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老医師(抄)

気管支炎

 

 その診療所は、大井川の上流、私が住む島田市内から車で一時間ほどの山の中腹にあった。眼下には、緩やかな谷間の両側に民家が点在し、谷底の駅の周辺には小さな町の活気も遠望できた。

 老医師はアゴに白鬚をたくわえ、いつも柔和な表情で、時には眼光鋭く、時にはとぼけた眼差しで、常にこちらの心理を推し量っているかのように接してきた。

 老医師は、海外を含めたいくつかの大学病院の精神科教授を勤め、静岡のある総合病院の院長を数年間勤めたあと、この静かな山村に小さな診療所を開いた。精神科、心療内科の他に、内科、小児科の看板を掲げ、余生は空気の美味い自然の中で、地域の老人や子供相手に、のんびりと暮らそうと思ったのだ、と穏やかに笑う。実際、待合室に慌しい空気はなかった。受付に、私と同年配ほどの看護師が一人と、そしていつも暇そうな二、三人の老人たちが、世間話をしに集まっていた。しかしその老人たちも、私が診察室に呼ばれるときは待合室に残ってはいない。私ひとりが予約患者だったのだ。

 ほんとうは、アンタのような文明の病に罹患したような患者は迷惑なのだが……と老医師は、白鬚の奥の黄ばんだ歯を見せてニヤリと笑う。

 

 子供の頃から、同じ夢を何度も見た。

 私は、仲間の追っ手から、馬で逃げていた。馬上には、手綱を引く私の両腕の中に金髪の女がいた。夢の中で、その女の顔をのぞき見ようとするのだが、何度試みても確かには見えてこない。覗こうと、こちらがその意志を持つたびに、あるいは持つがゆえに、彼女の顔の輪郭がぼやけ出し、表情が多様に変化して、眼鼻立ちが溶けるように雲散霧消する。しかし何故か、懐かしい親しい顔、というイメージがいつも残った。私の部族は、逃げる彼女の家族の乗る馬車を追いかけて、眼の前で、彼女の両親を殺してしまった。逃げた兄弟たちも、砂漠の岩陰でハゲタカや小動物のエサになっているに違いなかった。家族は白人だった。どうも私はインディアンのようだった。私は囚われの身となった彼女に恋をしたのだ。彼女は、アタシを連れて逃げて、と哀願した。私は仲間を捨てる覚悟をし、村を出た。二人は月明かりの夜中じゅう、馬上に揺られて岩山を登り、降り、草原を走った。そして幾日か経ち、そそり立つ岩場の谷間を通り抜けようとしたときだった。私は背後に迫る追っ手の気配を感じ、馬の腹を蹴った。全速力で逃げ出した。が、前方の岩陰から男たちが現れ、立ちはだかった。追っ手の部族の者たちではなかった。銃を構えていたのは白人達だった。彼女が彼らに向かって叫んだ。その白人達の中に彼女の兄弟たちがいたのだ。

 夢はいつもそこで終わる。

 

 仕事は、県庁の警備員をしている。

 別館、東館、西館と合わせて同僚が三十名近くいて、人間関係はもちろん面倒だった。加えて厄介なことに、県の職員である若い守衛達が上にいて、殆んどが民間の定年退職後の警備員を、まるで軍隊のように怒鳴り飛ばして従わす。また、居眠りしていないかサボっていないか、警備員同士を互いに巡回して見張らせ、密告の義務まで負わせている。ために辞めてしまう警備員が後を絶たず、年平均十人は同僚が入れ替わる。緊張感あふれる、ストレス豊富な職場といえた。そして、勤務そのものもかなりハードで、日勤、夜勤のローテーションの中で、一番(こた)えるのが、午後八時半から翌朝八時半までの寝ずの夜勤である。その夜勤の前の昼間、少しでも家で寝ておこうと焦るがなかなか眠れず、翌日の夜勤明けの昼間も、家に帰って寝ようとしても、せいぜい二、三時間も寝ればすぐに眼が覚めてしまい、眠たいのになかなか寝つかれない。そしてそんな時間が夜までつづき、ようやく眠りに落ちたかと思うと、不規則な習慣が身体に染み付いているせいか、また二、三時間も経てば眼が冴えて、そのまままんじりとも出来ずに朝を迎えてしまう。常に時差ぼけ状態。睡眠不足なのか眠りが足りているのか、まったく自身の体調の具合がつかめない。

 

 痴呆気味のお袋と、二人暮らしをしている。

 三年半前、親父が八十歳であの世へと逝った。相変わらずお袋は、寝室で親父の写真を前に泣いている。朝方と夕方の区別がつかず、頻繁に二階の私の部屋に聞きに来るが、隣近所にも聞きに行っているらしい。若いころは嫌いだったという酒、刺身、生卵が何故か好物になった。そして酒に依存している。私は、親父とは一度も喧嘩したことはないが、お袋とは毎晩喧嘩している。

 私が風呂に浸かっていると、くもり硝子の向こうの廊下に黒い影が立った。影めがけてプラスチックの桶を投げつける。影は動かない。もう一度、憎しみを込めて投げつける。影は、そんなつもりはない! と逆切れして否定し、キッチンへのドアを開けて消えた。親父は優しい人だった。お袋は、その親父に甘えきっていた。家計、洗濯、朝起きる時間まで親父にまかせ、隣組の回覧板にも一度も眼を通したことがなく、自分の年賀状さえ親父に書かせていた。しばらくしてまた、ガラス戸の向こうに黒い影が動いた。しかし今度は立ち止まらず、廊下がきしみ、トイレのドアが開く音がした。そして、ドスン! という大きな音が聴こえた。慌てて私は湯槽から上がり、衣服を身に着けながら、三年半前の朝方、親父が近所の水路に水死体で発見されたという知らせを受けたときの事を思い出していた。お袋がトイレで倒れていた。ネグリジェ姿で下着が足首に絡み、失禁していた。酒の臭いがした。救急車を呼ぶにはみっともなさ過ぎた。市内に住む妹を呼び、近所の親戚の女性を呼んだ。着替え中にも失禁し、寒中、一時間あまりもかかってようやくお袋は布団の中に落ち着いた。

 

 夏、なんとか仕事の都合を付け、同人誌仲間との年に一度の一泊旅行に出掛けることができた。多少の疲れは残ったが、そのときはまだ、体調は良好といえた。しかし次の日が寝ずの夜勤で、泊まり明けのその翌日、静岡からわざわざ沼津まで、年一度の従業員慰労会に出席した。徹夜明けの酒宴はかなりきつかった。仕事上の付き合いであり、なかば強制的な慰労会など、なんの慰労になるはずがない。その夜から風邪気味となり、熱が出始め、咳き込むようになった。少々の風邪で医者に頼るようなヤワな私ではなかった。しかし寝ずの夜勤が更にまた何日か続き、寝不足で抵抗力が衰えたのか、熱が下がらず咳が止まらず、喉がヒリヒリ痛んで、血の混じった咳さえ出た。たまらず近所の開業医に駆け込んだ。そこの老先生は名医であると、私は心ひそかに尊敬している。数年前、己の大事な股間の逸物に激痛を覚え、あまりの痛さに額に冷や汗を掻いて床をのた打ち回り、これはもしかしたら、老年に差し掛かった男が患う前立腺に関わる疾患かも、といよいよ自分もそんな年になったかと男の絶望に襲われたのだが、その名医が、ああ、これは尿管結石ですね、大丈夫、二、三時間もすれば尿と一緒に石が出ますから、水をたらふく飲んでください、とこともなげに言われた二、三時間後、便器に米粒大の石がポロリと落ちて全快したのだ。その名医が、また、こともなげに言ってくれた。気管支炎ですね、大丈夫、薬を飲んで安静にしていれば二、三週間で治るでしょう、と。しかし二日後の土曜日の夜、死ぬかもしれないという恐怖に襲われた。咳き込んで咳き込んで、何度も咳き込んで、そして吐き切った息を吸い込もうとしたが、空気が肺の中へと入って来ないのだ。焦った。気を落ち着かせ、逆に、更に息を吐くことに意識を集中することで、何とか呼吸は回復した。が、その夜、そんな呼吸困難が二度三度と起こり、救急車を呼ぼう、と思ったが、サイレンは近所迷惑であり、呼吸困難の本人が電話で受け答えするのもなにかおかしく、考えあぐねた結果、名医へ電話して助けを乞うことにした。私はパジャマ姿のまま名医の私邸のインターホンを押した。名医は多少酒の臭いをさせながら私に精神安定剤を二錠手渡し、今日明日とこの薬を飲み、月曜日、市民病院へ行きなさい、と言われ、翌々日私は島田市民病院の呼吸器科の診察を受けた。若い男の医師は、レントゲンと喘息(ぜんそく)検査の肺活量の折れ線グラフを眺めながら、気管支炎ですね、と診断を下し、咳、痰、喘息、抗生物質、等などの四、五種類の薬を処方してくれた。呼吸困難を訴えたが、若い医者はせせら笑うように、大丈夫、死ぬことはありません、と態度は気に入らなかったが、太鼓判を押してくれた。少なからず安心した。私は、これで二、三週間もすれば治るだろう、といい気になって、食後缶ビールで薬を胃の腑へと流し込んでいた。そして翌日の夜のことだった。夜中、咳き込み、ベッドから身体を起こし、呼吸困難に恐怖を覚えて電気を付け、テレビを付け、気を落ち着かせることに必死になっている最中、私は知らずベッドから前のめりに扇風機に向かって倒れ込んでいた。何が起こったのか判らなかった。鏡を覗き込むと、左眼球が真っ赤な鮮血に染まっている。寝るのが怖かった。そして翌朝会社に出勤すると、同僚が私の顔を見、すぐ病院へ行け、と言ってくれ、私は静岡日赤病院のまた呼吸器科の診察を受けることになった。尿検査、痰検査、血液検査、点滴などを受けた結果、若い女医さんはマイコプラズマ抗体が検出されたと言い、懇切丁寧な説明をしてくれたあと、気管支炎です、と診断してくれた。が私は、気管支炎は分かっています、とやや反発気味に答え、左眼球の出血を見せて、失神して倒れるのを何とかしてほしいのだ、と訴えた。女医は、気管支炎で失神などあり得ない、というような困惑気味な表情を見せ、では、気管支を拡張する貼り薬を出します、と私に妥協を乞う視線を投げてきた。妥協するしかなかった。しかし不安はますます募った。そして案の定、更なる深刻な事態へと私は陥った。毎夜二度三度四度と、頻繁に気を失うようになったのだ。寝る前の半覚醒状態のとき、夜中に咳き込んだとき、朝方の夢うつつのとき、息苦しさにベッドから起き上がると、私はそのまま床へと倒れ込んでいた。気が付くと、扇風機が回ったまま倒れ、テーブルの上の本は床に散乱し、額や頬は赤く腫れ上がって手や腕は擦り傷だらけになっていた。朦朧とする意識の中で私は、床に顔面から突っ込む自分、手足を痙攣させている自分、壁に頭を何度も打ちつけている自分が明瞭に自覚できた。潜水競技のスイマーが無理して距離を稼いだ挙句、肺の酸素を使い果たして水面に浮かんできて喘いでいる様に似ていた。しかしその最中私は、そんな自分を異常とは思っていなかった。覚醒して初めて、その異常さが認識できた。救急車を呼びたいとは思うのだが、そう思うときはもう正気に戻っていて、どうしても躊躇が生じてしまう。一階の六畳間にお袋が寝ているが、頼りにならず、私はひとり二階の自室で心細さを覚え、このまま死んでしまった後始末などもあれこれ考えて、ここは市内に住む妹に打ち明けておいた方がいいのでは、と思い、妹へ電話した。すると妹は、近所に住む看護経験のある女友達を紹介してくれ、更にその女友達から、初倉の木村医院の先生に相談したらどうかと促された。私には近所に名医がいた。しかしこれもなにかの縁と考え、翌日木村医院の診察を受けることとなった。今までのすべての経過を話し、薬の処方箋なども見せ、恐怖の症状を熱く訴えた。先生は他の患者さんを控え室に三十分以上も待たせたまま、熱心に私の話に耳を傾けてくれた。この日から、先生のお世話になることになった。通院の行き帰りの運転中に咳き込む不安を訴え、精神安定剤を処方していただいた。市民病院の耳鼻咽喉科への紹介状、脳波の検査に神経科への紹介状などなどを書いていただいた。すべてに異常はなかった。そしてそのうち気管支炎は沈静化し、呼吸困難も失神もなくなった。しかし相変わらず咳は残ってガラガラ声となり、もう一度、今度は違う耳鼻咽喉科への紹介状を出しましょうか、と言う先生の打つ手のなくなった手詰まりを感じ取り、私はしばらく病院通いは止めて様子をみることにした。しかし十一月に入り、風邪を引いたかな、と思ったその夜中、また呼吸困難に陥った。失神せず、確かな意識の中で窒息死の恐怖に喘いだ。救急車を呼ぼうにも声が出ない。手摺りに摑まりながら階段を降り、階下のお袋を起こすと、お袋は眼を見開き、困ったよォ、困ったよォ、とオロオロするばかり。仕方なく、夜中ではあったが妹を呼び出し、相談した。が、結局、呼吸は回復し、精神安定剤を飲んで様子を見ることになった。翌日、会社を休み、午前中に開業医の耳鼻咽喉科に掛かり、鼻の穴に内視鏡を突っ込まれて咽喉内を診てもらったが、異常なく、またもや呼吸困難や失神などあり得ない、という顔をされ、午後また、木村先生のお世話になることになった。そしてそこで、山奥に住む老精神科医に電話していただき、紹介状を書いていただいたのだ。

 

 初診のとき。

 老医師は木村先生からの紹介状にざっと目を通すと、よく見る夢は? 仕事は? 家庭環境は? と質問し、私の呼吸困難に喘ぐ詳細な話に耳を傾け、顎の白鬚をいじりながらじっと私の内なる魂を探る眼をしていた。そして、パニック障害があるねェ、とボソッとつぶやくと椅子から立ち上がり、私の額と後頭部を両手で摑みながらゆっくり数を数えて首をゆすり、それからまた椅子に座って、今度はなにかを私に試すかのように、私の両手の平をご自分の手の平と合わすよう促し、数を数えながらその手を押したり引いたりして、突然、私の耳元で気合の声を発したかと思うと私は、老医師の言いなりになっていた、ように思う。そして、OK! 大丈夫ですね、と私の肩を叩くと、老医師は真顔になって、これからの治療法と、その治療と治癒との難解なメカニズムについて説明してくれた。精神分析学に、過去や幼少期に受けたトラウマを意識化し、解放することで、症状が劇的に解消する、というフロイトの発見した効果がある。つまり、無意識の世界へと抑圧されたトラウマが、その抑圧が無理な意識作用であるがゆえに後年、反作用として、高所恐怖症、閉所恐怖症、ノイローゼ、強迫神経症、心身症、躁うつ病、多重人格障害、などなどの病の症状となって顕われる、だからその思い出したくない嫌なトラウマを、退行催眠などの治療法によって思い出し、無意識の世界から意識の世界へと浮かび上がらせることで、反作用の精神の病を治癒するのだ、と言う。例えば、神経症に罹患していたある女性が、退行催眠によって、物心つく前の幼児期に父親から性的暴行を受けていたことを思い出し、神経症がたちどころに消滅した、などという症例があると言う。老医師は、その退行催眠療法を私に施すというのである。そして、催眠術とは煎じ詰めれば自己催眠であり、自分は患者さんの自己暗示の手助けをしているに過ぎず、物的な病はともかく、意味的な病は自ら治そうという意思がなければ治りはしない、と言って帰り際に老医師は、これを家に持ち帰って二週間、瞑想や過去を思い出す練習をして来なさい、とご自身で吹き込まれたCDを私に手渡し、初診を終えた。

 暇さえあればCDを聴いた。まず呼吸に意識を集中するヨガ呼吸から始まり、全身の各部分をリラックスするよう誘導し、三十代の自分を思い出すことに五分間、二十代十代を五分ずつ、そして九歳、八歳、七歳と続けて行って、母親の胎内にまで遡って老医師の声は終わる。睡眠導入剤のような心地良さがあった。常時睡眠不足の私は多分、最後まで聞き終えたことは一度もなかったのではないかと思う。必ず途中で眠りに落ち、老医師の声が終わってあわてて眼を覚ますか、そのまま眠り続けてしまうことも度々だった。けれども、眠りの最中にいながらも私は、その声の内容は記憶していた。

二回目の診察のとき。

 私が診察室に入ると、老医師は椅子から立ち上がり、眼下に茶畑が見える窓のカーテンを閉めて部屋を薄暗くした。そして私にソファに横になるよう指示すると、どうでした、CDを聴いて昔を思い出したかな? と言って、私に眼を瞑らせた。すでにその時点で、私は催眠状態にいたのかもしれない。私は眼を瞑りながら、CDを聴く途中必ず眠りに落ちたことを告白した。わかりました、と老医師は、丁寧に冷めた声で返事すると、CD同様の声で呼吸に集中させ、身体をリラックスさせ、三十代を思い出すように促し、そして、思い出し終えたら終わったと言ってください、と言った。もう家で何度も反芻していたせいか、或いは緊張のせいか私は、三十代、二十代、十代と数分で終わったと思う。しかしそれから先の幼年期に時間が掛かった。家での経験もあまりなく、また家とは逆に頭は次第に冴え澄んでいき、普段の覚醒時と同様のわずかな記憶しか思い出せなかった。終わりました、と私が不本意ながら返事すると、時間が掛かったねェ、と老医師は私の反応を窺うように言った。そこで私は、家とは逆に次第に頭が冴えてしまい、今が、催眠に掛かっている状態とはとても思えないのですが……と眼を瞑りながら無遠慮に、正直なことを言った。すると、ブロックがあるかもしれないなァ、と老医師は小声で言い、しばらく無言の後、では、高所恐怖とか閉所恐怖のような記憶はありませんか? と聞いてきた。なぜ高所や閉所の恐怖があるかなど……と訝りながらも私は、そこから能弁に話し出した。私には高所恐怖はなかったが、閉所恐怖の記憶はいくつかあった。しかしその記憶は、家でのCD誘導の時や、先ほどの催眠誘導の中では殆んど思い出せず、多くがこの瞬間に思い出したものばかりだった。相変わらず私は眼を瞑ったままだ。

 私は、狭い空間に閉じ込められるのが怖かった。身動きの取れない不自由さを強いられるのが怖かった。記憶にある初めての経験は、小学生高学年の頃、妹弟とふざけあって布団に簀巻きにされ覆い被された時、どうしようもない恐怖に襲われた。が、その怖さは、誰もが同様に感ずるものと片付けていた。しかし、大学を卒業し、アルバイト生活をしていた時、引越しの手伝いで、トラックのコンテナ内に引越し荷物と一緒に載せられて後部扉をガチャリと閉められたことがあった。閉じ込められた、と意識し、自分の意志では外に出られない、と思ったとき、パニックに陥った。目的地が何処なのか分からない。このまま何時間この状態でいるのかも分からない。真っ暗なコンテナ内には、他にも数人のアルバイト学生がいた。夏だった。トラックが停まり、しばらくして後部扉が開き、運転手の助手席でナビ係りだった学生が、コンテナ内の我々に冷たい缶ジュースか何かを差し入れしてくれた。私は慌てて彼に交代してくれるよう懇願した。他のアルバイト学生たちは、真っ暗闇の中で平然とし、私の狼狽振りを訝しがっていた。この時、この恐怖は自分一人だけのものであることを自覚させられた。他にも、銀座ファミリアの着ぐるみのアルバイトでクマの頭部を被せられたとき、動く西武線の電車内で、次の駅までは閉じ込められた状態だ、と意識したとき、副鼻腔の手術前に担当医に、一週間鼻腔内にガーゼを詰め込みます、言われたとき、罪を犯して独房に入れられた、と想像したとき、手錠を掛けられた、と想像したとき、それぞれ同じような恐怖に襲われた。いっそのこと、死んでしまったほうが余ほど楽だ、と思うほどのいたたまれなさだった。

 老医師の声が聴こえた。子供のころ妹弟と遊んでいて布団に簀巻きにされたとき、呼吸ができないほどだったのかな? いえ、呼吸はできたように思います……では、呼吸ができなかったような経験は、他に?……私は思い出した。しかしこれも、家でのCDや先ほどの老医師の誘導の時には思い出さなかったことだった。

 三十代前半の頃だったと思う。そのころ私は東京に住んでいた。仲間と呑み、そのまま東京郊外の友達夫婦のアパートに泊まったときのこと。夜中、布団のかび臭さが気になり、喉がヒューヒュー鳴って呼吸困難に陥った。外へ出て、新鮮な空気を吸おうとしたが、かすかに吸え、かすかにしか吐けなかった。友達夫婦が心配してくれ、タクシーで医院へ運んでくれた。そして当直医が、喘息と診断し、即効的に気管が拡張するという太い注射を臀部に刺してくれた。

 そのときパニックには? と老医師。……? 多少の恐怖はあったとは思いますが、でも、大丈夫だったように記憶しています、と私。……友達夫婦がいたせいかなァ? と老医師はつぶやき、もしかしたら、友達夫婦の愛が恐怖を取り除いてくれたのかもしれませんねェ、と言うと、ハイッ! じゃ、このへんで、と言って一、二、三と数を数えて肩を叩き、私は眼を開けるよう指示された。そして老医師は、簀巻きはトラウマになるには弱いし、単なる症状だろうし、その三十代の呼吸困難は、これはもうまったくの症状に過ぎなく、トラウマとして抑圧の対象にはなりえないなァ、と嘆息すると、改まった口調になり、閉所そのもの、自由を奪われることそのものが怖いのではないと思います、閉所を意識するから、不自由を意識してしまうから、だから恐怖となるのだと思います、と言った。私もそのことは承知していた。コンテナ内で、自力では外に出られない、と考えなければ、着ぐるみの大きな頭部は自分の太く短いクマの手では脱ぐことができない、と考えなければ、電車の車両内で閉塞状態である、と意識しなければ、鼻腔内にガーゼが詰められて一週間は鼻で呼吸することができない、などと過剰な想像に囚われなければ、決して恐怖は襲ってこないのだ。老医師は言う、過剰な意識、想像が、恐怖を誘発しパニックに陥っている。これは確かなことだと思います。では何故、そのような過剰な意識、想像をしてしまうのか……この何故、が問題だと思う。きっと記憶の奥底に、やはり恐怖の体験があるのだと思います、と私の眼をじっと見た。つまり、過去における恐怖の体験が、過剰な意識、想像を喚起し、簀巻きの恐怖や、着ぐるみや、コンテナや、電車の中のような症状となって現れる、だから問題は、忘れている過去の強烈な体験のはずだ、と言うのである。そして老医師は帰り際、今度はこれを聴いてください、何回も聴いて来てください、と言って前回とは異なるCDを私に手渡した。

 催眠状態は、半覚醒状態や、夢の中にいながら今自分は夢を見ているのだなという自覚がある状態に、似ていた。そして失神状態にも似ていた。私は失神が気になっていて、その辺の類似を老医師に尋ねてみた。老医師は丁寧に答えてくれた。いずれも死です。精神が肉体の脳を離れている状態です。失神もそれほど気にすることはありません、別に脳に異常があるのではなく、意味的な顕れであり、自分の精神が傷付いてしまうのを自ら護っているのです。つまり自己防衛です。人間は上手くできているのです。

 呼吸困難に最後に陥ってから約一ヶ月が経つ。多少喉にいがらっぽさは残るが、体調はすこぶる良い。CDのおかげでよく眠れるのだ。CDはただ単にそのためのものなのでは、という疑いさえ出てくる。しかし、油断はならない。いつ咳き込み、いつ呼吸困難になるかもしれないという不安は常に付きまとった。

 そして三回目の診察のとき。

 私は、子供の頃からよく見ていた夢の中にいた。私は馬上にいた。手綱を引く両腕の中にはあの金髪の女がいて、追っ手から逃げていた。そこまで聞くと老医師は、では、彼女の家族が馬車で襲われた場面に戻ってください、と冷ややかに言う。嫌な場面だった。現実の自分は抵抗を覚えた。が、すでに私は馬車を襲うインディアンの身体の中にいた。白人は侵略者であり、死の報復は当然だった。私は何人もの白人を殺していた。しかしそんな私が、この家族に対しては何故か躊躇っていた。彼女の母親の優しそうな表情を見て、何故か私の中の白人への敵意がしぼんでしまったのだ。母親はしかし、眼の前で仲間のナイフに喉を切られて息絶えた。その母親は、現実世界の誰かに似ていませんか? と老医師の声。そう言われて初めて私は、その母親が私の死んだ親父であることに気がついた。似ているのではなく、まぎれもなく親父本人と、何故かそう確信できたのだ。同時に、その母親の首の、その真っ赤な鮮血が流れ出る傷口を見て、私は、親父の首にも同じ位置にアザがあることを思い出していた。他にも誰か、似ている人は?……と老医師が聞く。周りを見廻そうとしてすぐ、私の眼は金髪の彼女に釘付けとなった。驚いた、彼女の眼は、お袋の眼だった……彼女はお袋そのものだった。呆然と、こちらの気持ちの整理がつかないうちに、老医師は、はい、では次へ進んでください……とさらに私を煽った。お袋は、いや彼女は囚われの身となり、部族のテントの中に幽閉された。家族を失った彼女は、生きる気力さえ失っていた。私はそんな彼女に恋をした。夜ごと、テントに忍んで逢いに行き、彼女も私を待ちわびるようになった。彼女は私を頼り、甘え、アタシを連れて逃げて、と哀願した。まるで現実のお袋が、親父を頼り甘えるように……と私は思った。

 今回家で聴いていたCDは、前回の胎児の世界から、更にそれ以前へと退行させるものだった。人はいくつもの前世を経験して来ているという。その一つひとつの前世への入り口に、鏡があり、その鏡を覗き込めばその前世が垣間見えると、CDは誘導していた。矢張り今回も、私は途中で眠ってしまった。最後まで一度も行き着けなかった。いくつかの鏡を覗き込んだ記憶はある、夢を見ていたような記憶もある、が覚醒すると、すべての夢は忘れていた。しかし今回も、CDの内容はすべて覚えていた。まず、自分の足元を見下ろし履物を見、服装を確認させ、周りの風景から時代や自分の年齢を探った。そして、恐怖にいたたまれなくなったら自分の身体から抜け出ることが出来、他人の思考にも侵入出来ると、CDの声は説明していた。しかし家では一度もそんな体験は出来なかった。ところが、診療所のソファに横たわり、老医師の、では、今回の呼吸困難の原因となった出来事へと遡ってください、と言う生の声の一言で私は、子供の頃からよく見ていた夢の中へと送られた。そして身体から抜け出て自分や馬車を上方から確認出来、彼女の思いまで手に取るように理解することが出来た。

 私は、彼女を乗せた馬上の私に戻っていた。そして、背後に追っ手の気配を感じて逃げ出し、ほどなく前方の岩陰から白人達が現れ、銃を構えられた。その時、彼女が叫んだ。白人達の中に兄弟を発見したからだ。子供の頃からの夢の中では、彼女がなんと叫んだのか判らなかったが、今、はっきりと聴こえた。たすけてェ! と彼女は絶叫したのだ。彼女は、手綱を握る私の腕を払いのけ、ひじで私の胸を押しながら馬上から滑り降りると、必死な形相で兄弟たちへと駆け出した。次の瞬間、谷間に二発の銃声が響き渡った。一発は私の頬をかすり、一発は私のわき腹を貫通した。私は馬上から滑り落ち、銃弾の痛さよりも、女への不信に呆然と地面にうずくまった。一方、その場面を見ている今の私には、彼女のすべての心理が察知可能だった。兄弟たちに再会する前は、確かに私は頼られ甘えられていた。しかし兄弟たちが現れると、彼女は私を、野蛮な動物とさげすんだ。私への情を後悔し、私との記憶を抹殺したかった。兄弟の一人が、まだ息のある私に、とどめを刺そうと銃を構えた。が別の兄弟が、安楽な死などとんでもないと、私の首にロープを巻きつけた。インディアンの私は、死の恐怖に喘いだ。現実の私も恐怖に怯えた。このとき私は、インディアンの中にいて、そのインディアンを眺める私でもあり、診療所のソファにいる自分も意識できた。私は三人に分裂し、同時にすべてが私ひとりでもあった。私は首にロープを巻かれたまま、砂と岩の谷間の道を馬に引っ張られた。診療所の私は唸るような大声を挙げた。激しく咳き込み、呼吸を荒げた。耐えられなかったら、その身体から離れてください、という老医師の声に、私はその身体から抜け出ようと思った、が、その場を眺める私の方へといくらか比重が移りはしたが、相変わらず私は恐怖の中にいた。もしかしたら、どこか私の中にその恐怖を感じていたい、という意識が働いていたのかもしれない。白人はなかなか私を殺そうとしなかった。首のロープを私が必死に握って耐えている間は、馬を走らせ、私の手が離れるとワザと馬を止め、私がロープに手を掛けると、また走った。もう死にたかった。楽になりたかった。そして遂に、ロープに巻かれた首から力が抜けた。するとソファの上で停まっていた息が、漏れるように安らかに吐き出された次の瞬間、インディアンの中にいた私は、その私を眺めていた私の中へと飛び込んできた。

 そして催眠から解けると、老医師は言った。

 出ましたねェ……。多分、窒息の恐怖は、この時の恐怖が原因なのでしょう。そして失神も多分、この時の安らかな死への移行の記憶が呼び覚まされたものと思われます。しかし、これで完治したわけではありません。窒息の恐怖は、これで解消されたかもしれませんが、貴方にはまだ、拘束され、自由が奪われることへの恐怖が残っているようです。病の火種はまだまだ残っているのです。もっとも、火種のない正常な人間なんていません。もしいたら、その人は正常という異常な人間ということになります。火種は個性となり、病は人に気付きと学びを与えます。火種は人の自我にとって必要なものでもあるのです。とは言え、わざわざ病の火種に油を注ぐこともありません。肉体的にも精神的にも、今を健康に生きようとするならば、出来る限りストレスは避けることです。ストレスは火種を猛火にします。夜勤の仕事は辞められたらいかがですか……それからお母さんのことですが、これは幾世代にわたる前世からのカルマの問題かもしれません。これは仕方ありません。すべてを受け入れ、生かされるままに、愛し、憎み、許すことを繰り返していくしかありません。大変でしょうが、頑張ってください……。そしてもう一つ……今からでも遅くはありません、いい人を見つけなさい。……これも、仕方ないか。

正直を言って私にはまだ、自分が本当に前世を見ていたのかどうか確信が持てないでいた。確かに、観ていた映像に臨場感はあった。がその映像は、もしかしたら自分自身が創り上げている物語なのでは、という疑心が拭いきれなかった。催眠術とは煎じ詰めれば自己催眠に過ぎない、と老医師自身も言っていた。普段見る夢の中でも、自分がこうでありたいと念ずる方向に物語が展開して行く、という経験が何度かある。今見た映像の中でも、ところどころでそれに似た展開を覚えた。インディアンの私、それを見ている私、診療所の私、そのすべての私に明瞭な意識があり、すべてが私の意思の産物であったようにも思えるのだ。しかし、あの恐怖は本物だった……。

 そうして帰り際に老医師は、もう貴方には、治療の必要はないと思いますが……と言いながら、棚からまた新たなCDを抜き出し……これは貴方のように、死の場面を再体験した人ならば容易に体験できる、生死の向こう、生と死の中間生の世界へと誘うものです。仏教でいう中有とか中陰、チベットの死者の書でいうバルドゥを含む世界です。この先は、ですからカルマの探索です。この世に生を受けた意味が垣間見えるかもしれません。いかがです、試されますか?

 私は恭しくCDを受け取ると、ではまた一、二週間後、お世話になります、と深々と頭を下げていた。

 

宮越さん

 いまだに、ときどき咳き込むことがあり、痰がわずかに喉に絡む。が、呼吸困難も失神も絶えてなく、また、その気配に怯えることもなくなった。寝るのが怖い、と窒息を恐れたあの頃の自分が、今はもう全く信じられないほどなのだ。これが退行催眠療法の効果なのか、あるいはただ単に気管支炎が沈静化したに過ぎないのか、確かなことは、もう一度気管支炎に罹ってみないかぎり判らないことだった。しかし、何故か自分の中に自信があった。もう一度気管支炎に罹ったとしても、窒息に脅えることはない、という確信に似た妙な自信なのだ。この妙な自信こそが、退行催眠療法の効果なのだろう、と私は思った。だから老医師も言っていたように、もう通院の意味はないように思われた。が……輪廻転生、死後の世界、カルマ等などに個人的に興味があった。人生の意味、人間関係の裏に潜む因果の仕組み、などなどを垣間見せてもらえるかも、という期待があった。老医師がこの先、どんな話を聞かせてくれるのか楽しみだったのである。しかし、

 四回目の診察が始まると、

 真淵さんには、あやまらなければなりません、と老医師は、私が診察室の椅子に腰を下ろすと同時に、深々と頭を下げた。

 まず、三枚目のCDはウソだったと言う。生死の向こう、生と死の中間世へと誘うCDなど、わざわざ作る必要はなく、一枚目の胎児の世界からや、二枚目の前世の死の場面から容易に中間世へと誘導は出来ると言う。

 私も、おかしいな、とは思った。一枚目、二枚目同様、三枚目のCDも、老医師の声はヨガ呼吸から始まり、それから全身のリラックスへと誘導していた、がその後が、なんの指示もない。ただBGMのヒーリングミュージックのみが延々と続いた。例によって私は、途中から眠りに落ち、CDが終わってからもそのまま小一時間、心地よい安眠を得た。夢を見ていたような記憶もかすかにある。前世の夢かもしれなかった。しかし目覚めると、その夢は殆ど覚えていない。またそれでいいのだと思っていた。次の四回目の診察のときのための準備運動のようなものと思っていたのだ。

 真淵さんには、引き続いて通院してほしかったのです、理由はいろいろありますが、これは個人的な感情であり、医師としては慎むべき行為なのかもしれませんが、と言って老医師はまた、深々と頭を下げた。そして理由の一つとして、私が、百人に数人しかいない深い催眠状態に陥ることができ、加えておそらく数千人に一人の霊媒体質で、めったに出会えない患者であるからだと言う。老医師の手元には、私を含めた数百人の患者の退行催眠のテープやCDの資料があり、数千、あるいは万を越える患者のカルテがあるが、その中でも私はきわめて稀な、興味ある患者であると言うのだ。そして老医師は、私にお願いがあると言い、受付にいた私と同年配ほどの看護師の同席を乞うた。

 思いも寄らぬ展開に、私は全く思考を奪われていた。診察室に現れた彼女は、私にすまなそうな意味ありげな視線で会釈し、それから老医師に頼るような視線を向け、はにかみながら窓辺の少し離れたところの椅子に腰掛けた。若い頃は多分、かなりの美人と思われ、物腰にも落ち着いた雰囲気があった。老医師は彼女を、宮越さん、と呼んでいた。

 老医師は、少し躊躇しているような沈黙の後、宮越さんは若い頃、アメリカでのワタシの患者さんだったのです、と彼女の紹介から始めた。三十数年前、まだ二十代だった彼女は、不安症と、うつ病と、過食症による肥満に悩み、当時アメリカのある医科大学精神科の医師だった老医師の元に、診察を受けにやってきた。彼女は今よりも五十キロ以上も太っていたという。彼女はそれまで、食事療法、催眠暗示療法、温泉療法などなどあらゆるダイエットを試みていたが、一向に効果はなかった。が、老医師の退行催眠によって彼女は、数百年前のスペインのある街で娼婦だった自分を思い出し、そのとき性病にかかり、体が衰弱し、最期は骸骨のようにやせ細って飢え死にしたことを思い出した。そしてさらに、南米インディオのある部族の美しい娘だったことも思い出して、その前世では、白人達に村を侵略され、部族は虐殺された、が美し過ぎるほどの彼女だけはただ一人生かされ、白人の男達に陵辱され、最後は滝の上から身を投げて一生を閉じたという。彼女は、スペインでのやせ細った飢餓の苦痛からと、南米での美貌の肉体に群がる男たちの視線からと、二重の過去世のトラウマに防御を企てていたのだ。つまり今生の彼女は、飢餓を恐れて体重を増やし、美しくなることを怖がって太っていたのだ。しかし、その二つの過去を思い出すと、今生で太ることの無意味を自覚したのか、彼女の体重は見る見るうちに減少し、彼女は人並み以上の美人に変貌したという。

 ここで老医師は黙り、ひと呼吸おき、そして意を決したように、ワタシは美しい淑やかな日本人女性の彼女に、すっかり心を奪われてしまったのだ、と告白した。私は、何故そんなことまで私に話すのか? と思った。が老医師の話は、さらに私的な部分にまで及び、まるで老医師の方が患者で、私が医師の立場にいるかのように切々と続いた。当時彼にはアメリカ人の妻と二人の子供がいた。妻は良妻賢母、二人の男の子は共に医者を志し、円満な家庭を営んでいた。何の問題も不自由もなかった。しかし彼は、熱い彼女への想いを抑えられなかった。悩み苦しんだ挙句、妻に彼女との不倫を告白した。妻も彼女も、両方失いたくなかったのだ。寛大で賢明な妻は耐えてくれた。彼はいい気になって、肩の荷を降ろして彼女におぼれた。しかしその肩の荷は、今度は妻一人に背負わされ、ついに妻は耐え切れなくなり、ある晩、多量の睡眠薬を飲んで自殺を図った。妻は危うく命は取り留めたが、彼は烈しい後悔と絶望を味わい、宮越さんと別れる決心をした。そしてそれを機に宮越さんは、日本に帰って来たのだという。老医師はさらに言った、患者とのそのような関係は、精神科医としてあるまじきことだが、でも二人の出会いは必然であった、と。彼女が美人になったから、淑やかな日本女性への懐かしさから、ワタシは恋に落ちたのではない、前世でも二人は繰り返し縁があったのだ、という。

 アメリカでのその事件の後、彼は精神科医としての己の未熟さを恥じ、朝晩瞑想などをして、常に平常心を保つよう心掛けた。そしてその瞑想の最中、老医師自身いくつかの過去世を垣間見ることが出来るようになったという。老医師と彼女は、多くの過去世で、夫婦であったり愛人であったり仲の良い兄妹であったり、南米インディオの過去世では彼は、彼女の目の前で殺された彼女の夫だった自分を発見し、二人はきわめて近しいソウルメイトであることを自覚した。しかもその二人の関係は、ほとんどが、老医師が男で彼女が女の役割である場合が多く、今生でも二人は同種の試練を選んで生まれてきたことを彼は理解したという。

 ソウルメイトとは、魂の仲間たち、と解釈され、特定のあらゆる時代あらゆる民族に集団で生まれ変わり、夫婦、親子、兄弟、友人などを、男女入れ替わって経験し合い、学び合い、霊性を磨きながら向上を図る魂の仲間たちであるという。そして特に、いくつもの過去世に渡って夫婦関係であるような、同じ魂の分身同士である魂を、ツインソウルと呼び、それが男女であれば、出会った瞬間に惹かれあい、離れようにも離れられない関係になるらしい。だから、赤い糸は実際にあるのです、と老医師は断言する。老医師は、数百人の患者の詳細なデータから、また他の精神科医が著した書物などから、このような魂の

関係を真理であると信ずるのは、これは正常な理性の持ち主であれば当然であり、更にこれからは科学として、真摯な研究対象となっていくべきなのだと、熱く語った。

 宮越さんは、相変わらず慎ましやかに窓際の椅子に腰掛けている。医者と患者との会話には立ち入るまいと配慮しているのか、黙って愛想笑いを浮かべ、ときどき私と視線が会うと、はにかんで視線を避ける。

 私は、のろけを聞かされているような気分になった。そしてそんなこちらの思いを察したのか老医師は、水差しの水をコップに注ぎ、ひとくちゴクリと白鬚に埋った喉仏を上下させて真顔を作ると、真淵さんも我々とソウルメイトなのだと思います、と真剣に言い、更にこれは前回私が診察を終えて帰ったあと気が付いたこと、と前置きし、実は私がインディアンだったとき、老医師は、私が首にロープを巻かれ馬に引かれるのを目撃した白人たちの中にいたと言う。彼は、西部の小さな街の自衛団の長のような立場にいて、家族を襲われた兄弟たちに頼まれて妹の救出に同行したのだという。またその過去世での妻も宮越さんだった、とも言った。ですから、真淵さんがこうしてわれわれの前に現れたのは必然だと思うのです、と老医師は私の眼をじっと見つめ、そして……真淵さんは、前回の診察のとき、ご自分では記憶にないと思いますが、亡くなったワタシの妻がこの診察室にいる、とおっしゃって、その妻からワタシヘのメッセージを下さったのです、と驚くようなことを言い出した。たしかに前回私は、診察を終えたあと腕時計を見て、思いのほか針が進んでいることに驚き、腕時計が狂っているのでは、と思って、思わず待合室の時計と見比べたことを覚えている。先生の奥さんからのメッセージを伝えたのは、私がインディアンとしての死の場面を追体験したあとの出来事だった、と老医師は言う。もちろん私にはそんな記憶はない。がCDには録音してあり、いずれお聴かせする、と老医師は言うと、その時の「私」というメカニズムを、多分、と首をかしげながら説明してくれた。その時の私は、死の追体験により、自我が一時的に肉体の脳から離れていて、私の身体が極めてあちら側の存在たちとコンタクトしやすい状態となり、そこへ、私の背後のガイド達の一人が現れ、私の口を使用し言葉を発したか、或いは、私の内奥にある自我のオーバーソウル、大我、と言われているものが立ち現れたかの、そのいずれかだろう、と。そしてその、私の内なる私は、老医師の傍に佇む白人の元妻の容姿、雰囲気、などなどを細かく描写し、また夫婦間にしか分からない私的なメッセージなども伝え、老医師の眼を涙で潤ませ鼻水をすすらせると、頃合いを見計らっていたかのように、宮越さんと、宮越さんの亡くなったご主人とのことを話し出したという。それはアメリカ人の元妻の、切なる思いの企てだった。元妻は、元夫の老医師を援助し、宮越さんと、宮越さんの亡くなった元ご主人を救いたく、何とか問題を解決できないものかと、この霊媒体質の私に仲介を試みたのだという。元妻は、こういう機会をずっと待ち望んでいた。私の来院は、千載一遇のチャンスと思ったらしい。そしてそこで、元妻と、老医師と、私の内なる私との三者が相談し、次回、つまり今日の診察日に、宮越さんを同席させ、宮越さんの亡くなった元ご主人も何とかこの場に連れ出して、不幸な問題の解決を図ろう、ということになったのだという。

 

 気が付くと私は、私を見ていた。目の前にいる私は、眼を瞑り、ソファに深く背を凭れて横になっている。ふだん鏡で見ている私よりいくらか老けているように見えた。思わず私は、周りを見廻した。老医師も宮越さんも居た。どうやら私は催眠術に掛かり、そして身体から脱け出て浮遊している?……。老医師も宮越さんも、ここにいる私には気付かぬ様子で、ソファの私の方にのみ注視している。この意識している私もソファの私も、同じセーターにGパンを穿いていた。すると、ソファの私が眼を開け、上半身を起こし、唇を動かした。先生! ニセのCDなど渡す必要などなかったのですよ、私が承知しているのですから、この真淵祐介をその気にさせることなど、簡単なことなのです。とそう、ソファの私が声を発した。妙な気分だった。それは私の思考ではなかった。私の眼の前の私は、私とは別人だった。と、そのソファの私の全身が、急に眩しく輝き出し、白い光が部屋いっぱいに隈なく放射された。眩しい、と思って視線を避けようとしたが、直視できる。眩しいが、眩しくないのだ。老医師が頭を掻いて恥じ入っている。老医師や宮越さんには、その眩しい光輝が感じられないらしい。次第にその光輝が鎮まり、私の視界も鮮明になって来た。すると、ソファにいる私の中に、白い鬚を威厳ありげに蓄えた、肌の浅黒い中東のアジア人のような老人が見えてきた。老医師に似ている。私よりも大柄で、半ば私の身体の中に入り込み、半ばは私の背後にはみ出ていた。どうもこの老中東人が、私の声帯を操ったらしい。この人物が、私の内なる私か?……視界に映る診察室の様子が、いつもと違っていた。医療機具や、壁に掛かる絵がぼやけ、窓に掛かるカーテンや天井の蛍光灯も霞が懸かったように不明瞭になった。部屋全体が、部屋に在る物そのものが発光しているかのように、明るくなった。老医師、宮越さん、老中東人の背後に、赤色、青色、紫色、金色などなどのオーラが見える。加えて、カーテン、蛍光灯器具、椅子、机、医療機具などなどの物からも僅かにオーラが揺らぎ、部屋全体が鮮やかな極彩色に包まれた。

 この意識する私の周囲にもオーラがあった。その私のオーラが宮越さんのオーラに触れた。瞬間、苦悩、心配、いたたまれないようなネガティブな感情が、彼女から伝わってきた。つまり彼女の思考が読み取れるのだ。

 先生の奥さんが、宮越さんのご主人を連れて来てくださいました。と老中東人が無言の表情で、ソファの私の口を動かした。その声は、普段の私の声よりも低かった。私にも、この部屋に現れた二人が見えた。背の高いブロンドの美人が老医師のとなりに、老医師と宮越さんの間には、青白い顔色の男が立っていた。しかしもちろん、老医師と宮越さんの二人には見えない。ソファの私が言う。奥さんは、このご主人を連れて来られるのに、ずいぶんとご苦労されたようです、と。その私を見ているこの私にも、その苦労の意味が、老中東人や奥さんの思念から、不可解ながらも、何故かある程度は理解できた。

 宮越さんの戸惑う表情。疑心暗鬼なのだ。ご主人は自ら命を絶たれたのですか? とソファの私。もちろんそんなことは、私は知らない。その知らないはずの私の肉体の口から、その事実が語られることにどうやら意味があるようだった。老中東人は、彼女の疑心を払拭したかったのだ。彼女の中で、当時の感情がよみがえり、彼女の瞳に涙がにじむ。主人がここにいるんですか? と彼女。しかし彼女はまだ、完全にはソファの私の言葉を信じきってはいない。黙っていては失礼と思い、それなりの言葉を挟んだに過ぎないのだ。奥様もいらっしゃるんですか? とまた彼女は尋ね、ハンカチを握った。老中東人は、更に彼女の疑心を払いたく、彼女の横に立つ青白い顔色の男と思念の交換をした。ご主人がこんなことをおっしゃっています。アナタは、ご主人が自殺したことで、ご自分を責めていらっしゃいます。勤務時間終了後にもかかわらず、アナタは急患を後のスタッフに任せずに残業してしまい、結局ご主人を死なせてしまった。定時に帰宅していれば、ご主人を死なぜずに済んだのにと……。

 宮越さんのご主人からは、依頼心の強い性格のイメージが伝わって来た。そしてそのご主人の背後にあるオーラに、ご主人が風呂に浸かっている映像が見えてきた。片腕を湯槽から出し、床のタイルが真っ赤な鮮血に染まっている。手首を切ったらしい。遠のく意識の中で彼は、妻の帰宅時間を計算していた。自分が死ぬ前に妻が発見してくれるはず、という思いがあった。

 宮越さんの中でも、当時の記憶が蘇っていた。勤務時間終了後、部下の看護師に他愛ない恋愛相談を持ちかけられ、遊び半分に談笑していると、急患が入り、師長としては指揮を執らざるを得なかった……と当時、やむを得なかったという正当化をしたが、しかし、部下を信頼して仕事を任せる、ということも看護師長の心得と、つね日ごろ自分に言い聞かせてもいた。仕事の指揮を執ってしまったのは、帰る家庭が疎ましい、という気持ちのせいかもしれなかったのだ。実際、家庭より病院の方が楽しかった。そのときの急患を、むしろ歓迎さえした自分がいた。そしてまた彼女には、夫の甘えの計算が容易に想像できた。夫には、本気で死ぬ気などなかったと、彼女は思った。自分の、帰る家庭が疎ましいという気持ちさえなかったら、夫を救えたはずだったのだ。彼女は、定時に帰宅しなかった自分を、いまだに責めていた。

 ここで老医師が口を挟んだ。でも、ご主人の死は、必然だったのでしょ? そう仕組まれていたのでしょ? と。老医師には、宮越さんへの思い遣りもあったが、老中東人やこの世とあの世の仕組みの方にも興味があった。ソファの私が答えた。いや、仕組まれてはいましたが、必然ではなかったのです、宮越さんの帰宅時間が遅くなったのは、たしかに宮越さんとご主人の、そのお二人の背後にいるスピリット達が仕組んだものであり、恋愛相談を持ちかけた看護師の背後のスピリット達の協力を仰いだものではありますが、でも、ご主人は湯槽の中で、まだ思いとどまることができ、意識が危うくなってきても携帯で助けを呼ぶこともできたのです。妻への甘え、思い遣りの欠如、安易な死への誘惑を克服することが、そもそもこのご主人の、今回この世に生まれてきた計画であり、自らが自らに課した試練だったのです。しかし今回もまた彼は己の弱さに負けてしまいました。前世でも彼は、同種の失敗を仕出かしたらしいのです。でもきっと来世でも彼は、同じ試練を再々度自らに課してその克服を図ることでしょう。それがカルマというものなのです。

 ソファの私の動きと、その背後にはみ出た老中東人の動きは、連動していた。老中東人が宮越さんを見ると、ソファの私も宮越さんを見、老中東人がご主人へ視線を移すと、同じようにソファの私もご主人へと視線を移していた。違いは、老中東人は無表情に唇をつぐみ、ソファの私は感情を表情に現しながら唇を動かしていた。そして老中東人は、老医師の奥さんや宮越さんのご主人の背後へも、視線をさまよわせ、何かしらの存在と思念を交わしているかのようだった。

 私には見えない存在たちが、この場に来ているというのだろうか?……私は自分の背後を見廻した。私にも、背後に存在たちがいるのだろうか?……いや、老中東人こそがその存在ではないのか……他にもいるのだろうか?……。

 老中東人は続けた。ですからアナタに責任はありません。ご主人も、アナタにつらい思いをさせてしまって申し訳なかった、と謝っておられます。宮越さんは嗚咽を漏らし、ハンカチで顔を覆う。ご主人は今、自ら進んで反省の暗闇の中に引き籠もっています。先生の奥さんは、このご主人を、そのかたくなな境涯から引っ張り出して来られるのに、ずいぶんとご苦労されました。

 奥さんから、自制の念が伝わってきた。言いたい事があるが、今はまだその時ではない、というような自重気味な思いだ。私の知らない、まだまだ複雑な事情が絡んでいるように思えた。

 ここでまた老医師が、自分の興味を訊いた。宮越さんのご主人がおられるというその境涯とは、いったいどのような境涯なのですか? 老中東人が答える。自ら命を絶ったスピリットが、よく閉じこもる境涯です。肉体が滅んだスピリットは、スピリット同士の意思疎通がスムーズすぎて、誤魔化しが利かない状態となります。相手の気持ちが手に取るように判ると同時に、自分の気持ちもストレートに相手に伝わってしまうのです。すると自ずと、自分自身についたウソや誤魔化しも利かなくなり、次第に、自分自身に素直にならざるを得ない状態となってきます。そこに自省や悔恨が生じます。そして去ってきた地上生活への未練や拘りが起こります。加えて、地上に残してきた家族や愛する人が、故人にいまだに拘り続け、後悔を引き摺っていたりすれば、その念が死者をその境涯に引止め、せっかくあの世に移ったスピリットの、更なる浄化の境涯への進歩を妨げるということになるのです。つまりご主人は、仏教でいう、成仏できない状態にいるということです。ですから、宮越さんがご主人の死に拘り続け、ご自分をお許しにならない限り、ご主人は成仏できないということです。宮越さん! ご主人がおっしゃっています。アナタが考えておられるようなことが原因で、ご主人は自殺を図ったのではないと……。

 先生の奥さんの思念が、急に強まった。が、まだまだ自分の出る幕ではない、と自分を抑えている。

 その奥さんの思念の漏れから、そしてご主人が老中東人へと送る思念から、老医師と宮越さんの日本での再会の経緯、宮越さんの誤解の内容などなどが、一度に私の方へと伝わってきた。宮越さんは日本に帰ってから、看護師の資格を取得し、都内のいくつかの病院を転々とする中で、胃潰瘍を患って入院してきたご主人と出会い、恋が芽生え、結婚した。その後ご主人の仕事の都合で、ご主人の故郷でもある静岡に移り住み、県内の市立総合病院に勤務することとなった。一方老医師は、妻を心臓の病で亡くした後、にわかに望郷の念に駆られ、二人の成人した息子たちをアメリカに残して日本へ帰ることを決意した。東京の大学病院で精神科教授として何年か勤め、そして、余生はのんびりと田舎で暮らしたい、と思っていたところ、友人の紹介で静岡の市立総合病院の院長として招かれた。そこで二人は再会した。偶然ではない、とそのとき老医師は思ったらしい。病院長と看護師長という立場ながら、二人の心は浮き上がった。宮越さんは、夫にこの話を内緒にするのは不誠実と思い、もちろん過去の深い関係までは告白せず、アメリカで大変お世話になった先生と再会した、とだけ打ち明けた。それでも、帰宅しても浮き立つ気持ちは抑えきれず、夫婦の話題にときどき病院長のことが登場しては、あわてて宮越さんは、ほころぶ笑顔を噛み殺していた。が彼女は、この恋する女心が夫に気付かれているのでは、といつも危倶していた。実際、老医師と再会してからは、夫のことは頭になかった。夫がリストラされ、家でふさぎ込んでいても、大丈夫、私が面倒見ますから、老後も二人の年金を合わせれば何とかなります、と全く家庭の危機などは自覚せず、ただただ病院での仕事を楽しむことに浮かれていた。夫婦には子供が無く、夫がひとり家で妻の帰りを待つ寂しさは、あまりにも切なく容易に想像できた。宮越さんは、夫の自殺の動機を、その妻としての自分の不実と、夫の寂しさに無視を決め込んでいた自分にあると思っていたのだ。

ご主人が、自分はそんな洒落た人間ではない、と自嘲気味におっしゃっています。と老中東人は無表情に、しかしソファの私は笑みをこぼしていた。病院長であったこの方とのことも関係ない、とおっしゃっています。そんなこと考えたこともなく、それよりも、アナタが嬉々として仕事に出掛け、毎日を晴れやかな気分でいてくれたことが、どんなに慰めとなり癒しとなったことか、そして、アナタのような美しい妻を持ったことも自分には過分な幸せと、いつも感謝していた、とおっしゃっています。それに比べて己の不甲斐なさを、ご主人は恥じています。パチンコ、競輪、妻の夜勤の時はスナック通いと、あの頃は生きる目的を失っていた。そんな中、ある店の若い女の子に手を出してしまった。年甲斐も無く夢中になり、妻の夜勤を心待ちにするようにもなった。そしてその女の子から妊娠を告げられ、慌てふためいた。認知はしよう、と男の責任を思った。しかし彼女は更に、熱く、切なく、妻との離婚を求めてきた。ご主人は決断が出来ず、妻に告白することも出来ず、そこで、甘えの自殺を図ってしまった、とご主人は自分の意気地の無さを悔いています。葬儀のとき、数人の友達に抱きかかえられ、号泣していた女性らしいです。と言うソファの私の言葉に、宮越さんは、すぐにその女性のことを思い出した、が、そんなことよりも、夫の子供がいるのかしら? とそちらの方へと気が向いた。すかさずソファの私が説明を加えた。ご主人が言っています。死後、その彼女に接触してみると、妊娠はどうもウソであったようです。ご主人は、彼女のことも心配しておられます。彼女の方もまた、あれから五年も経った今でも、ご主人の自殺にこだわり、浅はかな自分のウソを悔い、自分を責め、宮越さんに対しても、謝罪して、気持ちを晴らしたい思いでいるらしいのです。ですからご主人は宮越さんに、できれば彼女に会って、許しと慰めを与えてほしい、とおっしゃっています。今は、静岡市両替町の〈手毬〉という店で働いていて、名前は美しく優しいと書いて「みゆう」、という女性です。宮越さんは、少しあわてて机の上のメモ帳を取り、膝の上に乗せ、ペンを走らせた。

 白鬚の老中東人の顔が、先生の奥さんの方を向いた。ソファの私も向いた。奥さんは、ようやく自分の出番が来たと、老中東人に自分の熱い想いを浴びせかけた。老中東人は、瞬時にその想いを受け止めると、また宮越さんの方へと向き直り、ソファの私は静かに語り始めた。先生の奥さんがおっしゃっています、わざわざ車で往復三時間もかけて通勤することはないと……。アナタはご主人の自殺による自責の念から、先生を避けるようになった。そして先生が、この山奥の小さな診療所を開院するに当たり、暗に求婚を含めて、看護師として手伝ってほしいという求めを、アナタは断った。仕方なく先生は、若い看護師を雇い、この山奥の生活を始めたが、その看護師が結婚のため他市に移り住むことになり、先生はまたアナタを求めた。アナタは今度は、先生の窮状を慮り、代わりの人が見つかるまでと、通いを条件に承諾した。去年の夏のことですね。ちょうど私が気管支炎に罹り、呼吸困難に悩んでいた頃である。ソファの私は続けた。そしてアナタは診療所の生活に馴れるに従い、この生活をこのまま続けたい、と思う自分を責め、抑え付け、幸せや楽しさを覚えるたびに、奥さんやご主人にすまなさを覚えて、更にまたご自分を責めつけた。アナタは、先生の奥さんが心臓病で亡くなったのも、自分が心労をかけたが故に死期を早めたのでは、とさえ思ってらっしゃる。奥さんが、考えすぎです、と笑ってらっしゃいます。人は多くの場合、生まれる前にすでに死期を計画しているものです。つまり仏教でいう、定命というものです。つまり奥さんは、死ぬべきときに、計画通りに肉体を離れているのです。そして今の奥さんのスピリットは、もうかなり高位に浄化されていて、死ぬ時期の計画のこと、今回の人生の意味、学びの計画などの全てを思い出しておられます。アメリカでのアナタとの確執も、前もって仕組まれていたものであり、主に、先生、奥さん、アナタの三人の、試練と学びのためのものだったのです。奥さんはすでに、肉体の執着やこの世的な執着、などなどからは遠く離れた境涯にいて、先生やアナタヘの嫉妬などという、この世的なこだわりなどは微塵もありません。ただただ元夫のこの世での幸せを思い、アナタやアナタのご主人の迷いを取り除いてあげたいという、その一心なのです。

 宮越さんからは、激しく鳴咽の声が漏れ、ハンカチで拭っても拭っても眼から涙がこぼれ落ちる。ソファの私が笑みをこぼしながら言った。ああ、犬が来ています、ずいぶん脚の短い犬ですね……リッキー? リッキーという名の犬に心当たりは? すると宮越さんが、リッキーがいるんですかァ? と嬉しそうな声を挙げ、同時に彼女は膝の上に重みを感じたらしく、思わず自分の膝を見下ろし、懐かしい匂いまで感じ取ったらしい。ご主人を迎えに来たようです、と老中東人。他にも二、三人の方が迎えに見えています。黒ぶち眼鏡を掛け、頭をきれいに剃り上げて作務衣を着た男性が、お礼を言っています。主人のお父さんです! 宮越さんが、涙の顔をほころばせた。私にもお礼を言っている。やがてご主人は、元飼い犬と、元家族に見守られながら、この診察室から去って行った。

 これが成仏ということの、実情なのだろうか?‥‥。

 老医師は探究心の強い人である。老医師は、宮越さんのことを心配しながらも、常に、あの世とこの世の仕組みについての知識を得ることに、熱中していた。そして老医師は、今考えている。試練が、計画された学びのためのものであるならば、今回の宮越さんの試練は、自らが克服していくべきものであり、あの世からの妻の援護や、霊媒真淵裕介の手助けなどは、せっかくの宮越さんの学びの計画を、台無しにしてしまうものなのではないだろうか? いや、これにはきっと意味がある、偶然や予想外の出来事であるはずがなく、起きる物事すべてに意味があるはずなのだ、と。

 そうです、先生が今考えていらっしゃることは真理です。とソファの私が老医師に言い、先生は、この山奥で隠居生活を決め込み、しばらくあの世の研究を怠ってらっしゃいました、今回、この真淵氏の通院にも、お察しのように、ちゃんと意味があります。先生にハッパをかけたのです。先生に研究を再開していただきたいのです。そして、今までの研究成果を本にまとめ上げ、広く世間に発表していただきたいのです。必要であれば、いつでもこの真淵裕介をはせ参じさせます。あの世とこの世の仕組みの知識の普及、これが目的です。これは、私個人の思いではなく、私より更に上位の存在たちの意志なのです。先生、そのための寿命はまだまだ残してありますよ……。

 そして老中東人は、無表情のまま初めて私の方を向き、私にもメッセージを送ってきた。しかしソファの私の方は私を見ず、言葉も発しない。老中東人はこう思念を送ってきた。この出来事を小説に仕上げて本にして、私にも出版してほしいと。売れるための協力は惜しまない。世の中を変えて行く貢献をしてほしいのだ。そのために今回、ソファの私の身体から私を離脱させ、この情況をつぶさに観察させた。だから今回は、三回目の診察のときとは異なり、覚醒後も、記憶は残すようにする。すべての会話はCDに録音してあり、それを参考に執筆をするように、と……。

 

 ハイッ! という老医師の声が聴こえ、私は肩を叩かれて覚醒した。老医師が、今回はどうです、記憶はありますか? と私の眼の中を覗き込み、私は、全て記憶しています、と答えた。宮越さんは眼を腫らしながら、ありがとうございました、ありがとうございました、と盛んに礼を言いながら、診察室を出て行った。

 催眠中、ソファの私から抜け出ていた私は、老中東人、老医師の奥さん、宮越さんのご主人の三者とは、言葉なくして意思の疎通ができ、老医師や宮越さんとは、意思の疎通はなかったが、二人の思考や感情や性格までも、直に感じ取ることができた。肉体のない三者からは、理解不能な事柄も含め、さまざまな情報が得られ、肉体を有する二人からは、その思考の裏に隠れた秘密や事情が読み取れた。その中に一つ、老医師の気になる秘密があった。それは老医師が、煩雑な中央の仕事から離れ、この山奥でひっそりと暮らしたいという動機でもあった。その秘密を、私が知ったことに、或いは知らされたことに、何か意味があるのだろうか?……。私ごとき者が、安易に口を挟むべきことではないように思われた。

 老医師は、探究心あふれる真面目な人だった、が、どこかタヌキのような性格の持ち主でもあった。今日の診察の終わりに私は、挨拶代わりに、ある疑問を老医師にぶつけたくなった。

 先生! 先生と宮越さんは、本当にツインソウルなんですか?

……肉体を持った私に、そんなこと、解かるはずがないじゃないですかァ、と小声になって老医師は、視線をあやふやにした。

 

 

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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稲上 説雄

イナガミ セツオ
いながみ せつお 小説家。1951年 静岡県島田市生まれ、在住。主な著作『鼻毛を伸ばした赤ん坊』(審美社)など。

掲載作は小説集『わけが解らなかった』(2012年4月、審美社刊)よりの著者自選作品。

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