―其角の思い出
〈まえがき〉
俳聖松尾芭蕉(以下芭蕉)の高弟であり、『夕すずみよくぞ男に生れけり』の句の作者として有名な宝井其角(以下其角)。奇角と名乗った方がふさわしいしいほど、その奇才によって和漢の書や能・狂言・謡曲・俗謡を駆使した。駆使したのは芭蕉も同じだが、其角には遥かに及ばない。そして悠久の自然よりも、都会の移ろいやすい人事の句を好んだ。畢竟芭蕉がウェットな句が多いのに対して、其角はドライな句が多い。また、其角は人事の句の中でも、当時の社会事象を詠んだ時事俳句が多い。そして、現代人には謎解きを必要とする難解な句が多いとされる。何故であろうか。それは典拠を巧妙に隠したためというより、俳句はたったの十七文字。字数がそもそも少ない。しかも当時誰でもぴんと来たものが、現代では通用しなくなっているからだ。自然しか詠まないという主義の人はともかく、現代の俳人にとっても他人事ではない。現代俳句と言われるものも、恐らく百年二百年先には、同じ難解という形容詞を賜る運命にある。それどころか、自然が破壊され無味乾燥の人工世界が果てしなく広がる現代。環境変化の激しさ故に、その難解が進むスピードは其角の時代の比ではない。説明を極力省き十七文字に美を凝縮するという特殊な文芸、俳句の宿命といえる。その宿命に深刻なまでに逢着したのが、この其角だった。其角が最初に負ったその宿命。世捨て人として世を捨て、『俳諧など生涯の道の草』と述べた芭蕉はともかく、いかに豪放磊落な其角といえども、これには当惑しているに違いない。解かり易さに徹し、この宿命をうまく擦り抜けた芭蕉の方が、一枚上手だったのだろうか。それとも旅で自然を相手にした芭蕉に、つきがあったのだろうか。これからたどる芭蕉との楽しい思い出が、この其角の当惑を少しでも和らげてくれることを願ってやまない。
〈兄ィと角〉
芭蕉の神格化は、寛政五(一七九三)年の芭蕉百回忌からといわれている。『桃青霊神』とか、『桃青大明神』と呼ばれた。当時の俳人が滑稽のスパイスをきかせて付けた名前なら面白いが、どうもそうではないらしい。真面目なようだ。明治以降も、特に旧派の俳人は、芭蕉を神として尊崇した。芭蕉が俳聖に祭り上げられた今、もし生きていたら、さすがの其角も、芭蕉のことを『兄ィ』と呼ぶのは、おこがましいと思うかもしれない。しかし、むしろこの呼び方こそふさわしい。実際自分の句の推敲に当たって、気さくに門人に意見を求めることも多かった芭蕉である。奢る気持は、さらさらなかった。そして、芭蕉にとって其角は、『糟糠の妻』ではないが、世に出る前から苦楽をともにした門人。『角』と呼び捨てにし、何の気兼ねもなく本音で語り合える、ただ一人の門人だった。古い門人は杉風はじめ他もいたが、スポンサーでもあり、なかなかすべてを晒すわけにはいかなかったからだ。
門人の中には、芭蕉と交わした問答を、俳論集として板本にするものも多かった。去来の『旅寝論』『去来抄』や、許六の『俳諧問答』、土芳の『三冊子』が有名。もちろん其角も芭蕉から、俳論めいたものを数限りなく直に聞いた。しかし、板本は思い出話にとどめた。几帳面さに欠けていたから? いやそうではない。そういう門人を縛る、ルールブック的なものを嫌ったからだと思われる。そしてなにより、記録すべきではないと思うほど生臭い、本音の話が多過ぎたからであろう。其角が素の芭蕉が出て好きな句がある。
いざ行む雪見にころぶ所まで 芭蕉
さあ雪を見に駈けて行こう。ひっくりかえるまで。雪に子供のように弾む師の純な心。
米買に雪の袋や投頭巾 芭蕉
米を買いに出た。雪が降っているので、行きは投頭巾の代わりに、米入れの袋を頭にかぶるとしよう。師はおどけるのが好きだった。
其角は芭蕉の最も早い弟子の一人。芭蕉が畏敬し、蕪村も尊敬した其角。スケールが大きいゆえに、正体がつかめぬ怪物と言われる。当時の江戸の人々が芭蕉以上に愛した通り、実は愛らしい怪物である。イエスマンではさらさらないが、芭蕉の存命中は一貫してそばを離れることがなかった。離れることができなかったというのが正確だろう。それだけ関係が密だった。蕉門十哲。蕉門四天王。芭蕉ばかりか門人も、何やらありがたい名を賜っている。其角は寛文元(一六六一)年江戸の生まれ。芭蕉より十七歳も若い。年の差は親子ほどだが、俳歴は、さほどでもない。父親のルーツは滋賀県だから、江戸っ子だが、ちゃきちゃきではない。其角の名は、師の大巓和尚が与えたもの。中国の古典『易経』の『晋其角』からきている。其の角に容赦なく進むという意味。戒めのために付けたが、実際はその号の通り猛進した。自分の俳道に徹した一生だった。わずか二十歳で、蕉門の旗揚げと言える『桃青門弟独吟二十歌仙』に名を連ねている。其角を幇間(太鼓)俳人と蔑んだり、吉原出入りの遊び人と揶揄する輩が多かった。師が俳聖で、第一の高弟が男芸者。世評ほど好い加減なものはない。其角はそんな安っぽい人ではなかった。次の一句を見ればわかる。
武帝には留守とこたえよ秋の風 其角
前書に『背面達磨を画て』とある。後ろ向きの達磨の画を書いての賛。達磨は天竺の僧。梁の武帝に見え問答した。武帝が仏法の根本は何かと問いただすと、『廓然無聖して、江を渡って魏の少林寺に入ったという。画はその後姿であろう。廓然とは、執着のない無心の境。無聖とは、聖なるものは何もないということ。この故事を踏まえた句。秋の風が、毅然とした達磨の頬に爽やかである。滑稽味がありながらも、高い格調を失わない好句。自由奔放はとかく下品になりがちだが、ここに悪臭はみじんもない。
其角が、座を取り持つ才気に溢れていたのは事実だ。だが、これは芭蕉も同じである。大名の方から進んで俳諧師と行き来した時代だった。備中松山藩主六万五千石の大名安藤対馬守信友は、俳号を冠里といい其角の門人。後段でうさぎにまつわる話に登場する。其角はそういう大名・旗本などの大身の士族や、幕府出入りの札差・商人などの有力者・金持ちもいるが、妓楼主や遊女にも弟子が多く、乞食とも分け隔てなく付き合った。有力者が嫌おうと、同じ撰集に自分の下僕を並べて入れている。なかなかできないことだ。
また、長ろうそくの光。三味線の音。伽羅の灯油の匂い。いずれもめっぽう好きだった。しかし吉原通いといっても、遊郭は歌舞伎・相撲と並んで江戸の三大娯楽の一つ。今でこそいやらしいイメージだが、吉原は社交クラブと芸能界とが一緒になったような所。遊女はスターだった。其角の存命中に『吉原細見』がベストセラーになった。遊女名鑑である。遊女の特技・趣味・容貌を載せたもの。参勤交代の武家も今でいう単身赴任。遊里が繁盛したのは、江戸が男・六に対し女・四という人口構成の男性社会だったからだ。そして、連句の付けの鮮やかさをみても、むしろ芭蕉こそ恋句の名人だった。其角は意外にそうでもない。其角の方が遊び人と見えて生真面目。社会派の硬骨漢の一面がある。これは強調しておかねばならない。色んなやゆは、其角という人間の度量の大きさと取った方がよさそうだ。
芭蕉も其角も和漢の古典にいそしみ、無類の勉強好き。お互い切磋琢磨した学友だ。さらに二人とも画や書も嗜んだが、其角の方が上だったようだ。そして芭蕉は仏頂和尚、其角は大巓和尚に禅を学んだ、またともに西行の大ファン。其角は撰集名に、西行の『山家集』を慕って『新山家』と名付けたほど。飼い犬が飼い主に似るくらいだから、若い時から行動を共にする二人が似ても何ら不思議はないのだが、いろんな意味で其角が芭蕉の分身と言われるゆえんである。
芭蕉と其角がよく似ていたという点で特筆すべきことがある。それは執着ともいうべき、乞食への関心の強さだ。
まず其角のエピソード。やはり其角は薄っぺらではない。
三蔵という汚い乞食が、ぼろのつぎはぎの袋から、自作の俳諧歌仙一巻を取り出した。其角に批点(評点のこと)を請うたのだ。其角はその一巻を読んで、彼の人格の高潔さに打たれた。この人こそ真の友という思い。その一巻の奥書に句を書いて与え、それから交際を深めた。其角は親思いで、『夢にくる母をかえすか郭公』の句があるが、其角三十歳の時、亡母追善のため出版した句日記が『花摘』。この中に、この乞食から送られた追善句を載せている。弱者を差別しないという倫理観・社会観からだろうか。いや違う。もっと熱いものだ。その乞食の高潔な人格への敬意のもと、互いに心を豊かにし合えるという確信。それに満ちた友情からだった。乞食に身をやつした高僧の逸話を踏まえて詠んだ芭蕉の句『こもを着て誰人います花の春』の通りの三蔵との出会い。その喜びを追善句の後に記している。乞食という言葉は、今日差別用語になっている。しかし、芭蕉や其角は頭陀行(衣食住の貪欲を払いのける修行)・無所住(何事にも執着しない無念無心で物事に対すること)の乞食を蔑視するどころではない。その生き方は人間が本来あるべき究極の姿、一切の煩悩を捨てた人として、一種の尊敬のまなざしをもって見ていた。
其角の撰集である『虚栗』に、発句『乞食哉天地を着たる夏衣』がある。乞食の五態を描いた其角筆の乞食の画巻にも、賛としてこの句を入れている。裸の乞食を『天地を着たる』と表現した。実はこの乞食の姿にだぶらせて、ぼろを着た芭蕉をからかったらしい。芭蕉は、めったなことでは其角に怒ったりしない。それをよく知っている其角。言いたいことはずけずけ言い、また詠んだ。そんな仲だった。
同じ其角の撰集『虚栗』の『詩あきんど』歌仙の中の掛け合いにも乞食が出てくる。
沓は花貧重し笠はさん俵 芭蕉
芭蕉あるじの蝶丁見よ 其角
腐れたる俳諧犬もくらわずや 芭蕉
鰥々として寝ぬ夜ねぬ月 其角
まず芭蕉の句。米俵の丸いふたを笠がわりに頭に乗せている、物乞いの乞食。その乞食が裸足で落花の上を歩いているさまを詠んだ。次はこれへの其角の付句。荘子が夢の中で胡蝶になって楽しみ、自分と蝶の区別を忘れたという故事『胡蝶の夢』。これを踏まえ、その胡蝶になった荘子を芭蕉がたたき落とすと応じた。荘子は談林のバイブル。それを打ち負かす芭蕉の意気込みを詠んだもの。次も芭蕉の、陳腐な談林俳諧からの決別の句だ。犬も食わないという、後年の芭蕉からは想像できない、露骨かつ辛辣な言い回しに驚く。やはり俳諧革新の思いの強さは尋常ではない。それを受けての其角。陳腐な俳諧に囚われて、悶々と寝付けないさまを付けた。血気盛んな二人の掛け合いは気持ちが良い。
最後に乞食にまつわる芭蕉の話。伊賀蕉門を代表する土芳の『三冊子』によれば、芭蕉が門人との旅行で大坂に入るというとき。折からの雨にわざわざ駕籠から降り菰(荒く織ったむしろの雨具)をまとった。その理由を門人が尋ねると。「このような大都会に入ると、とかく乞食行脚の身を忘れ、風雅の道を外れ、俳諧もできなくなる」と答えたという。自分も乞食という自覚があった芭蕉らしい。あるべき姿を問い続けた、自分に厳しい人だった。また他の門人との和解を遺言したほど、芭蕉は乞食僧の門人路通の詩才を愛した。最下層の人々も分け隔てしない其角だけは理解を示したが、他の門人は素行の良くない路通の破門を主張していたのだ。路通をかばう芭蕉を門人がいさめたが、全く耳を貸そうとしない。これがのち蕉門分裂の原因の一つとなった。
江戸の人々は徳川の天下泰平に飽き飽きしていたのか、奇人・変人譚を好んだ。次の三話もその類い。其角という人物がよくわかる。
一つは、其角の著作『類柑子』に載る『白兎公』の一文。其角の門人で大名(のち老中)の安藤冠里公に侍していた時のこと。屋敷で侯の愛玩する白兎を籠から出し部屋に入れた。その途端兎は驚いて飛び回り、文台に上がって硯の中に足を突っ込み、辺りが墨だらけに。侯は立腹の様子。近習の面々は叱責におびえている。これを見てとった其角。間髪を入れず言った。「硯にあふれ墨に染むこと、かのもののさが、天然筆に生まれつきたる」と。兎を『生まれつきの筆』と言ったのだ。侯も笑ってしまった。門人とはいえ社会的地位は月とすっぽん。だがこれほど気安く言える間柄だった。このきらめく高尚な才智。芭蕉はこの才智を愛してやまなかった。
二つ目は『続俳家奇人伝』に載る話。其角が自分をののしり笑うと伝え聞いた、浪人の兵。偶然その其角と両国橋で出会った。浪人が理由を述べ「尋常に勝負せよ」。刀の柄に手を掛けた。それに対し其角。「立腹は至極当然」。相手になるので支度をしてくるから待ってくれ」と言って、裾を引き上げ、雪駄を腰に挟んで走り出した。浪人はこれを見て興ざめ追うのをやめたという。其角は町人である。相手は浪人だがれっきとした武士。土下座して謝ると思ったが。どっこい。軽くいなされた。其角の振る舞いは根っからの俳人。その粋で江戸の人々に愛された。
其角は書を、元禄の有名な書家佐々木玄龍に学んだ。その弟でやはり書家の文山と遊郭に遊んだ時。揚屋(置屋から遊女を呼んで遊ぶ家)の主人が、文山に桜の花を描いたびょうぶへの賛を請うた。文山がそれに『この所小便無用』と書く。いたずらだ。主人が怒る。その時其角が『花の山』という五文字を書き加えた。『この所小便無用花の山』という発句に仕上った。これで機嫌が直り、主人が逆に喜んでこれを家宝にした。才智は才智でも愛される才智だった。
〈剃髪〉
延宝七(一六七九)年 芭蕉三十六歳
其角十九歳
日の春をさすがに鶴の歩みかな 其角
芭蕉が手放しで褒めた、其角の代表句である。この当時『鶴は千年』と言われ、『千年鳥』とも呼ばれた鶴。当時の江戸郊外には、たくさんの鶴が見られた。電線や電話線がひしめきあう空ではない。明るい空があった。だが、その鶴を追いやったのは私達だ。自業自得である。しかしさらに、その鶴や花や月を愛でる心も同時に失ってしまった。芭蕉に言わせれば、鳥獣の類に成り下がったことになる。芭蕉にも『我ためか鶴はみのこす芹の飯』の句がある。芭蕉は門人の施しで食べていた。門人が届けてくれた芹の飯に、謝意を表したもの。当時鶴は芹を好むとされ隠逸のイメージがあった。其角は娘の一人を幼くして失くした時にも鶴の句を詠んでいる。
霜の鶴土にふとんも被されず 其角
二人とも鶴を愛した。他を寄せ付けない、狂おしいまできりっとした白を。白米、豆腐、大根。もやしや独活などの軟白も。
「あがりますよ」
いつも通りのどたどたという足音。其角とすぐわかる。
「おまえはこちらがいいと言う前に、もうあがっとる」
両足を壁に上げて仰向けに寝転がっていた芭蕉。顔だけこちら向きにして答えた。
「ウワッハッハッハ。兄ィの家は玄関入るとすぐ座敷だから。何ですか。その格好は」
「暑さしのぎに足を冷やしとるんじゃ。壁は冷やこいぞ。おまえもやってみんか」
其角も言われるまま、仲良く並んで寝転がる。壁に足裏をくっつけてみた。
「これは天国。貧乏人の考えることはまた、猫の知恵にも似て、何と素晴らしい」
「一言余計じゃ」
「このたびの万句興行おめでとうございます」
「何や改まって。気持ち悪いやないか」
「兄ィも一人前の俳諧師か。私も早くなりたいもの」
「いよいよ勝負ぞ」
「私はだいぶ前から丸めています。もしかしたら私のまね」
芭蕉がやおら起き上がる。そったばかりのつるつる頭をなでた。
「頭はつるつるでも、心がぼさぼさではのう。ちと恥ずかしい気がするが」
其角もむっくり起き上がりながら、
「それはもしかして私に言っておるのでは」
「その通り」
「あいたた。兄ィも油断がならぬなあ。確かに、道心は世を安楽に送る方便。墨染の衣を着るのがはやっているらしい。それとも、何か悪いことでもなされたか。ウワッハッハッハッハ」
其角は幼いころから、父東順の跡を継ぐべく医術を学び、順哲と名乗った。当時の医者は、頭を丸めて法体となるのが普通。蕉門に入った十五歳頃には、頭をそっていたのだった。
「真面目な入道じゃ。だが出家したわけではないぞ。格好だけ。俳諧に命を懸ける首途としてな。剃髪は俳諧師の化粧のようなもの」
「よく似合っていますよ。だけど兄ィの前の、なでつけ頭の方が好きだなあ。なんかりりしくて。しかしなぜ俗世をお離れになる」
「出家ではないと言ったはずじゃ。離れるのではない。あの偉大な西行師じゃが。立身出世の道を閉ざされたわしと大違い。北面の武士として約束されていた立身出世の道。これを敢えて捨てたのは、おまえもよく知っての通り。しかし、西行師は現世がばからしくなって、嫌いになって出家したのではない。世間が好きでたまらないからじゃ。現世におると、そのしがらみにとらわれての。よく見えなくなる。わしも西行師に近づきたいと思うてな」
「しかし、そんなにひねこびなくても」
(北面の武士は、院の御所の北面にあって、院中を警護した武士。白河法皇の時に始まった)
「ある勢力が力をつけると、別の勢力がそれに刃向かう。またその両者の対立を第三の勢力が嗅ぎ付け、形勢を窺う。漁夫の利を得ようと虎視眈々。あるいは、どちらにつくのが有利か洞ヶ峠を極めこむ。そのような力同士の争い。これに翻弄されるのは実に下らぬ。鳥獣の世界ではないか。どちらの方が自分に損か得か。損得で生きるほど浅ましい事はない。一体現世に快楽を求め戦う者にとってはのう。うまい酒なり、女なり、安楽な生活が至上の目的。生きる意味なのだろう。だからその酒や女や安楽を脅かす者に対しては、どんな汚い手段も厭わない。現世の快楽に執着する男の顔。その顔に浮かび出る、覆いがたい卑しさはどうじゃ。角や。そう思わんか」
「なんか私のことみたいで。耳が痛いなあ。確かに戦好きは男の性みたいなもの」
「何度もいうが、わしは世の中が嫌になって逃げだすのではない。みんなとにぎやかなのも好きじゃ。しかしそれにもまして、ひとり自問自答するのが好きでの。もともと坊主向きの心根なのじゃ。ワッハハハハ」
「兄ィが若ぶるのもいやですが、老け込むのもいやだなあ。衆愚から高みに昇った魂は孤独に罰せられる、といいますよ。その覚悟もお持ちなのですね」
「物質的なものに煩わされての。自分の自由な生き方を汚されたくない。自分の選んだ道を究める志じゃ」
「兄ィの強い気持、よくわかりました。ただ兄ィの俳諧が深まるのはいいとして、重苦しくなっては困ります。それでなくても兄ィは武士くさくて、くそ真面目。心地の良いものでなくては。『梅若菜まり子の宿のとろゝ汁』とか、『夏の月御油より出て赤坂や』のようでないと」
蕉門を立ち上げた頃の芭蕉の、口笛を吹くような若々しさ、軽やかに弾む心を失ってもらいたくないというのが、其角の切実な思いだった。
「おまえの言う通り、品位があり深みも湛える一方で、心地よい、出会って幸せを感じてもらえる句でないとな。『桃青門弟独吟二十歌仙』は蕉門の旗揚げじゃが。信徳の傑作『七百五十韻』に二百五十韻を巻き『俳諧次韻』を出せてよかった。談林から抜け出るのは至難の技。競争相手も多い。そしておまえの『田舎の句合』、杉風の『常盤屋の句合』もよい出来栄えじゃった。この勢いを大切にしよう。俳諧を和歌や連歌と同等の文芸に高める。それには俗とみなされてきたものを材料に、新しい美を作らねば。庶民の文芸じゃ」
「俗は何より好み。ぞくぞくしてきました。ウワッハッハッハ」
談林から抜け出て詩情豊かな、蕉風の始まりとも言われる『俳諧次韻』。これで漢詩文調の流れに勢いをつけ、其角の処女撰集『虚栗』はその集大成だったが、以後その流行は下火に。『田舎の句合』は、其角の五十句を『練馬の農夫』と『葛西の野人』の二十五句ずつに分け、それに芭蕉が判詞を付けた、コミカルな掛け合い。
「まあ、おいしいお茶でも入れたるさかいに。さっき焙炉(茶を焙じる用具)で茶葉をあぶったとこや」
こう言って芭蕉は台所に立って行った。上気して火照った其角の顔が落ち着いた頃。芭蕉が少し大きめの器と急須、それに湯飲み二つを持って戻ってきた。湯飲みといっても御猪口と余り変わらない小さいもの。器には沸かしたての熱湯が入っている。
「この暑いのに、熱いお茶ですか」
「そうや。わしは腹を壊しやすいのでな。夏でも冷たいものは一切飲まんことにしている。これで具合がいいんや。暑いときに熱いお茶。これが意外においしいんやで」
「よくわかりませんね」
「まあ、一回試してみいな。この暑さに冷たいもんで張り合おうとせず、超越する。乗り越えるのが大切や。これには同じ熱いもんでないとあかん。またおまえに線香くさいと言われるかもしれんが。先に言うとくからな。ワハハハハ」 「・・・・・」
「少し待つんやぞ。湯を冷ましてから、おいしいのを入れたるさかいに。おいしいお茶を入れる名人やで。わしは。急須に入れる前に冷ます時間と、急須に湯を入れて湯飲みに注ぐまでの時間。このころあいが難しいのでな。お湯が熱すぎても、また時間が長すぎても葉が死んでしまう。苦味が甘さを殺してしまう。父親からの直伝や。父親は下戸やったが、そのかわりお茶にはうるさかったんや」
「兄ィの親父さんは早くに亡くなられたのでは」
「十三歳やった。だから兄が父がわりやった。まあそれはともかく。小さい頃から、父親がお茶を入れるのを、そばでよう見とったし。まだ子供やのに、わしにもいつも入れてくれたんや」
「煎茶は苦くて子供にはおいしくないのでは。よく飲まれましたね」
「それが甘かったんや」
「甘いですって」
「そうや。確かに少しは苦いんやが。飲み慣れるとそうでもない」
「へえ。そんなものですか。兄ィは舌も早くから老けとったのでは。ウワッハッハッハッハ」
「あほぬかせ。お湯を冷ましてから注ぐと甘みが出る。玉露やったら言うことないのやが。高いから手が出んのでな。煎茶やから、玉露より少し熱いめのお湯にして、少し早いめに注ぐ。その湯加減がみそや。父親に教えてもろうた工夫や」
「貧乏人の工夫ですね」
「よし。もう冷めた時分や。入れるとするかな」
芭蕉はおもむろに急須に、冷ましたお湯を注いだ。
「ここでまたしばらく待たんとあかんのや。急いては事を仕損ずる」
「そんな理屈はいいので。早く飲ましてくださいよ」
「まだまだ。待つ間にお茶の葉が膨らむように期待が膨らんで、余計においしなるのや」
「少々まずくても早いのが御馳走」
「うるさいやっちゃのう。まあそろそろいいやろ」
芭蕉は急須から二つの湯飲みみに、ゆっくり、交互に、最後の一滴が出き切るまでしぼった。其角は芭蕉の妙に集中した執拗な仕草に、何か大層な飲み物のように思えてきた。不思議なセレモニーだった。
「随分しぼるんですね」
「最後の一滴一滴がおいしいもとや。そうせんと葉が台無しになるしな。このしぼり方にお茶をどれだけ愛しているかが顕れるんや」
「そしたら飲んでみ」
「いただきます」
余りに遅い不満を込めた、元気過ぎる大きな声だった。
「どうや」
「・・・。えーっ。驚きました。こんなにおいしい飲み物がこの世にあろうとは」
「ちょっと大げさやな」
「いいえ。本当です。兄ィが自慢するはずだ。こんなに甘いお茶は飲んだことがない。感動しました」
其角は真顔で感激した風だった。
「それは良かった。時間かけて入れた甲斐があるちゅうもんや」
「それと。この湯飲みは、何と鷹揚な」
「さすがよう気が付くのう。伊賀焼じゃ。古伊賀は有名じゃから、おまえも知っていると思うが。釉を使わないのが特徴でな。窯の中の水蒸気がその代りをする。天然の釉薬や」
「ゆがみもあって。おおらかな。豪放にして細心。このお茶にぴったりですね」
「豪放にして細心とは、まさにおまえの俳句ではないか。お茶の控えめな渋味と苦味の中に、ほんのりと浮かび上がる甘み。わびの特徴が一番出ていると思っとるのじゃ」
「なるほど坊さんのお経を聞いてるような味。兄ィの好きそうな味だ。ウワッハッハッハ」
大仰においしいお茶を入れてくれたこの芭蕉に、『しばの戸にちやをこの葉かくあらし哉』や『山吹や宇治の焙炉の匂ふ時』の句がある。先の句は、芭蕉が深川に隠棲した当時の句。嵐が粗末な草庵の戸や障子に木の葉を掻き寄せる、その音が茶の葉のようだという意。当時は防湿の容器、ブリキ缶などはない。茶を入れる前に、炭火で蒸した茶を焙炉で焙って乾燥させた。耳を澄ませて、音の変化で茶葉の乾燥具合を測った。後の句は、宇治の焙炉から茶の葉が匂い立つこの時期、山吹も今が盛りだという意。宇治茶は、貴重な茶葉の中でも高級品。芭蕉は、駿河の安倍茶より京都の宇治茶を友人に所望するほどのグルメであり、茶人と呼べるほど喫茶好きだった。
利休の茶の心に風雅の極みを見ていた芭蕉だが、もともと故郷の伊賀はお茶の盛んな所。藤堂藩の開祖である高虎公は、徳川家康の茶会のメンバーだった。腹心や古田織部ら大茶人と同席する機会が多かった。のち高虎が催した茶会に二代将軍秀忠を招いたほどである。そしてこの高虎の世継ぎ高次は、遠州派の創始者で三代将軍家光の茶道師範小堀遠州と義兄弟の関係にあった。父高虎の養女が遠州の内室だったのだ。高次が伊賀焼の水指製作を命じ、遠州がその伊賀焼に注目。遠州七窯の一つとして、伊賀焼が台頭した。芭蕉が仕えた藤堂新七郎家には茶室が二つもあった。本家とは高虎の母の兄としての血脈につながる親しい関係にあったから、藩主が津城から伊賀に領地巡察に訪れた際は、決まって茶会が開かれた。藩士ばかりではなく城下庶民の間にまで茶が流行していた。芭蕉も小姓として主君の茶席に連なっていたはずであり、遊学中の京都も茶の盛んな土地柄、茶道に造詣を深めたことは疑いない。
貞門が廃れて、まるで下克上の戦国時代のような談林派のジャングル。それは芭蕉と其角がリングに上がる、またとないチャンスだった。
〈回想〉
「角や。この三日月を見ると、いつも故郷を思い出してなあ」
「三日月が、何か」
「三日月が包丁に見えてくる。あの料理に使う包丁にな」
「食いしん坊の兄ィらしい」
「奉公先の藤堂藩でな。若君の小姓と台所役を兼ねとった。ただ台所役と言っても料理人やない、食材の仕入れや帳付けの仕事やが。それでも門前の小僧じゃ」
「御馳走してくださいよ」
「持ち込んでくれる材料次第だな」
「任せてください。ほかの門人にもよく言っておきますから」
「それとなくな」
「兄ィの『影待や菊の香のする豆腐串』という句。どこでそんな御馳走になられたので」
「町名主の補佐、町代として上水道に関わっての。上水道は幕府直轄で、その町代は役人に近い職分。接待で舌が肥えたんじゃ」
「兄ィは根が贅沢だから」
『影待』は、料亭で一晩中酒食にふけり日の出を待つ宴会。影待の句は、秋の影待は庭の菊が豆腐の中にまで移ってかぐわしいという意。豆腐串は、豆腐を串に刺し味噌をつけて焼いた豆腐田楽。芭蕉の生地である伊賀の上野の郷土料理で、今も名物になっている。
「三日月には満月になる夢があります」
「明日がある。わしらみたいやの」
深川隠棲後の芭蕉は門人から施しを受けていたが、美食と無縁だったとは思われない。元々俳席につながる宴席も多かったはずだ。酒で墨を磨って短冊に句をしたためる酔狂もあった。しかし、後年『奥の細道』の旅で金沢に立ち寄った時のことである。宴席での二の膳付の豪華な御馳走の後の挨拶で、芭蕉から、膳が風雅とかけ離れているという指摘があった。それを聞かされてか、門人のもてなしが以後一変。芭蕉がひもじくなるほど極端に質素になって困った。こういう逸話が残るほど、芭蕉はのち贅沢を嫌うようになった。
「ところで角や。おまえは鎌倉の大巓和尚」に預けられていたそうだな。随分遠いところへ。何か訳でもあったのか」
「友達が悪友ばかりで」
「うそをつけ」
「確かに私もその張本人です。親が更生のためにやったようなわけで。お恥ずかしい」
「悪い道にも早熟だったんだな。それで改心したのか」
「一応改心したようには見せましたよ。ウワッハッハッハ」
其角は胸を張って見せた。
貞享二(一六八五)年に大巓和尚が亡くなった時、芭蕉は旅先の尾張熱田から、悲嘆に暮れる其角に追悼句を送っている。『梅恋て卯花拝むなみだかな』。和尚の徳を象徴する梅。その香気を恋い慕っても、季節が過ぎ叶わない。同じく白い卯の花を手向けて和尚をしのび、涙をこぼすばかりと詠んだ。
「おまえの父親竹下東順殿は、わしと同じ季吟門で俳諧も巧み。藩医兼町医者。だがわし所は違う。文芸にはむしろ縁遠かった。父親を早くに失くして兄が親代わり。兄は郷士やが浪人に近い。寺子屋のように子供を教え何とか生計を立てていた。わしみたいな次男坊は一生『部屋住』でいるか、他家の養子になる他ない。だからわしは早くから奉公。主君の跡継ぎの若君、蝉吟公の小姓にしてもろうた。お側勤めと言っても住み込み奉公。みじめなものやが。だが、その主家が学問や文芸を重んじる風でな。これは幸運やった。勉強相手として一緒に経書(儒学の経典四書五経など)を学べてな。藤堂藩の学風やった。書も蝉吟公から教わったし。しつけとして、てん茶の作法まで。その蝉吟公が無類の俳諧好きでな。このわしもとりこになったというわけや」
「兄ィにはそんな幸せな出会いが」
「その学問や文芸が珍しゅうて、面白うてな。それでいくばくかの才能があるのではと。これが勘違いの始まりや」
「人生すべてその勘違いや思い込みですよ。ウワッハッハッハッハ」
「それでとんとんと。蝉吟公は藤堂主計良忠で字は宗正、その父藤堂新七郎良精公は宗徳。わしの松尾忠右衛門宗房という名前の、宗の字もお二人から頂戴した。蝉吟公は伊賀の俳壇を率いておられたから、その後ろ盾として認められてな。同輩の羨望の的やった。わしは侍ではない、武家奉公人やったが。そのまま行けばりっぱな侍、知行取も望めたんや」
「忠右衛門か。面白い。なんかねずみの親戚のようだな。ウワッハッハッハッハ」
「真面目な話だぞ」
「学問や文芸を重んじる風は、京都に近かったからでしょうか」
「それも大きいと思うな。その若君の号、蝉吟やが。あの北村季吟先生から吟という字を授けられたもの。歳はわしより二歳上やった。細やかな友情。友情というのは恐れ多いが。感謝しきれんな。若君やったが何にも偉ぶらへん。学友として対等に接してくれたんや。幸せな日々やった。深い契やった」
「深い契か。意味深だな」
「おまえの考えすぎや」
「兄ィにも若い頃があったんだ。生まれた時から老けていたように思っていましたよ。ウワッハッハッハッハ」
「それはないやろ。意外に美少年やったんやで」
芭蕉にしては珍しくすまし顔をみせた。
「まあそういうことにしておきましょう」
「その蝉吟公の父君、藤堂良精さま。藤堂藩は津が本城でな。その伊賀付五千石の侍大将。伊賀に侍大将は三人おられたんやが、お一人は八千石の城代。だから偉いんやで。このお方は武人やけど文学も愛された。漢詩や和歌のたしなみもあってな。典籍も数多くお持ちやった。蝉吟公もその血筋やろな。京都からわざわざ、北村季吟先生に伊賀まで足を運んでもろうて、講義を受けてたんやで」
「それはすごい。伊賀って有力な土地柄だったのですね」
「その通りや。京・大坂・名古屋何れにも近い。ちょうど真ん中にある。そしてわしだけやない、当時の文芸好きの若者を虜にしたのが、新興の俳諧やった。蝉吟公が二十四歳、わしが二十二歳の時、蝉吟公主催で『貞徳十三回忌追善五吟俳諧百韻』をやったくらいや。発句は蝉吟公で、脇句を季吟先生にお願いしてな」
当時は保守的で堅苦しい貞門俳諧全盛。松永貞徳は貞門俳諧の祖。北村季吟はその弟子。
「それも大したもの。どうしてその幸せな伊賀を出てこの江戸へ」
突然芭蕉の顔が曇った。余り見せない顔だ。
「それがあろうことか・・・。無情にもその蝉吟公が。翌年亡くなってしまわれたんや。わずか二十五歳の若さでな。もともと強い御身体ではなかったが。天国から地獄や。その位牌を高野山に納める使者になった。これはありがたかったんやが。わしも純心だったんやろな。蝉吟公との絆がそれだけ強かった。殉死は大げさやが、後を追って死にたい、それができへんのやったら仏門に入ってしまいたいと思うた。さらに二君に仕えるのも耐えられん。後を継いだ弟君はすでに分家されていたから、戻されてな。しかし、その弟君は俳諧など見向きもしない方やった。もっともその弟君には自分の小姓がいたやろうから、中途で割り込んでも出世は望めへんしな。その弟君も早死にされたと聞いている」
「殉死ですか。いかにも日本的。それにしても兄ィの嘆きはいかほどのものか。難しい決断を迫られましたね」
「失意のどん底や。しかし不運を嘆いているだけではな。男として不甲斐ない。いっそのこと、他国へ行って新規まき直しをしよう、自分の好きな学問か文芸で身を立てようと思うた。しかし、そのためにはその道の精進をせんとあかん。幸い京都には、蝉吟公が師と仰いだ季吟先生がおられる。わしも面識がある。更に京都には、天下の学者もそろっている」
「それでいったん京都へ」
「そうや。伊賀におっても学ぶ書籍すらないしな。一生がかかっているんや。学びに学んだでえ。万葉集、古今集、唐詩選や白氏文集、それから源氏物語、平家物語、枕草子、徒然草。手当り次第」
後に著わす『奥の細道』の引用書目は、古事記をはじめ和漢の百二十余りの書に及ぶという。その礎はこの京都遊学中、遊学というよりは書生のようなものだったのだろうが、その頃築かれたらしい。この時代の乏しき書物を狩猟しえたのは、この時期をおいてないからだ。彼の博覧強記は、貞門俳諧の最後の代表者である季吟の門下でも鳴り響いていたものと思われる。
「確かに不運としか言いようがない。その蝉吟公さえ元気でおられたら。兄ィが忠勤に励めば出世は望めたかもしれない。しかし、平凡な武士で終わったのではないだろうか。最も悲しむべき不幸が、その逆境が、今の兄ィの大望を導いたではありませんか」
「大望か。角は、うれしいことを言ってくれるやないか」
「つぼはおさえていますよ。ウワッハッハッハ」
「まあ。不思議な因縁を感じるな。蝉吟公亡き後、後を継いだ弟君に二度勤めを命じられたが、出仕せんかった。これは大変なことなんや」
「なぜ。辞めればいいだけでは」
「とんでもない。主従関係を壊す大罪や。許されへん。少なくとも伊賀にはおれん」
「それは厳しすぎるなあ」
「結局無断で出奔するしかない。しかし情けの抜け道というか。当時は出奔が珍しくなくてな。出奔の理由が主君の死やから、これも多少は斟酌されたし。しかもわしは知行取やない、切米取・扶持取にもいかん小姓や。幸いお咎めもなく、また出奔しても追われることはなかったんや」
「それは助かりましたね」
「藤堂家には武士退身の作法というのがあってな。同僚に書き置きを残したうえで出奔するというものじゃが。書き置きには二主に仕えることの割りなきことを綴った。そして兄に迷惑が掛からんように、その足で京都に向かったんや」
晩年に、故郷の伊賀でうれしい俳句の宴があった。芭蕉が藤堂家を辞した時、まだ襁褓に包まれていた蝉吟公の子、新之助(号は探丸子)。その探丸子が家督を継ぎ二十三歳の時、屋敷で開いた花見の宴に招いてくれた。やはり父親の血を受け継いで、文学の才能が豊か。俳諧もよくした。出奔した元家臣だが、俳諧で一家をなした芭蕉を、恭しく迎え入れてくれたのだった。蝉吟公の面影がしのばれ、楽しい忘れられない宴となった。その時の歌仙で、『さまざまのこと思い出すさくらかな』の芭蕉の句に、探丸子は『春の日はやく筆に暮れ行く』と付けている。紙に、さまざまの句と探丸子という名を芭蕉が書き、春の日の付句と芭蕉子という名を探丸が書いた。座興に芭蕉が茶杓を削って残したほど楽しい集いだった。
そして元禄七(一六九四)年、芭蕉の没年であるが、故郷伊賀上野の門人たちから生家の離れに贈られた草庵で、芭蕉生涯最後の月見の宴が催された。その時芭蕉は、手ずから月見の料理を振る舞い、招いた客人をもてなしている。
其角は、芭蕉がいつの間にかお国訛り、関西の言い回しになっているのに気付いた。故郷にいた時の話だから、懐かしさの余り自然にそうなったのだろう。なにしろ生まれてから三十年近く使っていた言葉だ。芭蕉が江戸ではそれを余り出さないようにしていたのが分かった。その関西風のまったりした言い回しは人間味にあふれ、なんか懐かしいものに出会ったような気がした。其角はこれが気に入った。女子がこれを使ったらたまらなく魅力的だろうとも思った。
「兄ィはどうしてこの江戸へ」
「頼る人といっても、結局季吟先生しかおられんかったしな。弟子にしてもろうていたから。そして京・大坂で俳諧師を目指したいと申し上げ、力添えを頼んだ。季吟先生の話では、まず京都は西山宗因の天下で入り込む余地はない、大坂も談林派の牙城で西鶴がでんとおりむずかしい、江戸だけはまだ活躍の場が開けているということやった。それで江戸を勧めてくれたんや。先生の頭には日本全国の勢力地図があったんやろな」
「兄ィがいくつの時の話で」
「二十九歳の時や。故郷の伊賀の上野に菅原道真公を祭る、上野天満宮というのがあってな。城下の住民は士農工商の別なく皆氏子じゃ。わしらは『天神さん』と呼んどった。子供の頃は家のほん近くやから、そこでよう遊んどったもんや。そこに自判で三十番発句合やが、『貝おおひ』を奉納して、江戸での成功を祈願した。六年の長い京都遊学、いや苦学やな。満を持しての旗揚げやった。これを決めてから、発願の成就のためにな、京都清水の音羽の滝の七日の水垢離修業に身を晒したのやった」
「決死の覚悟だったのですね、その『貝おおひ』。兄ィの才能が雀躍している。それにしても名前がしゃれていますよ、練りに練った。兄ィの執着はもうこの頃からだな」
『句合』は、歌合にならって、句を二つ並べて優劣を競うもの。左右一組で一番だから、三十番では六十句となる。判詞(優劣判定の言葉)は自判、すなわち自分で書いた。『音羽の滝』は清水寺のパワースポットとして今も健在。
蛤の貝殻をばらばらにして、ペアの貝殻を見つけ出すのが貝合わせ。トランプの神経衰弱に似た、平安時代からの宮廷の遊びである。貝覆いは、この貝合わせのことで、これを句合わせに引っ掛け撰集名とした。『貝おおひ』は、芭蕉の処女撰集であり、また芭蕉という人物を知る上でも欠かすことができない。
『貝おおひ』の九番を見てみよう。その自由に戯れる姿は、あの枯淡の芭蕉と同一人物とはとても思われない奔放さだ。
左 勝
鎌できる音やちよい/\花の枝 露節
右
きても見よ甚兵衛が羽織はなごろも 宗房
左、花の枝をちよい/\とほめたる作為は、まことに俳諧の親ゝともいはまほしきに、右の甚兵衛が羽織は、きて見て我折りやといふ心なれど、一句の仕立もわろく、染め出す言葉の色もよろしからず見ゆるは、愚意の手づゝとも申すべく、そのうへ左の鎌のはがねも堅そうなれば、甚兵衛があたまもあぶなくて、負に定め侍りき。
宗房は芭蕉の若い頃の号。二句の後に芭蕉の判詞(優劣判定)が続く。『左』の句意は、鎌で切るちょいちょいという音が、枝の花をほめているかのように面白く聞こえるというもの。ちょいちょいは、歌舞伎の野郎(少年俳優)へのほめ言葉で、鎌を切る刃音と掛ける。『右』の句意は、甚兵衛殿よ、花見衣に甚兵衛羽織を着こみ花見に来て我を折りなさいというもの。『我を折る』は感服するの意。『来て』と『着て』を掛ける。『羽織』と『我折り』を掛ける。甚兵衛羽織は丈の短い尻の裂けた羽織。判詞では、同じ野郎のほめ言葉である『親はないか、親はないか』(この座にほめられた少年役者の親はいないか、さぞうれしかろう)から、俳諧の親(優れているの意)と言った。俳諧の親と驚嘆の『おやゝ』を掛ける。『おやゝ』は『ちよいゝ』に照応。左の句の鎌の刃が堅そうで甚兵衛の頭が危ないので左の勝ちとすると書いた。
小唄・流行語を駆使し談林に新風を吹き込もうとする意気込み。井原西鶴の作品の持つ、あの大きな振幅と見まがう才気に満ちている。ここにはもはや小姓でもなく、ましてや出奔者でもない、堂々と天下の俳壇に勇躍しようとする自信に満ちた芭蕉がいた。
「あの『貝おおひ』は滑稽が陽気に縦横に。私もこれを読んで入門したようなものですよ」
「そういえばあの西行も、同じ二十九歳やで。陸奥へ旅立つ決心をしたのは。角や。人皆同じやが、わしも娑婆っ気もあれば欲気もある。野心家でな。みんな何か成し遂げたいと思うわな。聖人君子でもなんでもあらへん。普通の野心家やった。もちろん立身出世も考えたし。文芸上の野心もやで。しかし伊賀で仕官の道が閉ざされたからな。もう俳諧しかなかったんや。次男坊の焦りと自由さと。少しの自負のせいかな。その飛躍のために京でいろいろ学んだんやしな」
「江戸へ出られてからどうでしたか」
「季吟先生の紹介で。江戸の名主やった小沢家の帳役(書記)にしてもろたんや。住まいも世話になった。この小沢家当主の長子卜尺が季吟先生の門人やったから、この関係でな。右も左もわからん田舎者。季吟先生の秘伝とされた『埋木』の筆写を許され、その免許みたいなものを持ってただけや。それで食えるほど江戸は甘くないからな」
「季吟先生といえば、最近幕府歌学方として五百石で召し抱えられたという、あの方ですね。私も面識があります」
「そうや。俳諧師までは道遠しやった。まず食っていかんとあかん。取りあえず、神田小石川の水道工事の仕事で身を立てるつもりやった。あまり強くない身体やからな。現場ではない裏方や。食うためやったけど。頑張ったんやで。名主を代行する町代の仕事を任されるようになってな」
「兄ィはいつでもどこでも力いっぱい。それから町代の仕事。わかりますよ。知識・教養があって実務能力ある人材。江戸広しといえどもそうざらにはいませんから。しかし兄ィが水道工事とは意外も意外。想像できませぬなあ。ウワッハッハッハッハ」
江戸開府当初、将軍はじめ武家が赤坂の溜池を水道水として使用。のち神田上水や玉川上水が引かれ、町人の住区にも及ぶ。『水道の水を産湯に使った』が江戸っ子の自慢。当時はその上水工事の真っ最中だった。町代はその大工事の請負人。芭蕉は事業家として手腕があり、また世故にたけてもいた。この後必要となる蕉門掌握の力量は十分備わっていたといえる。
「笑い事ではないんやで。角。必死やった。生計を立てるためや。藤堂藩は、高虎公以来築城や水道工事で名を馳せとった。近所に西嶋八兵衛という逸材もいてな。それに山口素堂(以下素堂)も一時水道工事を手掛けていたこともある。とにかく色々世間を知れてありがたかった。故郷の伊賀では武家奉公の狭いものやったから。人生無駄なことは何もないなあ」
「だから私もいろいろ遊び回っているわけでして。ウワッハッハッハッハ」
「どさくさに何を言うとんね。おまえは」
「兄ィはお顔に似ず色恋に詳しい。その時の経験からでしょう」
「あほをぬかせ。耳年増だけや。ワッハハハハハ。しかし、この水道工事も不幸にして不首尾というか、失敗に終わってな。千河上水の堀普請やったが。結局埋められてしもうた。何をやってもうまくいかん。腕一つ身一つでこの江戸で何かやるのは並大抵のことやないと、思い知らされたんや。もう、いよいよ俳諧で食っていくしかない。その時運よく宗因師歓迎の座に同席する機会に恵まれてな。談林派の祖と言われた方。京から江戸に出向かれてたんや。それで意志を固めた。あの免許も役に立った。それから執筆として研さんを積んだんや」
執筆は、俳諧の座の興行で宗匠の指導のもと、連衆の句の記録と進行を図る役。西嶋八兵衛は江戸時代の高名な土木技術家。藤堂高虎に仕え大坂城修築等に活躍。芭蕉の若い頃は伊賀奉行として伊賀におり、伊賀で没した。
山口素堂(以下素堂)は『目には青葉山ほととぎす初鰹』の句で有名。書道・和歌・茶道・能楽も修め多才。素堂と芭蕉は互いに我が友と呼び合う生涯の盟友。同じ季吟門。江戸下向中の宗因と一座した芭蕉と素堂が、『江戸両吟集』を編み江戸談林の推進者になった。芭蕉が興した新風は、素堂の助力なしには考えられない。芭蕉は手紙の宛名の下に、其角は『丈(歌舞伎俳優等に添える敬称)』、杉風は『様』、そして素堂には『先生』と付けていたほど。
芭蕉の借家があった日本橋は、今高速道路が交差し高架橋がそびえる無残な姿だが、当時は江戸の経済の要かつ、俳諧愛好者の富裕な町人が多く住む江戸俳諧の中心地だった。芭蕉は、江戸一番の繁華街を貫き、間口当たりの税金も一番高い大通りを、『げにや月間口千金の通り町』と詠んでいる。
「一つ大事な事を聞き忘れていました」
「何や。それは」
「兄ィも小姓勤めの時は殿中の女中衆にもてたと思うなあ。美男だったかどうかはともかく。秀才で主君の寵愛を一身に集め、主君の名の一字をさえもらっていたんだから」
「まあほどほどにな」
「それがかねがねうかがっていたすてさんでは? 白状なさい」
「誰にも話すんやないぞ」
「脇は甘いが口は堅い。ウワッハッハッハ」
「子もできてしもうてな。抜き差しならんことになった。主君の奥方の侍女に手を付けてしもたんや。わしも主君の寵愛を一身に集めとって、心に緩みがあったんやろな。正式に結婚式をあげられぬ仲やった。主家にとっては不行届。一生重荷を背負うことになった。じゃが自分でまいた種は自分で刈らんとな。生涯女を絶つと誓ったのも、その罪滅ぼしや。だから重い荷を背負うての江戸行きやった。不遇の身をかこたず、このわしに付き添うてくれたすてが不憫でな。いずれ江戸へ引き取ろうとは考えてたんやが、俳諧稼業ではなあ。わしは救われることのない罪人なんや」
芭蕉は涙ぐんだ。花や草に涙ぐむことが多かったが、また別の大粒の涙だった。
「江戸行きの理由が一つではなかったんですね。それほど追い込まれての江戸行きでしたか。それでも兄ィは精いっぱい生きて来られたではありませんか。すてさんのことは、兄ィの生き方を左右する大きな出来事だったのですね」
すては芭蕉の妾と言われる。妾というと現代の我々には愛人というようなマイナスイメージであるが、当時はだいぶ異なる。当時は未婚の男性が正妻の代わりに持つもの。身分は奉公人の扱いだったが、今でいう内縁の妻であり、ごく普通のことだった。
「わしのことばかり聞かせたが。角よ。よもやおまえは、俳諧で飯を食おうなどと考えているのではなかろうな。俳諧なんぞは男子畢生の仕事ではさらさらない。わしは継ぐべき仕事もあらへんし、これしかもう残された道がないから仕方なかった。しかし、おまえは藩医を継げる。取りあえずそれを継ぐことや。掛け持ちでもええやないか。これから妻子も養わねばならん。生活に追われたら、とかく汚れるもんや。おまえのよく言う詩商人にな。わしは角の汚れた姿は見とうない」
「いやです」
其角は迷いのない強い口調で言い放った。
「何も焦ることはない。待つことを知っている人間には、その時期が来ると自然に向こうからやってくるもんや」
「兄ィ。何と言われようと、わたしは藩医を継ぐ気はありません。もう決めましたから。私は見て通りの薄っぺらな人間ですが。兄ィも生まれつきの聖人とは思っていません。生まれた時は誰もが嫉妬深い俗人。欲の塊。努力してそれをいかに克服できたかで人間の値打ちが決まります。その努力の仕方、克服の方法が立派だということ。それは生涯精進を続ける求道者としての日々にあります。私は兄ィのそれを見習いたいのです」
「求道者という七面倒臭い俳諧師を養ってくれる物好きがいると思うのか。わしは乞食になる覚悟で決めたんやで。おまえは一度決めたら人の言うことなんか聞かん人間やから、これ以上言わんけども。よく考えることや」
「これだけ俳諧に惚れ込んだのは兄ィがおられたからですよ。兄ィのせいや」
「困ったもんやな。わし自身は克服どころか、まだまだ煩悩の塊やけども。若い時はおまえと同じ。そこからどこまで変われるか。志にかかっていると思うとる。高い志を持てるようになるには、更によく学ぶことや。よっしゃ。まあおまえの気持ちはようわかった。一緒に頑張っていこか」
「それともう一つ」
「もうおなか一杯です」
「まあ聞け。勝ち気も大事やが、これからは慎み深くな。おまえの若くしての成功。これは成功していない人みんなに対する侮辱なんやからな。同じ豊かな才能を持ちながら、いろんな制約で集中することがかなわん人が大勢いることを忘れてはならん」
ずっとのち元禄三年に、芭蕉は同じことを別の門人にも言っている。『我に似な二ッにわれし真桑瓜』。芭蕉が京都の凡兆宅滞在中に、大坂から之道が訪ねてきて入門した折りの句である。真桑瓜は当時の代表的な果物。割れた真桑瓜はまさに瓜二つだが、おまえは俳諧一筋の芭蕉の真似をせず、正業に励む傍らにせよと説いた。俳諧は、とても正業といえるものではなかったのだ。
其角の『田舎之句合』に、『袖の露も羽二重気にはゐぬもの也』の句がある。贅沢な羽二重などを着て衣食満ち足りた生活をしている富者には、袖を濡らす涙のような秋の哀れな情趣は理解できないという意。同じく『分限者に成たくば 秋の夕暮をも捨てよ』という破調の句もある。富者になりたければ、物の哀れを解する雅な心は捨てなさいという意。風雅と富が背反し両立しがたいことを、其角は重々承知していた。
そして国家試験のない時代。やぶ医者も多く誰でも医者になれたから、幕府や大名のお抱えの御典医ならともかく、社会的地位も高くなかった。だから芭蕉は、其角があっさりこれを捨て、俳諧師を目指していることはうすうす気づいていた。其角の意思がその俳諧ににじみ出ていたからだ。『桃青門弟独吟二十歌仙』の其角の歌仙の発句と脇句を見てみよう。
脈を東籬の下にとって本草に付すと。美子が薬もいまだうつけを治せず。
月花ヲ医ス閑素幽栖の野巫の子有 螺舎
春草のあたり大きな家の隣
前書きは、陶淵明の詩句『菊ヲ東籬ノ下ニ采ッテ』(「飲酒」)のもじり。淵明は東籬に菊を取ったが、私は脈を取る。脈を取りながら中国の薬学書『本草綱目』とにらめっこしている。医療をそっちのけで俳諧にうつつを抜かしている困りものに、つける薬はないという自嘲。発句は、鎌倉中期の作者未詳の紀行文学である『海道記』の冒頭の『白川のわたり、中山の麓に閑素幽栖の侘人あり』のもじり。『月花ヲ医ス』と言って、医者は人間を治療するが、俳諧師は月花を治療するとふざけた。『閑素幽栖』は隠者の生活。『野巫の子』は、やぶ医者のこと。『子』は男の意。月花を治療しながら隠者のような生活をしている、やぶ医者がここにいるという意味。螺舎は其角の別号。脇句は、そのやぶ医者の住まいの説明。春の草が生えている辺りの大きな家の隣だと詠んだ。其角は実際その大きいお屋敷の隣のあばら家に住んでいたのだろう。其角の実際の家を知っている人でないと面白みが解らない、いわゆる『楽屋落ち』の句である。
〈隠棲〉
延宝八(一六八〇)年 芭蕉三十七歳
其角二十歳
その日、日本橋の借家を訪れた其角が見たのは、憔悴しきった芭蕉の姿だった。もともと口下手で気重な一面もあったが、こんなに落ち込んだ芭蕉は見たことがない。どうしたことだ。延宝六年に万句興行で俳諧師として華々しくデビュー。翌七年の正月の句は『発句也松尾桃青宿の春』。我こそは松尾桃青だと自信満々だ。自分の名前を句に入れるという自己顕示。八年の正月には『於春々大ナル哉春と云々』の句。四月の『桃青門弟独吟二十歌仙』。八月の『田舎の句合』など。意気軒昂だった。今日はその欠片もない。当時の句『櫓の声波ヲうつて腸氷ル夜やなみだ』をみても分かるとおり、尋常な落ち込みではなかった。
「兄ィ。いったいどうなされた」
「角か。実は大変なことになった。ここにはもうおれぬ」
「どういうことです。話してください」
「おまえだけには訳を知っておいてほしい。あー。・・・わしはつくづく運がない。前におまえに話した甥の桃印。伊勢の久居にいる姉の子のことじゃ」
「何年か前、兄ィが江戸に連れて来られた」
「そうじゃ。あれほど言っておいたのに。ばかなやつ。行方知れずになったのじゃ。俳諧師にしようと、桃印という俳号まで与えたのを、裏切りよった。根っからの遊び人。極道じゃ」
「行方をくらましたのは。何か兄ィの心を傷付けたいという、心のわだかまりがあったのでは」
「そんなことがあるものか。こんなに愛情を注いできたのに」
「それが負担だったのでは。よく分りませんが。しかしそれがどうして大変なので」
「藤堂藩の藩法に背くことになるのじゃ」
「と、いいますと」
「わしもそうじゃが。他国にいる領民に厳しい決りがあっての。出国後五年目には藩に出頭せにゃならん。わしも定期的に戻っとるのはこれがため。桃印は、ちょうど今その五年目なのじゃ。違反すれば後見のわしだけではない。当主の兄半左衛門にも累が及ぶ。連座じゃ。悪くすれば死罪。江戸の藤堂藩屋敷に知られたら、もう終わり。取りあえずここは離れる。目立たぬ所に隠れないとな」
「それは大変。どうしたものか。・・・そうだ。杉風さんに頼もう。深川に生簀や小屋もあったはず。あそこなら辺鄙な新開地。隠れるには好都合。兄ィから杉風さんには、事情をすべて話しておかれた方がよい」
「わかった。杉風さんなら安心じゃ。そうすることにしよう」
芭蕉は少し安堵の表情をみせた。其角もほっとしたが、同時に、蕉門の前途を考えると大変なことになったと思った。
藤堂家は外様ながら藩祖高虎公以来、将軍家とは特に親密。将軍綱吉の厳格な治世を慮って領民から浮浪者を出すことを恐れ、率先して他国にいる領民に一斉帰国令を出していたのだった。
これを聞いた最古参の門人、杉風こと鯉屋市兵衛。間髪を入れず深川隠棲の手筈を整えた。さすが幕府御用商人。てきぱきした采配だった。杉風はもともと芭蕉と同じ季吟門。蕉門十哲の一人。スポンサーとして支え、師の変風にも追随。篤実な人柄で、終生支援を惜しまなかった。芭蕉は『東三十三国の俳諧奉行』とたたえた。杉風は聾者だったので、芭蕉は生涯聾を句に詠むことがなかったという。芭蕉成功の陰には、この杉風はじめ多くの協力者がいた。支えたいという気持ちを抱かせる、不思議な魅力が芭蕉には備わっていた。
延宝八(一六八〇)年冬、芭蕉は日本橋小田原町の裏長屋から、同じ町の隅田川対岸の深川に移り住んだ。同じ町で杉風が幕府御用達の魚問屋を営み、深川元番所には生簀や番小屋もあったのである。深川は辺鄙とはいえ、日本橋の奥座敷で風光明媚。遠くには富士山が眺められ、近くには船の行き来も見えた。それに不便だが、日本橋と違って大勢でも句会を催すことができる住まいだったから、芭蕉も気に入った。当時江戸の東半分は、隅田川をはじめ水路や掘割が網の目のように張り巡らされ、ヴェニスならぬ水上交通の町だった。天和元(一六八一)年に門弟の李下から贈られた芭蕉の株にちなんで、『芭蕉庵』と名付けられた。その安住の地を得た喜びに溢れた句。
李下、芭蕉を送る
ばせを(ばしょう)植てまづにくむ萩の二ば哉 芭蕉
近くに萌え出たひときわ生命力の強い萩の双葉。その双葉が、せっかく植えた芭蕉の生育を邪魔しないか。風雅な萩を憎むほど、芭蕉がいとしく気掛かりだという意。
深川の北、隅田川東岸の本所は、『本所七不思議』の話がある程の、狐狸妖怪の出る辺鄙な所。その『本所七不思議』の一つが、『置いてけ堀』。魚がよく取れるが、帰りしなにどこからともなく『置いてけ、置いてけ』という声が呼び止める。置いてゆけばよし、さもないと必ず道に迷うという話。その本所より更に辺鄙な深川である。当時の深川は陸路で行こうにも橋がない。舟でしか行けないから、隠れるには好都合だった。しかし考えれば、芭蕉の今度の隠棲は、せっかく『桃青門弟独吟二十歌仙』で旗揚げした一門を瓦解させかねない危うい行動だ。芭蕉がそれだけ切羽詰まっていたことが分かる。芭蕉の生涯で最も苦難と言ってよい時期、隠棲から『野ざらし紀行』の旅に出るまでの四年間。門人の足が遠のく中、この深川に頻繁に通い芭蕉を支えたのが其角だった。其角には生涯頭が上がらなかったはずである。
「兄ィ。ここなら安心ですよ」
「角や。いろいろ心配かけてしもたな」
「何をおっしゃる」
「角や。最近ふと考えることがあるんやが。俳諧の『はやり』ってなんだろうのう」
芭蕉が気弱な質問を投げ掛けたのに、驚いた。其角は何とか励ます必要を感じた。
「ただの移り気。人心が楽しみを求めさまよう。真っ当な美の追求なんてものではない」
「なんか流されるだけでは虚しいのう」
「しかし無視して御飯は食えませんしね」
「それさのう」
「しかし、それにしても残念です。万句興行されて、まだ二年にもなりません。江戸の俳諧宗匠として立たれたばかり」
「わしは道を捨てたのではない。逆じゃ。ちっぽけとはいえ、この高雅な文芸に命を懸ける心持は変わらん。隠棲しても皆との連句の楽しみは決して捨てん。安心しておくれ」
「それを聞いて安心しましたよ。連句で兄ィに太刀打ちできる人は、まずいない。私などもまだまだ」
「負け惜しみではない。今回の出来事では、いろいろ考えさせられた。わしがかねがね点取俳諧を嫌っているのは、角、おまえもよく分っていると思う。おまえの自嘲めいた句、『詩商人年を貪る酒債かな』ではないが。俳諧をやる人間が商売人になってはのう。最も忌むべきこと。主家を無断で出奔した、士族崩れのこのわしじゃ。俳諧師として食べていくため、名を成すことに汲々としてきた。しかし一度きりの人生じゃ。宗匠として人気者になるとか、金もうけを目指してきたのではない。まして、点取俳諧のようなものにうつつを抜かすために俳諧を志したのではない。今まだ主流の談林俳諧。この遊びに近い文芸を、いかに先人に恥じない物にするか。西行の和歌、宗祇の連歌と同じ高みに引き上げるか。この志を持ってやってきたのやからな」
「分かっています」
「江戸での活躍の道が閉ざされたのは残念じゃが。このたびの不幸は良い転機だと思う。ただわしだけが高みを目指すのでは決してない。わしが範となって、蕉門全体をこの志に向かわせるつもりでおる。そのためにおまえの力は欠かせぬ。わしが江戸で興行できなくなった今となっては、なおさらじゃ。江戸はおまえに頼むからな」
「私の拙い力でもお役に立てれば」
「拙いどころかおまえが頼りじゃ。蕉門を広げる力は、一枚も二枚もおまえが上じゃからのう」
「精いっぱい努めます」
「前にも言ったかもしれんが。何もかも捨て去っての。一切の力みから解放された無一物の安らかさ。庇の穴も、壁の崩れも、雨漏りでさえ、たまらなく美しく好ましい。世に背くことで初めて手に入れることができるものがある。これは負け惜しみではないんやで」
「私にはまだしっくりきませんが。そんなに老成ぶって急に枯れなくても」
「平たく言うとな。わしにとってはの。虱も大名も馬も遊女も大工も俳諧師も蛙も、みな同じ。人間が立派だと考えるのが、そもそもの間違いじゃ」
「兄ィの、蚤も大名も同じというのに同感です。我々の腹の中には屎と欲以外には何もない。公卿、士農工商、生きとし生ける者皆同じ。この屎と欲を隠して冠を正し、太刀をはき、馬に乗っている」
「屎とまで言うか。おまえも意外に冷めておるな。何か夢がなくなるのう。人の一番神聖な本能。愛はどこへ行ったのかのう」
「それが悟りというものですか」
「仏頂和尚に師事してたったの二年じゃ。悟りというには程遠いが」
芭蕉が終生、あの『奥の細道』の旅にも肌身離さず持ち歩いた『荘子』。それを学んだのもこの和尚からだった。
「そして兄ィは、なぜ自身の撰集(作品集)をお出しにならないのか。あの宗因師もそうでしたが」
「この江戸へ出る前に『貝おおひ』を出したではないか」
「蕉門を確立してからの話ですよ」
「ただ金がないからじゃ。ワッハハハハ。みなに施しを受ける身じゃ。借金してまで出すわけにいかんわな。もともとわれがわれがという体は好まぬ」
「それは名が立ったから言えることですよ」
「かもしれん。おまえには何もかも見透かされておるな。しかし、角や。今は蕉門として優れた作品を後世に伝えることが大切じゃ。特に連句などは、作者が誰であるかなど大した事柄ではない。みんなの協同の果実。どちらにしても撰集は、おまえをはじめみながわしの分も頑張って出してくれようぞ。だから、これからもわしの名で板本を出すつもりはない。世を捨てるからには、作った俳諧も捨て去るのが道理。わしは目指した風狂の道を、専ら一人のしがない方外の俳諧師として歩みたいだけなのじゃ」
「恰好つけすぎだなあ」
隠棲した深川の、芭蕉庵の台所の柱に懸けてあった、魔法の瓢(ひょうたん)。米入れだが、減っても自然に増える。杉風以下門人がその都度補充していたのだった。また各地から門人が食べ物を持参。ある門人が真桑瓜を持参したときの句『柳小折片荷は涼し初真瓜』。素直に喜ぶ芭蕉がいた。其角もその頃は二十歳を超えたばかり。貧乏長屋におり、師弟ともに貧しかった。芭蕉の六物と素堂が命名した持物といえば、この大瓢のほか小瓢、文台、檜笠、菊の絵、茶羽織があるばかり。日常の衣装も門人からもらっていた。ただ酒と茶と煙草は常用していたようだ。
芭蕉は頭を丸め、庵で座禅を組んだ。のち門人の文鱗からもらった釈迦像を安置。出家はしなかったが、旅には数珠を携え、精神的には禅僧として生きようとしていた。
それでも芭蕉はただ寂しく貧しい生活を送った人ではない。俳諧という無上の楽しみさえあれば、何ら他の楽しみを求める必要がなかっただけのことである。貧乏さえ、それを演じて楽しむ、心のゆとりがあった。
芭蕉は元来陽気で積極的。現代風に言うと外向的な人間である。だから俳諧といっても、とりわけ大勢で楽しむ座の文芸、連句を好み、また大の得意とした。蕉門の拡大に必要不可欠ということもあったが、終生生きがいだった。しかし、人間の性格は片面ではない。あの其角でも豪放でいて繊細である。人一倍鋭敏な有り余る感受性に悩ませられるのが詩人。憂鬱は付き物だ。だから隠遁せざるを得ない予期せぬ禍、人生の挫折を契機に、芭蕉のもう一つの内向的な性格が顕著に顕れる。もともとユーモアたっぷりの反面、慎重で学究肌。多くの門人に情熱的に語るのを常としたが、不思議に一対一の会話も好んだ。その聞き書きが俳論集になる程の含蓄ある話だった。また内省的であり、自己をありのまま見つめる自己凝視や、自己の心情を包み隠さず表現する姿勢は、俳諧の先人にはなかったものだ。
加えて、自分の志に向かう軌道の、その確認や修正を日々行うという生真面目さ。それゆえに流される類の生き方を極端に嫌い、もし門人にそういう点があれば厳しくいさめた。結果、それに耐えうる人間だけが門人として残ることになる。だから性格に陰陽はあるが、総じて強い意志と根性があり一筋縄でいかない人間が多かった。門人に罪人や罪人すれすれのものが散見されるのも、不思議なことではない。また芭蕉は融通の利かない堅物ではなかった。清濁合わせ呑むスケールの大きい人物である。芭蕉の恋句の妖艶と、わびの枯淡は同じコインの裏表だ。そして、もともと俳諧という明るい精神活動にとっては、義人も罪びともなかったのである。
〈ホーホケキョ〉
天和三(一六八三)年 芭蕉四十歳
其角二十三歳
さらに不幸が芭蕉を襲う。修羅場が人間を成長させるというが、過酷だった。天和二年の『八百屋お七の火事』。本郷の八百屋の娘『お七』が大火で焼け出され、駒込の正仙寺に避難。その際寺小姓の生田庄之助と恋仲に。だが店が立て直され、寺を引き払う。その後もお七は恋い焦がれ。店がまた焼ければ会えるという一途の思い。自宅に放火し捕えられ、鈴ヶ森で火刑に。西鶴が『好色五人女』に取り上げ有名になった。この火事で深川一帯、庵も焼失し芭蕉は焼け出された。点者としての成功を投げ出し隠棲を余儀なくされた、桃印の事件。これに続く苦難である。其角が『芭蕉翁終焉記』に『猶如火宅の変を悟り、無所住の心を発し』と記した通り、火に包まれた家のような苦界に世の無常を悟り、何事にも執着しない心境がさらに深まった。一時甲斐の国に疎開後、やっと江戸に戻った芭蕉を喜ばせたのは、やはり其角だった。其角編の『虚栗』が出たのだ。そして秋には、素堂・杉風・其角の肝いりで寄付金を募り芭蕉庵再建がなった。
『虚栗』は、其角編集の最初の俳諧集。江戸蕉門の最初の代表的俳諧集でもある。其角は芭蕉の期待通り、衝動のまま詠み散らしていた談林俳諧を客観的に内省的に自己評価、すなわち自省し、撰集を成した。
「ホーホペチョ」
「ホホホホケキョ」
「ホーホケッ」
「ホーケキョ」
「ホーホケチョ」
「ホーケキョケキョ」
「ヒーホケキョ」
「ホーホホホホケ」
「ホーホホケッ」
「ホーホケキョ」
「ホーホペチョ」
芭蕉と其角が、鶯の名所として有名な根岸の里に遊んだ。このところめっきり、人のざわつく場所を好まなくなった芭蕉。どんちゃん騒ぎが滅法好きな其角が、無理やり連れだしたのだった。この騒々しい現代からは想像もつかない、別世界のような静かな時代。鶯の、その澄み切った声があちこちからこだまのように響きわたる。コロラトゥーラ・ソプラノのような、技巧的な唱法。其角は、あの小さな身体からよくこんなに大きな声が出るものだといつも感心していた。
「角や。あの西行師が、花の下で死ぬのが本望と詠まれたが。鶯の里でも幸せに死ねそうじゃのう」
西行の歌は、『願はくは花のしたにて春死なんそのきさらぎの望月の頃』である。芭蕉の晴れやかな顔を見て、連れて来てよかったという思いを強くした。二人とも西行は憧れの人。話の端々に出る。
「何回聞いても飽きませんね。あの大きな声は。命懸けで鳴いているのですね。私は『ホーホケキョ』の優等生より『ホーホペチョ』の方が好きです。なんか愛らしい、かわいいじゃありませんか。しかし鶯はいつも練習に余念がない」
「まるでわしたち俳諧仲間のようじゃ」
「とても他人事には聞けませんよ。ウワッハッハッハ」
「おまえに『鶯の身をさかさまに初音かな』という面白い句があったな」
「覚えておられますか。うれしいな」
「あのさかさまの鶯は、角、おまえ自身のことじゃろう。そうそう、他にもいっぱい覚えとるぞ。俳諧の記憶は誰にも負けん。『茶杓にとまりたる絵に』の前書きのある句、『うぐいすの曲たる枝を削りけん』。鶯が止まった重みでしなった枝の、そり具合で茶杓を作ったという洒落だな。それと、『鶯に罷り出たよひきかへる』もあった。それにしてもおまえには鶯の句が多いのう」
「鶯は、逆さまになって鳴く私と、大違い。堂々と立派な鳥。あやかりたいと思いまして」
こう言って、其角が大きな舌をペロッと出した。
「おまえには珍しく殊勝なことじゃ。ワッハハハハ。最近は老いを嘆くようにしか聴こえなくての。寂しい思いじゃったが。今日は違う。おまえと一緒のおかげだろうな。透き通ったあでやかな艶のある、この声。ささくれ立った男の心を慰めてくれる、ありがたい声じゃ」
「私には『もっと遊べ遊べ』としか聴こえませんが。ウワッハッハッハッハ」
「おまえはまだ若いからのう」
「兄ィにも『鶯や餅に糞する縁の先』という面白い句がありました。あの鶯の糞には、まいったなあ。春雨の柳を詠む歌人には、とても詠めない」
「確かに。おまえの言うとおり。まだうまく鳴けない声もいとけない。いじらしいのう。成人前のまだ幼さの残る、りりしいおまえのようじゃ」
「そんな時もありましたね」
もともと閑かも好む人間だったが、連句の座をはじめ連衆の前では努めて明るく振る舞った芭蕉。一方、何不自由なく育ち、振る舞わなくても根っから明るかった其角。丁寧に慈しみ育てられた子供が持っている、あのあどけなさが其角にはまだ少し残っていた。鶯を逆さまにして喜んでいる其角。芭蕉はそういう其角を愛した。芭蕉は其角を自分の息子のようにかわいがり、其角は芭蕉を兄のように慕った。其角は、芭蕉から注いでもらった心からの愛情、これを何倍にしても返したい気持ちでいつもいっぱいだった。だから、芭蕉の前では特にきらきら輝いていたのだ。
「『武蔵曲』を編んだ千春がわしのことを『翁』と呼びよったわい。まだ四十歳になっておらぬのに。恐れ入った。まあ人生五十年という言葉があるが」
「二、三年前、嵐雪が『田舎句合』の序文に使っていましたよ。兄ィ。もうお忘れか」
「そうだったかのう」
芭蕉はこの『武蔵曲』で、初めて『芭蕉』の号を使用した。もっとも『桃青』の号もお気に入りで、終生併用したのだったが。
「兄ィもまんざらではなさそうだな。芭蕉庵の住人にふさわしく、落ち着いて見えますよ」
「そんなに老けて見えるかい」
「見えますよ。見えますとも。もともと老け顔だし。十歳は老けて見えますよ。兄ィの俳句もこの頃、破れ芭蕉そっくり。ウワッハッハッハ」
「年寄りをからかうものじゃない。雨風に破れやすいのがいいのじゃよ。まだおまえにはピンとこないだろうが」
「それ一色に染まるのはいやだなあ。わびだけでは私はいやだ。たまにははしゃいでほしい。若いときのように」
「それもそうだが、俳諧の風を改めるには強調せんとな。漢詩から学んだのも同じ。談林から決別するための強い意志じゃった」
「強い意志ばかりじゃ疲れますよ」
「安心せい。連句の楽しさは忘れてはおらぬ。連句があればいつでも若い頃に戻ることが可能じゃ。角や。この連句というもの。誰が考え出したものかの。これで飯が食えるのは実にありがたい」
「連句のいろんな決まり。複雑極まりない創造。いろんな主題が戯れる。子猫同士みたいに。くんずほぐれつ絡み合って。混沌としているようで一糸乱れぬ調和がある。一度この楽しみを知ると虜になってしまいます」
『連句』とは、一座の連衆が、絶えず変化流転してゆく芸術的雰囲気に浸りながら、何人かで共同制作する長詩のようなもの。四季の変化ばかりではなく、神祇(かみがみのこと)・釈教(仏教のこと)・恋・無常などを詠みこんで、さまざまな人間模様を描く。多彩である。最初は題材や表現をゆっくりと穏やかに運び、それから波瀾や曲折を持たせ、最後はテンポを速めて軽快に進める。いわゆる序破急の呼吸。そして、一番初めの句を発句という。これが独立したものが俳句である。発句には、季語を詠みこむことと、切れ字が求められる。最後の句は挙句と言って、祝言の意を込めてさらりと終わるのを良しとする。『挙句の果て』という言葉で今も使われている。月や花の句を出す場所が決められており、恋の句も必須である。四季を演劇の各幕とすれば、雑の句(無季の句)を幕間のように使って、季の変更をスムーズに行ってゆく。その他細かいルールがいくつかある。芭蕉の連句の革新も顕著だった。従来は前句の言葉の縁を頼って付けるいわゆる物附と、前句の意味を受けて伝える心附だけだったが、芭蕉は前句の匂い・情趣に応じて付けることを広めた。これにより長編の抒情詩になった。
超俗の芭蕉に憧れても、実際は日常のしがらみにとらわれて埋没を余儀なくされている門人たち。その連衆が日常の煩わしさから解放されるミクロコスモス、束の間の幸せの場が連句の座だった。そこで言葉の織物と呼ぶべき歌仙(三十六句形式の連句)が巻かれた。蕉門は強固な文芸集団だった。芭蕉は連衆とともに、元禄の市民社会に繰り広げられる人生詩を織り続けたのであった。
やはり発句は断片にすぎないのではないか。発句は連句にして初めて、浮世草子などの他の文芸と渡り合える内容を持つことができるのではないだろうか。五七五は余りにも短い。西鶴の俳諧からの転身なども気になる芭蕉だった。
「角や。おまえの編んだ『虚栗』は、まさしく新風。蕉門の誇りとするもの。わしも力を込めて鼓舞の跋(あとがき)を書いた。人の食えない実無しの栗どころか、どうしてどうして。高邁な栗じゃて」
鎌倉時代に優雅な連歌の作者は柿本衆、滑稽な俳諧連歌の作者は栗本衆と呼ばれた。『虚栗』の『栗』は栗本衆の栗であり、『虚』は即興であり言い捨てであって、成果(実がなる)を期待せず湧き出るままに無心に詠むという意味である。その序文を『凩よ世に拾はれぬみなし栗』の発句で結んでいる。拾い残しているみなし栗、すなわち室町後期の連歌師・俳人で俳諧の祖といわれる山崎宗鑑の心を、ここに取り上げるという意味だ。
「ありがたいお言葉です」
「おまえももう一人前。一人で生きてゆくのじゃ。いつまでも、大した金魚でもないわしに糞みたいにくっついていたって、ろくなものになれぬ。おまえの誇るべき才能を知る故にじゃ。このわし自身も諸先輩には感謝し大切に思っているが、自分の道は自分で切り開く気概でやってきた。『序破急』は自分で演じ切るのじゃ」
「言われなくとももう歩んでいますよ。ウワッハッハッハッハ」
「そうか。そうじゃな。しかしおまえの性向、気質からあえて言っておく。類まれな才能を無駄遣いせぬためにもな。世評や人気ほど無責任でたわいないものはない。あの石川五右衛門にしても、義賊と呼ばれたり、また大悪党になったり。毀誉褒貶に流されるほどつまらぬものはない。風雅の道は自分の中にある心の道、ということを忘れてはならん」
「分かっています。人気に惑わされぬようにですね」
「そのためには多くの門人に気を付けることじゃ。疑るのではない。自分をいつも戒めること。おまえの周りに集まる太鼓持ちに乗せられることのないようにすることじゃ」
「角や。まだわしも試行錯誤じゃが。自分流を貫くのはいいとして。奇抜な俳諧で世間を驚かすだけではな、いずれ行き詰まる。ひいては自分を見失うことになる。そういうわしも今まで、先人の和歌や漢詩に引っ掛けて機知を楽しんできた。しかしそれだけでは言葉の遊び。いつまでたっても和歌や漢詩の二番煎じと思わんか。おまえには釈迦に説法かもしれんが。俳諧としては、それを十分に消化し自家薬籠中の物にした上での。そこからむしろ離れ、別個の文芸として自立することが肝心。蕉門一丸となって、和歌や連歌では表現できない新しいものを打ち立てようぞ」
「兄ィ。私は色々試したいのです。古典を学んで奥行きを求めたいし。談林の良い所は更に推し進めたいし。人間の生き様を西鶴さんのように劇的に表現したいし。句作ではいつも大工になって家を建てる心持でいます。まず骨組み、訴えたい構想があり、そこに造作として詩情を注ぎ込む。詩情にそぐわない構想も確かにありますが。最初に詩情があって、それを形にする兄ィのやり方。もしかすると逆かなあ。頭でっかちと言われるかも。もちろん兄ィのやり方もわかっているつもり。実際そういう句も素晴らしい。いろいろあっていいと私は思う」
「おまえは学問もでき、頭の回転も早い。世間を面白おかしく描写するのがうまい。露悪は特に面白い。それが世直しにもなろう。いろいろあっていいのやが。だが一番大切なのは何を目指すかということ。それに人間は論理だけでは生きてはいけぬ。抒情はいつでも絶対必要なのじゃ。神聖なものにも官能は必要なのじゃ。それにしても、おまえの句は難解すぎるのう。そもそも一つの物語を、連句ならまだしも、たった十七文字の発句で詠むのは大変なことじゃ。ご政道を批判する句は確かにぼかさんとな。しかしそれ以外は、小ざかしい巧みな言い回しよりも、分かりやすさがむしろ大切。俳諧は庶民の文芸じゃからのう」
〈旅〉
貞享元(一六八四)年 芭蕉四十一歳
其角二十四歳
芭蕉と其角が二人三脚で進めてきた、漢詩文調。これは確かに談林の空虚な笑いからの脱却には有効だった。だが他方、ごつごつしてなめらかな調べを損ねてしまったことも事実だ。それがもとで貞享に入って急速に廃れ、代わりに流行ってきたのが貞享連歌体と言われる連歌風だった。二人とも、この風趣を志向することになる。しかし当時の芭蕉の句は、宗因の門人で貞門・談林の旧俳諧観を持っていた野口在色が、『句は賤しからねど、云う所大かた連歌の腰折れなり』と評したものだった。俳諧の重要な要素である滑稽や洒落がなく、かといって正風連歌には及ばない、連歌の出来損ないという意味である。確かに連歌は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて、和歌の会のあとの余興だった。その連歌が室町期になって高級な文芸になり、この連歌の息抜き・余興の言い捨てとして出てきたのが俳諧だ。だから在色はじめこの立場からは、俳諧の重要な要素である笑いや洒落が欠落した句は、『連歌の腰折れ』としてしか見えなかった。一見いかにも其角が喜びそうな在色の評であるが、別に同調することはなかった。其角は芭蕉の高邁な志と実力を知りつくしていたからだ。自分の俳諧の沈滞に焦燥感を抱いていたであろう芭蕉は、この窮地を打開すべく旅に出ることになる。其角はしばらく芭蕉に従ったが、のち我が道をゆく。志向したのは『洒落風』だった。後に芭蕉が『軽み』を標榜するに至って、袂を分つことになる。
其角が起こした『洒落風』とは芭蕉の幽玄・閑寂に反して、都会趣味で、警抜な着想と新奇な趣向により、凝った技巧を用い、頓知・洒落を利かせたもの。
『句兄弟』三十九番
兄
声かれて猿の歯しろし岑の月 其角
弟
塩鯛の歯茎も寒し魚の店 芭蕉
其角編集『句兄弟』上中下三巻の上巻は、三九番の発句合。類作があっても等類(作為・表現等が先行作品に類似していること)でない所以を、其角自身が判詞に記したもの。この『句兄弟』が刊行されたのは芭蕉が亡くなった元禄七年。自分の句を兄として芭蕉の句の上に置いたのは、実力の誇示というより才能の自負であろうか。悪意はないものととりたい。これは三九番だから最終の句合である。近代詩を思わせるような、鋭利な抒情を表現した其角。中国の詩人が詠んだ巴峡の哀猿の、断腸の叫びを描いた。月の白さが、その思いを相乗する。猿のむき出した歯をクローズアップした奇才。芭蕉は自分にはない異質な、其角の鋭利な感覚に圧倒された。これに対し芭蕉はあえて、これまで誰も俳諧に取り上げたことがない日常生活の一コマを無造作に詠む。投げ返したのは、余計な作為が一切ない、ただの棒球だった。其角のむき出した猿の歯ぐきから、芭蕉は塩鯛の歯ぐきが造作なく浮かんだらしい。だが其角の猿の歯に対し鯛の歯とは。競争心むき出しではないか。ムキになった芭蕉自身の歯の方が鮮明だ。下五の『魚の店』が老吟だと自讃。其角も、下五は『老の果』や『年の暮』を持ってきがちなところ、活語の妙だと褒めている。しかし、その才智溢れるゆえに、作為ありありの其角、その才気走った其角への戒め・教訓ともとれる。芭蕉は其角に対し、生涯決して自分の風を押し付けたことがない。自分に合させようとしなかったし、合させようとも思わなかった。そういう相手ではない。一家をなした其角を、自分よりも才に恵まれた芸術家と認め対等に接した。
次も二人の句風の違いが鮮やかな例として引用されることが多い。『虚栗』から。
草の戸に我は蓼くうほたる哉 其角
其角の句に和して、という意味の前書きを付けた芭蕉の句は
あさがおに我は食くふおとこ哉
其角の句は当時ポピュラーだった謡曲『鉄輪』の、『我は貴船に河瀬の蛍火』の語を踏む。そしてこの謡曲も、和泉式部の次の歌を踏む。
『男に忘れられて侍りける頃、貴船に参りて、御手洗川に蛍の飛び侍りけるを見て詠める。物思えば沢の蛍もわが身よりあくがれ出づる魂かとぞ見る』
『あくがる』は、何かに誘われて魂が肉体から離れるという意味。そしてこの句は、俗諺『蓼食う虫も好き好き』を踏む。昼は姿を見せないで夜飛び回る蛍。自分も、昼はぶらぶらして夜になると遊び回っている。しかしただの遊び人ではなく俳諧が好き。しかもその熱中ぶりは、女性が嫉妬から鬼に変身するくらい、魂が肉体から離れその情熱に身を焦がすほどというのが句意。其角の技巧がさえた句である。
これに対し芭蕉は、遊び好きの其角と違って、朝顔が咲いている時間にきちんと朝飯を食っていると詠んだ。其角をからかいながらも軽く諌めている。奇を衒わない平凡な生き方の中にこそ、俳諧の道が大きく開かれていることを指し示した。前の『句兄弟』と同様、これからの二人の俳諧人生が大きく乖離することを象徴的に暗示している。ここでも其角のたぎる気迫に、たじたじの芭蕉。蓼くう蛍と飯食う男。さてどっちが勝つか。芭蕉は其角のあふれる才能と若さに術がなかった。技巧では負けたのである。寝技に持ち込むぐらいしか対抗しようがない、開き直った芭蕉がいる。あるいは負けたふりをしたのか。フェイントでいなしたのか。まだ二人とも若い。完全なライバルだった。鮮烈な其角に対し、冷静でひたむきな芭蕉。二人の俳諧に対する情熱は、甲乙つけがたかった。
お互いの俳風の違いを意識せざるを得ない二人だったが、芭蕉から深川隠棲のいきさつを聞いて以来気が気でならなかった其角。しょっちゅう芭蕉庵へ足を運んだ。
「気のせいかなあ。兄ィは最近何か一本筋金が入ったようだ」
「何か今までがふにゃふにゃだったように聞こえるぞ。ワハハハハハ」
「そうひねくれちゃ。ひねくれるのは俳諧だけで十分。ウワッハッハッハ」
突然襲った過酷な運命をあるがままに受け入れる、心のかたち。芭蕉がこれをつかんだらしいのを知って、其角はうれしかった。根本寺住職の仏頂和尚との出会い。これも大きく与かっているとの確信を持った。たまたま寺領を巡る鹿島神宮との争いのため、江戸に来ていたのだ。仏頂はその争いに勝訴したあと、根本寺住職の地位を弟子に譲り、行脚生活に入った。この潔い引き際も、芭蕉に鮮烈な印象を与えた。
「角や。またおまえに話がある」
「もう兄ィには何を言われても驚かない。出家、隠棲、まだ何かおありですか」
「実は旅に出たいのじゃ」
「旅。旅というと、兄ィの母上の一周忌、故郷の伊賀へでしょうか」
「それもあるが、これから死ぬまでの話じゃ」
「死ぬまで旅を。確かに放浪は最も男に似つかわしい姿。生来男は女と違って粗雑だから。しかし、素堂詩兄の尽力で芭蕉庵が再建なったばかりですよ。兄ィは余りにも身勝手すぎる」
「皆さんの熱い情けは重々わかっているつもり。だが例の桃印の件で、江戸での活動もままならぬ。最後の気ままじゃ。許してくれんかの」
歌仙に恋と並んで旅が独立して詠まれた通り、娯楽が少ない当時の人々にとって、最大の楽しみの一つが旅だった。今も使われている、『下らない』という言葉がある。当時上方(京都)から下ってこないもの、すなわち関東各地から入荷する『地廻り物』は安物、という意味だ。江戸の人々にとって、高級品が送られてくる上方は憧れの地。お伊勢参りが一番ポピュラーであり、京都に立ち寄るのがお決まりのコースだった。芭蕉の旅も元禄の泰平の世のなせるわざ、と言えなくもない。だが無常感からであろうか。行きかう年も旅人と感じた芭蕉である。自然の中で自分を見つめるには『旅をすること』が欠かせないと考えたのだった。身体を安逸な場所に置くことを文明の特権と考えている現代人。その現代人からは、はるかに遠い心情である。
「旅でどうなされるおつもり」
「もう住まいも引き払って漂泊する覚悟ができている。ぬるま湯から身を離して、修羅場に身を晒したいのじゃ」
「別に旅に出られなくても。兄ィは草庵で十分自身を律する強い精神をお持ちだ。それに、俳諧師というより人間としての生き方が問われると思いますよ。兄ィはすてさんや子供たちを見捨てて、自分の俳諧の道を極めるために、明日の命がわからない旅に出ようとされる。私にはそんな選択は理解できませんよ。文芸は人々の生活を豊かにまた幸せにするためにある。家族を幸せにできない人間がどうして俳諧で人々を幸せにできましょうぞ。まずその資格がないし、できたとしてもそれは偽りでしょう」
「大義のためには許されるのではないかと思うてな」
「何が大義ですか。主君や御国のために個人をないがしろにする。女に対して家族への献身と称して自己否定を強要する。それと同じ考え方。私はどちらも嫌いです。そんなためなら、ない方がましだ」
「角や。そんなに苛めんでくれんか。わしは聖人でもなんでもない。流されるに決まっておるのじゃ。現に今でも皆の援助で情けない生活をしている。このような生活では、いずれ心の自由も失うことになる」
「兄ィの御家族が不憫で仕方がない」
其角が諌めたのも尤もである。そもそも芭蕉は世捨て人になって旅に出られる身ではない。独り身ではないのだ。家族持ちである。そして人一倍やさしい芭蕉。すてをはじめ家族への後ろ髪をひかれる思いは尋常ではなかったはずである。『古人も多く旅に死せるあり』と開き直ったのであろうか。果して縁からわが子を蹴落として家を出た西行を思い浮かべたのであろうか。其角編『続虚栗』に載せた『痩せながらわりなき菊のつぼみかな』の句を思い出したのであろうか。それでも家族を捨てた芭蕉。しかも身の衰えを顧みず。特に奥羽の旅は、生きて戻れないような百五十日、六百里の遠い険難な旅程。作品の完成の為には、他の一切の犠牲も厭わない。強い怨念で女が鬼に変身するような、自分の身を焼き焦がす程の鬼鬼しい詩への情熱。もう自分の理性や意思ではどうにもならない狂おしい情熱。人は、これを狂人と呼び天才と呼ぶ。また悲劇と呼び宿命と呼ぶ。そして私達は、この苦難の旅から、風雅の高い境地を共感できる幸せを享受している。
男は衣服や御馳走や甘い囁きや話し声などという、自分の肌で感知できる世界だけでは満足できない動物である。音楽ほどの抽象性はないが、言葉による造型という日常生活には何ら役立たない営為。芭蕉は、これにしか生きがいを見いだせなかった人間である。どうしようもなく芸術家だった。芭蕉は人間世界を通して、更に人間世界を飛び越えて、別の世界を見つめていたのだ。芭蕉が今の時代にもし生き返ったら、きっと言いたいだろう。詩は出世や家庭円満や長寿の寿と共には元々生まれにくいものだ、現代はそれさえもあやふやな野暮な時代になっているではないかと。
「なぜ今なのですか」
「俳諧の文芸としての一本立ちに自信が持てたからじゃ。この実践の場が旅。漢詩と和歌と連歌、この三つが捉えきれない物を俳諧という庶民の文芸に求める。俳諧の風雅をな。わびじゃ。これがなによりもうれしい」
「そういえば『春雨の柳は連歌なり、田螺とる烏は全く俳諧なり』とおっしゃっていましたね。しかし兄ィは一本立ちできても、家族はどうなるのです」
「・・・・・」
「その非情は」
「ううっ。わしは何と言う薄情者。じゃあー・・・。一体どうすればいいんじゃろう」
頭を抱えながら小刻みに身体を震わせ、うめきともとれるような大きなため息をついた。男は泣かなくても辛抱できる動物だが、芭蕉もこの時は不覚にも泣いてしまった。其角の前では恥ずかしくも何ともない。素が出せたのだ。其角は、一応言ってはみたが、芭蕉の生き方が変わるとは思っていなかった。その半端でない芸術家魂を知っていたからだ。
芭蕉が傑出した才能を持ち、大の得意としていた連句。しかしこれは西鶴の世界だ。連句に情熱を注ぎ込んでも、人間世界のストーリーテラーとして既に王道を歩んでいた西鶴の二番煎じ。先を越されたという焦り。俳諧を捨てて草子作家に転じた西鶴への反発もあった。西鶴にはない自分独自の世界をいかに築くか。芭蕉はもがいた。しかし見つかったのだ。古典を学んだお蔭である。それは日本の伝統、『わび』だった。これだ。風雅で俳諧を極める。西行・宗祇・利休・雪舟に次ぐ五人目となる。この『わび』で一家をなすという野心が芽生えた。うれしかった。桃印事件で江戸での活躍を断念せざるを得なくなった失意。これを逆手にとって旅に出るのだ。芭蕉の高邁な芸術も、初めは高い志というよりは、男くさい戦略的な挑戦だったのである。
「わしには器用な生き方はできぬ。これからは全国を行脚しようぞ。門人を増やすのは、やり手のおまえに任せてばかりだったが。わしも蕉門拡大に励むからのう」
「俳諧人生を行脚に賭けると言われるが。兄ィは昨年師走の『八百屋お七の火事』がよほどこたえたのではありませんか」
「確かに。焼け焦げたあの臭い、鼻についていまだに離れぬ。焼け落ちた家々。まだ煙を上げている家。泣き叫ぶ子どもたち。ぼうぜんと路地にうずくまる老人。髪を振り乱して子どもを探す母親。わめき散らす男。夜になると所々に焚かれる篝火。生き地獄のおぞましいものじゃった。それに、深川にこもってから、仏頂和尚に出会ったことも大きい。参禅によって造化に帰る大切さを学ぶことができたのでな」
『造化』とは天地万物を創造し育てる造物主のこと。芭蕉は『造化』の創造力と一体となって美を求めること、そして四季の移り変わりが果てしないように、人間自身も絶えず革新すべきことを説いた。
「兄ィの師匠ともいえる西行師の生き様も頭にあったのでは」
「人生は死に至るまでの旅。その道行の一日一日を大切にしたい。そして、逆境に身を置いて初めて見えてくるものがある。俳諧で、いかにすれば古典文芸の高みに至ることができるか。その解決の糸口が見つかると思うてな。とにかく旅で死んでも本望じゃ」
「それは美しすぎるのでは。俳諧師らしくありませんよ」
「一本とられたの。ワハハハハ。実はわしは寂しがり屋での。一人旅は好まぬ。仲間内のにぎやかな集いも大好きなわしじゃ。誰か同伴者を見つけることにしようぞ。俳人らしくな。まだまだ西行師には遠いのう」
泣いた烏がもう笑っていた。其角は安堵した。芭蕉の童心のような純粋な心にまた触れることができた気がした。
『西行物語』には、出家遁世の決意で家に帰った西行が、四歳になる娘がまつわったのを縁から蹴落としたとある。そういう苛烈さを芭蕉は持ち合わせていない。西行の旅は単独行動だったが、芭蕉の旅には皆同伴者がいた。『野ざらし紀行』の千里。『更科紀行』の越人。『奥の細道』の曾良。野ざらしの旅の三年後の『笈の小文』の旅だけは一人旅だったが、途中で愛弟子杜国と落ち合ったし、道中門人がおり心配がなかった。芭蕉の旅をセンチメンタルにしたがる傾向があるが、『奥の細道』の旅などで泊まったのは地方の名士、富商が多く、むしろしたたかな面もある。芭蕉は旅を通じて、伊勢・尾張・近江など広範囲に門人を増やしてゆく。連衆と楽しむ連句を武器に積極的に活動した。芭蕉は高邁なことを、冗談を交え面白おかしく話す天才だった。
『野ざらし紀行』は、延宝四年三十三歳の時伊賀に帰省しおいの桃印を伴って江戸に戻って以来、九年ぶりの旅だった。この旅は母の一周忌、髪舎利。その時の句『手にとらば消んなみだぞあつき秋の霜』は、母の遺髪を手に取ったら私の熱い涙で秋の霜のように消えるだろうという慟哭の詩だ。『笈の小文』の旅は五回忌、肉舎利。『奥の細道』の旅は七回忌、骨舎利。野の草に涙する芭蕉である。母との別れの辛さはいか程だったか。その死に目に会うことは叶わなかった。『片雲の風に誘われて、漂泊の思いやまず』出た芭蕉の旅は、その後悔の旅でもあった。
杜国は尾張名古屋で町代を務めた富裕な米穀商。芭蕉七部集の一つ『冬の日』の連衆として芭蕉に入門。翌年、空米売買の罪で領内追放となり、三河国保美村に隠棲。芭蕉から人柄と才能を愛され、『笈の小文』の旅では芭蕉がわざわざ隠棲の地を訪ね、翌春には杜国が万菊丸と称して吉野・熊野に同行。旅先で寝所を共にした時の芭蕉の遊び心にあふれた戯画、『万菊丸いびきの図』が残る。三十余歳で早逝し芭蕉を悲しませた。