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静物

   一

 

 家を持つて間のない道助夫妻が何かしら退屈を感じ出して、小犬でも飼つて見たらなどと考へてる頃だつた、遠野がお祝ひにと云つて、(くちばし)の紅い小鳥を使ひの者に持たせて寄来(よこ)してくれた。道助はその籠を縁先に吊しながら、此の友人のことをまだ一度も妻に話してなかつたのを思ひ出した。

「古くからの親友なんだ、好い人だよ。」と彼は妻に云つた。

「では一度お()びしたらどう。」と彼女が答へた。道助はすぐに同意した。彼女はその折りに食卓に並べる珈琲(コーヒー)茶碗や小皿のことなどに就て細々(こまこま)と彼に相談し初めた。

 二三日して彼は郊外にある遠野の画室を訪ねた。明るい光線の満ちた部屋の中に、いつの間に成されたのか新しい制作が幾つも並べられてゐた。それを見てゐると道助は急に自分の影が薄れて行くやうな(いら)だたしさを覚えた。

「君、これは光線の具合だらうか、」と遠野が這入つて来るなり彼の顔を凝視して云つた、「どうも君の顔が変つたやうな気がする。」そして彼は画室の隅に立てかけてある、八分通り出来上つた道助の肖像画の方へ振り返つた。

「どうしてだらう、あれを描いて呉れてた時分からまだ半月も経たないよ、」と道助が微笑(ほゝゑ)みながら答へた。すると遠野は急に道助の肩を揺すつて

「あゝ君は幸福過ぎるんだ。」と叫んだ。

「君は大変な人相屋だ。」と道助は皮肉な気持ちで答へた。遠野は故意(わざ)とお道化(どけ)た風に点頭(うなづ)きつゝ棚から口の短いキュラソウの壷を取り下ろした、そしてそれを道助の洋盃(グラス)()ぎながら

「兎も角君も落ちついたと云ふものだ。」と云つた。それは、その頃まで道助の周囲を取り捲いてゐた空気の明暗をよく呑込んだ言葉だつた。然しそれを聞くと、道助は却つて自分の気持ちが妙に(こは)ばるのを感じた。で彼は窓の外へ眼をやつた。

「何か感想がありさうなものだな、」と遠野は笑ひながら云つた。

「話さうと思へば無くもないさ、然しそんなことは馬鹿げてる。」と道助は呟くやうに答へた。

「その馬鹿げたことを訊いてるのさ。」と遠野が今度は椅子の上に()り返つてのびをしながら云つた。そしてすぐに彼は「実際、面白いことはさう沢山無いよ。」と附け足した。その調子が可笑(をか)しくて道助は思はず噴き出した。それに連れて遠野もお(なか)を抱へた。

 するとその彼等の声に応じるかのやうに扉を(ノック)する音が静かに響いて来た。道助は立ち上つた。

「いゝんだよ。」と云ひつゝ遠野はまたキュラソウの壼を取り上げた「でどうだ。あの鳥は?」

「あゝ失敬、彼女が大変喜んでゐるよ。退屈なものだから。それでね、是非一度君を招待しろと云ふんだ。」

「あゝその使ひに来てくれたのか、ありがたう、ゆくよ、奥さんにも逢つとかなくちやね。」

 その時、(はげ)しく扉が明け放たれた。そして濃い空色のショウルを自暴(やけ)に手首に巻きつけたモデルのとみ子がつと這入つて来た。彼女は片手に持つてゐた花束を乱暴に床の上に投げ出して、どんとぶつかるやうに遠野の肩に(もた)れかゝつた。

「どの奥さんに逢ひにゆくのよ。」そして手を伸ばして遠野の前にある洋盃を取り上げた。

 

     二

 

「この紳士の奥さんさ。呑んだくれのトムミイ、」さう云ひつゝ遠野は静かに彼女の洋盃ヘキュラソウを()いでやつた。

「あら、ご免なさい。」彼女はさう云つてちよつと道助の方へ頭を下げた。

「そして綺麗な方?」

「君のやうにね。」と少し酔が廻つて来た道助が口を挾んだ。

「おや、ご挨拶ですこと。でもお大事になさるんでせうね。」

「それはもちろん、」

 彼女はちらと揶揄(からか)ふやうな視線を遠野に向けた。遠野がすぐに云つた。

「然し君のやうに此麼(こんな)にぶくぶくぢやないんだとさ。」そして彼は真白な彼女の腕首をぴしりと叩いた。

「ぢや古典派だ、流行(はや)らないのよ。」さう云ひつゝ彼女はちよつと遠野を睨まへた。彼等は噴きだした。

「君は何派だい。」と道助が訊ねた。

(あたし)や未来派さ。」と故意(わざ)と取り澄まして答へながら、彼女は遠野の膝の上でその豊満な身体を(ゆる)やかに揺すり初めた。

 遠野は彼女のするがまゝになりながら、立て続けに洋盃を乾した、彼の眸や唇に、時々ちらちらと何かが燃え上る、それを隠さうとするかのやうに、彼は細長い指を伸べて食卓の端を叩きながら低く唱ひ始めた……

 その様子を見ると道助は少し堪へられなくなつて()つと椅子を離れた。そして先刻(さつき)彼女が抛り出した花束を拾ひ上げて、殆ど無意識にその花片(はなびら)を一つ一つむしり初めた。

「おいとみ子、一つダンスをやらう。」さう云つて遠野が不意に彼女の首筋を抱へて飛び上つた。

「ほら始まつた。」と云ひながらとみ子はちらと道助の方を見た。

「あゝ君は一つ囃子方(はやしかた)になり給へ。」遠野が道助に云つた。道助は漠然と微笑みながらバネの弛んだ自働人形のやうに部屋の中を歩き廻つた。

 恰度(ちやうど)部屋の真中へ天窓から強烈な光線が落ちてゐる。その中へ遠野ととみ子とは白い両手を握り合つてふらふらと立ち上つた。

「ほんとに踊る気かい、君達は。」と道助が訊ねた。それを聞くととみ子が崩れるやうに笑つた。

(をどつ)たつて好いぢやないか。」と遠野も笑ひながら答へた。

「まるで君は日本にゐるやうぢやない。」と道助が云つた。

「そんなことはどうでも好いさ。」さう云つて遠野は強くとみ子を抱きかゝへた。

 その時雲がよぎると見えて部屋の中がちよつと暗くなつた。それと共に、道助は何かしら白けた気持ちが自分を犯して来るのを感じた。

「おい、君は何を考へてゐるのだ。」と遠野が叫んだ。

「囃子方も看客も僕はご免さ。」と道助は吐き出すやうに云つた。

「ぢや貴方踊らない?」さう云つてとみ子が彼の方へ大きく両手を拡げた。

 それを見ると道助の気持ちは一層拘泥し初めた。何か斯う際立つて明るい世界の前に急に頑丈な扉が聳え立ち、その外に自分独り取り残されたと云ふやうな……あゝ道助は妻の顔を思ひ浮べてゐたのだつた!

「僕はもう失敬するよ。」

「どうしたんだ、急にまた、」と遠野が訊ねた。

「僕はもう享楽出来ないんだ。」と道助は明らさまに答へた。「意気地が無いのね。」と云ひつゝとみ子が彼の背中をどんと叩いて遠野と顔を見合せた……

 

     三

 

 独身──制作──とみ子、その三つのものを結び合せて遠野のことを考へると、道助は自分が何かしら(みじ)めなものに思はれた。彼は或る時の妻の瞳を思ひ出し、また彼女の髪の震へを感じた。然し彼の心はもうそれらに対してまるで路傍の人のやうな冷静さに裏づけられてゐた。

 彼はぢつとしてゐられない気持ちになつた。である日、手箪笥の底から彼が結婚前に書きかけてゐた自叙伝的な創作の原稿をとり出した。

「おい、これから少し仕事をやらなくちやならないんだ。」さう妻に云つて彼はその原稿を一枚一枚読み返した。

「なあに、小説?」と云ひつゝ彼女が馴々しくそれを覗き込んだ。

「見ちやいけない。」と彼は叫んだ。

(こは)い顔。」と云ひながら彼女が眼を(みは)つた。

「ちよつとあつちへ行つてゐてくれ。」と彼は押しつけるやうに云つた。彼女は少し蒼い顔をして隣室へ立つていつた。彼はそれを追ふやうにして(あひ)の唐紙に手をかけた。彼女がぢつと反抗的な視線を彼に投げる。彼は強ひて笑顔を作りながらぴたりと唐紙を閉めた。そしても一度原稿紙を取り上げた。

 彼の頭は暫くその上と隣室へと等分に働きかける、そして結局焦躁のために混乱してしまふ。

「こんな洞察のない、こんな上滑りのした空想ぢや駄目だ」とさう呟きながら、彼がそれをまた手箪笥の引き出しへ投げ込んで鍵を下ろした時、彼は裏口が明いて彼女の出てゆく気配を知つた。彼は巻煙草の吸口をぎゆつと噛み占めた。

 あゝ今、彼の眼の先へ息の詰まる程の鮮さを持つた空想の世界が、何か魔術にでもかゝつたかのやうにすつと現れて来たら、彼はどんなに幸福だつたらう! 然し、彼の前には、実のところ空漠とした煙が巻上るのみだつた。

 道助は溜息をつきながら立ち上つた。そして何か遠くにあるものを求めるやうな気持で静に裏口を出た。

 三四間(さんしけん)ゆくと彼は急に忙々(せかせか)と歩き出した。「何処へいつたのだ、彼女は。」さう呟きながら。

「好いお天気でございます。」と声をかけつゝ牛乳屋の主婦(おかみ)さんが頭を下げた。道助はちよつと会釈をしてゆき過ぎた、「あの人の鼻はどうしてあんなに大きいのだ!」……

 いくら行つても妻の姿は見えなかつた。そして路上を這つていく自分の長い影法師が一層彼の気持ちを(いら)だたしめた。彼はすぐに引き返した。

 彼が荒々しく硝子戸を明けると、仄暗い茶の間の鏡の前に、彼女が身動(みじろ)ぎもしないで坐つてゐた。彼は黙つてその傍を通り抜け書齋の真中へ仰向(あほむき)に身を投げだした。彼はぢつと眼を見開いた。しんとした中に眼に見えぬ力が執拗に彼を圧して来る。彼は身を刺すやうな憎悪を感じた。ビ・リ・リ・リ・リと叫びながら遠野のくれた(くちばし)の紅い小鳥が籠の中で跳上る。彼は立つて水を換へてやり、それからつかつかと茶の間へ這入つていつた。と涙が彼女の硬ばつた頬を伝ひ白い手の甲の上に落ちた……

 

     四

 

 同じ日の夜、道助は少々退屈を意識しながら彼女の前に坐つてゐた。彼女は用心深く彼の視線を(そら)しつゝ何気ない世間話の中へ彼女の従姉(いとこ)の不幸な結婚の話を細々(こまごま)と織り込んでいつた。道助は「これは初めて聞いた」と云ふ風に時々彼女の方へ点頭(うなづ)いて見せながら、ぼんやりとそれを聞いてゐた。で最後に彼女が

「それであの人達が苦んでゐるのは、結局今更どうにもしやうのない秘密の世界をお互して作りあげてしまつた所為(せゐ)だと思ふのよ、」と云つて彼の眼を盗み見た時にも、道助は矢張り先刻からの退屈の惰力で「うんうん」とか何とか云つたきりだつた。(それ)を見ると彼女は硬い笑ひを浮べ乍ら

「つまり心の何処かにちよつと忍ばせて置いた小つちやなことから大きな秘密が生れることにもなるのだわね。」と云つて今度は眞正面(まとも)に彼を凝視した。

「あゝこれは遂々(とうとう)そんなところまで引張つて来たのだ!」さう考へながら道助は故意(わざ)揶揄(からか)ふ様に「そしてその小つちやなことと云ふのは女の胸の方に忍びこんでゐることが多いんだね、第一女は隠すことを知つてゐるからな。」さう云つて笑つた。

「いゝえ、いゝえ、」と彼女はカブリを振りながら云つた。それから急に湧き上つて来る興奮に震へながら、

「あなたは(あたし)に信頼して下さらない。」と細い声で云つてきつと口を(つぐ)んだ。道助は少し険しい眼つきをした。

「あなたは妾に見せられないものがあるのでせう、いゝえ、あの手箪笥の引き出しには何が(しま)つてあるか、妾にはよくわかつてゐます。」

「秘密の城を築くと云ふのはおまへのことだ。」と道助は故意(わざ)と冷笑するやうに云つた。

「妾はあなたに見せられないやうな鍵は持つて居りません。」と彼女が執拗に答へた。彼は強ひて自分の気持ちを抑へながら云つた。

「昔、ある天才が自分の書いたものを眞珠を(ちりば)めた箱に入れて()つと藏つておいたと云ふ話がある、そんな気持ちはお前にはわかるまい。」

「それはお(はなし)として承れば美しいことかも知れませんわね。」さう云つて彼女は静かに微笑んだ。

 それを聞くと道助は遅緩(もどかし)さに堪へられなくなつて、「馬鹿、お前にはわからない。」と叫んで横を向いてしまつた。彼女はちらと追窮するやうな視線をそれに向け、そのまゝ俯向いて編物の針を痙攣的に動かし初めた……

 然し暫くさうして口もきかないでゐると、道助は何かしら淋しくなつて来た。で彼は遂々(とうとう)銭入れの中から白く光る小つちやな鍵をとり出して彼女の膝の上に投げやつた。

「おまへには恰度(ちやうど)好い玩具(おもちや)だ!」

「えゝえゝ大人しく遊びますわ。」急にさう気軽に云つて、彼女はそれを帯の間へ藏ひこんだ。道助は忌々(いまいま)しさうにそれを見た。その手箪笥の引出しには彼の独身時代を淡く色つける四五百通の手紙と彼が今日昼読み返した旧い原稿とが這入つてゐるのだつた。

 

     五

 

 二三日道助は創作に没頭した。それが殆ど半ば程進んだ頃のある曇つた日の午後。

 彼はもう何枚目かの原稿紙を破り棄て、低く垂れた空へ疲れた眼を見据ゑてゐた。彼女は彼女でその傍に少し膝を崩して坐り、(あて)のない憂鬱に引き込まれながら、先刻道助が癇癪を起して物置きの中へ抛り込んだ小鳥の鳴き声を追つてゐた。まるで彼等の生活は、その時硝子瓶の中へ閉ぢこめられたやうなものだつた。音、光、色彩、運動、そんなものが凡て自由性を失つてしまひ、たゞ白けた得体の知れぬ現実がぐんぐんと押し迫つてくる……

 道助は額の汗を拭いて立ち上つた。それを見ると彼女も立ち上つた。道助は静かに玄関へ出た。すると彼女も()つとついて来た。彼は振り返つて彼女の眼を見た。その鞏膜(きょうまく)が変に光つてゐる。

「おい、俺は少し散歩するよ。」と彼が小声で云つた。

「妾も参ります。」と彼女も小声で答へた。

「お天気の所為(せゐ)かな。」と道助は歩きながら考へた。

 暫くゆくと彼は跫音(あしおと)がちつとも聞えないのに気がついた。で彼は愕然として背後(うしろ)へ振り向いた。そこに彼女がほんの一尺計り離れて彼に()いてるやうに歩いてゐる。

「あゝ俺は少し頭を使ひ過ぎる。」さう道助は思つた、で彼は高声にお饒舌(しやベり)を初めた。

「おい俺は豚を二三匹飼はうと思ふよ。」と彼は妻に云つた。

「豚、この街の真中で。」と彼女が(くら)い顔をして反問した。

「あゝ、よく光る太陽の下で、豚と一緒に駈け廻り、ふざけ合ひ、寝つ転がり、(しり)を叩き、あゝおまへ豚の皮膚の色を知つてゐるかい。」と道助は調子に乗つて云つた。

「まあ厭!」

 ふいと道助は、眞白い太つた女の両腕が、彼の眼の前に大きく拡げられてゐる幻を見た。「とみ子! たしかさう云つたな、あのモデル。」と彼は思はず呟いた。

「えゝ」と云ひながら、彼女が探るやうに顔を寄せた。その引き締つた頬を見ると、道助は急いで眼を背向(そむ)けて少し速足に歩きだした。

 彼は歩きながら今度は、いつか懇意な医者から聞いたある若い男の話を思ひ浮べた。その男は小さな時から音楽に対して殆ど狂的な興味を持つてゐた。それが或る日その医者を訪ねて来て、自分は音樂研究のために二三年独逸にゆきたいと思ふが少し調子が変だから精神鑑定をやつてくれと云つた。で医者が容態を尋ねると、自分には今ものの形と音との区別がハッキリとつかないと云ふのである。例へば一つの茶碗を見ると、すぐに彼の耳に瀬戸物の打ち合ふ音が聞えて来て、茶碗そのものの形は、何か斯う空に懸つた朦朧とした曲線とでも云ふやうに音の裏に浮き上つてしまふと云ふのであつた……

 道助がそんなことを考へ続けてゐると彼女が強く手を引張つた。

「その顔色はどうしたんだ。」と彼が苛々と尋ねた。

「あなたの顔も蒼白いのよ。」と彼女が云つた。

 雨が落ち初める……彼等は立ち止つた。

「おい、」とその時晴やかな声が響いた。道助は急に明るい光線が頭の上に落ちて来たやうに思つた。そこに遠野が画布を抱へて、大股に彼等の方へ近づいて来るのだつた。

 

     六

 

 食卓の上に青いシェードをかけた電気のスタンドが(とも)され、その明るい光線の中に、遠野と道助とが少し興奮して坐り、シェードの蔭には彼女が澄んだ瞳をぢつと彼等の方へ見開いてゐた。

「久振で愉快な晩餐をやつた。」と遠野が云つた。

「君なんか自由だから始終旨いものを(あさ)つてゐるのだらうからな。」

「いや、余り自由ぢやないよ。」

「そんな筈はない。何と云つても独身時代が好いさ。」

「奥さんに叱られるよ、そんなことを云ふと。」

「なあに、ほんとさ。」

「然し僕は正直のところ、結局意志の問題だと思ふな。一つの意志さへあつたら、結婚しようが独身だらうがさう問題ぢやないと思ふのだ。」

「そんなことを考へたよ、僕も。然し結婚して見るとわかるよ。」

「そんな筈はない。」

「だつて二人になると、お互の間の闘争と妥協とで精一杯だ。正直になれば喧嘩だ。狭くなれば探り合ひかマヤカシだ。意志なんてものを認める余裕はありはしないよ。」

「君は最も平凡な一面を忘れてゐるのだ。」

「無いものは忘れやうがないよ少くとも僕には。」

「君は余りに拘泥し過ぎる。」

「君は余りに肯定し過ぎる。」

「ぢや君は結局君達の生活を否定しようとしてゐるのだね。」

「少くとも君が考へてゐるらしい平穏な、一致とか互助とか云ふ意味の生活は僕には遠いね。」

「子供が出来ても矢張り君はそんなことを考へてゐるだらうか、新しい生命の創造と云ふことが起つて来ても矢張り君はそんなに個人主義者かい?」

「一層ひどくなる(ばか)りだ。それはむしろ結婚生活の破壊だもの。」

「君のやうな利己主義者にかゝつちや叶はない。」

「僕は利己主義者ぢやない。僕は真面目に正直なことを云つてゐるのだ。」

「わからないな、僕には。」

 遂々(とうとう)遠野は投げるやうにさう云つて、傍に黙つて聞いてゐる彼女の方へ笑ひかけた。然し彼女の視線は凍りついたやうに一つ処を動かなかつた。

 床の壁に遠野が今日持つて来た道助の肖像画が立てかけてあつた。シェードに(おほ)はれた光線が恰度(ちやうど)その(ひたひ)のところまで這ひ上り、そこの黄色を吸ひとつて石のやうに白く光らせてゐる。道助はそれを見てゐた。

「君、あの顔は少し冷た過ぎやしないか。」と彼は遠野に云つた。

それを聞くと彼女はふと皮肉な微笑を口許に浮べた。

「そんな筈はないんだが。」さう云つて遠野はちよつと考へた。

「いゝえ、神経質で冷淡でそして何処か引込思案な気性がよく出てゐますわ。」と彼女が少しきつい調子で口を挾んだ。

「あゝこれは大変なところを掴まれたものだ。」遠野が笑ひながらさう云つて道助の顔を見た。道助は少し敵意を感じてぢつと眼を伏せた。

「実はあれを描いた時、僕は片一方で裸体画の制作にかゝつてゐたのだ。」と遠野がすぐに説明した。

「それが馬鹿に好い調子が出てね自分でも大変愉快だつたのだ、ところが君のあれにかゝると、怒るかも知れないが妙に気持ちが違ふんだ。何か斯う全く相容れぬ力に犯されてるやうでね。つまりそんな意識が働いて多少誇張したことになつたかも知れないんだ。」

 

     七

 

 その制作と云ふのは、この間遠野が画室で逢つた例のとみ子をモデルにしたものに違ひないと道助はすぐに思つた。すると奇体にも彼の眼の前へそのとみ子の影像が不可思議な鮮かさをもつて現はれてきた。

 ──彼女の指先の紅らみの中に浮き出てゐた(ほつそ)りとした指半月(つめのね)(ゆたか)な彼女の唇を縁づける(くすぐ)るやうな繊細な彎曲、房々と垂れた彼女の髪の(かすか)な動揺と光沢、彼女の首筋から両肩へかけての皮膚の純白さと膨らみ、彼女の笑凹(ゑくぼ)、彼女の歯列び、とり別けて、その魂の火が燈つてゐるやうな大きな瞳──

 道助は立ち上つて縁側の籐椅子に腰をおろした。

「奥さんのも一枚描かして貰ひませうね。」と遠野が云つた。

「えゝどうぞ、でもそんな風に誇張をなすつちや厭ですわね。」と彼女が答へた。

「この表情の乏しい女の何処に興味があるのだらう。」と道助は傍で考へた。

「大丈夫ですよ。それに奥さんのを描いとくと、いつかそれが里村君の先刻の結婚論に対する立派な反證になる時が来ると思ふんだ。ねえ君。」

「大変な曰くがつきますわね。でもそんなら妾描いて頂くわ、」

「反證つて?」と道助が訊いた。

「つまりほら、家のお祖父さんはあんなに若かつたのだとか家のお祖母さんはあんなに美しかつたのだと話される時が来ると云ふんだ。」

「つまらないことを云つてゐる。然しそれなら君は何故結婚しないんだ。君の云ふやうだと(とつ)くに結婚してゐて好い筈ぢやないか。」

「時機と相手が出来次第だよ、僕は結婚を否定しないんだからな。」と遠野は皮肉な微笑を浮べて答へた。

「君、あの何とか云つたモデルはまだやつて来るのか?」と道助がそれに反撥するやうに云つた。

「とみ子か、来るよ。今また一枚大きなものにかゝつてゐるのだ。」と遠野は平然と答へた。

「何処に住んでゐるのだ、あんな女は。」

「あんな女はB街に住んでゐるんだ。」

「大変遠いぢやないか。」

「遠くとも来るのさ。それはさうと何なら一度連れてつてやつても好い。」

「あら貴方その人の家までご存じなのですか?」

「来いと云ふから一度行きましたがね。」さう云つて遠野は笑ひながら少し赤くなつた。

「若いんでせう、その人。」と彼女が執拗に訊ねた。

二十歳(はたち)だつて云つてますがね。どうだかわからない、ねえ君。」

「いや十五六かと思はれる時があるよ。」

「皮肉かいそれは。」

「ほんとさ。」

「驚いたね、僕の考へとは十も違ふ。」

 それを聞くと彼女が笑ひ出した。

「年がいつてゐてもあんな気持ちだと好いな。」そんなことを道助は仕方なく呟いた。

 暫くして遠野は立ち上つた。彼等は戸口まで送つて出た。「奥さんほんとに描きに来ますよ。」と遠野が云つた。「どうぞ」と彼女が答へた。「好いだらうな。」と遠野は彼にも云つた。「うん」と道助はぶつきら棒な返事をして空を見た。雪が(やま)つて薄明かりのさしてる中を長い雲が走つてゆく。

 

     八

 

 次の日、ふと道助は昨日腹立ち紛れに物置の中へ抛り込んでそのまゝになつてゐる小鳥のことを思ひ出した。もう昼近くのことで()()をやる時刻はとつくに過ぎてゐたのだ。彼は慌てゝ物置の戸を開いた。

 壁の節穴から一條の光線が差し込んでゐる。小鳥はその方へ首を伸ばすやうにしてぢつと泊まり木にとまつてゐた。道助は()つと側に寄つて籠を取り上げた。然し小鳥はまるで放心したやうに身動きもしない。嘴で掻き乱したものか細かい胸毛が立つて居り、泊り木に巻きついてゐる繊細(かぼそ)い足先には有りつ丈けの力が傷々(いたいた)しく示されてゐる。

 道助はちよつと籠をつゝいた。とすると小鳥は二三度呼吸するやうに翼を拡げた。その動作が如何にも緩漫で、まるで焦点の合はぬ物体を無理に二つ重ねたと云つたやうな不自然な感じを起させた。

 道助は妻を呼んだ。

(くら)かつたからきつと眠り過ぎたのよ。」と彼女が云つた。

「お腹が減つてゐるんだよ、何故餌をやつて呉れないんだ。」そんなことをつけつけ云ひながら道助は餌壼の手当をした。然し新しい餌が眼の前に盛られるのを見ても、小鳥は化石したやうに動かなかつた。道助は()つと鳥の胸に手をやつて見た。ふと自分の指先が大きな醜いものに感ぜられる。

「おまへが見てやつてくれないからいけないんだ。」と道助はも一度妻に云つた。

「こんな処へ入れてお置きになるのがいけないのよ。」と彼女が云ひ返した。彼は鳥籠を彼女に押しつけた。

「死ぬんぢやないでせうね。」と彼女が少し(おそ)れを感じて尋ねた。

「死ぬに()まつてるさ、こんな風ぢや。」道助は吐き出すやうに云つた。

「どうすれば好いのでせう。」

「どうすれば好いかな。」さう云つて彼はちよつと妻の顔を見て、そのまゝふいと書齋へ引き返した。

「何とかしてやつて下さらないんですか。」と彼女が背後から声をかけた。

 彼は読みかけの書物をとり上げた。然し何かしら心が動揺してぢつと筋を辿つてゆくことが出来なかつた。で彼はすぐに書物を投げ出して隣室へ眼をやつた。

 彼女は鳥籠を縁先に吊し何か口の中で歌ひながらそれを覗き込んでゐた。太陽が籠の目を抜けて彼女の顔に落ちそこに薄呆けた斑点を作つてゐる。道助は起き上つてまた彼女の方へ近寄つていつた。と少し籠が揺れ細い羽が風の中に(さら)はれてゆく。

「あゝ死ぬ死ぬ」さう云つて彼は茶の間に置いてあつた帽子をとり上げた。

「何処へいらつしやるのよ。」と彼女が()じるやうに云つた。

「何処へだか僕にもわからんよ。」

 そして彼は彼女には構はないで外に出て、兎も角も電車の停留所の方へ歩き出した。

 

     九

 

 七つ目の停留所で道助は電車を降りた。降りるとすぐ彼は右手の小綺麗な小路へ曲つた。そしてショウインドウを覗きながらゆつくりと歩き出した。実はこれは彼には全く初めての街筋なのである。

 彼には学生時代からそんな癖があつた。手拭と石鹸とを持つて兎も角も電車に乗るのである。そして幾つ目かの停留所で降りそこから第一番目の四ツ辻を右へ曲りその通りにある銭湯へ飛び込んでゆつくり身体を流して戻つて来るのである。退屈がりの彼はその道筋で出逢(でく)はした顔や聞いた話などに一つ一つころもを被せて喜んでゐたのだつた。

 彼は路傍の小ざつぱりとした珈琲(コーヒー)店に這入つた。客は一人も無く暖炉台の上の蓄音器の傍に赤く塗つた鳥籠が置かれ、その中で目白が盛んに囀つてゐる。彼はちよつと家の小鳥と妻の顔を思ひ出した。然しそれもすぐ散漫な気持の中に溶け込んでしまつた。

「今日は出来るだけ幸幅でなくちや。」とそんなことを考へながら、彼は熱い珈琲を啜つた。それから新聞をとり上げて一とわたり経済欄や政治欄に眼を通したが別に愉快なことも起つてゐないので今度は表の方へ眼をやつた。入口の扉が両方に明け放たれ、その間に葭簀(よしず)が吊下り、その向うに明るい往来が見えるのである。

 ふとそこを青いパラソルをさした太り(じし)の丈の高い女が行き過ぎる。傘の青みが顔に落ちてよくはわからないが、色の白い眼の大きな女だと道助は思つた。と同じ瞬間に、その女のショウルと帯の色合ひと横顔の輪郭とがハッキリと彼の記憶に再燃した。それはモデルのとみ子に違ひなかつたのだ。彼は(いそ)いで(はらひ)を済ませて外に出た。そして六七間先にゆく彼女の後を追つた。

 このまゝ後をつけて行つて見ようかそれとも追ひついて声をかけようか、そんなことを道助が思ひ迷つてゐる間に彼女は横町へ()れてしまつた。彼が小走りにその曲り角へ来た時、彼女は恰度(ちやうど)三四間向うの左手の格子戸の(はま)つた家へ這入るところだつた、這入りながら彼女はふいと背後を振り返つた。道助は少し狼狽(うろた)へた。彼の姿は厭でも彼女の視線の中に入らねばならなかつたのだ。道助は仕方なく微笑んだ。それを認めたのか認めないのか彼女は無表情な顔をついと背向(そむ)けたまゝ格子戸の中へ消えてしまつた。

 道助にはその家の表札を覗きにゆく丈けの元気が無かつた。で彼はたゞ遠くから二階の障子を見凝(みつ)めてこゝはB街ではない、從つてこれは、遠野が嘘をついたのでない限り彼女の家ではないとそんなことを考へながら暫く其処に立つてゐたのだつた。

 すると驚いたことには、すぐに又その格子戸が開いて先刻のまゝのとみ子が、笑ひながら彼の方へ近寄つて来たのである。道助は不意を打たれて少し(あか)くなつた。

「お待ち遠さまね。」と彼女が冷かすやうに云つた。

「何も君を待つてやしないさ。」

「嘘をおつきなさい。」

「嘘ぢやない。ちよつと此の辺を散歩してたんだ。」

「何んでも好いから妾に()いていらつしやいよ。」さう云つて彼女は先に立つて、先刻道助が寄つた珈琲店のある方へ歩きだした。歩きながら彼女は探るやうな眼つきをして

「誰に訊いて来たの。」と云つた。

「誰に聞くものか。疑ぐり深いやつだな。」と道助が答へた。それを聞くと彼女は横を向いてちよつと()るい笑ひを浮べた。

 

     十

 

「今のは君の家かい。」と歩きながら道助が尋ねた。

「まあ妾にあんな家があると思つて。」

「あつたつて好いぢやないか。」

「ぢやあなた拵らへて下さい。お礼を云ふわ。」

「遠野に叱られるよ。そんなことをしたら。」

「奥さんにも叱られますわね。」

「ありがたう。今日は好いお天気だね。」

「ほんとに好いお天気ですこと。」

「時に、何処かへお(とも)をしようか。」

「お愛想が好いのね。」

「ほんとさ、(おご)るよ。」

「今日は駄目、三時に約束があるのよ。」

「あゝ案の通りだ。」

「ほんとなのよ。」

「それはほんとうでせうさ。」

可笑(をか)しな人。」

「もうちつとパラソルをそちらへやつて貰ひませう。歩き(にく)くつてしやうがない。」

「怒つたのね。そんなに速く歩かなくても好いわ。」

「実は僕も余りゆつくり出来ないんだ。」

「さうでせうとも。でお約束はどちら。」

「なあに、少し(ばか)り用をたして帰るんだ。」

「どんなご用だか。それはさうと貴方これから一時間ばかり妾の家へ寄つていらつしやらない。」

「折角だが止さうよ。お約束の邪魔をしちやいけないから。」

「ご挨拶ね。然し串談(じようだん)()してほんとに寄つていらつしやいよ。ね好いんでせう。」

「暑いね。そんなに寄つて来ちや。」

「あら覚えていらつしやい。」

「おいおい、急にまた(いそ)ぎ出したね。」

「ご免なさい。妾も少し買物をしていかなくちやならないから。」

「いゝよ、わかつてゐるよ。で君の家は何処だつたつけ。」

「いえ、もうお()び致すやうなところではございません。」

「ほんとうに()いてゆくよこれから。好いかい。」

「どうぞご勝手になさいまし。」

「これは大変なことになつた。君のところはたしかB街だつたと思ふがね。」

「おや、知つてるのね。」

「知つてるさ。B街のとみ子。」

「B街のとみ子。然しそれぢや何だか雲を掴むやうね。」

「だから訊いてゐるのさ。」

「ぢやきつといらつしやるのね。」

「嘘は申しません。」

「ではすぐこれから往きませう。」

「おいおい昼間だよ、手なんか引つ張りつこなしにしようよ。」

「なんて見得坊(みえぼう)なんだらう、さあW行きが来たら乗りますよ。」

「然し君、もう二時過ぎだよ。約束の方は好いのかい。」

「好いのよ、これから帰つたら待つてゐるだらう。」

「おや、何んの為に僕を引つ張つてゆくのだ。」

「構はないのよ、遠野さんだから。」

「遠野、遠野かい、その約束と云ふのは。」

「どうしたの、馬鹿に驚くのね。」

「驚きやしないさ。然し……」

「何が然しなの。」

「今日は兎も角もよすよ。どうしても用の都合が悪いから。」

「あんなこと、ほらW行きが来たぢやありませんか。ではどうしても止すのね。」

「あゝ折角だけれど。」

「では沢山ご用たしをなさいまし。」

「さやうなら。」

「意久地なし!」

 

     十一

 

 翌朝道助は永く床にゐた。頭の中には夢の(かす)が一杯に詰まつてゐるやうな気がする。とみ子、妻それから今かゝつてる創作のプロット、そんなものがちぎれちぎれに眼の前を(はし)る。そしてその間にウトウトと鈍い眠りを続ける……ふと彼は急に大きな明るいものに衝突(ぶつ)かつたやうな気がして眼を見開いた。玄関からこんな対話が響いて来る。

「奥さん、描きに来たんですよ。」

「あらほんとにいらつしたの。厭ですわね。」

「好いぢやありませんか、半時間(ばか)り坐つて下さいね。」

「ちよつと。里村を起して来ますから。」

「おや、まだ眠つてゐるのですか。」

「えゝ何ですか、昨日から大変気難かしくなりましてね。」

「どうしたのです、身体でもわるいんですか。」

「いゝえ、貴方に戴きました小鳥ね、あれが少し弱つてゐるのを気に()へましたのですか昨日午後ふいと外出致しまして、夕方(おそ)くお酒をいたゞいて帰つて参りましたがそれきり碌に口もきかないで(やす)んでるのですよ。」

 何となく苦笑して聞いてゐた道助は少し不安を感じ初めた。遠野が何か云ひながら上つて来る気配がする。道助は蒲団を冠つた。

「起きろよ。」さう云つて遠野は道助の枕許に立つた。その馴々しい態度に不快を覚えて道助は責めるやうな視線を妻に投げた。彼女は感じない振りをして微笑んだ。

「奥さんを描きに来たんだ、今頃の光線の感じがいつとう好いからな。」と遠野が構はずに云つた。

「ありがたう。描いてやつて呉れ給へ。」さう努めて穏かに云つて蒲団を冠つた。

「君はまだ寝るのかい。」と遠野が云つた。

「お起きなさいよ。」と彼女も云つた。

「今日は一日寝るんだ。」と道助は駄々つ子のやうに答へた。それを聞くと遠野は口笛を鳴らしながら隣室へ出ていつた。

真実(ほんと)にどこかおわるいの。」と妻が小声で訊く。道助はぢつと他所(よそ)見凝(みつ)めて答へない。彼女がそつと夜具に手をかけた。彼はそれをピシリと叩いた。彼女は黙つたまゝ頬を痙攣させて出ていつた。

「いつたい遠野は何のために今朝やつて来たのだ。」それを苛々と考へながら道助は跳ね上るやうに半身を起した。昨日の酒の所為(せゐ)か頭が石のやうに重い。

「ぢや奥さんちよつと坐つてくれませんか。」と遠野が云ふ。

(あたし)今日は止しますわ。折角ですけれど。」と妻が答へる。

「そんなことを云はないで、ほんのちよつとの間{ま}ですからね。」

「でも妾何だか急に気分が(すぐ)れませんから。」

 それを聞くと道助は寝巻の儘ふらふらと隣室へ這入つていつた。そして蒼白い笑顔を作りながら

「描いて貰ふんだ。何なら半裸体でポーズするさ。」と云つた。

 彼女は(はじ)かれたやうに立ち上つた、そして遠野の方を向きながら少し慄へを帯びた声で

「ではどうぞご面倒でもお願ひ致します。いつそ裸体の全身像を描いて戴きませうかしら。」さう云つて道助を見返した。彼は唇を噛んだ。

 遠野が微笑(ほゝゑ)みながら彼の肩を叩いた。その意味あり気な眼差(まなざし)を見ると彼は一層苛立つた。

「奥さんはとみ子ぢやないんだからな。」遠野は静にさう云つてクルリと背後(うしろ)を向きながら又口笛を鳴らし初めた。道助はその背中へ反抗的な(はげ)しい視線を投げた。

「あゝ君それからとみ子がね。いつぞやは大変失礼致しましたつて云つてたぜ。」と遠野はそのまゝ見返りもしないで云つた。

「案の通りやつて来たな。」と云ふ風に、道助は落ちついて微笑し初めた、がそれが、途中でふいと(こは)ばつてしまつた。彼女が傍につつ伏して肩を震はせてゐるのだった……

 

      (大正十一年十一月「東京朝日新聞」)

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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十一谷 義三郎

ジュウイチヤ ギサブロウ
じゅういちや ぎさぶろう 小説家 1897・10・14~1937・4・2 兵庫県神戸市元町に生まれる。貧苦の中で苦学力行、新感覚派のモダニティとも古典派のモダニティとも呼ばれる心理描写に、暗澹を極めた家庭事情にも根ざした厭世思想を色濃くにじませ「意志的なニヒリズム」とも評された独自の境地を示した。

掲載作は、1922(大正11)年11月「東京朝日新聞」に初出の一代表作。

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