猫の子一疋死んでも噂の種になるN村では、新田の淸作とお兼とが夫婦になつたといふことは、野良でも、爐の傍でも、舟着き場でも人々の口の端に上つた。若い娘たちは村一番の若い衆を、ひよつくり旅から歸つて來たお兼に奪られたといふ意趣もあり、年老つた女親たちは村一番の稼ぎ者を片意地な、自堕落さうな親無しの娘にものされてしまつたことを腹立たしく思つた。それにお兼が田舍には珍らしい標致善しで、可なりな金を貯へて歸つて來てゐることも村の人々の嫉妬心を喚び起すに十分であつた。
「あの母さんが慾が深うあらすもの、金を嫁に貰うたやうなものさ……」
「いくら金があつたにしても、他人の妾のお古なざあいやなことぢやなう……」
「淸作さんが氣の毒ですなう……」
村では寄ると觸ると蔭口が利かれた。
お兼の父親といふのはこの村でも一番見すぼらしい水呑百姓であつたが、今から十年ばかり前お兼が十三の時、お兼を伴れて長崎に出て行つて、三菱の造船で働いてゐた。お兼は十四の春から奉公に出されて、十六の時には長崎一流の呉服店の隱居の、小間使とも妾とも付かぬものにされてしまつてゐた。それが辛さに隱居の家を逃げて來たことも二度や三度ではなかつたが、人の善い父親もその時だけは恐ろしい顔をして怒つた。五十に近い、そして何の職業も持つてゐない父親は造船に行つては運搬職工といふ雜役に從事するより他はなかつた。終日牛馬のやうに驅使されながら重い船材や機械などを運ぶといふことは、若い者にとつても並大抵な勞働ではなかつた。父親は三日には一度、四日には一度と言つた風に休んでは床に就いてゐた。このやうな無能な父が、年中蒼白い顏をして藥に親しんでゐる妻と二人の子を養つて行くといふことは容易なことではなかつた。三疊の棟割長屋の薄暗い底に、病人の母を眞ん中にして四人の大人と子供とが一枚の夜具を引つ張り合つて寢てゐる姿を見ては、十六のお兼も流石に自分の我を通すことはできなかつた。いつも幾つかの坂道を上つてはまた下つて、お兼は寂しい、やる瀨ない心を抱いて隱居所の方ヘ歸つて行つた。脂切つた隱居はお兼の父よりは老けて見えた。隱居はお兼を嘗めるやうに可愛がつた。けれどもお兼は可愛がらるれば可愛がらるるほど氣味が惡かつた。隱居は酒が好きであつた。それでお兼は强ひても酒を飮ましては隱居を早く床に就かしてしまふ工面をした。お兼は小娘の折から旣う人一倍ませた智慧を持たなければならなかつた。
「お母、何か肉食せんと快うならんとよう……」
お兼がかう言つて袂から風呂敷につつんだ鷄を出した時、父親は手を合はせんばかりによろこんだ。そして父親とお兼と二人で手ばしこく鷄に熱い湯をかけて毛を毮つてしまつた。一羽の鷄を病人に食はせることさへも、かれ等は隣り近所に對して憚らなければならぬほどな、不義理に苛まれてゐた。
「妾さへ我慢すれば……」
十六の小娘はいつもさう思つて隱居所の方へ歸つて行つた。まだ戀といふことを知らぬお兼にとつては、隱居所の奉公は身を切らるるほど心苦しいことであった。しかしお兼が知つてゐる幾人の娘たちは、印度や尙つと遠い外國あたりまでも稼ぎに行つてゐることを想ひ出しては慰むるともなく自分を慰めてゐた。十七となり、十八となるにつれてお兼は見ちがへるほど美しくなつた。いつとはなしにお兼自身が自分をより美しく見せることを覺えた。隱居は自分から店に出かけて行つては、お兼のために友禪の長襦袢やら、下着の柄までも見つくろつて來た。湯上りのほんのりと紅らんだ頰から、乳白の頸筋から胸にかけての若やかな肌ざはりは、自分ながら鏡に對して惚れ惚れするやうにおもはれた。
「誰か妾を呼んでるやうな氣がする……」
お兼は幾度もさう思つた。そして次の刹那には現とも夢ともつかぬやうな淡い寂しさのなかに引き入れられて行くやうに感じた。お兼が十九になつて間もなくであつた。隱居は湯殿で加減が惡いといつたのが病み付きになつて、數日の後に藻搔きながら死んでしまつた。流石にお兼は悲しかつた。隱居の死後お兼にとりては可なりな金が遺言によつてかの女に與へられた。お兼は弟二人を店に預けて、兩親を伴れてN村に歸つて來たのであつた。けれどもN村の人々は昔の心でかれ等一家を受け容るることをしなかつた。かれ等は何時も侮蔑と嫉妬の眼をもつてお兼親子を見た。人の善い、氣の弱い親子にとりては可なり苦痛なことであつた。村に歸つて來て二年目に引きつづいて兩親は亡くなつた。村の人々は冷たい眼でかれ等の死を見た。兩親の死後家にはお兼と一疋の老犬のみが村人の憎惡の的となつて取り殘された。お兼には村中の人々が仇敵のやうに思はれた。お兼はただ一人で泣いた。お兼と淸作が親しくなつたのはこのころからのことであつた。淸作はその頃兵隊から歸つて來たばかりで、村の靑年會の役員であつた關係からして、お兼の兩親の葬ひに墓地の相談から、寺の交渉から、一切の面倒を見てやつた。お兼とは相年であつたが、お兼よりはまだ子供子供してゐた。お兼は淸作の親切を心から感謝せずには居られなかつた。しかし都會馴れたお兼の眼には淸作のおづおづした風が可笑しいやうに思はれてならぬこともあつた。
淸作は×聯隊の模範兵であつた。かれは在隊中も二度知事や隊長から賞與を貰つたこともあつた。かれは除隊の日までその賞與金を貯へて置いて、その金で小型の鐘を買つてN村に歸つて來た。舟着き場に迎へた村の人々のうちには、かれが村への土產だと行つて、信玄袋のなかから鐘を出して見せた時、噴き出して笑つたものもあつた。
「その鐘何するだえ? 淸作さん……」
溫厚な村長は笑ひながら訊いた。
「何うするだか明日になるとお分りになります。」
まだ軍隊そつくりな調子で姿勢をとつて言ひ切つた時、人々はまた笑ひ出した。
果してその翌日の朝になるとその鐘の意味が分つた。南國にも薄い霜が下りた朝であつた。人々は丘の松林から鳴り響く鐘の聲を聽いた。まだ野良には人の影も見えないころであつた。
「誰ぢやろか……何ぢやろ?」
村の人々は寢不足な眼を開いて起き上つた。
「淸作さんの鐘ぢや……昨日の鐘ぢや……」
笑ひこけるものもあれば、眠りを破られたことを眞面目になつて怒るものもあつた。人々は松林のなかに鐘を吊して打ち鳴らしてゐる淸作の姿を見た。
淸作はそれから後一日も缼かさないで夜明けごとに松林から鐘を打つた。そして人々が野良に出るころは、かれは一汗かいて二三畝の畑を耕してゐた。
「淸さんを見んさい……」
村の若い者が──男も女も──何時も淸作を引き合ひに出して小言を喰はされた。やがて村中が擧つて早起きの習慣を作つた。
淸作が村に歸つて來てから村の若い者たちの夜遊びが少くなつたとさへ言はれた。淸作は隊にゐた際に聽いたり、見たりして來た色々な經驗を農作の上にも試みた。淸作は今迄の稻苗の植ゑ方を全然捨ててしまつて、縱横の苗の條幅をば廣くしたり、狭くしたりして太陽の光りを成るたけ多く受けるやうな工合に決めてしまつた。村の人々は最初これをも冷笑の眼をもつて眺めてゐた。けれども秋の収穫は段別に五俵からの差を生んだ。不完全な溫床を拵へて早茄子を作つて長崎に出したばつかりに段に三百圓づつの上りがあつたことも、村人の驚きの眼を瞠らせた。淸作はN村になくてならぬ靑年となつた。かれは村中の人々に敬せられ、愛せられた。
淸作がお兼の家に接近して行く時、いつもにたにた笑ひながら男女を見てゐる男があつた。それはお兼の遠いただ一人の親戚に當る兵助といふ男で、お兼の家に厄介になつてゐるのであつた。兵助は今年三十八にもなるが智慧は尋常科の子供ほども持つてゐない。筑前の湯治場から一人でN村に歸つて來る時、Hといふ停車場で下りることを忘れてしまつて、驛七つ先きの長崎まで行つてしまつた。それで長崎からH驛まで送り歸されて來たが、今度はまたH驛を通り拔けてしまつて鳥栖まで行つてしまつた。鳥栖驛では胸にH驛行といふボール紙の札を下げさせられて貨物車に入れられた。「兵助さんの筑前行き」といふことは村の子供といふ子供が、物心つくと眞つ先きに敎へられる逸話になつてゐる。しかし兵助にも戀はあつた。五六年前のことである。村の蠶豆や芥子菜の畑が深い靄につつまれて、枇杷の實が厚ぼつたい葉の間から黃金のやうに熟してゐるころであつた。長崎あたりから流れ流れて來たらしい女乞丏があつた。女乞丏は氣に向くと蘆の生えた濱に出て口三味線で唄など唱つた。半年も經たぬ間に人々は女乞丏が妊娠してゐることに氣付いた。春には珍らしい雪でも降りさうな寒い日の夕暮であつた。女は濱の舟小屋のなかで男の子を產んだ。夜半ごろまで人々は濱に來て女のために焚火をしてやつたり、襤褸を持つて來てやつたりした。赤ん坊の泣く聲も折々聞えた。その翌の朝人々が濱に行つて見た時は女も子も死んでゐた。その傍には兵助がぼんやりした顏をして藁のなかに坐つてゐた。
「何うしたのや?」村の人が訊ねた。
「眠つとるとたい……」兵助はさう言つてまたそこにある藁を母子の屍の上に被せてやつた。
「誰の子? 兵助さんの子かい?」
笑ひながら誰かがたづねた。
「俺の子たい……」
兵助はかう言つて輕く首肯いて見せた。母子の死骸は村の墓地に葬られた。その當座今更のやうに人々は兵助と女乞丏とが濱で日向ぼつこしてゐた日のことや、鎭守さまの堂にゐた折のことなどを新たに語り出しては笑つた。兵助はいまだに母子の死といふことをはつきり意識することはできないでゐる。かれはまだどこかにかれ等が生きてゐて、旅から歸つて來るやうに思うてゐる日もある、かれには何時もどこからか幸福な日がもどつて來るやうに思はれてゐる。
*
淸作は野良の歸りや、村の評議のことやなどで訪ねて行つて、土間口からお兼の家を覗いた。大抵そこには老いぼれた一疋の犬と、兵助とが對ひ合つたやうにして蓆の上に坐つてゐた。兵助は手斧や鎌を握つては何かしら仕事をしてゐた。お兼の華やかな友禪模樣の襦袢などが南の緣側に展げられてあることもあつた。淸作は悲しいやうな心を抱いてお兼の家から歸つて來ることもあつた。淸作は未明から起きては鐘を打つて、野良に出た。
けれどもお兼と親しくするやうになつてからこつち、淸作には朝早くから鐘を打つたり、野良から歸つて修養會を開いたりすることがともすると、億劫に思はれたりすることがあるやうになつて來た。恰度淸作が隊から歸つた次の年のことであつた。霜柱が解け初めて、麥が三四寸も伸び、桃の梢が紅らんで来たころであつた、淸作とお兼が人目を忍ぶやうになつたのは。淸作は每晩のやうに村の禪寺で開かれた修養會に出かけて行つた。そして歸りしなには屹度道をちがへて一人でお兼の家の橫道に出た。そこには竹藪があつて、日中には盛り上つたやうに椿の花が咲いてゐるのが見えて、繍眼兒が鳴いてゐるのが聽かれた。兵助に見られるのが嫌さに淸作はその藪の蔭にかくれた。女は大抵時間を見計らつて藪の蔭に出て來た。女のほのかな白粉の臭ひが暗のなかに靜かにかれの魂を魅惑するやうに漂うて來た。二人は村の墓地から茶畑を上つて村境の高い草山に上つた。そこからはN村の中央を流れてゐるゆるやかな小川が白い帶のやうに見えた。鯛の浦灣の女性的な海岸が靄の紗につつまれて眠つてゐた。N村の濱を沿うて流るる入り江の潮が黑く淀んだ上を、折々流るるやうにして小舟の燈が動いて行つた。女はこの草山に來るごとに星が頭の直ぐ上にあるやうに思つた。
春のおぼろな月が有明海の方から出た。女は男の膝に突つ伏して泣くこともあつた。淸作は女の白い頸筋を尊いほどに思つて見つめた。夜更けてから淸作は家に歸ることが多くなつた。そのやうな時はかれは深い罪を犯したもののやうな氣がして母や妹の前に出ることを杞れた。かれは土間から直ぐ煤けた階段を上つて中二階に上つて、三分心のランプを點けた。そこには聯隊長や縣知事から貰つた賞狀などが額にしてかかげられてあつた。
「お兼さんを捨てよう、忘れよう!」かれは幾度さう思つたか知れない。かれは朝になると早くから起きてまた松林に行つた。
草山の上に犬を伴れた男女の影が見えたといふ噂が、村の靑年逹の間に何時とはなしに傳はつた。隣り村の若い者だらうなどといふものもあつた。お兼と淸作の逢ふ機會はだんだん狭められて行つた。苗代田には夜な夜な蛙が鳴いた。人間の魂が地の底へ溶けこんで行きさうな晩であつた。土の香が甘い、生溫い悲哀を喚び起すやうな晩であつた。かれが修養會から歸つて來る途中で、木蔭のなかから急に出て來たものがあつた。それはお兼であつた。お兼は一封の手紙をかれに渡して逃げるやうにまた木蔭にかくれて行つてしまつた。月がかすんでゐた。かれは流れに沿うて歩きながら女の手紙を見た。かれの手は顫へた。かれは少しづつ讀んでは裂いた。裂いてはその手紙を流れに捨てた、その夜であつた、かれが思ひ切つてお兼との結婚を母親に賴んだのは。
妹も母親も可なり絕望した。母親や妹の考では、淸作の嫁は少くとも近郷の物持ちでなければならなかつた。隊から歸つて間もなく縣會議員の娘をとの相談があつた時も、貧乏人の妻は貧乏人からと言つて淸作は斷つた。それでも母親や妹たちは淸作の妻はそれ以上の家から來るにちがひないといふ豫期を持つてゐた。しかし淸作とお兼との關係が何うすることもできないほどに進んでゐることを知つた時母親は他に適當な方法を考へることはできなかつた。母親にとつてはこれまでの淸作の立派な名を傷つけさせることが杞れられた。
「お兼さんが長崎から貰うて來た金は何れくらゐあるのぢやろか?」
その夜の母親の言葉は淸作には非常に不快だつた。
*
お兼と淸作の話はその後幾日も經たないで直ぐに纏まつた。兵助は嬉しいやうな可笑しいやうな顏をして「お兼と淸作さんが夫婦になるばい……」と言ひ觸らして歩いた。
濱邊の葦に行々子が啼くころは村の人々はお兼と淸作が睦しげに畑に出てゐるのを見かけた。「お兼貰うたら鐘も打てんだらう。」と言つてゐた村人の惡口も杞憂に終つて、淸作は朝早くから野良に出た。白粉を塗つたり、柔かい着物をじやらつかしてゐたお兼に何ができるものかと見くびつてゐた村の人々は、お兼が淸作に劣らぬ勝氣な勤勉な農夫の妻となつたのを見て驚いた。
*
山には紅葉が映え、濱には芒の穂が波打つころには、淸作の家は五六段の水田と一二段の茶畑とを增した。「あれはお兼の金で買うたとぢやらう……」かう言つて村の人々は噂した。お兼と淸作は兵助と一緖にお兼の家を普請して住んでゐた。間もなくお兼は流產したが村の人は誰も知らなかつた。お兼と淸作の母や妹との間は姑、小姑といふ世間的な輕い嫉妬や愚癡は免れなかつた。「淸作さんとお兼さんが桑畑で睦じう一枚の蓆に坐つてゐた。」「淸作さんがお兼さんの肩を撫でてゐた。」といふやうな他愛もないことまでが不快な影を誘うて母親や妹たちの耳にはひつた。お兼は夕方野良から歸つて來ると「草臥れついでに新田まで行つておいでよ……」と言つて淸作を促して母親の家にやつた。それでもお兼はちつとでも淸作から離れては寂しくて耐らなかつた。女は藪の前に立つて男の歸りを待つてゐた。雨の夜など殊に女は男を出したがらなかつた。
「俺、靑年會の役員は誰かにかはつて貰ひたい……」
淸作が集會の席上でこのやうな事を言ひ出すやうになつたのも女と一緖になつてからであつた。
「男は何うか知らんけど、女には一生のうちほんたうな男といふものは一人しかなかとでせう、妾さう思ふ……」とも女は言つた。
女は男が外から歸つて來ると暗い土間から、出し拔けにかれの胸に飛びつくやうなことをして男を驚かした。
村の人々は朝、松原に鐘を打つ淸作の傍に、お兼と老犬とを見出すことが多かつた。
「鐘の有り難味が少うなつたわい……」と言つて笑ふ者もあつた。「あの古狸が淸作さんの魂まで食うてしもた……」かう言つて村の人々はお兼を憎んだ。けれども男にはわけもなしに女が村の人々に憎まるれば憎まるるほどいぢらしいもののやうに思はれた。
お兼は淸作の母親が言つたやうに片意地で强情張りのところがあつた。
「あんただつていまに何うなる知れたものぢやない。あんたも一緖になつて妾を追ひ出すとでせうが……妾はやつぱり世界に一人ぢやつた、あんただつて妾をいまに捨てるに決つとります……」
村の人の蔭口でも聽いたやうな時は女はヒステリイのやうになつて喚き立てた。
「お前はそのやうに根性がひねくれとるから村の人に憎まるるとよう……」
母親がお兼に毒吐いた言葉がいつまでも淸作の記憶から離れなかつた。淸作も「根性曲りツ。」と怒鳴つてお兼をどやしつけたこともあつた。それでも體を投げ出して、土間に喰ひつくやうに泣いてゐるお兼の姿を見ると、淸作の心は泣き出したいほど感傷的になつて來た。
「お前は子供の時から一日でも心から樂しいことはなかつたからなあ……幾らでも泣け、俺が泣かしてやる……」淸作は無理にお兼を抱き上げて女の背を撫でてやつた。女は子供のやうに柔順になつて泣いた。
「妾あんたにさへ可愛がつて貰やいつ死んでも宣い……」
女はさう言つて男の手を握つた。
「この手もみんな妾のものぢやなあ……」
さう言つた女の眼はよろこびに輝いてゐた。長い時の間疑ひと、反抗と片意地とにつつまれた女の心の殻が破られて、女はほんたうな生まれたままの處女のやうな心になつて泣いた。
庭の隅には朱欒の實が溫かい陽をうけて黑い厚ぼつたい葉の間から南國らしい香を漂はしてゐた。朝每の松原の鐘も休みなしに響いて來た。秋の収穫の半ばごろN村はまた縣の模範村として推奬せられた。淸作夫妻の幸福も日一日と增して行くやうに思はれた。
*
秋の収穫が濟んで間もなくであつた。秋の祭りの日がつづいた。笛や鐘の寂しい聲がどことも知れず每晩のやうに小山を越え、入り江を隔てて響いて來た。また外國との戰爭が起るといふやうな噂が新聞にも世間にも傳へられた。△△師團動員? といふやうな標題が每日の新聞に見出された。N村の靑年會でも萬一の場合を豫想して色々な相談會が開かれた。
淸作はまた每晩のやうに色々な相談會に出かけて行つて遲く歸つて來た。
「あんたほんに戰爭があるとでせうか?」
お兼はいつも不安な心持ちでゐた。
「あるんかも分らん……」
淸作は俯向いて爐の榾火を見つめたまま言つた。二人が暗い心で何時までも默りこんで坐つてゐることもあつた。
尾花が枯れて、森には百舌鳥の高音が聞えるやうになつた。お兼と淸作は畑の施肥や、甘藷竈の準備に忙しかつた。筑前から來た蠟屋が櫨の實を買ひ込んでは、終日紅葉した櫨の樹に登つてゐた。
「お兼何考へてるとや?」
淸作は時々さう言つてお兼を呼びかけた。お兼は深い吐息をくりかへしてゐた。
「何も考へては居らんと、でも妾こんげん骨折つてゐても來年は何うなるとやら思うて……」
「來年は來年さ、霜が降りぬうち甘藷竈の方も何うかしとかんとなあ……」
淸作は力まかせに黑い土に鍬を打ち込んだ。
「あんた平氣ぢやなあ‥…」
「なにがよ……」
「戰爭のこと氣にならんのかなあ……」
「氣にしても仕方なか。成るごとしか成らんとぢやもん……」
「あんた呑氣なあ……」
「……」
淸作は默つたまま更に力をこめて土を打つた。遠くで長崎行きの汽車の音が聞えた。
「妾なあ、あんたに戰爭にでも行かれたら、何うもならんがなあ、兵助はあのやうだし、お母や妹さんは妾を氣に入つてぢやなかとぢやもん……」
「戰爭ぢやてそう長くはつづかぬばい、行つても直き歸つて來るとよ……」
「でもなあ、もしものことがありやあ……」
「俺一人死ぬわけぢやなし……」
「ほんにあんたは諦めが宜か……」
女は海を隔てて見る島々の山の背に流れた午後の光りや、嶺にかかつてゐる煙のやうな雲を見つめてゐた。女には世界中が今にも空虛な墓場になるやうな氣がしてならなかつた。丘の下で連枷を打つ音が懶げに聞かれた。女の眼には淚が湛へられてあつた。
「淸作さん、今夜は平常より早う集まつておくれつてですばい……」
村役場の小使が畑の隅に立つてゐた。
「何か急なことでもあるとな?」
「何うか知らんが、今朝から二三度電報が來とりましたばい……」
「いよいよ始まるとかなあ……」
「さうでつせう……」
老小使は俺が知つたことぢやないと言つた風に言ひつ放しにして、丘を下つて、栗の林のなかにかくれた。
「あんた歸らうや……」
お兼は旣う鍬や鎌を一つにして道に出てゐた。
「幾ら働いたて明日は何うなるか知れんとぢやもん……」
女はさう言つてやけに鍬に付いた土をはねた。
「でもなあ、俺でも居るうちに出來るだけ爲とかんと、後で困るとばい……」
淸作は二つ三つ力任せに鍬を打ち込んだ。
その晩淸作が役場に集まつた時は旣うK町の師團が動員したといふことが兵事係の口から語られた。
「今日は長崎行きの汽車の數が平常より多かごとあつたもん……」
「今夜あたり召集令狀が來るかも知れん……」
人々はばかに興奮した調子で語つた。歸休兵や、歸つて來たばかりの若い兵隊たちは、身顫ひするほど興奮してゐた。
「兎も角ぢや、お互に今夜にでも召集令狀を貰ふかも知れぬ。かうなつて來ると村中が一緖になつて働かぬといけん。出征するものに後のことなど心配さしちやならぬ。それでぢや、何ういふ風にして出征軍人の家を保護してやるかといふことが第一の問題ぢや……」
村の最高の軍人であつた後備大尉はかう言つて一座を見まはした。
薄暗いランプを搔き立てて人々は長いこと語り合つた。
「酒だ! 酒だ!」
小學の體操敎師をしてゐる軍曹が隅の方で叫んだ。みんなが笑ひ出した。間もなく老小使は酒と澤庵とを運んで來た。
「出征軍人の遺族の訪問はやはり軍人會の仕事としてやつて欲しい。」
騎兵上等兵の水車屋の主人が言つた。
「しかし訪問は公平にやつていただきたい。金持ちの家には每日のやうに訪ねてやつて、貧乏人の家には一週に一度もやつてくれないやうでは駄目だツ。」
鐵道に出てゐる工兵の伍長が兵事係の男を瞋めつけるやうにして言つた。
「さうだ、この前の戰爭の時はひどいことをしたからな、役場の連中は……」
騎兵の上等兵が言つた。かれの盃からは酒がこぼれた。
「いや、そんなことは……」兵事係が立ち上るやうにして言つた。
「そんなことはないといふのかツ……」
工兵の伍長と騎兵の上等兵が立ち上つた。老大尉が中にはひつて止めた。少時は座が白けて見えた。
「しかしなあ、訪問といふやつは餘つぽど考へてやらんと……若い細君でもゐる留守宅ばかり度々訪ねても妙だてな……」
後備の特務曹長が言つた。老大尉までもが笑ひ出した。淸作の顏を覗き込んだ男もあつた。
相談會が終つてからも、醉ひつぶれた男たちは軍歌を唱つたり、卑猥な俗謠を唄つたりして夜更けまで騒いでゐた。かれは老大尉と橋の袂で別れた。
「生きてゐたい……」かれは幾度もさう思つた。生死といふ問題が嚴肅な聲を以て迫つて來た。
かれは自分で何處を何う歩いたか分らなかつた。かれは幾度も同じ道を行き來してゐた。
「あんたぢやなかとなあ……?」不圖かれは妻の聲を聽いた。かれはお兼の溫かい柔かい手を意識した。後ろには老犬が隨いてゐた。
「あんたいよいよ戰爭に行くとですか……」
「……」
「妾あんたが戰爭に行つたら、何うしたら宣からうか思うて……妾直きに死んでしまはうか思うて……」
女は息をはずませて泣いてゐた。淸作は二三年前の夜懷かしい戀を抱いて女と二人でこの河岸を歩いた日のことを思ひ出した。長崎行きの汽車がけたたましい響きを立てて過ぎた。星が二三度長い尾を引いで高い空を飛んだ。水車の音や、流れの音が一層夜の靜寂を增すやうに聞えた。
淸作はそれから三日目の午後動員令に接した。母親も妹もお兼も泣かうと思つても泣けないやうなあわただしい心で淸作を送つた。無理に酒を强ひられたので、淸作は少し頭が痛むと言ひ言ひ家を出た。
「振り返つて家を見ちやいかんとばい、眞つ直ぐ向いて行きなはい、さうすると逹者で歸らるるいふけに……」
母親はさう言つて淸作を出してやつた。淸作は一度も振り向かないで畑のなかを突つ切つて行つた。兵助も村の人々と一緖にH驛まで送つて行つた。他の村々からの召集兵と見送りの人々とで驛は混雜してゐた。十年も昔の軍服の男もあれば、野良の仕事着のままで駈けつけてゐる男もあつた。村の學校の體操敎帥も召集されてゐた。かれは軍刀を手にして得意氣に狭い驛内を歩いてゐた。彼方でも此方でも緊張した笑聲が聞えた。
汽車が動き出してからであつた。お兼や母親が老犬と一緖にプラットフォームに駈けつけて來た。汽車が見えなくなつてから、はじめて女たちはかぎりもない寂寞と悲しみとを感ずることができた。
霜の深い朝がつづいた。松林の鐘を打つ者もなく、村中が墓場のやうになつた。野良に出た女たちは寂しい顏付で戰爭の噂ばかりした。長崎から出征する師團の兵がK驛を通過するごとにけたたましい人々の叫び聲が聞えた。
「昨日はH驛で馬に蹴られて、汽車から兵隊がはね出されて死んだげな……」
村の人々は寄るとさはるとこのやうな話をした。驛には夜晝村の人々が集まつて、通過する列車每に親戚の者や村から出た男たちを探した。
「×がゐたツ!」
自分の村から召集された男を見出す每に、最初に発見した男は蘇生へつて來た人間でも見出したかのやうによろこびと驚きの聲を絞つて叫んだ。
「酒、酒だツ、酒だツ!」
一つの窓口ヘビールや正宗の罎や、盃やが突きつけられた。哄笑する男、醉ひつぶれてゐる男、萬歲を叫んでゐる男までもが一人としてぢつとして見送るだけの勇氣はなかつた。かれ等は恐れつつ、悲しみつつ、をののきつつ、笑ひつつ、且つわめいた。
「喜造やい、これ、持つていてくれやい……」
半ば狂亂したやうな老婆が、汽車が動き出してからまで窓にしがみついて小ひさな風呂敷包みを渡さうとしてゐるのもあつた。
「德三の汽車が今出てしもたてなツ!」
失神したやうに突つ立つて汽車が消えて行つた方の暗のなかを見つめてゐる男もあつた。
「俺は今日で五日五晩ここに待つとつたと、そいでも今夜は餘り遲かけんで最う來んぢやろ思うて鳥渡寢たら……」
その男が泣き顏をして話した時笑ひ出した者もあつた。隅の方ですすり上げて泣いてゐる女たちもあつた。
草山には野火が點けられるころになつた。遠い草山には帶のやうな線を描いて野火が燃えひろがつて行つた。煤のやうな薄い煙のなかからは紅い炎が野を舐めずるやうに走つて行つた。濱の鳥や鳶が煙の上を舞ひながら鳴いた。お兼は野良に出ては遠い野火の煙に見入つた。ことんことんと遠くの谿底で木を伐る斧の音などが聞えた。
「戶籍を入れてくれというても淸作が戾つて來んば何うもならんたい……」
お兼は野良に出ても幾度も姑の言葉を繰りかへして見た。お兼は色々な意味に姑の言葉を考へて見た。お兼は世界中にただ一人で生きてゐるやうな寂しさを感じた。
戰爭が始まつてから半年經ち一年經つた。その間には村でも五六人の戰死者を出した。時が經つにつれて人々に却つて恐ろしい豫期にも馴れて、ややもすれば出征者のことなども忘れられるやうな日もあつた。
「お兼さん、淸作さんが歸つて來んで寂しかろ……」
半ば冷笑的に聲をかけて行く村の男たちもあつた。
「元々が長崎あたりで稼いでゐたんぢやから、何處まで堅固やら知れたことぢやなか……」
女は村の人のはしたない蔭口を聽く度に袂を嚙んで泣いた。村中の人がかの女一人を仇敵のやうにして憎むやうにおもはれた。
「名譽な出征軍人の妻といふことは一日でも忘れちやならんよ……」
何時か家を訪ねて來た折の村長の言葉までもがお兼にはいろいろな不快な聯想を喚び起さした。普段ならば長崎の隱居に拵へて貰つた派手な簞笥のなかのものも色干しするのであつたが、淸作が出征してからこつちかの女は、簞笥から取り出すことさへも憚るやうにした。偶に取り出しては派手な模樣の晝夜帶だの、下着だのを淸作の妹に與つた。簞笥を開けるたんびに着物が減つて行くといふことも女には寂しかつた。
「でも、何時まで生きて居られるのか、それも知れない……」
かう思つてはかの女は淸作の妹に着物をゆづつた。
「妾が一人で淸さんを取らうとしたのが惡かつた。淸さんはお母や妹たちにも大事な人であつたもの……」
女は心から姑や小姑を氣の毒だと思ふこともあつた。
戰地からは缼かさずたよりがあつた。手紙が來る每に女は手紙を懐にして眠つた。夜が明けるといふことが悲しいやうに思はれた。姑たちにかくれて村から二里餘りも隔つたО町に行つて寫眞を撮つて、淸作に送てやつたこともあつた。夜半にも女は幾度となく犬の聲に眼をさました。そして人が家の前を通り過ぎた時始めて輕い安心を得た。
けれども來なければならぬ運命は來た。女が兵助と一緖に野良から歸つて來る途中で村役場の老小使に出會つた。老小使いは一枚の紙片を女に渡した。それは淸作が負傷して内地に送還されるといふ通知であつた。悲しい恐ろしい想像と、尙一度男を見ることのできるよろこびとが女の全身を顫はした。
「何うせ内地に送られるといふからには輕くはあるまいなあ……」
村の人たちの言葉を聞いてゐる間に女は意識が遠くなつて行くやうな氣がした。
「でも戰地で死なすより、逢つて死ねるだけでも仕合せと思はんぢや……」
女はかう思つては終日淸作からのたよりを待つてゐた。
燃えるやうな椿の花が谿から丘へとつづいて咲いた。四十雀や鷽や繍眼兒が村里の草の實をついばみに來た。丘の畑から見下す浦々には鏡のやうな潮を這うて紗のやうな靄が立ちこめた。山々が輝いて、鶯の聲が眠さうに聞えて來た。水田には芹の葉が薰つた。
Rといふ城塞では一日に幾千人といふ日本人が死んでゐるといふやうな恐ろしい噂がN村にも傳へられた。けれどもここでは日は輝いて麥や芥子菜の上にも春の香が微風につれられてはどことも知れぬ世界から再び歸つて來た。倦怠い牛の聲や、蜜蜂の羽音までもがお兼の空想をそそつて、遠い悲しい世界に女の魂を運んで行つた。女は鍬を投げ出しては丘の麓を眺めた。淸作が丈夫な體をしてずんずん丘を上つて来るやうな氣がしてならなかつた。
淸作がK町の師團の病院に収容されたといふ通知が來たのは恰度蠶豆の柔かな實がみのつたころであつた。
「妾ばやつておくれ、妾が行かんぢや……」
村から病院へ見舞に行かうとした時、淸作の母はたつて自分を伴れて行つてくれとせがんだ。
「妻が行くのが……」と言つたものもあつたが、村の人に味方の少いお兼は病院に行くこともできなかつた。淸作の母親と妹は村の代表者と一緖に、H驛からK町に立つて行つた。
「村中の人たちに面當てに死んでやろか?」
お兼は身を顫はして薄暗い上り口で泣いた。
三日目の夕方人々はK町から歸つて來た。淸作の傷が大分快くなつてゐるといふこと、三週間も經つと小濱の溫泉地へ轉地するかも知れぬからその折には村にも立ち寄るといふ淸作の言葉を傳へた。お兼は村の後ろの草山に上つてはK町の方を見た。そこからは幾十の山脈が重なつて見えた。こんもりと黑く茂つた山、靑々とした草山、巌のそそり立つた山、そしてそれ等の山脈が一樣に煙のやうな靄につつまれてゐた。帶のやうな白い流れや、黃金のやうな菜の畑が幾十里といふ涯もなく續いた。Kの町はその雲の涯をまだ遠く行つたところであつた。お兼は草山に上つては泣いた。世界中がかの女一人を憎み出してゐるやうにおもはれた。
桑の實がどす黑く熟した。兵助は桑の下に立つては桑の實を喰つてゐた。
「淸作さんは、また知事さんに褒美貰うて來るとばい……」
鐵漿をつけたやうに桑の實の汁で黑く染まつた齒をむき出しては、兵助は逢ふ人ごとにさう言つて聞かせた。軒には燕が巢をくうて若い雛が親鳥を待つてゐた。
桑が實りつくして蠶豆が黑ずんだころ淸作が白い患者服を着て、赤十字の大黑帽を冠つてH驛に下りた。村中の人たちがこの名譽ある戰士を迎へるために野良からも、家のなかからも聲をかけた。母親も妹もお兼も泣いた。淸作は老犬の頭を撫でながら元氣らしい聲で語つた。
「たつた二日しか逗留はでけんとな……」
「また直ぐ戰地に行くとかな……」
人々は母親と淸作とを取り卷いて家に歸つて來た。
夜更けまで淸作の家では酒が酌まれた。
「決死隊の勇士を生んだのはN村の名譽だツ。」
「まあ大いに飲まんぢや駄目だ……」
「我が村の名譽……何糞ツ……死んで來い……」
「久し振りだ、女房を可愛がつてやれ、アハヽ……」
人々はぐでんぐでんに醉つて罵り合つた。
お兼は暗い二分心のランプを點した流し口に立つてゐた。ありつたけの嬉しさと悲しさとが今夜中に燃えつきてしまふやうな氣がした。
淸作とお兼が眠つたのは明け方近くであつた。お兼はまんじりともしなかつた。お兼が起き上つた時は窓からはまぶしい初夏の光りが射してゐた。男は疲れ切つて眠つてゐた。男は一年ばかりの間に五つ六つ老けたやうにおもはれた。女は顏をのぞいた。男の白い足が疊の上に出ていたので、女は自分の搔い卷をそうつと掛けてやつた。女はたまらなく悲しくなつたので突つ俯して泣いた。
女は今更に過ぎ去つた一年の寂しさや、賴りなさを考へ出さずには居られなかつた。男は歸つて來た。男は女のものになつた。けれども男はまた明日は出て行かねばならぬ。女はこの刹那に自分が死んでしまへば宜いと思つた。淸作は午後村長の家や老大尉の留守宅へ行つてなかなか歸つて來なかつた。
「尙う少し傷が深いと生きてゐても戰地には行かれなかつたなあ……」
女は昨夜の醉ひどれの言葉を想ひ出した。お兼はいつまでも暗い土間の上り口にぼんやり腰かけてゐた。
夕方淸作が歸つて來た時、お兼は蒼白い顏をして椿の下に立つてゐた。淸作はお兼の手を握るやうにして家のなかにはひつて行つた。
「見つともない、泣くな。また直ぐ逹者で歸つて來るが……」
女の冷たい淚が淸作の手に落ちた。
その夜も村の人たちが集まつて酒が酌まれた。それでも明日の出立があるといふので人々は早く切り上げて出て行つた。母親と妹とが後に殘つてゐた。
母親は夜更けてから妹をつれて歸つて行つた。母親は草履を突つかけることもできないほど顫へてゐた。兵助が先に立つて堤灯を持つて送つて行つた。
薄暗いランプの前で二人は始めてゆったりした心持ちで坐ることができた。女の胸には新らしい悲しみが湧いて來た。
「また泣きよる、阿呆ぢやなあ……」
男は叱りつけた。それでもかれは夜半までお兼の背中を撫でてやつた。
「最う妾、一日でもあんたに離れては生きて居られぬ……」
「でも今まで一年も待つとつたぢやないか……」
「自分でも克う待つとつたと思ふと……」
「また直き歸つて來るぢやないか……」
「でも何うなるか分らぬものな……」
「屹度達者で歸つて來る……二三日も經てば忘るるよ……」
「そんげんことが何うして……そんげんことが……」
女は口に袂を嚙みしめて泣いた。
靜かな朝が明けた。今日も太陽は人々に幸福を與へるやうに靜かな麥の畑の上に朝の光りを投げた。
人々は名譽の戰士を送る爲めに淸作の家に集まつた。土間から緣側へかけて村の人々は酒を酌んだ。兵助の調子外れな笑ひ聲が際立つて聞えた。蒼白い顏のお兼が村の人々に一寸會釋をして引つこんで間もなくであつた、人々は奥の間でけたたましい人聲を聞いた。そこからは母親と妹とが泣きながら飛び出して來た。お兼を罵つてゐる淸作の聲が聞えた。血の氣を失つたお兼が狂人のやうになつて庭に飛び出して、二三度麥の畑に轉がつたのを、人々はただ驚きの眼を瞠つて見てゐた。それでも人々は次の刹那に淸作の眼から血がにじみ出して、淸作が疊の上に苦しがつて反轉してゐることを知つた。
「あの馬鹿奴が私の眼を私の眼を……」
淸作は兩眼を押へては疊の上を轉がり廻つた。
お兼は村の人々が捻ぢ上げるやうにして伴れて來た。
「死なしておくれ、殺しておくれ!」
お兼は意識を失つたもののやうにさう言つて泣いた。
「太え女だ、ひでえ奴だなあ……」
人々は女を罵つた。巡査が來、醫師が駈けつけて來た時には村中の人が今朝の出來事を噂し合つた。午後にはО町から憲兵がやつて來て、そして村長や病人を對手にいろいろなことを訊ねた。
「村の方に送られまして愈々立ちませうとして居りますと、彼奴が私の兩方の眼に何か突つ込みましたと見えまして……あの惡奴が……」
淸作は繃帶された兩眼を苦しさうに押へながら興奮し切つた調子で語つた。
「故意に本人が妻にさせたといふやうなことはありますまいね?」
憲兵は低い聲で村長に訊いた。
「いえ、本人は御存じでもありませうが、先から模範兵であり、今度の戰地でも決死隊へはひつて負傷したやうな人物ですから……」
人の善い村長の聲は顫へてゐた。
「あの女といふのが元々長崎あたりで妾奉公などしたこともあるといふ奴ですから……」
村長の言葉につけて兵事係の男が言つた。
夕方になつて病人の熱は急に昂じて來た。病人は幾度もお兼を罵つた。お兼は村の駐在所へ連れられて行つた。
負傷兵がその妻に殺されようとしたといふ噂がいろいろな噂を伴うて村から村へと傳はつたころにはお兼はT町の監獄に押し込められてゐた。淸作も一度軍法會議に問はれたが、淸作は何事もなくて村に歸つて來た。村の人々は淸作を氣の毒だと思つていたはつた。みんながお兼の心を憎んだ。
淸作の病氣は案外經過が良かつた。兩方の視力は殆んど失はれたが、間もなくかれは兵助や老犬と一緖に鐘を吊した松林や丘の上に歩いて行くことができるやうになつた。
*
村ではまた新らしく數人の戰死者を出した。
「淸作さんは仕合せたいなあ……」
半ば妬ましい心を持つて淸作の噂をする者も出て來るやうになつた。淸作はそのやうな噂を聞くたんびに心からお兼を憎いと思つた。村では不自由な足を運んで淸作がまた鐘を打ち始めた。
「幾ら朝から鐘を打つても村の若い者は死んでしもた……」
かう言つて淸作の前で笑ふものもあつた。淸作は怒つた。
「お兼が歸つて來たら殺して見せる……」淸作はさう思つた。
お兼が監獄に入つてから二度目の秋が来た。雨催ひの日などはかれの傷口が甘いやうに快く疼くこともあつた。かれは兵助に手を引かれながら櫨が一面に紅葉した丘や、茶畑の間を步いた。百舌鳥の聲や四十雀の唄が靜かな秋を更に空寂なものにした。視力を失つた淸作の眼や、一體の神經は一層鋭く働くやうになつた。かれは秋の靜寂の底から湧き出て來る聲なき寂しい音を聽くことができるやうな氣がした。遠い谿の斧の音や、梢を吹く寂しい風の聲が絕えて、野にも空にも大地にも物の音一つしない刹那、かれはぢいつと耳を澄まして永劫の不可思議な聲を聽かうとした。かれの眼からは生溫かい淚がにじみ出た。
かれは生でもない、死でもない、現でもない、夢でもない虛無の世界に投げ入れられた。そこには罪もなく、呪ひもなく、罵詈もなく、怒りもなく、憎みもなかつた。凡べての人間、凡べての男女が一樣に不可解な、そして何處から何處へ行くともわかぬ薄暗い人生の道を歩いてゐた。お兼の鐵鎖にいましめられた赭い衣の姿がはつきりとかれの心に泛かんだ。
二人或ひは三人づつ寂しい人々は道伴れを作つて步いてゐた。お兼だけがただ一人で兩腕に鎖を重さうに下げながら俯向いて步いてゐた。
秋が深くなるにつれて淸作の心は日一日と空漠と孤獨とになやまされて行つた。お兼の不運な一生がひしひしとかれの胸に描かれて來た。かれは何時とはなしにお兼を呪ふことを忘れてゐた。
それでもお兼が監獄から歸つて來るといふ噂が傳はつた時淸作の心にはまた憎惡と殺伐な心とが目さまされた。かれは眠れないほど興奮した。村の人々はお兼に對して淸作が何のやうな處置をするかを深い興味を持つて待つてゐた。
霜の深い朝であった。お兼は見る影もない姿をしてH驛に現はれた。淸作と兵助だけが迎へに出た。老犬はお兼の胸に飛びついて喜んだ。野良にはまだ人影は見えなかつた。兵助の手に引かれて行く淸作の後ろ姿を見た時、女の胸には新らしい悔恨の淚がこみ上げて來た。三人は村の人々を恐るるやうにして家に歸つた。
「何うか妾を殺しておくれ……」女はすすり上げて泣いた。淸作は手を延ばしてお兼の肩を擦つた。肩は瘦せこけてごつごつしてゐた。淸作はいつまでも女の肩から手を放さなかつた。淸作は女を憎むことはできなかつた。
村の子供たちは淸作の家の前に來ては非國民と叫んで石を投げた。
「お兼を追ん出しさへすれば分ることぢやが……」
母親はかう言つて淸作を促した。
淸作が每朝打つた鐘は何時の間にやら誰かに盜まれてしまつた。淸作とお兼とが日中も戶を鎖すやうにして、暗い室のなかに坐つてゐるのを人々は見た。
「夫婦談合して盲になつたんぢや……」
村の大人たちまでもが大きな聲をして、淸作の家の前を話しながら通つて行つた。
お兼が歸つてから十日ばかり經つた日の朝であつた。淸作が床から起き上つたころは野良には人々の聲がしてゐた。何處かで牛の聲が倦怠いやうに聞えてゐた。かれは二三度お兼を呼んだ。お兼はゐなかつた。かれの聲は怪しく顫へた。かれは危ふげな足どりで裏手の藪の前に立つた。かれはそこでも二三度お兼を呼んだ。誰かが畑のなかでわざとらしい大きな笑ひ聲をしたやうに思はれた。かれはまた緣側に廻つて耳を傾けて靜かに聲を聞かうとした。
「妾は他人の一生分も二生分もあんたに可愛がられたからよろこんで死にます……」
淸作はこのほどから女が口癖のやうに言つてゐた言葉を想ひ出した。淸作の全身の力が一度に失はれてしまったやうに思はれた。かれは投げ出すやうにして緣の上に腰を卸した。小屋の方から兵助がげらげら笑つて來た。
「淸作さん、犬がなあ、今朝は牛肉の甘かとば腹いつぱい喰うたよ……」兵助はかう言つて小屋の方を眺めた。そこには頑丈な綱でくくられた老犬が喰ひ餘した飯を傍にして寢ころんでゐた。
「誰が喰はせたとな、牛肉ば、贅澤な……」
「お兼さんが、犬ば縛つて牛肉ば喰はせさしたとたい……」
「お兼は何處に居るとな?」
「朝から何處に行かしたとか居らつさん……」
兵助は話しかけたまま鎌を握つて茶畑の方ヘ出て行つた。淸作は何時までも耳を傾けて物の音を聽いてゐた。かれは腰を卸したままで何時までも立ち上らうともしなかつた。かれの盲ひたる眼からは止め度もな淚が流れて來た。
その日の午後濱の舟着き場の沖からお兼の死骸が發見せられた。
お兼の死後淸作は滅多に緣側にも出ないで、終日薄暗い家のなかに蟄ぢこもつてゐた。
春になつて戰爭が濟んだ。村から出征した人々が歸つて來て、村では祭りから祭りとつづいたころであつた。村の人々はまた同じ舟着き場の沖で淸作の死骸を見出した。
初夏の太陽は幸福な光りをN村の畑にも、家にも、野良の人々にも投げかけた。朱欒の花が咲き、燕が翔んだ。やがて桑の實が黑く熟し、麥が黃ばんだ。
惡童たちに追ひ立てられてゐる兵助と老犬の姿を久しい間村の人々は見た。
(大正七年四月「太陽」)