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ホリスティック・カウンセリング

《目次》

第一章 社会は悩みに溢れている

 不確かな未来と変わりゆく社会

  高速に変化する文化への戸惑い

 カウンセリング(counseling)という英語を訳しますと、相談、助言ということになります。そしてこの相談の主題は人間関係が中心になります。親子や夫婦、仕事上の上司と部下など、さまざまな場で成り立つ人間関係は、私たちの行動や心の健康に深く関わっています。ですから実際のカウンセリングは大変広い内容を含んで行なわれるのであり、このようなものだと明確に規定できないところがあります。この点については専門家の間でもいろいろな意見があります。後にいくつか、実際のカウンセリングの例を挙げますので、それらから概略のイメージを掴んでいただければと思います。

 いずれにせよ、カウンセラーの役割は相談活動を通じてクライアント(client相談者)のお役に立とうということですから、人間が直面する問題や悩みに関わるのは当然であると言えましょう。現在、カウンセリングという言葉はいろいろな相談活動に対して使われていますが、ここでは主に心理的な相談というところに主眼を置いています。そこで悩みや困難な問題について考えてみますと、内外二つの側面から洞察することができます。

 まず外部環境、つまり社会的な問題に起因する悩みがあります。例えば、現在の大きな問題は経済不況です。それによりさまざまな事件が発生しています。日本は世界規模の政治的、経済的変動の影響を受けているので、これからどのような状況に変化するか、全く見当がつきません。さまざまな要因があり、少なくとも経済的に不確かな未来であると言ってよいでしょう。

 また内面的には、生きがいや恋愛など、時代の変遷に関係なく誰もが持つような悩みがあります。とは言え、これらも、家族の関係や教育の場、一般の価値観などの変化と密接な部分もあり、社会的な問題と簡単に切り離して考えられるものではありません。

 日本は小さな島国でありながら、通信機器などの発展した国として諸外国と直接交流しています。特に若い人たちは外国文化の吸収をコンピューターを通じて行なっていますから、情報は厖大なものです。もともと日本は昔から朝鮮や中国、そして現在もアメリカ、ヨーロッパからの輸入文化を中心に発展してきています。外国文化を輸入することが得意な国柄です。その傾向に加え、さらに教育水準の高い国民ですから、さまざまな文化を取り入れることもまた、他の国には見られない早いスピードなのです。

 これにより、日本のジェネレイションギャップ(世代間断絶)もまた猛スピードで進んでいます。若者たちはともあれ、新たな文化を受け入れにくい年配者にとっては、田舎の駅に立って新幹線を見送っているようなものです。

 文化が発展するのは良いのですが、高速に進んでいるためにさまざまな不都合な現象が派生しています。特に日本的社会構造がそれによって崩壊しているとさえ感じられます。

 経済不況もあって、大企業といえども頼れる存在ではなくなりました。したがって組織内の人間構造も変貌しましたし、上下の関係も崩れました。それに応じて家族を支える父親の力も失われ、若者は新たな世界を自ら探すしかありません。また、そこに置き去りにされている老入たちはこれから一体どうなるのでしょうか。限りない不安がつきまといます。

  遅れてはならないカウンセラーの感覚

 このような現象は、カウンセラーに大きな課題をもたらします。

 特に日本では、カウンセラーが年配者であるほうか好まれる傾向もありますが、年配になれば、どうしても文化の変化、世代の激変についていきにくくなります。いろいろな時代に生まれ育ったクライアントをカウンセリングする場合、カウンセラーのものの見方などにあまり時代的ずれや感覚の違いがあってはならないのです。少なくとも若い人たちを理解できるよう、常に感性を磨いていなければなりません。

 昔で言えば、頭髪を茶色に染めている若者は不良少年だと考えるのが当然でした。今では、そのような偏見を持つのは恥ずかしいとさえ感じられます。日本ほどこのような変化が日々進んでいるところは他にありません。コンピューターをうまく使えない中高年以上の人たちにとっては、本来持っている能力以上に世代断絶が起こりますから、その欠如部分を勉強で十分に補っていかなければならないのです。

 大海に遭難しないために

  レールのない時代

 いずれにしても、伝統的日本文化に著しい変化が起こり、不確かな未来に向かって生きていかなければならないわけですから、人々にはそのような外部の変化に応じて心に苦悩が起こるのも当然です。しかしそれを処理して生きていかなければなりません。そのためには、できるだけ自分らしい人生を見つける必要があります。それが個人に与えられた生涯の課題でもあるのです。

 好景気の時代には、人が進むべき明瞭なレールが引かれている社会でしたので、未来に対する夢や計画を明確に描くことができました。有名大学を卒業して大企業に入り、豊かな生活を実現することを多くの人が願い、信じていたにちがいありません。ところが今、安定した人生航路が閉ざされてしまったので、大変混乱しています。自分に合う人生航路を自分で切り開いていかなければ、将来が永遠に閉ざされてしまうという危機感があるからです。すべてが自分の思うようなわけにはいかないでしょうが、できるだけ自分の心にかなった方向を選び、進んでいくべきです。

 社会的な成功、不成功だけを基準にするのではなく、精神的に充実する人生を発見することが大切です。そうでなければ、やがて病気にまで進んでしまう可能性が大きいのです。たとえエリート校を優秀な成績で卒業して大企業に勤めたとしても、その中にはやはり熾烈な戦いが存在しています。今は企業そのものが存続するだけでも精一杯な時代です。

 しかし、自分の生き方を発見しなさいと言われても、実際には簡単なものではありません。自分の心であっても容易に掴めないところがあるからです。それが進んでいきますと、人生という大海の中で自己の目指す方角を見失い、遭難してしまいます。だからと言って、そこに留まっているわけにはいきません。同じところに停滞することは、さまざまな苦痛やストレスを生んでくるからです。それによってますます混乱し迷ってしまいます。私はいろいろな方々の心を聞くカウンセリングの現場におりますので、このような混乱の中で苦しんでいる人々の話を直接聞く機会が多いのです。

  直感力の開発

 それではどのように考え、いかに自分を開発すべきなのでしょうか。この問題に入る前に、人間について少し考えてみたいと思います。

 人間を知的な存在として考えることには異論はないでしょう。人間は生まれて間もなく文明に取り囲まれ、言葉を学び、考える訓練をしていきます。集団生活に馴染むように促され、社会の中で自分を抑えることも心得ていきます。自分の所属する社会の価値観や行動規範、道徳などを身につけ、自分で判断して行動できるようになるのです。

 しかし、人間はロボットではないので、個性や感情、欲望などがあり、社会規範や道徳にしたがって一律に生きることはできません。善いことだと分かっていてもできないときがあり、にもかかわらず、正しいことをしようとして悩んでしまうのが人間です。

 このような人間の二面性についでは後に詳しく触れますが、私たちの心の奥底では、知的、社会的人間としての生命と、より自然に近い個人的生命が一緒になって働いています。

 そして場合によっては、社会的なものによって自分を抑えすぎてしまうことがあります。それが過度になりますと、生き生きとした生命の感覚を忘れ、あるいは他人との交流がうまくできなくなって、自分だけの世界に籠ることにもなります。自分を取り巻く自然に対する感性を閉ざしてしまい、自然と同調して生きる感覚を失ってしまうこともあります。

 しかし、私たち人間は、基本的に、他人や自然とともに生きなければなりません。ですから、この二つの相反する生命を統合する能力が必要です。それには考える力ばかりでなく、直感的能力を育てることが大切であるとも言えます。

 渡り鳥は日本からシベリアまで数千キロにも及ぶ長距離を間違いなく飛んでいくのですが、どうして到達できるのか、いまだ科学的に証明できないそうです。それほどではないにしても、人間にも潜在しているこのような能力を育てていかなければならないのです。

 自己発見への旅

  見えない空しさ

 今、自然に生きることの大切さが叫ばれています。多くの人々が自然なリズムを回復して、心の深いところから充実した生活を送りたいと望んでいるからです。社会のルールを否定するのではありませんが、それを超えてさらに広い視野から自分を探求していくことが必要な時代になったのです。そうでなければ、外部に起こる小さなことに煩わされ、常に空しい思いに覆われてしまいます。

 私はカウンセリングの中で、たびたびこのような苦しみを訴えるクライアントに出会います。「日常的には特別、物質的に困ってはいないのですが、心が空しく充足できません。だからと言って、何をしたらいいのか分からないのです」と訴えるのです。

 確かに人間の場合は、決まったところにその人の求めるものがあるという単純なものではありません。それを得るには、人間の本質に関わる創造性を開発して行動する必要があります。一般に、私たち人間は行くべき方向が明確になってから進もうとする傾向がありますが、このように混沌とした社会では、明確に分からなくとも、ある程度思い切った行動をはじめてみなければならないことが多いのです。はじめてみると意外にも開かれ、自分の欲するものが見えてくるのです。

 あるクライアントの例ですが、次のようなことがありました。この方はプロの棋士で頭脳明晰ですが、心の深いところでは不安を抱えていました。話によりますと、これといった特別な問題は無いのですが、常に心は空虚感で被われており、そのために将棋の能力も発揮されなくなってしまい、行き詰まってしまったのです。ついには棋士としての職業を辞めてしまいました。

 いろいろ話を聞いてみますと、両親が会話のないご夫婦で、他人ともあまり接触がないようでした。そのような家族環境の中で育ったためか、自分もまた他人に触れることが不得意で、人の多く集まるところにも出られないという話でした。自分は人に嫌われ、避けられていると思っていたのです。

 しかし、カウンセリング面接を受けて、次第に元気を取り戻しました。

 カウンセリングをはじめて三回目あたりから不思議なことが起こりました。

 住まいが地方でしたので、私のところまで来るにはバスも利用しなければなりませんが、人と会うのが嫌いなため、それまでは、日常、あまりバスを利用したことはありませんでした。しかし、カウンセリングを受けるに当たって、思い切ってバスに乗ってみた、と言うのです。すると今回、バスの中で、他に座席があるにもかかわらず自分の隣に一人の男性が座り、いろいろと話しかけてきたそうです。自分では他人に避けられてしまう人間だと思っていたのですから、大変意外なことが起こったように感じられたのです。

 それからは、次第に他人に対する不安が少なくなり、何にも積極的に出られるようになりました。そうしますと、今まで特に感じられなかった事柄が違って感じられ、少しずつ生きる喜びが生まれてきたそうです。

 自分一人だけでこのような心境になることは難しいでしょうが、カウンセラーに相談しようという決断をして行動に踏み切ったために開かれたのです。それからは少しずつ自分の気持ちにしたがって行動できるようになってきたそうです。

  恐れのない関係の中で

 長い間自分自身の中に引きこもり、一人で考え続けている状態は、抑圧(repression)の下にあるとも言えます。その状態を続けていますと、さまざまな病的症状に発展し、精神だけでなく体にも苦痛が現われます。カウンセリングには、このような症状を引き起こす原因、つまり硬くなった心を解放するという役割があります。

 カウンセリングの技術や方法については、人によって違いがあります。

 例えば、分析を主体とするカウンセラーの場合、その人の行動や人格を分析したり評価したりする技術を主体としてクライアントに援助しようとします。しかし、クライアントの多くは他人との関係を持つことに不得意な人が多いので、他人から分析されるのを恐れる可能性があります。クライアントの大部分の問題は、その人の心自体の病と言うより、過去に経験した他人との好ましくない関係や悪く評価されたことなどが原因になっていることが多いからです。そのようなことから生ずる病的症状が、今の社会では一番多いのです。そしてそのままにすれば、抑圧状態が限りなく続いていってしまいます。

 したがって、このようなクライアントに対するには、今お話ししたような点に十分注意し、安心できる自然な関係の中でカウンセリングが進行していくことが望ましいのです。そのような暖かい雰囲気の中で硬直した心を解放できたら、それはクライアントにとって根源的なところが動きはじめた証ともいえます。

 抑圧による自己破壊

  留まることの苦しみ

 さて、今述べましたように、一方では自分の思いを過度に抑圧しながら、他方では充足した生活をしようとするのは大変難しいことです。そうすると、心も体も動けなくなってしまいます。事実、自分を抑圧して同じところに留まって苦しんでいるクライアントが少なくありません。確かに、一般社会では何でも自分の思うように行動できるわけではないので、ある程度は自己を抑制するのも当然です。しかし、少なくとも普通の人々が行動している程度までは、自己を打ち破って解放していかなければなりません。

 現在、引きこもりの数は大変なものですが、今は若い世代だけでなく中年以上の人々にも多いので深刻です。中に籠らず、もっと外に向かって心身に宿る生命エネルギーを発散していかなければならないのです。

 幼い小鳥が成長して飛べるようになると、親は食べ物を与えず、子供が自ら食べ物を得るために飛び立つよう誘います。子供が空に飛び立つのは危険な冒険かもしれません。地上に落下して死んでしまう可能性もあります。しかし、そのまま小枝に留まり続けているとしたら、少なくとも小鳥らしからぬ生き方をしていると言わねばなりません。ですから、小鳥たちはやがて大空に向かって飛翔していきます。

 我々も同じところに留まることは許されないのです。抑圧の状態のままでいることは、小鳥が小枝に留まっているのと同じようなものです。ますます生きる実感を失っていくにちがいありません。

  感受性を歪めてしまう抑圧

 最近の犯罪傾向を見ますと、若い世代の犯罪が次第に多くなってきました。また、家族内のトラブルが急増しています。インターネットを通じて知り合った者同士が集団自殺をしてしまうという、今まであまり聞かなかった事件も発生しています。

 殺人についても、従来の感覚ではとても理解できない悲惨な事件が起こりました。大阪教育大学付属池田小学校の殺傷事件や、十七歳の少年に多発した殺人事件は、全く今までの一般的感覚では了解できません。抑圧された心がさらに歪んで、人間の理解を超えてしまったのです。

 あるクライアントの次のような話が、私の心にいつまでも残っています。その女性は若い頃を振り返って、自分の体験を話してくださいました。あるとき、電車に飛び込んで自殺しようと思ったそうですが、決断した瞬間は電車に対する恐怖感がほとんどなかったと言うのです。感覚が異常になってしまったのでしょう。走ってくる電車に向かって近づいていったのですが、この女性は幸い、その寸前で正常な思いに立ち返り、自分の命を救うことができました。

 走ってくる電車に向かうときには、どれほどの恐怖感に襲われるだろう、と一般には考えます。また、殺人事件などに関しても、人を殺害してしまったら大変な罪意識に悩まされるだろうと思いますが、感受性が麻痺してしまうと、それを感じなくなるのです。むろん、さまざまな場合がありますが、今お話ししたことは典型的な抑圧によって起こる心の状態として理解できるものです。

  人間関係の基礎としての親子関係

 どうしてこのような心理状態になるのでしょうか。最も抑圧の起こりやすい初期の状況を考えてみますと、幼少時の親子関係が大きな影響を占めていることが少なくありません。成人になってからの人間関係も親子関係が基礎になっていますから、その頃の経験は大変重要です。

 このように言いますと、親の責任を強調しているように取られやすいのですが、今ここで申し上げているのは、特に親に責任があることを戒めているのではありません。親も一人の人間としてさまざまな困難な状況の中で生きているからです。親といえども簡単に自分を変えることはできません。

 もし子供が完全に良い環境で育ったとすれば、それはある意味で「良い環境でなかった」とも言えます。子供の頃は、満足できないところが必要なのです。それを埋め合わせていくのが人生であるとも言えるからです。しかし、その欠如したところをいつまでも埋め合わせられないで人生が進んでいきますと、問題が起こってきます。

 いずれにしても、成長期の環境や、その頃経験したことが、その後の人生の中で大きな意味を持つことは確かであり、抑圧的親子関係はその中核にあると言えるのです。

 しかし、親子の間に起こる抑圧関係は、必ずしも親が子供を直接抑えつけたから起こるのではありません。親の常識や倫理観が一緒に住む子供を無意識に抑圧している場合もあります。このような親子関係から発生した問題は、クライアントから直接話を聞いていても理解しにくいものです。本人自身が自覚していないからです。

 一つのカウンセリング事例をお話ししましょう。これは三十歳前後の男性が直面した悩みです。その方は会社員ですが、社内でともに働く同僚の言動が気に入らず、彼らと良い関係が結べないと言うのでした。むろん、それだけではなく、日頃の生活にも不安が常につきまとっているのでした。

 五回ほどのカウンセリングを通して次第に分かってきたのですが、その方の両親はクリスチャンでした。それだけに子供の教育に対しても、宗教的雰囲気が自然に浸透していったようです。ちょっとした正しくない表現や行動に対しても、厳しく躾られたのも無理のないところです。そのような環境の中で、子供が親の倫理観をいつの間にか身につけて、自分の生き方と錯覚してしまったのです。親から受け継いだ視点から他人を見るから満足できないのです。それが障害になり、仕事にも打ち込めなくなってしまいました。

 つまり、両親の倫理観に囲まれていたため、本来の自分の生き方が育たず、自分の思いも抑圧されていたのでした。それが怒りになったり、空しく感じられたりしたのです。

 子供の頃や学生時代に、もっと自由闊達に遊ぶ機会があったり、さまざまな考え方に触れることができていたら、そして親の規範に沿うだけでない生き方をしていたら、対人関係もこの人自身の生き方も、もっと違ったものになっていたでしょう。

第二章 カウンセリングの真髄

 心からクライアントの話に耳を傾ける

 カウンセラーにとって、クライアントの話を聞くことは基本的な仕事です。しかしながら、話をどのように聞いているかは人によって異なります。この部分が決定的に重要です。

 「心から相手の話に耳を傾ける」とはどのようなことでしょうか。より理解しやすいように、話の聞き方を分類して説明してみましょう。

  言語重視の聞き方

 特に言葉の上で相手の話をできるだけ正確に捉えることによって、クライアントが自分自身に気づいていくのを大事にする立場です。言葉の使い方によって意味が変わりますから、言語的な正確さや矛盾を重要視することになります。

 クライアントは自由に表現していますが、通常、自分がどのように感じて言葉を使っているかはそれほど明確に意識していません。したがって、カウンセラーがクライアントの話を聞きながら言葉の矛盾や曖昧な使い方を指摘すれば、クライアントはそれをきっかけとして自分の気持ちや思いに目を向けることができます。そのようにしてクライアント自身が次第に自分の考えていることを明らかにしていけるのです。

 例えば次のようなことがあります。クライアントが「私はそのようなことをすべきでないと思うのです」とある人を非難しました。しばらくして、「誰もがおかしいと思うことをあの人は平気でやっているのですから」と言ったとします。このようなとき、カウンセラーは次のように言うかもしれません。「他人もそのように考えていると思うのですね。」これはその非難がクライアント自身の思いに依るものか、クライアントが他人の考えに動かされてそう思っているのかを明確にしようとしている言葉です。

 しかし、カウンセラーの注意があまりにも言葉に集中しますと、クライアントは気軽に言葉を発して自分をストレートに表現することをためらうようになってしまいます。そうなりますと、クライアントその人を理解することが難しくなりますから、カウンセリングの本来の意味を失なう結果にもなってしまいます。

 このような聞き方をするときに大切なことは、細かいことばかりにこだわらず、しかしポイントとなる点は逃さないだけの集中力と感性を養っていかなければならないことです。

  同情的共感か理解か

 相手の話をかなり同情的に聞ける方がいます。私たちは日常、怒りや不満、喜びなどを経験しますが、その感情を誰かに聞いてもらいたい気持ちにもなります。そのような話を感情豊かに聞いてくれる人がいれば、大変有り難いことです。悲しいことであればともに涙を流し、ともに怒り、それによって聞いてもらっているほうも自分の苦しさから解放されます。

 そのような会話を情緒的会話と呼ぶことができるでしょう。女性は優しいだけにこのような聞き方をする方が比較的多いようです。

 カウンセラーにとっても感情豊かに反応できる能力は大変必要ですが、ただ相手に対する感情的反応をカウンセリングで大切にしている「共感」と勘違いしてしまうと問題です。このようなときは相手を理解しそれに共感しているのではなく、自分流の反応をしているだけなのかもしれません。

 親しい友達関係ではこのような会話がよく見られます。確かに相談しやすい人なのですが、会話の一時的満足に終わってしまう場合も少なくありません。聞く側の感情的反応が強く、話す側がむしろそのリズムに同調しているにすぎないのです。一般の会話であればそれでもよいでしょう。しかし、カウンセリングの場では自分を静かに洞察することが難しくなります。

  話のポイントを探る聞き方

 相手の話を聞くときに、その重要なポイントは何かということに焦点を当てながら聞く聞き方もあります。相手にアドバイスを与えようとする目的があれば、このように聞いていく傾向が強くなります。あるいは問題の原因を探そうとするときも、このような聞き方をすることになるでしょう。

 聞く側は専門家であるか、少なくとも相手に良きアドバイスを与えられる立場の人ですから、二人の関係は上下の立場として感じられる場合が多いでしょう。例えば、先生と生徒、弁護士と相談者というような権威的な上下関係です。カウンセラーも分析的治療家としてクライアントに対する場合は、このような関係になるでしょう。

 例えば、ある婦人が子供のことで悩んでいるのをカウンセラーに訴えるかもしれません。しかし、実際には夫婦関係が満たされないために、母親が子供を愛することで自分の満足を得ようとしている場合があります。そのために子供は不自由になり反発しているとも考えられます。それを指摘するためには、話の中で重要なものは何かを発見する能力がなくてはなりません。カウンセラーには、クライアントの漠然とした問題から要点を掴む感覚が必要です。

  実存的理解

 クライアントは悲しみや苦しみなどについてカウンセラーに訴えます。確かにその悲しみ、怒りの気持ちは、一般の人が聞いても当然のこととして理解できるものかもしれません。子供を亡くしたと言えば、その悲しみは大部分の人に分かってもらえます。しかし、その本人の実感していることを理解するためには、その人の感じている独特な悲しみを内側から感じ取らなければ分かりえないのです。

 一般にその人の身になって感じてあげるのが大切だと言われます。しかし、本当にその人だけが感じている私的世界に近づくのは大変難しいことです。そのように分かってもらえることはあまりないでしょう。それだけに、その人の経験や微妙な感情を理解してあげられたら、クライアントは本当に理解されたと感ずるにちがいありません。

 具体的に次のような例で説明しましょう。

 極端な例の一つは、医療関係の場で起こることですが、余命いくばくもない患者とか、病床に臥したまま余生を過ごさなければならない老人などに相対した場合です。そのような人たちの人生観は、健康が最善であると考えている私たちにとっては、なかなか理解しにくいところがあります。一般に私たちは、そのような人に会うと同情的になってしまいがちです。

 しかし、そのようなこちらの思いに反して、むしろ本人は最期に向かって積極的に生きようとしている場合があります。肉体的健康が最善であり、病床にあることはどんなにか辛いことだろうとだけしか考えられない人にとっては、そのような人の当面している世界を理解するのが大変難しいことになります。

 また、自分がどうしても受け入れがたい犯罪者を相手にカウンセリングをしなければならないこともあります。極端に言えば、殺人犯の話をどのように受け取るべきかに迷ってしまうのではないでしょうか。殺人を良いと考えることはできません。そのような場面で話を聞くことは大変難しいものです。

 三十年ほど前になりますが、群馬県で希に見る女性の連続殺人事件がありました。有名な大久保清による事件です。彼は逮捕されてからも絶対に自白しないと頑張っていたそうです。しかし、彼を担当したある刑事が彼の人間的なところに焦点を当てて話を聞いたとき、大久保は突如として慟哭し、すべてを自白したというのです。彼の人生観は一般の我々には分かりません。しかし彼の行動が、複雑な家庭環境の中で形成されていったことも否定できない事実なのです。

 彼の祖母はロシア系の芸者でした。また、父親は俗に言う女癖の悪いことでは隣近所に知られており、当然、家族も大変困っていたといいます。そのようなことがあって、大久保は学校ではその人の子供であるという理由でいじめられていたようです。彼は殺人以前のある犯罪で留置場に入れられていたのですが、これからの改心を誓い、それが認められ出所しました。しかし、家族は彼に冷たく接したのです。そのような事情から彼の犯罪が発展していったようです。

 彼は殺人というイメージに反して、詩を作ったり哲学書を読んだりしていたのですが、しかしその中にも幼児性があったと言われています。人を殺害しておきながらも、何がしか自分の人生を捜し求めていたのかもしれません。

 このような彼の生き方を理解してくれる場はほとんどありえません。しかしそのような人間であっても、どこかで一生懸命生きようとしているところがあるのです。

 私たちはカウンセラーであり、裁判官ではありません。少なくともカウンセリングの場面においては、いかなる人に出会っても静かに耳を傾けたいものです。それは善悪を超えてその人の本当の生きる姿、実存に迫ることです。決してその人の行動が良いと言うのではありませんが、誰もがその人と同じような人生を歩んでくれば、同じような運命にあるはずです。頭で考えるのではなく、全身をもってその人の人生に触れていくのです。カウンセラーはそのあたりを感じられなければなりません。

 このように、個人的に深く理解される経験は一般の人ではあまりないでしょう。もしそのように理解された場合、本当に苦しんでいる人にしてみれば、まさに神に出会ったような気持ちにもなります。それは、カウンセラーがクライアントのさまざまな側面から善悪を忘れて話を聞き、その人の人生への理解を深めることによってクライアントの私的世界、その人の現実に生きる人間としての存在、つまり「実存」に迫ろうとしているからです。

 社会的に見れば許されない生き方も、その人の内部に沿って理解すれば納得のいくことがあるのです。

 クライアントの話を聞いていく過程には、今まで述べたようにさまざまな聞き方があります。個人の実存に迫る聞き方は、カウンセリングにとって最も重要な部分です。

 クライアントの世界に近づくには、カウンセラー自身にその経験がなければ大変難しいともいえます。しかし、自分も同じことを経験したことがあるのでよく分かると思っていても、全く違う場合もあります。一般の会話でもこのような場面にしばしば直面します。その人を本当に理解していないで理解していると勘違いしてしまうことです。

 私はエンカウンター・グループで次のような経験をしました。グループの中に中島さん(仮名)という婦人がおりましたが、彼女のお子さんについての話です。彼女が職場で仕事をしている間に家で子供が亡くなってしまい、その悲しさが消えないと言うのです。それについて大変苦しみ続けていました。その話を傍らで聞いていた林さん(仮名)が、「実は私も子供を亡くしたんです。だから本当にあなたの気持ちが分かります」と中島さんに寄り添うように囁きました。

 ところが、話が次第に進むにつれて、実はこの二人の体験があるところで相反するものであることが分かってきました。中島さんは家庭の中で子供を十分に看てあげられなかったために子供を亡くしてしまったという、その罪悪感で苦しんでいたのです。林さんはその子供との楽しい思い出が甦って苦しんでいるのです。中島さんにとってみれば、林さんの子供との思い出はむしろ羨ましいことです。逆に言えば、林さんに妬みのような感情さえ持っていたかもしれません。

 このように考えますと、同じような経験をしたからといって、必ずしもその人を分かるとは限らないのです。一人ひとりの生活や考えは似ているようですが皆違います。ですから、相手の人をさまざまな角度から理解し感じていく必要があるのです。カウンセラーは自分の経験をもとにしつつ、それを超えてクライアントの独自な経験に近づいていかねばなりません。

 このように、個人の内面に入りながらその人の実感していることに共感していく理解の仕方を「現象学的理解」あるいは「実存的理解」とも呼びます。少々固い言葉にはなりますが、相手の全体をよく理解しながらその人の感じている世界を汲み取っていくことです。

 面接の実践

  (うなづ)

 カウンセリング面接の時間としては、五十分から一時間が普通です。一回限りのカウンセリングの場合もあるでしょうし、また継続するときも当然あります。それによって多少話の進行が異なっていくのは自然です。いずれの場合にも、クライアントの話をまず静かに聞くことからはじまっていきます。その話の合間には当然カウンセラーの頷きがあります。頷きの重要性は一般に考えている以上の意味を持っています。

 この頷きの重要性について考えてみますと、まず第一にクライアントの話をできるだけそのまま聞きながら、同時にカウンセラーがその話を理解しているという意思表示をクライアントに伝えられる点です。基本的にはそうですが、クライアントの変化にいろいろ対応していかなければなりません。

 一般に、はじめてカウンセリングを受けるクライアントの話は、心にかなり長い間蓄積されていた場合が多いものです。したがって、クライアントは基本的にできるだけ自分の流れに沿って話したい気持ちで一杯です。クライアントの表現がたどたどしくてもその道筋を切らないように配慮することが大切です。

 クライアントの性格から素直に表現できないことがあります。そのときには頷きの間にも多少誘導的言葉も必要でしょう。

 あるクライアントは自分の思いを一気に放出するように話します。相手が聞いていようといまいと自分を表現したいといった感じです。その場合は多少、分からないことがあっても流れを止めないように頷いていくことがよいでしょう。カタルシス(catharsis浄化)ということが言われますが、これはまさにそのような状態です。一度心を浄化していかなければ、自分を洞察することはできません。浄化が進めば、やがて話が落ち着いてくるでしょう。

 また、自分を語ることに得意でない人もいます。簡単に自分を語れない場合があるのです。そのようなクライアントに対しては、こちらもゆったりと応じ、時には相手の言っていることを多少まとめてあげながら頷いて聞いていくことを薦めます。

 頷くことは簡単なようですが、いろいろな意味合いを無言で表現しているのです。クライアントの話がよく分かるという気持ちを伝えることもあれば、クライアントの体験していることは本当に苦しいだろうなあ、と頷くこともしばしばです。そのような過程の中でクライアントがカウンセラーを信頼できれば、言いにくい内容であっても表現してみたい気持ちにもなってくるのです。

  質問について

 話が進行していくにつれて、クライアントに対して理解できないところが出てくるのも自然です。質問をすれば簡単にことが済みますが、質問によってはクライアントの思うことと違った方向に話が進んでしまうこともあります。自由な気持ちでいろいろな課題について話しているときは、まとまりがなくても自己洞察にとって大事なプロセスです。つまり、クライアントの関係しているさまざまな生活の場面に触れることによって、最終的にはそれらが統合し安定していける可能性があるからです。ですから、できるだけ流れを止めてしまう質問は避けるべきです。ただし、どうしても質問したい気持ちが残る場合は、クライアントの話についていけなくなりますから、やはり聞いていかなければなりません。

 それにしても、クライアントはいろいろな表現をしてきます。どのような表現をしても、こちらがそれに対応できるだけの豊かな感受性を備えていることが必要です。できるだけ自由に表現させて、それを理解していける能力が求められるのです。

 私は東京の豊島園という遊園地の近くに住んでおり、毎年夏休みになりますと花火大会があります。屋上から眺める花火の素晴らしさは言葉では言い尽くせないほどです。花火の良さは、次にどのような花火が打ち上げられるか予測できないところにあります。時に、何を表現しているのか不明瞭な花火も打ち上げられます。それでも花火師の作り上げた気持ちが一つひとつ分かるように感じられるのです。あるときは他の花火師と競っているのを感ずることさえあります。しかし、その内容はともあれ、その美しさに感動させられます。

 花火に例をとるのは適当でないかもしれませんが、クライアントの話も、時に花火のように脈絡なく訴えるようなものであってよいのです。どのような表現でもそのままカウンセラーは感じ取っていくのです。クライアントが明確に表現しなければクライアントの気持ちが感じられないというのでは、カウンセラーとして不十分です。たとえ話の内容は明確に理解できなくとも、クライアントの感じていることには、ついていける感覚が欲しいです。

  沈黙の意味

 どのようなことであれ、クライアントの話が続いていればカウンセラーとしては安心なのですが、時折、沈黙の多いクライアントがいます。長い話し合いの中ではそれも当然かと思いますが、沈黙は言葉で表現していない時間ですから、カウンセラーとしては戸惑うこともあります。

 しかし、そこには深い意味が潜んでいます。

 あるクライアントは不安な気持ちで覆われています。そのために自分を表現できないのです。そのようなケースでは、クライアントの不安をよく感じながら聞いていくことが大切です。

 最初から沈黙の多いクライアントも少なくありません。その場合は多少流れをつけてあげるための誘導的言葉も必要でしょう。

 ある程度話を続けた後に、次の話をまとめようとして言葉が途絶える場合もあります。そのような沈黙は、むしろ自然であるとも言えます。人が呼吸をするようなものです。

 またあるときには、明確に沈黙の意味が分かります。それはクライアントが哀しさや怒りの感情で一杯になり言葉がなくなる場合です。クライアントの表情を見れば明白です。

 クライアントがカウンセリングにおいて今まで話してきた自分について、しばし省みるときがあります。それは自分について洞察しているとも言えます。沈黙の後しばらくして、「私は他人のことにとらわれすぎていたかもしれませんね」というような言葉が返ってくることがあります。自己洞察のために沈黙していると感じた場合は、クライアントに十分な時間を与え、静かに待つことが必要です。

 

 カウンセラーが特に注意しなければならないのは、カウンセラーの言葉にクライアントが抵抗を感じて沈黙してしまうときです。

 カウンセラー自身はそれほどクライアントを非難したつもりはなくとも、クライアントはそれを自分に対する非難だと感じてしまう場合もあります。クライアントは、このカウンセラーにはうかつなことは言えないと警戒するでしょう。つまり、カウンセラーに対する抵抗から沈黙してしまうのです。カウンセラーがそれに気づけないときは話が深まっていきません。

 例えば、若いクライアントが会社を辞めるべきかどうかの悩みで相談に来たと仮定します。カウンセラーがその話をよく理解しながら聞いていても、その後の話のどこかで、「最近の若者は自分勝手なところが強くて、親も困っているようなことがありますね」とクライアントに話したとします。クライアントは会社を辞めることについての相談であっても、自分もまた勝手な人間だと思われてしまうかもしれないという余計な不安を感じます。あるいは、やはり一般の人と変わらない程度のカウンセラーだと考えるかもしれません。すると言葉が閉ざされてしまいます。

 このようにならないためには、カウンセラーの心が一貫していることが必要です。それには日常の生活でも、あまりその場その場で自分の言い方を変えて相手の意を迎えるようにしないことです。その場その場で変えていると、自分の思わぬところで本音が出てくるので、クライアントが困惑します。ですから、逆にできるだけ自分の本当の気持ちを表現しながら、しかもそこにクライアントを一人の人間として尊重する気持ちが流れていることが大切です。自然な気持ちでクライアントに接しているときは、自分の言った矛盾やクライアントの気持ちの変化を適切に感じ取れるものです。

 カウンセラーの目指すもの

  矛盾を超える

 一般に、カウンセラーに対して強調されるのは、「クライアントをできるだけ肯定する」ということです。確かに理論ではそうなのですが、カウンセラーにも矛盾の気持ちが起こることもしばしばです。

 本当はクライアントの考えに反対したい気持ちがあっても、カウンセラーはそれをそのまま表現するわけにはいきません。それが次第にストレスになってきます。このような難しい状況の中で、カウンセラーはいかに相手の話を聞いていったらよいのでしょうか。

 前述したように、私たちは一般的な常識や倫理観を持っています。カウンセラーも同じような思いでクライアントの話を判断、批評してしまうことが多いものです。たとえクライアントを否定しなくとも、心の中には納得できない気持ちが存在します。それが続きますと、今度はクライアントに対し、自然な気持ちで反応できなくなってしまうのです。

 あるクライアントは次のようなことを述べました。

「結婚する前、夫は私に協力的で大変良い人だと思っていました。結婚してみますと、そのような人でないことに気がついたのです。会社から帰ってくればゴロリと横になるだけなのです。日曜日にもショッピングに行ってくれません。私も腹が立つので、この頃は食事も作らないことがあります。」

 少し話を進めていきますと、経済的にはむしろ余裕のある方でした。そして、ご主人についての話を聞いていきますと、仕事は大変忙しく、残業、残業の連続でした。本人はかなり家庭のことを気にしているのですが、疲れのために体が動かないようでした。

 このような状況を考えてみますと、カウンセラーはクライアントに対し、あまりにも夫の状況を考えずに自分の不満ばかりを並べているのではないか、といった気持ちが起こるのも不思議ではありません。「もう少し夫の事情を考えてあげたらどうですか」と言ってみたいのですが、それではカウンセラーとしてあるべき姿ではないとも思います。

 しかし、このように自分の心が矛盾してそのままでいますと、カウンセラーの心は詰まった感じになります。クライアントの話も聞くことができません。あたかも血管が詰まり、血液の流れが悪くなったのも同然です。カウンセラーは効果的に面接することが不可能になります。

 このようなときに、カウンセラーが繰り返し思い起こすべきことがあります。それは、本来カウンセラーの仕事は先生でも裁判官でもないということです。確かに社会からすれば、カウンセラーがセラピストであったり、教育者であったりするのを期待するのは当然でしょう。クライアントが変わるのを望んでいます。カウンセラー自身もその期待に沿いたいとも思います。

 しかし、カウンセラーの役割は本来、相手のマイナス面を指摘することでも改善することでもありません。カウンセラーの役割は、小鳥が自由に飛び回る大空のように、クライアントがカウンセリングの中で思う存分飛んで、社会においてもまたもっと良い飛び方を学べるような話し合いの場を創り出すことなのです。クライアントがカウンセリングという大空を飛翔している間に、自ずと飛び方が変わってくるかもしれません。あるいは変わらないかもしれません。でも、小鳥にとって大空がなくてはならないと同様、人間にとってもまた心から話し合える場が必要なのです。

 そのように考えれば、社会的に見て望ましくないクライアントの話も、自由に話せる場、つまり大空になったつもりで自由に受け取ることができます。

  行動は自然に変容する

 クライアントの神経症的症状が良くなったり、社会的に良い行動に変容するのをカウンセラーとしても望んでいるのですが、私たちの役割はもっと広いものを含んでいます。むろん、病的症状を治療することがカウンセリングの目的である、と言ったセラピストもいます。しかし、それはカウンセラーではなく、まさに治療者の立場での考えです。カウンセリングにおいては、クライアントの症状が良くなったり、社会的に良い行動に変容するのは、むしろ、カウンセリングで良い関係を保てたことの二次的結果として考えたほうが自然です。

 つまり、カウンセラーに話をよく聞いてもらったために、自然に行動が変化していくことが多いのです。クライアントの行動を直そうとしたことで変化が現われるわけではありません。

 社会の中には、そのような期待が存在することも否定できません。ですから、カウンセラーもそれを全く無視してよいというのではありませんが、重要なことはクライアントに対する視点が広いということです。

 例えば、親子の例をとってみましょう。ある親は子供の成績が良いことを大変望むでしょう。別な親は学校の成績に関係なく伸び伸びと元気であれば良いと思います。このようにある親は成績のほうに重点を置き、別な親は元気であることを第一と考えます。両方とも大切なことですが、違いは、どちらに焦点を当てるかです。

 これと同じように、カウンセラーの関心が主にどちらに向いているかが、他の役割の人々との大きな違いになります。クライアントが良い方向に変容して欲しいのは他の人々と変わりませんが、カウンセラーとしての役割を全うするためには、その関心が特にクライアントの心の理解に向けられていなければなりません。そうでなければ、クライアントは広い意味で幸福にはなれないのです。

 そのために、カウンセラーは日常の中で自分の人生観を広める努力をする必要があります。そうすると、カウンセラーもまた一人の人間としてクライアントと変わらないという自覚に至ります。そのときこそ、クライアントはカウンセラーに近づきやすさを感じます。

 

 カール・ロジャーズ博士は、弟子に自分の問題を相談して人生の危機を乗り越えたこともいく度かありました。カウンセラーは決して人間として不動な人格者や悟った人間ではありませんし、また一般の人々より優れているわけでもありません。

 一般の人々との違いは、カウンセラーがカウンセリングについての経験や知識を多く備えているという点にあります。そして自分にも至らないところがあると思えばこそ、クライアントを身近に感じられるのです。そうであれば、もっと密にクライアントのネガティブな話も聞けるはずです。

 自己不一致に陥らないために

  カウンセラー以上のクライアント

 一般に、カウンセラーはクライアントを否定してはいけないと思い込んでいることが多いのです。そうするとカウンセラーは、自分の本当の気持ちを抑えてしまうことになりやすいものです。このような状態を続けていきますと、カウンセラーが心の中で感じていることと、クライアントに伝える内容が違ってしまいます。これを自己不一致(in‐congruence)と呼んでいます。カウンセラーの表面的言葉からは温かいものが伝わるのですが、内なる心からはそれと違うものが伝わってくるといったことです。そのようになりますと、クライアントはカウンセラーを信じられなくなってしまいます。

 一番困るのは、カウンセラー自身がその状態に気づかないことです。自分の矛盾に気づけるほど心が開かれていればよいのですが、大概はカウンセラーの自己防衛のために気づけなくなってしまうのです。つまり、カウンセリングを失敗してはならないと考えすぎたり、相手を傷つけてしまうのを恐れたり、受け入れねばならないと思ったりして自分を守るために、カウンセラー自身、自分の本当の姿が分からないのです。

 多くのクライアントは、信頼できない他人との関係に長い間苦しんできています。ですから、相手の心の矛盾に関しては過敏とも言えるほど敏感です。カウンセリングの難しさは、クライアントがカウンセラー以上の感覚を持ってカウンセラーを見ている場合が多いことにも由来します。

 カウンセラーの自己不一致のために、クライアントに不信感を持たれてしまうくらいならば、カウンセラーはむしろ純粋な気持ちで、自分に正直にクライアントに向き合うほうがよいでしょう。

  自己不一致の波動

 カウンセラーの心が不一致の場合は、カウンセラーがいくらクライアントの話を肯定したところで、クライアントはどこかしっくりこないものを感じてしまいます。それではクライアントにとって援助にはなりません。これは、本音と建前といった日本人特有な対人関係にも似ていますが、もっと微妙な心理に関することですから、カウンセラーであっても、自分自身のことでさえ気づくことは難しいのです。

 例えば、女性のクライアントが最初に訪れたときなど、女性カウンセラーであればクライアントの洋服をほめるのも自然かもしれません。「色合いがよくあなたに合いますね」と言いながら、心ではちょっと派手な感じで好きではないと思っているかもしれません。ただ最初なので、挨拶のように口からすべったとも言えます。話が進行していけば、さらに微妙なところで本心と違う表現をする可能性が高いのですが、それは自分の心が矛盾しているからです。

このような場合、カウンセラーの心が心理的に矛盾しているばかりでなく、カウンセラーから発せられる、相反する二つのエネルギー波動が相手に放射されているとも言えます。動物であれば、それを本能的に感ずることができるのかもしれません。人間であれば、なんとなく信じられない、といった表現が適当でしょう。カウンセラーとしては、自分の矛盾について十分自覚したいものです。

 受容的理解とは

  「受容」とは肯定することではない

 カウンセリングに関してはさまざまな考えがあるにしても、一般にクライアントの訴えることを否定せず受け取っていくこと、つまり「受容(acceptance)」が重要であると考えられています。それはカウンセラーの基本的態度として、カウンセリング界においてほぼ認められているといえましょう。

 ところで、「受容する」とはどのようなことでしょうか。それについて深く考えてみることは、カウンセラーにとってばかりでなく一般の人々にとっても大切なことです。前にもしばしば述べましたように、クライアントの行動や訴えは一般常識では必ずしも受け入れやすいものばかりではありませんから、カウンセラーにとってもそれを受容するのは簡単ではありません。カウンセラーがクライアントをすべて肯定しなければならないと考えますと、犯罪もよいことになってしまうでしょう。確かに犯罪を肯定はできません。

 カウンセラーはそのようなケースに対応しなければならないのです。司法関係のカウンセラーは実際にこのような場面に直面しています。

 しかし、そのような場合でも、クライアントのすべてを肯定することはできないでしょうが、クライアントのさまざまな苦しみや矛盾の中で発生してしまった問題に、深く耳を傾けていくことは可能です。

 肯定されなくても、理解されることは、「受容」として感じられるものなのです。

  不安を超えて

 さらに、カウンセラーがクライアントを受容できなくなる理由があります。クライアントの表現することを受容してしまったら、クライアントはますます不健康な方向にいってしまうのではないかという危惧です。それを制御するのがカウンセラーの役割ではないかと思うのも無理のないことです。

 そしてもう一つ、クライアントのネガティブな側面を受容している間に、自分白身がクライアントと同じような不健康な状態になってしまうのではないかといった不安です。

 しかし、確かにカウンセラーの役割はクライアントが良い方向に転ずるための援助ですが、クライアントの変化はカウンセラーの判断や制御、方向づけによるよりも、むしろクライアント自身がカウンセラーの受容的態度に触れることによって内発的に起こってくる場合が多いのです。ですから、受容することによってクライアントが悪い方向に進んでしまうのを心配する必要はあまりないでしょう。

 また、カウンセラーが自分の人格に好ましくない影響が与えられる不安を持つとすれば、さまざまな問題を抱えて苦しんでいる人々の話を聞くことは大変難しくなります。それは、クライアントの欠点だけに焦点を当てて聞いているからです。カウンセラーも多くの経験を積むことによって、次第に不安なくクライアントを受容できるようになっていきます。

  すべてが包まれる

 さらに深く考えていけば、「受容的理解」は単なる一般的理解ではありません。どのようなことを言っても理解されるカウンセリング関係のようなものは、一般の人間関係にはないでしょう。あえて言えば、それは母子の関係に似ているところがあります。さまざまな要因を大きく理解して受け取ってくれる暖かさを伴っているからです。

 カウンセリングには、その中で誕生した生命が育まれ成長していく母親の子宮のように、すべてを包んでくれる雰囲気があります。特にクライアントが苦しんでいる場合には、単なる理解以上の安らぎを与えてくれます。これは、すべてのカウンセラーが母親的であると言っているわけではありません。ですが、どこか癒しを伴う理解の関係は、原点として親子の関係に存在しています。別な言い方をすれば、クライアントは子供のときに得られなかった受容的雰囲気を、カウンセリングの中で間接的に体験するところがあります。

 仏の世界を表現する「胎蔵マンダラ」という言葉がありますが、胎とは母親の子宮です。子宮には生命を育てていく力があります。仏様の言葉に触れると、暖かく感じて誰もが元気になれると言ってもよいでしょうが、どこかそれに通じるものがあるように感じられます。カウンセリングはあまり理屈一辺倒になってもいけないのです。

 「受容」とは、分かりやすく言えば、「優しい抱擁的理解」です。しかし、カウンセラーの理解にはさらに専門的深さがありますので、それだけの理解とはまた大変違っているとも言えましょう。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2009/01/11

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大須賀 克己

オオスガ カツミ
おおすが かつみ 1934年茨城県生まれ。米国カリフォルニア州公認カウンセラー。アナハイム大学名誉博士。

掲載作は、「ホリスティック・カウンセリング」(共著・2005年春秋社刊)の一章と三章の抜粋であるが、ここでは、便宜上、第一章と第二章とした。なお、第一章「抑圧による自己破壊」中の「抑圧の構造」については図に関する説明が必要なことから、編集の都合により削除した。

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