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一枚の絵

 壁に一枚の絵が掛かっている。

 (もや)のたちこめたような寂しい森の中に、湾曲しながら消えていく小径(こみち)があって、その 小径を、独りとぼとぼ歩む猫背の男の後姿が描かれている。薄紫色を主調にして、群青(ぐんじょう)緑青(ろくしょう)代赭(たいしゃ)などが微妙に混り合ったその寂寞とした色感に、老人らしい男の孤独がにじんでいる。日本画だが、洋画の感覚のとり入れられた現代風日本画である。

 糸子がこの絵を洋間の居間に掛けたのは、今の家に引越してきてからだ。四年前にやっとのことで新築したこの家は、都心からは四〇キロ以上も離れた地方都市で、新しく林を切り開いて区劃整理された住宅地である。都心の南端にある会社に勤める糸子の夫は、往復四時間もの時間、電車を乗り継ぎ、ラッシュにもまれ、震動に揺られて通わなければならない。

 けれど環境はいい。まだ周囲にも区劃整理地内にも、林がたくさん残っていて、朝などに林にたちこめた白紫の霞が、樹液の香りを含んで、清々と街路へ流れ出てくる。電線の高さを越えるまで早くも枝を張り伸ばした欅並木の人気のない歩道に、朝霞を切って、ハッハッと息を吐きながらジョギングしている男の人の姿をみることもある。欅の繁みに羽を 休めていた土鳩が、急にクーと鳴きながら飛び立って、しっとりと葉に溜まった朝露をはらはらとしたたらせかけることもある。

 小鳥は、ウグイス、メジロ、ホオジロ、ジョウビタキ、オナガ、モズ、シジュウカラ等々、植木を所せましと植え込んだ家の庭へ、季節を告げに次々と訪れる。

 糸子は樹木が好きだ。特に林が――。

 壁に掛けられた絵の、たとえば森の中の木が、ただそこに風景の一部としてあるのでは なく、少しデフォルメされた描かれ方の、その語りかけの意味が心に響くようになったのも、やはりこの家にきて、永いことしまい込まれていたダンボールの箱の底から取り出して掛けてからだ。

 引越す前の家は、空家抽籤で当った2DKの公団アパートで、二十年近く住んでいたが、 壁の部分は箪笥やら本棚やら安っぽい小家具やがらくたでふさがっており、絵を掛ける余 白などなかったせいもあり、取り出してみることもなく過ごしていたが、たとい出してみ たとしても、今ほどの思いでこの絵を見ることができたかどうか――。

 

 糸子は、内職の造花づくりにひと区切りつけると、鏡台の前に座って薄化粧をし、エプロンをはずし、座り皺のついたスカートを街着のものに着替えて、飼犬の雑種犬エルを連れ、自分と犬の運動をかねた散歩に出る。

 碁盤の目形についている舗装道路を鉤形に辿る北西の方角には、このあたり空の交通機関である私鉄線単線の駅がある。東の方向に行くと、古い神社の傍らを通り過ぎて、市の中心部へ通じる幹線道路に至る。散歩の範囲はいつもたいてい区劃整理地内のあたりに限られているのだが、その日は、南北に走っている広い道路を南に歩いた。

 走る車など一台もない。広すぎる道は夢の中の道路のように、欅並木の繁みにとけて霞 んでみえる。車の姿がないのも当然なのだ。舗装道路は十分と歩かぬうちに突然行き止まりにとだえて、森と畑にぶつかってしまう。そこからは土の小径が細々と通じているだけだ。

 左側が森、右側は西へ向かってなだらかに落ち込んだ傾斜地になっていて畑。

 ここまではいままでも来ているが、先へ進むのは、先住者の領分に踏み込むような遠慮があって、引き返すのが常であった。

 エルが紐をぐいぐい引っ張って小径の方に進もうとする。引越してきて間もなく、小犬 のときにどこからともなく迷い込んできて、居ついてしまったこの白と黒の中長の毛を持つ犬は、猟犬セッター種の血を多少混じえているらしい。森を好んだ祖先の本能に目覚め たように、鼻をひくつかせ匂いをかいでいく。犬に引かれてというのは口実。糸子もまた森の小径に惹かれていた。

 小径はどこへ通じているのだろう。森の中には、そして彼方には何があるのか――。

 右手に見渡す畑は、美しく(うね)が切られていて、白菜とねぎと大根が、それぞれの変化あ る緑色で、黒土とのコントラストをみせながら、貼り絵を描いている。人影はない。

 小径は少しずつ左手に曲がりながら、杉、松、樫、楠、楢などが鬱蒼と梢を接して繁る森沿いに続いている。蔦、野ぶどう、からす瓜など、蔓性の下草がおどろに伸びて樹木の幹にからみつき、からす瓜の赤い実が小暗い森陰に豆ランプを吊るしている。

 前方の小径を、チャボの牝くらいの大きさのコジュケイが歩いて横ぎった。目ざとく見つけたエルは、すでに森の下草蔭に隠れてしまったコジュケイを追おうとして、手が痛くなる程の力と勢で紐を引っぱる。やっと制止して、なおしばらく進むと、やがて一軒の農家の竹垣の脇に出た。その先は、片側竹薮、片側雑木林の小暗いじゃり道となる。

 林の切れ目にまたひっそりとした農家を見、白日のもとにさらされた畑の脇道に出るか と思うと、再び森の中に入っていく。くねくねと曲りくねった道をどのくらい進んだろうか。少し不安になり、

「帰ろうか」

 エルに何気なく問いかけたが、踵を返すでもなかった。犬はずっと興奮ぎみにハアハア息をはずませて先に立っている。不意にエルが立ち止った。何かを認めたらしく、キッと顔を上げて森を見つめる。

 下草を踏むガサゴソという音がした。どきっとして糸子はそちらを注視した。小暗い森蔭から一人の老人の姿がぼうっと現れた。年の頃は七十歳を少し過ぎたくらいだろうか。皺にかこまれた小さな目が、犬を連れた糸子の姿を認めたらしいが、別に驚いた様子もなく、これという程の表情を浮かべることはなかった。老人はゆっくりした動作で森から出てきた。両掌に何本かの茸をのせていた。

 立ち止っていた糸子は歩き出したが、後から来る老人に無言でいるのが気になって振り返った。

「茸が、取れるのですか」

 顎を前に突き出し、両手に茸を捧げ持つようにして歩く老人は、口を少しもぐもぐさせた。

「近頃じゃあ、茸も少なくなった。森が荒れててよ」

「何ていう茸です?」

「ハツタケ。それとアミタケだな」

「食べられるんですね」

「炭火で焼いて食うと、うめえ」

 茸狩りなどは、もう遠い昔のことになってしまった。糸子の小学校は東京だが、その頃まだ学校の裏手に竹薮や雑木林などがあって、一度だけ先生に引率されて、茸狩りに行ったことがあった。前もって、毒茸と食用茸の違いを、大きな掛図の絵で教えられて出掛けたが、子供たちは一つ茸を見つける度に、「これは毒よ、さわっちゃだめ」とか「これは食べられるのよ」「ええ、これが……先生、先生、これ大丈夫ですか」なとど大騒ぎしな がら、下草や落葉をかき分けかき分け探し廻ったことが、かすかな記憶で思い出される。今では茸といえば、マツタケは一本千円以上もして口にすることはできないし、あとは大量生産のシイタケやシメジやナメコをスーパーや八百屋で買うだけになってしまった。

 道が二股に分かれているところへ来た。どちらへ行こうか迷っていると、老人は左手の方へ曲っていく。

「こっちへ行くと、どこへ出るのですか」

「町の方だな」

 糸子はあまり他人と口をきくのが得意でないが、この老人も口は重い方らしく、さっきから何か言しゃべっても、ぽつりとそれなりとぎれて、肩を並べていることが気まずいような沈黙がくる。でも、帰路を辿るために、町の方角に早く出た方がよいと思い、老人の行く方へ糸子も曲った。

 林は新しく植林されたらしい間をとった立木になって、木立越しに白い一階建ての瀟洒な建物がみえた。

 建物の正面に向かって、四メートルほどの幅の舗装された道がつけられており、道を挟んで萩がいっぱいにしなだれ繁り、蘇芳(すおう)色のやさしい花がはらはらと咲きこぼれている。

 老人は黙って、花の道を白い建物の方へ去った。トレパンをはいた脚が少しがに股に曲がっていた。

 丸く刈り込みのほどこされたどうだんやさつきの植え込みの向こうに、建物の開かれた窓がみえるが、窓から二、三の顔がのぞいていて、それはみな歳月の風波を刻みつけた風貌であった。――そうだったのか。ここは老人ホームであった。さっき老人が茸を取っていた森は、このホームの丁度裏手にあたる。気がつくと道の角のところに、小さな看板が立っていて、『市立・長清苑』とあった。

 農家のお年寄りとばかり思っていたので、意外だったせいだろうか。何かがキュッと糸 子の胸の中で動いた。あの老人の、どこか偏屈めいた風貌が妙に気になる。

 茸を炭火で焼いて食べる自由が、ここでは許されているだろうか。仲間の老人とはうまくやっているのだろうか。肉親はいるのだろうか。そして、彼の辿ってきた人生とは……。

 長清苑を行き過ぎて進むと、道の両側は次第に住宅がたてこんできて、間もなく車のし げく往き交う広い道路に出た。見覚えのあるあたりの様子や建物で、そこが中心街に向かう幹線道路と分った。とすれば、いままで辿ってきた道は、森や畑や竹薮の中を随分と迂回に迂回して、区劃整理地の東方を南北に走っている幹線道路に出たわけである。

 そこからの道はよく分っているので、すぐに車の騒音をさけて脇道に入り、自宅のある住宅街へ向かった。

 よたよたしているという程ではなかったが、老人特有の一歩一歩踏みしめるゆっくりした歩き方の後姿が、糸子の脳裏に焼きついて離れない。その後姿が、居間に掛けてあるあの絵の男と重なるのである。胸をキュッと締められる妙な感じは、絵を見る度に糸子をか すめる胸苦しさに通じた。

 家に帰りついて、エルを犬小屋の鎖につなぐと、喉の渇いている犬に新しい水を汲んでやり、ペチャペチャとおいしそうに立てる舌音を後に家の内に入った。

 

 糸子の前に壁の絵がある。

 森に漂うガスの粒子に、意識のかすかな光が当たると、おぼろにきらめく靄のしま模様の向うで、絵の中の男が次第にはっきり具体的な像となって動き出す。三十年近くも昔の情景がありありと浮かび出てくる。

 その頃、糸子たち夫婦は、二十代の初めだったから、月給も安く随分とつましい暮らしをしていた。高度経済成長期の締め付けられるような息苦しさ、駆りたてられるようにあくせくした生活が、世間一般の雰囲気でもあって、共稼ぎで二人が勤める中企業の会社は、特にその傾向が強かった。戦後から引きずっている住宅難は深刻で、今のこの家のような庭つきの一戸建住宅に住めるなどとは想像することもできず、最高の夢が、鉄筋コンクリートの公団住宅に入居できることだった。しかし、申し込んでも申し込んでも抽籤にはずれるばかり。糸子たちは、六畳一間に小さな台所のついた、歩くたびにギシギシ床がきしむ民問の木造アパートに住んでいた。

 そのアパートに、ある日、糸子の父峯太郎が訪ねてきた。粗悪な布地のズボンに、型くずれして汚れた上着を着た、みすぼらしい峯太郎が部屋に入ってくると、糸子は、不機嫌な仏頂面をかくそうとはしなかった。

 日曜日だったけれど、夫が休日出勤でいないのを、せめてもよかったとほっとするのである。

 寡黙で内気な峯太郎は、部屋の中ほどに胡坐を組んでからも、娘に向かって何を話すでもなく、

「稔君は出かけたのかね」

 と、糸子の夫のことを訊ねたばかりで、視線を娘に合わすことさえできかねるふうに眼を反むけている。手持ぶさたをまぎらわすためか、糸子が入れたお茶に何べんも手を伸ばし、お茶がなくなると、茶碗を掌に包むように載せたままにしていた。

「お昼食べるでしょ。ちょっと何か買ってきますから」

 糸子はがま口と買物籠を持ってアパートを出た。父親に対するもてなしというよりは、話すこともないのに一つ部屋の中に顔つき合わせている気まずさから逃れるためだった。

 駅前の商店街で買物をして戻ると、小さな鍋で御飯を炊き、あじの開きと、卵焼と、ほうれん草のおひたしを、小さな丸い卓袱台(ちゃぶだい)に並べた。

「すまないな」

 箸を取るとき峯太郎が言った。

 食事を終えると、峯太郎は脇に置いてあった荷物を引き寄せ、包みの布を解いた。

「これを、預ってくれないか」

 縦六十糎、横五十糎くらいの額入りの絵を、立てたまま畳をすべらすようにして糸子の方へ寄越した。

 森の中の道を、ルンペン帽をかぶった一人の男が歩いて行く絵であった。

「また落選した」

 峯太郎は、何気ない口調で言った。たいしてかさばる程のものではないので、糸子はうなずいて受け取った。

 峯太郎は何か物言いたげな、しかし言いかねている鬱屈した態度で、出口の方へ二、三 歩進んで立ち止った。

「写生旅行に出るんだが、電車賃がないんだ。……もうこれきりだから……」

 糸子はむっとして、嫌な顔をあらわにした。売れない絵ばかり描いている峯太郎の家業は、家業というより賛沢な道楽に思えた。そのために家は貧しかったし、母の元子も随分と苦労した。洋裁仕事をして家計を支えていたが、峯太郎をとうとう見限って家を出てしまったのだ。一人になった峯太郎は、絵の具や画材を購入する費用は勿論、日々の暮らしにことかくようになって、これまでも何度か、糸子のところへ無心にきた。その度に苦しいやりくりの中から、僅かではあるがお金を渡してきていた。

 写生旅行どころか、糸子たちは二人であくせく働いても給料目前には、家計費が不足してくる。それに、もうこれきりなんて、そんなことがあるものか――。

 けれど拒否することもできなかった。できないかわりに、こんな父親をもつ身の不幸を口惜しむ感情を、語尾を下げたつっけんどんな語調に籠めて訊いた。

「いくら」

「いくらでもいい。……一枚願えれば有難いんだが……」

 峯太郎は人差し指を一本立てた。

「そんなに無理よ」

 糸子はしぶしぶ立って、給料袋などを入れておく箪笥の小抽出から、五千円札一枚出して突き出した。

 峯太郎はうなずいて受取ると、お札を小さく折りたたみ内ポケットにしまった。廊下を出て行くとき、彼はもう一度ふっと佇み、ほんの僅か間をおいて糸子をみかえり、

「元気でな」

 と、言った。

 階段を下りて、通りに出て行った峯太郎を、糸子は北側の二階の廊下の窓から見ていた。五十代の半ばではあるが、早くも半白になった蓬髪が、虫食いだらけの古びた茶色のベレー帽の下からのぞいている。上着のポケットには、さまざまの必要品を入れてあるらしく、不格好にふくらんでいて、その重みで一層服の型崩れをひどくしている。絵を包んできた布は糸子の部屋に置いていき、スケッチブックだけを小脇にかかえていた。

 昼前買物に出たときより風が強くなっていた。電線が鳴っている。木枯しには少し早いが、冷たい風の荒みは秋を深めるだろう。向い風をうけて、峯太郎は少し背をこごめた。上着が風をはらんで、翼のようにふくらみ、よれよれのズボンが脚にまつわっている。

 心の裡の誇りだけが異様に高く、歩き方にまでその意識を現して、一歩一歩すっすっと脚をのばして歩く歩き方の、しかしそれ故にはたの目には妙にギクシャクしてみえるいつもの歩き方が少し違っている。強い風が崩してしまったのだろうか――。肩が落ちて、落醜めいたものがにじむ後姿が、糸子の視界から次第に小さく遠ざかっていった。

 二日後、糸子のところへ峯太郎から葉書がきた。

「お前にはいろいろと世話になった。父親らしいことの何一つできなかった私を許して欲しい。私はもう永久に帰らない。どうか探したりはしないでくれ」

 簡単な文面でそうしたためられてあった。糸子の顔面から、血の気がすーっと引いていくのが分った。二日前、もうこれきりだから……と言った父親の言葉が急に不吉に甦った。

 以前もらった葉書があったことを思出し、手紙箱から探し出して、その住所を頼りに、私鉄と国電とまた別の私鉄を乗りついで、峯太郎が一人で間借りしていた家を訪ねていった。が、すでに峯太郎の消息をつかむものは何もない。峯太郎は、身の回りのものを全部整理して、故郷の田舎へ帰るといって出て行ったという。部屋に多少残されていたものは、屑屋に出そうと思ってまだ裏に置いてあるというので、家の裏手に回ってみせてもらったが、見覚えのある戦前から使っていた布地の、綿のはみ出た古蒲団が縄できつくしばられて置いてあり、あとは、りんご箱の中に、ニクロム線の踊っている電熱器、こげつきのできた古鍋、へこみのひどい洗面器、へりの欠けた茶碗や皿などがあるばかりで、絵に必要な絵具、筆、刷毛、筆洗、絵具皿、乳鉢などは何もなく、絵の作品など影も形もなかった。応対に出たその家の主婦の話では、それらは、少し前に峯太郎自身で処分したらしい。絵はすべて、切り裂いてゴミ袋に入れて捨てたようだと。それにしても、この父娘はいったいどういう親子だろう。娘のくせに一度も訪ねてきたこともなく、いままた父親の行先も知らないとは――。そんな疑惑と穿鑿を籠めた主婦の眼差しが、ずっと糸子に痛いように注がれていた。

 その後、親戚中に問い合わせたり、警察にも捜索願いを出したが、かいもなかった。峯太郎の行方は沓として知れない。

 峯太郎が、ただ一枚糸子に残していった絵――今この壁に掛っている絵の森が、峻厳さに満ちながら、最後に人を包み込む宇宙の胎のような寂しい優しさをにじませていると感じるようになったのは、これを描いた峯太郎の年齢に近づいた最近のことだ。それだけでなく糸子は、峯太郎の画歴についてさえ何一つ知らずに過ごしてきたのである。戦前に師匠に反抗して画塾を出て以来、全くの一人で独自の道を歩んできたこと。何千人もいる日本画家の中から、画展で賞を取ったり、画商がついて絵が売れたりするようになるには、権力を持つ有名画家や審査員の強い引きや推薦がなければならず、そういう意味での処世術にはとんと疎くて、疎いというよりはむしろ軽蔑しており、贈物などしたりする画家仲間のことを、憤りをもって眺めていたことなどもまた――。

 

 庭の早咲きの山茶花が、ピンクと白のしぼりの花を開き始めた。去年鉢で買ってきて、今年切り穂を差してふやしたえんじ色の可憐な小菊も、日毎に花の数を増し、庭に落着いた華やかさを添えている。

 森で出会ったホームの老人のことは、日々の流れの彼方に遠のいて、特に思い出すこともなく過ぎていた。

 一と月ほども経ったろうか。ついこの間まで青々としていた街路樹の欅が、一樹一樹微 妙に異なる色調で、葉の緑の中に、朽葉色、錆朱、樺色などを混ぜ合わせている。中の一枚二枚が殆んど風がないのにはらりと散ると、空気が乾いているのだろう、地面に遷したとき、小さくカサと音を立てる。

 秋の色がようやく濃くなり始めた並木道を、エルの散歩に行って一たん戻った糸子は、一日おきに行く食料品の買物に自転車に乗って出掛けた。幹線道路の方にあるスーパーマーケットに行くのである。

 古い神社の脇を過ぎると、レンガタイルやフェンスを組合わせ、隣とは少し趣向を変えて造られた低い垣根の建売住宅が並んでいる。垣根だけではなく母屋も、形、屋根の色、壁の色に多少の変化がほどこされている。庭には芝生が敷かれ、庭木が植えられ、玄関際には申し合わせたように観葉植物が幾鉢も置かれたり、吊り下げられたりしている。

 新しい平均的な中流意識の羅列をそこにみる。

 糸子の家は建売りではないが、似たようなものだ。錯覚的に目的化されてやっと確保し、なお毎月返済して二十年もかかる莫大な借金を負っての上で得たもののみかえりに、失っ たものの多いことを糸子は、自分の心の中をのぞき込んで(にが)く思う。沼地めいた鬱症状が、隣合わせに腕を伸ばして感じられる時もあるのだった。

 スーパーマーケットは、夕刻にはまだ少し早いのでそれほど混んではいなかった。入口のところに積んである備えつけの籠を持ち、野菜果物売場から順に必要なものを籠に入れながら歩いて、奥を直角に曲り、肉売場、魚売場で、今晩と明日の分の献立を考えつつ、パック入りの肉や魚を選び取っていく。次にコの字形の売場の中央に何列かに並んでいる陳列棚のパンや菓子類を置いてある方の通路に向かった。

 そこに一人の老人の姿をみた。籠も何も持たず、退屈しのぎのようにしてマーケットの中をぶらぶら歩いている老人は時折みかけるので、あまり気にはとめず、糸子は朝食のための食パンを棚から取った。老人は、パンの隣に並んでいるパック入りのおはぎや、どらやきや、ラップに包まれた一個売りの大きな小判形饅頭などの和菓子類を見ていた。頭頂部は大部分禿げ、下部に残った白髪を短く刈っている頭、顎を少し前に突き出したその横顔に見覚えがあった。この前と同じトレーニングウエアの上によれよれのジャンパーを着ている。

 老人が糸子の方を振り向いた。そちらに視線を向けていた糸子は、思わず目許をゆるめたのだが、老人は全く表情を変えずに棚を離れてゆっくり歩み去った。

 覚えているはずはなかった。糸子は平均的な中年主婦の顔をしていたし、あの時と違って犬も連れていないのだから。

 糸子は、調味料の陳列棚の方へ行って、味噌とマヨネーズを龍に入れたが、紅茶が切れかかっていることを思い出し、再びパン類の棚へ曲った。

「あっ」

 糸子は胸の中で声を上げ、一瞬棒立ちになった。あの老人の姿が再び和菓子棚の前にあった。老人は、一個の小判形饅頭を素早く自分のジャンパーのポケットにつっこんだところだった。

 心臓がドキドキし、糸子は踵を返して急いで別の通路へ去った。何となくそのへんをうろうろし、特に必要でもない缶詰を二、三選んだりしたあげく、紅茶をやめてしまってレジへいった。前に一人いるだけですぐ糸子の番になった。

 この時、通路を奥へとって遠回りしてきたらしい老人が、向うのレジの脇を通り越して出入口の方へゆっくりした足どりで歩いていった。と、どこから現れたのか、店員の制服を着た体格のいい男が、背後からつかつかと迫って、老人の前に回った。

「お客さん、お買物はレジを通していただかないと困るんですが」

 一応言葉は丁寧だったが、態度には、万引きの現場はちゃんと見ていたぞと威嚇している断乎としたものが現れていた。

 老人は、のろのろと首を動かして店員を見上げた。が、すぐにあらぬ方向にぼんやり焦点の定まらぬ視線を泳がせた。

「さっき、ポケットに饅頭を入れましたね。出して下さい。代金はそこのレジで……」

 この店員は、近頃しばしば被害があるという非行少年グループの集団万引に備えて、専任に傭われたものだろうか。いかにも屈強そうであり、上背もあって、肩のあたりまでしかない老人を前に、のしかかるほどにも強大にみえる。彼は店の後盾を背にしており、世間の道徳を守る正義の立場にあった。

 痩せて貧相な老人は、しかし無言である。かなつんぼをきめこんでいるのか。ぼけ老人のふりをしようというのか――。店員を無視して、黙ったまま歩み出そうとした。

(しら)を切るつもりかね。じゃあ裏へ来てもらうしかねえな」

 急にぞんざいな言葉遣いになって、男が老人の腕を掴んだ。

 キュッと捻られるような例の痛みが、糸子の胸の中で起こった。反射的に足が動いて十数歩のところを走っていた。

「すみません、うちの年寄なんです」

 糸子は大男の店員にピョコリと頭を下げた。

「さあ、お父さん、こっちへ来て……」

 糸子は軽く老人の腕を取るようにしてうながした。

 店員は呆れたように糸子をみつめ、誇りを傷つけられたやる方なさを押えかねるように言った。

「気をつけていただかないと困るんですよねえ」

 糸子はもう一度振り返って頭を下げた。レジの所へ戻り、老人に、

「それを一緒に計算してもらいますからね」

 と言うと、いままでだらりと下げたままだった手を、はじめてポケットに入れて、饅頭を取り出してみせた。

 数字を打つ手を止めて成りゆきを見守っていたレジ係が、また続きを打ち始め、その一五〇円の金額も足していった。

 糸子の心に、後悔と自己嫌悪の情が加速度的に高まっていた。

 老人はそこに立っている。しかし、あの大男の店員の前に沈黙のまま立っていた時の姿とは、もはや全く違っていた。あの時、彼の周囲には小宇宙があった。小宇宙を創り出して、そこに籠って世間を代表する大男にひそかな反抗をこころみていた。それなのに今、老人は剥ぎ取られ赤はだかになって、人々の好奇と蔑みと憐れみの視線にさらされて、しょんぼりと、心もとなく、力なく立っている。

 糸子の手足が冷たく冷えていき、顔だけが熱く赤く張れ上がってくるようだった。

 支払いをして、ビニール袋に籠から買った品を入れかえている間も、老人は糸子からほんの少し離れた位置にぼんやりと佇んでいた。

 ――もうどうぞお先にお帰りになって下さい。しきりに口の中で繰返したが、声にはならなかった。まだもうしばらく身内のふりをしていなければならないのだろうし、老人の方もまた、それを考えて堪えているに違いない。

 スーパーを出たところで、自転車置場に向う糸子は、もういいだろうと、老人に頭を下げた。

「じゃあ、失礼します」

 老人は少し口をもぐもぐさせ、とまどいとためらいを含みながら、やっと口を開いた。

「わしは、いま金をもってないが」

「そんなこと、いいんです」

「しかし……」

 彼は言葉をとぎらせ、少し間を置いた。

「わしは、あんたを知らない……」

「ええ」

 糸子はうなずいた。どうしても老人に謝らなければならないと思った。

「すみませんでした」

 すると、誘われたように思いもかけなかった涙が、突然瞼に盛り上がってくるのが分かった。糸子はあわてた。

「ごめんなさい」

 折よく間近に置いてあった自分の自転車に取りつき、怪訝そうに見送る老人から逃げるようにその場を去った。

 霧のかかった糸子の網膜に、執拗に映し出されてくる像がある。壁の絵の老人が、峯太郎と重なって、揺れながらしょんぼりと歩んで行く。

 

 

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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森本 房子

モリモト フサコ
もりもと ふさこ 作家 1929年 東京都に生まれる。世阿弥を描いた『幽鬼の舞』で埼玉文芸賞受賞(1980年)。

掲載作は自選短編小説集『落花の舞』(2015年、東銀座出版社刊)よりの抄録である。

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