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気の極意(抄)

《目次》

 第三章 「般若」の意味

  1 「般若心経」漢訳(玄奘)

  2 物事を大きくみる

  3 知識はこだわりをつくる

  4 善悪を超える

 第四章 観自在菩薩の慈悲心

  1 心の音を聞く

  2 他人とともに生きる

  3 経験に開かれる

第三章 「般若」の意味

1 「般若心経」漢訳 (玄奘)

 

般若波羅蜜多心経(はんにやはらみつたしんぎよう)

観自在菩薩(かんじざいぼさつ)  行深般若波羅蜜多時(ぎようじんはんにやはらみつたじ)   照見五蘊皆空(しようけんごうんかいくう)   度一切苦厄(どいつさいくやく)

舎利子(しやりし)  色不異空(しきふいくう)  空不異色(くうふいしき)  色即是空(しきそくぜくう)  空即是色(くうそくぜしき)  受想行識(じゆそうぎようしき)

亦復如是(やくぶによぜ)  舎利子(しやりし)  是諸法空相(ぜしよほうくうそう)  不生不滅(ふしようふめつ)  不垢不浄(ふくふじよう)  不増不減(ふぞうふげん)

是故空中無色(ぜこくうちゆうむしき)  無受想行識(むじゆそうぎようしき)   無眼耳鼻舌身意(むげんにび ぜつしんい)  無色声香味触法(むしきしようこうみそくほう)

無眼界乃至無意識界(むげんかいないしむいしきかい)  無無明(むむみよう)  亦無無明盡(やくむむみようじん)  乃至無老死(ないしむろうし)

亦無老死盡(やくむろうしじん)   無苦集滅道(むくじゆうめつどう)  無智亦無得(むちやくむとく)  以無所得故(いむしよとくこ)  菩提薩埵(ぼだいさつた)

依般若波羅蜜多故(えはんにやはらみつたこ)  心無罣礙(しんむけいげ)  無罣礙故(むけいげこ)  無有恐怖(むうくふ)

遠離一切顛倒夢想(おんりいつさいてんどうむそう)   究竟涅槃(くきようねはん)   三世諸仏(さんぜしよぶつ)  依般若波羅蜜多故(えはんにやはらみつたこ)

得阿耨多羅三藐三菩提(とくあのくたらさんみやくさんぼだい)   故知般若波羅蜜多(こちはんにやはらみつた)  是大神呪(ぜだいじんしゆ)

是大明呪(ぜだいみようしゆ)   是無上呪(ぜむじようしゆ)  是無等等呪(ぜむとうどうしゆ)  能除一切苦(のうじよいつさいく)  真実不虚(しんじつふこ)

故説般若波羅蜜多呪(こせつはんにやはらみつたしゆ)  即説呪曰(そくせつしゆわつ)   掲諦(ぎやてい)  掲諦(ぎやてい)  波羅掲諦(はらぎやてい) 波羅僧掲諦(はらそうぎやてい)

菩提薩婆訶(ぼじそわか)  般若心経(はんにやしんぎよう)

2 物事を大きくみる

 

  包んでしまう心

 仏陀の智慧は「般若」と呼ばれる。その言葉はパーリー語(古代インドの言葉で、南方方面に伝播された仏教はこの言葉で訳されている。パーリーは聖典という意味である)で「パーニャ」といわれるが、それを写音して「般若」と漢訳したものである。サンスクリット語では「プラジュニャー」という。「プラ」とは偉大なという意味であり、ジュニャーは知ること、知識である。したがって「大智」と一般には訳されている。「心」は心臓を意味し、ここでは真髄と解する。「経」は漢訳のときに付け加えられたもので、偉大な般若という智慧の真髄について述べた書という意味となる。

 さて、この「般若」を理解するためにはそれと相反するサンスクリット語の「ヴィジュニャーナ」について考えてみることが必要である。「ヴィ」とは分けるという意味であり、ジュニャーナは認識することである。つまりヴィジュニャーナは分けて知ることであるから、これは「分別心」といわれる。一方、仏の智慧は大きく全体的に物事を見る智慧であり、物事をこまかく分析する以前の大きな心と考えてもよい。したがって「般若の智慧」は分析的でないところから「無分別心」といわれる。

 

  人々は知識に疲れきっている

 ヴィジュニャーナは、いわゆる我々のもつ分別知識、常識である。一般に知識は分類によってつくられ成り立っている。例えば、物に対しいろいろな名前をつけることによって知識が成立するが、名前をつけることはすなわち分類することである。これは紙であるとか、あれは家であるとか、良い悪いなど、分類することによって我々の日常生活は成り立っている。

 この分別知識の発展によって科学技術が発展し、現代社会は物質的には豊かになっている。その点においてはこの知識の役割に対して大いに感謝しなければならない。

 しかしこれらの科学的知識は我々の生活すべてを幸福にするものではなく、逆に不安を与えているところも大きい。大工場の噴煙による環境汚染もその一つだが、原水爆はまさに我々のすべてを崩壊させる最大の危険性をはらんでいる。一方には豊かな物質文明を享受しながらも、その裏面においては我々を破壊するかもしれないという見えざる不安が常に人々の気持ちを襲っている。

 ソ連は崩壊した。科学的計画経済によってすべてを公平に治めようとした理想の国が不公平にあふれた国になってしまい、人々はほとんど仕事の意欲を喪失してしまっている。

 その根本理由として、人間は物質や合理性によって単純に割り切れるものではなく、一人ひとりの自由な意志なくしては、心からの満足を得ることができないということだ。科学は最も大きな幸福を人間にもたらすものであると考えていたことに対し人々は大きな反省をしているに違いない。

 

  自己を守る技術世界

 技術とはあることを実現する目的をもち、できるだけ無駄なく処理していこうとする方法である。つまり物を生産する際に、失敗や無駄なことをしないために技術が発展したのだといっても過言ではない。失敗をしないで、しかも早く目的を実現しようとすることは、本来は効率がよい筈なのだが、しかし失敗をしないようにという恐れそのものが、実は自分を抑える結果となりかえって疲れてしまう。我々は知的に、技術的に自己を守って生きようとすればするほど、伸び伸びと生きられずかえって心が窮屈になる。

 人間は万物の霊長であるという。確かにそうなのだが、一方違った観点からすれば、我々の行なっていることは決して他の動物以上のことではない。多くの動物を殺害し、環境を汚染している。人間は一見能力があるようにも思えるのだが、あるところでは動物のなかで最も弱い性質、体質をもった生きものである。そのために自分を別な方法で守らなければならない。他の動物のような鋭い感覚も早い足ももち合わせていない人間が、自分を守るためには、頭脳と知識によって補っていかなくてはならないのだ。

 

  計算は直感力を弱める

 これは次のようなことを意味している。つまり人間だけに与えられた計算や分析、知識を使っていけばいくほど、他の動物がもつような直感的感覚を失ってしまうのだ。いま我々はそのような知的に発展した状態にあるが、いずれにせよ、人間も動物である限り直感的感覚を復活させなければならない。

 計算や計画的生活はともすると防衛的に陥りやすく、その結果生命の発露が失われ、やがて神経症にまで発展してしまう。いま人々が苦しんでいるのは動物としての人間、そして高い精神をもつ人間というこの二つの側面が調和、統合されないところにある。

 神経症とまでは至らなくとも我々は日常苦しいことが多い。そのもう一つの根源は、いろいろと迷うことが多いからだ。サンスクリット語で苦とは「分かれている」といった意味を含んでいる。若い大卒の青年も一流会社に入りたいと願う。子供たちも一流学校に入学したいと思う。だが現実はなかなかそうはいかないので苦しい経験をする。これはすべて一流、二流といった分離、比較をすることから発生するものであり、主にそのような人生を送る人々の多くは神経症や苦悩を深く抱えている。その結果ノイローゼ気味になったり、極端になれば分裂症に至ることもある。

 少なくとも健康な人でさえ落ち着かない日々を過ごしていることであろう。これこそ分別心からくる苦痛なのだ。

 我々は対人関係において分別心を強くもち合わせている人と接することを好まない。その人から発散されるものにどこか冷たいところを感ずるからである。精神的問題をもつ子供たちの親にしても、意外と知的水準の高い人たちが多い。彼らは子供たちに対して他人と比較するところが多く、対社会的には競争意識が強い。そのために暖かく包んでやることが少ないのかもしれない。

 

  矛盾も真理である

 禅師、憎燦(そうさん)の言葉に次のような句がある。

「六塵不悪 還同正覚。 智者無為 愚人自縛。((りく)(じん)にくまざれば、(かえ)って正覚に同じ。智者(ちしゃ)無為(むい)なり、愚人(ぐじん)()(ばく)す)」(『信心銘』)

 六塵とは塵を意味し、それは一般社会のことである。その社会が悪いとか、あのように変革すれば良いとか、さまざまに批判するのもそれは理想でよいのだが、そのようなことに拘泥せず、そのままの現実社会を受けとっていけたらそれは悟りと同じであるという。悟れる者、つまり智者は特別のことをしないで自然にしたがっているが、愚者、つまり我々凡人は、あれが悪いこれが良いと選り好みをして、大事な人生を自ら束縛して不自由になっているのではないかという言葉なのだ。

 我々の社会には確かに良いも悪いも、矛盾もある。しかしながら、それ等を自己のなかで大きく統合していくことが必要なのである。心理学者のユングがいうように超越機能(Transcendent function)、つまり自己のなかでさまざまな価値観や矛盾した心をまとめる統合的機能がいかに働くかが個人の心理的安定にとって重要なことである。

 女性にも男性にも、アニマ、アニムスといわれる反対の働きがある。つまり女性的なものや男性的なものが、それぞれ逆の性に存在している。優しさがあったり、決断的であったり、その両側面は女性にも男性にも必要なことである。

 さまざまな機能を自己のなかに統合するように、我々は対立するものを大きく受容し、調和していく力が養われなければならないのである。すなわち我々はもっと大きな宇宙の智慧、つまり「無分別心」のもつ力に目覚めなければならないときにきている。

3 知識はこだわりをつくる

  「分別心」は個人を一般化してしまう

 分別心が決して良くないということではない。確かにそれは良い悪いといったこだわりをつくり、我々の精神的安定を失わしめることはある。だがそれは知識そのものが悪いのではなく、我々がその使い方を誤っているのだ。「分別の知」をもっと質的に高めていく必要がある。

 それには「識転得智(しきてんとくち)」という言葉の示すように、単なる知識を体験で深めた智慧に引き上げることだ。知識がなければ学問も成立しないし社会も存在し得ない。だがもう一つ、知識を生きた働きに転換する必要がある。

 分別心あるいは知的認識というのは、事実をそのまま理解するには働きにくいものである。むしろ他と比較分類して成立する知であり、ある目的を達成するのに便利につくられている。そのために、役に立つ、立たないといったことが重要な基準となってくる。そうなると我々は無意識にこれが良いあれが悪いと、それぞれの世界にこだわりやすくなるのである。つまり物事を判断する際に良い悪いが先だって、そこに起きている全体の真実を理解し受容することができなくなる。

 例えば人を判断するとき、正直であることが絶対よい、嘘は絶対いけない、あのような生き方が正しい、この社会では積極的に生きなければならないといった知識が大事になって、その個人のさまざまな事情や気持ちが見逃されてしまう。

 また自分の人生について考えるときにも、良い悪いが先立つために生活が不自由になり、苦しくなって動けなくなる。それは分別知から生まれる結果なのだ。理想は重要なのだが、それは社会一般の常識的知識から得た判断や評価による場合が多く、現実はそのようにうまく運ばないことが常である。

  人の違ったところに触れる

 私は個人のカウンセリングにおいてクライエントに会う機会があるわけだが、彼らの悩みのなかでも、ある人に対する怒りや不信といった感情で苦しんでいる人が多い。私自身もそうである。それを忘れるべきだと知りつつもどうしようもない因縁のなかにいる。その悲しさをひしひしと感じさせられる。

 人の話を聞く場合、自分独自の考えや感じ方があって当然であり、他人と違ってよいのだが、だからといって相手を自分と対比したり社会の枠や知識によって簡単に否定はできない。その人の人生はその人にとっての生き方であり、他人がどうこうする問題ではない。それぞれの価値観があってよいのである。もちろん他人に無関心でよいということではなく、むしろ一人ひとりの精神的葛藤やその人独自の世界に触れていかなければならないのである。

 自分自身の立場や分別心があまりにも堅く固定しているとき、相手のいっていることが受け入れられなくなってくることがある。つまり自分の考えに偏り、一般的知識や常識が最高の価値観として心深く占めていることになる。このような場合は相手との交流は大変難しくなるし、またそのように偏った考えをもっている自分が他人から人格的欠点を指摘されたりすると深く傷を受け、相手を恨み、こだわっていくものである。

  グループの体験で自己変革する

 エンカウンター・グループ研修の場は、狭い心を広げ価値観を増やしていくことに大きな援助となる。すなわち「無分別心」の大事さを体験できる。

 私はこの文章を書いているいまの時点においても、明日からはじまる研修についていろいろと考えている。明日から二泊三日の「自己開発エンカウンター・グループ」を伊豆長岡で予定しているからである。十五人の人々が一つの輪になって話す。大部分の人がはじめての出会いである。そこには特別な規則や話題のテーマも決められていない自由が存在している。

 このようなグループ研修の雰囲気のなかで参加者は迷ってしまうことがしばしばである。どこから話してよいのか、何を話したらよいのか、はじめて参加する人にとってこのグループ学習は一体何を目的としているのかさえ明確でない。こうして朝九時頃から夜九時頃まで、話すというよりはじっと座り続けていることもある。そして心に浮かぶまま、ぽつり、ぽつりと会話がはじまってくる。

 やがてお互いが少し知り合ってくると、井戸端会議のような話も流れる。こうして一日が終わってグループの雰囲気が少しずつ理解されてくると、不思議にも心のなかにはどこか安心感が生まれるのである。自分の悩んでいることを、いま迷っている事柄をこのグループのなかで語してみようと思う。そして思い切って皆の前でそれを表現してみる。聞いているほうからすれば、いままで想像もしなかったような考え方や生活をしている人々の話を聞くことにもなろう。

 はじめての人にとってはまさに驚きの一語である。Aさんは父が憎いという。Bさんは子供のときにテレビも全く見せてもらえないほど厳しい生活を両親から強いられたという。それらが深い傷跡として残って、いまこの社会で生きるのに困難を感じている。Cさんは小さいときから自由な雰囲気のなかで育ち、全くとらわれのない感覚、感情をもって我々に接してくる。

  人生の細胞を増やす

 さてこのようなさまざまな人生模様が突如として我々の耳や心のなかに侵入してくるわけだが、それを素直に理解できるとは限らない。話を聞いて非常に嫌な人だという反発を感ずることもあるし、また話を聞いているうちに、いままでの自分のあり方に反省を促されるほどの感動を受けることもある。こうして自己表現したり共感したりする過程のなかで、多少の葛藤を伴いながらも次第に自分の心、すなわち価値観が広がっていく。

 他のメンバーの言葉によって傷つけられその晩は全く眠れないという苦しみを味わい、一日で帰宅したいという衝動に駆られる人もいる。だがその苦痛を終了後に同室の他のメンバーによって理解されるといままでの苦しい緊張感が溶けていき、次の日の研修には、新たな気持ちで参加できるといった具合いである。

 このような経験は心の細胞が増えてくることだともいえる。極端にいえばいままでの自分は単細胞であったかもしれない。したがって全く違った環境に生きている人の話は自分に入ってこない。つまり価値観が違っていたからだ。しかし新たな体験を経ると、自分にいままでなかったさまざまな細胞が一つ、二つと増えてくるのである。

 この過程は心が分裂して多くなっていくということではない。大きな心のなかに、さまざまな価値観が自由に行き交うことができるということである。大きな細胞のなかにさまざまな価値観が増えてきて、これらが分裂しているようでありながらも一つに大きく統合されていることなのである。分かれていて、分かれていない、といった状態を意味している。

 自分の生き方としては必ずしもすべてに賛成するものではない。しかし他人の生きる姿はそれぞれであるのだから、その人をそのまま理解できるように、自分の心のなかに多くの価値観を含みたいものだ。それが無限に増えていくとき「無分別心」が育っていくと同時に、人を区別なく観ることができるようになる。

 カウンセラーにとっては特にこのような心構えが求められる。単に心の病を治す専門家、教育者というような観点からクライエントの心を見る限り、当人の苦しんでいる内容を深く感じとることはできていないのである。多くのクライエントは、むしろ社会的に認められないようなところで苦しみ、葛藤していることが多い。それを心理学や倫理、道徳といった分類や綺麗ごとの枠のなかだけで見て診断し、批判するとすれば、それはカウンセラーの心構えではない。いや、カウンセラーだけでなく話を聞くすべての者にとって、この価値観を拡大していくことが自他ともに豊かに生きる秘訣なのだ。それが「般若の智慧」の核心である。

4 善悪を超える

  他の細胞が助けてくれる

 大きな心、すなわち無分別心で接しられると、こちらの心も広くなっていくように感じられる。こんなことをいったら否定されるのではないかと、いままで不安に思い抑えてきたことでも大きな心の前では表現できる。そうすると、これまで気づかなかった自分のある部分についても次第に自覚できてくる。またそれに伴いこれまで経験しなかったさまざまな気持ちが浮上する。つまり感情的にも豊かな体験をすることになる。

 このような過程を通じて人はいままでもっていた心をさらに大きく拡大し、人生についてさまざまな価値観を増やしていく。それが、困難に当面したときには大きな力となって救ってくれるのである。一つのことで人生に失意しても、新たな考えによりそれを超克することもできよう。

 物事を分析的に見ることは確かに必要なことである。だがそれは生活を物質的に向上させることや、生産を上げるというような一般的事柄に限られる。だからその目的に役に立つか立たないか、といったことが中心になる。ただそれが心に関係するとき、自己を評価することになり人生に迷いを生じやすくさせる。自分を生かせなくなるのだ。

 個人の人生はもっと広く理解されなくてはならない。社会のために我々が生きているのではなく、我々が生まれ集うたところに社会が存在するのである。本来は「天上天下(てんじょうてんが)唯我独尊(ゆいがどくそん)」であり、この大地に自分にとって自分以上に大切な存在はない。小さな社会の条件にとらわれて、大事な心のなかまで拘束してはならないのである。無論社会に生きる以上、勝手気ままな生活は許され

ないにしても、個人の生命力を大事に育てていくことが生きることの本来の意味といえる。

  個人の心に集中する

 目的を忘れて無心で人と接するときは、お互いが無条件で相手の心に関わっていることになる。カウンセリングにおいてしばしば「無条件の積極的関わり」(unconditional positiveregard)という言葉が使われる。これはロジャーズ博士が大事にした言葉であるが、私は仏教において述べられるところの「無分別心」と同じように理解したい。もっとも、ここではカウンセラーとクライエントの関係のなかで起こることについて述べている。つまりカウンセラーがクライエントの話を聞くときには、無条件の心で聞くことが肝要であるというのだ。

 例えばクライエントは、ときに「親を殺したいような気持ちになる」とカウンセラーに向かっていうかもしれない。あるいはそれとは逆に「これからは両親に孝行しようという気持ちが生まれてきました」と話すかもしれない。我々はとかく立派な言葉を聞くと、こちらも積極的にその人を評価したくなるものである。「人を殺したい」などという話を聞くとその人から逃げたくなる。つまり良い悪いという二つの基準によって相手と積極的な関わりをもつか、あるいは消極的な関わりとなるかが分かれる。

 「無条件の積極的関わり」とはそうではなく、相手がどのようなことをいおうともその人に対し心を尽くして接することなのだ。そうすると、どのようなことをいっても理解して受け取ってくれるという安心から、いろいろと話してくれるようになる。それが精神的に成長する人間関係であり、人格が自然に成長し変革され、そこには活力を伴った「気」が流れはじめる。まさに「無分別心」から生まれる安心した人間関係といえよう。

 いま私はカウンセリングの場面についての話をしている。しかし特に強調したいのは決してその範囲だけに限らないことである。カウンセリングの場に関係のないときであっても、人に相談したり話をする場合はクライエント的立場にある。また逆に相手の話を聞くときにはカウンセラー的側面から話を聞いていることになる。つまりカウンセリングという特殊な関係ばかりでなく、日常会話においてもこのような心をもつことが重要である。これこそ我々が身近に実現できる「般若の智慧」であり「無分別心」の実践ともいえる。

  機能的な人になる

 我々の社会は一般に条件を伴う社会である。企業においても、もし生産が上がれば多くのボーナスを手にすることができる。子供の学校の成績がよければ、親もその子に対して積極的になるのも当然である。しかしこのような態度は一見よさそうだが、相手の本来の心を育てる手助けにならないことが多い。会社や両親の期待のために生きることになってしまうからである。そうなると自己の主体性を失い人間として機能できなくなる。

 我々は生産という言葉を経済的にのみ使うことが多い。しかし人間も生産的になることが重要である。そのときに意味する生産というのは決して物質だけを生み出すものではなく、その人が本当に自分の能力を生かしきっているという意味での言葉である。別ないい方をすれば、その人の能力が「機能的」になることだ。それが自然に与えられた能力を生かす本来の生き方である。「般若」の意味するところも現代的に考えれば自在に自己の能力を生かす智慧である。

 元来人の生きるべき姿は必ずしも道徳的に立派になることでもなければ、他人以上に強くなることでもない。また知的に高い人になることでもなく、人間の自然に与えられている本来の力をできるだけ率直に生かすことである。それは宇宙と心身が調和して生きることになるから、結果としては道徳的にも倫理的にも調和した人生が生まれる。宇宙は人を無秩序にするものではない。

 現代の多くの子供たちの悲劇は、自然な心をもった人との接触を通じて安心感を得る教育を受けていないことからはじまる。広い心の大人たちが、子供に対してできるだけ豊かな心が育つ心理風土を与える必要がある。その雰囲気が定着した後に、社会の規則やその他の知識を教え込むことはよいであろう。だが生まれて間もなく、まだ本来の力を出しはじめない頃から、大人の知識で子供たちはしつけられ縛られてしまう。成長するにつれてそれが苦痛に変じ、やがて親や学校への反感となって現われるであろう。

  自分を整えておく

 「能力が機能する」とは一体どのようなことかについて、もう少し説明をつけ加えたい。例えば新しい車を購入したときに、その車は最高時速二百キロで走る。しかし数年使っているあいだに百二十キロ位しかスピードが出なくなったとしよう。しかし町のなかを走るには時速四十キロ位で十分である。したがって不便はない。

 しかし、その車が坂道にさしかかり、登坂している途上でエンジンストップを起こしてしまえばそのときはじめて自分の車にどこかおかしいところがあることに気がつくであろう。そしてそのためにいままで大量のガソリンを消耗していたことを自覚する。人間についても同様であり、日々理由もなく疲れていることを思えば自分が機能的人生を送っていないことを自覚するのだが、あまりにも社会の競争などに心を奪われていると、自分自身の状態が分からなくなってくる。

 禅の言葉に、「違順相争 是為心病 不識玄旨 徒労念静(違順(いじゅん)相争ふ、これを心病(しんびょう)となす。玄旨(げんし)()らずんば、いたずらに念静(ねんじょう)を労す)」というものがある。

 分別心があるとこれが先だ、あれを後にすべきだと考えてしまい心の病となる。玄旨(奥深い哲理)は分別を離れたところにあるが、これが分からないと念を静めてから、つまり心を落ち着けてから道に至ろうなどと考えて無役の労を営む。現代人はこのような迷いの傾向にある。

  満月に生きる

 「無分別心」とは「絶対受容」のできる心である。つまり大きく物事をとらえる心といってもよい。地球を例にとると地球は昼間の明るい部分と夜の暗い部分があり、陰陽に分かれる。良いところだけ(陽)、つまり昼の分だけが良いとして認められるとすれば、地球は夜の部分(陰)がなくなり、あたかも三日月のような形になってしまう。我々は自己のすべてを表現でき、全体の能力を発揮しているときに健全であるが、それは相手と条件を抜きにして素直に接したり、話すことができるときに可能となる。そのような人との関係において心は健康に向かっていくものである。

 英語の「健康・Health」という単語の語源は、「全体」を意味する「Hale」という英米語である。英語の「神聖な・Holy」も語源は「全体の・Whole」と同じである。人々が人生を豊かにするには全体性、統一性が不可欠である。満月のように生きられたら、それは「円満」な心といえる。月の欠けている状態は不満なのである。

 我々には陰もあれば陽もある。さまざまな体験や人生を経ることにより、そこに人間としての心の変化も経験する。「人は木石にあらず」である。感情というものは全体として働き生きてこなければならない。相手の心にこちらの心が共鳴することを心理学的には「共感」というが、そこには生きた心の交流が必要である。無心になることが重要であるが、その言葉を誤解し石仏のように無感動になっては困るのである。「般若の智慧」や「無分別心」は、むしろ自在に躍動する心なのだ。その真髄について述べている仏陀の言葉が「般若心経」なのである。

第四章 観自在菩薩の慈悲心

観自在菩薩(かんじざいぼさつ)

口語訳 観自在菩薩。

意訳  観自在といわれる、心の自由な、そして深い慈悲心を得て悟りに至った修行者(菩薩)が、

1 心の音を聞く

  大きく、しかも微細に感じとる

 さて前章では表題の「般若」の意味を洞察したわけだが、その示唆するところは実に深い。「般若心経」そのものは古い歴史をもつものだが、その現代人に対する意義は計り知れないものがある。

 「般若」については、前述したように我々の心を開かせる不思議な力を秘めていることが理解されたであろう。これからは本文に関してさらに洞察を深めたいと思う。

 「観自在」は、玄奘三蔵がサンスクリット語の経典から漢訳したものである。彼はインドでの長い旅を通じて多くの仏典をもち帰った。それを唐の皇帝の勅命によって翻訳したのである。「観自在」とはサンスクリット語でアヴァローキテーシュヴァラといい、自在に観るという意味だが、この「観る」は深い意味をもっている。我々が地上におけるさまざまな形あるものをみるときは、いわゆる「見る」である。また「視る」は、より細部にわたって注意を凝らすことである。この場合は物事を分析的にみることでもある。

 ところが「観る」は、観察したり物事を察知するという意味を含み、単に相手の細部にわたって観察するのではなく心をつくして深く見抜くことであり、分析というよりは統合的に対象を感ずることである。

 「妙観察智(みょうかんざっち)」という言葉は微妙に相手の気持ちを察知し、またその人の私的世界を感じることであり、決して分別心による分析的洞察ではない。その人の全体をみることであり、世界観とか人生観といった場合の「観」もこの意味あいをもつのである。

  善悪でとらえると不自由になる

 「自在」とはいわゆる自由自在のことで、あまり良い悪いというような分別心にとらわれないことだ。禅においていわれる「不思善(ふしぜん) 不思悪(ふしあく)」の境地である。素直な心で相手を観ると人の人生をより真実に了解することができる。

 一般に我々は相手の悩みや苦しみの話を聞くときには、話の内容に対して、それはいけないことだとか、貴方はこのようにすべきであるとか、いわゆる善悪にこだわって話を聞くことが多い。それは相手の話を個人として感じて聞いているのではなく、この社会においてはそうしたほうが良いとか悪いといった一般論に基づいた判断や忠告にすぎないのである。

 相談を受ける人からすれば、大変立派なアドバイスを与えてあげたというような気持ちになるものである。しかしアドバイスをもらった人にとっては単に常識的なことを聞いたにすぎず、自分の気持ちを本当に分かってもらえたとは感じられないものだ。特に相談に来るような人は自分自身の悩みについては長いあいだ考え苦しみぬいている。社会の枠や一般的常識、分別心で批判してほしくないところがある。

 ところで玄奘より二百四十年ほど前に、鳩摩羅什(くまらじゆう)という名訳家がいた。彼は観自在を「観世音」と訳したのであるが、いわゆる「観音様」というのはここからとられたものである。

 この「観自在」と「観世音(かんぜおん)」を一緒に合わせ考えてみると意味が深いように思う。「世音」の音は、世の中の人々やその他すべての物の願い、悲しみ、苦しみなどさまざまな心を音に例えている。人々のそのような願いや期待の音を心から聞いてくれる(観る)のは、自在な心の境地に達した人、すなわち「観自在(世音)菩薩様」なのである。

  松風山音楽寺でのこと

 私は毎年秋になると秩父の寺々を巡り、語り合う研修会を開催している。いわゆる秩父巡礼エンカウンター・グループ研修と呼んでいる。五十人ほどの人々が集い、宿では自由な心で語り合いそして自然に触れ、古き寺々を訪ねながら祖先との語り合いにふけるといった集いである。

 秩父の地は昔から観音信仰が深く、そのために秩父霊場が生まれた。我々はカウンセリングの立場からもその地に点在する札所を巡ることに特別な意義を感じている。「観音」とは命あるものの心を深く聞く(観る)ことであるが、それは慈悲心に溢れた菩薩が苦難に満ちた衆生の側にたち理解する仏の本願を意味している。

 衆生のいろいろな人生の相を「観音経」のなかで三十三の相で示している。三十三とは救いを求める人々の無限な数を表現しており、それに対して与えられる慈悲であるから無限の慈悲といってもよいであろう。秩父は西国、坂東を合わせて合計百霊場とするために三十四、つまり他より一つ札所が多い。我々は十数年にわたってこの地を一歩一歩辿ってきた。

 ここ数年、香林(かりん)という民宿に泊まることが多いのだが、ここから八百メートルほど坂を登ると、二十三番札所の「音楽寺」がある。我々はまず到着した日の夕方にそこを訪ねるのが一つの習いのようになっている。この寺は正式には「松風山音楽寺」という。山に吹く松風の音を菩薩の音となぞらえたのであろう。

  自然のドラマに出会う

 ここには忘れられない思い出がある。一昨年の秩父巡礼エンカウンター・グループ研修のときの出来事である。

 例年と同様に夕方の少し薄暗くなりかけた頃に宿をたち、山道を五十名あまりの参加者がお互いに言葉を交わしながら音楽寺へと向かった。本堂を参拝した後に歩きながら私の兄が仏教についてのさまざまな話を参加者にすることが常である。兄・大須賀発蔵はNHK教育番組「こころの時代」でしばしばカウンセリングや「曼陀羅(まんだら)」について話すことがあり、読者のなかにはすでに彼の話に精通している人がいるかもしれない。

 さて本堂から五十メートルほどの竹藪をぬって丘の頂上に辿りつくと、そこには十二体の地蔵菩薩が我々を待っている。ところが今回はその傍らに人家が一軒建っていた。我々はそのことに若干失意した。菩薩たちだけが静かに我々を待っている、という雰囲気を味わいたかったからである。どうしてこのような聖なる地に人家を建ててしまったのだろうかと、少々嘆きたくなる思いであった。

 暫くそこにいると、ぽつりぽつりと雨が降り出してきた。あっという間にかなり強い風雨と化してしまった。我々は桜の木陰に雨宿りしたのだがそれでは間にあわなくなり、例の家の軒先を借りてしばし雨の止むのを待つことにした。

  雨が転じて雹になる

 さて私は半ば冗談まじりに、この雨降りをいま、私の「気」で止めてみせますと参加者の人びとにいおうとした。だが、あまりにも突飛なことなので言葉にはせず自分の心のなかで雨の止むことを念じた。

 それについては私しか知らないのだが、その数分後にこれまで経験のないような大きな雹が屋根をつんざくように降りはじめてきたのである。雷鳴がとどろき、空には暗黒の雲が足早に走る。一方の空は太陽の光が雲の合間からもれ、いく筋かの光が地上に舞い降りる。

 ようやく雨もおさまり、それと同時に秩父の町が下方に美しく広がりだした。すると町の中程よりいまだかつて見たことのない大きな虹が我々の頭上を越えて現われ、七色の橋をかけた。一瞬の出来事だったようにも思われるその情景を静かに眺めていた参加者の一人に、養護教諭である女性がいた。

 彼女は私のグループではなかったのでこれはあとから聞いたことだが、そのとき彼女の胸に苦しい思い出として忘れられなかった一人の生徒が現われた。その生徒はある事故で数年前に亡くなってしまったのだが、そのとき虹の彼方から彼女に別れを告げたというのである。それとともに彼女の心に深く残って離れなかった苦しみが溶解していったという。不思議なことである。

 思えば我々は最初こんな場所に新しい家を建てた人に対して少々義憤の念を禁じ得なかったが、そのおかげで雨に濡れずして済んだのも事実である。数十分前までは恨めしく思っていたことが、いまは我々の救いの場になったのである。しかもこれほどまでに感動的な自然のドラマに遭遇できた。大きな自然の計らいは遥か人智を超越している。私が雨の止むのを念じたことはこの会の主催者としての責任ある思いからであったのかもしれない。それが偶然にも雹の出現という現象に出会ったのであろう。だが、こちらの願いに宇宙が感応道交してくれたことのようにも感じられてならない。

 自然は生きている。我々は自然の音を心から聞くことができた。観音の世界は人と自然を含んでいる。

  西方浄土(さいほうじょうど)の空

 音楽寺から夕日が落ちた。西の空は正に西方浄土のごとく我々を引き寄せるようだ。露の草花を踏みしめながら宿に向かう。その途中、水に濡れて新鮮に光る芝生のなかで「気」の鍛錬を行なった。生気溢れるように樹木から発する活力を体に流して再び坂を下る。空は深く、ときに雷鳴を遠く響かせて光り輝く。きらきらとまたたく星は我々に何かを語らんとしているようだ。くっきりと山の峯を際立たせる武甲山、麓にともる町の明り、自然と人がともに息づいている世界なのだ。このような自然のドラマはこれから生涯出会うことがないかもしれない。

 自然の音、それは音楽寺の松風の音ばかりではなかったのだ。観音の世界は我々を取りまく大宇宙にある。

 宿に戻ると温かい食事が膳一杯に並んでいる。我々は子供のようにその味を満喫する。

 そして夕食後再び一つの部屋に集まり、最初は大きな輪になって明日からの旅立ちへのコースを決める。それが終わると、小さなグループに別れて心いくまで自由に話し合うのである。九時、十時、十一時、なかにはあまり睡眠を取らずして、この静かな自然のなかでの語らいに耽ける者もいる。

 「語尽山雲海月情(語り尽くす山雲海月の情)」という句があるが、心深く接し合う者はこのような気持ちを体験したに違いない。山間の雲が自然にわき出るように話が盛り上がっていく。海上に月が上るように心の触れ合いも次第にエスカレートしていく。心から気の合った者同志の会話はこのように無心の波である。静かな自然の暗やみに人々の暖かい会話が続いていく。秋に鳴く虫たちの声も我々との出会いを満喫しているようだ。

 秩父で経験した自然のドラマにしても、夜を徹しての会話にしても、それらは音として耳に入り、さらに深く心の奥に染み込んでくる。その心の音は必ずしも具体的に聞こえるものばかりではない。

2 他人とともに生きる

  自己も他人も救われる

 「菩薩」とはサンスクリット語のボーディーサットヴァを漢訳したものである。ボーディ(菩提)とは悟りを意味し、サットヴァ(薩埵)は修行の人を指している。したがって「ボーディサットヴァ」の菩と薩をとって「菩薩」という。つまり大乗仏教で悟りを求める人々の意である。

 菩薩とは、本来仏陀が修行しているときの状態を指していたのだが、仏陀に限らず同様な修行をしている一般の人々も意味するようになった。特に大乗仏教では菩薩の修行が重要視された。その修行は、単に自分一人が出家し、一人隠遁生活をして自分自身の悟りのための修行に没入することではない。他人の救いが同時に自己の救いであり、自己の救いが同時に他人の援助になり得ると考えた人々だからである。つまり大きな自然のなかに生かされている人間たちは、自他が分かれた存在でないことを実感していたのであろう。

 自他を含む人間生活の場は社会ということにもなる。その社会から一人逃避するのではなく、むしろ他人とともに存在し生きることを学ばなくてはならない。それはときに、修行の場以上に厳しい現実を超えていかねばならないことにもなるが、そこでの体験は貴重なものである。このような意味で「般若心経」における慈悲心は大乗であり、大きな乗り物における多数の人々の救いを願った心である。

 我々は日々お互いに接し心を深め合う。それは一人だけではできないことである。「般若心経」も一人で読むだけでは本来の力を発揮しない。それを深く理解し、他人との関わり合いにまで発展し理解するときに本来の慈悲心が現われるのである。単なる表面的な接し合いではなく、ともに一体になって通じ合う世界を経験してみることである。そのときこそお互いが啓発される。

 我々は最終的には自己の運命を一人で決定していかなくてはならない。その意味では確かに孤独な存在であり一人なのだが、精神の形成過程をみてみると決してそうではない。この世に生まれたのも両親があってのことだ。生まれて間もなく医師や看護婦さんに触れ、さらに友だちや学校の先生など人々に触れる範囲を拡大していく。このようななかで自己自身がつくられる。

 人が人として生きているという存在感をもつのは他者に触れるからである。たとえ自分は一人きりのほうがよいと主張する人でさえ最初からそうではない。いままで出会ってきた人々とのあいだに、嫌なことや拒否されたりしたことがあまりにも多いからだ。そこには人に対する反感や拒否感が存在している。

 したがって精神的に他人を拒否することがあっても、決して一人だけで生きているということではない。終戦後、長いあいだジャングルのなかで軍人として一人で生き続けられた横井さんや小野田少尉も、そこには敵という他者がいたからこそ、銃を放さず日々緊張して生き続けられたのである。

  他人に支えられている

 ある人はいう。どうせ物事は自分自身でしか決定できないのだから他人はいらないと。だが、自分の心に住んでいる他人をどのように感じているかが問題なのだ。その人にとって他人はうっとうしい存在なのかもしれない。あるいは個人的なことを他人に知られたら大変なことになると、いつでも警戒しているのかもしれない。そのような人には他人への不信が心深く刻み込まれているのであろう。いずれにしろ人間は自分自身で最終的には決断せざるを得ないのだが、その決断に際して社会や他人を肯定的に感じられていることが肝心である。

 私のカウンセリング経験をとおして思うことだが、クライエントの悩みが軽くなるように援助することが、カウンセラーの大きな役割である。だがそのことに焦点をあてて話を聞いていけばその苦痛が無くなるわけではない。ますますそれにとらわれていく。ところがその苦しみをもっている人を理解し、その人に深く接することにより、不思議にも心が軽くなっていき寂漠たる心に潤いが生まれてくることがしばしばである。

 カウンセラーにもさまざまな考えがあるが、技術より人間的接触を大事にするカウンセラーは、クライエントの気持ちを深く理解しようと努力するが、必ずしも苦痛の原因を分析しそれを直接無くそうと思っているのではない。クライエントの心を実感すると同時に、カウンセラーとしての自己自身がクライエントに対してどのような態度で接しているか、あるいは接していたかに注意を向けている。いまクライエントにどんな気持ちで対しているのか、どうしてあの様なことをいってしまったのか、そのときの自分の心はどうであったのかというように自己を反省することがある。すなわちクライエントといかに共感的に接し得たかが重要である。いいかえればクライエントの救いと、カウンセラーのクライエントに対する心の状態が一つになって働いていることを意味する。

 「菩薩」とは本来、自他が一つ(一如)になる心を求めて修行していた人々であることを考えると、心を一つとして働くことがカウンセリングや日々の経験のなかで重要であるとつくづく感じさせられる。「菩薩」の意味を日常の身近なところで考えてみることが大切である。

  戦うより、ともに生きるほうが強い

 一人で修行することの裏には自分を強化し、やがて襲って来るかもしれない人生上の困難や混乱等に関して対処できる自分をつくろうとしているところがある。そこでは他人や社会を自己に対立するものとしてみている。だがそれより大切なことは、安心できる社会や暖かい他人との深い関係を経験することだ。そうすれば社会は対立として感じられなくなる。自分も他人とともに生きているのを実感するに違いない。お互いに援助し合う自然の存在として感じられる筈である。

 このような安心した心理状態でいるとき、そこに困難が襲ってきても、もともと社会に対する恐れが少ないからあまり混乱しない。むしろそれを柔軟に乗り切ることができる。「人を思うは身を思う、人を憎むは身を憎む」という言葉があるが、人を愛憎することもまた結局のところわが身に返る。だから自他ともに同じ宇宙の存在と考える菩薩の修行は、一人での悟りに集中している小乗仏教の修行より以上に己を生かす結果になる。

 我々人間は他人とともに生きるようにつくられている。それが理解できれば、自己の潜在力もまた他者と一緒に開発されなければならないことが分かる。そこには葛藤や闘争があってもよい。自分だけの世界に閉じた不自然な生き方で修行するより、他人とともに大きな自然のなかに生きるほうが無理なく自己を成長させていくことになろう。

 憎燦(そうさん)は次の言葉も残している。

「大道体寛 無易無難 小見狐疑 転急転遅(大道体(だいどうたい)(ゆるや)かにして、()()く、(なん)()し。小見(しようけん)狐疑(こぎ)す、(うたた)(きゆう)なれば、(うたた)(おそ)し)」

 我々の求めるべき道は大きなものでゆったりとしている。その道に至るのは、それほど易しいというものでもなく、だからといって特別難しいこともない。小さな見方をしていると、いろいろ考えたり他人を疑ったりすることになるが、そうすると物事は逆になって、急ごうと思えば遅くなってしまう——というのだ。もっと大きな自然のリズムで生きるときにこそ道が現われてくるのである。

3 経験に開かれる

  理解されると心の構造が変わる

 慈悲に満ちた心でさまざまな命あるものの願いや悲しみの音を聞く——これが「観世音菩薩」の自在なる心である。だが我々の一般常識からすれば、相手の心や話をただ聞くだけで一体意味があるのかと疑いたくなるであろう。相手の話を聞いたあとは、アドバイスや指導などが与えられるのが普通だからだ。無論それが悪いというのではないが、実はそのことによってかえって人の心は固定され歪められてしまうこともあるものだ。

 相手と話している場合、あるいは相談しているとき一つひとつ答えや忠告を返されるより、静かに自分の心を感じとってくれるような人を求めていることが多い。そのような人がいたら、もっと心から話したくなり、不思議なことに新たなエネルギーが流れはじめるのだ。

 ところで、このような理解される雰囲気をもった会話を交わしている過程で、心の構造に変化が現われる。相手に理解されたから気持ちがよくなったというフィーリングの問題ではない。その変化とは「心が聞かれていく」と表現してよいであろう。

 とらわれのない「観自在な心」で暖かく理解されるとき、人は他者にそして外に向かって心を開き、同時に自然との調和が生まれる。心理的にいえば自分を取りまく環境や自分の心、身体に起こる変化や経験を歪めず正しくとらえられるように神経が機能していることであり、それが「経験に開かれている」心である。

  自己防衛的人生は自分を苦しくさせる

 小さな価値観しかもち合わせていない人間は、結局のところ生きるうえでも苦しくなる。他人を許せなかったり、嫌いなものを排除しようとしているために必要な情報までも入ってこない。自分の関わりの範囲を好むものだけに限ってしまうからである。神経症に陥って苦しんでいる人々もこのような心理構造で生きている。

 自分を守るために小さな枠のなかで生きようとすることは、自己防衛といわれる。防衛とは外から入ってくる異質な物を拒否する反応である。つまり自分にとって不都合なことが迫ってくると、それを素直に認めたがらないため、神経の働きが緊張してくる。我々の神経はおたまじゃくしのしっぽのような形をしてつながっており、それに電流を流して頭脳に送り込まれて意識される。この神経伝達の過程を通じて、いま自分にどのようなことが起こっているのか、どのような情報が外から入ってきているのかを感じ得るのである。

 例えば、いまある人と話し合っているのだが、その人に対して不信の感情が湧いている(体内的変化の経験)。だが、それはたまたま嫌いな知人に似ているからにすぎないからだ(外的情報)といったことが自覚できればよいのである。

 ところがなかなかそのまま受け入れられない。嫌なものが入ってくると困るので、神経組織に情報伝達の電流をとおさない絶縁物質が形成される。そのような伝達障害によって自分の体内に発生しているさまざまな感情や感覚が頭脳まで伝わらず、意識されなくなってしまうのだ。つまり心のなかの配線が断線してしまった状態である。都合の悪いことは気づかないようにする働きだから、断線によって電灯が消え真っ暗闇になるのはある意味では都合がよい。自分の心にどのようなことが起きているのか、自分の廻りに発生しているのは何か、それに対してどう対処したらよいのか——そのような面倒なことを分からなくさせて一時的に苦痛を軽減する働きである。しかし心の奥では無意識だが苦しみ混乱している。

 このような心理状態になってしまうと、現実を無視した無理な状態で頭が防衛的に働いていることになり、自分を疲労させてしまう。まさに「般若心経」のなかで「無明」といわれる迷いの状態である。会社で一生懸命働いている者が、突然倒れたり、十二指腸潰瘍を患ったりするのもこのような原理によることが多い。つまり社内で昇進したいという欲望にとらわれたり、会社に対する緊張や不安によって自分の疲れている体に気づけなくなる。倒れてはじめて自分の状態を自覚できるといった具合いだ。

  レンズで歪める認識

 気づけなくなるばかりではない。物事の判断までが極端に歪められてしまう。我々はさまざまなことを考え認識する。しかし前述したように自分に都合の悪いことが入ってくると、それを自分の都合に良いように解釈したり歪めたりする傾向がある。あたかもレンズに光が当たり歪曲してしまうのと同様である。そのレンズは凸凹とさまざまに変化していく。

 このようになると、小さな物が大きく見えたり大きな物が小さく見えたりする。つまり重要なポイントが抜けたり、どうでもよいことをいつまでも考え続けたりすることによって、自分の行動はますます適切に機能できなくなる。

 この状況を続けていくと心は閉じられた弁のようになってしまい、相手から入ってくるさまざまな経験や意見、いろいろな感覚を狭めてしまうことになる。つまり何年たっても自分の心に入ってくる経験的栄養の量が少ないので、心が成長しない結果になる。

 我々は心を開くことが必要である。それは自分の嫌なことをすべて他人に話すといったことではない。ここで重要な点は、認識感覚が対象のあるがままの姿を写しとれるように働いているかどうかなのだ。誰でも嫌いなことは避け好きなことには積極的に向かう。それにしても認識や判断に誤りがあっては困る。健全な心とは感ずることや経験することなど総てに対して、その本質を歪めないように心が開かれて機能していることなのである。

  清濁合わせもつ

 生きることは他人と接することからはじまる。このように考えれば心を開くことは、多くの人々と出会い、他人の話を聞き、心深く感動し合うことでもある。そのような体験を通じて、いろいろな考えや生き方が組み入れられる。それによって一段と自己を広くして、自在な自己に成長することが健全な心の発展である。

 体の例からも同様に理解されよう。原理は共通している。本当の健康体はさまざまな栄養や細菌が体内で共存するときにこそつくられるのであり、良いところだけの純粋培養では決して強い体は生まれない。「清濁混合」という言葉があるが、我々は多種多様な要素を取り入れながら心を広くすることが必要なのである。それにより自在に相手の心を「観る」能力が開発されてくる。

 「老子」もまた一方だけを観ることに注意を発している。すなわち宇宙がまだ陰陽に分かれていない「渾沌(こんとん)」の状態のような存在に価値をおいている。清と濁とを分け、右と左とをはっきりさせ、善と悪とを区別したがるのが世間の常識である。しかし「老子」は、それらが分離されず渾然一体となっているところに真理の存在を観る。それが「渾として其れ濁れるがごとし」である。大きなしかも自在な物の観方により、陰と陽を含む人の心を深く洞察することができる。それが他人の心を生かす智慧でもあるのだ。「観自在心」とは、陰陽のバランスを整える智慧であるともいえる。

   

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2010/05/28

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大須賀 克己

オオスガ カツミ
おおすが かつみ 1934年茨城県生まれ。米国カリフォルニア州公認カウンセラー。アナハイム大学名誉博士。

掲載作は、「般若心経でつかむ気の極意」(1993年11月プレジデント社刊)の3章と4章の抜粋である。著者は心理カウンセラーであり、また中国気功法、ニューサイエンスに関心を持っており、その立場から般若心経を解説したものである。なお掲載にあたり、原本中の図は割愛してある。

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