二、精神の自由
造化万物を支配する法則の中に、生と死は必らず動かすべからざる大法なり。凡そ生あれば必らず死あり。死は必らず、生を躡うて来る。人間は「生」といふ流れに浮びて「死」といふ海に漂着する者にして、其行程も甚だ長からず、然るに人間の一生は「生」より「死」にまで旅するを以て、最後の運命と定むべからざるものあるに似たり。人間の一生は旅なり、然れども「生」といふ駅は「死」といふ駅に隣せるものにして、この小時間の旅によりて万事休する事能はざるなり。生の前は夢なり、生の後も亦た夢なり、吾人は生の前を知る能はず、又た死の後を知る能はず、然れども僅かに現在の「生」を覗ひ知ることを得るなり、現在の「生」は夢にして「生」の後が寤なるべきや否や、吾人は之をも知る能はず。
吾人が明らかに知り得る一事あり、其は他ならず、現在の「生」は有限なること是れなり、然れども其の有限なるは人間の精神にあらず、人間の物質なり。世界は意味なくして成立するものにあらず、必らず何事かの希望を蓄へて進みつゝあるなり、然らざれば凡ての文明も、凡ての化育も、虚偽のものなるべし。世界の希望は人間の希望なり、何をか人間の希望といふ、曰く、個の有限の中にありて彼の無限の目的に応はせんこと是なり。有限は囲環の内にありて其中心に注ぎ、無限は方以外に自由なり、有限は引力によりて相結び、無限は自在を以て孤立することを得るなり、而して人間は実に有限と無限との中間に彷徨するもの、肉によりては限られ、霊に於ては放たるゝ者にして、人間に善悪正邪あるは畢竟するに内界に於て有限と無限との戦争あればなり、帰一を求むるものは物質なり、調和を需むるものは物質なり、而して精神に至りては始めより自由なるものなり、始めより独存するものなり。
人間は活動す、而して活動なるものは「我」を繞りて歩むものにして、「我」を離るゝ時は万籟静止するものなり、自己の「我」は生存を競ふものなり、法の「我」は真理に趣くものなり、然れども人間の種族は生存を競ふの外に活動を起すこと稀なり、愛国若くは犠牲等の高尚なる名の下にも、究極するところ生存を競ふの意味あり、人は何事をか求むるものなり、人は必らず情を離れざるものなり、人は自己を愛するものなり、倫理道徳を守る前に人間は必らず自己の意欲に僕婢たるものなり、斯の如く意の世界に於て人間は禁囚せられたる位地に立つものなり。
人生は斯の如く多恨なり、多方なり、然れども世界と共に存在し、世界と共に進歩する思想なるものは、羅針盤なくして航行するものにあらずと見えたり。吾人は夢を疑ふ、然れども夢なるもの全く人間を離れたるものにあらず、吾人は想像力を訝る、然れども想像力なるもの全く虚妄なるものにあらず、吾人は理想を怪しむ、然れども理想なるもの全く人間と関係なきものにあらず、夢や、想像力や、理想や、是れ等のものはスフヒンクスに属する妖術の種類にあらずして、何事をか吾人に教へ、何物をか吾人に黙示し、吾人をして水上の浮萍の如く浪のまにまに漂流するものにあらざるを示すに似たり。且つ吾人は自ら顧みて己れを観る時に、何の希望もなく、何の目的もなく、在来の倫理に唯諾し、在来の道徳を墨守し、何事かの事業にはまりて一生を竟るを以て、自ら甘んずること能はざるものあるに似たり。怪しむべきは此事なり。
倫理道徳は人間を羈縛する墨縄に過ぎざるか。真人至人の高大なる事業は、境遇と周辺と場所とによりて生ずるに止まるか。人間の窮通消長は、機会なるものゝ横行に一任するものなるか。吾人は諾する能はず。別に精神なるものあり、人間の覚醒は即ち精神の覚醒にして、人間の睡眠は即ち精神の睡眠なり、倫理道徳は人間を盲目ならしむるものにあらずして、人間の精神に愬ふるものならずんばあらず、高大なる事業は境遇等によりて(絶対的に)生ずるものにあらずして、精神の霊動に基くものならざるべからず、人間の窮通は機会の独断すべきものにあらずして、精神の動静に因するものならざるべからず。精神は自ら存するものなり、精神は自ら知るものなり、精神は自ら動くものなり、然れども精神の自存、自知、自動は、人間の内にのみ限るべきにあらず、之と相照応するものは他界にあり、他界の精神は人間の精神を動かすことを得べし、然れども此は人間の精神の覚醒の度に応ずるものなるべし。かるが故に人間を記録する歴史は、精神の動静を記録するものならざるべからず、物質の変遷は精神に次ぎて来るものなるが故に、之を苟且にすべしと云にはあらねど、真正の歴史の目的は、人間の精神を研究するにあるべし。人生実に無辺なり、然も意味なき無辺にあらず、畢竟するに精神の自由の為に砂漠を旅するものなり、希望爰に存し、進歩爰に萌すなり、之なくんば凡ての事皆虚偽なり。
文学は人間と無限とを研究する一種の事業なり、事業としては然り、而して其起因するところは、現在の「生」に於て、人間が自らの満足を充さんとする欲望を填ぐ為にあるべし。文学は快楽を人生に備ふるものなり、文学は保全を人生に補ふものなり。然れども歴史上にて文学を研究するには、そを人生の鏡とし、そを人生の欲望と満足の像影として見ざるべからず。人生は文学史の中に其骸骨を留むるものなり、その宗教も、その哲学も、文学史の中に散漫たる形にて残るもの也、その欲望も、其満足も、文学史の上には蔽ふべからざる事実となるなり、而して吾人は、その欲望よりも、其満足よりも、其状態よりも、第一に人生の精神を知らざるべからず、吾人は観察なるものゝ甚だ重んずべきを認む、然れども状態を観察するに先ちて、赤裸々の精神を視ざるべからず、認識せざるべからず、然かる後にその精神の活動を観察せざる可からず。
精神は終古一なり、然れども人生は有限なり、有限なるものゝ中にありて無限なるものゝ趣きを変ゆ。東洋の最大不幸は、始めより今に至るまで精神の自由を知らざりし事なり、然れども此は東洋の政治的組織の上に言ふのみ、其宗教の上に於ては大なる差別あり。始めより全く精神の自由を知らず、且つ求めざるの国は必らず退歩すべきの国なり、必らず歴史の外に消ゆべきの国なり。政治と懸絶したる宗教に向つて精神の自由を求むるは、国民が政治を離るゝの徴なり。宗教にして若し政治と相渉ることなくんば、其邦の思想は必らず一方には極端なる虚想派を起し、一方には極端なる実際派を起さゞるべからず。吾人は他日、日本文学と国躰との関係を言ふ時に於て、此事を評論すべし、今は唯だ、日本の政治的組織は、一人の自由を許すと雖も、衆人の自由を認めず、而して日本の宗教的組織は主観的に精神の自由を許すと雖も、社界とは関係なき人生に於て此自由を享有するを得るのみにして、公共の自由なるものは、此上に成立することなかりしといふ事を断り置くのみ。
爰に於て、吾人は読者を促がして前号の題目(「一、快楽と実用」)に反らんことを請ふの要あり。人間は精神を以て生命の原素とするものなり、然れども人間生活の需要は慰籍と保全とに過ぐるなし、文学も其直接の目的は此二者を外にすること能はず。文学の種類は多々ありとも、この、直接の目的に外れたるものは文学にあらざるなり、而して何をか尤もこの目的に適ひたるものとすべきかは、此本題の外にあり。
徳川時代文学の真相は、其時代を論ずるに当りて詳かに研究すべし、然れども余は既に逆路より余の研究を始めたり、極めて粗雑に明治文学の大躰を知らんこと、余が今日の題目なり。父を知らずして能く児を知るは稀なり。之を以て余は今日に於て、甚だ乱雑なる研究法を以て、徳川文学が明治文学に伝へたる性質の一二を観察せんと欲す。
文学の最初は自然の発生なり、人に声あり、人に目あると同時に、文学は発生すべきものなり、然れども其発達は、人生の機運に伴ふが故に長育するものなり、能く人生を楽ましめ、能く人生に功あるものは、人間に連れて進歩すべき文学なり。之を以て一国民の文学は其時代を出ること能はざるなり、時代の精神は文学を蔽ふものなり、人は周囲によりて生活す、其声も、其目も、周囲を離るゝことは断じて之なしと云ふも不可なかるべし。
徳川氏の前には文学は仏門の手に属したり、而して仏門の人間を離れたりしは、当時の文学の人間を離れたる大原因となりて居たりき。徳川氏の覇業を建つるや、恰も漢土に於て儒教哲学の勃興せし時の事とて、文学の権を僧侶の手より奪ひ取ると同時に、儒教の趣味を満潮の如く注ぎ込みたり。然るに徳川氏の覇業は、性質の革命にあらずして形躰の革命に止まりしが故に、従つて起りたる文学の革命も、僧侶の手より儒者の手に渡りたるのみにして、其性質に於ては依然として国民の一半に充つべきものにてありたり、疑もなく文学は此時代に於て復興したり、然も其復興は仏と儒との入れ代りに過ぎずして、要するに高等民種に応用さすべきものたるに過ぎざりし。之に加ふるに徳川氏は文学を其政治の補益となすことに潜心したるが故に、儒教も亦た一種の徳川的儒教と化し了し、風化を補ひ世道を益し、徳川氏の時代に適ふべきものにあらざれば、文学として世に尚ばるべからざるが如き観をなせり。これ即ち徳川氏の時代にありて、高等民種(武士)の文学は甚だ倫理の圏囲に縛せられて、其範囲内に生長したる主因なり。
然れども倫理といふ実用を以て、文学の命運を縮むるは詩神の許さゞるところなり。爰に於て俳譜の頓かに、成熟するあり、更に又た戯曲小説等の発生するあり。戦乱罷んで泰平の来る時、文運は必らず暢達すべき理由あり、然れども其理由を外にして徳川時代の初期を視る時は、一方に於て実用の文学大に奨励せらるゝ間に、他方に於ては単に快楽の目的に応じたる文学の勃として興起したるを視るべし。武士は倫理に捕はれたり、而して平民は自由の意志に誘はれて、放縦なる文学を形成せり。爰に至りて平民的思想なるものゝ始めて文学といふ明鏡の上に照り出づるものあり、これ日本文学史に特書すべき文学上の大革命なるべし。
吾人は此処に於て平民的思想の変遷を詳論せず、唯だ読者の記憶を請んとすることは、斯の如く発達し来りたる平民的思想は、人間の精神が自由を追求する一表象にして、その帰着する処は、倫理と言はず放縦と言はず、実用と言はず快楽と言はず、最後の目的なる精神の自由を望んで馳せ出たる最始の思想の自由にして、遂に思想界の大革命を起すに至らざれば止まざるなり。
維新の革命は政治の現象界に於て旧習を打破したること、万目の公認するところなり。然れども吾人は寧ろ思想の内界に於て、遥かに偉大なる大革命を成し遂げたるものなることを信ぜんと欲す。武士と平民とを一団の国民となしたるもの、実に此革命なり、長く東洋の社界組織に附帯せし階級の縄を切りたる者、此革命なり。而して思想の歴史を攻究する順序より言はゞ、吾人は、この大革命を以て単に政治上の活動より生じたるものと認むる能はず、自然の理法は最大の勢力なり、平民は自ら生長して思想上に於ては、最早旧組織の下に黙従することを得ざる程に進みてありたり、明治の革命は武士の剣鎗にて成りたるが如く見ゆれども、其実は思想の自動多きに居りたるなり。
明治文学は斯の如き大革命に伴ひて起れり、其変化は著るし、其希望や大なり、精神の自由を欲求するは人性の大法にして、最後に到着すべきところは、各個人の自由にあるのみ、政治上の組織に於ては、今日未だ此目的の半を得たるのみ、然れども思想界には制抑なし、之より日本人民の往かんと欲する希望いづれにかある、愚なるかな、今日に於て旧組織の遺物なる忠君愛国などの岐路に迷ふ学者、請ふ刮目して百年の後を見ん。
三、変遷の時代
残燈もろくも消えて徳川氏の幕政空しく三百年の業を遺し、天皇親政の曙光漸く升りて、大勢頓かに一変し、事々物々其相を改めざるはなし。加ふるに物質的文明の輸入堤を決するが如く、上は政治の機関より、下万民の生活の状態に至るまで、千枝万葉悉く其色を変へたり。
旧世界の予言者なる山陽、星巖、益軒、息軒等の巨人は、或は既に墳墓の中に眠り、或は時勢の狂濤に排されて、暁明星光薄く、而して、横井、佐久間、藤田、吉田等の改革的偉人も亦た相襲ぎて歴史の巻中に没し去り、長剣を横へて天下を跋渉せし昨日の浪人のみ時運の歓迎するところとなりて、政治の枢機を握り、既に大小の列藩を解綬し、続いて武士の帯刀を禁じ、士族と平民との名義上の区別は置けども、普天率土同一なる義務と同一なる権利とを享有し、均しく王化の下に沐浴することゝはなれり。
文学は泰平の賜物なり、戦乱の時代にありては文学は必らず、活動世界を離れたる場所に潜逸するものなり、足利氏の末世に於て即ち然り。然れども維新の戦乱は甚だ長からず、足利氏の末路に於て文学の庇護者たりし仏教は、此時に至りては既にその活力を失ひて、再び文学の庇護者たる名誉を荷ふ能はず。文学は却つて活動世界の従僕となりて、勤王家、慷慨家等の名士をして其政治上の事業に附帯せしむるに至りぬ。此処にて一言すべきことあり。吾人は文学なる者をして何時の時代に於ても、必らず政治と離隔せしめざるべからずと論ずるものにあらず。文学は時代の鏡なり、国民の精神の反響なり、故に天下の蒼生が朝夕を安ずること能はざる時に当りて、超然身を脱して心を虚界に注ぐべしとするにあらず。畢竟するに詩文人は、其原素に於ては兵馬の人と異なるなきなり、之を詩人に形り、之を兵士に形るものは、時代のみ。国民は常に活動を欲するものなり、国民は常にその巨人を造るなり、国民は常にその巨人によつて其精神を吐くものなり、国民は常に其精神を吐きて、盛衰の運を迎ふるものなり、精神の枯るゝ時、巨人の隠るゝ時、活動の消ゆる時、国民は既に衰滅の徴を呈するものなり。之を以て、巨人は必らず国民の被造者にして、而して更に復た国民の造物者たらずんばあらず。国家事多ければ、必らず、能く天下を理する人起るなり、国家徳乏しければ、必らず、聖浄なる君子世に立つなり、国家安逸ならば、必らず、彼の一国の公園とも云はるべき詩文の人起るなり、若し此事なくば国家は半ば死せるなり、人心は半ば眠りたるなり、希望全く無き有様に近きなり。読者よ誤解する勿れ、吾人は偏狭なる理論に頑守するものにあらず、吾人は国民をして、出来得る丈自由に其精神を発揮せしめんことを希望するものなり。宗教に哲学に、将た文学に、国民は常に其耳を傾けてあるなり、而して「時代」なる第二の造化翁は国民を率ゐて、その被造物なる巨人の説教を聞かしむるなり。
明治初期の思想は実に第二の混沌たりしなり。何が故に混沌といふ。看よ、従来の紀綱は全く弛みたりしにあらずや、看よ、天下の人心は、すべての旧世界の指導者を失ひて、就いて聴くべきものを有たざりしにあらずや、看よ、儒教道徳の大半は泰西の新空気に出会ひて、玉露のはかなく朝暉に消ゆるが如くなりしにあらずや。然れども此混沌は原始の混沌の如くならず、速に他の組織を孕まんとする混沌なり、速に他の時代に入らんとする混沌なり。而して此混沌の中にありて、外には格別の異状を奏せざるも、内には明らかに二箇の大潮流が逆巻き上りて、一は東より、一は西より、必らず或処にて衝当るべき方向を指して進行しつゝあるを見るなり。
吾人をして、此相敵視せる二大潮流を観察せしめよ。
極めて解り易き名称にて之を言へば、其一は東洋思想なり、其二は西洋思想なり、然れども此二思想の内部精神を討ぬれば、其一は公共的の自由を経験と学理とによりて確認し、且握取せる共和思想なり、而して其二は、長上者の個人的の自由のみを承認して、国家公共の独立自由を知らず、経験上にも学理上にも国家には中心となりて立つべきものあるを識れども、各個人の自己に各自の中心あることを認めざる族長制度的思想なり。
明治の革命は既に貴族と平民との堅壁を打破したり、政治上既に斯の如くなれば、国民内部の生命なる「思想」も亦た、迅速に政治革命の跡を追躡したり、此時に当つて横合より国民の思想を刺撃し、頭を挙げて前面を眺めしめたるものこそあれ、そを何ぞと云ふに、西洋思想に伴ひて来れる(寧ろ西洋思想を抱きて来れる)物質的文明、之なり。
福沢諭吉氏が「西洋事情」は、寒村僻地まで行き渡りたりと聞けり。然れども泰西の文物を説教するものは、泰西の機械用具の声にてありき、一般の驚異は自からに崇敬の念を起さしめたり、文武の官省は洋人を聘して改革の道を講じたり、留学生の多数は重く用ひられて一国の要路に登ることゝなれり、而して政府は積年閉鎖の夢を破りて、外交の事漸く緒に就くに至れり、各国の商賈は各開港場に来りて珍奇実用の器物をひさげり、チヨンマゲは頑固といふ新熟語の愚弄するところとなれり、洋服は名誉ある官人の着用するところとなれり。天下を挙て物質的文明の輸入に狂奔せしめ、すべての主観的思想は、旧きは混沌の中に長夜の眠を貪り、新らしきは春草未だ萌え出るに及ばずして、モーゼなきイスラヱル人は荒原の中にさすらひて、静に運命の一転するを俟てり。
斯の如き、変遷の時代にありては、国民の多数はすべての預言者に聴かざるなり、而して思想の世界に於ける大小の預言者も亦た、国民を動かすに足るべき主義の上に立つこと能はざるなり。之を以て思想界に、若し勢力の尤も大なるものあらば、其は国民に向つて極めて平易なる教理を説く預言者なるべし。再言すれば敢て国民を率ゐて或処にまで達せんとする的の預言者は、斯かる時代に希ふ可からず。巧に国民の趨向に投じ、詳かに其の傾くところに従ひ、或意味より言はゞ国民の機嫌を取ることを主眼とする的の思想家より多くを得る能はず。爰に於て吾人は小説戯文界に於て、仮名垣魯文翁の姓名を没する能はず。更に高品なる戯文家としては成島柳北翁を推さゞるべからず。蓋し魯文翁の如きは徳川時代の戯作者の後を襲ぎて、而して此の混沌時代にありて放縦を極めたるものゝみ。柳北翁に至つては純乎たる混沌時代の産物にして、天下の道義を嘲弄し、世道人心を抛擲して、うろたへたる風流に身をもちくづしたるものなり。吾人は敢て魯文柳北二翁を詰責するものにあらず、唯だ斯かる混沌時代にありて、指揮者をもたざる国民の思想に投合すべきものは、悲しくも斯る種類の文学なることを明言するのみ。
眼を一方に転ずれば、彼三田翁が着々として思想界に於ける領地を拡げ行くを見るなり。文人としての彼は孳々として物質的知識の進達を助けたり、彼は泰西の文物に心酔したるものにはあらずとするも、泰西の外観的文明を確かに伝道すべきものと信じたりしと覚ゆ。教師としての彼は実用経済の道を開きて、人材の泉源を造り、社会各般の機務に応ずべき用意を厳にせり。故に泰西文明の思想界に於ける密雲は一たび彼の上に簇まりて、而して後八方に散じたり。彼は実に平民に対する預言者の張本人なり。前号にも言ひし如く、維新の革命は前古未曾有の革命にして、精神の自由を公共的に振分けんとする革命にてあれば、此際に於て尤も多く時代に需めらるべきは、此目的に適ひたるものなるが故に、其第一着として三田翁は皇天の召に応じたるものなり。然れども吾人を以て福沢翁を崇拝するものと誤解すること勿れ、吾人は公平に歴史を研究せんとするものなり、感情は吾人の此場合に於て友とするものにあらず、吾人は福沢翁を以て、明治に於て始めて平民間に伝道したる預言者なりと認む、彼を以て完全なる預言者なりと言ふにはあらず。
福沢翁には吾人、「純然たる時代の驕児」なる名称を呈するを憚らず。彼は旧世界に生れながら、徹頭徹尾、旧世界を抛げたる人なり。彼は新世界に於て拡大なる領地を有すると雖も、その指の一本すらも旧世界の中に置かざりしなり。彼は平穏なる大改革家なり、然れども彼の改革は寧ろ外部の改革にして、国民の理想を嚮導したるものにあらず。此時に当つて福沢氏と相対して、一方の思想界を占領したるものを、敬宇先生とす。
敬宇先生は改革家にあらず、適用家なり。静和なる保守家にして、然も泰西の文物を注入するに力を効せし人なり。彼の中には東西の文明が狭き意味に於て相調和しつゝあるなり。彼は儒教道教を其の末路に救ひたると共に、一方に於ては泰西の化育を適用したり。彼は其の儒教的支那思想を以てスマイルスの「自助論」を崇敬したり。彼に於ては正直なる採択あり、熱心なる事業はなし、温和なる崇敬はあり、執着なる崇拝
はなし。彼をして明治の革命の迷児とならしめざるものは、此適用、此採択、此崇敬あればなり。多数の漢学思想を主意とする学者の中に挺立して、能く革命の気運に馴致し、明治の思想の建設に与つて大功ありしものは、実に斯る特性あればなり。改革家として敬宇先生は無論偉大なる人物にあらざるも、保守家としての敬宇先生は、少くも思想界の一偉人なり。旧世界と新世界とは、彼の中にありて、奇有なる調和を保つことを得たり。
福沢翁と敬宇先生とは新旧二大潮流の尤も視易き標本なり、吾人は極めて疎略なる評論を以て此二偉人を去らんとす。爰に至つて吾人は眼を転じて、政治界の変遷を観察せざるべからず。
四、政治上の変遷
族長制度の真相は蛛網なり。その中心に於て、その制度に適する、すべての精神を蒐むるなり。而して数百数千の細流は其中心より出でゝ金環を周綴し、而して又た再び其の金環より中心に帰注するものなり。
斯の如き真相は吾人、之を我が封建制度の上にも同じく認むるなり。欧洲各国の歴史が一度経過したる封建制度と我が封建制度との根本の相違は、蓋し此点に於て存するなり。然れども尤も多く族長制度的封建を完成したるは、之を徳川氏に見るのみ。足利氏は終始事多くして、制度としては何の見るべきところもなし、北条氏は実権は之を保有せしにせよ、其状態は恰も番頭の主家を摂理するが如くなりしなり。源家に至りては極めて規模なく、極めて経綸なきものにして、藤原氏の如きは暫く主家を横領したる手代のみ。藤原氏の時代には政権の一部分
は猶皇室に属したり。源氏北条氏の時代に於ては、政権は既に大方武門に帰したりと雖、なほ文学宗教等は王室の周辺にあつまれり。降つて徳川氏に至りては、雄大なる規模を以て、政治をも、宗教をも、文学をも、悉くその統一権の下に集めたり。徳川氏は封建制度を完成したり、その「完成」とは即ち悉皆日本社会に当嵌めたるものにして、再言すれば日本種族の精神が其制度に於て「満足」を見出すほどに完備したるなり。
徳川氏は封建としては、斯の如く完備したる制度を建設したり。故に徳川氏の衰亡は、即ち封建制度の衰亡ならざるべからず。日本民権は、徳川氏に於て、すべての封建制度の経験を積みたり、而して徳川氏の失敗に於て、すべての封建政府の失敗を見たり、天皇御親政は即ち其の結果なり。
徳川氏の失敗は封建制度の墜落となれり。明治の革命は二側面を有す、其一は御親政にして、其二は聯合躰の治者是なり。更に細説すれば、一方に於ては、武将の統御に打勝ちたる王室の権力あり。他方に於ては、一団躰の統治乱れて聯合したる勢力の勝利あり。征服者として天下を治めたる武断的政府は徳川氏を以て終りを告げ、広き意味に於て国民の輿論の第一の勝利を見たり。而して之を促がしたるものは外交問題なりしことを忘るべからず。
凡そ外交問題ほど国民の元気を煥発するものはあらざる也。之なければ放縦懶惰安逸虚礼等に流れて、覚束なき運命に陥るものなり。徳川氏の天下に臨むや、法制厳密にして注意極めて精到、之を以て三百年の政権は殆王室の尊厳をさへ奪はんとするばかりなりし、然るに彼の如くもろく仆れたるものは、好し腐敗の大に中に生じたるものあるにもせよ、吾人は主として之を外交の事に帰せざるを得ず。而して外交の事に就きても、蓋し国民の元気の之に対して勃として興起したることを以て、徳川氏の根蔕を抜きたる第一因とせざるべからず。
国民の精神は外交の事によつて覚醒したり。其結果として尊王攘夷論を天下に瀰漫せしめたり、多数の浪人をして孤剣三尺東西に漂遊せしめたり。幕府衰亡の顛末は、桜痴居士の精細なる叙事にて其実況を知悉するに足れり。吾人は之を詳論するの暇なし、唯だ吾人が読者に確かめ置きたき事は、斯の如く覚醒したる国民の精神は、啻に徳川氏を仆したるのみならず、従来の組織を砕折し、従来の制度を撃破し尽くすにあらざれば、満足すること能はざること之なり。
明治政府は国民の精神の相手として立てり。国民の精神は明治政府に於て其の満足を遂げたり、爰に至つて外交の問題も一ト先づ其の局を結びたり、明治六七年迄は聯合したる勢力の結托鞏固にして、専ら破壊的の事業に力を注ぎたり、然れども明治政府の最初の聯合躰は、寧ろ破壊的の聯合組織にして、破壊すべき目的の狭まくなりゆくと共に、建設すべき事業に於て、相撞着するところなき能はず。爰に於て征韓論の大破綻あり、佐賀の変、十年の役等は蓋し其の結果なるべし。之よりして政府部内にあるすべての競争は、聯合躰より単一躰に趣かんとする傾向に基けり、凡ての専制政躰に於て此事あり、吾人は独り明治政府を怪しまざるなり。
吾人の眼球を一転して、吾国の歴史に於て空前絶後なる一主義の萌芽を観察せしめよ。
即ち民権といふ名を以て起りたる個人的精神、是なり。この精神を尋ぬる時は、吾人奇くも其発源を革命の主因たりし精神の発動に帰せざるべからざる数多の理由を見出すなり。渠は革命の成功と共に、一たびは沈静したり、然れども此は沈静にあらずして潜伏なりき。革命の成るまでは、皇室に対し国家に対して起りたる精神の動作なりき。既に此目的を達したる後は、如何なる形にて、其動作をあらはすべきや。
国民は既に政治上に於ては、旧制を打破して、万民倶に国民たるの権利と義務を担へり。この「権利」と「義務」は、自からに発達し来れり、権義の発達は即ち個人的精神の発達なり。材能あるものは登用して政府の機務を処理することゝなれり。而して材能なきものと雖も、一村一邑に独立したる権義の舞台となりて、個人的の自由を享有するものとなれり。富の勢力は軈かに上騰したり。アビリチーの栄光漸くあらはれ来れり。必要は政府を促がして、法律の輸入をなさしめたり。之を要するに個人的精神は長大足の進歩を以て、狭き意味に於ける国家的の精神の領地を掠め去れり。国民の自由を保護すべき武器として、言論集会出版等の勢力漸くにして世に顕はれたり。政府未だ如何にして是等の新傾向に当るべきかを知らざりしなり。明治政府はひたすら聯合より単一に趣かんことに意を鋭くしたり。十年の役は聊か其目的を達したりと雖、なほ各種の異分子の相疾悪するもの政府部内に蟠踞するあれば、表面は堅固なる組織の如くなれど、其実極めて不安心なる国躰なりと云はざるを得ず。
——明治二十六年四月~五月——
小田原文学館