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俘虜記(抄)

     或る監禁状態を別の監禁状態で表わしてもいいわけだ。

                             デフォー

 (つか)まるまで

     わがこころのよくてころさぬにはあらず

                             歎異抄(たんにしょう)

 私は昭和二十年一月二十五日ミンドロ島南方山中において米軍の俘虜となった。

 ミンドロ島はルソン島西南に位置するわが四国の半分ほどの大きさの島である。軍事施設として見るべきものなく、これを守るわが兵力は歩兵二個中隊、海岸線に沿った六つの要地に名ばかりの警備駐屯を行うのみである。

 私の属する中隊は昭和十九年八月以来、島の南部及び西部の警備を担当した。中隊本部は私を含む一個小隊と共に島の西南端サンホセにあり、他の二つの小隊はそれぞれ東南ブララカオ及び西北パルアンにあった。サンホセ、パルアン間、つまりこの島の全長を蔽う約二十里の西海岸の全部が開け放たれ、ゲリラが自由に米潜水艦の補給を受けていた。しかし彼等は攻撃しては来なかった。

 昭和十九年十二月十五日米軍は艦船約六十隻をもってサンホセに上陸した。我々は直ちに山に入り、南部丘陵地帯を横切って、三日の後ブララカオ背後の高地で同地駐屯の小隊と連絡した。米軍はまだこの地に上っていなかったが、彼等はサンホセの砲声を聞いて、いち早く糧食、無線機と共にここに退避していたのである。糧食はなお豊富であり、まもなく我々と合流した附近の水上機基地の海軍部隊、遭難船舶工兵、非戦闘員を合せ総員約二百名、なお三カ月以上を支え得るはずであった。明けて一月二十四日米軍の襲撃を受けて四散するまで、我々は約四十日ここに露営した。

 米機は終日頭上にあったが、米軍は直ちに追求しては来なかった。「奴等は怠け者だからこんなとこまでやって来やしないさ。そっちが来なけりゃこっちだって行かないや。そのうち戦争も終るだろう」と我々の当分の宿舎となるべき小屋掛け作業を指揮しながら或る下士官がいったがこれは我々の希望のかなり端的な表現であった。即ち米軍がこの島をルソン島攻撃の中継基地として選んだことが明白である以上、我々がこの山中にじっとしていれば、戦は我々の上を通過して、ここは最後まで所謂「忘れられた戦線」として残る可能性があったからである。我々のような孤立無援の小部隊の抱き得る唯一の希望である。

 しかし不幸にして我々はやはり「行かない」わけにはいかなかった。我々はやがてルソン島バタンガス所在の大隊本部から敵状偵察の命を受け、度々十数名より成る斥候(せっこう)が組織され、十日或いは一週間サンホセ附近の山中に潜伏して帰った。或る時彼等は米哨兵に発見され射撃された。

 まもなく一個小隊はサンホセを見晴らす高地に移動して分哨となり、毎日彼等が望遠鏡で見た状況を大隊本部に打電した。彼等は屡々(しばしば)数十隻より成る船団がサンホセ沖を通過北上するのを見、大型爆撃機が多数新設飛行場から離陸するのを見た。かつて我々がボートを操って魚を釣った湾内には、米機外艇が引掻いたように白い水脈を引いて縦横に疾駆していた。

 一月に入り大隊本部は百五十名から成る斬込(きりこみ)隊の派遣を告げて来た。しかし彼等の到着予定日には米軍が中部東海岸一帯に上陸して居り、彼等を乗せた舟艇は以来行方不明であった。もっともこの斬込隊は我々の間ではあまり歓迎すべき客とは考えられていなかった。何となれば彼等の到着はとりも直さず、我々の中からも若干の決死隊を出して嚮導(きょうどう)とせねばならぬことを意味したからである。六十隻をもって上陸した米軍に対する百五十名の斬込隊の成果について、我々は何の幻想も持っていなかった。

 しかし我々はその後も命令により幾度かブララカオに出張し、或いは到着しているかも知れぬ斬込隊を迎えに行った。我々は無人の民家を荒し、たまたま家財を取りに来た不運な住民を拉致して帰った。こうして我々は不本意ながらだんだん掃蕩(そうとう)される原因を作って行ったのである。

 こうした絶望的状況にあっても、我々兵士は比較的呑気であった。我々は(ことごと)くその年初めて召集され、三カ月の教育の後直ちにここへ送られた補充兵であり、経験の欠除から事態の重大さがピンと来なかったからである。しかしいくら正確に事態を認識したからといって、いつ来るかわからぬ圧倒的に優勢な相手を毎日気に病んでいられるものでもない以上、こうした無智は我々にとってむしろ一種天与の恩恵だったということも出来ようか。我々は大部分私のような三十を越した中年の兵士であり、目前の事態から強いて早急な結論を求めようとはしなかった。

 それにこの山中の生活は最初のうちはそんなに悪いものではなかった。気候は既に乾季に入って雨も少なく、暑いのは日中、それも日向だけであるから、着のみ着のままの露営生活には丁度手頃な陽気である。糧食も差当って不自由なく、分隊毎に疎開分宿したから軍紀もおのずから緩んで、兵士を片苦しい軍隊の日常の作法から解放した。我々はキャンプにでも来たような気持で谷川の水で飯を炊き、マニヤンと呼ばれる附近の山地人(これは海岸地方に住む一般比島人より色の黒い異人種で、戦争に無関心である)と馴れて、赤布、アルミ貨等を与えて芋、バナナ、煙草等を獲た。我々は時々は麓に下り、飼主を失って彷徨する牛を射ってその肉を食べた。

 しかし災厄は意外な方からやって来た。マラリアである。

 ミンドロは比島群島中最も悪性のマラリアの発生する島だそうである。しかし予防薬をとっていたため、サンホセにいる間は患者は二三名を越えなかったが、山へ入る時衛生兵がキニーネを忘棄したため、やがて急速に蔓延し、一月二十四日米軍に襲撃された時、立って戦い得る者三十人を出なかった。最後の半月の間には大体一日三人ずつ死んで行った。

 病人は静かに死んだ。彼等の急激な意気沮喪は著しく、その呑気な日常と異様な対照を示していた。

 中隊長は毎朝各分隊の小屋を見舞った。彼は小屋に充満している病人を眺め、黙って戸口に立ちつくした。

 私の分隊長は米軍上陸直後まだ退路の開いていた間に、遮二無二北上してルソン島に渡らなかったことにつき、中隊長の決意を非難する口吻を洩らした。彼によれば、こんな山の中にいつまでもまごまごしているから、大隊本部から面倒な偵察の命令を受け、結局こうして病人が増えて動きがとれなくなったのである。

 下士官のエゴイズムである。しかしこの判断にはルソン島を不落の安全地帯と見做す近視眼的前提が含まれていた。かつてノモンハンの戦闘を見た中隊長が、比島派遣軍の運命についてかかる楽観的予測を抱懐し得たはずはない。

 彼は幹部候補生上りの若い中尉で、二十七歳であったが、無口で陰気で、三十歳より下には見えなかった。彼がノモンハンで何をなし何を見たか、彼は一度も語らなかったが、その眼その顔には現れていた。私は彼の体にその僚友の死臭を嗅ぐようにさえ思った。

「警備隊は警備地区をもってその墓場と心得ねばならぬ」と彼はいつもいっていたが、私は彼が通り一遍の訓示を行っていたとは思わない。

 彼は我々の現在地を特に米軍から秘匿しようとはしなかった。サンホセから道案内した土民には、慣習に反して食糧を与え放ち帰らしめた。彼の言動には常に一種の諦めがあり、彼の動作はいわば過度に緩慢であって、時々歯の間から押し出すように弱く笑った。犠牲者の笑いである。

 彼は幾分進んで死を求めたようである。サンホセ駐屯中行った討伐戦において、彼は常に先頭に立って戦い、決して自分を遮蔽しなかった。彼は自分では戦争の要請を至上命令として自らに課することを許しながら、それを部下に課することについては自己の責任を感ぜずにはいられないあの心の優しい指揮者の一人であった。彼等は一般にただ自己の死によってしか、その部下に対する要求を正当化する手段を持っていない。

 山中で最後に米軍の襲撃を受けた時、彼は火点観測のため単身前進し、迫撃砲の直撃弾を受けて最先に戦死した。恐らく本望だったろう。

 一種の共感から私はこの若い将校を秘かに愛していた。私もまた私なりに彼とは違った意味においてであったけれど、自己の確実な死を見詰めて生きていたからである。

 私は既に日本の勝利を信じていなかった。私は祖国をこんな絶望的な戦に引きずりこんだ軍部を憎んでいたが、私がこれまで彼等を阻止すべく何事も()さなかった以上、今更彼等によって与えられた運命に抗議する権利はないと思われた。一介の無力な市民と、一国の暴力を行使する組織とを対等に置くこうした考え方に私は滑稽を感じたが、今無意味な死に駆り出されて行く自己の愚劣を笑わないためにも、そう考える必要があったのである。

 しかし夜、関門海峡に投錨した輸送船の甲板から、下を動いて行く玩具のような連絡船の赤や青の灯を見て、奴隷のように死に向って積み出されて行く自分の惨めさが肚にこたえた。

 出征する日まで私は「祖国と運命を共にするまで」という観念に安住し、時局便乗の虚言者も空しく談ずる敗戦主義者も一紮(ひとから)げに笑っていたが、いざ輸送船に乗ってしまうと、単なる「死」がどっかりと私の前に腰を下して動かないのに閉口した。

 私の三十五年の生涯は満足すべきものではなく、別れを告げる人はあり、別れは実際辛かったが、それは現に私が輸送船上にいるという事実によって、確実に過ぎ去った。未来には死があるばかりであるが、我々がそれについて表象し得るものは完全なる虚無であり、そこに移るのも、今私が否応なく輸送船に乗せられたと同じ推移をもってすることが出来るならば、私に何の思い患うことがあろう。私は繰り返しこう自分にいい聞かせた。しかし死の観念は絶えず戻って、生活のあらゆる瞬間に私を襲った。私は遂にいかにも死とは何者でもない、ただ確実な死を控えて今私が生きている、それが問題なのだということを了解した。

 死の観念はしかし快い観念である。比島の原色の朝焼夕焼、椰子と火焔樹(かえんじゅ)は私を狂喜させた。到る処死の影を見ながら、私はこの植物が動物を圧倒している熱帯の風物を眼で貪った。私は死の前にこうした生の氾濫を見せてくれた運命に感謝した。山へ入ってからの自然には椰子はなく、低地の繁茂に高原性な秩序が取って替ったが、それも私にはますます美しく思われた。こうして自然の懐で絶えず増大して行く快感は、私の最後の時が近づいた確実なしるしであると思われた。

 しかしいよいよ退路が遮断され、周囲で僚友が次々に死んで行くのを見るにつれ、不思議な変化が私の中で起った。私は突然私の生還の可能性を信じた。九分九厘確実な死は突然推しのけられ、一脈の空想的な可能性を描いて、それを追求する気になった。少なくともそのために万全をつくさないのは無意味と思われた。

 明らかにこれは周囲に濃くなって来た死の影に対する私の肉体の反作用であった。こうした異常な状態にあって、肉体が我々をして行わしめるものは頗る現実的であるが、その考えさすものは常に荒唐無稽である。

 私には一人の仲間があった。それはSという或る漁業会社の重役の息子で、私と同年の、妻子のある男だったが、彼は銃後の資本家のエゴイズムに愛想をつかし(と彼はいっていた)その手先たらんよりは前線に出て一兵卒として戦うことを夢みた。彼は内地で教育中前線出動の可能性をわざと軍に影響を持つ父親に知らさず、自ら内地に残る手段を絶ち切っていた。彼の夢は前線の状況を見て破れた。彼はわが軍が愚劣に戦っていると判断し、「こんな戦場で死んじゃつまらない」と思ったという。

 この言葉は私にとって一種の天啓であった。この死を無理に自ら選んだ死とする倨傲が、一種の自己欺瞞にすぎないことに私は突然思い当った。こんな辺鄙な山中でなすところなく愚劣な作戦の犠牲になって死ぬのは、単に「つまらない」ただそれだけなのである。

 我々は二人で比島脱出の計画を立てた。その計画とはこうである——いずれ我々が米軍によって現在地を逐われるのは確実として、何とか敵中を潜って西海岸に出る。そして住民の帆船を分捕り、季節風を利して島伝いにボルネオに遁れる(この際私が海水浴場で覚えた帆走術が役立つはずであった)。私はボルネオも安全とはいえないから、いっそ南支那海を突切って仏印に渡ってはどうかと提案したが、Sはそれは食糧と航海技術の関係で不可能だから、次善を選ぶほかはあるまいといった。

 帆船が得られなかった場合、我々は再び山に籠り、草の根でも食べて休戦を待つのである。我々は子供の時読んだ「ロビンソン・クルーソー」の細目を語り合い、土民から竹から火を起す方法を学んでおいた。

 この計画はいかにも空想的なものであるが、我々はその実現の可能性を少しも疑わなかった。

 我々は繰り返しこの計画を検討し、日に三人誰かが死んで行く中で、墓掘人足のように快活だった。(我々は実際墓穴を掘った)我々はまた当時我々の最も身近な敵、マラリアに罹った場合を考慮し、現在残った唯一の対抗法、つまり予め体力を貯えることに全力をあげた。我々は病人の残した粥を食べ、土に落ちた飯粒も拾って食べた。

 しかし我々はこうしてあらゆる場合に備えて周到に計画していたにも拘らず、我々がマラリアで発熱している丁度その時、米軍がやって来る可能性については想到していなかった。

 二人共申し合わせたように一月十六日に発熱した。私は四十度の熱が続き、二日目に足が立たなくなり、三日目に舌がもつれた。Sの症状は私ほど重くはなかったが、やはり毎日三十九度以上の熱が出た。

 最初の試煉が来たのである。私は心に「武器を取れ」と叫んだ。私の体は強健ではなかったが、病に対しては比較的抵抗力があるのを知っていた。私は細心に自分の症状を観察し、療法を自分で工夫した。熱のためすぐ下痢が始まったのを見て、消化器に無益な負担をかけないために(これがその時の私の考えであった)一切食べないことにした。半月位食べずにいても、体力を維持するだけのエネルギーを貯えてあると私は自負していた。

 衛生兵は山へ入ってから奇妙なマラリア療法を発明していた。それはマラリア患者は水を呑んではいけないというのである。私はそれまでの盲従の習慣を一擲し、断固として反対した。あらゆる論拠をあげて、その禁止の無意味なることを証明して見せた。分隊長は怒って兵士が私のために水を汲むことを禁じた。私はまた病人が死ぬ前に糞便を失禁するのを見て、苦痛が激しくなると、わざと戸口まで匍い出して小便をして見た。

 この間に一人同じ分隊の兵士が死んだ。死体は私の胸を越えて運ばれた。分隊の全員が病人であったから、比較的軽い病人が土葬を手伝わなければならなかった。長らく発熱していて少しよくなったと思われた一人の兵士が、死人の装具を一町ばかり上の中隊本部まで返納にやらされた。帰って小屋に入る時、私は彼の顔が異様に歪んでいるのを認めた。翌朝彼は死んでいた。

 この兵士が死んだのは一月二十二日である。私も少し熱が下り、夕方発病後初めて少量の粥を摂った。その時展望哨が米船三隻がブララカオ湾内に入るのを見たと伝えられた。

 分隊長は中隊本部へ行き、なかなか帰らなかった。帰っても不機嫌に横になったきり何もいわなかった。我々は通りすがりの兵士から直ちに四名の斥候が出たということを聞いた。

 翌朝眼がさめて小屋の周囲が何事もなく明るくなっているのを、不思議な気持で眺めたのを憶えている。私は漠然とその払暁米軍が来るかと考えていたのである。その日も一日無事に暮れた。前夜出た斥候は帰らなかった。夜私は分隊長に「今日米軍が来なかったところを見ると、僕達は包囲されてるんじゃないでしょうか」といった。彼は「病人の癖に生意気いうな」といった。

 次の日は一月二十四日である。この払暁また一組の将校斥候が出た。七時頃一人の兵士が帰って、一行は麓で襲撃され、将校は戦死したと伝えた。分隊長はまた中隊本部に呼ばれ、すぐ帰って、病人は非戦闘員と共にサンホセ方面高地の分哨小隊まで退避する、歩ける者は支度しろ、といった。そして彼自身も支度をはじめた(彼も少し前から病人と称していた)。私も漸く歩いて便所へ行けるまで恢復していたが、分哨まで十五(キロ)の道は自信がなかった。その先またどれだけ歩かなければならないか知れたものではない。私は遂に自分がここで死ななければならないことを納得した。分隊長以下十二名中二名が死んで十名である。そのうち私を入れて四名が残った。Sは行くつもりらしく支度を始めた。私も外へ出て、何となく小屋の廻りを歩きながら、彼に改めて「俺は残るよ」といった。

 彼も大分よくなっていた。彼は私の腋の下へ腕を入れ「大文夫だ。俺が助けてやるから一緒に行こう」といった。私はふと歩けるところまで彼と一緒に行く気になった。私は分隊長に決心を変えたことを伝えた。彼は黙っていた。

 各自押し黙って支度をした。別れの言葉は交されなかった。

 出発の時になった。私が皆に随いて歩き出そうとすると、分隊長が振り向いて、しかし私の顔を見ないようにしながら「大岡、残るか」といった。私は咄嵯に私がいかに一行の足手纏いになるべきか、私の状態が職業軍人の眼にどう映るかを了解した。私は「残ります」と答え、銃を下した。

 Sは何故かこの時先発して私の見えないところまで上っていた。その時の状況では彼を呼び返す気は起らなかった。こうして私はこの比島脱出の相棒と、さよならもいわずに別れてしまったのである。

 この退避組は全部で六十名余りになったが、二粁ばかり行ったところで襲撃されちりぢりになった。米軍はこの時既に完全に我々を包囲していたのである。Sはその晩まで分隊長と一緒にいたが、翌朝落伍していたそうである。(こうしたことを私はあとで私と同じ俘虜収容所に来たこの分隊長から聞いたのである。彼は四名の兵士と共に一カ月ばかり山の中をさまよった揚句比島人に捕えられた。彼はその手に残っていた手榴弾を投げなかった)

 残った者の取るべき行動については、何の命令も与えられていなかった。とにかく各自靴を穿き、脚絆(きゃはん)を巻いて戦闘準備をして横になった。

 私はこの時分隊で一番重い病人であったから残るのは当然として、他の三人が出発した連中と比べて、特に悪い状態にあるとは見えなかったのは意外であった。

 一人はKという有名な大正の講壇批評家の息子で会社員であった。彼は常々命令された最少限度を行うという頗る消極的な勤務振りを示し、上官の受けはよくなかった。Kというのは珍らしい姓であったから、私は或る時彼に「君はK先生の親類かい」ときいたが、彼は「親類じゃねえ」と噛んで吐き出すようにいった。それは「親類じゃねえ、赤の他人だ」とは受け取れない妙な返事だった。私は「息子だな」と感じたが、その返事が気に入らなかったから追求しなかった。しかしサンホセに米軍が上陸する直前私が最初の発熱をした時、彼も足を傷めて班内にいたが、飯盒に水を汲んで来て丁寧に私の頭を冷やしてくれた。その看護には女のような奇妙な優しさがあり、彼の不断の人に馴れないエゴイスチックな態度とは似合わなかった。私が前の質問を繰り返すと彼は素直に次男だといい、問わず語りに彼の父が震災で不慮の死を遂げてから後の一家の歴史を細々と語った。以来我々は友人となった。しかし彼は私とSの脱出計画を冷笑していた。

 彼ははっきりしたマラリアの症状を示さず、仮病じゃないかという者もあった。少なくとも出掛けたSよりは遥かにいい状態にあったことは事実である。彼は口を曲げて「行ったって残ったって同じことさ」といった。彼は心は優しいが幾分自分を粗末にする男だったようである。

 他の一人は土木師だった。彼はサンホセ駐屯中上官の前でよく働き、屡々(しばしば)上等兵の勤務をとった。私は彼を阿諛者として嫌っていたが、山へ入りもはや序列も昇進も問題でなくなった後にも、彼は依然としてよく働き、進んで重い物など担いだ。そして恐らくそのため分隊で一番先に病人となったのである。私はこの齢になってもまだ人を見る眼に誤りがあるのを秘かに()じた。彼はもう熱はなかったが、多分体が見掛け以上に弱っていたのであろう。

 もう一人はおとなしい北多摩の百姓である。彼は行くとも残るともはっきり意志表示をせず、ただ皆が出掛けた後で、見たら彼がそこにいたというにすぎない。彼はべそをかいたような顔をして、脚絆も巻かずに壁に向いて寝てしまった。

 時刻は残留者が誰も時計を持っていなかったのではっきりしたことはわからない。私は通りがかりの兵士に飯盒に水を汲んで来て貰い、何度もそれを水筒に詰めようとして、つい億劫で止めたのを憶えている。物音はなかった。兵士もだんだん通らなくなった。

 突然、我々の小屋のあった谷の下の方から三発の鈍い発射音が聞え、少し間をおいて中隊本部の山の上で三発の澄んだはじけるような音がした。

 それは小銃の音ではなかった。私はそれまで迫撃砲の音を聞いたことはなかったが、何故かこの時それを迫撃砲ときめてしまった。しかもそれは弾着を見るための試射の音であるように思われた。

 皆起き上った。表情のない顔だった。「来たらしい——とにかく上まで行って見ようか」と私はいった。皆「うん」と答えて身動き始めた。

 私は飯盒の水を水筒に移そうとした。手が震えて水は外へこぼれた。私は「死ぬのに水は要らねえや」と咳いて飯盒を遠く投げ飛ばした。

 私の友人は屡々私が何事にも見切りがよすぎるといって私を非難したが、私が今日生きて帰ってこんな文章を書いていられるのは、ひたすらこの時この水を棄てたという一事に懸っている。

 私はなるべく身軽に身をこしらえ弾入も一個しかつけないで外へ出た。その時の私の感じでは、私の生命はその三十発を射ち尽すまでは持たないのである。

 他の三人はまだ中でごそごそやっていた。私は中隊本部まで一町の坂道も上れるかどうか自信がなかった。私は「先へ行くぜ」と声をかけて歩き出した。

「一緒に行かないのか」とKが不服そうにいった。私は「歩けるかどうかわかんないから、先に行くよ。多分途中で待ってる」といい棄て、銃を杖に狭いジグザグの坂道を上り始めた。これがこの連中の見収めとなった。なお身ごしらえに手間どっていた彼等は、一人もこの米軍の砲撃正面となった谷から出られなかった。

 私は不思議に歩けて途中休みなしに上りきることが出来た。上ではみんな活潑に動いていた。二三人ずつ隊伍を組み緊張した顔を連ねて無言で右左に摺れ違っていた。私は稜線を越えたところにある一つの分隊小屋に入って腰を下した。二三人の病兵が銃を抱き顔を歪めて横わっていた。

 途端に小屋は炸裂音に包まれた。私は反射的に小屋を出て弾の来る方角へ伏せた。今私が上って来た谷の方角である。炸裂音は続いた。「前へ出ろ、前へ出ろ」という声が聞えた(この時私のいた位置から十(メートル)後方の衛兵所に弾が落ちて一人の兵士が大腿骨を砕かれたのである)。私は匍って前へにじり出た。炸裂音はなお前方で激しくしていた。私は前進を中止した。「前へ出ろ」の声は続いていた。

 中隊長が出て来た。彼は鉄兜を背負いその上から上衣を羽織って傴僂(せむし)のような恰好をしていた。彼は笑いながら「賑やかでいいじゃないか」といって双眼鏡を持ち添え、弾の来る方へ映画の画面を横切る人のように歩いて消えた。これが私が彼を見た最後である。

 二十人ばかりの兵がそこらに伏せていた。私は隣りの兵士と顔を見合せた。その顔は熱病患者らしく蒼くふくれていた。その顔も笑っていた。

 弾はまた一しきり激しくなって依然前方に落ちた。それから止んだ。

「隊長殿がやられた」という声がし、「衛生兵」と呼ぶ声が続いた。(この衛生兵も後で収容所で会ったが、彼は中隊長の死体を見付けることが出来なかったという)

 先任軍曹が来て、「病人は谷に降りろ」といった。私は今しがた休んだ小屋へ行って病人を促がした。彼等は私が最初入った時と同じ姿勢で寝ていた。そして聞えるのか聞えないのか身動きもしなかった。

 我々は私が登って来た谷とは反対側の谷へ一列になって降り始めた。病人でない者も皆降りた。私の前には先任軍曹が歩いていた。「隊長殿がやられた」という声がまた聞えた。私は私の前に何の反応を示さずに動いて行く軍曹の背中を不思議な生物を見るような気持で見続けた。私は「軍曹殿、隊長殿がやられたそうですが」と注意したが、軍曹は振り向かず「そうか——ほんとうかなあ」といって、なおも歩度を緩めずに歩き続けた。

 谷を下りた所に別の軍曹が腰掛けていた。先任軍曹は傍へ行って「隊長殿がやられたっていうんだが、ほんとうかなあ」といった。「ふーん、ほんとかなあ」鶏鵡返しに別の軍曹が答えた。私は彼等の会話を聞くに堪えなかった。私がそこを離れようとすると「みんなあそこへかたまって命令を待ってろ」といって、谷の向うの空地を指さした。

 そこには既に三十人ばかりの兵士が集っていた。病兵が道傍に倒れていた。或る者はうつ伏せに死んだようになって倒れ、或る者は銃を横に抱いて「く」の字形に寝ていた。右手は弾倉に当てられ弾を押し込もうとして力を失っていた。弾が地上に散らばっていた。私はその弾を込めてやり、兵士の体を揺すぶったが、彼は眼をあかなかった。

 空地に集った兵士の間に伍長が一人混っていた。「命令を待て」という軍曹の言葉を伝えると「けっ、命令なんか、待っていられるか。俺がうまく逃がしてやるから、みんな来い」といって一方の道をどんどん上り出した。私は機械的について行った。上りは辛かった。私がずっと(おく)れて半町ばかり上り、一息ついていると、一行はどやどや引き返して来た。伍長は血走った眼をして「駄目だ。こっちも撃ってやがる。あっちから行こう。あっちも駄目だったら、銃座へ立籠って最後の一戦を交えるまでだ」といいながら摺り抜けて行った。見知らぬ海軍の兵士が私を見て「しっかりしろ」といい棄てて続いた。

 私はぼんやり彼等の後を見送っていた。私はここまで上るのに私の力を使い果していた。私は一緒に行こうか、ついて行けるだろうかと思案しながら、そこに腰を下してしまった。一隊はずんずん降りて横へ切れ、林へ入ってしまった。それはこの谷を少し上ってから別の尾根へ取り付き、先で今彼等が引き返して来た道と合する道である。私はその道を知らなかった。また一隊の兵士が足早に空地を横切って林の中へ吸い込まれて行った。私はその中によく私のところへ身上話をしに来た、或る若い兵士の姿を見たように思った。彼もまたマラリアで寝ていたはずである。その兵士の姿が私にまたついて行く気を起させた。私は思いきって立ち上り、今来た道を下りて行った。

 空地には倒れた兵士の外誰もいなかった。林の中には道はなかった。前方では兵士等の呼び交う声が響いていた。その声はどんどん遠ざかり、やがて呟くような音となって止んだ。その遠ざかる速度は私の到底ついて行けない速度である。

 私はまた腰を下した。そして「わかったよ。もう沢山だ。わかったよ」と呟いた。(こうして一人になってから、私は始終声を出して考えていた。恐らく自分の考えを自ら確めるためだったろう)「わかったよ」とは「どうせ俺はここで死ぬことにきめたんじゃないか。思ったより歩けたからここまでついて来たものの、どうせ皆と一緒には行けないんだ。わかったよ」という意味である。

 私は(かしわ)に似た大木の根元に身を構え、おもむろに腰の手榴弾をはずして傍へ置いた。今となっては、これが私の唯一の友であり、希望であった。その強烈な爆発力は私を苦痛なくあの世へ送ってくれるはずである。

 この時私がやがてこの道を来る米軍について何も考えなかったのは、かなり奇妙なことである。恐らく私は到頭自分の最後の時に来たという考えに圧倒されていたのであろう。或いは漠然と米軍が来るにはまだ間があると思っていたのかも知れない。何故なら、さっき伍長がこの道の前方に聞いたという銃声を、私自身は聞かなかったからである。

 何の感慨もなかった。死については既に考え尽されていた。門司を出て以来私の運命はこの一条の線から逃れることは出来なかった。今その最後の一点に来たというにすぎない。私は「まず末期の水を」と呟き、水筒を傾けた。それは空であった。私は分隊を出る時水を棄てたのを思い出した。その時私は後でこうしてゆっくり水を飲む暇があろうとは思っていなかった。また私は早まったのかも知れない。私は苦笑した。その時急に渇きがひどくなった。

 私は今自分が存在するのを止めようとしている時、一杯の水を飲むか飲まないかはどっちでもいいことだと自分にいい聞かせた。その間にも渇きはどんどんひどくなって行った。

 附近には水はなかった。その時私のいた谷の川は、我々がここに来た時既に流れていなかった。そして今は乾季だったから、ますます干上って、濁った水がここかしこ水溜りをつくっているだけである。水を飲むには再び中隊本部のある山を越えて、私の分隊の傍の泉まで帰る外はない。しかしその時の私にはそこまで行く力は残っていないと思われた。

 私は以前偶然この谷の上流と覚しきところを渡った時、そこに水があったのを思い出した。その水はたしか黒くなかった。

 私の知っているそこへ行く道もやはり一旦中隊本部まで上るのである。しかしもしそれが事実この川の上流であるならば、この谷を伝って行けば自然そこへ出るはずである。この道は平坦であり、なお私の力に堪えそうである。

 私は再び手榴弾を腰につけて立ち上った。そして藪を掻き分けて水のない谷川の川床に降りた。私は前に今私が生きているのは分隊小屋を出る時水を棄てたという一事に懸っていると書いた。第一そのため私だけが一瞬の差で米軍の攻撃正面にあったその谷から出られたのである。第二、そうして水を持っていなかったため、私はこの最初に選んだ死場所を離れた。もし私がなお暫くそこにいれば、私は米軍の手によって完全に私の目的を達していた。後で聞いたことだが、翌朝このあたりまで偵察に入り込んで来た分哨の兵は、私が弾をこめてやった病兵が胸を射たれて死んでいるのを見た。ここは米軍の進撃路の一つに当っていたから、ここにいれば、私は抵抗するしないに拘らず、確実に殺されていたのである。

 川の水はさらに少なくなっていた。十間以上離れて飛び飛びに、一坪ほどの黒い水溜りがあるばかりである。川に沿って一条の道がついていた。私は機械的にそれを辿って行った。渇きは加速度的にひどくなって行き、一瞬も我慢出来ないほどになった。思えば私は発熱以来こんなに長く水を飲まずにすごしたことはなかったわけである。

 私は黒い水を見詰めた。異様な臭気が立っている私の鼻まで上って来た。水底に何か黒い昆虫が匍っていた。私はその水を手で()み口に含んでみた。舌を刺す味があり、呑み込むことが出来なかった。

 大きな水溜りがあり、四五匹の水牛が浸っていた。我々がサンホセから荷物を載せて連れて来た水牛である。

 水牛は私の顔をいぶかし気に眺めた。その一頭と私は暫く眼を見合せていた。その顔は見れば見るほど人間に似ていた。私は奇妙な混乱を感じた。水牛はてれたように顔をそむけ、一声鳴いて水からあがった。水がざぶざぶとその大きな体からこぼれた。その水もやはり飲めない水である。

 水牛はさらに川原から岸に上り、林の中へ入った。気がつくとそこは両岸が小さな崖をなして迫り、道は川から離れて今水牛が去った林の方へ続いていた。水溜りの奥で谷は急に曲り先は見えなかった。水牛を押し分けてその水溜りを渡って行く気にはなれなかった。私は林に入った道がまた先で川床に降りるだろうと推測し、その道を辿って行くことにした。

 それは私が降りたとは反対の側、つまり中隊本部のある山の側である。道は上っていた。私はもはや両側の枝につかまりながら歩いていた。道はどんどん川から離れ、林が切れて草原へ出た。そしてそこでまた大きく川とは反対の側へ曲っていた。

 私はこれが川を遡行する道ではなく、陣地の正面(我々はここに陣地というほどのものを構築してはいなかったが、中隊本部の前方半町、ブララカオとサンホセから来る道の合流点に我々の持つ唯一の機関銃を据える銃座を掘り、そこを陣地正面と呼んでいた。さっき伍長が立て籠ろうといったのはこの銃座である)へ行く道、更に正確にはそこからこの谷へ降りる道であることを了解した。目的の渡渉点へ行くにはやはり一旦その正面まで上り、また私の知っている道を下りて行かねばならないらしい。

 私は再び私の力を使い果していた。私は目的地の水が果してそれだけの労力に値するかどうか疑った。この水の減りようから判断すればそこの水もやはり干上っていると思わねばならぬのではあるまいか。私は林のへりに倒れてしまった。

 前方の草原はさし渡し二十間ばかり、左手つまり谷の側から前面までずっと叢林で縁取られ、右手のみ開いて緩やかに陣地正面に上っていた。そこには比島の丘々にあの柔和な夢幻的な緑を与えている、細い長い萱に似た雑草が生えていた。

 何の物音もなかった。私がどれほどそうして横わっていたか明らかではない。私はやはり自殺を考えていたか、渇えていたか、明瞭でない。これに続いて私の逢着した一つの事件が、この間それと関係がないあらゆる記憶を抹殺してしまっている。確かなのは私が米兵が私の前に現われた場合を考え、それを射つまいと思ったことである。私が今ここで一人の米兵を射つか射たないかは、僚友の運命にも私自身の運命にも何の改変も加えはしない。ただ私に射たれた米兵の運命を変えるだけである。私は生涯の最後の時を人間の血で汚したくないと思った。

 米兵が現われる。我々は互に銃を擬して立つ。彼は遂に私がいつまでも射たないのに痺れを切らして射つ。私は倒れる。彼はこの不思議な日本人の傍に駈け寄る。この状況は実にあり得べからざるものであるが、その時私の想像に浮んだままに記しておく。私のこの最後の道徳的決意も人に知られたいという望みを隠していた。

 私の決意は意外に早く試煉の機会を得た。

 谷の向うの高みで一つの声がした。それに答えて別の声が比島人らしいアクセントで「イエス、云々」といった。声は澄んだ林の空気を震わせて響いた。この我々が長らく遠く対峙していた暴力との最初の接触には奇怪な新鮮さがあった。私はむっくり身をもたげた。

 声はそれきりしなかった。ただ叢を分けて歩く音だけが、ガサガサと鳴った。私はうながされるように前を見た。そこには果して一人の米兵が現われていた。

 私は果して射つ気がしなかった。

 それは二十歳位の丈の高い若い米兵で、深い鉄兜の下で頰が赤かった。彼は銃を斜めに前方に支え、全身で立って、大股にゆっくりと、登山者の足取りで近づいて来た。

 私はその不要心に呆れてしまった。彼はその前方に一人の日本兵の潜む可能性につき、些かの懸念も持たないように見えた。谷の向うの兵士が何か叫んだ。こっちの兵士が短く答えた。「そっちはどうだい」「異状なし」とでも話し合ったのであろう。兵士はなおもゆっくりと近づいて来た。

 私は異様な息苦しさを覚えた。私も兵士である。私は敏捷ではなかったけれど、射撃は学生の時実弾射撃で良い成績を取って以来、妙に自信を持っていた。いかに力を消耗しているとはいえ、私はこの私が先に発見し、全身を露出した相手を逸することはない。私の右手は自然に動いて銃の安全装置を外していた。兵士は最初我々を隔てた距離の半分を越した。その時不意に右手山上の陣地で機銃の音が起った。

 彼は振り向いた。銃声はなお続いた。彼は立ち止って暫くその音をはかるようにしていたが、やがてゆるやかに向きをかえてその方へ歩き出した。そしてずんずん歩いて、忽ち私の視野から消えてしまった。

 私は溜息し苦笑して「さて俺はこれでどっかのアメリカの母親に感謝されてもいいわけだ」と呟いた。

 私はこの後度々この時の私の行為について反省した。まず私は自分のヒューマニティに驚いた。私は敵を憎んではいなかったが、しかしスタンダールの一人物がいうように「自分の生命が相手の手にある以上、その相手を殺す権利がある」と思っていた。従って戦場では望まずとも私を殺し得る無辜(むこ)の人に対し、用捨なく私の暴力を用いるつもりであった。この決定的な瞬間に、突然私が眼の前に現われた相手を射つまいとは夢にも思っていなかった。

 この時私に「殺されるよりは殺す」というシニスムを放棄させたものが、私が既に自分の生命の存続について希望を持っていなかったという事実にあるのは確かである。明らかに「殺されるよりは」という前提は私が確実に死ぬならば成立しない。

 しかしこの無意識に私の裡に進行した論理は「殺さない」という道徳を積極的に説明しない。「死ぬから殺さない」という判断は「殺されるよりは殺す」という命題に支えられて、初めて意味を持つにすぎず、それ自身少しも必然性がない。「自分が死ぬ」から導かれる道徳は「殺しても殺さなくてもいい」であり、必ずしも「殺さない」とはならない。

 かくして私は先の「殺されるよりは殺す」というマキシムを検討して、そこに「避け得るならば殺さない」という道徳が含まれていることを発見した。だから私は「殺されるよりは」という前提が覆った時、すぐ「殺さない」を選んだのである。このモスカ伯爵の一見マキアベリスチックなマキシムは、私が考えていたほどシニックではなかった。

 こうして私は改めて「殺さず」という絶対的要請にぶつからざるを得ない。

 私はここに人類愛の如き観念的愛情を仮定する必要を感じない。その(ひろ)さに比べて私の精神は狭小にすぎ、その稀薄さから見れば私の心臓は温かすぎるのを私は知っている。

 むしろこの時人間の血に対する嫌悪を伴った私の経験に照して見れば、私はここに一種の動物的な反応しか見出すことは出来ない。「他人を殺したくない」という我々の嫌悪は、恐らく「自分が殺されたくない」という願望の倒錯にほかならない。これは例えば、自分が他人を殺すと想像して感じる嫌悪と、他人が他人を殺すと想像して感じる嫌悪が全く等しいのを見ても明らかである。この際自分が手を下すという因子は必ずしも決定的ではない。

 しかしこの嫌悪は人間動物のその同類に対する反応の一つであってその全部ではない。この嫌悪が優位を占めたのは一定の集団の中では我々の生存が他人を殺さずに保ち得られるようになった結果である。「殺すなかれ」は人類の最初の立法と共に現われたが、それは各人の生存がその集団にとって有用だからである。集団の利害の衝突する戦場では今日あらゆる宗教も殺すことを許している。

 要するにこの嫌悪は平和時の感覚であり、私がこの時既に兵士でなかったことを示す。それは私がこの時独りであったからである。戦争とは集団をもってする暴力行為であり、各人の行為は集団の意識によって制約乃至鼓舞される。もしこの時僚友が一人でも隣にいたら、私は私自身の生命の如何に拘らず、猶予なく射っていたろう。

 しかし決意についてはもう十分だろう。人類愛から発するにせよ、動物的反応によるにせよ、とにかくこの時私が「射たない」と考えたことは確実である。問題は私がそれを実現したか、しなかったかにある。

 最初私が米兵を見た時、私は確かに射とうと思わなかった。しかし彼があくまで私に向って前進を続け、二間三間の前に迫って、遂に彼が私を認めたことを私が認めた時、私はなお射たずにいられたろうか。

 私は自然に銃の安全装置をはずした手の運動を思い出す。してみればこの時私が確実に私の決意を実現し得たのは、ひたすら他方で銃声が起り、米兵が歩み去ったという一事に懸っている。これは一つの偶然にすぎない。私の決意に照して見れば、この時の私の行為は完成されていない。従ってそれに関する私の反省も当然未完成たるべきである。しかし私は一応私の決意が何処まで私の行為を導き得たかを、この時の私の心理に求めずにはいられない。

 米兵は私の前で約十間歩いた。恐らく一分を越えない時間である。その間私が何を感じ何を考えたかを想起するのは、必ずしも容易ではないが、有限な問題である。

 この間私の想いは「千々に乱れた」ということは出来ない。私はずっとこの米兵を見ていたのであり、その間私の想念は彼の映像によって規制されていた。

 私は精神分析学者の所謂「原情景」を組立てて見ようとする。この間私の網膜に映った米兵の姿は、確かに私の心理の痕跡を止めているべきである。

 私が初めて米兵を認めた時、彼は既に前方の叢林から出て開いた草原に歩み入っていた。彼は正面を向き、私の横わる位置よりは少し上の方へ視線を固定さしていた。

 その顔の上部は深い鉄兜の下に暗かった。私は直ちに彼が非常に若いのを認めたが、今思い出す彼の相貌はその眼のあたりに一種の厳しさを持っている。

 谷の向うの兵士が叫び、彼が答えた。彼は顔を斜め声の方向に向けた。私が彼の頰の薔薇色をはっきり見たのはこの時である。

 それから彼はまた正面を向き、私の方へ進んだはずである。しかしこの時の彼の映像は何故か私の記憶から落ちている。

 この次の記憶に残る彼の姿は、前とは反対の頰を私に見せ、山上の銃声に耳を傾けている彼である。が、この二つの横顔が直ちに繋続するものでないことは、私の記憶の或る感じによって確実である。

 この間私は銃を引寄せ、その安全装置をはずしたらしい。或いは私はそのため手許に眼を落したのだろうか。が、私の手にある銃の映像も同じく私の記憶にはない。

 この空白の後で銃声が響き、多分私はその方を見たであろう。(これは全く仮定である)再び前方を見た時(これも仮定だ)米兵は既にその方へ向いていた。この横顔から頰の赤さは記憶にない。ただその眼のあたりに現われた一種の憂愁の表情だけである。

 この憂愁の外観は決して何等かの悲しみを示すものではなく、また私自身の悲しみの投影と見る必要もない。これが一種の「狙う」心の状態と一致するものであることを私は知っている。対象を認知しようとする努力と、次に起そうとする行動を量る意識の結合が、屡々こうした悲しみの外観を生み出す。運動家に認められる表情である。

 彼はそのまま歩き出し、四五歩歩いて私の視野の右手を蔽う萱に隠れた。(前に書くのを忘れたが、私の右手山上陣地の方向は、勾配の加減で一寸した高みとなり、その方は伏した私の位置からは繁った萱しか見えなかった)それから私は溜息し、アメリカの母親に関する感想を洩らすということになる。

 最初彼の姿を見た時、私は射つ気が起らなかった。これは確かである。時間的順序から見て私はこれがその前にしていた決意の結果だと思っていた。しかしこれはそれほど確かだろうか。少なくとも私の心理にはそれを保証する何者もない。

 この時まで私は引続き私の決意を反芻していたようである。しかしそれは漠然たる夢想の域を出ず、米兵が現われた場合に備えて常に射つまいと用意していたわけではない。谷の向うの声によって私は不意に呼び醒まされた。私は驚愕し、新しく生れた期待と共に私の中に進行し始めた状態は、私の事前の夢想と何の関係もなくてもいいのである。

 私は私の前に現われた米兵の露出した全身に危倶を感じ、その不要心に呆れた。この感想は頗る兵士的のものであり、短い訓練にも拘らず私がやはり戦う兵士の習慣を身につけていたことを示している。この感想の裏は「この相手は射てる」である。

 しかも私は射とうと思わなかった。しかしこれは果して事前の決意の干渉のためだったろうか。もし私が戦闘意識に燃えた精兵であったとして、果してこの優勢な相手(私の認知しただけでも一対三である)を直ちに射とうとしたであろうか。

 この瞬間の米兵の映像から私の記憶に残った一種の「厳しさ」は、私の抑制が私の心から出たものではなく、その対象の結果であった証拠のように思われる。それは私を押し潰そうとする厖大な暴力の一端であり、対するに極めて慎重を要する相手であった。この時私の抑制が単なる逡巡にすぎなかったのではないかと私は疑っている。

 しかし彼が谷の向うの兵士に答え、私がその薔薇色の頰を見た時、私の心で動いたものがあった。

 それはまず彼の顔の持つ一種の美に対する感歎であった。それは白い皮膚と鮮やかな赤の対照、その他我々の人種にはない要素から成立つ、平凡ではあるが否定することの出来ない美の一つの型であって、真珠湾以来私の殆んど見る機会のなかったものであるだけ、その突然の出現には一種の新鮮さがあった。そしてそれは彼が私の正面に進むことを止めた弛緩の瞬間私の心に入り、その敵前にある兵士の衝動を中断したようである。私は改めて彼の著しい若さに驚いた。彼の若さは最初私が彼を見た時既に認めていたが、今さらに数歩近づいて、その前進する兵士の姿勢を棄て、顔を上げて鉄兜に蔽われたその全貌を現わした時、新しく私を打ったのである。彼は私が思ったよりさらに若く、多分まだ二十歳に達していないと思われた。

 彼の発した言葉を私は逸したが、その声はその顔にふさわしいテノールであり、言い終わって語尾を呑み込むように子供っぽく口角を動かした。そして頭を下げて谷の向うの僚友の前方を斜めにうかがうように見た。(この時彼がうかがわねばならなかったのは、明らかに彼自身の前方であった)

 私は一人の放蕩者の画家を識っていた。彼は中年を過ぎて一人の女子の父親となったが、以来二十歳前の少女に情欲を感じないといっていた。自分の子供がこの年頃になったらこんなになるだろうか、という感慨が邪魔をして、彼が認めた感覚的な美に対して正常な情念が起きなくなった、と彼は自分の感覚を説明した。

 この説明にはかなり誇張が感ぜられ、彼が実際常にその感覚に忠実であったかどうか、私はあまり信用していないが、とにかく彼が一度か二度こうしたタブーを感じたと思ったことはあり得ないことではない。

 私がこの米兵の若さを認めた時の心の動きが、私が親となって以来、時として他人の子、或いは成長した子供という感じの抜けない年頃の青年に対して感じた或る種の感動と同じであり、そのため彼を射つことに禁断を感じたとすることは、多分牽強附会にすぎるであろう。しかしこの仮定は彼が私の視野から消えた時、私に浮んだ感想がアメリカの母親の感謝に関するものであったことをよく説明する。明らかにこれは私がこの米兵を見てから私の得た観念である。何故ならその前私が射つまいと決意した時、私は前にどういう年齢の米兵が現われるかはなお不明であり、私が母親について考慮する根拠は全然なかったからである。

 人類愛から発して射たないと決意したことを私は信じない。しかし私がこの若い兵士を見て、私の個人的理由によって彼を愛したために、射ちたくないと感じたことはこれを信じる。

 私は事前の決意がこの時の一聯の行為を導いたということは認め難い。しかし父親の感情が私に射つことを禁じたという仮定は、その時実際それを感じた記憶が少しもないにも拘らず、それが私の映像の記憶に残る或る色合とその後私を訪れた一つの観念を説明するという理由で、これを信ぜざるを得ないのである。これが我々が心理を見詰めて見出し得るすべてである。

 しかしこれから先万事が変な工合になって来る。米兵はそれからまた正面を向き私の方へ進んだのを私は知っており、しかもその映像が私の記憶にないことは前に書いた。

 今度私の憶えているのは内部の感覚だけである。それは息詰まるような混乱した緊張感であり、私が敢えてそう呼ぼうとは欲しない一つの情念に似ていた。即ち恐怖である。

 恐怖とは私の普通に理解するところによれば、私に害を与えると私の知っている対象に対する嫌悪と危惧の混った不快感である。それは通常その対象の「怖ろしい」映像を伴うべきであり、私がこの米兵から残していたむしろ快い印象とは両立しないと思っていた。

 しかし今私は「原情景」を検討して、私が映像を選択して保存しているのを知った。無論我々は過去の(ことごと)くを記憶するものではなく、その脱落は多く偶然によるものであるが、この瞬間の空白を偶然と見做すには、場合はあまりにも重大であり、私はあまりにもそれを忘れる理由を持ちすぎている。

 或いは私はそれを思い出すのを欲しないのであろうか。或いは女に分娩の苦痛を忘れさすのと同じ理法によって、自然はあまりにも苦しかったこの一瞬の記憶を私から取り去ったのであろうか。この時私の内部の緊張についても、私はその強さを尽く再現していると自負することは出来ないのである。

 今私がその美と若さに感歎した対象は、近づく決定的な瞬間の期待を増しつつ迫っていた。その時最初彼の顔に瞥見した厳しさがどんな比例で拡大したかは測り難く、その白い皮膚と赤い頰に拘らず、彼の顔が私に怖ろしく見えなかったとは保証出来ない。そしてもし私がこの時なお射ちたくないと思っていたとすれば、その映像は、一層私に堪え難かったであろう。

 私は銃を()りその安全装置を外した。私はやはり射とうとしたのであろうか。或いは顔に当ろうとする虫を見て眼を閉じる反射運動に似た反応から、無意味に防禦の準備をしたのであろうか。

 実際私は眼を閉じたのかも知れない。この動作の記憶を失ったとする方が、映像のそれを失ったとする仮定よりも或いは自然である。

 この時銃声が轟いた。それはその時私の緊張も、近づく決定的な瞬間も吹き飛ばして鳴ったように、今も私の耳で鳴り、私のあらゆる思考を終止せしめる。これが事件であった。

 とまれかくして米兵は私を認めずに去り、私はこの青年を「助けた」という「美行」の陶酔と共に残された。もっともこの陶酔には苦い味がなかったわけではない。即ち私はすぐ私の逸した兵士が陣地正面の戦闘に加わり、それだけ僚友の負担を増したことに気がついたからである。

 この反省は辛かった。しかし米軍がかくも優勢である以上、僚友はいずれ死なねばならぬ。そして私も永く生きてはいないであろう。この考えが依然として私の万能の口実であった。

 機銃の音は続いていた。それはひとしきりして、それに答えるようにまたひとしきり、そうして交互に繰り返して行った。私の所からはそれは丁度撃ち合っているように聞えた。私は私の正面からも米兵が来たのを見て、伍長の一隊もこの方面から脱出出来ず、正面の銃座へ立て籠って「最後の一戦」を交えているものと想像した。私は死に行く人の脈をとるような気持でこの銃声に耳を傾けた。

 銃声はかなり長く続いていたが、遂に一発の長く余韻を引いた音と共に止んだ。

 少しして谷の下の方、丁度さっき二人の軍曹が隊長の戦死の真偽を論じ合ったあたりで銃声が起りすぐ止んだ。一発、手榴弾と覚しき炸裂音がした。これが私の聞いた銃声の全部である。

 (「逃がしてやる」といった伍長も軍曹の一人も後で俘虜収容所へ来た。彼等は叢林に潜って無事に脱出したが、二カ月山中を彷徨した挙句ゲリラに捉えられた。私は彼等は全部戦って死んだと信じていたが、事実は私が最初に上りかけた尾根で休んでいた間に、歩ける者は全部脱出していたのである。従って私が陣地正面に聞いた銃声は、撃ち合いの音ではなく、二基の米軍の機銃の交互発射の音だったわけである。この時脱出に成功した者は凡そ八十人であるが、大部分山の中で落伍もしくは病死し、収容所に来た者は四人である)

 あたりは再び静かになり、私はまたひとり死と顔を付き合せて残された。私は装具をはずし、脚絆を解いて、ゆっくり身を横えた。すると渇きがまた激しく私を襲って来た。

 私はもし今すぐ自分を殺すならば、同時にこの渇きも殺すことが出来ると自分に説得しようとしたが、渇きは承知しなかった。私の喉はまずその焦げつくような渇きを治めてから、存在を止めることを欲した。

 この要求はもっともと思われた。「一杯の水を飲んでから死にたがる自殺者」このテーマは私の気に入った。私はむしろ私の煩悩を是認したのである。

 私は改めて水を得る場所と手段について思い廻らした。

 前に書いたように、この附近で水のあるのは、まず私の分隊小屋のあった谷である。がそこへ行くには、今は米軍の占拠する中隊本部の山を越えねばならない。第二はやや遠いがこの谷川についてどこまでも下って、その注ぐ別の大きな川に達することである。しかしそれにはさっき二人の軍曹の語らった地点を通らねばならず、それはこの谷を横切る主要道路の一つであるから、なお米軍のいる公算大である。少なくとも日暮まで彼等はそこを去らないであろう。

 その夜は遅く出る月があるはずであった。私は月の出を待ってこの第二のコースを試み、米軍が夜までそこに止まるか止まらないかに一切を賭けることにした。

 私はじりじりして日の暮れるのを待ち、さらに月の出を待った。私は全身これ(かつ)えであった。私はその大きな川の岸に伏して、顔を水に浸け、思う存分水を飲む自分を想像した。私は昼は水筒を抱いて附近の叢に隠れ、夜はそうして水際に横わって、なお二三日心行くまで水を飲むはずであった。それから気の向いた時に自殺するはずであった。私はむしろ最初に水のある分隊小屋の谷を出たことを後悔した。

 それでも遂に月が出た。

 私は銃と帯剣を棄てた。米軍に会えば私に戦う気はないことを私は既に確めていた。雑嚢も棄て、ただ米を両手に一握りずつ取ってポケットに入れた。食欲はなかったが、私がなお二三日水を飲むために生きるとすれば、その間またそれを必要とするやもはかり難い。ただ手榴弾はしっかり腰につけ、水筒を大事にはすかいに肩にかけた。

 私は木の枝につかまって立ち上った。目眩(めまい)がし、枝を握る手に余程力を入れないと支えきれない。五六歩歩いて道へ出て、手を放すと私は突然倒れた。

 私はこの腰と脚が何の予告も受けずに、()がれるように倒れる感覚を知っていた。その日一日の運動が、私の体を元の歩行不能の状態に突き戻していたことを私は知った。

 私は土に伏し、肱で胸を支えて傷いた獣のように思案した。私は遂にこの望みを遂げることが出来ないのではないか、という暗い予感が初めて私の頭を過ぎた。しかし私はなお望みを断たなかった。この時またこの後にも、私はこうしてかなり「絶望的」な状態にありながら、かつて何等かの次の手段を考える力を失うほど絶望したことはない。この時の私の経験から推せば、絶望の二字は矛盾した文字の結合であって、人間にはあり得ない状態の誇張した表現にすぎないのである。

 私はおもむろに第二の計画を思い廻らした。私が今歩けない状態にあることは(うべな)わないわけには行かない。しかし数時間前に私は一旦歩けたのであるから、この状態はまず一時的と考えて差支あるまい。とはいえ今の倒れ方から推せば、恢復には少なくとも夜明けまではかかると思わねばならぬ。夜が明けた以上、米軍の間を潜ってこの谷を下ることは諦めねばならぬ。

 私は以前分哨へ連絡に行った時見たまた別の大きな川を思い出した。そこはここから約八粁二時間行程のところにあったが、私の知っているそこへ行く道は、昼間最初休んだ尾根を伝って行くのである。私は米軍が全部私が今いる線を越えて中隊本部の方へ集り、私が既にその外にあるものと想像していた。夜明と共に出発することが出来れば、私は遅くとも昼までには、その川に行きつくことが出来るかも知れない。今まで渇きに堪えた時間に比べて、それはさして長い時間とは思われなかった。

 私は希望はすべて夜明けまでに、再び歩ける状態に戻るということに懸っていた。そしてそのために今私の第一なすべきことが、眠ることであるのは明白である。

 私の再びそれまで横わっていた場所(そこはとにかく木の根や下草の配合で、人間一人寝るのに何となく工合のいい一隅であった)に戻って横になった。そして眼をつぶってひたすら眠ろうと努めた。

 が、眠りは来なかった。ふと気が付くと私は耳元で囁く一つの声に耳を傾けていた。それは何となく呉服屋の番頭のような(これがその時浮んだ比喩である)低い落着き払った声であって、私が今すぐ私の足をして歩かしめて水を飲みに行かないことを不満として、全内臓がストライキに入ろうとしていると警告していた。私は無論これが熱のための幻聴であるのを知っていた。私は笑って「よせやい、お前なんかいやしねえの知ってるぞ。みんな熱のせいなんだ」と叫んだ。その途端、私はこう叱咤すること自体、相手の存在を認めるにほかならないことに気がついた。私は口をつぐんだ。

 同時に私はこれが「カラマゾフの兄弟」のイワンの二重人格の場合と同じであることに気がついた。この発見は不愉快だった。私はこの生涯の最後の瞬間に、私の個人的たるべき幻覚においてさえ、なお先人に教えられたところに滲透されているのを苦々しく思った。さらに私は私の幻覚が妙にインテリ臭い内臓のストライキだったのが気に食わなかった。いっそ鬼か般若が出て来ればいい。私は幻覚等の基礎をなす私の意識の或る層が、こうした下らぬ知識によって充たされていることを今更知りたくなかったのである。

 この幻聴はまた幾分私を不安にした。発熱以来初めて現われた幻覚だったからである。四十度の熱が一週間続いたにも拘らず、私は譫妄(せんもう)状態に陥った記憶がなかった。私はいつも明白に自己の状態を自覚し、あたりで行われることを正しく認識していると思っていた。幻覚は私には悪い徴候と思われた。私は心を静めて幻聴を去ろうとした。しかし呉服屋の番頭のような忠告者は依然としてなだめるように、今は私の憶えていないことを囁き続けた。

 一陣の生ぬるい風が木の葉を鳴らして過ぎた。私はむっくり身をもたげた。私は新しい希望に燃えた。私はその風がこの季節では雨の前触れをする、土民には一般に家畜を頓死せしめると信ぜられている風であることを知っていた。

 実際雨はほどなくやって来た。さわやかな音があたりに満ち、やがて雨滴が低い枝の葉から滴り落ちた。私はそれを口で受けた。

 水滴は乾ききった喉に散って殆ど何の感覚も残さなかった。雨が小止みとなり水滴の落ちる間合いが遠くなった。私は外では間断なく雨が落ちているのに、繁みの中で葉末の水を待つのは愚であると思い、草原へ匍い出して仰向けに寝た。しかし丁度開けた口に落ち込む雨の足は、葉から滴る水滴よりは繁くはなかった。

 雨が止んだ。私は頭を廻らして風上を顧みた。それは陣地正面の方角で、ゆるやかに草原が上った向うに、見馴れた木立が月明りに霞んで見えた。私は意外に陣地正面に近くいたのである。

 その木立が霧に包まれた。あたりは再び物音に満ち、風が頰に当ってパラパラと雨が空の奥から落ちて来た。私は口を開け、同時に両手を展げて掌に雨を溜めようとした。しかし雨は掌を濡らすほどにも降らずに止んだ。天頂に近く雲が切れて歪んだ月が現われた。その光は耐え難い眩しさで私の眼の中に差し込んだ。そして雨はもうそれきり落ちて来なかった。

 それから夜明けまでどれほどあったろうか。私はもとの林の居心地のいい場所に戻った。囁く忠告者の声は去っていたが、そのかわり胸苦しさが今までにない激しさで襲って来た。私は苦痛を柔げるためにあらゆる奇怪な姿勢を試み、声をあげて呻いた。私は「胸を掻きむしる」という常套句が比喩ではないことを知った。

 月は次第に向うの大木の梢に移って行き、そこで暫らく躊躇っているように見えた。あたりの月夜の明るさにはいつか黎明の乳色の光が重なり、影が退いた。そして突然明け離れてしまった。

 水牛が下りて来た。多分昨日私の前にこの道を上って行った一匹である。彼は私を認めて暫し立ち止ったが、やがて首をしゃくって前を向き、その進路を続けて行った。そのゆるやかな重い足取りが私を力づけた。胸苦しさは薄らぎ、私は苦しい一夜を越した病人の朝の爽快な気分をいくらか味った。私は儀式的に生米を少し囓り、出発の用意にかかった。

 その時私は谷の向う側、私のこれから行こうとする尾根の方向に銃声を聞いた。

 後で確めたところによると、これはこの朝この辺まで偵祭に来た分哨の兵の放ったものである。彼等は谷のこちら側に米兵の姿を見てこれを射撃し、直ちに後退したのである。この兵士は後で収容所へ来たが、彼はこの時三発撃ったといっている。この話を聞くまで私は一発聞いたと思っていた。この記憶の誤りには意味がある。それはその時の私にとって、一発であろうと三発であろうと、それが銃声であれば十分であったことを示している。僚友がここまで来ることは私の想像に入り得なかったから、銃声は私にとって米兵がなお私の外方にいること、従って今私が脱出することは不可能なことを意味した。

 同時に彼等がいつまでこの附近にいるかは不明であり、彼等の退去を待つならば、私がいつまで水なしでここにいなければならないかわからないということを意味した。私は遂に私が水を飲まずに死なねばならぬことを納得した。いずれ死ぬ私の生命は、あてもなくこの渇きと共に生きる苦しさに堪えて、それを延ばすに値しない。

 私はこの平静な決意に早く到達しなかった自分に微笑みかけた。

 私は手榴弾を腰からはずし、眼の前の上に置いて眺め入った。それは九九式と呼ばれる樺色に塗られた六角の鉄の小筒で、その胴には縦横に溝が走っていた。その溝によって区切られた方三分ほどの小片が内部の火薬の爆発と共に四散する仕掛けらしい。

 私は安全栓と呼ばれる信管を横に貫いた針金を抜こうとした。針金はきつく信管に纏りついて、手では取れなかった。剣の先でそれをこじながら、私はふとこの針金が遂に取れないで、私は死ねないのではないかと思った。私は幾分それが取れなければいいがと思っていたらしい。しかし私の手はいわば私の願望に反して動き続け到頭それを取ってしまった。

 私は以下私がどうして自殺に成功しなかったかにつき詳しくは語らないつもりである。自殺者の心理が元来甚だ興味薄きものである。まして自殺し損った者の心理の如き——それは結局自然に反した一事を行わんとする多少強い意志と、それに(さから)う頗る正確な肉体の反応との結合に尽きている。そしてその成否を決定するのは多く全く偶然の外的条件である。私の生命は私の携行した手榴弾が不発だったという偶然に負っている。もっとも太平洋戦線に送られた友軍の手榴弾の六割が不発だったそうであるから、私の幸運は大して珍重に値するものではない。

 私が私の生命の終りを(かく)する一線を比較的気軽に越すことが出来たのは、やはりこの時私の肉体が病んでいたからであろう。

 私はこれまで愛した人の顔を一通り思い浮べようとしたが、すべて「思い浮べる」というほどはっきりとは眼の前に現われては来なかった。私はそうしてごたごた私の意識の底でひしめき合っている彼等を気の毒のように思い、笑いながら「あばよ」といって、その呼びかけから連続した動きで、信管を地上の石に打ち当てた。信管は飛び、手榴弾は火を吹かなかった。

 私は信管を失った手榴弾を調べた。裸のその口の奥には小さな円形の突起が出ていた。それを刺戟すれば発火することは明白である。私はその突起を見てわずかに戦慄した。これがこの一昼夜に私の意識した唯一の恐怖である。

 私は飛散した信管の部分を集めて復元してみた。信管の内部の細い針は、私の目測では円形の突起に届かないようである。石に打ち当てた。手榴弾は果して発火しなかった。

 私は苦笑した。私に楽な一瞬の死すら与えない運命の皮肉が何となくおかしかった。この前日からすべては私に皮肉に起って来ていた。私はいまいましく舌打ちして手榴弾を林の奥に投げ込んだ。

 この時あの内部の突起に触れれば発火すると推測していた私が、それが信管の装置に限らず、何かほかのもので、例えば木の枝でも刺戟するという考えが浮ばなかったのはかなり奇妙なことである。この手段が成功したかどうかは問わない。問題は私が全然それに想到しなかったことにある。

 自殺とは予め定められた手段による決行である。自殺者の注意はこの決行の一点に向けられ通常その手段については反省の労を取らない。或る自殺の手段が流行し得る所以である。

 私が手榴弾に望みを懸けていたのは、それが私の肉体の致命的な部分を、確実に一瞬の裡に破壊すると空想したためである。それは丁度スイッチの一押しで電気が消えるように、私の苦しい意識を無としてくれるはずであった。その一押しにこれだけ面倒な障害があって、精神の工夫を加えねばならないのは、私の予定に入っていなかった。

 私はそれに最初のひと打ちに私の意志のエネルギーの大半を費消していた。

 私が何者かによってこの突起を刺戟するという考えを抱懐し得なかったのも、こうした狼狽と虚脱の結果であったと思われる。そしてこれに続く一聯の行為においても、私は著しい工夫の欠除を示した。

 私は第二の自殺の手段を思い、無論銃を思った。私は上半身を起して銃口を両手で額に当て、右足の靴を脱してその親指で引金を引こうとした。(この姿勢は内地で教育中古兵から教わったものである。私は依然として人に教えられたところに従っていた)しかし私はこの不安定の姿勢を保つことが出来ず横に倒れた。私は「今やっちゃ失敗する」と思った。私は口中に拳銃を二発撃ち込みながら、頰を砕くに止ったアントアーヌ・ベルテの場合を思い出した。私はもう少し熱が下るのを待って試みる方が賢明であると思った。

 この時ももし私が積極的であるならば、木の枝に引金をかけることに想到していたろう。同じ足の指を用いるにしても、木にもたれるなり、乃至横に寝たままでも行えないはずはない。この時私はまるでいやいや自殺を図る人のように振舞った——しかし結局私が銃を持ったまま横に倒れた時、銃口が額から離れて、つまりこのままでも射てると私に気づかせないような姿勢で倒れたことは、運であったということが出来よう。

 私が銃を横におき、右足に靴を穿くかわりに左足の靴もとって再び横になった時、日はかなり高く昇っていたような気がする。この間私は極めて緩慢に考え、行っていたようである。渇きはやはりあったろうが、それについて何の記憶もない。

 私は眠ったのだろうか、それとも所謂人事不省に陥ったのだろうか。これも明らかでない。腰に連続する衝撃を感じながら私は次第に意識を取り戻しつつあった。そしてやっとそれが私を蹴りつつある靴であると感じることが出来た瞬間、片腕を強くつかまれて、完全に我に返った。

 一人の米兵が私の右腕をとり、他の一人が銃口を近く差向けていた。彼は「動くな。お前は私の俘虜だ」といった。

 我々は見合った。一瞬が過ぎた。そして私は私に抵抗する意志がないことを彼が了解したことを了解した。

 俘虜収容所で私はよく米兵から「君は降服したのか、捉まったのか」ときかれた。(彼等は日本人が降服するより死を選ぶという伝説を確めたかったのであろう)私はいつも昂然と「捉まったのだ」と答えるを常とした。

 彼らはまたきいた。「君は我々が俘虜を殺すと思っていたか」私は答えた。「私はそんな軍部の宣伝を信じるほど馬鹿ではない」「それなら何故降服しなかったのか」「名誉の感情からである。私は降服について別に偏見を持っていないが、しかし敵の前に屈するのは、私の個人的プライドが許さない」

 しかし囚人の自尊心が私を去った今、よく考えてみれば、私はこの銃を向けられた時進んで抵抗を放棄したのであるから、やはり「降服」していたのである。白旗を揚げて敵陣に赴くのと、包囲されて武器を捨てるのと、その間程度の差にすぎない。

 一人の米兵は私の銃と帯剣を持ち、他の一人は私の体から銃口を離さなかった。そして「立って歩け」といつた。私は「歩けない」といった。彼等は「歩け、歩け」といった。

 我々は昨日私の上って来た道を下りて行った。私は木から木へ捉まりながら歩いて行ったが、川原へ降りると、捉まるものがなく、膝を突いた。米兵の一人が私の腋に腕を入れて支えてくれた。私はその兵士の腰に水筒を見て「水をくれ」といつた。彼は水筒を振って見て「ノー」といい、もう一人の兵士を顧みた。彼は単に「ノー」といった。

 昨日私が最初この谷へ下りた地点へ来た。軍の鉄兜、飯盒、米を炊きかけの釜、破壊されたガスマスク、その他あらゆるがらくたがそこにあった。血は流れていなかったが、私はここで僚友が多く死んだことを疑わなかった。私は軍曹の一人が大切に保温し熟せしめていたバナナが散乱しているのを見て、胸を衝かれた。

 中隊本部の小屋まで上りは苦しかった。小屋まで近づくと私を支えた米兵は絶えず「射つな、射つな」と叫び続けた。

 そこで私は四五人の別の兵士に引き渡された。綿密な身体の検査を経て、私は稜線を伝ってマニヤンの畑のある平坦地の方へ連れて行かれた。私はそこに約五百人の米兵の屯しているのを見た。

 何故私がこの時自分が殺されるものと思い込んでしまったかはいい難い。私は死ぬ前に一杯の水を飲みたいと思い、歩きながら、立ち並ぶ兵士の腰に水筒を探し、「水をくれ、水をくれ」と叫びかけた。私は米兵の気紛れをあてにしていた。

 この間にも私は貪婪(どんらん)な好奇心でもって私の視野に入る米兵を眺め続けた。昨日若い米兵が横に歩み去って以来、私は死ぬ前に人間を見ることが出来ようとは思っていなかった。そしてこれは私の最後に見る人間となるべきだった。

 行進は長かった。露営地の中心と覚しきあたりを過ぎてもなお止まれといわれないので、私はいよいよ何処かの隅へ連れて行かれて銃殺されるという確信を強めた。処々丁度人一人横たわるほどの穴が掘ってあった。私にはそれが我々を埋める穴であると思われた。(私はこの時私がこの地点で捉まった唯一の俘虜であることを知らなかった)

 しかし遂に坐れと命ぜられた。私は俯向きに倒れ、なお「水をくれ」と叫び続けた。私は一人の主だったと覚しき米兵を見付け、ひたとその眼に見入って、丁寧に私の要求を繰返した。彼は「何とかしてやる」といって何処かへ行ってしまった。

 彼はなかなか帰らなかった。希望を得て渇きは堪え難くなった。私はまた叫び始めた。さっきの兵士の顔が人垣の後に見えた。彼の手には水はなかった。彼は当惑そうにもじもじしていたが、やがて手を振って引っ込んでしまった。私は絶望した。

 なおも叫んでいると、何処からかどさりと友軍の水筒が飛んで来た。水が半分ほど入っていた。一息に飲み干した。味も何もなかった。

 眼鏡をかけた二人の兵士が来て私に衣服を脱げと命じた。下着も取れといった。私がそれを足から抜き去ろうとすると「もういい」といった。身体検査であった。

 別にまた二人来た。一人は米軍の鉄兜に一杯の水を持って来た。私は飛びついた。彼は手で私を制し、さっき与えられた友軍の水筒へ水を移した。他の痩せた中年の兵士が丁寧に水に浮んだ草をわきへどけた。

 私が十分飲み終わると、その草をどけた米兵が、突然私を見て「名前は何というか」ときいた。その語調と眼附から私はこれが隊長であることを了解した。

 私は俘虜の小説によくあるように「余は兵士である」とはいわなかった。すらすらと本名、階級、部隊名をいった。私は平凡な事柄について真実を告げるという平易な道を選んだにすぎない。

 やがてもう一人の兵士が友軍の雑嚢から一束の書類を出した。ここに遺棄されてあった書類であろう。それは中隊長が持っていた地図、分隊編成表から兵士の手帳にいたるあらゆる雑多な紙片を含んでいた。私はそれ等がいかに取るに足らないものであるかを説明することが出来たようである。

 こうして訊問を受けながらも私は絶えず水を飲み続けた。私はなお訊問が終れば殺されるものと信じていた。一人の兵士が来て隊長に何か耳打した。私にはそれが私の処刑の準備が出来た知らせだと思われた。私はあわてて水の残りを飲み干した。私は大きな米軍の鉄兜一杯の水を三十分足らずの間に飲んでしまったのである。

 (たばこ)が与えられたが、一服吸うと頭がぐらぐらして吸い続けることは出来なかった。

 日は既に高く頭上にあった。ここらでたった一本の樹の下に我々はいたが、その樹は高い梢に冠のように痩せた葉をつけているばかりで、蔭ともいえないほどの薄い蔭が根元に落ちていた。私は横臥して答えることを許され、その蔭に頭を突込んで、蔭の移るに従って体の位置を変えた。

 訊問は一時間は続いたろう。隊長は重要な件については何度も繰り返し訊いた。私は前の答えを確保するためにその度に緊張した。私は疲れて来た。一兵士の日記帳があった。隊長がそれを訳してみろといった。私は少くともその問は面倒な訊問から逃れられるのが嬉しく、ゆっくりと一語一語訳して行った。その日記はサンホセ駐屯中に書き始められたらしく、幼稚な感傷的な筆で、軍隊に入って以来日記をつける習慣をやめていること、しかし他に何の慰めもないのだから、軍務の暇に日記を書いても別に兵士の義務を怠ることにはならないだろうと思う、しかしこのため時間を使うのだから、それだけ他の時は軍務に精励しなければならないと思う、などと恐らく上官に見つけられた時の用意であろう、そんな言訳がくどくど書いてあった。そしてそれっきり後は何も書いてなかった。

 名前がなく筆蹟も見覚えがなかったが、我々の間に混っていた昭和十八年徴集の若い兵士のものであることは確実であった。彼等はすべて著しく無智であったが、親切で鷹揚で、狡猾懶惰な我々中年の兵士をかばってよく働いてくれた。彼等は体力を調節して使うことを知らず、病に遇うとすぐ斃れた。

 私は顔をあげた。隊長の眼が一種の同情と好意をもって私を見凝(みつ)めていた。私が「おしまいです」というのと、彼が「もういい」というのと同時であった。そしてそれが訊問の終りであった。

 隊長は横を向いて呟くように「すぐ食物をあげる。お前はいつか国へ帰れるだろう」といった。私は茫然としてこの言葉を聞いた。その時私の心はそれに反応する弾力がなかった。

 他の一人が書類を友軍の雑嚢にしまった。その覆いに縫取りした持主の名前が私の眼を射た。それは私と共に最後まで分隊に残り、私が出発する時、「一緒に行かないのか」と不服そうにいった、あの大正の批評家の息子の名前であった。衝撃は大きかった。私は顔を反けて叫んだ。

「殺せ、すぐ射ってくれ、僚友がみんな死んだのに私一人生きているわけに行かない」「そいつは俺が引受けた」という声がした。振り向くと一人の兵士が機銃で私を(ねら)っていた。私は「どうぞ」といって胸をあけたが、その兵士のいたずらそうな眼を見て私の顔は歪んだ。

 隊長は私の叫びが聞えないかのように黙って行ってしまった。

 ビスケットの包みが一つ胸に当った。一人の髭の濃いいかつい顔をした若い兵士が見下していた。その顔は完全に無表情で、私の礼に彼は答えず、黙って銃をずり上げて去った。

 私は改めて周囲の米兵を観察し始めた。私はこれほど雑多な皮膚や髪をした人間の蝟集(いしゅう)したのを見たことがない。彼等は大部分休息しているようであったが、一部作業している者もいた。携行無線機を背負った兵士が、空を背景に立ち止り、何か操作して消えた。三脚を据えて測量用の望遠鏡らしいものを覗いている一団があった。その目標と覚しき方向には分哨のいる高地を含む山脈が遥かに緑を連ねていた。私はその美しい頂上、山襞の一つ一つを舐めるように見廻した。彼等はたった今攻撃されているかも知れない。私は自分が彼等にとって不利な陳述をしなかったことをもう一度心に極めた。(実際は彼等はこの時この山地にはいなかった。朝この附近まで来た斥候が帰るのも待たず、彼等はその位置を離れて北上した。二カ月後五十人中十一人が私と同じレイテの収容所に来た)

 ふと一人の肥った中年の兵士が私をカメラで撮った。それから近づいて「何処が悪い」とたずねた。私が「マラリアだ」と答えると、額に手を当て「口を開けろ」といった。そして黄色い錠剤を五六粒抛り込んで「水を飲め」といい、私が水を飲むのを見届けて「私は軍医だ」といい棄てて遠ざかった。

 火の手が中隊本部の小屋と昨日私が病兵を見た分隊小屋から上った。私はこんなに狭い焔がこんなに高く上るのを見たことがない。或いはガソリンを用いて屍を焼いたのであろうか。

 夕闇が迫って来た。米兵は私が墓穴だと思った穴の中で火を焚き夕食を料理し始めた。愛想のいい若い兵士が料理された食事を持って来た。食欲はなかった。私はビスケットを一枚かじった。

 顔見識りの土民が通りかかった。私はこれほど憐憫に溢れた顔を見たことはない。つまり生涯でこの時ほど私が憐むべき状態にあったことはないわけである。それは一人の若い男であったが、彼等の風習に従って頭に赤い布を巻き、髪を肩まで垂らして、女かとまがう顔であった。その顔を私は美しいと思った。

 その夜私は幾度も薬を飲むために起されつつ、ぐっすり眠った。翌朝隊長は私に「我々はこれからサンホセに帰る。我々は南の方の或る所から乗船するが、お前はブララカオから乗って貰う。歩けるか」ときいた。私は「出来るだけ歩いてみる」と答えるほかはなかった。

 私は二人の米兵に両腋を支えられて麓まで下りた。そこには数人の比島人がいて、そこからブララカオまで十粁の道を担架でかついでくれた。彼等は担架を肩に乗せたので、仰臥した私の眼に入るのは眩しい空と道を縁取る樹々の梢のみとなった。その美しい緑が担架が進むにつれて後へ後へと流れるのを見ながら、私は初めて私が「助かった」こと、私の命がずっと不定の未来まで延ばされたことを感じる余裕を持った。と同時に、常に死を控えて生きて来たこれまでの生活が、いかに奇怪なものであったかを思い当った。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2008/09/03

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大岡 昇平

オオオカ ショウヘイ
おおおか しょうへい 小説家、翻訳家。1909~1988 東京生れ。京都帝大仏文科卒。1944(昭和19)年7月、召集されて、フィリピンのミンドロ島に送られた。米軍の上陸に伴い、翌年1月、俘虜となる。この戦場での体験や帰還までの体験を1948年から51年にかけて、幾つかの雑誌に書き、後に『俘虜記』というタイトルでまとめ、1952年創元社より刊行された。小説家としての活動は多岐にわたり、作品には、ほかに、『武蔵野夫人』、『野火』、『花影』、『レイテ戦記』などがある。このうち、『俘虜記』、『野火』、『レイテ戦記』は、大岡文学を代表するとともに、日本の反戦文学の代表作でもある。

掲載作は、1948年、「俘慮記」と題して、「文学界」2月号に発表される。『俘慮記』としてまとめ、刊行された時、冒頭の「俘慮記」のタイトルは、「捉(つか)まるまで」に変更される。今回は、新潮文庫版により、「捉(つか)まるまで」のみを収録。

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