手を繋いでいる女子生徒が甘い声で尋ねた。
「鈴木洋子って子はわしの孫娘でね、今晩リサイタルってのを開くのさ。よかったら聞いてやってよ。かなりうまいよ」
千代乃は入れ歯の上歯を舌で押し上げてから、丁寧に言った。珍しく緊張している。目を白黒している生徒たちを見て、千代乃は勇気が出て来た。千代乃はこことばかり、私製の名刺を出して、手を繋いでいる女生徒に渡した。しばらくしてからようやく、おもしろい小母さんだ、と少女が呟いた。
「プログラムはないのかい」
サングラスを掛けた少年がこう言って、鉛筆書きの名刺を見ていた。返事のできない老婆を少年は愉快がっていた。
「何時から、どこで……とか、そんなのが……」
「六時から、銀座のホールで……、だなあ」
千代乃は孫娘の名前を言った時よりはるかに緊張していた。地下足袋を履いた両足に力を入れて踏ん張った。
「六時じゃ、まだ時間があまるなあ。小母さん、それに俺たち六時に行く所があるんだ」
サングラスの男がそう言って、化粧した女高生たちの方に向って、両手を前に広げ肩をすぼめた。女たちがどっと笑い、足を投げ出していた男たちも席を立って、興味を示した。
千代乃の恰好を見て、生徒たちはみな千代乃に同情的な視線を投げ掛けていた。
「小母さん、その恰好でよ、銀座のリサイタルに出掛けるのっけっ?」
今し方席を立って来た男子高校生が、真剣な顔で尋ねた。周囲の十人近い生徒たちが一斉に関心を持って、千代乃の返事を待っている。
「そうだよ」
千代乃の返事を聞いて、生徒たちは大喜びだった。鞄を叩いて笑い崩れるもの、吊り革の丸い輪をかちかち鳴らしてはしゃぐもの、横腹を押さえて痛みに耐えているもの、地下足袋、もんぺと言って繰り返し千代乃を指差すもの、……など大騒ぎだった。
「何がおかしいかね」と、千代乃は憮然とした表情で言った。「お前たちのやっていることだって、その恰好は何だい。まったく笑いぐさだよ、ふん」
「小母さん、時間があったら顔を出すよ」
サングラスの男が大声で千代乃に言った。「俺、小母さんが気に入っちゃったよ」と、千代乃の肩を叩かんばかりに近付き、笑いこけながら付け加えた。
生徒たちは上野でぞろぞろ降りて行った。千代乃は静かになった車中で、大人たちが凝視していたのに気付き、年甲斐もなく気まずい思いをした。
(八)
千代乃は新橋で下車して、駅前のビルに入った。駒込では行商をしていても振り向く人はあまりいないが、新橋には大勢の人が往き来していて千代乃の姿を見ると立ち止まる者がいた。この街では自分がはみ出し者に思えた。明るい午後の日差しを受けて、銀座のホールまで歩いて行く勇気はなかった。
千代乃は六時までの時間を、駅前のビルの中で過ごそうと決心した。高いビルの中には色々な店があり、休憩所も設けられているからである。一年ほど前に義雄の友人がこのビルの守衛になった。その後義雄と千代乃、それに洋子を案内してくれたことがあった。守衛室にはさまざまなボタンが取り付けられていて、その一つを押すと指示された場所の様子がモニターテレビ画面に映る仕組みになっている。千代乃と洋子は面白がって、次々とボタンを押して浮かれ、興じていたのを思い出していた。
十階には各種教養教室があった。千代乃は廊下をゆっくり歩いて時間を潰していた。守衛室に義雄の友人を訪ねる気はなかった。閉ざされた扉から三味線の音が流れている。絨毯の敷かれた、アルミサッシュの近代的な広い窓が連なっているビルの廊下で、三味線の音を聴くのはおかしなものだった。駒込辺りの路地で聴くのは乙なもので、心が休まり鎮まって行くのを感じる。最近は駒込でも三味線や琴の音をあまり耳にしなくなった。高層ビルの中で聞く三味の音は、やはり変なものだった。しかし侘しさを感じさせる懐かしいものであった。お師匠さんは洋服に着替えて帰るのだろうかと、千代乃は行商姿の自分の足元を見ながら、とっぴなことを考えたりしていた。
〈こうした所に来る時は、着替えを用意して来ればいいんだ〉
千代乃はこんな思いつきに愉快になった。黒い大きな籠を背負いながら、人のあまりいない廊下をぐるぐる歩き回っていた。ビル内の名店街も見て歩いた。
千代乃が銀座通り六丁目に向かって歩き出した時、ぽつぽつ雨が降り始めた。もう少し早く三味線の音に別れを告げていれば……、と悔いた。日本手拭で時々雨しずくを拭いながら、雑踏した通りを歩いていた。銀座通りを歩いている群衆は、千代乃の姿を見て映画かテレビのロケでも撮っているのかと立ち止まり、所どころに人だかりと波ができた。千代乃のために道をあける形になったが、千代乃は如才なく抜けて歩き続けた。
千代乃が銀座のホールに着いた時、司会者の挨拶は終わったらしく、洋子の歌が始まっていた。受付係は千代乃の姿を見て戸惑っている。
「お客様、ここは鈴木洋子のリサイタル会場ですが……、お客様……」
ぱらぱらと入って来る人たちの目障りになってはいけない、とジョーゼットのワンピースにコサージュを付けた受付係が千代乃を追って来た。老婆は扉越しに見える会場の方に視線を投げたままだった。
「お客さま、ちょっと……」係の神経質な喧嘩ごしの高い声が再びロビーに響いた。
千代乃は、もんぺの前に縫い付けた小さなポケットから名刺を取り出し、会場内を覗き込んだまま横向きに渡した。係の女は難解な試験問題に目を通している時の所作で、すごすごと受付のテーブルに戻った。名刺置きに置く前に、他の係にも名刺を見せ、会場に入って行く老婆の姿を見送っていた。
千代乃は背負い籠を最後列の手摺の下に降し、中央の通路側の最後部席に坐った。会場の三分の二ほどが空席で、赤い色の椅子の背がわずかな客を呑み込んでいた。元気のよさそうな歌にしては盛り上がりがなく、孫娘も悩み悩み気兼ねして歌っている感じであった。
千代乃は席について、遠くの舞台で歌っている洋子の姿を見ていると、早起きの疲れがどっと出て来た。洋子の姿がどんどん小さくなり、自信のない歌声だけが耳元に響いている。老婆はこくりと頭を落した。
入口の方が騒々しくなり、受付の女が千代乃を呼びにやって来た時、ようやく目を覚ました。千代乃には洋子の歌は退屈で、居眠りをしたくなるものだった。何年か前の歌の方が、歌い方のほうが心を傾ける何かがあった、と千代乃は思った。
「お客様、実は高校生が五、六十人押しかけて見えたんです。お客様にお会いしたいと言っているんですが……。ご存知ですか」
「高校生って……、知らないね、そんな若い人たち……」
「今日、昼過ぎ、電車の中で知ったと言っていますが……」
「ああ、あの子たち、……来てくれたんだな。入れてやって下され」
「そうおっしゃられても、あの子たち、入場券をお持ちになっていませんから、お入り頂くわけにはいきません」
「それを、何とかならないかね」
「皆さん、入場券をお買い求めいただければ、それでよろしいのですが……」
「そう、……じゃあ、全部でいくら払えばいいだかね」
「お一人様千円ですから、そうですね、五万か六万円掛かるでしょうね」
「五、六万ね、……いいだろう、分ったよ」
千代乃は孫娘に五、六年分のお年玉を思い切って出してやろうと思った。
「よろしいのですか」
「ああ、いいとも。鈴木洋子の祖母じゃからのう」
老婆との話がつくかつかないうちに、高校生たちはサングラスを掛けた少年を先頭に、ぞろぞろと洋子のリサイタル会場に繰り込んだ。会場は少しばかり埋まり、急に賑やかになった。彼らは上野での六時のテレビ番組が超満員だったので、銀座のホールの方へ流れて来たらしい。洋子のソプラノとかいうキイキイ声は高校生たちに受ける何かがあった。彼らは調子づき舞台の裾や通路を陣取り、洋子の歌に合わせて拍子を取って、歓声を上げた。洋子の歌というより彼らが楽しんでいるふうで、会場はいっきに華やいだ。
千代乃はもしやの時に持ち歩いている金に、売り上げた小銭をかき集めて受付に置いて来た。銀座通りを歩きながら千代乃は、夕方茄子に水をやることをすっかり忘れていたことに、ふと気付いた。通りは薄暗くなり、水銀灯が次第に明るさを増してきていた。背負い籠に後ろ手を宛がいながら、〈わしも、のろまなからすになったものだなあ。明日から、また張り切らなくては……〉と思った。
トウモロコシの葉が付けた、蟻の行列のように固まった腕の傷跡が、急にうず痒く感じられた。
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2005/09/26
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