もう一度人類のルネサンスへ一歩踏み出そう
あの第2次大戦中、小生は今の高校生の年頃で、旧制中学校は全部閉鎖、学徒動員されて名古屋の三菱の工場で飛行機の発動機に使う鋳物を造っていました。来る日も来る日も土煙の出る薄暗い工場の片隅で、休み時間中に級友の南谷君が「阿部君よ、おれたちは後2年の命だよな。どうせ中国大陸に行くか、南方に送られて生きては帰ってこられないだろうな。どうだ、死ぬ時にあれだけ本を讀んだから、もう心残りはないというくらい本を讀もうじゃないか」と話し掛けてきました。
本の好きな小生は「そいつはいい考えだ。仲間をあつめよう」と承知して、早速5名ぐらいの級友で読書クラブみたいなものをつくりました。そして決めた規則が「1日岩波文庫(星一つ)を1冊以上讀むこと」でした。できるだけみんなの本を貸しあっていたのですが、当時名古屋の栄町の古本屋に行けば、岩波文庫は、1円も出せば5冊ぐらいは買えました。
そして、工場での昼休みはもちろん、朝と午後の15分の小休憩の時間も待ち遠しく、防空壕の中で、こぼれ陽光を本に当てて、蚕が桑の葉を齧るように貪り讀みました。
万葉集、古今和歌集、源実朝の歌集、与謝野晶子歌集、晶子訳の『源氏物語』、伊藤左千夫らのアララギ派の歌集、若山牧水、藤村、白秋らの新体詩、近松、西鶴の物語り、樋口一葉、漱石、鴎外、有島武郎、倉田百三の「出家とその弟子」藤村の「破戒」から、モッパーサン、トマス・ハーディ、トルストイ、ゴル−キー、ゲーテの「若きエルテルの悩み」、矢田挿雲の「太閤記」、吉川英治の「宮本武蔵」、そのうちに当時の旧制高等学校の読書の指針とされた河合栄治郎の「学生と読書」に推薦図書とされていた西田幾多郎の「善の研究」、三木清の「哲学入門」、ダンテの「神曲」、ゲーテの「ファウスト」(もっともこの2冊は全部はとても読めなかったのですが)など讀むようになりました。
そして夜勤の時は、みんなで大正、昭和の名曲といわれている歌を歌いました。
昼間雪の中の軍事訓練の時は、三八銃を肩に担いで、繊維で出来た孔の開いた靴をはき、「日本男児と生まれきて、戦さの
勿論、こんな唄を歌っていることが配属将校や三菱の勤労課の課員に見つかれば、往復ビンタを食らわされたでしょう。
こんなこともありました。
昭和19年も終わりに近づくと、一年うえの上級生や、特別幹部候補生とか、少年航空兵を志願した級友などの出陣を祝う壮行会を、工場の片隅で月に2回程開くようになりました。
みんな名残りを惜しんで知っている軍歌をできるだけ合唱したのですが、とうとう歌も尽きてしまい、誰かが、「富士の白雪やノーエ、富士のサイサイ」と「ノーエ節」を歌い出しました。そして唄が「三島女郎衆はノーエ、三島女郎衆はお化粧が長い」という下りまできた時、工場の勤労課の課員が、着剣した配属将校とともに血相変えて飛んできて、「君たち、歌うのを止めろ!」と怒鳴り付けました。将校は真っ青な顔をして「前途ある君たち青年が、時局柄もわきまえず、女郎の唄を歌うとは何ごとぞ!」と訓戒しました。
正直いって16才ぐらいの小生には、女郎とはどんな職業等よく分かっていなかったのです。
女郎の話しがでたついでに、いままで誰にもいわなかった秘話を一つ披露します。あの頃の生き証人として。
小生が働く工場に一人の上級生がいました。年は一つしか違わないのですが、もう5つも6つも年上のように老けた感じの上級生でした。不思議なことに級友らしい友だちは一人もいないようでした。時々、年輩の配属将校がきて、上級生(名前は思い出せない)に「元気でやっているか」と声をかけると「ええ、」と寂し気に答えるのみでした。
小生とは何となく気が合うのか、ある時「阿部君、今度の日曜に家においでよ。君の好きな本もあるよ」と誘ってくれました。確か、鶴舞公園の近くの立派な家でした。
「君に聞いてもらおうというレコードがあるよ」と言いつつ彼は、蓄音機のゼンマイを巻き、当時は蓄音機の針は竹製であったのに、特別金属製の針を使ってベートーベンの交響楽を聴かせてくれました。その金属の針を押し頂くようにレコードに落とした時の光景がまざまざと甦ってきます。出征した兄さんの蔵書の中から数冊貴重な本を借りることが出来ました。
そして、家を出て、公園のベンチに座った時、小生は彼に「先輩はどうして友だちがいないんですか。いつもどうしてそんなに寂しそうですか」と尋ねました。彼は、一息ついてから、話し出しました。
「阿部君、実は俺は学校で要注意人物とされているのだよ。それは、俺がたった一人の兄の出征の夜寂しくなって、つい親類の叔父貴と一諸に、港区の遊郭に行ってしまい、それが学校に通報されて、学校は俺にクラスの誰とも口を聴かないという罰をかしたのだよ」
厳しい軍国主義の日本では、彼の行為は、学生にあるまじき非国民として一般学生から隔離させられていたのでした。
今、日本で、軍靴の響きが少しづつ高まろうとしている時、たった一度の過ち(果して罪だったろうか?)のため、青春を閉ざされた先輩の寂しそうな顔がおぼろげながら浮んで来る。
さて話は大分脱線してしまったので、本論に戻すと、夢中になって耽読した読書のお陰で、私が掴んだ結論は、人間とは素晴しい存在だということであった。数々の古典の中に描かれた人間賛歌のヒューマニズムは、私にとっては夜空に輝く銀河、アンドレメダであった。それは、私の心の中で、永遠に尽きることのないラジュウムとなった。
しかし、好事魔多しとは世の習い。19年の冬の昼休みに、「阿部、いい話しを聞かせてやるから一緒に来い」と1年うえの意地の悪い先輩に誘われました。そしてその時に聞かせられた話は、わが生涯で一番衝撃的な話しでした。
「阿部、お前はこの戦争が大東亜の解放だの、聖戦などいっているけど、それはみんなうそっぱちなのだ。俺の兄貴が先日北支から帰ってきたが、日本の兵隊が向こうでどんなことをしているか、よく聞いておけ。」と日本の軍隊が、「中国民衆の家を襲い、物を強奪し、婦女を樹に縛り付けて、輪姦した挙げ句に銃剣で刺し殺してしまうんだ。・・・」と、後から後から、耳を覆いたくなる話をまくしたてた。彼は、小生が夢中になって読書に明け暮れ、またいっぱしの模範的軍国少年に思えたので、その迷妄を覚まし、苦しませてやろうという魂胆であったようだった。
小生にとっては、女性とは、源氏物語とか近松の浄瑠璃、あるいはゲーテの「ウエルテルの悩み」に出て来る清純な存在に思っていた。それがこともあろうに、信頼していた日本軍の獣性の餌食にされるなんて。(もっとも日本の兵士一人ひとりが、一銭五厘の赤紙で強制的に動員された犠牲者だったことを知ったのは、戦後でした)。
その時受けた小生の驚きは、今回の世界貿易センターの爆破事件から受けた衝撃よりも何百倍も深刻で、今まで明るかった青空が突如真っ黒な暗雲に変わり、自分の立っている大地が裂けて、我が身が奈落の底に、まっ逆さまに落とされていくという恐怖でした。
ただ、こうした劇的な精神的な打撃によって、小生ももうひたむきな軍国少年は卒業しました。そして、その時受けた心の傷も、古典の名作を読みふけることによって次第に癒されていきました。
そして20年の春の日曜に、例によって数冊の本を自転車の後ろにくくりつけ土筆が生え始めた庄内川の土手(かつて豊臣秀吉が日吉丸時代に駆けまわったところ)で本を讀み始めました。
その時、天啓であろうか、小生は「一体何故、人間はこんなに素晴しい文化を築いてきたのに、こんなに愚かしい戦争なぞするのか! 何故おれたちが中国人を殺さなくてはならないんだ!」と叫び出したのを覚えています。
それは、ひたむきな愛国心が裏切られた悔しさと同時に、人間の素晴しさを小生なりに把握できた喜びがぶつかりあった劇的瞬間であったと思う。
もう今年2002年の5月が来れば、小生も暦の上では74歳になる。しかし気持ちは、あの庄内川の土手で叫んだ「人間がこんなに素晴しい文化を築いて来たのに、こんな愚かしい戦争を何故するのか!」という気持ちは、ちっとも変わっていない。
「人間万事塞翁が馬」「災い転じて福となす」というではないか。
あの連続テロ事件を機に、われわれはもっと広い世界を知ろう、そして様々な国の人びとが、それぞれ、苛酷な境遇にもめげず、人間的な生活を営み、恋をし、家族を愛し、少しでもよりよい明日へと懸命に働いていることを知ろう。
昨年の池田香代子さんの「世界がもし100人の村だったら」(マガジン・ハウス)は、この宇宙船地球号には、様々な人々が様々な生活を営んで生きていることを多くの人に知らせる扉となった。ぼろは着てても心は錦の人々が世界にはわんさといる。
一方、立派な背広を着こなして、大型車にふんぞり返っている一見紳士風の指導者でも、フランケンシュタイン顔負けの怪物もいる。
今年こそ、人類が本当に人間としてのルネサンスを実現できるか、もう一度おろかな殺戮の道を突っ走るかの大きな節目に立っていると思う。
小生は今、某出版社の依頼を受けて、『激動するアラブ中東と日本の進路』といった本の最終原稿に没頭しています。アラブ諸国を51回駆け回った経験者として多くのことを知らせるメッセンジャーとしてこれからも発言を続けていきたいと思う。やりたいことは山ほどあり、その幾つかは実現しなければ死ねないと言う思いです。
皆さんからの感想など頂けば幸いです。(2002・1・17 寄稿)
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2002/01/24
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