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各人心宮内の秘宮

 各人は自ら己れの生涯を説明せんとて、行為言動を示すものなり、(しか)して今日に至るまで真に自己を説明し得たるもの、果して幾個(いくこ)かある。或は自己を隠慝(いんとく)し、或は自己を吹聴(ふいちやう)し、又た自らを誇示するものあれば、自らを退譲するものあり、要するに真に自己の生涯を説明するものは(すく)なきなり。

 哲学あり、科学あり、人生を研究せんと企つる事久し、客観的詩人あり、主観的詩人あり、千里の天眼鏡を懸て人生を観測すること既に久し、而して哲学を以て、科学を以て、詩人の霊眼を以て、(つひ)に説明し尽すべからざるものは()れ人生なるかな。

 厭世大詩人バイロンが「我は哲学にも科学にも奥玄(あうげん)なるところまで進みしが、遂に益するところあらざりし」と放言し、万古の大戯曲家シェーキスピーアが「世には哲学を以ても科学を以ても(うかゞ)ひ見るべからざるものあり」と言ひたりしも、又た学問復興の大思想家と人の言ふなるべーコンが「哲学遂に際涯するところあらざるべし」と戯れたるも、畢竟(ひつきやう)するに甚深甚幽(じんしんじんいう)なる人間の生涯をいかんともすべからざるが為めならんかし。

 人世はまことに説明し得べからざるものなるか。()()らば、人生は暗黒なる雲霧の中に埋却(まいきやく)すべきものとせんか。何物とは知らず吾人の中に、斯くするを否むものあるに似たり。

 人の本性を善なりと認めたる支那の哲学者も、人の本性を悪と認めたる同じ国の哲学者も、世界を楽天地と思ひ定めしライプニッツも、世界を苦娑婆(くしやば)と唱へたるショッペンホウエルも、或は善の一側を観じ、或は悪の一側を察し、或は楽境を睥目(へいもく)し、或は苦界を睨視(げいし)したるものにして、是等大思想家の知り得たるところまでは確実なれども、なほ知り得べからざる不可覚界のひろさは、幾百万里程(りてい)なるべきか。真理は実に多側なり。神の(おもて)は一なれど、之を見るものゝ眼によりていかやうにも見ゆるものなるべけれ。深山に分け入りて踏み迷ふは不案内の旅客なり、(しか)れども(その)出で来る時には、必らず深山の一部分を識得して之を人にも語り、自らも悟るなり、真理を尋究する思想家の為すところ、()(かく)の如くなるべけん。

 深山に踏入る旅客なかるべからざるが如くに、真理に踏迷ふ思想家もなかるべからず。人間は暗黒を好む動物にはあらざるなり、常久不滅の霊は其故郷を思慕して、或時に於て之に到着せん事を(ひつ)するものにてあればこそ、今日に到るまで或は迷信に陥り、或は光明界に出で、宗教の(かた)、哲学の式、千態万様の変遷を経たるなり。人性に具備せる恋愛の如き、同情の如き、慈憐の如き、別して涙の如きもの、深く(その)至粋を(きは)めたるものをして造花の妙微に驚歎せしめざるはなし。蛮野(ばんや)より文化に進みたるは()までの事にあらず、この至妙なる霊能霊神を以て遂には獣性を離れて、高尚なる真善美の理想境に進み入ること、(あに)望みなしとせんや。

 欧洲の理想界に形而上(けいしじやう)派の興りてより、漸くにして古代の崇高なるプラトニックの理想的精神を復活せしめ、爾来(じらい)欧洲の宗教界、詩文界に生気の活動し来りたるを見る。律法儀式にのみ拘泥(かうでい)したる羅馬教(ローマけう)の胎内よりプロテスタニズム生れ出で、プロテスタニズムよりピュリタニズム生じ、ピュリタニズムによりて、長く人心を苦しめたる君主専制の陋弊(ろうへい)を破りたる自由の思想の威霊あるものを奮興したり。或は一転して旧来の迷夢を撹破(かうは)したるボルティアとなり、バイロンとなり、ゴエテとなり、カアライルとなり、自由神学派となり、唯心(ゆいしん)的傾向となりて、今日に至るまでの思想界の変遷はおもしろきこと限りなし。

 (しか)れども(すべ)て是等の変遷を貫ぬける一条の絃の存するあるは、識者の(あま)ねく認むるところなり。之を何とか為す、(いは)く、皮相的信仰破れて、心を以て基礎とする思想及び信仰の漸く地平線上に立ち上りて、曙光柄灼(へいしやく)たるものある事是れなり。凡ての批評眼を(くじ)り去りて後に聖経(せいけい)を解かむとするは、むかし羅馬教の積弊(せきへい)たりしものを受けて今日の浅薄なる聖経の読者が為すところなり、心を以て基礎とし、心を以て明鏡とし、心を以て判断者となし、以て聖経に教ゆるところを行はんとするは、最近の思想を奉じ自由の意志に従ひて信仰を(かたちづ)くるものなりけり。

 人世は遂に説明し得べからざるものなり、然らば人生を指導するものも亦た、遂に解釈し尽くす(あた)はざる程の宝蔵にあらざれば、可なるところを知る能はず。数間(すうけん)の地を測るには尺度にて足るべし、天下の大を(はか)るには、人造の尺度果して何の用をかせむ。もし聖経の教ゆるところ、単に消極的の殺快楽(或は克己)に(とゞ)まらば、聖経も亦た古来幾多の思想界の階段の一となるの歴史上の価値を得るのみにして、()まんのみ。

 或は利得の故に教会に結び、或は逆遇に苦しみて教理に帰依(きえ)す、(かく)の如きは今日の教会にめづらしからぬ実状なり。もし夫れ人間の本性が全く教理を認めたるものならば、或は利得を取り或は帰依をなす元より自由にてあれど、(いやし)くも其発心の一瞬間に卑劣なる慾情の混り居らば、其教会の汚濁、実に思ふべきなり。(しか)れども基督(キリスト)の本旨は善人を救ふにあらず、不善を善に()へすにあれば、われは始めに染汚(せんを)の慾情を以て入り来りしものも、後には極めて浄潔なる聖念に満たさるゝ事を願ふなり。

 バプテスマのヨハネは基督の為に道を備へんとて(つか)はされたり。道を備ふるとは何ぞ。曰く、人々を悔改(くひあらため)に導くなり。悔改とは何ぞ。曰く、不善に向ひたる霊性を善に向はしむるなり。

 不善の行為は(たまた)ま不善の実象を現ずるに(すぎ)ずして、心の上にあらはれたる一黒点に外ならず。不善の行為を()めて善の行為をなすも亦た、心の上にうつりたる一白点に外ならず。共に心の上にあらはるゝものにして、心ありて後に善もあり不善もあり、心なければ何を悔改むるところとせむ。

 心こそ(すべ)てのものを涵する止水(しすゐ)なれ。迷ふも(こゝ)にあり、悟るも茲にあり、殺するも仁するも茲にあり、愛も非愛も茲にこそ(たゝ)ふるなれ。ヨハネの所謂(いはゆる)悔改(くひあらため)とは、即ち心を(なほ)くするにあり、ヨハネの所謂道を備ふるとは、即ち心を(むなし)うするにあり、心を虚うする後にあらざれば、真理は望む事を得べからざればなり。基督教に於て心を重んずる事(かく)の如し。唯だ夫れ老荘の、心を以て太虚となし、この太虚こそ真理の形象なりと認むる如き、又は陽明派の良知良能、禅僧の心は宇宙の至粋にして心と真理と(ほとんど)一躰視(いつたいし)するが如きは、基督教の心を備へたる後に真理を迎ふるものと同一視すべからず。

 以上は「心」に就きて説きたるまでなり、いでわれは是よりわが感得したるところを述て、心宮内の秘殿を論ぜむ。

 聖経(せいけい)はエルサレムの神殿を以て神の(おは)すところとせり、其神殿に聖所あり、至聖所あり、至聖所には祭司の(をさ)(ほか)之に入ることを得るもの甚だ稀なりと伝ふ。われ(おも)へらく、人の心も亦た斯くの如くなるにあらざるか。心に宮あり、宮の奥に更に他の宮あるにあらざるか。心は世の中にあり、而して心は世を包めり、心は人の中に存し、而して、心は人を包めり。もし外形の生命を()り来つて観ずれば、地球広しと(いへども)、五尺の体躯大なりと雖、何すれぞ沙翁をして「天と地との間を()ひまはる我は果していかなるものぞ」と大喝せしめむ。唯だ夫れこの心の世界斯の如く広く、斯の如く(おほい)に、森羅万象を包みて余すことなく、而してこの広大なる心が来り臨みて人間の(うち)にある時に、渺々(べうべう)たる人間眼を以て説明し得べからざるものを世に存在せしむるなり。

 吾人(ごじん)()ちて世間にある事を記憶せざるべからず、出世間(しゆつせけん)の出世間の事を行ふより、在世間の出世間の事を行ふの(むし)ろ大にして、真なる事を記憶せざるべからず。基督(キリスト)の教理も()(こゝ)(そん)す、彼は遁世(とんせい)を教へずして世にうち勝つことを教へたり、彼は世の大とするものを(しりぞ)けて小とし、世の小とするものを挙げて大とせり、彼は学者法律家等を責むるに偽善者の名を以てし、(かへ)りて最も小額の義財を神に献ずるものを激賞したり、その斯く教へたるもの、要するに人間の中に存在する心は至大至重のものにして、俗眼大小の以て(かう)すべきにあらず、学問律法の以て度測すべきものにあらず、小善小仁の以て論ずべきにあらざるを示せしに外ならず。

 小善小仁は滔々(たうたう)たる天下(これ)()すに(かた)きもの多からず、大善大仁はいかなる人にして始めて行ふを得むか。

 教会内にて、つまらぬ批評眼をもつて他の小悪小非を穿(うが)つものには、教会内の小善小仁すらも(あらは)(やす)からず、(しか)して今日の教会の多数は斯くの如くなるを悲しむなり。夫れ小善小仁は、(いにし)へのパリサイ(びと)能く之を為せり、彼等は教会にて威厳を(よそほ)ひ、崇敬をあらはし、小悪小非行を慎しむ事、今の俗信仰にまさり、小善小仁を行ふ事、今の所謂基督教信者なるものに幾等か加ふるところありし、然るも基督は之を排して、(まむし)(すえ)とまで罵りぬ。

 宗教の本意、()狭穿(けふせん)なる行為の抑制にあらんや。われは、教会の義財箱にちやらちやらと響きさして、振り向きて(ほこ)(がほ)ある偽善家を(にく)むと共に、行為の抑制を重んじて心の広大なる世界を知らざるものをあはれむ事限りなし。何事ぞ、人間を遇するに鞭を用ひて、(その)行住坐動を制せんとするが如きは。宗教(あに)(かく)の如きものならんや。

 心に宮あり、宮の奥に他の秘宮あり、その第一の宮には人の来り観る事を許せども、その秘宮には各人之に(かぎ)して容易に人を(ちかづ)かしめず、その第一の宮に於て人は其処世の道を講じ、其希望、其生命の表白をなせど、第二の秘宮は常に沈冥(ちんめい)にして無言、蓋世(がいせい)の大詩人をも之に突入するを得せしめず。

 今の世の真理を追求し、徳を修するものを見るに、第一の宮は常に()けて真理の威力を通ずれど、第二の宮は堅く閉ぢて、真理をして其門前に迷はしむるもの多し。第一の宮に()るの門は広けれども、第二の宮の門は極て狭し。第一の宮に入りたる真理は、(いま)だ以て其人(そのひと)を生かしむるものにあらず、又た死せしむるものにあらず、(かつ)、第一の宮に善根を(たねま)懺悔(ざんげ)をなすは、凡人の(あた)はざるところにあらず、この凡人()に大遠に通ずる生命と希望とを、いかにともするものならんや。福音(ふくいん)何物ぞ、救何物ぞ、更生何物ぞ、是等の物を軽侮(けいぶ)し、玩弄(ぐわんろう)し、(いたづ)らに説き、徒らに談じ、徒らに行ひ、徒らに思ひ、第一の門までは踏入らしめて第二の門を堅く(とざ)すもの、比々皆是れなるにあらずや。(もつと)も笑ふべきは、当今の宣教師輩が「福音」の字句に神力ありと信ずる事なり。彼等は(みだり)(げん)を為して曰く、「福音の説かるゝところ必らず救あり」と、而して彼等は福音を説かずして、其字句を説く、自ら基督を負ふと称して、基督の背後に隠るゝ悪魔を負ふ、(とつ)、福音を談ぜんとするもの、何ぞ天地至大の精気に対して、極めて真面目なる者とならずや。(その)第一の宮を開きて、第二の宮を開かず、心あるも心なきに同じ。己れ寒村僻地より来り、国家の大に愛すべきを知らずして、(みだ)りに自利自営を教へ、己れ無学無識を以て自ら甘んじながら、人に勧誘するところ「学問」を退ぞけ、聖経のみを奉ぜよと謂ひて、以て我が学問界以外の小人に結ばんとし、己れ文学美術の趣味、哲学の高致を解せざるが故に、愚物を騙罔(へんまう)して文学を(とほざ)くべしと()ふ、()くして一国の愛国心をも一国の思想をも一国の元気をも一国の高妙なる趣味をも(ことごと)苅尽(かいじん)して、以て福音を()かんとす、何すれぞ田園の沃質(よくしつ)洗滌(せんでき)し尽して、(しか)る後に菓木(くわぼく)()ゆるに異ならんや。心の奥の秘宮の門を(とざ)して、軽浮なる第一宮の修道を以て世を救はんとするの弊や、知るべきなり。

 道に入るは極めて至難とするところなり。道に入るは他の生命に入るものなるを記憶せざるべからず、道に入るはレゼネレィションの発端なるを記憶せざるべからず。(しか)るに今の世の所謂(いはゆる)基督教会なるものを見るに、(あした)に入りたるもの(ゆふべ)に出で、出没常なく、去就定まりなし、その()るや入るべからざるに入り、其()づるや出づるべからざるに出づ、何ぞ自らの心宮を軽んずるの甚しき。

 洗礼を施すは悪きことにあらず、(しか)れども其を以て基督の弟子となるに欠くべからざるの大礼となすは非なり、心を以て基督に冥交する時、彼は無上の(はえ)ある基督の弟子なり、洗礼を施さざる悪しきにあらず、然れども洗礼を施さざるを以て直ちに基督の弟子となり了したりと思ふは大早計なり、(すべ)て心の基督に通じたるとき、即ち心が基督の水に浴したる時、再言せばパウロの所謂火の洗礼に()ひたる時こそ、真に基督の弟子となりたるなれ、(しか)り、心の奥の秘宮開かれて、聖霊の猛火其中に突進したる瞬時に於てこそ。

 ナタナヱル無花果樹下(いちぢゆくのきのした)に黙坐す、ナザレのイエス彼を見て、以て猶太人(ユダヤびと)の中に尤も硬直にして欺騙(きへん)なきものと思へり。後世の之を説くもの、ナタナヱルの黙思を論ぜずして、基督の威力のみを談ず。ナタナヱルを知るは基督なり、然れどもナタナヱルのナタナヱルたるは基督の関するところにあらず、彼が心の照々として天地に恥るところなきは、彼自らの力なり、彼を救ふと救はざるとは彼の(あづか)り知らざるところなれど、救はるべき者になると否とは、彼の自力なり、斯般(かくのごとき)の理極めて睹易(みやす)きものなるを、今の世往々にして(いさゝ)かの自力(じりき)をも(たの)まずして他力を(もつぱ)らにするものあり、神に祈念するを以て惟一(いいつ)施為(せゐ)となすや、(あたか)()の念仏講の愚輩の為すところを学ばんとするものゝ如し。告ぐ、基督は救ふべきものを救ひ、救ふべからざるものを救はざる事を、千言万句の祈祷(きたう)は一たび基督を仰ぎ見るの徳に()かず、仰ぎ見るは心を以て仰ぎ見るべし、祈祷の教会をかしましうするは、(もつと)も好ましからぬことなれ、我は(すべ)ての教会の黙了せん時に、大活気の炎上すべきを信ず。

 慈恵の事、伝道の事、世間、其精神を誤解するもの多し、われは今くだくだしく述ぶるを欲せず。

  最後に

  一個人の尤も安く尤も平らか

  なるところを尋ねて見む。

 人には各自に何事かの秘密あるものなり、とは詩家某の()ひし(ことば)なるが、恨むらくは此言に洩るゝものゝ甚だ(まれ)なるを。言ひ難きにあらず、発表し難きにあらず、唯だ夫れ日常思惟するところのもの極めて高潔なる事あり、極めて卑下(ひか)なる事あり、自ら責め、自ら怒り、自ら笑ひ、自ら嘲り、静坐する時、瞑目する時、談笑する時、歩行する時、一々その時々の心の状あれば、その中に何事か自ら語るを快しとせざるものなき(あた)はず。然れども俗人は之を(おほ)はんとし、至人は之を開表して恥づるところを知らず、俗人は心の第一宮に於て之を盖はん事を計策す、故に巧を弄して自ら隠慝(いんとく)するところあるなり、然れども至人は之を第二の心宮に暴露(ばくろ)して人の(ほしいまゝ)に見るに任す、之を(おほ)ふにあらず、之を示すにあらず、其天真の爛漫たるや、何人をも何者をも敵とせず味方とせず、わが秘密をも秘密とする念はあらざるなり、(しか)り、斯かる至人の域に進みて後始めて、その秘密も秘密の質を変じ、その悪業も悪業の質を失ひ、懺悔も懺悔の時を過ぎ、憂苦も憂苦の境を転じ、殺人強盗の大罪も其業を絶ちて、一面の白屋、只だ自然の美あるのみ、真あるのみ。

 この美こそ、真こそ、以て未来の生命を(かたちづ)くるものなるべし。基督を奉ずるものゝ()さに専念祈欲すべきもの、(けだ)しこの美、この真の境なるべし。

 倒崖(たうがい)(たふ)れかゝらんとする時、猛虎の躍り()まんとする時、巨鰐(きょがく)の来り呑まんとする時、泰然として神色自若(しんしよくじじやく)たるを得るは、即ちこの境にあるの人なり。生死の界を出で、悟迷の外に出でたるの無畏懼(むゐく)は、即ちこの境にある人の味ひ得るところなり。

 むかしはヨブ(すべ)ての所有を失ひ、凡ての親縁眷族(けんぞく)を失ひ、凡ての権威地位を失ひ、加ふるに身は悪瘡(あくさう)の苦痛に堪えがたく、身命旦夕(たんせき)に迫れり。(しか)れども彼は神を恨まず、己れを捨てず、友は来りて嘲れども意に介せず、敵は来りて悩ませども自ら驚かず、心を(あき)らかにして神意を味はへり。彼は是れ、其秘宮の内に於て天地の精気に通じたるもの、平和の極意を得たるもの。(もつと)も富み、尤も栄えたる人の夢にだも感得する事能はざる極甚の平和を、この尤もあはれに尤も悲しむべき破運の王(説者ヨブを某国の王なりと信ぜり)が味ひ得たりし事を(みれ)ば、天国の極意の至妙至真たる事を知るに(かた)からじ。

 人須(すべか)らく心の奥の秘宮を重んずべし、之を(あき)らかにすべし、之を(なほ)うすべし、之を白からしむべし、之を公けならしむべし。大罪大悪の消ゆるは此奥にあり、大仁大善の発するは此奥にあり、秘事秘密の天に通ずるは此奥にあり、沈黙無言の大雄弁も此奥にあり、(しか)り、永遠の生命の存するもこの奥にあり、かの説明し得べからずと言はれたる人生の一端の、説明せらるゝもこの奥にこそ。この奥にこそ人生の最大至重のものあるなれ。

       (明治二十五年九月)

 

 

小田原文学館

 

 

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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北村 透谷

キタムラ トウコク
きたむら とうこく 思想家・詩人 1868・12・29~1894・5・16 現神奈川県小田原市に生まれる。優れた先見性と指導力で同人誌「文学界」派の中心人物として島崎藤村らに多大の感化を与えながら、明治27年27歳にして逝った、日本近代文学最先駆の天才的な一人。

掲載作は1892(明治25)年9月「文学界」初出の論考。

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