高橋和巳序説
1
いにしえ、東方の民が<双神の時間>と名づけた早朝の一時期——暗黒と光明、絶望と期待の陰陽交錯する薄明のゆらぎ、明暗定かならぬ夜と曙のせめぎあいこそ、不安な人間存在の物語の発端であった、といわれる。それはタナトスとエロスの相互循環であり、また、一切の苦痛、一切の快楽も一緒に肯定すべき<運命の愛>と呼ばれる真理なのでもあろうか。
思うに、その双神の運命とは、逃れえぬ闇の深奥でおびえつづけなければならぬ人間の精神と現実の構造的な内実を意味している。いや、それにしても、双神のもたらす息をつめたような一条の明かりは、朝の清々しい黎明を意味するものだったか。逆に、暗愁にくぐもる黄昏の輝きであったのか。
幻視の惑乱と煩悶にとまどいつつ、だが、それは誰も追証しようとしなかった。はたして、希望とは虚無そのものなのだろうか。
「私は妄想するのだが・・・・」と高橋和巳はいう。
そのうす明りは、背後から姿をあらわそうとする太陽の予光とはかならずしも楽観しがたく、もしかすると光明を求めつつも得られぬ者の苦痛あるいは、それ自体存在の価値なきものの自己主張の執念から発するほかない凡愚の火花だったのかもしれない。
ここでいわれる「凡愚の火花」とは、まぎれもなくニヒリズムに裏打ちされた滅びと再生ゆえの葛藤の呻きであり、断罪者の恐怖にもとづく輝きそのものであるといえる。そして、高橋和巳の限りない<夢>と<志>は、そこから一つの此岸の実存に向かって、黙示録のように罪障的な飛翔をくりかえしていくのである。「文学の一つの運命的ないとなみ」とは、いってみれば内在する魂の惨劇にほかならない。
幼年期において、悲傷の生のあやうさと哀しみに閉ざされていた高橋和巳は、すでに己れの運命的な生き方を予感していた。しかるがゆえに、原初的な内部世界を静かに培養しながら、自らのゆらぎに添っての歩みをすすめる。内閉と自虐のエネルギーを闇の濃淡にそよがせ、静かに時代の転位に目覚めていったのだ。
それにしても、「希望はなく、神は永遠に隠れたまま」だったという認識は堕獄の決意のように尋常でない。内なる闇の運命的な物語を重層的に積み上げていく過程において、「地獄のような世のありさまという比喩は、私の少年時代にあっては、この世のありさまのような地獄」であるという現実を、すでに贖罪性の証として手繰り寄せるしかないからである。
『捨子物語』は、自伝的要素の濃い作品である。
物語は断絶した自己の生の回復の祈願であるかのように憂悶の振幅をいくたびも繰り返す。
私と関係あるものは、いったいなにであるか。私が触れ、あるいは触れえずに終ったことどものうちで、もっとも本質的なものはなにだったのか。
高橋和巳が、<捨子>という運命的な人間存在の規定から、関係、無関係の血と心情の模索をはじめなければならなかったのは、いかにも象徴的のことである。
外界の悪意のもとに、なぜ、<異形の者>にならなければならなかったのか。<私>は、なぜ、運命に翻弄されながら生きなければならなかったのか。それは自己の呪われた血縁の確認ではなく、あくまで未知な思考の軌跡をたどることであり、固有な存在の陰翳に迫ろうとする内面の検証なのである。そして、深い断層とともに「死の影」や「深い傷」や「ざらついた荒廃感」とともに、絶えず内へ内へと
物語は混沌の闇にまぎれ、夢の痛みに軋む。
むかし、その都市を横断している河が、港湾にそそぐ堤近くに、数えきれぬ小屋の密集した貧民窟があった。餓死や、縊死が日常茶飯事のスラム街に、一組の貧しく若い夫婦が住み込む。だが、実直な二人の生活も感情も、一年たち、二年たち、「悪臭をはなって蝕まれる」ようになっていく。三年たち、四年がたった。やがて、妻は子をはらむ。
祈祷師はいう。
生まれる子は本当は女に生まれなければならない。しかし、不幸にも形だけは男に生まれるだろう。そのまま育てれば子供はきっと不幸になる。なぜ不幸になるかは想像できましょう。異性を愛する力もなく、同性の友情に答える方法も知らないだろうから、ひたすら愛されんことを望み、なんのとり柄もなく、子は屈辱にまみれ、無為の淵に沈み、我と我が身を犯す無益な夢のはてに、息絶えるであろう。
人間の暗い神話的な宿業を負った発端である。
無益なはてに、やがて息絶えるであろう。それはコロスの荘重な託宣のように、現実という地獄の<子殺し>にほかならない。しかし、まだ救いの道はある。祈祷師は、さらに、こう予言する。
生まれてちょうど三日目に、その子を北の方の最初の四辻に捨てなさい。だれか他の人の乳房で育ててもらえばいいのです。拾ってくださる人が慈悲深ければ、人並の人生も送れましょう。
子は生まれて三カ月後、通りの四辻に捨てられた。捨子の儀式にのっとり、老婆がその子を拾う。予言者によればこの運命の子は、
身も心も貧しいがゆえに、彼はたえず空しく憧れ、空しく渇望し、しかもみずからをしか愛し得ぬ二重性のゆえに、つねに豊饒を取り逃さねばならないでありましょう。彼はいつも独りぼっちで生きねばならないでありましょう。彼はその生のはじめにおいて、すでにひとたび見棄てられねばならないのであるから、救われて猶予された生を、長い距離の儀式のように生きながら、辛うじて幻想のなかに憩いを見出しつつ歩まねばならぬ。その子はなにびととも真の関係を結び得ぬように生まれついたのだから。みずから以外のなにびとをも、彼は愛さないのであるから。
ここにある「真の関係を結び得ぬように生まれついた」ということは、アンビヴァレントに血塗られた生を受感しなければならぬ「荒井家の一人息子」である<私>の存在不安の核となっている。それは姉の綾子、妹の美之とともに過ごす幼年時代などの失われた美しい時間と記憶に欺かれた深い傷を負う生の在証でもある。
また、ここにいう<捨子>とは、爆音と火の粉に象徴される空襲と敗戦という時代における小さな受難者のことである。<私>は孤独に、周囲の冷たい視線に晒されながら、愛されることもなくその生を受容していかなければならない。だが、その前に、<捨子>であるゆえの共同体における決定的な非在感が、関係不能の大きな闇となっている。そして残虐な「きな臭い現実」は、根源的な生の回復の希求を無残に削いでいくのである。
現実なんか嫌いだと、私は思った。怖い人、怖い人の心、黒い魂の妖気、それよりも完全に闇と孤独のほうを私は選びたいものだと。
完全な「闇と孤独」がおおっている。
これは高橋文学の不条理な生の通奏低音となっているものだが、<憂鬱な想念の原形>としての貧者の陋路とともに刻印されたかれの原初の闇そのものであった、といえる。
戦争が始まり、「糞ったれめ」と恐怖と憤激を覚えながら避難した防空壕の穴倉で、「私は不意に絶望ということの本質を理解」する。だが、まもなく低く飛ぶ爆撃機によって街は燃え上がり、その瓦礫の跡を群衆とともに幼い兄妹は身を寄せ合い「自分を呪う力も失せてゆく」ように、雨に濡れて蕭然とさまよう。それは「私には身のまとう衣よりも、はてしない憂鬱の巣喰う忌わしい内部がさきに千々に砕けた」というものだった。
焼け跡の廃虚に立ち尽くした少年は恐怖と絶望に駆られ、やがてこの世の<虚無>のありかを否応もなく受感していく。宿命と流転のはての滅びの構図が、この時はっきり確認されたのであろう。だが、かつて<子殺し>の託宣を受けた<私>は、「憂鬱の巣喰う忌わしい内部」に引き裂かれながら、その「忌まわしさ」こそ、自分の真実の姿であることに気づいていかなければならない。
作者はこの『捨子物語』をして「変則的なビルドゥングス・ロマン」であることを表明しているが、それにもまして、すでに「下降する感覚に濃く色どられている」(原文ママ)世界であることには、いまさらながら慄然とならざるをえない。というのも、ここには堕ちゆく虚構の論理とともに、その運命の予見が悪夢のような悲劇的相貌とともにここに迫ってくるからである。
長編『捨子物語』は一九五二(昭和二十七)年、三章までが発表された。同人雑誌『現代文学』(同人=小松左京・近藤龍茂・宮川裕行)創刊号に掲載したものである。この「一種終末観的な形態」の約八百枚の小説が、足立書房から自費出版されるのは六年後の一九五八(昭和三十三)年。さらに、作品集第一巻として多少の訂正と冗漫な不要部分を削除し、新たに発刊されるのは晩年の一九七〇(昭和四十五)年となっている。
この『捨子物語』は作者にとって、何より「愛着のある世界」で、太平洋戦争末期、空襲を受けて一夜にして灰塵にきした大阪の街を背景に、夢物語や童謡や幼いエキゾチシズムが独特の重々しい文体で綴られている。
その後の高橋和巳のありようを考えると、『捨子物語』は甚だ象徴的な意味を持っている。土俗の風習のなかで生誕したかれの、それは文学の運命的な端緒ではあった。
高橋和巳は一九三一(昭和六)年生まれ、生家は大阪市浪速区貝殻町三丁目十三番地。いわゆる<釜ケ崎の子>である。そこは「新世界や飛田遊郭にも近く、零細な家内工業や鶴見橋あたりの皮革製造業の家がごちゃごちゃあるかと思うと、日雇い労務者のドヤや、ミナミに働き場をもつ女給たちのアパートも並ぶ雑然とした町」(沢田潤『高橋和巳の耳』)だった。
生まれたとき、女に生まれるべきところ、男に生まれたからと、実際、儀式的に近くの四辻に捨てられた高橋和巳は、近所の人に拾われて家の門をくぐったという。家業は鋲や蝶番など建築金具をつくる町工場だった。なるほど、その貧民街に隣接した工場街の家は「鳥虫草木に敏感になりうる環境ではなく、また、幼少期に美的な薫陶を近親者から受けるという便宜がなかった」(『私の文学を語る』)のだろう。実に殺風景な環境であり、三歳で西成区東四条に転居したのだが、そこから道路一本隔てた釜ケ崎では博打打ちや酔っぱらいがいつもクダをまいていた。近隣の子供たちが「貧民たちへの蔑称をこめて
高橋文学に登場する人物たちは、必ずといってこのトポス=陋路に迷い込む。その栄光の座を振り切り、ここでなぜか決ったようにほっとして気をゆるめ、やがて帰還の喜びに昂然たる笑いさえ浮かべるのである。
死の淵へ絶えず引き摺り込まれかねないスラムは、「死にとうない、たとえ、業病に下腹や股が吹出物にじくじくと膿んでも、死ぬよりはいい」のだとして、ここから作者の内面のメカニズムはドストエフスキーの『死の家の記録』と二重写しに焙り出されていくのである。
だが、そうした情緒も何もない索漠たる環境とはいえ、現実の高橋和巳は何よりも祖父母、両親の愛情に暖かく包まれ、兄、妹、弟に恵まれた典型的な中流家庭のなかですくすくと育っている。迫り来る戦争の不安のなかで、もともと文学には無縁な三極受信機や模型飛行機の工作好きの少年だった。まもなく、学童疎開で四国の父母の郷里である香川県三豊郡大野原村大字四軒屋に転居。疎開先の三豊中学では「よれよれの服を着、下駄ばき」、ゲートルなしでは上級生に殴られるということで、母の腰巻きでつくった巻き脚絆をつけるという有様だった。靴といえば、熱い焼け跡の瓦礫を踏んで底が抜けてしまっていた。都市爆撃や艦砲射撃は、全国の百五十に近い都市を火炎に飲み込み、一千万人を被災者に五十万人余の人命をうばっていたのである。
一九四五(昭和二十)年三月、B29約百三十機が東京を無差別爆撃、火炎は天を焦がした。焼失は二十三万戸、死傷者は十二万人。その後、名古屋、大阪、神戸が猛爆。路上には焼け焦げの死体がごろごろと転がっていた。終戦で、戻った大阪の街は一面の焼け野原であった。今宮中学(現・今宮高校)に復学する。すべてが、廃虚と飢餓のなかにあった。年少の高橋和巳は茫然と立ちつくし、「一種悲哀」に襲われ、声もでないで佇む。不安と恐怖にどうするすべもなかったのだろう。この時、幼いかれのなかで現世の地獄としての原風景が音もなくひろがっていった。
高橋和巳はおそらくムイシュキン公爵が白痴でなければ存在しえないように、かれもまた、何ものかに狂おしく駆られながらその「形而上学的な悲哀」とともに存在していたのにちがいない。そして、終生にわたって「秘め持っているいやしがたい憂鬱な想念の原形」というものも、こうした一夜にして廃虚と化した街のなかで、静かに醸成されていったのだろう。しかも、原因は分からない。中学四年ごろから旧制の高等学校にかけて、一種の脅迫神経症にかかっている。「死の想念」にとりつかれ、すべての意欲を失ってしまったという。内面の昏がりの地層に泡立つ悲劇の始まりだった。
高橋和巳の思想的原質としての<狂気のニヒリズム>であり、混沌とした内部の不合理性である。
一九四九(昭和二十四)年七月、学制改革により、松江高校から新制京都大学文学部に入学。戦後の混乱期とはいえ清新な学園で、ひときわ目立つ颯爽たる美青年ぶりの高橋和巳は、実に多くの文学仲間をつくっていった。一方で急進的な政治運動に深い関心を寄せながら、埴谷雄高の『悪霊』にとりつかれ、その影響でジャイナ教に凝り下宿部屋に線香を焚いて三日も四日も、ただひたすらに黙想していたこともあったという。
『捨子物語』は美之の死とともに、その暗い宿命を断ちきろうと決意するところで終わっている。かつて港湾近くの路地に捨てられ、人の慈悲と偽善に育まれた<私>の、恥多い幼年期との、それが完全な訣別だった。だが、はたして「完全な訣別」だったのか。
2
一九六二(昭和三十七)年、高橋和巳は『悲の器』の第一回文藝賞受賞を契機に、いわゆる文壇ジャーナリズムに華々しく登場した。
それは、あたかも「花道から六方を踏んだかのような華々しい」かたちだった。友人仲間たちは、「和巳ちゃん! カッコいいぞ」というような冷やかしと喝采をさかんに浴びせた。当時、立命館大学文学部講師で、意に染まぬ中国語の講義を持たされ、時に教授会や授業をサボるという奇行の持ち主でもあった。一目惚れで一緒になった妻の苦労も意に介せずひたすら執筆にふけっていたのだが、この受賞を機に大きく環境が変わる。
六〇年安保闘争から七〇年代へ架橋する時代——長編小説『悲の器』は、インテリゲンチャの全体像を根底的に真正面から問いかけ、その破滅に向かう葛藤を描いている。
妻を喉頭癌で亡くした某大学教授正木典膳(五十五歳)は、最高裁判所判事である友人の媒酌で恩師の令嬢・栗谷清子(二十七歳)と再婚することになった。ところが、家政婦米山みき(四十五歳)により、地方裁判所に対し、不法行為による損害賠償請求が提起される。これに対して、正木は名誉毀損で告訴した。「一片の新聞記事」はスキャンダルの輪をひろげ、正木への轟々たる非難をまきおこしていく。それは実に喜劇的な事件ともいえる。若い二十七歳の栗谷清子に肌温かい休息のある新たな日常生活の夢を思い描いたとき、老獪な正木典膳は、一つの復讐とともにその運命を甘受しなければならなかった。中年の脂肪に被われた家政婦に「墜落するような不自然な愛」を表現し、「悪魔のように肉を求め」たことが、何も<墜落>のはじまりではない。
学問と思想が弾圧された昭和初期、純粋法学者宮地教授のもとに集まった若い正木典膳らの仲間は、つぎつぎと大学を追われ挫折していった。正木は検事になることによって、権力にはむかうことを避け、階級、民族、国家を包含した普遍的な法の理念をうちたてようとする。だが、それは「隠微な内部の転向」であることは、誰よりも自分がいちばんよくわかっている。なるほど、検事局ではマルクス・レーニンの研究が自由であり、確信犯問題研究会では、アナルコサンジカリズムの思想とその運動の実態、レーニンの暴力革命説、プロレタリア芸術運動の経緯、左傾学生の環境調査一覧、諸外国における国事犯の比較、大逆事件と二・二六事件の公判ないし秘密裁判記録の考察などが、局内の有志に高検の検事や大学教授がメンバーに加わり自主的に研究運営されていった。そして、戦後はアメリカ占領下における憲法懇談会の一員。やがて、大学に復帰した正木は画期的な現象学的刑法理論を確立し、法の普遍性・永遠性を説く絶対的な権威者となっている。だが、正木典膳の<転落>は、権力との対立から目をそむけて現実とのたたかいから逃れ、法という名のもとにおける観念世界の構築に向かったときに、すでにはじまっていたのではなかったか。
かつて久しく私は法の科学を学び、その研究を積んで、様々の意見をのべ、一つの理論をも構築してきたが、それらは、ありうべき理性の栄光として価値を付与されてあるとはいえ、従来、たった一つの具体的法案ともならず、また猪突する国家の方途を是正する、たった一つの力をも持たなかった。だが、いま、私は学会の重鎮となり、私が強く、合理的に主張することは、間接的、部分的ながらも、現実化される可能性があった。長年の、汲々たる努力のすえに、私は、私の理念を現実化たらしめうる段階に達していた。その自らを神の位置におく理念の絶対者は、狡知と悪意にみちた現実を冷たく拒否する。なぜなら、それこそ、侮蔑すべき一貫性のない汚辱にみちた現実に、一度は敗北したという逆照を意味しているからである。
名誉棄損の訴えというスキャンダルによって、「理念の屠殺場」である現実に引き出される。そのための思惟の動揺を、「専門の領域、学問の世界にまで波及させないよう」努力していく正木典膳はますます窮地に落ち込んでいく。
カトリックの神父である末弟の規典は、或る日曜日、教会に訪ねてきて「人類の救済など空しいことを考えんでもいい」とつぶやく兄の正木典膳に向かっていう。
「兄さんは、幸運な人生を送ってこられたから」
「幸運?」
「何も頼りえず、ただ、裸の肉、そしてその内にひそむ精霊を見詰めてしか生きることのできぬ経験に恵まれなかった」
「それはただ自我だけを、他の人間の社会の諸事実から切りはなす非合理を許せなかっただけにすぎない。どんな原始的感情にも、ただわれひとりのみ、というような感情はありえないんだからね」
「やはりまだ、暗い谷をお歩きになっていられる」
「裸の肉、その内にひそむ精霊」について、私には何もわからない。だが、そこで末弟がいおうとしていることは、内部の精神の闇を否定した絶対的な合理のもとに生きることの悪を衝いているということである。人間の歴史の普遍と理性も、絶対矛盾をはらんだ悪なるがゆえに、現実の側から罰せられなければならない。
兄を弾劾する末弟は、さらに、「あなたはむしろ自殺すべきだった。『悪霊』という小説にでてくるキリーロフのように、神をいとなまれる以上は、自殺されるべき人間だった」と言って、兄に迫る。
しかるに、あなたは誠実に生きつづけられた。あなたが偽善者であってくれたほうがよかった。あなたが単なる裏切者、偽善者であるならまだしもよかった。リベラルな態度、中正な法解釈、穏健な保守主義を身にまとい、いままで人々の信頼を得、地位を獲、しかも自己に誠実に生きつづけられた。(略)あなたは、何人の介入をも許さぬ審判者となり、憐れみつつ人に慈悲をたれる絶対者になった。いや、ならねばならなかった。
あなたは、神のごとく薄笑いしながら、いままで何人の心貧しき人々を、何人の使徒を、何人の異教徒を<試し>たか。
この痛烈無斬な批判は、はからずも、正木典膳という人間の誠実であるがゆえの悪意を深々と抉りだしている。ここでいう<試し>のために、家政婦は肉体を踏みにじられ、「わたくしって何も知らないでしょ。男女のことも、なにも知りませんの」と無垢な恥じらいに微笑む若い婚約者は凌辱されようとしており、そして、妻は愛なき結婚の犠牲になっていったのである。
学問的信念に徹する正木典膳は、現実的には生涯にわたる「暗い谷」を歩いてきていたといえる。恩師の姪である妻はガンにおかされ、
私は友情の名において、他の力によってではなく、君たちの苦悩する地獄へと、君たちをたたきのめすために赴くであろう。私たちは格闘し続けるであろう。人間が人間以上のものたりうるか否かを、どちらかが証明してみせるまで。さようなら、米山みきよ、粟谷清子よ。さようなら、優しき生活者たちよ。私はしょせん、あなたがたとは無縁な存在であった。
生きよ、虫けら。
それは、汚辱の現実世界の虚偽を拒否する最後の叫びである。と同時に、死せる富田や荻野の遺稿を読む正木典膳は、自らの学者としての生の虚偽に気づく。つまり知識人の公式主義が虚無化させた世界からの断罪であり、自己処罰であるということである。
小説は安易には読み飛ばすことができない。緊張感に溢れ専門論文のような硬直した文章で、引用される諸観念は厖大な法律条文にもとづく。「あとがき」によれば、ヘーゲル、イエリネック、ラードブルック、滝川幸辰、横田喜三郎、熊倉武等をはじめとした法律学の資料や著述をベースに、日本の現代史や精神史を克明に描いている。まさに神なき風土に「さらに意欲し、思念し、想像し、実験しうる頭脳」による深遠厖大な抽象と思弁が展開されている。
作者は、ここで「転向の問題や個人の精神と時代の精神のかかわり」を書きたかったという。
<悲の器>という小説では愛と権力、存在と理性とのせめぎあいを一法律家の悲劇を通じて追求しているわけですが、しかし僕の問題意識のなかで占める順位は、転向の問題や個人の精神と時代の精神のかかわりあいの側にむしろあったことも事実です。
それは戦後の進歩思想に対する批判とともに、時代の精神のなかで無惨な宿命を負って敗北していく人間のエゴイズムを徹底追求するということである。
論理構築された正の世界から下降する絶望、荒廃、破滅、転落、悲惨という根源的モチーフは、高橋和巳の作家の誕生とともに、周知のように、終生、その文学に色濃く貫かれている。いってみれば、それこそ恐怖と絶望の思想的原質であり、作家はまぎれもなく処女作に向かって成熟していくものなのだろう。それが成熟と負の贖罪の地平への限りない歩みの第一歩であったことが、いまにしてよくわかる。
そして、現実的には、全共闘運動における<共苦の観念>が、やがては悲壮な解体へとなっていくのであるが、それは皮肉にも、文壇デビューを飾った時点ですでに自明の理であるかのような形になっている。
それにしても、『悲の器』を読んでいくと、死せる富田や荻野は『憂鬱なる党派』に登場する人物に酷似し、さらに正木典膳の動揺と憔悴は紛争のつづく学園で「卑劣漢!」と数人の学生に罵られる晩年の『わが解体』場面に通じていることがよくわかる。
『憂鬱なる党派』は、一九六五(昭和四十)年に発表された。同人雑誌『VIKING』に一九五九(昭和三十四)年八月から掲載が始まり、第七章まで進み、これを大幅に補正し書き直された。大学時代の交友関係を基礎に、「敗戦の苦痛はまだ癒えず、しかも新しい理念は形勢されないままにお互いに角逐し、分裂し、やがて諸共についえ去った憂鬱な青春」(自作広告文)であるこの小説は、通算八年が費やされている。
その運命共同体ともいえる学園で革命運動をこころざした盟友たちは、現実社会の壁のなかで挫折し、狂気に駆られたように破滅していく。子(思想・行動=理念社会)は、父(社会・組織=利益社会)との
主人公の西村恒一は、広島の原爆で死んだ三十六人の平凡な庶民の列伝を書いた原稿を出版するために、郷里の広島の家に妻子を残し、大阪・釜ケ崎に住み着く。それは「褐色の憤怒にかられて逸脱」した子の純粋な論理である。そこから、かつてK大学で共産党員であり、その同調者であった文学哲学会のメンバーであった友人たちを訪ね回っていくことになる。同志はいずれも、朝鮮動乱以降の学園で、破防法やレッドパージなどの政治にかかわって深く傷ついた青春をひきずっている。
友人の時田には「不思議に君があらわれると、その場所に不幸が起る。目に見えて破局にならないまでも潜伏していた矛盾が露見し、避けられる緊張までが、どちらかが斃される以外に方法はないという対立までたかぶってしまう」と西村はあからさまにいわれる。確かに、そのとおり狂言回しの西村が遍歴と行脚のなかで見たものは、空回りする議論と愛憎のはてに、いずれも雪崩をうつかのように破局していく盟友たちの姿だった。
もういい。もう充分だ。苦しみや失策を試練と思い、その稚気も消えた。一つの認識が、その正しさゆえに人々の心を撃ち、世を動かすという夢想も消えた。世の中が暗黙のうちに定めている法則から、思いたかぶって足をはずした自分が青臭かったのだ。もうどうなってもいい。どうせ、俺は、ひとたび<断念>し、まともな人間の道からずれてしまったのだ。
スラム街で呟く西村の<断念>というのは、あまりにもぞっとするように荒廃しきっている。それにしても、大学をでてから七年、平穏なサラリーマンコースを外れ、妻子からも見放された男は、なぜ、なぜかくも「閉ざされて行くみずからの未来」に拘泥しなければならなかったのか。なぜ、古在は「すすんで敗北し、すすんで破滅」しようとするのか。なぜ、藤堂は「人間には、未来に何かを思い浮かべることによって生きる生き方のほかに、いまひとつ、未来の扉を閉ざしてしまうことによって辛うじて生きる生き方もある」といったのか。なぜ、日浦朝子はかつての恋人から、「僕たちの青春は<予想>してもだえるのではなく、事実上<知って>しまったためにケガれている」と詰め寄られなければならないのか。そして、なぜ細胞のキャップだった岡屋敷は、一つの思想体系になおももたれかかりながら、「どうせ滅びてゆくおれには仲間はいらぬ」と絶望的に身を投げ出していうのか。
そう、それは彼等の青春は「亡者の会議」とともに始められたからだった。いってみれば、それが彼等の政治的人間としての自覚であったことを告発している。その政治的人間としての自覚が、世の生活者ならば静かに耐えて営むべき生を、「人間の道」からずれてしまうところまで自己を極限化しているということであるのだろう。その政治的思考の洗礼を受けた者は、原罪のように苛酷な闇を背負っていかねばならない。
この物語の背景には、激動の時代の絵巻が連綿としてある。
まず朝鮮戦争が勃発するとともに、共産党への弾圧を皮切りにレッドパージが吹き荒れる一九五〇(昭和二十五)年、翌年の講和条約の調印。日本共産党のコミンフォルム批判に発した国際派と所感派の抗争分裂。そして、日本の解放は「平和の手段によって達成しうると考えるのはまちがいである」とした五一年綱領による暴力的・非合法闘争の組織と実行。さらに、五二年には血のメーデー事件が起こり、吹田事件、各地における火焔ビン騒擾事件となって爆発。その結果、破防法が成立している。こうしたなかで、社会変革の理念をかざした同志たちは、国家権力にはむかって血を流し、逃げ回って敗北し、その内面的真実としての罪と罰にさいなまれる。
かくて、小さな業界紙に勤める古在は会社の合併問題がこじれ、「すすんで敗北することを欲し」て、消息不明になる。絶望的な放蕩のはてに、藤堂は勤め先の保険会社の使い込みで獄中自殺した。同じく火焔ビン事件の被告の村瀬は、裁判所の前で喉を短刀で突いて自殺。また、「漬け物臭い」貧しく無力な母親のもとに身を寄せる岡屋敷は長い病床生活の末に死に絶え、西村の恋人だった日浦朝子は疲労困憊したまま、結婚という小市民的な結婚に空しく逃れる。ただ、こうしたなかで、青戸俊輔だけが学者として、知識人の負う「抽象的な痛み」とともに、己れを象牙の塔に閉じ込めさせることによってからくも破滅からまぬがれている。
そして、「君が現れると、いつも決って不幸なことが起きる」といわれる主人公の西村のやった行動的なことといえば、「逃げるな、日雇ども!」とスラム街の暴動にまき込まれながら、「たたきつぶせ! こんな町は全部たたきつぶしてしまえ!」と、叫び続けていったことだけだったのかもしれない。そして、貧民窟街で三十六人の被爆者たちの念願の本を出すこともなく、娼婦に見とられながら白血病でのたれ死んでいくのである。
「・・・・あなたは愚劣な女なのであり、この世が愚劣であるように愚劣なのです。・・・・そして私もまた、自らの愚劣さのゆえに、この世の愚劣さとともにあり、そして遂に何の破壊力も持てぬまま、黙って・・・・、そう、黙って死んでゆくでしょう・・・・」と。
『憂鬱なる党派』を読んでいると、その生活環境の規制した資質の問題とはいえ、「夜毎の暴飲、酒乱」「どぶ鼠のような深夜の彷徨」、「歪んだ好奇心」、「不自然な快楽」、「際限のない欲望」、「互いに皮膚や粘膜をこすり合わせる不潔な馴れ合い」、「不浄の言葉や醜悪な情景」、「長い飛翔と墜落の感覚」というような生理的悪寒にたたきのめされる修辞の世界がこれでもか、これでもかと重複して身を苛む。その青春が実践した倫理の底には、格別に驚くにはあたらぬ過剰な鬱積がある。いや、枯渇と混乱であったのかもしれない。
一九三〇年前後に生まれ、帝国主義的侵略の時代に、天皇制とファシズム独裁下に育くまれた世代は、全面的に「赤い世代」である(小松左京『同人雑誌の意義と任務』——『対話』第四号所収)。高橋和巳が一時ささやかれていたように、実際に共産党に入党したか。非政治的な学生として、そんなことには関心もなかったのか、むろん私の知ったことではない。
当時、京大青年作家集団を率いて、早くから「職業作家」になることを表明していた高橋和巳は、同じ文学仲間のなかで三浦浩・桝田早苗・北川荘平・宮川裕行らの芸術派とちがって、日共京大細胞L班の一員である豊田善次・太田昭和らに混じり、もっぱら社会主義リアリズム派であることを標榜していた(三浦浩『記憶の中の青』)。だが、仲間うちではもっとも年少で、書物好きの内面派で、酒を飲んではクダをまき、よくワンワンと泣いた。
その高橋和巳が何よりも陰惨な小説を書いていた。
「あそこでは高橋だけが使える」
そこに猛烈なクランクションを鳴らした小松左京、近藤龍茂が踊り込んでいったということは、すでに伝説的事件となっている。
おりしも、京大天皇事件(一九五一年)が起こり、つづいて破防法反対闘争(一九五二年)が起こった。こうしたなかで、学生運動の分裂抗争とともに、スパイ・日和見・裏切り・つるし上げ・除名などがめまぐるしくつづく。それが当時の学園の現実だった。こうしたなかで、破防法反対闘争に加わり無期停学処分を受けた京大青年作家集団の一員であり、同じ中国文学科の学友のために、高橋和巳はただちに処分撤回のハンストに入る。それは実に鮮やかな態度表明だった。だが、なぜかそのハンストが三日で切り上げられたのには、ひそかに行われた高度な<戦術的マヌーバー>とやらがあったようであり、『憂鬱なる党派』はそうした時代を背景にした自らの分身としての青春群像を描いている。しかも、ここにはその本源的な敗北や逃走から死へとひた走る<子>の負った業苦と汚濁を描き切ることにより、反語的に青春それ自体の悲劇的カタルシスともいうべき浄化作用をはかっていたということも忘れてはなるまい。
なお、少しくつけくわえていっておくならば、高橋和巳には、大阪で町工場を営む<家>に対して、常に決定的な負い目を持っていたということである。急速な日本近代化の波とともに、地方から都市に流入した実直な大衆は、日々、営々とささやかな生計を立てていた。それは貧困ゆえに隷属と屈従に耐えるということでもあるが、香川県から故郷離脱してきた高橋家もその例外ではない。兄は進学を諦めて家業に専念していた。そうしたなかで、京都大学で中国文学を学び文学活動にいそしむ高橋和巳は、自分が知識人たる選良であればあるほど、<家>を裏切っていく。つまり、インテリゲンチャの存在は屁のようなものである、という背景を引き摺っていかねばならなかったということである。
『日本の悪霊』は『文藝』に断続的に掲載され、二年十カ月という困難な歳月が要された。これは『憂鬱なる党派』と、結果的には同じモチーフのもとに書かれている。作品集第六巻に収録するに際し、大幅な加筆訂正が加えられている。
父を知らず、母と妹を犠牲にして大学にすすんだ主人公村瀬狷輔は、革命的党派に属するが、党の方針転換より除名される。そこで、鬼頭正信を頭領とする仲間とのあいだに計画が発案され、その決行プログラムが着々とすすんでいく。かくて、実行部隊は大地主の伊三次家を襲撃、殺害し、大金を奪って逃走する。それは家人たちより自分たちが、「恐怖に小さく悲鳴」を上げた一瞬の光芒だった。
八年間、無頼の徒になりさがった村瀬狷輔は、「母を捨て、妹を棄て、情婦を棄て、子供を棄て、朋友なく、師なく、美にも崇高にも心閉ざし、ただその夜の食と寝室のために働いてきた」のだった。こうして、山村工作隊者の一員として成功した蜂起から、長い逃亡の末に、自己を獄につなぐことによってその有罪性を証明しようとする。それは国家を否定し、うち倒したはずのその国家による裁きの希求として、幻想としての行為の逆証明を意味している。
「政治はいつの時代、いかなる体制下においても、少数者による多数者に対する圧制であり、支配であった」という僧侶くずれの鬼頭正信の工作は、できるだけ残酷かつ徹底的に、いかなる変革もまずその少数者を倒すことからはじめることだった。
放っておけばいつまでも無明の世界をさまよう者の悪しき因縁を絶ち、往生させてやるのはむしろ菩薩の
しかし、地主伊三次膳内を暗殺した時点で、無として「消え行くのみ」だった村瀬狷輔は追憶のなかの幻想にも欺かれていくのである。彼は荒涼たる世界に投げ出されたまま、
黄金の未来、輝かしい理想など、この世にあってはならない。偽瞞の世界、夢想の世界にすら、それがあることは許されないのだ。
と友愛や信頼、肉親愛や敵への愛など総じて人間性なるものの弱さを否定することにより、徹底した自己の論理を貫いている。
ここで作者は、日共および赤色テロを媒介に政治悪に迫ろうとしている。だが、不可避的な人間の属性としての政治を極限化していった時、書き進めていくなかで「暗殺やテロリズムの問題」が大きくたちはだかった。したがって、長編評論『暗殺の哲学』が、その構造的な打開策として体系的に論述されているものといえよう。ここには、『史記』に描かれた夥しい暗殺者の群れ、革命前ロシアのアナーキスト、「人民の意志」党員、エス・エル戦闘団、あるいは日本における血盟団の井上日召。さらに、五・一五事件の後藤映範、二・二六事件の磯部浅一らのことなどが取り上げられている。
暗殺者たちは、累を使嗾者や依頼者には及ぼすまいとして、暗殺が完成した瞬間にみずからも死ぬ。いや暗殺をひき受けた瞬間から、彼らはすでに、<死者>ですらある。
ことはテロリズムの問題であり、一歩踏み外せば精神において奈落に陥ることであったであろう。なぜ、人を殺さねばならないのか。苦悩する村瀬が、結局は暗殺行為を正当化できる論理を持つことはできない。つまり、「人間にとってもっとも汲みしがたいものは人間であり、人間の精神である」(『暗殺の哲学』)からだった。
それにしても「女ども・・・・」と、私生児として生まれた村瀬狷輔の悪魔的な生活と、空虚な憤怒ゆえであるように女の官能、女のエゴイズムに向けられる呟きは、何という呪いと穢れに満ち満ちていることだろう。一瞬の光芒ゆえに裂かれた影の領域でひたすら自己同一の確証を手探りながら、腐食してゆく内部にかれは憎悪をたたきつける。
この日本の風土に神は存在せぬ。それは多くの文化評論家があるいは小気味よげに、あるいは憂い顔で囃し立てる通りだ。そしてそれ故に、この風土において、男を破廉恥にしてゆくもの、それは女なのだ。生れながらにして善人でも悪人でもない人間を、手玉にとるように悪へひきこむことができるのは女しかない。女の愛、女の身勝手、女の体臭、女の官能、女のエゴイズム。すべての悶着、すべてのいざこざにも絶対に自分が悪いと思うことはなく、その白い肌のなかに堂々たる充足感と奸知と自己満足を溢れるほど蓄えているもの・・・・。嘘をつき、泣きわめき、媚を売り、男を欺き、世を欺き、しかも自分自身は本質的には傷一つ負わない存在。どんな矛盾も日常化し、どっぷりとそれをのみこんで平気な存在となる。
女ども。ほざくな、女ども。
その罵倒は、理想から墜落した男の絶叫というより、産み落とした母の愛に飢えた男の渇きでもある。だが思えば、高橋文学に描かれる女性の多くは、何と穢らわしく沈鬱な属性であろうか。彼女らは、時に男を堕落させる悪の対象ともなる。
ちなみに、『悲の器』の妻の静枝は死臭を放ち、『堕落』における有能な二人の秘書の肌はただ青木周三の不可解な肉欲のためにだけ晒される。『憂鬱なる党派』で子供を置き去りに妻に逃げられた西村は、不感症な日浦朝子との過失に「激しい墜落感」をおぼえ、小谷明子は性器を岡屋敷にまさぐられるためにだけ存在し、藤堂要の愛人の松下久美子は性の営みに疲れてただ海面のように眠るのである。このように男にとって、常にその存在はセクシュアリティをもつことなく、転落的な悪の対象となっている。結論を急ごう。とりもなおさず高橋和巳にとっては、「男女の肉の交接が、陽の屈辱と苦悩、陰の諦念と無関心から抜けきらぬかぎり、不運は存在し、原理とその罪は生活の下層につねにただよう」(『捨子物語』)ものであり、また、「通俗的フロイディズムが教条的スターリズム以上に、文学を汚すこと」(『<性>的素材主義批判』)にあったからであろう、と思われる。神々しい微笑をたたえるソーニャは永遠に現れないのである。
埼玉県で起きた「横川事件」を素材にした『日本の悪霊』は、むろんいうまでもなくドストエフスキーがネチャーエフ事件をもとにした『悪霊』のピョートルと五人組、シャートフ、キリーロフ、スタヴァローギンの一群の登場人物に負っているところが大きい。困難な作業をともなったあげく、作者は結局、『日本の悪霊』を、『憂鬱なる党派』の系列に属する作品として書き上げている。
3
思想の相対性を前提にした時代精神のありかを問いつづけ、日本の精神風土の奥深くにかくされたものに固く結びついた「日本的ラディカリズムの心性」を読み取り、そこに深い関心を寄せたのは磯田光一であった。
また、高橋和巳の喉元に拭い切きれずに突き刺さっていたその「日本的ラディカリズム」を反証するかのように、一気に書き上げられた『散華』(「文藝」昭和三十八年八月号)、『堕落』(「文藝」昭和四十年六月号)に、誰よりも刮目したのは桶谷秀昭であった。これら同世代の文芸評論家は、いずれも民族の存亡にかかわった日本近代精神の深淵に迫る作品に注目した。
『散華』の元特攻隊員で電力会社の社員である大家次郎は、鳴門海峡にある孤島の買収のために、その島に隠遁している中津清人に会う。
かつて、個の自覚的消滅による日本民族の再生を期し<散華の哲学>を説く中津清人はもともとファシトスであり、大陸浪人だった。欧米の東洋侵略を目の当たりにして、日支事変中はもたつきながらも汎アジア主義の立場をとるようになる。つまり、「ヨーロッパ近代のヒューマニズムや民主主義なんてものは、みなハッタリだ」というわけである。それが大東亜戦争になってから息を吹きかえし、<散華の精神>を唱えて颯爽と踊り出る。北一輝や大川周明につぐ論理的人物として、プロレタリアートが富者の特権を略奪する権利をもつように、国際関係においても、貧者は略奪により富者の特権を略奪する権利がある。ゆえに、国内体制を全体化して軍事力を背景に大陸の半植民地地域に分割介入すべき、帝国主義国とファシズム国との死闘論を展開している。
老人は、自分が国家主義者であったことについて頬に涙を流しながら、こういう。
国家主義者にとっては、その国の伝統が、つまり精神が唯一の拠りどころだ。それゆえにわたしはそれを説いた。精神の物質に対する優越を懸命に説いた。だが、わたしは、わたしが期待をかけた兵士たちと運命をともにしなかった。わたしは、 わたし自身が理論づけをしておきながらその理論の要求する生き方と死にかたを充分にはなしえなかった。(略)
たしかに、わたしは、ひとたび個体としての幸不幸を忘れ、快楽を忘れ、夢を棄てて、民族の運命に殉ぜよと青年たちに説いた。生はその人の死に様によって評価されるとも説いた。わたしはいまも倫理的には、中国に対する侵略と、米英の圧迫への反撥は区別せねばならぬと考えている。しかし、わたしの説いたことは、わたしの説得力のゆえならずとも、青年たちによって実践された。
戦争が終わり、中津清人は孤島に隠遁している。<死の哲学>を説いたかつての国家主義者はつぎのようにいう。
わたしは軍人ではなかった。そして、その後、国家の禄を食んでもない。わたしは、思想家として自分を罰し、思想家として死んだ。(略)世間的思弁の残滓が「わたしにもこびりついていて、わたしを苦しめるかもしれぬ。(略)快楽も苦痛も、わたしは人に売りわたしたくない。そして髪の毛一本なりとも、国家のためにも、階級のためにも使いたくないのだ。わたしは、国家を、世界を、民族を、聚落を、人類を拒否する。
亡国とともに自らの思想が滅亡したという論理は、すべてを拒否した虚無的アナーキーとしての戦後状況を、この元右翼理論家にもたらしている。言葉すら忘れてもいい。この海の孤島で、自分には鴎の叫びがわかる。猫の意志も理解できる。すべてを拒否することによって、老人は自立する自らの<思想>を全うしている。
戦後十七年、経済成長の一翼をになう企業内エリートとして活躍する大家は、敗色の濃い時代に「心情的に純粋ファッショ化」した少年期を送った。欧米の植民地支配を脱してアジアに新秩序を確立するという大東亜共栄圏は、アジアにおける民族解放の理念の先どりしたものともいえよう。だが、元特攻隊員として、死も覚悟した青春をおくった大家は老人の前に決然たる態度で立ち向かう。
心を襤褸のようにもみくちゃにされることもなかったあなたを、少なくともわたしたちは殴りつけ、たたきのめす権利がある。そして、あなたは非転向を誇る。首尾一貫を固執する。だが、そうじゃないだろう。あなたは煽動しただけだ。見ていただけだった。いったい何をしてきたか、分かっているのか。<ウル・ロジック>の煽動者であり、傍観者であった老人を厳しく批判するのである。その二人の相対立するものは、戦後状況の虚妄と空白がなおざりにした<思想>の弁証法的な展開にほかならない。
命を絶った「尖鋭な国家主義理論家」中津清人の残した粗末なノートには、一週間の出来事がつぎのように記されていた。
X月X日 晴天、海あおし
X月X日 今日もまた晴天、海あおし
X月X日 今日もまた晴天、海あおし
X月X日 晴、海蒼し、風吹く
X月X日 晴、海蒼し
X月X日 ああ、海よ
X月X日 海
簡単なその記録のなかに、戦後十七年という海の色の蒼さが匂っている。
「わたしにとって、国家は必要でない。わたしが、どの民族の一員であるかということも、海の音以上の意味はもたない」という中津清人の自立した思想の放つ輝きである。自らに殉じた思想の不滅こそ、無責任な戦後の進歩派のタブーであり、その深淵に踏み込んだ高橋和巳の、それは灼きつくすような日本浪漫派の感性の一駒だったのであろう。また、そういう意味では、中津清人が北一輝をモデルにしていることに不満を投げかけながらも、精神史上の系譜から、高橋和巳が保田與重郎、竹内好といったものの延長線上にあると指摘する松本健一の慧眼(『堕落への情熱』)にも、私は強く興味が引かれる。
この国家主義者中津清人が拠って立とうとするものについては、さらに、『堕落』の主人公である青木周造に通じる。『堕落——あるいは内なる曠野』は「文藝」(一九六五六月号)に発表された。
混血孤児収容施設である兼愛園の園長・青木周三の堕落は、ある新聞社の福祉事業団体賞を受けた時に始まった。
なぜ背徳漢と罵らないのか。あの一つの愚行、あの気のゆるみ、あの狂気のために、戦後十八年間の彼の努力はすべてふいになったとなぜ宣告してくれなかったのか。黙って耐えしのび、すべてを不問にふして守らねばならないほどの価値が、彼の事業にあったのか。
青木周三の内面が静かに崩壊していく。それは彼の人生が虚妄に過ぎないという、これまで秘められていた狂気がしだいにあらわになっていくことである。
戦前、青木周三は東亜同文書院を卒業。満鉄社員として上海より満州にわたって当時の満州青年連盟のメンバーになり、理想実現のために献身した。大日本帝国の一員として、政治的策謀や陰謀をめぐらせ、軍閥による「幻の国の建設」に青春のすべてを捧げたのである。
この歴史的背景は一九三二(昭和七)年、満州における一連の作戦により、張学良の勢力を駆逐した日本軍は、軍部指導下に自治運動を展開。満州独立国案が国策として決まり、国家主義運動の指導者である大川周明が、その“新国家案”として「満州新国家の建設」を発表。同年三月、清朝最後の皇帝である愛親覚羅溥儀を執政とした建国宣言が発せられ“王道楽致土”“五族協和”をスローガンとする新しい国家が誕生している。一方、国際連盟では、満州事変を日本の侵略であるとしたリットン報告書に松岡全権大使が反駁。翌年には連盟を脱退し、日本は国際的に孤立を深めたが、軍事的・経済的に巨大な拠点をつくることに成功した。
だが、敗戦とその直後、『堕落』の青木周三のいうように、十七万人の開拓民のうち八万人が凄死。かれが引き連れて逃れた七百余名の開拓団民も、生き残ったのは四十数名。参戦したロシア軍が国境線を突破して怒涛のように押し寄せた時、関東軍は開拓民に開拓村の死守を命じておき、開拓団民の逃亡を護衛することもなく、日本軍師団は立ち去った。かれは二人の子供を見捨て、飢えと恐怖の曠野をさまよう。満員の列車に飛び乗り、南へ、そして東へと逃げ回る。捕らわれたくない! 少なくとも別な国家の名において裁かれたくない! かくて、かれに待っていたのは極寒のシベリアの捕虜収容所であった。
それにしても、なぜ、<悲哀>の涙を流したのか。
敗戦の日、国家人として死に、自分を慰めて戦後を生きてきた男の内には、「むらむらと燃えあがる怒り」が充満していく。かれは公金を使い、二人の秘書女を同時に犯し、酔った路上でからんでくる甘やかされた若造を、「見ておけ、本当に人を殺すとはこうするものよ」と、一本の洋傘を銃剣のように持ちかまえて突き刺す。しかも、不敵な微笑さえ浮かばせながら、日雇いたちの群れる狭い居酒屋で酒を飲み、阿片窟を捜して彷徨する青木周三の姿はあまりにも凄まじい。国家にも、共同体にも、家庭にも裏切られ、また冷酷なまでにすべてを切り捨ててきた男。だが、かれは一片の国家批判もなしえぬまま、無惨に自らを牢獄に投擲する。
ポツダム宣言の受託と占領によって始められた戦後平和と民主主義とは、そもそもいったい何であったのか。戦前の大東亜共栄圏、それは単なる葬られるべき軍国主義とファシズム体制だったのか。くわえて、それら戦前の無責任な指導者の責任を戦後日本の平和ムードの実態はことごとく回避してきた。はたして、これでよかったのか。いや、ここに戦後の虚偽と欺瞞がある。これこそ暴かれねばならぬ。青木周三にはその虚偽と欺瞞が手に取るように分かっている。ゆえにこそ、かれの絶対化され、美化された幻の国家によって、自らは呪詛され、憎悪されなければならない。
だが私は主張する。私を裁くものは国家であることこそ望ましいと。宗教でもなく、良心でもなく、道徳でもなく、この東方の小島の上に君臨する権力、一たび世界性を持とうとし、もろくもついえた国家であるべきだと。なぜなら、私の青春のすべては文字通り、幻の国の建設に捧げられたのだから。(略)さあ裁いてみよ。国家を建設するということがどういうことか、国家とは何であるか、あなた方に解っているなら、裁いてみよ。国家の名において裁いてみよ・・・・。
国家とは何であるか。老いた青木周三の堕落の行程とともに、その問いはあまりにも重くて、深い。藤井省三によれば、この『堕落』は高橋和巳に陰画の狂王青木の物語の筆を執らせたものであろうという。そして、「『堕落』が鋭くも指し示した暗喩としての満州国という認識、これを受けてさらに九〇年代の日本とは未だ滅びぬ満州国であるという視座に立つことが可能であるとするならば、私たちの思念は確かに一歩踏み出し得るのではあるまいか」(『暗喩としての満州国』、『文藝』一九九一年八月号)と指摘している。
青木周三の<裁き>とは、ほかならぬ戦後の空洞化した思想へのイロニーであったことは論を待たない。
この頃、高橋和巳はもっとも清新の気に満ちていた。
気鋭の新進作家として、精力的な執筆活動に入っている。「二足の草鞋を履いてもいい」という大学側の要請も断り、立命館大学文学部講師を辞職(一九六四年十二月)。かつての文学仲間を糾合して、同人雑誌『対話』の復刊にもなみなみならぬ力を傾けた。そして、念願の上京をはたす。それは作家生活に専念するということであった。静かな庭付きの鎌倉の家に住み、多忙な執筆生活の傍ら、明治大学文学部に唐木順三の招請によって助教授として迎えられている。
一九六五(昭和四十)年一月、『邪宗門』が満を持して『朝日ジャーナル』に連載される。編集部は何千枚でもいい。書きたいだけ書け、といった。
4
忽然と現れた不吉のかげであるかのようだった。
胸に遺骨壷をつりさげた少年が、ふと雨上がりの細長いプラットホームに降り立つ。『邪宗門』の序章の導入部はいかにも印象的である。著者がいうように、ここには『捨子物語』の主人公の「後年のありうるべき姿」の一端が根強く反映されている。物語の発端は、都市の貧民窟で育った運命的な少年が、母の肉を食らって生き延びるというそのこと自体の罪から逃れるかのように、丘陵に囲まれた城祉の神部の教団に流れつく。
雪をば食うたとて腹さふくれぬ
松笠列べいて墓でも作ろ
俺等の村は
泣ぐな、泣ぐな
松笠列べいて墓でも作ろ
泣ぐな、泣ぐなと掠れた小さな声でうたう歌には、飢餓が襲った村で生き延びた少年の悲しみと怨念がべっとりとまとわりつく。国家、歴史、宗教が本来的にかかえたルサンチマンそのものなのだろう。
安政二(一八五五)年生まれ、横暴な二人の夫と死別し、六人の子供を失った下層農民出身の寡婦行徳まさは、特異な神霊能力で祈祷し、信者を拡大していき、明治半ばにひのもと救霊会の開祖となる。
教団の根本要諦は、三行・四先師・五問・六終局・七戒・八誓願をいう。すなわち、<三行>は、二十日間沈黙し、山中を歩くという歩行。一週間石窟に籠もってお筆先を暗誦する誦行。三日間滝にうたれる水行。四先師とは、浄土僧、樵夫、白痴の女性、娼婦など開祖の救世主のような人。五問とは開祖が生の意味を問うときの五つの発問のこと。六終局とは開祖の終末感にもとづく六箇条の終末への予言。七戒は殺生、盗偸偽言、姦淫など。八誓願は万人救済のための八項目にわたる誓願のことである。
それらはいずれも迫りくる死のひびきに呪詛と虚無がどくどくしく貫き流れている。
救いとは何ぞや、安眠なり
荘厳とは何ぞや、自己滅却なり
希望とは何ぞや、虚無なり
( 開祖まさと教主との問答録の一節)
まさの養子で、二代目教主となった仁二郎は若く全国を放浪、種々の職業遍歴を経て、その持ち前の政治力を駆使しながら、「世直し」の思想によって教団の整備拡大を次々に図っていく。
農民が開放され、都市と農村の自治体単位の自由な物資の流通と交易がなされて、そこに高度な道徳が浸透する。これが第一の<世なおし>である。そして、生産関係と制度を変えれば人間も変わるとする唯物論、その「人類の将来のありかたを決定する最後の戦い」が第二の<世なおし>であった。
ところが、ひのもと救霊会は下層農民を組織化する最後の団体として、この日本を世なおししようとするところから、国家権力によって「邪教よ、逆徒よ」と弾圧を受ける。
本当に飢えれば、人間は死人の肉でも食うものよ。
救霊会に拾われて成長していく千葉潔の苦悩は、飢餓に襲われた村で父に棄てられ、母の肉を食ったという、ひとえに彼の負った凄絶な禁忌にあるといっていい。それは深層の闇へ降りた恐怖となって、常にかれの存在を衝き上げているものである。死肉を食らって生きのびることは、それ自体が罰せられるべきことである。同時に、共同体の崇拝する部族神からも疎外され、その存在そのものが永久追放されているということでもあろう。時代の苦悶を負った人間存在の基層に横たわるこの亀裂こそ、千葉潔の無惨な運命そのものであったといえる。
その恐怖の闇は、底知れぬ生存のありかたを問うことになるのだが、やがて、千葉潔の内部に一つの回答が提出される。それは、むろん、瞑想や修業からの解脱の境地からは程遠い悪魔的なものだった。貧窮のはてにのたうちまわってきた者の極限の相として、その公案はしだいに解けていったのである。
未だ生れざる父母は私が腹中にあり、母を食って生きのびた私は、やがて我が子に食われるだろう。これこそが私の本来の面目。そして悟りとは血を流しながら血の中に生きること、わずか一拳を避けて何の指導か。
そして、また、誰の声とも知れず、千葉潔に呼びかける声がある。それは彼の存在を譴責する暗い死の世界への誘いであった。
罪人よ、滅びの使徒よ。何事もなしえざる善き人々を行きて
己れはこの穢土に生きのびて、何をしようとしているのだったか。母の霊をとぶらうためか。自己一身を悟りの蓮華の上に置くためか。この世から餓鬼、畜生道にうごめく者の一人もなきことを期するためか。それとも、己れに仮借なき苦しみを与えたこの世を顛覆するためか・・・・。
戦争の勃発とともに、その国家的弾圧はますます激しくなっていく。戦後、復員してきた千葉潔は、阿礼の偽書作成による教主簒奪というシナリオによって、三代目世教主になり、急激な政治主義としてコンミューンをつくり、ついに武装蜂起する。これこそ、土俗の深淵に通底する世なおしや、一揆の情念の噴出だったのだろう。いや、千葉潔の持つ激情と行為は、そもそもがその生に対する復讐であったのかもしれない。
二百人の警官隊が取り囲む山間の城祉に、手榴弾や機関銃が炸裂する。テロ化した特設青年隊とのあいだに、悲惨な死闘が展開される。砲撃を受けたひのもと救霊会は、たちまち火炎逆巻く渦なかに焼き爛れていく。思えばその戦いは、開祖の時代から負けに負けてきた負けぐせであった。しかも、「奴隷も農奴も小作人も、みな一たび戦いでやぶれた者の、負けぐせがついて立ちあがれぬ者」の玉砕をもとより覚悟のうえのものだったのである。
千葉潔は叫ぶ。第三世教主の恐るべき暗黒の託宣だった。
神の子よ、蜂起せよ。働き人よ、農民よ、労働者よ、一斉に蜂起せよ、と。そしてもし逡巡する者あらば、われらの所業の終るところを汝ら目を見開きて見よ!
その時、千葉潔は「正義なく勝つ者の、勝利を無意味にする方法は、いまはただ一つ」という。と同時に誰が誦するのでもなく、門外不出の奥義書の一節がとなえられる。すなわち、
貧者とは何ぞや、支配される者なり
支配とは何ぞや、悪業なり
悪業とは何ぞや、欲望なり
無明とは何ぞや、執着なり
ああ、如何にして執着をのがれんや、
ただ信仰によってのみ
信仰とは何ぞや、救済なり
救済とは何ぞ、死なり
死とは何ぞや、安楽なり
世界に対する畏怖もなく、ここには厭離穢土と美しい死への衝動が眩い至高の歓びとなっている。
救霊会が政治主義をやむなく持ち込まざるをえなかったということが、理念の王国の邪悪を指すのではあるまい。その本質において、救霊会はまぎれもない<邪教>なのであった。なぜなら、淫祠邪教ゆえに邪教であるのでは決してない。何をか言わん、それは「究極において、この世を信じえず享楽しえない人々の集団であった」からだ。著者は恐るべき人間の不毛の夢を酷薄に暴きながら、破壊消滅への自己回路をたぐりよせているのである。
この昭和の精神史を背景にした架空の教団の組織と挫折の歴史は、高橋和巳の近代日本の精神史における鮮烈にして壮大な思考実験だった。発想の端緒は、「日本の現代精神史を踏まえつつ、すべての宗教がその登場のはじめに色濃く持っている<世なおし>の思想を、教団の膨張にともなう様々な妥協を排して極限化すればどうなるか」ということにあった。
それは人肉を食らっても生きねばならぬ人間の罪業であり、国家とは対立せざるを得ない世なおし思想のありようであり、革命思想からの弾劾であり、偽書作成による教主簒奪による破滅への絶望的戦いである。そこには、もはや救済のイメージは何一つとしてない。
最も絶望的な詩、そは最も美しき詩
最も苦悩せる死、そは最も美しき死
このエロスとタナトスは、日本近代が宿命的に被った超国家主義と農業本主義の地平で土煙りを上げつつ、いま、時代の戦慄となってわれわれに迫ってくる。確かに、新興宗教(土俗宗教)は、その無限のエロスとタナトスをかかえるがゆえに、国家とは対立矛盾の様相を展開する。理念の王国は、異端と殉教に壊滅せざるをえない。信仰の自由は、軍閥官僚と地主および独占資本の統制に立ち向かい、その内的衝撃力を模索していくのである。
原罪を負って生きる人間の悲残を基底に、日本の土着精神が充溢する信仰共同体をとおして、宗教とはいかなるものか。「あなたは知っているか。本当に飢えれば、人間は死人の肉でも食うものよ」といわしめるこの異端の物語の時代は一九三〇(昭和五)年から一九四六(昭和二十一)年に想定し、近代日本の重要事項をすべておおいこんでいる。まさに、それらの一つ一つの仮説や思考実験は、「危険な狂気の実体」であった。しかも、情念が懲り固まっていくようなスリリングな場面の展開であり、そこには生と死のサスペンスが重厚に織りなされている。
この二千枚の長編が、吉本隆明のいうように「インテリ向きの大衆小説」だと、私は断じて思わない。何がインテリで、何が大衆であるかはともかく、高橋和巳のこれまでの作品とは大きくちがった波瀾万丈の展開であり、しかも、これが歴史の闇の夢幻を模索した壮大な叙事詩となっているということも特記しておかねばならないだろう。
『邪宗門』をいい状態で書いている時、書きながら高橋和巳は口笛を吹いたり、鼻歌をうたったりすることが始終だった(高橋たか子『高橋和巳の思い出』)。文字どおり、油が乗っていたのだろう。それは一つの文学的結実を意味するものであった。
だが、『邪宗門』に対する当時の批評家や若い読者の評判はあまりよくなかった。『憂鬱なる党派』が壮大な観念小説であったとはいえ、そこに政治的側面の感動をうけていた読者は、『邪宗門』においても、その政治の側面だけに文学的関心をはらおうとしていたからである。当然、高橋和巳のうちにはある種の判然としないギャップが生じていった。
そうしたことが直接の原因ではなかったのだろうが、『邪宗門』を書き上げてからは、内面的に荒れだし、酒もがむしゃらに飲み、異様に狂い出した、と伝えられている。なるほど、作家の豊饒はまた新たな苦しみの受容と試行の、おどろおどろした開始でなければならない。だが、私はまたこうも推察しているのだ。妄想が妄想を招いて自転する陰惨で残酷な薄明の空間。痛苦に満ちたはてしのない背理。絶えまなく自己をさいなみつづける罪障感——魂の呪いに満ちた『捨子物語』において、すでに予感していた己れの運命の行方に呼応するかのように、破滅崩壊に向かう<黒い魂>は、そのギャップとともに、さらに混濁した深い軋みを立てていたのだ、と。
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一九六七(昭和四十二)年六月。
京都大学文学部助教授として、高橋和巳は鎌倉から京都に舞い戻っている。文壇ジャーナリズムのあいだでは「いつ会っても孤独で淋しげな人」であったが、恩師吉川幸次郎博士の強い招請により、いつになく清新の気迫に漲っていた。
当初、大学では陳寿の『三国志』を演習に用いた。毎日九時に出勤、午後五時まで研究室にいるという精勤振りだった。平野謙教授ならびに本多秋五講師と相部屋だった明治大学時代とちがって、研究室は小川環樹教授の跡を継いだ天井の高いダンス・パーティでもできそうな広い部屋で、ふと疲れれば腕を振り回し、散歩することもできる。母校の助教授として期待され、申し分のない条件であった。だが、鎌倉からの単身赴任なので、当初、食事は三食とも学生食堂というありさまだった。これはやむを得ないとはいえ、団欒も何もない。京都行きに強く反対した夫人を鎌倉に残した高橋和巳は、しかたなく大学近くの北白川の味気ない学生下宿を仮寓としていた。
私はしかし若返ったという気がする。(略)気分ははなはだ書生的であり、しかも作家専業時代には考え得ない規則正しい生活に、胃腸をはじめ頭脳の調子もまことによろしい。
何と若くいきいきしていたことだろう。
この文章の隅々には、日常的でフィジカルな響きがある。何が作家的な幸運なのかはともかく、清新なアポロのような弾みがここには漲っている。高橋和巳は作家として、研究者として、より安定した成熟期を迎えつつあったのである。いや、誤解を恐れずにいえば、若くしてすでに一つの分水嶺に達していたというべきかも知れない。
また、京都大学から招聘があった時、「思想上の先達H氏」に相談している。その応えは「どうにも駄目なら、大いに放蕩し、アカデミズムの顰蹙を買って、追放されるがよろしかろう」(『楽園追放』)ということであった。さもありなん、二、三年後の深刻な運命の受け入れ方など予想もできぬまま、この時、ゆとりと自信に満ちて「追放されるのも可」と頷いたのであろう。やがて、時代の拮抗関係のなかで、倫理の封印を解除することなく生涯を貫く、凄いまでのひたむきな文学者のデモンというべきものを私たちは知らされることになる。
ところで、六朝文学の四六駢麗体の美文にもとづく壮麗な美学は、生来、高橋和巳の渇望そのものであった。古風で荘重な文体は、漢語の湧出する情念が甘美な生理的リズムともなっている。だが、一方で、その漢語調のざらついた文章は「リアリティに乏しい肥大した観念操作」、「空転した小説構成」であるということから、「文学的資質がブッキッシュである」という高橋文学に対する批判が痛烈に起こっていることも確かである。にもかかわらず、登場する主人公たちがいずれも己れの思想に殉じて、とめどなく堕ちていく無頼の世界には、その独自の硬質の文章が混沌たる匂いを放っており、そこがまた高橋文学の魅力の一つともなっている。人間は思想や志のために破滅し、死ぬことができる。暗黒の観念こそが人間の実存であるという、その一面の描写の荒っぽい無粋無骨さが多少の滑稽感を表出させ、一部“士太夫の文学”ともいわしめたのも事実である。褐色の情念の時代の風が、それこそ高橋和巳の夢と志に素直に共感しようとしていたといえる。
高橋和巳の中国文学研究の一つは、六朝文人の
だが、恩師の異例の抜擢による助教授就任という栄光の帰還だったとはいえ、高橋和巳は本来的に京都学派の異端児であった。荒井健によれば、「中国文学者としてのかれを生む母胎となった、いわゆる京都学派には絶えて見られぬ泥臭さと非合理主義的霊魂があった。(略)高橋は、かくして、京都学派の偉大な鬼子であった。あるいは、京都学派を止揚して天にはばたかんとした鳳雛であった」(『雑感』)という。つまり、透徹した合理主義の体系を築き上げた京都学派にあって、高橋和巳の研究は難解な劉
<非合理主義的霊魂>とは、何ともいい得て妙の感がある。その霊魂は、高橋和巳の内在するエロスの衝動として、自己破壊の恐怖の位相にまで通底していくものであったと考えられる。自己の苛烈なエゴを描くことを至上としたわが国の文学風土にあって、思想や観念が先立つドストエフスキーの大審問官の神の論議にはじまり、スタヴァローギンやキリーロフの悪行を描く世界が、正当な評価を得ることはきわめてむずかしい。だが、高橋和巳はその泥臭さと非合理の霊魂で極限の人間のペシミズムと真っ向から取り組み、また、そのこと自体が“鬼子”としての異端の世界への回路を図っていったのである。
京大助教授として過ごす一方で、時代は慌ただしく駆け巡っていた。
時に日韓闘争、七〇年安保闘争へと、学生運動は日増しに過激な様相を呈していた。私には全共闘運動について語る資格はない。ただ、そこに六〇年代後半における各人の内的問いかけを契機として、社会的諸事象のかかわりのなかでしだいに高揚していく学生運動の流れを辿れば、こうである。
一九六七年——激動の前触れのように政治的・社会的事件が続発していた。秋、十月佐藤首相、第二次東南アジア・大洋州訪問に出発、全学連(反日共系)・ベ平連・反戦青年委ら阻止デモ、羽田では機動隊と激突し、京大生の山崎博昭が死亡した。
翌六八年になると、まず一月に米原子力空母エンタープライズ佐世保入港、学生・労働者の反対闘争。機動隊との激突(佐世保闘争)に始まり、二月、東大医学部ストライキに端を発した東大闘争。四月、米軍王子野戦病院に反対で機動隊との激突。日大闘争始まる。六月、米タン阻止の新宿闘争。また、10・21国際反戦デーは、統一行動実行委員会の発表では全国六百カ所で約八十六万人。警視庁の調べでは反代々木系各派の集会を含め、八百三十二カ所で四十六万七百人が参加して行われている。反代々木系の学生は東京の新宿、高田馬場を中心とした街頭ゲリラ活動を行い、夜まで大荒れで学生と機動隊が衝突。逮捕は全国で千五百五人にのぼり、騒乱罪が適用された。まさに、首都騒然たるものでこれは七〇年代闘争のスタートといわれる。
さらに、六九年一月には東大機動隊導入、安田講堂封鎖解除、東大全共闘学生・支援学生全員逮捕。この学園闘争は、京大に、さらに京都の各大学にも連鎖的に波及していった。いま、ここでは京大の学園闘争の動きに焦点を絞ってみると、まず、一月十六日、寮闘争委員会が交渉決裂。机・椅子でバリケードを築き乱闘。つづいて、京大正門前で流血の惨事、三百人の機動隊が構外で待機。同月三十一日、教養部、無期限スト突入。二月十六日、文学部、医学部、理学部、法学部スト。市街戦さながらの乱闘で、負傷者二百五十余人。同月二十七日、京大全共闘、時計台のある大学本部を封鎖。時計台前広場のバリケード攻防戦。機動隊、東山一条のバリケードを排除、二百人が待機。三月二日、教養部構内が強制捜査。機動隊二千三百人が出動。角材、鉄パイプ、火炎ビン、灯油など証拠品を押収。乱闘事件につき、凶器準備集合罪、暴行行為、障害容疑を適用し十人逮捕。投石と放水、ガス弾が紅い糸を引いて炸裂しようとする直前、ふと、本部大ホールからは誰がグランドピアノを弾いているのか、インターのメロディが静かに流れた。酔狂なひとときだった。それはいまもまことしやかに、「青春の挽歌であった」と語り伝えられている。九月二十二日、全共闘最後の砦、京大時計台をめぐる激しい攻防二十九時間。放水、装甲車十数台。数百発のガス銃。ヘリが空中を舞い、水と火柱と怒号の末、ついに陥落。同時に、百万遍解放区も陥落している。
名実ともに高度成長を突っ走る「経済大国ニッポン」とは背中合わせの反体制・造反有理の学園紛争の一方で、巷にはフーテン族、ヒッピー族があふれ、アングラの強烈なビートをきかせた音楽や演劇などに若者たちは酔いしれている。波瀾の時代は、求心的な熱狂の渦を幾重にも迸るようにまき上げていた。
私は別に好んで、新聞記事的内容を無神経に羅列したわけではない。ここからは、<倫理的パトス>に引き裂かれた高橋和巳の内面の分裂と矛盾が写し絵のようにあぶりだされてくるのである。当初、もっぱら研究室にこもって、中国の古典文学に取り組んでいた<教官>は、大量の負傷者を出す内ゲバまでエスカレートした事態のなかで、しだいに政治抗争の現実の場に立つことになっていくことになる。
そのそもそものことのとっかかりは、一つの質問だった。
文学部での第一回団交の席上、『憂鬱なる党派』で述べられた思惟を踏まえたうえで、一連の事態をどう見ているかという質問を学生から突きつけられた。そこから、高橋和巳の苦悩が始まった。つまり、自己の曖昧な態度は「思想的自殺」であり、大学の混乱した事態は学生対策的に処理すべきものではない自分自身の「思想の死活問題」となる。
「大学解体」や「自己否定からの出発」は、一つの政治的スローガンにすぎない。しかし、そのスローガンこそ『憂鬱なる党派』の作者に衝かれた内部の鏡であったのだろう。ここから、大学自治なる幻想と虚偽に立ち向かう青年たちの徹底した精神のいとなみに、改めて自己の強烈な文学精神の通路を開いていくという構図になる。
さて、学問の研究の場として、自ら学んだ京都大学の営為それ自体が官僚制度に組み込まれたものではなかったのか。そもそも権威と虚偽のうえに成り立つ学問とは、いったい何なのか。教授会も、そこに突き放した批判や認識を持つことができないまま、戦後、無風状態のままアカデミズムという権威だけがまかり通ってきていた。そうした大学のあり方を徹底批判する全共闘運動に、しだいに高橋和巳は共鳴していく。それは“革命的な変革運動”とはいえ、「やはり謙虚に、それが第一歩としては、意識変革運動」であり、「日常的あるいは常套的な、思念、イメージ、感情、そういうものをゆっさゆっさとゆすることができる」ということであったのだろう。
また、全共闘の玉砕方針はマルクスの脱構築などに関係なく、自己否定と異議申し立ての環行であるということにおいて、高橋和巳の感性はもどかしくも熱く打ち震えていった。そうかといって、何も文学的営為の倫理的な帰結が、学生運動への積極的な参加であったとは、私にはどうしても考えられない。自らの解体を前提にした内的根拠は、つぎの文章によっても明らかだろう。
精神的存在としての人間の、その精神のあり方如何がいま問われているのであり、世界の学生層は、政治的実力では微弱ながらも、その敏感さにおいて、実は一歩われわれよりも先んじているのかもしれないのである。その知性の連帯は、人類にとって正義とは一体何であるべきかを、やがて大きな力として問いかけてくるだろう。
いまひとたびの自己否定は、あまりにも苦渋にみちる。華々しき夢想は、孤立の高揚と憂鬱のうちにもほとんど浮ばず、いま自分に出来ることは、いわば一つの墓標のみずからの手による建立いがいにはないのではないかという気すらする。
学生対策的発想からついに抜け出せぬ教授会に、私は失望し、いまや憤慨すらもいだくにいたっている。(略)教授会内部での孤立の甘受はもちろん、学生諸君とも睨みあいの人間了承を共有しながら、なお当分、私は思想的ねじりあいをなさねばならないだろう。
世の権力者の愚昧もさることながら、敵対する相関関係において絶えざる自己絶対化がなければ、革命運動者の政治的行動はありえない。それはすでに、歴史と現実の真理であろうが、自己相対化の努力のはてに自らの薄明の墓標を夢想しなければならない者の自意識や自負とは、いったい何だったのか。そこに苦悩する高橋和巳の存在は、あまりにも<倫理的>であり、<センチメンタル>であったといえるのかもしれない。
ちなみに鶴見俊輔によれば、その礼儀正しさによって、「師への敬意と学生への敬意とのあいだにひきさかれた」高橋和巳は、「別の時代をになう異質の精神のように思えた」(「『わが解体』について」)ともいう。そう、終始、高橋和巳は<異質の精神>のゆえに悩み、凄絶な解体=蘇生の急進行為の極限化を志向していったのではないか、と思われる。
さてしかし、その団交の席で、「全存在を賭けて」という実直な高橋和巳の発言は、「全存在を賭けない」軽やかな立場を標榜する一部の学生には興醒めであったとともに、ある種のイロニーとして受け止められたことも事実だった。また、第二回目の文学部団交であらかじめ約束してあった「肺腑をえぐる質問を投げかけよ。肺腑をえぐる質問を投げ返すであろう」という気迫にも、やはり、「ちょっと、それはちがうんだな」という若者の視座があった。そうした一群の学生たちの態度というのは、高揚した現実運動のなかの一種のふくみであり、或る種のゆらぎのようなものであった。闘争の発端となった学生部封鎖を断行した一人でもある高城修三によれば、「あの運動は自ら熱中し血道をあげていく道楽のようなもので」(『我これを如何せん』)あったということを表明していることでも分かる。むろん、これは四半世紀も経ってからの回想としての含羞ではあろうが、まったく何をかいわんやである。
だがしかし、「思想の死活問題」として真摯に受け止めた高橋和巳は、そこにストレートの豪速球を脇目もふらずに投げつづけていった。
スターリンを疑い、レーニンを疑うことからやがてはマルクスをも疑うに到るだろう、仏法のためには釈迦をも斬る精神のほかに、しかし期待しうる何があるだろうか。こうした徹底した精神のいとなみは、従来は、表現を通じて文学の中で試みられてきたものであるが、それと同質の精神が青年特有のラディカルさで行動に移されようとするとき、それを自己の内面と無縁なものと意識しうる文学精神などというものは、ありえない。
ここにはすべての既成性にもとづく倫理的な社会関与を根底から突き崩すべき行為としての信念がある。事態は容易ではない。高橋和巳の感性は時代の現実を徹底批判するが、同時に現実はかれ自らの内部の問題でもある。
内なる欺瞞と俗物をたたきだせ。マルクス・レーニン・毛沢東などマルクス主義の唯一絶対の古典を投下せよ。時代の新しい現実を直視し、秩序・権力側に加担している選良たる知的エリートとしての自己を否定せよ。
いや、それにしても、いったい、おれは何をしようとしているのか。『我が心は石にあらず』の信藤誠が作者を指弾する。——すべての思想は極限までおしすすめれば、必ずその思想を実践する人間に破滅をもたらす。革命を説きながら破滅しないですんでいる、すべての人間はハッタリだ。『悲の器』の古在が言う。——おれがいまなすべきことは、自分の政治的無能を弁明することではなく、それを一つのロマンと化すこと、それが唯一の存在証明なのだ。虚妄の掛け声、虚妄の理想、虚妄の希望、虚妄の絶望が、悪行の輝きのようにしてかれを八つ裂きにしていく。これは著者の自画像でもある『憂鬱なる党派』やその他に登場する人物の観念性に、作者自身が報復されていったということを意味している。
そして、それら一連の全共闘運動が革命運動をめざしてはいるが、北一輝にならえば「正義運動」であったという。だが、自からの権力幻想のプログラムをたてないとはいえ、その流動的な運動が実直な正義運動であったなどという見方にはどこか異和感のようなものが感じられてもしかたあるまい。
「言葉を刻むように行為を刻むべきだ」といったのは、美と政治の葛藤をかかげて天皇、憲法、自衛隊問題に深くかかわっている三島由紀夫であった。三島由紀夫は高橋和巳との対談で迫る。
少なくとも正義運動だとしたら、それは政治じゃない。政治じゃなかったら効果なんか考えるべきじゃない。無効でいいんだ。無効でいいならば何千人に知られるなどということは考える必要ないんだ。そして、テロリズムと言われようとなんと言われようとかまわない。言葉を刻むように行為を刻むべきだよ。彼らは言葉を信じないから行為を刻めないじゃないか。
聖戦イデオロギーに組み込まれた「悠久の大義」を恩寵として受け止めながら、そこから敗走した極限のエロスを追いつづける三島由紀夫の武と文の二律背反の問題は、もともと内的に矛盾しているものだった。行動と認識の混沌のなかで、天皇というアイロニーとしての美的体系の構築それ自体が、戦後の不信と虚妄への自己矛盾の露呈であった。すでに、<自死>への甘美な行程を辿ろうとしていた者にとっては、正義運動などという不毛の思想よりも、極限的理念であるべき殉教者としての行動を刻めと、高橋和巳に執拗に迫ったのである。
三島由紀夫における虚構表現による美学の完成から虚構行動による現実への参与は、高橋和巳の現実参与の時期と恐ろしいほどぴったり重なっている。というのは、高橋和巳は三島自身の「大学闘争、とりわけ自分の出身校である東大闘争を我が事としてうけとめた」(『死について』)として、そこに危うい葛藤の原型を見出していたからである。
東洋史闘争委員会が「清官教授を駁す」として、痛烈な高橋和巳批判の文章を掲示した。
<清官教授>は闘争を主体的に担う部分に対しては、一定程度進歩的ポーズをとる。否、とらざるを得ないのだ。(略)我々は告発する。彼らの“清”をふりまき、“官”にしがみつく思想の頽廃形式を。<清官教授>に訴えたい。“官”はそもそも“清”たりうるかという問を発せられんことを。“官”たることに訣別せられんことを。そして我々の知的誠実を求める正義の闘いに参加せられんことを。
この大字報は、何も格別の思想があったわけではない。それが当時の流れであり、一つの真相なのだろう。だが、この一文を目の当たりに突きつけられた高橋和巳は、「私もまたしょせん、枠づけられた檻の中で、蠢めいていた走狗にすぎなかったのか」と激しく動揺する。実際は、
高橋和巳は礼儀正しい人だった。
無上に優しい人だった。泣きたくなるほど切ない魅力を持っていた。そう思うのは私だけではなく、身近な周辺にいた者ならば、誰もが素直に感じていることであった。たとえば、「暖かい人であった。わけも無くほとんど泣きたくなる程、やさしい人であった」(奥野路介『治癒にいたる病』)し、「青年の真摯さを愛し、そのことの故に必ずや帰結する“悲運”を共有」(滝田修『死者の視野と変革の思想』)しようとしていた。また、福島泰樹は早稲田での講演を依頼し、それを快諾した高橋和巳と痛飲しているが、その時「人間と人間の
とまれ、孤立無援のたたかいだった。教授会を批判し、全共闘運動サイドに立つことで現実的な人間像の明と暗、生と死、希望と絶望の一つ一つの内的矛盾のありようを身に切り刻むように受け止めることになるのである。学生たちとの深夜におよぶ論議、パンや牛乳だけの不規則な食事——心痛と疲労が重なっていった。スト、断交、バリケード封鎖の日々における執筆や講演。こうした中で、やがて仮寓で欲も得もなく、眠りつづける日が重なる。いかんともなしがたく、神経を麻痺させるために酒をあおる。その酒は断腸の思いのまま、夜明けまでつづく。「酒で感情を抑えて仮眠した私は、時刻定かでない明るみのもとでふと目醒め、そして不意に嘔吐するように嗚咽」(『わが解体』)するのである。
しかも、かつての<政治的マヌーバー>というものは、もはやどこにも期待できない。その高橋和巳が、「かつての極限の理念や観念に復讐されようとしていた」という小松左京の指摘は、実に多くの示唆をわれわれに与える。表現とは何らかの型の思想の還行であるにせよ、確かに高橋和巳はこれまで書いてきた小説から、まぎれもない<報復>を受けたのだ、と私もまた思っている。ほかでもない、六〇年代後半という時代の熱気に衝き動かされた高橋和巳にとっての現実参与というのは、あくまでも内面の観念(虚構)の照り返しそのものではなかったのかと思われる。多くの賢明な読者は、すでに『わが解体』における大学闘争にかかわった過程の記述が、その小説の文体とあまりにも酷似していることに気づいているだろう。
当初、内面派の高橋和巳にとって流動的に起こる現実の社会事件が、一つ一つ衝撃的に受容されていったことは事実である。だが、それが肉体的な限界を超えた時点で、急激な傾斜をはじめていく。それは作家として致命的な衰弱であり、後退だった。
怒りと悲しみの舞い上がる風のクロニクルであったか。逆巻く火炎のなかから涌き上がるように一つ呟きが聞こえてくる。・・・・救いとは何ぞや、安眠なり。・・・・荘厳とは何ぞや、自己滅却なり。・・・・希望とは何ぞや、虚無なり。
かくて、直面する事態の中で最後まで<思想>として、また<志>の問題として、真摯に誠実に受けとめていかねばならない。「死んでも死に切れない痛憤」でありながら、とりもなおさず知識人の怯懦、しかも何ら糾弾されることのない虚妄の知の構造に視野を向け、その余儀なき退路に立ちすくみつつ一つの運命を甘受しなければならなかったということである。
右脇腹に激痛が走る。
一九六九年十月、ついに倒れる。終戦の時の一度目の敗北、自らの理念による変革が無惨に失敗した二度目の敗北、そして志なかばで病に倒れた、それが三度目の敗北だった。だが、それはとりもなおさず、文学が自己を支え、その同じ文学が自己を告発するといわしめた文学に殉ずることだった。
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病がひそかに進行していた。
取り返しのつかないことだった。一九六九(昭和四十四)年十月、聖路加病院入院。ここでは病名が判明しないまま退院。翌年四月、東京女子医大に入院。同十二月、結腸癌転移のため再入院している。
季刊同人雑誌『人間として』(同人=小田実・開高健・柴田翔・高橋和巳・真継伸彦)が創刊されたのは、一九七〇(昭和四十五)年三月のことである。この「思想的修羅場の設定」とされた雑誌の刊行の決意について、高橋和巳はつぎのように述べている。
人間がもちえているさまざまな精神的営為の中で、文学はいかなる位置を占め、なにを切り拓けるか、いまほど深い疑惑にとらわれている時はないけれども、またいまほどはっきり実感できている時はないという気もする。
それにしても、死を直前にして書き上げられた『暗黒の出発』が、その最期の力をふりしぼっていく運命的な調べには慄然とさせられる。新たな修羅は新たな豊饒であるべき文学的逆説が、この根源に向かう作家の生きざまを鮮明に浮かび上がらせている。
こうした中で、未完の長編『白く塗りたる墓』第一部(三百五十枚)は、京都大学から放逐され鎌倉に戻った病床生活のなかで一気に書き上げられた。一九七〇(昭和四十五)年三月、『人間として』創刊号に発表された。
『白く塗りたる墓』は、高橋和巳の再起をかけた作品である。
マタイ伝の一節がその重要な主題を暗示する。
汝らは白く塗りたる墓に似たり、外は美しく見ゆれども内は死人の骨とさまざまの穢とに満つ。斯のごとく汝らも外は人に正しく見ゆれども、内は偽善と不法とに満つるなり。
テレビ局の解説室長である三崎省吾は、時事解説番組を担当している。入社歴十五年の働き盛りで、巨大化するマスコミ企業の管理と組織機構としては、重役をはじめ局長、部長、彼の解説室下には組合の副委員長や若い部員たちがいる。
分刻み、秒刻みで慌ただしく進行するスタジオで、心身に疲労が重なった三崎は、突然、ニュースキャスターには致命的な失語症に陥る。
突如、声を失ってしまったのだった。
人々はおそらく複雑な電気回路のどこかが故障したのだと思ったにちがいなかった。スタジオにいた者よりも、防音ガラスに隔てられた調整室の人々の方が先に気付いたようだった。年輩の音量調整の係員が身をのり出して、窓ガラスに頬をすりつけるようにしてスタジオを見おろすのがみえ、人影がもつれてプロデューサーと音量調整係とが耳うちしあう影が映った。
ニュースキャスターが不意に声を失うという状況設定で、マスコミに生きる現代人の不安を容赦もなく不安に駆り立てる。一度はその場で回復するが、情報産業時代の最先端で生きる三崎は、絶えず日々の不安に晒されている。それは一つには巨大なマスコミ産業に生きる人間としての内的問いかけでもあった。具体的には、アクチュアルな言論の自由と報道機関の使命は何かということだった。また、ジャーナリストの責任として報道の自由と公害問題をいかに扱うべきか。
報道の問題としてNHKはむろんのこと、民放各局においても政治に対して批判的な番組は姿を消していたのだが、三崎はディレクターの合図とともに、自分の声とも思えぬ甲高い声で、抽象論をつづける。
報道の自由、報道の中立、一体、それは何を意味するのでありましょうか。それは単なる特権、さもなくば大衆社会の楼閣の上に咲いた幻影の花にすぎないのでしょうか。それとも何らかの価値を充填すべき器、外枠として、なお現在においても意味をもつものなのでしょうか。
ここにはベトナム問題、公害問題 全国的に起こっている学園紛争、大阪万国博、TBSの成田事件などが小説の背景の社会的事件として浮き沈みしている。
妻と離婚した三崎は一人娘を父母に預けて、交通の便を理由に市中のアパート住まいをしている。台所にはインスタントラーメンを山積みに、この意識産業に従事するサラリーマンの日曜日は「いつも灰色」であった。
また、三崎の不満は自らが携わっているテレビの芸能娯楽番組や報道解説番組のあり方であった。すでに三崎は、テレビに対して嫌悪の情しかもてなくなりかけている。
単に娯楽部門に関してだけではない。報道や解説部門の仕事に関しても、テレビは白痴化ではなく、それよりもまだ悪質な世論操縦の武器となってしまっていた。こんなものを、一日に二時間も三時間も持続的にみていては、どんな可能性のある頭脳も、偏見に満ちあふれ批判力は破壊されてしまうだろう。光は当然の権利のごとく人の視線を奪い、映像はどんな批判よりも先に、洗濯された事実を印象づけるのだから。
こうしたなかで、三崎は学園紛争の取材で、業務規則違反行為で無期限休職や懲戒職になった処分をめぐる撤回を迫る組合との団交にまき込まれ、中間管理職として会社との板挟みになっていくのであるが、また三崎に好意を抱いている同じスタッフの城よし子には“企業内告発”を受ける。つまり、公害の元凶である大手薬品メーカーが野放しになっているのは、それらメーカーと新聞・放送企業とのあいだの関係から、構造的にマスコミも共犯者であるという指摘である。公害というその企業責任を放置した日本の高度成長の矛盾については、著者は実際の取材などで深い関心を示し、それは「ほとんど虐殺に近い犯罪」(『七〇年代第一年目の状況』)だという実感を持っていることも付記しておこう。
戦後社会の相対的な安定期による社会状況にもかかわらず、内心では「なにが報道の自由だ、なにが良心だ、なにが革命だ、糞ったれ」叫びつつ、しだいに社会や組織から孤立していく。そして、身近に誰一人として真の友人がいない。かつて同僚だった梶哲也は三井・三池炭坑へ取材に行ったまま落ちぶれはて、坑夫のように「絶望的な状態へと踏み込んで」行方不明になっている。三崎の別れた妻は、かつて梶哲也の愛人であった。見えざる辺境のはてに行方をくらました梶哲也こそ、日常性に埋没した企業内人間である三崎の心の痛みであり、かれは内部の腐触の空白にその幻影を執拗に追いつづける。
家庭生活はすでに破綻し、職場にも亀裂が走っていた。
「私議、今般疾病のため・・・・」と、休職願を出すべく、また時間に追われた現場に戻る。 そして、スタジオ入りして時事解説番組の録画撮りが進行するなかで、またも声を失う。
だが、どうしてか、お、お、とかすれた摩擦音が出るだけで声が出ないのだった。肺は空気を吸ってふくらみ、それが咽喉を通って口に出てくる。だが、詮が抜けてしまった気筒のように、途中でひっかかるものもなく空気はもれるだけなのだった。
本質的に「内面性の作家」である高橋和巳にとって、この『白く塗りたる墓』は「外面性の小説、純粋な意味での時事性の小説」である。巨大な情報産業を舞台に、ともすれば社会推理派の小説まがいになりかねないテーマに挑んだ作者には、むろんそれなりの覚悟があった。
それにしても、この小説が書かれた時代というのは、技術革新による大量生産、大量消費の時代のなかで、テレビはまだ模索する未知のメディアであった。それから四半世紀を経た今日、もはや高橋和巳が生きた時代には予想もしなかった大量消費・大量商品のバブル現象をきたし、それとともに情報メディアの世界の進展はめざましく、身近には本格的な放送衛星や、通信衛星からの波による超マルチチャンネル時代が迫り、それにともなうメディア戦争、映像ソフト戦争も激烈にはじまっている。
国民の平均テレビ視聴時間も四時間近くなり、テレビ局には相変わらずジャリタレが横行する幼児化したバラエティショーをはじめ、テレビはますます貧しくなってきているともといわれている。また、テレビキャスターの存在が、ニュースの内容やしゃべり方はともかく、視聴者の九〇パーセントがその容姿を見ているという実状。いまや、テレビは生理的なメディアであり、論理よりも感覚で伝えらなければならない。まさに、感覚のエッセンスの時代には、通り一遍の報道や解説では何も通用しないといわれる。
思えば、湾岸戦争勃発のバクダッドからの第一報もテレビによるものだった。多国籍軍のイラク攻撃が、ゴールデンタイムのニュース番組に流され、あたかもそこから戦争が開始されるという時代である。ソ連邦や東欧諸国のクーデターをはじめ、ベルリンの壁の崩壊も、リアルタイムで茶の間に映し出されている。また、全国各地の公害問題も長年の裁判闘争を経てつぎつぎに和解が成立し、いまや地球的規模の環境破壊対策が講じられなければならないところまできている。
こうした高度情報化という多様な動向は、『白く塗りたる墓』の書かれた当時の社会とはあまりにもかけ離れて、隔世の感があるといっていい。だが、高橋和巳は実際の取材を通じその外面性、時事性の最たるテレビ局を舞台にすることによって、良心に苦しむ知識人の直面した諸問題と取り組んでいる。知識総合体の大学の欺瞞と同じように、次にはジャーナリズムの欺瞞性を明らかにしようとするものであるが、ここには作家としての悲痛な再生の意思がこめられていた。「表現とはなにか、文学とはなにか、思想の対自的な意味とはなにか」(『暗黒への出発』)。恩師に背き、大学を去り、病身に楔を打ち込む薄明の深みに混沌とした高橋和巳が、鎌倉の家で再生をかけた重い決意であった。新たな暮らしや生きつづけようとする問題が模索され、「第二部、第三部を確実に書き継ぐ復活の兆しである」と、一部では評価されたのも事実である。
とはいえ、『白き塗りたる墓』でとらえられている放送メディアの産業構造をはじめ、テレビ・ネットワークの現実的な様相など、ただ概観的にしか描かれていない。変幻きわまりない近未来の幕開けを前にしたテレビ界に、その知識人のあり方についてマタイ伝のように内なる<偽善と不法>を暴くなど、いかにも冷戦構造下における「政治と文学」というテーマであり、「権力や策謀や社会の不合理」の政治あるいはマルクス主義的なとらえ方であることも否めない。長編『白く塗りたる墓』は未完に終わっている。
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遺稿『遥かなる美の国』は、私たちに改めて底知れない<悲哀>の何たるかを教えてくれる。その澄み切った狂気と幻想のことほぎは、現世への永訣の決意であったようにさえ思われる。
<美の国>とは創世記風の豊饒な物語への甘美な発信である。ユートピア小説の断片が語りかけてくる。
私は遠い西方の果てからこの<地上の国>へ、はるばると旅してきた。もう二十年も以前になる。私がこの国に到達するまでの遍歴には、幾度か死を覚悟する拙い命運の歎きをもったものだが、それゆえにこそ、私がふとした偶然から幼少のころに聞いたこの国の風光の明媚、人情の温純敦厚、そして清潔にして礼儀正しい民族性などは、私の内部でほとんど絶対化されていた。
『遥かなる美の国』は、序章とその第一章、第一節が中断されたまま、遺稿として発表された(『文藝』昭和四十六年七月臨時増刊号「高橋和巳追悼特集号」)。
遠い西方の国、インドラの神々が跳躍し、異民族が支配する混沌たる国では、「流浪して人の慈悲を乞うか、座して餓死を待つか」。貧しい祖母と母を残して辿り着いたのは、戦い終えた地上の<幻の国>であった。そして、その戦後二十年は、空しく過ぎていった・・・・。
「なぜかくも弱々しく、涙もろくなり果てたのだろうか」と自問する主人公の<私>の声には、悲壮ななかにもなぜか虚空の幻影を追う祭祀的色あいがそなえられている。
私がいまこうした拙い文章をつづりはじめたのは、消失した憧憬への恨みと、いまなお絶ち切ることのできぬ我が身への哀惜の念のためである。私の経験した不運と流氓と、渇望と飢餓、憧憬と失意、そして果たさざりし夢を全き虚妄におわらせぬ手段は、いま失意の病床にある私にとって、かつて懸命にならいおぼえたこの国の国語で私の幻滅の過程を可能なかぎり厳密に記述することだけである。
さても<果たさざりし夢>とはいったい何であったのだろう。
「故しれぬ寂寞の感覚にとざされ、夢と憧憬」を喪失した<私>とは、そのまま悲劇的な作者に重なるのだが、それは沸騰した狂熱の様相を呈して永続的惑乱とともに自己壊滅へ向かう揺るぎない意志であったか。
すでに、この作品の構想は学生時代にあったといわれる。そして、手術後の小康を得、再入院するあいだに書かれた。
東京女子医大消化器センターに入院したのは一九七〇(昭和四十五)年四月三十日。上行結腸に癌ができていることがわかり、五月七日に手術が行われ成功。再発の可能性は五〇パーセントだったが、十二月初旬に悪化して二十一日に再入院している。したがって、手術後の小康とは、その年の夏から秋の僅かの期間をさすことになる。しかし、実際は『白く塗りたる墓』第一部を脱稿した直後の三月はじめ頃には、その想念が浮かび上がり、それなりの構想は着実にすすめられていた。そして、早くも猛然と執筆にとりかかろうとしていたのではないか、と私は推測している。というのはその時点で、「遥かなる美の国」という言説は、鎌倉・二階堂の書斎で静かな憂悶とともに絶えず口ずさまれていたからである。
このユートピア小説は無限の頽落とともに、すべてがはてしもなく下降していく運命を負った存在者を書こうとしたものだと思われる。異邦生まれの<私>は、いうまでもなく『捨子物語』の<私>であり、『邪宗門』」の<千葉潔>の宿命的な追放の地平の彼方から蒼然と浮かび上がってくる。
投げ出された無力のまま、何も関知できない世界で、運命にこだわりつづけていく少年にとっては、その生自体が悪意と欺瞞に晒されていたといえる。したがって、戦後の混乱と廃虚のなかに空しく崩れた世界を立てなおそうとする基底には自由への祈願とともに、その狂気の渇望が混沌と宿されていたとしても少しも不自然なことではない。不可測の人間関係のもとに、少年を背後から支配する運命的な何ものかに向かって、痛切な自己否定の受難劇を無心に演じてゆかねばならない。しかし、運命に翻弄された危機と不安のナザレの荒野に、自分を裁いてくれる神はどこにもいない。
恐らく、日々の激痛とそれを和らげるために投与されたモルヒネの朦朧たるなかで、<死>はかすかに意識されていたのだろう。生の呪詛であるかのように少年時代からつきまとっていた死の影は、最後の対自的処罰行為としての甘やかな絶望そのものとなっていた。そして生の燃焼と焼尽の烙印であるかのように、壮大な構想のもとに綴られるべき遥かなる<美の国>は、すでに不可能な波瀾をふくんだまま、高橋和巳の文字どおりの不可能な夢となっていったのである。
精神の荒廃と感受性の深遠に断罪された位相は、逃れえぬ宿命のニヒリズムとともにあった。ハッタリでもよかった。三度敗北したら次に四度、五度敗北したって構わない。視野脱落は恐れるにたらず、放蕩し、アカデミズムの顰蹙をいくら被ったっていい。それこそ高橋和巳がすすんで選んだ解体であり、栄光そのものの思想的宣言であった。
もともと「個人か、家族か、地域共同体か、職場か、階級か、誓訳共同体か、国家か、国家群か、全世界か」(『戦後民主主義の立脚点』)ということがその思想ないし観念形態として、高橋和巳には人間への深い懐疑を底に秘めた創作の根底にあった。ことほどさように、高橋文学は無限の悲哀とともに<極限>の地平をわれわれに突きつけてくる。つまり、『悲の器』『堕落』『日本の悪霊』における内面の悪としての荒野を跋扈する悲劇的な意志は、神に背いた無神論の人間の罪と罰のありかとして迫ってくる。なぜ、神から、思想そのものから罪深く俗悪な人間は裁かれないのかという反措定としての自己告発である。
ドストエフスキーはシャートフをして語らしめた。「どんな国民でも、自己独特の神をもっている」と。
多くの人間は意識的に、あるいは無意識に神を希求している。なぜなら、確信すべき崇高な観念を創造するものこそまぎれもない人間自身であるからだ。しかし、シャートフの熱狂的性質をひびかせるこの言葉にもかかわらず、人間の神秘な内面的基盤は揺らぎ、神は永遠に不在ではないか。あるいはキリーロフのように、恐怖と苦痛を絶滅し、生命と神秘の重荷から自己を追放するならば、人間は幸福で誇りに満ちるであろうか。いや、呪われた現実の闘争とともに、生に対する永遠の呪詛はいつまでもつづく。
すべてが許されているという神不在の場で、それでも裁きを求めるイワン・カラマーゾフの命題は、神がなければすべては許されるということであった。であるならば、地上的現存の真実の神々たる人間の新たな存在と秩序を夢想しなければなるまい。だが、すべてが許されているという人間の不条理な存在の罪と罰として、正木典膳は情欲のほしいままに犯した家政婦を逆に名誉毀損で告訴し、虚妄そのもののような西村恒一は娼婦に看取られて空しく息絶える。また、愛の終わりとともに敗北した信藤誠は町を黙って立ち去り、死の哲学を説いた中津清人は国家の無罪を叫びつづけ、青木周三は二人の子供を敵弾に撃たせることによってなおも剛直に生きながらえようとする。そして、八年の逃亡を終えた村瀬狷輔がたびたびの取り調べにも「私はただ・・・・」と自己を憂愁に閉ざして口ごもる。
彼等はいずれも、信仰をもてる者のように語り得る無神論者であり、それぞれ自己の観念の厳しい囚人として、一種の虚無を覗かせる過去の栄光に生きた確信犯でもある。暗澹たる陶酔をもとめるかのように、暗い情念を噴出する亀裂には、光を決して浴びることのない剥落した世界が広がっている。それはまた、四半世紀を経た現代への痛烈なメッセージとして、私たちの血脈の明かりのように深く静かに問いかけてくる。
高橋和巳の文学は、絶対的な近代の闇に向かって立ちつくしている。<私小説>を中心としたわが国の近代文学以来の常識からは大いに逸脱し、文学は無力であり、無為でありながら、その絶対性を反語的に提示している。
「極限状況でえた認識の日常化と新たな活用をわたしたちははからねばならない」(『極限と日常』)からだが、それがかれの偽りのない誠実なたたかいであり、それが無責任な戦後の虚偽を暴いていくなかで、「褐色の憤怒」は燃え続けておったといわねばなるまい。日本の堕落した暗黒の精神と陰湿な特権、その怠惰な異質の原理に、常に高橋和巳は「むかっ腹」を立てていたのだと思われる。
しかし、共同体的な原意識を衝撃したとはいえ、その<日常化>をはかるべく豊熟の時期をついに逸したまま、極限的な観念の死闘のはてに現実はあまりにも残酷にたちはだかる。いわゆるバブル、消費社会、ポストモダンとともに文学はもはや先端的意味を失ってしまったとたやすく人はいうが、高橋文学の叫びと真実の問題は、いまなお深く問いかけてくるのである。
野獣の国と神の国はあっても、人間の国はないとでもいうのか。己れに思想ありと信ずるならば、まず荒廃と虚無の深遠を見よ。スラムの路上で血を吐きながらでも歌ってみろ。それが高橋和巳の原点だった。思想の肉体化にともなう傷みのなかでは、いつも重苦しい運命的な夜々を迎えねばならない。死と復活の祭儀としての人間の心の深奥の闇に彷徨い、悽愴な生のはてに荒れ狂うものとはいったい何だったのか。
孤独と懊悩にまとわれた高橋和巳が、ジャイナ教とともに座右の書としていた『往生要集』における地獄の凄惨な様相は、またダンテの『神曲』の煉獄編に対比されるものであるが、その濁り切った末代の地獄は、常に酷烈な幻視のはてから甦っては、かれの内部にひしめくように醸されていた。
我れ今帰する所なく 孤独にして同伴なし。
悪処の闇の中に在り 大なる火炎
我れ虚空の中に於て 日月星も見えず。 (『往生要集』)
身体じゅうの血と肉が切り裂かれ、骨が破れ砕けても、なお地獄の獄卒である鬼は手に鉄の杖や鉄棒を持って襲う。地獄のなかに落ちた罪人は、たちまち土の塊のように潰されてしまう。しかし、涼しい風が吹いてくると、再び生き返ってもとのようにまた同じ苦しみを繰り返す。すなわち、「空の中に声有りていわく。此の
生き還れ。生き還れ。獄卒が大地を叩いて喚く底知れぬ暗黒に血膿したたらせる人々の不気味さである。そして、そこに、地獄的ユートピアをみてしまった人間の血と情熱は、いったい何を理想のよりどころとして生きていくことができたというのか。己れの内なる地獄は、時代の苦悶とともに、そこに一つの確たる内的衝撃力となっていくことになるが、いってみればそれが高橋和巳の成熟と頽廃の原野というものだったのだろう。かくて、ユートピアを志向しながら、高橋和巳は逆ユートピアの地獄を通じて、極限の聖性を獲得していくことになる。
その薄れいく意識のなかで<死>を予感しながら、燃えつきた焦土の原体験になおも固執しつづけている。
死に近く、その時に意図せずして浮ぶ想念に存在の秘密がふと啓示されているものとすれば、私にとって、敗戦前後の時期に、なお解決できていない何かが残されているのかもしれない。
一種の記憶喪失と軽い言語障害の中で、定かならぬ意識に錯乱しながら大きく甦った少年期のイメージは、「ただ単に無垢の時代へのなつかしみというだけではなく、正しくそれは社会的に敗戦の前後の混乱期」にあたっている。
——もう、観念の凝縮には耐えられないだろう。これからは、魚釣りでもして静かに暮らしていこう。花を育て、可愛い鳥を飼おう。その苛酷な生の終わりの呻きは、蒼白な静寂のなかにも、何と優しく崇高なことだろう。そして、その終生やみがたい憂憤に駆られていた高橋和巳にとって、鮮烈な<夢>とはいったい何だったのだろう。私にとって、<高橋和巳>とは永遠の謎であり、永遠の序説なのである。
思想性の文学の根底にある虚無的色彩はついに晴れることなく、「なお解決できていない何か」は、もう永遠の謎となってしまったが、切り裂かれた闇の精神の光芒が世界を開示する。あえかな蒼氓の睡り、死の想念に取りつかれた少年の不安な荒野は、無上の優しさに満ちていたのだろう。夢は初源の豊熟に向かい、灼きつくすような確かな手触りだったにちがいない。容易に知り難い根源的な生の重みの淵で、はじめて足を踏み入れた<幻の国>の空と雨と海の混沌が、静かな飛沫を上げる。
私にはまだこの国のことどもは、なに一つとして理解できなかった。
高橋和巳の<
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2006/06/22
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