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公方繚乱

   

 

「むっ」

 と思わず口を噤む。汗が首周りに噴き出ていた。

 蝉時雨の裏山の緑が眩しい。長く、暑い一日になりそうだった。

 鶴岡八幡宮の周りは、昼前の照りつけを受け警固した兵が厳かに立ち尽くしていた。鳥居の前には華やかな百五十騎の軍馬が、整然と轡を並べている。本殿ではすでに神楽が奏でられ、舞殿で舞童による舞楽が奉じられていた。三ノ鳥居をくぐり源平池を見て、さらに石畳の参道を行くと、流鏑馬道(やぶさめみち)が横切っている。その先に舞殿と若宮があり、聳え立つ大銀杏の傍らを登ると、随神像を安置した楼門と回廊をめぐらした本宮だった。拝殿にはすでに御神火(みあかし)がともされていた。

 文安四年(一四四七)八月二十七日。永壽王丸の十五歳の門出だった。

 水干(すいかん)姿の若い頬が、緊張にいくらか蒼褪めている。神官に白い注連(しめ)のついた榊枝(さかえ)ではらわれたあと、静かに回廊を渡る。ふと、かすかなめまいのようなものを覚えて、少し足元が乱れた。 

 それに気づいた近習が、

「いかがなされました?」

 とおもむろに訊ねた。 

 深みのある声だった。

「いや」

 小さく応えた。

 社殿の鮮やかな丹塗(にぬ)りの色が目に沁みる。吹きさらしの虚空に、火焔が燃えさかっているようだった。気を取り戻すと、昂然と眉を上げていた。回廊には着飾った武将たちが、威信をかけて悠然と詰めている。刻々と待ちつづけたこの日のために、いずれも緊張の(きわ)に達している。また、招待された関東の諸将たちも(しわぶき)一つしないで神妙に席に着いていた。

 元服は古式にのっとり、厳粛に行われた。永壽王丸の髪を束ねて結い上げる初元結(はつもっとい)があり、それが終わると、烏帽子(えぼし)を頭上にいただく加冠の儀となる。烏帽子親(えぼしおや)本間遠江守秀綱(ほんま・とうとうみのかみ・ひでつな)が、奉公衆の一人の老将としてその任を果たした。烏帽子親とは後見人のことで、すべての儀式をすすめる。一つ一つの動作を、誰しもが固唾(かたづ)を飲んで見守っていた。永壽王丸は、ここに将軍義成(のちの義政)の一字を得て成氏(なりうじ)と称することになる。すなわち足利成氏、鎌倉公方の誕生だった。君恩とはいえ、すべて鶴岡八幡宮の御加護のためだというのが護持僧の戒めだった。

「成氏とよ。この日を待っていた。父や兄者(あにじゃ)に、見てもらいたかった」

 喉元が裂けるように大声で叫んでいた。

 声にならなかった。

 (かくま)われていた信濃国守護土岐持益(とき・もちます)邸を慌ただしく発ったのは七月末。造営中の御所が完成するのは秋になってからということで、当初、山内の龍興寺や浄智寺に入る。何とも不安定な公方(くぼう)のありかただったが、それもしかたがない。京都の幕府方に反逆して敗走し、自害を余儀なくされた父足利持氏(あしかが・もちうじ)居館の跡はその片鱗すらなく草が生え、何一つ忍ぶよすがもなかったからである。

 祝宴の席はその日の午後、政所(まんどころ)の執事である二階堂頼綱(にかいどう・よりつな)の屋敷を、仮御所に仕立てて行われた。大広間の奥の板の間の上段の円座に着いたとき、若い公方成氏はほっとした気持ちになった。だが、烏帽子に直垂(ひたたれ)がなじまないまま、またいつもの憂愁の淵に沈んでいた。主賓の前の左右の列には酒肴の食膳が並び重臣たちが坐った。いずれも無紋の直垂(ひたたれ)に、山吹や白青の狩衣(かりぎぬ)、薄色や濃紫の指貫(さしぬき)などを着たきらびやかな出立(いでた)ちである。新たな鎌倉殿を盛り立てようとする一日晴れだった。

 塗りの酒杯が回る。調進役の大草加賀守(おおくさ・かがのかみ)による心づくしの料理の鷹や野猪肉のほか、生菜、葱、赤小豆、蕎麦、油餅。それに、珍重な鯉が焼かれて器に盛りつけされている。招待客は新たな鎌倉公方の一世の華やぎに酔った。

 だが、祝いの席は、やがていいがたい沈痛のうちに過ぎていった。いたたまれない気持ちのまま、成氏は何も癒されなかった。暗い血だけがたぎっていった。

「この祝言(しゅうげん)に鎌倉の実力者である管領(かんれい)殿が出て来られない。どういうことだ」

「いや。これでいいのだ」

「うむ。上杉憲忠(うえすぎ・のりただ)殿は何といっても公方の仇だからの」

「そこだ。これで鎌倉が安泰であればいいがな」

「そうもゆかぬて」

「さて」

 と重臣心たちは声を落として言った。

 成氏にとっては父持氏を、永享の乱(一四三九)で自刃に追い込んだ上杉憲実(うえすぎ・のりざね)の子である憲忠は関東管領の要職にあった。まぎれもない仇敵である。その憲忠がこの晴れの席に出ないのは恭順の意を示していることだったのか。

「どうなる?」

「そこよ。先は闇よ」

「管領上杉家は、怨敵」

「馬の糞にまみれて地獄に落ちるがいい」

「うぬ。この手強い怨敵一族をどうするか」

「上杉氏の権勢をどう削いでゆくか」

「そう。せっかく公方をいただいた関東の平安はない」

「さて。難問山積だ」

 祝いの酒に酔い、重臣たちはそれぞれ顔をしかめあった。

 何代もの肉親同族が憎悪し、血を流し、覇を競ってきていた。たまさかの同盟など何の保障もない。機会があればいつでも攻撃の矢を向けるが勝ちの骨肉相食(あいは)む世界であった。 

 翌日から、鎌倉殿は凛々しい姿で御座の間についた。補佐役から鎌倉関東の現状やその経緯の報告があった。若い公方は一つ一つの政務に懸命に当たってゆく中で、日に日に愁いを秘めた目が怪しく煌き、烏帽子に蘭を裾どった狩衣直垂姿に精悍の気が溢れていった。関東足利氏嫡流としての誇りだったのだろう。

 その政策方針の一つに、父持氏に尽くした里見家基(さとみ・いえもと)の子義美(よしざね)や、結城氏朝(ゆうき・うじとも)の子氏広(うじひろ)らを重用する。それは上杉氏に対抗する旧結城グループの有力豪族を中心にした体制を確立するということであった。成氏はこれらの勢力と固く結ぶことで、磐石(ばんじゃく)の守りを図っていった。だが、この動きはたちまち一方の管領上杉憲忠とのあいだの対立をますます深める結果になる。かくて、波瀾含みの一年が暮れる。

 明けて宝徳二年(一四五〇)四月。

 形ばかりの花の宴に酔ったつかのまの春が夢のように過ぎていた。

 花が散り出した四月半ば、鎌倉公方の居館は、ときならぬ馬蹄の音が入り乱れた。反逆と陰謀が館を取り巻く。山内上杉の家宰長尾景仲(ながお・かげなか)と、扇谷上杉(おうぎがやつ・うえすぎ)の家宰太田資清(おおた・すけきよ)の連合軍が成氏の館に襲撃をかけたのである。上杉氏は一門の勢力の増大により、山内と扇谷に分かれていたが、いったんこれが結合すると天下無双の力となる。自分の領国を治めるのに、新たな鎌倉の権威体系は邪魔だった。上杉党の呵責(かしゃく)なき攻撃である。 

 慌ただしい邸内にそそり立ち、

「大軍だな」

 補佐役の重臣の一人が兜の緒を締めて言った。

「ほざきおって。だが、二百の手勢ではとうていだめだ」

 一人の老臣が沈痛に応えた。

「いったん、ここは退却しようぞ」

「うむ。やむをえまい」

「おっつけ、千葉、小田、宇都宮の救援が駆けつけることになっている」

 元服を終えたばかりの少年の背筋を冷たいものが走った。人馬が天地に動揺している。赤地の錦の鎧直垂に紅端匂威(くれないはたにおいおどし)の鎧が重い。成氏は唇を噛みしめる。しばらく、辰星の吉凶を待つ。折から、叢虫は花底に声を争った。

 連銭葦毛(れんせんあしげ)の馬に跨ると、緊張に頬が紅潮していくのが自分でもよく分かった。血潮が胸のうちで激しく波打っている。

「恐れながら」

 老臣が前に進み出て言った。

「うむ」

「ひとまず、ここを退却します。ご辛抱を」  

 上杉党は檄を飛ばし、いまにも御所を焼き払う勢いである。公方の権威も面目もあったものでないが、まともに向かって行く手はない。

「よし。では、体制を整えよ」

 成氏は声を低めて言った。

御意(ぎょい)

「しかとな」 

 鎧の下で、成氏は唇を震わせた。

 これが栄えある初陣か。信濃で過ごした少年時代、武芸や軍陣の(ふう)に育てられた。青地錦(あおちにしき)の直垂に甲冑(かっちゅう)をつけ、太刀に弓を執り、南庭に下って騎乗の式を上げたのは七歳のときだったか。 

 公方館から二百の兵を率い、脱兎のように江ノ島へ向けて駆け抜けた。旗が虚空にはためき、不安と恐怖の一夜を過ごす。翌日、敵方の長尾軍が腰越浦まで攻め入って来ると、合戦は由比ヶ浜でも行われた。両軍の一進一退のたたかいだった。潮騒(しおさい)に花が舞った。振り上げる白刃が血糊に淀む。

 巳の刻(十時)を過ぎた頃だったか。怒涛の勢いの千葉、小田、宇都宮、小山氏の援軍が駆けつけ、成氏軍に加勢した。矢叫びに、太刀や馬蹄が戦場に唸りを上げて響きわたる。こうなると形勢はみるみる逆転していった。成氏軍は長尾・太田連合の上杉軍を、七里ケ浜にじりじりと追い詰める。後退する諸将の兜の前垂れは折れ、鎧の袖が引きちぎられて血に染まってゆく。

 春の海が目に沁みるように眩しい。(たか)ぶる五百騎の前に、上杉軍の郎党百二十余人が討ち死に、残りの部隊は相模の糟屋庄へ早々と敗走した。碧い波涛が、静かに浜辺に寄せていた。 

 鎌倉に戻ると、早々に休むまもなく成氏は鶴岡八幡宮に戦勝報告をした。そのあと、すぐ江ノ島合戦の戦後処置として、京都の幕府に両上杉家の家宰長尾・太田らの排除を願い出る。実力をたくわえたこの二氏の芽は、一刻も早く摘んでおかねばならない。それが、新たな鎌倉府再建構想の眼目の一つだった。

 

 だが、幕府はこの願いを却下した。

「しからば、長尾・太田氏に加担した武士たちの本領を没収する」

 成氏は苦々(にがにが)しく言った。

 上杉方は何かと京都に通じてその政策に()けていた。敗北した諸将の所領没収は当然のことであるが、その処置に対する上杉方の抵抗は激しく、公方と管領のあいだの溝は容易に埋まることがない。 

 機をうかがっていた長尾景仲は上野(こうづけ)で一族を糾合すると、またすぐ成氏打倒の旗色(きしょく)をかかげ、この動きに応じた公方党はまたも警戒を強めた。軍議は連日、深更におよんだ。 

 享徳三年(一四五四)十二月。

 公方、上杉方の双方の歩み寄りがあり、両者の話し合いが行われることになったのは暮れの大詰めの一日であった。長年の公方と管領家の確執はいかようもなく、親子代々からの仇敵同士がそうやすやす信頼しあうわけにもゆかないが、どこか一点でも共有することができれば、それに越したことはない。

 管領上杉憲忠が西御門御所に招かれたのは、その日の午後のことである。北風が裸木の梢を鳴らしている棟門、唐門を四方に開けた御所に入り、(まなじり)を険しく曇らせた憲忠は、緩んだ烏帽子の緒をしめなおし、長い廊下を急いだ。反目し、一触即発の情勢だが、お互いの腹がどこまで読めるか分からないまま、なぜか今度だけは一縷の望みを託していた。

 ふと憲忠は風の音に、黒鞘卷の短刀を無紋の狩衣の下に確かめる。供の者も玄関で待たせてきたのだが、これでよかったのか。

「はて」

 奥の広間に通されて、時間がたった。

 かすかな不安がよぎった。と、面を上げたときはすでに遅かった。やにわに襖障子が開け放され、それと同時に、勢いよく向かってくる影があった。声を呑むまもなく漆黒の一団に襲われていた。

 一瞬、二十二歳の管領は、血しぶきを上げて倒れた。重臣結城氏広の兵の太刀が閃き、首が無惨に転がった。一瞬の出来事だった。その争乱に耳をそばだてながら、若い公方は別室で、藍摺(あいずり)の直垂の袖に蒼白な顔を埋めて、ただ震えていた。 

 年が明け、関東の大地には暗雲が垂れ込めた。松の内が終わって、底冷えの日がつづく。鎌倉府の評定は難航した。

「鎌倉は管領上杉方とのたたかいに明け暮れるのだな」 

 成氏は小さく呟いた。涼しい目を煌めかせている。

「はい。性懲りもなく長尾景仲、太田資清ら二千騎が押し寄せてきます」

 と武田右馬助(たけだ・うまのすけ)が身を乗り出して言った。

「上杉憲忠の弔い合戦であろうが、さて」

 水野基政(みずの・もとまさ)が蒼然として言った。

「いかにも。このままでは危ない。さすれば鎌倉を出て、一気に立河原、分倍河原に陣取りましょうぞ」

 尖り立った声で言ったのは岩松持国(いわまつ・もちくに)である。

「長い(いくさ)になるな。おのおのぬかるな」

 筑波真朝(つくば・まさとも)が膝においた拳を固く握りしめている。戦局は厳しく、安閑としているわけにゆかない。

「相分かった。頼む。鎌倉ともしばしさらばだ」

 若い成氏は半ば微笑を浮かべて言った。葦毛の馬が引かれ、薄金色(うすがねいろ)の鎧が篝火の炎に映えている。

「殿。立派にご当家をお守りください」

 老臣の二階堂頼綱(にかいどう・よりつな)が潤んだ目を向けて言った。

「覚悟しておる。余はいつも父や兄者を忘れたことがない。このたたかいが運命の転機になるな。敵の勢力は当代きっての名将、勇将。百戦練磨の長尾・太田ら上杉党。だが、恐れることはあるまい。いってみれば、これは公方足利成氏が鎌倉府の御家人(ごけにん)を率いて、凶徒上杉を退治するものではないか」

「御意」

 形ばかりの出陣の宴だった。大盃で酒を三度酌み干す。(あわび)、勝栗、昆布が調進されていた。

 凶徒上杉を討て、は、二十歳の男の自信と野望だった。すでに、そこに少年の面影はなかった。かくて、決戦の火蓋が切られた。一色宮内小輔(いっしき・くないのしょう)、武田右馬之助、岩松持国、筑波潤朝を中心に構成された成氏軍は武蔵の立河原、分倍河原、高幡において連日の死闘を繰り広げていった。ことに正月二十一日、二十二日の合戦はいちだんと激しく、両軍ともに死傷者が続出する。

 軍兵は駿馬に鞭を上げた。 

 東西に駆走し、南北に飛行(ひぎょう)した。 

 古戦場には矢が飛び交った。

 成氏軍は、あとから立河原に着いた上杉軍に奇襲をかけ、その本流に突進していった。動揺する敵陣に、さらに軍馬が殺到する。たたかいは二日間つづき、死者百十名をかぞえる。こうなればさすがの上杉勢も総崩れとなり、上州と河越の両方にやむなく退いた。

 成氏軍は歓声を上げた。しかし、その年の三月になって、戦略に長けた上杉方は巧みに京都に通じ、あろうことか「鎌倉殿御退治」の御旗を掲げて逆襲に出た。これによって、成氏追討の綸旨(りんじ)を得た駿河の今川範忠(いまがわ・のりただ)、越後の上杉氏連合の三千騎が鎌倉に怒涛の勢いで攻め込んできた。

 軍配の冴えが目立つ両軍の前に、軍馬が駆け、血刀が唸った。怒号と絶叫のなかで、成氏党の石堂、一色、里見、世良ら百五十人がたちまちのうちに討死してゆく。そこへ、ふたたび上杉軍の新ら手の五百騎が息もつかせず雪崩れ込んだ。とっさに、いやおうもなく公方軍は引いた。

 たたかいは容赦なく、死闘のかぎりをつくした。しかも、この戦では鎌倉の御所をはじめ谷七郷(やつしちごう)の神社仏閣などことごとくが焼き払われるというありさまで、尊氏卿より成氏の代にいたる六代の相続の財宝が失われ、鎌倉は亡所となった。 

 やむをえまい、と成氏は兜の高紐を強く引き締める。横一文字に結んだ薄い口元が思いなしか震えている。

「終わった。余の力がまだ足りぬ。すまぬ。京に和睦を申し込むか」 

 声を低めて言った。

 夜天を火が焦がしている。

「いえ、いえ。戦はまだこれからでござる」 

 侍大将の馬加康胤(うまが・やすたね)が声を詰めて見上げた。

 不敵な面構えが火の粉を浴びている。

「燃えているな。無念だ。夢であったか。鎌倉を逐われる」

 独り言のようだった。

 成氏の心は渇いていた。

「されば、古河城(こがじょう)へ参ります。ご案じめされるな」

 小山持政(こやま・もちまさ)が力強く言った。公方への奉仕ぶりは徹底している武将だった。下野の古河城は結城合戦で駆けつけた野田氏が戦に破れて行方をくらまし、無人になっている。

「相分かった。よし。酒盛りしようぞ」

 暗い輝きを秘めた精悍な目で、成氏は深く頷く。

 そして、なぜか、笑いがこみ上げてくる。

「どうなされました?」

 近習が駆け寄り、さぐるように訊ねた。

「いや。何でもない。運命が味方してくるであろう。古河へ参る。結城氏の縁故の国だな。しかと頼むぞ」

 (さる)の刻(午後四時)になり、成氏は軍扇を振り上げた。 

 旗差物や(のぼり)が風にはためく。成氏軍は隊伍をととのえ、脱兎のごとく鎌倉を駆け抜ける。鮮やかな退却戦だった。追手はない。一糸乱れぬ行進がつづいた。

 御家人、郎従など八百五十人をしたがえた公方成氏が、古河城に入ったのは康正元年(一四五五)六月のことである。 

 三方を壕に囲まれ、土塁を巡らせた平城は微雨に薄曇っていた。 

 古河は南西に利根川、西に渡良瀬川(わたらせがわ)を控えた関東平野のほぼ中央。豊かな穀倉地帯である。古来、鎌倉の源頼朝に忠勤を励む武士団が割拠し、土豪小山氏は南北朝の争乱に呼応して挙兵、関東十二ケ国の軍勢をむかえるなど、常に主要な軍事的拠点となっていた。かくて、成氏はここに本拠を構える。古河公方(こがくぼう)である。 

 東国の古名家である千葉、小山、宇都宮、結城、佐竹、那須、小田、壬生氏を関東八条家と称し、さらに梁田、梶原、本間、佐々木、二階堂、町野、海老名、町田、佐野、畠山、安西、上野氏の鎌倉府以来の家臣団が周りを固めた。

 東国武士たちはしぶとく、また、高らかにうそぶいた。負けず嫌いの功名心に燃える力ずくの世界だった。たたかった者には、必ず報いがある。そのためには卑劣な手口を使い、相手をだしぬいても功名をめざして恩賞にあずかる。命がけでたたかう猪武者ともなれば、形勢不利となれば方向転換するのも早い。そうした功名と忠誠に貫かれた武士たちは、女あさりにも長けていた。都から流れてきた白拍子を相手に小唄舞いに興じる粋な武将もいれば、稚児ぐるいにうつつを抜かす。

 公方成氏は古河を拠点に東上野、下野、下総を抑え、さらに武州、甲州、相州を味方につけた。たたかいで勝ち取った城には家臣を配置し、また所領には御料所を隈なく設け、知行替を実施した。これに対して、上杉方は利根川を挟み、西上野、武蔵、相模を支配下においた。 

 戦火は広がり、兵将の(むくろ)が晒される。 

 寒月が塵埃に影をまじえ、紅血に光を染めた。

 火焔に逐われ、逐われるままに、たたかいつづけているようだった。

 軍兵の喚声と血しぶきの中で、いつも怒りがこみ上げていた。春が去り、冬がきた。時は慌ただしく駆けめぐった。沼や深田で囲まれた武州騎西城(ぶしゅう・きさいじょう)の近くに、成氏は父持氏、兄の安王丸、春王丸の念願の供養塔を建てる。臨済宗大光山龍興寺。その宝筺印塔(ほうきょういんとう)を龍興寺に建てたのは、中興開山の曇芳和尚が、父の伯父に当たるためだった。

 ああ、父よ。兄者よ。

 

   

 

 古河公方足利成氏は、数奇な運命を辿っていた。

 さかのぼること、約二十年余前の応永三十五年(一四二八)三月。青蓮院門主義円が還俗し、三十六歳で六代将軍になった。義教(よしのり)である。前代未聞の籤引きによる就任である。四代将軍義持(よしもち)はその子を亡くした後、後継について何も言わないまま没した結果、兄弟が将軍の座を石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)の籤引きで決められることになった。これは管領畠山満家(はたけやま・みついえ)らと議した“闇の宰相”三宝院満済(さんぽういん・まんさい)らによる機略であった。護持僧として公式の祈祷に励んだだけでなく、満済はすでに将軍義満、義持に尊崇され幕政に深く関与していた。このとき、後嗣選定の籤を外された弟の大覚寺門跡義昭(よしあき)は生涯のライバルとなった。

 

「悪御所――」 

 という自分に当てつけられた噂を聞きつけたとき、将軍義教は蒼白な頬を痙攣させた。

 その日も客殿へ向かう足音がいつになく早い。 

 控えの間で、廷臣たちは目を伏せた。 

 背筋に思わず悪寒(おかん)が走った。薄氷を踏む日々のなかで、将軍は何をいい出すか分からない。

 だが、義教はそれを聞き、むきに否定しなかった。それよりも、全国の有力守護の力の均衡上にある不安定な室町幕府の基盤を固めることのほうが急務だった。

「何としても、断行せよ」 

 と義教は冷酷に言い放った。 

 それは恐怖の専制政治を行うことだった。 

 一つ、公卿諸侯を容赦なく更迭し弑虐せよ。 

 一つ、南北朝内乱の根を完全に絶つべく大覚寺統・南朝皇胤を処断せよ。 

 一つ、南都北嶺や五山の僧徒の暴虐を押さえよ。 

 一つ、関東公方・足利持氏を鎮圧せよ。 

 幕府の権威を不動のものにし、頽廃した綱紀を立て直さねばならぬ。義教は有無を言わせなかった。意にしたがわぬ公卿、僧侶、大名、廷臣は、すぐ処断した。

 そのかたわら、連日、室町第に驕奢な宴を張る。将軍は猿楽、連歌、酒宴に酔った。祝いごととなると大般若経を修し、猿楽を張った。香が焚かれ、管弦が囃され、人々は酒に酔う。都中の傾城(遊女)や白拍子が集められた。

 観世座の猿楽は洛中洛外で評判だったが、将軍義教は小男の世阿弥をなぜか嫌った。

「世阿弥の花など笑止よ。唐織の派手な小袖を着流した物知りなどに用はない。元重、手並みを見せい」

 将軍は世阿弥の甥をもっぱら重用し、世阿弥父子を露骨に圧迫する。観世一座はすべての権勢から外される。そのために、老いた世阿弥は佐渡に追放される。”乞食(こつじき)の所業”を至高の美にまで高めた一介のわざおぎ。能役者の芸の奥義を花に問い、足利家の内情に通暁したこの小男の小賢(こざか)しさが、鼻持ちならなかったのか。いや、それとも、南朝に出自を持つ世阿弥一派は、一刻も早く抹殺しておくべきものだったからか。すでに、世阿弥の父能阿弥も、子の元雅も不慮の死を遂げていた。  

 また、室町第では月次歌会、連歌会が盛んに行われていた。そうした連歌のある日、義教は朝から興奮し、いずれ「北野神社に参篭(さんろう)、一日一万句連歌を張行(ちょうぎょう)」の計画をひそかに練る。連歌は公家、武家、僧侶が一座して風雅をともにする、三代将軍義満以来の足利家のサロン文化の精髄だったからでもあろう。

「われ還俗将軍(げんぞくしょうぐん)をもって冠とせず」

 その義教の将軍就任に、真っ向から反対したのが鎌倉公方足利持氏である。

 暦応元・延元三年(一三三八)京都に室町幕府をひらいた足利尊氏は、二男基氏(もとうじ)を初代の鎌倉公方に派遣する。基氏は関東方の反乱を鎮圧して、鎌倉府の管轄する十カ国の支配体制を確立させた。だが、そのあとを後嗣した氏満(うじみつ)満兼(みちかね)、持氏はいずれも幕府と徹底的に対立してゆく。関東は京都にとって、一大敵国の観を呈していた。 

 鎌倉の持氏は義教の将軍就任に賀使を送らないのみか、翌二年(一三三九)に永享と改元されてもその年号を用いず、しかも鎌倉五山の住持を勝手に任命するなど、ことごとく義教に対抗した。

 将軍はこうした鎌倉方の出方をうかがい、実際の関東制圧に乗り出したのは永享四年(一四三二)四月になってからのことである。”富士遊覧”と称して二万騎を配し、鎌倉牽制のために駿河に下向した。それは公卿諸将をしたがえた豪勢な旅だった。むろん、持氏は出向かなかった。 

 二年後の永享六年(一四三四)三月、持氏は鶴岡八幡宮に大勝金剛尊の等身像を造立し、血書の願文を捧げる。

「呪詛の怨敵をはらわん」

 というもので、そこには鬼気迫るものがあった。 

 怨敵とは、将軍義教であり、関東の反持氏派の京都御扶持衆(きょうとごふちしゅう)のことだったか。それに加えて、関東管領の上杉憲実が、鎌倉府の一切の問題を双肩に負い、幕府とのあいだの調停に当たっていることも、持氏には許しがたいことだった。

 五年後の永享十年(一四三八)、持氏の信濃出兵を管領上杉憲実は諌止する。また、長子賢王丸(義久)の元服に当たり、将軍の(いみな)を受ける鎌倉府開設以来の慣習を破ったことについても、憲実は強く諌止した。 

 二人の不和は深まっていった。恒例の八月十六日の放生会(ほうじょうえ)の翌日、持氏は憲実を退治しようと画策する。しかし、それを察した憲実は、いち早く鎌倉を出奔し上野白井城に退去した。持氏は憲実追討の軍を起こす。それが幕府の鎌倉府討滅の口実となった。

 永享の乱の勃発だった。

 持氏は武蔵国府中の高安寺に陣を取る。将軍義教は憲実の急報を受け、持氏討伐のために、駿河の今川範忠、甲斐の武田信忠(たけだ・のぶただ)、信濃の小笠原政康(おがさわら・まさやす)ら二万五千騎を向ける。上野にいた上杉憲実も白井城を発ち、武蔵の分倍河原に南下した。憲実が兵を挙げたということで、関東の諸将の多くはこれにしたがった。ついに決戦となり、両軍は激突を繰り広げた。

 持氏の軍勢は、相模国風祭、早川尻の合戦で幕軍に大勝したあと、海老名に陣を移す。この持氏の出陣中の十月、留守大将の三浦時高(みうら・ときたか)が反乱し、鎌倉の御所が焼き払われるという事件が起こっている。たちどころに、火は逆巻き、燃え広がった。持氏の嫡子義久は報国寺に逃れる。つづいて、安王丸、春王丸は下野日光山別当坊に走った。 

 四男永壽王丸は瑞泉寺の僧昌在に守られ、炎のなかをくぐる。恐ろしい火焔地獄だった。烏帽子、鎧、直垂、喉輪、臑当(すねあて)毛沓(けぐつ)、それに脇差などの小具足に身を固めながら、幼い命は恐怖におののく。漆黒の影に追われ、夢の中の奈落に突き落とされていった。甲斐を経て、足早に信濃の土岐持益邸に向かう。赤い炎が不気味にめらめらといつまでも燃えつづけ被さった。

 持氏軍は分倍河原に、上杉勢と対陣した。だが、十一月末。形勢の不利をさとって観念し、粛々と鎌倉に戻る。称名寺で剃髪し恭順を示した。将軍義教は、その命乞いを許さなかった。翌十一年二月、上杉憲実の軍に攻撃され、持氏は自害。四十二歳、首を打ち落とされた。同じく義久も自害、十四歳だった。このほか叔父満直(みつなお)以下三十余人、自害。永安寺三重塔に籠った持氏夫人以下数十人の女房たちも火をかけられ、焼死した。谷からの風が火の粉を吹き流した。ここに、尊氏の子基氏から持氏まで鎌倉公方四世九十年が亡び、関東支配が終わる。持氏の死により、関東はその主を失った。ところが、この永享の乱はさらに結城合戦を引き起こす。 

 永享十二年(一四四〇)三月。下総国の豪族結城氏朝が挙兵したのである。

 そこには、持氏の遺児である安王丸、春王丸が奉じられていた。里見修理亮(さとみ・しゅりのすけ)、大須賀越後守、宇都宮等綱、小山広朝らが結城城に駆けつけ、下総古河城の野田右馬助、関宿城(せきやどじょう)の下河辺一族が氏朝に呼応した。賀茂社には、早々に「源安王丸征夷大将軍武運長久」の発願が掲げられた。 

 これに対し、幕府は二万の連合軍を結城城にさし向ける。 

 九月になって、雲霞の軍勢が駆けつけ、城は一挙に囲まれた。

 たちまち(やぐら)にかけられた火が風で広がり、城中は火焔に包まれる。城の東の切崩しに追い込まれた兵は弓矢に射抜かれ、太刀を浴びてのけぞった。悪戦苦闘の繰り返しだった。まもなく手勢は散々に打ち叩かれ、空しく敗退し、籠城せざるをえなくなっていった。

 起死回生の策はもはやどこにもない。結城城に総攻撃がかけられたのは、戦がはじまって一年後の嘉吉元年(一四四一)四月。満開の花の下に振られる太刀に血飛沫(ちしぶき)が舞った。

 押し寄せる怒号の大軍の真只中へ、軍兵たちは遮二無二に飛び込んでゆく。籠城の五百騎は、しだいに勢いも矢種もつきようとしていた。

「さ、さあ」

 静かに太刀を引き抜いた結城氏朝は、顎の張った無骨な顔に薄化粧していた。

 さすが関東一の切れ者にも、疲労の影が忍び寄っていた。血だらけの鎧の草摺りが重たい。

「敵を蹴散らいでくれん」

 口髭をしごきひと息入れると、大手の矢倉に駆け上がる。

「残念ながら、味方これまで」

 武将の一人が頭を下げた。口から出た鮮血が流れ出し、直垂を染めている。

「おう」

 すでに、氏朝は思いきわめていた。

「今はこれまでぞ」

「はっ」

「無念なれど・・・・」

 氏朝は空を睨みつけるようにして言い、

「若君を落とし申さん。その後、心静かに腹切ろうぞ」

 大音声(だいおんじょう)あった。もはや死をもって武門の面目を立てるしかない。 

 合戦の怒号のなかに、骸が折り重なった。結城父子は討死した。

 安王丸、春王丸は女装して逃れたが、捕えられる。長尾因幡守(ながお・いなばのかみ)が警護して京都へ護送する途中、美濃国青野原に来た時、幕命で誅すべきことが伝えられた。二人は垂井の金蓮寺で殺害された。十一歳、十三歳のまだあどけない少年だった。

 結城戦場物語過去によれば、最期の読経を終え、静かに二人の少年は舞ったという。

        

  いける思いはいかばかり。  

  いまのわれらが後の世の。  

  闇をてらさせたまはんな。 

 

 二人の首はただちに京都に送られた。 

 将軍義教は、その首実検のとき、気分が勝れなかった。それで、いつもの気まぐれから、安王丸、春王丸の乳母を呼び寄せ、

「ふむ。持氏の子にちがいないか」

 くぐもった声で訊いた。 

 乳母はその首を見つめていた。

「いかがじゃ」

 将軍は唇を歪め、目を背ける。 

 乳母は黙っていて、何も答えなかった。そして、表情も変えず舌を噛み切り、その場に息絶えた。 

 安王丸、春王丸の首は、六條河原に懸けられた。その横には結城合戦で命を落とした根本五郎、加茂部加賀守など大将分の首二十九個が同じく(きょう)せられた。 

 そのとき、信濃に(かくま)われていた四男の永壽王丸は六歳。幼いために助命が赦された。だが、父や兄たちに引き離されたまま戦乱の火焔をくぐり抜け、いったいどこへ行こうとしているのか。流亡の切り裂く深い闇に脅えた。いつもその漆黒の闇に息をひそめた。生きるということは、陽を浴びないことであった。怒りと恐怖に身をすくませることだった。歳月はたった。麒麟児は育っていった。

 

 年来の関東にケリをつけた幕府は喝采を上げた。 

 将軍義教は上機嫌だった。

「護摩を焚け。管弦を奏せ」

 早速、盛大な祝宴が張られる。 

 ライバルの大覚寺義昭を九州で自刃させた直後、鎌倉公方足利持氏を自刃に追い込み(永享の乱)、それにつづく結城一族も抑え(結城合戦)、宿願の関東争乱がやっと鎮定することができたのである。義教の威力はいやがうえにも高まっていた。

 だが、思いがけない運命の糸が手繰られていた。 

 嘉吉元年(一四四一)六月二十四日。

 京都は梅雨に入った鬱陶しい日が続いている。 

 義教は、赤松満祐の西洞院(にしのとういん)二條上ルの館に招かれた。喜色満面の将軍は、関東平定の祝賀の猿楽を楽しむ。将軍は走り衆(警護役)や、多くの華美な大紋の狩衣に着飾った大名をしたがえていた。 

 酒盛りと歌舞管弦に人々は晴れがましく酔った。だが、演能中の合間の一瞬、奥の間から突進してきた赤松家の刺客の一団に気づいたときは、すでに遅かった。武具に身を固めた一団が、座敷中央の将軍に飛びかかった。 

 膝を立てるまもなく、黒い烏帽子が転がった。

「何だ、これは・・・・」

 叫ぶまもなかった。 

 白刃を浴びた室町将軍は血に染まり、あっけなくその場に斃れて息絶える。

 世にいう嘉吉(かきつ)の変である。下剋上(げこくじょう)のはじまりだった。

 幕閣は鳩首協議した。不安は隠せない。家督を継ぐ病弱な義勝は十歳。すぐ崩じ、そのあとを継嗣した弟義成は、まだ八歳だった。幕政は揺らぎ、人心が動揺した。関東では、旧結城グループを中心にした諸将による討議が重ねられる。永壽王丸の鎌倉帰還運動が、しだいに高まっていこうとしていた。

「一時は、将軍の子息でということで決まった鎌倉公方の話も、将軍横死でご破産になった。将軍の縁者である京都御連枝(きょうとごれんし)では、もはや、東国を統治できまい。永享の乱、結城合戦を経て、上杉家が実権を掌握しているとはいえ、このままでは関東は収まり切れない。それには、関東足利氏の縁者が何よりふさわしい。よって、一刻も早く信濃の永壽王丸さまを鎌倉に迎えるべきだ。また、それが亡き関東公方持氏公の当然の権利でもあるだろう」

 下総の千葉氏が言った。

「永壽王丸さまは、何といっても鎌倉公方初代、足利基氏公の玄孫だ。若君を関東の主君として、いまこそ迎えねばなるまい。しかも、これについては、関東管領の上杉憲実殿も、永壽王丸さまを推挙されているようだ」 

 常陸佐竹氏が合槌を打った。

「はて、そのことよ。憲実殿は管領職を子の憲忠に引き継いで安心したのか、伊豆に引退。出家して、放浪の旅に出てしまったようだ。何しろ、永享の乱では持氏公を死に追いやった張本人だからな。いずれにしても、京都もじっくり考えてもらいたい。このままの情勢では、関東の諸将を統括するのはますますむずかしくなってきている」 

 と下野(しもつけ)小山氏が息張った声で言った。

 はたして、宝徳元年(一四四九)二月。 

 寒気が押し寄せていた。夜来の雪が降り止まない。幕府の三管領である細川、斯波、畠山は協議を重ねた。六代将軍義教が謀殺されて以来、将軍継嗣について不幸がつづき、幕府は少しも安泰ではない。慈悲をもって天下を治めなければならなかった。関東に若い主君を立てることによって、争乱が収まるのなら、京都にとってもこんなに喜ばしいことはない。幕府は承諾し、御太刀と馬を下賜した。 

かくて、若君は関東公方として、信濃から鎌倉に入った。

 

   

 

 ――思い知れ。 

 思わず叫んだ。 

 公方成氏は双眸(そうぼう)を開いた。(うな)されていたようだった。

 風よ、おれは美しく病んでいる。 

 怒れ、ひとときの愛と残虐。 

 地獄の血の滴りに目覚めるのだから。 

 何か夢のようなものが、輝きながら蒼ざめて広がっていった。いつものことだった。

 その後も上杉軍との合戦がつづいた。この戦のなかで、関東の大半がしだいに成氏の勢力下に入る。成氏鎮圧にほとほと憂慮した幕府は、先に渋川義鏡(しぶかわ・よしかね)を探題として鎌倉に派遣していた。たが、さらに将軍義政以下、幕僚は一策を立てる。それは天龍寺に入寺していた将軍の弟足利政知(あしかが・まさとも)を還俗、下向させるということだった。

 長禄元年(一四五七)十二月。

 足利政知は意気揚々として京都をあとにした。幕府からは管下十二ケ国の警察権などの権限が与えられていた。ところが、箱根を越えると、政知の一行は鎌倉には入らず、伊豆堀越(韮山町)に向かった。この源頼朝以来の由縁(ゆかり)の地に館を建て、伊豆を知行(ちぎょう)することになる。鎌倉には住もうにも御所とてなく、成氏軍にいつ襲撃されるかわからないからである。堀越公方(ほりこしくぼう)の誕生である。これによって関東の有力武将は、古河、堀越公方の二手に分かれ、覇を競っていくことになる。関東に成氏が居座っているかぎり、幕府は少しも安泰ではない。諸将の足並みは乱れた。

 幕府は駿河国今川義忠(いまがわ・よしただ)に堀越公方政知への援助を命じた。また、信濃国小笠原光康(おがさわら・みつやす)、上野国岩松尚純(いわまつ・なおずみ)に、足利成氏を討伐するよう厳しく命じる。これにより膨れ上がった成氏討伐軍は怒涛のように押し寄せた。成氏軍は伊豆国に出兵する。公方の内には策謀が渦巻き、報復と悲痛な怒りに全身をたぎらせる。士卒の意気は、いやが上にも高まった。

 関東の覇をめぐり、戦局は慌しく変転した。関東管領の上杉顕定(うえすぎ・あきさだ)の諸兵が政知勢に来援すると、こんどは形勢がみるみる逆転してゆくというありさまになった。屈強の軍団の前に壮烈な気力がしだいに削がれ、公方軍はじりじりと後退してゆく。成氏はやむなく馬首を返した。全軍が潰走した。追撃されながら古河城に戻ったが、そこへさらに上杉顕定配下の武将長尾景信(ながお・かげのぶ)の追撃を受けねばならなかった。有無を言わせぬ景信軍の死闘の前に城兵がつぎつぎに倒れてゆく。

「くそ! これまでか」

 成氏は竜頭(りゅうず)の兜の緒を引き締めた。 

 だが、なぜか不思議にこのまま討死するとは思わなかった。かえって力強く己れが研ぎ澄まされていく。

「見ろ、地獄に堕ちるがよい。それがお前の運命だ」

 血の雨が飛び交う中で、敵将の長尾景信が轟然と唾を吐いた。

「ええい。ぬかせ」

 と憤然と成氏は言った。

 堪え切れぬ惨めさがどこかにあった。

「おう、ほざけ。喚け。これが最期とな」

「やれ、何とな。勇ましいのう」

 吼える犬を成氏は見下した。

「さ。さ。腹、腹掻き切ってみせよ」

「ふむ。いかにも。これしきのこと」

「ぬしは負われ者よ。足利の棟梁の外れ者よ。迎えられて、大人しくしておればいいものを、結城氏に千葉氏に手なずけられたかよ。このままでは関東も収まらないわ」

 と眦を引き裂きながら、景信は威厳を取り繕っていた。

「そうかな。お前は上杉になびく端武者(はむしゃ)か」

「ええい。小癪。覚えておれ」

「なあに。真の戦乱の渦はこれからが見ものよ。何も知りもせぬに」

「やあ、死太(しぶと)い奴め」

 と鬼髭を振るわせる景信の言い散らす声に、

「おのれ、図に乗るなよ」

 馬上の成氏はその鞭を握り締めた。

 景信の不敵な姿がたくましい郎党とともに迫ろうとしていた。

 怒号の中で城に火の手が上がった。そのとき、激突する両軍の間隙を縫う主だった成氏勢が若い盟主の前後を守り、

「者ども、早ゃ!」

 脱兎のごとく走り抜ける。

 骨肉相食む戦場を後に、草深い畦を掻き分けて全軍は退却した。

 成氏は千葉孝胤(ちばたかたね)を頼った。致命的な損傷を受け惨として声なきまま、牙を磨く。怒り、悶え、切なさが沸騰する。そして、日に日に強烈な野望が燃えていった。名将と呼ばれなくていい。名門の狭小な自負心など、この坂東の荒野に捨ておくがいい。そうよ。多くの血を流して、おれはいったい何を失い、何を獲ようとしているのか。

 半年後、古河に迫った。大号令がかかった。塁と堀を突破し、一の門、二の門になだれ込む。その麾下(きか)に多くの勇将、猛将を擁する軍略長けた結城氏広の一軍の激突である。一刻ばかり、死闘が繰り返された。二百名足らずの長尾氏の手勢は、しだいに悲鳴を上げていった。

「逃げよ」

「うわーっ」

 寄手は大軍である。まもなく、長尾軍の郎党は混乱と狼狽のうちに蜘蛛の子のように四方に散っていった。

 古河城をふたたび奪回した成氏は、意気揚々と入城する。戦乱の常とはいえ、一戦一戦を勝ち抜くしかない。ぬかりはなかった。この地に覇を唱えるかぎり、酷烈に攻めつづけなければならぬ。城館の周りにはさらに堅固な土塁や石畳が築かれ、櫓が組まれ、兵器兵糧が貯えられた。

 激戦が繰り返されていった。長禄三年(一四五九)十月、武蔵太田庄で上杉房顕(うえすぎ・ふさあき)、上野国越後国守護上杉房定(うえすぎ・ふささだ)が交戦した。どうやら、これに加えて関東、奥羽の雲行きも、いちだんと険しくなってきている。

「これは高見の見物か。上杉同士の激闘じゃ」

 公方は重臣に向かって言った。

 非情な運命のまま、年来の上杉氏といかにたたかうか。成氏は憎悪にみちた目を剥いた。

「越後、駿河にも上杉援助の令が下ったらしい」

 政治軍事の評定が終わった一日、成氏は老臣日下部国親(くさかべ・くにちか)に言った。

「さように心得ております」

「これでは京都もおちおち眠れないであろう」

「御意」

「おお。両上杉氏。問題はその両家の拮抗。また、それを巡る長尾、太田一族の興亡だな。愚か者め。いずれ素首(そっくび)抜いてやるわ」

 翌年の寛正元年(一四六〇)十月になると、しだいに関東情勢の危機感に陥った幕府はその関東・奥羽の諸将をいっせいに束ねるという策を取り、成氏討伐の発令を下す。幕府が関東の()に進むことは、何も今にはじまったことではない。依然として、京都、鎌倉の関係は一筋縄でゆかぬところにきている。儀礼的な問い合わせ、質問、提案、回答を持って、城主の意を受けた使者は、日夜、東西を駆け巡っていた。成氏は不敵に笑った。

 

 寛正元年(一四六〇)から明けて二年。

 全国的な旱魃と長雨が襲来。各地で飢民が続出した。路傍には餓死してゆく者が打ち重なった。京都へは数知れず流亡する者たちが押し寄せた。飢えて骸骨になっている子を抱えた老婆が、のたれ死んだ人のあいだをさまよう。二十万、三十万人が洛外の野や丘に倒れ、息絶えた。

 奇特な僧たちは飢民に粥を与え、行き倒れの死体を集めて埋葬し、土を盛って塚をつくった。

 鴨川には死屍折り重なり、流れを堰止めていた。 

 河流は、黒い死のかたまりで埋めつくされた。

 屍の腐臭は都大路にただよった。

 夜空には異様な光りが飛び交う。 

 天狗流星だ、と京童は話している。 

 将軍義政は政治をかえりみず、東山の華麗な山荘でもっぱら風雅の生活に狂っていた。各地守護大名の反目やその家督をめぐって将軍の力は形骸化していくばかりだったが、妻の富子、その兄日野勝光(ひの・かつみつ)や近臣の伊勢貞親(いせ・さだちか)が幕政に権勢を振るうようになると、いっそう義政は政治への意欲を喪失してゆくようになる。

 折しも、夜亥の刻、坤方より艮方へ光物(ひかりもの)が飛び渡った。

 それは天地鳴動の先触れだったか。人々は天狗流星という噂におびえた。

 はたして、土一揆(どいっき)が蜂起した。

 少しも平安な日がなかった。

 人々は不安のどん底に喘いでいた。 

 天変地異がつぎつぎに起こった。 

 一揆は頻発し、夜盗が横行した。

 

  天下ハ(ほろば)(ほろび)ヨ。

  世間ハ(ほろび)ヨ。

  人ハトモアレ我ガ身サヘ富貴ナラバ。(『応仁記』)

 

 自棄的な風潮が世を被っていた。何の不義なく、また何の忠もなかった。風の向くまま、人々は何をしても希望が持てない。一期(いちご)は夢よ、ただ狂えとも囃された。

 失政と腐敗に世は混乱を極めた。

 土一揆が頻発し、徳政令は十日に数回も出され、経済は混乱した。

 だが、将軍義政は邸宅の造営に腐心し、花見、猿楽、酒宴、社寺参詣の栄華に明け暮れた。寛正五年(一四六四)四月には、義政の命で音阿弥は鞍馬勧進猿楽を糺河原(ただすがわら)で三日間興行。将軍、諸大名、摂関、諸公卿がこぞって見物している。思えば、三十年前の永享五年(一四三三)四月、音阿弥は同じ糺河原で勧進猿楽を興行し、父六代将軍義教がこれにのぞんでいる。そして、風流三昧(ざんまい)に生き抜く義政は、気ままに花卉(かき)や茶器を五山諸寺から徴収する。しかも、二十九歳の将軍は隠居することを決めると、弟の浄土寺義尋を還俗させて後継者にした。足利義視(あしかが・よしみ)であり、今川殿と呼ばれる。

 山城国に、京畿のいたるところに、土一揆が蜂起した。

 土蔵が襲撃され、放火された。

 幕府は諸将に鎮圧を命じるが、効き目はなかった。

 少しも平安な日がなかった。

 人々は不安のどん底に喘いでいた。 

 天変地異がつぎつぎに起こった。 

 一揆は頻発し、夜盗が横行した。

 天下は破れ、世間は滅びよ。 

 守護大名の相続争いが深刻化し、叛乱が繰り返されていった。

 将軍家、管領畠山、斯波両家の継嗣問題の争いの発端が、細川(東軍)、山名(西軍)の有力守護大名の勢力争いにもからみあってゆく。

 応仁元年(一四六七)一月、大乱が勃発した。世にいう応仁の乱である。

 天下を二分する大乱は、東軍二十四カ国十六万千五百余騎、西軍二十カ国十一万六千余騎。東軍は後土御門天皇や義政、西軍は足利義視を擁した。後南朝の宮も西軍に迎えられて、梅松院に入ったという。市中の激突は、もっぱら足軽が戦力の中心となり、虐殺、放火、略奪が行われた。彼等は矛を持たず、ただ一剣で突入して敵兵を倒し、または生け捕りにした。

 義政に義尚(よしひさ)が生まれると生母日野富子(ひのとみこ)は山名氏を頼り、細川は将軍後嗣の義視を助けた。

 文明三年(一四七一)十二月、天に彗星が光る。

 天下大乱の兆しだと、人々は動揺した。彗星の光長は五尺、幅三四尺、「日本開闢以来無類」と異本塔寺帳に記録されている。希代の珍事であった。宮中では毎夜、祈祷が行われた。

 戦闘は長期化し、京都は焼野原となっていった。内裏をはじめ、公家武家の邸宅、社寺や由緒ある文化財がことごとく焼亡した。

 諸大名は勝手な行動を取り、多くの公卿は都落ちしてゆく。祖先が東夷と蔑んだ武士の家を慕っていく者も少なくなかった。餓えをしのぐためには、家財道具や貴重な代々の文献書籍もつぎつぎに手放す。或る貴族は何も着るものがなく、一丁の蚊帳にくるまって応対しなければならなかった。学問芸道を修め邸宅と桃華坊文庫を焼失した前関白一条兼良(いちじょう・かねら)は、からくも奈良に難を避け、その息一条教房(いちじょう・のりふさ)は佐渡に逃れる。公家、僧侶はいっせいに地方へ下った。

 戦火は十一年つづき、文明九年(一四七七)にいたって、ようやく鎮定した。

 だが、この結果、幕府はまったく無力であることを露呈し、諸国の騒乱をますます激化させていった。

 関東争乱に巻き込まれ、公方成氏は三十半ばになっていた。むろん、上総国の居館にあっても、京都の動向は手に取るように分かっていた。洛内、洛外にぬかりなく放っている者からの情報網ができていたからである。

 足利幕府の滅亡は、もはや時間の問題だった。叛逆の牙を研いで執着を絶てない自分が、なぜか憐れだった。 

 おお、のしかかる無力の青白い炎。 

 無明の闇に腐り果てる愚か者。

 

   

 

 その日は朝から晴れていた。 

 評定が終わって母屋に戻ると、成氏は静かに白湯(さゆ)を飲んだ。庇を上げて濡れ縁に出ると、初夏の爽やかな陽射しがここちよい。いつもの癖で、顎の髭を左手の指で梳くように撫でる。武強の風尚として、多髭者があがめられる時代だった。ひと呼吸して、部屋に戻ると、右筆の天納宗嶺(あまのそうれい)が小袖と袴に身をただして控えていた。宗嶺は学問を好み、歌を詠むが、常に武人としての並々ならぬ気迫に満ちている。

「武蔵鉢形城(はちがたじょう)にたたかいがはじまりました」

 と天納宗嶺は言った。その面差しは、清雅の気に満ちている。

 宗嶺は、公方成氏が信濃の土岐持益の屋敷を出て、鎌倉入りした日以来、右筆の一人として召しかかえられていた。右筆は軍陣に同行し、文書作成に当たるほか、公方の仕事を補任し、諮問があれば先例を調査し意見を具申する。本来は根本家臣が公方の文書を(したた)め、その伝達の使者に当たっていたので、宗嶺の登用は特別のはからいによる。というのも、それは表向きの仕事で、実は幼く熊野入峰で山に入り、岩にしがみつき、風に吹かれ、雨露に打たれ、いわゆる地、水、火、風、空を五体に感じることができる修行を終えた彼は鬼神を駆使するようになっていた。その水の行、火の行による奇異の験術を証得し、夜な夜な海上を歩き、空を飛び、ひそかに京都、吉野の情報を隈なく探っていたのである。

「そうか。どうせ、主君山内の上杉顕定に背いて長尾景春(ながお・かげはる)が兵を擧げたのだろう」

「仰せの通りでございます」

「あれは主家に家宰の地位を奪われた怨みの戦だな」

「はい」

「くたばれ、外道(げどう)・・・・」

 成氏は小さく呻くようにして言った。

 長尾景春の父景信には古河城を攻略されるなど屈辱の過去があるが、しばらくして、

「よし。紙と硯を持て。幕府と両上杉宛てに直書(じきしょ)を出す」

 筆を手にすると若狭料紙に一気にしたため、書判(かきはん)を据えた。さらに、御内書や奉書を手際よく処理していった。

「ところで、宗嶺。そちはいくつになった」

「はっ?」 

 宗嶺は息を呑み、

「四十五になりました」

「そうか。鎌倉へ上がり、この古河に来て十七年になるかな。若い頃は京で諸僧と詩筵(しえん)に連なっていたのであろう」

 口調は低いが、暖かみがあった。

「宗嶺。たまには、噂に聞く正徹(しょうてつ)の歌をよんでみたいものじゃの」

 それだけ言うと、席を立った。武辺一徹の成氏だったが、詩歌についても深い理解があった。

 豪胆な武蔵武士とはいえ、京都の影響もあり連歌を好み、それぞれ歌会などを催していた。その陣所で千句を張行、たたかって死ぬ直前には京の都から招いた宗匠に発句を所望するということもざらでなかった。もとより成氏も連歌に無縁でなく、『雲玉和歌抄』には「寄国祝をあそばしける成氏朝臣殿」として、「三の代や五の時をうけつぎてこの日のもとぞひかりかはらぬ」と、この辺鄙な関東における詠歌が録されている。

 ちなみに、清巌正徹は京都・東福寺の書記で十二年前、七十八歳で亡くなっているが、多くの大名や連歌師との交友を広げた。一時、気ままな将軍義教から忌避された冷泉為尹(れいぜい・ためただ)に師事。二条、飛鳥井、冷泉の歌風にあきたらず、藤原定家の有心歌風をめざす独特の妖艶な余情美を追及する高名な歌僧だった。大乱の火災では、二万五千の詠草を失った、とも伝えられている。

 長尾軍に古河城を襲撃され、占拠されたのは文明三年(一四七一)九月のことで、まだ半年もたっていない。思えば堀越公方政知と対陣するために、伊豆へ出陣したあとの隙を狙っての猛攻だった。 

 幸いなことに、留守居のわずかの軍兵、騎馬、歩卒に守られた成氏の女房眷属は、かろうじて近くの関宿城に逃れて助かった。

 関宿城は利根川と江戸川の分岐点にあり、かつて南朝の柱石である北畠親房が籠り、『親皇正統記』を著した関東の名城の一つである。このとき、成氏軍は武州から駆けつけた上杉顕定の大軍に押されて下総に潰走し、千葉孝胤を頼ってゆくという何とも不覚の一戦だった。それから、二カ月。戦力を必死の思いで整えてはきたが、まだ不安は拭い切れない。完膚なき敗北の汚辱は流離の公方の誇りを深く傷つけていたからだ。

 結城氏広らの救援を得て、まさに死中に活をもとめて、古河城を再攻撃してその居城を取り戻すことができたのは、それから二カ月経ってからのことで、成氏の生涯において、最悪の状態だったといえる。

 その後、五つの櫓門をそなえた古河城は、突貫工事で改修されたとはいえ、まだ、一部戦火がくすぶっていた。館は乱暴狼藉の限りを尽くされ、文書や資材雑具もことごとく塵灰となっている。復旧にともない、新たな居館として壮大な鴻巣御所(こうのすごしょ)の設計構想がすすんでいるところだった。

 また、新たに城内に信濃国諏訪上社の祭神を遷し、家臣一同の武術鍛錬の祈願所としたが、この年、成氏の嫡男政氏(まさうじ)はちょうど五歳で腕白ざかりである。同じ五歳で父を失った成氏は三十四歳で子を持つ父親となった。その子の弓始の儀の打ち合わせを終え、土居をめぐらせた本館の奥の大広間に入ると、重臣たちがそれぞれ緊張した面持ちで待ち構えていた。 

 評定は長尾景春対策からはじまった。 

 山内上杉家の家宰として鳴らした長尾一族には、二十一年前の鎌倉時代以来、襲撃を受けてさんざんな目に遭わされている。それだけに、恐怖心がどうしても絶えずつきまとっている。忘れようとしている過去が、凶暴な憤懣とともに絶えずつきまとう。

 だが、重臣たちはいつになく、血気に逸っていた。

「鉢形城に籠った景春には、国人や一揆層が支えている。この戦は長引く。油断はできまい」

 と箕輪頼秀(みのわ・よりひで)が野太い声で言った。髭の濃い赤ら顔が、いつになく嶮しい。

「上杉勢二百騎の鎮圧軍が、すでに鉢形城に向かっている」

 瞬きもしないで一点を睨みつけていた辰野晴信(たつの・はるのぶ)が身を乗り出して言った。

「鉢形城は断崖をそのまま城壁にした天然の要害。して、いかが?」

 気負った声で、小幡康継(おばた・やすつぐ)が訊いた。

「ふむ。構うな。しばらく捨ておけ」

 成氏は不機嫌に言いすてた。

 所詮、上杉一族のたたかいでないか。そう思うと、激しい気性を身うちに抑えていた。

「そのように」

 家臣の長老たちは一礼した。

「今、慌てて鉢形城に向かうこともあるまい。その内、攻略する者がきっと現れる。それを待て」

 翌朝、城下は濃霧につつまれた。よくあることだが、昼近くになっても晴れなかった。

 天納宗嶺が書院に招ばれ、渦高く積まれた政務の文書に当たっていたとき、

「宗嶺、そちはどう思う?」 

 と成氏が声をかけた。二人のほかに誰もいない。

「はっ」 

 宗嶺は静かに声を詰めた。少し沈黙が流れた。

「この機に、一気に上杉を叩き潰すべきであろうな。余が兵を挙げるなら、いまだ。鉢形城を攻め、上杉勢を木っ端微塵にやっつける」

「ご明察」

「いざとなれば、大覚寺統をかつぐ反京都勢力と連合する。奥吉野には後南朝の一軍が控えておろう。長年、上杉方には苦しめられてきたが、これが潮時かもしれぬ。どうだ。ええい、じれったい。それを訊いているのだ」

「いかがでございましょう」

 宗嶺は恭しくその面差しを上げた。城下の霧はまだ晴れていないようだった。

「黙れ! 宗嶺。なぜ、行けと言わぬ。なぜ、いますぐ兵を出せと言わぬ。余に嵐ともなり、鬼にもなれと、なぜ言わぬ。龍が(おこ)れば雲を呼ぶ。野望を持ち、天地を駆けよと」

「・・・・」

狼煙(のろし)の旗を掲げて、京に迫ることが夢でなかったか。()きてもって、功を立てる武人であろう。詩、書、礼、楽の四術はともあれ、海を行き、山を駆け、天を明らかにすることでなかったか」

「いえ。京にはまだ遠いみちのり。一道を承け、一芸に携わり、一気一心にお仕えし、忠をいたし、命を捨てるは人臣の道と思っております」

「言うな、憐れな奴。そんなことを聞いているのではない」

「えっ」

「包まず申せ。刀を抜かず、声を発せず、どうするというのだ」

「殿のおめでたいご凱旋の日をお待ちしておりますれば・・・・」

「ふん。何をめでたく凱旋するか。運命などものともせず、たたかえ! 悪逆無道といわれていい。血の湯気だつ城主といわれていい。もっと残虐に、大胆に、なぜなれぬ。たたかい、たたかいまくれ! おお、この流血咆吼する関東をなぜ治められないのだ。言ってくれ。戦国争奪の世に、余はいつも自分の血を罵っているだけだ」

 成氏は苦悶していた。それが宗嶺にはよく分かっていた。

「殿、天道乱れては月日も触し、星辰も運行を違えます。ご自分をお責めなさいますな」

「そうであったな」 

 しばらくして成氏は自分に戻り、小さく言って笑いを浮かべた。いつもの静かな笑いだった。

「ところで、京都では、義政殿が九歳の子義尚に将軍職を譲ったという。夫人日野富子がすべての政治の実権を握った。義政殿の生活は、相変わらず華美を極めているようだ。政治には無能なまま、月や花にうつつをぬかす大たわけ()」 

 公方は抑揚のない語調で言った。

 蔀に陽が少し翳り、深く礼をして天納宗嶺が去ると、隣室から地を這うような声がかすかに流れてきた。オン、コロコロセンダリマトウギ、ソワカ・・・・、オン、マユラキランデイ、ソワカ・・・・。

 

 文明八年(一四七六)二月。

 上杉対策に公方成氏は、長尾景春と同盟した。その暮れの十二月、明け方に成氏党は北に向かって行軍。これに対し上杉方も白井城を出て、広馬場(北群馬)で応じた。だが、大雪となり、合戦は中止される。両軍は白銀の中で、静かに退いた。いったん退くと、成氏と上杉顕定とのあいだに和議が成立した。

 戦局は絶えず動き、その裏でさまざまな調略が行われていた。挑発、暴略、裏切りは日常茶飯事で息つくまもなく、たたかいの火の粉が上がった。

 その後も小競り合いがつづくなかで、鉢形城の攻防戦があったのは文明十年(一四七八)七月。扇谷上杉の太田持資(おおた・すけきよ)が臨機応変の策を立て、一挙に鉢形城に攻め込んだのである。本家上杉氏を壊滅させ城主に収まっていた長尾景春は、当初、荒川の急流に切り立つ断崖の上の難航不落の城のことで高をくくっていた。だが、城壁を突破した太田軍に城内はたちまち割れかえる。長尾景春も態勢を引かざるをえなくなり、上野に敗走した。鉢形城を取り戻した上杉顕定は高らかに旗を掲げ、太田持資は会心の笑みを浮かべる。

 そうこうしているあいだ、京都を焼け野原にした応仁の乱が終わり、南朝皇胤の小倉宮の王子が、越後より越前へ移ったという。また風の頼りに王は東海に流れ甲州へ行き、小石沢観音寺に御座。そして、文明十一年(一四七九)七月、熱い夏の午後のことだったか。あるいは、相州に流れ、空しく追い返されたとも。「六日、此年霜月、王流サレテ三嶋ヘ付き玉フ也、早雲入道相州ヘ送賜也」(『妙応寺記』明応八年七月条)ともある。

 むろん、成氏はそれについては沈黙していた。

 かつて、父持氏が大覚寺義昭と共謀して後南朝軍とともに将軍義教に反旗を翻し、奥吉野・天川村に挙兵するという動きのあったことも、すべては時の流れが、忘却の彼方へ押しやっていこうとしていた。成氏も、もう若くなかった。暗闇のなかで、相変わらずどす黒い血だけが奔流していた。

 上杉方との和睦は、その後、幕府と古河公方との和睦の交渉に発展していった。

 文明十四年(一四八二)十一月、成氏と幕府との和睦が成立する。これは「都鄙御合体」といわれた。 

 一方、太田持資は剃髪して道灌と名乗ることになる。

 その道灌による鉢形城の鎮圧で、主家扇谷の上杉定正(うえすぎ・さだいえ)の名が広まり、それが管領上杉顕定にとっては大きな恐怖になっていた。日に日に不安がよぎる。

「このままの状態では、太田道灌を擁する扇谷(おうぎがやつ)上杉家は、管領たるわが山内上杉家をますます圧倒する勢いになっていく。さて、思案はないか」

 心の動揺を隠し切れずに、上杉顕定は重臣たちに呟く。

「どうしますか」

 軍議は沈痛に落ち込む。

「このまま、見過ごしているわけにはゆかぬ。うむ。ここは定正殿と話し合ってみよう」

「はっ」

「余に考えがある。越後の上杉房定と共謀し、太田道潅を失脚させる」

 上杉顕定は知略をめぐらせると、主家の上杉定正に讒言した。

「定正殿。油断めさるな。長尾退治の太田氏の勢い。よろしいかな。太田道潅はその後も、足軽の集団の直属軍を編成。武蔵、相模、上野、下総で転戦をつづけ、武州、相模の群小領主の組織化にも力を注いでいる。とんだ歌詠みよ」

 顕定は主家の事情を危ぶんだように言う。

 知略を張り巡らせて力をたくわえる太田道灌は定正を補佐し、同時に関東歌壇で活躍していた。江戸城ではたびたび詩歌会を開き、自讃歌注釈を著したりしている。武蔵上戸の陣所で千句張行したことのある顕定は、かねがね太田道灌のなみなみならぬ才にも羨望を覚えてきていたのである。

「なるほど。あの江戸城、河越城を補強した道灌。そこまで増長しおったか」

 狭量な定正には武蔵、相模に動かぬ基盤をきづいた太田道潅の行動に少なからぬ不信があった。それが一気に焚きつけられたかたちになる。

 顕定は三十三歳、定正は四十三歳。見かけは剛勇を誇っているが、定正は疑い深く神経質な男だった。二人の話は一致した。

 ときに文明十八年(一四八六)七月。上杉定正は、太田道潅を相模糟屋の館に招き暗殺した。

「当家、滅亡なり」

 五十四歳、道潅は最期に叫んだ。 

 熱い一日だった。上杉定正はあざとく笑った。だが、太田道潅謀殺により、定正は関東の諸将の信頼を失っていった。 

 軍略、軍勢の統率、行政手腕の懸引きに長ける顕定は、そこでまたも老獪にことをはこぶ。甲斐に潜んでいた道潅の子持清(もちきよ)と策を練ると、一変して定正を仇として狙うことになる。顕定と敵対することになるとは、定正にとってはまったく思いもかけない誤算だった。両上杉氏の対立が深まっていった。 

 古河の成氏公のもとに、狼狽する上杉定正から援を乞う丁重な使者がきたのは、その年の晩秋のことである。このとき、成氏の嫡子政氏は従四位下左馬頭。二十一歳になったところで、色白の目鼻立ちのととのった美男子だった。人柄の優しく気弱なところがあって成氏には父親として気になるが、家督相続前から上杉定正に擁せられていた。

 長享元年(一四八七)十一月。 

 公孫樹の葉が黄色く色づいて、関東特有の北風が何日も吹き荒れた。

 成氏は機を見るに敏であったか。せっかくの幕府との協定である「都鄙御合体」を破棄し、新たに定正と同盟を結ぶことを表明する。合戦はいつ、どこで起こってもおかしくない状態だった。翌年二月、相模の蒔時原、六月、武蔵の須賀谷原、十一月、武蔵高見原で、敵味方合わせた三千騎が激突した。謀略の太刀が陽に煌めき、軍兵は血と泥にまみれた。成氏は迷走した。両上杉家の確執は熾烈に高まっていた。

 公方家の勢力の衰退は、もはや誰が見ても明らかだった。 

 馬齢を重ね、無口になった。若い頃は酒を飲むとよく苛立った。女を(ねや)に侍らせ、見境もなく飲んでは喚いた。欲情の(すさ)びに身をまかせ、また、少しでも気分が塞ぐとすぐ諸肌(もろはだ)ぬぎになり、城内の馬場へ出て、愛馬に鞭を当てることがあった。ぐっしょり汗をかいたあとは、慌ただしく湯殿に駆け込んで熱い沸かし湯を浴び、やっと落ち着く。重臣たちは主に取りついた正体の知れぬ怪物が去っていくのを、ただ待つしかなかった。 

 それがいつの頃からか、公方成氏の心にはぽっかりとしたゆえしれぬ大きな穴が開いていた。得体の知れない怪物がなりを鎮めたようだった。だが、そのかわり、開いた穴の塞ぎようがなかった。苦しかった。生き残るためには、その叫びを殺していかなければならない。それが己れの孤独というものであることを知ったとき、

「老いぼれたな」 

 と悄然として、目を伏せた。 

 日が昏れて、座敷に紙燭が灯った。

「小萩を呼べ」

 その夜、寵愛する女の舞姿を見たいと思った。

 宴はいつも深更におよび、明け方にもなる。京から下ってきた遊女の手酌に、このところ成氏は機嫌がよい。これまでの寵妾では癒されぬものがあったからだ。この坂東では、噂に聞く京の公達や武将の好む連歌、猿楽、それに連日の酒宴というわけにはいかないが、成氏はその遊女の熟れた甘い色香に酔った。おそらく、都の大乱で東下りした公家の(むすめ)なのであろう。紅梅散らしの小袖の下には、豊かに息づく乳房が弾んでいた。その女との交わりは京の夢を見ていることだったのかもしれない。

 奥の寝室に入ると、

「ところで、そちの夢とやらは何なのだ」

 いつもの酔った勢いだった。

「上様。また、お戯れを・・・・」

「舞うことか。歌うことか。男をねぎらうことか」

「何と仰せられます」

「京で見た夢を聞かせてくれ」

「夢なんて、もうとっくにありませぬ」

「いや、いや。“戯れせんとや生まれけむ”だ。ふむ。あってはならぬ切ない夢。人が持ってはならぬ空しい夢。絢爛と汚辱をつむぐ夢が、余を引き裂いてゆく。欺いてゆく。天下は栄えて、(つい)えるものよ」 

 しなやかな肌が匂った。

「いいえ。夢なんて、何も深刻に考えるものでありますまいに」

 女が言った。

「何、何と?」

「いえ」

「ぬかすな」

 女の薄色の寝間着が乱れた。 

下弦の月が中天にかかっていた。

     

   

 

 腹が減っていた。 

 夏草が蒸せかえっていた。 

 太陽が炒りつくすようだった。唇も、舌も、喉も、干し上がっている。小高い丘の草叢の熱気に、目がくらんだ。馬蹄の音の響きに、ふと草叢を掻き分けて見下ろすと、右手の雑木林の向こうから騎馬の行列が土煙りを立てながらすすんで来る。青色の旗指物が揺れている。

「おい。見たか」

 身を伏せながら男が言った。

 黒糸威(くろいとおどし)の破れた腹卷きに血に滲んでいる。

「おうよ。どこの軍団か」 

 傍らの男が投げ遣りに言った。 

 綻びた脛当(すねあ)てをつけている。

「おお、十騎、二十騎。いや、五十、まだ続く。疾風(はやて)のようだ」 

 と黒糸威は興奮しながら言った。野太刀を思わず強く握っていた。眼下に隊列を整えた槍隊、弓隊、騎馬、徒歩(かち)隊が砂塵を巻き上げ、疾駆していく。栗毛の馬に股がる鎧武者は侍大将か。

「や、や。凄い勢いで駆けていく。誰だ。あの武者は?」

 と脛当てが言った。 

 暑い、口が渇く。やりきれい。

「知らぬのか、おぬし。あれが天下の古河公方の軍団よ。見ろ。流れ旗には桔梗の紋がある」

 と太々しく黒糸威が言った。

 赤銅色の頬の刀傷が疼く。

「何い! あの鬼神と恐れられる公方だと」

 脛当が素っ頓狂な声を上げた。

 竹筒を引き寄せ、水をがぶがぶ飲んだ。

「そうよ、太田道潅が殺され、その直属軍が壊滅したからには、こちとら飯の食い上げ。どこへ行けばいいのだ。雑兵は、また死ぬを限りに大旗小旗に吸い寄せられていくまでよ。おい、どうする? さんざんに山内上杉の端武者に追い回された。槍のひと突きで殺られるとこだった。賭けるか、この首。公方に」

 黒糸威はぺえっと唾を吐いた。身体がうずうずしている。 

 雑兵には武術も戦略もなかった。諸国を放浪し、徒党を組み、腕力にうったえるしかない。気力と自信が頼りだった。いつもは身をもてあまし、戦の状況によっては機敏に大将を変え、一揆の筵旗(むしろばた)を手にしたあぶれ者の群れにもなった。

「何でも古河の城は、渡良瀬川に突き出た難攻不落の名城とかだ。さて、京の都の大乱で、公卿は西へ東へ落ち延びた。それに混じって木偶(でく)まわしや猿まわし、法界屋、遊女などの雑芸人が箱根を下った。いまじゃ、古河の成氏公の城には、京の紅を塗りたくった遊女がさんざめいているとのことよ」

「知ったことか。ほざけ。喚け。なあに、鍬や鋤を野太刀に変えてやっていくまでよ。おい、脛当。いや、菊童丸さま」

「ちがいねえ。戦があればもっけのもの。どこもかしこも血なまぐさい戦乱の巷。田畠は日照りつづきで、何もできぬ。どこの村も飢えた死人でいっぱいよ。おっ()あは死んだ。五月蝿(さばえ)がむらがるその死肉は、犬や鳥が食らいさった。姉は兵に犯され、妹は都から流れてきた傀儡師(くぐつし)にもらわれていった」 

 と脛当は少し声を震わせて言った。

「そうよ。傀儡女は人形を操る。流行歌をうたう。紅白粉(べにおしろい)で化粧して、春をひさぐのよ。その肌求めて、男がいっぱいむらがるのよ。のう、菊童丸さま」

 欲望をむき出しに容赦なくいう黒糸威のことばには、いつもながら心が痛む。だが、それが事実だった。

「ふん。おのれ。ぬかせ。勝手にしろ」

「おう。まあ、そう拗ねるな」

「何を、この頓馬、瓢箪、バカ野郎。もう許さねえ」

「ならば、どうする。おい」

「とまれ、飢えた菊童丸さまは村をあとにしたのよ。家の前の小川の畔に、菊の花が咲き乱れていたから、菊童丸さまよ。文句は言わせねえ。五年前のことだ。それからは、行く先々の村を襲っては火をかけた。夜盗の群れにも混じった。土倉(どそう)を襲い、盗み出した貨財を売っては走り回った」

「そうよ。それが何だってんだ」

「おお、それにしても、夏というのに風がなまぐさい。血が匂う。合戦はどこだ。どこへ行けば、いいのだ?」

 脛当は涙と涎をだらしなく垂らしていた。 

 それを見ながら、黒糸威は顔をわざと歪め、

「おい、落ちつけ。慌てるな。浅い猿知恵を働かせるな。そうよ。鬼となって生きるのよ。生きて見せるのよ」

「知るもんか」

「おい、お前を知ったのは、鉢形城へ向かう太田党の雑兵(ぞうひょう)としてだったな。蝦蟇(がま)の小六、帷子(かたびら)の蝶助、青蛙(あおがえる)の兵太、六道(ろくどう)の寅吉、それに十六夜(いざよい)の松蔵。戦場では(いい)尿(ゆばり)も一緒に駆けてやった。その仲間は、もうみな死んだ」

「死んだ奴に用はない」

「そうよな。だが、待て。この公方、果たして上杉を揺さぶれるのか。また、京に和談をもちかけて、うつつぬかすのではあるまいな」

「いや。そこが問題よ」

「よし。それならぬしは上杉を追え。暴れ者の古河公方が、幕府と和睦するとはめでたいことよ。ま、それだけ無力になったということか。憶病者、成氏公。旗色悪くなり、士気がうせたか。上杉軍が真っ二つに別れ、あっちへ靡く。こっちへ靡く。何てことだ。関東足利氏がすることか。さあ、どうする」

「何? どういうことだ」

「京都に楯突くのが、この男の生き方よ。反堀越公方、反上杉の行動あっての成氏公。悪業の宿命よ。それを臆しやがって。何てことだ。京都と和睦しくさって」

「おう。何とな」

「のう、都と鄙の合体などありえるものか。なあに。鄙がそれで静かになると思うかよ。それだけじゃない。堀越公方ともついに和睦したとかよ」

「何、ぬかす。糞ったれ。そりゃあ、面白くない」

「臆病風にやられたか、成氏」

「戦がなければ面白くない。血を浴びての東国よ。武蔵の国よ。いや、待て。相州の北条早雲が力をもたげてきたという話もある」

「おれも聞いた」

「さあ、行くぞ。おれたちに何の忠義か。忠義とは、おれを満腹にさせるわっぱ飯だけだ」

「よし。決めた」

「おれさま共は神出鬼没。放火、略奪、何でもござれ」

「わおっ。ぬかるな」

「おお、匂う、匂う。血が匂う。夕べの骸が笑ってる」

 鎌倉大草紙に記す。

 

 関東八州所々にて合戦止時(やむとき)なく。をのづから修羅道の(ちまた)(なる)。人民耕作をいとなむ事あたはず。飢饉して餓死にをよぶもの数しらず。

 

   

 

「追うな!」 

 横なぐりの雨が止んで、成氏は語気荒く言った。 

 長享二年(一四八八)六月。 

 成氏、ときに五十六歳。 

 両上杉の武力抗争はつづき、成氏軍は上杉定正に恭々しく奉じられ、高見原(比企郡)に在陣していた。 

 一方の上杉顕定は、鉢形城から二千三百騎をすすめた。戦場は雲霞のように躍り出た尖兵が入り乱れた。太刀の鍔音が響き、汗馬の(ひづめ)には血が(そそ)がれ、死骸に死骸が切り重なっていった。泥と血にまみれ、死物狂いの力が押し合った。顕定軍は、しだいに一歩引き、二歩引く。そして、一カ月後には先を争い、蜘蛛を散らすように本拠の鉢形城へ敗退した。 

 公方・定正連合の陣営には、いっせいに勝鬨が上がった。

「ただちに、古河へ凱旋しましょう」

 (とり)の刻(午後六時)に近く、侍大将の一人が沙汰を仰いだ。戦場の顕定軍へ真っ向から突っ込んだときに浴びた血が、鎧の草摺りの片袖に滲んでいる。

「そうしようぞ。用意いたせ」

 重臣が公方の意を伺うと、おもむろに言った。

「宗嶺はおるか」 

 しばらくして、成氏は背後の荒武者に言った。 

 本陣の幕張りの中に呼び出された天納宗嶺は、肩で大きく呼吸し、片膝をついた。

「何だ。余に願いごとがあるとは・・・・」

 公方は戦陣の中とは思えぬ静かな口調で言った。

「申しわけありません」

 宗嶺は頭を地につけんばかりに畏まった。

「そちがくれた正徹の写本は、その後も読んでいる。応仁の乱前後だったか。武家出身の連歌の名手の多くが、正徹の門に学んだとな。乱世を生き、道の精神を求めていたということか」

 忍びの緒が汗にべとついている鍬形兜(くわがたかぶと)を重々しく脱ぎながら成氏は言った。写本というのは『永享五年正徹詠草』のことで、数年前、京都の伝手(つて)を辿ってやっと入手したものを、宗嶺が献上したものである。

「戦のなかでこそ、連歌の花が咲きました。連歌では数寄(すき)をもってその第一としております」

 と宗嶺は腹から染み出すような声で言った。 

 周りには重臣たちが控え、幕舎の出入り口には伝令が、慌ただしく往き来している。

「余には、所詮、縁遠い風雅の道よ」 

 成氏は余裕の笑みを湛えながら言った。不思議にその声が澄んでいる。武断政治を行わざるを得ない一方、公方が論語や歌道に精進していることを、むろん五、六歳年長である宗嶺はよく知っている。その(みぎり)、歌のことを問い、合点を請い、諸家の会に臨み、文事好尚も変わりなかった。

「いえ。つきましては・・・・。”幾春も松に契りてことのはを・・・・“」

「うむ。正徹の歌だな。”吹きもつたへんわかの浦風”」

「もとより武門に生まれし身。松に契ろうとお仕えしてきたのでありませねば、勝手ながらお(いとま)をいただきとうございます」

 居ずまいをただして、宗嶺は頭を下げた。深く目を瞑っていた。

「うむ。そうか。変幻自在の公方は取り柄がなかっただろう。宗嶺、頼りにしておった。さすれば、この”わかの浦風”の写本がそちとの別れになるの」

「恐れおおくもこの四十年、殿のお側近くで思案いたしておりました。ご恩を蒙りかたじけなく存じます。もとより、お手討ちも覚悟の身の上。お許しいただき、お礼の申し上げようもありまぬ。ご一族のご武運をお祈りいたします」

 宗嶺は臣下の礼を尽くして言った。 双眼が毅然と煌めいたが、眉間の皺が寄る年波を物語っている。

「戦乱を生き抜くには、武力、戦力、知力を持つ者が最後に勝つ。成氏の和睦は方便だという声もある。笑わば笑え。天蔭ると亡鬼(ぼうき)が泣く。天地が愁え、草木も凄悲す。心の底では何も波瀾を巻き起こすことが目的ではない。だが、憐れみはいい。戦に叫び、青ざめていっそう憎しみを深くする。余はまた、押し込められ、閉じ込められ、封じ込められ、疑惑と不安にさいなまれるのだ」         

 と成氏は自嘲的に言った。

「いえ。そんなことは(おそろし)くもありませぬ。それはこの宗嶺がよく知っております」

「いや。もういいぞ」

 風が流れた。

 宗嶺はその視線をおもむろに上げた。

(それがし)、実は永享元年九月、春日大社参詣のときの鹿苑院義満公を襲って捕らえられ、六條河原で打ち首になった畠山五郎左衛門尉光正の一子なれば・・・・」    

 声を詰めて一気に切り出した。すでに腹が坐っていた。

「知っていたぞ」

 新鮮な感動に揺さぶられるように成氏は言った。

「何と」 

 宗嶺はうろたえた。

「言うな」

「はっ」

「余がそちの素性について何も知らないと思っていたか。たわけ。九日間の断食断水不眠不臥(ふが)、一日行程七里半(三〇キロ)の堂塔・霊石・名水・神祠二百数十カ所巡りの百日の荒行の満行をしてきていることもな。その命がけの行で、絶えず京都、奥吉野とも連絡をとっていたのであろう。さよう。鬼神を自由にするお前のことだ。不屈の後南朝のたたかいは、常に京都を脅かし続けた。戦雲はいつも満ちていた。だが、この関東の公方軍は動かなかった。情けないことよ」

「恐れ入ります」

「そして、不運にもその皇子たちはつぎつぎに葬られていったな。宗嶺。胸中、察するぞ」

「過分のお言葉でございます」

「わが軍も京へ攻め上がろうとした。だが、時期到来せず、たたかえば破れたのは父持氏とて同じこと。敵中突破の長いたたかいに負け戦もあったが、父祖以来のこの山河に生き延びるには執拗に、残忍に報復してゆくしかない。獣のような咆哮を上げてな。だが、関東はそれでも鎮まらぬ」

 公方成氏は暗澹とした思いで言った。

 すべてが過ぎ、季節がめぐり、めぐっていった。確かに関わりのある者が、公方の周辺でつぎつぎと亡くなっていた。まず、延徳元年(一四八九)三月、将軍義尚が近江の六角攻めの陣中で没した。二十五歳だった。その父の前将軍義政は風雅三昧の生活を送り、子を追うように同三月、五十四歳で亡くなった。また、翌年四月には、伊豆の堀越公方足利政知が没する。長子茶々丸が家督を継ぐが、同七月、継母と異母弟を殺し、家臣を弑して伊豆は乱れる。そこへ北条早雲が攻め入り、茶々丸を自刃に追い込む。堀越公方は亡んだ。

「宗嶺。して、どこへ行く?」

「はい」

「京へ戻るか。一人の宮が遁世を志し、高野へ向かおうと京都をあとにしたそうだな」

「さようでございます」

「後南朝最後の宮であろうとな。長い歳月だった。再興回天の望みなく、法師のなりで、赤袴の上に白布を重ね、従者六人を連れていたという。この”希代の仁”を追うか」

「はい。そうさせていただきたいと・・・・」

「うむ。そうか」

「許してくださいますか」

「いや。それがお前の運命だ」

「恐れ入ります」

 声にならなかった。

 不覚にも目頭を熱いものが流れていった。両手で顔をおおうと、辺りを揺るがすように慟哭していた。 

 何がこの男の内に燃え立っているのか、成氏には分からなかった。死すとも辞せず、義に生きようとする憐れだったか。老骨は晒すなよ、言おうとして成氏は口を噤み、慌ただしく床几を蹴って立ち上がった。

 思わず、天納宗嶺は手をあわせると、呪文を唱えた。オン、カカカビンサマエイソワカ・・・・。オン、カカカビサンマエイ、ソワカ・・・・。

 宗嶺の声が公方の背に小さく流れた。外では軍馬がいななき、陣払いする兵たちの声で騒然としていた。宗嶺はその場に泣き伏していた。地を這うような呪文がまた続けられた。ナムヤクルリコウニョーライ・・・・、ナムクジャクダイミョウオウ・・・・、ナムダイヘンロコンゴウ・・・・、ナイシホウカイビョウドウリヤク・・・・。

 

 その後、戦局は膠着状態がつづいていたが、明応三年(一四九四)七月。

 突然、これまでの同盟を反古にした上杉定正は公方成氏を無視する行動に出た。こんどは手を返して駿府の今川氏親や相州の北条早雲と連合すると、高見原に陣を張ったのである。昨日の味方が今日の敵である。離反、裏切り、疑惑、野望に山河はまたも陰惨に染まった。勢いに乗る上杉顕定の軍も越後上杉の支援を得て、荒川を隔てて成氏軍と対陣した。公方は皮肉な微笑を浮かべ、この挑戦を正面から受け止めようとしていた。

 ところが十月になり、総攻撃が開始される直前、川を渡って馬をすすめた定正はちょっとした不注意で落馬するという不祥事が起こる。しかも、持病の心臓病が悪化して、陣中で苦しい一夜を明かすことになる。誇り高い上杉家の棟梁としては五体を引き裂いても無念やるかたない思いであった。

 夜とともに霧が濃くなっていったが、その戦端を開くこともなく、明け方になって定正は静かに息を引き取った。五十一歳、奇怪な哄笑を浮かべたあっけない最期の死に顔だった。定正の子、上杉朝良(うえすぎ・ともよし)はやむなく河越城に粛々と軍勢を退却させる。

 その直後、公方成氏は周りの状況をよく考え、沈着に対応の手を打つ。それはふたたび上杉顕定と同盟を結ぶということだった。成氏は六十歳を越していた。家督は嫡男政氏に譲ったが、まだ、古河公方としての誇りと自負に満ちていた。

 二年後の明応五年(一四九六)三月。 

 公方軍は上杉顕定に奉じられ出陣した。

 二十五年におよぶ両上杉氏の内訌(ないこう)の行方はまだ暗澹としている。だが、城下には、早春の川風が甘酸っぱく匂っていた。

「よし、出陣だ。河越城を撃つ。よいか。これで関東の争いも終わりとしようぞ。黒鞘の太刀二振りを持て。うふふ。花咲き、夢乱れ、人は帰らで見る夢の・・・・、見る夢の南無八幡大菩薩・・・・」 

 それは声にならなかった。 

 大手門へつづく壕のほとりには、山桜が花開こうとしている。城を出た渡良瀬川の河畔まで、成氏は見送った。総大将の政氏は、赤地錦の直垂に紫裾濃威(むらさきすそごおどし)の鎧をつけ、二千五百騎をしたがえて出発した。廉直な政氏には軍事と政治がゆだねられ、柔らかな陽ざしを浴びた全身にすでに王者の風格が満ちている。軍兵たちの甲冑や太刀や弓矢がものものしく煌めき、一軍の勝敗をかけた桔梗の大旗が、龍蛇のようにひるがえった。 

 いざ、魚鱗にすすめ。 

 虎転に開け。 

 血潮が噴出したかのように、成氏は呟く。風雲急を告げていた。時代が大きく変わろうとしていた。だが、争乱とともに、自分はいったいどこへ流されつづけようとしているのか。これまでの知略と権謀術数だけではいかんともしようもなかった。胸中の修羅だけが蠢いているような気がした。

 野辺に萩が揺れていた。萩の上風だった。 

 河越城へ出陣して、一年半になるというのに、まだその決着がつかない。夏の終わりに、体調を崩した公方成氏はいったん寝込むと、様態が急激に悪くなっていた。食事も受けつけないまま、臥床(ふしど)でうつらうつらと過ごした。闇がうごめき、大流星の火の玉が六道絵巻さながらに飛び交っている。これが運命の(きわみ)かも知れない、と成氏は目に涙を浮かべながら思った。鎌倉に迎えられて元服し駆けめぐって五十年。幽冥(ゆうめい)に辿り着くまで、紅蓮(ぐれん)の炎に卷かれたまま、まだ彷徨っていなければならないのか。

 そうよ。何をひるむかよ。修羅の地獄も見たのよ。合戦に遅れれば命はあるまいて。そうよ、のう。いつも合戦死亡の声に苦しみ、夢にも幻にも聞いておったのよ。さても、この世は何も頼むにたらぬ。渇すれば飲み、飢えれば食らい、血の骸を踏み分けてきたまでよ。おおよ。甲冑の響きと太刀の音にまぎれ、甲首の転がる戦場を走ったのよ。さればこそ、神仏に背を向け、一途になったのよ。政氏を呼べ。おう、そこにいたのか。成氏は闇に喘いでいた。夢を見ているようだった。おおよ。狂い、舞いたる一期の夢よ。やおれ。政氏、相分かったな。それにしても、静かな夜だ。闇がおれを呼ぶ。さればよ。六十余州の大小の諸神、影向(えこう)ありて天下の安静を守りたれ。露塵何か惜しからん。輪廻(りんね)の業に沈みしか。おう、いかに政氏。もっと近くへ寄って聞いてくれ。おれをひとりにするな。そうよ。よく分かったか。繚乱の公方成氏朝臣が選んだ戦乱とは、こういうものだったのよ・・・・。 

 闇の呼ぶ声が遠くに聞こえた。 

 夢が漆黒の中に揺れつづけていた。 

 足利成氏の死は、明応六年(一四九七)九月三十日、享年六十五。その夜、古河城は月明かりに煌々と冴え渡った。打ちつづく合戦で血塗られた館のなかは、いつもの伽羅(きゃら)の香が焚かれたまま静まり返っている。夜が更けて、啜り泣く声があった。それは風の悲鳴のように城下に流れていった。

 

<了>

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2003/11/04

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太田 代志朗

オオタ ヨシロウ
おおた よしろう 作家・歌人 1940年 静岡県生まれ。

掲載作は、2000(平成12)年3月『イリプス』第1号初出の原題『流れ公方異聞』を補正。

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