岸辺に生う(下)

人間・田中正造の生と死(下)

《目次》

第五章 谷中村民とともに

第六章 悠久なる流れの中へ

エピローグ――遊水地の風景

 

 

第五章 谷中村民とともに

 

    足尾銅山の鉱業停止をひたすら求め続けていた多くの被害民にとってそのこと(﹅﹅﹅﹅)は、まさに晴天の霹靂であった。

    洪水のたびに毒水によって侵される自分たちの生活域を守るためには、銅山の操業を止めてもらうしか方法は無いと強く誓い合っていたのだから。

    しかし「谷中村を貯水池に」という計画が国や県によって進められていることを知った時、一つにまとまっていたはずの被害民たちの心に、大きな亀裂が入った。

    貯水池といってもそれが「鉱毒溜め」であることは、誰の目にも明らかだった。

    しかし、貯水池化計画が秘かに進行していくと、県は切れたところの堤防の補修を一切、認めなかった。それどころか、村民たちが堤防の上に植えていた柳の木(根が深く張るので土留めの代わりになる)を、ならず者の人夫たちを使って伐り倒させてもいた。

    谷中への圧力は日に日に強まるばかりである。ついに正造は自ら谷中村へ入ることを決意した。時に正造、六十四歳、「正造翁」と呼ばれるほど、年齢的にも立派な老人の域である。しかし正造は、一から学ぶために学校に入るつもりで村に入る「谷中学」だと表現していた。

    そこには、「自分が必ず村を守る」という強い意思の裏付けと共に、「谷中村に申し訳ない」と思わざるをえない経緯もあった。

 

    切れてしまった堤防のせいで谷中村には、しょっちゅう水が溜まるようになっていた。人々は村内を小舟で移動する有様であった。

    ふだんは草原や地中にいる小さな野ネズミたちも、竹や細い木々によじ登っては一塊りになり、うるんだ黒い目をして怯えている。やはりこの事態は、異常だった。

    村民たちは話し合い、自分たちでなけなしの負担金を出し合って、自分たちの力で堤防の修復工事に取りかかった。男も女も、老人や子どもまでもが総出で、重い石を運び大きな木材を投げ入れて、堤防造りに精をだした。

    その時、遠くから「おーい」と呼ぶ声がする。村人たちは最初は誰だかわからなかった。

 汗と泥にまみれた顔を上げて、手を額にかざしてよくよく見ると、白い旗に何か文字を大書して、四十人ほどの人々が一団となって、駆けてくる。近づくにつれ、その旗には、「川辺村義損人夫」「利島村義損人夫」と書かれているのが見えた。

「おお、まさか、まさか、来てくれたか」

    正造翁が、感極まったように叫んだ。

「おーい、手伝いに来たぞー」

    相手方の人々も口々に叫んでいる。

「この村の堤防補修のために、わざわざ二里の道のりを来てくれるとは……」

    正造翁が、相手方の青年の一人の背を叩きながら言った。

「はあ、だって、俺たち利島村も川辺村も、田中さんのお陰で、鉱毒溜めにされるのを免れたんです。それが、谷中の方へまわっちまって、まったく……」

「そうだ、そうだ、どうして、県は助けてくんねえんだ」

    村民同士の立ち話に熱が入りそうなのを見計らって、正造と一緒に谷中村に入っていた左部彦次郎が、皆を促した。

「みなさん、お気持ちは解りますが、まずここは堤防工事を最優先でやってしまいましょう。せっかく手伝いの方々が、来て下さったわけですから」

    感激屋で理想家肌の人の傍に付いていると、いつも現実的な方に目を配らなければならなくなる。正造にとって左部はそんな役回りだったのかもしれない。

「ああ、そうだった」と、村民の誰かが頭を掻き、

「じゃあ、皆さん、一踏ん張りしてみんべえ」

    と、正造翁も朗らかに言って、みんながまた作業に取りかかったのである。

    三月半ば、まだ春風とは言い難い冷たい西風が少しだけ和らいだように、この過酷な境遇の人々には感じた。ほんのひとときではあったけれど。

 

    実は「田中さんのお陰で」と、川辺・利島両村民が言っていた言葉には、理由があった。

    谷中村貯水池化計画が出される前、その南に位置する埼玉県の川辺・利島の二村にも、白羽の矢が立っていたのだ。しかしそれを偶然にも一早く察知した両村民は、田中正造に相談しその指導の下で、ある思い切った戦術を試みた。「もし、日本国民である自分たちの村を犠牲にするような事があるなら、自分たちは国民の義務である納税も徴兵も断固、拒否する」という運動を埼玉県に対して起こしたのである。慌てた県側は、村民たちの言い分を認めて計画を取り消した。元々、表沙汰になる前の事でもあったので、裏から指図した国にしても県にしても、面子をつぶされたという情況にはならなかったことも幸運のひとつだった。

    しかしそれが、今度は栃木県の谷中村一村に的を絞られることになってしまったのだ。正造は唇を噛んだ。自分のせいで「谷中村だけが犠牲になって」と、責任を感じてしまったのだ。だからこそ、谷中村へ入っていたのだった。

    埼玉の二つの村は、これに深く同情して、堤防補修の手伝いにやって来てくれたのだが、他の渡良瀬川沿岸の村々は、まるで見て見ぬふりを決め込むように静かだった。そして、

「谷中さえ、犠牲になってくれれば、他の村の者たちはみな助かる」という弱い者が陥りやすい心理さながらで、正造らと一緒の鉱業停止運動から距離を置くようになっていた。

    そしてそれは、あっという間に渡良瀬川沿岸流域に拡がっていった。皮肉な事にそれは、まるで鉄砲水が堤防の一番弱い所を突き破り、後から後からその周囲を崩していくのに似ていた。人の心も川の水も、そして大地の土もまったく同じものでできているかのようだった。

    同じ被害民としてそれまで助け合い、気持ちを一つにして請願運動を続けてきたのは、いったい何だったのだろう。それほどに彼らは、疲れ切ってしまったのか……。

 

    正造は、眠れぬ夜を過ごしていた。

    すべての私財を投げ捨てて谷中に入って、既に二年近くが経っていた。その正造に県知事が「予戒令」を発したため、常に巡査が付きまとい監視される羽目にもなった。

    元々、被害地視察や演説会などで帰りが遅くなったときは、近くの民家に泊めてもらう事も多かった。もちろん近くに宿屋があればそれを利用したが、交通不便な時代の、まして農村には宿泊施設など無く、むしろ個人の民家の方が遠来の客を泊めることには慣れていた。

    もっともそれは、各家々に経済的な余裕があったときには当たり前でも、鉱毒のせいで米も麦もろくに穫れず、買った南京米しか無いときなどは本当に困った。

「儂には、麦飯でも、ほたる粥でも御馳走です」

    正造翁には、白くても粘りのない外米よりも、黒くても麦飯の方が美味く感じられた。

    「ほたる粥」というのは、青菜や摘み草の中に玄米の粒がわずかに混じったお粥のことで、名前はきれいだが貧しい食事の代名詞でもあった。またこの辺りでは、「めだま粥」というのもあって、茶碗に映った自分の目玉が見えるほど水分の多いお粥のことで、こんな呼び方をされていた。

        貧しい家に泊まらせてもらうのだから、食事だけではなく全てのことに我慢が必要だった。

        風呂にはめったに入れず、夜具もせんべいのように薄い布団を一枚、かしわ餅のように二つに畳んでその中にくるまった。

    「なあに、雨露がしのげるだけでも、幸いです」

        そう言いながら正造翁は、毎日毎晩、谷中村内を巡り歩いた。なぜなら、県の土木担当者が、村民の買収活動に力を入れていたからだ。彼らは村内の家々を秘かに回っては、

    「今、この土地から離れれば、それなりの補償金を支払ってやるし、後々の面倒もみてやる」

        と、甘い言葉を繰り返して迫ったという。

        日々の生活に苦しんでいた村民の中には、そんな話に乗って書類にはんを押してしまう者たちも少なくなかったのだ。

    「だまされては、だめですぞ」

    「必ず、この正造に相談して下さい」

        水浸しのままの谷中の村内を、ある時は一本歯の下駄や地下たびの足を泥だらけにして、ある時は舟を使ってくまなく回った。村民の結束こそ一番大切だと考えていたからだ。

        またある時は、在京の支援者たちに必要な経費を借りるために、頭を下げにも回った。

        六十代半ばを過ぎていた老境の正造には、一日たりとも休める日はなかったのだ。

     

        乏しい栄養の食生活のせいだろうか、それともやはり鉱毒に汚染された水や食物を摂らざるを得なかったせいだろうか、堤防が壊されて洪水の水が常に村内に満ちるようになると、胃病になる人が増えていった。

        同じ胃の病で祖父と父とを相次いで亡くしたために、年若くして一家の戸主を務めなければならなかった島田熊吉宅を、正造翁は殊のほか気にかけていた。その弟の宗三は少年ながらも熱心に正造の話に耳を傾け、また手足となって働いていた。

        その島田家の敷地に、樹齢二百年という大きなケヤキの木が立っていた。

        春の芽吹きの時のやさしい萌葱(もえぎ)色、盛夏の折の木陰の涼しさ、秋の夕空にくっきりと映る影絵のような繊細さ、冬場、雪の降った翌日の小枝から滴る無数の氷柱(つらら)の美しさ……。

        しかしそれらは、過去の記憶となってしまった。四季折々、傍らに憩う者たちを慰め、励まして来た大木を伐らなければならなくなった。

        なぜなら、毎年毎年、鉱毒の水で根元を洗われ続けたせいでケヤキの幹が腐りかけていた。このまま放置すると、いつか倒れて人や家屋を押し潰すかもしれないという怖れが出て来たからだ。

        業者は伐採をごくわずかな額で請け負った。

        間もなく伐り倒されるという大樹をしみじみと見上げて、正造翁は、

    「二百年と言えば、少なくとも六、七代は経った大木だ。それがわずかに(わし)の代議士時代の歳費(給与)の一日分ぐらいで、伐らねばならぬとは……」

        と、深いため息を吐いた。

        十六歳の小柄な少年であった宗三は、ケヤキの幹にそっと寄り添い、指でその傷跡をなぞった。まだ、彼が小学生だった頃、祖父と父を相次いで亡くして途方に暮れていた時、そのケヤキの樹皮にナイフを入れて、ある文字を刻みつけた。それをそっとたどって読んでみると、不意に涙があふれてきた。下手な字ではあったが、「明日(あした)」とはっきり刻まれていたのだ。

        残った力を振り絞るように、ケヤキは己の肌に刻まれた傷を治そうとしたのだろう、そこの所だけ樹皮は盛り上がっていた。が、逆にそのせいではっきりと版画の文字のように残っていたのだ。

        ――「今の自分に、明日なんて、あるんだろうか……。

        あの時にまさるとも劣らない不安が、宗三の痩せた体の胃の辺りにせり上がってきた。

        翁は、黙って少年の細い背中を見つめていた。

        ――境遇は非情なものだ。君が谷中に生まれたのは、不幸なようでそうではない。

        心の中でこう呟いた。そして、

        ――この少年の明日が、せめて今日よりも、ほんのわずかでもより良きものでありますように……。

        そう天に向かって祈らずにはいられなかった。

        しかし、その明くる日、そしてその次の日と、谷中村はまるで緩い坂を転げるように、文字通りの泥沼へと落ちていった。

     

        日露戦争が始まる一年前のことである。

    「陸海軍全廃」が持論になっていた正造は、友人議員・河井重蔵の選挙の応援のために、静岡県の掛川を訪れていた。

     大勢の聴衆を前に、大声で演説を始めた。

    「我が国は、決してロシアと戦ってはならない。これは火を見るより明らかです」

        とはいえ、正造も十年前の日清戦争の時は、この道を未だ見いだしていなかった。日本が清国と戦うことが半島の国の独立を守ってやることだと信じていたのだ。そして日本国民が一つになれる試練の時だとも考えていたのだが、所詮そんなことは、甘っちょろい妄想だった。外国と戦争して、いったいどんなよいことがあったというのだ。

        増税・徴兵のさらなる苦しみに我が国民は追いやられ、武器や軍備のために多くの工・鉱業は大車輪で追いまくられ、そしてその結果、何が残ったか……。敵地には屍の山、破壊された村。国内には、目を覆うような公害の傷跡ではないか……。

        われわれ、ちっぽけな人間が、天から与えられた大地を破壊してはならない。自然の山や川を自然のままに守り続けなければならない。

        こう、正造は心の中で叫んでいたのだった。

     

        しかしとうとう日本は明治三十七年(一九〇四)、ロシアとの開戦へと突き進んでしまった。正造らの訴えもむなしく、国民もマスコミも戦況に一喜一憂し、足尾銅山と渡良瀬川沿岸の鉱毒問題への関心は、忘れ去られようとしていた。鉱毒反対運動も衰退していった。

        折りも折り、まるでこれらの事情に乗ずるかのように、栃木県会は十二月十日、谷中村買収案を可決した。その内訳は賛成十八、反対十二だった。同二十四日、国会でも可決し、谷中村の命運は決した。

        県の谷中村民に対する買収工作は激しさを増した。正造らの必死の説得にもかかわらず、後ろ髪を引かれるような思いで移転していく者たちも少なくなかった。買収を受諾した村民の第一団には、栃木県内の塩谷郡や那須郡に開拓民として集団移住する人たちもいた。皆、今の水村での生活より少しは楽になると信じての移住であったが、現実は更に厳しいものであった。

    「水の村で暮らしていた者たちが、山に入って生きていけるはずがない」

        正造はそう心の中で叫んでいても、貧しさに負けて村を離れていく者たちを、涙を浮かべて見送った。

        移民たちは更に増えて、数年後には北海道のサロマベツ原野へと集団移住する人々もいた。その頃はまだ未開の地だったその場所で、彼らが辿った開拓の歴史には、筆舌に尽くしがたいほどの苦難があった。胸の高さを超えるクマザサの原生林、半年も深雪に覆われる地面……。その地で生きるために、食べるために、慣れないナタやノコギリを必死になって振るわなければならなかった。

        温暖で平坦な田畑で育まれた彼らの精神は、徹底的に打ちのめされ、そして徹底的に鍛え直された。それに耐えられた者たちだけが、酷寒の地で生き残った。それから百年以上たった今でも、北海道佐呂間町には、「栃木」という地名が残っている。

        一方、ただひたすら自分たちの生まれ育った家と土地を守ろうとして谷中村に居留し続けた人たちは「残留民」と呼ばれ、水浸しの村での苦しい生活を余儀なくされていた。

     

        明治三十八年(一九〇五)五月、日本海軍の連合艦隊が、日本海の戦いでロシアが誇るバルチック艦隊に勝利した。

        翌年七月、栃木県が任命した谷中村の管掌村長は、村会議員の反対を押し切って村を廃止し、藤岡町に編入合併した。

        正造の目には、一つの村が消されたと言うより、谷中村に象徴される日本全土の自治が、瀕死の状態に陥っていると映っていた。「一つの村が滅びることは、国が滅びることだ」と、心の底から感じるようになっていた。

        日本国民が生きる権利は、帝国憲法によって保証されてはいるが、憲法云々より以前の問題として、国家よりも早くに地上に誕生していたはずの村々は、自治権を有し、何人にも邪魔されることなく、そこで生きる権利があるのだと正造は考えていた。

        だが当時の国家権力は、県や郡を手足のように使って、一つの村の息の根を何が何でも止めてしまおうと躍起になっていた。そして、鉱毒で汚染してしまったというその事実を、まるで汚れてしまった雑巾を泥水のバケツにでも浸すように隠そうとしたのだ。

     

        明治四十年(一九〇七)、時の西園寺内閣は、谷中村に土地収用法の適用を認定する公告を出した。担当の内務大臣は原敬。直前まで古河鉱業の副社長に就いていた人物だった。これを偶然と呼ぶことは難しい。

        同じ頃、渡良瀬川の最も上流である足尾銅山では、大変な事態が起こっていた。貸金値上げや、役員の不正反対などの待遇改善を求めていた坑夫たちが一部で暴徒化した。これを組合の幹部たちは必死で止めようとしていた。            

        しかし爆発したダイナマイトの燃え上がる炎の中での千人以上もの行動に、警察だけでは手に負えず、高崎から軍隊が出動したほどだった。

        ようやく暴動は鎮圧されたが、大勢の逮捕者が出て、彼らは数珠つなぎにされて街中を行進させられたという。

        当時、坑夫は村の中では食べていけない二男・三男の者が殆どで、陽の光も届かない穴の中で働く事は、農業よりもつらい仕事だったろう。しかも渡良瀬川沿岸の村々からも、貧しさに負けて坑夫になったりする者や工事の手伝いに行っている者もいた。

        だからこそ、被害者であり加害者である彼らの複雑な心情を思いやるにつけ、決して一労働者たる坑夫たちを批判することはできなかった。正造はただひたすら、経営者として責任のある古河鉱業や、鉱毒被害をそのままにして監督責任を怠っている政府の役人たちに、鋭い矛先を向け続けていたのだ。

     

        同年五月、栃木県は谷中残留民が受領を拒絶した買収金を、供託金として預け入れた。これによって、事実上の買収が成立したと見なされた。翌月、谷中残留民のうち堤防内居住の十六戸に対し立ち退きを要求し、期限までに応じぬ場合は強制執行するという戒告書を出した。

        これに応じなかった残留民に県から再び戒告書が手渡された。彼らは土壇場の崖っ縁に追い詰められていた。

        いよいよ明日が強制執行という日の晩、残った村民と支援者らがささやかな膳を囲んだ。持ち寄ったのはうどん、ぼた餅、川魚とわずかな酒……。これでも精一杯の御馳走である。

        正造は中山県知事と会うために出かけていていなかった。その代理とでもいうように元毎日新聞記者で、何度も取材に訪れて運動を支援していた木下尚江が皆に挨拶した。

    「自分はかつて皆さんから指導者的にあがめられ、恩人のごとく思われて、自分でも心の中に幾分傲慢な感じを持っていたことを、今この席に白状します」と、まず以前のことを陳謝したのだった。

        母親の死をきっかけに厭世的になった木下は、今は運動を離れて伊香保にこもっていたのだ。

    「長年、苦しい戦いを強いられてきた諸君と田中翁に、何かあったら困る。強制破壊という暴挙に直面して、いかなる突発的な事故が起こるかもしれない。そんなことがあってはならぬと思い、自分は一大決心をしてここに来た。……敵に悪するなかれ……、かつて江戸城を無血で引き渡した勝海舟の例を見倣って……」と、木下らしい心情あふれる言葉で話した。

        そのせいか、村民たちは皆、明るく飲みかつ食した。酒の飲めない者は、甘いぼた餅をほおばった。そして、

    「屋根の下で食うのも今夜限りだ」

    「まな板に載せられた鯉はジタバタしない」などと、口々に言った。

        村民たちの決心はいっそう固くなり、明日のことを誓い合って散会することになった。既に真夜中の十二時である。

        その時、巡査数名がこの場所に来て、県から村民宛の大きな封書を各々に手渡した。その内容は、「明日、藤岡町役場において、中山知事が村民と面談したい」という旨の通知書と「強制執行を五日間延期する」という再戒告書だった。

        村民からは口々に、

    「今更、なぜ延期するのか」

    「蛇の生殺しはありがた迷惑だ」という声がもれた。

        とはいえ、わずかでも麦の収穫や片付けものに時間が割けるのは「不幸中の幸い」でもあったろう。

        延期の理由は、田中翁が直接知事に掛け合ったためか、強制破壊に必要な人足が近場からは集まらなかったためだろうと推測されたが、本当のところはわからなかった。

        実は、対応について伺い出た県の担当役人の植松に対して「ゆるゆるやるように」との内相・原敬の指示があったとの記録が残っている。この「ゆるゆるやる」という言葉の奥には、いったいどんな真意があったのだろうか。

     

        今度こそ強制執行を直前に控えた晩のことである。

        残っていた谷中村民たちと、木下尚江、菊地茂らが正造翁を囲んで、もう一度夕食会を開いた。菊地は学生時代から支援活動をしていた人である。

        車座になった粗末な座敷の中で、正造翁はおもむろに口を開いた。

    「皆さんは、いよいよ覚悟しなければならぬ時が来た」

        一同は居住まいを正して、ゴクリとつばを呑んだ。

    「皆さんは、今後どのようなことがあっても乱暴をしてはならぬ」

        そう言って、木下の方を見ながら一つ大きく肯くと、

    「諸君はどこまでも一致団結して、正しい道を行きさえすればよいのです。さすれば正しい方々の味方ができて、この谷中村は必ず復活します」

        それぞれが顔を見合わせて、互いに肯いた。正造翁は眉間の皺を更に太くして、ここで一息大きく吸うと、

    「破壊の手は目の前に来ている。私も命ある限り尽くしますが、心配なのは貴方がたのことです。宅地・田畑は取り上げられる。その上、堤防は破壊されたままで洪水が氾濫する。そして政府は県庁の尻押しをしている始末……。我々は、訴える所もない。いまや、まったく進んでも退いても乞食となるより他、途はない……」

        そう言って、しばらくの間沈黙すると、正造翁はこんなたとえ話を始めた。

    「春の暖かい日に、親タニシが子タニシを抱いて、田んぼで遊んでいると、タニシ取りの足音が聞こえてくる。子タニシは恐怖のあまり『おかあさん、タニシ取りが来たから、早く戸を締めて下さい』と訴える。『戸を締めてもタニシ取りは家もろ共さらっていって、われわれ一族を釜ゆでにしてしまうから防ぎようがない』と諭す。子タニシがますます泣き叫ぶので親タニシはやむを得ず戸を閉めたが、その瞬間にタニシ取りの手につかまれてしまった」

        たとえ話の意味がすぐに分かった者たちは、苦笑しながらも神妙に聴いている。

    「貴方がたの只今の境遇は、このタニシの話によく似ていますが、しかし貴方がたは虫けらや動物ではない。一個の日本臣民として憲法によって居住の自由が認められている。貴方がたは、何十年何百年となくこの地に住み、先祖代々のお墓を守ってきたもので、今後もここに住み、これを守るのが人としての権利であり、義務であります」

    「そうだ、田中さんに言われるまでもねぇ。ここはオレらの土地だ。村だ。家だ。県だか国だか知らねえが、なんで無理矢理ご先祖様とオレたちをひっぱがすんだ」

        村人の一人が、勢い込んで言った。正造翁は、それを静かに引き取るように重々しく続けた。

    「われわれは家をブチ壊されても、たとえ乞食になったとしても、私この田中正造も、皆さんと共に社会に訴え、食を天下に乞う覚悟ですから、どうぞ貴方がたも、その決心をしてもらいたい」

        座に連なっていた木下たちは、じっと頭を垂れて聴いている。菊地は目に涙をいっぱい溜めて、両方の握りこぶしを震わせている。

    「オラたちは、谷中村の復活するまでは、田中さんの言うとおり、たとえ家をブチ壊されても、たとえ死んだとしても、絶対に立ち退きません」と、誰かが答えた。

        村民たちは「死ぬも生きるも皆一緒にしよう」と誓い合って閉会した。

     因みにこの夜、田中正造が菊地茂らに乞われるまま書き記したのが、有名な「辛酸亦入佳境〈しんさん、また、かきょうにいる〉」であった。更なる苦しみの先に何かを見い出そうとする、ここまでの心境に立ち至るというのは、並み大抵のことではない。

     

     明治四十年(一九〇七)六月二十九日の早朝、県の役人、警官隊、人夫など二百余名が、何艘もの舟を連ねて谷中村に入った。

     その日は、もう夏だというのに妙に冷たい風が水の上を吹き渡り、コウホネ草の黄色い小さな花も首を縮めていた。水面は波紋を拡げ、水際の葦の群れが、これから起こる出来事を予知したように、ザワザワと揺れさわいでいた。

     午前八時、最初の破壊が始まった。当事者の佐山梅吉の家族は、まだ朝食の最中だった。

     雇われて遠くからやってきた人夫たちは、カナテコやカケヤを使って柱や壁をたたき壊し、屋根に上ると葺いてあった茅を乱暴にめくつては下に投げ落とした。家の中からそれを見ていた主の佐山は、

    「官吏は、人民の家を破壊して土地を没収するのが仕事か!」と叫んで、居間に座ったまま、動こうとはしなかった。

    「乱暴されて、けがでもしたら危ない」と、傍らで見守っていた正造翁や木下尚江の説得で、ようやく家の外に出た。そして妻や子と一緒に、住み馴れた自分の家が壊されていくのを呆然と見続けていた。

     灰神楽のようなすさまじい埃が立つ中で、ゴホゴホと苦しそうに咳き込む人が何人もいた。降り積もった埃はその家の歴史だ。

     やがて、子どもたちがお腹を空かせて泣き出す声に、佐山夫婦はハッと我に返ったようだった。しかし、ちゃぶ台の上の箸も茶碗も投げ出され、鍋・釜までも放り投げられて、容易に食事もとれない有様だった。

     周囲にいた人たちは皆、どうすることも出来ず、子どもたちへの不憫さで胸が締め付けられる思いだった。

     この時、かつては正造と一緒に鉱毒運動に全霊を捧げながらも去って行った者たちが、物陰から破壊の様子を見守っていた。それに気付いた人々が「来てる、来てる」とささやき合う声で、正造が険しい表情で睨みつけても、彼らは一言も発することなく、ただじっと立っていた。県の土木吏の一員となって村民の買収役となってしまった彼らには、彼らなりに何か言い分があるはずだった。

     しかし、一言も言い訳することなく、この修羅場を見届けるのも仕事、責任の取り方の一つだと、心の中で叫んでいたのかもしれない。

    「悪人の立ち会うことは、断じて許さぬ!」と叫んで、怒りをむき出しにしていた正造翁も、残留民たちの気持ちを汲んで、ぶつけようもない感情をかつての同志にぶつけていたのだろう。

     その日は、翁の寄宿先であった小川長三郎の家も破壊して終わった。長三郎は腕のいい大工で、自身が手塩にかけて建てた家だっただけに、その無念さを想うに付け、余り有るものであった。

     

     翌日は、茂呂松右衛門の家だった。

     県の担当者である植松執行官の形式通りの「立ち退き命令」にも動ずることなく、松右衛門は先祖の位牌を胸にきつく抱き寄せて、その位牌に向かって語り出した。

    「この家は、ご先祖の貴方が汗水流して死ぬような苦労の末、貯めたお金で建てたと代々伝えられている屋敷です。私はどんな思いをしても、この屋敷を人手に渡すまいと寝る暇を惜しんで働き、着るものも食べるものも何一つ人並みなことも我慢して、今日まで守ってきたのです。ですが、こんなことになってしまい、何とも申し訳ありません」

     そう絶句して、その場に泣き伏してしまった。妻子も一緒になって泣き崩れ、傍らにいた人々も皆、共に涙を流した。

     執行官も警察も手の下しようがなく、しばらく立ち往生していたが、

    「この理不尽な行為を、歯を食いしばってじっと耐えましょう」と、正造翁が言うと、

    「このまま頑張って、家族がけがでもしたら大変です」と、木下も説得して、ようやく松右衛門も応じた。

     何百年もの歴史を持っていた旧家の茂呂家ではあったが、柱が壊れると背骨が折れてうずくまる巨人のようにも見えた。永く人が住んでいた家には、精霊が宿るとも言われるが、家そのものが魂を持った一人の人間のようだった。

     

     三日目は島田熊吉宅であった。正造翁は前日からそこに泊まり込んでいた。

     朝八時には執行官たちが来て、家財道具を片付けるように命じた。屋外に出た正造翁は、家の前に仁王立ちになり、

    「この家の主人は、買収に応じたものでもなければ、また立ち退きを承諾したものでもない。県庁の役人が土地収用法を乱用して土地を奪い、家を叩き壊すので、いたたまれぬから、一時外に出たまでである。柱一本でも傷をつけると絶対に容赦せぬぞ」と、しゃがれ声になるまで叫び続けた。

     見かねた木下が、翁の肩を抱くようにして庭前の木の陰に避難させた。といってもここには、以前立っていた大ケヤキの姿はどこにもない。

     けれどまるで、目に見えないケヤキの霊が正造翁を守るように、その場所は涼しかった。そこに敷かれた荒筵(あらむしろ)にゴロリと横になると、翁は大きな寝息を立てて寝入ってしまった。連日の疲れが出たのだろう。昨夜からまったく眠っていなかった。六十七歳の老体である。

     そんな様子を木下や菊地などが、ただ痛ましげに見おろしていた。そしてもう一人遠くの木陰から、かつて翁の右腕だった左部彦次郎もまた、じっと見入っていたのだ。

     

     強制執行、四日目は、水野彦市宅の番だった。

     この朝、執行官の一行が水野宅に到着し、家の破壊に取りかかろうとすると、若い娘が縁側に出て来て両手を広げて叫んだ。

    「あなた方の不手際で、父は今日、不在です。父が帰るまでは、どのようなことがあっても、絶対にあなた方には手を付けさせません。私はこの家の長女です」

     厳しい口調だが、澄み通った声でこう名乗ったのは、二十歳少し過ぎの娘のリウだった。木綿の単衣にたすきをきりりと締めていた。その毅然とした物怖じしない態度に、見ていた者は皆、思わず自分の背筋を伸ばした。

     しかし人夫を増員して連れてきていた指揮官は、「しよせん小娘の言うことだ」とばかりに、無視して家に手を掛けようとした。

    「いけません、絶対にダメです!」

     リウの凛とした声が、再び響いた。気圧されたように一歩下がると、植松執行官がパタパタと扇子を忙しく振りながら、苦々し気に言った。

    「やむを得ん、十分間、猶予を与えよう」

     すると木下が黙ったまま縁側へ歩み寄り、全身に緊張をみなぎらせたまま立っている若い娘の手を取って、その場に座らせた。母や妹たちも、姉娘を気遣うように傍らに寄り添っている。なおもリウは、家族を守るように黒い瞳を光らせて、気を配っているのが分かる。

     その様子をつぶさに見ていた正造翁は、このリウという娘の、大人の男顔負けの凛々しい態度に感嘆した。そしてこの娘の姿に、今は亡き妹のリンの姿を知らぬまに重ねていた。

     結局、家は取り壊されたが、後日東京で開かれた婦人団体主催の講演会でリウの話を紹介して、正造翁は聴衆を感動させた。

    「過酷な環境が、人を育てるのでしょう。見上げた婦女子です」と。

     

     強制執行は、五日目、六日目に続き七日目になって、谷中村堤防内の全十六戸がことごとく解体し尽くされた。

     いよいよ自分の家の番となった時に、精神に異常を来してしまった者、正気であっても頑として家から出ない者、病気で動けない者、大勢の人夫に両肩を摑まれて担ぎ出される者たちもいた。

     一人一人、一軒一軒が、すべてこの上ない悲劇であった。

     その度ごとに正造翁は、当事者たちの代わりになって握り拳を震わせて、不当行為への怒りを叫んだ。ただ、暴力だけは決して振るわなかった。

    「暴力に対して、暴力で応えれば、その結果は明らかです」

     こう、村民や自分自身に言い聞かせるように何度も呟いた。支援者の中の若い学生などが「田中さんの無抵抗主義」と呼んで、実力行使を一切しないで為すがままの状態を、ひどく歯がゆがっていても、

    「それは、単純な感情論から出た危険な考えです。一度、これで苦い経験をしたではないですか。われわれは飽くまでも憲法・法律を実行せしめるのですから、迷うてはなりません」と、川俣事件を例に引いて諭した。

     その結果、一人のけが人も出すことなく、谷中村の強制破壊は終わった。七月五日のことだった。

     取材に来ていた記者たちは、みな神妙な顔つきで挨拶をして東京やそれぞれの本拠地に引き上げていった。中には「物足りない」と口走る輩もいた。あれだけすさまじい破壊行為があったのに、暴動の一つも起きないことを指して言ったのだ。

    「田中正造や木下尚江がよく押さえていたんだよ。執行官たちも、その辺りには感謝していたらしい」などと評する者もいた。

     その真偽はともかくも、人とは不思議なものだ。本人以上に嘆き悲しみ怒りを露わにしてくれる人が傍にいると、妙に心が鎮まるものである。今回の強制破壊の件では、谷中村民と正造翁との関係が、そんな作用をもたらしたのであろう。

     

     しかしその後、続々と新聞に載った「谷中村強制収用」の記事は、残留民に対する同情の内容は少なく、むしろ冷淡なものの方が多かった。なぜなら社会全体が日露戦争後への関心に傾いていた。谷中村強制破壊は、元村民のうち四十名もの若者が、兵役にとられている間に起こった出来事でもあったのだ。

     だから、戦争が終わって村に帰った兵士の家と家族が、跡形もなく消えていたという更なる悲劇も起こることとなった。

     それにしても、家の形を成していた一つの建造物が、一度壊されるとただの瓦礫でしかなくなるという冷酷な現実は、この一連の事件を目の当たりにした人々の共通の思いであったろう。

     それは、真夏だというのに心の中に空いた穴に、ヒューヒューと木枯らしが吹くような荒涼とした風景だった。そして家の無くなったその場所は、途端に変貌した。むき出しになった地面がそこだけ、大地にできた潰瘍(かいよう)のように無残な傷そのものになったのだ。

     だが、地上の残酷さをまるで知らぬ無邪気な童神が天上にでもいるかのように、夜の星空は美しかった。真っ暗な大地の上で、きらめく星々は天空に満ち、その真ん中を乳色にけぶる天の川が、まどろむように流れていた。

     地上の川と天上の川の、これ程の対比は、これ程の乖離(かいり)は、何なのだろう。いったい何のためなのだろう。

     表現する言葉を持たぬまま、住む家を破壊された者たちは、眠れぬ野の草枕に、思ったにちがいない。

     

     政府に指示された栃木県の執行で、自分たちが昨日まで生活していた家々を破壊された谷中村の人々は、それでも村から動かなかった。これには正造でさえ驚いた。

     しかしそのわけは、自分たちの生存権をひたすら守るという、正造から教えられた理由からではなく、むしろ、土に生きる農民たちが本来持っていた土地に対する強い執着心や、先祖伝来の墓を守りたいという素朴な信仰心に寄るところが大きかったのだ。

     そして、寄せ集めた破材で仮小屋を建ててまで残留し続けた村民たちは、その後十年余も苦しい闘いの生活を続けることになる。

     田中正造は一人、最後の最後まで彼らを見捨てることはしなかった。

     晩年になって、――それは川俣事件の裁判中に問われた「官吏侮辱罪」で生涯四度目の投獄の身となった正造が、その牢内で手にした聖書の教えに基づいて、自ら選び取った犠牲的行為という一面があったかもしれない。

     ただ、正造の精神は多面体であり、その考えるところは単純ではなかったはずだ。とはいえ、谷中村残留民と一体となり谷中村復活を飽くまでも希求した翁の心は、絶望の淵に立たされつつも水晶のように純粋だったのかもしれない。

     

     明治四十二年(一九〇九)の元旦、谷中村残留民は強制破壊後、二度目の新年を迎えていた。

     村民たちはささやかな新年会を開いたが、正造翁は席の暖まる暇もなく、東京と古河(こが)町、そして谷中村を慌ただしく走り回っていた。国会へ提出する「自治村回復を期する請願書」の起草に着手しなければならなかったのだ。

     しかし永い間の無理がたたったのか、目の縁がただれる眼病やしつこい風邪に悩まされて、体調を崩したままであった。

     一月下旬、その様子を見かねた支援者が、翁を川島熊蔵方に移した。この人物は、後に「藤岡の治水町長」と呼ばれた川島角之助の父親に当たる人である。

     川島の屋敷は、篠山の高台にあった。庭からは元の谷中村や赤麻・野木・そして古河、利島・川辺などの渡良瀬川下流の村々が一望のうちに眺められた。遥かに目を向けると筑波山、そして太平山や日光連峰の山々がそびえ、その間から大きな朝日が昇るのがよく見えた。

     正造翁の書斎兼保養所に当てられたのは、母屋に向かって左側の茶室風の離れ屋だった。庭には若木の植え込みがあり、この部屋とこの庭を翁はたいそう気に入っていた。

    「ここから、儂たちが這うような思いで動き回った水害の村々が見える。実にふさわしい所だ」

     と、傍に付き添っていた宗三に言った。

    「島田君、君も後に庭を造るときは、このように造るとよい。金をかけずに、何年、何十年と楽しみながら、庭木を世話すると、自然によい庭になりますから」

     宗三はこのとき、自分が将来ちゃんとした家を持ち、庭も造れるようになるなどとは考えられないことであったが、正造翁がこんなふうに言ってくれたことが嬉しかった。

     来る日も来る日も、息のつけない過酷な生活の中で、翁と宗三の、ささやかな息抜きのひとときだった。

     

     強制破壊から三年たった二月末の、ある雪の日のことである。

     正造は、東京の支援者回りから帰村すると、島田熊吉・宗三兄弟の仮小屋に戻った。仮小屋は既に数回作り直していて、かろうじて暮らすことができる広さと、必要最小限の家財道具を備えていた。

     しかし風呂場がないので、いつも小高い丘の水塚(みつか)の前にある柚子の木と柿の木を背にした崖下に、露天の風呂を沸かしていた。

     夕方になって雪が降り出した。ささやかな風呂の屋根の代わりに差し掛けていた番傘が、真っ白になった。仮小屋と風呂のある所は、少し離れているので、入浴するには雪をかぶらなければならない。正造は言う。

    「今晩こそ、是非入らねば。毎日忙しく動いていて、風呂に入る暇もなかったから」

    「ご覧の通り、ひどい雪ですよ。明日の方がよいでしょう」

     と、宗三が応えると、

    「明日はどこでどうなるか、分からない。なに、少しくらいの雪はなんでもない。谷中の鶏は毎晩木の枝に止まっている。いつぞや雪の朝に見たところ、鶏の頭から背中まで雪が真っ白に溜まっていた……」

     と、翁は遠くを見るような目で話し続ける。

    「その時、儂は、心の中で泣いた……」

     宗三は黙って肯いた。翁はその仕草を確認すると、ほっとしたように、

    「鶏小屋まで壊された谷中の鶏に比べると、自分はよほど幸せですよ。湯から上がれば、仮小屋に眠ることができるのですから」

     それを聴いて宗三は立ち上がり、野天の風呂のたき付けを取りに行って、翁のために焚いたのだった。

     久しぶりに湯船に浸かって、とても気持ちが良かったのか、正造は先ほどのしんみりとした口調ではなく、軽快に語り出した。

    「世間の人は、よほど儂が風呂好きだと思っているらしい。別の用事があって儂が行ってもその度に、まず風呂へというお宅ばかりでな、特に夏場なんぞ……」

     宗三は話の意味を解しかねて黙っていた。

    「よほど儂から、よい匂いの夏場の香水が漂っていたんだろうな、鼻をつままんばかりに苦笑いして、まず風呂へとな」

    今度は宗三も意味するところがわかり、苦笑しかけた。しかしよく考えてみると、毎晩風呂に入れぬのは翁も自分も同じだ。翁は七十もの老人、自分は二十歳の青年。その匂いはどっちがより気になるだろうと、はたと悩んでしまった。

     人並みの世間では年頃の男のくせに、身だしなみを構うことのできない自分が、ひどくみじめな気がした。フーッ、フーッと火吹き竹をふきながら、一緒に涙も滲んできた。煙いからだけではない。

    「特にな、足利の定助のところなぞ、いっつもそうだ。風呂を借りるでなく、金を借りに行ったのに、湯に浸かってすっかり気持ちがよくなって、あやうく金の方を忘れてしまいそうだった」

     などと一人で呟いている翁の声を聞くと、途端に宗三は悩んでいる自分が可笑しくなってしまうのだった。

     正造翁は自分たち谷中村民の復興活動のために、あちこちを走り回って、資金を工面しているのだと改めて思い直したのだ。

     正造が言っていた「足利の定助」とは、亡き妹リンの息子(長男)で大変な資産家だった。正造の政治活動をよく理解して、正造に毎月活動資金を提供していたのだ。

     ところが、その定助が事業に失敗し、正造への定期的な送金を打ち切らざるを得なくなった。翁は在京の支援者を頼ったり、近郷の知人を回ったりと、金策の方にも苦労するようになっていたのだ。

     ようやく雪が小降りになった。

     裸の柿の木の小枝から、ドサリと雪が落ちた。

    「ひゃー」と、正造翁が女のような悲鳴を上げた。宗三も声を立てて笑った。人は、どんな悲惨な境遇の中ででも、笑うことはできるのだと思った。

     

     国会議員としての活動、特に鉱毒問題に対してそれこそ命がけで取り組んでいた正造にとって、正直、家庭を顧みる暇はなかった。

     しかし妻のカツは、そんな夫をよく理解し、側面からそして背後からよく支えていた。舅・姑が健在の時は、真心を込めてその世話をし、家計のやり繰りもきちんとして、葬式代まで工面して別に貯めて置き、正造に感謝された。

     正造とカツの間には子どもがいなかったので、少し手が空くと夫の鉱業停止運動の手伝いさえしていた。

    「被害地では、せっかく赤子が産れても、母親の乳の出が悪くて困っているらしいのだが、その辺りのところ、男の儂ではどうも調査しづらくてな。まして若い連中では……。済まぬが、カツ子、お前が調べに回ってくれぬか」

     こう正造に頼まれて、鉱毒被害のとりわけ激しかった群馬県の海老瀬村に滞在し、付近各村の疾病者と乳汁欠乏の情況を、カツ夫人は一軒一軒回って念入りに調べたことがあった。

     その頃、正造は国会議員として当然もらうべき報酬である歳費を一切辞退していた。その経緯はこうである。

     第二次山県内閣が、軍備拡張を目的にした財源確保のために地租税を増額した。その見返りとして同内閣は、議員歳費を八百円から二千円に値上げする法案を提出した。正造は所属政党を代表して反対演説を行った。「この法案は賄賂的であり、議員を侮辱するものである。まして地租税を上げ、一方で歳費を値上げするなど許し難い」と。

     結局、値上げ法案は可決されてしまったが、それでも正造は反対の意思を貫くため、たった一人で歳費の全額を辞退したのだ。自己の信念を貫くためとは言え、やはりそれは傍から見れば痩せ我慢というもので、田中家の経済状態はますます苦しくなっていた。

     そんな事情もあったので、正造は足利にいる甥の原田定助に手紙を書き、カツにお金を渡してくれるよう頼んだりもした。カツにしても、知らぬ土地に身を置きながらの苦労の末、出した調査結果が東京の鉱毒事務所で印刷され、被害地の母子たちの窮状を世に訴えることができたのは望外のことであったろう。

     しかしカツ夫人もあまり体が丈夫な方ではなかった。度々入院することがあっても、正造が見舞いに行くことは滅多になかったのだ。

     

     在京の病院のベッドの上で、カツ夫人が窓の外を眺めている。電線にスズメの一群れが止まった。

     四人同室の、他の三人には、それぞれの家族らしい見舞客が面会に来ている。

     カツは少し淋しそうにしながらも、窓のすぐ傍の電線に一羽ぽつんと離れて止まっているスズメを見ている。そして、もう若いとは言えないが品のある細面のカツの口元に、微かな笑みが浮かんだ。はぐれスズメに自分の姿を見たのだろうか。

     その細い背中に、声がかかる。

    「カツ子さん、お加減はいかがですか」

     ゆっくりと振り向くと、島田三郎夫人の信子である。島田は神奈川選出の国会議員で、正造の古くからの大変親しい友人の一人であった。

    「えぇ、えぇ、何とかやっております。それよりも、お忙しいお立場でしょうに、いつもありがとうございます」

    「いいえ、もっぱら主人は、私の仕事は家事の采配とお見舞い専門だと思っておりますから、遠慮なく出て参れますよ」

     信子夫人は、そう言って控えめに笑った。

    「ところで、正造さんはこちらへは」

     カツも笑って、静かに首を振る。

    「そうですか、そうですか、正造さんたら、本当にもう……」と、言いかけたのを引き取るように、

    「いいんですよ、私のことは。もうすっかり慣れましたから、この生活に」

     ことさら明るい口調で、カツ夫人は答える。

    「まったく、正造さんもあの通りのお人だから。他人様にはあれだけ尽くし続けて……。たしか、谷中の水野さんてお方が病気になられたとき、お医者に一度も診てもらえないのは、何とも気の毒だとおっしゃって 東京の和田医師に往診を頼みに上がったそうです。

     和田先生も快く応じて下さり、上野から汽車に乗ったのですが、なんと古河駅に着くわずか一時間前に、水野さんは亡くなってしまったとか。和田先生もがっかりして、そのまま東京に戻られたというお話でしたよ」

     この経緯を夫人は以前、夫の島田から聴いて知っていた。カツには初耳だったが、いかにも正造らしいと思った。多分、正造が水野彦市を見舞ったとき、既に水野は手遅れに見えたに違いない。それでも見殺しにはできないと、夫・正造は東京までひた走りに走ったのだろう。自分も既に立派な老人だというのに……。

     妻のカツはそう想って、心の中に悲しいのか嬉しいのか、冷たいのか温かいのか、自分でも分からない泉のような感情がふつふつと湧き上がってくるのを感じた。

     目を移すと、窓の外のスズメたちはみな、飛び去っていた。

     

     

    第六章 悠久なる流れの中へ

     

     田中正造や谷中村残留民たちを、更に窮地に追い込むような計画が、政府によって動き出していた。

     栃木・群馬・埼玉・茨城・千葉の五県にまたがる大事業である。

     それは利根川と渡良瀬川の改修工事であった。そしてその規模は、とてつもなく大きなものだった。

     谷中村の西側を流れている渡良瀬川――そこは海老瀬村の七曲がりと呼ばれ、川筋が激しく蛇行している箇所であったが、その川筋を変え、藤岡町の台地を東に開削していって、谷中村へと流れを向け、広大な遊水池を造る計画である。

     担当の内務省は、工事費のそれぞれの負担分を各県に通達し、それを受けて関東五県の各県会は、両川改修案を可決した。

     正造や残留民にとっては、最後の闘いが始まろうとしていた。

     利根川の水は、現千葉県野田市関宿(せきやど)で分流され、本流は銚子から鹿島灘で太平洋へ、もう一方は江戸川となって東京湾に注いでいる。

     この関宿には「棒出し」と呼ばれる石の堤があった。利根川の水が大量に江戸川の方へ流れ込むのを防ぐための、(せき)の役目を果たしていた。

     つまり、大洪水や鉱毒被害から首都・東京を守るための、いわば防波堤の役割とも言えた。

     

     正造は、河川調査のために、何度もこの関宿を訪れていた。その結果、渡良瀬川に大水が出たときに、逆流して洪水の被害を大きくしてしまうのは、この利根川の関宿が原因だと考えていた。

     そして渡良瀬川下流域の農民たちと共に、「利根川逆流阻止・関宿堰取り払い」のための運動を始めた。

     明治四十三年(一九一〇)八月、関東各地の河川が氾濫して約四十万戸が浸水被害を受けた。この大洪水の後に、利根川、渡良瀬川、思川、鬼怒川のそれぞれを、何か月もかけて詳細に河川調査をしていた。

     先に国と県が、洪水対策として企図した渡良瀬川改修工事と谷中村遊水池化工事は、まったく的外れで何の役にも立たないことを正造は主張し、科学的な説得力を持って証明しようと必死になっていた。

     これは、谷中村民だけのためではなく、河川流域に暮らすすべての人々のためであった。

     

     ここに一つ、正造を大変喜ばせた話がある。

     明治四十四年(一九一一)六月十五、六日の大雨で増水した時、谷中村の小学生四人が、切れそうになった急水留め(麦の収穫のための畦畔)を見つけ、一人は大人に知らせる為に駆けだし、他の子はそのままそこに残って堤を守ろうとした。

     この後、十人ばかりの青年たちが駆けつけて、子どもたちを助け、急水留めが破れるのを無事、防ぐことができた。子どもらは朝から何も食べずに、走り回っていたという。この話を伝え聞いた正造翁は、学童らの働きをほめ讃えて、こう言った。

    「彼らの働きは、収穫の損害を救い、その他の多大な損害をも救った。まことに天のたまものである。天より褒賞を受けたることだ」と。

     これからの世代の子どもや青年たちに、とりわけ期待を抱き続けていた翁にとっては、何よりも嬉しく頼もしい出来事だったのだろう。

     

     島田宗三を含む谷中村の村民たち八人が、東北本線の朝一番の下り列車で、石橋駅に降りた。石橋駅前の旅館に、昨夜から泊まりがけで来ていた正造翁に合流するためだ。

    「おう、よく来た、よく来た」と、翁は相好を崩して喜び、自分でお茶を煎れて出し、皆を労った。

    「貴方がたが一緒だと、儂も心丈夫だ」

     村民たちが、一服の茶で人心地ついたのを見て取ると、

    「さあて、早速だが、出かけましょうか」と、蓑笠に脚絆を付け、地下足袋を履きだした。河川調査に出かけるのである。今回は(おもい)川上流の枝川を幾つか見る予定だった。

     駅前の商店街を過ぎると、すぐに田畑が広がっていた。麦の穂が実り、「麦秋」の風景だった。壬生(みぶ)街道と呼ばれる道を約四キロほど西へ進むと、姿川という穏やかな流れの川に出た。

    「この川はの、姿川というて、水源は宇都宮の方じゃ。この川は、四十三年の洪水の時、やや大水になった」と、翁が一行に説明する。

     そこから更に四キロほど西に進むと、黒川の東雲(しののめ)橋に出た。この川も思川上流の枝川で、橋のたもとにある茶店で皆を休ませながら、茶を運んできた店の主婦に翁が訊ねる。

    「この辺りでは、四十三年の洪水の時、水がどれくらい増えたか、覚えておりますかな」

    「はい、わたし共の所では、確かあの時はそれ以前の洪水よりも、一尺くらい低めでした」と、きちんと答える。

     翁は感心したように、

    「ほおー、貴女(あなた)はご記憶がようございますね。先頃私が来たときも、細かに教えてくれましたが……」と誉めると、主婦は「よく水を調べてくれるからというので、いつぞや役場からご褒美に五十銭いただいたことがありました」と、答える。

     主婦がお辞儀をしながら店の奥へ消えると、翁は言った。

    「感心、感心。水に殊の外、心を配っている。年々歳々、自然気象は違うが、しっかり覚えているのは大変なことだ」

     一行は頷きながらお茶を飲み終えると、縁台から立ち上がった。

     壬生の街中を珍しそうにキョロキョロする者に、正造が説明してやりながら、また西へ抜けてしばらく歩き、小倉川に出た。この川は思川源流の呼び名の一つである。長さ三百メートルくらいの大きな橋の下には、殆ど水も無く、ただ砂利ばかりが見える。

     また橋のたもとの茶店に入って、昼食をとることにした。声をかけると主人が出て来て、翁の問いに快く答える。

    「四十三年の洪水は、それまでの大水に比べると四尺も低めでした。ところが、古川橋の方では、いつもの大洪水より二尺も高かったんです」

     

     昼休みもそこそこに、再び一行は出発した。

     また四キロほど下流に下り、里川と小倉川の合流する辺りへ行き、橋のたもとの農家を訪ねると、家人は正造が来たのを喜んで、忙しい養蚕の仕事の手を止めて茶を出してくれた。そして翁の同じ問いに、答えて言う。

    「ここでは、四十三年の洪水は、それまでの洪水に比べて九寸ほど高く、この下の半田河岸では一尺も高かったのです」

     翁はしきりに領きながら、一行を振り向いて言った。

    「儂は、ここへもこれで三度、聴きに来たが、いつ誰に訊いても違わない。上流ではどの川も大洪水ではないのに、ここへ来ると一尺も高くなる。これはまったく関宿堰堤による逆流の害だ」

     宗三や他の者たちも、みな顔を見合わせた。利根川の関宿という、思川から渡良瀬川を経て、はるか下流にある障害物のせいで、こんなところにまで影響が出ていることに、改めて驚いたのだ。

    「以上で、思川の調査は済んだ。あとは巴波(うずま)川の方だが、こっちは明日にしよう。やはり儂も歳だ。くたびれたわい」

     翁は、それでも明るく言った。

     近頃めっきり体力の衰えを感じていたが、自分たちのための河川調査に、村民が同行して一緒に確認できたことに、ほっとした思いだったのだ。

     田中正造の手による「河川巡視日記」は、各地を歩き回って、文字通り「足で書いた記録」と呼べるものであった。その中には水位のデータなども詳細に書き入れられていた。

     そのような、実に地道な努力の積み重ねの上に、後に正造の「水の思想」とも呼ばれる、治水にまつわる哲学的な考察は成り立ったものだった。

     

     正造の日記には、次のような記述がある。

    「水は自由に高きより低きに行くのみである。

     たとえ国会で決めても、法律・理屈・威信と威張っても、水は法律・理屈の下に屈しない。

     水は人類に左右されるものではない。水はまことに神の如きもので、人類まことに、へぼな人類などの決めたことに服従しない。

     それ故に、水を論ずるのに敵も味方もない。議論して勝利を得たとしても、その勝利は議論の上の勝利であって、水に対する勝利ではない。河川は決して無理に決めた法律規則に従わぬものである。

     水はいう。『我には我の自由あり』と。

    『我は古来の天然と習慣とにより、流れて海に行くものである。新たな道普請も不必要である』と。

     水は正直にして堤のないところに入る。だから国土を滅ぼすが、水が滅ぼすのではない。人が滅ぼすのである」

     

     田中正造にとっては、足尾銅山の鉱毒を止めないばかりか、まるで問題のすり替えのように、渡良瀬川の川筋を変えてまで谷中村を貯水池化することに、一分の理も見い出せなかったのである。そして更にこうも述べている。

    「国民みずから自国を滅ぼす、これは政治一つの問題でない。

     山を削り、また崩し、利益上の自然の面積を危うくする。

     これは世界の問題である。日本に一人の治水家なし。

     水害は天災ではなく、人造の被害(人災)である。人造の害を除けば回復するはずだ。移住の必要もない」

     

     利根川の水は、江戸時代以前には、正造の言うように正直に、つまり高い所から低い所へと南に流れて江戸(東京)湾に注いでいた。

     しかしこれを、江戸幕府になってから、東北からの大軍を利根川で防ぐための軍事目的や、将軍お膝元の江戸を洪水から守るという自己防衛、そして銚子から川を使って物資を江戸に運ぶという水運の利便のために、川筋を変えたのだ。

     つまり、人間が己に都合の良い目的のために、無理に河身を東へ曲げて流れを変え、現在の利根川を造ったのだ。

    一見、良いことばかりの「一石二鳥や三鳥」も狙える大工事と思えるが、正造の「水の思想、水の哲学」ともいえる考え方からすれば、言語道断・諸悪の根源とでも呼ぶべきことだったのだ。

     なぜなら、その工事の結果、利根川に合流する渡良瀬川は、利根川が増水するとそこへ流れ込めなくなり、やむなく逆流して渡良瀬川下流域に大洪水を引き起こすことになってしまったのだから。

     正造は更に、こう述べる。

    「自然を害するに至って、その害が激しければ激しいほど今では文明の利益とするところが多い。しかし、天が与えずに人間が与えるものには、必ずその中に害が含まれている。

     水は、汽車の線路のように無理に山を切り開いたり、川を移動したりして真っ直ぐに行くのを好んだりはしない」

     

     そして田中正造の考えはついに、文明論に至る。

     七十二歳になっていた正造の日記には、こう記されている。

    「真の文明は山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし」と。

     正造が辿り着いた一つの極致であったろう。

     これを、実感として口にできるということは、これだけの苦しみを味わったということの紛れもない証左であった。

     

     大正二年(一九一三)八月のその日(、、、)は、真夏の日差しが朝からじりじりと照りつけていた。風もなく、よどんだ大気の下で、すべての生き物がぐったりと()んだように見えた。

     前日の晩、佐野町の知人宅に一泊していた田中正造は、数えで七十三歳の老体をみずから引きずり出すように、寝床から這い起きた。

     体の具合がすこぶる悪い。

     ――もう、永くはない。間もなく、迎えが来る……。

     そんな自覚が翁には、あった。

     しかし、やらなければならないことが、まだ山ほどある。ここで倒れることは、誰より自分が許さない。

     こうして佐野の方へ来たのも、借金のことが気になっていたからだ。もっぱら金銭的にはルーズな方だと評されていた正造だったが、彼なりに活動資金を集めるために必死だった。これまでにも何度かあったのだが、寄付として差し出してくれる人からは、遠慮無くもらった。貸すと言ってくれる人には、代わりに証文や書き付けではなく、自作の歌や書画を置いていった。

     これで万一借金が返せないときの、肩替りとするつもりで渡したわけではなかったが、正造直筆のものを欲しがる人は多かった。それは立場上の敵か味方を問わなかったのだから興味深い。個人的には正造に肩入れしていてもそれを表に出せず、こっそり人に頼んで正造揮毫のものを手に入れる人たちも中にはいた。

     

      大雨に打たれたたかれ行く牛を

        見よそのわだち跡かたもなし

     

     これは正造翁自作の歌の中でも、とりわけ本人が好んで書き付けていた一首だった。だがまるで、自分自身の姿を牛に見立てて、その生き方を遠くから俯瞰しているような淋しい味わいのする歌だ。というより、鉱毒問題の行く末を予感し暗示したような趣さえ感じ取れる歌だろう。

     元々筆まめな翁は、いつも矢立(携帯用の墨と筆)を持ち歩き、求めに応じて気軽に筆を走らせていた。そんな時は、面白い戯れ歌などもよく物していたが、しかし今度ばかりは、それどころではなかった。毎日、几帳面に日記を綴っていた正造も、八月に入ったばかりの日付で筆は途絶えた。八月二日の起き抜けに、前日を振り返って書いたものだろう。

     

     その日の朝、佐野町の津久井氏宅で、握り飯を作ってもらい、

    「もし、これが食べられれば、まだ自分は用足しに行ける」と、呟きながら、三個のおにぎりを平らげた。

     お茶で飯粒を流し込みながらも、胃の辺りの焼け付くような違和感は、消しようもなかった。何とか吐き気だけは押さえて、飲み下した物を胃の中に収めると、翁はふらつく足で立ち上がった。

     なじみの人力車夫の常吉が、車で迎えに来ていた。正造を敬愛する常吉は、翁のためならただでも車を引いて走るほどの献身ぶりだった。

     その常吉が、正造の弱々しい動作に驚いて思わず両手を差し出すと、翁は彼を険しい目つきで睨みつけて、

    「よけいなことはするな!、車の梶棒を押さえるのが、貴様の職務だ」と、叱ったという。

     そしてようやく車に乗り込むと、「雲龍寺へ」と指示した。が、着いてみると、あいにく住職は不在であった。

     雲龍寺の近所には、正造とごく親しい庭田家の本家と分家も在った。始めに本家の源八宅の方へ回ったが、やはりここも不在だった。

     庭で遊んでいた子どもに、分家の清四郎宅へと案内された。

    「本家の源八さんが留守なんで、こちらでしばらく休ませてもらいましょう」

     そう言い終わらぬうちに、正造は肩から崩れるように縁側に倒れ込んだ。菅笠をとった時の翁の顔色は、既に障子紙のように白かった。

     家の中から出て来た清四郎は、翁の異常に気付いて、すぐに妻を呼び、自分は座敷の押し入れから急いで布団を持ち出した。清四郎の妻が、水桶に水を汲んできて、正造翁のわらじを解くと、丁寧に足を洗ってやった。

     翁は布団ごと庭田家の家族に運び込まれて、八畳の奥の座敷に横たわった。それから約一月もの間、庭田家のその部屋が、田中正造(つい)の病室となったのだ。

     

     七十余年の生涯の中で、正造は数え切れないほどの文章と文書を残した。それは議員時代の質問書を始め、陳情・請願書類、日記、私信、回想録、新聞記事等……。そして同じく数え切れないほどの演説や講演。県会・国会での質問・説明演説、政談演説会での弁論、鉱毒被害演説会での演説、街頭演説、選挙応援、裁判での陳述でさえ演説に近いものだった。そしてまた、数え切れないほどの実地調査。新聞記者時代の取材はもちろん、鉱毒の被害地調査、治水のための河川調査等、関東近県で田中正造の知らない川はないのではないかと思えるほど、自分の足を運び、自分の目と耳で確かめた。

     書くことにおいては書家や作家と肩を並べ、話すことにおいては弁士顔負け、調べることにおいては学者並みの努力を怠らなかった。

     たった一人の人間が行っていたこととは思えぬほどの、まるで三人の人間が共存していたかと錯覚するくらいの三面六臂、阿修羅のごとき働きぶりだった。

     ひた走りに走り続けたその疲れが、体に出ぬわけがない。その無理がたたらぬわけがない。元々翁は病持ちで、リューマチを始め、胃のカタルも患った。そして眼病、頭痛……、入院したのも幾度あったか分からない。しかしまったくそれを表に出さなかった。出す暇さえ無かったのだ。

     元々弱かった胃腸に、過度のストレス。こんな言葉は使わなかった時代でも、世の抑圧と緊張関係は、人一倍甚だしかった。物事を一生懸命やればやるほど、熱情を注げば注ぐほど、それが実らなかった時の落胆は、心身両方を傷めつける。そんなダメージを、いやと言うほど味わった人だった。

     ただ、数々受けた衝撃の中でも、一番骨身に応えたと思えるのが、長年共に闘ってきた者たち、信頼を重ねてきた者たちの離反であったろう。

     鉱毒反対闘争の旗手だった野口春蔵しかり、川鍋岩五郎(谷中残留民、翁の当初の寄宿先)しかり、そして片腕とも言えた左部彦次郎しかりである。しかも後の二人は県の土木吏にまでなっていた。文字通り、半身をそがれるほどの苦痛ではあったはずだが、しかし田中正造という人は、自分から離れていく人自身の苦悩が分からぬ人ではなかった。

     その人が立たされた位置や場所、つまり個人的な事情を解せぬ人ではなかった。が、だからといって一度交わした約束をうやむやにできる人でもなかった。

     つらかったはずだ。キリキリと胃の辺りが痛んだことも一度や二度の話ではない。

     それに加えての粗食。特に谷中村に入った六十代半ば以降は、滋養のある食物など口にできなかったにちがいない。多分、冷えた外米にろくに実もない味噌汁をかけて、そそくさとかっ込むだけの貧しい食事が殆どだったはずだ。

     そんな毎日の繰り返しが、健康によい影響を与えるわけがない。それでも小止みない忙しさと、精神力によって、翁の体は動かされていたのだろう。

     

    「正造翁、倒る」という一報は、僅かなためらいの後、周囲に伝えられた。

     谷中村の人たちが見舞に来たのは、何日か経ってのことだった。なぜなら翁が「谷中に行って、やらねばならないことがあるから、ここで死ぬわけにはいかぬ。早く使いを出して、谷中から担架を持って迎えに来い」と、苦しい息で悶えるように急かしたからだ。逆に谷中だけ連絡できなかったのだ。

     正造夫人のカツは、七月末に足利の原田家に来ていた。そしてすぐに庭田家に駆けつけた。二日後に佐野町の茂居医師が往診に訪れた。

     三日後には、従軍看護卒の経験のある岩崎佐十と、看護婦二名、野口春蔵が遣わした娘たち、そしてカツ夫人と、十分な看護体制となり、近隣の医師会の医師たちが交替で診るということにもなった。が、翁の容態は予断を許さぬものとなっていた。

     八月十一日、東京から木下尚江と逸見斧吉夫妻が見舞に来た。逸見氏は篤志家の実業家で、原田家に代わる正造への経済的支援者であった。

     三人が、病室として使われている庭田家の奥座敷に入った時、正造翁は右を下に外の方を向いて横になっていた。左目よりも幾分閉じぎみだった右の目は更にひしゃげて苦しげに見えた。伸びた髪はぐるぐる巻きにして、無造作に結わえてあった。

     翁は三人の姿をみとめると、いくらか生気を取り戻し、

    「今度は、とうとう、やられましたよ」と、懐かしげな笑顔を作って言った。

     木下は、手厚い看護と医師に守られた正造が、周囲の素朴な善意という蜘蛛の巣に絡め取られたようにも見えた。

    「また来ます」と言って去って行く木下たちに、翁は長い嘆息を漏らした後、笑みを浮かべて見送った。

     このあと、木下は言葉通り再び訪れて、正造の臨終を看取ることにもなったのだったが……。

     

     翁の衰弱は日に日に募っていった。医師たちが相談していくら入院を勧めても、「それには及ばない」と頑として受け付けなかった。既に死を覚悟していたのだから。

     見舞に訪れる者たちには、かすれた声で盛んに治水論を説き続けた。そして、島田宗三には、

    「この正造はな、天地と共に生きるものである。天地が滅ぶれば正造もまた滅びざるをえない。今度、この正造が倒れたのは、安蘇・足利の山川が滅びたからだ」と言い、更に、

    「……日本も至るところ同様だが、見舞に来てくれる諸君が、本当に正造の病気を治したいという心があるならば、まずもってこの破れた山川を回復することに努めるがよい。そうすれば正造の病気は明日にでも治る……」

     と実に苦しげな息の中、途切れ途切れに話すのだった。また、

    「いくら砂糖袋やりんごなどを持ってきて、ペコペコお辞儀ばかりしていても、正造の病気はそんなことでは治らない。だから、山川擁護会をつくるように、皆にお話しなさい。

     もしできなければ、正造は、安蘇・足利の山川と共に滅びてしまう……。死んだ後で柩を金銀で飾り、りんごで埋めても、そんなことは正造の喜ぶところではない……」

     そこまで訴えるのだった。

     まるで最後の力を振り絞っているかのようだった。けれどまだ若い宗三には、あまりに重い言葉だった。自分にそんな力があろうとは、とうてい思えなかった。が、ここで翁に死なれたら、自分たちはこの先いったいどうなるのかと考えると、ただただ途方に暮れるばかりだった。

     細く遠く暗い一本道に、一人ぽつんと置き去りにされるような淋しさしか憶えなかった。

     それを翁の枕辺で聞いていたカツ夫人は、翁に気づかれぬよう、そっと目頭を押さえた。困り果てた様子の宗三青年を見るにつけ、もう夫・正造の命運は決したように思えたのだ。しかし同時に、この年若い小柄な青年が気の毒でならなかった。

     

     八月二十二日、午後五時頃、茂居医師が来て正造翁を診察した。

     やせ細った翁の左腕で脈をとりながら、

    「つとめて、何かお口に入れて下さい」と言うと、翁は、

    「人間というものは自然と一致すればよいのですから、その身体も自然にまかせ、決して無理なことをすべきではないと思いますが……」と、答える。

     傍らのカツ夫人は心配げに医師の方を見る。しかし医師は、

    「医術というものは本来、自然に背いたり、無理をするものではなく、むしろ自然を助けるに過ぎないものです」

     と、笑みを失わぬよう精一杯、正造の気持ちに添うように説明した。すると翁は何事か呟いて、外を向いたまま、医師の労をねぎらうように肯いた。

     その晩、医師が帰った後に、正造の容態は急激に悪化した。そしてしばらく苦しんだ後、真夜中の午前二時頃、突然ムクリと病床に起き直って、恐ろしいほどの大声で、こう叫んだという。

    「現在を救い給え、ありのままを救い給え!」

     そして意識不明に陥ったが、岩崎佐十の人工呼吸が効を奏して、辛うじて正造は、息を吹き返した。

     

     枕辺で、一部始終を目の当たりにしていたカツ夫人は、もう生きた心地がしなかった。元々覚悟はできていたとはいえ、やはり夫の容態に一喜一憂してしまうのだった。

     思えば、結婚してから既に五十年近くになるが、これまで一緒に居た日数を足し合わせても、やっと三年くらいのものだった。病床とはいえ、一つ所に居られるのは極めて珍しいことだった。

     ――もっとも、十年前のあの日、自分は既に死んだものと思ってくれと、手紙が来たんだった……。

     夫人は思い出した。「あの日」とは、正造が天皇への直訴を企てた時のことだった。

     ――あれから、十年以上も生き延びてくれたのだから、この私は何も言うことはない。

     夫人はそう思った。

     一時の危篤状態から解放されて、スヤスヤと穏やかに眠ることの多くなった夫・正造の寝顔をしみじみと見つめた。

     ――もし、この人の妻でなかったら、自分は今頃、どんな暮らしをしていただろうか……。

     そんなこと一度も考えたことはなかった、と言えば嘘になるかもしれない。けれど一度たりとも口に出したことはない。

     ――この、田中正造あっての、私なのだから……。

     と、カツ夫人は改めて思った。

     藍染めの夏物をきちんと着て、正座していた膝の傍らには、「ババアにも、やってくれ」と、夫が言ったスイカの一切れが、まだ残っていた。

     ――ババアですか……、いいですよ、いいですよ。何となれば、以前、貴方は忙しさにかまけ過ぎて、私の名前を忘れてしまったことがあったじゃありませんか。それに比べたら、よほどまし(、、)……。

     夫人はこう、心の中で呟いて、一人で苦笑した。

     ――それに夫は病人でも、みだしなみが、よろしい。

     翁は毎朝欠かさず、縁側の手水鉢まで支えられて出て行くと、自分の手で顔を洗い、楊枝を使って口をすすいだ。

     カツ夫人は、義妹のリンと笑いながら交わした昔々の噂話を思い出し、また独りでに笑みをこぼした。

     その時、休憩が終わって外から戻ってきた若い看護婦の一人は、ふすまの引手に指をかけて、ハッとした。翁の寝顔を見ながら微笑んでいるカツ夫人の眼差しが、この上もなく慈愛にあふれているのを感じて、しばらく中に入るのをためらったほどだった。

     もう一人、病室の様子をそっと覗いては、秘かに心を和ませたり、痛めたりしている女性がいた。

     それは庭田清四郎の娘・ノブで、彼女はほんの子どもの頃、正造に風呂に入れてもらった記憶があった。壮年時代の正造の背中は、広く大きく頑丈で、「うどんが打てる」ほどだと思っていた。

     その正造がすっかり老いて、たとえ足で踏みつけてもびくともしないと見えていた背中も、今は薄く丸くなっていた。

    「正造さんの背中で、うどんがぶてらぁ……」

     子どもの頃のように無邪気に呼びかけられたら、どんなにいいだろう、そう考えた途端、不意に何かがこみ上げてきた。

     今の正造翁は、成人したノブにとって全くの別人であった。入れ代わり立ち代わり、遠い所からでも立派な見舞客が訪れて、「一目でいい、面会させてくれ」と言い募られるような、偉い偉い、もう子どもなど手の届かない、遠い所の人のように見えた。

     

     庭田家の縁側で倒れて以来、正造の日記は途絶えたままである。

     悶え苦しむような痛みの続く時は、さすがの正造もその痛みと闘うだけで精も根も尽き果てている。そして眠れるだけ眠る。

     けれどどういう加減か痛みが収まり、胃部の不快感のみ微かに残っている時には、逆に頭はすっきりしていて色々なことを考える。

     

    「たとえ小中に数十年居なくとも、魂は常に小中の川原や林の中をかけめぐります。安蘇郡に居らぬとも、心は常に村々をめぐる……。

     唐沢山の桜も見える。氷室の雪も手に取るごとくで、宝来山にも毎日行けば、また彦間山にものぼるのです。

     越名の沼、渡良瀬、旗川、秋山川、菊川、才川も、毎日朝、顔を洗い、手を洗うように近く見えるのです」

     

     昨年の秋頃だったか、正造は小中の知人宅へ書き送った手紙の一節を思い出していた。手紙のというより、いつも自分の頭の中を駆け巡っていた言葉だ。動けなくなればなったで、ますますその思いは強くなる一方だ。

     ――つくづく、自分という人間は……。

     と、また考える。考えることにも疲れて、外に目をやる。

     横になって眺められる庭田家の敷地。庭の先には真竹の薮がある。その竹薮の向こうを才川が流れているはずだ。川の姿は見えなくとも、微かに水の音が聞こえる気がする。

     ここ下羽田は、生まれ故郷の小中と違って、才川の下流に当たる。すぐそこが渡良瀬に合流するところである。

     けれど絶えず正造の意識の中には、子どもの頃に小中で聴いた才川源流の湧き水の、涼やかな音色が聞こえてくるのだ。壊れたレコード盤のように、繰り返し繰り返し清水の流れる音だけが……。

     

    「ああ、思えば儂の一生は、川との関わりばかりだった。

     自分では、渡良瀬川という大きな川に生涯かけて挑んできたつもりだったが、今頃になって気がついてみれば、渡良瀬川には相手にされず、結局このちっぽけな生れ故郷の川の上流から下流へと僅かな距離を流れ着いただけだったのかもしれん。

     この才川の短い流れの分だけしか、辿り着いてはいなかったのかもしれん。    

     行き着いてはいなかったのかもしれん。

     きっとここは、自分にとって一番ふさわしい死に場所なんだろう。己一個の、ちっぽけな人間の最期の場所としては……。

     だがこれは、おのれ一人の問題ではない。正造一個人の問題などではないんだ。

     国一つ、日本人全部の大問題なんだ。なぜそれを、誰一人、解ってくれようとしない。

     なぜ聞く耳さえ持ってもくれない?」

     

     暑かった八月は過ぎ、朝夕少しだけ(しの)ぎやすくなっていた。

     秋の虫も寝静まる九月四日の真夜中、午前二時頃のことである。

    「島田君、島田君、済まないが……」と、木下尚江に起こされた宗三は、木下に代わって正造翁の枕辺に座った。この時、翁はようやく寝入ったところだった。

     夜が明けて六時。体温を計り、脈拍と呼吸を確認すると、今までと変わりはなかった。木下が病室に戻って、「いかがですか」と声をかけると、翁は静かに目を開いて、

    「儂の病気問題は片付きました。こっちは片付きましたが、日本の国の打ち壊しというものはヒドいもので、国が四つあっても五つあっても足りることではない」

     と、眉間に深いしわを寄せながら言った。そして苦しげな息づかいのまま、話を続けた。

     

     午前八時。岩崎佐十を枕元に呼び寄せた。そして彼に谷中村残留民への支援をよくよく頼み込み、ある言葉を託した。非常に厳しい内容のその言葉は、田中正造最期の言葉となったが、その後六十七年間も、公に伝えられることはなかった。託された岩崎、それを傍で聞き取った木下、そして木下から書いた紙をもらった宗三の三人が三人とも、完全に黙秘したままだったからだ。

     午後零時五十分。正造は、全身の力を腹の辺りに込めて、長い呼吸を始めた。

    「起きる」と言い、傍にいた木下が背中から翁を支えた。しかし、「いけねえ」と遮って手を添えられるのを嫌ったので、木下は自分の胸の辺りでそっと支えていた。翁は、端座する格好となった。

     カツ夫人はその様子を、うちわで扇ぎながら正面から見ていた。

     正造は、ギョロッと大きな目を見開いて、集まっていた者たちの顔をぐるりと見回した。そして「ハア」と、深い息を吐くのかと思った瞬間に、そのまま動かなくなった。

     静かに風を送りながら、瞬きもせずに夫の顔を見詰めていた夫人は、更に(しず)かな声で言った。

    「おしまいに、なりました」

     周りにいた皆に、というより、死したる夫に言い聞かせるように、こう言ったのだった。

     

     

    エピローグ――遊水地の風景

     

     渡良瀬遊水地……。

     その名前に誘われて、初めて訪れた人々は、誰もが皆、感嘆する。

     こんな広い、何もない所が関東の真々中にあったなんて!

     なーんにもない、だだっ広い、あるのは、風と水と葦原だけ……。

     だから、素晴らしいと。

     

     ワタシは、ただ立ったまま、時折、風に揺すられて、じっと見ている。この場所の風景を、人間たちの営みを。

     

     小さな子どもの手を引いた若い夫婦が、ピクニック気分でやって来る。丈の短い野芝の上で、ゴムボールを転がしたり投げたりして遊ぶ。子どもはキャッキャッと、子犬のように喜ぶ。

     少女とその母親が、クローバーの上に座り、その花を集めて、シロツメクサの冠作りに夢中になっている。できあがった花冠をそれぞれの頭にのせて、はにかんだ笑みを交わし合っている。

     父親はその傍らで仰向けになり、顔の上に麦わら帽子をのせて、のんびりとまどろんでいる。

     少年たちは、バッタを追ったり、トンボを捕まえたり……。幾つかの家族が一緒になって、バーベキューをしたり、バドミントンをしたり……。

     幸せな人間たちの風景が、そこに繰り返し現れる。

     本当に幸せな人たちだ。なぜ、こんな土地が存在しているのか、疑うことすら知らない。

     ワタシはそれを毎日見ている。すべての季節を、すべての月日を、すべての時間を。

     ここに生まれた葦族の宿命として、毎日、見続けているのだ。

     ここには、人造の池がある。大きなハート型の貯水池だ。高いところを吹く風に聴けば形がわかる。

     ハート型の池だなんて、ロマンチックだなどと、ゆめゆめ考えない方がいい。

     それはまるで大地の体から、心臓を丸ごと切り取ったよう。なぜなら、ハートの形のくぼみのところには、かつて谷中村だった場所が、必死で遺跡を守ろうとした人たちによって、辛うじて遺されているのだから。

     

     ボール遊びやトンボ捕りやバーベキューに飽きたら、静かに散歩をしてみるといい。

     ここに百年前に家があり、庭があり、畑があって、人々の暮らしがあったことを、想像してみるといい。

     そしてそれが、人間たち自らの手で造り出した〝文明〟という名の発明品によって、跡形もなく消し去られてしまったことを、想像してみるといい。

     すると、自分たちの生活が、当たり前だと思っていた今の幸せが、どんなに貴重なことだったのか、きっと痛いほど感じられるにちがいない。

     もっとも、貴重なのは、なにも人間たちの生活だけではない。

     この水と風と葦原だけしかないと思えるところでも、それはそれは珍しい植物たちが、がんばって生きている。鳥や虫もたくさんいる。

     そういえば、渡良瀬川の遥か上流、足尾の山に木々の緑がほんの少し、甦ったと風の便りに聞いたものだ。そしてまた、渡良瀬の流れの中に、サケの成魚が戻ってきたとも仲間の噂で耳にした。

     少しずつ、少しずつ、自然のサイクルが回り出している。

     

     今からちょうど百年前に亡くなった田中正造という人が、最期に言い遺した言葉は、いったいなんだったのか……。

     七十年近くも経ってから、それを知り得た人たちは、皆一様に驚いた。顔色を失った。なぜならその「遺言」は、すべての人の胸に突き刺さる言葉であったのだから。

     そしてそれは、正造の病を心配し、枕辺に駆けつけて見舞い、また自ら看病し、正造の死を心から悼んでいた人たちほど、つらい言葉であったのだから……。

     結局、どんなに大勢の人々が彼の傍に集おうと、彼は独りぼっちだった。たった一人で最後まで闘い、そして力尽き、果てた。

     彼の人間性を深く愛した人たちでも、彼がすべての人間の問題として背負ってきたことを、たとえ一時でも代わりに背負おうとはしなかったのだから。

     もしかしたら彼は、ただ「きれいな水」に戻したかっただけなのかもしれない。それは、すべての人間にかかわる問題なのだから。

     田中正造にとっては、そんな味方――問題に対する同志――の一人もいない場所は、たとえどこであっても「敵地」だったのだろう。

     

     ――たくさんいても、たまらなく淋しい……。

     そんな気持ちだったのかもしれない。ワタシは葦だから、よくわかる。自分たち葦族は、たくさん集まれば集まるほど、淋しい風景をつくり出してしまう。

     

    「考える葦」のはずの人間は、本当はよく考えないで、いろんな失敗をしてしまう。そして、すぐにそれを忘れてしまい、同じ過ちを何度も何度も繰り返す。

     けれど、一度失ってしまったものは、簡単には元に戻らない。泣いても叫んでも、どうにもならないことは、たくさんある。

     でもせめて、泣いたり叫んだり一生懸命闘って、生きていた人たちがいたことは、忘れないでほしい。

     ワタシが伝えられるのは、それだけしかないけれど……。

     

     晩秋には、ワタシも枯れる。来春の芽吹きのために。

     新しい命の再生を夢に見ながら、この土の中で眠りに就く。

     

     

    日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
    This page was created on 2017/03/15

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    水樹 涼子

    ミズキ リョウコ
    みずき りょうこ 作家。1961年 栃木県鹿沼市(旧粟野町)生まれ。東京女子大学文理学部日本文学科卒業。主な著作は「聖なる衝動―小説・日光開山 勝道上人」、小説集「花巡り」長編SF「月王伝説」他。

    掲載作『岸辺に生(お)う』は2012年、随想舎より刊行。(上)として前半部分を2016年1月に掲載し、(下)をここに掲載する。