最初へ

「若き日の松尾芭蕉」

文春新書『伊賀の人・松尾芭蕉』出版の経緯とねらい

 

 本書出版のきっかけは、平成三十年に出版した小説集『芭蕉と其角ー四人の革命児たち』(芭蕉・其角の小説とモーツァルト・ベートーヴェンの小説を収載)に遡ります。この芭蕉・其角の小説は伊勢新聞に百二十回連載したものですが、その執筆に際し芭蕉関係の各種文献に当たる必要に迫られました。そして、その折々に印象に残ったものや感銘を受けたエピソードなどを書き留めるうち、小説とはまた違った形でまとめたいという思いが強くなりました。幸いにもこれが「芭蕉の横顔」というタイトルのエッセーとして朝日新聞伊賀版に六十回連載され、そして、今回文藝春秋より、これをベースに、文春新書として出版の話を頂きました。ただこれには、新書へのハードルがありました。一つは新聞連載のテーマがアットランダムだったので、芭蕉が江戸へ出る前と後、旅の芭蕉、門人たち等の大きな括りで、この順番を組み替えること。あと一つは新書のボリュームにするため、大幅に加筆すること。この編集者との二人三脚の作業は大変でしたが、それでも、徐々に一冊の本に仕上がってゆくのは心地よいものでした。この出版は、文藝春秋の企画・編集・校閲・営業・宣伝など多くの方々のご尽力の賜であり、感謝に堪えません。そして小生を含め伊賀出身者は、従来芭蕉というと江戸深川の芭蕉庵から旅をしたというイメージが強く、生地伊賀の影が薄いことに歯がゆい思いを抱いてまいりました。「芭蕉は江戸ではなく伊賀の人として俳諧人生を全うした」、という趣旨を踏まえたタイトルでのこの度の出版は、かかる意味で大きな喜びでした。            

 述べ尽されてきたともいえる芭蕉像ですが、出版のねらいは、神様ではない人間芭蕉を描くことで俳聖芭蕉誕生の秘密に迫ることにありました。そして七十以上のテーマで芭蕉の多彩な魅力をわかりやすく表現することに腐心致しました。さらに芭蕉像の輪郭の鮮明化と舞台の彩色に、芭蕉の一番弟子其角と、同時代人西鶴を配置しました。小生の出版は従来俳句や小説という創作が主体でしたが、今回は評論・エッセイの試みです。手前みそになりますが、芭蕉専門家とは一風変わった作家としての視点・視野と、俳句実作者としての経験が与かってなったものと思っています。

 本稿では芭蕉が生地伊賀から江戸に出るまでを、新書とは違った切り口で辿ってみたい。

 

抱きすくめられた芭蕉

 

「宗房や。わたしは、こうしておまえと二人で俳句の話をしているときが一番幸せなのだ」

「わたくしも同じでございます。若様のおそばにお仕えする、これ以上の幸せはございません」

 若様は、嫡子として藤堂新七郎家を継がねばならぬという足枷(あしかせ)さえなければ、一生の生業にしたいというほどの俳諧好き。そして、師と仰ぐ北村季吟先生も認める、豊かな才能に恵まれていた。一方宗房(のちの松尾芭蕉)は、俳諧の才能を認められ、若様のおそば近くに仕える小姓として引き立てられた俊英。若様はその際立った才能を持つ宗房をいつくしんだ。

「宗房や。死を恐れなくなる場所とは、いかなるところであろうの」

「満開の桜の下と西行師は詠まれましたが、人が踏み入れない程奥まったところにある湖にも惹かれます」

「遠慮はいらぬ。もっと近うよれ、宗房」

「はい」

 勉学にいそしむ旨告げてあるので、誰も入ってくる気遣いはなかった。若様は宗房の穢れのない美しい手をとり、その手の甲にそっと口づけした。そして宗房の身体を強く抱きしめた。突然抱きすくめられため、戸惑い、一瞬身を固くした宗房だったが、その心地良さに、いまは放心したかのように見える。触れる着物がひんやりと感じられる季節だったが、そうは思えないほど上気していた。

「もっと強く抱きしめてくださいませ、若様。もうこのまま息絶えても本望というほど幸せでございます」

 宗房は若様に気を使ってそう述べたのではない。心底うれしかったのである。いつも一緒にいたいほど慕っていたのだ。言葉をかえれば、愛していたのだった。

「こうして二人、息が絶えるまで一緒におりたいものだ。わしは俳句とおまえがあれば、他に望むものとて何もない」

「一生離れたくありません」

 若様は元服間もない十六歳、宗房は二歳下の十四歳。二人とも男盛りというには間があり、あどけなさが残る美少年だった。いや、二人そろって華奢な身体つきであり、かつ色白でおとなしい目鼻立ち。美少年というより、美少女と言ってもいいほど艶やかだった。しかし、ただ美形だったというだけではない。今の私たちには十五歳前後と言えばまだまだ子供のイメージだが、当時は自分の人生設計が十分できる立派な成人だった。だから、この二人も子供のじゃれ合いでは決してない。大人の相愛だったのである。

 

 この時から二人は、主従関係を超えた学友となり、さらに読書にも一つの灯火を分かち合う親しさで接するように変わった。

「今日は季吟先生が、京都からわざわざお見えになるが、こんな機会はそうそうない。父上には許しを得ずともよかろう。わたしが特別に許す。私の後ろで先生の講義を一緒に聞くがよい。遠慮はいらぬ」

「ありがたき幸せでございます。こんなにうれしいことはございません」

 宗房の満面の笑みをみて、若様も満足の様子だ。何より学問・芸術好きの宗房。天にも昇る心地がしたのは言うまでもない。

 

 冒頭にこのような唐突な文章で恐縮ですが、これは宗房と名乗っていた若き日の松尾芭蕉を描いた筆者の創作です。筆者はこれに近いものが実際にあったと信じて疑いません。

 

 さて、宗房(以下芭蕉)を抱きしめたのは、芭蕉が当時小姓としてお側近くに仕えていた若様である。藤堂藩は、今の三重県の県庁所在地である津に本城があり、分城が伊賀にあった。その伊賀付き侍大将藤堂新七郎家(五千石)の若様である。伊賀付き侍大将は他に、藤堂采女家(城代 七千石)と藤堂玄蕃家(五千石)があった。

 男色は、江戸時代に衆道と呼ばれた男子の同性愛だが、当時は何らいかがわしいものではなかった。僧侶や武家だけではなく、町人にも容認されていた風俗である。あの辣腕井原西鶴も、男色を文学の素材にしている。年上の愛する側の男性を兄分または念者(ねんじゃ)、そして愛される側の年下を稚児または若衆(わかしゅ)と呼んだ。

 それはしばらく置くとして、このような形で抱きしめられるのは、芭蕉にとって、母親に存分に抱きしめられて育って以来、初めてのことだったろう。芭蕉のこの若い頃の〈抱擁体験〉。これは芭蕉が一生涯求め続けた「俳諧のありよう」を決定する体験だった。それは、芭蕉の俳諧に接した読み手の誰もが感じる、「抱擁された時に感じる幸福感」だ。人々を俳諧で幸せにしたいという芭蕉の願望は、この体験があって初めて育まれたものだったに違いない。

 

芭蕉の出自

 

 藤堂藩に無足人制度というのがあり、芭蕉はその生まれだ。無足人とは、人足としての徴用を免除された下級武士、郷士のこと。この制度は、藤堂藩統治以前からの土豪の懐柔策として作られたものである。また、無足人を大庄屋や庄屋に任命し、領内の末端の統治を担わせていたケースもある。芭蕉の父は生涯仕官が叶わず、兄半左衛門も初めは浪人だったが、のち陪臣ながら藤堂玄蕃家に仕官が叶っている。

 惣領ではない部屋住みの芭蕉は、武家奉公人になったが、小姓に抜擢され、若様のお側近くに仕えることができた。この抜擢は、文武両道を重んじる藤堂藩にあっても、新七郎家が特に学問・芸術を重んじる家風で、当主良清が和漢の学に造詣が深く詩歌にも堪能だったことが背景にある。そして、芭蕉の傑出した学才が城下に響いていたであろうし、また松尾家のルーツが柘植(現伊賀市)の城主という、その家格も与かってのことだったのだろう。伊賀に寺子屋制度が成立していたか疑わしい時代に、無類の俳諧好きだった若様の学友として、京の北村季吟(以下季吟)の薫陶を得られたことは幸運というほかない。

 さらに付け加えれば、織田信長が天正伊賀の乱で伊賀の地侍を殲滅掃討したのだが、信長に反抗し奮戦した伊賀侍の中に、芭蕉の松尾家も入っている。芭蕉のその敗残者の血は、木曽義仲・源義経や明智光秀などの敗者への温かい眼差しと無関係ではないと思われる。                        

 

藤堂高虎

 

 三十二万石の大藩だった藤堂藩は、外様大名だが、藩主藤堂高虎が家康の側近だったため、「別格譜代」の格付だった。高虎は、その出世に徳川譜代から妬みを買ったこともあり、主君を次々と替え信長・秀吉・家康の三代に仕えた世渡り上手、と揶揄された。さらに幕末の鳥羽伏見の戦いで、藤堂藩が新政府軍側に寝返ったことで、藩祖高虎の悪評に追い打ちをかける。しかし実際は、真反対。「大坂夏の陣」の先鋒はじめ数々の戦功を積み重ねた、正真正銘の武将だった。世渡り上手という揶揄は、義を重んじた努力家あるいは苦労人とでも言い換えるべきだろう。残した家訓は「高山(こうざん)公御遺訓」と呼ばれ、苦労人ゆえの含蓄に富むものだ。また温情豊かな人格者で、かつ茶の湯や能楽を好む文化人でもあった。座右の銘は、「寝屋を出るよりその日を死番と心得るべし。かように覚悟極まるゆえに物に動ずることなし。これ本意となすべし(今日が死ぬ日かもしれないという覚悟を持って日々生きるべきだ、この覚悟があれば何物にも動じることはない、という意)」だった。

 高虎は身長六尺二寸(約一九〇センチメートル)を誇る、当時稀な大男だったようだ。そして、その身体は如実にその戦歴を物語る。指の一部の欠損など、弾傷や槍傷で隙間なかった。ちなみに七五歳で高虎が死去した際、遺骸を清めた若い近習(森石見)が、満身創痍という形容そのものの姿に驚いたと言われている。

 家康の信頼が熱く、侍従として臨終にも立会う。「家康茶会」のメンバーで、のち自分の茶会に二代将軍秀忠を招待した程だ。また江戸城など築城の名手として名高い。関ケ原の戦いの際、敗戦時の退却を想定し、伊賀上野城を堅固にした。その石垣の高さは三十メートルあり、大阪城に次ぐ。

 芭蕉の仕えた若様の祖父藤堂新七郎家初代の良勝は、高虎の従弟にあたり、新七郎家と藤堂本家は特に近しい血脈だった。その良勝に高虎は全幅の信頼を寄せ、良勝は高虎の戦いのほぼすべてに従軍したが、惜しくも大坂夏の陣で命を落としている。

 

芭蕉の先生・北村季吟

 

 伊賀の上野は「小京都」の一つに数えられているが、今も京都府に一部隣接するほど地理的に近いことから、京都の文化的影響が強かった。芭蕉が仕えた若様が、京の季吟に師事したのも、自然な流れである。若様の俳号蝉吟(せんぎん)の「吟」は、師の季吟から授けられたものだ。若様は跡取りであるから、自由に領外に出ることは許されない。その若様に代わって芭蕉が、季吟に指導を仰ぐ文通の、往復の任に当たったことは十分考えられる。それにより、若様だけではなくこの芭蕉も、親密の度を増したことだろう。この蝉吟公が二十四歳、芭蕉が二十二歳の時、「貞徳(季吟の師だった貞門の祖松永貞徳)十三回忌追善五吟俳諧百韻」(「野は雪に」)を、当時伊賀俳壇のリーダーだった蝉吟公が主催した。発句が蝉吟公で、脇句を季吟が務めるという厚遇である。これは芭蕉の一座した連句としては最古のものである。京の季吟は脇句だけでの参加であるから、同座はしていなかったと思われる。芭蕉は貞門俳諧から出発したのである。

 

発句は

 野は雪に枯るれど枯れぬ紫苑かな  蝉吟公

脇句は

 鷹の餌乞ひと音をばなき跡  季吟

 

 発句の季は雪で冬。貞門は掛詞が「おはこ」である。「紫苑」は「師恩」と掛ける。野が雪に埋もれても紫苑が枯れないように、貞徳の師恩は忘れることがないという意。脇句の「餌乞ひ」は餌を欲しがること。「なき」は「鳴き」と「亡き」を掛ける。鷹が餌を欲しがる甲高い鳴き声が、貞徳の亡き跡に聴こえるという意。

 

 伊賀時代の芭蕉の真蹟は数少ないが、次の蝉吟・芭蕉両吟の真蹟短冊を軸装にしたものが伊賀に伝わっている。

 

 見とれいる顔もややよ目八重桜  蝉吟

 (『続山井』に入集(にっしゅう)の句。「よ目」は「良目」で見目良い様のこと。八重桜を見とれている顔も一段と美しく見えることだ、の意。)

 

 花にいやよ世間口より風の口  芭蕉

 (花の乙女が気に掛ける世間口だが、花にとってそれより嫌なものは、風を吹き出す風神の風袋の口だ、の意)

 

 季吟の息子の湖春がニ十歳頃に湖春撰として出版した『続山井』に、当時二十四歳の芭蕉が三十一句入集し優遇されているのは、季吟の意向が反映されているとみられる。湖春はのち季吟の幕府歌学方を継ぐが、芭蕉七部集の『あら野』や『炭俵』に入集されるなど、蕉門と交流があった。

 季吟は後に幕府歌学方の地位に就く上昇志向が強い人物だったが、上級武士の蝉吟亡きあとも軽輩芭蕉への指導を継続し、芭蕉が江戸に出て間もない頃に、免許皆伝とも言うべき俳諧の作法書『埋木(うもれぎ)』を授けている。芭蕉の傑出した才能を認めてのことだったのだろう。いずれにしても古典の注釈などの歌学者としての力量が評価され、俳諧師としては破格の出世である。一方芭蕉は浮世の毀誉褒貶に重きを置かなかったため、二人は自然に疎遠になったものと考えられる。

 

 下級とはいえ武士の生まれ。親戚にも武士が多い。芭蕉も『笈の小文』に記した通り、仕官し立派な武士になるのが一番の夢だった。実際、若様の小姓として仕えた藤堂新七郎家で、当主及び若様から「宗」の字を賜るほど信頼を得て、将来ニ百から三百石取りの武士も夢ではなかった。

 それが暗転する。芭蕉を平凡な武士に終わらせないという、天の配剤だろうか。若様が早逝したのだ。わずか二十五歳。芭蕉二十三歳のことだった。主君の命により、芭蕉は若様の位牌を高野山の報恩院へ納める使者を務めている。

 芭蕉は後継となった若様の弟へ奉公すべく命を受けたが、辞退した。命にそむいた出奔者として本来なら追われる身になるのだが、藤堂家には武士退身の作法というのがあったという。去る者は追わず。同僚に書き置きを残した上で出奔することを暗黙に許すというものだ。芭蕉が主家を去ったのは、二君に仕えることを潔しとしなかった故であり、扶持米取りではない小身だったから、とがめもなかった。それどころか、主家の新七郎家は、若様の死という不運からのやむなき芭蕉の退身を、むしろ不憫とし、その後も何かと支援を惜しまなかったようだ。武家の義理には温情もあったのだろう。そして、芭蕉は藤堂藩致仕後も、終生手紙には「拙者」という武士の言葉を使い、武士の生まれを矜持とし、品性を重んじた。意識としては生涯武士だったと言ってよい。

 

季吟門の友人

 

 芭蕉には、この季吟の門人仲間との交友がいろいろとあった。

 まず、故郷伊賀を離れ江戸に旅立つ芭蕉に、日本橋小田原町の貸家を提供したとされる小沢卜尺(ぼくせき)は、江戸日本橋大舟町の名主で、季吟の門人だった。江戸に出る芭蕉に伊賀から同道したのが、この卜尺の息子と久居藤堂藩の藩士と言われている。卜尺はのち芭蕉にも学ぶ。芭蕉が宗匠立机する前の一時期、町代として携わった上水工事は、幕府の重要インフラで公安関係の職務でもある。これは、服部半蔵がトップの江戸城警護部隊を有し、かつ築城・土木でも名高い藤堂藩の推薦のほか、この卜尺のあっせんによったものとされる。また、伊賀の実家の近くに、高虎の右腕と言われた土木の専門家、西島八兵衛の屋敷があり、その謦咳に接することができた可能性がある。何故ならその息子が芭蕉の門人になっているからだ。

 次は、同じ季吟門の中で芭蕉の兄貴分に当たり、生涯の盟友となった山口素堂(以下素堂)。次の句で有名だ。

 

 目には青葉山ほととぎす初鰹   素堂

 

 漢学・書道・和歌・茶道・能楽にも精通する多才な文人。俳諧は同じ季吟門で、読書家で教養人の芭蕉も、俳諧では勝ったが、学問では素堂に叶わなかった。芭蕉は手紙の宛名の下に、高弟其角には『丈(歌舞伎俳優等に添える敬称))』を、また芭蕉の生涯にわたってパトロンだった杉風には『様』を添えたが、この素堂には『先生』と付けているほどだ。

 談林派の開祖西山宗因の江戸下向での歓迎句会に同座して以来、素堂と芭蕉は互いに我が友と呼び尊敬しあう仲に。二人が『江戸両吟集』を編み、江戸談林の推進者になった。芭蕉が興した新風は、素堂の助力なしには考えられない。蕉風はもとより芭蕉一人の努力で成ったのではない。蕉風確立には、一番弟子其角との切磋琢磨や、この素堂の知性や風格からの啓発が大きく与かる。先生と敬った所以だ。

 ちなみに、江戸の大火で焼失した芭蕉庵の、再建資金のカンパは素堂が募った。この時門人北鯤が寄附した大瓢(米入れとして愛用)は、芭蕉六物の一つで、素堂が四山と命名した。また、芭蕉の次の句に和して、名文「蓑虫説」で答えるなど親交は格別だった。

 

 蓑虫の音を聞きにこ(来)よくさのいほ(草の庵)  芭蕉

 

 次いて、『奥の細道』の結びの地である大垣の廻船問屋主人木因(ぼくいん)。芭蕉とは同じ季吟門の旧友だった。

 

 しにもせぬ旅寝の果よ秋の暮  芭蕉

 

 命がけの『野ざらし紀行』の旅に出る動機の一つが、木因の誘いと言われる。野ざらしになることもなく親友木因宅にたどり着いた、その安堵感がしみじみと伝わる句だ。

 芭蕉といえど、詩の世界で、がっぷり四つに組める友人・門人はそう多くない。それを示す、二人の往復書簡による知的な交歓が残る。「鳶の評論」として有名なものだ。『奥の細道』の旅を終えた芭蕉を大垣で迎えたのがこの木因。しかし、心を許し合った二人がのち疎遠になった。芭蕉が交わろうとしなかった井原西鶴やその弟子北条団水はじめ、交際の範囲が蕉門に限らず広かった木因。これも関係があるのだろうか。残念なことである。

 最後は、一番弟子其角の父竹下東順。芭蕉と東順・其角父子との紐帯の強さは、また格別だった。東順と芭蕉は同じ季吟門で親交が深く、芭蕉は旅先で、わざわざ東順の故郷・堅田(滋賀県)まで足を延ばしたほどだ。元禄六年に武蔵野(江戸)で亡くなった東順に、芭蕉は追悼の俳文『東順伝』を捧げた。膳所藩主本多公の御殿医を辞したのち、世間的な名声を捨てた東順を、都会に住む真の隠者とほめたたえている。そこに載せた次の句は、芭蕉の心からの弔意を如実に示す、紛れもない名句である。

 

 入(いる)月の跡は机の四隅哉   芭蕉

 (月が沈んだあとには、東順が日頃寄り掛かっていた机だけが淋しく残り、暁の光が、主を失ったその愛用の机の四隅を照らすばかりだ、という意。「入月」は東順を暗示し、主のいない空虚感を「四隅」に象徴させている)

 

『貝おおひ』の出版

 

 藤堂藩勤めを致仕したあと江戸に出るまでの、約六年間の芭蕉の動静は不明だが、季吟先生の指導で俳諧師として立つ準備に抜かりはなかったものと思われる。その証左に、季吟が芭蕉に免許皆伝と言ってもよい俳諧作法書を授けている。これについては先に述べた。

そして、菅原道真公を祭る上野天満宮に、発句合である『貝おおひ』を奉納し、江戸での成功を祈願している。さらに発願の成就のために、京都清水の音羽(おとわ)の滝の七日の水垢離修業に身を晒したのだった。

 『句合』は、歌合にならって、句を二つ並べて優劣を競うもの。左右一組で一番だから、三十番では六十句となる。判詞(優劣判定の言葉)は自判、すなわち自分で書いた。

 蛤の貝殻をばらばらにして、ペアの貝殻を見つけ出すのが、貝合わせ。トランプの神経衰弱に似た、平安時代からの宮廷の遊びである。貝覆いは、この貝合わせのことで、これを句合わせに引っ掛け撰集名とした。『貝おおひ』は、芭蕉の処女撰集であり、また芭蕉という人物を知る上でも欠かすことができない。

 

『貝おおひ』の九番を見てみよう。その自由に戯れる姿は、あの枯淡の芭蕉と同一人物とはとても思われない奔放さだ。

 

  左 勝

 鎌できる音やちよい〱(ちよい)花の枝  露節

  右

 きても見よ甚兵衛が羽織はなごろも  宗房

 

            

 左、花の枝をちよい〱(ちよい)とほめたる作為は、まことに俳諧の親ゝともいはまほしきに、右の甚兵衛が羽織は、きて見て我折(がお)りやといふ心なれど、一句の仕立もわろく、染め出す言葉の色もよろしからず見ゆるは、愚意(ぐい)の手づゝ(つ)とも申すべく、そのうへ左の鎌のはがねも堅そうなれば、甚兵衛があたまもあぶなくて、負に定め侍りき。

 

 宗房は名乗りを使った、芭蕉の若い頃の号。二句の後に芭蕉の判詞が続く。『左』の句意は、鎌で切るちょいちょいという音が、枝の花をほめているかのように面白く聞こえるというもの。ちょいちょいは、歌舞伎の野郎(やろう)(少年俳優)へのほめ言葉で、鎌を切る刃音と掛ける。『右』の句意は、甚兵衛殿よ、花見衣(はなみごろも)に甚兵衛羽織(じんべえばおり)を着こみ花見に来て我(が)を折りなさいというもの。『我を折る』は感服するの意。『来て』と『着て』を掛ける。『羽織』と『我折り』を掛ける。甚兵衛羽織は丈の短い尻の裂けた羽織。判詞では、同じ野郎のほめ言葉である『親はないか、親はないか』(この座にほめられた少年役者の親はいないか、さぞうれしかろう)から、俳諧の親(優れているの意)と言った。俳諧の親と驚嘆の『おやゝ(おや)』を掛ける。『おやゝ(おや)』は『ちよいゝ(ちょい)』に照応。左の句の鎌の刃が堅そうで甚兵衛の頭が危ないので左の勝ちとすると書いた。

 貞門俳諧の要である掛詞のオンパレードだ。そして、小唄・流行語を駆使し俳壇に新風を吹き込もうとする、意気込みの強さは並ではない。井原西鶴と見まがう才気に満ちている。ここにはもはや小姓でもなく、ましてや出奔者でもない、堂々と天下の俳壇に勇躍しようとする、自信たっぷりの芭蕉がいた。

 

 かかる放埓と言ってもいいような言語遊戯ではあるが、俗語を駆使し庶民の芸術として俳諧を和歌に伍す芸術に高め、「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其(その)貫道する物は一なり」と『笈の小文』に記した高い極みを目指す芭蕉にとっては、むしろ必須の創作過程だったと言える。なぜなら、この過程によって、芸術家としての創作の喜びを体得しながら肺活量の大きさを蓄えたばかりではなく、以降の高みを目指す困難な芸術活動も、この放埓で軽快なリズムに載せて軽々と乗り越えることができたからである。

 芭蕉は、「俳諧は夏炉冬扇の如し」という言葉を残した通り、決して芸術至上主義者ではない。『人新世の資本論』の著者斎藤幸平氏がしばしば引用する、ブルシット・ジョブ(クソどうでもよい仕事)とは言わないまでも、今コロナ禍でエッセンシャルワーカーが見直されたが、俳諧活動が命を繋ぐという意味ではプライオリティが低く、エッセンシャルではないことを十二分に自覚していた。

 逆説的だが、故金子兜太氏が今や現象化したぺらぺらの世を憂えつつ我々に残した社会性というテーマをはじめ、わたくしたち現代俳句の在り方を模索するものにとっては、この「俳諧は夏炉冬扇の如し」という芭蕉の言葉を、「夏炉冬扇の如くあってはならない」という自戒の言葉としてかみしめ、本稿の最後のことばとしたい。

 

〈参考図書〉

 

杉浦正一郎他『芭蕉文集』岩波書店

松尾芭蕉『芭蕉全句集』角川ソフィア文庫

穎原退蔵『芭蕉読本』角川文庫

尾形仂編『芭蕉ハンドブック』三省堂

『芭蕉のめざした俳諧』芭蕉翁記念館

『私たちの藤堂高虎公』藤堂藩五日会

北村純一『伊賀の人・松尾芭蕉』文春新書

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2023/02/09

背景色の色

フォントの変更

  • 目に優しいモード
  • 標準モード

北村 純一

キタムラ ジュンイチ
きたむら じゅんいち。作家。1948(昭和23)年、三重県上野市(現伊賀市)生まれ。名張市在住。著書は、「侏儒の俳句―芥川龍之介に捧げる箴言集」(2009(平成21)年、朝日新聞出版)、文春新書『伊賀の人・松尾芭蕉』(2022(令和4)年、文藝春秋)など。

掲載作は『現代俳句』2023年1月号(現代俳句協会発行)に寄稿し、掲載されたものである。