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教育と戦争 ─我が青春に悔いあり─

 私の青春は戦争に始まり戦争に終わった。
 戦前、戦中、戦後を生き馬齢を重ね、20世紀を終わろうとしている。
 ただひたすらに戦いに勝つことを祈り、国策に沿い軍国教育に献身してきた自分を振り返って、如何に誤った道を歩み、自分自身も傷つき、多くの児童生徒を苦しみの中におとしいれたかを考える時、胸の痛みを覚え慚愧に耐えない。
「戦争中の教師として戦後教壇に立つ事をどう思いますか」ぐさりとくるこの言葉。50有余年の歳月が経つ今も、胸にわだかまる思いである。
 2001年を迎える今日、国民の多くは戦争体験のない人々である。現在の平和と不自由のない生活が、如何に多くの犠牲を払った上に成り立っているのか。戦争の悲惨な体験を知り、戦前の教育を反省する事から将来、又現在の教育を如何にすべきかを考えるのが、私たち国民のつとめではなかろうか。
 時の流れに逆らい得なかった苦い体験、国家主義、軍国主義の担い手として侵略戦争に協力した痛恨の思い。この事は私一人ではない、日本中の政治家、教育者、全国民すべての悔恨であるはずである。
 どうして日本国民全体がこのように洗脳されてしまったのか、この事は重要な事で日本の歴史の上から、深く問題になるところである。これを解明する事は現在又日本の将来にわたっての重要な指針となるはずである。
 まず昭和初期の思想の統制について考えよう。明治23年10月30日に発せられた「教育勅語」は、昭和20年の敗戦の日までの教育の絶対的規範であった。
 難解な文字と意味も判らぬこの文章を、小学四年生以上の児童に強制的に暗記させた。
 _朕惟フニ我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ済セルハ此レ我カ国体ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦此ニ存ス…‥…常ニ国憲ヲ重ンジ国法ニ遵ヒ一旦緩急アレバ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ………云々と。
 学校では「御真影」(天皇の写真)と教育勅語が最も尊重され、式日(天長節-天皇誕生日、新年-正月、明治節-明治天皇誕生日、紀元節-建国記念日)には児童は登校し、講堂において校長により教育勅語が奉読された。壇上に飾った御真影の開扉の合図とともに「最敬礼」の号令がかかると、全員壁を倒すように手が膝につくまで深く敬礼をする。校長による長い時間の奉読は低学年の児童など、その姿勢を保つのが苦痛である。
 奉読が終わると「御真影閉扉」の合図で「直れ」がかかる。ようやく頭を上げたその時はすでに御真影は閉ざされて児童たちの目には入らぬ。
 幼年時代から天皇とその国家への畏敬と服従の習慣を、肉体的にも定着させたのである。「天皇陛下」という言葉が出ると皆、直立不動の姿勢で聞く。天皇及び皇族に対し少しでも批判がましい言動があると不敬罪として重く罰せられた。
 しかし大正時代、千葉県でも大正デモクラシーの風潮を背景に、それまでの臣民教育に代わる「大正自由主義」の教育が、千葉県師範学校附属小学校の主事、手塚岸衛によって大正八年から始まった。大正自由教育の根幹は、自我の自覚と自律という人格的思想によるもので、国家主義教育統制からの解放と人間教育の理想を目指すもので、やがて自由教育は附属小学校のみならず県内各地に普及し、県外へも手塚主事が講師として招かれるようになった頃、千葉県女子師範学校長の自由教育批判を皮切りに、県当局も否定的な姿勢を示し、大正15年4月、手塚主事は左遷され、自由教育集団も解体せざるを得なかった。
 やがて昭和3年(1928年)大正自由教育運動の退潮後、治安維持法改定と特別高等警察が設置された。それというのも昭和3年の2月、初めて普通選挙が実施され、この折り無産政党(戦前の合法的社会主義政党)が活発に活動し成果をあげた。この頃経済状態の悪化に伴って労働争議、小作争議が頻発し野田醤油の大争議では小学校児童までが、同盟休校を行なった。さらに大正自由教育運動によって掘り起こされた、教育改革意識もより具体化する傾向にあった。
 時の田中義一内閣は対外的には中国侵略に積極的姿勢を示す一方、国内では思想統制に力を入れ、ファッシズム台頭の基盤を作った。その思想取締りは忽ち文教政策に強烈に反映し、教育内容の統制が強化された。また教師の思想的自由も否定されるようになった。
 さらに6月には思想統制の強力な法的根拠である、治安維持法の処罰規定が改定されて、最高刑が従来の懲役10年から死刑に引き上げられた。これは国体を批判し否定する思想、活動の根絶をはかったものである。さらに7月には思想取締りを担当する特別高等警察網を全国道府県に拡大強化した。
 昭和3年11月昭和天皇の即位の大礼が行なわれ、その後、天皇は時の文部大臣、勝田主計を宮中に召して「教育振興の御沙汰」を与えた。これは明治、大正両天皇の教育重視の方針を継承することを述べ、教育関係者に対する激励の言葉であった。
 文相はこのあと教育者に「教育に関する勅語」の聖旨を奉戴して、健全な国民の養成に努力せよという訓令を発した。
 昭和4年、文部省は「教化総動員運動」を開始した。その訓示は、国民思想の動揺と財政経済の逼迫とが現時の最大問題であるが、その主因は「国民精神の弛緩にある」この難局を打開するためには、国体観念を明徴にし国民精神を作興し、経済生活の改善を図り国力を培養せねばならず、この二大目的を達成するのが強化総動員運動であるとした。
 この年、天皇は東京高等師範六十周年記念式で、教育者への勅語を下した。これは直接教師に与えられた勅語であるだけに、教育界は恐懼感激し文部省は、学校の職員会議においてこの勅語を奉読するように指導した。
 昭和7年には教員を対象とする思想問題講習会を各地で開催し、又「国民精神文化研究所」を設置し、ここでは「我が国民精神の原理を明らかにし国民文化を発揚し、外来思想を批判しマルキシズムに対抗するに足る、理論体系の建設を目的とする」というもので、教員や学生の思想教育、又検察官に似た役割も果たした。昭和7年は日本の傀儡政権であった満州国が建国した年である。
 昭和8年、長野県下で思想関係により小学校教員が多数検挙されると、文部省は二度にわたり国体明徴に関する声明を発している。
 同年12月文部大臣の諮問機関である「教学刷新評議会」が開かれた。その席上での発言は一応「国体明徴」を承認した上で言わなければ排除される。「国体明徴」は近代的学問とは相容れないものであることが分かっていても、批判したら排除される事態になっていた。昭和11年、第4回の評議会で教学刷新に関する答申が決議されたが、その内容は独裁政治を避けるためのしくみである、三権分立という近代政治も「祭政一致」の再認識によって、軽く踏み躙られてしまった。
 実施の方針1では我が国に於いては祭祀と政治と教学とは、その根本に於いて一体不可分にして三者相離れざるをもって本旨とする_というもので、委員の中には西田幾太郎とか和辻哲郎とかの哲学者も自然科学者もおり、委員の中にはこの矛盾と不合理とを知りぬいている識者もいたのだが、それを口に出して言えない事態であった。
 中島健蔵は「昭和時代」(岩波新書)の中で次のように書いている。
 -これで始まる実施上の方針九項を、今は催眠状態と縁のなくなっているはずの青年たちに、まじめにゆっくりと読み味わってもらいたいと思う。諸君の心の中には「覚めた半分の苦闘」などはまったく起こらないはずだ。しかし、わたくしの心は、これを読み返すたびに、いまだにかすかな苦渋を感じ、つぎには、もうとりかえしがつかなくなったことに対する、怒りのようなものが涌いてくるのを覚える。日本の教育は敗戦の日まで、こんなタガ(枠)をはめられていたのだ。しかしこのタガは、今日もなお高く評価されている日本思想界の代表者を交えた委員会で正式に定められたものだったのである。これは単に教育界に対してのタガではなかったのである。-中略-
 国体問題をめぐってはさまざまな人間のタイプがあったわけだが、積極的にこの波にのって少しも疑問を感じないタイプ、それは天皇制下の官僚を中心とする大組織に組み込まれていた人間、これが今やバランスを破って最大の多数になった。次には腹の中では不承認であっても表に出さず、功利的にそれを利用しようとしたタイプ、それからまったくの偽装であって腹の中では「不逞」の気持ちを抱いていたタイプ等、そこで重要なことは、偽装にしても黙殺にしても、自分はそんなに狂信的なものとは縁がないと思っていた人々も、何度となく表面的な言葉を口に出しているうちに、一種の催眠状態に陥っていたという事実で、これは非常に大切なことである。とにかく少しでも疑わしいところがあるとすぐに「排除」の手が伸びてくる。もはや国家権力は前面的に動き出して組織的な活動を開始していた。官僚各自は必ずしも狂信者ではないにしても、例外なく彼等は職務として疑わしい者を摘発しなければならない。そうでなければ自分の身が危うくなる。後には告発や密告がむやみに多くなっていった。
 この教学刷新評議会の審議中、昭和11年二・二六事件があり7月10日には、左翼出版社や左翼学者グループの検挙があった。
 1935年(昭和10年)大正デモクラシー期には、定説化していた憲法理論である、美濃部達吉の天皇機関説が貴族院で批判され、3月23日衆議院では次の決議が行なわれた。「国体の本義を明徴にし人心の帰趨を一にするは目下最大の要務なり、政府は崇高無比なる我が国体と相入れざる言説に対し、直に断固たる措置を取るべし」こうして「国体明徴」は、日本人の思想の息の根を止めてしまった。
 それは少数の狂信者の力でもなく、軍の一部の無理押しだけでもなく、それが軍人をも含めた巨大な官僚組織の職務となり、しかも国民大衆の多くがこれを盲目的に支持していたからである。なかば催眠状態におとしいれられてしまった、国民大衆を向こうにして、この不合理に覚めていた人々に、何ができたのであろうか。反対すれば命が危なかったのである。天皇機関説は天皇の存在を否定しているのではなく、「国体」の解釈が近代的なだけである。ところが一も二もなく天皇の神性や絶対性を条件付きにするような解釈は、「国体」に反すると攻撃されたのである。帝国憲法第一条に「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」第三条に「天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ」とあって、それ自体が神聖であって、一歩も踏み込む事がゆるされないわけである。これは頑固な保守主義者ばかりでなく、日本の国民大衆がまったく無条件に、「国体」を受け入れていたのである。国体がこのようにタブーの性質を持ち官僚組織、軍隊組織の中心思想となり、資本家も腹の中ではともかく「国体」と結びつけられた、私有財産の保護という実利のために、その外部につき従い、それに加えて国民大衆が明らかにそれを承認している以上、「国体」批判はヒソヒソ話以上に出ることはできなかったのである。
 左翼は大衆のために戦っているという、しかし大衆は「国体」のために左翼を憎むというジレンマに陥っていた。「国体」にさえ抵抗しなければ、あとはどうでもよいのである。左翼はあきらかに「国体」に反対である。なぜ左翼に対する弾圧が厳しいのか、アウトローにひとしい扱いを受けるのか、右翼の壮漢による山本宣治(社会主義者、労働農民党代議士)の暗殺など、右翼のテロどころか警察における左翼の人間に対する拷問は公然の事実であった。-天皇陛下にそむいたのだから何をされてもしかたねえだろう-とあざけりながら拷問の結果虐殺さえ行なわれていた。
 昭和6年(1931年)の満州事変以来くすぶっていた、日中間の政治的、軍事的軋轢は昭和12年(1937年)の廬溝橋事件を契機に、「戦争」という武力対決の状況に追いこまれた。この頃千葉県船橋小学校で教育の鬼人といわれ、良心的な教育をしていた斉藤恭という教師は、今はもう子どもも教師も完全に国家の枠にはめこまれてしまっている。子どもは組み込まれた歯車となった。学校はその歯車つくりの工場となってしまった。子ども一人ひとりの素質や素材を問う時代ではない、個性などという教育の原理は払拭された。総力という名のもと、教師も子どもも戦争に協力奉仕することになったと言い、彼は良心も善意も発揮できない学校という場、教育の存在しない場に息苦しさを感じた-と記している。(教師の昭和史-加瀬完)
 戦争の拡大は必然的に国内体制を戦時色化する。昭和12年帝国議会において天皇は_時局を打開するためには忠誠公に奉じ協力して国に仕えよ-という勅語を下した。近衛内閣はこの勅語の趣旨を体して、広範囲な国民運動の展開を企画した。これが「国民精神総動員運動」である。ねらうところは_我が尊厳なる国体に基づき、尽忠報国の精神を益益振起して「挙国一致」の実を挙げ、皇運を扶翼すること-であった。
 具体的には神社参拝、軍人遺族慰問、戦没者慰霊など、戦時の認識を高め、精神強化をはかった一方、勤労奉仕、貯蓄奨励、生活改善などを通じて国策理解と経済協力を求めていった。生活ではパーマネント禁止とか、日の丸弁当など日常生活を規制することが多かった。翌13年に成立した「国家総動員法」は国の人的物的統制をいっそう強めたものであり、目的は戦時に際し国防目的達成のため、国の全力を最有効に発揮せしめるよう、人的物的資源を統制することであった。
 この制度によりあらゆる産業、経済、文化の国民生活が、全面的に統制された。問題はこの法律に基づいて国民徴用令(軍需工場の労働力の確保のため)、価格等統制令、新聞紙など掲載制限令など、戦時に必要な諸規則が勅令(天皇の命令)によって、次々と発せられたことである。このように物価統制、食料品統制、言論の統制等、すべて統制ずくめになったのも、この法律によるものであり、教育の現場も例外ではなかった。
 昭和12年5月文部省は「国体の本義」を刊行して国体明徴を徹底し、我が国の国体論、国史観の統一と普及をはかった。満州事変以来の戦時体制の強化につれ、天皇は極端に神格化され、これへの忠誠が、教育のすべてを支配するようになっていった。「国体の本義」とは、そうした国の成り立ちに関する理念を、神話、古典を論拠として正統の国体、国史として位置づけようとしたのであり、一貫して「万世一系の天皇」の統括したもう「万古不易の国体」であることを説いている。
 昭和14年、戦争たけなわの状況下、青少年学徒に賜わりたる勅語が下された。
 -国本に培い国力を養い、以て国家隆昌の気運を永世に維持せむとする、任たる極めて重く道たる甚だ遠し、而してその任は繋わりて、汝等青少年学徒の双肩にあり-これは国家の将来を担う青少年に、時局に対する自覚と奮起を促した勅語で、学校教育だけでなく教育の分野に大きな影響を与えた。
 六月に満蒙開拓義勇軍の青少年の、壮行会を行なって満州に送り出している。
 千葉県でも各学校に訓示し-聖旨に応え奉らんことを期すべし_と小学校長を集め、勅語奉読式を行なったりして、趣旨の徹底をはかり、又県ではこの日を記念して神社参拝、武道演練、作業訓練などを行なっている。教員に対しては千葉県初等教育綱領で_師道を振作すべし-とし、特別の指針を示しその中に-国体の本義に徹し聖職に殉ずべし-とある。千葉県教育会では臨時総会を開いて、-我等教育に関係ある者、一層時局の重大性を確認し、粉骨砕身其の本務に邁進すると共に、愈々銃後国民の責務を全うし、皇軍の士気を鼓舞激励し益々国威を宣揚し、以て東洋永遠の平和確立に、寄与せんことを期す-とした。かくて教育を以て国に報いる信念により、積極的な戦争協力の実践を進めた。
 昭和12年、日華事変勃発後に開かれた千葉県女教員総会で、宮城遥拝、君が代斉唱、勅語奉読のあと県知事から訓示を受けた。_時局の緊迫に従い国民精神の昂揚により、婦人の日常生活も著しく堅実に質朴となった。諸子は学校教育のみならず社会教化の指導者として、率先、範を垂れ服装容儀は勿論、生活の一切に亘り質実簡素を旨とし、以て非常時婦人の亀鑑たることを切望す_といったものであった。その後会員からの動議で、1.出征兵士武運長久の祈願のため、代表は千葉神社に参拝する。2.出征兵士のため千人針(布に千個の結び目を作り兵隊の弾除けにする)を、一千枚作成寄贈する、を満場一致で決議した。その後数々の戦争協力の動議がなされ、例えば慰問文を戦地へ送る、留守宅の子守、裁縫、洗濯、通信、代筆等の奉仕とか軍用乾草の生産をする等、このようにひたすら軍国主義教育を、強化することに努力している女教員を、さらに「国家総動員法」の国策にそって協力させるために、これまでは女教員会長は女子師範学校長、副会長は二名の婦人教師であったが、昭和14年から会長は学務部長に、副会長二名は学務課長にとって替わり、いよいよ婦人教師の主体性は奪われて、文部官僚に直結し、その支配下に組み入れられていった。
 昭和16年(1941年)12月8日の未明、日本海軍によるハワイ真珠湾の攻撃と共に日本はアメリカ、イギリスに宣戦を布告し、以後5年間に及ぶ太平洋戦争に突入した。11月にはドイツ、イタリアもアメリカに宣戦し、戦争はまさに全世界的な規模に拡大し、いわゆる第二次世界大戦へと発展して行った。
 この年4月、私は千葉県女子師範学校を卒業し待望の新米教師として、印旛郡の佐倉小学校に勤務していた。(この4月から小学校は国民学校と改名されていた)たまたま此の日は佐倉五十七連隊の練兵場で、郡下合同の体育祭が行なわれていた。12月なので霜のおりた寒い朝であった。練兵場につめかけている各学校の児童、生徒は、半袖、パンツ、ブルマーの体操服姿。時に壇上のラジオのスピーカーから「本日、我が国は米、英と戦争状態に突入せり…」という放送が流れた。児童たちは幼いのであまり理解できなかったと思うが、私は_今の中国との戦争さえ大変なのに、大国アメリカやイギリスと戦って本当に勝てるのか─という不安で、背筋の引き締まる思いをしたことを覚えている。帰る道みち幼い児童を引率しながら、こんな子ども達まで戦争に送り出す、又戦争にまき込まれてしまうのではないかと、暗澹とした気持ちで歩いたことを今でも忘れられない。
 この頃、日華事変の長引きと世界情勢が益々緊迫することによって、日本国内では物価上昇、電力不足、食料問題が深刻になってくる一方、軍関係の物資や生産活動が一層重要になってきた。こうして昭和15年(1940年)全国を一つの縦の組織として系列づけた「大政翼賛会」が組織された。これは近衛首相を総裁に各県知事が支部長となり、町村会、部落会、隣組を下部組織として中央から地方へと、国の方針がすみずみまで浸透する「上意下達」の、一国一党的な支配組織が出来上がった。これと平行して労働会を統合した「大日本産業報国会」作家、思想界の統合された「大日本言論報国会」など次々と生まれた。「大日本言論報国会」は徳富蘇峰を会長として約千人の会員がいた。目的は日本的世界観の確立、大東亜秩序建設の原理と構想、皇国内外の思想戦に挺身することを掲げ、国粋思想を鼓吹するとともに、非会員の評論家、戦争に消極的な言論人への観察、告発に力をそそいだ。組織はすべて戦争完遂という国家課題への対応であり、言い換えれば日本ファシズム体制が確立した事を意味するものであった。
 昭和16年(1941年)3月1日国民学校令が公布され、それ迄の長い歴史を持つ小学校は国民学校と改められた。そして国民学校令第一条は_国民学校は皇国民の道に則りて初等普通教育を施し国民の基礎的錬成を目的とす_とうたっている。こうして国家主義体制の中で、皇国民錬成を指導理念としていた。教科書は修身、国語、地理、歴史は国民科に統合し、算数、理科、は理数科に、体育、武道は体練科、音楽、習字、図画、工作、裁縫、家事は芸能科に、農業、工業、商業、水産は実業科に統合された。各教科とも皇国民錬成を主眼とした内容であり方法であった。そして何よりも学校を皇国民錬成の修練道場ととらえ、儀式、行事を教科と一体化するという生活的、実践的な教育が推進された。

 ここで国定教科書について述べよう。
 明治10年代に入った自由民権運動が全国的に高揚すると、政府は明治13年(1880年)に近代民主主義を説いた書物の名を明示して、これらの教科書としての使用を禁止した。かくて教育内容への権力介入の第一歩を踏み出すと共に、今までの文明開化精神普及の方針をすてて、儒教的封建道徳の復活を企てて、そのような方向に沿った教科書の編集を開始した。
 さらに教科書の採択を届け制とし、次いで許可制に改め、明治19年からは検定制として、教科書内容に対する国家統制をいよいよ強化した。(唐沢富太郎 教師の歴史)その後、教科書統制は一層進み明治37年以来、小学校の教科書は国定となり、全国民が文部省著作の教科書で、学習することになった。
 前近代社会では、いかに権力者が強大で人民が無力でも、権力の欲するようなイデオロギーを、全人民に注入することは不可能に近い。それを可能にするだけのコミュニケーションの手段が、成立していないからである。しかし近代的学校制度の確立がはじめて、そのような支配者の希望を、可能なものにすることができるようになった。義務教育を逐次普及し期間が3年から6年になり、就学率が9割を超え、ほとんどすべての国民が、義務教育を受けるようになった近代日本では、国民の知的水準を、全般的に向上させるという成果と共に、その教育の内容が画一化されると、国民の大多数が画一化された物の考え方を、注入される結果となるのである。幼児の白紙のような頭脳に与えた印象の強さは、その人にとって、容易にぬぐいされない影響を、終生にわたり残す力を持つ。
 しかも小学校を終えただけで、実社会に出る人が多数を占めた日本では、小学校の教科書が、国定であったことのもつ意味は重大であった。(家永三郎 太平洋戦争)
 国民学校1年生の「ヨイコドモ」の内容は、天皇制、国家主義教材が並べられている。
 ☆サイケイレイ  天長節(天皇誕生日)の式で天皇陛下、皇后陛下のお写真に最敬礼をし「君が代」を歌い勅語を聞き「ホントウニアリガタイ」と思いました、とある。
 ☆キゲン節(建国記念日)  天皇陛下の治める日本の国をたたえ、天皇陛下に忠義を尽くすことを説いている。
 このように教科書に天皇制、国家主義、軍国主義教材が多く、1年生の「数の本」まで、飛行機や戦車を数える、軍国主義教材が多く、教育は軍部の手に掌握されていった。
 こうした画一的教育に甘んずることなく、自由な創造的教育のできる余地は、綴り方教室にあった。良心的な教師は、作文を書かせることで自由に生活を見つめさせ、自己表現させ子どもたちの、個性と自発性を伸ばしてやることに努力した。
 大正15年、千葉県女子師範学校を卒業した平野婦美子という女教師は、市川小学校に転任し、在職8年の間に綴り方教育により、子どもたちと向き合いひたむきな実践をした。昭和15年に出版された平野婦美子の「女教師の記録」は、千葉県教育会が推奨し、教育功労者として表彰され、その数は10万部以上も出た。その後婦美子は滑川道夫、国分一太郎らと親しく研究実践に専念したが、後に教育局の視学によって研究物を持ち去られ、国分一太郎と交流があるという理由で、「国民精神文化研究所」へ行くことを命令され、婦美子は教職を辞退した。
 国分一太郎は昭和5年、山形師範を出て教職にあったが、昭和9年ごろから生活綴り方運動雑誌「生活学校」を中心とする運動などの関係から、身柄を検束されて昭和19年には警視庁特高課に呼び出されている。戦後は教育研究、評論家として活動した人である。
 この様にして国民全体が国家主義、軍国主義に洗脳されて、疑う事なく国策に沿って努力したのである。
 私の教師としての出発は太平洋戦争勃発の年で、明治以来、長い間注ぎ込まれた忠君愛国の思想と、師範教育でたたき込まれた、国体明徴と尽忠報国の精神で教壇に立ったのである。国民学校の生活では特に団体訓練が重視された。夏は炎天下、冬は霜の降りる朝、運動服一枚で素はだし、手足の感覚がなくなるような中で分列行進、軍隊式教練の小型で、一糸乱れぬ徹底さが要求された。夏の炎天下など教師の私でさえ、フラフラと気を失いかける程であった。この頃、戦局は段々と暗い影を落とし始めた。
 昭和18年、10月21日には学徒出陣として大学、高等専門学校の学生は学業半ばで徴兵され、明治神宮外苑で壮行会を行い、戦地に送られて行った。女子も勤労挺身隊として、満二五歳以下、一四歳までの女性を対象に、地区ごとに軍需工場に動員された。又、労力不足を補うために学生生徒を動員し、学校単位で勤労報国隊を組織して軍需工場へ動員された。動員数は約340万人に及び空襲等により、1万1000人が死亡している。
 教室でも毎朝神棚に忠誠を誓い、必勝を祈願するようになった。空襲が始まるようになると授業半ばに防空壕に退避することもあって、落ち着いての学習も困難になった。この頃は英米語の排斥、英米音楽も禁止となった。
 高学年は勤労奉仕、食料増産のため校庭にカボチャや芋を植えたりした。5、6年生も田畑の除草、麦踏み、養蚕の手伝い、又栄養源としてイナゴやタニシを取り、切干しや干し芋作りなど作業は限りなくあった。その外、軍馬の飼料になる干し草や、代用繊維になる桑の皮むきなど、手に血が滲むような作業もあったが、皆、必勝を信じ-欲しがりません勝つまでは-をスローガンにして頑張った。昭和20年になると男子教員の応召(軍隊への動員)が続き現場は年輩の教員と女子教員にゆだねられるようになった。
 又高学年女子には薙刀の訓練が行なわれ、新卒の私も薙刀の指導を校長に命じられた。九十九里地方では米軍の敵前上陸に備え、女子青年団に竹槍訓練も行なわれた。やがて米軍の空襲もひんぱんになり、勤労奉仕中にB29や艦載機の襲撃を受けて人命を失なった所もあった。引率する私たち教師の苦労と恐怖は筆舌につくし難く、子どもたちを守るのに命がけであった。
 ある日、空襲警報の異様なサイレンの音で、私は教え子4年生の男女を、校庭内の防空壕に退避させた。遠方で爆弾の投下された音がどしんという地鳴りとともに体に響いてくる。やがてキイーンという耳をつんざくような金属音とともに、艦載機が校庭を旋回した。ヒュウーンという異様な唸りとともに、防空壕内にキナ臭い空気が漂った。艦載機の射撃に狙われたのである。しがみついてくる子ども達と共に、ああ、これで私も子ども達も死ぬんだと、なんとも言えない恐怖に襲われ息をこらしているうちに、幸い艦載機は遠ざかって行った。
 この頃はいつ来るかの空襲に備えて、夜も昼もモンペ(ズボンのように作られた和装の国防服)姿に防空頭巾を離さず、着のみ着のまま夜も昼もなかったのである。
 そのうちに召集される兵隊が多くなり兵舎が間に合わず、学校が使用されるようになった。半分校舎、半分兵舎として使われ授業はやむを得ず、二部授業をすることになった。
 遅組(おそぐみ)の子どもの中には遊びボケて登校を忘れる者や、早く来過ぎて窓下で騒ぎ早組の授業の迷惑になる者など、教師にとって頭の痛いことであった。

 学童疎開も昭和19年には行なわれ、幼い子どもたちが親もとから離れ、山間地に疎開させられ、乏しい食料事情の中で耐えねばならなかった。
 戦いのせっぱつまった頃、_敵国と関係あるものは一切処理する事─の達しがあって書物や写真を焼却することになった。その中に親善使節として昭和2年(1927年)アメリカから贈られた人形があった。目を開いたり「ママー」と泣く愛らしい人形で、子どもたちのアイドルであった。この人形も焼かれる運命にあったが、係であった私は子どもたちのたっての希望で、こっそり古い幕に包み竹行李の底に隠し、宿直室の押入の奥深くしまった。
 その後40年の歳月は人形の所在を忘れさせてしまった。はからずも2年前、成東小学校から人形の問い合わせがあって、びっくりした。人形は少しも痛んでいないとのことでほっとした。成り行きを知った学校では早速昔のように飾ったという。あの時の子ども達も今は50歳あまりになっているはずである。私は40歳若返ってあの子ども達と人形の前で語り合いたいと思った。当時の世相に反逆した、ささやかな私の行為であった。親善使節の人形は、ほほえましい笑みを湛えてつぶらな眼で、平和の世の中をみつめながら-どんなことがあっても戦争のおろかさを繰り返してはならない-と語りかけているであろう。(千葉県のある女教師の手記)
 その他戦争中の教育の場では数限りない教師と子ども達の、苛酷な日常が繰り返されたが、空襲体験を含めて、その事は他にゆずるとして日本の敗戦について語りたい。

 今さらと思われるかも知れないが、50有余年を経た今日、戦争の事実が記憶から薄れ、戦争体験のない人びとが大勢を占める今日、そして体験者ですら過去の幻影として忘れられようとしている現在、あえて苛酷な戦争の悲惨さを想い起こすことによって、過ちを再び繰り返さない将来の指針としたい。
 昭和17年6月、ミッドウェーの海戦で日本の機動部隊は大失敗をし、空母はほとんどやられ、加賀、蒼竜は沈没、赤城も燃え飛竜も大火災を起し大敗を喫した。このミッドウエーの敗北が太平洋戦争の敗北の転機となったことを、当時国民は知るよしもなかった。
 日米両軍が総力を挙げて衝突した、ガダルカナルの戦闘は、昭和17年(1942年)8月7日から始まり、翌18年2月7日に終わっている。日本軍が完敗したこの戦闘は、米国にとっては「東京への道」の第一歩となり、日本にとっては「8月15日」に至る敗走の第一日となった。
 ガダルカナル島を死守している日本軍歩兵、第228部隊を襲ったのは、地上からの砲撃だけではなかった。ドラム缶のように大きい砲弾を撃ち込んでくる海からの艦砲射撃、終日、上空を飛び続けてわずかの気配でも殺到して来る航空機の攻撃、眼前の丘の上には、いつ攻め込んで来るかも分からない敵兵がいた。極度の緊張は一線の少なからぬ兵士を精神錯乱に追い込んでいく。
 しかし日本兵の命を奪った最大の要因は、米軍の兵士ではない。海戦に失敗した日本軍の、相継ぐ補給失敗による欠食、餓えであった。「戦史叢書」によればガ島に上陸した陸兵3万1400人のうち、2万2000人が死んでいる。そのうち純戦死は5000人から6000人、残る1万6000人前後の死因は栄養失調、マラリヤ、下痢、脚気などで、その原因は実に補給の不充分に基づく、体力の自然消耗によるものであった。
 捕虜となって奇跡的に生還した、一兵士の話では「支給された米が兵隊1人当り4粒しかなかった。その1粒が半分欠けていた兵隊は「おれのは3粒半だ、平等に分けてくれ」とひともめしたという。
 ガダルカナル後半戦でひときわ異状なのは、歩行に耐えられる者が、各部隊から選抜されて食料の運搬に従事し、息もたえだえの兵士が、陣地に残って戦うという有様であったという。
日本軍がガダルカナル戦に投入して失った艦艇、輸送船、航空機は、膨大な量に達し、日本の戦争経済は傾いた。果てしない浪費の延長線に、極限の窮乏があった。戦場でまるまると太っていたのは、息絶えた兵士たちにむらがっているウジ虫だけだ。空腹のあまり「ああ、おれはなぜウジ虫に生まれなかったんだろう」と嘆く兵士もいたという。
 

 太平洋戦争の有数の激戦地ガダルカナルの戦闘は、このように少しも勇ましくなかった。
 戦後、ガダルカナル島を訪れた慰霊巡拝団の手記に、今だにそちこちに遺骨が発見されるという。谷間の急斜面を攀じ登っていくと、人ひとりやっと雨露をしのげる程の岩穴があり、その中で二つのドクロがひっそりと空を見つめていた。一行の中でおじをこの島で亡くしたというA氏は「おじの属した部隊はこの近くに布陣していたはずだ」と眼の色が変わった。「これはおじかもしれない、いやきっとおじだ」と言う。「青年たちを戦場に動員したのは国家だ、その結果が目の前にある野ざらしだ、50年もなあ」と言ったきりA氏は絶句したという。(戦争の時代50年目の記憶、岐阜市の会社員T氏)
 厚生省の話で日中戦争、太平洋戦争の全戦線で、戦没した日本人は240万人を数えるが、そのうち118万人については一片の骨さえ拾えないでいる。ガダルカナルでも戦没者2万2000人のうち、収骨を終えたのは1万3000人だけだという。その事を考えただけでも、日本の戦後処理は終わっていない。半世紀を経てなお深々と傷痕を残す、戦争とはいったい何であったろうか。
 昭和18年4月、連合艦隊司令長官、山本五十六の戦死、5月にはアッツ島の守備隊が玉砕(全員戦死)、昭和19年7月、インパール作戦失敗により数万の戦死者を出した。
 昭和19年6月、マリアナ沖海戦で日本艦隊は大損害を受け、7月にはサイパン島が米軍の手に帰した。サイパン島の戦闘はマリアナ沖の海戦と連動する、大がかりな日米決戦の一環であった。6月上陸した米兵に対し、名古屋編成の第四十三師団を中核とする日本軍は、激しく抵抗し7月7日玉砕した。米軍の猛烈な爆撃、沖合からの艦砲射撃、島を囲んだ米軍船舶、追い詰められた日本軍、日本人は残存する砲を総動員して反撃し、これを失うと銃で戦い、ついに暗やみの中を、敵陣にむかって切り込んで行った。
 日本軍の主力第四十三師団の少なからぬ兵士たちは、2カ月前までは一般の市民であった。動員されて軍服を着せられ、ろくに訓練も受けないうちに戦闘に突入したことを思えば、兵士等の心中は察するにあまるものがある。
 マリアナ沖海戦で日本艦隊が敗北し、サイパン支援は絶望的となり、大本営(日本軍隊の総司令部)は、奪回を断念しサイパンを見捨てた。2万を越す民間人も戦闘に巻き込まれ、8000人から1万人が死亡した。サイパン島の北端に目もくらむような絶壁が幾つもあって、戦火に追い立てられた何千人の日本人が投身自殺した。日本兵による素手同然のバンザイ突撃といい、この集団自殺といい、平時の常識からは、異常、異様な行動としか言いようがない。しかし50年前の戦場にいた人たちは、あえて異常な行動を決行することによって、言葉にならない、ある痛切な思いを、後の世に伝えたかったのではないか。文字どおり一身を投げうって伝えたかったものは何か。50年後を生きる私たちは、心の耳を傾けて、それを聞きとらねばならないと思う。(戦争の時代50年目の記憶、内海紀章)
 昭和19年9月末、レイテ沖海戦において日本艦隊は全滅、サイパン陥落によりこの七月下旬には東条内閣が崩壊、日本の敗色は濃くなった。重爆撃機B29の発進基地を得た米軍は、日本本土に空襲を開始した。
 昭和20年(1945年)2月、ヤルタ会談においてソ連スターリンは、ルーズベルト、チャーチルとの間で、ドイツ降伏後2、3月後の対日参戦、戦後の南樺太、千島列島の取得などの秘密協定を結び、4月5日、日本に対して日ソ中立条約の不延長を通告した。日本はソ連を仲介とする講和交渉を期待していたが、ソ連は対日戦争準備を進め、日本との交渉を拒絶した。
 8月8日夜、モロトフ外相は日本に対して宣戦を布告、ソ連軍は9日未明より総兵力158万人を投入して、満州、樺太、北朝鮮に侵攻を開始した。
 開戦に先だって満州の関東軍は、主力を北朝鮮方面に移動させつつあったので、ソ連国境付近に入植していた日本人開拓民(壮年男子はほとんど召集されていたので老人、女、子どもばかりの開拓団が多かった)は、戦場に取り残され、混乱のなかで多くの犠牲者、孤児ができる結果となった。8月15日、日本は降伏したがソ連の攻撃は続き18日より千島列島の占領を開始、樺太でも23日まで戦闘はつづいた。
 この間、3月10日は東京下町一帯への、米軍B29爆撃機による、焼夷弾攻撃が始まった。
これは一般住民殺傷による、戦意喪失を狙う目的であった。225機のB29は3月10日午前0時より2時間20分にわたって本所、深川、城東、浅草など下町一帯に、1665トンの高性能焼夷弾を投下した。おりからの強風により火災は午前八時頃まで続き、死者10万人、負傷者11万人、約100万人が住居を失った。その後も東京は4月15日、5月25日にも大規模な空襲を受けた。13日には大阪、19日には名古屋と数十回にわたる大空襲を受けている。
 3月22日には小笠原諸島、硫黄島をめぐる日本の攻防戦があった。硫黄島は日本にとっては本土防衛の要衝であり、米軍にとってはマリアナ諸島からの、本土空襲への中継基地として、戦略的に重要な地であった。米機動部隊の砲爆撃の支援のもとに、米海兵2個師団が上陸(約6万1000人)、日本軍は栗林忠道中将の率いる、第百九師団を中心とする、約2万3000人の守備隊との間に激戦が展開、3月26日、日本軍は全滅、玉砕、島は陥落したが、米軍も2万9000人の死傷者を出すという、太平洋戦争有数の激戦であった。
 昭和20年3月~6月にかけて、沖縄本島周辺諸島をめぐって日米の攻防戦が行なわれた。米軍は日本本土上陸のための準備基地確保をめざして、4月1日沖縄本島に上陸した(総兵力18万2800人)、沖縄を守備する第32軍(牛島中将、総兵力8万6400人)、日本軍は沖縄県民約3万人を防衛隊として召集、学生を学徒隊に編成して戦場に投入した。
 5月4日、日本軍は持久戦方式を転換し、反撃に出たが大損害を蒙って失敗、5月下旬には司令部を、首里から本島南端に移動させて抗戦を続けたが、20万人を越える一般住民の避難地区に、軍主力が後退したため、多数の住民が避難壕から追い出され、戦闘に巻き込まれる結果となった。守備隊は一般住民の米軍への「降伏(避難)」を認めず、そのため多くの「集団自決」乳幼児殺害が起こり、また日本軍によってスパイ容疑をかけられたり、米軍側に避難しようとして殺害された例もあった。
 6月23日、牛島満軍司令官、長勇参謀長が自決し日本軍の組織的戦闘は終わったが、8月にいたるまで散発的戦闘は続き、南西諸島の日本軍の降伏調印は、9月7日に行なわれた。沖縄戦における米軍の戦死者はあわせて1万2500人、日本軍の戦死者は防衛隊を含めて9万4000人、一般住民の死亡者はマラリヤによる病死、餓死を含めて15万人、飛行場や特攻艇基地建設のために連れてこられた、朝鮮人労働者や従軍慰安婦の死者も、数千人から一万人にのぼると推定されている。
 日本始まって以来、太平洋戦争ほどの大事件はないであろう。白村江の大敗も蒙古襲来も、数々の戦乱も比べものにならない。と同時に、この戦争で日本が、外国に与えた迷惑も度外れている。日中戦争を含めて15年戦争をとらえれば、中国大陸、朝鮮半島からアジア各地に及ぼした惨禍は、まさに史上空前のものであった。この有史以来最大の出来事を、50有余年経った今、どう伝えたらよいのか、どう総括すべきものであろうか。
 

 7月26日、トルーマン、チャーチル、スターリン、米英露三国首脳が、ポツダムで会議を開き宣言を発表した。その内容は、1.軍国主義勢力を永久に除去すること。2.日本の領土は本州、北海道、九州、四国と連合國の決定する諸、小島とすること。3.日本の民主化に対する障害をとりのぞくこと。4.軍需産業の禁止。これらの目的が達成するまで、日本は連合國の占領下におかれることを明らかにして、日本に降伏を勧告した。しかし日本はこれを「国体護持」を唯一の目的として、黙殺したのであった。
 やがて8月6日は遂に広島に原子爆弾が投下され、約20万人、8月9日には長崎、約8万人が死亡した。トルーマンは原爆の投下は日本上陸にともなう、連合軍将兵の生命を救うためと説明したが、現実には日本の降伏を早めるためだけでなく、ソ連に対するアメリカの力を誇示し戦後、世界の力関係を有利なものにするための手段であった。
 8月の原爆投下とソ連の参戦により、事態の急迫を悟った政府は、9日の皇居防空壕内で、最高戦争指導会議を開き、ポツダム宣言受諾の可否を議論した。「国体の護持」だけを条件として、ポツダム宣言を受諾すべきだとする、東郷茂徳外相と米内光政海相らと、他にも条件を付すべきだとする、阿南惟幾陸相、梅津美次郎参謀総長らが激しく対立して結論が得られず、鈴木貫太郎首相の要請によって、昭和天皇が宣言受諾の決定を下した。これを「聖断」と呼ぶが、「聖断」によって本土決戦派を押さえ込むために、事前に木戸幸一内大臣ら、宮中グループによって用意されたシナリオであった。
 8月15日正午、天皇自らのポツダム宣言受諾による、敗戦の言葉が放送された。当時休職中であった私は郷里鴨川にいた。玉音(天皇の声)放送があるというので、村人と共に地区に集まって放送を聞いた。雑音がまじりよく聞き取れなかったが、日本敗戦の言葉であった。私はガクンと気落ちし、集まった人々も悄然として首を垂れ言葉もなかった。─よもや日本が負けるとは-勝利を信じていた人々は体を動かす勇気もなく、村中、町中、いや日本中、声もなく死んだような空気であった。

 9月2日、東京湾上のアメリカ軍艦ミズリー号甲板で、降伏調印がなされ、日本はポツダム宣言を受諾、無条件降伏をした。
 厚木に来着した連合軍最高司令官、マッカーサー元帥の率いるアメリカ軍は、東京に連合国総司令部(GHQ)を置いて日本の占領を開始した。
 戦前、戦中の教育が、権力者の恣意的な強制のもとにおかれ、無自覚のゆえに幼い学童たち、そして自分自身も傷ついた、この反省と後悔で、多くの教師たちは、再び教壇に立つ勇気を失っていた。
 8月15日の敗戦を境に日本の価値観は一変した。すべての権威がくずれ、その混乱は大変なものであった。食料難と戦災による住宅難、巷には戦争孤児や浮浪者があふれ、運良く帰還できた兵士たち、その間を闊歩する駐留軍兵士等。駅には焼け出されて郷里に帰る親子づれ、子を負ってくたびれきった母親、上野駅地下道にも毛布や新聞紙を敷いて寝ている者、汚れた包みの中に顔をつっこみ、むさぼり食っている孤児たち。
 ホームは列車待ちの人々で長蛇の列でごった返し、列車が入ると列は乱れ、一斉に列車の窓にかけより、窓から我先にと荷物をほうり込み、もみあいへしあい土足で窓によじのぼり、のめりこむように車内に乗り込む。昇降口はもみくちゃで、にっちもさっちも動かない。「もっとつめろ」「これ以上つめられない」と怒号と泣き声で喧喧囂囂(けんけんがくがく)、秩序も道徳も通用しない浅ましい国民の姿であった。
 これも、少しでも食料を得ようと地方に買い出しに行く、必死の姿であった。食料の配給は米はなく、大豆、カボチャ、時には小豆であったりした。隣組からの連絡で広場に集まると、僅かに供出された大根、野菜が積み上げられ、人々は先を争って奪い合う。とくに都会生活者にとっては、大変な苦難の頃であった。
 私も終戦直前、昭和20年2月、九十九里方面からの敵前上陸に備えて、配備されていた、本土防衛軍の将校と結婚、しかし結婚式には夫は出席できなかった。なぜこんな時期に結婚かと思うが、長男である一人息子が何時、戦死するかもしれないということで、家を大切にする当時の風習として、一にちでも早く結婚させたかったのである。私の両親と、夫の家で、仲人夫婦が杯をかわして、新郎のいない結婚式が行なわれたのである。この夜も空襲警報がなり、あたりを黒い布で覆った部屋で、ささやかな結婚式が行なわれた。
 二人の生活が始まったのは終戦後である。当時、物の無い時代、家具調度は何ひとつ揃えることは出来なかった。煮炊きの釜も、金属はみな軍用に徴発され、寺の梵鐘まで供出させられた時代であるため、求めてもなく、漸く土釜を見付け、さて、竃だが、これも手に入らず田舎の父が工夫した、バケツを逆さにして底に穴を明け、炊き口を切り開いて作った竃であった。だが焚き付ける物が無い、庭に落ちたまっている落葉を掻き集めて焚き付けにした。
 配給は米はなくカボチャ、大豆。塩も砂糖も味噌もない、ぼそぼそと味気ない食事であった。時に小豆と砂糖が配給された。珍しい砂糖の配給で私はお汁粉を作った。数日お汁粉の主食で体がフラフラになって、階段をのぼるのに目まいがするようになった。24歳の私であった。
 隣の奥さんは2人の小学生の子どもに、配給の物を持たせ、自分は白湯をふうふうと、さまして飲んでいた光景を今も忘れない。奥さんはとうとう栄養失調になった。
 疎開から帰った子ども達はおおかたアバラ骨が出、手足が痩せ細っていた。彼等の食料も極端に乏しかったのである。鍋の中にタンメンを入れ塩で味付け、つゆを多くして腹を満たす、大根葉の中に米を浮かせた雑炊、山菜採り、イナゴ取り。それらが僅かの栄養源であった。当時学童、大人までがノミ、シラミに悩まされた。薬はなく熱湯ですら根絶できない。敗戦後の町は闇市、孤児、浮浪者、進駐軍の横行、風紀は乱れ手のつけられない混乱ぶりであった。

 戦後の教育はどうであったか。
 15日の終戦、9月には2学期が始まった。学校は軍隊が撤収され子ども達は教室に戻った。進駐軍は次々と上陸し、戦後教育は何の目的もないままに始まった。出席簿、統計の帳簿類は校庭で焼却した。進駐軍の日本占領政策が次々と発令された。
 教育に関しては「軍国主義の抹殺」である教科書の修正で、軍国主義を煽るような文章を、墨で塗りつぶすという作業をしなければならなかった。教師たちは教室で一せいに子どもたちに、教科書を墨で塗りつぶさせた。私たちが義務教育から師範教育を通して注ぎ込まれた、皇国史観は徹底的に叩き潰された。これが敗戦というものか、空襲のない安堵感と共に、未来に対して言い知れぬ不安があった。この価値の大転換はこの時代に生きた者にとって、大きな衝撃となった。唯一、無二と信じた日本の国体、国家が崩れ去るさまを、身に沁みて実感した。教育の目標をどこに置くか見出せないままに、戦後教育は始まった。
 まず思想の統制という呪縛が外され「民主主義」という言葉が新鮮な響きで、生活にも教育の現場にも滔とうと入ってきた。自由と民主主義についての解釈は、当時の私達にとって理解し難いものであった。
 食料の欠乏による児童の栄養状態の悪さに、ララ物資による脱脂ミルク給食が始まった。アメリカでバターを取った後、飼料にするためのものであったらしいが、大きなドラム缶大のダンボールに入っているスキムミルクは、当時民間では大変な魅力であった。急ごしらえの大釜で粉ミルクを煮立て、女教師や用務員によって配られた。長い間栄養の欠乏していた子ども達にとって、大変な御馳走であった。次に米軍の放出物資である蟹缶や鮭缶が配給され、自宅では到底食べられないスープを、学校給食で食べられる時期もあった。
 ミルク給食は其の後、粉っぽくておいしくないと評判が悪くなったが、当時としては有り難い栄養源であった。ミルク給食以来、昭和二十九年の学校給食制度に至るまで市、町、村の財政に応じて、さまざまな形で実施され、変遷を重ねて現在の給食に引き継がれている。さて授業のほうは昭和26、27年から第一次ベビーブームの子ども達が学齢に達した。大規模校の場合、1学年が8学級以上に達し1学級の人数は55人以上にもなった。校舎増築どころではない財政で二部授業、三部授業が当たり前で、早組の授業が終わらないうちに遅組の子ども達が窓下で、ガヤガヤしながら待つ光景はしばしばであり、落ち着いた指導の出来ない毎日であった。さらに教室が不足となり三部授業まで行なわざるを得なくなった。跳び箱等の入っている体育倉庫を教室として使い、狭い倉庫は机で一杯になって歩けないほどであった。普通教室でさえ、この有様で特別教室など希むべくもない。おどり場にピアノを置いて、階段に腰掛けさせて合唱したりした。対策として学校の近くの神社の、小高い松林の中で校外教室がつくられた。
 その頃アメリカの教育が急流のように教育界に入ってきた。次から次への新教育用語に振り回された。曰くコア、カリキュラム、ガイダンス等々、年配の教師ほど新教育についていく困難さを覚えた。
 やがて昭和21年(1946年)「日本國憲法」が制定され、基本的人権の尊重、国民主権、恒久平和主義を三大原理とした。第1条で象徴天皇が規定され、第2章第9条では戦争放棄、交戦権の否認をうたい、戦後の日本の規範が作られた。続いて、昭和22年、「教育基本法」が制定され戦前の「教育勅語」にかわって、日本國憲法下における、民主教育の基本理念を示した。占領下の他の法律の制定、改正に比べて日本側の自主性が強く、自由主義的な知識人の主導下で進められたもので、「教育憲法」ともいうべき性格をもっている。その第1条では「平和的な国家社会の形成者として、自主的精神に満ちた国民を育成すること」が、教育目標として掲げられている。また第10条で「教育は不当な支配に服することなく」と規定され、国家が教育内容へ不当に介入することを戒めている。
 

 私の戦前、戦中、戦後を回顧する時、戦争の痛手を物心両面に受けながらの、旧体制の教育から、目標を失った時代、そしてその後の人間教育の理想へと転換する、激動の時代を生きたように思う。この間、教育委員制度が確立し、教育課程改訂が数度に亘って実施され、時代と共に変遷を重ねた。その間私は30年の教職を経て退職、20数年馬齢を重ねた。高度経済成長時代を経ての、現在の日本の経済的繁栄など、到底予測できないことであった。この日を生きる幸せを思う時、戦場に散った小学校時代の幼なじみ、学校の同僚への愛惜の念がこみあげて来る。
 考えて見れば、_明治政府の富国強兵策、それは鎖国以来の日本が、列強に劣るまいとしての力を得るための、国策であったことは否めない。愛国心を培うことも大切であったであろう。しかしこれが段々とエスカレートして国家主義、軍国主義へと進み、大きな戦争となり、列国を敵に廻して、侵略戦争として世界中の非難を浴び、日本の領土を失い国民を戦禍に晒し、又中国、東南アジア諸国に、多大の犠牲を強いる結果となってしまった。
 時の当局者や軍部の責任は免れないところだが、つまるところは、日韓併合や15年戦争の観点から眺めてみれば、遅れてやって来た帝国主義国家の、歴史の必然的帰結と言えるのではないか。先進列強が歩んだ道を追うことで日本は、阿片によって中国を亡国に追いやる、英国帝国主義の事業の大々的継承者であった(長尾竜一)。
 敗戦後、或る参謀(軍隊の指揮官のもとで作戦を練る重要な役目)は戦後の記録として-敗戦の原因は戦争指導者たちの「無定見、無責任、無反省」にある─とし、「国敗れて大儀責任の帰趨分明ならざるは国の禍」とした。「知るものは言わず、言うものは知らない時代であった」と言う。大本営に於いて戦争指導にかかわりながら、日中戦争の早期解決も図られず、又戦争拡大も阻止できなかった。そのことを後世に伝え、2度と戦禍をまねかないようにする、それが参謀として国の中枢にいた者の責務だといい、そうした反省に立って「支那事変戦争指導史」を執筆している。その著書の中で「国家要路の責任は無限なり、不明、無能、怠惰は国事に於いては皆之を罪とす」と述べている。
 この戦争による東アジア、東南アジアの、日本軍の占領下にあっての、現地の人々の苦しみは筆舌に尽くし難い。15年戦争でアジアでは、2000万人の人々の命を失ったといわれる。殺し尽くし焼き尽くし奪い尽くす日本兵の、数々の悲惨な事件によって、中国では日本兵を「日本鬼子」と呼ぶという。これら日本軍の残虐行為をアジアの人々は忘れてはいない。私たちが平和を考える時、自分たちの体験した悲惨な出来事のみならず、日本が犯した数々の行為についての、深い反省がなければならない。
 天皇在位60年の年、改めて昭和史の見直しが盛んになった。太平洋戦争の敗北が日本歴史の中でどのような意味を持つか、さまざまな角度からの解釈や、歴史観が述べられつつある。歴史とは過去の時代を調べるものでなく、現在を知り明日を洞察するための、何よりの指針となるべきものである。人類の歴史は戦争と平和の繰り返しであった。次の戦争への、いっときのものとなってはなるまい。今50年前の戦争を事実をもって検証することで、次の戦争への道を踏み出すことに、国民の警戒が強まることを願っている。(戦争の時代50年目の記憶 朝日新聞、元名古屋社会部長 山本博)
 

 さて、戦後50数年経った現代の変わり様はどうであろう。
 まさに180度の変化、昭和元禄といわれる程の泰平の中で、耐えることを知らない若者たちが、自由を口実に青春を謳歌している。公教育が塾教育と入れ代わり金さえあれば何でも…‥という打算的な考えがはびこっている。国民の中でも権利は主張するが義務は怠る。他人の迷惑は関係ないとソッポを向く。この豊かさの中でその教育は新たな問題を抱え論議されている。
 戦争を知らない世代、経済大国日本の繁栄の中に、どっぷりつかって育った世代の人達が、親となり子育てに問題を抱えている現在である。
 日本の教育は、いよいよ、明治時代の「近代化」、戦後の「民主化」に続く抜本的な改革を迫られている。日本はこれまで時代の要請に応え、2度の本格的な教育改革がなされたが、ともに外圧がきっかけとなった。
 今、21世紀を迎え第三の教育改革がなされようとしている。現在、子ども達を取り巻く現状は危機的な様相を深めている。「個性化」「自由化」が放縦とはき違えられ、それらが教育放棄につながって、子どもたちを駄目にした面もある。
 21世紀を担う子ども達に社会生活のルールを教え、その上で高度な国際化社会を生き抜く、資質を身につけさせなければならない。(読売新聞平成13年11月3日記事)
 

 戦争は終わったにもかかわらず、地球が人工放射能によって汚染されるようになった。原水爆の実験が続けられたならば、人類絶滅の危機がもはや近い将来の事となる。
 原子力利用は全地球で新しい産業として、革命をもたらすかも知れない。しかし人類を絶滅させるかもしれない危険を、伴っている事を忘れてはならない。
 戦後の国民大衆の雰囲気は変わったのであろうか。国民はまだ充分に主権がおのれにあることを自覚していない。官僚組織を「公僕」という正しい形にする力があるとすれば、世論の圧力だけである。雰囲気を生み出す国民大衆の一人として、自分達のかもし出す雰囲気の意味と力を知らなければならない。
 或る人が云う、─個人よりつねに組織を優先し、自分を殺さなければ生きて行けないという点で、戦前の軍隊と今の会社はそっくりである─と。正しいと思っていることでも、会社の意向に反する場合は主張できない。「常務、これは間違っています」などと言おうものなら、万年係長か子会社への片道キップを渡される。軍隊に集中的に現われた日本の体質は、さまざまな組織を通じて今に受け継がれている。日本は根本的なところで少しも変わっていないと語る。考えさせられる言葉である。
 

 昭和16年、太平洋戦争勃発の年、教師として出発、国民学校の教師として戦争に協力し、敗戦を迎えた自分にとって、太平洋戦争は悪夢のような体験であった。国家主義、軍国主義の被害者であり、加害者である痛恨の記録を記し世に伝え、少しでも良い時代を作ることを模索精進するほかはないと信ずる。
 

 参考文献

1) 教育と戦争(くり返すまいこの過ちを) 千葉県退職婦人教職員の会
  千葉県教育会館史 教育会館維持財団
  女教師の歴史と現状 千教組婦人部
  教師の歴史 唐沢 富太郎  創文社
  ある教師の昭和史 加瀬 完  社会評論社
2) 戦争の時代(50年目の記憶上下) 朝日新聞名古屋社会部
3) 太平洋戦争 家永 三郎  岩波書店
4) 昭和時代 中島 健蔵  岩波新書
5) 昭和史の辞典 佐々木隆爾  東京堂出版
6) 日本現代史 藤村 道生  山川出版社
7) 平和教育資料(わたしたちはわすれない) 千葉市教職員組合
8) 読売新聞 平成13年11月3日記事  

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志賀 葉子

シガ ヨウコ
しが ようこ 小説家 1921年 千葉県に生まれる。「つらつら椿」により日本文芸大賞女流文学賞受賞。

掲載作は1981(昭和56)年レモン社刊「消えた神様」に初出。

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