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スズメバチの死闘

第一話 スズメバチの眼

 

  百年バチ

 

 真夏の午さがり、村は死んでしまったように静かだ。セミの鳴き声だけが夏を呼吸している。村の屋並のむこうには観音寺山、明神山とふたつの頂きを持つ繖山(きぬがさやま)の稜線が、暑い空に圧しつけられながらデンとがんばっている。乳白色にかすんだ空高く、オニヤンマが山の方へ一直線にするどく()び去った。

 村の中央部に建っているりっぱな地蔵堂の前の広場にぼくたちは集まっていた。ヒロシ、ヨウイチ、アキラと、それぞれ六尺{六尺の長さのあるフンドシのこと}を持ち、他の仲間たちを待っていた。ぼくたちはこれから神社の裏の湧水のきれいな深い池か、その下手の寿美堂川(すみどうがわ)へ泳ぎに行くのだ。大将格のカズヨシもまだ来ていない。みんなを待つあいだ、ぼくたちは十年バチの話題に夢中になっていた。話題は一番年少のぼくが持ち出した。と言うのは、仲間たちの誰もがまだ見たことのない十年バチの巣をぼくはこの夏、身近に感じていたからだ。それは、ぼくの家の前栽(せんざい)のキンモクセイの木にどうやらあるらしいのだ。仲間たちの中でもとりわけアキラとぼくはハチの巣を採ることに夢中になった。が、それはすべてアシナガバチの巣だった。巣房の中の幼虫は魚釣りには絶好の餌になったし、ときどき幼虫の一匹をゴクリと飲み込んでおくと、刺されてもけっして腫れないのだと自慢したりしていた。もちろんひと夏に何度も刺される。

「もうアシナガバチは飽きてしもた」

 ぼくはちょっと生意気な口調で言った。

 陽あたりのよい軒下、板塀のすき間、屋根瓦のあいだ、刈り込まれたサツキの蔭、灼けつく熱いトタン屋根の小屋でもあれば、発見するのに苦労はしない。十年バチの巣を身近に感じはじめたとたん、ぼくの好奇心は急速にアシナガバチから離れていった。

「言うとるでよ、こいつは」

 大きな体のヨウイチが意味ありげに笑いながら言う。ヨウイチは体に似合わず、ハチとかヘビには弱く、逃げ足もおそろしく速いのだ。

「そやけど十年バチに刺されたら、ほんまに死ぬのやろか」

 ヒロシが言う。

「十年経ったらけ」

 ヨウイチはそんなことはないだろうというような口ぶりだ。

 刺されて十年経てば死ぬ。だからアシナガバチよりずっと恐ろしいそのハチのことを、ぼくたちは十年バチと呼んでいた。みんなは急に神妙になった。

 ぼくたちには十年という歳月がとてつもなく遠い遠い未来のように思われた。十年後のことはおろか、明日のことさえ考えずにぼくたちは遊んでいるのだ。しかし一方、死という言葉が十年をぐっと縮めてしまい、十年バチに刺されようものなら、それこそ明日にでも死んでしまうように迫ってくる。十年バチはやはり怖い。

「そやけどなんぼなんでも・・・・・」

 アキラちょっと考えるように言い出した。

「なんぼなんでもおかしいわ。もしそやったら、死にそうな人に十年バチを持って行ったらええことになるやんけ」

 さすがにハチの巣を採るのが上手なアキラだ。

「二匹に刺されたら二十年長生きできるんやったらええのにね」

 ぼくは思わずそう言った。するとヨウイチは、

「阿保言え、二匹に刺されたら半分の五年で死ぬのよ」と脅かす。

「十匹やったらすぐ死んでしまうでよ」

 ヒロシが笑いながら腰を下ろしていたお堂の石段から立ちあがった。

 ぼくたちには何もなかった。虫や魚や小鳥のすがたが鮮やかに撮影されている写真集も、種の区別を明らかにできる図鑑もなかった。だからコアシナガバチやフタモンアシナガバチをひっくるめてアシナガバチと曖昧だった。

「そろそろ行こけ」

 ヨウイチが言った。

「カズヨシちゃんらは」

 ぼくがそう言うと、

「もう先に行っとるで」とアキラも立ちあがる。

「行こか」

 そう言ってぼくも立ちあがった時だった。広場に隣接しているヒロシの家の垣根沿いの村道を、まっすぐ広場にとび込んできたものがあった。それは広場の様子を確かめるように悠然と半周すると、ぼくたちの目の前で翅をふるわせた。

「わーっ、十年バチや」

 ヒロシが跳び退いた。ヨウイチとアキラはヒロシが跳び退いたときには、もう広場の真ん中まで逃げていた。ぼくの前のヒロシが急に消えてしまったので、ぼくはまともにそのハチと見つめ合う形になった。十年バチはホバリングしながら、ぼくをにらむ。ぼくは恐怖のあまり瞬きもできない。が、一瞬、目の前のハチは十年バチでないとぼくは思った。十年バチよりはるかに大きく見えたのだ。鮮やかなオレンジ色の頑丈なカブトのような頭部が十年バチの仲間の特徴だ。そしてその頭部にがっちりと嵌め込まれているような複眼がぼくにピタリと焦点を合わせ、まっすぐにらんでいる。ぼくはその場に立ちすくんで動けなかった。大きな一対の複眼は、明らかにひとつの表情を持ち、意志を示していた。

「おまえはだれだ。そこを退け。それとも刺されたいのか」

 こんな複眼はアシナガバチにはけっしてないものだ。行く手をはばまれたぼくは横っとびに逃れようと思った。が、そいつは振子のようにゆらり、ゆらりと左右に揺れ翅びはじめた。それはまるでぼくが横の方へ逃れようとするのを知っているかのようだ。仕方なくぼくはハチの動きから目をそらさず、そっと後ずさりした。そしてお堂を背に二段の石段を登った。

「タミィー、早う逃げよ」

 ヨウイチの声がする。

「動いたらあかん。じっとしてよ」

 アキラが叱るように叫ぶ。すばやく背を見せて逃げれば、逃げる勢いに乗じ、すーっと流れて来て後頭部を()られそうだ。じっとしていれば・・・・・。いや、この大きなハチを目の前にじっとなどしていられるものではない。ぼくはなおも後ずさりした。お堂の縁に登る階段が三段、ぼくは藁ぞうりを脱ぎながら後ろ手に踏む段をさぐりつつ、じりじりと後退した。

 何ということだろう。ハチはぼくの後退にピタリと距離を合わせているではないか。左右に揺れ翅ぶ振幅をせばめつつ、ぼくを追いつめる。ぼくはお堂の縁に登った。二歩ほど後退したところで動けなくなってしまった。絶体絶命だと思った。というのは、お堂の重い戸は特別の日でない限り閉められており、外から開けることはできないのだ。ぶううーん、ぶううーんと波状的な翅音(はねおと)にぼくの体はふるえる。それにしてもこの獰猛なハチはいったいどういうハチなのだ。どんなハチでも、こちらが危害を加えようとしない限り、攻撃してくることはない。巣が近いほどハチは勇敢になる。夏になれば至るところでハチと出会う。十年バチでさえ、たまたま出会ったぐらいのことで、攻撃などして来ない。このハチの巣が近くにあろうはずもない。なのにこのハチは・・・・・。逃がすものかと、複眼がぼくをにらんでいる。

 ああ、一瞬ぼくは思いついた。アシナガバチの巣を採りすぎたのだ。もう何個、いや何十個いただいたか分かりゃしない。今ぼくをにらんでいるハチは、ハチ族の王様で、ぼくをこらしめるためにやって来たのだ。広場に入って来た時の様子だって、その悪童を捜し出しひとつこらしめてやると、いかにも王様の風格があった。

「ひゃあー、刺されるー」

 ぼくは声をしぼり出した。

「動いたらあかん」

 ふたたびアキラの声がする。

「タミィー、動くな」

 ヨウイチがさっきとは逆のことを叫んでいる。

「動けへんがな」

 ぼくはもう半べそだった。動くに動けないのだ。後ろはお堂の頑丈な戸。前と左右は隙のないハチの王様の絶妙な揺れ翅ぶホバリング。アキラはどうなのだ。アキラだってぼく以上にいっぱいハチの巣を採っているのだ。僕より三つも年上なのだから。それに、ヒロシだってヨウイチだって、アキラやぼくが採ったハチの幼虫で魚釣りをしたではないか。

「やっぱりハチの幼虫()はええねえ」

 ついこの前も、友田川の橋の下で、大きなカワムツを何匹も釣り上げてよろこんでいた。なのに、このぼくだけとは割に合わない。ぼくの男らしくない弁解を察知したのか、ハチの王は距離をぐぐっと詰めてきた。目の前だ。一メートルもない。揺れ翅ぶ振幅も顔の幅ぐらいまで縮めている。もはや最悪の場合、手ではたき落とすよりない。手を刺されることは覚悟しなければならないが、顔面よりまだいい。顔面を刺されることはみっともない。ぼくは藁ぞうりを脱いでしまったことを悔やんだ。そっと右手を挙げた。

 その瞬間、ハチはジロリとぼくをひとにらみすると、左右に大きく揺れるや、くるりと反転した。そしてすーっと流れるように斜めに下降すると、今度はヨウイチたちの方にむかった。一瞬だった。

「うひゃーっ」

「来よるぞ」

 声がしたときにはハチはもう三人のすぐ近くで、ぼくの目の前でやったときと同じように、左右に揺れ翅び、ホバリングをくり返していた。三人はじっと動かないでいるどころか、悲鳴をあげながら、それぞれ勝手な方へ逃げた。ハチは広場の中央でホバリングを続けている。それはあたかも、三人のうち誰を目標にしてやろうかと迷っているように見えた。

 ヨウイチは北路(きたみち)へ走った。入口のところでカズヨシとタツオにぶつかるように出くわした。ヨウイチは得たりと二人を盾にし、「ハチや、十年バチや」と叫んだ。ヨウイチの声がハチの王を呼んだ。広場から一直線に流れたと見るや、ハチはカズヨシの目の前にいた。同時にヨウイチとタツオの姿は路の奥へ消えてしまった。ガキ大将のカズヨシはさすがに逃げなかった。

 いつだったか、神社の横の栗田さんの家の山羊をみんなでからかった。山羊は角をふりかざし猛然とぼくたちを追いちらした。そのときカズヨシだけは逃げずに身構え、突進してくる山羊の角を両手でむずととらえ、押し合いをしたのだ。

 カズヨシはあの時と同じ目をしているのが遠くからでも分かった。カズヨシは二歩ほど退くあいだに、赤い(さらし)の六尺をすばやく手ごろにたたむや、ハチめがけて振り下ろした。晒は空を切った。カズヨシはふたたび腕を上げ、ねらいを定めるためハチをにらむ。

「カズヨシちゃん、刺されるぞ」

 ぼくは叫んだ。ぼくより五つ年上の、いかに強いカズヨシといえども、あのハチの王様のような奴に()られたらひとたまりもない。アキラやぼく以外、村の仲間たちは普段からそれほどハチの巣に執着しているわけではない。だからカズヨシも、アシナガバチに刺される痛さに較べ、いかほどのものか想像もつかないのだ。

 聞こえたのかどうか、ぼくの声など無視してカズヨシは立ち向かう。ハチはさすがにすこし気圧されたのか、前後左右に揺れながらとまどっているようだ。が、上半身はだかの、夏の陽に幾日を灼かれた赤銅色のカズヨシの胸元めがけ、すっと近づいた。退きながらカズヨシは六尺を振り下ろす。敵が近づき過ぎたため、またも空を切る。六尺を軽くかわしたハチは、すこしバックすると、手ごわいと思ったのか横を向いた。そして音もなくカズヨシから離れると、ゆっくりと広場を旋回しはじめた。それはまるで小型偵察機が敵の飛行場を旋回しているようだった。

 一周目は広場のところどころでホバリングをやった。お堂の正面でもやった。それからハチはスピードをあげ、さらに一周あおられるように旋回すると、侵入して来た村道を西の方へと翅び去った。

「うへぇー、ごつい十年バチやったね」

 カズヨシが刺されることのなかった頭のあたりを撫でながら、広場へ入って来た。ぼくは、あのハチはいったいどのような意志のもとに広場に翅び込んで来たのかと思いながら、お堂の階段をおり、脱ぎ捨てた藁ぞうりを引っかけ、五段の石段を一気に跳びおりた。ヒロシたちもそれぞれ戻って来た。

「ごつい奴やったね」

 ヨウイチは目をまるくした。

「目の前でにらみやがるさかい、はたき落としたろと思たんやけど・・・・ほやけどヒョイと()けくさる」

 カズヨシはみんなの前でやっつける仕草をする。熱い興奮を口ぐちに、ぼくたちは広場から神社の方へと歩きはじめた。

「ほやけど、あれは十年バチとちがうでよ。ごつすぎるが」

 ぼくはあの恐ろしい複眼を思い浮かべながら、ぽつりと言った。いつもなら誰かに、「阿保なこと言うてなよ」と頭のひとつもたたかれるのだが、ヨウイチが、

「タミィ、お前の言う通りや。あれは十年バチとちがう」と、ぼくの言ったことをほめるように言う。ぼくも、いつもなら「一番先に逃げたくせに」と、ヨウイチをからかうところだが、ただ、

「ほんでもごつい十年バチやったね」と、呟いただけだった。

「阿保やなあ、お前は。いま十年バチとちがう言うたやんけ」

 ヨウイチが呆れて、ポンとぼくの頭を後ろからたたいた。ぼくは苦笑した。笑いながらアキラが、

「あれは百年バチや」と、みずから納得するように言う。

「百年バチとでもしとかんと、しょうがないね」とカズヨシが真っ白な歯を見せた。

「刺されたら・・・・」とぼくが言おうとしたとき、ヨウイチが背後からみんなを掻き分け、

「また来よったあー」と叫んだ。一瞬、みんなは広場の方を振り返った。黒褐色のつぶてが先刻消えたあたりから広場へ、透明な糸に操られるように侵入して来るのが、はっきり見えた。

「来やがったあー」

 叫びながら先頭を切って夢中に神社の方へ走ったのはカズヨシだった。

「来たあー」

「逃げろー」

 喚声を午さがりの静かな村道にあげて、ぼくたちはいっせいにカズヨシのあとを追った。

 世界でもっとも大きなハチ、オオスズメバチとの最初の出会いだった。

 

  見えない巣

 

 家の人たちはそこを大裏(おおうら)と呼んでいた。西の隅にもみじの大木が二本あった。そのあたりは手入れをしていないスイリュウや槙の木が自由に枝をのばし、ちょっとした小さな森のような雰囲気があった。あちこちに庭石が据えられ、泉水に湧水を引き入れるつもりだったのか、石囲いの小さな井戸がおとぎの森の泉のようにあり、いつも音もなく清水が湧き出ていた。中央部は、これもあまり手入れの行き届いていない畑地で、その横は花壇になっていた。が、そこもむしろ雑草園とでも呼んだ方がふさわしいようなものだった。祖父の時代、この広い大裏を回遊式の庭園にするつもりだったらしいが、途中で中止してしまったのだそうだ。家が「ボツラク」したからだということだった。

 夏になると、もみじの大木にはセミが好んであつまった。そして夜にはヤブキリが、「キチキチキチ・・・・」とさかんに鳴いた。夜風にざわめく葉ずれの音とともに聞こえてくるその鳴き声は、真夏の到来を告げた。日中、大木の根元にそっと近づきふりあおぐと、獰猛なヤブキリがセミを捕え食べていたりする。

 大木の横の、くず石を積んだ石山からつるを延ばしたノウゼンカズラは垣根を覆い、紅く毒々しい花をいくつもつけていた。

 畑地ではウマオイムシがよく鳴いた。長い触角をゆるやかに動かし翅をすり合わせて鳴く姿は、夜の大裏の夏そのものだった。

 日中の遊びのなごりを惜しむように、夕ぐれどきぼくは大裏へと足を運ぶ。黒くうずくまる鎮守の杜の上に大きな月がのぼり、まるでその(しずく)を吸いながら開くように、オオマツヨイグサの花が花弁を徐々にひろげ、一輪、また一輪とかすかな音をたてるように咲くさまを、ぼくは飽くことなく見ている。ぶんと耳元で音がする。咲くのを待ちかねていたように、どこから翅んで来るのか、スズメガが黄色い花から花へ、せわしくホバリングをくり返しながら蜜を吸う。

 荒れていく大裏には、ぼくを惹きつける独特の匂いがあった。

 オオスズメバチに追われた明くる日、ぼくはいつものようにふらりとそんな大裏へ足を運んだ。土中から這い出したミミズにアリが群がり襲いかかっていた。ミミズはアリの群れごと灼けた地面にのたうつ。ぞくっと背筋に悪寒のはしるようなその光景を、ぼくはしばらく見ていた。

 すると背後で、はたはたと何やら乾いた音がする。聞きなれない音にぼくはふり返った。二匹のキアゲハが上下に並び、さかんに翅ばたきながら交尾を始めたのだ。

交尾(さか)ってくさるでよ」

 ぼくはちょっとカズヨシたちの口調をまねて独り()ちた。そして苦笑した。みんなで泳いでいる時など、ミズカマキリやゲンゴロウなどが二匹重なり交尾している場面に出くわすと、たいてい誰かが「交尾(さか)ってくさるでよ」と大きな声を出し、みんなを呼ぶのだ。ぼくたちはわけも分からずはやしたてながら、喚声をあげた。

 しかし今、ぼくは独りだ。ぼくはどうしようかと思ったが、小さな勇気を出して二匹のキアゲハを目で追った。上がメスで下がオスだろう。オスは翅ばたきながら上方のメスに突っかかる。メスは突っかかるオスの行為を可憐にかわしながら、木陰から畑地の中央へとゆっくり移動する。オスがあとを追う。炎天下の畑地に、はたはたと二匹のキアゲハの翅の触れ合う乾いた音がする。

 やがて二匹はもつれながら、どんどん高度をあげた。暑い乳白色の空高く、軽やかな乱舞をくり返しながらのぼっていく。ぼくの目は眩み、もうその姿を追うことはできない。ぼくはなぜかホッとする。偶然にも人知れずキアゲハの晴れやかな生を覗いてしまったような気がして、

交尾(さか)ってくさるでよ」ともう一度独りでないことを確認するように呟いた。

 アブラアゼミのはげしい鳴き声がした。ぼくはふたたび植込みの方へ目を向けた。カマキリがアブラゼミを捕え、するどい鎌でしっかりと抱え込んでいる。アブラゼミは翅をふるわせジージーと鳴く。ぼくはアブラゼミを助けてやろうかと思った。が、キアゲハの交尾を見ていたのと同じように動かなかった。

 やがてカマキリはアブラゼミのやわらかい腹部を食べはじめる。そして腹部だけを食べるとそのまま捨ててしまった。それでもアブラゼミは翅をはげしくふるわせ、ジージーと鳴きつづけ、仰向けのまま地面に空しく、くるくる回転している。

 そこへどこから翅んで来たのか、どつぜん十年バチが襲いかかった。アブラゼミは胸部を十年バチのするどい顎で噛みくだかれ、ジューッと消え入るようにひと鳴きすると、あとは弱々しく翅をばたつかせるだけになってしまった。プチプチ、キチキチとアブラゼミのからだを噛みくだく静かな音がする。そしてアブラゼミは間もなく動かなくなった。

 プチプチと音をたてながら、十年バチは乾いた肉片を噛みくだき、肢と顎を器用に使い、円く団子状に整えていく。よく見ると昨日追われたハチとやはりちがう。大きさも小さい。が、獰猛でつぶてのように速く翅ぶ力を持っているこのハチは、やはりアシナガバチのたぐいと格がちがう。

 十年バチはやがて大豆ほどの大きさの肉団子を作り終えると翅をふるわせた。ぶーっ、と音をたて二十センチほどあがったが、肉団子が重すぎるのか、そのまま地面に降りてしまった。そしてもう一度肉団子をくわえなおし翅をいっぱいに拡げると、今度は意を決するように翅びたった。

 ぶーっ、と一メートルほど上昇すると、これから運んでいく方向を見定めるためか螺旋状に高度をあげ、前栽(ぜんさい)と大裏を仕切っている朽ちた板塀の屋根あたりまで達した。そして、そのまま木立ちを縫いながらスピードをあげる。ぼくはそれを目で追う。そして、はっと胸を衝かれた。

 ぼくは板塀に沿った植込みの横を全力で走った。その勢いのまま、前栽の入口の板の門をドンと蹴った。目の前に便所の棟があり、その横にキンモクセイがこんもりと繁っている。ほくは息を凝らして見つめた。思った通り、さっきの十年バチが肉団子をくわえたまま、キンモクセイの繁みの上の方へ入っていくのがはっきり見えた。消えたのと同時に他のハチが翅び出していく。

 どことなくせわしい気配がキンモクセイから漂ってくる。ハチの出入りがはげしい。戻って来るものはかならず口もとに何かくわえている。もう間違いないと思った。

 村の仲間たちもぼくも、一度も見たことのない十年バチの巣はきっとあそこにある。ぼくはそっと木のそばまで近づいた。かすかにハチのうなる翅音が聞こえてくる。上の方をすかすように見た。が、何も見えない。

 ハチが出入りするたびに目を凝らす。しかし戻って来るハチは木の中に吸い込まれるように消える。ぼくは木の周囲を遠巻きにあらゆる角度からあおぎ見るのだが、錯綜した枝と繁茂した葉のため暗く、巣らしきものは発見できない。ぼくはなおしばらく木の周囲をうろついた。

 ぼくは十年バチの巣を見たことがない。だから見えないのだと思った。畑地のインゲン豆の葉に鳴くウマオイの最初の一匹を見つけ出すのに、どれほどの時間が必要だったか。キンキロリンと可憐に鳴くマツムシにいたっては、二晩もかかってしまった。

 十年バチの巣はあるが、ぼくには見えていないだけなのだ。ぼくは恨めしく木を見上げながら、あれこれと方法をめぐらせた。

 アシナガバチの巣だったら、手ごろな竹竿一本で事足りる。しかしいくらハチに刺されることに慣れているとはいえ、相手が十年バチとなれば、すぐ竹竿というわけにはいかない。ぼくの本能が危険信号を点滅させる。

 ぼくは十年バチの巣を見たこともなければ、刺された経験もない。その姿かたちから、刺される痛みはアシナガバチと較べものにならないことは明らかだ。それに数だ。あれだけはげしく出入りするのだから、数も相当に多いはずだ。二匹三匹といちどに翅び出したり戻って来たりする。アシナガバチの巣では、まずそんなことはない。いたってのんびりと、働くことを思い出したように翅びたち、また戻って来る。そしてまた、アシナガバチに較べ、何より十年バチの飛行能力とそのスピードがおそろしい。

 ぼくは門のところまで戻った。握りこぶしほどの玉石が板塀に沿った溝に敷きつめてある。ぼくはひとつの方法を思いつき、木から門までの距離を慎重に測った。行きつ戻りつ何度か計測した。

 ぼくは陽に灼けた熱い玉石を拾いあげると木のそばに立った。上の方を見た。相変わらずハチの出入りははげしい。ぼくはそれを見ながら二歩ばかり退いた。

「ナムサマンダ、ナムサマンダ」

 小さな声で呪文を唱えながら腕をあげるや、渾身の力をこめて自分の背丈ほどの高さの繁みに玉石をなげつけた。ドスンと幹にあたる確かな音がしたとき、ぼくはもう木に背を向け逃げの態勢をとっていた。

「うへェー」とわけの分からぬ叫びをあげながら、すばやく板塀の陰に身をかくすや、そっと覗いてみる。

 木ははげしい震動を受けているはずだ。巣があればハチはすぐに翅び出してくる。おや?おかしいと思った瞬間だった。ぼくは思わずごくりと唾をのんだ。

 出てくる出てくる。二十匹だろうか、三十匹だろうか。いや、もう数など数えられるものではない。十年バチの群れである。葉陰から一匹ずつ続けざまに翅び出してくる。木がうなっている。好奇心と危険と驚異がぼくの体を貫き、熱くなってくる。巣の存在はもうたしかだと思った。

 というのは、迫力の差こそあれ、アシナガバチとまったく同じなのだ。ほとんどのハチが前後左右に揺れ翅びながらも一方向に頭部を向けているのだ。アシナガバチと同じように巣のあるその場所が大切なのだ。アシナガバチの場合、巣を落としてしまっても、その巣にふり向きもせず、あくまで元の場所に固執する。その習性は十年バチも同じかも知れない。ぼくは板塀から体を半分ほど出し、つぶさに観察していた。

 やがてハチは一匹ずつ木の繁みに消えていく。ハチのうなる翅音が鎮まると、急にもみじの大木のアブラアゼミの声が大きくなる。とんだことになってしまった。ぼくはそう思いながら、ふーっと息を吐いた。そして、より確実な方法を求め、ふたたび玉石を握りしめていた。

 ぼくの力では巣があると覚しきところまで、どうしても玉石が届かない。繁みの中の幹、それもできる限り上の方へ向け投げつける。投げては塀のうしろへかくれ、そっと様子を窺う。そんなことを何度もくり返しているうち、ひとつのことに気づいた。

 ドスンと音をたて玉石が命中する。ぼくはとっさに逃げる。そして塀のうしろにかくれて様子を窺う。この一連の決死の行動のあいだにも、ハチは出て来ないのだ。ある時間的なズレがあることに気づいた。一定の間隔をおいてハチは翅び出して来る。それもいっせいにパッと翅び出すのではなく、ぞろぞろと一匹ずつ連続性をもって出て来るのだ。そして戻るときも一度にではなく、一匹あるいは二匹と繁みの一点の個所に消えていく。

 ぼくは見えない十年バチの巣を、アシナガバチの巣を何倍も大きくしたようなものだと想像していたが、どうやらそれは見当ちがいらしい。ハチが一匹か二匹やっと出入りできる程度の穴を持つ球状のものではないかと思われてきた。そんな想像をしてみるものの、想像すればするほどキンモクセイの葉陰の奥が神秘的になってくる。

 こうしてぼくと十年バチの闘いは続いた。

 

  逃げろ!

 

 ぼくは十年バチに対し、徐々に大胆になっていた。それと同時に、ふと刺されてみたいと微かにこころが動いた。刺されてみれば、アシナガバチとの痛さの比較もできる。

 明くる日、ぼくは米倉の前の長小屋から竹竿を引きずり出そうと懸命になっていた。竹竿の上には古い角材や杭のようなものがのっていたので、なかなか思うようにはいかない。

「また何かはじまりますのかな」

 ぼくはびっくりしてふり返った。佐喜蔵(さきぞう)おじさんだった。ぼくは「うん」とあいまいな返事をした。そして竹竿の上の角材を持ちあげ横に振ろうと思ったが、重くてどうにもならない。その様子を見ていたおじさんは、

「さあ、どうしたものですかな」と穏やかな笑みを浮かべて言う。

 この佐喜蔵おじさんはいつも、「さあ、どうしたものですかな」なのだ。ぼくにむかって言っているのか、それとも独り言を呟いているのか。それでも、いっしょに暮らすようになって、ぼくはこの言葉をとらえる機を、それとなく心得ていたから、

「これ引きずり出したいんや」と、竹竿を握って示した。

「またハチの巣ですかな? えっ?」

 おじさんが言う。ぼくは黙っていた。ニワトリがおじさんの姿を見つけて、クォッ、クォッ、ククッ、ククッと鳴いた。おじさんは難なく竹竿を引きずり出し、

「今度は十年バチですかな? えっ? 十年バチは痛いですぞ」と微笑みながら独り言のように呟くと、ニワトリ小舎の方へゆっくりと歩いて行く。ぼくはその背の高い後ろ姿を見ながら、ふしぎなおじさんだなあと思ったが、何となくはげまされたような気持になり、意気揚々と大裏へ向かった。

 竿先でトンと板の門を突き開けた。まず小手調べに玉石を拾い投げつけた。ぼくはもうすっかりこの方法に慣れていた。が、群れ翅ぶハチを見ると、やはり新鮮な感動に息をのむ。と同時に、刺されてみたいなどという考えは、とんでもないことだと思い直す。

 群れが鎮まるのを待って、ぼくはやおら竹竿を持ち上げると、ねらいを定めて、竿の先を巣と覚しきあたりの枝にそっと当てがった。竹竿は斜めに、その先はピタリと一点をねらっている。ツンとひと突きするだけで、ことによれば巣にまともに命中することになるのだ。ひとりでに笑みがこぼれてくる。それはぼくの小さな勇気が微笑んでいるように感ぜられた。

 乾いた竹竿が強い太陽に光っている。もみじの大木からアブラゼミのうなる声が静かに聞こえてくる。ぼくは腰を折り、あらかじめ逃げる態勢をととのえながら、竹竿を握った。

 その途端、ぼくは強い恐怖心にふるえた。にわかに大胆になった自分が怖かった。そんなことは止めろという声がした。ぼくは竹竿を胸のあたりまで持ち上げた。竿尻を地に着けたままツンと突いてみるだけというのが当初おもい描いたものだっだ。ぼくのこころはけいれんしていた。ぼくは呪文を唱えた。

「ナムサマンダ、ブツラク、ボツラク、ブツラク・・・・」

 えいっ、ぼくは腕をぐいと伸ばすや、竿を上下左右にはげしく揺さぶった。繁みの中を思い切り引っかきまわしたのだ。

「ひーっ」

 竹竿をバーッと放り出すや、板塀のうらへ跳び込んだ。塀にもたれ胸に手をやり、ふーっと息を吐いた。異様なうなりが聞こえてくる。ぼくは太陽をまともに見た。目が眩む。玉石を投げたときより数倍の手応えがあった。もしかしたら巣が落ちているかも知れない。

 ぼくはすぐに勇気を充電すると、そっと頭だけ出し、まず木の根元を見た。が、巣らしきものは見当たらない。

 木の上の方ではおそろしい数のハチが翅びかっている。下の方の様子をうかがうためか、落下するようにさっと急降下するものもいる。玉石のときには見られなかった動きだ。そしていつものようには簡単に鎮まらない。

 玉石のときには、ドスンと命中すると、「何だ、何かあったのか」という程度に翅び出してきたような雰囲気だったが、今度ばかりは、巣をねらう敵をはっきりと意識しての飛行にちがいなく、木の周囲はどこか殺気立った気配が漂っている。

 すこし危険かなあと思ったが、ぼくは群れ翅ぶ十年バチに慣れていた。板塀から体半分ぐらい出して、よりよく観察しようと大胆になった。どのハチも繁みの一点に向かってホバリングしているのは、いつもとあまり変わりない。

 それにしてもどんな形状の巣なのか。あれほどガサゴソと引っかきまわしても、巣らしきもののかけらすら落ちて来ない。ぼくは見えない巣の想像に苛立ち歯がゆかった。

 それに十年バチはうわさに畏れるほどたいしたハチではないのかも知れない。臆病だから、巣を脅かす敵を必死に探すこともせず、敵に背を向けたまま翅んでいるにすぎないのではないか。苛立ちがぼくをふてぶてしくする。

 ハチの群れは繁みへと戻りはじめる。ぼくはすっかり全身をさらけ出して見ていた。その瞬間だった。戻りはじめた一匹がとつぜんくるっと反転し、ぼくの方を見たのだ。あざやかなオレンジ色の頭部にがっちり嵌め込まれた黒い複眼がぼくの視線と火花を散らした。

その瞬間、ぼくの脳裡に広場でのあのハチの複眼が横切った。強烈な意志と表情を持った複眼。それがホバリングを中止し、ぼくの方に向かって一直線に降りて来ようとする。

 とっさにぼくは身をひるがえした。逃げた。夢中になって逃げた。ブンと耳元に翅音がした。逃げながら、ハチは二匹だということがすぐ分かった。ハチはぼくの後頭部にしがみつこうとする。ぼくは両手でその後頭部を払いながら走る。

「うひゃーっ」

 ぼくはこの世に生をうけたままの、きわめて原初的な叫び声を発しながら逃げる。何と言ったって刺されれば痛いのだ。ハチは後頭部の短い毛髪になおもしがみつこうとしている。叫びながら、ぼくは花壇の切れるあたりで急角度に右折した。その時だった。払っていた右手の小指に引きちぎられるような痛みがはしった。

「あーっ」

 ()られたと思ったとき、もうハチの姿も翅音もなかった。ぼくは左手で右の手首を握りながら太陽を見た。

 熱い光が瞳孔にとびこんでくる。目を閉じる。一瞬、ぼうっと黄色い世界が広がり、くらっと世界が揺れる。暑い日射しの中に身をあずけて、ぼくは疼痛を耐える。そして静かに心臓の鼓動を体で聴く。ドックン、ドックン。鼓動が小指の疼痛を、(てのひら)から腕へと波状的に送り込み拡げていく。

 ぼくは瞼を開き、ふーっと長い息を吐く。そして刺された小指の付け根を吸う。吸ってはペッと唾を飛ばす。ハチに刺されたとき、毒を吸いとるために必ずこうするのだ。アシナガバチのときより、ほろ苦い味が口中に拡がるような気がする。

「ふー、いたっ」

 呟き、吸い、ペッと吐き出しながら、半分土に埋もれた石橋の上に腰を下ろした。太陽がぎらぎらと照りつけた。ぼくは両足を抱えるように、うずくまり痛みに耐えていた。アシナガバチより痛いと思った。いや、ぜひとも痛くなければいけない。何せ十年バチなのだから。

 波状的な疼痛が熱い。ついに十年バチに刺された。それは大変なことなのだ。ぼくはそう思うことによって、アシナガバチとの痛さの比較をしてみるのだが、正直、客観的な痛さの差は分からない。ただ、ズッキン、ズッキンと心臓の鼓動に合わせるような疼痛の時間的な長さは、より続くような気がした。

 ぼくは太陽に二つの目を眩ませた。何より恐ろしかったのは、あの一瞬ぼくの方をにらんだ十年バチの複眼だった。あの恐ろしさはアシナガバチの比ではなかった。熱い陽光にぼくはぶるっと身をふるわせた。

 十年経ったら死ぬのかなあ、と思った。

 疼痛はなおも続いた。ぼくはいつまでもじっとうずくまったままだった。

 

  巣

 

 前栽(ぜんさい)のキンモクセイの奥の十年バチの巣をぼくは半ばあきらめていた。もうどうすることもかなわなかった。思い出したように時おり玉石をぶつけてみるが、それはちょっとしたあいさつ代りみたいなものだった。

 巣を見ることのできないもどかしさと恨めしい思いが残ったが、仕方なかった。竹竿で引っかきまわすのは危険だった。本能的なものがぼくを制御した。

 刺された痛さは、村の仲間たちにアシナガバチよりずっと痛いとふれまわすほどのものではなかったが、ぼくの本能が察知した危険は十年バチの群れと敏捷性にあった。

 速かった。あの複眼がぼくの方へ向けられたとたん、もう二匹のハチの翅音が耳元にしていた。はげしい痛みと暑い太陽がぼくにさまざまなことを教えてくれる。敵を執拗に追跡するする距離もアシナガバチの比ではなかった。夢中に逃げるぼくのあの速さとあの距離は完全にアシナガバチの防衛範囲の外であった。

 もみじの繁みが強い陽光に照り映えていた。アブラゼミの圧しつけるようなうなりに混って、声を遠くまで投げかけるようなツクツクホウシの澄んだ鳴き声が聞こえてくるようになった。

 その日、ぼくは仲間たちに加わり寿美堂川へ泳ぎに行くつもりだった。玄関を出たとき、石畳の数メートル先にハンミョウが一匹ぼくの方を見ていた。照りつける太陽の下にこの甲虫はさながら翅ぶ宝石だった。この瑠璃色と紅色で彩られた光沢のみごとな甲虫をぼくたちはミチシルベと呼んでいた。ぼくはハンミョウの方へ数歩進みながら、大裏の畑のトマトの所まで道案内させてみようと決めた。

「ええか、トマトを失敬しに行くでな」と、こころの中でハンミョウに命令する。ハンミョウはぼくの進んだ距離の同じ分だけ翅ぶと、ぼくの方に向かって地に下り立ち、大きな複眼でぼくを見る。ぼくはまたそっと歩を進める。ハンミョウは翅ぶ。米倉の角を右に折れてくれれば大裏へと続くのだが、まっすぐに行けばおしまいだ。いつもこういう所でハンミョウは言うことを聞かなくなる。

「ええな、大裏のトマトやぞ。右へいけよ」

 ハンミョウは角のところにおりた。そっと近づく。ふわりと大裏の方へ翅びたつ。こうして何度か同じことをくり返し、ものの見事にトマト畑のところまで案内させてしまった。

 こんな首尾よくいくことは珍しい。熟れたトマトを一個失敬してかぶりついた。数歩先でハンミョウがぼくをにらんでいた。佐喜蔵おじさんに言うなよと呟き、ご用済みのハンミョウを追い払うと、太陽にあたためられた生温かいトマトを食べながら、もみじの大木の方へ足を運んだ。ついでにツクツクホウシを見ようと思ったのだ。

 小さな井戸の角を曲がろうとしたとき、十年バチに出会った。何となくせわしそうに翅んでいる。前栽のキンモクセイからきた奴にちがいなく、帰巣する様子をしばらく観察してやろうと目で追う。ぼくの夏は忙しいのだ。それから泳ぎに行こうと決めた。

 十年バチはカシの木のあたりをうろついていたが、すーっと下降するとウメモドキの方へ移った。何か獲物でも探している様子だが、よく見ると口元に小豆ぐらいの大きさの肉団子をくわえている。板塀を翅び越え、すぐにもキンモクセイの巣へ戻るだろうと、観察を続けた。戻ったところであいさつ代りに玉石をドスンと投げつけ、パッと逃げてそのまま仲間たちの集まっているお堂の広場まで走って行こうと思った。ツクツクホウシなんかいつでも見られる。

 十年バチはウメモドキのてっぺんから左右に揺れ翅び、徐々に下降してくる。変な奴だなあと思った。ぼくが観察している気配を感じ、用心しているのかも知れない。地上一メートルぐらいのところまで下降すると、そのまま前栽とは反対方向へとさっと流れ翅び、ぼくの目の前のスイリュウの木の繁みに・・・。

 ぼくは「あーっ」と声をあげた。

 巣があるのだ。直径二十センチほどの球状の巣がスイリュウの枝に懸かっていたのだ。あまりにもとつぜんだった。あまりにも近くだった。そしてキンモクセイの幻の巣と格闘した日々を思うと、あまりにもあっけなかった。

 ぼくは食い入るように見つめた。真ん中にハチが一匹か二匹やっと出入りできるほどの穴があいている。そしてぼくの追っていたハチが、まさにその中へ入ろうとしていた。ぼくはそのまま動けず、ただただ目の前の自然の造形に魅せられていた。そのうちこれは夢ではないかと思いはじめた。夢でいいと思った。

 巣はとても人知の及ぶところの創造物(もの)ではなかった。

 全体が黒褐色で、すこし淡い黄褐色の線が大きなうろこ模様を描いている。樹皮や朽木が噛み砕かれてできているだけに特別美しいものではないが、どこか粗い原始の芳香が漂ってくる。ぼくは目の眩むような驚きと夢の世界に誘ってくれたものは、名の由来の十年どころか、気の遠くなるような無限の過去を秘めた世界だった。

 遠い時を越え、延々とくり返し続けられてきたこのハチの営為と創造物。それはまたおそろしく不気味でもあり、厳かでもあった。広場での、そして刺される寸前にぼくをにらんだあの意志と表情をもった複眼が思い出された。ぼくはぼく以外の生き物をはじめて意識したような気がした。生きているという何か根源的なものをじっと見つめている気がした。

 観音寺山の向こうまでやってきている秋を呼んでいるように、ツクツクホウシが鳴いた。夢からさめたようにあらためて巣を見た。もう何の障害もないのだ。ぼくは巣から三メートルぐらいのところまで接近した。ハチはさかんに出入りする。出入口はやはり一つらしい。楕円形の巣の真横あたりにそれは位置していた。その内側から一匹あるいは二匹が常に外の様子を窺っているらしい。カブトのようなオレンジ色の頭部と、黒く深い色調の複眼がじっと動かない。そして他のハチが戻って来ると、そのたびごとに内側のハチは微妙に触覚を動かし、頭部を持ち上げ、時には体半分ほど乗り出し迎える。しかしよく見ると、その動作は出迎えると言うより、同じ巣の仲間かどうか調べているようだ。

 せまい出入口のところでちょっといざこざを起こしたあと、戻って来たハチはすぐさま奥深くもぐり込んでしまう。それに較べ、翅び出していくものは、何のいざこざも起こさない。いきなり翅び立つ。このハチの出入りがいかにも面白かった。特にもどって来るハチに対する番兵のしぐさは、

「ちゃんと働いてきたか。さもないと入れないぞ」と働きぶりを調査し管理しているようなふしもある。ぼくはしばらく観察していたが、当然のことながら巣の内部はどうなっているのか気になる。いま見ているのは、いわば巣の外壁なのだ。

 ぼくはすこし場所を移動して、出入口の小さな穴から内部をのぞいてやろうと試みたが、とても無理だった。ハチがもぐり込んでいく内部は、まるで暗闇の世界だ。仕方なくぼくは勝手に想像した。

 あの中には巨大なアシナガバチの巣のようなものが内包されているのではないか。それも平たいものではなく、幾百もの小さな巣房が内壁に沿って球状に並び配列されているのではないか。ぼくは最初そのように想像してみた。すなわち、アシナガバチの巣をそのまま球状にしたようなもの・・・・。

 しかしよく考えてみると、この想像にはどこか無理があるように思われてくる。ぼくの小さな経験をいっぱいふくらませ、あれこれと想像してみるのだが、どうしても納得がいかない。それならばまったく想像を絶するような構造になっているのかも知れない。

 いつでもそうなのだ。ぼくの周りの自然はいつもぼくの想像を越えているのだ。現に今見ている目の前の巣にしたってそうだ。キンモクセイの奥に球状のものをたしかに想像していた。ハチの翅ぶ様子から、小さな出入口の想像もある程度あたっていた。しかし、だからと言ってこの目の前の巣のすべてを想像できたわけではないのだ。ぼくは球状だの、出入口だの、巣の形状だけを想い浮かべていたに過ぎない。ところが目の前の巣は何よりも生きている。息づいている。生命(いのち)は想像を越えたところで血を通わせ営まれている。

 ぼくのこころはもうクシャクシャになっていた。どうしたらいいものなのか。体ごと周りをうろつきはじめた。巣を離れ、なぜか前栽のキンモクセイの下にたたずんだり、埋もれた石橋に腰を下ろし、みずからの決断をうながすように太陽に二つの目を眩ませてみたり、落ち着かなかった。巣の前へ戻る。想像は巣の外壁に遮断される。

 方法はひとつしかないのだ。

 ぼくのこころはひとつの目的に向かって徐々に固まりしぼられていく。好奇心とそれを駆り立てる勇気が熱い。ぼくは板塀のところまで行き、敷きつめられている玉石を放心したようにしばらく見つめていた。まだまだ勇気の充電が必要だ。ぼくが大人のこぶしほどの玉石を投げられる距離はたかがしれている。巣の外壁を確実に破壊できる距離は、また同時にハチに襲われ、間違いなく刺される距離でもある。

 刺されない方法は・・・・。ない。

 ぼくはもう決めてしまっているのだ。

「逃げたらええんや」

 小さく呟きながら、ぼくは玉石を拾い握りしめた。頭上に太陽が熱い。ぼくの体だけが冬のように寒く、一瞬鳥肌が立つ。ぼくは玉石が確実に届くところで立ち止まった。五メートルとない。ぼくはなおしばらく立っていた。そしてぼくは腕をゆっくり振り上げた。

 

 体が叫んでいた。白日の闇を走りに走った。おそろしい翅音のうなりを耳元に、声にならない声をしぼり出し、うめきながら走った。太陽の火の粉を浴びたように思った。花壇のところまで来たとき、ぼくはもはや走ることもかなわず、両手で頭を抱えたまま地面にうずくまっていた。

 どれほどの時間が流れたのか分からない。周りが不気味なほど静かだった。目に毒汁のような涙がにじんだ。ぼくはふらふらと石橋のところまで戻り腰を下ろした。左手で右腕を抱え込みながら、太陽を見た。黄色い闇が瞼に広がる。

 アキラとぼくはハチに刺されても決して腫れない。そして痛みも早く消えるのだ。

「十年バチか・・・・」

 ぼくは小さな独り言をやっと呟き、自分を取り戻した。体中が火照る。刺されていることは確実なのだが、いったいどこを刺されたのか分からない。ぼくは気絶しながら走っていたのかも知れない。ぼくは何やらおかしくなってきた。

「あんな近かったら刺されるの当たり前や」

 ぼくは泣き笑いのような状態で痛いところを点検した。耳の付け根、左肩、そして無意識のまま抱え込んでいた右肘と三個所()られていた。毒を吸いとれるところは右肘だけである。吸うのは刺された瞬間でなければ効果がない。もはや遅すぎることは分かっていたが、申しわけ程度に吸った。

 他の二個所は吸うに吸えない。刺された個所をつまみあげ、毒液をしぼり出してやろうと思った。たとえ十年バチといえども、ハチに刺されて腫れることはみっともないのだ。刺された部分に砂粒ほどの血がにじみ出た。さすがに十年バチだと思った。

 ズキン、ズキンと疼痛のリズムが体中をかけめぐる。三個所も刺されたのだから、リズムに合わせる心臓も、それを追う意識も忙しい。

 ぼくの体はなかなか治まらない疼痛のため、クタクタになっていたが、やっと立ちあがり、巣の様子を覗きに行った。

 玉石は命中していた。巣の外壁の三分の一ほどが剥ぎとられていた。内部はアシナガバチの大きな巣を幾段も重ねたような構造になっていた。なるほど、こういう具合に作られたいたのかと、はじめて見る十年バチの巣のすべてを網膜に焼き付けた。巣は痛ましかった。これ以上刺される痛さを思う前に、ぼくはその場そっと立ち去り、ふたたび石橋に腰を下ろし、時おり悪寒のはしる体に、トカゲのように陽を浴びていた。

 

第二話 スズメバチの死闘

 

  ハチの大戦争

 

 はじめて十年バチの巣を見た年の秋、とつぜん大勢の人たちがやって来て米倉を解体しはじめた。五日ほどで倉は跡形もなくなってしまった。そして、秋も深まる頃、道路を隔てて建っていた家も他人(ひとで)に渡った。その建物は隠居と呼ばれていて、蔵座敷のようなものだった。前栽には巨石をあしらった深い泉水があり、よく雨の日などに出向いて眺めたり、釣ってきたフナやモロコを放して遊んだ。

 米倉がなくなったり、隠居の建物が他人に渡ったりするのは、家が「ボツラク」していくせいだと、それとなく理解できた。だからさほど気にならなかった。しかし、どんなに「ボツラク」しても大裏だけはそのままであって欲しかった。

 明くる年、その大裏にも屋敷内の他の場所にも十年バチの巣はなかった。が、他人に渡った隠居にそれらしきものをぼくは見つけていた。破風のすこし下の焼板のすきまから十年バチがさかんに出入りしていたのだ。しかしとてつもなく高いところだったから、どうすることもできない。それにもうそこはぼくの家ではなかったから、石ひとつ投げることもできない。夏の終わりごろになると、おびただしい十年バチがさかんに出入りしていた。

 ある日、ぼくは二階からぼんやりと外を見ていた。目の前をすーっと大きなハチが通過した。ひと目で百年バチだと分かった。しばらくするとまた通過する。妙な気配をぼくは感じていた。そのうち、どこかの家で魚でも焼いているような奇妙な音が聞こえてくる。その音はだんだん大きくなっていく。どこかで聞き覚えのある音だと思っていると、何やら近所の人たちの声がしはじめた。百年バチが大きな肉団子をくわえ、翅び去っていく。その姿を見たとたん、ぼくはするどい気配を感じた。そしてすぐ門の外へ跳び出した。

 三、四人近所の人たちが集まり、隠居の屋根の方を見上げていた。ぼくは思わず息をつめた。焼板のすき間からぞろぞろと十年バチが這い出して来ていたのだ。その数はとても数えられるようなものではなかった。そして出てくるハチは円形状に拡がりはじめ、その黄褐色の円はたちまちふくれあがった。遠くから見ているのだからよくわからないのだが、ハチたちは異常に興奮しているのか、キチキチ、プチプチと焼板を噛み砕いているらしい。それに翅音が加わり、高い破風の下はまるでパニック状態である。

 近所の人たちはみな、ほーっと溜息まじりに眺めている。ぼくは最初、巣の造営が外側におよび、突貫工事のように、集団で増築作業をはじめたものではないかと推量した。ハチが朽木などを噛み砕いている姿をよく見かけるし、その音もそっくりだったからだ。

 ところがそんな平和的なものではなかった。

 十年バチの二倍ほどもある黒褐色の百年バチが、どこからか翅んでくる。そしてとつぜん群れに襲いかかったのだ。たちまち円形は崩れた。崩れたというより、一方向、百年バチの襲いかかる方へザーッと流れた。それだけでも背筋の寒くなるようなすさまじい光景だったが、次の瞬間、想像もつかないことが起こった。大きな百年バチが、防御する十年バチの群れに包み込まれてしまったのだ。

 と、とつぜんその場所が盛りあがり、テニスボールぐらいのハチの団子のようなものになった。そして次の瞬間、そのボールは焼板からはがれるように軒の屋根に落下したのだ。それでも円い形は崩れず、そのままゴロッ、ゴロッと瓦の流れに沿って転がり、ついには地面に落ちてしまった。

 百年バチはつぎつぎに飛来する。五匹六匹と現れる。現れるとすぐには襲撃せず、まず迎え撃つ十年バチの円形の近くの瓦の上や、植木のところで様子を窺い、まるで意を決するかのようにゆるやかに翅びたつ。そして、あの広場でぼくの前でやったのとご同じような揺れ翅び方をして、さっと群れに襲いかかるのだ。そのたびに円形は崩れ、ザーッと流れ、ハチが盛りあがり、転がり、落下する。

 この光景に、ぼくのいかなる感情も意志も入り込む余地はなかった。もしツバメの巣をヘビが襲ったならば、ぼくはヘビを殺してしまうだろう。もしキアゲハがクモの巣に引っかかった瞬間に出会ったら、ぼくはキアゲハを助けるだろう。しかし、いまくり広げられているハチの死闘はそういうこころの余裕をまったく受けつけない。だだ、「すごいもの」だけがぼくの体を駈けめぐり、一歩も踏み出せなかった。ハチはハチの摂理にしたがい、襲い、円は崩れ、ザーッと流れ、盛りあがり、転がり、落ちる。

 この死闘はいつまで続くのか。もし夜まで続くのであれば、ぼくは夜まで見ていようと思った。

 いつの間にかほうきが用意された。その家の主人や近所の人たちによって、転がり落ちたハチのボールはたたきつぶされ、残骸は泉水に掃き捨てられた。はしごが運ばれた。軒の屋根に完全武装した大人がのぼり、死闘の場をほうきでバシッ、バシッとたたいた。ハチたちは四散する。

 ぼくはそっと現場を離れた。そして、もう二度とこんな光景に出会うことはないだろうと思った。

 隠居はもうぼくの家ではなかった。

 

  科学的になろう

 

 神社の裏の池に、ぼくは頭から勢いよく飛び込むや、深い底へ向かってぐんぐん潜っていった。冷たくきれいな湧水に真夏の木もれ陽が縞模様に射し込み、藻がゆらゆらと揺れていた。

 藻の蔭にハリンサバがいた。背びれの前に三本、腹びれのかわりに一対の(とげ)を持つハリンサバは、ぼくの近づくのを警戒するようにその棘をたて、大きな目をギョロリとむいている。わずか十センチ足らずの小魚だが、この魚は水底に巣を作る。巣に向かって(はす)に構え、尾びれを横に曲げ静止している姿は、ハリンサバ特有のものだ。

 ぼくは明るい水底をハリンサバの方へ、さらに近づく。ハリンサバは動かない。急に息がつまり苦しくなる。もう近づけない。ぼくは水面に向かってしゃにむに上がっていく。が、一瞬、深く潜り過ぎたことに気づいた。透かし見る水面がやけに遠い。

 何十匹もの十年バチの翅音を聴いているように、耳がうなりはじめ、頭が割れそうに痛い。苦しい。岸辺でカズヨシやヨウイチ、そしてヒロシやアキラたちがわいわい騒いでいる。水面を透かして、赤い六尺褌の下半身が右に左に走りまわっているのが見える。もうすぐだ。が、ぼくの体は苦しさのために、もう動かない。

 この池でカンイチが溺れるまねをして本当に溺れてしまったのを、カズヨシやタツオやトウゾウが飛び込み助け上げた。寿美堂川でヨウイチが真っ逆さまに飛び込み、顔面血だらけになって上がってきた。川底の瓦で鼻の下を深く切ってしまったのだ。カズヨシの背中におんぶして、みんなでわいわい騒ぎながら隣村の病院までヨウイチを運んだ。

「先生、助けてくれーっ」

 カンイチやヨウイチの時のように、みんなはぼくを助けてくれるだろうか。早く誰か飛び込んで来てくれないだろうか。岸辺でみんなが騒いでいるのは、ぼくが溺れていることに気づいたからだ。あーあ、ぼくはもう息が続かない。このまま死んでしまうかも知れない。

 バーッとふとんを跳ねのけた。冷たい水を浴びたように、びっしょりと汗をかいていた。ふーっと大きな息を吐き、「夢か」と呟いた。それと同時に都会の喧噪がとび込んで来た。

「ここは東京か」

 ぼくはまた呟いた。

 佐喜蔵おじさんや松江おばさん、それに村の仲間たちと別れて一年半が過ぎた。ぼくはもういたたまれず、故郷(ふるさと)に向かった。

 十二時間汽車にゆられた。

 ぼくの胸は、夏の夕暮れの緑に淀んだなつかしい空気でいっぱいだった。

「佐喜蔵おじさん、帰って来たよ」

 ぼくは三和土(たたき)におどり込んだ。風呂を焚く煙で家の中はくすんでいた。

「帰って来ましたかな、えっ? どうしたものですかな、風呂にしますかな、それとも・・・」

 なつかしい声がする。松江おばさんは太った体に両手を拡げ、

「まあ、よう帰って来たなあ。どうしてるやと思てたんやで」と、ぼくを抱きしめんばかりに喜んでくれる。

 ぼくは荷物を置くと、すぐ大裏へ走った。夕月が鎮守の杜の梢にかかっていた。大裏に跳び込んだとたん、ぼくは気の遠くなるような想いにうたれた。

 オオマツヨイグサの花が語りかけるように咲きはじめていた。やさしい香りをぼくは胸いっぱい吸い込んだ。ぶんと耳元で音がする。スズメガがホバリングをくり返しながら花から花へ移動する。そのあとを追うように、もう一匹のスズメガが同じように蜜を吸ってとぶ。微かな夕風に花がゆれる。スズメガはゆれる花に合わせて、右に左にホバリングする。

 ぼくの体に流れている血が大裏の緑の血とおもむろに入れかわっていく。ぼくは微笑みながら目を閉じる。一陣の夕風。もみじの大木の葉ずれの音。次に何が起こるか、ぼくはけっして忘れていない。

「キチキチキチキチ・・・・・」

 葉ずれの音を合図にヤブキリが鳴き出した。この大裏の夏。ヤブキリの鳴き声はなつかしさを越えていた。

 ぼくは今、ふたたびいるべきところにいる、と思った。

 明くる日、さっそくアキラを訪ねた。米倉がなくなっていたので、アキラの家とは屋敷続きになり、出入りには便利だった。晴れがましい再会だった。アキラもぼくも互いの名を呼びあったまま、きらきら輝く夏の朝の陽をうけ立っていた。お互いにしまらない笑みを浮かべ、なおしばらく言葉を見出せない。アキラの上半身は裸だった。夏を吸収した逞しい赤銅色だった。ぼくはふと遅れをとったような気持ちになった。ぼくは真っ白いYシャツを着ていた。恥ずかしかった。

「十年バチの巣、あるで・・・」

 アキラが言った。

「えっ、ほんと? あるの、どこに?」

 ぼくは急いで口を(つぐ)んだ。東京弁が出てしまったのだ。あわてて、

「ほんまにあるのけ? どこや?」と言い直した。これにはアキラも吹き出した。

「かまへん、かまへん、東京弁はカッコええがな」

 アキラのやっと打ちとけた言葉に、ぼくは何かに間に合ったと思った。うれしさが言葉に、そして不在のあいだのさまざまな質問にと、ほとばしり出た。

 しっかりとした真夏のきらめく朝だった。

 

 離れと蔵のあいだに松の大木があった。梢からかなり下の方で胴切りされていて、その上にブリキみたいなもので帽子がかぶせたあった。朽ち果てるのを防ぐためである。しかしそれでもかなりくたびれた老木で、夏になると根元から三十センチほど上の穴からクロクサアリが行列を作って忙しく出入りしていた。もう何年も出入りしている。

 そこからずっと上の方、ちょうど離れの屋根と高い蔵の屋根の中ほどあたりに、もうひとつ穴ができていた。太い枝が枯れ、切り落とされたあとが朽ちてできたものだろう。その穴の中にキイロスズメバチが巣を作っていた。

 ぼくは東京で図鑑ばかり見ていた。だからさまざまな虫や鳥などの正式な和名を知った。スイリュウやキンモクセイに巣を作ったハチはコガタスズメバチ、隠居の焼板のものはキイロスズメバチ。そしてあのおそろしい百年バチと呼んでいたのはオオスズメバチということもあらためて知った。

 外からは巣の外壁の一部だけが見えた。大木の中は空洞になっており、そこに巣を懸けたものだろう。アキラとぼくは交互に足で木をドンと突く。ウワーンとハチが翅び出してくる。出てきたらすぐ離れに跳び込み、障子を閉め、そしてすこし開けて観察するのだ。しかしぼくたちはもうそんなことだけで満足はしなかった。

「わしらはもっと科学的にならんとあかん」

 障子のすき間に目を当てながらアキラが言う。

「うん、わしもそう思う」

 アキラの上に重なるような恰好でうなるハチの群れを見ながら、

「あの巣に何匹のハチがいよるかやな」と、もっとも単純な疑問を提示した。

「科学のはじまりは実験や」

 それからぼくたちは策を練りはじめた。もっとも単純にして困難な方法。これしか『キイロスズメバチの巣における個体数』の確認はできないということになった。ドンと松の幹を蹴るとハチが翅び出してくる。なかには幹に沿って下降してくるものもいるし、異常事態に様子をさぐるため高度を下げるものもいる。それを片っぱしから捕虫網で捕まえ、確認しようという訳だ。

 捕まえた奴はどうするか。実験はあくまで厳かでなければならないから、適当な台にハサミでちょん切ったカブトのような頭部だけを並べていこうということになった。障子を閉めきった暑い部屋の中でアキラとぼくはこれからはじまる実験に、こころを引き締めたが、なぜか顔の方は笑っていた。

 さっそく準備にとりかかる。仏壇の横の押入れに朱色のきれいな台があった。ハチの頭を厳かに並べていくには、ちょうど恰好の台だ。ぼくはそれを部屋の床の間に据えた。

「何や、それ経文台やないか」

 アキラは呆れたように言う。

「罰が当たるやろか」とぼくは言った。アキラは笑いながら、

「かまへん、実験開始や」と、障子を一枚だけ開けた。アキラが最初に網を持った。

「いくぞーっ」

 ぼくは勢いをつけ、大木をドーンと蹴る。そしてそのまま部屋の中へ跳び込む。

「ほい、一丁あがり」

 アキラは掛け声と共に、用意した板切れで網の上からすばやくハチをたたき殺し、網をひっくり返すや、次の構えにはいる。ぼくは急ぎ地面のハチを拾い、ハサミで頭をちょん切る。

 死んだものと思っていても、ハチはしぶとく生きており、特に武器のあるお尻の方は危ない。お尻を器用にくるくると回転させながら、するどい針を出し、時おりその先端からごく少量の透明な毒汁をにじみ出す。ゴマ粒の半分にも満たないほどの量だ。刺されたときの痛みがたったこれだけの毒液でと、あらためてハチの毒の威力におどろく。

 こうして次から次へ、小さなハチカブトが台の上に並べられる。朱色の台の上に鮮やかなオレンジ色の頭部。一対の黒い複眼と短いがいかにも整って恰好の良い触角。

 作業は忙しい。アキラは捕まえながら気づいたことを説明する。

「こやろ、見ていよ。さっと下りて来よるでな。ほい、来よった。ほい、ほい」

 右に左に網を振る。

「ほい、あがり。捕まりに来よるみたいもんや」

 アキラはひとしきり網をふるったあと、

「ああしんど、交替や」と言いながら、ぼくに交替の合図をする。

 今度はぼくが網を持つ。要領はすぐ会得できる。怖がらないことだ。ハチとは思わず、チョウやトンボを捕まえるときと同じように、冷静に相手の動きを見定めるのだ。左右に揺れ翅びながら下降してきたり、横の方へそれたりするハチを網に収める。慣れるにしたがって恐怖心は急速にうすらいでいく。

「ひゃあー」

 調子に乗りすぎたぼくは、とつぜん悲鳴と同時に、さっと身を屈めた。何十匹と群れ翅ぶ中の一匹が、とつじょぼくの方をにらんだのだ。十年バチに最初に刺されたとき見た、あの複眼だった。

 つぶてのような速さでぼくの顔面に向かって落ちてきた。と、一瞬身を屈めたぼくの頭上を通過したかと思うと、ポンと音をたてて障子に激突してしまった。すさまじい突撃にぼくは冷汗をかいた。そのハチは脳しんどうでも起こしたように地に落ちた。が、すぐ翅び立ち、障子に向かって左右に揺れ翅びながら高度をあげた。そして、すぐ横にいるぼくにはまるで構うことなく、すーっと巣の方へ戻ってしまった。

「アキちゃん、すごいで」

 ぼくは敷居に腰を下ろし、いま起こった現象を詳しく説明した。ぼくのやや興奮した説明を聞き終えたアキラは、

「あんなあ、わしはいつも思てたんやけどな」とハサミを置いた。そして、

「人の目に自分の姿が映るんやわ。それを目標にパッと来よるんやで」と言う。

「瞳が鏡みたいな役割をするんやな」

 ぼくはなるほどと思った。

 竹竿を使ってハチの巣を突っつくと、ハチは竿の裏側を伝って刺しに来ると、大人たちからよく聞かされる。確かにそんなふしもある。アシナガバチの巣などを突っついていると、いつの間に、と不審に思うときがある。気づかないうちにハチに刺されていたりするからだ。しかし、ハチがのそのそと伝いおりて来るまでの長時間、竿を握っているはずもない。

 が、ひとつ思い当たることは、竿尻はたいてい顔面のあたりで握られているということだ。なぜなら、ハチの巣は軒下など高いところにあるのが普通だからだ。とすれば、竿を伝うとは、目をめがけて翅んで来るということではないだろうか。アシナガバチといえども襲って来るときは速い。あっと思った瞬間、いつの間にか顔面あたりにということはしばしばある。まるで竿の裏側を、そっと伝いおりて来たかのように。

「ほやけどなあ、アキちゃん」

 ぼくたちはお互いの作業を一時中止していた。

「後ろからでも、よう刺されるやろ」

 ぼくは静まりはじめた老木を見上げながら言った。キンモクセイのときも、スイリュウに懸かっていた巣を破壊したときも、逃げる背後から襲われた。

「ほう言えばほやね」

 アキラはちょん切ったハチカブトを掌に置き、それを眺めながら言う。ぼくたちはもう十分科学的になっていた。

「アキちゃん」

 過去の経験を、現在行っている実験を通し、もう一度つぶさに立証する必要がある。

「アキちゃんは足を刺されたことあるけ?」

「ほやなあ・・・・」

 アキラは考えているようだ。ハチに刺された経験においては、ぼくと変わりない。

「ないなあ」

「ほんなら(けつ)は?」

「ほんなもんあろけ」

 アキラは漫画じゃあるまいし、というように笑った。

「ないやろが」

 腰、背中あたりまでない。手はある。が、ハチに襲われたら無意識のうちに手はハチを払うように動くから刺されるのだ。

「・・・・ということはやな」

 アキラはしばらく考えていたが、

「黒や、黒色や」と目を輝かせた。ぼくも一瞬同じようなことを思い浮かべていた。

「そやで頭のあたりをよう刺されるんや」

 スイリュウに懸かっていた巣を破壊したときも、ハチは逃げるぼくの背後から襲いかかってきたが、すべて後頭部に集中していた。そればかりか、いまこうしてハチを一匹ずつ捕獲していても、白い捕虫網には突撃して来ないのだ。

「ほれも一回実験せんとあかんなあ。黒い布切れを振りまわしてよ」

 アキラが言う。ぼくはうなずきながら、

「その前にハチの数や」と、ふたたび網を手にした。何度かハチは突撃してきた。が、その一瞬の機をとらえることに、ぼくはすっかり慣れてしまった。ひょいと身を屈める。ポンと勢いよく障子に激突する。こうしてひとしきり網を振りまわし、アキラと交替した。アキラも同じように作業に専念する。が、間もなく、

「いま何匹や」と()いた。ぼくは整然と並べられた頭数をかぞえた。

「七十六匹」

「ふーん」

 アキラは敷居に腰かけ、

「ほんなもんきりがないで。翅び出して来よる奴がちっとも減らへんがな」と言う。ぼくは巣の方を見た。アキラの言う通りだ。最初とすこしも変わらない。ぶんぶんうなっている。

「よし、ほんなら交替や」

 ぼくはアキラから網を奪うように受け取るや走りながら勢いをつけ、ドーンと老木を蹴る。アキラは部屋の中で、

「きりがないで」と呟きながら休んでいる。網を振りまわす。一度に二匹を網の中に収めた。

「おい、アキちゃん、でかい奴や」とぼくは伏せた網の中を見ながら言った。一匹だけ今までのハチより大きいのだ。小さい方をすぐに殺す。

「いよいよ女王バチのお出ましとちがうけ」

 アキラが言う。が、何となく気のない口調だ。

「ほんまに女王バチかも知れんで」

 網の中をもぞもぞと這っている様子を窺いながら言った。他のハチとどこか異なるところがあるか、よく見ようと・・・・。

「あーっ、()られたー」

 ぼくは叫び、網をほうりだし、右手首を握りしめながら、部屋の中へ転がり込んだ。アキラはびっくりしてぼくを避けるように跳び起きる。ぼくはその周囲をぐるぐると走りまわった。そして、ドタッとたたみの上に倒れ込み、ごろごろと転げまわった。まるで気が狂ったようにのた打つ。

「吸え、吸わんとあかん」

 アキラが叫ぶように言った。ぼくは思い出したように吸ってみるのだが、唾を吐き出すどころか、そのままごくりと飲んでしまう。

「痛い、痛いーっ」

 瞳孔の奥までじんじんと痛さが伝わってくる。尋常な痛さではない。誰よりもぼくが知っている。何十回刺されたか分からない経験を一瞬のうちにさかのぼってみても、これはただごとではない。

「おい、死ぬかも知れんでよ」

 うーんとうなり、声をしぼり出した。

「ほんな、阿保な」

 アキラは笑っている。きりのない捕獲作戦に飽きてきた矢先だから、ぼくの未曾有の不幸が面白いのだ、と腹立たしくなる。それほど痛い。

「痛いのやがな、ほんまに・・・・」

 アキラの前で、こんなみっともない姿は情けないと悔やみながらも、声が自然に訴える。痛みに体中が癇癪をおこし、ぼくは仰向けになり、両足をばたつかせる。アキラは、ぼくの素ぶりが大袈裟でないのに、ようやく気づいたのか、

「どうしたんや」と真面目になった。

「握ってしもたらしい」

 やっと体を起こし、今度はなぜか正坐になりながら言った。

「握った? ハチをけ?」

 アキラはぼくを見下ろしながら、大きな声を出す。

「ああ、網の上から握ってしもたらしい」

「ハチをか?」

「大きい奴やったで、つい・・・・」

 痛みと情けない気持をこらえながら、アキラを見上げた。アキラは吹き出した。

「阿保やなあ、ハチを握ったら刺されるの当り前やんけ」

 アキラはまた笑う。いかにもうれしそうに笑う。ぼくも笑いたくなった。顔をしかめながら笑った。

「何で握ってしもたんやろ」

 笑い、愚痴り、そして泣きたくなった。

「ほんなもん、握る力と刺しよる力と両方で三倍ぐらいの毒が入ったるわ。どこや」

 ぼくは右手の中指の第二関節の右寄りのところを示した。砂つぶほどの血がにじんでいる。

「女王バチを握ってしもたんか」

 アキラはぼくの指を持ち、神妙に調べながら呟く。刺された騒動にぼくたちは科学性をすっかり失っていたので、あの大きなハチは女王バチということになってしまっていた。

「わしも阿保やなあ」

 右手中指をアキラに任せ、ズッキン、ズッキンと、ハチに刺されたとき特有の疼痛が押し寄せてくるのを、もはやどうすることもできず、ぼくはぼんやりと松の老木を見つめていた。

 何事もなかったようにクロクサアリが黙々と行軍を続けている。あの行列は蔵の土台石のところをぐるりと半周し、大裏の入口の小径(こみち)を横切り、垣根の下をくぐり、アキラの屋敷へ侵入し、そしてアキラの家の蔵の下へ消えていくのだ。行列はもう何年も同じコースをとっている。多分、アキラやぼくが生まれる以前から、あの行列は続いていたにちがいない。

 ふと、黒い行列がおぼろになる。急いで気を取り直し焦点を合わせる。あざやかな光沢のクロクサアリの動く黒い一線をはっきりととらえ直したとたん、ぼくは、ぶるっと体がふるえた。

「痛いんか、寒いのとちがうけ?」

 アキラの声がした。

「あ、うん、痛い」

 戻ってきた痛みは、やはり尋常でない。

「ちょっと待ってよ。おばさんにアンモニアを貰うてくるさかい」

 アキラの言葉に、

「ええわ、薬なんかいらん」とぼくは見栄を張った。ハチに刺されて薬をつけるなどみっともない。しかし、アキラはそこのところはよく承知しているらしく、

「あかん、何せ女王バチに刺されたんやさかい、いつもとは別や」と言うや、主屋への廊下を走って行く。

「薬か・・・・」

 独りになったぼくは、ぼんやりと呟いた。

「みっともないなあ」

 できることなら薬をつけたくなかった。が、つけて痛みが薄らぐならば、今度ばかりは薬の助けを借りようと観念した。まじまじと中指を見た。腫れなければいいが。

「こっちや、こっちや」

 廊下にアキラの声がする。ドタドタと松江おばさんの足音がする。

「アンモニアがあらへんのや」

 部屋に入るなりアキラが言った。

「何をしてるんやいな」

 眉間に縦じわを寄せたおばさんが呆れたように言う。へへ、とぼくは笑った。

「お医者さんへ行くか?」

 おばさんの心配そうな言葉に、

「ほんなもん行かんでもええ」と、ぼくの代わりにアキラが言う。おばさんはアキラの判断にすべてを任せているらしく、

「ええやろかなあ」と、アキラの表情を窺う。

「わしの家にアロエがあるさかい、ほれを塗っといたらええ」と、アキラは笑みさえ浮かべ、どことなく愉快そうだ。そんな彼におばさんはすっかり安心したのか、

「東京へ行ったら、もうちょっと利口になってはると思たんやけどなあ」と、アキラの方を見ながら言った。アキラは得たりと、

「ほんもん阿保になっとる。こっちにおるときは、ハチを素手で握るような阿保なことしよらなんだもん」と、けらけら笑った。

「もうこっちへ帰って来い」

 おばさんはぼくを見ながらとつぜん言った。

「ほうよ、帰って来んとあかん」とアキラが続いた。そして二人はちょっと気の毒そうな表情になって、ぼくを見る。ぼくは答えられなかったが、痛みだけはいつの間にか忘れていた。

 

 夜風にふわあと蚊帳が揺れる。風のそよぎに合わせるようにヤブキリが鳴く。風がやむ。アブラゼミがジーッ、ジジーッと断末魔の声を闇に引く。眠れぬまま、ぼくは夏の夜の気配を懐かしむ。

 疼痛は夜も続いた。アロエの分厚い葉を開き、刺された部分にそれを繃帯(ほうたい)で固定した。規則正しく熱っぽい疼痛がぼくを悩ませる。戸外の夜の気配に気をまぎらわせるものの長くは続かず、痛みが戻って来る。寝返りをうち、時おり「うーっ、痛い」とわれながら奇妙なうなり声をあげた。それでも今、ぼくはここに寝ているという喜びが静かに胸にあふれてくる。

 それにしても、刺された痛みがこんなに長く続くのは、はじめてだった。手が腫れでもしたら、それこそみっともないと思っていたが、腫れの方はさほどでもなく、刺された中指だけがこころもち脹らむ程度だった。

「もうこりごりやなあ、科学的になるのは」

 ぼくは独り言ち、苦笑した。

 

  翅ぶ生命(もの)たちの晩秋

 

 ふとした折に十年という歳月をこころに浮かべる。そのたびごとに、ぼくは十年バチの名を想い出すくせがついてしまっていた。くせになるほどだから、十年バチに刺された痛さは忘れ難く、回数だけはいまだにしっかりと記憶している。記憶しているどころか、最後に強烈なひと刺しを見舞われた右手の中指には、ちいさなホクロのような痕跡(きずあと)がいまだにある。十年バチ三匹に刺されるのに相当する年月を経た現在もなお。

 キンモクセイは昔のままだ。大裏のスイリュウは村の会議所の庭を作るとき、依頼され移植された。松の老木は枯れてしまい、ぼくが切り倒した。棲家を奪われたクロクサアリは蔵の床下に棲みついたらしい。黒い行軍はアキラの屋敷へと続く。鋤や鍬を肩に大裏の畑地に向かうとき、ぼくはよく立ちどまり行軍を見つめる。さりげなく黙々とくり返されるこのような自然の営みを前に、ぼくはふと時間の感覚を失ってしまう。ぼくにとって時の流れとはいったい何だったのか。そんな思いでクロクサアリの行軍を見つめていると、なぜか奇妙な感覚に陥る。頭を持ち上げた一匹に、

「何の理屈をこねているのかね」とバカにされたような気分になり、苦笑しながら行軍をガリバーのように跨ぐ。

 昨夜、夜ふけて国道を疾走する暴走族のうなる爆音を聴いた。ヴィーイイーンと若者たちのこころの血しぶきが、冷たい機械(メカ)を通して吐き出されているように聴こえた。

 遠ざかったあとを、待っていたかのようにホトトギスが啼き渡った。東の空から西の空へ、主屋の真上でもひと声はげしく啼き、観音寺山の方へ()び去ったらしい。

 ナスやキウリの夏もの野菜の定植を急がねばならない。大裏の土地は、ぼくの手で少していねいな畑地になっただけで、およそ変化とは無縁のままだ。板塀だけはさすがに朽ち果て、ところどころ破れている。その破れた個所から、アゲハやヒメジャノメが前栽の薄暗い木立から大裏へひらひらとやってくる。

 今年の大裏の気配はどことなく(せわ)しく、また騒がしい。キイロスズメバチのすがたをひんぱんに見かけるのだ。朽ちた板塀の支柱を強いあごでバリバリとやっている。植込みのヒバの樹皮はやわらかくよほど巣の材料に適しているのか、二匹三匹とやって来て、そこでもバリバリとやっている。手を休め、追ってみた。

 追うまでもなかった。キンモクセイのすぐそばの、洗面所の屋根裏に巣を懸けはじめたらしく、軒のすき間からさかんに出入りしていた。なるほどと見上げながら、ぼくは苦笑していた。離れの渡り廊下のガラス窓からは手の届くような位置だから、観察するには恰好の場所だが、残念ながらハチの出入りだけで、巣そのものはまるで見えない。 

 畑仕事を終え、檀那寺(だんなでら)へ出かけた。寺は観音寺山の中腹にある。山裾を国道や新幹線が開通する前には、本堂の床下に二匹の白狐が棲んでいたと、和尚さんから聞かされている。訪ねるごとに、里では見かけない昆虫や小鳥に出会う。この山寺は、四季おりおり、どれほどぼくの胸をふくらませ、夢をはぐくんでくれたことか。

「和尚さん」

 石段を登りつめた横の鐘楼の軒を見上げながら、ぼくは声をかけた。

「ほうよ、作りはじめよってな。もう鐘も撞けんのじゃ」と和尚さんは笑った。こぶし大ほどの小さなキイロスズメバチの巣があった。まだ作りはじめらしく巣は小さいが、ハチの出入りははげしい。

「うちにも作りはじめよったらしい」

 ぼくはそう言って、洗面所の屋根裏の説明をした。すると、

「そりゃ楽しみじゃな」と和尚さんは心得たような笑顔で、ぼくを見る。

 キイロスズメバチは忙しい。個体数のいちばん多くなる真夏から秋ぐちにかけてもそうなのだが、巣を懸けはじめ、ハチの数が二十匹から三十匹ぐらいのこの季節、わが家の屋根裏も、この山寺の鐘楼の軒も、まるで突貫工事の現場さながらの気ぜわしい気配に満ちている。ハチたちはわき目もふらず働いている。活気を通りこし、戦闘的でさえある。

 八月、お盆の墓参りに山寺にのぼり、仰天した。わずか三ヵ月足らずのあいだにキイロスズメバチの巣は巨大なものとなっていた。鐘楼のそばに寄るのさえ危険を感じる。幾匹ものハチがカサカサと乾いた音をたてながら、外壁の拡充工事に専念している。そうかと思えば、小さな出入り口では翅び出すものと戻って来たものとが、折り重なるような混雑ぶりだ。

『蜂の巣があります。危険ですから鐘を撞かないで下さい』と、見慣れた和尚さんの墨跡で立札が二枚、注意をうながしている。

「見たけ?」

 背後で意味ありげな声がした。カズヨシだった。カズヨシもぼくと同じこの山寺が檀那寺だ。

「ほうよ」

 ふりかえりながら、ぼくは彼と同じように意味を含めたような返事をした。

「おっそろしいね」

 そう言うカズヨシに、

「石を投げてみたろか」と、すこし脅かすように言った。こどもの頃から、ハチのことに関しては、ガキ大将のカズヨシより上だいう意識が、大人になった今でも働くのだ。石の投げ方も、すばやく逃げる方法も知っている。カズヨシの顔を見ながら意地悪く、にやりと笑ってみせた。

「阿保なことすなよ」

 真にうけたカズヨシの真剣な顔つきが、こどもの頃の表情とすこしも変わっていないのが面白い。

 こうしてその年、ぼくは奇しくもキイロスズメバチの巣を二つまで身近に見まもることになった。

 日中になると洗面所の天井裏がキイロスズメバチの翅音で異様なうなりをあげている。出入り口にがんばっている番兵のハチも翅をふるわせている。暑さから巣房の中の幼虫や蛹をまもるため、集団で扇風機になっているのだ。ハチの数は日増に多くなり、出入り口の混雑は大変なものだ。

 九月になった。冬ものの野菜の種まきを急いでいた。

 珍しい光景に偶然出会った。朽ちて傾いた板塀の屋根下にフタモンアシナガバチが巣を営んでいるのは、以前から知っていた。その附近をオオスズメバチが、いかにも獲物をさがすように翅んでいた。オオスズメバチはさすがに大きい。ぼくの気配を察知すると、すーっと高度を上げ、杏子の木の高い梢あたりでふらふらとホバリングをすると、さっと翅び去った。その様子は、いかにも何か意味がありそうだ。喜び勇んで翅び去ったという感じがした。

 すぐに暮れた。

 明くる日の朝、すこし気になったので行ってみた。やはり、と息をのんだ。フタモンアシナガバチの巣にオオスズメバチが一匹侵入し、強い顎でバリバリと音をたてながら巣房の中の幼虫を引きずり出し肉団子を作っていたのだ。フタモンアシナガバチは歯向かうことすらできず、あちこちに分散してしまい、もはや巣に近づこうともしない。まるであきらめているようだ。夕方には巣房という巣房がもぬけの空の無惨な巣だけが残っていた。

「百年バチが原因だったのか」

 ぼくは独り呟いた。と言うのは、以前からこういうアシナガバチの巣をよく見かけていたからだ。

 秋も深まる頃、アシナガバチは巣を離れる。巣房はすべて空になっているが、巣そのものはきれいな形で残っている。しかし、まだ巣を離れる季節でもない八月や九月頃、数日前までハチが群がっていたのが急に空になっているときがある。そして巣は、まるで何年も風雨にさらされてきたかのように無惨だ。不思議に思っていたが、それがオオスズメバチの仕業だとは気づかなかった。秋を待つことなく、フタモンアシナガバチはたった一匹のオオスズメバチのため潰滅(かいめつ)してしまったのだ。

 ズタズタにされた巣を見ながら、ぼくはふと異様な予感を覚えた。オオスズメバチはこの屋敷までやって来ている。そしてその犠牲になったフタモンアシナガバチの巣と、洗面所の屋根裏のキイロスズメバチの巣とは十メートルと離れていない。ぼくはキイロスズメバチの出入りする洗面所の軒を調べに行った。が、いつもと変りなくハチたちは忙しく出入りしているだけだった。

 キンモクセイの花の香りが漂いはじめた。

 ぼくの予感は的中した。ついにオオスズメバチがキイロスズメバチの巣を襲いはじめたのだ。隠居で起こった大戦争はもう二度と見ることができないだろうと思っていたのだが、奇しくもそれを目のあたりにすることになった。廊下の窓ガラスを閉めれば、まるでガラス張りの実験室で観察しているようなものだ。

 あの日は遠くから眺めていた。しかし今回は目のあたりに見える。が、まったく同じだ。

 何十匹というキイロスズメバチの戦闘部隊が、屋根裏の隙間からゾロゾロと這い出してくる。たちまち軒桁(のきげた)いっぱいに拡がり、興奮のためかはげしく翅をふるわせている。そこへオオスズメバチがホバリングしながら近づく。キイロスズメバチの群れはいっせいにオオスズメバチの方へ頭を持ち上げ、迎撃態勢にはいる。翅をはげしくふるわせる。いまにも翅び立たんばかりにふるわせる。が、けっして翅び立ち空中戦を挑むようなことはしない。防御体制はこの形がいちばん良いということを知っているかのようだ。

 オオスズメバチは群れの中の一匹を誘い出そうとしているのか、キイロスズメバチの頭部に触れんばかりに近づく。しかしその誘いにキイロスズメバチはのらない。それどころか、逆にオオスズメバチを群れの中へ誘い込もうとしているようだ。二倍ほどもある大きな敵と戦うには群れをもってするより方法はない。キイロスズメバチは一匹としてこの態勢を崩そうとはしない。

 もし群れの中の一匹が、果敢にも翅び立ち、オオスズメバチのふところへ突撃していったならば、どうなるだろう。それこそはかない突撃というものだろう。オオスズメバチの思うつぼにちがいない。もつれながら地に落ちたとしても、次の瞬間、オオスズメバチの強靭な顎がキイロスズメバチの頭部を断ち切ってしまうことだろう。

 ジガバチやベッコウバチの種類は他の昆虫などを襲うとき、武器として使用するのは針である。が、スズメバチ科の種類の武器はその強い顎なのだ。だからこのような戦いのときの武器は針よりも強力な顎だ。

 誘い出すか、誘い込むか、ぎりぎりのところで闘いは続く。一瞬の光景はそのどちらなのか分からない。オオスズメバチが群れの一匹を狙いとびついたのか、それとも近づきすぎたため、キイロスズメバチに群れの中へ引きずり込まれたものなのか。次の瞬間、オオスズメバチは二重三重と折りかさなり襲いかかるキイロスズメバチの群れに覆われてしまった。

 たちまち盛りあがるハチのボールは、はがれるようにぼとりと地に落ちる。転がりこそしないものの、ボールそのものが一つの生きもののようにしばらくうごめいている。

 が、やがて外側から一匹、二匹とキイロスズメバチが翅び立ち、元の場所へ戻ってくる。すざまじい取っ組み合いに疲れ果てたのか、あてどなく地を這うものもいれば、這い廻ったあと、重いからだをやっと引きあげるかのように、ぶーんと翅びあがるものもいる。そしてボール状のかたまりは解体していくのだ。

 オオスズメバチとてショックははげしい。脳しんとうを起こしたかのように、腰くだけの恰好でふらふらと地をさ迷い、時おり歩を休め、前肢で触角を手入れしたりしている。

 そのしぐさは、「思うようにいかぬわい」と、次の攻撃の力をたくわえつつ述懐しているようだ。やがて翅び立ち、キイロスズメバチの群れからすこし離れた屋根瓦の上で休んだりしている。

 このような行動は、ごくのんびりしたものに感じられるが、すぐ傍らではすでに他のオオスズメバチの攻撃が始まっているのだ。五匹、六匹、時には十匹以上のオオスズメバチが入れかわり立ちかわり攻撃してくるのだから大変だ。一度に二、三匹が群れの前を翅びかうことすらある。ぼとり、ぼとりと続けざまに闘いのボールが落下する。

 しかし、この必死の闘いが続いている間にも、他のハチは餌を獲りに翅び出し、また戻ってくる。出入りはいつもと何の変わりもない。キイロスズメバチのごく日常的な行動と、それとまったくうらはらな非常事態の騒動が併行したまま続けられているのだ。ぼくはその非情の中にあらためて自然の厳しさを感じていた。

 ぼくたちが十年バチとおそれていただけに、さすがキイロスズメバチの巣は容易に陥落しそうにない。驚くべきことに、この大戦争は、二日、三日、一週間、そして十日と際限なくくり返されるのだ。()かれたように双方は闘う。

 朝陽のさす日だまりに、冷たい夜露にぬれた翅を干すかのようにアキアカネが集まりはじめた。昆虫たちの生命(いのち)(えぐ)るように朝夕の気温はぐいと下がり、またぐいと下がる。

 山寺を訪れた。鐘楼の巨大な巣の周辺は盛夏のころの面影はもはやない。キイロスズメバチの翅ぶ力は極端に弱くなっていた。ふらふらと舞い戻ってくるものは、すがりつくように巣の出入り口にやっとしがみつく。翅び出すものは、まるで地に落ちるかのように下降線を描き、ようやく重いからだを保ちながら、いずこともなく翅び去る。

「すっかり弱りよってなあ。あちこちで仏さんになっとるんじゃ」

 和尚さんが言う。

 いま翅び去ったハチは二度と巣に戻ることがないのかも知れない。それでも幼虫にあたえる餌を狩りに行こうというのか。あれほど自在にふるわせることのできた翅を、彼女たちは今どれほどもどかしく思っていることだろう。しばらく弱々しい出入りを見ていた。

 ふと、鐘楼の周囲に何か乳白色のものが散在しているのに気づいた。近寄って見ると、それはキイロスズメバチの幼虫だった。なぜこんなところにと不思議に思いながら、掌に置いてみた。動かない。生命ある輝きも張りもなく、だらりと弛緩したまま、掌に冷たい。オオスズメバチに襲われた結果だろうかと不審に思い、和尚さんに尋ねてみた。そんな様子はないと言う。どういうことだろうと、ふたたび巣を見上げた。すると、一匹のハチが何かをくわえながら、巣穴から出ようとしていた。動きはもぞもぞと鈍い。やっと巣から離れると、くわえた物の重量にそのまま引きずられるように弧を描き、ぼくの目の前に降りて来た。

 くわえていたものは幼虫だった。いとおしむように幼虫の屍の上を後ずさりすると、わずかにぼくの方を向いた。そして、前肢で触角を二度ばかり撫でた。

 ぼくは身を屈め、静かに見まもっていた。もうあの攻撃的で強い意志をもった複眼ではなかった。哀願するようにぼくの方を見ているのだ。よろしく葬ってくれとでも言うように。もしハチに涙があれば、ぼくは間違いなくその複眼に光る涙を見たことだろう。

 やがて翅を拡げ、ぶーんと巣穴に戻った。山の澄んだ晩秋の夕日が、その翅に反射して、一瞬光り輝いた。幼虫たちは餌不足で息絶えたのか、それとも寒さにやられたのか。いずれにしてもその屍を、明日とも知れず迫るみずからの死の気配をしっかりと受けいれながら、葬る成虫たちのすがたは、この膜翅目(まくしもく)たちに寄せてきたぼくのあらゆる熱い思いをはるかに越えて痛ましかった。

「寒うなりましたなあ」

 ぶるっと体をふるわせ、とってつけたように言った。

「そうじゃなあ。ことしは寒かろ」

 和尚さんは翳りはじめた山の端を見上げながら、つるっとまるい頭を撫でた。

 木枯しが吹いた。

 わが家のスズメバチの大戦争は終熄した。やはりオオスズメバチの方が強かった。強かったというのは闘いそのものにおいてではなく、寒さに強かったのだ。キイロズズメバチは動けなくなってしまったのだ。

 洗面所に立つと、天井裏でバリバリと何かを噛み砕く音がさかんにする。動けなくなったキイロスズメバチの幼虫がオオスズメバチの強力な大顎の犠牲になっているのか、それとも幼虫もろとも巣房を噛み砕いている音なのか。その音は異様で不気味だ。

 数匹のオオスズメバチが絶えずやって来た。軒桁のすき間からその一匹が這い出て来た。キイロスズメバチの幼虫をくわえている。垂木に後肢で逆さにぶら下がると、前肢を器用に使いながら幼虫を噛み砕き、円い肉団子にととのえていく。しかし、このオオスズメバチとて、あと幾日生きながらえることができるというのだろう。

 木枯しが前栽に落ち、軒下に渦を巻いた。垂木からぶら下がっていたオオスズメバチがくるっと一回転した。

 ぼくは二階の部屋に戻り、村の屋並を、地蔵堂の屋根を、そしてその向こうの社の杜を眺めた。一匹のオオスズメバチが廊下の屋根を翅び越え高度をあげた。その一瞬、一陣の木枯しが強く吹いた。餌をくわえたままのオオスズメバチははたき落とされるように高度を奪われ、松の枝にしがみついた。

 が、やがて、ふたたび翅び立ち、木枯しにあおられ、流されながら、お堂からまっすぐ

社の杜を越えたのだろうか。寒々とした曇天の彼方にその姿を消した。

 

——完——

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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川島 民親

カワシマ タミチカ
かわしま たみちか 作家 1942年 東京都に生まれる。

掲載作は、掲載済み他3編『ぼくの動物記1』とともに、『スズメバチの死闘』と題して1988(昭和63)年筑摩書房より書下し刊行。

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