最初へ

バグダードとメソポタミア

  平和の都・バグダードそぞろ歩き

 アッバース王朝(七五○~一二五八)のカリフ、アブー・ジャーファル・アルーマンスールによって「平安の館」として建設されたバグダードは、建築の見地からも、科学と文学の遺産の見地からも、世界の中の最も重要な都市の一つである。 

 バグダードは、打ち続いた戦争にもかかわらず、アメリカの軍事的脅迫の最中にありながら、ここ数年の間に、様々な面で近代化を達成した。このことは、整備された道路網、公園など現(前)政権下で設立された、科学、芸術、文化のセンターなどの近代的建造物にはっきり表われている。近代的な大ホテルを初め、各種の観光施設のすべては、観光客に十分のサービスを提供している。

 

 一九九七年、バビロン国際音楽祭に大阪外国語大の助教授森高久実子さん(アラビア語、『アラビアン・ナイト』の研究)と御一緒した時にサダム・タワーの屋上の回転式のレストランで、ランチをとりながら、広大なバクダードを見下して、「なんと美しく平和な都市だこと」と話し合ったのを思い出す。

 そしてバグダードには見るべきところが無数にある。以下、そのめぼしい箇所に早速、案内したい。

 

  イラク古代博物館

 

 世界有数の考古学的博物館。先史時代から、イスラム王朝にいたる遺産が各文明史ごとのホールの中に分類陳列されている。古い歴史の好きな人には一日がかりで見ても見あきぬであろう。古代に周遊する思いがする。

 悠久の古代のメソポタミアからアラブ帝国に栄えた多くの諸民族と文化の記録所ともいうべきこの博物館は、先史時代、シュメール、アッカド、バビロニア、アッシリア、カルディア、セルコイド、ハトラ、ヒーラ、アラブ・イスラム時代の比類ない宝物によって、各時代に生きる人びとの生活をいきいきと伝える世界的に著名な博物館の一つである。

 また、古代史や各文明に関する様々な言語の出版物を備えた大きな図書館もある。

 

  バグダード風俗博物館

 

 約一○○年ほど前の伝統的な職業や民衆の風俗をユーモラスな人形で展示している博物館。急速に近代化してきたバグダードではそのほとんどが消えてしまいつつあるが、人々の風俗、心情を知るには格好の場所。東京の浅草の佇まいを伝える江東区の深川江戸資料館のようなものである。

 

  サダム美術センター

 

 東京の上野の国立近代美術館の規模に匹敵するほどの広さの新しい美術館。現代イラクの美術の動向を知る上で重要である。初代館長は、一九九三年のアメリカによるミサイル攻撃で爆死した著明な画家、ライラ・アッタール女史であった。

 

  料亭ハン・マルジャン(元隊商宿)

 

 ハン・マルジャンは、歴史の記念物であり、アミン・アルジャンによって建設された。一九三五年に再建され、今日では、バグダードの第一級のレストランとなっている。この建物は二階建てで、一階には二二の部屋、二階には、二三の部屋がある、一四メートルの高さのイラク唯一の屋根付きハンで、建築学的にも興味深い。

 地方で織られた絨毯や木の椅子、テーブルなどのイラク伝統の家具が備えつけられている。またナルギレス、サモワール、銅製のラッパが付いた古い蓄音機などが、このレストランで食事を楽しむ人々を、古老が古い時代を語るような雰囲気のなかにとけ込ませていく。

 

  カズマイン回教寺院

 

 バグダードの都心から北へ八キロ、チグリス川の西岸、カズマインに聳える壮麗な霊廟。祀られているのは、ムーサー・アルカージムと、その孫のムハマド・アルジャワード。八世紀から九世紀にかけてイスラームの指導者として生きた人物で、スンニー派(正続派)ではなくシーア派(異端派)の信者たちが崇拝する聖廟である。廟の起源は古いが、現在の建築の形が整ったのはだいたい十七世紀以後。十九世紀にはイランのカージャール朝の王により大改修が施された。

 二つのドームが二人のイマームを象徴している。背後の低いドームは付設のモスク。華やかな装飾は、金色の部分がメッキした銅板、モザイクの部分は彩釉タイルからできている。

 

  サダムタワー

 

 バグダードの中央部に聳える約一五〇メートルのタワー。その最上階にあるレストランで、イラクの料理を味わいながら、一時間で一回転する座席で、眼下に広がるバグダードの景観を満喫するのも懐かしい思いでとなろう。

 

  ムスタンシーリア学院

 

 アッバス王朝時代の第三七代カリフ・アルムスタンシール・ビラーハ(十二世紀第二四半期頃)の治世、六年がかりで建設された学院。最古の大学といわれるこの学院に納められていた三〇万冊の図書は、一二五八年バグダードに侵攻した蒙古軍により、その横を流れるチグリス川に投げ込まれ、三日三晩、図書のインクによって真っ黒に染まったという。

 

  中世の面影がただようスーク(市場)の賑わい

 

 大きなモスクの前には市場が広がっている。日本の門前市のようなものだ。狭い通路の両側に、布物、香料、金銀細工、金物などを商う店が軒を連ね、横道にそれるとまた色々な商いの店が立ち並んでいる。

 今日のような市場が出来上がるのは、おそらくアッバース朝の最盛期以降のことであろう。バグダードのショルジャなどの市場には、今日でも遠い昔の面影をどこかにそっと秘めているようである。迷路のような細い通路を入っていくと色々な伝統的、近代的な衣装やイラク独特の鄙びた紋様の絨毯を売る店が軒を並べている。掘り出し物「アラジンの魔法のランプ」に出会うのではないかという東洋的雰囲気が魅力的である。

 

  古本屋街の賑わい―本を読むのはイラク人

 

 バグダードには本屋が多い。老舗の本屋が並ぶサードン通りと、新興の書店がムッタナビ書店街にならんでいる。一般向きの雑誌、読物などを毎週金曜日に露天に広げる新興の書店は、ムッタナビ書店街で、神田の青空古本市のような雰囲気につつまれ、「本を書くのはエジプト人、印刷するのはレバノン人、本を読むのはイラク人」というアラブの諺を実感させられる光景であった。

 

  イラクの街頭美術館

 

 イラクの首都、バグダードを訪れ、市の中央を流れるチグリス川にかかる大橋を渡るたびに、筆者は、前方にそそり立つように姿を見せてくる『自由のモニュメント』の巨大な彫刻のレリーフ(横幅五〇メートル)に胸を打たれたものである。

 一九五八年の革命をなしとげたイラク人民の姿を見事に刻んだ、この一大レリーフを造ったジャワード・セリーム(一九一九~一九六〇年)は、四十一歳の若さで亡くなった。しかし、セリームなくしてはイラクの美術運動は数十年遅れたであろうと言われるほどの近代美術運動の先駆者であった。

 彼は、一九四四年にこう書き残している。

「イラクの美術家の第一の目標は、その本の挿し絵や建築のモチーフにおいて、 "アラブの芸術家による色彩豊かな夢" を再現することにあった。彼らは、古代メソポタミア粘土彫刻と、パリ、ローマ、ロンドンの美術学校で教えられた近代技法とを、なんとか調和させようと努めた。

 そこで彼らは、メソポタミア文明以来の知的伝統を発展させた新しい手法で、国民の生活を描くために、まず彼自身の国の文化の特徴を吸収することから始めねばならなかった。そのうえで、美術家たちは、現代思想と世界の芸術の潮流とも接触しつづけなければならなかった。

 今、十字路に立っているわれわれは、当面する仕事の中で、何がわれわれを結束させる独自の文明の要素であるかを見きわめねばならない。換言すれば、西洋芸術を学んだ経験とわれわれのもつ固有の気風とを融合させなければならない。われわれは、十三世紀のアルワスティあるいはアル・ラフダイン流派以来崩壊されたものを再建するだろう」。

 バグダードの市街には、『自由のモニュメント』以外にも、さながら街頭美術館ともいえる優れた現代彫刻家の手になる、数多くの近代彫刻群が立っている。

 最も有名な彫刻『アリババと四〇人の盗賊』は、サードン通りにある。作者は、モハメド・ガーニ。彼の『シャイアールとシェヘラザード』はアブ・ヌワース通りにある。

 アラブの盾を形づくる巨大なドーム『無名戦士の墓』は、ハリード・アル・ラハル作。パレスチナ通りの、巨大な二つに割れた桃の形をした『殉教者の墓』は、イスマイル・ファッタール(彫刻家)とサマン・アサド・カマル(建築家)の合作。施工は日本の企業である。

 酒杯を手にした詩人『アブ・ヌワース』の像のほか、『ヤヒヤ・アルワスティ』『アル・ファラビ』も建っている。

(なお、アブ・ヌワースというアッバス王朝時代の詩人の詩集を塙治夫氏が『アラブ飲酒詩選』として編訳したものが岩波文庫として出版されている)。

 イラク古代博物館の横では、ハーリッド・アルラハル作『前進』が人目を引く。バグダードを創立したカリフの『アル・マンスール』の像も、彼の作品である。

 

 

メソポタミア賛歌

  北の森と川の都 モースル

 

 バグダードから鉄道で或いは車で一〇時間ぐらい北上したところにある。道路は広いし、周辺の農村風景やユーフラテス川を観光するのに車の方が便利。この街には、ピザの斜塔のように傾斜した尖塔があるヌリド回教寺院や多数のキリスト教会、魅力的なスークなどがあるが、周辺には、ニムルド、ニネベなどのアッシリアの遺産を訪ねる考古学的遺跡の巡礼を楽しむこともできる。

 

  ニムルドの遺跡

 

 イラク北部の町、モースルのあたりには、紀元前八世紀頃から強大なアッシリア帝国があった。ニムルドは、そのアッシリアの第二番目の首都で、モースルから南東へ三七キロのなだらかな丘陵地にある。今、遺跡として残る宮殿や神殿は、アッシュール・バニバル(紀元前六六八年)が造ったもの。この王の時代は、フェニキアからシリア、パレスチナ、エジプトまでを支配し、アッシリアの最盛期だった。王は、各地から略奪した富を使って二万五〇〇〇平方メートルもの広大な宮殿を造り、無数の浮彫りと文字で飾り立てた。

 北西宮殿と呼ばれる王宮の門は、巨大な人面有翼獣の石像に護られている。その石像を仰いで王宮内へ入ると、王の権勢を物語る浮彫りやくさび形文字を刻んだ石壁がある。王への貢ぎ物を捧げる使者、神の保護を表現した有翼の天使像などが多数ある。当時の人々の服装や、装身具を知る上で、貴重である。

 王宮の裏手へ出ると、井戸の跡がある。イラク国立博物館にある『ライオンに噛まれたエチオピア人』や『ニムルドのモナリザ』と呼ばれる象牙細工の傑作等は、ここから発見された。

 しかし、栄華を誇ったアッシリアも、紀元前六一二年、新バビロニアとメディアの連合軍の前に滅んだ。

 

  東西貿易の要所ハトラ

 

 モースルから車で東南へ一五〇キロ、砂漠の中に突然湧いたといった感じで、白く輝く建物群が見えはじめる。メソポタミアとギリシャやローマを結ぶ交通路上に紀元前一世紀頃から栄えていた古い隊商都市の遺跡である。

 西アジアと地中海世界、両様式が混じった諸神殿がある。壁やアーチの彫刻や浮彫りも、東西双方の神話を反映する。文化の伝播と定着、そうした思いを旅人に与えてくれる。

 

  バビロンの栄華

 

 バビロンは、バグダードの南、九〇キロの地点にある。バビロンヘの道路は、バグダード・ヒッラ間の主要道路から少し支線に入る。バビロンは聖書にも書かれている世界最古の都市の一つで、その城壁と空中庭園は、古代世界の七不思議の一つであった。また、バビロンと他のメソポタミア時代の都市の主要な遺跡の模型を陳列する博物館がバビロンにある。

 

  東洋のベニス バスラ

 

 バスラは東洋のベニスと言われるようにゴンドラに似た船の通う水の都。

 チグリスとユーフラテスの両川が合流する町のクルナの近くにエデンの園があったという場所があり、アダムの樹も残っている。この地域はナツメヤシの、世界でもっとも繁茂した場所として名高い。イラク第二の都市バスラには、バグダードから鉄道でも航空機でも行ける。

 

  サマラの螺旋モスク

 

 渦を巻いて天へ伸びる不思議な螺旋形の尖塔(ミナレット)がある。バビロンの遺跡が明らかになるまで、旧約聖書に出てくるバベルの塔は、こんな形の塔だと信じられていた。この尖塔には、手すりが横についていないので、降りる時は、下から吹き上げてくる風のために塔から飛ばされてしまうのではないかとひやひやした。

 

  世界最古の街ウル

 

 ウルは世界最古の町。ここにはユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒の祖、アブラハムが生まれたところと言われている。ウル王朝は、紀元前二〇〇〇年ごろ滅び去った。しかし、聖塔や王墓に見られる彼らの文明は、後世の人間の営み、諸文化に与えた影響の強さを物語る。

 

  カルバラのフセイン・モスク

 

 カルバラに一歩踏み込むと、町全体に一種の熱気のようなものが満ちている。イラクだけではなく、イランやパキスタンからも熱心な信徒たちが訪れるからだ。金色の尖塔が聳えるモスクはフセインの大聖廟で、モハメッドの娘婿第四代カリフの次男フセインがこの地で殺され、シーア派の聖地となった。フセインとともに殉教した弟のアッバースの廟も近くにある。バクダードからは約一〇二キロ、鉄道も使えるがバスが便利。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2003/07/01

背景色の色

フォントの変更

  • 目に優しいモード
  • 標準モード

阿部 政雄

アベ マサオ
あべ まさお アラブ研究家・評論家 1928年 愛知県に生まれる。日本アラブ通信編集長 日本ペンクラブ国際委員

掲載作は、2003(平成15)年4月出帆新社刊『イラクとともに三〇年』より抄出。