高橋和巳における狼疾
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かなり以前から高橋和巳の文学の特質において、心のなかに
高橋和巳自身、比較的早く「近代文学」の読者として、第一次戦後派作家に親近感を覚えたといっていることからわかるように、かれの文学的出発にあたっては、たしかに埴谷雄高の存在は無視できなかったであろう。しかし、かれの文学の本質は、かならずしも当初から埴谷雄高の想念になじんでいたわけではない。
かれは秋山駿との対談のなかで、およそ次のように述べている。
やや整理してものを考え始めたときに埴谷雄高の影響を受けたので、その影響力は大きいとおもうが、文学の<原形質>としては、案外、森田草平や鈴木三重吉に近く、「何か憂鬱な雰囲気を漂わせているような作家」に基本的色調を置いている。
この対談であきらかなように、高橋和巳の文学の本質は、一般にいわれているような埴谷雄高の影響よりも、むしろかれ以外の「憂鬱な雰囲気を漂わせる作家」のほうに強い影響を受けている。対談では、そうした作家として、前述の二人のほかに牧野信一の名を挙げているが、かれらが高橋和巳の文学の本質を引きだしたかどうかとなると、これまた首を傾げざるをえない。
なぜなら、高橋和巳とそれらの作家とのかかかわりは、その文学的出発においてまったく言及されていない。少なくとも年譜や友人たちの回想には立ち現れてこないのである。つまり、それらの作家は、高橋和巳の文学において存在の影が薄い。そうなると、かれらとおなじような「憂鬱な雰囲気を漂わせ」ていて、高橋和巳とかかわりのある作家といえば、もはや中島敦以外におもい浮かばない。
高橋和巳と中島敦は、意外に深いところで結ばれている。
二人の作家としての資質は、血縁関係にあるといってもおかしくないほど相似性がある。もともと高橋和巳は、中島敦によって中国文学に接近した。いわば、かれにとって中島敦は、文学的にも学問的にも恩師にひとしい作家である。
新制京都大学の文学部に入学した高橋和巳は、そのころ、はなばなしく活動していた第一次戦後派の埴谷雄高、野間宏に影響を受けるが、おなじ時期にかれは友人たちと中島敦を貪り読んでいる。
いうまでもなく、中島敦の作品は、そのいずれもが自己存在への根源的な問いを孕んでおり、とりわけ知識への悲哀を色濃く漂わせている。高橋和巳がそこに<知の哀しみ>を看取したとしても、なんら不思議はない。友人の回想によれば、高橋和巳の文学の本質は中島敦<知の哀しみ>以外に考えられない。
たとえば、大学時代、毎日のように高橋和巳と会っていた竜茂之は、「本来的には、彼は、彼の本質は、彼の運命愛は、ジュリアン・グリーン的なものであり、中島敦的なものである」(「悪友悔恨の嘆き」)と述べている。また、大学にいく代りに高橋和巳に会いにいったという小松左京は、かれの未来を『山月記』『李陵』の作者としての中島敦の方向にみていたと証言する。(「内部の友とその死」)
高橋和巳は最初の2年間の教養課程でまだ専攻が決まっていなかったころ、かれの関心はもっぱらドイツ観念論やロシア文学にあった。それが中国文学に向ったのは、ほかならぬ硬質の文体で知られる中島敦の『李陵』に惹かれたためである。
それに対してかれがはじめて埴谷雄高を訪れたのは、もう少し後の大学院生の二十六歳のときである。そして、かれが「逸脱の論理」と題して埴谷雄高論をまとめたのは、それからさらに4年後のことである。ということは、高橋和巳の文学的出発における埴谷雄高の存在は、「憂鬱な雰囲気を漂わせた作家」中島敦に比べて、その原点においてそれほど影響力は大きくなかったのではないか。こうしたことを疑ってみることは、これまでの高橋和巳の読者にはおもいもよらなかったことかもしれない。しかし、さきのようなかれの文学の血筋をみてくると、もはや、高橋和巳における中島敦の重さは動かし難い。とくに初期作品につきまとっている中島敦的な<憂鬱さ>は、かれの文学の本質をなによりも端的に物語っているとみてよい。
そこでは同じ時期に構築された『捨子物語』『悲の器』『憂鬱なる党派』中心に、その中島敦的なものへのかかわりを追ってみたい。
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かつて武田泰淳は、中島敦を評して「はげしい狼疾をわずらっている」と論じた。狼疾とは、孟子にある言葉で「指一本惜しいばかりに、肩や背まで失うのに気がつかない」ことである。この場合、指一本とは中島敦の自我を指している。かれは少年時代から<存在の不確かさ>に脅かされてきた作家である。かれの存在への懐疑は、作家であれば誰もが多かれ少なかれ共有しているものであるけれども、それが作家を苦しめ、作家自身がそのことによって、新しい自己の可能性を発見していく。中島敦はそうした作家のひとりであった。そして、そのかれの「はげしい狼疾」に、きわめて繊細な感受性から深い共感を寄せたのが高橋和巳であった。
高橋和巳は『悲の器』で第一回文芸賞を受賞し、文壇にデビューした作家であるが、かれはそれ以前に長編小説『捨子物語』を書き上げている新鋭作家と注目されていた。その実質上の処女作である『捨子物語』は、着想執筆にとりかかったのが、序章でみたかれの青春前期のときにあたる。じつに興味深い。
この作品は、かれの幼少年期の体験をもとにした自伝的作品とされるところから、かれの内奥を探るうえで重要な意味をもっており、じじつあれだけ苦渋を重ねたかれの文学の核心や原形質がみごとに暗示的に描かれている。
ある貧しい夫婦に生まれた子が、祈祷師の予言にしたがって、生後三月目に北の方の最初の四つ辻に捨てられる。物語はその暗い運命を背負って成長した少年<私>の回想によって展開されるが、主人公の<私>は、救われた生を儀式のように生きながら、かろうじて幻想のなかに憩いを見出している。それは不透明な現実からかれが学んできた事実感覚であり、孤独な遊戯のなかの「癒しがたい疾病」として<消滅妄想>と名づけられる。
他者との幸福な関係を結びえない自我の招来は、はじめはそうした否定形のナルシズムとして現れてくる。高橋和巳の場合も、やや自虐的に青春期特有の不吉な鏡に、その影法師を追い求めているといってよい。
このとき<私>は「私が私ではなくなってゆく奇妙な不安」を覚える。この自我の目覚めは、少年の<私>がたとえかすかながらも理解しえた過去と完全に訣別して、新たな青春のはじまりを予感するものであったといえよう。
どこからともなく訪れてくる少年時代の存在への懐疑は、死ではない生のどうしようもない<恐れ>であり、だれもがしばしば体験するところである。もともと内なる<私>は、本質的にそぐわない環境のもとで身を投じて感じなければならない肉体的嫌悪に、絶えず脅かされている。
高橋和巳の幼少年時代がそうであった。かれは形の定かでない<恐れ>をはっきり意識しないまま、切実に自己救済を図ろうとしていた。そのときの名状しがたい存在の痛苦によって、かれは書くということに対してしだいに自覚的となっている。いわば『捨子物語』は、それを具体化した実験的な作品である。
この作品が青少年期の暗鬱で不安定な自我に固執しているのは、ひとつにはかれ自身が青春の危機を極度に警戒していたからであろう。
それからもうひとつの相貌がほかならぬ中島敦への狼疾である。
中島敦は、少年時代に生母の離婚や病弱であったことから、<存在の不確かさ>といったものへの不安や疑惑を、たしかなまでに作品に投影している。過去帳と呼ばれる二つの身辺小説『狼疾記』『かめれおん日記』においては、懐疑をかけがえのない唯一の所与とした主人公が、それら青春の不安を繙くのである。中島敦の分身である『狼疾記』の三造が、<存在の不確かさ>という不安を感じたのは、中学生のときである。字というものをヘンだとおもいはじめると、だんだんその必然性が失われていくように、現実に気をつけてみれば、いずれも不確かな存在におもえてならない。この中島敦の漠然とした不安を、そのころの高橋和巳が意識しなかったとは、とても考えられない。
かれは小田切秀雄との対談で「小説を根源化しようとすると、その主体つまり<私>というものが重い問題になってくる。従来の私小説の在り方とはその契機を異にするけれども、<私>に非常にこだわらざるをえない」と語っている。
こういう高橋和巳の率直な告白は、不思議に魅力的であり、新鮮さを感じるのであるが、やはりそこには、青少年期にありがちな自他における不幸な関係を省みてしまう。少年時代のかれは、一種の強迫観念に襲われ、そこから必死に脱けだそうとするものの、もがけばもがくほど泥沼の深みに嵌っていっている。その初期の憂鬱は不気味なほど中島敦のそれに似たところがある。
自我の存在の意味を探ることは、容易なことではない。中島敦の『狼疾記』における<存在の不確かさ>も、『捨子物語』の<私が私ではなくなってゆく奇妙な不安>も、それぞれ袋小路に追い込まれて、逃げ場を失っているようにみえる。しかしながら、そこに内示する<主体性の確立>の主題は、同時にまた、近代的自我のひとつの在りようとして、作家の視野を拡げているとも考えられるのである。
『捨子物語』の<私>が「私は私の為したことの意味を知りたい、私の成しとげ得なかった志の価値を知りたい」として、「私と関係のあるものは、いったい何であるか」を問いかける姿は、まさしく『狼疾記』の三造の焦慮と苦悶に重なっている。
三造は何としても<我>を失いたくない。かれが「あらゆる事柄を知りつくしたい」と希求しながら、一方で「できる限り多くの事物が理解を絶した彼方にあればいい」と願うのも、そこが<我>にとって、もっともふさわしい存在の場所と認識したからであろう。ことばをかえていえば、こうした現実と自我の落差にたいする恐れから生まれた<存在の不確かさ>は、まぎれもなく狂気と隣合わせの青春を希求している。むろん高橋和巳とて同様である。かれの<私>の問題も中島敦をとおしてつきあたってしまったにちがいない。
はからずも『捨子物語』のサブタイトルは、――幼而親日孤、老而無子日独――という孟子のことばであることに気がついた。これはあきらかに『狼疾記』の――養其一指、而失其肩背、而不知也、則為狼疾人也――に準じている。些細なことかもしれないが、高橋和巳がここまで中島敦を意識しなければならなかったとしたら、文学というものはじつに恐ろしいものである。高橋和巳は短編小説に反撥する立場から長編小説を書いたといっているが、その点においても、すぐれた短編小説を書いている中島敦にはおよばないという意識過剰から、かれを超えようとしたのではないかと受けとめられなくもない。
いずれにしても両者の文学の本質は、さほど異なっているとはおもえない。『捨子物語』の処女作としての運命性あるいは運命的であるがゆえに荷う孤独の感覚は、十分汲みとることはできるが、その<
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前章で、高橋和巳の文学は、かれが意識するとしないにかかわらず、その原初として中島敦の狼疾を想起せざるをえないと論じたが、ここでは、かれの過剰な自我意識によってもたらされたものが何であるかを考えてみたい。
およそ青春時代における文学ほど、非論理的で不安定な自我を好むものはない。あらゆる矛盾を包含し、同時に自己の存在の可能性を問うものとして、多くの作家は孤独な自我の葛藤を凝視している。それはもっとも苦渋に充ちた危機の時間かもしれないが、閉ざされた状況のなかに、自己を形象化していく地平は、際限のない日常体験に比べて、はるかに自由であり、きわめて本質的な意味をもっている。
高橋和巳がことさらに闇の地獄に下降していくのは、そうすることによって新しい存在のスタイルを探し求め、はげしくは問うことができると信じたからにほかならない。
『憂鬱なる党派』の西村恆一が「日常的な平静さや幸福の一切を犠牲にして仕上げた努力の結果」を黒カバンにつめて、盛夏の釜ケ崎を訪れるのは、そのためである。かれはそれが唯一の存在証明であるかのように、「望みのない遍歴」をつづけるのだが、とどのつまりは、本田秋五のいった「膝までの浅瀬」で溺死していく。主人公の西村恆一をはじめとして、登場人物が次から次へと破滅を余儀なくさせられているが、存在の不可解さや意識の深淵において、作者はひそかに矜持を感じていたのかもしれない。
「すべての思想は極限にまでおしすすめれば必ず、その思想を実践する人間に破滅をもたらす」(『我が心は石にあらず』)
このようにかれの内部に恐ろしい自己否定の想念を飼いふとらせたものは、『捨子物語』における<宿痾の幻想>としての<消滅妄想>であることは論を俟たない。いずれにしても、そこでかれの自我は孤独を、虚無を、懐疑を強いられたに等しかった。そして、それらの近代的憂愁のなかで自我への問いを放たざるをえなかったのである。
自我とはなにか。なんとも厭わしく鬱陶しい問いであるが、高橋和巳は「自我というものについて」次のように述べている。
「蒟蒻のように、グニャグニャした壁」に頭をぶっつけて、そこでなにをなすべきかを考えるが、いったいどこへ行くんだといわれたら、「よくわからない」と答えるしかない。
ところで、高橋和巳の奇妙といえば奇妙な自我の観念も、よくよく考えれば、これまたなにやら中島敦的ではないか。すなわちかれは『かめれおん日記』のなかで「俺はかえるの卵のように寒天の中にくるまっている」として曖昧模糊とした自我の正体を自覚している。ちょっとした比喩だが、高橋和巳が中島敦を屈折した想いで眺めていたことは否めないだろう。おそらくかれは、自己省察、自己呵責をくりかえすたびに中島敦を引き寄せていたにちがいない。
『狼疾記』や『かめれおん日記』の存在論的不安は、とにかく気がついたときにはヘンなものになってしまっていたが、しだいにはっきりとかたちを現れてくる。
「俺とは一体何だ」
だが、このような存在への懐疑は一朝一夕に解決できるものではない。そこで中島敦が存在論的懐疑の延長線上に構想し、みごとに結晶させたのが『悟浄出世』である。
この作品は、流沙河の河底に棲む沙悟浄が、「俺とは何か」の真の教えを受けるために、河底に「考える店」をはっている妖怪たちを訪ねまわるのであるが、悟浄は五年近い遍歴の間に少しも賢くなっていないことを悟る。しかも、フワフワしたわけのわからない存在になりはてていることを痛感する。このときの悟浄の肉体はもはや疲れ切っていた。かれは、とある道ばたに倒れ、そのまま深い眠りに落ちいる。
もともと存在しないような世界の意味を探求することじたい徒労的行為である。しかし、たとえそうであっても、存在の不安や自己呵責に耐えられない悟浄にしてみれば、それは必然的行為であった。
さて、そのことを踏まえたうえで、あらためて前に触れた高橋和巳の『憂鬱なる党派』の自我の位置を探ってみると、どのような構図が浮かびあがるだろうか。
西村恆一は「望みのない遍歴」と自覚しながら、それでもつづけねばならなかった。それが無意味な行為の連続であっても、かれは立ちどまることを許されない。かれは「いまだ根拠のはかり知れない一切の断念」からまとめたある記録を出版しようと、大学時代の友人に助力を求めていくのだが、友人たちとの再会は、決して<彼の一切の断念>のほんとうの意味をわかってくれはしなかった。かれの存在への懐疑は晴れず、「ズボンを穿いたままぶったおれるようにして眠り」、そして死んでいくのである。
ここまでくると、西村恆一の挫折と重量感の喪失は、あきらかに悟浄のそれを忠実に再現したものであることがおもいしらされる。高橋和巳はこの作品を書くにあたって、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の『舞踏会の手帳』というフランス映画のヒロインの遍歴をイメージしたというが、『悟浄出世』の対比からすれば、それはいささか本音でないようにおもわれる。映画は夫を亡くした資産家夫人が手帳に記した男性をひとりひとり訪ねていく場面などは、たしかに『憂鬱なる党派』のイメーシに重ねることができるかもしれないが、西村恆一の「存在への懐疑」は、どのように考えても、悟浄の「俺とは何か」のイメージである。西村恆一が悟浄に代わっても、少しもおかしくない。
たとえば、西村恆一の悲しげな表情は、悟浄の物思いに沈んだ顔と二重写しである。かれは日浦朝子に、昔から反省の塊みたいな顔をして、いつの場合も<だが、しかし><にもかかわらず>ばかり、と責められているが、その病いは、微かな声で呟く悟浄の自己呵責、自己省察となんら変わりはない。
また、西村恆一の<後悔>が、おもいめぐらしてみても、いつごろから存在の形式になったのか、いっこうに掴みどころがなくわからないのも、悟浄の<身を切刻む後悔>が「気がついたらそのときはもう、このような厭わしいものが、周囲に重々しく
このように『憂鬱なる党派』は、『悟浄出世』の自己救済への絶望を学びとることによって、存在の悲劇をより顕にした作品となっている。となれば、次に対比したくなるのは、そうした煩悶のなかで選びとった高橋和巳、中島敦のそれぞれの自己の存在への決意を示す作品である。
中島敦は『悟浄出世』を書く約三年前に『悟浄歎異』という作品を完成している。その作品では、悟浄は孫悟空の「意味を問うことのない健康な行為」にあこがれを感じていたが、『悟浄出世』においては、最後に訪ねた女偶氏の「行ふとは、より明確な思索の仕方である」という教えには、よく理解できるのだが、「どこか釈然としないもの」を感じて納得できないでいる。おそらく悟浄の変化は、中島敦自身の思想の変化であろう。
『わが西遊記』の悟浄は、はじめは悟浄たることに絶対的な確信がもてず、悟空の行動力に惹かれるが、しかし決して悟浄たることを止めなかった。かれは妖怪ひとりひとりとの議論をへたところで、じつはだれもかれもなにひとつわかっていないことを理解する。もはや誰にも聞くまいと決意したのが、存在の悲劇の凝視である。この中島敦の『悟浄出生』にみる存在の悲劇の萌芽は、さらに具体的に、想像力性にすぐれた物語となって姿を現すのである。それが『李陵』である。
これにたいして高橋和巳が『捨子物語』から固執してきた「存在への懐疑」を総括しようとした作品が『悲の器』であった。『李陵』、『悲の器』ともに知識人の悲哀を描いていて評価が高い。
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近代知識人の運命は、社会的地位としての知識階級のなかにだけとどまるものではなく、むしろ同時代の状況を先取りするかたちで、主体性の確立の方法と態度を模索し、未来を切り拓くことにある。しかしその意識は、たぶんに現状否定の気分に陥りやすく、同時代にたいしては、しばしば存在の不安と懐疑から逃れられない運命にある。といっても、こうした知識人の苦渋は、なにもこと新しい問題ではなく、かれら自身が自立の代償として、本質的に荷なわざるをえないものである。そして、かれらのうち、とくにそのことに過度にかかわるのが作家であるといえよう。
「知識人は、なにゆえに知識人であるか」、この問いかけは、高橋和巳の文学を想い浮かべるとき、かならずといっていいほど立ち現れてくる主題である。かれの方法的模索は、二葉亭四迷の『浮雲』以来、わが国の知識人文学に連綿とつづいている永遠の存在形式である。それゆえ、同時代の作家のなかでは、めずらしく観念的な作家であるかれの内実は、誠実であればあるほど自己嫌悪を招き、暗澹たる寂寥感に覆われている。したがって、その内的地獄は孤立無援であるだけに、「私を支えるものは文学であり、その同じ文学が自己を告発する」(『わが解体』)という倫理感によって応接のいとまがない。かれにとって文学とは、そうした純化されたかたちの人間的真実を追求することであった。まずかれは、内なる<私>の自己欺瞞をと闘わなければならなかった。近代知識人が生まれながらの知識人でなく、ひたすら知識の獲得、自立的な思弁によって築きあげてきたように、かれの文学はその苦悩のなかにこそ自己同一性をみている。
高橋和巳がある親しさをこめて書いた『悲の器』の主人公正木典膳は、一片の新聞記事から社会的地位や家庭を奪われ、精神の内奥の絶えざる不安のなかにありながら、なお知識人の苦悩や悲劇は、自覚的な人間のみに許される特権であると信じている。大学教授であるかれは、家政婦米山みきの訴えにたいして「名誉毀損」で告訴したが、検察庁からの不起訴処分の通達をうけることによって、はじめて「靄のように広がる不安」が抵抗し難い想念になっていくのを意識する。
こうした正木典膳の「内側の疼」を、仮借なきまでに糾弾するのが、ほかならぬ<内なる私>である。かれは「私が防禦できぬ私の論難者がこの世界に存在しうる」という内的地獄をまえにして、敗北の悲劇を味わわねばならなかったが、いま敗北の過程や主人公の性格、思想を論じてみても、あまり意味がない。この作品の魅力は、あくまでも「知性は、みずから育てた観念をみずから返り打ちして進まねばならぬ」とする知識人の痛苦をおもい描いたことにある。
高橋和巳によれば、長編小説の条件には、<運命の自由化>と<自由の運命化>がある。
このまったく相反するかにみえて、じつは一卵性双生児のように、現実のなかの自己とその内奥に構築された自我との関係性は、かれの文学においては、もっとも不可欠な要素といわなければならない。それゆえ、かれはすべての登場人物が「私であって同時に私でない」というのが、曖昧なようでいて基本的に正しいと考えている。
その高橋和巳が、文学することの悲しみ、とりわけ挫折の悲哀について多くの作品を書いた中島敦に少なからず関心を寄せていたことは、これまでの推察から十分理解できるであろう。ことに『狼疾記』や『悟浄出生』は、高橋和巳の資質にじかにつながっていて、かれでなくとも、その中島敦の息遣いが感じられる。かれの晩年の作品である『李陵』にいたっては、より一層明確に、かれ自身の姿が映しだされているといってよい。
この作品は中島敦の文学の最高峰を示すものとなっているが、かれは史実に基づきながら、李陵、司馬遷、蘇武の三者の悲劇的運命を描いて、自己の存在の在り様を問うとした。かれの悲劇は、近代化がもたらした主体性の確立のもとに、自己の運命をみようとしたときからはじまっているが、その孤独な自我は、自己呵責をくりかえし、知の行為を選ぶしかなかった。したがって、この作品では、可能なかぎり司馬遷の内面に自己を重ねようとしている。いまや中島敦は、『悟浄出生』で漠然としていた自己の運命を司馬遷に仮託することによって、ひたすら耐えていかねばならなかった。宮刑に処せられてからの司馬遷が絶望的状況にありながら、あえて修史の仕事にとりかかったのは、そこに「我あり」の絶対的自己の
そうした中島敦の苛立たしいばかりの自我の匂いと意識の深層に、高橋和巳が限りない共感と未来への展望を馳せたとしても、何ら不思議でない。しかしそうかといって、かれが『李陵』の三者の運命の悲劇性において、自己の運命を司馬遷に仮託したとみるのは、すこしばかり早計である。
たしかに高橋和巳は知識人としての司馬遷にこころを動かされている。かつてかれは「孤独に耐えられないような存在は、創造的な知識人でありえない」(『憂鬱なる党派』)といっていることでもわかるように、司馬遷の苦悩には親近感をかくさないでいる。しかもそうした高橋和巳のおもいいれは、『日本の悪霊』のヤクザの代貸し村瀬勝にたいする落合刑事のこだわりかたにおいても、うなずかせるものがある。落合刑事は村瀬が「何かを考える」存在であったばかりに、かれを理解しようとするのである。つまり、「考えること」じたいは、なにも目にみえるものでもなければ、特権的なことでもない。ただ高橋和巳の内面においては、それは知識人の資格として、村瀬の<罪と罰>について「考えること」は絶対不可欠の条件でなければならなかった。そこには、知識人としての役割と意義が存在しているという確信に近い認識がある。それだけにかれの司馬遷への想いは強烈だったにちがいない。
かくて高橋和巳は、その司馬遷の思想をとおして『悲の器』を構想し、知識人の全体像に迫ろうとした。
だが、ここで注意したいのは、現実のかれは、かならずしも司馬遷の生き方に全面的に同意しているわけではない。これについては後で述べるとして、ひとまず中島敦との対比において、高橋和巳の現実感覚を覗いておくことにしよう。
まず晩年の中島敦だが、すでに触れてきたように、知識人の性格を司馬遷に仮託していたが、李陵や蘇武の意識を共有するまでには、ほとんど至っていないようである。かれには、司馬遷の「歓びも興奮もないただ仕事への完成の意志」だけが、唯一の現実感覚としてこころが惹かれている。かれにとって、人生とは文学でしかなかった。文学を創ることがすべてであったといえる。
それに比べて、高橋和巳はおなじように知識人の自我にこだわりながら、かれの運命の関心は、李陵にもっとも近かったのではないか。さしあたりこの辺のところに、高橋和巳と中島敦の本質的な違いが若干感じられる。これは当然といってしまえばそれだけのことであるが、高橋和巳の文学の本質を捉えようとする立場からすれば、あながち無意味とはいいきれない。
なぜなら、かれの日常的態度が、作品を読んでうける知識人の印象より、ずっと市民感覚的秩序を甘んじているからである。このため、文学を創ることの純粋性は中島敦とほぼ同質であっても、かれの文学的態度は、多くの論者が誉めそやすほどの純粋性に貫かれていたかどうか怪しい。かれのことばを借りれば「鳴りもの入りの優柔不断さ」を身につけている。かれが『わが解体』のなかで、「自己の営為の原理とは抵触する別の法則性に従って身を処し」異質の原理との調和を図ろうとする、その精神の有り様を批判しているが、そのかれに仮借ない糾弾を加えるとすれば、まさにこの点においてであろう。
『我が心は石にあらず』の主人公信藤は、知識人なるがゆえの<態度の曖昧さ>を人間的なものとみなしていたが、じつはその態度がだれからも憎まれたくないという<八方美人>に過ぎないのではないかと、と自問自答している。だがこの自己否定も、高橋和巳は学園闘争にかかわり、全共闘の「人間とは何か」の問いを突きつけられて、はじめて気づいたといっているけれど、それまでにかれはみずからの日常的態度の曖昧さに嫌悪を感じなかったというのだろうか。
高橋和巳は『悲の器』において、知識人はひとつのことに誠実であることで、他の不誠実が許されてもよいと考えていたはずである。かれがこころ優しく、誠実であることはだれもが認めるところであるが、だからといって、かれの文学的態度に、いささかも曖昧さがないとするのは、少し過大評価すぎはしないだろうか。竹内好あたりが、高橋和巳について、よくわからないと評したのは、さしづめそのようなかれの市民感覚的秩序ではなかったか。
竹内好は高橋和巳の新しさを「正体不明の新しさ」と評したが、ともかく「行動の幅がそんなにせまくないことを感じさせる出処進退」であると、微妙ないいまわしをしている。
また、大江健三郎も『想像力の枷』で、高橋和巳を「アカデミズムの権力構造」のなかの知識人として位置づけ、その内奥にうごめく現実感覚を照射している。
高橋和巳が『悲の器』で、正木典膳に「私は権力である。権力でありたい」といわしめているのは、かれの京都大学の学究生活から生じた知識人信仰を裏付けるものであり、同時にそれはそれまで拘泥してきた中島敦を超えようとする試みでもあったといえる。
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高橋和巳における中島敦の影響とは何だったのか。
これまでに、高橋和巳の作品と中島敦の作品との相似形を検証することによって、それが何であるかを紐解いてきたつもりであるが、それをひとことでいえば、「我あり」の確立であろう。
高橋和巳はその文学的出発にあたって、得体のしれない<私が私ではなくなってゆく奇妙な不安>を幻想によって裏打ちしていたが、中島敦の<存在の不確かさ>を知るにつけて、その狼疾を自己同一性の原理にしようとする。かれは中島敦を読みすすむにつれ、意識と無意識のはざまで、あらためて自己の位置と存在のたしかさを認識することになるが、かれのうちに巣くった中島敦の狼疾は、しだいに肥大し、高橋和巳のすべてを支配するようになるのである。『捨子物語』は、その病的な意識に殉じようとした決意を固めた作品であった。そうすることによって、高橋和巳は生まれてはじめての生の充足感を覚えたにちがいない。
こうした高橋和巳の文学的営為のはじまりは、中島敦の作品のなかから、あらゆる夾雑物を払いのけ、観念を抽象化したうえで、現実感覚の方法によって構築していったところに、同時代の作家と違う特質がうかがえる。その方法は、それ自体としては自己解体の危険性はあるかもしれないが、かれの底知れない憂鬱にとっては、むしろ好ましいものであったといえよう。
高橋和巳は中島敦の『李陵』が目の前に現れたとき、みずからの混沌とした精神の内奥に、その作品の<存在の不確かさ>がもたらす知識人の悲鳴を聞かないわけにはいかなかったにちがいない。かれが『李陵』において魅せられたものは、中島敦が仮託した司馬遷の悲哀であった。それは、絶望的な孤独の淵で断ち切られた司馬遷の「我あり」こそが、ほかならぬかれ自身の存在への問いであったことを指し示している。それ以後の高橋和巳は中島敦の狼疾から逃れられずに格闘しながら、文学的主題を「我あり」に思い定め、創作にとりかかっていくのである。その<知の哀しみ>の深さを描いたのが『悲の器』であった。
『悲の器』は好むと好まざるとにかかわらず高橋和巳の代表作である。『悲の器』なくしてかれを語ることはできない。ここには、かれの自負と矜持が、近代の憂愁に揺れる自己否定の世界と深くむすびついて、<知の哀しみ>が刻印されている。かれは『悲の器』においては、主人公とその<内なる私>の自我の関係を形象化したが、その<内なる私>は、いうまでもなく、高橋和巳を支え、かれの文学を支え、かれの孤独の本質を誘引してきたものである。その後の作品は、すべてこの作品の延長線上にあるものとみなしてよいだろう。その点において『悲の器』は、まさしく高橋和巳の頂点をきわめているといって過言でない。
だがしかし、かれは『悲の器』の運命を背負っているにもかかわらず、まだ絶対的な自己の位置を掴みきれずに苦しんだのである。<内なる私>に追いつめられた主人公の
そうしたときに高橋和巳が直面したのが全共闘運動である。全共闘運動というものは、政治的にはともかく、通俗的にありていにいえば、「人間とは何か」を問うことにおいて文学的な運動ということができる。高橋和巳の自我は、このとききわめて不安定な状態におかれる。この運動の知識人の根底に深くかかわる存在への在り方の追求は、かれの文学のもっとも根源的な問題でもあった。かれは不可避の選択として全共闘運動の同伴者として参加していくのである。初期の作品にみる中島敦の影響を超克するためにも、それは避けることのできない文学的行為であった。
高橋和巳の死後、たか子夫人は全共闘運動へのかかわりを、かれの資質からして「余白の部類」いっていたが、理解できたとしても同意することはできない。かれが状況の先取性、状況への抵抗性に揺れる同時代の知識人の苦悩を体現したことは、とても「余白の部類」として葬り去るにはしのびない。高橋和巳の苦悩が肥大化すればするほど、それがかれ本来の自我を擁護する想像力と化して、苦渋の作品を背負うことになる。それはもはや宿命的であり、確信犯的であるといわざるをえない。
すなわち、高橋和巳の文学的営為の水源をたどっていけば、遅かれ早かれ不可逆的に中島敦につきあたってしまうのである。したがって、高橋和巳における中島敦の存在は、かれ自身の憂鬱であり、狼疾にほかならないのである。
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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