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露草

 弓枝が夕飯の支度をしていると玄関の戸が開いた。

「今晩は、お世話になりますよ」

 と入って来たのは姑のおたねと舅の耕作であった。

「あらまあ、いらっしゃい、さあどうぞ」

 弓枝はふっと心をかすめた緊張感とはうらはらな明るい声で挨拶すると、せきたてるように二人を座敷へ招じいれた。

「まあ、とんだ急でびっくりしたっぺけんど、なんせお父っつあんが、あんべいが悪いとって巡回のお医者さんに言われたんで、大急ぎで大学病院さ行くべえって来ただよ」

 姑のおたねは小柄な体からはじけるように威勢のよい声で、言うとほっとしたように真新しい手ぬぐいを手首に巻いて、首のまわりを拭き始めた。

「まあ、それはそれはとんだ事ですね、それでどんな具合ですか?」

 弓枝は日頃丈夫な舅の病気と聞いてぎくりとしたが、動揺を見せず舅の耕作に目をうつした。

「あははー俺あどこもあんともねえだけっと医者が心配だから早く大学病院で診て貰えって言うで来たださ、うんにゃこの百姓の忙しい時によ」

 耕作は事もなげに言うと、どこか愛嬌のある獅子頭のような顔をくしゃくしゃにして大きな口を開けて笑って見せた。歯はだいぶ欠けて飛び出た喉のあたりにしわがたるんで見える。村の一せい検診で巡回医からレントゲン写真に不審な点があると言われ、びっくりしたおたねの勧めで重い腰を上げて、せきたてられるようにして大学病院のあるT市の息子の家にやって来たのである。

 七つの時から百姓奉公に出て七十二歳になる今日まで、風邪で一日二日は寝た事があるがそれ以来病気らしい病気ひとつせず、仕事一途に生きてきた耕作にとって寝耳に水の出来事であり何とも納得のいかぬ事であった。三度の食事もこの上なく旨く仕事の疲れも以前と少しも変わらず、一晩ぐっすり寝ると翌朝は快調で五時には起きて、露の滴る朝草を刈って腰が弓になるほど背負って帰り牛に草を切って食べさせ、七時にはおたねの作った味噌汁に舌つづみをうち休む間もなく野良に出るのが、五十年来の耕作の日課でありそのペースに何の異状はなかった。酒も煙草もやらぬ耕作は殆ど休む事なく仕事をするのが唯一の楽しみであり、疲れ直しでもあった。

 勤めから帰った長男の庄吉は弓枝から父の病気を知らされた。

「なあに、お父っつあん、今は医学が進んでいるから早く医者に診てもらえば治るさ、気を落とすこたあねえよ。あんまり働き過ぎるだっぺよ、あした早く大学病院へ行って診てもらわっせいよ」

 その言葉をひったくるようにおたねが

「ほら、見さっせい、兄ちゃんもそう言ってるだ、仕事仕事と言わねえで医者に診てもらって早く治さねえばおえねえよ、あんだってお父っつあんは強情でなかなか尻あげねえで本当に大苦労した」

 なかばひとり言のように言うおたねの額も深いしわがより、野良仕事に明け暮れた皮膚が茶褐色に光っていた。

 病気だという耕作は十キロちかくの米を背負い片方にキュウリやキャベツの五キロもあるのをぶらさげて、息子の家にやってきたのだ。おたねは味噌漬と沢庵をぶらさげて曲がった腰を伸ばし伸ばし、駅の階段を登り下りする度に脂汗をたらしてやって来た。都会住まいの息子夫婦に少しでも金を使わせまいとする心遣いである。

 長年の百姓生活でお金がどのくらい尊いかを身にしみて知り、汗と脂で得た金はめったな事では離さないとする習慣が染み込んでいる耕作夫婦にとって、湯水のようにお金を使う都会の生活者は、お金を浪費する罰当たりの人間に見えるのだった。

 耕作が弓枝の敷いた床につくと隣室でおたねは庄吉夫婦に声をひそめて

「お父っつあんは肺癌らしいとよ」と言いながら目をしばたたいた。

「ううん、それはいけないなあ、癌じゃよっぽど用心しねえとーお父っつあんも年だからなあ」

 庄吉はずしりと肩に重いものがのしかかったように、心が沈んでいった。

「早く分かりゃ手術して治るべえさ」ぽつりと言って腕を組んだ庄吉に

「もう七十をこえた年寄りに手術ったってもうおえめえさ」

 おたねの沈んだ声が傍らで聞いていた弓枝の胸を暗くした。ボーンボーンと柱時計が無神経な音をたてて十一時を打った。隣座敷から耕作のいびきが一きわ高く聞こえてくる。

 

 翌日勤めから帰った庄吉は弓枝から父も母も帰った事を知らされた。

「何も病気の事は言いませんで、帰りの汽車に丁度よいのがあるから帰るって、それも電話なんですよ、知らせがあったのは」

「ふううん、全く忙しいな、相変わらず」

 むっつりと庄吉は帯を締めながら言った。

「全く仕事仕事とお父さんたち働き過ぎるんじゃないかしら、あんまり無理するといけないのに」弓枝が言った。

「百姓はああする外ないんだよ、手や足を磨り減らさなきゃ生きて行けないんだ。お父っつあんも、もう長くないな」

 ぶっきらぼうに言うと庄吉はガラス越しに見える空に目をやった。破れた棕櫚の葉の間の真っ青な空に白いぼけたような雲が流れて行った。

 こんな日だった、と庄吉は思った。終戦後、父に逆らって家を出た日は一。

 

 長男である庄吉はS市にあった歩兵連隊に入隊していたが、沖縄戦に参加するはずが運よく逃れて無事に復員した。すっかり逞しくなって帰って来た庄吉に一番喜んだのは父の耕作と祖母のきくだった。跡取り息子に家を継いで貰えると信じて疑わなかった。

 庄吉は町から弓枝を連れて帰って来た。みっちりと百姓仕事を仕込まれた働き者の嫁を貰おうと、楽しみにしていた耕作はがっかりした。祖母のきくは生きて帰った孫息子に唯おろおろと喜び、耕作に取りなしてやっと弓枝を嫁に迎えた。

 弓枝は二十一歳で勤労挺身隊として軍需工場で働いていたが、庄吉の連隊の軍旗祭で知り合って将来を約束する仲になった。好きで付き合った庄吉と離れたくない一心で、全く見ず知らずのK町の在方の農家に嫁いだのである。

 町からよそ者を嫁に迎えたという事で村の人たちの好奇と冷たい目は弓枝に集まった。慣れない野良着を着せられて背負い籠を負って畑に出る弓枝の姿を、じろじろと無遠慮に眺めては色の白い頬の赤い弓枝を

 「町やの洒落者、畑さ行くまで紅おしろいをつけてさ」

 と隣のおばばは悪口を言った。おばばは跡取りの孫息子がニュウギニアで行方不明になって以来、いっそう悪口がひどくなった。

 七十を越した祖母のきくが薪を山のように背負って腰を折り曲げるようにして歩くその後を、若い肉付きの良い弓枝がほんの一束の薪を背負って体の均衡を失って、ふらふらと泳ぐように歩いて行くのを見ては、向かいの女房と三十になってもまだ嫁入り先のない娘のおよしが

 「甲斐性なしの横着者」と弓枝に聞こえよがしにののしった。弓枝は肩に食い込む背負子の紐に指を差し入れ歯を食いしばって歩きながらも、小柄なきくの軽々と背負った山のような薪に神わざのような驚きを感じた。庄吉の家の山は急な傾斜になっていて麓にぐるりと細い道が廻っていた。道のすぐ下は山の清水を集めて村の田に流すかなり深い谷川になっていて、ぜんまいや裏じろなどの羊歯類が飛沫に濡れてふるえている。弓枝の足はふらついて、ともすると谷川に転げ落ちそうになった。足を踏みこらえ踏みこらえして歩く山道は気が遠くなるほど長かった。ふっと実家の母の面影が浮かんでは消えた。男兄弟の中の一人娘の弓枝を送り出す時の母の淋しそうな顔が、いつまでも弓枝の心から消えなかった。

 「気をつけさっせえよ、足を取られると危ないけん」きくが気遣った。

 目に入れても痛くないほど可愛がって育てた庄吉の嫁である弓枝をきくは愛しがった。きくは村人の冷眼視から弓枝を守るために何かと気を配り、姑になる娘のおたねからも弓枝をかばった。

 庄吉の生みの親のすみはきくの総領娘で村でも評判の器量よしと言われた。その婿となった耕作は村の若い男たちから羨ましがられた。それも村で評判の頑固者のきくの夫が、耕作の働きぶりを見込んで婿に選んだのである。その幸せに耕作はますます骨身惜しまず働いた。しかしその幸せも束の間、すみは庄吉を産んで間もなく死んだ。妹娘のおたねが後になおって耕作の妻となった。家を継がせるためのきくの願いを不承不承に承知して後になおったおたねに、きくはいつも気兼ねをし遠慮していた。

 庄吉にはおたねの生んだ異母弟の良太がいた。四歳できくの周りでいつも遊んでいた。村一番の働き者と言われた耕作は隣の地区に生まれた七人兄弟の末っ子であった。耕作の母は耕作を四十歳で生んだが既に総領は二十二歳になっていた。そろそろ嫁話も起きかけた時であったので母は、耕作を身籠った事を恥じて何としても生みたくないと思った。しかし月満ちて耕作は生まれた。思案の挙句、母はこっそりと月の明るい夜に襤褸にくるんだ耕作を抱いて、河原の脇の田の畦道に捨てて来た。夜が明けて、露に濡れた草むらの中で赤子の泣き声がするのを聞きとがめて、近所の年寄りが連れ戻したため、そのまま仕方なく七歳まで耕作を育てた。

 総領に貰った嫁が耕作をうとんじたので大家内の口べらしにと、七歳の時に物持ちの家に百姓奉公に出されたのである。この時から一銭の小遣いも貰わず酒も飲まず煙草も吸わず、朝は五時に飛び起き河原の青草を腰の撓む程刈り取って帰り、味噌汁、沢庵の朝食をとるとお茶ひとつ飲まず野良仕事に出、夕方星の出るまで働き続けた。それから二十年、見込まれて徳右衛門の婿になり今では一家の主人として唯一の働き手であり大黒柱であった。耕作の手は節くれだち、大きな松の根株のように捻じ曲がり太くなっていた。働き者である事が最高の美徳であり、棒かつぎ(仕事のできない役立たず)と言われる事は最も意気地のない甲斐性なしという事で村人の蔑みを受けるのだった。

 耕作は働き者になる事をめざし、仕事に耐え今では働く事それ自体が一番楽しく生き甲斐になっていた。たまに用事があって町の親類に泊まる事はあっても、むずむずと落ち着かず夜明けとともに飛び帰って、もう野良に出ているという風であった。

 息子の嫁が棒かつぎである事が耕作には大きな不満であった。が死んだと思った庄吉が帰って来た事の嬉しさにその我儘をも許したのであり、弓枝が憎いわけではなかった。唯、あまりにも意気地なく見える弓枝に町の暮らしの生ぬるさが無性に腹が立って、弓枝そのものより町の人全体を罵倒する事があった。

 「町やの者はあんで甲斐性ねえだか、俺あ達が居ねえば干乾しになってしまうだにーただじゃらじゃらと洒落てばあしいてて」

 はき捨てるように言う言葉の裏には期待を裏切られた庄吉への鬱憤もまざっていた。

 

 五月も半ばを過ぎると一年中で一番忙しい田植えがやってきた。今年の苗は出来が良すぎて早く植えないと育ち過ぎると、きくは耕作をせきたてた。毎年の苗取はきくの仕事であった。七十を過ぎたきくは四時から起きて屋敷続きの苗田へ出て苗取を始めた。両手の指が器用に動いて両手いっぱいの苗を掴むと、田の水でざぶざぶと苗の根を洗い腰につけた藁で器用に束ね、ぽいと畦道に投げ上げる。見る見るうちに積み上げられた苗束、年寄りの技とは思えぬ程の素早さである。十五歳の時に嫁入って以来六十年近く鍛え上げた年輪であった。今年の苗が出来が良いという事は豊作を意味するものであった。

 親類からは耕作の兄の仁太郎とその息子の平太、隣のおやじとかみさん、一軒おいて隣の博労の忠平衛とそのかみさん、耕作一家と総勢十一人、朝の五時半から一日植えて五反どうやらというところ、耕作の家では人頼みは二日か三日、その外は家の内でぼちぼち植えて五日はたっぷりかかるのが例年の事であった。隣から助けを頼んだからには、そのお返しに働きに行かねばならないのだ。田植え近くなると耕作親子は目を赤くして朝から夜中近くまで働いた。田を植えるまでにする準備が一苦労であった。春の寒い間に鋤き返しておいた田をもう一度うない、畦は水が漏らないように鍬で一すくいづつ泥をすくっては畔塗りをしていった。その上、代掻きといって田の土を細かに砕いて平らにし水を張った田に、苗を植えやすくする仕事があった。

 

 おたねは田植えの前に魚屋へ走り、豆腐屋を呼び、小豆を煮、野菜を洗いして助っ人への接待に心をくだいた。あそこの昼飯は旨かった、どこそこのこじゃ(おやつ)にはぼた餅が出た、夕食には刺身が出たと、食べ物に対する噂話はすぐ村中に知れ渡り、主婦の腕の良し悪しや振る舞いの度合いが一家の主婦の品定めにもなるのだった。勝気なおたねの気遣いは並大抵ではなかった。弓枝は指図されるままに野菜を洗い油揚げを煮たりして、弁当作りを手伝った。町育ちの弓枝が何気なく砂糖をたっぷり入れると、無駄な事とおたねは不服だった。油揚げを煮るには湯で煮上げ、最初に砂糖を入れてことこと煮るのが一層甘味をきかすことであったが、弓枝はそうする事をしなかった。町育ちはどうしてこんなに無駄遣いをするのだろうとおたねは胸の中で憤った。まだ終戦後間もなくで砂糖はやっと統制がはずされたばかりであった。おたねは庄吉への気兼ねから弓枝に小言を言う事をひかえた。その我慢はおたねの心の内に澱みとなって積み重ねられた。

 リヤカーいっぱいに飯びつ、やかん、煮魚やぼた餅を積み込んで弓枝は耕作たちのいる田へと運んでいった。山裾をぐるりと巻いた田舎道を歩いて三キロもある山ふところの田であった。死んだ舅やその親たちが爪に火をとぼすような思いで買い取った田であった。

 途中どの家でも忙しそうに田を植えていた。梅雨の晴れ間の明るい日が射し、かなりの暑さだった。大きな栗の木の下陰を通る時、甘い花の匂いがした。時折、土手の草陰に山百合が咲いて涼しい風が吹き通っていった。重いリヤカーはともすれば梶を取られ坂道など引きずられるようで弓枝は必死に支えながら押して行った。

 夫の庄吉一人を頼りに今日まで送ってきた目まぐるしい日々を思い、何か今の自分が別人のように思え、町の家で暮らした娘時代が遠い日のように思えるのだった。僅か半年足らずの間に知らぬ人生に深く迷い込んで抜き差しならず、馬や牛のようにその日その日に追われている自分が惨めに思えて涙が滲んできた。夫の庄吉も人が変ったように優しい言葉もかけてくれなかった。唯、遠くでじっと弓枝の動作を見守っていてくれる事は僅かの慰めではあったが、傍目のうるさい村では若い者どうし肩を並べて歩く事もはばかられていた。あそこの嫁ごと兄さんはいつもくっついてばあしいるよーと噂される事は若者にとって不名誉な事であり、まして町から好きな女を連れてきた庄吉は村人の目もはばかった。

 耕作の田に近づくと「よいきた」という掛け声と共に、棕櫚縄の所々に白い布をまいた目じるしの綱を張り、その目印に次々と手早く苗を植えていた。綱の右側に耕作、左端を庄吉が持ち縄張りをしその間を皆が器用に、そして目にも止まらぬ早さで苗を植えていくのである。

 「太兵衛どんの嫁ごは夕んべ赤子を産んだとよ」

 と忠兵衛のかみさんのおむらが言った。

 「へえー昨日まで田へへえって田植えをしていただによ」

 と隣の女房が驚いた声を出した。

 「そりゃまた太兵衛どんじゃあ騒ぎだね、この忙しい盛りによ」

 皆の手は休まず次々と苗は植えられていく。

「徳右衛門の父っつあんよ、おめえ等のあねさんはまだけえ、この節の若いもんは子どもこっせえるのが早いけんのう」

 耕作の兄の仁太郎の大きな声が丁度、田に着いてリヤカーから荷物をおろしている弓枝の耳に入った。弓枝は体中に血が上がっていくのが自分でも分かるようであった。

 「うんにゃ、ふんとだ、俺あおっかあ、この年になっても毎晩俺が事せめたてるもんな、触ってばあしいるから、おっ立ってしょうがねえよ」忠兵衛はとんきょうな声をあげて合鎚をうった。

 「ほんとにまあ、俺あが父っつあんたら、ろくでもねえ事ばあし言ってさ」

 おむらが怒った声で言うと皆はゲラゲラと笑い立てた。調子に乗った忠平衛は

 「おっかあ、怒るなってんだ、泣くも笑うも穴ひとつってな世の中、女の穴で持ってるんだ、なあ、徳右衛門の父っつあん」

 と耕作に言った。忠兵衛と女房のやりとりに笑い興じながらいっときも休まず苗は植え続けられた。

 どこそこの嫁ごは、姑といさかいをして家へ帰ったが、仲人が中に入って詫びを入れて一昨日帰ってきたとか、隣の地区の若いもんは嫁取り前なのに、村の地蔵堂に住む淫売上がりの女のところに、夜な夜な忍び込んでいるとか、商売がらあちこち村中はおろか近村まで走り廻る忠兵衛の話題は尽きない。田畑を持たない忠兵衛は持ち前の気さくさと口達者から博労を仕事とし、結構、体を労さず実入りは良いほうであった。農繁期になると女房のむらと一緒に頼まれ仕事に家々を廻り重宝がられていた。忠兵衛は田植えは手のろであったが、むらは幼い頃から田植え仕事に頼まれ、小遣いかせぎをしていたので、田植えは人一倍早かった。そうしたことから忠兵衛夫婦は農繁期には引っ張りだこで一段と実入りが増えた。田植えは一気に終わらせてしまわねば苗が育ち過ぎ米の取れ高にも影響するので、一刻を争って村人たちは植え急いだ。

 全然経験のない弓枝はこんな時にはとても一緒には植えきれず、家の人だけでぼちぼち植える家の近くの小さな田のときだけ田植えをすることになった。耕作やたねはこんなところにも歯がゆさが先にたって不機嫌になっていった。弓枝はやたらにおどおどしてかえって粗忽をやらかした。そんな時、祖母のきくはしきりと取りなしたり陰でこっそりかばったりした。庄吉は義理の母との間に立って全く無関心をよそおっていた。

 

 忙しい田植えが済み山の頂から峰岡おろしがさわやかに田の面を渡る頃になると、苗は青々と茂り日に増し育っていく。朝早く田に出ると見渡す限りの稲が一本一本の先に白い露を含んで、物音一つしない朝の静寂の中にしんしんと息づいている。

 村の中を流れる吹田川のせせらぎだけが、ひゅるひゅると軽やかな音をたて遠く海へ注いで行く。村を囲んでいる山々の頂が明るみ始めると烏のむれが大きな羽音を立てて飛び立っていった。田づらにうっすらと朝靄がかかり、靄の中からそこここに朝草を刈る村の男や女の姿が見える。朝の早い程、刈った草の多い程働き者と認められるのだ。

 耕作は今朝も地区一番に起き朝草を刈りながら自分の田を見廻った。仕事以外に楽しみを持たない耕作にとって田畑の作物は、子どものように愛しかった。

 秋が終わり霜が降り農家は家籠もりの日が多くなった。庄吉は自分の部屋で本を開く事が多くなった。学校時代から本を読む事や機械いじりが好きであった。軍隊でも無線班員として働いていたが、庄吉はひそかに無線の技術を高めようと勉強していた。弓枝はその頃身籠った。夜の床で庄吉にそっと告げると庄吉は黙ってしっかりと弓枝を抱いた。弓枝はその腕の中で涙を流した。

 弓枝は翌年の八月、暑い盛りに女の子を産んだ。都会では食料不足が騒がれているこの時期、豊富な米、野菜に恵まれて、四キロ近くもある大きな赤ん坊であった。きくはひこ孫の誕生に目を細くして喜んだ。徳右衛門の家が小さな体の血統である事を苦にしていたきくは、一貫目もある大きな赤ん坊だと村人に会うごとに吹聴した。

 庄吉が家を出る事を決心したのは弓枝の出産からであった。

 産後二十一日間は無理をしてはいけないと実家の母に言われ、又育児雑誌や人の語り草にも言われているので弓枝は殊更、家の用もせずぶらぶらと寝たり起きたりしていた。そうした弓枝の態度がおたねの不満を爆発させた。農家の嫁は産後二週間たつかたたないうちに起きて、家の仕事や少しの庭仕事はしなければならないという、おたねの常識であった。おたねも産後一週間から家の仕事をした事が自慢であった。

 町から嫁いだ肉づきのよい大柄な嫁は二週間たっても、まだぐずぐずと床につき何かと夫の庄吉の手を煩わしている事に、おたねは我慢がならなかった。庄吉が弓枝の代わりに床板を拭いているのを見て、おたねは大声で

「この横着者の甲斐性なし」と怒鳴った。弓枝は何で怒られているのか唯、おろおろとうろたえるばかりであった。庄吉は二人の間に立って青ざめた顔をして黙っていた。

 翌朝、庄吉は耕作に家を出る事を告げた。耕作は頭から血が引いていく程びっくりしたが、やがて庄吉の決意の固い事を知った。庄吉の胸の内を血の繋がる親子として耕作も察する事ができた。異母弟の良太は六歳になっていた。表だってしゃべる事をしない庄吉は思慮深い男であった。勝気な継母たねと異母弟の良太に家を譲る事を復員した時すでに決意していたのである。唯その機会を見ていたという事であった。丁度、妻と継母とのもめ事が庄吉の発言のチャンスとなった。

 婿である耕作はおたねには一もくも二もくもおいていた。思慮深い無口の長男と気の強い家つき娘のおたねの間に入って、耕作も人知れぬ苦労があった。今、改めて庄吉から家を出る事を切り出されてどうすべきか思い煩った。祖母のきくは殆ど狂乱するばかりに驚いた。仏壇の御先祖様にあい済まぬと嘆き沈んだ。実の子を跡とりにしたいばかりに長男夫婦を追い出したと村人に噂される事は、勝気なおたねにとって何よりの屈辱であった。最も強硬に庄吉の家を出る事に反対したのはおたねであった。だが庄吉は非情なまで冷静にこうした願いは受付けなかった。すでに軍隊時代の戦友を通してT市の郵便局に通信係りとして入局する事に決めていた。

 この徳右衛門一家の揉め事は村人の話題をさらい噂は絶えなかった。良いにつけ悪いにつけ村人の興味をそそる話題は、一種のリクレーション的役目を果たした。隣の家に倉が建てば腹が立つの例えがある程、他人の家の揉め事は村人にとって好話題であり生理的快感を与えるもののようであった。

 隣家の女房と田をひとつ隔てた筋向いの出戻り娘のおたけは、芋畑の中で鍬に寄り掛かりながら二時間半も徳右衛門の噂話に花を咲かせていた。枯れたキュウリのつるを取り払いに出掛けた太郎衛門のかみさんと、へそ繰り用に飼っている鶏の卵を仲買人の家に運ぼうと、籠を背負って出掛けた長右衛門の後家ばあさんは、道を隔てて喋り合い、日が山の端に沈むのも忘れて耕作一家の噂話をしていた。

 「食糧不足で食うや食わずだちゅう町さ出て行くもんの気が知れねえ」

 「田んぼの一町二反もあるあの身代を打ちゃって町さ出て行く兄さんは、よっぽど欲がねえ、それほどあの嫁ごが可愛いだっぺさ」

 「あんにしても、おたねお母あ、気が強いけんね、若いもんはいられめえさ」

 「おばばのおきくさんが可愛そうだ、おすみあねさんには死なれ、手塩に掛けた兄さんには出て行かれるし」

 「耕作父っつあんも苦労の絶え間なしさ」

 「良太が跡を取ってあの身代そっくり貰えば、おたねさんは左団扇だあね」

 村人の噂はこんなものだった。

 戦争成金と言われ毎日のように町から闇米買いが来て、一升二百円、三百円と面白い程売れ農家の財布は重たかった。お金のない町の人々の中には花嫁衣裳やモーニングまで、惜しげなく一升二升の米と取り替えていった。おかげで村長さんか村の学校の校長先生だけが着るものだと思っていた、モーニングまで手に入った村人たちの鼻息は荒かった。だぶついたお金であらゆる諸道具を買い調え、数十年いや一代も二代も使える客机や箪笥、ミシン、風呂桶、何から何まで新調してほくほくしている村人から見れば、庄吉夫婦の所業は全くもってあきれた無分別者として受けとられた。

 勝気なおたねも庄吉の決意をひるがえす事は出来ず、いよいよ出発となると世間に笑われまいとする意地から、初孫の着物やら布団おむつにいたるまで調え、鍋、釜諸道具を持たせ庄吉と弓枝を送り出した。

 「しっかりやるんだど、町やの暮らしは百姓のようにのん気じゃつとまらねえ」

 耕作は村外れまで送ってきて庄吉に言った。庄吉は笑って言った。

 「心配するこたあねいよ、お父っつあんこそあんまり無理しねえで」

 血の繋がる親子としての温もりがほのかに二人の胸をかすめた。

 熟れた穂波は重く垂れ下がって赤とんぼがすいすい飛んでいた。峰岡山の頂の空が海のように青かった。村を出はずれた所に徳右衛門の墓地があった。こんもりとした椎の木の森の片隅に庄吉の母すみが眠っていた。庄吉の目はじっとこの森に注がれた。庄吉の目に涙が滲んだのを弓枝は知らなかった。

 「これでいい、これであんもかんも丸く収まるだ」

 帰り道、耕作は節くれだった握り拳で水っぱなをこすり上げ、ふんと手鼻をかんで道端の桑の葉にこすりつけて帰って行った。

 耕作は又戦争中のように男手一人で、老いた姑と勝気な妻と幼い良太を抱えて働き続けなければならなかった。

 

 終戦後の都市の復活は早かった。バラックは見る見るうちに取り払われ鉄筋のアパアトが建ち並び、海外から物資も輸入され工業生産も増加し品物の出回りもよくなった。今まで米や食糧を農村から拝むようにして買いに来た町の人々は姿を消し、そのかわり。ゆとりの出来た都会生活者のレジャーを楽しむ、きらびやかな服装や写真が新聞や雑誌に現れ始めた。都会の生活者を憐れみ、俄成金で胸のふくらむ思いでいた農家の人々は、短い夢の覚めるに早い事を嘆きかこった。

 

 二十年の歳月は流れても耕作の生活はかわらなかった。勿体ないと釜の一粒の飯粒も丁寧にさらって食べ、汁椀の汁は一滴残らず音を立てて吸い、煮魚の皿はピチャピチャと舐めまわし最後に湯を入れて飲み干した。野菜の屑、魚のあら、煮汁の残り、漬物の洗い汁まで大きな桶に取って牛の飼料にした。酒も飲まず煙草も吸わず一円の銭も無駄にしなかった。朝の五時から夕方の七時過ぎまで米を作り、麦を蒔き、大根を作り、そらまめを作り無から有へと生み育てる仕事は続いていた。

 戦時中、増産を強制され貯蓄を賞揚された農民たちは、身を粉にして働き、爪に火をともす思いで貯蓄を重ねたが、汗と脂の結晶は新円切り替えとなり、千円の値打ちは下がって昔は五百円で家が一軒建てられたというのに、今では反物一反にも足らぬものとなった。貯蓄の美徳の骨の髄まで染み込んだ耕作は深い失望をなめさせられた。供出供出と政府の奨励に乗ってまずい屑米は家用にし、六十俵あまりを供出し村から表彰された事もあった。村人の中には供出米を少しにして闇米を隠し、町から来る闇米買いに法外の値段で売って懐をこやす者もいた。耕作は正直の上に馬鹿がつくと女房のおたねに始終言われる程、一こくな所があって決して曲がった事はしなかった。それよりも人の倍働いてそれだけの償いを得る事のほうが、後ろめたい思いをするよりよほど気楽に思われた。

 

 良太も二十四歳の青年になった。耕作の望みどおり農家の跡取りとして農業高校を終えて今では耕作の片腕というよりは主になって農業に励んでいた。新しい農業経営に抱負を持ち色々な面で改良しようと意欲に燃えていた。おたねが腰の痛みを訴えだして手不足となった耕作の家では、耕運機を買い除草機、籾すり機、脱穀機を買い入れて手不足を補うようになった。若い息子の進歩的なやり方に耕作は満足し大いに期待をかけた。機械の操作に余念のない良太の姿に、今までの苦労が報いられた思いで耕作は目を細めた。腰が曲がって、たださえ低い背が丸くなったおたねも、満足気に耕作と目を見合わせていた。祖母のきくが長い労苦と忍従の一生を終わって息を引き取ってから十年が経っていた。

 漸く耕作一家に春が訪れたと思われ良太も二十四、手のない耕作の家ではそろそろ嫁をと考え始めた頃、思いもよらぬ難関にぶちあたった。農家へ嫁ぐ娘は殆どいなかったのである。村の娘たちは町の商店に店員として勤めたり、洋裁店に見習いとして住み込んだり、高校を出た娘は町の工場の事務員になったり、果ては東京の会社のお茶くみ事務員として都会に憧れて出ていった。テレビや映画で見婦人雑誌に見る若い女性たちの派手ばでしい化粧や、服装、マニュキュアーした白い手、レジャーに明け暮れているかに思える都会の女達の姿は、農村の娘達を都会へ都会へと憧れ出る吸引力となっていた。村の娘達は母や姉たちの泥にまみれ田畑の仕事に追われ、育児と家事労働に精根を使い果たしている日々を、見飽きるほど見ていた。日に焼け深い皺のよった皮膚、睡眠不足に赤くただれた目、絶え間なく聞かされる嘆きと愚痴、たとえ口には出さずとも村の老婆や主婦たち嫁たちの嘆き苦しみは、青い炎のように声なき声として若い娘達に感じ取られていた。徳右衛門のきくも十五の年に嫁いで十年、子がなくその間、村一番の気むずかしやの舅、姑に仕え、負け嫌いの姑は村一番早く起きないと不機嫌で、一日中口を利いてくれなかった話、田畑へ出てもちょっとでも腰を伸ばして手を休めると、舅に「横着もの」と怒鳴られ、すすぎ洗濯は人の休んでいる間にやり、夕方は足元が見えなくなるまで働き、帰って夕食の支度、夕食後は又むしろ織りを晩くまでやったという述懐や、乳飲み子が後を追うので柱に帯で括って畑に出た若い母親の話、粗食で栄養失調のため田の中に倒れるまで働き、とうとう実家に帰された若い嫁の話。折々に語られる女たちの耐えてきた苦しみは、深く折れ曲がった腰、大きな松のこぶのように曲がったまま伸びない指、外向きに開いて、あひるのように無様に歩く足つきに深い痕跡を残していた。

 

 おたねは娘たちの行き先や動向に注意深く目を止め、村に居残っていた娘に嫁にほしいと申しいれた。親たちは

 「とても俺が娘はずつなし(意気地なし)で百姓仕事はおいねえとって家の百姓仕事もやんねえだ、洋裁でもやりてやと町の友達のとこさ行くさんだんをしているだあよ」

 「俺がんの娘はパアーマ屋になりてやと、どうしてもきかねやから東京のおばさんに頼んで、この秋が終わったら行く事になってるだあよ」と、ていよく断られ困惑と憤りを感じて帰ってきた。二昔前では田植え時や秋の穫り入れ時には紺の野良着も初々しく赤いたすきを掛けた娘達が、健康そうな頬を輝かして村々の田に畑にピチピチと働いていた姿は今は見られなくなっていた。

 盆や正月には都会風に毛を染め、かかとの高い靴を履きスウツケースを持った娘が家いえの槙の垣根や藁葺きの家へ入って行くのを見かけた。

 「村中の娘たちゃどこへ行っただか、ほんとうに影も見えねえ、高校生や中学生ではおえねえし、あきれけえったもんだ」

 おたねは腰を伸ばし伸ばし鬱憤を耕作にぶちまけた、

 「世が変わったなあ、むかしゃ百姓の跡取り息子にや嫁ごの来てがあってあってよりどりみどりだったけん、えれえこっちゃ」

 耕作は二十年前、長男の庄吉が兵隊から戻った時、娘を貰ってくれと村中からいくつとなく話しを持ち込まれて、思案にあまった事や、町から弓枝を連れて来た時のがっかりした事など、思い合わせて腕を組んで思案に耽った。

 嫁がなくて困っているのは耕作の家ばかりではなかった。殆ど村中の跡取り息子が嫁いで来てくれ手のない毎日を、暗い気持ちで送っていた。息子や若い娘を持つ母親は、息子には働き者の嫁が欲しいと願い、娘は百姓にはやりたくない、都会の勤め人に嫁がせてふわりと暮らさせたいと願っていた。母親たちの心の内では我が娘だけは、自分の経てきた道は踏ませたくない親心が、娘は意気地無しだの体が弱くて百姓にはむかないのという言い訳の裏に隠されていた。

 良太の学校時代の恩師に頼み込んだり親類に頼んだり、おたねがやっきになって奔走した甲斐あって、有力な話が持ち上がって耕作を喜ばした。遠縁の娘で高校を卒業して町に洋裁を習いに行っているという二十歳の娘であった。話が進んで結納に今一歩という時に先方から断りが来た。四つ違いはヨメといって年回りが悪いという理由であった。耕作は落胆、おたねは憤慨した。諦めきれないおたねは

 「年回りなどいっこう気にしないから是非、来て欲しい」

 と頼み込んだ。

 「年回りが悪いと後まで悪い事が残るから、この話は無かったものとして欲しい、それに方角も悪い」

 と使い物の白砂糖の包みを返してよこした。

 「ふん、何とかかんとか言訳つけてよ、徳右衛門には鬼みてえな姑ばばあが居るとでも、告げ口したもんでもあんだっぺ」

 おたねはその夜、興奮で眠られなかった。襖を隔てた六畳の間では昼間の疲れでぐっすりと寝込んだ良太の鼾が聞こえていた。

 嫁取り話しも途絶えたまま朝に夕にと、田畑の仕事は絶え間なく耕作親子を追いかけていた。

 

 米作りだけでは年収は五、六十万たらず、豊年でも僅か上回る程度で、肥料や農機具、税金、付き合いにと出費する金を引くと、ゆとりの残らない農家の経済を改善するために、良太はビニール栽培を計画した。一町二反あまりの田と僅かばかりの畑でさえ手の回らぬものを、この上、手の掛かるビニール栽培にはと耕作は首をひねった。しかし働いても働いても楽にはならない今までの経営法に、疑問を感じている耕作は思い切って賛成した。良太は学校で習った知識と農業指導員の指導を取り入れビニール栽培に取り掛かった。

 初めて自分で経営する農法であり、自分の指図で父も母も働いてくれる張りと抱負で良太は、朝早くから日の暮れるまでハウスの中で立ち働いた。今まで秋の穫り入れ後、麦や菜種の裏作で僅かに収入を得ていたが、これらは殆ど手は掛からなかった。

 ビニールハウスは一日として手を離す事はできなかった。トマトの種を蒔き三十五日程で第一回の移植をし、それから又三十日程して第二回目の移植、ぎざぎざした本葉が三枚程出る頃には定植しなければならなかった。とくに寒さに弱いため十二月になるとビニールのトンネルを二重にし、霜の降りる頃にはその上に一枚一枚菰を掛けるのだった。十メートル程のハウスが五棟建てられた。そのハウスの中で耕作と良太は終日働いていた。丹精の甲斐あって一月の始めには黄色い星のような花がボチボチ咲き始めた。ひと月もたつと又二段目の花が咲いた。一月の半ばというのにハウスの中は春のように暖かく、ハウスいっぱいに植えられたトマトの葉の生気で、むんむんする程で背中や手が汗ばんでくる。何百何十という可憐な花を一つ一つ手のひらに受けて、霧吹きからトマトトーンというホルモン剤を吹きかけてやるのである。受精させ実を結ばせるためだ。

 ハウスの外は日は照っているが北風が吹き通ってヒュウヒュウと音を立てていた。枯れた稲の切り株が固く凍って、畦道には枯れ草が、とじくさった白髪のように乱れ萎えている。水の細った河原のへりの篠笹の藪が北風の吹き通るたびに、折れんばかり腰を曲げては又跳ね返し、そのたびにごうごうと鳴っていた。黒い頭巾をとっぷりと被り背負い籠を負った農婦が、前垂れをはためかせながら身を縮めるようにハウスの脇の道を通って行った。

 良太は小さな花びらを押し開くようにして噴霧器から、トーンの液をしゅつと吹き込んでやりながら、受精と言うことを考えていた。

 学校で保健の時間に学んだ精子と卵子の結合や受精の事など考えている内に、まだ触れてみた事もない女の体についてあれこれ思いめぐらせていた。結婚の初夜の営みについて書かれてあった婦人雑誌の記事、露骨な村人の男女の結びつきの話、夜這いに行って女の股ぐらに足を入れた時の事を、とくとくと語った忠平衛の話、それからそれへと思い及ぶと、体がジイーンと痺れるようなもどかしさと、焦燥を感じて息苦しくさえなった。良太は一きわ大きく咲いた花を一本ぐいっと手につまみ上げると、ポキリと枝が折れて花が千切れてしまった。「畜生」と地面に叩きつけると地下足袋で踏みにじってしまった。

 二月下旬の特に寒い日は暖房機を入れなければならなかった。冷えのひどい日は零下七、八度に下る日もまれではなかった。トマトの敵は寒さばかりではなかった。高温多湿のために広がる疫病で、この疫病は葉や茎に入ってまたたく間に広がり、一週間も知らずに放置して全滅の憂き目にあった農家もあった。この疫病というのは葉に斑点が広がり茶色く茹でたような葉になってしまう。こんな傾向が少しでも見られるとマンネブダイセンという薬を、まんべんなくかけてやるのである。ハウスの手入れはそればかりではなかった。ビニールのおおいを朝早くあけて、夕方三、四時頃には温度が冷めないうちに手早く閉め、菰も一枚一枚掛けたりはずしたりして廻るのである。これは一日でもかかせぬ仕事で腰も足も萎え、くたくたになる頃夕飯になり一日の仕事が終わるのである。

 この春しつらえたタイル張りの湯ぶねに浸り、テレビの前に座る頃は耕作はさかんに居眠りの船を漕ぎ始める。

 「お父っつあん、湯ざめするから早く寝らっせいよ」

 おたねの甲高い声に目をこすりながら床に這い込むと、三十秒とたたずにごうごうと高鼾で寝入るのが耕作の毎日の習慣であった。

 

 三月のまだ田仕事には間のある頃、村の保健所から医師がやって来て無料検診が行われた。七十を超えた耕作は時折骨や手足の痛みを洩らしたが仕事を休んだ日は一日もなかった。おたねが検診に行く事を耕作にすすめた。

 「ああんが、俺あどこもあんともねえ、飯も旨えし気分もいい、そんな暇つぶすより仕事だ仕事だ」

 と畑に飛び出そうとするのをおたねがおさえ、

 「いくら丈夫だって不死身じゃあねえだから、ただで診てくれるちゅうに診てもらわっせえ」

 と言うと、ようやく耕作は家に入りおたねの出した小綺麗な下着に着替えて診療所に向かった。それから一週間程して耕作がそろそろ春の準備に田廻りに出掛けようとすると、有線電話がなって役場から連絡があった。検診の結果について診療所まで来るようにとの事であった。電話を受けるとおたねは

「お父っつあん、どこかあんべい悪いって事かもしんねえよ、早く行ってきさっせい」

 と戸の外まで歩き出した耕作を呼び戻して診療所に向かわせた。帰ってからの話ではレントゲンの写真に解せない所があるから、T市の大学病院で精密検査を受けるようにとの事であった。こうして村を立って長男庄吉の家を訪れたのであった。医師の診断は耕作には言わなかったが肺癌という事であった。病名は言わず即刻手術するようにと医師は勧めた。耕作は受付なかった。

 「こんなにピンピンしておまんまも旨えし、どこもあんともねえ、切る事は、真っ平だ」

医師は叱り付けるように

 「このまま放っておくと大変な事になる、家の者と相談してすぐ手術するように」

 が耕作は意地になって手術を拒んだ。

 「手術したってこの年になるだもん、体が持たねえに決まっている。痛え思いするよりもこのまま放っておいて貰いてえ」

 耕作の強情に医師も憤りの目を向けながら黙ってしまった。

 耕作は庄吉夫婦にも告げずに村の我が家に帰ってしまった。おたねと良太は思案のあまり町の庄吉に手紙を出して相談を掛けた。返事は、無理に手術してもあの年では果たして治るかどうか分からないから、本人の嫌がるものは無理に勧めかねる、というものであった。

 おたねも良太も不安な気持ちで耕作に対したが、耕作の一日は以前と変わりなかった。

 

 厳しかった峰岡おろしがふと途絶えて山の頂にふわりと綿雲が浮かぶ日が四、五日も続く頃になると苗代作りの時期がやってくる。耕作親子は終日、田をうない水を張り肥料を撒き苗代作りに余念がなかった。腰の曲がったおたねはもう遠くの田へは行かず、家の前のハウスの世話に手いっぱいで、終日その小さな体をくりくりと動かしていた。種を蒔いた苗代に緑のビロードをはったように芽が出始めると、畦道を流れる小溝に目だかが浮き、真っ黒く小さなおたまじゃくしが群れ出る頃になると、まだ鋤き起こされない田に、れんげ草が咲き裏作の菜の花は日ましに伸びて、もんしろ蝶が狂ったように踊っていた。

 いよいよ田植えの時期がやって来た。農繁期は過労のため四キロも痩せるといわれるが、耕作も手不足のため無理をして働いた。どんなに忙しくても人手を借りる事は今では困難な事であった。皆どこの家でも我が家の仕事に追われ、他人の家を助けてくれる者はいなかった。若い娘たちは都会に行き、次男三男も職を求めて町へと出て行った。あとは老人と子どもと跡取りの若い農夫だけといった家が多くなっていた。若し無理に頼むと町から一度も田に入った事のない内職がてらのかみさんや、仕事のない男たちがやってきて二千円近くの手間賃を取り、昼飯をたらふく食べ、のろのろと不手際に植えていくばかりであった。そうした煩わしさからここ数年、耕作は人手は借りなかった。そんな中で耕作親子は腰の曲がったおたねも含めて三人で必死になって植え続けた。

 天秤棒の先にぶらさがっている二つの竹籠に苗をこぼれる程積んだ耕作が、畦を歩いていると畦の一角が崩れて耕作は倒れた。その拍子に足首を捻挫したと見えてしばらく動けなかった。年のせいだと耕作は笑っていたが、おたねと良太は思わず目を見合わせた。二人の頭に暗い予感が走った。目に見えて耕作が痩せてきた事を認めあいながらどちらからも口には出さなかった。

 どうにか田植えも人並みに植え終わって耕作親子はほっとした。やがておびただしい雑草の猛威を防ぐために、除草剤を撒かねばならなかった。程よい温度とこやしに恵まれた田は稲だけの良い温床ではなかった。浮き草や稗、その他さまざまな雑草がはびこる場でもあった。一昔前までは除草剤もなく除草機もないままに、暑い日盛りに汗をポタポタ落とし、尖った稲の穂に目を突かれながら田の草取りをしなければならなかった。

 

 この年は四月の終わりにほんの一週間程、雨が降り続いたきり雨らしい雨は殆ど無かった。一斉に田植えはしたもののその後の晴天続きで、苗の付きが良くないのではないかと村人は頭を悩ました。植え付けてから二十日から二十五日くらいは、たっぷり水がないと苗の根付きが悪いのである。来る日も来る日も雨は一滴も落ちてこなかった。峰岡山の頂に雲が湧き出ると、あの雲が広がって雨を降らしてくれないかと、僅かの期待をかけて村人たちは日に何度となく空を仰いで嘆息した。こうした村人たちの心痛をよそにカンカン照りの太陽は村むらを見下ろしていた。

 耕作の家の田も、顔を腫れぼったくして植えた稲が、日増しに生気を落として緑の葉が白けかかっているのを、田廻りから帰った良太が告げた。二十日経っても一月近く経っても雨は落ちなかった。山から引いている用水路の水も痩せて、チョロチョロという程の流れになっていた。隣の村では山の上で大太鼓を打ち鳴らし雨乞いをやったと噂された。耕作は水が欲しい欲しいと夢にまで見るようになった。同じ思いは村人たちも同様であった。人々の目は血走り日ましに怒りっぽくなっていた。遂に用水路の水も尽きて一滴の水も田に入れる事が出来なくなった。田は容赦なくひび割れて村人たちは争って河原にポンプを据えつけて、終日水汲みをするようになった。長いホースを通して自分の田に水を引くために皆、血まなこになっていた。昨日も伝兵衛の跡取り息子の正太と孫右衛門の息子の守が、川べりの一番水の溜まっている場所を取り合って、顔を真っ赤にしながら罵声を浴びせ合っていた。

 ひと月以上も続く日でりに畑の茄子や胡瓜もすっかり元気をなくしていた。耕作の田も川から水を揚げる事になった。良太は家から一番近くて深い淵になっている猿が淵から水を揚げるために、朝からポンプを河原のふちに据え付けた。水の減った川は白ちゃけた石がごろごろ転がっていた。良太が発動機をまわし始めると、どっどっどどと快い響きを立てて取り付けられた管から水が噴出して、乾いた田の土を濡らし始めた。ピタピタと乾いた土にあたる水もやがて溜まってくると、ひょうひょうというさわやかな音となって、田へ流れ込んで行った。麦わら帽を被って真っ黒に日焼けした良太の目は水の動きを注意深く見つめながら、炎天に立ちつくしていた。

 その宵、耕作は地区の寄り合いで助右衛門の家に行った。水不足についての相談であった。このままで行くと旱魃のため村中の稲が全滅するという事で、緊急に地区の主立った者が集められた。会議の結果、どうしても山の中腹にある隣村の白滝ダムから水を引かせて貰うより手立ては無い、という意見であった。隣村でも日でりではあったが、土地が低いため比較的被害は小規模であり、十数年前に川を堰き止めて作った白滝ダムのお陰で旱魃の被害は免れていた。現状を訴え何らかの交換条件を出して、水を廻して貰う事で会議は終わった。

 会が終わって耕作はしばらく振りで助右衛門のあるじの茂作と酒を飲んだ。二人は幼馴染で同年であった。耕作は何年振りに杯を手にしていささか酔った。幼友達にそそのかされて飲んだ酒は心地よく、飲めば又さらに気が大きくなって耕作はだんだん陽気になった。

 「耕作父っつあんよ、はあ、いい年しておっかあに気兼ねばあししてねえで、晩酌の一ぺえもやらっせい、晩酌は体にもいいだ」

 茂作のすすめに耕作は益々機嫌良く、冗談を飛ばしてよく笑った。

 家に帰った耕作は良太がまだ水番をしていると聞いて、交代しようと言い出した。おたねは珍しく酔って帰った耕作にびっくりした。その体ではとても無理だと気遣うおたねに、酔いざましには持って来いだと言って耕作は川に向かい、少しふらつく足で畦道を歩いて行った。真っ暗に静もりかえった山の中腹には時折、灯りがちらちらと揺らいでいた。ひんやりと快い風が耕作の頬を撫でて行く。一日中水番をしていた良太と交代すると耕作は草むらに腰を下ろした。振り仰いだ夜空は澄み渡って天の川が白く帯のように流れていた。

 ジジッと時折、地虫が鳴いてかすかに草の揺れる音まで聞こえる。

 耕作は草の上に仰向けになった。庄吉を身籠った若い妻のすみと語らったのも、こんな静かな夜だったと思った。五十余年も前のあの夜が、つい今さっきの事のように思えて、恥じらいを含んだすみの優しい声まで、耳もとに聞こえるように思えた。耕作は草の上で何時の間にか寝込み高い鼾が闇に広がった。

 カタンと鋼のきしむような音に目を覚ました耕作は、寝ぼけた目をポンプの方に向けると真っ黒な人影が今、ポンプの口の向きを変えて、水の出口の方向を変えようとしているところだった。跳ね起きた耕作が

 「泥棒」と叫ぶと同時に男に飛びついていった。頑丈な黒い影の男は耕作をはね返すと、とっさに背を向けて走り出した。

 「水泥棒、このぬすっとめ、名をあかせ」

 耕作がなおも追いかけると黒い影は振り向き、太い棍棒のような物で力いっぱい耕作の頭を打った。ジーンと頭が痺れた耕作は目がくらんでどうっと倒れた。狂ったように黒い影の男は更に一撃、二撃、力いっぱい耕作を殴りつけると素早く闇に姿を消した。手足をひくひく痙攣させていた耕作の体は、やがてぐったりと動かなくなった。

 夜露がしっとりと降りて錐のように尖った稲の葉の一枚一枚が真珠のように光り、河原から飛び立った蛍が青い光の尾を引いて耕作の頭の上を流れて行った。

 

 峰岡山の頂が赤く色づいて夜が明け染めると、朝靄が田の面を包んで辺り一めん乳色に煙っていた。露に濡れた畦の草むらに耕作の冷たい体は横たわっていた。開いた口から血が流れて草むらを赤く染めていた。

 七十余年の労苦の褒章として耕作に今、静かな死が訪れた。節くれた手の投げ出されている傍らに、露草が深い藍をたたえて咲いていた。七十数年前、畦に捨てられていた赤子の傍らに咲いていたその花が。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2004/02/25

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志賀 葉子

シガ ヨウコ
しが ようこ 小説家 1921年 千葉県に生まれる。「つらつら椿」により日本文芸大賞女流文学賞受賞。

掲載作は、2004(平成16)年1月10日刊「旗」42号に初出掲載。