最初へ

相撲の日本的なるもの

土俵の風水

1 土俵上の設計

 土俵を調べていると、ふと、気にかかる事象に出くわした。それは、屋根から吊るされた四色の大房だった。この房に隠された意味を求めて、調査を進めていくうちに、日本文化の特徴が土俵場に現れていることに気づいた。

 相撲に土俵場を使うようになったのは、江戸初期頃だが、当初の土俵場は、四斗俵あるいは五斗俵の俵に土を詰めて、平地の上に一重の円形をつくったものであった。また、一部に四角の土俵場も使われ、岩手県に伝えられたが昭和初期ごろ途絶えている。

 実際に土俵場の広さなどが規定されるのは、江戸勧進相撲が大衆芸能として人気を博し始めるころであり、その組織制度が確立するのと同時期であった。土俵場は、直径十三尺(3.94m)の二重土俵とされ、相撲節会(スマイノセチエ)の故事に従い、正面から見て左を東、右を西としている。この土俵は、内側の円が十六俵、外側の円が二十俵で構成されていて、屋根は、「切り妻造」や「入り母屋造」であったが、常に四本の柱によって支えられていた。柱には、青・赤・白・黒色の布を巻き付けており、各々東(実際は、東北に建てられていた)・南(東南)・西(西南)・北(西北)を表している。

 昭和六年四月の天覧相撲に際し、直径が十五尺(4.545m)の一重土俵に改められ、円の外側は、一辺が三間(5.454m)の正方形を俵で構成するようになった。また、昭和二十七年秋に、柱が取り払われ、代わりに四色の大房を屋根の四隅から吊るすようになる。昭和二十九年に蔵前国技館が建てられ、屋根は神明造りとなった。それ以後両国に国技館が新設され、本拠地が移ったことは記憶に新しい。

 さて、土俵場の変遷において、当初から、大きく三点が変わっている。第一に土俵の広さの変更、第二に柱から大房への変更、第三に屋根の形状変更である。このうち土俵の広さの変更は相撲の取り口における機能的側面が大きいといえよう。また、屋根形状の変更として、「切り妻造」は、建築における源初的屋根形態を示し、神社建築本殿の多くは切り妻造から発展している。また、「入り母屋造」は、平安時代の住宅に多く使われていたと同時に、多分に仏教の影響を受けた形態である。これらが、昭和二十九年の国技館誕生とともに、「神明造」に変更されたのは、神事の伝統ならびに国技として、国家神を祭る伊勢神宮の「唯一神明造」に準拠したものであろう。

 

2 大房の四つの色

 さて、ここで問題となるのは、柱から大房に変更になっても、そのまま残り続けている四つの色である。これら房の色の意味は、それぞれ四季と神名を表すとされており、東の青色は春と青龍神、南の赤色は夏と朱雀神、西の白色は秋と白虎神、北の黒色は冬と玄武神を示すとされている。ここでいう青龍・朱雀・白虎・玄武とは、古代中国の考え方である「四神相応」を表し、地勢として、東に流れがあって青龍、南に沢畔(低湿地・池や湖)があって朱雀、西に大道があって白虎、北に丘陵があって玄武といい、四神にかなうことを称している。そこで、これは陰陽五行説と見なすことができよう。

 陰陽五行とは、古代中国における世界観の一つを表すものであり、宇宙の万物は陰と陽の二元から成立していて、その生成発展は気を循環させることにあり、五つの元素「木・火・土・金・水」の変転流行で説明されるとしている(1)。いわゆる自然哲学の一種であり、天文観測や暦法算定に使われていたが、日本に伝来され、中世以後、暦の吉凶・方位・運命と星等に関して使われている。

 つまり、相撲の土俵場には、陰陽五行が関与している。しかし、陰陽五行だけで相撲土俵を説明することができるであろうか。この疑問は、次の二つの理由に基づく。

 第一に、日本文化は重層構造である、という点である。例えば、日本社会において、神道と仏教はどちらも除外されずに併存しているし、キリスト教も併存している。さらに、神道といっても、神は八百万存在するわけであり、一つの神社が三つ、四つの祭神を祭っていることは、別段珍しいことではない。仏教も各宗派に分かれていて、これらが併存している。何も宗教に限らず、建築様式や都市の形態にしても、言語でさえも重層構造である。つまり、日本文化とは、外部から流入するほとんどすべてのものを受け入れ、日本独自にアレンジして、混在化し併存せしめてしまうといえるのだろう。したがって、土俵場の問題は、陰陽五行という概念だけで解決しないのではないかと考えられる。

 第二に、元来陰陽五行は、易経をバイブルとする時間哲学であり、後年に、方位に関する呪術的様相を持つようになるが、三次元空間におよそ無頓着である点を指摘したい。本来陰陽五行が、三次元空間を扱うベースを持っていなかったと考えられる(陰陽五行が元々天文学であることから、地上と天界を繋ぐ三次元空間を扱うことが可能との見解もあるが、これは抽象空間とみなされよう。ここでは、地理や地形としての具体的な三次元空間を対象にしている)。つまり、空間を扱う何らかの考え方や方法論と融合したのではないか、さらには、その考え方や方法論は、独自に存在しているのではないだろうか、といった点である。

 そして第三に、古代から中世にかけて日本に伝来したとすれば、それは、インドまたは中国大陸から朝鮮半島を経た経路、あるいは東シナ海を経た経路を考えることができる。

 

3 風水と土俵

 前記2の観点から、古代から中世にかけて日本に伝来した三次元空間を扱う東洋地理学は、風水と考えることができる。その理由は、次に示すとおりである。

 

(1)風水とは、山・水・方位をベースに良き地を判断する方法論であり、紀元三世紀頃の中国で、九星・八卦・陰陽五行などを集大成した地理学として成立したと見なされている(2)。良き地とは、墳墓・家宅から都城に至るまで、その誘致・形成に際して、物理的(具体的)に地勢が良いとされる場所を指している。つまり、風水の特徴は三次元空間を扱う点に存在する。

 

(2)風水において、生気の集まるところを良い地とし、生気の集中を妨害される、また殺気の発生するところを悪しき地としている。元来気とは、漢語であって、超物理的な意味を持ち、精気・神気のような精神的なもの、あるいは魂気というような霊的なものを示すが、四季の気に見られるような自然観の活力の意味としても使われる。つまり、風水とは、気の集中する場所を山・水・方位を手掛かりにして、地勢判断する方法論といえるだろう。風水にかなう場所を風水地といい、風水を使って風水地を探り出す人を風水師と呼ぶ。沖縄では、現在も風水思想が色濃く残っているが、沖縄を除く日本の他地域に風水が伝来したか否かを証明する古文書は発見されていない。

 

(3)しかし、日本における歴史的建築物を調査すると、風水が、日本の重層構造の文化ならびに三次元空間を扱う地勢判断という観点に基づき、陰陽道に見え隠れしながら活用されたとする見解が成立する。例えば、中国の洛陽・長安城をモデルとする平安京は、「四神相応の地」と考えられ、東に青龍として鴨川、南に朱雀として巨椋池、西に白虎として大和へ通じる大道、北に玄武として船岡山が存在していた(3)。この際に大切なことは、これら要素が三次元空間として把握されなければ、現実に平安京を建設できない点にある。つまり、平安京の遷都および築城に際し、主に陰陽五行が関与できうる範囲は時間および方位であって、総合的地勢判断は三次元空間を扱う風水を使用したとする見解が成り立つ。同様に、建築学の内藤昌は著書「江戸と江戸城」において、江戸城の建立に際し、平安京をモデルにした「四神相応の地」としての都市構成理念が存在したことを指摘している(4)。また、中国や沖縄において、風水が墓地を中心に、家屋等の形成にまで及んでいることを考慮に加えれば、日本の古文献に見られる陰陽道において、総合的地勢判断は、陰陽五行と風水が混在し併存していると見なすことが可能である。

 

 上記内容を前提に、土俵と風水の関係を検討することが可能となる。

 土俵場とは、荒ぶる魂の衝突の場所であるとともに、気の集中するスポットでなければならない。ここに、日本的な重層構造を見出すことができる。つまり、魂とは主に日本において育成された概念であり外部から招来する新たなパワーを示し、気とは中国において育成された概念であって地勢から生じる活力であるため、土俵は魂と気の重層性を生じる場として存在することになる。そこで、土俵は構成要素として、外部から招来する魂の依代が必要であるとともに、生気が生じる地勢が必要となる。そして、土俵は構成理念として、魂の依代としての神籬(ヒモロギ)ならびに生気の生じる地勢としての風水地を必要とする。

 私は、土俵の構成要素のうち、昭和期まで存在した屋根を支える四本の柱が神籬に相当すると見なす。柱を神籬と見なす理由は、伊勢神宮の「心之御柱」、出雲大社の「岩根御柱」、諏訪大社の「御柱」などのように、各柱がそれぞれ神の宿る神籬として形象化されているためである。例えば、伊勢神宮の心之御柱は、式年遷宮に際し、御杣山から切り出した原木を本殿床下の土中に掘り立てた柱である。この原木を切り出す祭りは、式年遷宮の初日行事である山口祭の夜に執行される木本(コノモト)祭である(5)。山口祭は、御杣山の山の口に座す神を祭ることにより、伊勢神宮の造営に使用する御用材の伐採と搬送の安全を祈願する。木本祭は、御用材のなかの心之御柱を伐採する際に、特に木の本(モト)に座す神を奉祭する祭りである。つまり、心之御柱は伊勢神宮の祭神である天照大神(天神=武力民の神)とは違う自然神(地祇=農耕民の神)が宿る原木である。つまり、神社の神籬となる柱は、自然神=荒魂(アラタマ)が宿ることになる。土俵場における荒ぶる魂のぶつかり合いは、神籬である柱によって担保されていた。

 次に風水地であるが、おそらく、土俵そのものが風水地の要素を折り込んだコンパクトにモデル化された「明堂モデル」ではないか、と考えられる。明堂モデルとは、九つの小さな正方形から構成される一つの大きな正方形を概念モデルとする考え方である(6)。中央に位置する小さな正方形は、八つの小さな正方形に取り囲まれていて、これらが八方位を意味していた。後に九星説へ発展する考え方だが、この明堂モデルが中国における大宇宙のあり方を表したとされる。九星説が風水に統合されるようになると、中央の小さな正方形は、皇帝が国を治めるために必要な祖先拝礼や国家儀礼を執行する場を表すように変化する。そして、この皇帝の場は生気のスポットとして計画された。さらに、明堂モデルは中国の都市形成や家宅建設に適用されるようになる。中国の洛陽・長安城は、皇帝が祖先拝礼や国家儀礼を執行する庭を中央に配し、その場所が生気のスポットとして位置づけられていた。この明堂モデルが日本に伝来し、日本的にアレンジされて、平安京などの築城に使われるとともに、時代を経て生気のスポットが必要な土俵場にも適用されるようになったと考えることができる。つまり、土俵場という明堂モデルが気の集中するスポットを担保する。

 そして、土俵場の屋根の下を覆う「水引き幕」は、北から張りまわして北におさめる習わしがある。これは、北を陰とする陰陽五行の考え方だが、同時に「水引き幕」そのものの意味は、水の恩恵を司る役割を持つことから、神事相撲における水の神を奉祭するいわれを今に残す。

 

4 まとめ

 以上から、土俵場は、神事相撲の始まりである水の神の奉祭を「水引き幕」に、魂の招来と宿る座としての神籬を「柱(大房)」に、そして生気の生じる地勢としての明堂モデルを「土俵」に対応させることによって、土俵場全休を構成していると考えることもできよう。そして、この仮説ともいうべき土俵場の考え方は、日本文化の実際の特徴である、異種の文化要素を混在化し併存する重層構造を、結果として、物理的に指し示すことになったといえるだろう。

(注)

(1)参考文献〔1〕4-25頁を参考。

(2)参考文献〔2〕24-31頁を参考。

(3)参考文献〔3〕91-92頁を参考。

(4)参考文献〔4〕121-124頁を参考。

(5)参考文献〔5〕159-164頁を参考。

(6)参考文献〔2〕31-36頁を参考。

〔参考文献〕

〔1〕加藤大岳(1969)『五行易精蘊』紀元書房.

〔2〕渡邊欣雄(1990)『風水思想と東アジア』人文書院.

〔3〕藤島亥治郎(1958)『日本の建築』至文堂.

〔4〕内藤昌(1966)『江戸と江戸城』鹿島出版会.

〔5〕所功(1993)『伊勢神宮』講談社.

相撲、その鎮魂の芸術─日本文化の国際化

 地球上でグローバル化が進展しているが、一方で国の固有性に眼が向けられている。それは、グローバル化に対するローカル化の重要度が増しているといえるだろう。このローカル化とは、国が持つオリジナリティと言い換えることが可能である。オリジナリティを形成するものは、その国の資源である。資源の多くは、その国の持つ文化である。つまり、グローバル化におけるリーダーシップを制するためには、自国の文化を位置づけ、そして国際化を行なっていくことが必要となる。そこで、日本における代表的な文化である相撲を題材にして、位置づけを行ない、国際化のための方法を論じる。

 

1 祭祀・芸能・芸術

 日本における相撲の始まりは、演劇に近い関係にあったと考えられている。ただし、演劇といっても、近代のそれとは内容を異にする。そこで、古代における相撲とは、一体何であったのか、といった素朴な疑問から出発し、相撲を生み出した根底に潜んでいる日本特有の文化に眼を向け、相撲の本質的な部分に光を当てることによって、芸能から芸術へ移行する相撲について考察する。

 

1-1 鎮魂の演劇

 弥生期から平安期までを古代とすれば、古代における相撲とは、神祭りに深く関係していたことから、神事相撲と呼ぶことができるだろう。この神事相撲は、大きく二つの流れを有している。その一つは、農耕民が農業生産のために水の神を祭る祭祀であり、また他の一つは、武力民が宮中の年中行事として執行する相撲節会(スマイノセチエ)である。恐らく、農耕民が行っていた祭祀を、後年、征服者の武力民が、自らの祭事に吸収し発展させたものと考えることができる。こうした見方は、他の祭事についても同様であり、稲の収穫期に行われていた新嘗祭(ニイナメサイ)は、宮中に入り大嘗祭(ダイジョウサイ)と融合することによって、新嘗祭から大嘗祭=天皇即位式へと変化している。

 そこで、神事相撲等の古代祭祀に見られる二重性を前提として、これら両者のファクターに注目すると、その根底には、大きな河の流れとも言うべき密着不可分な共通のフレームを見出すことができる。それは、魂の招来ともいえる鎮魂(タマフリ)である。古代人は、魂の存在を信じ、肉休は魂の器と考えていた。民俗学者の折口信夫の所説によれば、身体が弱ると魂が枯渇したと考え、外部から新たな魂を呼び寄せ、身体に付着させる祭りを行った。これが鎮魂の始まりと考えられるが、鎮魂を現代風に解釈すると、新たなパワーを身に付ける再生の祭りといえるだろう。農耕民は、稲の生産性が直接自らの生死に係わることから、稲の生育に関係する水を中心とした山・木・岩等の自然物を神として崇め、季節毎に神(=パワー)を田に招来することによって、豊作の占い・祈願・御礼に関する祭りを行った。これが今日の春祭り・秋祭り・冬祭りの原形だが、いわゆる鎮魂が稲の生産性と結びついた(l)。また、武力民において、その長ともいうべき天皇が、即位式の大嘗祭において、天皇霊(=国魂) を身に付ける。これもやはり鎮魂として位置づけられる(2)。さらに、神嘗祭(カンナメサイ)、神今食(ジンコンジキ)、相嘗祭(アイナメサイ)等その他の古代祭事のほとんど全てにわたり、根底には鎮魂思想が脈々と流れている。したがって、鎮魂を古代祭祀のキーワードと考え、さらにべースにして、祭祀から生じた芸能について考察することが、相撲を位置づける上で必要となろう。

 日本の芸能の始まりは、稲の生産性を左右する自然神を招来する祭りから発生した「田遊び」と考えられている。田遊びの所作は、翁(オキナ)と媼(オウナ)が雪をならし、稲に見立てた松葉を植えることから始まり、稲の刈り入れまでを演じることであった(3)。また、その意味は、人間自らの利を得るために田を耕作し稲を収穫することについて怒る土地の精霊に対して、外部から別のパワーの強い神を招来し、怒る土地の精霊を鎮め、豊作を担保させることにあった(4)。こうした所作に歌いや舞いがともなうようになり、後年、田舞い・神楽・田楽・猿楽へと発展するとともに、宮中へ入り東遊び・東歌・隼人舞い・久米舞い等に発展または融合するようになり、さらに観阿弥や世阿弥による能等の芸術へと昇華されていくのである。

 こうした鎮魂をベースに展開する芸能の一つとして、相撲(スマイ)が位置づけられる。相撲の初源は、田遊びと同じ意味を持つが、土地の精霊の怒りを鎮めるために外部から招来する神は、水に関係する神であった。後に水の神自体を祭るようになり、その所作は、大小二人の人間に力比べをさせて、大きい方を招来神、小さい方を土地の精霊と見立て、常に招来神が勝つ所作を行うことによって、土地の精霊を鎮め、豊作を約束させることに意味があった(5)。また、定まった所作を毎年反復して行うことから、演技者を俳優(ワザヲギ=ものまねをするひと)と呼ぶようになる。つまり、相撲の原形は、鎮魂を演じる演劇に近いものであったと見なすことができるだろう。後に、勝敗そのものに重点が置かれるようになり、演劇に近いものから力比べへと変化する。また、宮中に入った相撲は、年中行事の一つとして、毎年七月に執行される年占いのための相撲節会となっていく(6)。その執行方法は、全国から相撲人(スマイビト)を徴集し、宮中の庭で歌舞音曲を交え、左右に別れて力比べを行うものである。この際に左方の相撲人は、頭に葵の花を着け、右方は、瓢(ヒサゴ)の花を着けることが慣習であった(7)。特に、瓢の花は水の神を表し、葵の花は対立する他の神を表すことから、農耕民の鎮魂の形態を残しながら、勝敗による占いや娯楽性を帯びたものへ発展したと見なすことができる。

 以上の観点から、古代日本における相撲とは、鎮魂をベースにした万物再生の祭りにおける演劇に近いものとして生じ、勝敗による占いの意味合いを持つようになり、宮中における祭事にともなう歌いや舞いなどと融合する。そして、年中行事の欠くべからざる芸能として位置づけられ、後年、芸術へと発展し昇華する。

 

1-2 芸能と芸術

 さて、ここで芸能と芸術について触れておく必要があるだろう。

 日本において、芸術という言葉は、新しいものであり、明治期につくられた。それまでは、芸術に近い概念として芸能という言葉が一般的に使われていた。芸能の「能」は、元来「態」が簡略化されたと考えられるが、「態」は特殊な約束事を前提とした「ものまね」を意味する(8)。したがって、芸能の意味は、「約束事に基づくものまね芸」といえよう。そこで、芸能という概念をより明確にするために、芸能を祭祀から移行していく過程として考えてみよう。ギリシャの古代祭祀の研究者ハリソンは、踊りの反復された表現から一種の抽象が出き上がり、これが芸術への移行を助け、ドローメノン(なされたこと)からドラマ(劇)へ移行することを指摘した(9)。さらに、踊る場所と観客の場所の関係の変遷に際し、ドローメノンからドラマヘ移行する過程が映し出されるとしている。つまり、祭祀から芸術への移行とは、時代を経て反復される表現が客観化され、「単になされること」から「眼差しを意識して、演じること」へ移り変わる点にあるといえよう(10)。そこで、芸能の位置づけは、祭祀から芸能へ、そして芸能から芸術へ、といった発展過程にあると仮定することができる。それは、芸術が「眼差しを意識して、演じること」であれば、これは心的レベルから意識的レベルへ移行したことを示す。ところが、芸能は、まだ心的レベルに留まっている。したがって、芸能を定義するならば、「祭祀という儀式における所作が繰り返されることで客観化された型が生まれ、その型を行動伝承する芸」といえよう。

 次に、芸術について考えてみよう。芸術という言語は、古代ラテン語のアルスやギリシャ語のテクネから発生した。しかし、アルスやテクネは、その言葉内に「技術」という概念を含んでいる(11)。技術は、目的と手段を必要とし、かつ重視する概念である。しかし、本来芸術は、目的と手段に縛られない自由性を命脈とする(12)。そこで、本来の芸術と技術を分けた上で、芸術を考察することにしよう。芸術が上記の「眼差しを意識して、演じること」であるならば、芸術は意識的レベルに存在し、想像力の対象である。つまり、芸術を定義するならば、「目的と手段に拘束されない、想像的な感情の表現」ということができる。

 以上から、芸能と芸術の相関関係が明らかになった。すなわち芸能は、客観的な型を介し、集団でも同一の所作を行うことが可能である。そして、芸術は、芸能における客観的な型を前提として、個人の想像的な感情の表現から表出するものである。つまり、芸術は、個人に帰着し個別に存在するものである。

 

1-3 江戸勧進相撲

 相撲が芸能から芸術へ移り変わる様相を呈するのは、宮中に入り年中行事として執行されてからである。ただし、相撲そのものは、力比べによる偶然の勝敗に重点が置かれていたことから、「なされるもの」から「眼差しを意識して、演じること」への移行を考えるには、平安後期から武家階級に移った武家相撲を経て、江戸期の勧進相撲の登場を待たねばならない。

 勧進相撲は、歌舞伎とともに、江戸期を代表する大衆芸能であった。勧進相撲が、神事相撲や武家相撲と一線を画するようになるエポックメーキング的な出来事は、土俵の発生にある。それは、土俵という場所的な制約が、相撲における単なる力比べを、技(ワザ)への展開・練磨へと誘い、さらに、舞台ともいうべき土俵と観客席の関係において、観るものと観られるものの視座を明確化することによって、相互の掛け合いによる劇性を高度化していく点にある。そして、こうした規定とともに相撲制度が確立し、相撲興行組合(相撲会所)が設立されることによって、江戸を中心とする相撲全体の社会的位置づけが明確化され、今日の相撲に継承されることになる。特にここで指摘しておきたいことは、一定の規定に基づく、技(ワザ=単なる技術ではない、肉体的言語化された型といえよう)の練磨と継承、人気力士の登場と彼らによる相撲表現、そして、掛け合いによる劇性の高度化である。つまり、これらが、鎮魂をベースとする日本文化を背景にしながら、歌舞伎や能とともに芸術へ昇華する大きな要因になったといえよう。

 江戸期には、芸術の担い手である強い力士を各国の大名はこぞって、召し抱えるようになっていく。こうした風習は、江戸末期まで続くのであるが、特に、抱え力士は相撲衆と呼ばれ、高禄とともに士分の待遇が与えられるといった、いわば、特権階級として位置づけられる(13)。なかでも細川藩の不知火、立花藩の雲竜、蜂須賀藩の陣幕、仙台藩の谷風、有馬藩の小野川などが相撲衆の代表的存在である。

 相撲会所は、年二回の興業に際し、相撲衆を抱える各大名に対して力士の出場を願い出て、これを各藩内で許可することにより、初めて出場することができた。さらに、大名行列の際に、有名力士を従えることによって、各藩はその威勢を誇るとともに、藩としての特徴を力士を通して表現しようとした。藩の運営に芸術の担い手である力士を位置づける仕組みが成立した。その背景には、江戸を中心とする徳川政権に対する各藩のアピールであったが、本質的には一般庶民が作り出した江戸文化における芸能が、武家社会を圧倒するパワーを持ち、さらに年代を追うごとにその力を増すことから、武家社会が勧進相撲を無視できなくなり、自分たちの社会にも活用するようになった。つまり、このような藩運営に組み込まれた相撲は、いわば、徳川幕府という中央集権の管理の下に、独立採算を強いられた地方経済を担う各藩が作り出したCI(コーポレート・アイデンティティ)と見なすことができる。また、それは、各藩の財政を支える一般の藩民に圧倒的支持を受ける芸能であったがために、CIとして位置づけるに足る大きな価値が存在した。そして、各藩が力士を通して相撲を支援することによって、藩の地域経済を担う武家と庶民の運命共同体ともいうべき大規模組織体が、支援する仕組みを作り出した。この仕組みは、幕末まで続いていく。明治維新後は、幕藩体制の崩壊から上層力士が扶持から離れるとともに、急速な西欧化を進めたことから、一時期相撲は危機を迎える。しかし、相撲会所の革新によって、東京大角力協会として生まれ変わり、繁栄を取り戻す。そして、その後何度となく危機に遭遇するが、その度に名力士の輩出や協会の革新によって波を乗り切るとともに、時代に即応した相撲の取り口や新たな協会の管理・運営を実現することによって、社会変化に対応してきた。

 

2 日本文化の国際化

 明治維新後の日本は、西欧合理主義を手本にした。技術は管理社会に組み込まれ、科学の進歩と歩調を合わせて工業化社会を形成する原動力となった。これに対し、芸術は個人に帰着し、いわば、そのままの状態で今日を迎えている。しかし、同じ芸術の範疇にある相撲は、社会システムの一部として存在し続けている。前述のように、江戸期に相撲が藩の運営体制の一部として組み込まれたが、現在この体制は、日本国の文化を守りかつ発展するために、形を変えて官と民に受け継がれている。このような考え方が継続する大きな理由は、次に示すとおりである。

 相撲運営は、明治維新直後の改革に始まり、関東大震災による負債を東京と大阪の相撲協会の合併および天皇杯の設立で凌ぎ、日中戦争から世界大戦にかけた危機的状況に興業日数を増やすとともに不世出の横綱双葉山の出現によって、一大エポックを築く。第二次世界大戦後の混乱期には、相撲の劇性を高めるために土俵の周りの四本柱を取り除き、そして蔵前国技館を完成する。現在、舞台を両国に移し、大相撲として、「まった」や無気力相撲に対する措置を講じた。このように、相撲運営は、各時代の課題点に対応し、庶民の合意を得ながら活きた文化として実践し前進してきた。

 しかし、現在、大相撲は大きな課題に直面している。それは、相撲文化の国際化である。この課題点を明確化し、対応策を検討しなければならない。そこで、その内容を次に示す。

〈課題点〉

① 情報化社会の進展に加え、海外において相撲の公演や紹介が進むなか、相撲界では入門する外国人力士が増加している。そこで、世界における相撲の位置づけを検討する必要性を生じている。

② 外国人力士は、入門後に速い段階で関取へ昇進するケースが多いため、相撲界は彼等の教育指導のあり方を検討する必要がある。

〈対応策〉

 各国における相撲巡業が進み、各国の関心が高まるなか、日本文化としての相撲は、国際化に直面している。国際化とは、自国の固有な仕組みやルールを尊重し、国際的に人的・文化的・経済的な分野の交流を拡大し、国際的に開放や相互浸透を行なうことである。したがって、自国を基本に置き、相撲文化の国際化を図ることになる。つまり、日本文化としての相撲を明確化し、国際的に相撲を通じた交流を推進する。その際に、外国人力士の教育指導は、彼等が所属する各部屋の親方が行なわなければならない。そこで、相撲界ならびに部屋の親方は次の対応を行なう。

(a)外国人力士に対し、相撲を通じた日本文化の教育指導は、力士の所属する相撲部屋を中心に行なう必要がある。それは、力士が日常的に生活する場所が所属する相撲部屋であるため、相撲部屋における日常的な相撲修練を通じた教育指導こそが生きた文化の国際化を図ることになるからである。そこで、各相撲部屋は、私塾としての機能を強めなければならない。そのためには、まず相撲部屋を運営する各親方が自身の相撲道を思想にまで高める努力をする必要がある。次に、親方は自己の思想の下に相撲を通じて外国人力士に人生教育を施すことによって、彼等を一人前の力士へ育てる。このような教育システムは、江戸末期に成立した漢学塾や洋学塾の塾主の教育理念に基づく運営と類似する(14)。ちなみに、門下生達は、塾主の学徳を慕って全国から集まるのであり、時代を動かす要人達を多く輩出した。

(b)上記(a)を実現するには、部屋ごとに親方は外部ブレーン組織を形成することが重要である。その組織は、従来の後援会形式ではなく、まず、親方が学び研究するための組織として形成する。次に、親方が外国人力士を教育指導するに際し支援する組織でありたい。そこで、この組織は、日本文化、哲学、経営学などを専門とする有識者をメンバーに構成する。この組織は、月に2回くらいの頻度で研究会を開催する。研究会のテーマは、まず、親方の相撲道の哲学的および文化的考察である。次に、親方の相撲道を思想にまで高める研究を行なう。そして、研究会の結果を前提にして、親方は外国人力士に対して日常的に相撲の稽古をつけることにより、相撲道をベースにした日本文化の国際化を行なう。

(c)上記(b)を実現するには、相撲協会が各相撲部屋をバックアップする体制をとることが重要である。相撲協会は、各親方がそれぞれの相撲道を思想にまで高める研究会の構成、運営、費用などの面を総合的に支援する。つまり

、相撲協会は、相撲部屋がそれぞれ自律した考え方や行動を活かした国際化への取組みを進展できるように、柔軟な体制に基づき支援を行なう。

3 ま と め

 明治期以降、社会システムに組み込まれた技術は、大量生産ならびに利便性をもたらし、工業化社会を形成した。そして、工業化社会は効率性を基準とした。そのため、基準にそぐわないものは、無視され排除された。例えば、高度成長期を基点に推進された初等および中等教育は、最大多数の子供達を偏差値という平均的数値で判断し、効率的に一定水準の知識を詰め込むことに成功をおさめた。しかし、偏差値教育では育成できない個人の個性、感性、創造性、思いやりといったものを追いやってしまった。効率性に追いやられた多くのことがらは、人間が人間として存在するための本質的な部分と深く関係する大切なものであるとともに、オリジナリティに溢れ活力ある社会を形成するために必要な個人の持つ能力であった。

 現在から将来にかけて、日本は経済大国としての位置づけだけでなく、独創性に満ちた国として、国際社会でリーダーシップを発揮する使命を帯びている。このような課題に対して、技術=効率性とは違う次元に位置する芸術を社会システムに組み入れることが対応策となる。本項では、芸能として発生した相撲を題材にして、相撲が社会ニーズに対応しつつ芸能から芸術へ移行するあり方を論じた。そして、相撲を通じた日本文化の国際化が、国際社会において日本のリーダーシップを作り出す有効な方法論であることから、その課題と対応策を論じた。

(注)

(1)参考文献〔1〕435-440頁を参考。

(2)参考文献〔2〕193頁、401頁を参考。

(3)参考文献〔2〕378-389頁を参考。

(4)参考文献〔3〕455-457頁を参考。

(5)参考文献〔3〕30-36頁を参考。

(6)参考文献〔4〕370-374頁を参考。

(7)参考文献〔2〕300頁、〔5〕324-327頁を参考。

(8)参考文献〔2〕321-324頁、〔3〕34頁を参考。

(9)参考文献〔6〕101-109頁を参考。

(10)参考文献〔7〕357-361頁を参考。

(11)参考文献〔8〕263-265頁を参考。

(12)参考文献〔9〕16-37頁を参考。

(13)参考文献〔10〕218-225頁を参考。

(14)幕末に多くの人材を輩出した松下村塾および適塾が代表的な私塾である。

〔参考文献〕

〔1〕折口信夫(1975)『折口信夫全集第2巻古代研究(民族学篇1)』岩波書店.

〔2〕折口信夫(1975)『折口信夫全集第3巻古代研究(民族学篇2)』岩波書店.

〔3〕折口信夫(1975)『折口信夫全集第17巻芸能史篇1』岩波書店.

〔4〕折口信夫(1975)『折口信夫全集第18巻芸能史篇2』岩波書店.

〔5〕石村貞吉著/嵐義人校訂(1987)『有職故実 上巻』講談社.

〔6〕J・E・ハリソン著/佐々木理訳(1964)『古代芸術と祭式』筑摩書房

〔7〕山崎正和(1988)『演技する精神』中央公論社.

〔8〕山崎正和編集(1979)『近代の芸術論』(コリングウッド著「芸術の原理」)中央公論社.

〔9〕ルイス・マンフォード著/生田勉訳(1954)『芸術と技術』岩波書店.

〔10〕新田一郎(1994)『相撲の歴史』山川出版社.

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2018/05/17

背景色の色

フォントの変更

  • 目に優しいモード
  • 標準モード

山本 壽夫

ヤマモト ヒサオ
やまもと ひさお 芸能都市の研究者。博士(学術)。1953年生まれ。主要著書は『独創都市の形成とマネジメント』(2007)。主要論文は「安土桃山時代に確立した日本芸術の特質およびホスピタリティ~能楽および茶道における日本文化の混在併存~」(2014)。

掲載作は、『独創都市の形成とマネジメント』(2007年、東京リーガルマインド刊。なお、初掲載の『大相撲アイデアセンター』、1992年、ビジネス社刊を改訂。)よりの抄録で、著者の希望により章を入れ替え、総タイトルを付与した。