最初へ

地方行政の達人(抄)

 序章 やれば出来ると思っていても……

  江戸川区ただひとりの名誉区民、そして「建区の父」

 

 この日も、朝からみぞれ混じりの泣き出しそうな空であった。

平成十三(二○○一)年一月二十六日午後、東京都江戸川区春江町三丁目、東京都立瑞江(みずえ)葬儀所の収納室には、八○名余りの人々が、それぞれの想いをこめて集まっていた。

 前夜の通夜は、折からの雪に見舞われて、凍るような寒さだった。数千の人々が、一時間以上も屋外で立ちすくみ、長蛇の列をつくって、焼香を待っている姿は、あまりにも強烈で、忘れることの出来ない光景であった。

 前江戸川区長、中里喜一の二十五日の通夜と二十六日の告別式は、江戸川区最南部の東葛西八丁目、平安祭典で執り行われた。

 そのひとの評価は、棺を蓋いて定まるというが、九十年に及んだこの人の人生は、これからどのように評価され、後世の人々に受け継がれていくのだろうか。

 その強烈な個性と行動力と指導力とで、六十四万区民を引っぱり続けて、今日の街づくりに成功した業績は、これから生まれて来る新しい世代の人々に、どんな利益をもたらして行くのだろうか。

 孫たちの時代に、江戸川区は、一体どのように夢のある地域になっているのだろうか。

 

「地方自治というのは、もっとも住民に近い政治です。住民との直接の信頼関係がなければ、何事も成立しません。僕は、江戸川区を地上の桃源郷のような場所にしたいんですよ」

「行政改革なんて、江戸川区は、三十年以上前からやっていますよ。今ごろになって国がいうのは、いかにも遅いですね」

「江戸川区開発公社は成功しましたよ。区が不動産業を始めたのかといわれましてね。全国に先がけて、あの公社を作っていなければ、区の施設建設は出来ませんでした。ひとに悪口をいわれても、思い切ってやるのが大切ですね」

「江戸川区の街づくりは、よくここまで出来たと思います。かなり無理なお願いもして歩きましたが、誠意を尽くせば、ひとは皆、対応してくれるんですね。やる気があるか、ないかの差なんです」

「僕は、叔父の民平の性質を受け継いだらしいですね。区長には向いていたんですかね。ひとには向き、不向きがあるんですよ」

 個人的に話す時には、「わたし」とはいわずに「僕」といっていた中里の顔は、話が江戸川区のことになると、いつも熱を帯びて青年のように若々しかった。

 あの人が、こんなに小さくなってしまったのか。長い箸で、真っ赤な骨をひとつひろいあげようとしたら、

「ぱしッ」と音がしてはねた。

 何か、怒られているのかな。気に入らないことがあるんだな。

 そう思って眺めていると、骨つぼが、みるみる一杯になっていき、どんよりとした暗い空の前庭の車寄せの方ヘ、人々は、ぞろぞろと出て行った。

 

 バブルが崩壊し、構造不況が続き、構造改革が遅れ、失業者が急増し、犯罪が増加し、同時多発テロが発生し、人心が動揺しているなかで、多くの自治体で、第三セクターの破綻が相次ぎ、その処理のために、厖大な税金が投入されて、国民の厳しい批判の対象にされている。

 その最大の原因は、当該自治体が一時の流行、風潮に乗じて、確たる成算もなく、事業に着手して、いわゆる「親方日の丸」的な感覚で、杜撰な経営、管理を続けた結果、巨額の不良債権を抱えてしまったためであった。

 

 平成十二(二○○○)年七月、私は中里区長の後継者である多田正見区長から、「江戸川区開発公社は、無事、その役割が終わったから、解散したいので、監事報告をしてください」といわれて、書類に記名捺印した。

 開発公社の理事長は、区長が兼ねていて、区代表監査委員である私が、監事に就任していたためであった。

「開発公社が、全て無傷で解散し、その仕事を、他の部署に引き継げることは、江戸川区の開発が成功したということであり、中里喜一前区長の大きな業績のひとつです」

 と、私は意見を申し添えた。

 同公社は昭和四十五年(一九七○)七月の発足以来、数え切れないほどの事業を完成させ、一円の債務もなしに解散することが出来た。これは稀有のことで、特筆に値する。

 江戸川区の存在が一躍、全国の自治体に広く知られるようになった端緒は、この開発公社の発足直後の昭和四十五年九月、中里区長が陣頭指揮を執って展開したいわゆる「ゴミ公害追放運動」である。意表を突いた道路封鎖は、一部から「強権発動」と非難されたが、中里区長は「区民のために、これは絶対に必要である」との信念を貫き、業者に区へのゴミ持ち込みを断念させた。

 

 ゴミ公害問題を見事に解決した中里区長は翌昭和四十六年三月、区民を悩ませ続けてきた「航空機騒音問題」と取り組み、当時の運輸省(現・国土交通省)との折衝に手腕を発揮し、紆余曲折の末に和解へと持ち込み、区民の負託に応えた。

 更に中里区長は昭和四十七年、「成田新幹線問題」をも解決に導いた。

 

 懸案となっていた「三大公害問題」を解決した中里区長は、それ以降、優れた先見性と独自のアイデアを武器に、「江戸川第一主義」に徹して、数多くの施策を推進させた。公選も含めて九期三十五年間、区長として江戸川区を発展させる原動力であり続け、「最も住みよい街」づくりに成功した中里は傑出したリーダーであり、地方自治体首長の鑑と言えよう。

 江戸川区に生まれ、こよなく江戸川区を愛し、その生涯を惜しみなく区政に捧げた中里は晩年、第一号で唯ひとりの「名誉区民」に選ばれ「建区の父」と称えられている。

 

 江戸川区長として、その存在感を全国の自治体に強く印象づけた中里喜一前区長が逝って一年有余、いま改めて彼の足跡を辿り、そこから多くの事を学び取り、それらを指針としたい。

 終始中里前区長の身近にいた私は、彼の生涯を多くの人に知っていただきたいとの思いから、このたび筆を執った次第である。

「やれば出来ると思っていても、誰もやらなきゃ何もない」

 まさに、創造力と実行力とに貫かれた、これは、「勇気ある男」の物語である。

 

 第1章 区長就任

  「雨が降っても、長靴を履かなくても済む」街づくり

 

 助役在任中、中川区長を補佐して革新的な区政を推進し、有能な行政マンぶりを発揮した中里喜一に、再び大きな転機が訪れた。

 中里助役に全幅の信頼感を寄せてきた中川喜久雄区長は、昭和三十八年十二月十七日、任期満了を機に引退することとなった。

 それを受けて、区議会の与党・自民党は、中里助役を区長候補に推した。が、党内から反対論が出て、それが派閥抗争に拍車をかけ「中里派」と「反中里派」に分裂した。俗に「三人旅は二人旅」と言われるように、人間社会、とりわけ政治家の派閥は避け難いとされている。その派閥争いの渦中に立たされた中里は、沈黙を守り通すなかで、

(もし区長に選任されたら、全身全霊を傾けて江戸川を発展させたい)

 と、秘かに期するものがあった。

「難産の子ほど良く育つって言うから、気にしなさんな」

 支持者からの慰めには、苦笑するしかなかった。自民党の反主流派、すなわち「反中里派」は、区長選出に際して議会の入口で実力行使に訴える、という挙に出た。宇田川政雄議長は、それを排除すべく警官を導入したが、混乱を収拾できず流会となった。このことはマスコミに報道されて、区民から、

「何て、みっともないことをやったんだ」

 と、厳しく批判され他区からは冷笑された。

 その後、区議会は全員協議会を開いて予備選挙を行い、中里は一票差で対立侯補に勝った。そして、昭和三十九年一月十七日に開かれた本会議で、自民党、公明党、民社党は全員一致で中里助役を区長に選出した。

 

 地方自治法施行後の四代目、江戸川区発足以後では十一代目に当たる。昭和五年に松江町役場に入り、戸籍係を振り出しに江戸川区の教育係長、教育課長、総務課長、葛西支所長、助役を経て、ついに区政のトップに立ったのである。選出されるまでの経緯が経緯だけに、喜びよりも責任感のほうが遥かに強かった。中里区長誕生に尽力した有力な区議会議員は、後年、

「区長は政治家にやらしたくない、というのが私の考えだった。政治家が区長をやっていると、いろいろな問題が発生しやすい。区長は行政マンから選ぶべきではないかと思った」

 と語っている。また、野党の区議会議員の一部は、中里助役の手腕力量を高く評価して新しい会派をつくり、中里助役を強く推したほどだった。一月二十日、職員に、

「就任に当たり私は、諸君とともに次の三点を信念として守りたいと思います。それは誠実と友愛、節度であります」

 と呼びかけた中里区長は、次の公約を掲げた。

「雨が降っても、長靴を履かなくても済む街づくり」

 

 次の句が示すように江戸川区には、大小無数の河川が縦横に流れていた。

 

  江戸川や月待ち宵の芒舟 一茶

  秋に添ふて行かばや末は小松川 芭蕉

  あちこちに分かるる水や村千鳥 荷風

 

 しかしながら昔からの水害地帯で、雨が隆る度に水びたしになるため、外出する住民は長靴を履かねばならない。

 そのことへの不満は強く、そのため「住みたくない街」の筆頭に挙げられていた。中里区長自身、物心のつく頃から水害に苦しめられてきただけに、この公約は必然的なものだった。

 中里区長は二月一日付の「区政のお知らせ」に、「当然のことでありますが、住民である皆様に密着した行政を進めたいということが、区長に就任した私の基本的な考え方であります」という一文を寄せた。

 最初に掲げた公約「雨が降っても、長靴を履かなくても済む街づくり」は、「住みよい街づくり」にほかならないが、それは一朝一夕で実現できるものではなく、緻密な長期計画の策定が必要だった。

 中里喜一が江戸川区長に就任した昭和三十九年の東京は、いわゆる「オリンピックブーム」に沸いていた。しかし、華やかなホテルや高速道路の建設は隅田川以西の区域に限られており、オリンピック知事と言われた東龍太郎都知事は、「隅田川以東の近代開発はオリンピック後」と公約していた。

 全ての区民が嘆くように、江戸川区は「雨が降れば長靴を履かねばならない」水害地域にもかかわらず、昭和三十年代の後半から始まった高度経済成長による人口増加に伴って、農耕地は宅地に転用され、中小企業の工場も年ごとに増えていった。

 こうして、昔から「東京の農村地帯」と言われてきた江戸川区は、急速に市街地化したが、貧弱な道路網と不十分な排水施設を放置したままの開発を続けることは、もはや許されなくなっていた。

 そこで中里区長は、「快適な都市の将来像を求め、区民と都議会、行政が一体となっての街づくり」を目指して昭和三十九年四月一日、区議会議員全員と石河昭英助役以下の九名の職員で構成される「江戸川区総合開発計画審議会」を設置した。会長には宇田川政雄区議会議長が就任し、土地利用部会と都市交通部会、生活環境部会の三部会が設けられた。

 この審議会に「江戸川区総合開発基本計画」に関する基本構想の作成を諮問し、続いて都市構造学の権威で東大工学部の八十島義之教授を訪ねて、総合的な開発計画の作成を依頼し快諾を得た。ほぼ一年後、八十島委員会から「江戸川区総合開発及び交通施設計画報告書」が中里区長に提出された。統計図表と構想図を含む三百七十ページに及ぶ報告書が描く江戸川区の将来像であった。

 

 江戸川区開発公社——もっとも光った政策

 

 昭和四十五年一月五日、中里区長は恒例の仕事始めに際して、職員への訓示の中で、

「行政は、人の着る着物と同じであります。体が成長して大きくなったら、着せるものも衣替えしなければなりません。育ってきた体に合うものを着せていかねばならないのです。袖丈も身幅も合わせていかねばなりません。また、批判のない人生は何もやらないことであり、批判のない人間とは何もしない人間のことです。何事でも百パーセントいいということは、ほとんどありません。十人のうち一人だけの批判でも、その声は強いのです。しかし、それを恐れていては何もできません。信念があるなら勇気をもって取り組む必要があります」

 と述べた。

 江戸川区の将来を拓く「江戸川区総合開発基本計面」の実施状況には満足しているけれど、区の施設を建設する用地のことを考えると焦らずにはいられなかった。同計画には四十八万平方メートルの用地取得が組み込まれているが、高度経済成長がもたらした地価の高騰は、大きな障害となるに相違なかった。

 都市化が急速に進んだ江戸川区の地価は、昭和三十年を基準にして、昭和四十年には平均上昇率は十三・四倍という異常さで、いわゆる「土地神話」が生まれ、土地は投機の対象にされかけていた。江戸川区は前年、用地特別会計をつくり、三億円余の資金を回転させつつ、土地の先行取得を行っているが、中里区長自身、それに満足していなかった。

(ぐずぐずしていたら、区が必要とする用地は、あらかた不動産会社に買い占められるんじゃないか……)

 一旦、不安に駆られると居ても立ってもいられなくなり、新しい方式を模索するようになった。予算案を作成し区議会の承認を得た上で、という方式では後手を踏む。苦しみを伴う模索が続き、暗いトンネルの中で立ち往生しているような気分にさせられた。

 窮すれば通ずで、ある日、ふと中里区長は、開発公社を設立し、そこに用地の先行取得をやらせることを思いついた。思い立ったが吉日と、すぐさま区長室に田中四郎助役と担当者らを呼んで、自分のアイデアを話し彼らの意見を求めた。

「まさに名案です」

「是非、それでやらせて下さい」

 彼らの賛同を得て、中里区長は実現へと動き出した。

 

 開発公社の設立には都知事の許可が必要だが、東京二十三区で開発公社を持つ区は一つもなく、江戸川区が初めてということになる。

 中里区長は、まず関係者を集めて次のような「財団法人江戸川区開発公社設立趣意書」を作成した。

「市街地化の進展、土地区画整理等の開発関連事業、さらに地価の急激な高騰という状況の中で、基幹的重点事業長期計画実現のため絶対的必要条件である用地を確保するためには、計画的、弾力的に先行取得する必要が痛感されるのであります。このような現状にもかかわらず、江戸川区の財政事情からして区独自の力で多くの財源を一時的に投入して、用地の先行取得を行うことは余りにも制約が多く、手を拱いているのが実情であります。そこで、事業の弾力性、効率性に着目し、民間資金の導入を図り、積極的、かつ円滑に開発事業を推進し、もって江戸川区総合開発基本構想の実現に努め、住民福祉の向上に寄与するため、財団法人江戸川区開発公社を設立するものであります」

 さっそく中里区長は、都庁へ出向いて担当者に、この設立趣意書を提出して設立認可を求めた。が、担当者の反応は冷ややかだった。

「前例がないので、認可できません」

“役人根性”丸出しの態度に中里区長は、かっとなったが、怒りを抑えて、

「前例にこだわっていたら、行政の進歩はありませんよ」

 と反論した。

 二人の間に押し問答が繰り返された。革新系と持て囃される美濃部亮吉知事のもとにも、この担当者のような職員は多かったのだ。担当者を飛び越えての交渉はルール違反になると、中里区長は、その後も、ひんぱんに都庁へ足を運び粘り強い折衝を続けた。開発公社を持つ自治体へ職員を派遣して、その事業内容を詳しく調査させもした。

 ここまで構想を進めた段階で断念することは、中里区長の行政マンとしてのプライドが許さなかった。「江戸川区のためなら一命を投げ出しても」の気概が、中里区長を突進させるのだ。不退転の決意を眉宇に刻み、時に鋭く攻撃し時に柔らかく説得し、それが功を奏して半年後、都の認可を得た。昭和四十五年七月十一日のことで、十五日に法人登記を済ませた。中里区長でなければ都の反対に屈して断念したか、あるいは設立は大幅に遅れたに違いない。

 

 中里区長のアイデアによって設立された江戸川区開発公社には、区から基本財産と運用財産がそれぞれ百万円、計二百万円が寄付された。運用資金としての借入れ限度額は、三十億円と決められた。

 七名から十五名以内の理事と二名の監事、四十八名以上の評議員などで構成され、理事長に中里区長、副理事長に田中四郎助役がそれぞれ就任した。中里区長は、この公社の運営についても独自色を発揮した。事務局を区役所の財務課に置き、職員は区役所の職員に兼務させたのである。職員は無給なので、人件費はゼロとなるが、職員組合からは「労働強化だ」と抗議された。しかし、中里区長は、

「区の発展のためだから我慢すべきだ」

 と言って取り合わなかった。財務課長として、総指揮を執った三浦泰氏は、のちに、

「毎年、二校から三校の学校を建てていくわけですから、先行取得しないと、とても追いつかない。銀行や不動産会社とセリ合ったこともあるし、夜討ち、朝がけなどもやりました。篠崎第二中学の時だったか、四千坪近い土地がありまして、それを住宅公団がツバをつけてしまった。それで困りまして、なんとか取り返そうと、売った相手のところへ乗り込んで譲ってもらったこともありました」

 と語っている。

 開発公社が不動産会社並みの手腕を発揮したこともある。東京都が厳しい財政難で、都営地下鉄十号線(新宿線)の船堀駅の駅舎予定地を買収できないでいた頃、マンション業者が乗り出してきた。もし、そこがマンション業者の所有地になったら事は面倒になるので開発公社は、その用地を取得し、後でそれを都へ転売した。当初、開発公社の設立に難色を示し、さんざん中里区長を手こずらせた都の窮地を救ったことになる。

 

 開発公社の設立前、区の用地取得は部門ごとでやっていた。たとえば学校用地は教育委員会、保育園用地は厚生部、道路用地は土木部と、バラバラだった。そこで中里区長は、用地の取得と管理を開発公社にやらせることにより、行政の能率アップを実現した。開発公社は昭和五十三年末で、三十万八千平方メートル、二百五十七億円近い土地を購入した。

 もし、その都度の時価で購入していたら、その額は莫大なものになったわけで、学校や保育園などを計画通りに建設することに大きく貢献したのである。

 バブル崩壊で地価が暴落した結果、不良資産を抱える開発公社の多い中で、江戸川開発公社は堅実な歩みを続けた。中里区長は昭和六十二年三月、地価高騰を予測して新たに用地取得基金を設けて、それ以降の用地取得は同基金によることに改め、前年の十二月に取得した土地を売却し、江戸川区開発公社の所有する土地をすべて処分して、その活動を休止させた。

 江戸川区開発公社の土地取得総面積は、約五十万九千百平方メートル、取得金額は五百十五億九千二百六十万円、その売却金額は五百三十九億七千八百三十万円で、それによって得た二十三億八千五百七十万円は、福祉施設の充実や区民施設の建設に投入された。

 平成十二年七月三十一日、江戸川区開発公社は所期の目的を果たして解散した。一円の債務もなしに解散した開発公社は、他に例はないと思われる。

 こうして中里区長は、「江戸川区総合開発計画」を実施して、区長就任時に掲げた「雨が降っても長靴を履かなくても済む街づくり」という公約を果たしたのである。

 

「江戸川区開発公社の開設当時、私は東京都行政部に在職していました。この件で、最も尽力してくれたのは、多分、矢田康一部長だったと思います。江戸川区の出身の方です。この事業で、意義があるのは、不可能を可能にしたカネに替えられないものがあったということです。江戸川区が認可になったので、あっという間に全国に拡がりました。同じ様な立場にある地方自治体がみな、この方式をとるようになり、財団法人が続々と設立されました。国としては、あまりにもたくさんでき始めたので、統一した法律を作ろうということになって、これが二年後の昭和四十七年の『公有地の拡大の推進に関する法律』が制定されたのです」

 と、当時を振り返るのは、多田正見区長である。

「窓口のタライまわしはしない。コンピュータ導入が第一の柱であるとすれば、開発公社と区画整理は江戸川区の今日の姿を作り上げた基礎になりました。開発公社は、当時の列島改造のブームを重ね合わせて考えられていましたね。何しろ当時の区長公室は、四人しか職員がいませんでした。この時代が江戸川区の黎明だったと思いますよ」

と新藤元助役は話している。

 

 第2章 ユニークな発想・江戸川方式

   江戸川区歌――「夢がたのしく わくところ」

 

 中里区長が区長に就任した頃の江戸川区は、高度経済成長のもたらす人口増が続いた結果、新旧区民の間に感情的な対立が生じかけていた。首都圏の新開地のそこかしこにみられる現象だが、それを傍観する首長の多い中で中里区長は、新旧区民の融和が区の発展に不可欠として、その手法を模索するうち、ふと、遠く過ぎ去った少年時代に「松江町歌」を口ずさんだことを思い起こした。

 松江町歌は、松江村が町制を施行した大正十五年、村長から町長になった中里民平が町民の団結を強めるために町歌制定を決め、かつて小岩に在住した北原白秋に作詞を、作曲を山田耕筰に依頼したという。こうして生まれた松江町歌は江戸川区の誕生で、すっかり忘れられてしまった。

 中里区長は昭和五年、叔父に当たる中里民平(三代民平)町長の勧めで松江町役場に入り、その長い公職生活のスタートを切った。江戸川区に生まれ育ち、その行政の最高責任者になった中里区長は、ここで亡き叔父に倣おうと思った。

 国に国歌があるように、自治体にも、それにふさわしい独自の歌があってしかるべきだ、というのが中里区長の考えだった。中里区長は、区歌制定のアイデアを区の幹部や関係者に話して、彼らの賛同を得た。

 区歌の歌詞を一般公募にしたところ、全国から三百六点の応募があり、その中から茨城県竜ケ崎市の岡久美子の作品を選定した。それに作曲家の清水保雄が作曲して完成した「江戸川区歌」は昭和四十年十一月五日、江戸川区公会堂において発表された。

 八月一日に制定された区の「紋章」を染め抜いた区旗を前に、「歌のおばさん」こと松田トシの指導による発表に、区民からの大きな拍手が送られた。

 

  江戸川区歌

     作詞 岡久美子

     作曲 清水保雄

  一、風もみどりの 香にあけて

    かがやく朝の 太陽に

    空もいらかも 晴れわたる

    希望の都市よ わがさとよ

    ああ 江戸川はあこがれの

    夢がたのしく わくところ

  二、古き伝統 誇りつつ

    時代をきずく 生産に

    若い力が ほとばしる

    伸びゆく都市よ わがさとよ

    ああ 江戸川は躍進の

    鐘高らかに なるところ

  三、あすの栄えに 新しき

    文化をかかげ とこしえに

    自治と自由をもりあげる

    平和な都市よ わがさとよ

    ああ 江戸川は人の和の

    花もあかるく 咲くところ

 

 この区歌の普及率は極めて低かった。そこで中里区長が打った手を竹門正夫元助役は、次のように語っている。

「私たち職員も関心が薄かったのですが、中里区長は昭和四十六年四月、環境部長の私を呼んで、『竹門君、来月、開催する第一回環境浄化推進大会に、みんなで区歌を歌えば一挙に普及すると思うから、その段取りを考えてくれ』と言われました。私が考えなくても中里区長は、女子職員に揃いのスーツを着用させて区歌の練習をやらせ、大会の当日、華々しく披露したのです。それ以来、区歌は、子供たちまでもが行事の度に楽しく歌うようになりました」

 区の「紋章」も一般公募とし、千二百九十九点の作品の中から静岡県浜松市の小池恵雄の作品が選ばれた。それはエドガワの頭文字「エ」を、躍進、上昇するハトに見立てて図案化し、限りない発展と平和を表したもので、全体の円形は区民の協力と融和を意味する。中里区長が切に望んだように、この「江戸川区歌」は機会あるごとに歌われて、区民の融和に役立っている。

 

 保育ママ制度――子供は区の宝

 

 区長に再選された一年後の昭和四十四年四月一日、中里区長は画期的な「保育ママ制度」をスタートさせた。この制度も中里区長のユニークな発想に基づくもので、実施に至るまでの経緯は次の通りで、中里区長の人生観や行政観を知る手がかりになる。

 

 昭和四十二年四月、革新陣営から推されて華々しく登場した美濃部亮吉都知事は、その年の十月、「ゼロ歳児保育」の実現を約束した。二十三区の区長会は、それを時期尚早として消極的だったが、翌年の五月、民生局長の通達文書が出ると、その足並みは乱れた。

 それ相応の補助金を目当てに、多くの区は実施に踏み切った。それが自然の流れだと言われた。しかし、中里区長は、

「生まれたばかりの子供は、母親のもとで育てられるべきである」

 と主張して頑なに拒絶し続け、都知事の与党たる社会党・共産党の区議会議員らからの厳しい批判にさらされた。また、保守系議員からも実施を望む声が出始めた。中里区長は、それと公言しないが、美濃部知事が打ち出す政策のいくつかを「人気取り」と断じて、苦々しく思ってきた。むろん、それだけで事は解決しない。都から実施を求められている政策を拒絶する以上、その代案を示すべきで、さもないと単なる反対に終わってしまう。

「ゼロ歳児は母親の手で育てられるべきだ」は正論にせよ、働く女性や母親が増えつつある現在、その正論を主張し続けられるかどうか。中里区長は保育に関する資科に目を通したうえで、担当者らに自分の考えを話して、

「良いアイデアがあったら遠慮なく出してもらいたい」

 と結んだ。

 担当者らとの会合を重ねるうちに中里区長は、都が昭和三十五年十月に採用した「家庭福祉員制度」を思い出した。この制度の目的は、現役を退いている教員や助産婦、保母らに三歳未満児の保育を手伝ってもらうことで、昭和四十年四月には都から区へ移管された。

 しかし、完全に実施している区は少なく、中里区長にもその気はなかったが、代案を模索中に、この「家庭福祉員制度」に検討を加えた結果、「育児経験のある女性にゼロ歳未満児を預かってもらう」ことを思いついた。

 中里区長のこのアイデアに基づいて、次のような「江戸川区保育ママ制度運営要綱」が制定された。

 この制度は極めてユニークなので、詳細に記す。

 

 ○目的

 社会的、経済的事情から保護者が就労し、または疾病等の理由で止むを得ず乳児の養育が出来ない家庭の児童の受託を勧奨し、家庭的な環境の中で、その健全な育成を図る。

 ○対象児童

 区内に居住する生後九週間目から一歳未満の健康な乳児であること。ただし、区長が特に必要と認めたものは、この限りでない。保育ママと三親等以内の親族関係にない乳児。

 ○保有ママの資格

 区内に居住し、乳児の保育に熱意と愛情のある年令満二十五歳以上六十五歳未満の家庭婦人で次の各号に該当する者。

 一、家庭が健康でこの制度に理解があり、家庭生活が健全であること。

 二、他に職業を有しないで保育に専念できる者。

 三、保母、教員、助産婦、保健婦もしくは看護婦の資格を有する者、または乳幼児養育の経験がある者。

 四、未就学児童の養育をしていないこと。

 

 中里区長は、保母、教員、助産婦、保健婦、看護婦の有資格者の専業主婦は少ないと思い、「乳幼児養育の経験のある者」を含めることにした。

 ○保育施設

 一、保育室は環境衛生に留意した通風採光の良い面積九・九平方メートル(六畳)以上の部屋が、原則として一階にあること。ただし、危険防止並びに災害対策が万全な場合は二階以上を保育室にあてることができる。

 四、(二、三は略)電話を設置し、暖房器具を保有していること。

 保育ママを希望する者は、申込書と必要書類を江戸川区長に申請し、その認定を受ける。保育ママ一名につきゼロ歳児は三名以内で、受託時間は午前八時三十分から午後五時までとする。午前八時三十分以前と午後五時以降は時間外受託となる。万一に備えて、保育ママは「死亡一名につき三千万円。一事故につき一億円」の賠償責任保険に加入し、その保険料は区が負担する。

 ○保育料

 保育ママが保護者から徴収する保育料は、基本月額一万二千円とする。ただし、受託児がゼロ歳児で、かつ、その生計を一にする世帯から措置児として児童が保育所に入所している場合、または生計を一にする世帯から二名以上のゼロ歳児を受託している場合は、最年長児以外の受託児の保育料は、月額六千円とする。時間外保育(午前八時三十分以前と午後五時以降)は一時間あたり三百円。

 一万二千円では安すぎるので、江戸川区から月額四万二千円の補助金と環境整備費としての一万五千円を合わせると計六方九千円の報酬となり、それに年額二十五万円の期末援助費がプラスされる。

 ○保育ママの義務

 一、保育ママは本要網を遵守し、かつ安全に乳児の保育を行わなければならない。

 二、保育ママは受託者と協議のうえ、乳児の心身の発達段階に応じて適切な保育を行なわなければならない。

 三、乳児の健康管理には細心の注意をはらい、負傷疾病等の防止に努め、異常があると認められる場合には速やかに保護者並びに区長に連絡するとともに、医師の診察を受けさせる等適切な措置を講じなければならない。

 四、非常事態に対する準備に万全を期するとともに、この要綱の運営上必要な区長の指示、指導に従わなければならない。

 五、疾病、災害のため乳児の保育を適切に行なうことができないとき、また、乳児を受託もしくは解約しようとするときは、区長の承認を受けるものとする。

 

 こうして江戸川区独自の「保育ママ制度」がスタートした昭和四十四年に、十二名の保育ママが十六名のゼロ歳児を預かった。その後、保育ママは年ごとに増えていったが、共産党は「ゼロ歳児保育は公立保育所に委ねるべきだ」と、激しい反対を続けた。当初から共産党の主張をはねつけてきた中里区長は、昭和五十四年十二月一日号の「広報えどがわ」に、その「保育哲学」を次のように記した。

「……今、子供の成長にとって一番大切なもの、それは親子の愛情と信頼関係を自然に育てあげることではないでしょうか。特にその芽が培われる生後一年間は、母親と肌を接し育てられることが理想であり、区がとらえている保育理念は、まさにこれです。子供は宝。子供の未来は、乳児期の母と子一対一の関係確立から始まるといわれます。やさしく抱きながらおっぱいをあげる——そこには愛情のこもった母と子の交流、目と目のふれあい、肌の接触があり、赤ちゃんの心身を限りなく安定させます。この安定こそ、人間形成の基盤になる、とさえいわれています。しかし、現実にはどうしても母親が直接保育できないという家庭もあり、こうした方々の代替として設けたのが保育ママ制度です……」

 この「保育ママ制度」は定着し、平成十二年三月までに九千六百四十四名の乳児が保育ママに育てられた。

 ある保育ママは、

「預かっていた赤ちゃんが、七五三や入学、成人式と成長の節目に顔を見せてくれるのが一番の喜びです」

 と語っている。

 平成十三年度の保育ママは二百三十名、受託児は四百二十六名である。

 設立当初から、議論を呼んだ保育ママ制度だが、昭和五十五年に保育ママに認定された、清新町在住の吉松敏子さんは、

「この制度は、愛児を頂けた方が、本当の良さを理解してくれます。保育園では得られない近親感があります。連帯と一体感が生まれて、のちのちまでも、成人してからも感謝されて、お付き合いがあって、よりよき住民性が生まれます。絶対に保育ママは必要です。定年の六十五歳まで、あと数年がんばります」

 と話していた。

 共産党の安部信元区議は、これに対して、

「やはり、公立保育園への通園は必要です。この主張を代えることは出来ません」

 と語っていたし、

「保育ママ制度そのものが悪いといっているのではありません。選択肢を与えてもらいたいのです。ママの負担は、思いのほか大きいことを知っていただきたいのです」

 という声が意外に多いことも事実であった。

 今後の時代の流れとしては、いずれにしろ新設保育園、学童クラブなどの公設民営化が進んでいくことが予想されるのである。

 ゼロ歳保育ママ制度がどのようになるのか、われわれも注目している。

 

 散歩道 体反り出し 藤の花

 あじさいの 花びらひとつ 赤子の手に

 乳母車 わだちに光る 霜柱

        (保育ママ岩村康恵さんの句)

 

「中里区長は、哲学とバックボーンを持っていました。江戸川区民には常に、『人間、生きていくのに最も大切なのは、何事にも心を込めることだ』と強調していました。保育ママ制度についても、子供は親の手元で育てるのが一番で、それが親の仕事だという考えでした。私は児童課長として、東大の小林登教授を訪ねて相談したところ、『いいことを確認に来てくれました。中里区長の言う通りで、親と子のスキンシップが原点です。人は心と心の絆が大事であり、ゼロ歳から一歳児までは、最も情緒が安定するのです』と言われ、意を強くしたものです。この制度ができてから、小林教授を講師として区に招きました。美濃部都知事時代で、同知事はゼロ歳児保育はしないと明言していましたが、中里区長は、世相や時代に流されない、独自の価値観を持っていました」

 と、当時の児童課長、元助役の岡長年氏は語っている。

 

 私立幼稚園への補助金――鋭い経営感覚

 

「保育ママ制度」という他区に例をみない制度をスタートさせた中里区長は、幼稚園施策にも斬新な方式を採用した。東京都は昭和四十八年三月、私立幼稚園児の保護者への補助を開始した。五歳児一人につき月額二千円、翌年には四歳児にも適用して月額一千円だった。昭和五十年当時、私立幼椎園の月平均保育料が六千七百五十円なのに対して、区立幼稚園のそれは千円と、保護者の負担の格差は大きかった。

 この昭和五十年の三月、区は「太陽とみどりの人間都市構想」の幼稚園の項で、

一、四歳児以上の希望者の全員就園を目標に幼稚園整備を進める。また、心身障害児に対する就園の機会均等を図るとともに、三歳児の就園対策を推進する。

二、私立幼椎園の運営条件の向上と、父母負担の軽減を図る。

と方針を示しており、それに沿って四月一日、都の補助金に二千円を上積みして五歳児に四千円、四歳児に三千円をそれぞれ補助する制度をスタートさせた。

 そして、四月二十七日、二十四年ぶりに区長公選制の復活により区長選が施行され、中里区長が当選した。四期目に入った中里区長は、行政のあり方について、

「住民が行政を自分の肌、自分の体で感じるような、明るい健康な行政を行なっていきたいものです」

 と抱負を語った。

 還暦を過ぎて六十三歳になっていたが、老人意識は欠片もなく、「生まれ育った江戸川区」を発展させたいという望みは深まるばかりで、引退は夢にも考えられなかった。

 

 幼稚園への補助については、昭和五十二年度に上積みを増やして、全園児の保護者が都区ともで五千円の補助を受けられるようにした。公立私立幼椎園の保育料格差を縮めるための補助金制度は、「江戸川方式」と呼ばれて全国的に注目されるようになった。

 昭和五十四年当時、格差解消に使われる補助金は約十億円で、区の一般予算六百億円に占める率は高いが、その十億円は人件費の削減と電気・水道を始め施設維持費の節約によって生み出された。「親方日の丸意識」を嫌う中里区長は、

「鋭い経営感覚をもって臨まなければ、冗費は止め度なく増えていく」

 と言って全職員に、経費削減を命じ自らもそれを実行した。また、中里区長は、

「もっと公立幼稚園を増やすべきです」

 と進言する職員や区民には、次のように応じるのを常とした。

「人気取りには、その方がいいでしょうが、私の考えは違います。いいですか、公立幼稚園を一園つくるだけでも、その用地代を含めて億単位の金がかかります。就園希望者を満足させるために、無理して新設を続けたとして将来、子供の数が減った場合、それらを簡単につぶすことは出来ません。出生率が下がることを予測して、私は私立幼稚園に補助金を出すことで、公立私立の保育料格差をなくす方式を選んだのです」

 ちなみに平成十二年度には、延べ約十五万人の園児への補助金は約三十五億円である。

 

 また、中里区長は昭和五十四年、私立幼椎園の施設改善費として、三千万円を限度に低利の資金を貸し付けることにした。金融機関を通していては、審査その他に時間がかかりすぎるからで、ここにも中里区長の「行政事務のスピードアップ」を重視する姿勢がうかがわれる。平成十二年度までに四十九園に、十一億三千三百九十万円を貸し出した。

「区民本位」の区政を強力に推進する中里区政への支持は年ごとに高まり、昭和五十三年四月に実施された「江戸川区民世論調査」では、八三パーセントの区民が「住みよい」と答えた。この世論調査が示すように昭和五十四年四月、中里区長は八二・四七パーセントという高い得票率で区長に当選した。

 公選二期目、通算五期目のことだった。

 

 国民健康保険料徴収嘱託員制度――「区の動く窓口」

 

「保育ママ制度」で主婦の力を知った中里区長は昭和四十六年四月一目、「江戸川区国民健康保険料徴収嘱託員制度」をスタートさせた。自治体にとって、国民健康保険料の徴収は悩みの種だった。

 共働き夫婦が増えつつある頃で、留守の家が多く無駄足を踏んだ職員は、仕方なく公園や喫茶店で暇をつぶす。そんな職員を見かけた区民は、区役所に叱責の電話をかけてよこす。昼間は仕事にならないからといって、夜や日曜祭日にやらせれば時間外手当を支給しなければならず、それだけ経費はかさむ。

 当時、二十三区の中で大田区のみが昭和四十五年から、滞納分の徴収をパートタイマーに委託していた。これに着目した三浦泰財務課長は、中里区長に、

「うちでも大田区のようにやりましょう」と提案した。すかさず中里区長は応じた。

「それなら滞納分だけでなく、全部を任せよう」

 しかし、都職労との関係から都の許可を得ることになっているため、中里区長は都庁へ出向いた。担当者は、前例がないとの理由をあげて難色を示したが、中里区長は、

「前例がないからやらないでは、行政の進歩はありませんよ」

 と、例の論理を展開して押し切った。都庁との折衝・交渉では場数を踏んでおり、その勘所を押さえているのが強味だった。「いざとなれば出るところに出る」という凄まじい気迫が、相手に譲歩させるのだ。確固たる信念に基づいているので、「横紙破り」だの「ワンマン」だのと非難中傷されても平気だった。むしろ、それを自分への「勲章」と受けとれるほどの強靱な神経の持ち主だった。

 

 こうして、江戸川区独自の「江戸川区国民健康保険料徴収嘱託員制度」はスタートし、三十七名の主婦が「国保徴収嘱託員」となった。彼女らは、それぞれ七百軒ほどを受け持ち、週に一回、所属事務所に顔を出すことを義務づけられるが、働く時間は自由なので主婦のアルバイトとしては文句のつけようがない。職員が徴収する場合、一名あたり年間三百五、六十万円はかかり、しかも、その仕事に意欲を感じない。それが主婦だと、平均年収は税込みで約二百五十万円、夏、冬のボーナスが十五万と二十五万円である。

 この制度をスタートさせた昭和四十六年度の徴収率は、それまでの平均八五パーセントから九五パーセントヘと大幅に上昇して、発案者の中里区長を喜ばせた。二年後は九七パーセントで、二十三区中のトップとなった。

 それまで徴収を担当していた職員は、もっとやり甲斐のある仕事へ移された。徴収嘱託員の主婦らは仕事に慣れると、それぞれの集金先ヘ「区のお知らせ」を届けたり、区役所への伝言を頼まれたり、相談を受けたりするうちに、「行政の一端を担っている」という誇りを持つようになった。

 中里区長は激励と親しみを込めて、彼女らを「区の動く窓口」と呼んだ。彼女らは彼女らで「区の広報マン」という意識を強め、それが徴収率のアップにつながった。昭和五十五年度に徴収率が九十一パーセントを超えた区は、超えた額を自由財源として使えるが、超えない区は、その差額を区の財源で穴埋めすることが決められた。

 トップの徴収率を続けた江戸川区は、昭和六十二年度まで約二十三億円の自由財源を手にした。年間平均五億円で、江戸川区は、この自由財源を使って区の別荘「穂高荘」を始め、多くの公共施設を建設した。見方を変えれば、この二十三億円は区が稼ぎ出したことになり、ある区民は中里区長に、

「パートの主婦たちを働かせて、これだけの大金を手にするなんて、なかなかの事業家ですねえ。商売を始めていたら今ごろは、大会社の社長ですよ」

 と言って区長を苦笑させた。中里区長の卓越した行政マンぶりを示すエピソードである。

 現在、三十四名の主婦がそれぞれ区の事務所に所属して、徴収業務を行なっている。

 平成十三年四月に創立三十周年をむかえたが、中には三十年間この仕事一筋の人もいて、大半が主婦である。

「区内の自営業者、パート、フリーター、職人、零細企業者などの方々のところへ伺っています。十八年前には受持分が、一千八百件あったのが、現在は四百件くらいです。毎週のように工場や自営業者が倒産しますし、徴収しづらくなりました。朝八時ごろから自転車でまわって、ひと休みし、また、午後や、夕方から出かけます。徴収先の方々の生活パターンによって、集金時間が決まってきますね。運動になるため病気知らずで、いわゆる更年期を知らずに過ごした人も多いですが、真夏に陽に焼けるのには困ります。私は、五歳の長男を亡くし、離婚しました。下の娘ひとりの母子家庭になりましたが、娘は私の後ろ姿を見て成長し、明るく元気で素直に成人してくれました。数年前に、良縁を得て、私とは異なった人生を歩んでくれています。中里区長は、私たちのことを、『皆さんを、江戸川区の宝だと思っています』といって下さいました。六十五歳の定年まで、残された日々を一日一日健康で暮らして行きたいと考えています」

 と話しているのは、十八年の経験を有する、葛西事務所所属の宇田川久子さんである。自動振込が多くなって、今後は、四—六月の三か月間の徴収不要期間が生じるため、収入減になるので、不安であるという。

 

 この人たちも、中里区政を陰で支えた大切な人材であった。

 

 猛暑の日 信号待ちも 陰さがす

        (徴収員、佐川勝江さんの句)

 

 職員の独自採用

 

「江戸川区第一主義」を掲げ、江戸川区のためになると信じた施策は、いかなる困難、障害をも乗り越えて実施してきた中里区長は昭和四十八年、職員の独自採用に踏み切った。ここに至るまでの道のりは、むろん平坦ではなかった。

 各区の職員は都制施行の昭和十八年以降、都に一括採用されたあと、都庁各局や各区に配属されてきた。区長の人事権は区職員に及ばないのである。戦後、区の自治権の拡大が叫ばれて昭和三十四年、国民健康保険事業の開始にあたり、徴収職員の区採用が実施され、それを皮切りに自動車運転手、電話交換手、栄養士などの技能労務系職員なども区で採用された。

 しかし、競争試験職種の事務、建築、土木、電気・機械などの職員は除外された。昭和四十五年頃から、この都の一括採用方式への不満が高まったため、東京都行財政担当専門委員や地方制度調査会等の答申に基づいて、順次都の人事権は区へと委譲され昭和四十八年、完全委譲と決定された。

 ここで採用を二十三区が共同でやるか、区単独でやるか、という問題が起きた。「待遇、給与等については、二十三区すべて平等であるべきだ」という答申を尊重するならば、共同採用しかない。区長会において、二十二区の区長は共同採用に賛成した。が、中里喜一江戸川区長は、「私は区独自の採用がベストだ、と確信しております。江戸川区以外の区では働きたくない、という職員にこそ区民本位の行政を任せられるからです」

 と発言して波紋を投じた。

「また、中里さんの独自路線か。横紙破りも、いいかげんにしてもらいたい」

 と、多くの区長は冷ややかな視線を中里区長へ向けた。露骨に眉を寄せ、唇を尖らせる区長もいた。区長会のあとで中里区長は、数名の親しい区長から疑問や、苦言、忠言を呈された。

「独自採用だと、優秀な人材は得られないんじゃないかな……」

「レベルの低い職員しか採用できなかったら、あんたのお荷物になります」

「あんたの江戸川区を愛する気持ちは良く分かるけど、譲歩する方が将来、あんたのためになる筈です」

 中里区長は彼らの厚意に感謝しても、独自採用を断念する気になれなかった。ここで断念したら、「有言不実行」となり、区民の信頼を失うに違いない。須賀善亮助役以下、幹部職員らの強いバックアップを得て、準備を進めた。ただ、将来の人事交流とレベルの均一化を考慮して、試験問題と試験日は二十二区と歩調を合わせ、採点も特別区人事厚生事務組合(特別区人事委員会)に委託した。

 こうして、区独自の募集をやった上で昭和四十八年七月一日、第一回の職員採用試験(大学卒程度)を実施した。四十名の募集に、四百二十九名が応募し、三十八名が合格した。

 一一・三倍という高い競争率だった。江戸川区内の応募者が過半数を占め、しかも彼らの過半数の受験動機は、「住民のためになる仕事をしたいこと」だった。そのことを知って、

「私の狙いに狂いはなかった」

 と会心の笑みを浮かべた中里区長は七月十一日、全職員向けの庁内放送で次のように語りかけた。

「一番大事なことはその区の行政に、そして区民のために奉仕するという、意欲のある職員を各区が採用することなのです。これが人事権をもつ本当の趣旨だと思います。東京二十三区のどこの区へ勤めるのかも前提としないで、試験の順に各区に配当して、各区が任命するといった不自然な姿は、特別区が長年かかって得た人事権を放棄してしまうことになります」

 十月十四日には、高校卒程度の採用試験も実施された。この方式の採用試験は、以後五年間にわたって実施された。昭和五十三年、地方公務員法の改正に伴い、特別区に人事委員会が設置されて、同委員会が採用試験を実施することになった。しかし現在も、江戸川区は江戸川区のみを希望する受験者を募集、とりまとめて人事委員会に提出し、そのうちの合格者が江戸川区に推薦されている。

「江戸川方式」と呼ばれた、この独自採用試験の合格者は、その後、江戸川区政を担う一翼となっていくのである。

 

 平成十三年度の管理職八十六名中、独自採用されたものは二十九名を数え、この制度の成果を示している。

 当時の企画課長丸山典雄元教育長は、

「区長会会長はじめ役員たちが、説得にやってきましたが、中里区長は頑として応ぜず、自説を曲げず、二十三区唯一の独自採用に踏み切りました。この席に、私ひとりが陪席していました」

 と語っているが、内心、中里区長というひとは、大へんな人物だと思い知ったという。

 管理職のひとりである希望の家所長鈴木淳子さん(昭和五十年四月採用)は、千葉大学教育学部卒、教師志望であったという。

「同期は四十四人採用中、現在四十人くらい残っています。動機は、隣の葛飾区に在住していた家族が昭和四十八年に江戸川区篠崎へ移住したことです。江戸川区役所の窓口の印象がとてもよくて、江戸川区とは相性がいいと思いました。合格するとは思ってもいませんでした。総務課と教育委員会に計十二年間いました。中里区長とは、距離が近いなあとなんとなく思いましたし、たまに会うと、愛想がよくて、気さくに声をかけて下さいました。フランクな人柄でしたね。私は、もともときりきりと仕事をしなかったので、最初から、コワイという感じはしませんでした。鹿骨事務所保険年金係長の時、国保徴収員の慰労会が穂高荘で行われ、区長が、心から気配りして、サービスしている姿が、印象的でした。熟年者と、女性に非常に人気がありました。江戸川区の管理職は、仕事がきびしいという先入観がありますが、福祉部門にいて、地元の父母の方々から喜ばれるのがうれしいです」

 と話していた。夫君は江戸川区立中学校長で、江戸川区に奉職することを熱望していて、願いがかなったひとりであるという。

 

 昭和四十九年四月一日採用の稲毛律夫健康部長は江戸川区生まれである。

「一次試験会場は都立江戸川高校でした。独自採用という言葉に私は魅かれていた結果か、むしろ、合格すれば、生まれ馴染んだ江戸川区以外に勤務地はないということが頭に浮かんでいたように思います。あれから二十八年、思い起こすと、私には江戸川区長は中里喜一という印象をずっと背負っていました。昭和三十九年秋、全国民が待望していた東京オリンピックの聖火が市川橋を渡って江戸川区にとうとうやって来た。聖火ランナーと伴走者、それを盛大な拍手で出迎え、送るために中学二年生の私も、その人波の中にいました。その時、聖火を受け渡したのが中里区長でした。その後も、折に触れ、中里区長の名と姿をたびたび耳にし、目にしていくことになりました。昭和四十九年四月一日、区長室で直接採用の辞令を頂戴し、私の公務員人生は始まりました。両親の喜びも大きかったが私自身も新たな境遇の中で、晴れやかな思いをもって勤務を始めたものでした。そして独自採用の一期生として、陰に陽に将来の幹部侯補生としての期待を受けていました。今にして思えば、あの多忙な区長が、私たちの研修に二時間も出席して講話や懇親に時間を割いてくださったのも、その表れだったかと……。私は、独自採用ということに格別の思いは持っていないつもりですが、二十三区共通管理職試験に合格できないとなると困ったものだという思いは強かったのです。幸いに昭和六十二年に合格できました。合格者五人で区長を囲んでの懇談会の席上、区長から『これから本当にやりがいのある仕事ができる。そのスタートについたのだ』と励まされました」

と話している。

 

 第3章 三大公害闘争

   ゴミ公害――「ゴミの無法地帯」からの脱出

 

「住みよい街づくり」を公約に掲げて、それの実現に全力を傾注している中里区長にとっての障害は、葛西海岸におけるゴミ公害だった。高度経済成長が緒についた頃から建設ブームが起き、東京オリンピックがそれに拍車をかけた。ビルや道路の建設工事は大量の残土や産業廃棄物を生み出し、それらは連日葛西地区に持ち込まれた。

 同地区は地盤沈下と塩害とで、雑草や葦の生え茂る湿地帯になって久しく、そこに目をつけた十四人の業者は百二十二人の地主から安く土地を借りて埋立権の譲渡を受けると、建設残土を捨て始めた。都清掃局が「夢の島」でやっていることを、民間業者が始めたのである。

 もともと産業廃棄物の処理で儲けるのが目的だった彼らは、地主側との約束を守る気は毛頭なく、埋立業者の名を借りて、ごみトラック一台につき、かなり高い料金を取るようになった。やがて残土のほかに工場廃液、廃油、プラスチック、電線までもが山積みにされ、それらが焼かれて放つ異臭は四キロメートル四方に及んだ。

 昼夜を分かたず空高く舞い上がる黒煙は、風に吹かれて周辺民家の洗濯物を汚し、住民を怒らせ嘆かせた。ゴミが自然発火して、消防自動車が出動することも珍しくなかった。

 昭和四十年代に入ると、一日千台ものトラックが往来して葛西海岸は公然たるゴミ捨て場になったのである。たまりかねた地元の葛西仲町の住民は昭和四十三年七月十日、六百二十二名の署名を集めて江戸川区議会に「江戸川区堀江界隈における塵芥等の焼却即時中止取締りのお願い」という陳情書を提出した。

 区議会の要請を受けた中里区長は担当者に実態調査を行なわせたうえで、警察、消防、保健所等の関係機関の担当者を集めて解決策についての協議・討論を始めた。その後も会合を重ねたものの、解決に導くために適用できる法律や規則のないことから、「現段階では打つ手なし」との結論に達した。

 行政通の中里区長は清掃法の適用を考えついたが、よく調べてみると同法に強制力のないことが分かり、八方ふさがりの思いにとざされた。それならばと江戸川区議会(須賀徳太郎議長、植草公雄副議長)は昭和四十三年十二月、内閣総理大臣と衆参両院議長に「ゴミの不法投棄を規制するなり禁止する法律を制定して欲しい」との要望書を提出した。その要望書への確かな反応はなく、ゴミの不法投棄は続けられた。

 中里区長は職員らに現地パトロールをさせ、業者に警告させるが、しばしば彼らから、

「業者の中には暴力団まがいの者もいて、逆に脅しをかけるんです」

 と報告されて切歯扼腕した。業者に土地を貸した者から、

「こんなことになるとは思わなかったけど、すっかり迷惑をかけて申し訳ありません」

 と詫びられても心は晴れなかった。

 取締り対象の業者は五十社近くに増え、それぞれ「A土木」や「B清掃」「C工業」などと、もっともらしいが、本社所在地はもとより責任者の名前すら分からず、海岸にバラックを建てて現場事務所と称するさまは「ゴミの無法地帯」を象徴していた。

 そういう状況の中で、中里区長は昭和四十四年四月、公害対策課を新設して同課をゴミ追放の拠点にし、模索と検討を重ねた末に土地区画整理法の活用を思いついた。区画整理は「江戸川区総合開発基本計画」の実施に不可欠で昭和四十五年五月二日、堀江土地区画整理組合が発足した。最初の組合の発足後、二年九か月余が経っていた。

 区画整理法第七十六条に「区画整理を行なう上において土地そのものの形質を変えてはならない」との一項があり、それを武器に悪質業者を追放することにし、その担当を公害対策課から土木部開発課に移した。中里区長の指示で前田工開発課長は、発足したばかりの堀江土地区画整理組合の森岩蔵理事長とともに、同組合の仮事務所に区域内の六十数名の地主を召集し、ゴミ公害の実態を詳しく話して彼らに協力を求めた。

「業者に埋め立てを止めてくれなんて言ったら、殺されるかも分かりませんよ」

 と尻込みする者もいたが、前田課長は彼らに「不法な産業廃棄物を捨てさせることを認めたことはないし、また今後も一切認めません」という念書を提出してもらった。

 区画整理組合は、区が「区画整理法」を発動できるようにと、区画整理区域内の埋め立てのための土砂の浚渫工事の認可を都知事と千葉県知事に申請し、さらに地下鉄十号線の残土を一手に引き受ける手続きを始めた。

 そして八月に入ってすぐ、区は三十名ほどの埋め立て業者を区の会議室に招いて、土地区画整理法に基づき「土地の区画形質変更禁止」を命じた。

 業者側が生業を奪われるとして猛反発したため、第一歩で躓く形となった。

 

 前代未聞の道路封鎖と「環境部」の新設

 

 障害が大きければ大きいほどファイトを燃やす中里区長が、後退する筈はなく八月十一日、考えに考えて得た「解決策」を胸に、四十名ほどの地元陳情団を率いて都庁へ赴き玉村建設局長と梅沢警視庁交通部参事官に語気鋭く、

「このままではラチがあきません。不法投棄を続ける業者を追放するため、ゴミを運んでくるトラックが通れないように都道を封鎖して下さい」

 と要望した。陳情団も固唾を呑む思いで、都庁側の回答を待った。そして、その回答は、

「よほどの理由がないと、天下の公道を封鎖できません」

 と、素っ気ないものだった。

「都の方で、その理由を考えていただけませんか」

無理を承知のうえで、そう持ちかけた中里区長は、

「それは区の仕事でしょう」

 と突き放されて、この日の陳情を打ち切った。都との折衝や交渉が長引くことは、計算に入れており、別に落胆しなかった。中里区長の辞書に、「落胆」や「後退」「挫折」などの字はなく八月二十日、足元を固めるため、区と区議会、地元町会、区画整理組合を動員して、葛西第二小学校屋内体育館で「葛西地区ゴミ公害追放住民総決起大会」を開催した。参会者は千名近くに及び、すさまじい熱気の中で次の決議文が採択された。

 

 江戸川区葛西地区一帯への廃棄物不法投棄は、悪臭、煤煙の発生源となり、生活環境を著しく破壊し、地元住民をして、今や心身ともに疲労困憊の極に追い込んでいる。一方、土地区画整理法、東京都公害防止条例等の現行法規をもってしては、残念ながら何ら根本的な解決の決め手にならない現況である。

 数年来、これらの公害の犠牲に堪え忍んできたわれわれは、一部悪徳業者の不法行為をこれ以上黙認することはできない。本大会は、地元住民の健康を守るために非常措置として、関係海岸道路の一斉封鎖以外に不法投棄を排除する方策のないことをここに確認する。よって国及び都当局並びに関係機関は、速やかにこれが対策を講ずるよう強く要望するものである。

 

 右決議する

  昭和四十五年八月二十日

  葛西地区ゴミ公害追放住民総決起大会

 

 翌二十一日、中里区長は、国会、都議会、警視庁を歴訪して、それぞれの担当者に、この決議文を手渡し、有効な対策を要望した。どこでも「善処しましょう」「考慮してみます」という生ぬるい回答しか得られず、煮えたぎる怒りを胸に帰庁すると前田開発課長からの報告に接した。

 この日、開発課員は十八人の悪質業者に、業務の停止と不法投棄物の除去命令を伝えたところ、さんざん罵詈雑言を浴びせられたという。それは中里区長が予想していたことだった。

「ご苦労さんだった。無法者どもを追放するには、やはり非常手段しかないよ」

 腹をくくった中里区長は翌日、都庁の建設局長室で、玉村局長、梅沢警視庁交通部参事官との三者会談に臨むなり、

「なにがなんでも、今日中に決着をつけたいのです。どちらかといえば気の短い私ですが、我慢に我慢を重ねてきました。忍耐にも限度があります」

 と、ぶちかますように言って、区が十九日からの三日間、区医師会の協力を得て実施した「公害検診」の報告書を二人に示した。受診者二百九十三名のうちの八十人(約二七・三パーセント)に「ノドが痛む」「目ヤニが出る」「扁桃腺肥大」の症状が発見されたのである。報告書を読み終わって、沈黙を守る二人へ中里区長は詰め寄った。

「まさか、人の痛さは三年でも我慢できる、なんて思っているんじゃないでしょうね。こういう状態が続けば、そのうちに死亡者が出ます。その場合、誰が責任を取るんですか!? 江戸川区民が血を吐く思いで望んでいる道路封鎖を実施するのかしないのか、ここではっきりさせて下さい」

 二人が視線を交わすのを見て、中里区長は練り上げてきた「案」を次のように説明した。

「現在、堀江土地区画整理組合が進めている事業の一つに、江戸川河口からの埋め立てがありますが、この事業に必要な配水管を敷設するため、ゴミ捨て場へ通じる都道を封鎖する。こういう理由なら、どこからも苦情は出ません」

「……すると、実際にはやっていないんですね」

「これまで私はあなた方から、封鎖するにふさわしい理由をつけろ、と繰り返し求められました。で、この理由を考えついたのです。嘘も方便、私は区民の健康を守るためなら何でもやるつもりです」

 結局、二人は中里区長に押し切られた形で、都道封鎖の実施を決めた。

 満を持しての道路封鎖は昭和四十五年九月五日の午前八時、海岸水門からゴミ捨て場へ通じる都道で開始された。二か所にコンクリートのバリケードを築き、三か所に検問所を設けて区職員、警官、上地区画整理組合の役員、地元住民らが、ゴミを満載したトラックを止めて夢の島埋め立て地へ向かわせた。この検問は二十四時間態勢で続けられた。

「営業妨害だぞ!」

 と抗議する業者も、この官民一体の強硬策に屈し、やがて不法投棄はなくなった。が、十八の埋立業者は抵抗を続けた。そこで中里区長は、行政代執行の戒告書を送付して、十業者を退去させた。残る八業者へは十月二十一日、代執行令書を発行し、それでも立ち退かない四業者には容赦しなかった。

 十月三十日、クレーンを使って四業者の現地事務所を取り壊した。法に基づく実力行使で長年、地元区民を苦しめてきたゴミ公害問題は解決したのである。このゴミ公害問題は、マスコミに大きく取りあげられて、中里区長の存在を広く知らしめた。

 堀江土地区画整理組合は、トラクターでゴミを片づけたあと、ブルドーザーで整地を進めた。そして、地下鉄工事の残土などで埋め立てた土地には、近代的な高層住宅が次々と建設されて江戸川区南部地区の総人口は、地元住民も含めて二十二万人に達した。

 

 中里区長は、公害問題を解決して間もない昭和四十五年十二月七日、区に環境部を新設した。

 国の環境庁(現・環境省)が設置される半年前のことで、むろん二十三区では初めてだった。ここにも、中里区長の先見性が窺われる。

 この年、「東京砂漠」が流行語になり、杉並区で初めて光化学スモッグが発生した。

「ひょっとして、うちの区にも……」

 不安に駆られた中里区長は、区役所の屋上に立ち区内の緑が少なくなっていることに強いショックを受け、

「これからは開発と平行して、環境を良くしなければならないな……」

 と呟くうちに、「環境を良くする部」の新設を思いつき、都に申請したところ「役所の名称にふさわしくない」と難色を示された。都には、まだ公害局は設置されていなかった。

 区長会でも、異例すぎると反対された中里区長は都との交渉を重ねた結果、「環境を良くする部」を引っ込めて「環境部」に決めた。折衷案だが、名を捨てて実を取った形だった。時代を先取りして新設した環境部は、生活環境行政を統合するため、環境整備課(計画係・推進係)、緑化公園課(緑化係・公園係)、公害対策課(管理係・規制係)の三課六係で構成され、区役所・小松川・葛西・小岩・東部の五事務所にそれぞれ分室が設置された。

 

 航空機騒音公害――江戸川区、国を提訴

 

 ゴミ公害を含めて、のちに「三大公害」と呼ばれた二番目のそれが発生したのは、昭和四十六年三月十八日だった。この日の早朝、江戸川区民は突如として、鋭い金属音に襲われた。羽田空港のB滑走路(二千五百メートル)の使用が開始され、大型ジェット機が低空で江戸川区の上空を通過したのだ。

 B滑走路は、着陸機を横風(南風)から守るために設計され、そこへの進入コースは二つあった。第一コースは、南風で視界不良になったときのもので、千葉県御宿上空で計器飛行に入り、市原から船橋、市川を経て江戸川区に入ると、篠崎、春江、一之江、船堀の上空から羽田空港へ進入する。視界良好のときの第二コースは、御宿から有視界飛行に入り、第一コースの南側を通って東京湾上から空港へ進入する。

 三月から十一月にかけて、東京湾上で南風の吹く割合は約八五パーセントと高く、それに京浜・京葉工業地帯における煤煙が発生させる大気汚染が加わって、視界不良の日が多く、江戸川区民は毎日のように、この航空機騒音に苦しめられることになる。三月十八日から八日後の二十六日には、百十七機が江戸川区の上空六〜七百メートルを通過した。

 

 住民からの苦情が連日、区役所に寄せられた。中里区長は環境部に騒音を測定させて次のデータを得た。

 

 篠崎図書館付近―八十ホン

 松江図書館付近―七十ホン

 船堀地区―九十二ホン

 

 このデータを武器に、中里区長は行動を開始した。環境部長らを運輸省(現・国土交通省)航空局へ派遣して、厳重に抗議させた。後日、航空局から区役所に寄せられた回答は、

(一)飛行高度を三百メートル上げ

(二)有視界飛行は視界十五キロ以上を十キロ以上に変更し、そのコースを束京湾寄りにずらす

というものだったが、実際にはこの通りにならず、区民の苦情は増えた。

 それに業を煮やした中里区長は五月十八日、区議会と地元住民代表とともに運輸省へ出向いて、橋本登美三郎運輸大臣に面会して、「航空局からの報告で、よくご承知の筈なので、詳しくは申しませんが、江戸川区民が日夜、苦しみ悩まされている航空機騒音は、放置すべからざる公害です」

 と、激しい口調で航空機のコース変更を要請した。要請よりも要求に近かった。

「区民本位」をモットーにしているだけに、相手が大臣であろうとも一歩も引くまいと、武者震いする思いだった。橋本運輸大臣は航空局長を呼んで、技術面での改善を命じた。

 それから数日後、航空局は、江戸川区の上空を飛行する航空機の数を減らすため、十一月中旬までに東京湾中央防波堤に誘導灯と無線誘導装置を設置することを決定した。その決定を通告された中里区長は、かっと目を剥いて、

「話にならん!」

 と吐き捨てた。

 これだと悪天候の多い夏中、区民が耐え難い騒音に苦しめられることに変わりはない。

 事実、その後も低空飛行は増え続け、日によっては二分間に一機という異常さに、区民の怒りは頂点に達した。少なからぬ区民が連日、羽田空港へ激しい抗議の電話をかけたが、改善のきざしはなく、中里区長は最悪の事態を覚悟した。ゴミ公害問題を解決した自信が、中里区長を支えていた。

 

 六月三日の朝、中里区長は羽田空港の管制部長、補償部長の二人から面会を申し込まれると、竹門環境部長と佐々木環境整備課長に、

「具体的な改善策を持って来たかどうかを、はっきり確かめてくれ。私が会うのは、それからだ」

 と言った。

 空港側の目的が釈明に近いことを知って、中里区長は面会拒絶を二部長に伝えさせた。

「会うのは時間の無駄だ!」

 空港の二部長は三時間余も粘ったが、中里区長の態度は硬化こそすれ軟化することはなかった。

 その後、中里区長は着々と手を打った。六月十八日、区役所内に「航空機騒音対策本部」を設置すると、六月二十九日から七月二日にかけて、三千世帯の聞き取り調査を実施させた。その調査結果は、中里区長のファイトを更にかき立てた。

 三千世帯の九十五パーセントが被害を受けており、その主なものは「テレビ、ラジオの受信不良」「病人の症状悪化」「勉強時の集中力不足」などで、「このままの状態が続いたら不眠症になりそう」と恐れる区民も多い。江戸川区民の被害ぶりは、マスコミを通して広く知られ、それに対応するかのように羽田空港長が七月六日、区役所に中里区長を訪ねて来た。

「空港長が出向いてくるからには、前よりマシな改善策を期待できるかも……」

 と、中里区長は空港長を迎え入れた。だが、空港長は釈明と弁解に終始し、それに怒りを爆発させた中里区長は、さっと席を立った。

「私たち江戸川区民は、非常手段に訴えてでも飛行機を止めます。しかと大臣に、そう報告してもらいましょう」

「非常手段を具体的に話していただけませんか」

「私たちがゴミ公害問題を解決した経緯は、あなたもご存知の筈です。これ以上、忙しい私を邪魔しないで欲しい」

 空港長を追い出す形で会談を打ち切った中里区長は三日後の九日、区議会、住民代表、区執行部をメンバーに「江戸川区航空機騒音対策協議会」を設置し、その会長に就任した。同協議会は直ちに、東京地裁に提訴することを決議して、不退転の決意を示した。

 これらの一連の騒ぎについて、地元選出の島村一郎衆議院議員は、

「(おたくの)中里区長は、ずい分と乱暴だね。はらはらして見ていたよ」

 と私に話していたが、当時の大臣らとのやりとりに立ち会っていて、実感をこめた感想だったと思う。この頃、中里区長は、燃えに燃えていた。

 

 中里区長は、官民一体の態勢を整えると七月十五日、長島金蔵区議会議長、区民二十七名とともに東京地方裁判所へ赴き、航空機の「飛行禁止の仮処分申請」を提出した。提訴の理由には、国が憲法第二十五条(健康で最低の文化的生活を営む権利の保障)に違反し、公害対策基本法と航空機騒音防止法に定められた義務の履行を怠ったこと等が挙げられた。

 自治体が国を提訴するという異常事態は、多くのマスコミから派手に取り上げられた。

 地裁を出た中里区長らは、カメラの放列の中を運輸省へ向かい、丹羽喬四郎運輸大臣に面会した。区民代表らが七万人の署名簿をテーブルに積み上げたあと、中里区長は、

「大臣、この署名簿だけでは不十分だと思いまして、私たち江戸川区民が日夜、苦しめられている航空機騒音を聴いていただくことにしました」

 と言って、持参のテープレコーダーを大臣の前に置き、そのスイッチを押した。たちまち、凄まじい轟音が室内を圧し、丹羽運輸大臣に渋面をつくらせた。やがてテープレコーダーのスイッチを切り、鋭い語気で回答を迫る中里区長に対し、丹羽運輸大臣は、

「とにかく十一月中旬まで待ってもらいたい」

 と、宥めるように言うだけだった。

「いつだったか、航空局の幹部は、『飛行機は飛ぶもので、あなた方も乗るじゃないですか』と言ったので、私は、『大勢の人が飛行機に乗るけれど、そのために一部の住民が苦しむのは不合理だ』と反論しました。一家で一週間ほど江戸川区に住んでみれば、あんな心ないことは言えない筈です」

 丹羽運輸大臣との会談を打ち切った中里区長は、運輸省を出たところで同行者に、

「ゴミ公害のときは道路を封鎖したけれど、相手かジェット機では、その手は使えない。そこでまず、運輸省ヘデモ攻勢をかける」

 と言った。

 中里区長のアイデアは八月七日、実行に移された。この日、ハチ巻きタスキがけの区民らは、「みんなの力で航空機騒音を追放しよう」の横幕付きのマイクロバスに乗って運輸省へ乗りつけると、メガホンを手に抗議文を読み上げ、テープレコーダから流れ出る航空機騒音に合わせて気勢を上げた。このデモは、五日間に亘って続けられた。江戸川区民が止むに止まれずに敢行した波形デモは、大きな社会問題となり、マスコミは運輸省の対策の甘さを糾弾した。

 

 八月十九日、中里区長らは、江戸川区役所を訪ねて来た航空局長から次のような回答を得た。

「先に約束した誘導施設の建設中、応急措置として船舶から電源を取ることで、九月末までに点灯させます。また、午後六時以降の不定期便はB滑走路に着陸させず、さらに国内便の減便に努めます」

 一歩前進と認めても、この程度では満足できないと中里区長は九月十三日、大石武一環境庁長官に面会して、環境行政の面からの改善を強く要望し、同長官から、「今年中に空の騒音規制法案を作成し、制定したら必ず解決します」という回答を得た。

 

 十月上旬、運輸省が進めていた応急工事が完成し、翌年の二月三日には中央防波堤の誘導施設も完成したことで、江戸川区上空を飛ぶ航空機の数は年間約八分の一にまで減った。

 その結果、江戸川区が提訴した裁判は、五回の口頭弁論を経て和解へと進み昭和四十八年一月二十五日、江戸川区と運輸省はそれぞれ声明書を発表した。それに基づき中里区長は、仮処分申請書を取り下げた。提訴から二年半が経っていた。

 その後の度重なる改善により、江戸川区上空を飛行する機数は減り続け、年間羽田空港に着陸する八万機のうち三パーセントにあたる二千四百機が、悪天候のときに飛行するのみとなった。その飛行について、羽田空港は江戸川区環境部に飛行開始時刻、天候状況(雲高、視程、風向、風速)、飛行終了時刻を通告することが決められ、現在に至っている。

 これもまた、区の行政組織と住民パワーが一体となって闘い取ったものである。

 国鉄成田新幹線通過問題――法廷闘争ふたたび

 

 東京湾防波堤に本格的な誘導施設が完成して、航空機騒音問題に一応の決着をつけた中里区長は、それから僅か四日後の昭和四十七年二月七日の朝、新しい公害問題に直面した。

 国鉄東京第一工事局の次長ら三人が、江戸川区役所に中里区長を訪ねて来て、「この度、東京・成田間に新幹線を建設することが決まりました。ここ江戸川区では、地下鉄東西線と平行する形となります。工事費は約二千億円で、完成目標は昭和五十一年度です」

 と説明したあと協力を求めた。「冗談じやない!」

 ドスンとテーブルに拳を打ちつけた中里区長は、憤怒の形相で、

「こんな重要案件を事前協議抜きで決定し、それに協力しろとは言語道断、再検討を要求します。これが江戸川区の返答です」

 と、斬りつけるように言った。

 区は三日前、「環境を良くする十年計画」を策定したばかりだった。新幹線の通過予定地の葛西地区は昭和四十年六月以降、約六億円を投じて区画整理事業を進めてきた。「美しく住み良い街」になるそこに新幹線が通ることになれば、計画の見直しを余儀なくされる。しかも、新幹線は区内に停車せず騒音、震動、電波障害などの公害をふりまきながら通過するという。区にとっては百害あって一利なし、断固反対しなければならないのだ。

 三人は無言のまま辞去した。国鉄と鉄道建設公団は中里区長の反対を無視して、運輸大臣に成田新幹線の工事実施計画の認可を申請した。翌々日の朝刊で、そのことを知った中里区長は、

「あっちがそうなら、こっちにも覚悟があるぞ!」

 と吠えて登庁するなり、幹部職員らを集めた。激しい怒りをバネにして、反対運動の先頭に立つのは前回の航空機騒音問題のときと同じだった。二月十四日、中里区長は区議会の正副議長と区の担当部長、六区画整理組合の代表らを率いて運輸省へ乗り込み、担当官に計画の白紙撤回を要求した。担当官の回答は、「申請を受けた翌日の十日に認可しました」と素っ気ないものだった。次の行動を前にして、中里区長は環境部のスタッフに、東海道新幹線の公害状況を調査させた。調査結果は予想通りだった。

 そこで中里区長は、官民一体の「江戸川区国鉄成田新幹線通過反対協議会」を結成すると三月十日、江戸川区公会堂において通過反対総決起大会を開いた。参加者は千二百余名に及び、反対決議文が採択された。その決議文を手に中里区長らは、三台のバスに分乗して運輸省と国鉄、鉄道建設公団へ乗り込み、改めて計画の白紙撤回を要求した。

 中里区長は、応対に出た運輸省の担当官に、

「新幹線の目的を一言で話して下さい」

 と切り出した。

「……遠隔地の都市と都市を結んで、沿線地域の開発を図ることです」

 担当官は、ムッとした表情を崩さない。

「東京、成田間の距離は?」

「六十キロです」

「徒歩旅行の昔ならともかく、現在では六十キロ先を遠隔地と呼びません。成田空港から海外へ出かける人が、大きなトランクを提げて東京駅から新幹線に乗る筈はなく、従って江戸川区民の反対を押し切り、二千億もの大金を投じて建設しても赤字になることは、火を見るより明らかです」

「成田空港関係の従業員は乗りますよ」

「この程度の認識しか持っていない人と、これ以上話し合うのは時間の浪費です」

 中里区長は、鋭い一瞥を相手へくれて席を立った。

 

 江戸川区の反対運動に呼応して、同じく新幹線の通過区域を抱える江東区、浦安町(現・浦安市)、市川市、船橋市、成田市なども反対の声を上げ始めた。中里区長は着々と準備を進めて、昭和四十七年四月二十五日、運輸大臣を相手に東京地方裁判所に国鉄成田新幹線工事実施計画の認可取消しを求めて提訴した。

 次の五点を理由に挙げての提訴である。

 

 一、当該計画は全国新幹線鉄道整備法の第二条に違反する。同条は「列車はその主たる区間を時速二百キロメートル以上の高速度で走行する」と規定しているが、この計画では百三十キロメートルに過ぎない。

 二、当該計画は同法第三条に違反する。同条は「全国的幹線道路を形成する」と規定しているが、この計画は全国の中核都市を有機的かつ効率的に連絡するものではない。

 三、当該計画は都市計画法による土地区画整理法に抵触する。

 四、各種公害を発生させる。

 五、東京、成田間には既存・計画路線を合わせて十四以上の交通機関がある。特定の利用者のために、大きな犠牲を払ってまで建設する必要はない。

 

 これに対して国は、「この工事実施計画は青写真的なもので、住民に具体的な利害関係を及ぼすものではない。また、いかなる者が利害関係を有するかも不明である」と反論した。東京地方裁判所は三回の公判を経て、年の瀬も迫った十二月二十三日、国の主張を入れ江戸川区の提訴を退けた。

「こうなったら最後の最後まで闘うぞ」

 と、中里区長は東京高等裁判所に控訴し、「環境権」という新しい考えを基に法廷闘争を展開したが、昭和四十八年十月二十四日、却下されて最高裁判所に上告した。

 昭和五十三年十二月八日、やはり棄却されたことで、法廷闘争に終止符を打たざるを得なかった。その後、新幹線工事は進められたが、完成をみることなく中断された。

 

 平成二年三月十日、JR京葉線が東京駅まで延長され、翌年の三月十九日、JRと京成電車は成田新幹線用に建設されていた地下ホームと、同線の完了線分を通過しての成田空港乗り入れを開始した。

 この日、中里区長は深い感慨にふけりながら、

「……国鉄が昭和六十二年四月に民営化されて、JRに変わらなかったら、どうなっていたか……成田新幹線は江戸川区内を通過しなくなったのだから、結果において、あの反対運動は実を結んだわけだ……」

 と呟いた。

 七十八歳と高齢だが、近く実施される区長選への出馬を決めており、かつて「私は江戸川区に生まれ、江戸川区で死んでいく。誰よりも江戸川区を愛している。江戸川区のためなら、どんな努力も惜しまない。この江戸川区の捨て石になる」という言葉に託した「愛区心」は些も衰えていなかった。

 

 第4章 熟年福祉と障害者福祉

   江戸川区高齢者事業団――老人に「生きがい」を

 

 五十五歳定年が守られていた昭和四十年代、東京都の六十歳以上の人口は約百万人で、都労働局の調査によれば、そのうちの八万二千五百人は「健康」と「生きがい」のために働くことを希望していた。年金は、公務員の五十五歳を除くと、厚生年金六十歳、国民年金は六十五歳からの支給だった。そこで都は四十九年三月、「高齢者による事業団の設立」という新しい構想を打ち出し「東京都高齢者事業団(仮称)設立準備会」(会長大河内一男)を設置した。しかし、区長会の賛同を得られず、モデル事業団の選定も進められなかった。失業対策事業と受け取られたのだ。

 高齢者就労問題研究担当副主幹の小山昭作氏は、かつて江戸川区内の小岩清掃事務所長を務めたことがあり、中里区長の行政姿勢を熟知していた。「区民本位」を掲げる中里区長なら、この構想に賛成してくれるに違いないと、旧知の田島衞都議会議員に協力を乞い、同議員とともに中里区長に会って、それまでの経緯を説明したうえで懇請を繰り返した。

「是非とも江戸川区で始めて下さい」

「都の構想は結構だが、私の一存で決められる事じゃないので、老人クラブの幹部らと検討してみましょう」

 と、中里区長は即答を避けたが、早くも意欲を燃やしていた。平均寿命の延びは高齢化を進行させつつあり近い将来、高齢者の多くは色々の理由で働くことを望むはずで、それならば今のうちに都の要請に応じたいと、老人クラブ連合会と協議を重ねる一方、六十歳以上の区内在住者の半数に当たる一万七千人を対象にアンケート調査を実施した。

 事業団への参加希望者は九百二十六名で、区内の五地区で説明会を開いたところ第一期の登録者は三百五十六名だった。

「まず始めよう」

 と、中里区長は関係者の賛同を得て五十年二月二十四日、区民センターにおいて「江戸川区高齢者事業団」の設立総会を開いた。事業団の目的は次のように定められた。

「この事業団は高齢のため一般雇用になじまない、またはそれを望まないが働く意欲を持っている健康な高齢者が、その経験・能力・希望を生かして相互に協力し、地域社会の活動と密接な連携を持ちながら働く機会を得て、生活感の充実・福祉の増進を図るとともに地域社会に貢献しようとするものである」

 設立総会には登録会員三百五十六名が出席し、会長には川島貞次江戸川区老人クラブ連合会会長が選出された。席上、中里区長は、

「この事業団は、全国の仲間の期待を担って発足したのでありますから、皆さんも十分その期待に応えて下さい。区としても、皆さんが気持ちよく働けるよう側面からの協力をいたします」

 と挨拶した。

 全国のトップを切っての江戸川区高齢者事業団は四月一日、その事務所を区役所第五庁舎内に置き、区から三百万円の運転資金を借りて業務を開始した。会員の自主運営を貫き、会員は所定の会費を収める。登録会員は増えたが、折からの不況で受注は思うように伸びず、それをカバーするために数多い区立公園や児童遊園の清掃や、区の公共施設の仕事を引き受けた。一般家庭からの受注は、植木の剪定、手人れ、襖の張り替え、ベランダ、家屋の塗装などで、会員の丁寧な仕事ぶりは発注者に喜ばれた。

 それまで家に引きこもり"隠居生活"の無聊に苦しんでいた会員は、この仕事に「生きがい」を感じるようになった。それに若干の収入が伴い、

「自分の稼いだ金で晩酌をやれるなんて、最高の気分だ」

 と、相好を崩す会員が増えていった。それらの会員との対話は、中里区長を勇気づけた。

「私の考えは間違っていなかった」

 

 初年度(昭和五十二年度)の実績は登録会員六百六十一名、実就労者三百十七名、延べ一万四千七百五十四名、事業収入三千七百六十七万円。事務費を引いた三千三百二十七万円は会員に配分された。

 受注は順調に増え続けて、五十八年度は四億四千三百五十一万円で、これは八年連続全国一だった。六十年度からは、放置自転車の再生・販売も始めた。それにつれて会員数も六十三年度に二千名を超え、平成十一年度には三千二百五十一名に達した。この事業団のめざましい活動ぶりは全国的に注目され、見学・視察団が相次いだ。外国からの視察者も多い。

 某外国の老人学会の幹部は、事業団を訪ねた折、感嘆の声を連発し帰国後、江戸川区高齢者事業団を激賞・礼賛する文章を週刊誌に寄稿した。たまたま、それを目にした都事業団の担当者は喜び、さっそく江戸川区に伝えた。

 

 江戸川区高齢者事業団は、会員と受注の増加に対応するため五十二年四月二日、新設された小岩生きがいセンター内に本部事務所を移し、さらに五十四年十月一日、葛西生きがいセンター内に葛西分室を設置した。そして翌五十五年十一月十日、社団法人シルバー人材センター江戸川区高齢者事業団設立総会を開催し、国の高齢者労働能力活用事業として補助金を受け、社団法人の認可を受けた。

 六十年四月、その本部を新設の西小松川三四番の生きがいセンターに移し、翌六十一年四月、小岩分室を設置した。

 

 平成十二年度

  補助金額  一億四千六百二万六千円

  返還    七百八十四万八千六百円

  契約金額  十一億三千百四十六万八千百八十九円

  会員配分金 十億五千三百十万九千七百七十二円

  会員    三千三百二十名(男二千五百十四人、女八百六人)

 

「高齢者事業団を作るとき、中里区長は、

「老人対策では、何が大事ですか」

 と聞いてきました。

 私は、

 一、生活の安定ということ。高齢者にも、いろいろ多様であることを知ること。

 二、ある程度の小づかいが欲しいし、生きがいが必要。

 三、健康の増進。

の三つを話しました。意見を聞いたあと、区長は自分で決断しました。人の意見を決して無視しなかった」

 と話しているのは、当時の区議会公明党幹事長、日下部義昭氏である。

 

生きがいセンター――生涯学習の場として

 

 十代で両親と死別して、風樹の嘆きを繰り返した中里区長は、自らの悲しい体験から昭和四十八年十二月、厚生部福祉課第二係を「孝行係」に改めた。そのものズバリの命名で、区内の高齢者から、

「区は本腰を入れて、われわれに孝行してくれるんだ」

 と喜ばれた。

 高齢者事業団設立の一年余り前のことである。先見性に富む中里区長は、高齢者事業団の会員からの希望を先取りして、生涯学習の場と位置づける「生きがいセンター」の設置に向けてプロジェクトチームをつくり検討を重ねた。好むと好まざるとにかかわらず核家族化は進む一方で、それによって熟年者の独り暮らしや夫婦二人暮らしの世帯が増えることは目に見えていた。孤独感や疎外感に悩み苦しむ熟年者に必要なのは「生きがい」であり、それを提供することを決めたのだ。

 こうして昭和五十二年四月二十日、小岩二丁目に全国初の「生きがいセンター」(現・くすのきカルチャーセンター)をオープンした。他所へ移転した小岩保健所庁舎を改装したもので、一階には高齢者事業団の事務所と作業場、二階には熟年者の生涯学習の生きがいセンターの事務所と三つの教室を設置した。

 その落成式で中里区長は、

「この生きがいセンターを利用する方が生き生きとするだけでなく、その家庭全体が明るくなることを望んでおります」

 と挨拶した。

 

 初年度の五十二年度は一年を三期に分けて、書道・手芸・革細工など延べ十七科目の講座を開いたが、受講料や教材費、講師への謝礼は区の負担とした。第一期の受講者五百八十八名は講座修了後、富士山五合目と日光への日帰りバス旅行を楽しんだ。

 その後、造形盆栽、七宝焼、短歌、俳句、リボンフラワー、つまみ画、木目込み人形、ペン習字、民謡、大正琴、日本舞踊、水墨画などの講座が加えられた。受講希望者が増えたため五十三年十月、平井福祉センターで移動教室を開いた。五十四年十月には「葛西生きがいセンター」、六十年三月には西小松川に「生きがいセンター」(現・中央くすのきカルチャーセンター)をそれぞれオープンした。中里区長は高齢者を「老人」ではなく「熟年者」と呼んだ。円熟した人、熟達した人、熟慮する人、という意味をこめていた。

 中里区長は落成式には必ず出席して、高齢者との交流に努めた。正規教室を修了した受講者は、センターごとに自主発表会を開いている。六十一年八月、従来の「生きがいセンター」を「カルチャーセンター」に改めた。

 受講者の増加に応えて平成二年四月、下鎌田西小学校内の余裕教室に「東部くすのきカルチャーセンター」を新設した。また、「くすのきカルチャーセンター」が新たに「英会話」を加えたとき、受講希望者は定員の十倍を超えるほどの人気を博した。この講座は中里区長の強い希望によるもので、区長は開講に当たり、

「皆さんは、英語が敵性語として排斥された太平洋戦争中に青春時代を過ごされました。学べなかったことを徒に悔やまず、心を新たに勉強を始める皆さんに敬意を表します。国際化時代に英会話は必要です。大いに向学心を発揮して下さい」

 と、その思いを語った。

 四年四月には、平井南小学校と篠崎第四小学校に、それぞれ「小松川くすのきカルチャーセンター」と「鹿骨くすのきカルチャーセンター」を設置して、六か所に増やした。

 小学校に設置したことで、熟年者は小学校の行事に招待されたり、児童はカルチャー教室を見学したりして、両者の間で心温まる交流が行なわれるようになった。

 昭和五十二年から平成十二年までの正規教室受講者は、六万二千二百二十五名に達した。

 

 全国初の「生きがいセンター」を開設して五年目の昭和五十七年十月二十五、二十六の両日、東京で開催された第一回「日米都市行政経験交流会議」に、中里区長は日本代表の一人として出席した。この会議の目的は、日本とアメリカを代表する自治体の首長が、それぞれの立場から行政運営への取り組みについて経験と意見を交換し、より良き行政を目指すことである。

 アメリカ側の参加者は、ワシントン、ダラスなど八大都市の市長やゼネラル・マネジャーで、日本側のそれは中里区長を含めてやはり八人だった。この会議の代表に選ばれるほど中里区長の存在は、江戸川区のユニークな行政とともに広く知られるようになっていた。

 そして、翌五十八年九月二十八、二十九の両日、アメリカの首都ワシントンで開催された第二回会議にも、江戸川区長として青森県青森市、山口県徳山市、北海道滝川市、神奈川県横須賀市の市長らと出席した。「福祉先進区」のモットーを掲げる中里区長は、ワシントンへ向かう途中、アリゾナ州フェニックスにあるサンシティを視察した。

 それは熟年者のために造られた町で、アメリカ式に整然とした街並みになっているものの、目につくのは病院と娯楽施設だけで何とも味気ない。熟年者の生活に必要な地域社会が形成されていないのだ。そのことに触れたあとで中里区長は、同行者らに、

「やはり我々が目指しているように、熟年者を孤立させては駄目だ。調和のとれた地域社会で、色々な世代の人々と暮らすのが一番幸せだ。我々とアメリカ人は考え方が違うから、一概にここの町づくりを低く評価したくはないけれど、私自身、ひとり暮らしになった場合、こういう町には住みたくないよ」

 と、同意を求めるように言いながら、ふと六年前の秋、福祉先進国のスウェーデンとデンマークの老人ホームを視察した時のことを思い出した。その老人ホームでは、通訳を介して入所者らと面談し、辞去しようとした時、一人から握手を求められた。快くそれに応じたところ、相手はなかなか握手を解かず、何かを訴えるような視線をからませてきた。あとで分かったことだが、入所者らは社会から隔離されて強い孤独感にさいなまれているのだという。

 親子の別居が常識とされる国で、年老いた親は行き届いた福祉施策によって経済的に困らなくても、孤独感が原因の自殺は増えているらしい。ワシントンでの会議のテーマは「高齢化社会の到来と自治体の対応—老人福祉施策と財政問題」で、アメリカ側の出席者は連邦・州・関係機関の代表者らである。

「高齢化社会の到来と自治体の対応」の中の「生きがい」部門を担当した中里区長は、熟年者が高齢者事業団や町会で活動する姿を写した特製アルバムを教材にして、江戸川区の熟年施策の実態を説明し、将来への展望を熱っぽく語って、参加者全員に深い感銘を与えた。

 

 区内の障害者施設

 

 障害者への思いやりが深い中里区長は、他区に先がけて昭和四十二年四月一日、南小岩八丁目にある都立江戸川授産事務所内に江戸川福祉作業所を設置した。都が一般授産所の一部を心身障害者の施設に切り換えたのを機に設置したもので、その目的は、就労が困難な十五歳以上の心身障害者に仕事を提供し、作業指導や生活指導を行ない社会の一員として自立できるようにすることだ。昭和四十四年七月、都が心身障害者対策を一元化したのに伴い、この福祉作業所は都立王子福祉作業所の管理下に移されたが、昭和四十六年四月、西小岩三丁目の現在地に新築移転した際、事業所として独立した。

 現在、区立の障害者施設は「希望の家」「虹の家」「みんなの家」「えがおの家」「松島ホーム」「小岩福祉センター育成室」「葛西児童センター育成室」「上一色コミュニティセンター障害者生きがいの場」などで、障害者は、それぞれ近隣の施設を利用している。

 重度障害者に対しては、所得制限なし原則無料で、ホームヘルプサービスや住宅改造の助成を始め、ホームケア機器の給付、福祉電話の貸与、紙おむつの支給、巡回入浴サービスなどを実施している。昭和四十八年から開始した心身障害者福祉手当と難病患者福祉手当は、都の制度に先がけての実施で、これも中里区政の「福祉重視」の表れである。

 また、区には民間通所授産施設が十二か所と多く、区は必要に応じて支援している。昭和五十四年四月に障害者の団体は「障害者生きがいの場運営協議会」を設立し、行政と提携して障害者福祉を推進することとなった。

 昭和五十四年四月にオープンした「上一色コミュニティセンター」に設置された作業室、訓練室、和室、会議室、浴室は「障害者生きがいの場」と呼ばれ、自主的な運営が特徴とされている。多くの障害者の「軽作業をやったり、気楽に喋り合える場所が欲しい」という希望が、この「生きがいの場」の設置につながったのだ。昭和四十七年、交通事故に遭った人々を支援するため、環境部に「交通禍対策室」を設けたのも、江戸川区ならではのことと言えるだろう。

 

 「もぐらの家」をめぐって

 

 江戸川区には、「社会福祉法人つばき土の会もぐらの家」というユニークな心身障害者の授産施設がある。この施設の歩みは、中里区長の福祉施策を表す。その始まりは昭和四十三年八月、都立江戸川養護学校で「夏休みの実習」として電線解体作業を試みたことで、昭和四十四年三月、卒業生の父から三年間の期限付きで、西瑞江の土地五十坪を無償で借りて、そこに五十坪のプレハブ作業所「もぐらの家」を建てた。

「もぐらの家」は、「地上の光に触れると、その命を踏んばり切れない」とされるもぐらに由来する名称で、住み込み四名、通所三名、計七名でスタートすると、ただちにボランティアグループ「土の会」が結成された。続いて昭和四十五年五月、「もぐらの家」が建つ地名をとった「みず江会」という賛助会がつくられた。

「もぐらの家」の代表と父母、教員らは昭和四十六年七月二十一日、江戸川区役所に中里区長を訪ねて、土地の無償貸与の期限切れが迫っていることを話し、土地と建物の提供を要請・陳情に及んだ。

「分かりました。なんとか致しましょう。区立学校のプレハブ校舎で不用になった四教室を提供できるでしょう」

 と、中里区長は好意を示したが、そう簡単に事は運ばなかった。区の財産を任意団体に提供することはできない、という区条例があるからで、「もぐらの家」は厚生部長に提案されて、「みず江会」の福祉法人化を目指すことを決めた。だが、これも「基本財産の欠如」により都の認可を受けられず、厚い壁の前での立ち往生を余儀なくされた。

 そこで「もぐらの家」は、財団法人「ひふみ会」と合併する道を選んだ。「ひふみ会」は、東京都保谷市(現・西東京市)と栃木県真岡市に、それぞれ重症心身障害児施設と重症成人障害者施設を運営しており、「もぐらの家」の創立者で都立江戸川養護学校の山崎功教諭は、かつて「ひふみ会」の和田博夫理事長の部下だった。その縁で話は進み、「もぐらの家」は「ひふみ会」と合併して、江戸川区の援助を受けることを決めた。生き残るためで、「ひふみ会」から経営指導は受けても独立採算、自立を目指す方針に変わりはなかった。

 こうして中里区長は昭和四十七年七月、江戸川区議会の議決を経て「ひふみ会」に、春江町三丁目にある区有地約八十坪と建設資金二百万円を提供するにあたり、「もぐらの会」の関係者に経緯を説明した上で、

「……これを契機に土の中からぽっくり首を出した"もぐら"ではなく、明るい太陽のもとで元気で働く若者として、将来の活躍を大いに期待しております。精一杯頑張って下さい」

 と激励した。

 

 新生「もぐらの家」は、この年の十二月十七日に完成した。簡易プレハブ住宅で、一階は銅線作業所と事務室、静養室、食堂、浴室で占められ、二階には住人らの居室、資料室、印刷室などがある。

 江戸川区からの助成金は年ごとに増やされ、経営も軌道に乗ったことから昭和五十八年十二月、独立した社会福祉法人になるべく江戸川区に協力を求めた。社会福祉事業法と身体障害者福祉法に定める認可施設になれば、法的措置を受けて安定した生活を送れる。区は協力を約して、東京都への働きかけを始めたが、それに「ひふみ会」の和田理事長は異議を唱え、「もぐらの家」の所長・次長に圧力をかけた。

 区は「ひふみ会」の理事長に、来庁して真意を説明することを求めたが黙殺された。同じことが繰り返されたことから区は、昭和六十一年度下半期分の補助金をストップした。それに抗議して、「もぐらの家」の住人ら二十九名は昭和六十二年二月十八日の朝、区役所の敷地内で登庁する職員にビラを手渡した。一方、「ひふみ会」の和田理事長は、「もぐらの家」が社会福祉法人になって「ひふみ会」から独立することを認めない旨を明言した。「もぐらの家」の住人らは、庁舎内にテントを張り看板を立てての抗議運動を続けた。

 江戸川区は、この憂うべき事態を打開するため昭和六十三年七月、社会福祉法人設立準備委員会を設置し、私に会長就任を要請した。中里区長の意向によるものだった。

 中里区長の意向で会長に就任したことにより、私は「もぐらの家」に深く関わることになる。「もぐらの家」は社会福祉法人化を目指して、「ひふみ会」に区有地の明け渡しと四千万余円の銀行預金の返還を求めた。が、それらは「ひふみ会」の法人財産」であるという理由で冷たく拒絶された。

 こうなれば法廷で決着をつけるしかなく、江戸川区は平成三年八月、「ひふみ会」を相手取って東京地方裁判所に「建物収去・土地明け渡し請求」を提訴し、「もぐらの家」も十月、「預け金返還請求」を提訴した。平成四年二月、江戸川区が勝訴し、被告の「ひふみ会」は東京高等裁判所へ控訴、これも敗訴となり最高裁判所に上告したけれども平成六年一月、棄却された。

 

 一方、「もぐらの家」と「ひふみ会」の裁判は、前者の敗訴に終わった。「財産は、もぐらの家独自で形成したものと認めるが、形成時もぐらの家は、財団法人『ひふみ会』に属する一機関であった。従って、『ひふみ会』は一刻も早くこの財産を『もぐらの家』に取得させるよう努力すべきであるが、現時点では、法人所有に帰属すると言わざるを得ない」という理由からだった。

「もぐらの家」は控訴したが、裁判所の勧告により両者は和解の道を選んだ。結局、「もぐらの家」は、「ひふみ会」に預けていた金額に利息を加えた五千二十七万五千九十二円を受けとることになり、法人設立準備委員会は平成七年五月、「社会福祉法人つばき土の会」の設立申請を都に申請し、その認可を受けた。

「土の会」は、江戸川区から春江町三丁目の区有地九百六十八平方メートルを無償で借り受け、そこに十八歳以上の身体障害者三十名(通所七名)が住む授産施設「もぐらの家」(建物面積一千二十七・三五平方メートル、鉄筋耐火造三階建て)を新築し、平成七年十一月二十三日、勤労感謝の日に落成式を行なった。

 私は法人を代表して、

「この日を迎えることができまして、まことに感慨無量のものがございます。この場に立ち、関係者のみなさまに心から感謝の意を棒げます。夢のような思いです。今日の喜びをみなさま方と分かち合うとともに、これからの運営が円滑に行なわれ、ご期待にそえるよう努めることをお約束申し上げます。本当に有難うございました」

 と、謝辞を述べた。続いて、中里区長は、

「もぐらの家の人びとは、自分たちの生きがいの城を是が非でも守り、育てようと心をひとつにして取り組み、どんな困難に直面しても決して弱音を吐くことなく頑張ってこられました。真の福祉は、政治や行政だけで出来るものではありません。そこには、自らの努力と理解ある地域社会の支えがなければなりません。これからも、みなさんの懸命な努力に対して出来る限りの支援をしてまいります。もぐら、大いに頑張って下さい!」

 と激励した。

 この「もぐらの家」は、福祉先進区の江戸川区でなければ、建設されなかったに違いない。

 そのことは長らく「もぐらの家」の住人だった池田浩氏が、平成十三年二月下旬、私に宛てた次の私信からも明らかである。

 

 三月の声も間近にして、確実に春の訪れを身体で感じられる今日この頃ですが、小久保先生にはお変わりなく元気でお過ごしですか。お陰さまで私も風邪一つ引かないで元気に野の花ホームに来て二度目の冬を過ごしていますから、御安心下さい。

 所で、この間の先生からのお手紙で中里区長さんがお亡くなりになった事を知り、本当に驚きました。何しろ高齢なので、いつかはと思っていたのですが、あまりにも突然だったので正直言って、とてもびっくりしたのです。それと同時に、もぐらの家にとっての一つの時代は完全に終わったのだと思いました。何故なら、もぐらの家が始まってから、区長として任期が終わるその日まで、政治家、いや一人の人間として、自分の持てる力の全てを使って、もぐらの家を愛し誠意を示してくれたのは、中里区長さんしかはっきり言って、何処にも居ないからです。

 それが確実に分かるのは、もぐらの家が四百日以上も座り込みを続けるという、区サイドにとっては愚かな行動そのものを、政治家としての大きな包容力で完全に包み込んでしまい、以前と同額の補助金を復活して下さり、しかも、その後数年を経ずして長年の公約通り、もぐらの家にとっての開所以来の悲願である、社会福祉法人認可を本当に実現させた事です。

 多くの政治家の人達は、選挙前には素晴らしい公約を数多く掲げます。しかし、当選してしまえば、それらは全て過去の事として忘れ去られてしまうのです。

 そうした中にあって、私たちは区庁舎内で座り込みを続けました。中里区長さんにとっては、甚だ心外だった筈なのに、かねての公約通りに「もぐらの家」の法人認可を実現されたのです。

 中里区長さんの政治家としての行動力と責任感とその愛は、死後百年後、江戸川区の歴史、そして私の心に必ずや生き続けると思います。

 もし同じ場面に先の小渕首相、米国の歴代大統領のケネディ、レーガン、クリントンがいたとしたら、彼らをもってしても、もぐらの家の法人認可は恐らく実現させなかったと思います。そういう意味で理屈ぬきに中里区長という人は素晴らしいし、自分が生きている間に、その人と確実に出会う事が出来て本当に良かったと思います。

 例の女の子は、お陰さまで元気です。東京にもピアノの演奏で時々行っているようです。この間のバレンタインデーにチョコレートを貰いました。ラッキーでした。小久保先生も何処か有名な神社にでも行く機会があったら、何とかハッピーエンドになるように、私の代わりにお賽銭をあげて祈っておいて下さい。何時かお会いする時があったら必ず払いますから、よろしく。

 それでは今日は、この辺で失礼します。さようなら。

   福島県いわき市平上平窪 

         野の花ホーム内   池田 浩

 

 池田氏は、生来の進行性の脳性マヒで、肢体不自由、言語発音不明、歩行困難であり、五十歳を超える近年、食事も自分では不可能になり、頚部にはギブスを常用しないといけない人である。しかし頭脳明晰であり、この程度の文章を長い時間をかけて、ワープロで打つことが出来る。最近、可愛い女性と恋愛しているということを私に報告してきたのである。

 彼は、病状が進行したため、平成十一年、彼を受け入れてくれる福島県いわき市の施設に移住したのである。

 

 終章 名は永遠に……

   名誉区民第一号、そして勲三等瑞宝章授賞

 

 区長・区議選が告示された平成十一年四月、中里区長は痰がからむため喉を切開され、食事が出来ず栄養剤の点滴を受ける状態だったので、区長候補の多田正見氏への応援は叶わなかった。

 区長選挙が告示されたが、多田正見教育長は無名に近かった。相手の宇田川芳雄氏は江戸川区東葛西の旧家の出身のうえ長年、東京都議会員を務めた実力者で人望もあった。

 この勝負は、多田教育長が明らかに不利であり、宇田川氏の勝利を確信する人が多かった。しかし、大激戦となり字田川芳雄氏九九、一二五票に対して、多田正見氏は一〇七、二六六票で、多田氏の辛勝(八一四一票差)となった。

 この選挙は結局、中里喜一区長にとって最後の選挙となったのである。

 四月二十五日、多田正見候補当選の報に接した中里区長は、声を振り絞るようにしてベッドの上で「万歳」を叫んだ。

 

 中里区長が万感の思いを込めて、テープに吹き込んでおいた退任のメッセージは翌日、区庁舎四階の委員会室において幹部職員に披露されると同時に、庁内へ放送された。そのメッセージの中で中里区長は、三十五年に及んだ区長在任期問中のあれこれに触れたあと、

「今日の江戸川区は、日本で一番住み良い街として、全国的にあらゆる面で高い評価を得るまでに発展しました。これは、区民と行政が一体となり、懸命に努力した汗と涙の結晶であります」

 と結んだ。

 

 それから間もなく、病状は安定したのでリハビリを始めたが、思うような回復は望めず怏怏として楽しめず、焦燥感に駆られる日を送った。

 そんな中里前区長に朗報がもたらされた。多田正見区長の提案で、江戸川区議会は七月六日、「江戸川区名誉区民条例」を可決し、賛成多数で中里前区長を「名誉区民」の第一号に選んだのである。多田区長は多くの区民の「これだけ江戸川区のために尽くしてくれた中里さんの功績に、何らかの形で報いなければ……」という声に応えて、区議会に提案したのだ。

「身に余る光栄です」

 と、中里前区長は厚く礼を述べた。

 それから間もなく中里前区長は、秋の叙勲で勲三等瑞宝章の受賞が決定したことを知らされた。

 元気だった壮年時代ならば、おそらく

「なにッ、勲三等ッ。そんなものもらえるものかッ」

 と不貞くされて、一喝したであろうと思われるが、やはり、年を経て老成したのであろうか。

 自治大臣表彰、自治大臣特別表彰に続いての栄誉であった。それに先立って、区役所が自治省へ提出した「功績調書」のコピーを届けられていた。病床で、それを一読した中里前区長は、

「ここに記されているほど立派な人間じゃないのに……」

 と面映ゆかった。が、江戸川区のために尽くしたことを評価されたことに大きな喜びを感じた。

 

 功績調書

 

 本籍 東京都江戸川区船堀六丁目

 現住所 〒134-0091 東京都江戸川区船堀六丁目

  前江戸川区長  中里喜一

   明治四十五年七月十六日生(八十七歳)

 

 一 性行

 温厚誠実にして決断力と実行力に富むその優れた洞察力と相まって、地方自治の発展に常に先駆的役割を果たした。やさしく人情味あふれる人柄は、区民及び職員から大きな信望を集め、豊かな経験と知識により、区政の発展と区民福祉の向上に多大な貢献をした。

 二 事項

 氏は昭和五年三月、江戸川区職員(当時、松江町役場職員)となって以来、教育課長、総務課長、葛西支所長と要職を歴任し、昭和三十五年、助役に就任した。氏の助役時代は、池田勇人内閣が誕生し、いわゆる所得倍増論を旗印に高度経済成長政策を推し進めた時期であった。

 江戸川区の行政についても"役場的"な行政感覚から新しい行政機関へ脱皮すべく、氏は、事務改善、行政近代化に向け、数々の手腕を発揮した。そのひとつに、コンピューターの導入がある。コンピューター黎明期でもあった当時、全国の自治体の中で兵庫県西宮市に次ぐ二番目の早さの導入だった。導入後は、職員の給料計算、区民税の計算、請求事務に国民健康保険料の徴収にと、人力では及ばない大きな威力を発揮したことはいうまでもない。氏の行政近代化に取り組む積極的な姿勢がうかがえる。江戸川区の事務改善、行政近代化は、"江戸川方式"として広く全国へも紹介された。

 

 1 三十五年間江戸川区長としての功績

(1)江戸川区の将来像――総合開発基本計画

 昭和三十九年一月、区長に就任した。以来、連続九期(議会選任三期、公選六期)東京五輪開催の年から現在に至る三十五年間に亘り、今日の江戸川区発展の礎となった区画整理事業、緑化事業、親水公園整備事業、下水道事業などの街づくりに区民の先頭に立ち多大な貢献をした。区長に就任早々、新しい快適な都市を創造する将来像を示した「総合開発基本計画」を策定した。

 かつて、江戸川区は、度重なる洪水に見舞われ、雨が降れば水浸し、長靴が欠かせない街、住みにくい街とさえ言われた。江戸川区を何としても、住める街、誇りの持てる街、日本一の街にするという大きな目標を掲げ、区民、行政、議会が一体となった区画整理事業を柱とする街づくりに着手した。区画整理事業は、完成まで二十年、三十年という歳月を要し、区民と行政の強固な信頼関係がその成否を決定するものであり、「将来のために、是非やろうではないか」と、組合施行を関係住民と話し合い、六百ヘクタールに及ぶ事業を断行できた。公共施行を合わせて千ヘクタールは、区の面積の五分の一に及ぶ区画整理事業の実施は、全国でも極めて異例なことである。その区画整理事業の過程においては、ゴミ公害、成田新幹線通過問題、ジェット機騒音問題などさまざまな問題が持ち上がったが、その度に区民と行政が一致団結して解決したことから次第に区民の地域への愛着心を高め、行政への住民参加を定着させる元にもなった。

(2)用地先行取得――開発公社の設立

 昭和四十五年、市街地化が進む中で、都内初の「開発公社」を設立し、用地の先行取得に努めた。地価高騰の時代、予算制度の仕組みから来るタイミングの遅れが高価な土地取得となり、さらには、土地の確保を逃す事態を克服するために生み出されたもので、地価の高騰下において、多くの自治体が財政危機に襲われる中で、区財政の健全化に大きく寄与した。取得済みの五十ヘクタールの土地は、学校、区民施設、公園等の建設用地として活用され、職・住・遊・学が調和した街づくりを実現した。

(3)国民健康保険料徴収員を非常勤化――微収率二十三区トップ

 国民健康保険料の支払いは、今では口座振替が一般的だが、昭和四十年代は、区の専門職員が各家庭を回り徴収していた。ところが、共働き家庭が増え始め、昼間留守が多いことから、夜間、休日でなければ徴収できないため、能率が上がらない。そこで、氏の英断により、昭和四十六年、"徴収員を非常勤化"し、主婦のパートに任せた。結果、それまで八五パーセントの徴収率が一気に九七パーセントに上がり、二十三区トップになった。国民健康保険料の徴収は、九十パーセントがノルマで、それを超えると区の自由財源となり、数多い施策に役立てることが出来た。そのひとつに昭和五十一年、友好都市の長野県穂高町に区民の保養施設「穂高荘」を建設し、二十三年を経過した現在でも八五パーセントを超える利用率となっている。

(4)ドブ川を清流に――世界初の親水公園完成

 昭和四十八年、世界で初めての親水公園である「古川親水公園」を完成させた。かつて、農業及び舟運として使われた数多くの水路は、急激な都市化の中で、家庭排水により悪臭を放つドブ川と化した。そのため下水道整備を促進し、多くの不要となった水路を単に埋めて道路にするのではなく、川岸に樹木を配し、河川から水を引き込み、浄化して流す、水と親しめる清流によみがえらせた。この試みは、"親水"の言葉を全国に定着させ、自然回復の例として、カナダ・スポーケン博覧会に紹介されるなど、各方面に大きく取り上げられた。そして、市町村初の「全建賞」を受賞。さらにその後、次々と完成した親水公園や緑化事業を含めて、平成九年、「緑の都市賞内閣総理大臣賞」を受賞するなど高く評価された。

 現在、親水公園、親水緑道は、二十一路線、総延長二十五キロメートルに延び、水と緑のネットワークを成し、江戸川区の快適環境のシンボルとして区民に親しまれている。また、この成功が契機となり全国に親水公園が普及した。

(5)子どもから熟年者まで――福祉先進区

 氏は、都市環境の整備に力を注ぐ一方、"福祉の江戸川区"と呼ばれるほど熟年福祉、児童福祉、障害者福祉など数多い手厚い福祉施策を手がけ、その主なものとして熟年福祉では、昭和五十年、全国に先駆けて「高齢者事業団」(シルバー人材センター)を設立した。高齢者の経験・能力を生かして、地域社会に積極的に参加、貢献できる場を設けることが生きがいにつながるという強い信念のもとで誕生したもの。さらに、高齢者がいかに幸せを実感して生活ができるかを実現するために、高齢者を熟年者と改め、熟年者の立場に立ったきめ細かい施策を展開してきた。特に、平成二年一月、住環境の面で、老朽アパートの建て替えに伴う家賃の高騰から、熟年者が「終のすみか」を追われるケースを防ぐため、旧家賃と新家賃の差額分等を全額補助する「家賃等助成制度」と、同年十月、介護を必要とする熟年者の家を生活しやすいように改造する所得制限・最高額制限を設けない「住宅改造助成制度」は全国から注目された。

 児童福祉においては、昭和四十四年、ゼロ歳児は家庭的な環境と深い愛情のもとで育てることが、人間愛や信頼につながると言う考え方に基づき、「保育ママ制度」を導入した。これは、家庭にいる専業主婦で、すでに子育てが終わって時間にゆとりのある"ママさん"が、社会的、経済的事情から止むを得ず養育ができない家庭の乳児を預かり代わって育てるものである。また、平成七年には、"小学校入学前の乳幼児の医療を無料化"し、若い両親の経済的負担を軽減した。

 障害者福祉では、生活訓練や作業訓練を行なう通所施設の運営や補助に努め、障害者の自立の援助や、互いに支え合いながら地域社会で生活し、活動することができる施策を実現させた。「福祉は心」を基本に、全ての人が心豊かに暮らせるよう取り組んできた。数々の先導的な施策が全国的に高い評価となり、今日では「福祉先進区」と言われるまでに至っている。

(6)二つの財団法人――環境促進事業団と区民施設公社

 昭和五十五年、「環境促進事業団」を設立。より魅力ある都市環境づくりを目的に公園整備や自然環境の維持改善などを担い、より柔軟な発想と迅速な対応が可能となった。現在、前述の親水公園や水上バス、マリーナ、動物園等を管理。区が管理する二十三区随一の公園数を誇る約四百か所の公園を含めて、緑に恵まれた快適な都市環境を実現させた。

 翌昭和五十六年には、「区民施設公社」を設立。区民施設の管理運営を担当し、施設の年中無休化や開館時間の延長など、利用者ニーズに沿ったサービスを実現するとともに、繁閑期に合わせて他の施設や部署からの応援体制が、容易に組める職員の効率的配置と意識改革を実現させた。このような、住民生活の向上を目指す創意工夫と徹底した合理化の積み重ねが、今日の区の経営基盤をつくり上げた。現在、スポーツ施設、コミュニティ施設を始め、長野県穂高町と新潟県塩沢町の保養施設を合わせ二十九か所にのぼり、最小の経費で効果を上げている。

(7)江戸川区の乗合船――総合区民ホール

 区随一の規模を誇るシンボル的な施設「総合区民ホール」を平成十一年三月に完成させた。地上七階地下二階、百十五メートルの展望タワーを有し、延べ面積四万五千平方メートル。建物全体を船に、タワーをマストになぞらえた"江戸川区民の乗合船"をコンセプトとしている。人と人が出会い、交流し、情報交換するコンベンション機能を中心とし、千五百名収容のイベントホール、大・小ホール、展示ホール、産業振興センター、医療検査センター、映画館を備えた複合施設である。この施設は、後世にわたる区民の誇るべき共有の財産であり、躍進する区を象徴するものである。

 2 快適な都市環境と先進的な福祉施策を評価――自治大臣特別表彰

 氏は日頃から職員に「行政は経営である」と論している。「最小の経費で最大の効果を上げる」ことは、行政経営の基本であり、前述したコンピューターの導入、開発公社による用地先行取得、国民健康保険料徴収員の非常勤化、区民施設公社による区民施設の効率的な運営など、絶えず創意工夫を重ねながら無駄のない執行に心掛けた経営努力に最善を尽くしてきた。

 今、江戸川区は、快適な生活環境や施設が整備され、価値ある暮らしが営める都市に大きく変貌した。都内でも人口が最も増加し続け、子どもから熟年者まで六十万の区民が暮らす街になり、住みやすいあこがれの街とまで言われるようになった。こうしてできあがった区の快適な都市環境と、先進的な福祉施策が高く評価され、氏は平成九年、地方自治法施行五十周年を記念した「自治大臣特別表彰」を受賞した。これは個人賞ではあるが、区民と行政が一体とならなければできなかった区の街づくりが評価されたことの意義は大きく、区民全体の誇りと自信を高めるものである。

 今日の区が全国で最も住みよい街に数えられるのも、氏自身のいう「行政は住民のためにある」という住民本位の行政哲学と優れた洞察力、そして、それを可能にする強力なリーダーシップによって実現し得たものに他ならない。これらの功績は、誠に多大なるもので、全国地方公共団体の首長の範たるものがある。        以上

 

 老人施設の無い虎ノ門病院では、本格的な回復は望めないと悟った中里前区長は十月三日、江戸川区船堀の老人保健施設ヴィットに転院したが、浅岡善雄院長の温かい指導のもとでリハビリに励んだ。「なんとしても再起するぞ!」という強い意志が、辛いリハビリに耐えさせた。

 それが効を奏して、再び歩けるまでに回復し十一月八日の朝早く、病院から車で千代田区麹町のフェアモントホテルヘ行き、そこでの授賞式に臨み上杉自治大臣から勲三等瑞宝章と勲記を受けた。そのあと東京都差し回しのバスで、他の受賞者らとともに皇居へ赴き、豊明殿において天皇・皇后両陛下に拝謁した。

 豊明殿での行事は約一時間を要したが、中里前区長は官内庁が用意してくれた車椅子を辞退して歩き、拝謁の終わるまで直立不動の姿勢を取り続けた。午後三時過ぎに浅岡病院に戻り、関係者らに、

「この勲章は皆さんと一緒にいただいたものです。有り難うございます」

 と、頬を紅潮させながら謝辞を述べた。

 十二月の七、八の両日、区内の二本松眼科病院で白内障の手術を受けた。また、武田歯科には治療のため、定期的に通う、というふうに健康維持に努めた。

 

 逝去、葬儀と追悼の会

 

 中里前区長は大晦日に帰宅し家族とともに平成十二年を迎えた。しかし、妻のいない自宅での生活よりも、行き届いた治療を受けられる入院生活を選んだ。回復はめざましく、四月には有志による叙勲と名誉区民を祝う会に招かれ、続いて総合文化センター内に設置される胸像の除幕式に出席して、感謝の言葉を述べた。

 そして五月十四日、側近者らと穂高荘へ行き一泊するまでの回復ぶりを示した。そのときも車椅子を使わず、諏訪サービスエリアでは、スロープを歩かずスタスタと階段を上って、同行者らを驚嘆させた。六月に実施された総選挙では、病床から島村宜伸元文相派の選対本部長を努めた。が三千票の僅差で元都議の宇田川芳雄氏に惜敗する、という結果に終わった。

「僕は僕なりにベストを尽くした……」

 と呟いた中里前区長は自らの実績を検証するかのように、区南部の公園や橋などを視察しながら、同行者に笑顔を見せた。

「浅岡さんのヴィットに移って、本当によかったよ……」

 

 ところが、八月の中旬頃から食欲不振に陥り、日ごとに衰弱ぶりが目立ち、十一月二十一日に武田歯科医院で治療を受けたのが最後の外出となった。十二月に入ると、病状は一段と悪化したものの、頭脳の明晰さは保ち周囲の人たちへのきめ細かな気くばりも怠らなかった。

 見舞いに行った私に、中里前区長は、

「……ついに行く道とはかねて聞きしかど 昨日今日とは思わざりしを……」

 と、呟くように言った。語尾のほうは、よく分からないくらいであった。

「在原業平の歌ですね」

「……」

「そんな弱気を出さずに、病気を追い払って下さい。病は気から、と申しますから……」

「私はね、小久保さん、やれるだけのことはやったので悔いはありません。人間は、望まざるに病み、願わざるに老い、思わざるに死す……」

 私は、慰めの言葉をかけて病室を後にした。平成十三年の元旦、病床を訪ねた多田正見区長に中里前区長は、はっきりした口調で、

「早く元気になりたいね」

 と言った。

 その願いも空しく、その後、病魔は中里前区長を蝕み続けた。そして、平成十三年一月二十一日の午後三時十分頃、付添人が所用で病室を離れ、数分後に戻って来た時には、急性肺炎が中里前区長を黄泉へと旅立たせたあとだった。享年八十八。主治医の診断によれば、「苦しむことなく、眠るが如き大往生」であった。

 

 家族に付き添われて自宅に戻り、仏間に安置された故人の枕頭には曼陀羅の軸が掲げられた。それは江戸時代に、菩提寺、妙勝寺(日蓮宗)の住職が描き、中里家へ贈ったものである。亡父賢次郎と亡母りよが分家するに当たり、祖母志ゅん(順子)が、与えた由緒のある品であった。二十五日の夕刻、棺を乗せた車は、故人がその生涯を捧げた区庁舎をはじめ、区施設などの前を通って、平安祭典葛西会館へと向かった。雪につつまれた通夜に続いて二十六日、同会場において、嗣子、守男氏を喪主に、田中猛男氏を葬儀委員長として、中里家の葬儀が営まれた。告別式には多くの関係者が参列して、故人の冥福を祈り、その遺徳を偲んだ。

 

「いかなる実力者、名社長といえども、亡くなった日から逆算して三年間にやったことは全て失敗である……」といわれている。

 中里喜一という人物の一生と、江戸川区という地方自治体の歴史とを重ね合わせてみて、さまざまなことが読み取れて来た。

 人の住めない町といわれていた東京都の東端、マイナス低地地帯のヘドロの中から、文字通り、苦悩と汗と努力と日々の戦いとによって江戸川区は立ち上がった。

 それは、理想の町づくりを唯ひとつの目標に、その生涯の全てを賭けた勇気ある男と、それを支えた老若の男女たちの勝利のための戦いの積み重ねの日々でもあったと思う。

 もし、中里喜一がいなかったならば、江戸川区は、今日、別の姿になっていたことだけは確かである。

 批判するのは簡単であるが、残されたこの実績の山を目の前にして、とくに年輩の人々は、それぞれ自分自身の半生の過去の貧しくて、ハエやカにせめられ、水害に悩まされていた日々の出来事とを併せて回想するのである。

 中里前区長の一周忌と初代夫人の七周忌法要は、日を早めて平成十三年十二月八日、親戚とごく少数の方々が集まって、しめやかに営まれた。これは施主、守男氏の配慮によるものだった。即ち、多くの方々に迷惑をかけたくないという強い意志の表れで、私は、その席の司会役をおおせつかった。

 多田正見区長は、

「中里前区長を回想すると、汲めども汲めども湧いてきて尽きないほど、不思議な豊富さを感じます」

 と挨拶した。区役所OBの唯一の代表者として、藤田昇元助役が献杯の音頭を取った。故人とは、昭和五年以後、実に七十年に及ぶ親交があり、正に万感胸に迫る想いがあると察しられた。多分、何かひと言、あるいは延々と自らの胸中の奥にあるものを吐露されるものと想像していた。

 ところが藤田氏は、すっくと立ち上がり、その献盃は十三秒で終わった。これほど徹底して身の処し方を弁えている人を、私はほかに知らない。

 やはり中里区長という人の一生は、このような腹心に支えられていたのだ、と改めて感じ、この一事で全てを了解した。

 

『江戸川区政50年史理想のまちづくり半世紀の航跡 一九五一 — 二〇〇〇』が平成十三年三月に発刊されて、公式記録は残されている。

 しかし、これから先中里喜一に関する記憶が、人々の思い出の中にだけ残されるのでは、本意ではないと考えて、私は、殊更、今後江戸川区を作っていく若い人々のために本著を世に出すことにしたのである。   

                             (了)

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2003/04/08

背景色の色

フォントの変更

  • 目に優しいモード
  • 標準モード

小久保 晴行

コクボ ハルユキ
こくぼ はるゆき 洋画家、作家、評論家、歌人。1936年 東京都江戸川区に生まれる。

掲載作は、2002(平成14)年『地方行政の達人』(イーストプレス社刊)より抜萃。

著者のその他の作品