最初へ

つゆ草幻想

 自分の母が、本当の母でないことを知ったのは、下条盛夫が大学へ入る時だった。

「お前ももう大学生だ。いままで言う必要もないから言わずにきたが、この際、教えておくのもいいだろう」

 入学で戸籍謄本が必要になった段階で、父から打ち明けられた。

「お前のお母さんは、終戦後間もなくお前を生むと病気になり、入院したが、一年くらいで亡くなってしまった。で、おれはいまのお母さんと再婚した。だからお前は、赤ん坊の時からいまのお母さんに育てられたわけだ」

 真実の母として、夢にも疑ったことのない母が、継母であった!

 三人兄弟の長男として、わけへだてはなかった。けれど、そう打ち明けられて記憶をたぐってみれば、思い当る事がないとはいえない。でもそれは、時として母親が子に対する感情のむら気とも思われ、真実の母子とて、あり得る程度のものにも考えられる。いずれにしろ、成人した盛夫にとって、さほどショックを受けねばならない事柄ではないと、理性の上では受けとめた。にもかかわらず、何故かその時、周囲の風景が突然変化した。あたりが空白になり、人生の意味が変わってしまったような気がした。

 大学にはいってからの彼の行状――学校へはたまにしか行かず、まるで漂泊の旅人のように、各地へ出掛けていき、伝承や昔ばなしを求め歩くことが好きになったのも、この世には求めようのない亡き母の影を、探し求める心のなせるわざだったのかもしれなかった。あるいはまた、この世の現実が、いつ幻として逆転するかもしれない不安と不信にかられての行動かもしれなかった。

 あれ以来、父は母のことについて何も話さない。盛夫もくわしく訊くことはなかった。急に現在の母に、なんとなく遠慮の気持ちが出てきてしまったのだが、彼自身どこかでそれを恐れていた。

 いつの間にか中年になった盛夫は、この頃になって、自分を生んだ母のことをくわしく知りたいと思う気持ちが日増しに強まるのを感じていた。

 母はどのような家に育ち、父に嫁ぐ前の少女時代を過ごしたのか? 容貌は? 性格は? 父と知り合ったいきさつは? それらを知らないことには、川面を流れる根無し草か、浮遊するシャボン玉のように、自分の生がはかなく思われた。

 ただ一つ父から聞いている、母の実家を思い切って訪ねて行ったのは、例年よりは涼しく日々が経過するある夏の日のことだった。電車は内房総の海ぞいを走った。車窓からきらめく海が時々見えかくれした。駅に降り立つと、かすかに潮の香が漂ってきた。

 電話で訊いておいた母の実家は、駅から海とは逆の方へ行く。漁師町らしい立てこんだ町並みを出外れると、少し登りになる。起伏のある畑地が続き、ところどころ林がこんもりと蔭を落としている。

 木立に蔽われて一段と盛りあがった小山の麓に、《石崎城跡》と消えかかった墨文字の標識が立っていた。

 このあたり、戦国時代の城跡が多いことを、以前何かの本で読んで知っていた。城跡の上部へ登る道はあるかと周囲を見回したが、すっかり下薮に蔽われて見つからない。母の実家はそこからすぐだった。昔、網元と名主をかねていたというその家は、敷地は広いが、住まいは新しく建て替えられていて、都会で見る中程度の家と変わらない。  

「驚いたなあ。そうかい、あんたが盛夫さんかい。姉さんの息子のねえ」

 玄関先でブザーを押すと、頭の半ば禿げあがった六十代と思われる男が出てきて、しきりとめずらしがり、懐かしがった。初めて会う盛夫の母方の叔父であった。

 部屋に通され、茶菓が運ばれてきた。義理の叔母である。

 

「始めまして」

 盛夫が挨拶したが、叔母はただ目礼しただけだった。ずいぶんと愛想のない人だ。

「考えてみれば、叔父と甥だというのに、一度も会ったことがないというのも、おかしなことだったなあ」

「そうですねえ」

「あんたいくつになるの。そうか丁度終戦の年だったね。ということは、戦後の年数と同じなんだ」

 うーんと半ばうなるように腕組みして、叔父は感慨深げであった。全くのところ、今までどうして訪ねることをしなかったのだろうと盛夫も思う。

「わたしも年のせいでしょうか、しきりと自分を生んだ母のことが思われるようになって。で、何か少しでも母を知る手がかりがないかと……」

「そうそう、電話でもそう言ってたね。でもここには、姉さん――あんたのお母さんのものは、何もないんだよ」

「でも一つぐらい何か残ってないのでしょうか。日記とか……」

「姉さんはお嫁に行く前に、全部自分の物を整理して、手紙や書いたものなんかも燃やしてしまった。だけどその後に一つだけ預かったものがあってね、……改築の時に押入れから出てきたんだけど」

「それは何ですか」

「あんたを生んだあとすぐ病気になってね、ここから少し離れたところにある療養所に入院した。その時書いたものなんだ。……姉さんは文学少女だったからね。女学生の頃から何かしら書いていた」

「その、入院中に書いたものというのは?」

「やはり小説なんだろうな。このあたりのちょっとした伝承をもとにして、小説化したものだな」

「ぜひ、見せてください」

「うん、あんたに渡そうと思って出しておいた」

 叔父は立ち上がって部屋を出ていった。しばらくの後、古びた茶色の紙包みを手に戻ってきた。十文字に結んである紐をといて、中から黄ばんだ粗悪な質の原稿用紙の束を取り出した。

 女性的な細いペン字の、かすれがちな文字が記されている。

「姉さんが亡くなった直後これを読んだんだが、その時はただの伝承小説と思った。こっちもまだ高校生になったばかりの頃だからね。でも今度あらためて読みなおしてみて、これには姉の秘密が隠されている。心のすべてが記されていると感じたね」

「秘密って何ですか」

「うん。お嫁に行く前ね、ちょっとしたできごとがあったんだ」

 早く、一時も早く、その原稿が読みたい。

 彼は、小説こそ書かないが、母が、伝承を小説に取り入れたということに、血の繋がりを感じた。しかも、母の短い生涯に秘密が隠されているとは、どういうことなのか……。自分の出生にもかかわりがあるのだろうか……。

 それから後の叔父との会話は、うわの空になってしまった。間もなく、盛夫は叔父の家を辞した。夕飯を食べて泊まっていけと言ったが、明日の勤めがあるからと、家を出た。ほんとうは、駅近くの旅館に泊まるつもりである。母の世界にじっくりと浸るために、一人きりになりたかった。

 

 果てしなく戦が続いていた時代だった。

 石崎の城主と山尾の城主は、仲が悪かった。石崎城は海辺に近いところにあり、山尾城はそこから二里ほど離れた丘陵地帯にあった。

 

 駅前旅館の一室に入って、早速繙いた母の小説は、そのような書き出しで始まった。

 

 夜であった。石崎城の本丸の上に、下弦の月が透き通った瑠璃鉢のかけらのように、冷たくかかっていた。

 潮騒が一定の調子をもって伝わってくる。それはかえって不気味なほどの静けさを感じさせた。

 低く重々しい潮鳴りの音を縫って、この時、澄んで哀調を帯びた笛の音が聞こえてきた。

 石崎城内に居宅をもつ家老の家。その縁先に腰を下ろして一人の若者がいる。笛の主は家老の息子、長田成太郎だ。月を見上げつつ、笛を唇にあてるその表情は、調べにみあうもの哀しげな翳が滲んでいたが、次第に自らその音色に魅せられていくかのような陶酔の色に変わっていった。

 彼の足元には、一匹の犬がうずくまっていて、首を前足の間に埋め、半ば居眠りながら、半ば主人の笛に聞き入っている。耳が時々ぴくぴく動くことでそれが分かる。

 家の内から荒々しい足音がし、成太郎の背後に迫った。木刀を下げた父親の家老が、仁王立ちになった。

「そなた、またしてもそのようなものを吹きおるか! この愚か者が!」

 木刀を振りあげ、したたかに成太郎を叩きつけた。地面に転がり、起き上がって振り向いた成太郎の手から、鬼の形相の父親は、笛を奪い取った。

「何度申したら分かる! 戦の世に笛の風流は無用じゃ。武士はただ、弓矢太刀の腕をあげること、敵を倒すこと、殺しにこそ徹せよ。明日にでも敵は来ようぞ。そなたのような軟弱な心で、何として敵と戦える! えーい、かようなもの、こうしてくれる!」

 父は、成太郎の笛を膝のうえでへし折ると、力まかせに地へたたきつけた。

「キャーン」

 悲鳴があがった。運悪く犬に当たったのだ。打ちどころ悪く、きりきりと二回転してぐったりとなった。

「ジロー」

 成太郎は走り寄った。犬のジローは息絶えていた。

 彼は、片手でジローのむくろを抱き、かたわらに落ちている折れ笛を拾い、恨みのこもった凄まじい目つきで父を睨んだ。

 あまりの恨みがましい眼差しに、父は一瞬胸をつかれたようだった。すぐに威厳をつくろい、

「犬とて戦には何の役にもたたぬぞ。そなたもいい加減に大人になれ」

 言い捨てて、その場を去った。成太郎のその目付きを、愛するものを二つながらに同時に失った口惜しさからであろう、それも一時のこと、というくらいに父は考えた。

 だが、成太郎はこの時、心に固く誓ったのだ。

 ――おれは武士にはならぬぞ。生きものを殺し、美しいものを否定するあの父こそ武士だ。たとえ、うわべは武士の姿を装おうとも、父の命令には絶対に従わぬ。

 成太郎は庭の隅に穴を掘って、泣く泣くジローのなきがらを葬った。天空を黒い雲が流れて走り、月も涙を拭うかにみえた。

 

 先ほどまで成太郎が吹いていた笛の音に、一心に耳を澄ましていた者が城の内にいた。城主の娘初姫である。

 ――あれは成太郎さまが、わたしのために吹いているに違いない。

 初姫はそう思い、胸がしめつけられるように苦しく、切なく、哀しかった。

 けれど、笛の音は突然とぎれて消え、その後どのように心待ちしても、二度と聞こえてこなかった。

 ――どうしたのかしら。

 初姫は、いても立ってもいられないほどの狂おしい気持ちになっていった。

 明日、初姫は犬猿の仲であつた山尾の城へ、人質として出立することになっている。城主山尾家盛の側室になる。それが、父、石崎城主宗国の命令であった。

 大きな敵が房総の地に攻めてくるという。野望に充ちた戦国武将で、関東の地はあらかたその軍勢によって席巻された。石崎城主と山尾城主はこれまで互に戦いあってきたが、いま、敵味方として争っていたのでは、大敵に立ち向かうことができない。この際同盟を結んで、敵に当たろうというのであった。

 初姫の脳裡に、成太郎と過ごした幼い頃の日々が浮かんでいた。

 夏の海辺。めくるめく太陽。焼けるような白砂。寄せる波に洗われるなぎさの砂のしっとりと冷たい足触り。

 波とたわむれながら泳ぎ回る二歳年上の成太郎は、海に住む大きな魚のように自在にみえた。

 「はしたない」とか「あぶない」とか言う乳母や侍女の目を盗んで、初姫を成太郎が波のこない入江に連れていき、両手を取って泳ぎを教えてくれた。身にまとったままの薄い帷子(かたびら)が、水に濡れてぴったりと躰にはりつき、裸身がそのまま透けていたが、恥ずかしいという意識など全くなかった。

 彼女は声をあげて笑い、時に成太郎の腕に身をゆだね、時にその手をふりきって泳いだ。

 砂浜で拾った貝殻は、今も大切に、着物の端ぎれで作った布袋に入れて持っている。

「耳に当ててごらん。海の音がするよ」

 成太郎が拾ってくれた巻貝を、耳にあてるとほんとうに海鳴りが聞こえた。透きとおるほどに繊細な薄紅色の桜貝は、人魚の指からほろりと落ちた爪かとみえた。錐のように長細く尖った貝は、小鬼の角。魚のがいこつかとまごうホネ貝。美しいさまざまな文様をえがく貝の数々。――みな成太郎との思い出を蘇らせる。

 冬の日には、城内で凧あげをした。

 成太郎は絵がうまかった。彼は山水画も描いたが、それより動物や、鳥や、人物を描くのが好きだった。描いた絵を凧に仕立てて、あげた。

 ちょうどよい風のある日、凧はするすると舞いあがって、忽ち上空に小さくなり、ゆらめきながらも安定した。やってみたいと思いながら見守る初姫に、

「持ってみる?」

 成太郎が糸を持たせてくれる。

 凧のかすかな重みと引く力が、風を感じさせた。自分が風になり、凧になりして、大空高く舞いあがり、あたり一帯を眺め下ろしている気持ちになった。

 成太郎はやさしい兄と思えた。そこにいつも犬のジローがいた。まだ子犬だったジローは、元気に跳ねまわって足元にじゃれついた。初姫の手をしきりに舐めたりもした。戦は断続的に続けられていたが、束の間の平和もあり、童子らゆえに、おぞましい戦にまきこまれずにいられた、懐かしく楽しい日々であった。

侍女が、初姫に半ばからかうように笑いながら言った。

「姫さまは、成太郎どのと夫婦(めおと)になりたいのですね」

 言われた途端、思いもかけず、全身の血が逆流したように感じた。

「あら、お顔が真っ赤。やっぱりそうなのですね」

 考えたこともないことだった。それなのにこの奇妙な感じは何なのだろう。分からない。分からないけれど恥ずかしい。胸ときめき、苦しいばかり。

 でも、分かっていることが一つある。自分はもう女童(めのわらわ)ではないということ。いつの間にか胸がふくらみ、女のしるしも始まっていた。

 成太郎を恋しい人と意識したその時から、初姫は、彼に会えなくなった。その名を聞いただけで、胸の鼓動が激しくなり、会いたいと思いながら、隠れた。以前のように無邪気にふるまうことは、もうできなかった。

 会える機会もなくなっていった。成太郎は父親に指導され、武術に励まなければならなかった。初陣も済ませ、実戦にも出ていく。遊んでいることなど許されなくなっていた。でも、会おうと思えば必ず会える。そして、いつか成太郎の腕に抱かれる時がくる――。あの人以外に、私の夫になる人などいない――。

 けれど、明日は山尾へ送られる身となってしまった。その前に一目会いたい。とにかく会いたい。会わねばならぬ――。

 部屋には乳母や侍女がいる。彼女たちをたとえ説得できたとしても、城内いたるところに人目があり、番卒がいる。初姫はいったん寝たとみせかけて、床についた。侍女たちが眠ったのをみすまして起きだし、薄暗い燭台の灯をたよりに、用紙にさらさらと筆を走らせた。

 書き終わると、みずほという侍女をそっと起こした。かつて初姫に、成太郎を意識させた侍女。でも、一番へだてなく話し合える相手であった。

「なんとかこれを、あの方のところへ届けてほしいの」

「わかりました。必ず」

 みずほはうなずき、文を懐深くしのばせて、部屋から出ていった。

 

 成太郎は、ふっと目を覚ました。何か音がした。耳を澄ます。雨戸をほとほとと叩く音。ジローかと思った。ジローは夜中、時として成太郎を起こすことがあった。嫌いな雷が鳴る時、なぜか月が皓々と冴え輝いている時などにも、寝床にしている縁の下から縁に上がって、雨戸をひっかいたり鼻を鳴らしたりする。だが、ジローはもういないのだと気がついた。

 起きて、そっと雨戸を開ける。

 白い顔、白い手がのびて、書状が差し出された。

「姫さまからでございます」

 潜めた女の声でひと言。すぐに姿は見えなくなった。

 燭台に灯をともし、ふるえる手で書状をひろげる。

 

  つゆ草の仮の命をながらえて

      面影ゆえになお待つわれは

 明日、私は山尾へ参ります。

                初姫  

 成太郎さま

 

 指先のふるえは、全身のわななきになった。

 知らなかった。初姫が山尾城へ行ってしまうとは――。人質として、山尾家盛の側女(そばめ)としてであるにちがいない。早急に事は決められ、城主と重臣しか知らないことなのだろう。だが父からも何もきいていない。

 成太郎こそ、初姫の面影とともに日々を生きてきた。

 人々の寝静まった夜などに、こっそりと絵筆をとった。描くものは、自然に初姫の姿になった。何枚も何枚も描いてあきなかった。 常に姫の面影に語りかけていた。嫌いな武術や戦さえも、姫を守るためになら励もうと思った。

 ――初姫が、山尾へ行ってしまう! どうしよう! どうしたらいいんだ!

 ――面影ゆえになお待つわれは――

 成太郎に向かって、初姫の救けを求める絶叫が聞こえてくる。

 ――なんとかしなければ!

 彼は夜じゅう、うつぶせに頭をかかえたり、突然立ち上がって部屋の内を歩き回ったり、意味もなく太刀を握りしめたりした。

 一睡もせず、これという方策も立たないうちに夜明けを迎えた。

 薄明のうちから、父が長刀を素振りしている掛け声が聞こえる。

 成太郎は庭へ出て、片膝つき、父に声をかけた。

「今日は初姫さま御出立とのこと。警護の士として、この成太郎をお加えください」

「む?」

 素振りを止めて、父は成太郎を見た。

「おぬしそれを知っておったか」

「はい。城内のことは自然と知れます」

 父は深くは問わなかった。実は昨日、成太郎にそれを命じようとした。つい笛にカッとして、結果が変わった。一夜明け、成太郎の方から言葉をかけてきたことに気をよくして、警護の役を許した。

 

 初姫輿入れの行列は、辰の刻ころ城門を出た。前後を警護の士に守られて、初姫は輿(こし)の中である。輿の脇とすぐ後には徒歩の侍女がおり、成太郎はその後、騎馬で二番目の位置に従った。

 顔も姿も見ることはできない。

 行列は石崎の里を奥へと進み、くねるように小山をめぐりつつ、次第に木深い山中へと入っていく。この山地を越えた向うに、山尾の城があり、境界の峠までしか石崎側の警護の士は従うことができない。

 ――なんとかしなければ……。

 昨夜来、何度繰り返したかしれない胸の内の叫びを、成太郎は馬上でまたも繰り返していた。

 ――奪って逃げる!

 その言葉も何度湧きあがってきたかしれない。だが次の方途がない。逃げてどこへ行く?

 自分は武士を捨て、他人の下僕になりとなることはできる。しかし初姫は……。

 それに誰一人味方もないたった一人の力で、行列から姫を奪うことが可能であろうか。多くの人を斬り殺すことになるだろう。人を殺すまいと固く誓ったばかりというのに。そしてまた、初姫がそこまでのことを、成太郎に期待しているかどうかは分からないことだ。ひとりよがりな空想、思いあがりではないだろうか……。この疑問が一番、成太郎の心を迷わせ、くじかせた。

 けれど……、と彼はまた考える。

 初姫を失ったあとの自分はもう生きてはいけないように思う。心の中で武士を捨て、父に背き、主君を裏切り、朋輩や武士らすべての人たちの信条を価値と思わぬ異端者の自分が、その四面楚歌に打ち克つ魂の力を、どのように燃え立たせ続けていくことができようか。初姫がいてこそであった。

 堂々巡りして、とつおいつ悩み続けるうちに、杉木立の山を登りつめ、視界が開けた。峠。

 境界まで来てしまったのだ。見ると、平坦に続いている尾根道の彼方に、ひとかたまりの武士らの姿がある。出迎えの山尾方の人々だ。

「お迎えに参りました」

 近づいて彼らが言った。

 成太郎の鼓動は割れ鐘のように高鳴った。 この時、輿が地面に降ろされ、中から初姫の姿が現われた。

 成太郎たち石崎方の警護の者もみな馬から下りた。

 初姫のすぐ傍らにいるみずほが、警護の責任者に何か言い、しばしの休息を山尾方に伝えて許しを得た。

 みずほが成太郎の側に来た。

「生まれ育った石崎の地とのお別れに、成太郎どのに絵を一筆描いてほしいとの、姫さまのご所望でございます」

 成太郎は初姫の前へ出てひざまずいた。

 潤みを帯びながら、底に必死に訴えかけるものを秘めた眼差しを感じながら、成太郎はその初姫の眸に視線を合わせることができなかった。

 絵のための用紙は常に懐に入れていた。腰に差した筆と墨壷を取ると、震えは止まり心は落ち着いた。

 

 初姫の所望で絵を描く。

 ――一番描きたいもの。目をつぶっていても描けるもの――。

 成太郎の腕が動くと、手にした筆は自在に滑って、忽ち初姫の姿が紙のうえに現われた。あっという間の早さである。

 いま初姫は、豪華な縫箔(ぬいはく)の打掛けを着ているが、絵姿は普段のままの小袖姿。なめらかな童女の肌を保ったふくよかな頬には、黒髪の耳そぎの部分が、愛らしくかかり、眸はどこか夢見るように遠くに放たれて潤んでいる。けれど肩の線、腰のあたりには、すでに童女とは違った女人の色気がただよっていて、それはかつて共に遊んだ子供のころから、いつか互いに成人へと変化した、もの想う成太郎自身の心の反映であった。

 初姫の傍には、ありし日のジローを描き入れた。両の耳をぴんと立て、らんらんと目を光らせ、固く締まった体は仇なす者が現われるや、ただちに跳びかかるかと見えた。ジローは成太郎の分身のつもりである。

 描きあがった絵を、初姫に差し出すと、初姫は淋しいほほ笑みを浮かべ、

「大切にします」

 ひとこと言って、輿に乗るべく背をむけた。

 ――今だ! 奪うのは今をおいてない!

 脂汗がにじんだ。が、動くことができなかった。初姫はもう輿の中。

 二、三の侍女のみを伴い、山尾方の侍に守られて、初姫は去っていった。全身の力の抜けた成太郎を、そこに置いて――。

 

 ひと月は経っていない。

 関東の大敵が攻めてくる知らせが入った。軍勢は海からと陸からと二手になってくるという。

 海の勢は、三浦半島から浦賀水道を渡って寄せ、陸の勢は、武蔵、下総から南下してくる。

 急使を山尾へ出し、

「海からの敵は石崎方で迎え討つ。陸の敵はそちらの力を恃む」

 と、申し送った。

 城内の太鼓が打ち鳴らされる。村々の半鐘が鳴る。

 それを合図に、手に手に武器を持って、兵卒となった農民たちが、武装した名主に率いられて、城へ集まってくる。城内は忽ち人いきれや馬のいななきでごったがえした。年寄の城代を残し、城主宗國自ら出陣する。周りを成太郎の父ら重臣が囲む。

 成太郎も一隊を与えられ、出発した。なるべくぐずぐずして軍のしんがりに従う。

 海岸一帯を見はるかすことのできる小高い地形のところまで進み、陣を取る。

 高みから見渡すと、早くも陸にあがった敵軍が、うんかのように屯しているのが見える。石崎勢の五、六倍いや十倍はあるだろう。      

「勝てるか」

 宗國が家臣をかえりみた。

「戦は、数ではない。一人ひとりの必勝の信念です。この期に及んで、勝てるか勝てないかなど、問題ではありませぬ」

 タカ派の成太郎の父が眉を怒らせる。

「しかしながら、この場で敵を蹴散らしたとしても、もはや彼らの勢力はほぼ関東一円に及んでおり、われらの敵ではありませぬ。城を落とされ徹底的な敗北をこおむってしまっては、すべてが終わりです。和を結ぶべきです」

 ハト派の重臣が述べる。

「何たる腰抜け! 戦わずして敗北をうんぬんするなど、武士の風上にも置けぬわ」

 意見は白熱したが、遂に宗國が決断を下した。

「和議を結ぶ。使者を立てよ」

 使者が選ばれ、敵陣へ向かった。入れ違いに、山尾からの伝令が息を切らして走ってきた。

「当方、ただ今敵の大軍と合戦中。わが軍勢の勇敢な攻撃によって、敵を多くたおし、後退させた。石崎方も奮励されよ。必勝をねがう」

 伝令を手厚くもてなし、山尾方の戦ぶりをたたえ、石崎勢も間もなく合戦に突入すると答えて、帰した。

 和議の使者が戻ってきた。その条件の第一は、石崎勢による山尾攻略であった。

 宗國はうなった。だがいまさら否とはいえない。半ば予想もしていた。承諾の旨を再び使者に託した。

 この決定は成太郎を蒼ざめさせた。

 山尾城に人質に入った初姫の命が危ない。昔から石崎と山尾は戦いあってきたが、時として人質を差し出して和を結んだこともあった。以前、山尾方から石崎城へ送られてきた人質を、再び合戦となって、石崎方で殺し、見せしめに曝したことがあったと聞いている。裏切りの報復に、今度は初姫がその責めを負うことになるだろう。

 山尾攻めの軍議が開かれた。

 山尾方は城を出て戦っている。その戦陣の背後を突いて奇襲し、真っ先に城主家盛の首級をあげる。それから城へ向かい城を占拠する。

 誰も初姫のことを口にする者はなかった。戦乱の世のならいとして、人質の運命は初めからいけにえとして捨てられていた。

 山尾勢が陣を敷いている場所は、石崎からおよそ四里ほど離れた地点。夜襲をかけるために時刻を見計らって、軍は出発した。

 成太郎は決意を固めていた

 初姫を山尾城から救い出す。救い出してさらって逃げる。

 主君も、家も、父母も捨てる。今まであまりにも父から、絵を描いたり、笛を吹いたりすることを、愚かな無益のわざと罵倒され続けてきたゆえに、武士を捨て、家を捨てたら生きるすべのないことが思案された。だが、自分が絵に没入し魂の喜悦を感ずるように、戦乱の世とはいえ、広い世間には、絵を愛好する人物もいるかもしれない。そういう人物を求め探してさすらおう。初姫を連れ、旅絵師となって旅立とう。

 輿入れの日、遂に実行できなかった腑甲斐ない自分が、今度こそ決行する。

 ――初姫よ。待っていて下さい。今こそ成太郎は参ります――。

 日が落ち、夜のとばりが降りてきた。丘陵地帯は木の下道が多く、星明かりさえ遮られて真の闇になる。隠密の軍勢ゆえ、かがり火も最小限にしかともさない。口もきかず黙々として、一行は前へ進む。

 成太郎は最後尾にいる。一行との距離を少しずつ離す。誰も気づかない。

 二またの別れ道に来た。北の方へ軍勢は行く。東へ向かえば山尾城だ。成太郎は、一人東の道を取る。しばらく歩調を変えずに進み、それから馬に一鞭あてると、山尾城へ向かって一目散。ひた走りに走っていった。

 

 初姫は、今宵もまだ起きていた。

 

 山尾へ来て一ヵ月ほどの間に、極端に食が細り、ふくよかだった頬はやつれ、明るくさわやかだった眸は淋しげに潤みかげった。

 いつもいつも成太郎の姿が傍らにあって、語りかけ、語りかけしている自分に気がつく。気がついてそこに姿のないことが、堪えがたく悲しい。

 

 ――会いたい。会いたい。会いたい――

 けれど、すべがなかつた。文さえ届けることができない。空をあおぎ、翼ある鳥をうらやみ、石崎の西の方向に夕日を見つめ続け、瞳が飛べない小鳥のように赤くなってしまった。

 時に、なぜあの時あの人は、わたしを奪って逃げてくれなかったかと、恨みに思ったりさえした。

 初姫は、はっとして顔をあげた。

 笛の音が聞こえる。

 ――空耳だろうか――

 確かに、聞こえる。しかも輿入れする前夜に、成太郎が吹いていたのと同じ曲だ。   

 ――成太郎さまだ! 会いに来てくれた!

 

「みずほ、起きて。笛の音が……」

 隣の部屋に寝ているみずほを起こした。

「笛? ……あ、確かに聞こえます」

 みずほも起きあがってうなずいた。

「行かなければ……」

「行くといって、いずれに……。まずわたくしが見て参ります。姫さまはそれからに」

 みずほが初姫をなだめ、手早く身仕度すると、部屋を出ていった。

 幸いなことに、城中の将兵は出陣しており、留守役や番卒はいるが、いつもよりずっと無人だ。

 ――どうか、誰にも見とがめられず、成太郎さまを確かめてきてくれますように……。初姫は祈るように念じて、みずほの帰りを待った。

 はらはらする長い時が過ぎ、城の裏手の方角から微かに聞こえていた笛の音が、とだえた。

みずほが、成太郎に会えたにちがいない。

 だが、なかなかみずほは帰って来ず、再び不安が黒雲のように広がつた。

 笛の音を番卒に聞き咎められて、成太郎は発見されてしまったのではないだろうか。みずほもまた捕えられたのでは……。

「姫さま」

 ひそめた声が近づき、やっとみずほの姿が現われた。着物は泥にまみれて裂け破れ、髪は乱れ、顔や手にも擦り傷ができていた。「無事でよかった。でもずい分な格好。どうだったの。成太郎さまは?」

「会えました。笛の主はやはり成太郎さまでした。姫さまをお連れしに参ったと申しています。行かれますか」

「言うまでもないこと。で、どこ?」

 初姫の頬が紅潮した。

「裏山の渓谷のところです。そこへ行くには……」

 みずほは、噛んで含めるように行き順を教えた。

「みずほも行ってくれるのでしょう?」

「いえ、わたくしは行きません」

「なぜ」

「成太郎さまの足手まといになります。わたくしはここに残って、姫さまのお床に入り、ふせっていることにします。気分がすぐれないと顔を見せずにいれば、明日一日くらいはごまかせます。追っ手が来ないその間に、少しでも遠くへお逃げなさいませ」

「そんなことをしたら、後でみずほが殺される。一緒に逃げて欲しい」

「大丈夫ですよ。みずほのことはご心配なさいますな。明日にでも抜け道から逃げます」 そう言われても心配であった。初姫は、なおも一緒にと迫ったが、

「時が過ぎます。夜が明けてしまいますよ。早く! 早くなさいませ!」

 叱りつけるようにうながされ、手甲脚絆の旅支度となった初姫は、ついにみずほを残して一人で部屋をでた。

 そこは、城の一番高い位置にある一の曲輪(くるわ)、城主の住居内だが、側室の初姫の部屋は、母屋とは廊下でつながった離れのようになっていて、屋外に出るには、廊のはずれの妻戸をそっとあけて出ればよい。

 一の曲輪を囲んで築地が築いてあり、下へくだって段丘型に二の曲輪、三の曲輪がある。そこを経て大手門に至る道も、三の曲輪から横の門へ出る道も、番卒が守っているので通れない。みずほが教えた道は、一の曲輪の裏側に、(くりや)の飲料水として使っている泉水池がある。そこへの細道を下るようにとのことだ。

 だが、一の曲輪内にも番卒は巡回してくる。妻戸を細くあけた初姫は、誰もいないのを見すまして地に下り、建物の陰から裏手をのぞいた。が、忽ちドキリとして立ち竦んだ。向うから番卒が、歩いて来るではないか。

 初姫はあわてて縁の下にもぐりこんだ。地面を伝って足音が近づいてくる。じっと息を殺す。

 目の前を、足が通りすぎていった。

 ――助かった。気づかれなかった。

 なおしばらくの時を過ごし、縁の下から這い出すと、小走りに泉水池の細道へ走りこんだ。 

 泉水はさしわたし二間くらいの小さな池で、片側は、上へ岩肌の切り立った崖。反対側は深い谷になっている。

 木の間ごしの月あかりを頼りによく見ると、谷は竹薮におおわれ、梢の部分が伸びているが、その中の一本が、池の端の木の幹に布ぎれで結びつけられている。布ぎれはみずほが袖を裂いたもの。その竹を伝って谷へ下りよと教えられていた。

 初姫は竹の梢に掴まり、脱出を知られないために布ぎれを解いた。その拍子に体の重みで竹が大きくたわみ、ほかの竹の枝に激しく打ちつけられて、目や頬から火の出る痛み。片手は離れ、足は宙に舞い、真っ暗な千丈の谷底へ転落するかと感じた。

「ああ……」

 思わずあげそうになる声を、やっと堪え、竹にしがみつき、揺れの静まるのを待って、どうにか竹を伝って足が地についた。そこも崖地だったから、手を離したとたん、倒れて転んだ。

 竹薮が空をおおいかくして、真の闇。湿ってごつごつした地面を這いながら、手さぐりで進んだ。

 谷川の音が聞こえてきた。水量の少ない小さな渓流と思われるが、そこへ出れば天があき、月あかりで足元は見えるだろう。少しさかのぼったところに、成太郎が待っているはずだ。

 だが、下薮の笹や篠竹が顔を傷つけ、手足の肌を切り、泥でぬるぬるになって這いまわっているが、どうしたことか谷川のところに出ることができない。

 初姫は小声で、

「成太郎さま」

 と、呼んでみた。声はいたずらに、闇と水音に吸い取られてしまうのみ。

 闇が悪意をもって嘲笑っているように、いよいよ蔽いかぶさってくる。竹薮はますます深く、初姫を包みこむ。

 ――どんなにあがいても、ここから抜け出られないのでは……。

 不安と怖ろしさで、手足が金縛りになりそうになった時、目の前を何かが動くのが見えた。恐かったが、見ずにはいられなかった。 闇の中に輪郭が浮かんだ。

「ジロー!」

 初姫は声を出した。ジローは分かってくれたことを悦ぶように、一回ぐるりと回ってから、先へと進んだ。初姫はジローの後に従った。

 とうとう竹薮から抜け出ることができた。谷川の川原に立つと、狭間の上に夜空が見え、澄んだ孤影の月が光っていた。

 大石伝いに、よろめきながら上手へ急ぐ初姫の姿を、目ざとく成太郎が見つけ、飛ぶように走り寄ってきて、初姫を支えた。

 自然に激しく、二人は抱き合うかたちになる。

「会いたかった! 会いたかった! 会いたかった……」

 初姫は童女のように、身をゆすって言い、声をつまらせた。両の眸から、涙が滝のように溢れて頬を伝った。

 この世のしがらみも、時も場所も消え失せた。夢み続けた瞬間が、いま実現した。

 ――山尾へ来る前であったら、どんなによかったろう。

 でも今は、それさえ意識には上らなかった。

「お迎えに参りました。と申しても、成太郎の一存です。石崎の城へは戻りません。それがしと逃げて下さいますか」

「分かっています。みずほから聞きました。成太郎さまと一緒ならどこへなりと」

「夢のようです。姫さまが山尾城へ行ってしまってから、脱けがらの毎日でした」

「ほんとうに夢のよう。石崎での最後の夜と同じ月が出ていますね。……笛の音はすぐ成太郎さまと分かりました」

「あの時の笛は、もうないのです。父に禁止され折られましたが、またすぐ竹を切って自分で作ったのです。毎晩のように吹いていました。……聞こえましたか」

「え……ええ聞こえました」

 二里の道のりがあった。聞こえるはずはなかったが、言われてみると、いつも聞こえていたような気がした。

「急ぎましょう。つもる話はありますが、早くこの地を離れないと」

 成太郎は初姫の手をとった。「あら、ジローがいない」

 あたりを見まわす初姫を、成太郎は不思議そうに見た。

「ジロー?」

「ええ、竹薮から抜けられなかった時、ジローが来て、ここまで案内してくれたの」

「ジローはやはりあの夜死んだのです。そのジローが? ……もしかしたら」

「……?」

「それがしが描いた絵……」

「あの絵は、肌身離さず持ってきました」

 初姫が懐から、折りたたんだ絵を取り出した。広げてみると、ジローを描いたところが、夜目にも空白になっていることが分かる。

 

「ジローは、絵から抜け出て助けてくれたのね」

 もう一度、初姫はあたりを見まわした。成太郎は別の思いの中にいた。もはや後には引けない決意のこと――。

「わたしは、武士をやめることにしました。刀と鎧は捨てていきます。刀を持っていると、頼って、人をあやめることにもなりかねない」

 彼はきっぱり言って、腰から太刀をはずし鎧を脱いだ。

「それほどまでの決意を……」

 驚きの眼差しで、初姫が見守る。

「姫さまに逢えた喜びが、迷いを一掃しました。この戦乱と武士の世に、一人くらい武士をやめても、どうなるものでもないといわれるかもしれませんが、この世は、一人一人の集まりでできているのです」

「ほんとうに。……いままでどれだけの人が殺されてきたことか。そして人は、まだどれだけ殺せば気がすむのでしょう。わたくしもこれを置いていきます」

 初姫は、懐から懐剣を取り出した。

「いや、それは持っていた方がいい。身を守るためにも、その他にも役にたちます」

 成太郎に止められ、そうかもしれないと、初姫は従った。

 二人は手を取りあい、渓谷をさかのぼり、途中から山の斜面をよじのぼって、山尾城と峰続きの背後に出る。そこを越えないと、他国へ通じる街道へ出ることができない。城から尾根続きの山には、深く人力で掘った″堀切″といわれる切り込みがつくられていて、敵の侵入を防ぐようになっているが、堀切の城側にはやはり見張りがいるはずだから、なるべく遠い位置で、峰越えをしなければならなかった。

 木の根、岩根のとびだした道なき山を這いのぼり、やっと下りに差しかかった頃には、あたりに霧が流れ始め、闇は薄墨にぼかされてきた。夜が明け初めたのであろう。

 山を下りきったところに、成太郎は馬を繋いできた。そこまで行けば、初姫を乗せて馬に乗り、疾走させることができる。

「もう少しです」

 成太郎は初姫を励ました。

 この時、こだまとなって響いてくる、戦の雄叫びを聞いた。

 成太郎が初姫救出に向かっているとき、石崎勢は、山尾の陣に裏切りの夜襲をかけ、野戦が行われていた。不意を突かれた山尾方は、敗け色濃く、痛手を負って山尾城へと後退しつつあった。城の裏側に当たるこちらの方面まで、散り散りになって追いつ追われつしていた。

「この山の中なら、敵は追ってはこまい。しばらく隠れて様子をみようぜ」

「命あってのもの種よ。馬鹿らしい戦にまともにつきあっていられるか」

 すぐ間近で声がした。山尾方の兵卒らしい。

 ギョッとして、成太郎と初姫は身を寄せあった。動いて音を立ててはまずい。

 だが、男たちは、ガサガサと下草をかきわけて近づいてきた。

「や、や、や」

 男たちは立ち止まった。

「妙なところで見目よい女ごに出会うたぞ」

「狐であるわけもなし……」

「う、ひ……」

 三人の男の眼はぎらつき、顔を見合わせてうなずき合う。鎧もなく、太刀も持たない成太郎の姿は、彼らに何ほどの者とも映らなかった。

 長刀などを構えつつ、じわじわと寄ってくる。成太郎は武器にするものは何もない。片腕で初姫をかかえて、ただかばう。

「近づくな!」

 成太郎が叫んだ。その声に却って逆上した男らが、打ち物を投げすて、ワッと襲いかかってきた。目的は、初姫にある。

 体当たりをくって、足元の悪い木の根にひっかかり、初姫もろとも成太郎は転倒した。が、すぐ跳ね起き、初姫を引き離そうとする男に組みつく。他の男が、後から成太郎の頭をもの凄い力で殴りつけた。くらくらとしたが、振り返りざま足で蹴りあげる。

 その間に初姫とひき離された。すぐに初姫に向かって走ったが、二人の男に取り押さえられ、岩根にたたき伏せられた。ずるずると引きずられ、木の幹に藤づるで縛りつけられた。                

 初姫も死にもの狂いで、男の腕から逃れようと争っていた。腕にかみつき、ひるんだ隙に懐剣を取り出した。

「近づくと、これで死にます」

 初姫は、懐剣の切っ先を自分の喉もとへ向けた。

 成太郎を縛り終えた男が、さっき投げすてたなぎなたを拾い、初姫に迫るや、姫の懐剣持つ手をさっと払った。

「あっ」

 痛みに手がしびれ、初姫は懐剣をとり落とした。手首から血が噴き出す。

 なぎなたの男はにやりと笑い、初姫に飛びかかった。

 組みしかれた初姫の上に、野獣のような髭面がおおいかぶさってきた。男の手で、胸元がぐいとおし広げられる。

「ああ!」

 初姫は切り裂かれるような声をあげた。

 岩根に叩きつけられて、しばし気絶していた成太郎はその声を聞いた。

「成太郎さま!」

 初姫が叫んだ。

「お逢いできて、初は幸せでした。想い残すことはありません。立派な絵師になって!」 成太郎の全身の血が凍った。

「死ぬな!」

 身動きできない身をよじらせ、喉も裂けよと絶叫した。

「生きるんだ! 死んではなりません!」

 この時、木立の隙を縫って、宙を飛ぶように走ってきた影があった。ジローである。

 ジローは、初姫を組みしく男の頸に、うなり声をあげて飛びかかり、食らいついた。

「うわぁー」

 凄まじい声をあげて、男は倒れ転がった。だが、それより一瞬早く、初姫は、自分の舌を噛み切っていたのである。初姫の唇の端から限りなく赤い血が流れ、眼を閉じた顔の肌は、忽ち透き通るような蒼白さに変わっていった。

 兵卒の一人が、動物じみた声をあげながら、ジローに斬りつけた。ジローの首が宙に飛び、カッと目を見開いて襲いかかると見えた。その恐ろしさに、三人の男らは悲鳴をあげ、こけつまろびつしながら逃げ去っていった。

 成太郎は、強くかたく身に食い込む藤づるを解こうとあせっていた。躰をずらせながら、どうにか藤づるが、顔を傾けて歯で噛める位置へきた。口でしめらせながら噛みに噛んで、遂に断ち切ることができた。

 初姫にかけ寄る。すでに息がない。

「姫! 生きてほしかった! 生きてほしかった! どんな目にあおうと、生きていてさえくれればよかったのだ。姫なしに、この成太郎はどう命を長らえたらいいのです!」彼はかきくどき、両のこぶしで地を叩き、慟哭した。

 やがて、初姫を両手に捧げ持つように抱きあげて、山を下っていった。

 馬はいない。戦の拡散のなかで、誰かに奪われたのであろう。

 もう日の出の時刻はとうに過ぎているはずなのに、今朝はなお霧がはれやらずたゆたっている。悲しみの薄絹のように、満身創痍、血にまみれて息のない初姫に、まつわりついて流れた。

 ゆるやかな斜面の原であった。街道が見える。その街道の方から、四、五人の足軽ふうの侍が走ってきた。

 たった今まで、戦場で殺し合いをしていた血なまぐささと殺気が、息づかいや体臭からむんむんと発散している。

「あいつは何者だ」

「何してやがる。女なんか抱きやがって」

 成太郎を見とがめて彼らが言った。

「や、知ってるぞ。あれは城の鬼家老の倅だぞ」

「何だと。鬼家老の倅? じゃああの女は誰だ」

「あれは、よくは分かんねえけど、先ごろ山尾へ人質にいった初姫さまじゃねえか」

「まさか」

「おい……」

 一人が、仲間を寄せて何事か囁いた。彼らはうなずき合った。

「かまぁねえ。やろうじゃねえか」

「おれらぁ、あの鬼家老に今までどれだけ絞られてきたか分かったもんじゃねえ。兵糧米は次から次と取り立てられるしさ」

「このへんでひとつ、あの若造の首を、山尾に届けて恩賞にあずかったって、罰は当たるめえってことよ」

 一団の足軽らは、石崎の者であった。

 その話し声さえ成太郎の耳に届いていた。けれど、成太郎にとって聞こえないも同然だった。彼は、初姫を抱いたまま、ただ呆然と歩みを続けていた。瞳はどこか遠くへ放ったまま動かない。

 男たちが駆け寄って取り囲んだ。それでも成太郎はゆっくりとした歩みを止めない。

「この野郎、なめやがって!」

 長刀の一人が、長い柄を振りかぶって、後から走りざまに成太郎に振りおろした。首のつけ根に刃が食い込み、成太郎は初姫を抱いたまま、半回転して、どうと倒れた。

 おびただしい血が噴き出して、成太郎と初姫を染めた。倒れてもなお成太郎は初姫を離さない。

「おい、見ろ。女は死んでるぞ」

「こりゃあ前から死んでたんだ」

 彼らは、憑きものが落ちたように怖ろしげに初姫を見つめた。

 この時、街道の方角から、

「山尾の城に火がついたぞぉ!」

 という声が聞こえてきた。城山の方に視線を移した彼らは、そこに赤い焔と煙が上がっているのを見た。

 

「山尾の城が落ちた!」

「そうか。それならいまさら首を持っていっても仕方ねえなあ」

「仕方ねえ」

 足軽たちは、もう一度成太郎と初姫の折り重なった姿を見返ってから、火の手がますます燃えさかる山尾城の方へと走っていった。

 成太郎と初姫の血が流れた後には、毎年つゆ草の花が咲いた。星の雫のような可憐な青紫の花は、朝咲いて夕にはしぼみ、はかなげではあるが、根は張って強く、枯れることがない。

 ずっと後になってから人々は、成太郎と初姫を憐れんで、街道添いのこのつゆ草の咲く原に、道祖神を立てた。やさしく、愛らしい男女の神が肩を抱き合って立っている、石の道祖神である。

 

 下条盛夫は、小説を読み終わると、やもたてもたまらず、つゆ草の咲く原へ行ってみたくなった。

 そこに戦前、結核療養所が建てられ、胸を患った盛夫の母は入院し、その病院でこの世を去った。

 結核患者が少なくなった今は、総合病院になっているという。

 翌朝を待ちかねるようにして、旅館で病院の場所を聞いた。バスが通っており、駅前から乗った。病院前の停留所で下りると、ほとんど探すほどもなく、小さな道祖神を道の傍らに見つけることができた。石が少し欠け、表面もやや摩滅し、埃をかぶっているが、形はたしかに男女が肩を抱き合った姿である。

 そこに、つゆ草の群落を見た。

 母はここに佇み、石の道祖神を見つめ、その細い指の先で、つゆ草の花びらに触れたのだ。

「星の雫のような……」

 小説の一節を口ずさみながら、花のひとつを手にとってみる。花びらは、薄いゼリーのように透きとおっていて、指に解けて青紫の色と化した。

 母は二十歳を過ぎたばかりだった。今の中年の盛夫よりずっとずっと若い乙女のような母――。うまく結びつかない淋しい混乱にしばし浸されたまま、つゆ草の群落の中に立ちつくしていた。            

 視線を彼方に移す。背後を丘陵に守られて、少し小高くなったところに、クリーム色の病院がある。じっと病院を見つめ続けていると、その手前の生い茂る雑草の間を一匹の赤犬が走った。犬を追うように、白っぽい服を着た女の人の姿が現われる。柔らかい布地が風に揺れなびく。

「お母さん……」

 盛夫は、思わず口の中でつぶやいた。つぶやいてしまってから、首を横に振った。母がいるはずはない。はずはないけれど、惹きつけられるようにその人の方へ歩を進めた。女の人の姿はどんどん遠ざかり、ふっと草叢の中にかき消えた。

 背後から肩をたたかれ、ギクリとして振り返ると、一人の品のいい老人が立っていた。「この病院にご家族が入院しておられるのか?」

「いいえ」

「じっと眺めておいでだったが……」

「昔、母がここで亡くなったものですから」

「ほう、お母さんがね。……実はわたしの恋人もここで亡くなった。ずっと前、つまり戦後まもなくのことなんですがね。それで、今だにこうして来てしまうんですよ。ハッハ……。いい年をしておかしいでしょうね」

「いいえ、ちっとも」

 ――歳月はわだちを印して走り去る車のようなもの。わだちを刻まれても、地面のこころに変わりはありませんからね。と言おうとしたが、キザに思われそうでやめた。  

「……よほど愛しておられたのですね」

「わたしの青春。いや、わたしの生涯そのものだった。……宝の小箱の蓋を、ほんの少し心ときめきながら開いてみる時のように、わたしの胸の扉の内をのぞけば、あのひとの姿があるのです。のびやかに個性的な心をもって、瞳がきらきらと輝いて――。それだけではもの足りなかった若い頃もあったけれど、今は思うだけで心が満たされる。緑深い森があり、光きらめく野があり、小川や草の中の小道があって、その風景の中に彼女の姿があるのです。大方は三つ編みのおさげ髪の乙女。時にほっそりと病んでやつれた姿の、淋しい微笑の彼女……」

 ――こりゃぁ、こちらの方がよほどキザだ。それともロマンチストというべきか?

「ところで、あなたの亡くなったお母さんは、何というお名前ですかな?」

 老人が訊ねる。

「波津子といいました。もっとも私が、一歳の時に亡くなりましたから、わたしは母のことは何も知らずにきたんですが」

「小説など書かれる方でしたね」

「え? 母のことをご存じなんですか」

 盛夫はびっくりして、まじまじと老人を見守った。

「美しい人でした。まつげの長い黒みがちの瞳の……。文学少女で、この辺では評判でした」

「もし、母のことをご存じでしたら、何でもいいですから話して下さいませんか」

 盛夫は、急きこんで言った。この人はもしかしたら鍵を与えてくれるかもしれない。昨夜から抱えている謎――母が、自らを初姫に託して描かずにはいられなかった現実とは何だったのか――。

「少し、歩きますかな」

 男は、つゆ草の原から街道へ先に立って歩いた。髪は白髪だが、背筋は伸びていて、脚の運びにも年令は感じさせない。しかし、長袖のオープンシャツに包まれた片腕が、肩のつけ根で脱骨しているか、でなかったら義腕かもしれないことに、初めて気がついた。

「あのひと――波津子さんの病気は、結局は不幸せがまねいたものと思われますな」

「……?」

「気にそまない結婚をさせられましたからね。あ、いや、その前に波津子さんは、恋をしたんです。相手は寺の息子でした。やはり文学とか絵画とか、そういった芸術を愛する若者でした。戦争中でしたからね。戦争はこの若者をも襲い、徴兵されることになりました。彼は芸術を愛するのと同じくらいの強い信念で、反戦の心を持っていました。それで自分が銃を取って、人を殺す戦に出ることをどうしても、いさぎよしとしなかった。苦しみ悩んだ末、徴兵拒否の逃亡をする決意をしたのです。実行のその前日、波津子さんに会い、決意を打ち明けました。波津子さんは、自分を連れて逃げてと頼みました。でも若者は強くそれを拒みました。『見つかったらどういうことになるか。危険な逃避行です。波津子さんを巻き添えにすることはできない。この戦争が永久に続くとは思えない。必ず何年か後に迎えに来る。信じ合っていれば待つことはできると思う』そう言って波津子さんをなだめたのです。……若者の逃亡が知れると、憲兵が寺に踏み込み、若者の父親の住職は引っぱられていきました。一方、波津子さんと若者の恋仲を知っていた人、前夜会っていたのを目撃した人がいて、警察に通報され、波津子さんも捕まりました。特高による拷問が彼女に加えられたそうですが、知らぬ存ぜぬで通したということです。波津子さんの家が土地の有力者ということもあって、間もなく帰されたのですが、彼女の父親は、大慌てで親戚を通し、嫌がる波津子さんを無理矢理、東京の軍需工場経営者の息子に嫁がせてしまいました。たぶん、それがあなたのお父さんでしょう」

 盛夫は、今まであまりにも母のことを知らずに過ごしてきたことに、自分ながらあきれ、言葉も出ずにいた。

「波津子さんは気にそまない婚家で、心労が重なり、あなたを出産した後、病気になってこの療養所に入ったわけです」

「で、恋人だったというその青年は、どうなりました?」

「網のように住民の間に張りめぐらされた、国家の組織の目をかいくぐって生きていくためには、北海道に渡って、炭鉱にでも入るしかなかったのです。人手不足で無宿者めいた人も入っていましたし、たこ部屋といわれる部屋に詰め込まれて、ひどい待遇に耐えなければならないことも知っていましたが、とにかく北海道に向かった。何とか青森までは無事にたどり着いたのですが、青函連絡船に乗る前、早くも各地に連絡が入って、張り込んでいた警察官に捕まってしまい、東京へ護送されました。国家の反逆者というわけですね。そして、ひどい拷問を受けたのです。――一人でやったことではないだろう。指令した者がいるはずだ。組織は何だ! 仲間は誰だ! 竹刀で殴る。靴で蹴るは最も軽い方。屈辱的に素裸にして逆さ吊りし、これでもか、これでもかと殴る。血は逆流し、鼻血は噴き出し、殴打される痛みは、痛みというより呼吸が止まる苦しさ。身を海老のように跳ねあげ、よじり、咳ごむ。遂に気絶する。水をかけられ、息をふきかえせば再び拷問。でも彼は一人でやったことですから、どんなに責められようと、答えることはできない。来る日も来る日も、残虐で執拗な拷問が繰り返されたのです」

 二人は、街道を石崎の方に向かって歩いていたが、男は、とある森蔭の古刹に入っていった。

 埃っぽい街道から来たので、巨木の繁みに守られた境内の空気は、ひんやりと涼やかだった。蝉の声がひとしきり高い。

「若者が警察に捕らえられてからの寺は、檀家が去り、そればかりか本堂に石を投げる者、泥を投げる者、わざわざ肥えたごを担いできてぶちまける者。非国民、国賊と大声で罵る者が絶えなかった。住職は、とうとう心臓発作を起こして死んでしまいました」

「この寺がそうなのですか」

「そうです。この寺です。残された若者の母親と中学生だった弟が、身を細めるようにして暮らしていましたが、間もなく敗戦になり、そういうこともなくなったのは何よりだと思います」

「私にも、まんざら無縁とはいえない寺ですね」

 戦後に檀家も戻ったのだろう。荒れ寺というわけではなく、それなりのたたずまいをみせている。

 盛夫はさっきから、この白髪の男こそ、徴兵拒否をして捕まった当の青年。腕が正常でないのは、拷問の後遺症にちがいないと考えていた。

 ――この人こそ母の恋人……。

 でもそれを確かめるのは、何となくためらわれ、口に出しかねていた。

「お寺の方々は、今もご健在ですか」

 遠回しな訊きかたをした。

「いま住職をしているのは、弟の方ですよ」

「で、私の母の恋人だった青年は、……あなた」

 思い切って、とうとう訊いた。訊きながら心臓が鼓動を高めるのを意識した。

 男の眸が、まぶしいものを見るようにせばめられ、遠くへ放たれた。それからゆっくりと、うなずいた。

「せっかくここまでおいでになったんだ。寺に寄っていきなされ。……わたしは、ちょっと墓を見回っていきますから。……さあ」

 促されて盛夫は、本堂の脇の庫裏の玄関を開けた。

「ごめんください」

 声をかけると、しばらくの間があって、内から八十歳を半ば越えたと思われる、ほっそりとした老婆が出てきた。盛夫を見ると、瞬間呆けたように唇を開いた。生気のない小皺の寄った老婆の顔に、見るみる血の気がさしてきて、眸が大きく見開かれた。唇がわなわなと震える。

「成太郎、帰ってきたのだね。ああ、とうとう帰ってきた。ほんとうに成太郎なんだね。……ちょっと修次、修次郎さん。兄さんが帰ってきたよ」

 老婆は奥へ向かって呼びかけながら、泳ぐように入っていった。

 ――成太郎? 成太郎って誰……?

 盛夫は首をひねった。

「おばあちゃん。何を言ってるんですか。ボケてもらっちゃ困りますよ。とっくの昔に死んだ成太郎兄さんが、帰ってくるわけがないでしょうが……」

 大きな声で言いながら、老婆とともに姿を現したのは、六十年配の住職らしい人物だった。彼は、盛夫を見ると、はっとしたように口をつぐんだ。

「あなたは……あなたは、どなた?」

「下条盛夫と申します」

「そうですか。失礼しました」

 住職はなお、盛夫をじろじろ見つめながら、小さく呟くように言った。

「しかし、間違えるのも無理ないな。そっくりだ」

 下条盛夫は頭が混乱してきた。

 ――もしかしたら……もしかしたら、この老婆こそ自分の真実の祖母!

「成太郎さんとおっしゃる方は、いつ亡くなったのですか」

「戦争中です。……事情がありまして……終戦の二ヵ月前でした」

 下条盛夫は、全身が寒気立つのを覚えながら、さっきの男の姿を求めて後を振り返ってみた。もちろん、そこに姿はない。急いで、寺の裏手の方、墓地まで探したが、どこにもあの白髪の男を見出すことは、できなかった。

 

――1993・6・30――

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2005/02/28

背景色の色

フォントの変更

  • 目に優しいモード
  • 標準モード

森本 房子

モリモト フサコ
もりもと ふさこ 作家 1929年 東京都に生まれる。世阿弥を描いた『幽鬼の舞』で埼玉文芸賞受賞(1980年)。

掲載作は、1993(平成5)年、径書房刊『つゆ草幻想』より4編を抜萃。

著者のその他の作品