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東京の木賃宿

 活地獄――木賃宿の異名――九千人のお客様一泊六銭――柏餅の雑居――雨の日の繁昌――三畳の家庭――千四百五十の世帯――擂鉢は車輪と廻る――二銭皿の鮪—――井に落せし簪――連込みの客――鬼一口――安宿ごろつき――良人ある身――夫婦喧嘩の統計――十年前の大家の嬢様――お湯は如何――屋根代の餌――丸裸の夫婦是れにつきねど

 

 野山長閑(のどか)に春霞、立ちつづく道者笠(だうぢやがさ)は、農耕樵漁の暇ある折を、思ひ思ひの阪東巡礼、四国遍路、肥後は熊本清正公、日向(ひゆうが)の生目八幡宮、信濃の善光寺、讃岐の金比羅、(さて)は伊勢参り、京見物の善男善女を送り迎ふる、街道筋の木賃宿は、旅なれや恥は掻捨ての気散じを旨として、必ずしも貧民のみの巣窟ならぬは、世人の知る所也。同じ名ながら、東京は、()れとは趣き痛く異也。見るにも聞くにも、只々驚き恐るるの外はなき別世界、黄泉(よみ)にも(かか)活地獄(いきぢごく)の有るべしや。

 東京にては木賃宿をば、一般に安宿(やすやど)或は安泊(あんぱく)と呼び()せど、其客となる人々の社会にては、ヤキ又はドヤとも呼び、又アンパク、ボクチンなど云ふ言葉もあり。

 ヤキとは宿屋のヤの字と木賃のキの字を続けしにて、ドヤとは宿を(さか)しまに読める也。アンパクは安泊、ボクチンは木賃を音読せるは云ふまでもなし。労働に忙しき人々は其言葉も簡単にて響き強く聞ゆるを便とすれば斯る符牒を用ゆるが多し。

 斯る怪しき符牒もて呼ばるる宿屋、昔は市内各所に散在せしが、去る明治二十二年(1889)の末、時の警視総監三島通庸は、市街の体面を保つが為めにと、そが営業の区域を限りて一定の場所に移らしめぬ。

 現在管業の場所と数とは、

  浅草区浅草町…………………二十余戸

  本所区花町、業平町…………七十余戸

  深川区富川町…………………六十三戸

  四谷区永住町……………………十八戸

  芝区白金猿町(俗にエテ町)……七戸

  麻布区広尾町(俗に古川端}…十一戸

  本郷区駒込…………………………二戸

にて、(その)お客様をいへば歯代借の車夫、土方人足、植木人夫、其外種々の工夫人夫、荷車挽、縁日商人、立ン坊、下駄の歯入、雪駄(せつた)直し、見世物師、料理屋の下流しなど、(いづ)れも其日稼ぎの貧民ならぬはなし。昨年末の調べにては是等の客人九千七百四十六人に及べりとぞ。(さて)も夥しき数なるかな。実に人の子は枕する所なしと云ひけん、世界に家なき九千七百の人の子の為めには、二百の安泊は一夜の雨露(うろ)を防ぐべき唯一の頼みぞかし。(ことわ)りや、彼等は其宿料を木賃と云はずして、屋根代とぞ呼ぶ。

「御安宿、御一人前風呂付六銭、八銭、十銭、別間十八銭より二十銭まで」と記せる長方形の角行燈(かくあんどん)火影(ほかげ)覚束(おぼつか)なき軒端を潜れば、正扨は横手の帳場に厳然と控ふる、人足(にんそく)上りと見ゆる男は番頭なるべし。暮色蒼然として人顔わかずなる頃より、一人、二人、三人、五人、泥塗れの法被(はつぴ)、破れし股引(ももひき)切々(きれぎれ)草鞋(わらじ)穿(うが)ちて入来(いりく)る客の今晩はの声も寒さに慄へて聞ゆめり。帳場の男、先づ客の住処、姓名年齢、職業と前夜の宿泊地を書取りて、「ヘイ屋根代を」と手を差出す。六銭の屋根代を受取れば立ちて四布(よの)蒲団一枚を小脇に抱へ「大広間」に案内す。

 木賃宿にての大広間とは、雑居の客を容るべき室をいふ也。広さと(へや)数とは家々にて異也。六畳と四畳半となるものあれば八畳一室なるもあり、八畳と十二畳の二つを備ふるもあり。一泊六銭の客は皆な四布蒲団一枚を與へて、此処に追ひ込みて雑居せしむ。其定員は大抵一畳一人の割合也。

 大広間には合宿(あひやど)の客の雑談興尽きて、昼の疲れに睡気ざせば、各々例の四布蒲団(よのぶとん)の「お(かしは)」の中に(もぐ)る也。左れど漸く眠らんとすれば、後より入来る客の混雑に夢を破られ、()や一騒ぎ治まりしと思へば、又もや、後の客の騒ぎは起る。斯くて物音の全く絶ゆるは、毎夜午前二時前後なるべし、()して此頃の寒空に、仕入物の蒲団の短ければ、足を伸せば爪先出で、膝を(かが)むれば「お柏」開き、隙洩(すきもれ)肌に透りて堪ふべくもあらず。寝覚がちなる夜の明放(あけはな)るれば、門口に備へし冷水の一檜杓を懇望(こんまう)し、儀式ばかりの手水(ちやうず)を了へて、又も前夜の古法被(ふるはつぴ)、破れ股引(ももひき)切草鞋(きれわらぢ)

 (かか)る雑居の客をば、割込みといふ。割込みの屋根代は、

 六銭(四布又は五布蒲団一枚)、八銭(三布敷蒲団一枚と四布の掛蒲団一枚)、十銭(同上、但し蒲団の体裁少しく上等)、十二銭(三布敷蒲団一枚、四布又は三布掛蒲団二枚)。斯る定めなれど実際は百人の中八十五人までは普通六銭の柏餅にて八銭以上を出し得るものは僅かに百人中十四五人に過ぎずとぞ。

 割込みの客にも、翌日も猶ほ滞在せるが有り。前夜の屋根代のみにて、其翌晩の蒲団を借るまでは、別に滞在費を要せず。但し昼間も蒲団を用ゆるものは別に損料を徴する也。

 翌朝床上げの後に猶ほ蒲団を借るものは三布一枚に一銭五厘、四布又は五布一枚に二銭の割合の損料を払ふ也。

 (ここ)に注意すべきは雨の日の繁昌也。晴天の朝は早きは五時六時、遅きも七時八時には一同出払ひ、寂寞(じやくまく)として大風の(あと)のやうなれども、雨となればいづれも稼ぎの途なければ前夜のままに流連(ゐつづけ)して濁酒、賭博、放歌、高論、泣く、笑ふ、四畳半、六畳の「大広間」の混雑譬へん(かた)なし。偶々(たまたま)幾何(いくばく)かの銭余れるは、縄暖簾に腹こしらへんとて出て行けど、銭なければ終日(ひねもす)食はずして(いぬ)

 一夜泊りの割込みの客を送り迎ふるのみにては()ばかり驚き恐るべきにあらねど、安泊には大広間の外に多くの別間といへる室あり。学者よ、富豪よ、大臣よ、警視総監よ、更に進んで此別間の(うち)を窺ひ見よ、(ここ)に我等の同胞と呼び国民と呼べる人類多くが、殆ど野獣にも均しき奇々怪々の生活を為し居れるを見るを得べし。

 いづれの木賃宿にも、四個又は五個の「別間」といふが有り。尋常ならば小座敷に数ふる四畳半の狭きをも「大広間」と名づけて、割込みの客入るる木賃宿の、別間となれば皆二畳と三畳以下に限らるるも(うべ)也。

 別間は大抵夫婦者、(さて)は親子連の借切にて、永住なるが多く、旅宿と云はんよりは、棟割長屋の猶ほ下等なる生活也。窮屈なる一室の、前に後に高く低く、幾つとなく麁末(そまつ)なる棚しつらへて、右の柱に帚を吊す釘あれば、左の壁には手拭雑巾の掛れるあり。片隅に寄せたる膳椀の上に湯巻おしめの(ひるがへ)る中を、寝間也食堂也、仕事場也、彼等が為めには、一個の家庭の、天にも地にも唯一の慰藉(ゐしや)の源ぞかし。中には親子五六人、或は六七人の一家族が、住めば住まるる三畳に重なり合ひて、雀燕の巣だにも劣れる様、憐れ也。

 斯くて二年三年、甚しきは五六年、八九年の長きをも同じ木賃宿に世帯を持ちて殆ど我家の如き思ひせるものあり。我が昨年十二月十一日より二十五日までの間に調査せる所にては、一戸の木賃宿にて斯る家族の住せる者多きは十二、少きも五を下らず、総計千四百五十有余の家族あるを知り得たり。左れば一戸の木賃宿に平均七個の家族即ち七個の世帯ある訳也。我れこの調査半ばにして止めたれば未だ全部に及ぶ能はざりしが、若し洩れなく調査せんには、更に驚くべき多数に達せしなるべし。

 世帯持ちとはいへ、彼等の中に一通り日用の器具持てるはいと稀にして、多くは着のみ着のままなれば、鍋釜は愚か飯櫃、膳、椀、箸までも、入用の時のみ宿より借受くるを例とす。

 我が調査にては前記の千四百五十有余の世帯持ちの中にて、不完全ながらも一通りの器具ありて、月々の用を足すもの、僅か三十有余に過ぎざりき。左れば百の世帯中僅か二戸のみ、残り九十八は無一物の割合也。

 (かか)れば木賃宿の竈も釜も一切の炊事料理の道具は、常に数家族の共有となりて、毎朝台所の混雑は言語に絶す。

 亭主が早出の準備にとて、三時から起きし車夫の女房ザクザクと米研ぎにかかれば、之に続くは立ン坊の(かかあ)也。宵に仕掛けし竈の下を()き付くる、一把一銭五厘の木片の火移り悪く、(けむり)()中に漲れば、朝寝の山の神、(くしやみ)しながら目を(こす)り、燃すにも程がある、何でそんなに早くから騒ぐんだらう、時計を見るが善い、との雑言。負けては居らず、早く起きよと遅く起きようと此方の勝手だ、お前さんばかりが客ぢやあるまい、とやり返す。何を生いきな、六女郎、寝惚()と二言めには喧嘩也。後詰(ごづめ)の加勢は亭主が出る。戦ひ(まさ)(たけな)はならんとする時、何だお前たちは、朝ぱらから碌でもねえことを聞くと仲裁の寝惚顔は、楊枝(くは)へしデーデーの老爺にて、肩に置いたる手拭は三年醤油で煮染(にし)めし如し。時刻移れば、一升足らずの南京米買つて帰る下駄の歯入れの女房が、(ごん)さんのお神さん、貴女のお釜はあきませんかと尋ぬれば、一方には植木屋の女房が、其俎板(そのまないた)が済んだら貸して下さいと催促す。私も俎板が入るのですと口を掛ける傍から、摺木(すりこぎ)を何処へやつたと難詰する。いつ迄炊桶を使つてるんだらう、グヅグヅするぢやアないかと怒鳴るがあれば、此飯櫃の洗ひ様を見ろ、人聞業ぢやアねえ、亭主の寝伽をすりやア女の役が済むと思ふのか、と(あて)こすりの高声あたりに響く。数人の女豪傑の手から手に、一個の摺鉢、車輪と廻れば、一丁の庖丁電光と(ひらめ)きて目覚しなんど云ふばかりなし。一年三百六十五日、大抵朝は午前三時より七時頃まで毎日斯る混雑は繰返さるる也。

 流し(もと)の支度は朝のみにあらず、職業柄によりては朝よりも夜の方忙がし。殊に十四日と晦日(みそか)の両日は多少に限らず、前借の残りを懐中にして帰れば、鮪の二銭皿に一把の大根、濁酒の二合も添へ得んには、一家団欒の晩餐、これや彼等が極楽なるべし。其日稼ぎの労働者も同じく其日の労銀にて晩食済せ、残れる冷飯は翌日の弁当に詰めて出掛くれば、朝は至つて無事なることあり。但だ夜は忙しくとも、銘々帰りの時刻異なれば、朝の流し下の如き一斉射撃の戦にはあらず。

 斯る家庭をつくれる価、即ち「別間」の屋根代を聞くに、

 十銭(二畳一室、四布蒲団一枚添ふ)十二銭(同上、三布蒲団一枚、四布蒲団一枚、合計二枚添ふ)十四銭(三畳一室、三布蒲団一枚、四布蒲団一枚、合計二枚添ふ)

 こは何れの木賃宿にも行はるる長期貸切の定め也。此外、

 十六銭、十八銭、二十銭、二十四銭の四種あり。是は一二泊の場合の屋根代也。其高下は蒲団の品柄、室の恰好、畳の良不良、出入の便不便等にて差ありと知るべし。又短期の宿泊には火鉢、土瓶、茶器の類を添えて貸渡し、此の外豆らんぷと称する小さき洋燈に石油をつぎて出すこともあり。別間の蒲団は貸切りなれば昼夜を問はず自由に使用し、人員の制限もなし。五人にても七人にても一家族と見做(みな)して同一の屋根代を徴す。左れど借受約束済みたる後に至りて人数増加すれば二銭又は二銭五厘の割増を取り立つることあり。

 実に彼等は僅かに二畳の一室を、月三円より三円六十銭、三畳のを四円二十銭の賃出して借り居れるなり。一ケ月に四円内外を払ひ得るならば、長屋の一戸は優に借受け得べきを、如何(いか)なれば斯る不自由不便の生活に高き屋根代を取立てらるるや。そは外ならず、彼等は唯だ一品の身につく物のなければ也。日用の家具だに新に求めんことの(かた)ければ也。馬鹿馬鹿しと知りながら、一たび此境界に堕し来れば、井に落せし簪の永劫(えいごう)浮む瀬なきぞ哀しき。

 恋せぬ里はなし。永住の夫婦親子のみならで木賃宿の、「別間」をば、変る枕の一夜妻が果敢(はか)なき契りの宿とすること近来の流行也。名づけて「連込み」又は「レコ(つき)」といふ。連れし男を後に立たせて、今晩は、明間(あきま)はありますかと(おとな)ふ女の声聞くと等しく、それ来た、レコ附がと喜ぶ主人也。「連込み」「レコ附」は屋根代殊に高ければ也。

 斯る客をば宿屋は頗る優遇して、蒲団なども多少の注意を加ふより、屋根代も亦従つて高く、大抵は二十銭より二十四銭を徴す。

 連込みの客多きは浅草の木賃宿にて、之に次ぐは深川、四谷、本所也。麻布には左まで多からず。浅草なるは上野停車場、(さて)は浅草公園などに、遠近のたつきも知らず、漂泊(さすら)へる田舎娘が人悪き朦朧車夫に誘拐(かどわか)されて、鬼一口の憂目を見るが多く、深川、本所は遠国より来れる工女が生活の(くる)しさに、折には(どて)の柳の露に濡れける内職の、是も進化()木賃宿に入込むもの多きに至れり。

 此外裏店(うらだな)の車夫の女房が、同じ長屋の(なにがし)と、小夜衣(さよごろも)我妻ならぬ褄重ねあれば、昼は店頭の看板なる煙草屋の養女が、隣の職人の弟子に誘はれ来るもあり。牛屋、安料理、蕎麦屋の軽子、天場、銘酒屋の曖昧女、宵に合図の労働者と、思ひ思ひの媾曳(あひびき)の種類は(あげ)て数へ難く、何処の家にも、毎夜二組三組の出来合ひ夫婦を見ざるは無し。

 殊に目立つは二十四より三十前後の世馴れし女の木賃宿を渡り歩き、相夜の者と馴染みて女房気取の逗留せるを一般に安宿ごろつきと呼ぶ。

 連込みの客の統計を聞くに、市内二百余戸の木賃宿にて、一昼夜に少くも八百組乃至千二三百組はあるべく、此外安宿ごろつきといへる婦人五六百人の多きに及べり。

 (ここ)に哀れは夫ある身の情を(ひさ)ぎて、其日の(しろ)(たし)とするものも(すくな)からず。

 本所板倉町辺に住む極貧者の妻は本所花町、業平町、深川の富川町、浅草の浅草町邊の木賃宿に出没し、去年九月の中頃より大晦日まで貧民の生活の(もつと)も苦痛を感ぜし時に、是等の内職著しく増加して其数七十余人に及べりとぞ。斯くても彼等は僅に二十銭より五十銭位ゐを得るに過ぎずといへり。

 恋と情の神聖も、金ありての上ぞかし。貧する身には唯だ一飯に()かんが為めとて、二貫、三貫の端銭に切売の浅猿(あさま)しさは、聞くさへ書くさへ忍びがたし。

 (さて)(ここ)に去年一ケ年の間、深川の或木賃宿にて作りし夫婦喧嘩の統計あり。

   合計 五百三十一件

     内訳 

   痴情………………百四十二件

   生活の困難……二百九十四件

   小児の処置…………七十五件

   雑件……………………二十件

 痴情の喧嘩は大抵わかき男女なれど、生活の不如意より起れる喧嘩は、(いづ)れの夫婦も()むときなし。小児の処置といへるは連子なるに多く、又女の子よりも男の子なるに多し。去年中此宿屋に宿れる夫婦の数は、滞在と一二泊とを通じて二千五百九十三組なりしといへり。是等の夫婦(あした)にありては夕べに離れ、西東(にしひがし)する浮草のそれよりも猶ほ定めなき生活也。

 金殿の裏、玉楼の上にも、色に渇き慾に飢うる紳士はあり。校堂の(うち)、塾舎の窓にも、情を弄び恋に溺るる才女あり。左れば浮世の楽しみは酒と賭博と唯だ是れのみの貧民窟に、いかで風紀の正しきを望み得べき。一たび木賃宿の(しきゐ)を跨がん程の婦人は、忽ち其身の汚されざるなし。宿の亭主が相宿(あひやど)の客を媒介して一回の周旋料五十銭の塵も積れば、いと多額の利益となる也。

 ああ世にも恥かしき禽獣の行ひも、馴れては恥かしからぬ迄に堕落の道行、聞けば生れながらの罪にはあらず。貧と不幸に身を攻められ、脅迫と誘惑とに心乱れて、泣きつ叫びつ悶え悶えし、末は捨撥(すてばち)の安宿ごろつき。これが十年(ぜん)大家(たいけ)の嬢様とは、いかなお釈迦様でも気が付き(たま)ふまじ。

 車夫、人足、立ン坊などの一日の労働に疲れ果てて帰り来る木賃宿の帳場にて「お湯は如何(どう)です」の声聞くは、天にも上る心地すべし。木賃宿にも亦風呂場あり。

 普通の旅宿には大抵風呂あれど、下宿屋にて風呂あるは、十中の二三に過ぎず。左るを流石に労働者を客とする木賃宿には、麁末(そまつ)ながら風呂桶を備へて、隔日又は三日目位に客人を入浴せしむ。四谷永住町の十八戸の木賃宿にては、此入浴の便を與ふること、殆ど競争の如くなれり。麻布の木賃宿も皆な隔日に風呂を沸かせり。本所、深川にも風呂附あり。浅草には多く見かけず。

 左れど、一泊六銭の客には、是とても名のみに過ぎず。熱き時は熱鉄を溶せし如く、冷き時は殆ど水の如し。熱しとて加ふ水なく、水ありしとて後の客の為めにとて禁ぜらる。詮方なければ唯だ手拭を潤して、身躯と四肢を拭うて()むめり。

 是は木賃宿の策略にて、湯熱くして全身を没し難ければ、おのづから長湯するものなし。左れば込合ふ客を待たしむることなく、次ぎ次ぎに入代らしむるに尤も必要なりとぞ。

 斯く熱き湯も限りあるコークス、限りある薪の、尽くれば其儘冷ゆるに任せて省みず。

 風呂の蓋()けは大抵午後六時頃にて、先登第一は宿屋の主人、続いて屋根代を納むる順序にて風呂場に案内す。是も屋根代徴収の一種の餌也。

 麻布の或木賃宿にて一人の客人、さる規則に心づかず、直ちに風呂桶に飛込みたるに番頭追来りて、屋根代を入れて下さつたかといふ。イエまだですと云へば、早く納めなさいと促す。風呂から上つて納めますと、断るを屋根代を納めねば風呂に入ることは出来ませぬとて、強ひて引出し宿料を取立てし後今度は公明なる案内にて入浴さしめたることあり。

 去年の十二月(なかば)なりし、四谷永住町に宿泊せし一人の男の、三晩目に金なくなり屋根代の質にとて、半纏(はんてん)を脱ぎて帳場に預け、其儘風呂に入らんとせしに、コン畜生屋根代も払へぬ癖に、人間並に風呂に入りあがると、番頭に罵られて面目なげに止めたるがありき。

 屋根代の取立はいと厳重也。(あらた)なる客は入口にて受取り、滞在の客は午後六時より八時頃迄に取立つ。馴染ならざる客には如何なることもありとも猶予せず。金なければ其所持品を預るを常とす。

 職工其他常雇人夫の類にて、十四日と月末に労銀の支給を受くるものには特別の契約を為し、十四日と月末の二回に勘定すれど、是は少くも半年以上住居して、十分の信用あるものに限りて其例(ためし)いと(すくな)し。

 去年九月十三四日の頃なりき。本所の木賃宿に三日の間、何事をも為し能はずして宿れる一組の若き夫婦、僅かの所持金を食ひ尽して、三日の屋根代積りて三十六銭を払ひ得ず、宿の主人は夫婦の浴衣、単物と帯一筋、捨売にしても六七十銭の物はありしを無残にも剥取りて、男は襯衣(シャツ)一枚、女は襦袢と湯巻の儘にて逐出(おひいだ)されしを見たり。是のみならず一日の屋根代滞りて逐出さるる者珍らしからず。

 先頃二三の新聞に、貧民窟の棟割長屋、或は安宿の(たな)賃、屋根代頻りに延滞せるより、家主は其督促に、てこずれる由伝へしも、()は事情に(うと)き話也。木賃宿の(うち)には心(ひろ)きものなきにあらねど、其八九分はいづれも強慾にして屋根代を延滞せしむるなど思ひも寄らず。男は裸にして逐出し、女は売淫をさせても之を取らずに置くことなし。

 書くも憂し、書かぬも憂し、恐ろしく驚かるる別世界の生活の様には、是に尽きねど左まではとて。

 

(明治三十七年一月)

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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幸徳 秋水

コウトク シュウスイ
こうとく しゅうすい 思想家 1871・9・22~1911・1・24 高知県幡多郡に生まれる。日本の近代を根から震撼した大逆事件主犯と擬されて死刑された。事件にせまる最期の思想と前半生の思想とに微妙な落差はあるにしても、社会主義思想家としての、また非戦運動家としての感化や影響の大きさは歴史として否めない。

掲載作は、1904(明治37)年1月、はや百年前に書かれていた異色の「東京」スケッチであり、ルポルタージュの嚆矢とも目される。すでに地を払った風俗と読んで今昔の感に打たれるもよし、冷静な著者の視野に託された鋭い覇権政治批判を読むも可であろう。

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