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教員の死と夏の風 ― 若き女教師は行く(テレビドラマ「体罰教室」原作)

 1980年頃から校内暴力や非行問題で、中学校の荒れが社会問題となっていた。

 世相は男尊女卑の色濃い時代でもあった。

「その子を、もう()たないで下さい。いけません。先生お願いです」。

 思わず山下美也子は、そういって大声を出してしまった。

 美也子も教師である。

 教師が教師に、そういったのである。

 しかも先輩の男性教師にいってしまったのだ。ただごとでは済まないかも知れない。

 新任2年目になる美也子は知っている。学校とは、理屈が通る社会ではないことを。

 それぞれが互いに牽制し合い、干渉しないことが当然みたいになっている。それが暗黙のオキテなのだ。

 美也子は、1980年代に有名私大の国文科を出て教師になった。

 大学の1年の頃から教職に関する勉強に熱心であった。

 地方公務員の父は、これからの教師は大変な仕事だからと反対であった。

 美也子は子供が好きだった。そして教育問題がマスコミ等で論じられるたびに、私も、自分のささやかな力を、そこに投入したいと本気で思うようになっていった。

 念願の教師への道は、東京から南東方向にある小学校からはじまった。

 胸をふくらませての教師生活の幕は開いたのだが、先輩教師からの、なんとも冷たい視線と意地悪い言葉の連続に、

「これが生徒を教える教員の世界なのか」

 と、それこそ何度も絶望感を身にしみて感じたという。職員間自体に、つまり教師間そのものにイジメの体質があるように思えた。

 美也子は4年生の担任であった。

 それこそ新任したころは、お茶くみも大きな仕事で、朝はもちろん、10分間の休み時間にも学年担任全員の教師にお茶を入れて歩く。新任で、あれこれ沢山のことを生徒のためにしなければならないのに、休み時間に先生方のために必死になってお茶を入れて回る。そういうときもあった。

 だれ1人、手伝ってはくれないのだ。教室で生徒との話が、たまたま広がって、そのお茶くみが遅れれば、女のベテラン教師が、ツンツンして代って入れている。ツンツンは美也子に対してとくに激しい。

「すみません」、

 といえば、

「あなたは計画性がないのよ」。

「はあ?」といえば、

「はあって、わかってないのね。いまの若い人って。時間にきちっとしていないのよ」、

 というわけである。

 美也子は、整った顔立ちでスッキリした目が知的であった。小柄ながら、きりっとして大きく見え、美人といっていい。

 その、ハイミスの稲葉教師にとっては、そういうことも気に食わないのか見方によれば女の嫉妬によるということにもなる。

 帰り時間が近くなると、用務員の人と一緒に、職員用の女性トイレの掃除をすることもあった。稲葉教師の嫌味の噂をチラチラ聞きながら、

「私は、こんなことでは負けないわよ」、

 と何度も自分に言い聞かせて通り抜けてきた。

 いろんな噂が耳に入ってくる。

「このあいだね。清掃の人がね。稲葉先生に話していたわ。あなたはトイレ掃除もろくにできないってさ」。

 しかし美也子は、自分なりに一生懸命に掃除をしていると思った。それだけにショックだった。新任の頃の厳しさである。

 美也子は思った。そういうことは気にすまいと思った。自分さえ仕事を精いっぱいやればいいんだ。父が、教師になるための出勤第1日目に言った言葉、

「我慢、我慢。我慢して仕事さえしていれば。」

 その通りだと思った。

 美也子の定期入れには、父が書いてくれた“我慢、我慢”という字が入っている。とびきりヘタな字であったが、娘を思う父の願いが込められているのだ。

 山下美也子は、目撃したのだ。

 美也子のクラスの生徒が、6年担任の野原教師に廊下で平手で()たれていた。

 右ほほから左ほほと撲たれた。その瞬間に美也子は、

「その子を、もう撲たないで下さい。いけません。先生お願いです」。

 といってしまった。大きな声であった。その声を聞いて生徒が集まってきた。美也子の声は悲鳴のようでもあった。2人ばかり教師もかけ寄ってきた。

 一人は、あのベテランの女教師の稲葉つね子教師であった。

 野原謙造教師は34才。教師生活11年目である。規律を重んずるという点で評判の教師であった。どちらかというとスパルタ教育的で“よく()つ先生”といわれた。この教師には、なにもいわないで過ごした方が無難だというわけだ。校内のことごとくに力を示し、校長をも制圧している感じであった。さわらぬ神にたたりなしか。

 野原教師が過去に、その子を何度か撲ったということは、噂で聞いて知っていた。美也子は、事情があって、その子を注目していた。とうとうその現場を見てしまったのだ。

 野原は、規律は痛みと一緒に教えるべきだ。難しいことだが、愛のムチこそ必要なのだと、よく他の先生にも話していた。

 私大の文学部を出て、大学時代、空手部に在籍していただけに体育の時間は厳しい。生徒の中には、この先生の体育の時間はいやだ!という声があったらしい。

 美也子は新任2年目を迎えていた。美也子は小柄だ。野原に上からにらみつけられ、美也子は震え上がった。なんで、こんなことをいってしまったのか。美也子は後悔した。

 教師は、他のクラスの生徒に注意してはいけないということはない。教師たちは、全生徒に、いつの場合も指導する立場にあるのだ。

「キミはなんだ。なにも知らないでキミは何をいうか」

 と、すごい剣幕で野原は小柄な美也子にいった。(なぐ)るぞという形相(ぎょうそう)であった。生徒たちの前で美也子は、怒鳴られた。

「すみません」。

「すみませんですむか。キミはわかっているのか、それで教師がつとまるのか」。

 その気迫に押され24歳の美也子は声が出なかった。

 横でハイミスの稲葉教師の意地悪な目が光っていた。

 授業が終わり、それぞれが教室の掃除をし、帰り支度の時間であった。

「あんた、ついて来て下さい。こんなところで話していても駄目だ。稲葉先生、よかったら一緒に来て下さいませんか」。

「わかりました」。

 稲葉教師も同行し、美也子は体育室に連れていかれた。連れていかれたというのは問題があるかも知れない。形は、話すために行ったのだろう。

 しかし居丈高(いたけだか)の野原の態度に、美也子は何の反論もできずにいた。

 野原は、その男子生徒に、

「これからは注意しろ。キミは、いつも廊下を走っているんだ。何度注意してもわからん。いいな、わかったな、わからなきゃ何度でも殴るぞ、いいな」。

「はい」、

 といってその生徒は泣きながら頭を下げた。

 両ほほは、真赤になっていた。その生徒の名は中田新次といった。美也子のクラスの中では反抗的で、成績も下位の方だった。

 忘れ物はする、ときどき弱い者いじめはする、万引きで警察に補導されたこともあった生徒だ。

 問題のある生徒であった。美也子は、まずいことになったと思った。中田君には、何度もイザコザがあった。美也子も悩んだことが頻繁(ひんぱん)にあった。けれども美也子が注目し心にかけている生徒であった。

 体育室に行く前に美也子は、中田君を教室に呼びいれ「大丈夫だった。痛かった…。また明日話しましょう。先生にとっては、キミは、大切な生徒なのよ。わかってるわね。悲しくならないで。あなたも悪かったんでしょう」、

 小さい声で、そういった。そういいながら中田君の頭に手を置いて、いたわるようにした。中田君の目には涙がたまっていた。反抗的なものが消えていた。

 そうしているところを野原が見るなり、

「生徒を(あま)やかすな! あんたは甘い。いいから早く来てくれ、早く」。

 まずいことになった。しかし美也子は、私は間違っていなかっただろうと…。

 体育室の中には、さらに小さな部屋があった。野原は、その部屋に入るなり美也子に向かって、

「謝れ」、

 とドスのきいた声でいった。

 美也子は、かつて、こういう状態を体験したことがなかった。身のちぢむ思いがした。震えて何もいえなかった。

「キミは何年間、教師をやっている、1年や2年、教師をやったって、教育の何がわかる。あんたは新任と同じだ。俺は10年以上も、この道でやってきているんだ。なんだ」。

 美也子は、何かいおうとしたが足までが震え、言葉にならなかった。横で稲葉が意地悪い目つきで(にら)みつけていた。

「先生」、

 と稲葉は野原にいった。

「この人は甘いところがあるのよ。この際、しっかりいっておいた方がいいわ」。

 それから美也子に向かって、

「叱りつけた生徒の前でよ、その先生に注意をする先生なんてあるもんですか。あんた頭がおかしいんじゃない」。

 すぐに野原がこの話を引きとるように、

「私はね、子供たちによかれと思って殴っているんだ。ここぞというときは思いきってやっているんだ。真剣だ。好きでやってんじゃない。あの子はキミのクラスの子だが、とくに注意してる子の1人だ。他のクラスの子にまで私は目を配っているんだ。それが教師の使命だと思っている。キミのクラスの子のためにやってるんだ、ありがとうというべきだ。この辺のことがわからんか。それとも、あんたはバカか」。

 椅子があったが3人とも座らず、美也子は震え、野原は、まだ興奮していた。

「あの子は、いってみれば(ふだ)つきだ。万引きで警察に補導されたことも3回じゃきかない。弱い者いじめはする。教室ではあばれ、今日も廊下を走っていた。勉強はできない、キミみたいな甘ちゃんの若い教師の手に負えるタマじゃないんだ。お前なんかの手に負えるか」。

 また稲葉教師が、

「その通りよね。教壇で教えてればそれでいいってわけのものじゃないのよ。わかってるの。厳しいのよ教師の世界って。キャリアもないのに、少しナマイキなんじゃない。美人ぶってさ。恰好いい服を着てさ、そんなんじゃ教師はつとまらないの。わかった。

 あんたは甘ったれ。こういうことじゃ駄目だから、今後はあなたの生活についても、校長にもいうし、職員会議でとり上げますからね。いまの子には少し強い指導が必要なのよ。口でいってわからない子が沢山いるんだから、そこのところがわかってない。いいから今日のところは野原先生に謝りなさい。まず謝ってからにしましょう、謝りなさい」。

 美也子は、どちらかというと美人だ。それがベテランの女教師には一種の嫉妬(しっと)ともなるのか。美也子の服装は、決して稲葉教師のいうようなものではなかった。ごく普通であった。

 稲葉は化粧なしで暗い黒っぽい服装をしていた。こういう暗いスタイルは、しかし、概して習慣化され、一般的な教師のスタイルでもあった。

 カラーテレビ時代に育つ子らには、美しいとは映らない恰好だ。

 では、美也子はどうかというと、通勤には紺の服、冬なら上下、春からは紺かグレーのスカート。上だけ白か薄い空色のシャツにローヒールというもので、むしろ流行に遅れ気味である。こういう服装には美也子の父の意見があった。ただ美也子は清楚な感じがした。誰にも負けないくらい。

 野原と稲葉につめ寄られ、美也子は泣き出しそうであった。美也子は、涙が出そうであったが、泣いてはならないとこらえた。不思議に涙は止まっていた。

「謝れ」、

 と野原がいった。

 謝れとはどういうことなのか美也子は考えていた。震えの中で、下を向きながら、

「何かいったらどうだ」。

「謝れないのあなたは」。

 2人の声が大きくなる。

 謝って、それで解決するなら謝ってもいい。いくらでも謝りたい気持であった。

 しかし美也子は、いま自分は本当に謝るべき立場にいるのか、必死に考え迷っていた。担任は美也子だから責任が複雑に交叉する。撲たれた中田君の生活環境も説明しなければならない。説明しないことには、あまりにも一方的だし、なんの解決にもならないと思った。

「お前謝れないのか」。

 そういって大柄の野原は小柄な美也子の肩を突いた。指で突いた。憎しみが込められていた。空手で(きた)えた太く強い指でだ。

「お前なんかに指示されることはないんだ、バカ野郎」。

 きれいな美也子の目には、涙を含んでいた。

 野原謙造は、

「貴様は謝れんのか」、

 と迫る。身長180センチ、体重80キロの野原は、小柄な美也子を見下ろし威圧していた。

 稲葉も一緒になって「謝れ」という。稲葉の口調には、意地悪い響きが込められていた。

 2人には憎悪(ぞうお)めいたものがあった。

「私のいうことを、聞いていただきたいんです」。

 やっとの思いで美也子はそういった。精いっぱいの頑張りであった。

「聞いてくれとはなんだ、謝ってからにしろ、先ず謝れ…謝れないのか。このバカ女」。

 野原の言葉に稲葉は、何度も同調した。

 これは教師のものではない、美也子は、ごく自然に口を突いて出た言葉は、

「謝れません」、

 であった。歯並びのいい、形のいい口元から小さい声だが、とてもハッキリといい切ったのだ。

 まだ若い小柄な美也子に、どうして、そういうことがいえたのか、美也子は自分で自分が不思議だった。

 体育室の、その奥の小さな部屋で威圧され、美也子にとっては恐ろしい状況であったが、しかし、美也子はそういったのだ。

 それは一つの勇気であったろう。無謀といえるかも知れなかった。本来の教師の姿でいえば、どう正しくとも先輩教師などには、まあまあとこの場は御座形(おざなり)にお茶をにごすのが普通であった。

 謝れません!といった瞬間、野原はオニのような形相となり、美也子の小さな肩に手をかけて「貴様ってヤツは教師の風上(かざかみ)にも置けねェ。俺をなんだと思っているのか、大バカ者」、といって、強く強く前後にゆするようにした。いまにも殴りかからんばかりであった。

 美也子は、力で対抗することはできない。それこそ大人と子供であった。木の葉のように飛ばされそうであった。

「先生は暴力的です。これも暴力です。こんなことでは話しになりません。謝れません」といった、その瞬間から美也子の目の中に、目に見えない決意があったのかどうか。野原の顔は紅潮し、その興奮はおさまらなかった。

 稲葉の目付きには、野原以上の憎しみがあった。

「よし、貴様がそうなら、校長、教頭にもいい、職員会議で糾弾(きゅうだん)してやるぞ。俺を甘くみるなよ。いいか、俺はただじゃすませんからな。俺は敵に対しては徹底的にやるからそう思え」。

 野原は、さらに指で美也子の肩を小突いた。

「お前なんかに、いってもわからん。俺は校長室に行って問題にしてやる。稲葉先生行きましょう」。

 振り向きざま野原は、侮蔑(ぶべつ)を含めたスゴミのある鋭い目で睨みつけ、そういって、荒々しい足どりで行ってしまった。

 美也子は、結局、自分が何の弁解もできなかったことが、いかにも腑甲斐(ふがい)無かった。心のうちには、まだ、不快なものが残り、この先どうなることか、まるで見当がつかなかった。

 しかし、どうなってもいいと美也子は、意外に冷静になっていた。けれども、やがて全職員に知れ渡り、大波小波、いささか居心地が悪くなるだろうと考えた。ひょっとしたら退職も、それとも転勤か、この小学校では野原は実力者なのだから。

 中田新次君を、かばったのだが、それにはきわめて重要な理由があったのだ。美也子のクラスの中田君は、たしかに表面上から見れば、手の付けられない問題児であった。

 美也子は、地方公務員の父とよく教育について話す。その父は、かつては教員をめざしたことがあるのだ。教員免許もとり、いよいよ実習というときになって、結核であることが判り人生の方向転換をしたという。

 人生には、ままならぬことがあるものだ。教員免許取得者ということで、結局この道に関係し、現在はA市の学校教育部の管理職になっている。すでに停年が近い年であった。

 そういう父は、教員になることに反対したものの、いざ美也子が教員になってみると、ことあるごとに、しきりと教育について話すのだった。それはまた美也子にとって一つの力ともなっていた。

 いよいよ教師になったとき、ことさら美也子に、“我慢”という字を書いて持たせたのも、父のそれなりの教育観からくるものだった。

 その父が、中田君について、そっと調べてみなさいといった。それは中田君の担任になってすぐの頃だった。

 そのとき、こらえたが、涙があふれた。

 1人だけ体育室の部屋に残って、美也子は、いたたまれない気持であった。

 こんなことがあっていいのか。まるでオドシではないか。野原先生にしても稲葉先生にしても、その言葉や態度は一歩間違えばヤクザと変わらないと思った。聞く耳を持っていないのだ。

 生徒間ではなく、これは教師間にあるイジメではないか。

 美也子の知的な目から一筋の涙が流れる。こらえた。二筋三筋、しかし美也子は、泣くまいと思った。泣いてはならない。なんとしても堪(こら)えねばと思った。

 こんなとき学生時代であれば泣いて泣いて泣き尽くしたこともあった。そんな甘い状況ではないのだ。

 問題は、これからなのだ。すでに野原先生と稲葉先生は、職員室で一方的に話し、校長や教頭にも伝えているだろう。

「謝れません」

 と、美也子の口から出たとき、すでに問題は大きくなっていたのだ。

 静かに、そっとハンカチで涙を(ぬぐ)う。

 美也子の小柄な姿を、きりっと整え、それから深呼吸をした。しなやかな小さい手を握り締めた。

『私は、何1つ悪いことをしていない。あったとすれば、先生が生徒に注意して()った。それを見た私が撲たないで下さいと、生徒の前でいったことぐらいだ。それが、そんなに悪いことかどうか。あんなに罵倒(ばとう)されて』

 ハンカチを顔の横にあてがい。うつむきかげんに美也子は、じっと考えていた。

『私は、このままでいてはいけないのだ。もっと堂々としよう。ほかの先生は野原先生を怖がっている。どうであれ私は、いうべきことをいおう。ここを折れて黙って通り過ぎるようでは、私の青春に悔いを残すことになる。私は、いわなければならないのだ』

 美也子は、そう思うと、さっと立ち上がった。美しい髪が波を打った。

 姿勢のいい歩き方は颯爽としていた。その髪の毛が豊かに風に吹かれキレイだった。

 放課後だったので、

「先生、さようなら」

 と、声をかける生徒が何人もいた。10メートルも離れているのに、わざわざ駆け寄ってきて挨拶して行く生徒もいた。美也子は、生徒に人気があるのだ。

 その声に、さっと生徒のほうを振り向き、

「さよなら、早く、おうちに帰りなさい。元気でね」、

 と晴ればれしい声で、いつも快活に応じた。

 こんな快活に応じる先生はそうはいないだろう。大半は、形だけの疲れたような声だ。知らず知らずのうちに、こういう挨拶まで事務的に一種の慣れになってくるものだ。

 美也子は、廊下をどんどん歩いて行く。生徒の声に明るく応じながら、美也子が、ぶたれた中田君のことで沢山のことを考えていた。

 問題児、問題児というけれど、調べもしないで問題児という傾向がある。注意し、殴ればいいんじゃない。調べてみれば意外なことは山ほどあるものだ。小学校時代こそ、多くの面で影響を受ける。品性を疑われるような声で注意して殴れば、とんでもないことを教えてしまう。そんなことをすれば中学へ行き高校へ行き、どっかで粗暴な振舞いが出るのではないか。人間形成にとって小学校教育こそ大切なのではないか、美也子は自分なりに、そう考えていた。いまは、その下に幼稚園があり、これも放置されたままだが、ちらほら見える言葉づかいの汚い対応は、そのまま幼児教育の毒にもなりかねない。

 あの稲葉先生などは、なんとも乱暴な口調で、

「オイ!バカ者、なにしてる」、

 といった調子で生徒を叱っている。美也子も、よく目撃したものだ。そういう乱暴な口調を幼少時代から教えてもらっているわけだ。

 先生たちは、よく“正しく”なんて言葉を使うが、自分たちこそ“正しく”なければ。とくに小学校以下、幼稚園にいたるまで、中学、高校もそうだ。教える側は、断じて乱暴であってはならないのだ。幼少の頃ほど、とくに影響力が強いから。

 職員室が近づいて来た。

 そのとき

「山下先生、山下先生、至急職員室に、お戻り下さい」。

 くり返し2度、校内放送が流れた。美也子を呼んでいるのだ。職員室まで、もう少しというところを歩いていた。

 美也子は緊張した。

 野原先生が、もう校長や教頭に話し、問題が大きくなっているのか。その放送を聞いて一瞬緊張し、足を止めたが、しっかりせねばと気を取り直すのだった。

 職員室の戸を開けたときには、もう美也子は、きりっとしていた。入って自分の机に向かって数歩、歩いたとき、原山雄一先生が、

「ああ、山下先生、私がお呼びしたんです。ちょっと…」、

 といって声をかけてきた。原山は57歳。ガンの疑いもあり、ここのところ体調を崩していた。すでに大半が白髪となり、身体は、ほっそりとしていた。見るからに実直そうであった。美也子を見るなり、低い声で呼びかけ、すまなそうな顔付きで、職員室の隅の方へ行き、

「あの山下先生。野原先生と何かあったんですってね。どういうことで」、

 原山先生は、4年生の学年主任であった。その時点で4年生全体の問題にもなっていた。

 しかし原山先生は、とても、ひかえめな聞き方であった。自分は、本当はこういうことは聞きたくないが、という様子であった。もともと原山は、普段は何事も無難にというタイプであった。しかし生徒には熱心に対応する先生と言う評があった。

 すでに野原に強くいわれたから、こうして聞いているのだった。日頃から原山は、野原先生には、まるで頭が上がらなかった。どちらかというと野原の傲慢(ごうまん)な振舞いには原山は耐えられなかったが、といって反発することもできず、黙って応じているよりなかったのだろう。

 美也子は、原山が4年の学年主任である以上、概略を説明しなければならなかった。

「実はね、今日、これから生活指導委員会を緊急に開くことになったんです。野原先生が校長と話し合って決めたようです。当然、山下先生にも出ていただくわけで」。

 山下とは美也子の姓だ。生活指導とは、文字通り、生徒の健全育成を、生活面からも徹底論議し指導することが目的とされた委員会であった。

 各学年の主任と、校長、教頭、そして他の数名の教師が入って構成されているのだ。

 美也子は、

「野原先生が私のクラスの中田新次という生徒を撲って叱っていたので、それ以上撲たないで下さいといっただけです」、

 と説明した。考えてみれば、それだけのことだったのかも知れない。原山は、美也子の話を聞いて物足りない顔をした。

 ヤセた原山先生が「それだけですか」と何度も言うので、

「先生が生徒に注意した、それも叱っている生徒や他の生徒の前でいったことを怒っているのだと思います」、

 と付け加えた。

 原山は「そうですか」といったものの、まだ納得できないらしかった。

「それだけのことで」、

 と原山は、同情的にいった。ボソボソと力のない声であった。野原に対する不満が込められている。この程度で緊急委員会とは、という気持だろう。

「先輩教師に注意したから許せないということだと思います。注意したなんてつもりはまるでないんですが、ものすごい剣幕でしたから」

「どういうふうにです」。

「これは問題だと大声で怒鳴り、謝れと」。

 原山は、弱々しい身体から、とても小さな声で、

「野原先生には、無茶なところがありますから」、

 といってから、

「なんということだ」、

 とはき捨てるようにいった。しかし、あまりにも力のない低い声であった。

 そして原山先生は、

「あなたは、その子を撲()たないで下さいと、なぜいったんです。撲つことに反対だからですか」。

 これは、なかなか鋭い質問であった。美也子は、日頃から、いるかいないか、すべてに干渉しない立場で、あまりに静かな存在の原山先生から、こういう問いが出てギクリとした。実際驚いた。見るべきところを見ているのだ。

「実は、あの中田新次君にとっては、いまが大切なときだと思っています。あの子は外面的には、勉強はできない万引きはするイジメはする、いいとこないんですが、私なりに調べてみるとそれが大変な理由があったんです」。

「ほう理由が」。

「あの子は、たとえば、いじめのできる子じゃないんです。みてもわかるように、身体つきも弱々しい子なんです。あれは、いじめにしても万引きにしてもやらされているんです」。

「というと」。

「不良グループ、不良というより非行、いや注意グループっていうんでしょうか。あの子は気持のやさしい子なんです。気の弱いというか、接してみると、とても、おとなしい子なんです。

 あの子はその注意グループの誰かに、おどかされたり、そそのかされて、やっているんです。それはね。去年の暮のことです。あの子が5万円程度のラジカセを、大きな電器店から盗んで警察に補導されたとき、わかったんです」。

 学年主任の原山は、歯切れよく話す美也子の話を熱心に聞いていた。美也子は、なおも話を続けようとすると、原山先生は、

「わかりました」、

 といって美也子の言葉を制した。

「いや、その後のことは委員会でいって下さい。あなたには確信があるようです。よく調べ研究もされているように思います。どうか山下先生、そのことはいい機会です。教師全体にとっても勉強になることのように思いますから、是非、堂々とこの際、いって下さい」。

 原山の声は、低く力のない声であった。けれども美也子に同情的であったし、強く声援する意気込みがあった。

 さらに、

「ねェ、山下先生。私なんかにはもう若さがありません。残念ながら、そういう元気もなくなっているんです。あなたには若い熱気があります。それが貴重です。どうか私の分も頑張って下さい。

 生徒の側に立って考えている以上、なにも恐れるものなんてないんですよ。野原先生だろうとね。断固いうべきをいって下さい。私にはね、もう力はありません。けれどもね、私は、真剣に心で応援していますからね。

 あなたには分別がある。分別(ふんべつ)をわきまえていう分には、どしどしいわなければならないでしょう。本当はね、恐れることなんて何もないんですから」。

 原山は、10年前、胃潰瘍の手術をしてから、めっきり体力が落ちた。胃を半分切除してからだ。最近では、ガンではないかという(うわさ)さえあった。

 美也子は、この原山が、若い時分から一貫していっている教育論の骨子に、小学校時代にこそ“礼儀”を教えるべきだという考え方のあるのを知っていた。

 しかし、この礼儀ということになると、修身の復活だ、やれ封建思想だのと、いつも批判的な立場に立たされることが多かったとも聞いていた。まだ原山が若い時分、この批判の谷間で、随分悩んだともいわれる。

 かつて美也子は、この原山から、その教育論を聞いたことがあった。

 それには、なるほどと思わせることがあった。

 美也子が教師になって一年目の夏のことであった。その夏休みの出勤日に原山先生と一緒になったとき、なんとなく、そういう話になった。

「私の教育論なんて、そんな大げさなものではありません。小さい時分から教師は生徒に、できるだけ生きる上での善悪を機会あるごとに呼びかけて行こうと私は考えたわけです。呼びかけるというより、教師は教師自体の、その振る舞い言葉やマナーを生徒たちに見てもらって学んでもらうものだと考えています。

 いまの時代は、一つには礼儀というよりマナーといった方がいいかな、そういうものが、どんどん消えてしまいつつある時代のようにも思えるんです。教師そのもの、大人そのものの中にもね。

 中学でも高校でも、どうも乱暴な言葉づかいがあるわけで、それには、小学校時代から、呼びかけるべきことがあるんだというわけです。

 あのね。少し話が違いますが、いまはね高校時代に単車に乗る子が増えているでしょ。もちろん一概に悪いとはいえません。しかしね。小中学校時代に、もっと大人になってから乗った方がいいとか、単車に乗ることの怖さみたいな話を聞いていれば、そう簡単に乗らないで済んだと思うんです。それが、かつて一度も、そういうことを聞かずに育ってしまった子が沢山いるんですよ。一方でテレビや雑誌は、単車を美化して宣伝しています。それに流されちゃうんです。

 単車はカッコイイゾって、くり返しくり返し暗示をかけられ、幼少時代から生きてるんです。それは違う、こういう意見もあるぞってことをいってやる大人がいなければ、それは当然単車に乗っちゃいますよ。単車に限らず、あれもこれも、性に関することからファッション、言葉づかいまで、大がかりなマスメディアの暗示社会の中で子供たちは育って行っているんです。しかし、いよいよ、そういう活発な情報ラッシュの中を子供たちは育って行かねばならない。

 だからこそ、こういう時代には、そうではなく、こういう見方もあるぞ!と早いうちにいってやる。

 中学では遅いことが沢山あるんです。親がやるべきなんですが多忙なんですか、どうもそれができなくて常識ともいえるものが、まるでない子供たちが、あふれてきているんです。それは常識のない大人や教師が増えているということにもなるんでしょうが、私ども教師は、とにかく、ことの善悪をできる限り語ってやること、そして、教師自身の日常の態度や、姿をより正し、学んでもらうこと。教師自身が粗悪ではなりませんね。私は、こういうことを考えながら教師をやっているんですが」。

 原山の話は、まだ新任だった頃の美也子には、ことのほか新鮮であり印象に残る話であった。

 そもそも原山が胃潰瘍になった理由には、この教育論の中の“礼儀”を教えることについての批判や誤解があって、その葛藤(かっとう)によったという人もいた。体罰については、若い時分から絶対反対であったという。

 それにしても、この学校での実力者、野原と対決する形となった美也子に、この原山は励ます存在となったことは間違いなかった。

 美也子は救われた思いであった。きれいな髪を右手で、さっとなで上げながら、心を引き締めるのだった。

 野原は、太い声だ。この学校では恐れるものがない。

 野原は、PTAとも深い接触があった。運動会や遠足が済んだあと、よくPTAのお母さま方と先生の間で慰労会が催され、いつも野原はたっぷり酒を飲んで、上機嫌であった。お母さま方は、しきりと酒を注ぎ、「宜しく、宜しく」と野原中心に会がすすむ。二次会ではバーに流れ、結局、お母さま方と踊るということもある。状況で決して悪いことではないが、ときには目をそむけたくなるような雰囲気もないでもない。お母さま方からの贈り物も多い先生という噂もあった。

 原山は、野原の半分もない体重と思われた。肉の落ちたヤセた肩が、なぜか病身を思わせた。ゆっくりした動き、低い声、どれも野原から見れば問題外の存在であったかも知れない。そして、この学校では発言権もあるわけではない。

 しかし美也子は、この原山に励まされたことが、とてつもなく大きな力に守られたみたいに思った。

 原山は、細い肩をゆすって、校長室に向かった。その背は弱々しく悲しくさえ思えたが、美也子は、その背に深い感謝を込めるのだった。

 原山が校長室に入ってから、しばらくして校内放送が流れた。緊急に生活指導委員会を開きますと知らせていた。

 美也子に関係なく、ことは大きくなっている。いや大ごとにされて行くようにも思えた。美也子は、自分がしたことはそんなに重大なミスであったのか、改めて考えた。なにか割り切れないものがあった。

 美也子は、定期入れの中から、小さい紙切れを出した。父が書いてくれた“我慢”という字だった。その紙切れを、指でつまんで、じっと見つめた。『いまは我慢だわ』 と思ったとき、父の顔が浮かんだ。平穏な笑いであった。

 これから始まる委員会で、美也子は、どういうことになるのか見当もつかなかった。だからこそ落着かない。不安がつのるのだったが、父の我慢の2文字をみていると、不思議と心がなごむのだった。委員会は、午後に開かれた。緊急であったから、集まった人は7人程度であった。

 校長がいて教頭がいて、各学年の主任が並んでいた。

 野原謙造は美也子を睨みつけるように座っていた。稲葉つね子も同じようであった。原山は、ほっそりした身体を、姿勢よく整え、とても静かな様子であった。

 校長以下、他の人たちも緊張気味、静かであった。

 進行役は、6年担任の、戸田先生であった。戸田は、野原の子分みたいだという噂があった。教師生活八年、野原のいうことは何でも聞くという存在で、野原の()を借りているといってもいい。

 戸田は、野原ほど身長も体重もなかったが、ガッチリしていた。31歳である。野原と2人して校内を闊歩(かっぽ)すれば、生徒は震え上がり、周囲の先生にも威圧感があった。

 戸田は、概略を説明した。

「実は今日、いつも廊下を走って、何度、注意してもわからない4年生の中田新次という生徒を、野原先生が、また走っていたので注意しました。この生徒は、山下先生のクラスの生徒です。教育的立場から野原先生が厳重に注意しました。反抗的だったので、軽く2度ほど(ほほ)()ちました。野原先生は、他人に迷惑になることをしてはならないということを生徒に呼びかけ、この点で真剣に日頃から取り組んできております。

 この注意した中田新次という生徒は、成績は下位で、本来、反抗的であります。弱い者いじめをし、石を投げ学校のガラスを割ったり備品を壊したり、万引きで警察等に補導されたことが3度あります。万引きは、補導されなかったものも相当数あると思われます。

 去年は、5万円もするラジカセを電器店から盗んでいます。金額もエスカレートしています。

 家庭はといいますと、父親が病気がちで寝ています。聞くところによると腎臓が悪いとのことですが、勤めに出られないほどであるかどうかはわかりません。ですから母親がスーパーに勤めに出ています。それも朝9時から午後5時までと、夕方は7時から10時までです。中田新次が次男で、その下に6歳になる男の子がいます。かつて長男がいたのですが、小さい時分、病死しています」。

 進行役の戸田は、淡々と話しているようだが、美也子にとっては、いくぶん耐えきれない気持であった。美也子のクラスの生徒のことを、担任の美也子を無視して、これだけいわれるのは、なぜかつらかった。反論したいことがいっぱいあったが我慢した。たしかに中田君は問題児であった。

 戸田先生のいい方は、家庭環境の悪いところに中田君が生活していると、いいたげであった。

 美也子は、そういういい方に嫌なものを感じた。父が病床にあり、母親は、スーパーに残業までして必死に働いている。それは、子供にとって、いい環境であるとさえ思っていたからである。父なり母なりの一生懸命の姿こそが一番なのだ。子供の育つ上でこれほどの教材はないだろう。

 戸田先生の説明は続く。

「それで野原先生がです。この中田という生徒が、また廊下を走っていたので叱ったわけです。しかし反抗的だったので撲()ったわけです。自然で、当然のことだと思います。このとき周りに生徒がいて稲葉先生も近くにいたそうです。

 そこへ『撲ってはいけない』と3度ほど大きな声で命令が飛んだんです。野原先生にです。注意というか指示というか、命令でしょう。その大きな声の主が山下美也子先生だったわけです」。

 命令とは、ひどい。美也子は、じっと耐えていた。

 その生活指導委員会は、美也子を一方的に糾弾(きゅうだん)する形で進行した。

「もう撲たないで下さい」といった、そのことが「教師として失格」だともいう。いま、一方的に大きな問題となっていた。これは、この学校の実力者、野原が仕組んだ委員会といえた。

 司会は、野原の子分とまでいわれる戸田先生であった。教師として失格だ!といったのは、野原と親しい年配の、あの稲葉つね子教師であった。

 さらに稲葉教師は、「だいたい山下先生は、生徒に対する教師の立場が、どんなものか理解できていないところがあると思います。たとえば山下先生のスカートは、ヒザの上が見えます。ときどき太ももあたりまで見えます」。

 現実には、そんなことはなかった。ミニスカートをはいているわけではなかった。座ってヒザが少し見える程度、これがいけないなんて、余計な中傷としか思えない。

 稲葉先生は続けた。

「お化粧にしたって濃い色のときがあります。アイシャドウはいらないでしょう。口紅だっていらないくらいです。濃い口紅つけて教師なのか色気を売る商売をしているのか、大変、疑わしいことがあります。私も1度いわなければと思っていました」。

 校長は、いねむりしているように、じっと目をつぶっていた。教頭は、ひたすら姿勢よく無表情で、何かメモしながら、じっと聞いているというふうだった。

 例の、病弱でガンではないかと噂のある原山先生は、なにか、にがにがしい思いで細い身体(からだ)を、背筋をのばして正しく座って聞いていた。

 野原は、がっしりした体格で机の上に腕まくりした太い両腕を乗せ、どっしりと美也子をにらみつけるように座っていた。その様子は、誰か文句いえるヤツがいるか、いえるならいってみろというふうにも感じられた。威圧感があった。

 しばらく委員会は、司会の戸田先生と稲葉先生の声だけで進行していた。

 ときどき、若い先生が「ほー」とか「なるほど」と、ため息まじりにいうのだった。

 稲葉先生の発言の中に「指導上にも甘さがあると思います」といったとき、突然、野原先生が、

「問題どころじゃない、指導は、きわめて甘い」、

 と太いドスの聞いた声でいった。さらに、

「私が注意した中田という生徒は、昨年はガラスを割ったり弱い者イジメをしたり、司会の戸田先生もいわれた万引きもやる。それを、ほっぽっとくようでは、これは教師として問題がある。

 そういう生徒が、廊下を走っている。それも再三なんだ。それを注意することは、教師として当然のことだ。それが悪いとは何事だ。私への挑戦ではないか……」。

 野原の声には、力がある。響く。

 野原は、自分に都合のいいように解釈し発言していた。事実とは違っていた。単なる注意なら、どうということはないのだ、美也子が見た限り野原は、相当な力で1発、2発と中田新次君を撲ったのだ。5発は撲った。6発めだかのとき「やめて下さい」といったのだ。(なぐ)ったと書いた方がいいのかも知れない。

 ましてや小学校4年生である。まだ体ができているわけではない。

 だいたい美也子は、暴力には反対であった。人を殴ったり撲ったりすることが、いいわけがないと信じていた。それを教師がやっては、おしまいだと。

 “厳しさ”を簡単に考えているから、そういうことになるのだ。

 その父は、暴力反対であった。暴力を振るわなければならない時は、最後の最後、その子のために愛を込めて、泣きながら撲たなければならないものだと美也子にいったことがある。

 父には、仕事の関係上、各学校内に関する情報が入ってくる。

 いま、ひとしきり暴力が、おさまっているが、現時点では、高校、とくに都立高校の一部で殴る先生が多いとも聞く。もちろん私立にもいる。わざわざ、そういう先生を置くというか黙認しているわけだ。いずれ問題化するに違いないといったという。

 殴られて立ち上がれるものと、暴力的になって行く生徒がいるという。

 少し横道にそれた。

 野原先生の発言は、核心に触れた。

「どうです。しばらく山下先生に、この委員会に1週間に1度、報告書を提出してもらったら、どういう授業をやり、どういう指導をしてきたか、克明に報告していただく。そうした方が山下先生の将来にもいいし、生徒の側にとっても、有意義なことだと思いますから」。

 この提案は、山下美也子にとっては、屈辱(くつじょく)であった。

 あまりにも一方的であった。

 司会の戸田先生が

「ただいま野原先生から提案がありました、山下先生に、毎週、この委員会に報告書を出していただくということについて考えてみたいと思いますが、よろしいでございましょうか。賛成反対の意見を、どうぞ出して下さいませんか」。

 みんな静かになっていた。

 校長は、目をつぶったままで、その様子に変化はない。教頭も姿勢だけが正しく無表情でメモをとっていた。野原の意見には、みな反対できないのか。そんな雰囲気があった。

 稲葉先生が、

「山下先生は、まだお若いし、教師とは何かを考える上で、ぜひ、この期間に報告書を書いた方がいいと思います。そしてしばらくは毎週その報告書にもとづいて、委員会で検討し間違っている点は学んでいただく。私は野原先生の提案に賛成です」。

 稲葉教師のいい方は、どこかいやらしい攻撃的な感情が込められていた。また、しばらく静かになった。野原は司会の戸田に向って、

「決(けつ)をとったらいい」、

 といった。威圧感のある声であった。戸田先生は少し躊躇(ちゅうちょ)した。これで決をとってしまっていいのかという。

「多数決で決めろや、それが1番だ」、

 と、また野原がいった。それにうながされるように戸田先生は、

「それでは賛成の方は」、

 といったときだった。あの病弱のヤセ細った原山先生が、

「ちょっと待って下さい」、

 それこそ力のない細い声を、しぼるように出していった。聞き方によっては悲鳴のようにも受けとれた。司会者ではない野原先生が、いきなり、

「なんか、あんのかね、原山先生」、

 スゴミのある声であった。

 校長は、目を見張った。もう目をつぶっていなかった。教頭は、すでにメモをとっていなかった。なにかが起る、はじまるのだ。5年も6年もの長いあいだ続いた慣れ合いの野原ペースの委員会が、いま、このときから変わろうとしていた。

 野原が大きな身体をぐいと前に乗り出した。ワイシャツを、まくり上げ太い腕がさらにどかっと机の上に乱暴に置かれた。

「いうことあんなら、早くいえや。まさか反対意見じゃないだろうな」、

「いや、反対意見です」。

 原山は、かぼそい身体を震わせていった。

「なに、このヘナヘナが」、

 と野原の声が()えた。

 原山は

「そんなに一方的に決議してはならないでしょう」、

 といった。

 ヤセ細った肩を震わせ、横暴な野原に立ち向った。

 野原の眼は鋭く原山をとらえ恐ろしいほどの顔つきで、

「あんたは私に文句があんのか」、

 と太い声でどなった。

「そういういい方をしないで下さい。あなたは教師なんですから…」。

 原山は負けていなかった。

 職員会議にしても野原の意見に、こんなふうに対決してかかる先生は、この数年、見たことはなかった。

 3年ほど前、野原の態度を批判した教師が、その後、何かにつけ、いびられ退職していった事実が2、3ある。

 だからこそ校長以下、この原山の態度に目を見張った。どの先生もわれ関せず、さわらぬ神にたたりなしの態度であったわけだ。

 ひときわ驚いたのは美也子だった。あまりにも一方的な批判を浴び、反論する機会はまるでなかったし、自分もまた、こういう状況に追い込まれて、ただ恐ろしくてならなかったのだ。

 原山先生の、その勇気ある反論によって美也子は、自分自身にハッと気づくものがあった。この場の雰囲気にのまれてしまって何もいえなくなっていた自分が情けなかった。原山は、鋭い野原の視線を恐れなかった。

「委員会なら委員会らしくすべきです。それも生徒を教える教師の集まりらしく議論を尽くして進行するのならいいのですが、あまりに一方的に山下先生を制裁するような委員会は、これは私は許せません。こんなことでは委員会とはいえません」。

 原山は、ときどき野原先生のドスのきいた声を聞きながら、しかし必死に、この委員会は中止すべきだ、中止しないのなら山下先生にも意見を述べさせ、事情を聞くべきだといった。

 病身の原山のいっていることは、しかし、本当のことであった。誰もが心の中に、フト思いながら口に出して言えないでいることばかりであった。

 校長も教頭も、戸惑っていた。

 といって、やっぱり何もいえないでいた。何もいえないが、このまま進行するわけにも行かなかった。

 進行役の戸田先生はしばらくして、

「もう少し議論を尽くしますか。どういたしましょう」。

 そういったが、誰もが発言しないでいた。みんな、やっぱりいえないのだ。

 美也子は、考えていた。私がいうべきか。言わなければならないと思った。委員会は、静まりかえった。

 教頭は、またメモをとりはじめた。校長は、目をつぶったり天井を見たり、どこか気持のおさまらない様子だった。その表情には緊張感があった。

 誰かが何かを言わなければならない状態だった。

 原山先生が美也子をかばった。原山にしてみれば当然のことをいったまでかも知れない。けれども、原山は横暴な野原に支配された学校内において、なかば捨身で発言していた。

 美也子は“自分がいま何かをいわなければ”と思った。いまこそ勇気が必要なのだ。もし自分がいわなければ原山先生の言葉が死んでしまう。いまこそ私がいわなければと思った。

 美也子の顔は紅潮し、緊張していた。いつもの美しい髪の毛が乱れていた。

「私のことで、ご迷惑をおかけしているようで、申し訳ございません」

 丁重にいった。と、その瞬間、

「その通りだ、迷惑もいいところだ」、

 と野原のドスのきいた声が響いた。

 すかさず、

「そういう言い方はいけません」、

 と原山が、細い金属性の声を上げた。

「何いうか」。

「そういう言い方は、議論をさせないというふうに受けとれます。もう少し紳士的に発言すべきです。ここは学校内の生徒を教える方々の集まりの席ではありませんか」。

 原山はひるまなかった。

 原山の発言に野原は、なんとも、おさまらない様子だった。

 稲葉も同じだった。稲葉は、どこか意地悪い目つきで美也子をとらえていたが、

「原山先生は、山下先生をなぜ、そんなにかばうんです」、

 と意味のない、どちらかというと感情的な反論をした。

「これは、かばうこととは違う、議論を尽くすべきだといっているんです。このことがわからないんですか」。

 原山は、その細い身体の、どこに、そんなエネルギーを持っていたのか不思議なくらいであった。

 やりとりは次第に鋭くなり、また沈黙が続いたりした。

 ついに教頭が校長に耳うちし、何かささやき合ってから、

「今日は、この辺にして、明日、また委員会を継続することにしたらどうです」、

 と案を出した。

 そこで美也子が発言した。

「大変、恐縮ですが、私の方にも事情説明したいことがあります。私なりに今回の件について、明日の委員会にレポートを提出させていただきたいのですが、宜しいでしょうか」、

 ということで、その日の委員会は打ち切りとなった。校長も、一言もいわずじまいだった。それぞれ、どこか気まずい納得の行かない様子で席を立った。

 美也子は、その夜、原山先生に救われたことを、つくづく感謝した。あのままだったら、自分は何もいえずじまいで、結局、窮地に追い込まれただろうと思った。

 その夜の美也子は、その一部始終を父に話した。父の話は、

「お前は、なぜ反論しなかったのだ。そんなにまでいってくれた原山先生に対して、申し訳ないではないか。人間の価値というのはね、ここ一番というときに見えてくるものなんだ。原山先生というのは、かけがえのない先生だと思うね。そういう先生がいる限り、どんなに教育が混乱しようが、まだまだ大丈夫、期待が持てる。

 目先の損得ばかりを考える時代に、他人のことで、そんなになれる。そういう先生がねえ。お前は仕合わせだよ。若い時に、そういう先生を見ることができたんだから」。

 父はしきりに原山先生のことについて感じ入っていた。父にとってみれば、自分とそう年代の変わらない原山が、そういう形で情熱的に挑んだことが、さらに嬉しかったのかも知れない。

 父は、いった。

「お前も勇気を持ちなさい。原山先生が捨身だったというなら、お前もそうすべきだ。いうべきことをいいなさい。それでなければならない。世の中を少しでも明るくする本当のものに変えるものがあるとすれば、そういう勇気しかないだろう」。

 その夜、美也子は、夜、遅くまでレポートを書いた。

 美也子のクラスの中田新次君のことを、こと細かに書いた。美也子が担任になって、ずっと自分なりに調べた中田君のことを。話してみれば気の弱い、やさしい平凡な子が、なぜ万引きをし、イジメをし反抗的になったりするのか。なんの理由もないのに廊下を駆けたりするわけがないと、美也子には確信があった。

 美也子は、ぐんぐん書いた。中田君のためにも、いや、あの原山先生のためにも、書かねばならないと思った。美也子には、筆力があった。

 実を言うと中田君が、上級生の、不良グループにつきまとわれていた。それがわかったのは、去年の暮れ、例の5万円程度のラジカセを盗み、警察に補導されたときである。このことは、家で病のため床についている中田君の父親から直接、学校の美也子に電話で知らされた。

 中田君の父親は、しきりに「申し訳ない」といっていた。美也子は念のため警察に行って事情を聞いてみた。

 確かに中田君がラジカセを、1人でその電器店から持ち出したのだった。電器店の店員がその中田君をつかまえた。しかし、店の外に数人の子供たちが逃げて行くのを目撃し、もう1人の店員が、その逃げて行くうちの1人をも、つかまえた。

 5人でやったということだった。中田君は4年生で、あとは全部、上級生であった。

 上級生はほかの小学校の生徒が2人、美也子の小学校の5年と6年の生徒がそれぞれであった。そのうちの6年生の1人が、野原のクラスの生徒である。

 美也子のレポートは、思い切って書かれていた。翌日の委員会で、それが配られたのだ。コピーは20組ばかりとり、委員会で配ったのだ。

 会のはじまる前には、誰にも見せなかった。いきなり配るべきだと考えたのだ。事前に見せれば内容が内容だけに、また中傷が入ったりする。

 そんなことがあってはならない。美也子の人生にとって、ここは捨身でかからなければならないと心に決めていたからだ。

 本来なら校長、教頭、少なくとも、委員会の進行役をやっている戸田先生にだけは見せておくべきだったろう。昨日の委員会より、先生の人数が増え、13名ばかりになっていた。美也子は、会がはじまる少し前を狙って、1組ずつ先生方に配った。

 昨日の委員会での約束通り、美也子はレポートを書き提出したわけだ。しかし、この仕草を見て野原が黙っていなかった。

「何を配っているんだ。それは後にしろ」

 とスゴンだ声でいった。美也子は予測していたのか、それにはちょっと会釈して応じ、とうとう配ってしまった。

 すでに何人かの先生方が目を通していた。

 校長も教頭もレポートに吸い込まれていった。原山先生は、骨ばかりとなった手で、ていねいにレポートを見つめ、心もち微笑すら浮かべていた。それは、この日の美也子を(たた)えているかのようであった。野原の声で、一瞬、会は緊張したが、しばらく、どの先生もレポートを読んでいた。

 レポートの結論には、美也子自身には、何の非もなかったと思うと書かれていた。1人の自分のクラスの中田新次君のことを思って、野原先生に「それ以上撲たないで下さい」と頼んだのであり、決して、怒鳴ったのでもなければ命令したのでもない、事実は、お願いをした。ただそれだけのことですと、このことを明確に書いたレポートであった。

 しかも、中田新次君の家庭事情、中田君が非行グループにおどされ続けていた事実が書かれていた。

 昨年の暮れの大型電器店での5万円のラジカセの万引きをしたときも、事実は中田君がやったのではなく、不良グループの番長格にオドされ命令されてやったこと。

 イジメについても、いつも上からの命令でやらされていたということが、警察からのデーターも、まじえながら淡々と書かれていた。

 美也子は、担任として、この中田君を徹底的に研究していた。その研究ぶりは、順を追って克明なので余計に説得力があった。

 こういう事実は、中田君の口から直接聞くには、2ヶ月かかったとあった。

 あるとき急に中田君が、3日続けて学校を休んだ。

 早速、美也子は中田君の家に行き、いって聞かせると、つぎの日、学校に出て来たと思ったら、また休んだ。とうとう休む日が多くなった。

 登校拒否である。美也子は中田君が休んだ日は、必ず中田君の家に行った。

 迷惑にならないよう、ごく簡単に、病床の新次君のお父さんと話し、新次君には、「明日は来てね。先生はキミが来ないと淋しいの、待っているからね」そういって帰ってくる。

 この辺は重要なことだ。担任の教師には教師特有の押しつけや圧迫感があって、さらに学校嫌いを強める。それが生徒との人間的違和感となって断絶を深くするのだろう。

 大なり小なり、それは登校拒否だ、さあ大変だと構えてかかる先生も多く、ひどい先生となると、その生徒の自宅に行き強引に学校に連れてきてしまう。

 登校拒否ということになると、自分たちの平穏な職場環境をブチ壊す現象とでも思っているのか、無闇に、いきなり直線的、神経質に対し、いよいよ傷を深め極端な場合は学校恐怖症と呼んだ方がいい状況ともなる。野原にも、こういうケースが何度か出、その親とも摩擦を生じ、生徒の側が仕方なく転校していったこともあった。

 美也子は絶対に面倒がらず、ああだこうだと理屈をいうのではなく、まず新次君に会うことが第1目的、できるだけ早いうちから会って会話して帰ってくる。それも無理にではなく話ができればするという、ごく自然な調子でだ。相手は子供なのだから、さわやかにやるという。

 心が通じてしまえば大半の登校拒否は消えるものだ。それは美也子が美也子の父と話して得た方策であった。通うこと1週間、不思議に登校拒否は止った。新次君はそのときの美也子の質問、「学校に何かいやなことがあるんでしょうね」ということにやっと答えたのだ。

 それは非行グループとの摩擦があり、おどされているということだった。そこから逃げ出せないでいた。やっと話してくれたのだ。おどされているということは、大変な恐怖心を持っているものだ。先生にいいつけたからというので、その仕返しもある。その仕返しまでカバーしてやる気持ちがなければ先生として、このことを聞く資格はない。

 そのグループは、他の中学生や高校生のグループにもつながっているようであった。

 根は深いのだ。美也子のレポートは、そこまで克明に書かれていた。

 中田君は、そのグループの者に命令されれば、なんでもしなければならなかった。おどされ、恐れていたからだ。その中に野原先生のクラスの生徒がいて、中田君にとっては上級生だ。その生徒は、身体も大きく、実は、この学校での非行グループの中心的役割も果していた。

 レポートには、そのことも書かれていた。廊下を駆けたのには、何かの理由があったはずで、そのことの追求もしていた。美也子は昨夜、中田君の家に寄って、しっかりとその事情を聞いてきた。

 中田君は、いいたくなさそうだったのだが、美也子は「先生にだけは教えて下さい。頼むから。心配は要らないのよ。必ず、あなたを守るから」と聞き出していた。やっぱり、おどされて逃げ廊下を駆け抜けたのだった。誰におどされたか。野原のクラスの例の生徒だったのだ。

 クラスのある女生徒をなぐれといわれ、いやだといったら1発殴られ、それから逃げ出したというのだ。そこを野原先生にみつかって叱られ、また殴られたというわけだ。中田君にとっては災難であった。

 美也子のレポートには、何事にも、概して理由があるものだと記されていた。その理由を問うことが教師の使命であり、そうすることから大きな原因を見出すことができるように思うと書かれていた。

 この委員会が、このレポートによって、まったく違った戸惑いとなった。

 どの教師も読み終ってから、困った顔をしていた。レポートで見る限り美也子は、正面から野原に挑んでいた。何も恐れていなかった。それにもかかわらず、日頃、野原の威力に押さえられっぱなしの教師たちは、まだ沈黙するだけだった。

 野原がいった。

「キミあれか、俺の担任の生徒が、キミのクラスの生徒をイジメていた、そういうんだな。事実は調べてみんとわからないが、なぜ、いままで私にいわなかったんだ。早く相談するのが教師の使命だろうが。あんたはなんだ、こんなところで、いきなり、こんなふうに私をさらし者にするようにして、こんなことを書きやがって、どういうことじゃこれは、釈明してみろ」。

 ヤセた原山先生が、口をはさんだ。

「そんな乱暴ないい方はしてはいけないです。野原先生」、

 といった。必死にいい、顔が引きつっていた。

 「キミは病人だろ、教師としての激務を果せないあんたは黙ってろ」、

 と野原は居丈高(いたけだか)にいった。ガッチリした身体から太い声は部屋の隅々まで威圧するほどだった。

 キレイな髪の毛を震わせながら美也子は

「原山先生を病人だとか、余計なことはいうべきではありません。原山先生は生徒を思うリッパな先生なのですから」。

 野原は、

「お前たち2人はなんだ。2人で組んで何をいいたいのか。何を仕組んでいるのか。おいぼれとヘッポコ女で何事だ」。

 話は、野原が激怒し、他は黙っていた。応酬するのは美也子と原山だけであった。

 野原は

「とにかくだ、きさま、山下! キミは、生徒の前で俺に注意し、なおかつ、こんなふうに俺の生徒のことを、事前に一言も相談なしにレポートにして出したんだ。キミはだ、黙って両手をついて謝れ、いますぐ謝れ。許さん、お前みたいなのは礼儀を知ってない、筋が通ってない。謝れ。それともケンカを売っているのか」。

 野原の声は、さらに大きくなり、太い腕をむき出しにして机を手の平でたたいて怒鳴った。

 そのヤセ細っている身体は常に姿勢を正し、か細い声を全力で、ふりしぼるようにして原山先生は、

「謝れなんて、無茶をいってはいけません。議論も尽くさず力で押える。それも暴力的すぎるじゃありませんか。野原先生は、暴力的です。これではいけません。山下先生も決して謝ってはいけません。こんなデタラメに屈してはいけません。

 みなさん、もう少し生徒を思いやる教師らしく、勇気を持つべきではありませんか。野原先生は、本当に近ごろ乱暴になって来ています。こんなこと許していると大変なことになります」。

 原山は、何度か声をつまらせたが、全身全霊、身を捨ててしゃべっているふうであった。この間に野原は、その原山に向って何度もバ声を浴びせていた。

「私は謝りません」、

 と美也子はいった。強い口調ではなかったが、その知的な目を見開いて、その姿は毅然たるものであった。

 校長は黙っていたが、しかしその顔は紅潮していた。教頭は下を向いて盛んにメモをとっていたが、様子はただならぬものだった。

 稲葉先生は、それこそ意地悪い目つきで美也子を見つめ、

「謝れないなんて先輩に対して失礼でしょう。そんな態度なら、あなたは教師をやめるべきだわね。いまからでも辞表を書きなさい」。

 いかにもヒステルカルな響きがあった。それにしても、この会議は、議論めいたものがなかった。感情的に過ぎた。しばらく「謝れ」「謝りません」という状況が続いた。

 そして教頭が、何やら校長と耳うちしてから、どこか落着かない態度で立ち上がり「途中ですが、今日は、この辺で終わりにしましょう。それぞれ次回のために考えて来るようにしませんか」、といった。

 野原はその言葉を無視してか「謝れ」と美也子に迫った。いまにも野原は、美也子につかみかからんばかりであった。

 この学校では、かつて1度もこんなふうに、野原に立ち向かった教師はいなかった。心の内部に、少々、異議を感じても、うるさいから黙っていよう、面倒なことはしたくないという気持ちが充満していたのだ。

 野原は、席を立ち美也子の机の前に仁王立ちになって、

「いいか、お前みたいな礼儀知らずには教師の資格はない、教師をやめろ、やめるんだぞ、いいな、俺をナメるなよ」。

 太い腕を何度も振りかざして美也子の顔の寸前にゲンコツを突きつけた。から手できたえたゲンコツは美也子の身をちぢこませた。野原の腕が、ほんの少しだが美也子に触れたようだ。

「まあまあ、今回のところは」、

 といって教頭が割って入ってきた。そして「山下先生も一言、どうもすみませんといえばそれで済むことではありませんか」

 教頭は、ボソボソと、そういうふうにいった。いつも、この調子だ。この時、細い身体の原山先生が、ひょろひょろと歩み寄り、

「野原先生、あんたは許せない。あんたは教師ではない。これではオドシではないですか。山下先生、決して謝ってはいけません」

 原山は、金属的な高い声を全身から、しぼり出しているようであった。野原は、原山先生の肩を突いた。

「お前は出てくるな。お前は病人や、ひっ込んどれ。めめしいことをいうな。このクズ。お前はうるせえんだ」。

 しかし、原山は、ひるまなかった。

「野原先生こそ謝るべきです。あなたには、根底から教師の資格はないです」。

 野原は、原山の胸ぐらをつかんだ。そのか細い身体を、ぐいと右手だけでつるし上げ、ねじり上げるようにして、

「お前はな、もう廃人や、学校やめて入院しろや、痛々しくて見てられんぜ。このアホが、何を血迷ってるか」。

 原山は、胸倉をつかまれたまま、まるで抵抗できないでいた。その姿は魚の干物のようであった。

 しかし原山は、そうされながら、

「やめないか野原」、

 と、全霊を込めた声でいい、右手で野原のホホを打った。原山のどこに、そんな力があったのか。ものすごい形相であった。一瞬野原は原山に呑まれたのだ。それは原山の信念、全哲学を集中しての平手打ちであったか。

 野原は、手をゆるめ離した。原山は、床にくずれ倒れた。校長が前に出た。

「これ以上は、いけない。野原先生、もういけない。みなさん、これは醜態です。今日のことは、このまま事態を悪化させるのでなく、みなさんの胸のうちで、それぞれしっかり考えて、心を尽くして対処していただきたい。私たちは勇気がなさ過ぎるのかもしれません。この機会を無駄にはできません。きっと考えましょう。時間をかけ、対処して行かなければなりません」

 これまでに、こんなふうに校長が出て、真剣にしゃべったことはなかった。野原は、なんとしても許せんと興奮し、怒りを押えきれないという様子だった。そして、あの稲葉先生のほかは、どの先生も何かを感じたようであった。

 山下美也子にとって、今日の委員会は、いかにも割切れないものであった。

 1人のきわめて暴力的な教師によって支配されている学校そのものを、いやというほど見せつけられたのだ。美也子はそのことを家に帰ってから父に伝えた。父は、

「どうであれ、その原山先生には、ぜひ1度、会ってみたい。本当の勇気を持った人ではないだろうか。人はみな、出来れば後進のために道を切り拓く勇気を持たなければならないものだ。人の子を教える教師は、さらにそうでなければ」。

 父の口調は、いかにもゆったりとしたいい方だった。風呂にも入り食事を済ませ、小さいながら本箱に囲まれた応接間で、父は、いくぶん興奮気味に説明する美也子と違って、これは冷静というより、何か大きな世界からものを見ているようであった。

 すでに古くなった沢山の置き物や飾り棚が並んでいた。美也子の小さい時分から、それこそ見慣れた部屋であった。ここには父の歴史があった。

 自分の娘が、さんざん苦しんできたことを、こんなに冷静に聞ける父も、めずらしいのかも知れない。

「いい体験だったな。お前はまだまだ若い。そういうときにこういう状況に追い込まれたのは素晴らしいことだと思う。おまえなりに逃げるのではなく立ち向かったことがいい。その原山先生に助けられながらもね」。

 父は、のんびりとして、見方によっては、やけに気持よさそうにしゃべっていた。

 それは寒い冬をしきりに感じさせる2月の半ばであった。その小さい応接間には、暗い電灯が、あたたかくともっていた。美也子は、自分の心とは違っていかにもゆったりとして話す父を頼もしいと思った。あの委員会のとき、決して堂々としていたわけではないが、まがりなりにも、あの暴力的威圧に屈しなかったのも、この父のおかげではなかったかと思った。

 母がお茶を運んできて、「美也子、気持は、おさまった」、と声をかけたときだった。

 玄関に人が来た。美也子の学校の校長であった。その突然に、みな驚いた。

 その校長も、ここのところ、めっきり頭髪が白っぽくなった。

 この寒い夜に、美也子の家に校長が訪ねてきてくれたのだ。美也子どころか、父も母も驚いた。今日のことが心配になって来たとのことだった。疲れも見える、その校長は、やりきれない自分の気持を伝えるのだった。父と母が席を、はずそうとしたが、「どうかお父さんも、お母さんも一緒に聞いて下さい」、というのだった。

「私も、もう年なんでしょうか、この数年、何事についても、まあまあ無事であればと問題を外に出さず押さえ込んで来ました。しかしこれは、結局、野原先生をのさばらせる結果になったのだと思います。しらないうちに長いものに巻かれて来たわけです。山下先生には、本当に申し訳なかった。勇気のない私を許して下さい」、

 と校長はいった。来年は停年で学校をやめるとのことだった。美也子の父は、「そんなふうに謝らないで下さい。少なくとも今日、校長先生は、野原先生と原山先生のもみ合いを止めたそうじゃありませんか。勢いのある者に、そういうふうに立ち向かったことは大変なことです。私ならできないことかも知れません。恐怖心が先にたち…。私も、あと2年ほどで停年になります。そういう心のうちは、お互いではありませんか」。

 話は、校長の謝ることから、はじまった。そして、このごく小さな応接間で、2月の冬の夜を、なぜかしんみりと、けれどあたたかい会話が広がっていった。

 校長は「今後、どういう決着をつけるか迷っています」、といった。美也子の父は「決着は、もう付いているのではありませんか。ことさら。つけなくてもいい場合があると思います」、といった。

「あれだけの問題が提示されれば、それだけで充分です。もういいでしょう」

「といいますと」、

 と校長は問い返した。

「これは、どうしろ、こうしろという問題ではありません。野原先生にとっても、いずれ遅かれ早かれ気付かなければ、とても教師が務まって行くものではないと思います。ですから、少なくとも教師をやっている以上、この問題提起が何かを考えさせることになります。素晴らしい事件だったと思いますが。ですから、このままでいいのではありませんか。互いに少々バツの悪さはありますが、きっとお互いに目を開くことになるに違いありませんから」。

 美也子の父の話しぶりは、順を追って、ゆっくりとであった。校長は、

「実は、さっき原山先生の家にも行って謝ってきました。そして勇気に感謝しますといってきました。原山先生もお父さんと同じことをいっていました。

 原山先生は、病弱なのですが、徹底してというか、心から生徒の側に立って考えるというタイプの先生で、健康でありさえすれば必ず校長になっていたし、きっとならなければならなかった人だと思っています。

 あの原山先生という方はね、卒業した生徒から、いまでも手紙が何10通と来ている方なんです。非行性のあった子ほど、中学、高校へと行っても、まだ付き合っていてね。自分が担任だった子がね、中学生になって非行に走り補導されたとき、親は、まっ先に原山先生に電話してきて、親より先に警察に飛んで行っちゃったこともあります。

 もう6年も前のことですが、あるとき自分のクラスの子じゃないんですが、原山先生が気にしていた子が家出したんですよ。生活の厳しい家の子でね。6年生でした。

 原山先生は、それこそ必死で夜通し探しまくってね。とうとう朝方、学校から100米ほどはなれた林の中で見つけたんです。

 死のうとしていたらしいんです。首をつるナワが用意してあったそうです。原山先生は、その子をしっかり抱いてね『ああ、よかった、よかった』ってね。学校に連れてきてね。いつまでも、いつまでも抱いていてね。抱きしめていました。家族の者が心配して警察に届けましたから、警察の人が来ましてね。一応、警察に連れて行きたいといったんですが、原山先生が一生懸命に説明してね。その警察官が、また素晴らしい方で、『こんなに心配してくれる先生がいて、キミは幸せだなあ。頑張ってくれよ』って励ましてくれましてね」。

 この校長の話を、しかし、それぞれは心にしみて聞いて、美也子の母は、泣いてしまった。

「原山先生というのは、あれは、ただの先生じゃないんです。筋も筋、強靭な筋が通っているんですね。あの静かな中にね。あの先生は、教育を仕事だと思ってないんでしょう。使命感というか。確実に教師は聖職であるという考え方を持っていましてね。生徒たちは、なぜか、あの先生を信頼しているんです。ただの信頼じゃない」。

 その校長の話は、しばらく続いた。

 外には雪がチラついていた。その寒い夜を、校長は嬉しそうに、しかし背をまるめて帰っていった。

 あれから1、2ヶ月が過ぎた。野原のクラスでは何度か小さな暴力事件が起きていた。野原は、美也子や原山に意地悪い言葉を投げた。それが続いた。

 しかし美也子は、どうであれ、朝といわず昼といわず、野原と会ったときは、いつも丁寧な会釈をして通り過ぎた。それは父からの忠言であったが、父は、

「ああしたことがあったのだから余計に周囲に対しては礼だけは尽くしていなければならない。どうであれ、それが正しいだろうね。

 教師というものは生徒に“仲良くしろ”というんだ。しかし教師間というものは、これが、なかなか仲良しでないんだ。職員室は、牽制(けんせい)し合っているところというか。

 ああいうことがあると、さらに牽制し合ってしまう。しかし、生徒にそういうことを教える教師であれば、それに挑戦しなければならない。こういう機会にこそ、お前は若いのだから、なんとしても自分だけは心の広い教師になって、それは、いかにも難しいことだが、しかし挑まねばならない。いまそうしないと、どうしても、次第に頑(かたく)なな人間になってしまう。お前は、なんとしても少しでも心の広い、人生のことを幅広く理解できる教師になってほしいものだ。犬やネコじゃない人間の子供たちを教えるという、あまりに重大な仕事についたんだからね」。

 やがて、ほんの少しだが野原の態度が柔らいできた。

 しかし、あの1件以来、それぞれの教師は、何かをつかんだようだ。

 中田新次君は、少しずつ明るさを取り戻していった。しかし、あのとき受けた中田君のショックは大きい。ましてや子供である。そう簡単に消えるものではない。美也子は、その心の傷を(いや)すことに自分は心を尽くさねばならないと思った。

 少しずつ中田君は元気になって行く。非行グループとの断ち切りは、学校外に目を配ってやらねばならぬ。先生に告げ口したというので外での仕返しがある。これにも他の先生方の協力が出てきていた。

 そして2ヶ月が過ぎ、原山先生が入院した。それから3ヶ月ほどで他界した。胃の大半がガンにおかされていたそうだ。ガンの進行は早かった。美也子のために野原に対決していた頃、ガンは確実に進行していたのだった。

 美也子は、骨ばかりとなった細い手を強く握って「頑張って下さい」といったのは死の数日前だった。原山先生は美也子に「1人の生徒のために、あんなふうになれるあなたは、若いのに貴重な先生です」といった。美也子は泣けて仕方がなかった。

 葬儀は暑い夏の盛りであった。その焼香のとき、野原先生だけは、いつまでも手を合わせていた。1分から2分、美也子は、その頑丈な野原の横顔をチラリと見てしまった。大つぶの涙がこぼれていた。

 美也子は、素晴らしいものを目撃したと思ったとき、新しい感動があった。

 若き女教師は行く。そのしなやかな髪の毛が、夏の風に勢いよくなびく。

                                                    

                                                  (完)

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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水上 寛裕

ミナカミ ヒロヤス
みなかみひろやす 小説家 1935・7・11 東京目黒区に生まれる。本籍、世田谷区。現在、八王子市在住。日本大学法学部卒。大宅壮一東京マスコミ塾第三期生。青地晨読書会会員。神奈川ふだん記会員。 著書「ソルヴェイグの歌」、「銀色の海」、「少年と傘」、の三作は日本図書館協会選定図書。 その他に「おーい雲よ」、「心の花よ輝け」、「花よ心よ」墨書の詩集。

掲載された作品は、東京・中野区の地域の新聞「週刊とうきょう」に1986年『若き女教師は行く』と題して、16回連載したものである。のち著書である『海辺の宿』(1987年・AA出版)に『教員の死と夏の風』として収めた。 本小説は、1990年2月14日、日本テレビ放送の『体罰教室』の原作本である。本作品は第七回ATP賞 '90優秀賞受賞。 主な出演 賀来千香子、佐野史郎、渡辺えり子、谷啓。脚本-中島丈博。監督-澁谷正行。 ◎電子文芸館に掲載するにあたり、著者により一部加筆補足されている。

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