最初へ

野火(抄)

二八 飢者と狂者

 いくら草も山姪も喰べていたとはいえ、そういう食物で、私の体がもっていたのは、塩のためであった。雨の山野を彷徨いながら、私が「生きる」と主張できたのは、その二合ばかりの塩を、注意深く節しながら、嘗めて来たからである。その塩がついに尽きた時、事態は重大となった。

 少し前から、私は道傍に見出す屍体の一つの特徴に注意していた。海岸の村で見た屍体のように臀肉を失っていたことである。

 最初私は、類推によって、犬か鳥が喰ったのだろうと思っていた。しかしある日、この雨季の山中に蛍がいないように、それらの動物がいないのに気がついた。雨の霽れ間に、相変わらずの山鳩が、力なく啼き交すだけであった。蛇も蛙もいなかった。

 誰が屍体の肉を取ったのであろう──私の頭は推理する習慣を失っていた。私がその誰であるかを見抜いたのは、ある日私が、一つのあまり硬直の進んでいない屍体を見て、その肉を喰べたいと思ったからである。

 しかしもし私が古典的な「メデューズ号の筏」の話を知っていなかったなら、あるいはガダルカナルの飢兵の人肉喰いの噂を聞き、また一時同行したニューギニヤの古兵に暗示されなかったら、はたしてこの時私が飢えを癒すべき対象として、人肉を思いついたかどうかは疑問である。先史的人類が喰べあった事実は、原始社会の雑婚とともに、学者の確認するところであるが、長い歴史と因習の影の中にある我々は、嫌悪の強迫なくして、母を犯し人肉を喰う自分を、想像することはできない。

 この時私がそういう社会的偏見を無視し得たのは、極端な例外を知っていたからであったと思われる。そしてこの私の欲望がはたして自然であったかどうか、今の私には決定することができない、記憶が欠けているからである。恋人たちがその結合のある瞬間について、記憶を欠くように。

 私の憶えているのは、私が躊躇し、延期したことだけである。その理由は知っている。

 新しい屍体を見出すごとに私はあたりを見廻した。私は再び誰かに見られていると思った。

 比島の女ではあり得なかった。私は彼女を殺しただけで、喰べはしなかった。

 生きた人間に会った。彼の肉体がなお力を残していることは、その動作で知られた。立ち止まり、調べるように私の体を見廻す彼の眼付を、私は理解した。彼も私を理解したらしい。

「おう」

 と気合に似た叫びが、その口から洩れた。そして摺れ違って行った。

 林の中に天幕を張り、眼を光らして坐っている、四、五人の集団を見た。

「おう」

 と、今度は私の方から、声をかけて通過した。

 私の眼は、人間ならば動かぬ人間を探していた。新しい、まだ人間の形態を止めている屍体を。

 雨があがって、空の赤が丘の輪郭を描きだしていたある夕方、わたしはその赤をもっとよく見るため(だったと思う)丘を登って行った。そして孤立した頂上の木に、背を凭せて動かぬ一個の人体を見た。

 彼は眼を閉じていた。その緑の顔に、西の方の丘に隠れようとしている太陽の光線が、あかあかとあたって、頬や顎の窪みに、影をつくっていた。

 彼は生きていた。眼が開いた。まっすぐに太陽を見ているらしかった。

 脣が動き、言葉が洩れた。

「燃える、燃える」と彼はいった。「早い、実に早く沈むなあ。地球が廻ってるんだよ。だから太陽が沈むんだよ」

 彼は私を見た。彼の眼には、私に「おう」と声をかけて摺れちがった兵士と、同じ光があった。

「兄貴、お前どこから来たんだい」と彼はいった。

 私は黙って彼と並んで、腰を下ろした。太陽は向こうの丘に隠れ、頂上に並んだ樹の間から、光線が縞をなして迸った。空に残った雲だけ、まだ金色に光っていた。我々はしばらく光る雲に照らされていた。

「西方浄土だ。仏は弥陀だ。一は一也。二は二也。合掌」

 彼は手を合わせ、髯の延びた顎を、その上辺に凭せた。雨がさらさらと落ちて来た。彼は顔をあげ、

「あは、あは」

 と笑った。開けた口をそのまま仰向けて、雨を受けようとした。喉が鳴った。呑み込む時だけ、声が途絶えた。

「おい、行こうか」と私はいった。

「あは、あは、何も行くことはない。台湾から飛行機が迎えに来るはずだ。オートジャイロで、ほら、ここへ着陸するはずだ」

 齢は四十を越しているらしい。雨と陽で変色していたが、彼の服は将校の服であった。ただ剣も拳銃も持っていなかった。

「あは、あは」と彼はなおも笑っていた。食欲をそそる顎の動きであった。

 暗闇があたりを蔽う頃、彼はやっと黙った。「うう、うう」という鼾によって、彼が眠っているのを私は知った。

 私は眠らなかった。朝の光で、まず私を驚かしたのは、彼の顔と手を蔽っている、夥しい蝿であった。

「ひー」

 と笛を吹くような音とともに、彼は目覚めた。蝿が音に驚いたように飛び立ち、一尺ばかり離れた空間に旋回し、あるいは停止して羽音を高くした後、また降りて来た。

 彼は眼を開け、手で蝿を払い、深く叩頭した。

「天皇陛下様。大日本帝国様。なにとぞ、家へ帰らしてくださいませ。飛行機様。迎えに来い。オートジャイロで着いてくれい……暗いぞ」彼は声を低めた。「暗いな。まだ夜は明けないかな」

「もう明けたよ。鳥が啼いてる」

 雨のない朝であった。さまざまの鳥が、あたりの樹々や、谷底の林の中から、急がしげな声をあげ、向こうの丘との間の、狭い空間を、矢のように飛び交っていた。

「鳥じゃない。あれは蟻だよ。蟻が喰ってるんだよ。馬鹿だな。お前は」

 彼は膝の間の土をつかんで、口に入れた。尿と糞の臭いがした。

「あは、あは」

 彼は眼を閉じた。それを合図のように、蝿が羽音を集め、遠い空間から集まって来た。顔も手も足も、すべて彼の体の露出した部分は、ことごとくこの呟く昆虫によって占められた。

 蝿は私の体にも襲いかかった。私は手を振った。しかし彼らは私と、死につつある彼と差別がないらしく──事実私も死につつあったかも知れない──少しも怖れなかった。

「痛いよ。痛いよ」

 と彼はいった。それからまた規則正しい息で、彼は眠るらしかった。

 雨が落ちて来た。水が体を伝った。蝿は趾をさらわれて滑り落ちた。すると今度は山蛭が雨滴に交じって、樹から落ちて来た。遠く地上に落ちたものは、尺取虫のように、体全体で距離を取って、獲物に近づいた。

「天皇陛下様。大日本帝国様」

 と彼はぼろのように山蛭をぶら下げた顔を振りながら、叩頭した。

「帰りたい。帰らしてくれ。戦争をよしてくれ、俺は仏だ。南無阿弥陀仏。なんまいだぶ。合掌」

 しかし死の前にどうかすると病人を訪れることのある、あの意識の鮮明な瞬問、彼は警官のような澄んだ眼で、私を見凝めていった。

「何だ、お前まだいたのかい。可哀そうに。俺が死んだら、ここを喰べてもいいよ」

 彼はのろのろと痩せた左手を挙げ、右手でその上膊部を叩いた。

二九 手

 私はその将校の屍体をうつ伏せにし、顎に水筒の紐を掛けて、草の上を引き摺った。頂上から少し下って、二間四方ぐらいの窪地が陥ちているところまで運んだ。その草と灌木に蔽われた蔭で、私は誰にも見られていないと思うことができた。

 しかし私は昨日この瀕死の狂人を見出した時、すぐ抱いた計画を、なかなか実行に移すことができなかった。私の犠牲者が息絶える前に呟いた「喰べてもいいよ」という言葉が私に憑いていた。飢えた胃に恩寵的なこの許可が、かえって禁圧として働いたのは奇妙である。

 私は屍体の襦袢をめくり、彼が自ら指定した上膊部を眺めた。その緑色の皮膚の下には、痩せながらも、軍人らしくよく発達した、筋肉が隠されているらしかった。私は海岸の村で見た十字架上のイエスの、懸垂によって緊張した腕を思い出した。

 私がその腕から手を放すと、蝿が盛り上がった。皮膚の映像の消失は、私を安堵させた。そして私はその屍体の傍を離れることはできなかった。

 雨が来ると、山蛭が水に乗って来て、蝿と場所を争った。虫はみるみる肥って、屍体の閉じた眼の上辺から、睫毛のように、垂れ下がった。

 私は私の獲物を、その環形動物が貪り尽くすのを、無為に見守ってはいなかった。もぎ離し、ふくらんだ体腔を押し潰して、中に充ちた血をすすった。私は自分で手を下すのを怖れながら、他の生物の体を経由すれば、人間の血を摂るのに、罪も感じない自分を変に思った。

 この際蛭は純然たる道具にすぎない。他の道具、つまり剣を用いて、この肉を裂き、血をすするのと、原則として何の区別もないわけである。

 私はすでに一人の無辜の人を殺し、そのため人間の世界に帰る望みを自分に禁じていた。私が自分の手で、一つの生命の歴史を断った以上、他者が生きるのを見ることは、堪えられないと思ったからである。

 今私の前にある屍体の死は、明らかに私のせいではない。狂人の心臓が熱のため、自然にその機能を止めたにすぎない。そして彼の意識がすぎ去ってしまえば、これはすでに人間ではない。それは我々がふだん何ら良心の阿責なく、採り殺している植物や動物と、変りもないはずである。

 この物体は「喰べてもいいよ」といった魂とは、別のものである。

 私はまず屍体を蔽った蛭を除けることから始めた。上膊部の緑色の皮膚(この時、私が彼に「許された」部分から始めたところに、私の感傷の名残を認める)が、二、三寸露出した。私は右手で剣を抜いた。

 私は誰も見てはいないことを、もう一度確かめた。

 その時変なことが起こった。剣を持った私の右の手首を、左の手が握ったのである。この奇妙な運動は、以来私の左手の習慣と化している。私が喰べてはいけないものを喰べたいと思うと、その食物が目の前に出される前から、私の左手は自然に動いて、私の匙を持つ方の手、つまり右手の手首を、上から握るのである。

 私が行ってはならないところへ行こうと思う。私の左手は、幼児から第一歩を踏み出す習慣になっている足、つまり右足の足首を握る。

 そしてその不安定な姿勢は、私がその間違った意志を持つのを止めたと、納得するまで続くのである。

 今では私はこの習慣に馴れ、べつに不思議とは思わないが、この時は驚いた。右の手首を上から握った、その生きた左手が、自分のものでないように思われた。

 私が生まれてから三十年以上、日々の仕事を受け持って来た右手は、皮膚も厚く関節も太いが、甘やかされ、怠けた左手は、長くしなやかで、美しい。左手は私の肉体の中で、私の最も自負している部分である。

 そうしてしばらく、力をこめたため突起した掌骨を見凝めているうちに、私が今真に食べたいと思っているのは、死人の肉であるか、それともその左手の肉であるかを疑った。

 この変な姿勢を、私はまた誰かに見られていると思った。その眼が去るまで、この姿勢をこわしてはならないと思った。

「汝の右手のなすことを、左手をして知らしむるなかれ」

 声が聞こえたのに、私はべつに驚かなかった。見ている者がある以上、声ぐらい聞こえても、不思議はない。

 声は私が殺した女の、獣の声ではなかった。村の会堂で私を呼んだ、あの上ずった巨大な声であった。

「起てよ、いざ起て……」と声は歌った。

 私は起ち上がった。これが私が他者により、動かされ出した初めである。

 私は起ち上がり、屍体から離れた。離れる一歩一歩につれて、右手を握った左手の指は、一本一本離れて行った。中指、薬指、人差指は親指とともに離れた。

三〇 野の百合

 私は降りて行った。雨があがり、緑が陽光に甦った。林を潜り、野を横切って、新しい土地の上を、歩いて行った。

 万物が私を見ていた。丘々は野の末に、胸から上だけ出し、見守っていた。樹々はさまざまな媚態を凝らして、私の視線を捕えようとしていた。雨滴を荷った草も、あるいは私を迎えるように頭をもたげ、あるいは向こうむきに倒れ伏して、顔だけ振り向いていた。

 私は彼らに見られているのがうれしかった。風景は時々、右や左に傾いた。

 陽光の中を行く私の体からは絶えず水蒸気が騰がり続けた。手から、髪から、軍衣から、火炎のように立って、背後にたなびいた。そしてしだいに空にまぎれ入り、やがてはあの高い所にある雲まで、昇って行くように思われた。

 その空には、さまざまの色と形の雲が重なっていた。それぞれの高度に吹く風に乗り、湧き返り、捲き返って、丘々に限られた眩しい青の上を行きかっていた。

 一つの谷があった。私はその谷を前に見たことがあると思った。

 日本の鉄道の沿線で見馴れた谷であった。車窓に近く連なった丘並みが切れて、道もない小さな谷が、深く嵌入している。その谷の眺めは少年時から、何故か私の気に入って、汽車がそこを通るたびに、必ず窓外に眼を放ったものである。

 しかしその谷と同じ谷が、何千里離れたこの熱帯にあるはずはなかった。

 門のように迫った両側の丘の林相も、ゆるやかに上った谷底を埋める草の種類も、温帯日本の谷とは違うはずであった。しかしその時私にはどうしても同じ谷としか思えなかった。

 いったい寸分違わぬ風景が、地球上に二つ存在し得るであろうか。私は眼を凝らし、相違点を探したが、見凝めていればいるほど、同一性の感じは強くなった。

 そしてその谷も私を見ていた。

 私はおもむろに近づいた。帰りつつあるという感じが育って行った。谷の入口を限る、繁った突端の間を過ぎると、私は体がしめつけられるように思った。

 陽光が谷に降りそそいでいた。私は林の縁に蔭を選んで坐った。日向の草の葉は一面に干いていたが、根は谷一面に拡がって、音もなく流れる水に、洗われているらしかった。

 草の間から一本の花が身をもたげた。直立した花梗の上に、固く身をすぼめた花冠が、音楽のように、ゆるやかに開こうとしていた。その名も知らぬ熱帯の花は芍薬に似て、淡紅色の花弁の畳まれた奥は、色褪せ湿っていた。匂いはなかった。

「あたし、喰べてもいいわよ」

 と突然その花がいった。飢えを意識した。その時再び私の右手と左手が別々に動いた。

 手だけでなく、右半身と左半身の全体が、別もののように感じられた。飢えているのは、たしかに私の右手を含む右半身であった。

 私の左半身は理解した。私はこれまで反省なく、草や木や動物を喰べていたが、それらは実は、死んだ人間よりも、喰べてはいけなかったのである。生きているからである。

 花は依然として、そこに、陽光の中に光っていた。見凝めればなお、光り輝いて、周辺の草の緑は遠のき、霞んで行くようであった。

 空からも花が降って来た。同じ形、同じ大きさの花が、後から後から、空の奥から湧くように夥しく現われて、光りながら落ちて来た。そして末は、その地上の一本の花に収斂された。

「野の百合は如何にして、育つかを思え。労せず紡がざるなり。今日ありて明日炉に投げ入れらるる野の草をも、神はかく装い給えば、まして汝らをや、ああ信仰うすき者よ」

 声はその花の上に漏斗状に立った、花に満たされた空間から来ると思われた。ではこれが神であった。

 その空間は拡がって来た。花は燦々として私の上にも、落ちて来た。しかし私はそれが私の体に届かないのを知っていた。

 この垂れ下った神の中に、私は含まれ得なかった。その巨大な体躯と大地の間で、私の体は軋んだ。

 私は祈ろうとしたが、祈りは口を突いて出なかった。私の体が二つの半身に別れていたからである。

 私の身が変わらなければならなかった。

三一 空の鳥

 ある日轟音が空に響いた。大型爆撃機の編隊が、頭上の狭い空を渡るところであった。鳳のように翼を延ばして空の青に滲み、雲から雲へ隠れて、のろく早く過ぎた。音が空に満ち、地に反響して、耳に唸りを押し込んだ。

 彼らは「神」の体を傷めて、横切りつつあった。遅れた一機は半身が青、半身が黄色に染まっていた。

 私は再び飢えを感じた。

 音に驚いたか、谷の向こうの林の梢から、一羽の白鷺が飛び立った。首を延ばし、ゆるやかに翼をあおって、編隊に追いつこうとするかのように、中空へ高度を高めて行った。

 私の半身、つまり私の魂は、その鷺と一緒に飛び去った。魂がなくなった以上、祈れないのは当りまえだ、と私は思った。今は私の右の半身は自由であった。

 蝿が降って来た。空を一面に、花のように満たして、唸りながら、まっすぐに私の顔に急降下して来た。神の血であった。

 私は立ち上がり、谷を出て、光る野の中を、飢えながら駈けて行った。丘を上っていた。木につかまり、草をつかんで、苦しい登攀であった。そして私はあの窪地に再び「彼」を見た。

 彼は巨人となってそこに仰向いていた。赤褐色にふくれ上がった四肢に、淡緑の文様が刺青のように走り、皮膚は処々破裂して、汚緑色の実質を現わしていた。腹部は帯革を境に、二つの球に聳えていた。彼は喰えなかった。

 神が私がここへ来る前に、彼を変えたのである。彼は神に愛されていた。そしておそらくは私もまた……

三二 眼

 もし私が神に愛されているのがほんとなら、何故私はこんなところにいるのだろう。こんな蔭のない河原に、陽にあぶられて、横たわっていなければならないのか。

 雨は来ないか。水は涸れ、褐色の礫の間に、砂が、かつて流れた水の跡を示して、ゆるく起伏しているだけである。

 雲もなく、晴れた空は、見上げると、奥にぱっと光が破裂する。眼を閉じる。

 何故、こんなに蝿が来るのだろう。唸って飛び廻り、干いた頬に止まって、むずむず動く。眼とか鼻孔とか口とか耳とか、やわらかいところを、大きな嘴でつつく。

 何故私の手は、右も左も、蝿どもを追い払おうとしないのか。私の体はただだるく感じる。しかし私の心は、自分が生きなければならないという理由だけで、他の生物を喰うのは止そうと決意した以上、自分が喰われるのを覚悟しなければならぬ、だから私の手は、私の粘膜を貪る昆虫を追おうとしないのだと思う。

 眼だけは勘弁してくれ。見る楽しみだけは残しておいてくれ。しかし目の前のそこの砂の上に、陽に照らされて、花のように光っているものは何だろう。

 足である。鶏の趾のように、干いた指が五本揃っている。踝から二寸ばかり上で切れている。切口の中央には、骨が白く、雌芯のように光っている。

 皮膚が巻き込んだ肉は、まっ黒である。いや、その盛り上がった黒い曲面は、漣が渡るように、揺れて動く。ひしめく蝿の黒である。

 人間の足らしい。しかし何故ここに、この河原に、私の目の前に、これがあるのだろう。切ったのは私ではない。これは「彼」の足ではない。彼は腐り、ふくれ上がっていたが、これはまだ趾骨と趾骨の間が凹んだ、新しい足首である。

 場所が違う。彼がいたのは、あの丘の上の窪地であった。どうして私はここまで来たのだろう。

 誰が切ったのだろう。どうしてこの明るい河原に、片足だけ一本、魚のように投げ出されているのだろう。

 いや、私は喰べたくはない。私は自分を蝿に、喰べさせているところだ。

 しかし何故それが私の方へ近づいて来るのだろう。揺れながら、光りながら、笑いながら近づいて来る。

 私はこの感覚を知っている。二歳の私が匍った時の感覚である。腕と脚の緊張の記憶は落ちているが、行く手の母の笑顔が、揺れ動いて、近づいて来る映像だけ憶えている。

 では、この時も私はその足首に向かって、匍っていたのである。臭気が、私自身の汗の臭いに似た臭気が、近づきつつあった。誰かが見ている。

 私は力を籠めて、私の体を転がした。横に、一つ、二つ、三つ。まだ足りない。そこの、砂が尽きて、萱がかたまっている蔭までだ。また一つ、二つ……

 見られていると思っただけではない。私はその眼を見た。

 斑らな萱の原を越え、十間ばかり先の林の暗い幹の間に、厨子の中に光る仏像の眼のような、二つの眼だ。

 眼は二つだけではなかった。その眼の下にただ一つ、鈍く白い完全な円の中に、洞のように黒く凹んだまた完全な円。鋼鉄の円。銃口であった。

 私は獣のように、砂に耳をつけ、音を聞いた。音は近づいて来た。靴は穿いていない。ひそやかに礫と砂を踏む音であった。たしかに人問の重量を載せた足が、地球を踏む音であった。

 そしてついに彼が現われた。萱を押し開いて、そこに立ち、私を見下ろした。

 蓬々と延びた髪、黄色い頬、その下に勝手な方向に垂れた髯、眠たげに眼球を蔽った瞼は、私がこれまでに見た、どんな人間にも似ていなかった。

 その人間が口を利いた。しかも私の名を呼んだ。

「田村じゃないか」

 声は遠く、壁の向こうの声のように耳に届いた。届くより先、私は彼の口が動き、汚れた乱杭歯を現わすのを、見知らぬ動物の動作でも見るようた無関心で、見ていた。

「田村じゃないのか」とその口は重ねていった。

 私は見凝めた。見凝めると、かえって霞んで行くその顔貌を、私は記憶を素早く辿った。いや、私はこの老人を知らなかった。彼は「神」だろうか。いや、神はもっと大きいはずであった。

 ぼろぼろに破れた衣服が、日本兵の軍服の色と形を残していた。

「永松」

 と、ついに病院の前で知った、若い兵隊の名を呼ぶと、目先が昏くなった。

三三 肉

 足の先まで冷たさが走るのを感じ、私は我に返った。傍に永松の顔があった。彼の手は私の首の下にあり、水が私の顔を濡らしていた。彼は笑っていた。

「しっかりしろ。水だ」

 私はその水筒を引ったくり、一気に飲み干した。まだ足りなかった。永松はじっと私を見ていたが、雑嚢から黒い煎餅のようなものを出し、黙って私の口に押し込んだ。

 その時の記憶は、干いたボール紙の味しか、残していない。しかしそれから幾度も同じものを喰べて、私はそれが肉であったのを知っている。干いて固かったが、部隊を出て以来何か月も口にしたことない、あの口腔に染みる脂肪の味であった。

 いいようのない悲しみが、私の心を貫いた。それでは私のこれまでの抑制も、決意も、みんな幻想にすぎなかったのであろうか。僚友に会い、好意という手続きによれば、私は何の反省もなく喰べている。しかもそれは私がいちばん自分に禁じていた、動物の肉である。

 肉はうまかった。その固さを、自分ながら弱くなったのに驚く歯でしがみながら、何かが私に加わり、同時に別の何かが失われて行くようであった。私の左右の半身は、飽満して合わさった。

 私の質問する眼に対し、永松は横を向いて答えた。

「猿の肉さ」

「猿?」

「こないだ、あっちの森で射った奴を、干しといたんだ」

 私は彼の顔を横眼で窺っていた。さっき林の中に見たと思った、二つの眼と銃口の持主が、彼ではないかという疑いが、頭をかすめたからである。この明るい陽光の中でも、彼の垂れ下がった瞼の下に、時々仏像の眼の光が、走るように思った。

「お前、俺を猿と間違えたんじゃないか」

 永松は声をあげて笑った。

「まさか。でも、お前ずいぶん転がったもんだな。何だって、あんなに転がる気になったんだ。すぐお前とわかってよかった。とにかく起きろ。起きられるか」

「わからない」

 彼は私の腋の下に手を廻して、引き立てた。嚥み下した肉が、胃につかえて、体に心棒が入ったような気持ちがした。立ち上がると、河原が広くなった。

「足が、足が」と私はいった。

「足? 何の足だ」

「足がある。あそこに。足首の切ったのが、転がってるんだ」

 私は改めて臭いを意識した。かつて海岸の町で嗅いだ、腐った屍体から発する臭いと、同じ臭いであった。

「くさい。くさい」

「うん、くさいな」

「知らなかったのか」

「知らねえな」

「そこだよ」

「わかってる。どっかの兵隊だろう。弾にすっ飛ばされたんだろう」

 一つの疑念があった。

「相棒はどうした?」

 と私は訊いた。

「安田か。達者だ。お前に会ったら、喜ぶだろう」

 とにかく安田の足首ではなかった。永松は腕に力を入れた。

「行こう」

 私は歩いた。斑らな萱を縫って、林の方へ進む間も、臭いは遠くならなかった。

「お前、今こっちから来たのか」

「そうさ、この林の中に俺たちの小屋、ってほどでもねえが、とにかく寝るところがあるんだ。テントを張ってある」

 林の中のだらだら上りに、草を踏み固めた道が、奥へ向かっていた。木の枝が、土民の小屋の附近でよく見るように、焚木の長さに切られ、垂れ下がっていた。不意に永松がかがんだ。拾い上げたのは、銃であった。

 私は身慄いした。私がこの林に銃口を見たと思い、そこから永松が現われ、ここに銃がある──この連鎖は、私を覘ったのが、永松であることを示している。ただその後で、彼が私に肉と水を与え、私が歩くのを支えているという事実が矛盾している。

 しかし私は進んで永松に問い糺す勇気がなかった。そう訊くことが、事件の進行をもとへ戻すことを懼れたからである。

 あの猿の肉を喰べて以来、すべてなるようにしかならないと、私は感じていた。

「弾はあるかい」

 と私はさり気ない質問を出した。

「ああ、大事に使ってるからね。こいつがなくなると、顎が干上がっちまう」

「お前たち、ずっとここにいたのか」

「そうさ。安田が動けねえからね。オルモック街道まで行けば、米さんがいるって話だが、それが行けねえんだ」

「行ったって、通れねえぜ」

「手を挙げるのさ。こんなところにいちゃ、いずれ死んじゃうからな。安田も前からそのつもりなんだが、なにしろ熱帯潰瘍がひどくて歩けねえのさ」

「お前がいつまでも安田の世話してるのは感心だ」

「ふふ、一人じゃ淋しいからさ。それに彼奴は煙草を持ってるしね」

「まだか」

「まったく持ちのいい野郎さ。猿が獲れた時、持ってってやると、寄越しやがる。それで自分じゃ、ちっとも吸わねえんだから、ひでえ奴だ」

 林はだんだん深く、陽光が梢にあがって、ひんやりした冷気が漂い始めた。鳥が啼いていた。その声に混じって「おーい」とも「ほーい」とも聞こえる呼び声が、伝わって来た。

「ほら、安田が呼んでる。俺がいなくちゃ、どうにもならねえくせに、いつまでも威張ってやがるんだ──おーい」と呼び交しながら、我々はだんだん近づいて行った。

 叢を分けて、低い崖を背に、小さな空地へ出た。土を掘って造った小さな矩形の炉に、火が燃えていた。芸もなく四方の木から引張ったテントの下に、安田がいつものように、脹れた片足を投げ出して坐っていた。

 眼が鳥の眼のように、飛び出していた。髪も髯も、延びほうだいで、褪色して、外国人のように、褐色に変わっていた。彼は私がわからないらしかった。動かない眼でじっと見ていた。

「田村だった」

 と永松がいうと、眼がまた大きくなった。そして怒ったように、無言で永松を見た。こっちは横を向き、腰を下ろした。

「すまねえ」

 と私はいった。安田の顔は歪んだ。しかし言葉は意外に優しかった。

「そうか。よかったな。どうしてたんだ」

「そこに、打っ倒れてたら、永松が見つけてくれた」

「ふむ、よかったな。俺はもうすっかり動けなくなった。永松が持って来てくれる餌で、やっと生きている始末さ。どうだ、戦争まだ終わらねえだろうか」

 永松が吹き出した。

「馬鹿な。田村が知ってるわけがねえじゃねえか。田村だってこちとら同様、そこらをうろうろしてただけさ」

「そうか。ふむ、お前何か食糧持ってるか」

 私は首を振った。安田が最初永松に投げた非難の眼付を、私は理解した。いかにも私はここで、厄介な余計者に違いなかった。

「何もねえ。草や山蛭ばかり喰べて来たんだ」

 過ぎた幾日かの錯乱の記憶が甦った。神はこの人間のいる林間の空地にも、垂れ下がつているであろうか。

 私はその巨大な体に触れようとして、手を挙げた。空しく延びた手に爽やかな風が当たった。声が降って来た。

「銃もねえんだな」

「ねえ──ああ、そうだ、手榴弾があった」

「手榴弾」と二人が同時に叫んだ。

 私はそれまで自分が手榴弾を持っているのを、忘れていたのである。二人の声に驚き、私は急いで腰を探った。

「おや、ない」

 しかし同時に、雨が降り出してから、私がそれを雑嚢にしまったのを思い出した。そっと触ってみた。たしかにそれはどっしりと重く、雑嚢の底に横たわっていた。しかし私はとっさの考えで、二人にそれをいうのを止めた。彼らの声に警告されたからである。

「落としたかな」

「もったいねえことしたな。池へぶち込めば、魚ぐれえ獲れたのに」

「お前たちもねえのか」、

「俺のはもう使った。今じゃ永松の銃だけが頼りさ。それで猿が獲れるから、つまり俺たちは生きていられるわけさ」

 と安田は、我々に共通の乱杭歯を出して、声もなく笑った。

三四 人類

 日が暮れ、焚火の火の赤さが増した。安田と永松はそれぞれ雑嚢から、猿の干肉を出し、火の上に載せた。安田は一枚、永松は二枚出した。そのうち一枚は私の分であった。

「おい、あと何枚ある?」と安田が訊いた。

「いくらもねえ」

「何枚だってきいてるんだ」

「何枚だっていいじゃねえか。一人日に三枚より、喰べねえきまりは守ってるよ。お前は煙草さえ出しゃいいんだ」

「煙草はやるが、口が一つ増えたんだ。そのつもりで、少しはせっせと獲らなくちゃ、駄目だってことさ」

 永松は黙っていた。彼が安田に答えないのを見るのは、これが初めてであった。

「ちっ」

 と安田は舌打ちして、私を見た。

 銭蕗に似た闊い葉が、飯盒で煮られた。安田も永松も噛んだだけで、吐き出した。生の草に馴れた私が、呑み込むのを見て、

「腹をこわすぞ」と安田が注意した。

 食事が終わると、永松は胸のポケットから煙草の葉を出し、丹念にちぎって、これも大事に取ってあるらしい洋罫紙の切れ端で巻いて、火を点けた。一服一服押し戴くように、差し上げて喫んだ。安田は満足気に、そのさまを見やった。

「なあ、田村、煙草なんてどこがうめえのかね。身体にゃ毒にきまってるんだ。煙草喫む奴は馬鹿だ。ねえ、そうじゃねえか」

「どうかな」

 私の喉は異様なむず痒さを感じた。永松はしかし予期に反して、私にも一服吸えとはいわなかった。

 吸い終わると、彼は汚れた飯盒を集め、暗闇に姿を消した。近くの泉へ洗いに行ったらしい。

 残された安田と差し向かいは何となく気まずかった。もし神が垂れ下って、見ていてくれなかったら、堪えられなかったろう。

「すまねえな」と私はいった。「もう少し歩けるようになったら、食糧探してくる」

「いいさ、いいさ。どうせ長いこたねえ」

 永松は飯盒に水を汲んで来た。

「ほらよ」

 といって、一つを安田の傍におき、一つを手に持ったまま、

「どれ、寝に行こうか」と私を促した。

「え、みんなここへ寝るんじゃねえのか」

「俺の寝床はあっちだ。お前も来ねえ」

 私はだるかった。寝るのは安田の傍でもよかった。

「俺はここでもいいよ」

「まあ、一緒に来ねえ。すぐそこだよ」

「当人がいいっていうんなら、それでいいじゃねえか」

 と安田がむっとしたようにいった。永松は笑った。

「悪いこたいわねえ。安田は夜になると足が痛むんでね。唸られて、煩さくって寝られねえよ。さあ」

 といって、彼は私を抱き起こした。安田は横を向いていた。

 暗闇の中を永松にかかえられて歩いた。少し行って、安田に聞こえないのが、たしかなところまで来ると、私は永松に訊いた。

「どうして、一緒に寝ねえんだ」

「まあ、今にわかるさ。こうなると、戦友だって頼りにゃならないのさ。俺がお前を連れて来たなあ、安田よりゃ頼りになるからさ」

「…………」

「お前の手榴弾、安田に取られねえように気をつけろよ。お互いに兵器は大事に持ってなくちゃいけねえからね」

「よく俺が手榴弾持ってるの、わかったな」

「はは、そんなことぐらい、わかんなくってどうする。ほら、こうやって、お前を抱いてやってるじゃねえか」

 永松は私の胴をかかえた手を延ばし、雑嚢を上から叩いた。

 永松の「寝床」は安田のいる崖際から、二十間以上離れた窪地であった。竹を組み、上に萱を綴ったものを、懸け渡してあった。缶詰の空缶や被甲の内部その他、あらゆる兵士の持物のがらくたが、丁寧に一か所にまとめてあった。一振の蛮刀があった。

「いい蛮刀だな」

「猿が獲れた時料理するのさ。これが砥石だ」

 天然の粗い砂岩であった。

「安田にここを教えちゃいけねえぜ。あの野郎、足のこと大層にいってやがるが、全然歩けねえってわけじゃねえんだ。こっちが寝てる間に、何されるかわからねえものな、あいつと一緒に寝ねえのは──つまり、早い話、この銃でもかっぱらわれちゃいけねえからだ」

「なぜ盗るんだい」

「ふふ、まあ、今にわかるよ」

 私自身も、永松に気をつけなければならないのかも知れなかった。しかし何を気をつけたらいいか、わからなかった。疲労と、久振りで胃に食物が入った倦怠から、私はすぐ眠った。

三五 猿

 明け方から雨になった。

 永松の造った萱の屋根は、巧みな勾配を持ち、周囲に雨溝も掘ってあったので、雨は中に入っては来なかった。

「雨か」と舌打ちして、永松は起き上がった。「さあ、行こう」

「火は大丈夫だろうか」

「心配するな。火の番は安田の商売だ」

 いかにも、安田は工夫していた。燠を飯盒に入れ、火が消えない程度に隙間をあけて、蓋をしていた。ただ炉は使えなかったので、朝食は干し肉のままかじった。

「雨が降ったじゃないか」

 と安田は、永松を睨んだ。

「それが、俺のせいかね」

「猿が獲れねえじゃねえか」

「雨だっているかも知れねえさ。どれ、そんなら出掛けるか。田村はここにいろ」

「俺も行く」

「まあ、いい、お前はまだ歩けねえ。もうちっと癒ったら、手伝ってもらうさ」

 そして「気をつけろ」と低声に囁くと、雨の中へ出て行った。

 私はまた安田と残された。話がなかった。テントを平らに張っただけの寝床には、雨が降り込み、居心地がよくなかった。

「俺はまだねむい。永松んとこで寝て来るぜ」

 と私がいうと、安田は不意に愛想がよくなった。

「まあ、いいじゃねえか。ここだって寝られるさ、さあ、こっちが雨が当たらねえぜ。寝な、寝な──俺もお前が来てくれて心丈夫になった、永松の野郎、この頃生意気になりやがって、いちいち楯つきやがる。あんな野郎じゃなかったんだが。俺がついてなきゃ、あんな奴、今頃野垂れ死にしてたのさ。猿を獲るんだって、俺が教えてやったんだ」

「そんなに猿がいるのかねえ、俺はまだ一匹も見たこたあないが」

「やたらにいるわけじゃないが、どうやら喰いつないで行くぐらい、彼奴が取って来る──ただ、こう降っちゃ、猿もねぐらに引っ込んでいるだろう」

 永松が帰って来た。

「今日はやめだ。もう雨季は終わる頃だが」

「今日、幾日だろう」

「そいつは俺がちゃんとつけてる」と安田が答えた。「二月の十日だ。月末にゃ、レイテの雨季は明けるはずだ」

 私は驚いた。私が三叉路を越せなかったのは、たしか一月の初めであったから、あれから私はひと月、一人でさまよっていたのである。

 しかし雨はなかなかやまなかった。永松は猟に出ず、肉の割当も一日一片に減った。我々はもう安田のテントヘ行かず、火種を持って来て別に火を起こし、永松と差向いで、一日膝を抱いて坐っていた。彼の私を見る眼は険しくなった。

「お前を仲間へ入れてやったのは、よっぽどのこったぞ。よく覚えとけ」と彼はいった。肉はもうなくなっていた。

 ついにある日が晴れて、永松は出掛けて行った。私は久振りで安田のテントヘ行ってみた。

「もし今日も獲れなかったら、俺もどっかへ行ってみる。手榴弾で魚が獲れるって池、どこにあるんだい」

「ずっと前の話さ。どっか遠くだよ──。だってお前、手榴弾は落っことしたんだろ」

「実はあったんだ。雑嚢にね」.

「えっ」安田の眼が大きくなった。「ふむ。でもこの雨じゃ、濡れちゃったかも知れねえぜ。どれ、見せてみな」

 私は何気なく取り出して、渡した。

「ほう。九九式だな。うむ、ちゃんと緊填してあるな。ふむ、こりゃ使えそうだ」

 そういいながら、彼の取った動作は奇妙なものであった。彼は当然のことのように、さっさと自分の雑嚢にしまうと、しっかり紐を結んでしまった。

「おい。返してくれ」

「返してもいいが。誰が持ってても同じだろう。俺が預かっといてやるよ。俺はここにじっと坐りっ切りの、物持ちのいい人間だ。お前が持ってて、また濡らしちゃうといけねえ」

 私は不安になった。

「とにかく返してくれ。大丈夫、濡らしやしねえ。永松におこられる」

「永松が何かいったのか」

「お前に渡しちゃいけねえって」

「あはは、それになぜ渡した」

「うっかりしたんだ」

「それがいけねえ。もう駄目だ。後の祭りだよ」

「返せ」

 私が安田の雑嚢へ手を延ばすと彼は剣を抜いた。私は飛びのいた。私もまた剣は持っていたが、この密林の友人と、何故剣を抜いてまで、一個の手榴弾を争う必要があるのか、わからなかった。

「よせ。やるよ。そんなに欲しけりゃ、やるから、そんなもの早くしまっちまえ」

「そうか。さすがインテリは物わかりがいい。よこせば、べつに文句はねえ」

 私は出掛けた方がいいかも知れない。それとも……私は自分の手を眺めた。声が聞こえた。

「ここに働かざりしわが手あり」

 その時遠く、パーンと音がした。

「やった」と安田が叫んだ。

 私は銃声のした方へ駈けて行った。林が疎らに、河原が見渡せるところへ出た。一個の人影がその日向を駈けていた。髪を乱した、裸足の人間であった。緑色の軍服を着た日本兵であった。それは永松ではなかった。

 銃声がまた響いた。弾は外れたらしく、人影はなおも駈け続けた。

 振り返りながらどんどん駈けて、やがて弾が届かない自信を得たか、歩行に返った。そして十分延ばした背中をゆっくり運んで、一つの林に入ってしまった。

 これが「猿」であった。私はそれを予期していた。

 かつて私が切断された足首を見た河原へ、私は歩み出した。萱の間で臭気が高くなった。そして私は一つの場所に多くの足首を見た。

 足首ばかりではなかった。その他人間の肢体の中で、食用の見地から不用な、あらゆる部分が、切って棄てられてあった。陽にあぶられ、雨に浸されて、思う存分に変形した、それら物体の累積を、叙述する筆を私は持たない。

 しかし私がそれを見て、何か衝撃を受けたと書けば、誇張になる。人間はどんな異常なた状況でも、受け容れることができるものである。この際彼とその状況の間には、一種のよそよそしさが挿まって、情念が無益に掻き立てられるのを防ぐ。

 私の運の導くところに、これがあったことを、私は少しも驚かなかった。これと一緒に生きて行くことを、私は少しも怖れなかった。神がいた。

 ただ私の体が変らなければならなかった。

三六 転身の頒

「やい、帰って来い」

 と声がした。振り返ると、林の縁に永松がいて、銃で覘っていた。私は微笑んだ。私は演技する自由を持っていた。今は私の所有しない手榴弾を握る振りをし、構える振りをした。

「よせ。よせ。わかった」

 永松は笑って、銃口を下げた。我々は近寄った。彼の頬の筋肉が引き攣っていた。

「見たか」

「見た」

「お前も喰ったんだぞ」

「知っていた」

「猿を逃した」

「残念だった」

「こんどまた、いつ見付かるかわかんねえんだ。猿はなかなか通らねえ」

 彼は私の空の手を見た。

「おや、手榴弾はどうした」

「ない」

「ない?」

「あるって思ったのは、お前の勝手だ」

「どうしたんだ」

「安田に取られた」

「取られた?」永松はまっ赤になった。「馬鹿野郎、なぜ取られたんだ、あんなにいっといたのに」

「うっかりしたんだ」

「そりゃ大変だ。もうしようがねえ。彼奴をやっつけるよりしようがねえ。やらなきゃ、こっちがやられちゃう」

「俺をやったらどうだ」

「お前やるんなら、最初にやってる。俺はもうこんなことやってるのが、いやになったんだ。あのじじいに操られて、うっかり始めたが、もうたくさんだ──お前、そのオルモックヘ行く道、知ってるんだな」

「憶えてない」

「どうでもいい。とにかく一緒に行こう。安田をやって、食糧を作ってから、米さんとこへ行こうじゃねえか」

「そうやすやす降服さしてくんねえぜ」

「いや、とにかく、俺は今まであの野郎に威張られたのが癪にさわって、しようがねえんだ。このままじゃ済まされねえ」

「このまま、どっかへ行っちまえばいい」

「駄目だ。さし当たって食糧がねえ」

「しかし、俺は降服しねえぜ。お前一人で行ってくれ。俺はその気はねえんだ」

「つまんねえこというな。俺だって猿の肉喰った体だが、何、黙ってりゃ、わかるもんか」

 手榴弾を持った安田を殺すために永松が考えた方法は、彼の若さに似合わぬ、狡猾なものであった。彼の予想では、武器を握った以上、安田は必ず我々を殺しに来るのであった。そしてそのためあのテントを立ち退いて、どこかで我々を待ち伏せているのであった。

「大袈裟にいやがって、彼奴の足、結構役に立つんだ。ただ俺をこき使おうと思って、そら使ってやがるんだ」

 我々は慎重に林に入って行った。

「いいか、まず彼奴に手榴弾を使わしちまわないとまずい。声を出せば、きっと抛って来やがるから、怒鳴って、とたんに逃げるんだぞ。いいか」彼は林の奥へ叫んだ。「おーい、安田。獲って来たぞ」

 そして踝を返して急に駈け下りた。後ろで炸裂音が起こった。破片が遅れた私の肩から、一片の肉をもぎり去った。私は地に落ちたその肉の泥を払い、すぐ口に入れた。

 私の肉を私が喰べるのは、明らかに私の自由であった。

 それから我々は安田の捜索にかかった。しかし半日念入りに探しても、安田の姿はどこにもなかった。

「畜生、どこへ行きやがったかな」永松の飢えには憎悪が混じっていた。「そうだ、あそこがいい」

 彼は私を泉に導いた。

「この辺じゃ、水はここっきゃねえ。あの野郎、そのうちにゃ、きっと来やがるから、ここで待っててやろう」

 林の果て、崖の根元から一つの水が湧いて、細流となって流れ去っている。永松は石で流れを堰いた。

 泉を見下ろす高みに我々は隠れた。三日目の夕方、遠く安田の泣くような声を聞いた。

「永松、田村」と声は呼んでいた。「おーい。出て来い。俺が悪かった。仲好くやってこうじゃねえか。火もあるぞ」

「火ぐれえ、こっちにだってあらあ」と永松は自分の飯盒に貯えた、小さな燠を吹きながらいった。

「出てこい。煙草もみんなやるぞ」

「いやだ。もうお情けはたくさんだ。手前をやっつけて、捲き上げてやる」

「出て来い。俺がここに煙草持ってると思うと、大間違いだぞ。いいとこへ、ちゃんとしまってあるんだ。仲好くしよう」

「畜生。なんて悪賢い野郎だ」永松は歯ぎしりした。

 ついに声は止んだ。ただ草を匐う音が近づき、泉の向こうの崖の上に、頭が現われた。しばらくそうしてじっとしていたが、不意に、全身を現わし、滑り降りた。

 永松の銃は土にもたせて、そこへ照準をつけてあった。銃声とともに、安田の体はひくっと動いて、そのままになった。

 永松が飛び出した。素速く蛮刀で、手首と足首を打ち落とした。

 怖ろしいのは、すべてこれらの細目を、私が予期していたことであった。

 まだあたたかい桜色の肉を前に、私はただ吐いていた。空の胃から黄色い液だけが出た。

 もしこの時すでに、神が私の体を変えていたのであれば、神に栄えあれ。

 私は怒りを感じた。もし人間がその飢えの果てに、互いに喰い合うのが必然であるならば、この世は神の怒りの跡にすぎない。

 そしてもし、この時、私が吐き怒ることができるとすれぱ、私は天使である。私は神の怒りを代行しなければならぬ。

 私は立ち上がり、自然を超えた力に導かれて、林の中を駈けて行った。泉を見下ろす高みまで、永松が安田を撃った銃を、取りに行った。

 永松の声が迫って来た。

「待て、田村。よせ、わかった、わかった」

 新しい自然の活力を得た彼の足は、私の足より早いようであった。私は辛うじて一歩の差で、彼が不注意にそこへおき忘れた銃へ行き着いた。

 永松は赤い口を開けて笑いながら、私の差し向けた銃口を握った。しかし遅かった。

 この時私が彼を撃ったかどうか、記憶が欠けている。しかし肉はたしかに喰べなかった。喰べたなら、憶えているはずである。

 次の私の記憶はその林の遠見の映像である。日本の杉林のように黒く、非情な自然であった。私はその自然を憎んだ。

 その林を閉ざして、ガラス絵に水が伝うように、静かに雨が降り出した。

 私は私の手にある銃を眺めた。やはり学校から引き上げた三八銃で、菊花の紋がばってんで刻んで、消してあった。私は手拭を出し、雨滴がぽつぽつについた遊底蓋を拭った。

 ここで私の記憶は途切れる……

三七 狂人日記

 私がこれを書いているのは、東京郊外の精神病院の一室である。窓外の中の芝生には、軽患者が一団一団とかたまって、弱い秋の陽を浴びている。病舎をめぐって、高い赤松が幹と梢を光らせ、これら隔離された者どもを見下ろしている。

 あれから六年経った。鉄の遊底蓋を拭ったままで、私の記憶は切れ、次はオルモックの米軍の野戦病院から始まっている。私は後頭部に打撲傷を持っていた。頭蓋骨折の整復手術の痛さから、私は我に返り、しだいに識別と記憶を取り戻して行ったのである。

 私はどうして傷を受け、どういう経路で病院に運ばれたかを知らなかった。米軍の衛生兵の教えるところによれば、私は山中でゲリラに捕えられたので、傷はたぶんその時受けたのだろうという。軍医は私の記憶喪失が、脳震蕩による逆行性健忘の、平凡な場合だと説明した。

 頭髪が脱落していたほか、体に外見的異状はなかったが、心臓に機能障害があり、タクロバンの俘虜専用の病院へ移された後も、私は二か月以上便所へ通うことができなかった。私が隊から追われる原因であった肺浸潤も進行していた。私は結核患者のみ集めた病院に隔離され、一般俘虜収容所へ移ることなく、昭和二十一年三月病院船で復員したのである。

 俘虜病院に収容された当初私は与えられる食膳に対し、一種の儀式を行なうことで、同室者の注意を惹いたそうである。人々は私を狂人と見做した。しかし私は、今でもそうだが、自分のせずにいられぬことをするのを、恥じないことにしている。何か私以外の力に動かされるのだから、やむをえないのである。

 私はいかに自分の肉体を養う要請に出ずるとはいえ、すべて有機質から成り立っている食物を喰べることを、その有機質の以前の所有者であった生物たちに、まず詫びるのである。私としては、むしろ少しも自責なくこれを行なっている、人間どもが不思議でならない。人間同士の愛と寛大、つまりヒューマニズムについて、あれほど大言放語している彼らがである。

 ある日私が突然その儀式をやめたのは、してもしなくても同じことだと、思ったからである。私は私の心を人に隠すのに、興味を覚えるようになった。

 部隊を離れてからの経験について、私は誰にも語らなかった。比島の女を殺したことは、戦争犯罪者に加えられる惧れがあり、たとえ人肉常食者にせよ、僚友を殺したことを、俘虜の仲間がどう思うかわからなかったからである。

  私は求めて生を得たのではなかったが、いったん平穏な病院生活に入ってしまえば、しいてその中断を求める根拠はなかった。人は要するに死ぬ理由がないから、生きているにすぎないだろう。そして生きる以上、人間どもの無稽なルールに従わなければならないことも、私は前から知っていた。祖国には妻がいた。

 妻はむろん喜んで私を迎えた。彼女のうれしそうな顔を見ると、私自身もうれしいような気がした。しかし何かが私と彼女との間に挿まったようであった。それはたぶん比島の山中の奇怪な経験と、一応いっていいであろう。人は殺したとはいえ、肉は喰わなかったのだから、何でもないはずであり、私の一方的な記憶が、妻との生活の間に「挿まる」なぞ、比喩としてまずい比喩であるが、どうもほかに考えようもない。

 私としては始終独りになりたい、というやみがたい欲望が続いていたにすぎない。空襲中東京の家で彼女が火に囲まれて危く助かった話を聞き、「そりゃよかったね」と答えながら、ふとその時彼女が死んでしまえばよかったと思い、私は自分の心に驚いた。しかし私にはすべて自分が思い、感じたことを抑えたり、否定したりする気はない。

 だから五年後、私が再び食膳を前に叩頭する儀式を快復し、さらにあらゆる食物を拒否するようになった時も、私としてはべつにおかしいとも、やめねばならぬとも思う根拠はないわけである。再び私の左手が右手を握るようになったのも、神であろうか、何か私とは別なものに、動かされているのであるから、やむをえない。私は外から動かされるのでもなければ、繰り返しはいやである。

 五月のある日この精神病院へ連れて来られて、比島の丘の緑に似た、柔らかい楢や椚 の緑が、建物を埋めているのを見た時、ああ、この世で自分が来るべきところはここであった、早くここに気がつけばよかったと思った。ついに私が入院ときまり、私が重い扉の内側に、妻はその外側に立った時、妻が私に注いだ涙を含んだ眼に、私が彼女の心に殺したものの重さを感じたが、しかし心を殺すぐらい何であろう、私は幾つかの体を殺して来た者である。

 しかも妻の心が彼女の全部ではないのも私は知っている。人間はすべて分裂した存在であることを、狂人の私は身をもって知っている。分裂したものの間に、親子であろうと夫婦であろうと、愛なぞあるはずがないではないか。

 要するに私の欲するままにさせておいてもらいたいのである。私の欲することを止めさせるには、あの比島の山中の将校のように、私の欲する前に、私に薦めねばならない。私の欲望はいたって少ないのであるから、一度欲してしまってからでは間に合わない。そして誰も私に私の欲しないことをさせることはできないのである。

 私が復員後取りつくろわねばならぬ生活が、どうしてこう私の欲しないことばかりさせたがるのか、不思議でならない。

 この田舎にも朝夕配られて来る新聞紙の報道は、私の最も欲したいこと、つまり戦争をさせようとしているらしい。現代の戦争を操る少数の紳士諸君は、それが利益なのだから別として、再び彼らに欺されたいらしい人たちを私は理解できない。おそらく彼らは私が比島の山中で遇ったような目に遇うほかはあるまい。その時彼らは思い知るであろう。戦争を知らない人間は、半分は子供である。

 しかし慌てるのはよそう。新聞紙上に現われるのはすべて徴候にすぎない。徴候は一つなら印象も一過的で、やがては忘れられるはずである。徴候が我々の中に沈澱させるものは、それが継続して、あるいは周期的に現われるためにほかならない。ちょうど私が戦場で野火を怖れたのが、私がそれを見た順序、その数にかかっていたように。

 これらの徴候が一群の心理学者の制作に係るならば、私はそれらの専門家を憎む。しかし革命家たちはこの組織を壊滅さすのに、実に愚劣な方策しか案内できないのであって、しかも互いに一致せず、つまらぬ方針の争いを繰り返している。

 誰も私にもう一度戦場で死ぬのを強制することはできないと同様、方針の部分品として、街頭に倒れることを強制することもできない。誰も私にいやなことをさせることはできないのである。

 私はこれがみんな無意味なたわ言にすぎないのを知っている。不本意ながらこの世へ帰って来て以来、私の生活はすべて任意のものとなった、戦争へ行くまで、私の生活は個人的必要によって、少なくとも私にとっては必然であった。それが一度戦場で権力の恣意に曝されて以来、すべてが偶然となった。生還も偶然であった、その結果たる現在の私の生活もみな偶然である。今私の目の前にある木製の椅子を、私は全然見ることができなかったかも知れないのである。

 しかし人間は偶然を容認することはできないらしい。偶然の系列、つまり永遠に堪えるほど我々の精神は強くない。出生の偶然と死の偶然の間にはさまれた我々の生活の間に、我々は意志と自称するものによって生起した少数の事件を数え、その結果我々の裡に生じた一貫したものを、性格とかわが生涯とか呼んで自ら慰めている。ほかに考えようがないからだ。

 しかしたぶんこれもたわ言であろう。事実は私が今この精神病院で、天体の運行を見守りながら、一日一日睡眠によって中断された生活を送っているというにすぎない。医師によって課せられた整頓掃除の日課も、それを果たす間は偶然を忘れていられるという意味で悪くない。看護人が多く旧日本軍の衛生兵であるのははなはだ皮肉であるが、彼らが時々患者を殴る様子に、彼らの前身を偲ぶのも私には快い。前線の私の生活と、現在の生活との間に、一種の繋りを感じさせるからである。

 もし私の現在の偶然を必然と変える術ありとすれば、それはあの権力のために偶然を強制された生活と、現在の生活とを繋げることであろう。だから私はこの手記を書いているのである。

三八 再び野火に

 もっともこの手記は元来、医師の薦めによって始められたものである。彼は自由連想診察の延長として、私自身をして過去を書かしめるのを、適当と認めたらしい。そこで私は彼らのいわゆる職業上の秘密保持の義務に乗じ、私がこれまで誰にも明かさなかった経験を語ることにした。彼らはどうせアミタール・インタヴュによって、私の秘密の一部を知っているであろうから、いっそ詳細を語った方が都合がよい。いずれにせよ、どうせ彼らは私のいうことを理解しないであろうが。

 医師は私より五歳年少の馬鹿である。食虫類のような長い鼻に、始終水洟をすすり上げている。彼は私が復員後精神分裂症と逆行性健忘症の研究を積み、むしろ進んでここに避難して来たことを知らない。彼の精神病医学の知識は、私の神学の知識ぐらいなものだ。

 ただ連続睡眠と電撃とか、蓋然的療法によって、私の拒食の習慣が除かれたことだけは、それだけ私の毎日の生活から面倒が減ったから感謝している。

 私の家を売った金は、私に当分この静かな個室に身を埋める余裕を与えてくれるようである。私は妻はもちろん、付添い婦の同室も断わった。妻に離婚を選択する自由を与えたが、驚くべきことに、彼女はそれを承諾した。しかもわが精神病医と私の病気に対する共通の関心から感傷的結合を生じ、私を見舞うのをやめた今も、あの赤松の林で媾曳しているのを、私はここにいてもよく知っているのである。

 どうでもよろしい。男がみな人喰い人種であるように、女はみな淫売である。各自そのなすべきことをなせばよいのである。

 医師は私の手記を、記憶の途切れたところまでを読み、媚びるように笑いながらいった。

「たいへんよく書けています。まるで小説みたいですね」

「僕はありのままを書いたつもりです」

「ははは、そうです。そこです。あなたがありのままと信じているところに、真実を修正する作用が働いているのが特徴でして、これは小説家にも共通した心理なのです」

「想起に整理と合理化が伴うのはやむをえません」

「なかなかよく意識しておられる。しかしあなたは作っておられますよ」

「回想に想像と似たところがあるのは、通俗解説書にも書いてるじゃありませんか。現在の僕の観念と感情で構成するほか、何ができますか?」

「私どもにいちばん興味があるのは、あなたの神の映像ですね。普通私どもはこれを罪悪感を補償するために現われるコンプレックス──メシヤ・コンプレックスと呼んでいるんですが、あなたは今でも自分が天使だと信じていられますか」

「いや、どうだかわかりません。そうですね。たぶんこれを書きながら見付けて行ったのでしょう。ふむ、メシヤ・コンプレックスとしては、僕の神の観念ははなはだ不完全なものですね」

「まあ、それだけあなたの症状が軽いということですから、御心配はありません。いや、人が発狂時に書くことには、案外深い人生の真実が潜んでいることがある。──ただ衝撃のため、最後の部分を忘れておられるのが残念ですね。私どもにいわせれば、あるいはそこにあなたの病気の、真の原因が潜んでいるかも知れないのです」

「僕は病気じゃないかも知れませんよ」

「あはは、患者はみなそういいます。そしてたいてい私たち医師に反感を持っています。いかがです」

「…………」

「まあ、そこらに失礼ながら、あなたの病気があるかも知れない。あなたの症状は離人症というんですが、副次的特徴の一つとして、他人を信用しないことです。つまり自分が信用できないからなんで」

「じゃ、あなたを信用しろとおっしゃるんですか」

「そう睨まないで……いや、今日はここまでにしておきましょう。まあその忘れた期間のことでも考えていらっしゃい。しかしどうしても思い出せなかったら、無理しなくてもいいですよ」

 いかにもあの忘却の期間は、私の中に暗黒の輝線のように残っている。すべて私の想起はここまで来ると、いわば全反射して、けっしてあの時手に持った銃の、雨滴のぽつぽつ付いた遊底蓋から、奥へ入ることはできない。あるいはそれから米軍の病院の手術台で、再び記憶が始まるまでの十日の間に、現在の私の生活と、あの山中の記憶を結ぶ鍵が潜んでいるのかも知れない。

 映像の記憶を欠く私は、推理によって、その未知の領域に入ろうと思う。推理もまた想起作用の有力な一環である。

 医師が私の精神の状態を自分に納得するような、誇らかな眼で私を見据え、諾いて去った後、私は一人庭へ出ていった。ベンチヘ腰を下ろし、傾いた十月の陽が赤松の影を長く延ばし、影が芝の黄ばんだ緑と重なって、紫の斑点を浮き上がらせてくるのを見凝めながら、私は医師との会話によって、新しく刺戟された推理の糸を手繰った。

 私が比島人に捕えられた地点は、俘虜票にオルモック附近とあるのみで、正確な証言を欠いているが、私の記憶に残る最後の地点は、たしか海岸からはかなり隔った山中で、ゲリラの来そうなところではなかった。してみれば、私が行ったのでなければならぬ。しかし私は何をしに行ったのであろうか。

 比島の女を殺した後、私がその罪の原因と考えた兇器を棄てて以来、私が進んで銃を把ったのは、その時が始めてであった。そして人喰い人種永松を殺した後、なお私が銃を棄てていなかったところをみると、私はその忘却の期間、それを持ち続けていたと見做すことができる。私は依然として神の怒りを代行しようと思っていたのであろうか。

 いや、神は何者でもない。神は我々が信じてやらなければ存在し得ないほど弱い存在である。私がそう錯覚していたかどうかの問題だ。

 比島人の観念は私にとって野火の観念と結びついている。秋の穀物の殻を焼く火か、牧草の再生を促すために草を焼く火か、あるいは私たち日本兵の存在を、遠方の味方に知らせる狼煙か、部隊を離脱してからの孤独なる私にとって、野火はその煙の下にいる比島人と因果関係にある。

 では私は再び野火を見ていたかも知れぬ。

 耳の底、あるいは心の底に、私は太鼓の連打音に似た低音を聞くように思った。その長く続く音は、目の前の地上にますます延びて行く赤松の影と重なる。かつて比島で私の歩く先々について廻った、野火の印象に重なる。

 この病院を囲む武蔵野の低い地平に、見えない野火が数限りなく、立ち上っているのを感じる。

 私はあの忘却の灰色の期間が、処々、粒を立てたように、野火の映像で占められているのを感じる。それに伴う何の感情も思考もないが、映像だけは真実である。

 私は室に帰った。夜、食事をする間も、ベッドに入ってからも、太鼓の連打音は続いていた。そしてついに私はその記憶喪失の全期間を思い出すことができた。いや全部ではないが、たぶん書きながら思い出して行くであろう。

三九 死者の書

 あるいはこれもすべて私の幻想かも知れないが、私はすべて自分の感じたことを疑うことができない。追想も一つの体験であって、私が生きていないと誰がいえる。私は誰も信じないが、私自身だけは信じているのである。

 一つの幅の広い野火の映像は、その下部に焔の舌を見せて、盛んに立ち騰がっていた。別の細い野火は上が折釘のように曲がって、回転する磁石の針のように揺れていた。それはほとんど、意のままに変形し得るように思われた。

 しかし奇妙なのは、その野火の映像に燃焼物の映像が伴っていることである。焔を含んだ煙の下か、折釘のような煙の下かはわからない。うず高く、蟻塚のように盛り上がった籾殻であった。火は見えず、煙だけ湯気のように、立ち去りがたく、その累積の頂上に纏りついていた。そして風に吹き散らされるのを惜しむかのように、相寄り束になって、中空目指して、目的あり気に立っていた。または草原が燃えた後であった。黒く崩れ伏した草の上、直立した焼け残りの草の根方を、低く煙が、水底に動く影のように、匍っていた。

 野火の形は最初中隊を出た時見たものに似ていたが、その時はたしかにその下まで行きはしなかったから、燃焼物は私があの忘却の間に見たものに違いない。

 私はさらに、その燃える籾殻や草が、それぞれ一つの煙に密着していると感じる。意識の空間に密着したそれ等の双いは、それぞれ時間の密着を示すべきである。

 このことは私が一つの煙を見、次にその煙の下に行ったことを示している。煙を見れば、必ずそこへ行ったのだ。

 しかし何のために? 思い出せない。私の記憶はまた白紙である。ただこの「行った」という仮定から、一つの姿が浮び上がる。

 再び銃を肩に、丘と野の間を歩く私の姿である。緑の軍衣は色褪せて薄茶色に変わり、袖と肩は破れている。裸足だ。数歩先を歩いて行く痩せた頸の凹みは、たしかに私、田村一等兵である。

 それでは今その私を見ている私は何だろう……やはり私である。いったい私が二人いてはいけないなんて誰がきめた。

 自然に音はなく、水底のように静かである。あれら丘も木も石も草も、すべてあの高い空間を沈んで来て、ここに、自然の底に落ち着いたらしい。神が空の高いところでそれを造り、ここまで沈めた。その巨大な体を縦に貫いて、ここまで降りるのを許したのである。

 神が沈むために与えた時間を使い尽くし、もうこれ以上沈むことができない、不動の姿である。

 私、不遜なる人間は暗い欲情に駆られ、この永遠を横切って歩いて行く。銃を肩に、まるで飢えてなぞいないかのように、取りつくろった足取である。何処へ行く。

 野火へ向かい、あの比島人がいるところへ行きつつある。すべてこの神に向かい縦に並んだ地球の上を、横に匍って、神を苦しめている人間どもを、懲らしめに行くのだ。

 しかしもし私が天使なら、何故私はこう悲しいのであろう。もはや地上の何者にも縛られないはずの私の中が、何故こう不安と恐怖に充たされているのであろう。何か間違いがなければよいが。

 一つの丘から野火が上っていた。海草のように揺れながら、どこまでもどこまでも、無限に高く延びていた。

 太陽は何処にいる。神のように、あの空の上、空間を充たした水のまた上にいるはずだ。

 丘の頂上の草は、水の流れに押されて、靡いていた。そして火は頂上を取り巻く低く黒い林に向かって、追われるように、逃げて行った。

 いた。人間がいた。射った。当たらない。彼は勾配を走り下り、もはや私の弾の届かないところまで行くと、自信ありげに背をのばして、すたすたと一つの林に入ってしまった。

 またいる。靡く草の上から上体が出た。一人、二人、三人。

 彼らは近づいてくる。交互に、機械的に、立ったり伏せたりしながら、目鼻のない暗い顔が、靡く草の上を近づいて来る。いや、私はもうやり損ったりなぞはしない。

 太陽は何処にいる。

 火が来た。理由のない火が、私を取り巻く草を焼いて、早く進んで来る。首を挙げ、口を開いて迫って来る。煙の後に、相変わらず人間どもが笑っている。

 何でもない。何でもない。

 私が静かに銃をさし上げるのが見える。菊の紋章が十字で消された銃を下から支えるのは、美しい私の左手である。私の肉身の中で、私がいちばん自負している部分である。

 この時、私は後頭部に打撃を感じた。痺れた感覚が、身体の末端まで染み通った。そうだった。忘れていた。私は彼らに後頭部を殴られるはずであった。それはきまっていた。この精神病院へ入った日以来、私の望んでいたのは死であった。とうとうそれが来た。

 しかし何故私はまだいるのであろう。人間どもはもう見えないが、声はがやがや聞こえている。私には彼らが見えないが、彼らには私が見え、どうとも勝手に扱うことができる。手術台にのせて、整復でも何でもすることができるのだ。

 人は死ねば意識がなくなると思っている。それは問違いだ。死んでもすべては無にはならない。それを彼らにいわねばならぬ。叫ぶ。

「生きてるぞ」

 しかし声は私の耳にすら届かない。声はなくとも、死者は生きている。個人の死というものはない。死は普遍的な事件である。死んだ後も、我々はいつも目覚めていねばならぬ。日々に決断しなければならぬ。これを全人類に知らさねばならぬ、しかしもう遅い。

 原に人間はなかったが、草は私が生きていた時見たと同じ永遠の姿で、私の周囲に靡いていた。暗い空に一際黒く、黒曜石のように、黒い太陽が輝いていた。しかしもう遅い。

 草の中を人が近づいた。足で草を掃き、滑るように進んで来た。今や、私と同じ世界の住人となった、私が殺した人間、あの比島の女と、安田と、永松であった。

 死者たちは笑っていた。もしこれが天上の笑いというものであれば、それは怖ろしい笑いである。

 この時、痛い歓喜が頭の天辺から入って来た。五寸釘のように、だんだん私の頭蓋を貫いて、脳底に達した。

 思い出した。彼らが笑っているのは、私が彼らを喰べなかったからである。殺しはしたけれど、喰べなかった。殺したのは、戦争とか神とか偶然とか、私以外の力の結果であるが、たしかに私の意志では喰べなかった。だから私はこうして彼らとともに、この死者の国で、黒い太陽を見ることができるのである。

 しかし銃を持った堕天使であった前の世の私は、人間どもを懲らすつもりで、実は彼らを喰べたかったのかも知れなかった。野火を見れば、必ずそこに人間を探しに行った私の秘密の願望は、そこにあったかも知れなかった。

 もし私が私の傲慢によって、罪に堕ちようとしたちょうどその時、あの不明の襲撃者によって、私の後頭部に打たれたのであるならば──

 もし神が私を愛したため、あらかじめその打撃を用意したもうたならば──

 もし打ったのが、あの夕陽の見える丘で、飢えた私に自分の肉を薦めた巨人であるならば──

 もし、彼がキリストの変身であるならば──

 もし彼が真に、私一人のために、この比島の山野まで遣わされたのであるならば──

 神に栄えあれ。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2008/09/27

背景色の色

フォントの変更

  • 目に優しいモード
  • 標準モード

大岡 昇平

オオオカ ショウヘイ
おおおか しょうへい 小説家、翻訳家。1909~1988 東京生れ。京都帝大仏文科卒。1944(昭和19)年7月、召集されて、フィリピンのミンドロ島に送られた。米軍の上陸に伴い、翌年1月、俘虜となる。この戦場での体験や帰還までの体験を1948年から51年にかけて、幾つかの雑誌に書き、後に『俘虜記』というタイトルでまとめ、1952年創元社より刊行された。小説家としての活動は多岐にわたり、作品には、ほかに、『武蔵野夫人』、『野火』、『花影』、『レイテ戦記』などがある。このうち、『俘虜記』、『野火』、『レイテ戦記』は、大岡文学を代表するとともに、日本の反戦文学の代表作でもある。

掲載作は1948年、「主体」に掲載したが、その後、廃刊となったため、1951年以降、改めて「展望」に連載した。今回は、角川文庫版により「二八 飢者と狂者」以降を収録。

著者のその他の作品