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 首にタオルをかけた大柄な赤松好夫が、病棟の裏手から、廃棄物専用の台車をひいてきた。

 作業服の背中は地図を描いたように、汗でぬれて張りついていた。

 好夫は三二歳で、眉の濃い角張った特徴のある顔であった。

 山麓の広大な敷地には、総合病院の白い棟が三つならぶ。病棟の一角から離れた、もはや背後には雑木林のみという片隅に、好夫がうけもつ焼却炉があった。巨象の体型よりもおおきな炉だった。銀色の煙突は、正門ゲート横の銀杏の大樹と高さを競うほどである。

 煙突から青い煙が淡い新緑につつまれた疎林の方角へとなびく。さらなる彼方には三千メートル級の雪峰の連山がそびえていた。

 あの峰ではいま遭難事故が起きて捜索隊がむかっているけれども、当の仙丈岳(せんじょうがたけ)はまるで知らぬ顔で屹立する。赤松好夫はいまレスキュー隊から出動待機の要請をうけている。

 かれは時おり仙丈岳の山容を見ていた。今回の遭難は稜線から滑落した事故で、広範囲な捜索ではないし、簡単に救助、あるいは遺体での収容がなされるだろうとみていた。

(登山者は春の(やま)を甘くみている)

 好夫はそうつぶやいてから、仕事のほうに気持ちを切り替えた。

 焼却炉がうなる音をあげている。ここ五年間ほど、かれはこの炉にたずさわってきた。この間に炉の癖や特徴をつかみ、音だけで完全燃焼に達した状態だとわかる。そのうえ、つねに炉内(ろない)の炎の状態をも読み取ることができた。操作盤をみると燃焼温度は九二〇度をさす。ただ、病院の炉はきまぐれで時おり変調をきたす。それだけに気がぬけなかった。

 中央材料室や透析室から、生物災害の危険物表示の、黄色いバィオハザード・マークをつけた梱包の容器が出てくる。かれはそれら容器を台車に積込み、運んできたところである。炉の側で一つひとつ降ろした。

 焼却炉の二次燃焼室が役目を終え、ほっと一息ついたように、みずから停止した。鉄扉をあけた好夫はスコップで、微細な赤い火がちらつく灰をかきだす。膿臭や薬品の臭いはすべて焼きつくされていた。灰自体がもっているほのかな臭いが鼻を突く。

 炉から解放された乾いた灰の微粒子が、風にのって遊びまわる。まるでだだっ子のように足もとでふらふらしていた。

 五十嵐事務長が週一回の見まわりで現われた。白髪で黒い眼鏡をかけた五十嵐は後手に腕を組み、焼却炉のまわりを一周してきた。

「おい、赤松。何度いったらわかるんだ。灰を飛ばさせるな。シートをかぶせろ。この時期の風向きを考えてみろ、病室まで灰が飛んでくるだろう。患者から、苦情がきてかなわないんだ」

 好夫が口を利かず、作業をつづけていると、五十嵐が革靴の先で、コンクリート炉床の積もった灰に『とばすな』と書いた。

「おい、いま手にしているスコップをよくみてみろ。柄をとりかえれば、まだ充分使えるじゃないか。新品の購入申請が出てたけど、却下だ」

 五十嵐は、雑木林の樫の樹を伐ってスコップの柄にしろ、頭をつかえ、と指で大げさに頭部をさす。好夫は一瞥しただけで、炉内から灰を取りだす。

「この際だから、もうひとつだ。散水栓の鍵は毎日、守衛所に返せ。水も盗まれるからな。三日まえは、鍵がもどされてなかったぞ。忘れるな。……ひとが話してるときくらい、返事をしろ、わかったか」

 それでも無視していると、五十嵐事務長はいつものように怒って立ち去った。

 好夫は厚手の手袋をはめてから、一次燃焼室の投入口の鉄扉を開けた。ごみ袋を投げ込む。

 これらには使用済みの注射器、点滴容器、ガーゼ、紙おむつ、絆創膏などが入っている。

 医師や看護婦たちは規律だろう、一袋ずつ丁寧な仕分けと分別がなされていた。炉のなかでごみは混在してしまうのに無駄だと思うけれど、かれは一度も事務局に話を持ち込んだことはなかった。

 助熱バーナーに点火してから数分後、好夫は覗き穴をあけてみた。焼け溶けたビニール袋のなかから、切断された手がぬっとのびてきた。生きた人体ではないかと、かれははっとおどろかされた。

「また、不法投棄か」

 好夫はつぶやいた。しかし、かれはこの事実を胸のなかにしまいこんだ。

 生体、あるいは死体の一部や臓器は病院長の名で火葬申請を提出し、町の火葬場で焼くことが義務づけられている。それでは費用が発生する。院内の焼却炉で処理してしまえばよい、と事務長が暗に一般の廃棄物のなかに混在させるように指示しているのだろう。

 好夫は違法だと抗議する立場でもなく、ひたすら無関心で《焼き屋》に徹していた。

「ねえ、わたしが死んだら、ここで焼いてくださる?」

 風のような女の声がひびいた。炉内で動いた手をみたばかりの好夫は、幻聴かな、と疑った。雪山の単独行動のとき、こうした幻聴をきくこともある。ふりかえった真後ろには、入院患者とわかる女性が立つ。色白の細面で彫りが深い、三〇歳前後の女だった。

「あんたか」

「わたし、退院したら、その日のうちに死にます。あなたが遺体を収容してきて、ここで燃やしてくださらない」

 焼かれて煙となれば、写真家の黒沼武志が眠る、仙丈岳の峰に登っていけるはずだという。彼女は嫌味を言いにきたのだろうか。それとも、自殺の決意を固めにきたのだろうか。好夫には真意が計りかねた。

「ここで死体は焼けない。町の火葬場のほうにあたってみたらいいんじゃないかな」

「冷たい言い方ね。仙丈岳でなぜ黒沼さんを残し、わたしだけを助けたんですか」

 彼女の視線はきびしかった。

「あの場合は、あれしかなかった」

「違うわ。あなたは、黒沼さんを見殺しにしたのよ。わたしの人生にはかけがえのない(ひと)だったのに」

 彼女の目には、心をふかく傷つけられたという鬚りが感じられた。好夫には彼女の視線が重く思えた。

 無言で好夫は回収業者からもらったラバーの破れたソファーに腰をおろした。そして、煙草に火を点けた。

 黒沼武志は著名な山岳写真家だった。黒沼たちが仙丈岳で遭難したのは、昨年末の厳冬期の雪稜であった。

 好夫にとってはかつて経験したことがないほど厳しい救助活動だった。雪と氷の断崖で、ふたりのうち、どちらの生命を助けるか、という選択に迫られたのだ。一人を助けることで、結果として、ふたりの強い愛の絆を裂くことになったようだ。

「タバコくださる?」

 好夫は一本抜きだした。受けとる彼女の指は病的に細かった。

「死ねば、人間の魂はどうなるのかしら?」

 彼女の顔は幾度も、その質問を自分の心に問いかけたような表情だった。

「死体には価値がない。死んだあと、魂などあるはずがない。この炉で、たとえ焼かれたにせよ、あんたの煙は雪山までとどかない。煙突から出た煙はせいぜい数十メートルだ、そんな煙に魂などあるはずがない」

 かれは突っぱねる口調でいった。

 彼女は無言で、谷筋に白い残雪が光る仙丈岳をみつめた。山稜をなでおろす風が、燃焼した半透明の青い煙をたなびかせている。途中から緑の森林に吸収されて消えていた。

「なぜ魂を信じないの?」

 彼女の視線が反発ぎみにもどってきた。

「見えないものは信じない主義だ」

「だから、あなたは見えない人間の心も信じないのね。人間の愛を信じないから、仙丈岳で、生と死に切り裂いたのよ。わたしは黒沼さんを心底から愛していたのに」

 黒沼武志は四二歳の円熟した、山岳写真の第一人者で、これからもさらに名作を数多く残せる人だった。それなのに自分のようなくだらない女を助けてしまったと言い、彼女の目は憎しみで光っていた。

「おれは、助かる可能性のあるほうの人間を救けたまでだ」

「それがまちがいよ。あなたは、助けてほしいと懇願する黒沼さんをあえて見捨てたわ。そうでしょ。人間の生と死を切り裂く権利は、あなたになかったはずよ」

「だから、いつまでもおれを恨んでいる……」

「当然でしょ」

 彼女は怒りで煙草を消した。

 好夫は背後に人の気配を感じた。ふだん事務所で医療事務を執る女だった。中年の事務員は、好夫のそばの女性をじろじろ見ながら、近づいてきた。

「いまね、川島さんから電話があったわよ。遭難者の収容はめどがついたから、赤松さんは北沢峠まで来る必要はないって。そういえばわかるからって」

「わかった」

 川島は地場の猟師組合会長であった。仙丈岳で登山者の遭難事故が発生すると、かならず山岳捜索本部につめている。救助活動の難易度に応じて猟師たちに捜索協力させる役目を受けもっていた。

「伝えたわよ」

 と念をおした事務員は、またそばの女を一瞥した。入院患者とはいえ、好夫のところに、目鼻立ちの整った美貌の女性がいるのは不可解だといいたげな視線だった。

 気になって仕方ないのだろう、立ち去る事務員は何気ないふりして、もう一度、好奇心に満ちた視線をむけてきた。

 事務員の姿が本館に吸い込まれて消えた。

「救助するとき、わたしの素性を知ってた?」

「すこしな。佐久間……綾美、中学の音楽教員だったかな、そのくらいだ」

 かれはあやふやな口調でいった。

「現職でなく、もと教員で三一歳。そんなことよりも、黒沼さんとの関係よ。世間は不倫関係だというけど、わたしにはかけがえのない人だった。あの(ひと)はかつてわたしの心を救ってくれた……」

 彼女の視線が負担となってきた好夫は、立ちあがり、すこし場所を移した。人差し指を小匙(こさじ)にし、ザルのなかの塩をすくって舐めた。強い輻射熱の側での重労働は、塩と水がなければ人間の干物ができあがる。いまはさほど不足していないが、好夫にすれば、次のことばをさがす間合いでもあった。

「あなたには愛する人がいるの?」

 かれは怪訟な目をむけた。

「はあ?」

「あんたよりひとつ年上だけど、独り身だよ」

「がっかりしたわ。妻子あるひとなら、自殺するまえに、復讐してもよいとおもったのに」

「復譽……?」

 日常生活のなかではこんな深刻なことばなど聞くこともない。それだけに好夫は強いおどろきの目で綾美を見ていた。

「最愛のひとと切り離されたら、どんな惨めな気持ちに陥るか、あなたには知ってもらいたかったの。でも、残念だわ。独り身では」

 二重瞼のはっきりした綾美が、まばたきもしないで好夫の顔をじっとみつめていた。

「よう、精が出るな」

 火葬場の準職員の辻田有吉が、焼却炉の側までやってきた。風采のあがらないこの男は、ふたりの仲を卑猥にさぐるような、いやらしい視線をむけた。

「お仕事のお邪魔をしたわね。いま、あなたにお約束したこと、実行させていただきますから」

 綾美が病棟のほうに立ち去っていく。面と向かいあった綾美は強い反発心がことさら目立っていたが、見送る後ろ姿には心の底まで傷ついたような翳が感じられた。

 好夫には話し足りなかった末消化な、もやもやした気持ちが残っていた。厳しい雪稜で生と死を分ける、つらい選択がどのような判断でなされたか、一端でも彼女に話すべきだったと思う。

「おい好夫、どんな女じゃ?」

「知らないさ」

 スコップを手にした好夫は、炉の底から熱気がこもった灰をすくいだす。

「お安くないな。お約束したこと、実行させていただきます……か、いい感じだな」

「知りたいか、だったらおしえてやる。あの女は近々自殺すると予告しにきたんだ」

「隠すな、隠すな。だれが信じるものか」

「ほんとうだ」

「ほら、顔が赤くなったぞ。照れてる。わしは口が堅い男だ、おしえろよ」

「炉の熱で、顔が赤いんだ」

「なにを言う。炉の仕事は昨日きょうにはじめたわけじゃあるまい。炎で、顔が赤くなるもんか、好夫のキャリアなら。炉の仕事をやりはじめて何年になる? この病院に勤めるまえだって、やってたんだろう。高校を卒業したあと、東京で《焼き屋》を。どうなんだ?」

「勝手に詮索するがいい」

「きょうはな、火葬場が友引で休みだし、炉の補修が午前ちゅうに終わったんじゃ。実はな、好夫にちょっと耳に入れておきたいことがあって寄ってみた。どんな話か想像がつくかい?」

「用件をはやく言えよ、もったいぶらずに」

 好夫は横目で辻田の意味ありげな顔をみた。

「五十嵐事務長から内ないで、わしに引き抜きの話しがきたんじゃ」

 辻田は自慢げな口調でいった。

「なんだ、そんな話か」

「おい、おまえをクビにしたいと言ってるんだぞ。真剣になれ。レスキューにうつつを抜かし、いざというとき、あてにならないから、クビにしたがってるんじゃ。注意しろよ。わしが転職をオーケーしたら、おまえは解雇じゃ。わかってるのか」

「クビにしたい話なら、いまにはじまったことじゃない。後釜がいないから、事務長はただ雇ってるだけさ」

「よくわかってるじゃないか。事務長に愛想のひとつも言え、と忠告してやりたいけどな。おまえはガキのころから、いじけてすねたところがあったし、どうせ、聞く耳を持ってないんだろう。ただな、わしは病院からいくら引抜きがきても、お断わりじゃ。こんな安っぽい中型炉の仕事などやってられるか。火葬場のような大型炉じゃないと腕が発揮できん。わしの仕事は聖職だ。仏さんを焼いても、魂までは焼かないように気を配ってる、それこそ自他とも認める日本一の焼場職員じゃ」

「魂を焼かない? どんなふうに?」

 好夫が興味を示したものだから、辻田有吉は一瞬ひるんだ表情をみせた。

「それはな、秘密じゃ、企業秘密」

 立場が悪くなると、辻田はとたんに口先だけでさらっとくぐり抜けてしまう男だった。

「そんなことだろう、とおもった」

「突き放されたとなると、しゃべりたくなるのが人情。人間はだれもがご臨終のとき、人生にやり残したことがあるし、無念だという気持ちが残るものだ。だから、魂が(しかばね)にしがみついてるんじゃ。そこで、このわしが、あんたのやり残しの面倒をみてやるというと、仏さんのからだから魂がすっーと抜け、霊界に入って成仏できるんじゃ」

 辻田が訳のわからないことをもっともらしくいっていた。興味を失った好夫が、ひたすら無視していると、一人でしゃべっているのが味気ないと思ったのだろう、辻田は話を途中で放りだすような態度で、              

「おまえの家は、おやじの代から偏屈の家系だったからな。とくにおやじと後妻はいい笑い者だったよな。いまでも語り草になるほど」

 といってから帰っていった。

 辻田の捨て台詞に、好夫はこだわった。

 父親は猟師だった。猟師の将来は知れていると、好夫は中学を卒業したあと、市内の鉄工所に勤めはじめた。夜はバイクで高校に通った。

 高校二年のとき、母親が急死した。葬式のあと父親は母の墓さえ作らず、仏壇に位牌と遺骨を置いたまま、香典で呑み歩いていた。幼いころは屈強なたのもしい父親に見えていたし、実際、猟が上手だった。友だちにも自慢できた。しかし、父親は変わった。

 四八歳の富吉が親密な交際もないまま、一五歳ほど年下の身持ちが悪そうな佳代子を家のなかに引きいれたのである。

 都会のあばずれ女の佳代子が、猟師の親爺にふさわしい女だとは思わなかった。

 山間の斜面にしがみついた茅葺き屋根という粗末な家のなかで、佳代子は毎朝、派手な化粧を塗りたくっていた。そのうえ、なにかと生活の苦しさを愚痴る中年女だった。

 この自分が勤労学生で、家のなかでのうのうとしているわけではないのに、鉄工所の賃金が少ないとか、好夫は家にあまり金を入れないとか、佳代子は金銭面でどん欲な愚痴の多い女だった。

 富吉は後妻の愚痴を()に受けていた。駄目な息子だといい、佳代子にはすまないという態度をみせ、きまって批判の矛先を好夫にむけてきた。

「働いた金が学費だ、学費だというなら、学校などやめてしまえ。高校など行かなくても、猟や炭焼きはできるんだ」

 富吉が後妻のかたを持つものだから、佳代子はなおさらわがもの顔になった。派手好みの佳代子は、自分は魅力ある女だと思い込んでいる節があった。きれいな手が荒れるからと言い、野菜畑に肥料ひとつやらない。それでいて佳代子は家のなかで中心的な地位を得たがり、ちっともおかしくないことでも、けらけら笑ったり、座敷に青大将が出たといっては年がいもなく大袈裟に泣いたりした。

 仕事がおろそかになった富吉は、朝から晩まで酒の臭いをさせていた。昼間から障子窓や雨戸を締めきり、ふたりして布団のなかにもぐりこむ。町のなかで卑猥な話題の対象になっていた。

 好夫が夜学から疲れて帰ってきても、後妻は食事の支度すら満足にやっていなかった。好夫はつねに佳代子に冷ややかな目をむけていた。家事に明け暮れた亡き実母とは、雲泥の差だった。実母は姑との関係で苦労したらしいが、それすら口に出さなかった。

 実母の姿でとくに印象に残っているのは、日溜りの縁側でセーターを編んだり、ほころび物をなおしたり、精をだす光景である。

 水仙が咲いたからもうすぐ春ね、と笑みを浮かべた母だった。やさしかった実母と佳代子とをついつい見比べてしまう。

 好夫の目からみれば、佳代子のどこを見まわしても好きになれる要素はなかった。むしろ、憎悪だけが募る人物だった。このような女にかぎって、富吉がいるときといないときでは態度がちがう。父親がいない日にかぎって、佳代子は下手な料理をことさら丹念に作り、はしゃぎまわった。

 肩がふれあうほどべったり横に座った佳代子が、箸を伸ばすふりをしながら、好夫の太股に片手をのせ、上半身の体重をかけてくる。鮎の甘露煮をまず一口食べてみて、

「おいしいわ、ほら」

「いらない。おれのはこっちにあるから」

母子(おやこ)じゃない。義母(かあ)さんが一口食べたからといって、気持ち悪がることはないのよ」

 佳代子はそればかりか、スリップ姿で家のなかを歩きまわるなど、挑発的な態度を好んだ。一七歳の好夫からみた三三歳の女など、桁外れに年が開いた、魅力のない鬱陶しい存在にしかすぎなかった。こちらの嫌悪感も知らず、佳代子は性的な魅力を誇示し、愉快がっていた。

 あるとき好夫がつよく反発すると、佳代子は腹いせなのか、帰宅してきた富吉に、風呂に入るたびに、息子に覗かれてしかたないの、と嘘を並べ立てた。好夫は布団のなかから父親に引きずりだされたうえ、拳でおもいきり殴られた。反論し、親子でいい争っても、佳代子はそ知らぬ顔だった。

 再婚してからの父親は変わったし、修復しがたい親子のぎくしゃくした関係から、一軒の家のなかが異様な雰囲気になっていた。

「佳代子にちょっかいだすと、猟銃でぶっ殺してやるからな」

 性に屈折した富吉は、なにかと警戒の目をむけてきた。酒の量がさらに多くなった。突然、コップ酒を好夫の顔に浴びせた。

「好夫、その目はなんだ。カカァのどこをみてる。尻などじろじろみるな」

「べつに見てないだろう」

「親爺のカカァを狙うとは、まっとうな人間じゃない。この野郎」

 富吉は、異常な神経と思えるほど、後妻を息子にとられると信じこんでいた。怒りの声を発し、土間まで逃げた好夫にむかって食器や囲炉裏の火箸まで投げつけた。

「そうよ、あんたの息子はいつもうちに色目をつかってるのよ」

 佳代子は時折り息子にちょっかいをだす素振りをし、富吉を激怒させた。富吉の病的な嫉妬心を利用しながら、佳代子は自分の立場を固めていったのだ。

 父親が狩に出かける回数も畑を耕す回数も極端に減ってきた。それでいて、仙丈岳で遭難事故が発生すると、きまって日当の(たか)りに出かけていった。

 しかし安易な事はいつまでも甘くつづかないもので、あるとき父親は捜索隊の二重遭難に巻き込まれて死んだ。補償金と保険金はすべて佳代子がもって家から出ていったのである。

 辻田の残した《偏屈な家系》という捨て台詞から、好夫はこうした(いさか)いの暗い過去をかえりみていた。好夫にすれば、忠告に名を借りた辻田の訪問は、不快で嫌な過去を思い出させる、ただ迷惑なものでしかなかった。

 好夫の視線が白い病棟に流れた。自殺を予告しにきた佐久間綾美は何階の病室にいるのだろうか。

 遭難現場で、あの女性を助けた選択はまちがっていたのだろうか。こうした自問をはじめた好夫は、ごく自然に酷寒の仙丈岳の救助活動を思い出していた。

 

               *

 

 雪で埋まった北沢峠の長衛荘(ちょうべいそう)についたのは、一二月二二日だった。達磨(だるま)ストーブの暖房がきいた一室が、無線機のおかれた救助隊本部になっていた。遅れて出動要請をうけた好夫は県警のレスキュー隊と合流した。好夫ならばきっとやってくれるはずだ、という大勢の期待をこめた目があつまってきた。

「今回の遭難は常連の写真家じゃ……」

 雪焼け顔の川島組合長がストーブのまえで手をもみながらいった。遭難者のもうひとりは助手だとおしえた。

「また黒沼か。あんなのは放っておけばいい」

 好夫は吐き棄てるようにいった。

「まあま、好夫の気持ちもわかるがの」

「なんど騒ぎを起こせば、気がすむんだ」

 黒沼武志は冬山、春山の仙丈岳で、これまで六度も遭難騒ぎをおこしている、とつけ加えた。過去にはほんとうに遭難かと疑いたくなることもあったはずだと怒ってみせた。

 黒沼武志はきっと捜索費用さえ払えばよいと思っているのだろう。当初から、救助依頼を念頭においた撮影活動かもしれないのだ。

 遭難騒ぎのたびに、同行した助手は恐怖心から、もう懲り懲りだと、黒沼武志のもとを去っていく。都度、助手が入れ替わっている。

 山岳登山の技術がない新人助手が死んで、黒沼が助かったという事例が過去に二度もあった。雪峰で体力を酷使された助手は、救助隊がついたとき、もはや瀕死状態で、収容される途中で生命がつきた。こんな事例が数年前にもあったのだ。

 救助された黒沼武志は、多数の記者に取り囲まれ、このたびの山岳遭難はある意昧でやむを得なかった、今回の写真撮影は死を恐れない芸術活動だった、と正当性を得意げな口調で主張していた。記者から助手の死への責任を問われると、自分の失策で助手を死に追いやった、慚愧の気持ちは拭えない、家族に深く謝罪したいと口ではいう。見るからに、それはつけたしの態度だった。

 救助後の黒沼をみるほどに、好夫の黒沼嫌いはますます強まった。

「奴のレスキューなら、お断わりだ。有名な山岳写真家だろうが、山を甘くみてる。川島さんが電話で先に、遭難者は黒沼だといってくれれば、おれは来なかった。帰る」

「なあ、好夫。遭難した助手は登山歴のすくない女じゃ。行ってやってくれ。見殺しにはできん」

「黒沼のことだ。女連れなら、遭難場所は単純な稜線だろう」

「ところが、どう迷ったのか、よりによって仙丈岳南東の絶壁に入り込んでる」

「えっ、ばかな。あそこは魔の絶壁だ。いまは真冬なんだ」

「ここは好夫しかおらん。わしはふだん病院の事務長から、焼却炉を担当する好夫をあまりレスキューに使わんでくれ、病院の汚物が()まってしかたない、と釘をさされてる。しかし、真冬の氷壁となると、好夫しかおらんのじゃ」

「川島さん、おれを死ぬ目に遭わせる気か。勝手に降りてこいと、無線でいってやればいいんだ。冗談じゃない」

 好夫の語気は強かった。

「ここ一日半の交信で、相手のバッテリーが切れたようじゃ。黒沼だとおもえば腹も立つじゃろうが……、町長はぜったい写真家を救助しろというし。な、たのむ。サポートは五人つけるから」

「町長の顔を立てて、レスキュー隊に二重遭難しろというのか、川島さんは」

「二重遭難しろ、とまで言っとらん。しかしな、有名な写真家を見殺しにするな、それがお偉方の意見だ。いつもながら」

「わかった。いまから登る。夕暮まで首根っ子に取りついておけば、一瞬の晴れ間があればあれば、現場の断崖にたどりつける」

「それは無茶じゃ。晴れるまで、ここで待機しておればいい」

 写真家の捜索活動はこのところの悪天候で、手が付けられていないようだ。その割りには小屋のなかに猟師が多い。ここで待機しておくだけでも日当がもらえる、日数が長引いたほうが実入りがよい、とあからさまな(たか)り根性の猟師がいる。

 集り根性はある意味で亡き父親の姿でもあった。そんな猟師たちをみるたびに、好夫は苛立ちと嫌悪感をおぼえた。

「川島さん、おれを日当稼ぎの連中と一緒にしないでほしい。もたもたしたくないんだ。それに病院には廃棄物が山積みだし、仕事を中途半端に残してきた。救助の決着を早くつけ、その仕事に取りかかる必要があるんだ」

 完全装備の好夫は赤いザイルをかついだ。

「わしら五人はこの天気じゃあ、登らんぞ。二重遭難の危険をおかしたくない。生命あっての人生じゃ」

「独りでもいいさ。任された以上は、おれはおれのやり方でやる」

 好夫は雪で埋まった山小屋をでた。急勾配の斜面を登る。荒々しい呼吸とともに吐く息が白くのびていく。かれは稜線から張り出す雪庇(せっぴ)には十二分に警戒し、慎重かつ大胆に登攀していった。

 高度を増すほどに、雪煙がたかく舞いあがる。突風が吹くたびに、地吹雪で視界が消えた。渦巻く雪がまるで白い炎のようにみえた。そこにはなにかしら人生に影響するような、不気味なものが感じられた。

 かれはカンジキをはいた脚を強引に進めた。急峻な尾根の取りつきで烈風が野獣のように吠えはじめた。日没とともにツェルトザック(非常用の簡易テント)を頭からかぶり、ビバークに入った。一本のロウソクで、なかの温度があがる。簡便な行動食で食をつないだ。寒気でトランシーバーの調子がおかしくなり、孤立状態に陥った。

 翌朝、降る雪が小やみ状態になった。突風だけはなおも稜線を駆け巡り、地吹雪を舞いあげる。こんな状態で首尾よく遭難者を発見したところで、収容するのはむずかしい。まして、独りの力ではどうしようもないはずだ。

 しかしながら、ツェルトザックをたたんだ好夫は捜索への登攀を開始した。山の天候はあいかわらず不機嫌だった。

 切り立った南東の断崖に入った。眼下はまさに絶壁。アイゼンの一二本爪で踏み込む足もとは、じつに不安定で危なっかしい。左右はともに死が手招きをする空間だった。そのうえ、この辺り一帯は雪崩の巣である。かれは用心深くなおも登攀をつづけた。

 岩陰をまわりこむと、アイゼンの爪がなにかにからまった。身体のバランスが崩れた。ピッケルでかろうじて滑落をくいとめたけれど、危うく谷底に転落するところであった。氷壁から足下をのぞきこむと、背筋がぞっとした。数百メートルの断崖だった。

 蹴つまずいたのは凍りついたカメラの三脚だった。そこから岩の突起の縁をまわりこむと、烈風で(まく)れて(はた)めくテントが発見できた。

 テント布が激しい音をたてている。遭難者が外から丸見えの、吹きさらしの寝袋に入っていた。ふたりは死におびえた表情で横たわっている。こうした状態で三日間も生きていたこと自体が奇跡だと思えた。

 フードをかぶった黒沼武志の顔は、狡猾な老人のように雪で眉を白くさせていた。凍死寸前の状態で呼吸すら弱々しい。女のほうはなんとか動けそうな感じだった。

 遭難者ふたりを救助するとなると、自分もやられてしまう。好夫には遭難者を発見できたという感動など微塵もなかった。むしろ、発見したがゆえの煩わしさを感じた。

(黒沼は自分の技量を超え、ここまで登ってきたんだ。こんな奴らの過失のために、おれは死ねるか)

 好夫はそんな思いでふたりの顔をじっと見つめていた。

「救助隊のかたですか。救けてください」

 女の声はおもいのほかしっかりしていた。

「ふたりを一度に降ろすことはできない」

「だったら、せめて黒沼さんを救けてあげてください」

 彼女の目は真剣だった。写真家のためならば、自分は死んでもいい、犠牲になってもいいという強い愛情が感じられた。

 好夫は無言でふたりに背をむけた。来たルートヘとひきかえす。

「見殺しにしないで」

 彼女の悲壮な声が好夫の脚をとめさせた。

「場所を確認できたから、レスキュー隊の本隊をよんでくる。ここから動くな。うごいて行方不明になれば死ぬぞ」

「せめて、せめて写真家の黒沼さんを助けてあげて。おねがい」

 こんな厳しい遭難場所で、これほどまでに訴える力を残していたのかと、好夫はおどろきの目で、彼女の顔を凝視した。

「ぼくを連れて下りてくれ」

 黒沼がシュラフ・ザックから心持ち上半身を持ち上げてみせた。体力と気力が残っていると見せたかったのだろう。しかし、それは逆証明で、立ち上がることすら不可能だった。

「連れて下りるなら、助手のほうだ。あんたは無理だ。ひどい凍傷だし、この状態で下山すれば、途中で死ぬ。遭難場所がはっきりしたから、ヘリを飛ばしてもらう。あすはきっと天気が回復してくる、ヘリは飛べる。一昼夜がんばってくれ」

 天候の回復まではあと二日間ほどかかるはずだ。晴れたところで、真冬の山岳は気流の乱れで、ヘリコプターが飛べるかどうかすら判らない。

「黒沼さんを連れて下りてあげてください。わたしの生命は必要ないんです」

 女の目には覚悟をきめた光りがあった。ひとり残って死んでもいいと、彼女はくりかえす。

(写真家の黒沼を救助し、ここに女を残せばどうなるのだろうか)

 好夫は苦慮した。……女のほうが一般的に皮下脂肪の厚さからして生き存える。しかし、それもていど問題だ。女は憔悴している。酷寒の雪峰ではあと一日か、せいぜい二日の体力だろう。一両日ちゅうにヘリコプターすら期待できない気象条件の下で、この場に残したら、まず死ぬ。

(写真家か、助手か。どちらかが、死ななければならないのだ)

 かれは自分の判断で人間の生命を左右するこわさを感じた。逃げだしたい心境だった。

「黒沼さん、あんたはここに残ってもらう。それしか、生き存える道はない」

「体力が残ってる綾美が、ここに留まるといってるのに……。それなのに、ぼくを残すのか」

「決めるのはおれだ」

「わたしは残ります。おねがいです。黒沼さんを助けてあげて」

 好夫はふたりの顔を交互にみた。如何ともしがたい悶々とした気持ちに陥った。

「助手だけはとりあえず先に下ろす。黒沼さん、あんたはここで待っててもらいたい」

 好夫の決断で、黒沼武志は緊張が切れたように無言になった。断崖絶壁に残す黒沼のために、好夫はすこしでも生命維持の方策を施す必要があった。本来ならば、烈風ではためくテントを岩陰に移し、張りなおすべきだろう。しかし、黒沼を別のところに移す労力をかけていたならば、自分の体力まで消耗してしまう。ついては三人とも死んでしまう。

 好夫はハーケンを二本打ち込んだ。D型カナビナをかける。そこにザイルを通し、支柱と結んだ。これで強風にはすこし耐えられるだろう。

 しかし、雪崩に襲われたならば、ひとたまりもないはずだ。陽射しが出て雪が弛めば、その可能性が高い場所である。だが、如何ともしがたい……。これ以上は手の施しようがない。好夫は、寝袋ごと黒沼をかかえあげるとテントの奥へと収容した。

「おねがいだ。置いていかないでくれ。後生だ、助けてくれ。死にたくない」

 黒沼の目から涙がながれた。頬の涙はすぐに氷結する。黒沼の泣き顔をみたとき、好夫は哀れに感じた。自分が人殺しのような錯覚にすら陥った。

「あんたはもう動けないからだなんだ。ここに残ってもらう。一度にふたりを背負って降ろすのは不可能だ。できない相談なんだ」

 写真家は絶望感からか、目を閉じた。

 好夫はテントから出てきた。そして、凍る寝袋から彼女のからだを引きだし、背負った。

「降ろして。わたし残ります」             ’

 彼女の訴えを無視したかれは、おぶい紐のようにザイルでふたりの身体を結んだ。彼女はつよく反発した。ザックの一つは彼女の背中に、もう一つは好夫のからだのまえに吊るした。ザックで、足下が見えにくかった。

「黒沼さんを救けてあげて」

 彼女の訴えに、かれはもはや耳を傾けなかった。垂直に切り立つ氷壁に取りついた。岩の突起にザイルを引っかけてから、からだを確保し、徐々に降りていく。足場がかたまると、好夫はザイルの一方を引っ張ってロープをとりもどす。窮屈な格好がつづくので、足の筋肉が痛む。

 烈風がふたりの身体を揺らす。

「なぜ、わたしを助けるの。あの人が死んだら、わたしぜったい自殺してあげる。ねえ、おねがい。黒沼さんを助けてあげて」

 背中の彼女が暴れるので、からだのバランスが崩れる。つねに転落の恐怖と向き合っていた。厳然とそそり立つ雪と岩の断崖を慎重にまわりこんでいく。一歩でも足場を踏み外すと、ふたりして数百メートル転落してしまう。何としてでも通過しなければならない巨大な絶壁であった。

 ふたり分の体重をかけすぎた両足の指が、登山靴のなかで、腫れあがってきたようだ。凍傷にかかったらしい。ずきずきと痛む。稜線からの突風に、からだがあおられた。雪が舞う斜面で、好夫はかがみこむ。風が弱まると、また歩きはじめた。気持ちは先へさきへといくか、凍傷になりかけた足が期待を裏切る。

 山岳に夜の気配がやってきた。強引なことをすれば()られてしまう。

「ビバークする」

 かれは背中から彼女を降ろした。からだの動きがなくなると途端に、全身が凍りつき、寒さでがたがた震えた。

 ザックから取りだしたツェルトザックを、ふたりして頭からかぶった。好夫は背中でテント布を押し拡げ、胸元にわずかの空間をつくった。火を起こし、非常食の赤飯を温めた。火が燃えている光景は少なからず安堵を与えてくれた。

 岩場で打撲した左腕の傷が痛む。袖を巻くってみると凝血していた。

 翌朝も彼女を背負った。何度か暴れた。稜線の強風は雪を吹き飛ばす。地肌が露出する。そのさきは深雪だった。ハイマツの枝がふいにアイゼンの爪を引っかけた。ふたりして雪の斜面に頭を突っ込むように倒れた。

 一度で起きあがるのは困難だった。かれはからだを結ぶザイルをほどいてから立ち上がった。背負いなおす。

 こうした一つひとつの動作は緩慢で、おぶい紐を結ぶにも五、六分はかかった。

 彼女はときおり、死んであげる、愛しているひとのそばで死なせて、と叫んでいた。一〇〇メートル進むのに、三〇分以上もかかる。残された体力との闘いでもあった。

 雲のなかで視界は開けたり、消えたりしていた。疲労困憊から好夫の意識がぼーっとしてきた。

(この女は自分にとってなんなのだ。死にたがる女を救助して何になる。気狂いざたの救助だ)

 好夫は自分の行動を嘲笑っていた。

 夕暮まえ、眼下に山小屋が見えてきた。

 

                  *

 

 救助された佐久間綾美は、好夫が勤める病院に収容された。

 それから数か月が経った。綾美の退院はもう間近らしい。彼女は単なる外傷だけでなく、併発した内臓の疾病から入院が長引いていたと、好夫はそれとなく女事務員から聞きだしていた。

 綾美はいま病棟の窓からどんな想いで、日々に変化する、残雪の仙丈岳を眺めているのだろう。彼女は本気で、山岳写真家のあとを追うつもりなのだろうか。

 焼却炉の仕事の手を休めるたびに、かれはあれこれと気にとめていた。綾美の自殺予告はことのほか好夫の心に影響を与えていた。

 雲行きが怪しくなってきた。かれは焼却待ちのごみの山に青いシートをかけた。一段と薄暗くなった。大粒の雨が音をたてながら、高温の焼却炉にたたきつけはじめた。白い蒸気をあげる焼却炉だったが、雨に影響されることもなく高い炉内温度を維持する。

 山の天候に左右される麓だけに、ひと降りすると、すかっとした青い空にもどった。

 シートの覆いを取り外した好夫は、胸ポケットから煙草を取りだした。こちらのほうは迂闊にも濡れていた。病院の自販機に買いにいくのも億劫だったし、炉で乾かす。まずい味で、結局は棄てた。

 きょうの燃焼作業が一通り終わると、かれは焼却炉の部分補修をはじめた。付属品とか、新品のノズルが欲しい。だが、五十嵐事務長に言いにいくのが煩わしい。使用済み部品を手入れして再利用することに決めた。

「炎と付き合いをはじめてから、もう何年間になるのだろう……?」

 好夫はふとつぶやいた。

 定時制高校を卒業するまえ、東京都の試験を受けた。合格した。卒業と同時に、足立清掃工場に設備管理の担当として採用されたのである。それが炎との出会いであった。

(青春のひとこまかな、清掃工場が……。炎を扱う、あの職種を選択してなければ、こうして病院の焼却炉を取り扱うこともなかったはずだ)

 好夫の脳裏には時折り、赤白で屹立する足立清掃工場の煙突がよみがえった。一三〇メートルの煙突は大都会のなかでも、ひときわ威厳に満ちていた。

 外目には一本の煙突に見えるが、直径二・五メートルの巨大な煙突が三本内蔵されている。

 一万坪を越える敷地内には、巨大な鉄筋コンクリート造りの工場があった。わずか九七人で動かす、近代化された設備だった。

 日中は、青いボディの収拾車が、緑の植樹が多い構内へと頻繁に出入りしていた。一台が平均して一・二トン、つまり三〇〇軒分を足立区内から集めてくる。

 集積された紙屑、生ごみ、木くず、ぼろなどの可燃ごみを燃やす工場だった。生ごみは燃やすことで、体積が二〇分の一に減少する。大量の生ごみをそのまま東京湾に埋め立てていると、最終処分場がすぐに一杯になってしまう。また、生ごみは腐敗臭が強い。その臭いをも燃してしまう。と同時に、害虫や臭いの発生を防ぎ、衛生的に処理している清掃工場だった。

 この程度の予備知識をもって、好夫は入所式に臨んだ。勤務する職員は電気科、機械科を卒業したものが大半らしい。

「過去は悪臭、ほこり、暑さ、騒音で、作業環境は悪かった。これは事実です。いまは自動化の進んだ工場です。屋内全体が空調で冷やされているから、熱射病にかかる怖れはない。それに、ここには電気集じん機とか、ろ過式集じん器による飛灰(ひばい)処理装置があるので、空気はきれいだし、一般の工場に比べてみても、快適ともいえる職場環境です」

 壇上の所長の訓辞を聞くほどに、生ごみだらけの淀んだ空気の環境という先入観が好夫の脳裏からごく自然に消えていった。

 二五〇トン/二四Hの炉が二基ある。一日の焼却能力からみると、四四〇トンである。

 焼却設備は高度化し、長期に安定し、連続運転できるようにしている。一日二四時間稼働し、正月も炉を止めないで頑張っている。

 両隣の同期入所のふたりが、正月返上か、嫌だな、とつぶやいていた。

 これだけ巨大な焼却炉や大掛りな設備を持ちながらも、音や臭いはいっさい外部に出さない工場である。清掃工場の仕事は都会人の生活に不可欠なものだし、やりがいと志を高くもってほしい、と所長は訓示を締めくくった。

 スーツ姿の所長から課長へと実務説明が移った。新品の作業服とヘルメット姿となった好夫たちは現場で説明を受けた。

 工場の建物からいったん屋外に出ると、大小のごみ収拾車が途絶えることなく構内に入ってくる光景があった。好夫にすれば、収拾車の出入りの頻度の多さから、大都会の職場に就職したんだという実感がつかめた。

 収拾車はトラック・スケールに停まって積載量を計る。青い車の運転手がそれとなく真新しい制服姿のこちらをみている。

 収拾車が建物の内部に入ると、プラットホームのごみ投入扉が開けられる。生ごみが巨大なバンカーに投下されていく。

 課長の説明によると、ごみバンカーは燃焼能力の三日分ほどを収容し、容量が一万㎥あるという。見た目にはちょうど百メートルプールくらいだった。長さ七三メートル、幅一五・四メートル、深さ十二・八メートルと、好夫は実寸法をノートに書き取った。

「ここに落ちたら、蟻地獄だぞ。何万個というビニール袋に吸い込まれてからだが沈んでしまい、窒息死だ。出てこられない」

 細心の注意を払うように、と課長はつけ加えた。

 臭いが外部に流れないように、バンカー室は負圧だった。悪臭の空気はファンで吸収したうえ、焼却炉の高温部分で燃やして脱臭しているという。

 二五〇トンの焼却炉の側で、課長からより細かな説明を受ける一日が終わった。

「新米のころ、上司からよく怒鳴られたものだな。いまにして思えば、鬼の係長がなつかしい」

 好夫はつぶやいた。炉を扱う基本をびっしりたたき込まれたのだ。

 上司の猪俣淳平(いのまたじゅんぺい)は運転係の係長として、一班十三名を束ねていた。工場には四人の係長がいるが、好夫がついた猪俣が最も厳しく、かげでは《鬼係》と呼ばれていた。

 ある日、防塵マスクに防塵服姿の好夫が、ホッパーまわりの点検修理をする作業員からの依頼で工具を運んでいた。防塵服は密閉で、背中や胸元の毛穴がこれ以上開かないだろうと思うほど、大粒の汗が吹きだす。活性炭マスクは慣れないせいか、妙に息苦しい。

 バンカーの縁に沿ってホッパーへと脚を運んでいた。好夫は横目で、バンカーのなかを覗き込んだ。ごみは地上五階建てビルくらいの高さまで積み上げられていた。落ちたら地獄だ、という課長のことばが頭を横切った。

「ばかやろう。死ぬ気か。バケットの下に入るな」

 拡声器からの怒鳴り声がきこえた。総ガラス張りの監視室の方角を見上げると、マイクを手にした猪俣係長がにらみつけていた。こっちに上がってこいと、険しい顔で手招きした。

 猪俣は上背があり肩幅も広く、筋肉質の体躯だった。どちらかといえば昔風の職人気質で、礼儀正しい挨拶がなければ、安全靴で尻を蹴っ飛ばすタイプであった。仕事の失敗があると、頭ごなしにどやしつけられた。かといって意地悪い人間かというとそうでなく、むしろ情とか、思いやりがあった。

(かなり怒られるな)

 好夫は鉄製の階段を上がっていく。重い安全靴がまだ板についていなかった。クレーン運転室を兼ねた監視室までやってきた。

「おまえはそんなに早く死にたいか。ごみ袋は見た目に軽い。しかしだ、一度にバケットの生ごみ三トンを被さってみろ。圧迫死だ」

 好夫にすれば、バケットには充分注意していたし、頭上近くなれば避ける構えだった。

「バケットに振られてホッパーにでも巻き込まれたら、それで一巻の終わりだ。焼け死ぬんだ。いいか、ここは火葬場じゃない。清掃工場だ。よくわきまえろ」

 と怒鳴り散らす。こちらの言い訳などきく態度は微塵もなかった。

 ここは無言が一番だと、好夫はただ黙っていた。

「班長として、預かった新米が死んだとなると、わしはクビだ。クビがこわくていってるんじゃない。いいか、人間は一度死んだら生き返らないんだぞ、赤松。それを言いたいんだ。からだで覚えさせたいけどな、しかし、高圧電流にふれさせて死を覚えさせるわけにもいかないんだ。細心の注意を持たないと、黒焦げになるんだぞ」

 生ごみを高温で燃やす工場には、発生する熱エネルギーで発電機の蒸気タービンをまわす装置がある。できた電力を東京電力に売っている。年間で八四九万KW、億単位の収入がある。

 それらの電気ケーブルに一瞬でも触れたらどうなるか、黒焦げの死体だ。高温の炉に転落すれば、死体が残ればまだいい、蒸発してしまうんだ、とクドクド語る。

「赤松、おまえは精悍な顔つきだ、たしかに誰よりも敏捷だ。それは認めてやる。しかしな、だからといって死神に狙われたら、しまいなんだぞ。わしを悲しませるな」

 はい、注意します、と神妙な顔で応えた。

 翌日、好夫は不運にも猪俣の安全靴と履き違え、頭ごなしに怒鳴られた。謝っても、一度スパークすると猪俣の雷は鳴りやまなかった。

 防塵服を洗っていると、後から尻を蹴飛ばされた。

「何してる?」

 洗濯ですといい、好夫は振りむいた。

「ばかやろう。一回ずつ防塵服は棄てろ。炉で燃やすんだ」

 三〇分も使わなかったので、勿体ないと思い……。言い訳すれば、猪俣は興奮してきて、耳元で太鼓をきくような大声となった。

「なに言ってるんだ。防塵服にはダイオキシンがついてるんだ。それに素材は紙だ。洗って干したら、繊維の目がつぶれ、ぼろぼろだろう。繊維の破れ目から、有害物質が入ってくるんだ。からだに付着してみろ、人体が危険にさらされるんだぞ」

 すみません。

「洗濯した水はどこに棄てる気だった?」

 排水溝に。

「おまえはなに考えてるんだ。ダイオキシンで汚れた水を流すつもりか。住民の環境に悪影響を与えるとわからないのか。住民の目がとどかないところだから、何してもいいという根性は腐ってるんだ。プロの仕事じゃない」

 別に悪意じゃなかった……。もう一度言い訳をしたことから、状況はねじれて悪いほうにむかってしまった。

「すると、無知か、バカか。どちらかだ。この際だ、環境関係でもう一つつけ加えておく。毎日のパイプの点検は怠るな。亀裂を見逃し、破れれば大変だ。そうなると、何が飛びだす?」

 ガス、水蒸気、亜硫酸ガス、窒素……。

「その通りだ。いいか、廃液が流れだし、川を汚したり、近隣住民に被害でも及ぼしたら、清掃工場は操業停止に追い込まれるんだ。おまえの首が飛んだくらいじゃすまないんだ」

 猪俣はまるでこちらが失策したような口振りだった。

「注意します」

「まて、なにを注意するんだ」

 猪俣の質問の意味がわからず、好夫はしばらく黙って考えていた。……工場の内部には、数多くの大蛇のような配管が駆け巡る。廃液、汚水、排ガス、集埃など多種のパイプがあった。

 蒸気パイプは近くの足立区スイムスポーツセンター、老人会館、東伊興(ひがしいこう)児童館へ一三五度の湯を送っている。

「一つひとつのパイプを、針穴をさがす気持ちで点検します」

「わかってるじゃないか。そのくらいのことはすぐ答えろ。時間の無駄だ。時間は人生最大の財産だぞ」

 新人の一年間は何かと猪俣から怒られながら、一つひとつの仕事を覚えていった。

 好夫は独立という贅沢を得たくて、所帯持ちが多い職員専用住宅からの引越しをきめた。自転車で通える、数多くの寺に囲まれた伊興町に住まいをもとめ、木造アパートを借りた。二階の窓から古墳が見える環境は気に入った。となりの邸宅からは中学生らしい娘が弾くピアノ練習曲とか、『エリーゼのために』とか、『月光の曲』とかの軽いクラシック曲がながれてきた。それだけでも心地よい住まいだった。

 夜勤明けでも、好夫はクレーン免許の習得のための勉強をはじめた。これまでは休日となると、嵐でも列車が動いているかぎり山に出かけていたが、多少それが犠牲になった。

 クレーンの免許が取れると、四組三交替制のローテーションのなかに組み込まれた。

 クレーン操作室は総ガラス張りで、真下が巨大なバンカーだった。運転席につくと、からだは常に空中に浮いた状態であった。

 腕組む《鬼係》の猪俣が背後に立っているだけでも、好夫は緊張した。うまく出来るか否か、と全身に流れる汗を感じた。

 三・六㎥のバケットは十二本の爪で、鬼の鋭い牙にもみえる。クレーンの速度は毎分七〇メートルで動く。バンカーから生ごみをひとつかみすると、重さが瞬時に三・二六トンとデジタル表示された。

「ばかやろう。もっと状況をみろ。ただ上から取っていくだけじゃダメだ。バンカーの底は水分の多いごみなんだぞ。炉で燃やす側の、人間の気持ちになれ」

 猪俣が怒鳴る。湿った生ごみを大量に入れると、非常に燃えにくいんだ、下部の水分の多いごみと、上部の乾いたゴミとをかき混ぜ、燃焼をよくするんだ、と(かん)を入れず叱責する。

「ただ上下をかき混ぜれば、()いってもんじやないんだ。ごみ質を考えろ。燃えやすい物と燃えにくいものを、よくかき混ぜるんだ」

 好夫からすれば、一つひとつのごみ袋に何が入っているかわからない。ベテランの猪俣の目で見ると、紙屑、生ごみ、木屑、ボロの比率がわかるらしい。

「おい。水分の多いごみを三トンもホッパーに入れてどうする。バケットひとつかみ、二・五トンが基準だ。多すぎるんだ」

 一挙手一投足ごとに小言をいわれた。

 生ごみをホッパーに投入すると、階段式ストーカー(火格子)がそれを受ける。ストーカーはちょうど下りのエスカレーターと同じで、炉にむかって生ごみをゆっくり運んでいく。

 ストーカーの真下から燃焼用空気が送り込まれる、斜め上の助熱バーナーからは灯油が噴射される。火力が増す。

 生ごみは二時間かけて蒸発、乾燥、さらに燃焼へと連続処理されて、最後は灰となる。

「メーキングーポイントを考えろ。生ごみの投入量が少ないと、灰が枯れてしまうんだ」

 枯れるとは、本来ならば約二時間かけて燃焼するところ、早く燃えすぎてしまうことだ。

 クレーン担当になってからの一週間は、じつに神経をすり減らす日々だった。

 交替制から、こんどは焼却炉の担当となった。中央制御室に入った好夫は、温度のデジタル表示や数多くの監視モニターに目を凝らす。燃焼温度は平均して八五〇度から九五〇度だった。

 塩化水素は四三〇ppm。

 窒素酸化物は五五から六〇ppm。

 コンピューターが自動計算する。窒素酸化物にたいしては、炉内にアンモニア、尿素水を噴き込んで分解させる。

 好夫の目はそれらの投入量や装置の稼働状況をくまなくチェックしていた。

「おまえは、いまの仕事に満足してるのか」

 となりの席から、職歴の長い四十男が声をかけてきた。

「七割がた、満足しています」

 好夫は応えた。

「残る三割は?」

「わかりません」

 その実、三割の答えをもっていた。それは人間関係の煩わしさだった。

「いままで好きになった女はいるか?」

「取り立てて……」

 好夫は自身でも固すぎると思うが、勤務ちゅうの私語、雑談が嫌いだった。そんな気持ちが顔に表われるらしい。

「人生、杓子定規に生きてもおもしろくないだろう。すこし気を抜いて仕事をしろよ」

 この班で最も年下だけに、こういう場合は何と応えたらいいのだろうか。好夫は沈黙を決め込んでいた。

 中央制御室のなかで、四人が折々、些細な出来事や、競馬の予想や、昨晩の飲屋女の容姿などを話題にしていた。女に惚れられて応えてやらなければ、男として罪悪だと自慢げに語るものもいる。

(仕事ちゅう気を抜く連中は好きじゃない)

 好夫は心のなかで、反発していた。この連中から誘われても、決して呑みに出かけなかった。

「赤松はなぜ山登りに夢中になる……? 重い荷を背負って坂道を上って何が面白いのかな。それとも山が恋人代わりか」

「山は魔物ですよ」

「魔物の女もいいもんだ」

「現場をみてきます」

 好夫は逃げるように焼却炉へとむかった。

 建物通路の途中にはガラス張りの科学分析室があった。実験器具が並ぶなかに、白衣姿の三五歳の(さかき)正雄がいた。

 榊は足立清掃工場と都庁との転勤をくり返してきた人物である。昨年ふたたび足立にもどってきた。榊は好夫がおなじ長野県出身だとわかると、退社時になにかと誘ってくれて気前よくおごってくれる。好夫は親しみのある目をむけた。ふたりの視線が合うと、軽く手をあげた榊だが、すぐ試験管に目がもどった。化学反応の分秒(じかん)を争う分析の最中だろう。

 好夫は、通路が突き当たったところの、厚い鉄扉を開けた。大型の焼却炉の側まで足を運んだ。燃える轟音は心地よく心にひびいた。

 好夫は耐火ガラスの覗き穴から、奥の炎を観た。こうして炎を観察する都度、好夫は血液に躍動感をおぼえた。赤々と血が騒ぐのがわかった。階段式ストーカーに乗った燃焼中の生ごみはまるで溶岩のようだ。黄色、赤、さらには白っぽい炎と炎が解けあうように絡まっている。燃え殻がストーカーの動きで少しずつ移動していく。

 七〇〇度は黄色。九〇〇度は赤銅色。白色は一〇〇〇度近くなる。

「まだ色温度計を使ってるのか」

 といわれて振りむいた。背後に立つ猪俣の目は、こちらを未熟者扱いしていた。

「自分の目と見比べてるんです」

「研究熱心か、言い訳か。まあ、詮索は止めておこう。正月はどうする?」

「出勤でも()いです。田舎に親兄弟がいるわけじゃないし。正月は所帯持ち優先で結構です」

 好夫は内心、正月休みの混雑した山岳よりも静かな山での登攀を望んでいた。

「一人っ子か」

「上には兄がふたりいたそうです。でも、小学生のころ近くの川で舟遊びをしていて転覆したとか、溺れ死んだそうです。記憶はないけど」

「そうか。だったら、正月休みは一月中旬でもいいな」

「はい、それでいいです」

「登山か」

「いちおう計画しています」

 厳冬期だけに、谷川岳の稜線縦走か、もしくは一の倉の氷壁登攀を考えていた。自分の極限に挑戦するつもりだった。

「どうだ。一度わしを山に連れていかないか」

「いきなり真冬からですか……」

「具合が悪いか。真冬とはいえ、しろうとを一人くらい連れていけなくて、登山のエキスパートとはいえないぞ」

「きっと雪峰(ゆき)で苦労して、一度で山が嫌いになりますよ」

 好夫の目は拒絶していた。

「雪が積もってない山だってあるだろう。山から下りてきて、一晩温泉にゆっくりつかって帰ってくる。これもいいな」

「この時期、どこの山を考えられてるんですか? 係長は。箱根の山登りとか」

 好夫はややあなどった口調でいった。

「まあ、まかせる。どこでもいい」

 猪俣は真面目な顔だった。《鬼係》とはいえ、ふだん親身に仕事をおしえてくれる係長だけに、どこか断れず、正月から厄介な荷を背負わされる気分だった。

「……比較的雪がすくない、八ヶ岳にしますか。初心者向け冬山コースもあるし。山麓には温泉がありますから」

 四日間の八ヶ岳登山。好夫は、ずぶのしろうとをパートナーにしながらも、難なくこなした。猪俣は帰路の車中で、山は魅力的だ、いい汗を流せた、最高の正月休みだったという。職場にもどってきても、休憩ちゅうは誰かれかまわず山を語っていた。

 こんどは地図と磁石の使い方をおしえろとか、三つ峠の岩登りに連れていけとか、猪俣係長から何かとつきまとわれた。上司との登山は肩が凝るが、月に二度は同行した。ただ、山に入って感心することがひとつあった。

「赤松は、山の師匠だからな」

 猪俣は積極的に雑務や食事を引き受けていた。その面では律儀な人物だった。

 猪俣は所内で山岳部を作った。

 紅葉と初冠雪の奥穂高をバックに撮った写真を通路掲示板に張りだす。翌年には尾瀬など情感ある風景写真で、所内の数少ない女子事務員を誘い込む。猪俣はつねに部員を募っていた。好夫は山岳部の発足当初から、単独行が好みだといい、入会を拒んでいた。ときには猪俣と二人だけで技術指導を兼ねて登ることはあったけれども。

「赤松が入ると、わしの技量がみすぼらしくみえる。その方がいいか」

 猪俣係長は笑っていた。

 

                       *

 

 病院の本館の方角から、女事務員がバラ園の脇を抜けて焼却炉のそばまでやってきた。

 彼女は冷やかしの口調で、佐久間綾美の退院日があしたになったのよ、とおしえた。淋しいでしょ、と余計なことまでつけ加えた。

 炉の部品を取り替える好夫は、別に、と曖昧に聞きながす態度をとった。

「本当かしら?」

 彼女はからかいと疑いの目をむけてきた。

「用件はなんだ?」

「事務長からの伝言よ。食堂棟の残飯の生ごみが()まってるし、野犬(いぬ)やカラスが集まってくるから、早く処理しなさいだって」

「べつに遊んでるわけじゃない。それに、きょうは雨が降ったし。そういってくれ」

 好夫は不快な目でいった。

「わたしの口からは言えないわよ、そんなことまで。自分で事務長に話したら」

「別にいいさ。いまさら機嫌をとる気もないし。言われたことはすぐやっておく」

「伝えたわよ。ねえ、退院のプレゼントは決まっているの? お花?」

 事務員は、まだ咲く花が少ないバラ園のほうを一瞥した。かれは無視した態度をとった。

 彼女はやがて雨上りの水溜まりを避ける足取りで帰っていった。

 好夫は食堂棟まで往って引き取ってきた。そして、臨床検査部のある棟のごみ置場にむかった。忍びよる野犬が三匹いた。食べられもしないガーゼ、輸血セット、手袋、アルコール綿、尿コップなどの入った箱などが破られていた。あたり一帯に散乱する。犬を追い払った好夫は、それらを拾い集めてから炉の側へと運んだ。

 おびただしい数のカラスが集まっていた。子宮から掻爬(そうは)された胎児らしき生体が、カラスの嘴でついばまれていた。かれは石を投げた。黒一色の集団があわただしく飛び立つ。

 好夫は散乱した生体を集めると、焼却炉で優先して焼いた。遺骨は残らなかったけれど、灰の一部を丁寧に雑木林のなかに埋めてから、小さな石を墓代わりにした。

 好夫は手を合わせた。

 手空きの時間をみつけた好夫は、守衛所の警備員から佐久間綾美の病室を聞きだした。二号病棟の五階へと脚を運んだ。

 二人部屋のベッド脇で、パジャマ姿の綾美が退院準備の荷造りをしていた。

「あした退院だってな。さっき聞いたんだ」

「あら、ご丁寧に最期のお別れにきたの。あなたに、あげる遺品はないわよ。あるとすれば、憎しみのことばだけ」

 綾美の目には憤りの光りがはっきり浮かんでいた。彼女の態度からすると、写真家の後をどこまでも追う気らしい。黒沼を真剣に愛していたんだと、あらためて感じさせられた。

「なあ、沢筋の雪が解けてきたから、写真家の遺体を探しにいかないか。死ぬのはそれからでもいいだろう」

 好夫は腕を組み、病室のドアに寄りかかっていた。

「自殺されるのがこわくて、そんなことを言いだしたのね。ぜったい自殺するから」

 彼女が強い視線をむけた。

 好夫の脳裏には、《鬼係》の言葉がよみがえってきた。……人間は一度死んだら生き返らない、からだで覚えさせたい、しかしな、高圧電流にふれさせて覚えさせるわけにはいかないんだ。好夫は綾美に、猪俣係長のように説明できない自分が歯痒かった。

「死に急ぐ人間を、べつに引き止めたりはしないさ」

「だったら、なぜそんなことをいいだすの? おかしいわよ」

 綾美が小物を整理する手を止めた。

「これまで一度だって、おれは遭難者の遺体をさがしに山へ入ったことはなかった。レスキューだけだ。遺体には意味がないとおもっていたから。焼いて骨にして地中に埋めようが、鳥や動物に食われようがおなじことだと考えてた。だけど、あんたが魂を言いだしたから……」

「それで?」

「うまく説明できないけど、死人に魂があるかどうか、確かめたいとおもったんだ」

「変な口実」

 綾美の目が疑っていた。

「……。本音はあと三日間でも、あんたに生きてもらいたいとおもったんだ。拝み倒されたと理解してもらってもいい」

 好夫の胸のうちには、酷寒の極限状態の岩壁で、どちらを助けるか、どちらを死に追いやるか、という選択に迫られた、自分の苦しい立場をまったく語っていない未消化なものが長くつかえていた。一端でも、彼女に話しておきたかった。それには時間と話す場所が必要だった。

 しかし、内心はこの先わずか三日間で、当時の厳しい状況とか、心情とかを適確に表現できる自分だとは思えなかった。

「だったら三日間、長生きしてあげる。それっきりよ」

「それじゃあ、決まった。登山道具はおれのほうで準備しておくから。テントはあんたの分とおれの分と二張り持参する。もちろん、おれが背負うから」

「なぜ一張りじゃないの? 下心があるから?」

「男と一緒だと警戒されるとおもったんだ」

「救助されたとき、ふたりは一緒のテントだったでしょ」

「あれはビバークだ。まあ、そっちさえよければ、一張りにするよ。その分だけザイルと食料を余分に持てるし。あしたの朝、迎えにくるから」

 好夫には、三日間も休みをとればクビだと怒る事務長の顔が容易に想像できた。

 

                       

                  *

 

 北沢峠に入ったのは翌日の夕方であった。峠は西が仙丈岳、東が甲斐(かい)(こま)(たけ)という鞍部で、登山基地でもあった。テント場には学生パーティの彩り豊かな天幕が七張りほどあった。

 小型テントを張った好夫は、河原から手ごろな石を集めてきた。三方に囲んだ(かまど)を作り、簡便な調理をはじめた。

「独身とか、いったわね。ふだん自分で料理をつくるの?」

 赤い登山服姿の綾美が、干上がった流木のうえに腰を降ろした。軽登山靴の両足を斜めに投げだす。

「独り者の宿命さ。任せる人がいればやりたくない。料理は得意じゃないし」

 おでんの匂いが鼻孔を刺激してきた。

「なぜ結婚しないの?」

「まず家柄が悪い、男前は悪い、人の好き嫌いも強くて誉められたものじゃない。それでなくても、過疎がすすむ町では嫁不足だ。つまり、四悪だ」

「若い看護婦さんが大勢いるじゃないの。療養所を兼ねた大きな総合病院だから」

「白衣の連中とは関係ない。呑むかい?」

 好夫が平らな石のうえに缶ビールとワンカップをならべた。

「眠り薬にさせてもらうわ。おでんに日本酒とは風情があるわね」

 綾美がワンカップに手を伸ばす。

「退院したばかりだ。一気に呑まないほうがいい。むしろ、ビールのほうがいいんじゃないか」

「どうせ、死ぬ身上」

「そうだったな。あんたのからだだ、自分で決めればいい」

「登山服の代金は?」

 彼女は細い指でチョッキとカッターシャツを摘んだ。

「お金なんか、いいさ」

「あと三日間しか生きない人間に、わざわざ新品など買う必要もなかったのに。……あなたの使い古しでもよかったのよ」

 そういいながら、綾美は皿に盛った熱いおでんに息を吹きかけた。

「体形が違いすぎる。だぶだぶだ。それに、どうせ、お金をつかう相手がいるわけじゃないし」

 残照の空のしたで、谷間がだんだん深く沈んできた。ふたりの頭上に一番星が現われた。

「ご両親は健在なの?」

 綾美が訊いた。

「ふたりとも死んだ。おふくろは病死、親父は遭難死だ」

 好夫は、再婚したあとの父親の話をきかせた。二重遭難はごく簡単にふれた。

「こんなこと訊いてもいいかしら。どのくらい補償が出たの?」

「さあ、くわしくはわからない。後妻が全部もって家から出ていったし」

「欲がないのね」

「一筋縄ではいかない後妻だった。口ではかなう相手でないし、それに口も利きたくなかったから。赤松家は代々、炭焼きと猟師をかねた家なんだ。裏山には野菜畑がすこしある。後妻はそれまではもっていかなかった」

 好夫にすれば、多少の冗談のつもりでいってみた。別段、彼女の笑いを誘わなかった。

 頭上には数えきれないほどの星が点在し、各種の星座を形成してきた。好夫がランタンを河原に置き、料理を照らしだす。

「後妻は家を出るし、おれも高校を卒業して、五年間ほど東京にいたんだ」

 かれは足立清掃工場に勤務していたこと、職場仲間との折合いが悪かったこと、竹の塚駅にちかい伊興町でアパート暮しだったことなどを話してきかせた。

「学校帰りの時間になると、中学生らしい娘さんが弾くピアノが聞こえてたな。だんだん上達するのが、なんとなく判った」

 といってみたけど、音楽教師たったはずの彼女は関心を示さなかった。むしろ、その話題を好まない態度に感じられた。

「なぜ、辞めたの?」

「清掃工場をかい。……あるとき炉のトラブルが発生したんだ。それが原因だった。上司には、ヒマラヤ遠征の長期欠勤を口実にして辞めたけど」

「ヒマラヤはどこに登ったの?」

 彼女は酒を少しずつ口にしていた。

「金が貯まらず、海外の山には一度も登ってないんだ。それに登山組織に入って活動する気はもともとなかったし。力量があったとしても、個人ではヒマラヤに登れない」

「炉のトラブルって、いつもあるの?」

「大きいのは滅多にない。あれは夜勤の日だった」

 生ごみを運ぶ階段式ストーカー(火格子)の動きが急に遅くなった。炉のなかの滞留時間があまりにも長すぎると、好夫はいやな予感をおぼえた。ストーカーがとうとう急停止した。

 好夫はとっさに手動で焼却炉二基のうち一基を止めた。ベルが鳴りひびく。一年に一度か、二度あるかなしの焼却炉の緊急停止だった。不完全燃焼の異臭が強く鼻につき、不快感から吐き気をもよおすほどだった。

 トラブルが起きると、職員のだれもがイライラする。

「ばか野郎、工場内の排気ファンを全開してから、炉を停めるんだ」

 ふだん競馬の話題を好む四十男が怒鳴っていた。

(悠長なことしてたら、大切な炉を痛める)

 好夫は心のなかで反発しながらも、防塵マスクと防塵服を着込んだ。焼却炉はまだ加熱している。炉に近づくほどに熱風が襲いかがってきた。全身の一つひとつの毛穴から、大粒の汗が流れる。

 鉄製階段を上がったり、降りたり。だれもがストーカーが急停止した原因をさぐる目をむけていた。上部や下部を覗き込む。

「これだ」

 好夫は防塵マスクを忘れて叫んだ。灰が落ちる火格子の段差に、焼け焦げた鉄亜鈴(てつあれい)がからまっていた。バールを使いながら、好夫はそれを取り除く。中学卒業後の四年間の鉄工所勤務の経験が役立った。障害物を一つひとつ外す。

(ひどい住民がいるものだ。スポーツ精神のかけらもない)

 好夫は怒りをおぼえた。

 職員住宅から、猪俣係長が駆けつけてきた。

「こんなものを生ごみに入れやがって」

 猪俣が安全靴で鉄亜鈴を蹴飛ばした。

 所長たち幹部の協議がはじまったようだ。このさいだから、炉を二日間停めて障害物をしっかり取り除くと決定が下された。と同時に、炉内(ろない)の耐火煉瓦の補修作業もおこなうと決まった。炉のまわりで、まさに徹夜の作業がつづく、三六時間勤務となった。……ベッドのスプリング、万力、ハサミ、文鎮、鉄アングルなどがつぎつぎ取り出された。

「これだけの不燃物を入れるとは……。実に情けない住民がいるものだ。こんな不心得者はこの町から出ていけ」

 猪俣がまたしても叫んだ。

 だれもが全精力を使い果たし、神経すら消耗していた。代休をもらえた好夫だが、さすがに山登りの気分にはなれなかった。

 職歴の短い赤松好夫が相談もなく焼却炉を停止させた、年若いものが勝手な判断を下した、と年配者たちが暗に怒っていた。なかには事前の処置をしない急停止は炉を痛めるんだ、場合によったら炉が使用不可能になっていたんだぞ、と面と向かって批判する職員すらいた。おもいのほか反発が強く、その後においても、何かと冷たい視線を浴びた。

 好夫は、どう考えても間違った判断を下したとは思っていなかった。

〈適切な処置だ〉

 猪俣の目からはそんなことばが読み取れた。

(いまの職場は、自分の性格に合っていない。炎を見るのは好きだけど、人間関係は苦手だし。私語の多い連中とはどうもしっくりいかないし)

 山仲間となった猪俣係長とは気持ちが通じ合える。厳しい指導者だけに、自分はかえって尊敬の念が持てる。しかし、それだけで将来の自分が支えられるとは思えなかった。

 好夫は自身の心のなかに、退職という小さな(こぶ)を発見した。悪性腫瘍のように日々大きくなってきた。とうとう決断し、上司に退職届けを出した。

 故郷に帰ってきたとき、無人の家のなかは蜘蛛の巣が張っていた。親戚筋が猟師の道を勧めてくれた。警察で猟銃の許可をとるやりかたまでも教えてくれた。

 しかし、自分は生きものを射殺する猟が嫌いだったことから、町の運送屋に勤務した。鉄材を中心に運ぶトラックはつねに積載オーバーで突っ走る。その助手だった。運転手が危うく幼児を轢きそうになった。それが嫌で運送屋の仕事を辞めた。

 クレーン免許を生かした好夫は、土木現場で働いてみた。それは飯場を渡り歩く生活だった。豪雨の後の土砂流事故で、大勢の現場作業員が死んだ。好夫も危うく生命を落とすところだった。それでそこも辞めた。

 しばらくは無職で仙丈岳の登攀やら、わずかな畑を耕していると、血縁のものから病院の焼き屋の仕事が紹介されたのである。

「炎が好きなんだ。それで、病院の炉を引き受けた」

「変わってるわね、炎が好きだなんて」

「まあな、理由はいろいろあるけど、炎を見ていると血が燃えてくるし、充実したいい気分にもなれる。それに炎は神秘的で、奥行きが深い。多彩だし、いろいろな表情をもってるんだ。見飽きないし、愉しい」

「ほんとうに、炎が好きそうね。急に能弁になったりして。いまの職場は一生の仕事?」

「そうはならないとおもう。昨年あたりから、事務長との人間関係がギクシャクしてきたし。性格的に、お世辞の一つも言えないし」

「たしかに、上手な口が利けるタイプじゃなさそうね」

「どこに勤めても、人間関係が下手なんだ。ワンカップが足りなければ、山荘から買ってくるけど?」

「もういいわ。そろそろ横になりたいし。ワンカップが空になるほど、日本酒を呑んだのははじめてよ。顔がこんなに火照ってるわ。退院していきなり呑んだから、酔っ払っちゃった」

 彼女は両手でもう一度頬をはさむ。

「もう寝たほうがいい。ちょっと待ってな。テントのなかにエアマットを敷くから」

 綾美が寝袋に入ると、数分で寝息を立てはじめた。

 好夫はライトを照らし二万五千分の一の地図を開き、遭難現場の確認をした。断崖絶壁の遺体は、まずもって雪崩(なだれ)とともに落下しているはずだ。捜索するとすれば、谷筋だ。あしたのルートを細かくきめた好夫は、寝袋に入った。となりの寝息は女性だという意識が、好夫の頭を冴えさせた。

(彼女は、黒沼に先立たれたからといって、何故みずから大切ないのちを断つんだ? 自殺して愛が成就できるのか。愛が完成するのか。……自分へのあてこすりで死ぬならば、いのちを粗末にしすぎる)

 寝付けない好夫はいつまでも綾美の自殺にこだわっていた。自殺。そのことばから、足立清掃工場時代の榊先輩を思い浮べた。

 入所四年目のある日だった。

 一日の仕事を終えた好夫は私服に着替え、職員専用の通用門にむかっていた。背後から呼び止められた。それは科学分析室に勤務する榊正雄だった。榊は理知的な顔立ちで、国立の工大卒であった。専門は化学だった。職場内の榊はいつも白衣姿だが、通勤はラフなジャケット姿だった。

「赤松、アパートに帰っても、待ってる女がいるわけじゃないだろう。付き合え」

「はい。ご馳走になります」

 好夫にすれば、職場のなかで唯一親しみを持てる先輩で、屈託なく話し合えた。

「きょうはいつもの北千住にいくか」

 竹の塚駅から東武線で北千住駅にむかった。

 改札口からの雑踏がつづく、駅前アーケードに入った。途中で折れて細い横丁をいくと、いつもの炉端焼きの店に入った。カウンターには三陸海岸の魚が豊富にならぶ。客の入りはまだ三分の二ほどだった。

「赤松、複雑な女と交際するなよ」

 榊が唐突にいった。

「複雑な女?」

 生ビールのジョッキをもった好夫は横目で榊をみた。ふだんこの手の話題など一度もなかったから、ある種の違和感さえおぼえた。

「親が、交際や結婚にヒステリックに反対するような、恋さ。そんな彼女を嫁にもらおうとすると、ひどく苦労するぞ」

「先輩には苦い思い出があるんですか……」

「もう、七年まえになるかな。綾瀬の彼女の自宅に、結婚を申し込みにいった。父親が仕事の内容を訊いてきたから、いまは足立清掃工場で朝から晩まで、生ごみと格闘しているといったら、実にいやな目でじろっとにらまれた。生ごみ相手の仕事だときいただけで、もう頭から理解しようとしない態度だった」

「しかし、先輩は研究者でしょ。それを言わなかったんですか」

「焼きの担当も、分析屋もおなじさ」

 それで?

「話をあまり()かすな。ビールの追加だ。父親は可愛い娘を《焼き屋》に嫁がせたくなかったんだろうな。ぼくの顔をうさん臭そうに見ていた。そして、娘はいま熱病にかかっている、と一言いったんだ。つまり、結婚に反対だという意思表示だ」

 炉端焼きの煙がこちらの席まで流れてきた。店員がもう一ヵ所のファンをまわす。好夫は黙って、榊の話を待っていた。

「彼女のお腹に、ぼくの子が入っているといったら、父親はがくっと肩を落した。脳細胞の血管が縮んだ、そんなような顔だった」

 怒った父親は、奥の部屋に引っ込んだまま出てこなかった。

 綾瀬駅まで泣きながら送ってきた彼女は、こういった。姉妹ふたり。ふだんから長女への期待が強い父だから……。あなたの職場が清掃工場だと切りだせなかった、理系の大学を出た人だとしか、予備知識を与えていなかったという。

 父親の偏見もさることながら、きみの態度も嫌いだ。誰がいったいきみの家の生ごみを処理してるんだ、結婚してもその先で、夫の職業に胸を張れなければどうする、と挑戦的に彼女を攻めた。

「おい、もっと飲め。ところで、赤松は自分で自分が嫌いになったことはあるか。生きることが苦痛になったとか」

 ないです、と好夫は一言で答えた。

「結果が悪かった。彼女はみずから自分の肉体に死という烙印を()してしまったのだ。結婚の悩みなら、死なないでも解決できたはずなのに」

 彼女は滝壷に飛び込んだ。彼女の肉体が焼かれて骨になり、墓の下に埋められた。それが死だ。それ以外なにものでもない。

「生との対決に、破れたのかな……?」

 好夫がつぶやいた。

「それは単純明快ないい答えだ。ある友がぼくにこうもいった。彼女は自殺で自分の恋を完成させたかったんだ、と。そうかもしれないし、違っているかもしれない。単なる逃避だったかもしれない」

 榊が三陸名物のホヤをたのんだ。好夫はホヤを苦手とする。料理の追加が榊の話を中断させた。

「ぼくは彼女の自殺を知ったとき、ショックだった。死んだ彼女もさることながら、胎児がむしょうに可哀想だった。ぼくの血を継ぐ子だったんだからな。彼女は自分の意志で死んだ、しかし、ぼくの胎児は、母体の死によって生命を絶たれたんだ」

 榊は話の間をとった。腕組み、塞ぎ込むように押し黙っていた。

「……胎児の遺骨がほしかった。ぼくの手で弔ってやりたかった。妊娠四ヵ月の胎児の骨など、火葬場の炉で焼いたら消えてしまう。それがわかっていながら、胎児の骨がほしかった……。この話はいままで誰にもしゃべらず、語らず、胸の奥にしまってきたんだ」

 通夜にも本葬にも、綾瀬まで出向いたけれど、相手の親は彼女の棺に近づけさせてくれなかったと言い、榊はまた沈黙した。

「いまでも、彼女を愛してるんですか」

「赤松がどんな答えを期待しているのか、わからないけど、去るもの日々に(うと)しだよ。命日も忘れているくらい」

 そんなものかな。

「そんなものだ、人間なんて。自殺は美学で語ってはいけない。清い死などない。自殺者に同情したらいけない。人間は苦しむために生まれてきたようなものだ。たしかに、たまには楽しいことがあるけれど、それは一割もあればいいほうだ。大半が悩み苦しむ日々だ。悩みの都度死んでいたら、どうなる」

 先輩、もし滝壷の近くまで彼女と連れ添っていて、一緒に死んで、といわれたら?

「……多少は迷うだろうな。だけど、土壇場では断る。自分で死の手続きを取るほど勇気というか、積極性は持ち合わせてない。人間は生きること自体に価値がある、有能、無能を問わずだ。赤松だったら、どうする?」

 心中とか自殺とか、無縁の人間だし、断ります。生命にたいして強い執着がなければ、登山なんてできない。氷壁を登っているときなど、死との対決だから。死後に自分をもとめる気持ちなど微塵もないし、と好夫は即座に応えた。

「どんな人間も、死は避けて通れないんだ。生の果てには必ず死の入口がある。それなのに、みずから死を選択した。七年経って振り返ってみても、ぼくにとって彼女の死は謎だ。謎でいいんだよ。みずから己れを殺した人間しか、解答を知らないんだから」

 このさき結婚は?

「むずかしい質問だ。生涯独身。それが死んだ彼女への唯一のプレゼントかな、とおもったこともある。だけど、明日には気持ちがどう変わるかわからない、人間だからな。ぼくの親が、彼女の自殺で、ぼくの履歴が汚れたといった。そうは思わない。辛気臭い話はここまでだ」

 話を断ち切った先輩だが、いまなお彼女の死が重い荷として心に残っているような表情だった。

「清掃工場は公害との闘いだ。これからはダイオキシン対策だ」

 ダイオキシンの処理には、高温が要求される。九七〇度まで高めれば、ダイオキシンという化学物質を焼きつくせるが、燃焼温度を一〇〇〇度以上に高めたら、灰が溶けてきてボイラーや耐火煉瓦に付着し、支障をきたす。瀬戸物とおなじ状態で付着物は取れなくなり、炉の故障の原因になる。

 生ごみをいかに高温で燃やすか。新技術の開発に清掃工場の将来がかかっている。

「住民がだす生ごみと、住民への安全対策。このテーマはつきない。わかってるか」

「はい。一〇〇〇度以上だと、炎は白っぽくなる。つまり、白い炎つくりですよね」

「わかってるんだったら、ぼくと代われ。やればやるほど、奥行が深くてわからなくなっているんだ。通り一遍の話しで理解できるとは、赤松は天才だ」

「先輩は酒を呑むと、からむ天才になる」

 好夫は苦笑しながら、榊の攻撃をかわした。

 過去の職場をふりかえる好夫は、テントのなかで、しだいに睡魔に襲われてきた。

 

                 *

 

 山稜があかね色の朝焼けとなった。テントをたたんだふたりは、北沢峠から灌木の急斜面にとりついた。夏道から()れた道なきルートに入ると、岩盤に這いつくばった。ハイマツ帯だった。淀んだ蒸し暑さが全身をつつむ。

「疲れるわね」

 退院直後の綾美の足は、実に遅かった。好夫は根気よくゆったりした歩調をとった。ときには彼女を背負ってやりたかったが、口に出せなかった。

「無理しないでいい。休み休みで」

 真冬には雪崩のコースである渓谷へと足を踏みいれていく。渓流が音をたてて流れていた。雪解けの冷たい水で、彼女は渇いた喉をうるおした。美味しい、と綾美が微笑んだ。笑い顔が素敵な女性だと思った。

 雪渓が切れた地肌には、多彩で華麗な高山植物が群生していた。

「ミヤマキンバイ、チングルマ、コバイケイソウ、高山植物の宝庫なのね」

「都会人のほうが、花の名にくわしいんだよな。おれは苦手だ」

「工業高校だって、生物の時間があったでしょ」

「選択科目だったから、おれは避けて通った」

「植物の名まえに興味なくて、なんのために山に登っているの?」 

「格好よく聞こえるかもしれないけど、あえて答えをみいだすとすれば、自分のチャレンジ精神を鍛えるためかな」

 そうなの、と彼女は関心を示さず、植物のほうに気持ちをむけた。

「そういえば、黒沼さんはね、花と山岳の組合せが得意な写真家だったのよ。わたしは図鑑で、必死に花の名をおぼえたというわけ。だから、まだ花弁が開いてない花だってわかるのよ」

 黒沼の名が出てきたので、好夫は沈黙を決め込んだ。高山植物の豊富な斜面から、雪渓だけの勾配となった。一五分も歩くと、彼女の息切れがまた大きくなった。

「早めだけど、昼食にするかな。あの雪渓のなかに飛びだした岩の上で」

 好夫はそこで炊事道具を取り出し、バーナーをセットした。

「任せていいの」

「大丈夫だ。足を伸ばして休んでいなよ」

「きのうの夜は、お酒を飲みながら、あなたのことばかり、聞いてしまったわね」

 綾美は、黒沼武志と知合うまでの人生の一端を語りはじめた。

 ある日、中学二年生の音楽の授業ちゅうに生徒ひとりが発作的に三階の窓から飛び降り自殺した。

 綾美は担任教師でもあったことから、指導不足の疑いがかけられた。死んだ生徒の両親が、たびたび学校へ抗議にやってきた。綾美と顔を合わすたびに、自殺者の親はヒステリックに攻めた。

「親にはまったく問題なかったのかしら?」

 綾美がやりきれず一言そう反論した。それが大きく取り上げられて一人歩きをはじめた。担任教師の責任転嫁だといい、大きな問題にまで発展していった。

 校長は逃げの強い人物で、おもいのほか冷淡だった。同情してくれる同僚教師も口ほどには心の支えにならなかった。

 学校がわの調査のみならず、警察が入ってきて、いじめ問題からの捜査がはじまっていた。

「わたしはくり返し事情を訊かれたわ。死んだ生徒しか、真の原因がわからないのに。そうでしょ」

 警察は捜査の過程で、まるで殺人犯扱いのような調べをくり返してきた。マスコミにも批判された。綾美は、自身が自力で立ち上がれるのかと疑いを持つほど、心を深く傷つけられたという。

「……生徒の死は謎だ、謎でいいんだよ。己れを殺した人間しか、解答を知らないんだから」

 好夫が榊のことばを引用すると、綾美がおどろきの目をむけてきた。

「あなたって、意外に、哲学的なところがあるのね」

「実は、まえの職場の先輩の受け売りさ」

「だと思ったわ。どちらかといえば、朴訥(ぼくとつ)で、緘黙(かんもく)の人がそんなことを言いだすんだから」

 警察や検察庁のよびだしの区切りがついたところで、綾美は前まえから密かに交際のあった黒沼武志のもとへと逃げていった。そして、山岳写真家の助手となった。重い器材をかつぐ日々が沈鬱な精神から自分を解放してくれた。……山岳にも、黒沼の愛にも、一段と深く魅せられていった。テントのなかで、ふたりの愛を確かめる日々はなにものにも代えがたい、充実したものだった。永くこのような愛をさがし求めていたのだとわかった。

 黒沼が語る遭難体験談にも、ときには涙を流し、強く胸を痛めた。この男性(ひと)を、わたしは守ってあげる。そう思うほどに、登攀技術の本はつね日頃からよく読み、知識を蓄え、雪山にも登れる力量をめざしてきた、と綾美はつけ加えた。

「どこの中学の先生だったの?」

 好夫は故意に黒沼から話題を逸らさせた。

「足立区内の中学よ。清掃工場に勤務していたといったわね、変な縁だとおもったわよ。私が勤務していた学校の校舎の窓から、赤と白の煙突が見えていたから」

「それじゃあ、ふたりは竹の塚あたりですれ違ってたかもしれないな」

「それはどうかしら。綾瀬の自宅からバスで通っていたし、竹の塚は滅多にいったことがないから。中学の話はもう思い出したくない」

 ふたりの間で、しばらく沈黙があった。綾美のほうから口を開いた。

「実はね、わたしの身内にも、恋に苦しみ、自殺したひとがいるの。結婚に反対した親に遠慮なく、恋人を取って駈け落ちでもすれば、それですんだのに……。なぜ死で解決しようとしたのか、わからないわ、今でも。逃避だったかもしれないし、発作的な死だったかもしれない。死はどこまでも不可解なものね。だけど、わたしの場合は単純明快よ。あなたが仙丈岳で、わたしを助けたからよ。自殺の原因はそれだけ」

「身内って、きょうだいかい?」

「誰だっていいでしょ」

 彼女は怒った口調だった。

 

                *

 

 登るほどに、雪渓は角度をもってきた。雪面は陽光のきらめきで乱反射する。サングラスをかけた綾美の顔がきりっとよく似合っていた。気流が変わり、白い霧が雪面を撫でていく。流れる霧の切れ間から、時折りからっとした晴れ間がのぞいた。

 渓谷上部のガレ場に入ると、綾美が大小の石のうえで何度も足を滑べらせた。前方には屹立する茶褐色の岩盤が立ちはだかった。断崖には魔物が爪で引っ掻いたような亀裂がいくえにもあった。

「ちょうどこの真上の、絶壁の棚に、あんたたち二人がいたんだ」

 好夫が指す場所には、岩盤をこすった雪崩の爪痕が確認できた。

「あんな恐いところに」

 綾美が身震いをした。

「真冬に、あんなところから、ひとり助かっただけでも奇跡だ」

「奇跡ですって? わたしなんか生き残ったところで、なんの意味がないのに」

 綾美は反発の目をむけた。

 彼女の視線を避けるように、好夫は周辺の捜索に入った。頭上の雪崩の跡から、流された方向と位置を判断すれば、この辺りだろうと、かれは綾美に死体の埋まる場所を推測してみせた。

「あなたが埋めたようなものよ、わたしの愛する人を」

「あんたの口振りだと、まるでおれが人殺しだ」

「違うの? わたしと黒沼さんの仲を切り裂いたうえ、助けを求める人を見殺しにしたんですからね」

 綾美が露骨に反発する。そんな彼女をちらっと横目でみた好夫は無言で四方をさがす。

「まだ、いい忘れていたことがあったわ。でも、もう止しましょう」

「言えばいいだろう。何なりと」

 好夫はぶ然とした表情でいった。

「じゃあ、話してあげる。あとから聞いた話だけど、あなたは黒沼の救助などしたくない、勝手に死ねばいいと言ったそうね。もともと殺す気だったんでしょ」

「ことばは多少ちがうけど、たしかに捜索本部の山荘で、そのようなニュアンスのことをいった。黒沼は過去に何人もの助手を犠牲にさせてきたからだ」

「あなたは捜索まえから黒沼さんを見殺しにするつもりでいた。だから、遭難現場で黒沼さんでなく、嫌がるわたしを連れて下山したのよ。写真家を見殺しにしたい、という先入観がそうさせたのよ」

「あの場合は、誰だってレスキューなら、助かる可能性があった、あんたを選択したはずだ」

「詭弁よ、それは。違うわ。先入観がそうさせたのよ」

 クレバスを目の前にした。雪渓の真下は空洞で、川の源流となっていた。豊富な水量の流音が谷間にひびく。先に身軽く渡ったかれは、綾美に手をさしむけた。

「必死に助けを乞うひとを、冷淡にも見殺しにしたんだから。ひどい人よ」

 彼女は手を引っ込めた。

「またぎそこねて、クレバスに落ちたら、一巻の終わりだぞ。雪解けの水温は五度以下だ」

 好夫があらためて手を伸ばすと、綾美が手袋をはめてから握りしめてきた。

 陽を浴びる雪渓は日増しに解けている。あちらこちらにクレバスがあった。二度、三度と手を握り合ううち、彼女はすなおに手を差し出すようになった。手袋のうえからでも、女性の柔らかい肌の感触がわかった。

 岩壁の真下の沢筋を何度も行き来するうち、夕暮まえになった。

「あっ、あそこだ」

 好夫が指した。雪渓から手首が出ていた。

 駆け寄る綾美が軽アイゼンの爪をズボンに引っかけて転倒した。急斜面を滑落する。好夫は彼女にとびつき、ピッケルで停めた。

「……危なかったぞ。この下にはクレバスがあるんだ。雪渓の真下に落ちたら、沢に流されて死ぬところだった」

「どこで死んでも、おなじだわ」

「まじめにならないと、殴るぞ」

 好夫が綾美の目のまえで、あえて拳をつくってみせた。彼女は無言だった。

「こんなところであんたが死ねば、おれは本物の人殺しだと疑われるんだぞ」

「ごめんなさい」

 彼女がこれまでになく素直な態度で謝った。

「アイゼンをしっかり踏みしめることだ。遺体は逃げないんだから」

 好夫が登山用スコップで、硬い雪をかいた。

 雪崩の爆風で、黒沼の登山服は吹き飛ばされたのだろう、遺体は裸同然で、かなり傷んでいた。腐敗はしていなかった。上半身を掘りだしたところで、好夫が手を止めた。

 綾美が写真家の遺体にすがって泣いた。

 好夫にすれば、著名な黒沼は身勝手でどこか嫌な写真家だった。嫌悪の印象はいまなお残っていたが、遺体を凝視するほどに、好夫の心には死者への哀れみがふつふつと湧いてきた。

《助けてくれ》と訴えた黒沼の顔がよみがえるほどに、痛々しさが増した。

「どうする? 警察と遺族に遺体を確認してもらう必要がある」

「わたしも、ここで死にたい。黒沼さんのそばで死なせて」

 彼女は遺体から離れなかった。

「検視のあと、あんたが死ぬのは勝手だが、死者の供養をしてあげてからにしたらどうだ? 葬式をだすとか、それに初盆とか、彼岸とか……。死ぬのはいつでもできる」

「黒沼さんには本妻がいるし、葬儀とか、法要はわたしの手にはおえないわ」

 彼女は背中で答えた。

「だったら、分骨という手がある」

「分骨?」

 綾美が涙で濡れた目をむけてきた。

「警察の検視が終ってから、ここで荼毘(だび)に付すればいい。協力してやるから」

 川原で焼けば、遺骨は灰のなかから全部回収できない。残った骨をかき集める。そうすれば、綾美の手もとに遺骨が入る。

「ふたりの思い出の場所に墓をこしらえておけば、あんたも自殺したあと、分骨と一緒に眠れる、永遠に」

「どこがいいのかしら? わたしの墓は」

 彼女の顔が思慮を巡らせる表情になった。

「じっくり考えることだ。きょうのところ、この写真家を埋めもどす」

「なぜ?」

「遺体がカラスや獣に食べられるからだ」

 野生動物は森林のなかまで死骸を引っ張りこむ。そこで食べる習性がある。そうなると、遺体を見失ってしまうからだとおしえた。

 北沢峠への途中で、闇夜になり、稜線でテントを張った。彼女は寝袋のなかで嗚咽を洩らしつづけていた。

 翌朝、小屋の主人を介し、警察に連絡を取った。死体の現場検証が行なわれた。川島たち猟師組合のメンバーもやってきた。

ヘリコプターで写真家の正妻やら、老父やら、親族も到着した。周辺は数時間にして、かなりの人出となった。

 好夫の目からみても、綾美は気の毒なほど控えめな態度であった。

 家族らはヘリコプターでの遺体の収容を希望した。好夫はそばから口をはさみ、荼毘を主張した。著名な山岳写真家が町の火葬場で焼かれるなど望んでいなかったはずだ、黒沼の名誉のためにも荼毘がいい、死んで一層の箔がつくし、写真の値打ちも上がるだろうといった。

 まわりの猟師たちは、ふだんになく多弁な好夫におどろいていた。

「そういえば、黒沼さんは日頃から、死んだら山で葬ってくれといってたの」

 川島が同調した。老父や本妻がそれを受けて荼毘に賛成した。

 猟師たちが沢の流木をあつめてきて井型に組み、数人の手で死体をゆっくり乗せた。下界からきた僧侶三人が読経をあげる。

 赤い火が燃えあがると、黒煙が渓谷を横切るようになびきはじめた。全員が黙祷した。

「あなた、()かないで」

 妻君が泣き叫ぶ。まわりの親族たちが興奮した妻君を慰めていた。

 灌木の陰には静かに泣く綾美の姿があった。遺骨を収拾した親族らが立ち去った。

 残る骨を丁寧に集めた好夫は、コッヘルに入れ、蓋をしてから白い袋で包んだ。それを綾美に持たせた。

「本妻は強いのね、強烈だったわ。わたしは最後まで黒沼さんと一緒にいた女だと、自分の存在すら明かせなかった」

 綾美が涙をながす。山風が彼女の顔のまわりで黒髪をいたずらしながら戯れていた。

 夕日が浮雲を燃やすころ、ふたりは稜線を下りはじめた。彼女はいつまでも唇をかみしめていた。好夫はことばもなく黙っていた。

 陽が沈むなか、白い蝶が舞う。疲れた足取りの彼女が、蝶に目をやったことから岳樺(だけかんば)の太い根につまずいた。好夫はとっさに腕をつかみ、彼女の細身のからだを支えた。

 つづら折りに下ったところで、後からきた男性の登山者たちがこちらを追い抜いた。この時間だと、仙丈岳の山頂からの帰りだろう。

 五、六歩先で、ふたりが同時に振りむいた。綾美の悲しみの姿が気になったのか。

「赤松じゃないか」

「あっ、猪俣係長。それに榊先輩……」

 好夫の目がなつかしさで光った。

「係長だって。いまは課長さまだ。いくらわしでも、万年係長じやないぞ。赤松、嫁をもらったのか」

 猪俣が遠慮のない目で綾美をみた。

「違います」

「婚約者か」

「全然」

 好夫が横目で綾美をみると、彼女は話題のなかに入りたくない態度でうつむいていた。ただ、両手で白い布のコッヘルを抱えたままであった。猪俣は、悲壮な淋しさがただよう彼女の表情を読み取ったようだ。

「まあ、詮索は止めておこう。きのう甲斐駒、きょうは仙丈岳だ。わが登山部は活発な活動をしている」

「榊先輩も山をはじめたんですか」

「猪俣さんが、山はいいぞ、いいぞと強引に誘うし。まあ、信州出身だからな」

 そう応える榊だが、綾美が妙に気になるという視線をむけていた。

「赤松、もう一度帰ってこないか。足立清掃工場はいま炉の改修ちゅうで休止だ。もっと最新鋭になるぞ」

「勉強はしてないし、もう東京都の採用試験など受かりませんよ」

「こんど清掃工場は都でなく、区の管轄に入った」

 猪俣の目は山のなかでも、仕事の話となると妙に活きいきしていた。

「どこかで会ったことのある顔だと思ってたけど、綾美さんじゃないか」

 榊がいった。

「えっ、榊さん……」

 綾美が沈んだ顔をあげた。

「こんなところで会うなんて、奇遇だ。おどろきだな。中学の音楽教師になったときいていたが……。いまも?」

「先に失礼します」

 綾美が小走りに駆け下っていく。三人は後ろ姿をみていた。

「どういうことだ?」

 首を傾げた猪俣が榊から好夫のほうに視線をむけた。

「去年の暮れ、仙丈岳の氷壁から彼女を救助したんですけど」

 好夫は下山しながら、経緯を一通り話し終えた。そのうえで、きょうは写真家の荼毘だったと説明を補足した。

「助けて恨まれたら、赤松は立つ瀬がないな」

「まあ、いいんです」

 稜線から川べりに出た。林の間から、うす闇の暮色に染まった仙丈岳の山容が見え隠れする。綾美の姿はどこにも見当らなかった。

「榊先輩は、彼女とどういう知り合いですか」

「赤松には以前、北千住の炉端焼きで話しただろう。ぼくの胎児を孕んだ恋人が、滝で自殺したという話を」

「はい。よくおぼえてます」

「あの彼女の妹だ、綾美さんは」

「えっ、姉妹だったんですか」

 好夫にはおどろきの余韻がいつまでも残った。……綾美は身内に自殺した人がいるといっていたが、それらが符合した。

「話はみえないが、見た感じ、翳がありそうな女だな」

 猪俣がいった。

 好夫は、彼女から昨晩にきいた、生徒の死から端を発した、屈折への経緯を説明した。

「教え子がいじめから自殺した、それで人生が狂ったわけだ。不幸な妹だな」

 榊の目に同情が満ちていた。

「猪俣課長と、先輩。よかったら、わが家に寄っていきませんか。茅葺き屋根の家ですけど」

「気持ちはありがたいが、改修ちゅうの炉が待ってるんだ、わしらの帰りを。早く稼働してほしいといってな。中央高速を使って、今日じゅうに足立に帰る」

「それなら、引き止められないな」

「赤松はヒマラヤにいったのか」

「いいえ」

「ばか野郎。だったら、なぜ清掃工場を辞めたんだ。将来一番有能だと思って、気合いを入れて教えてやったのに。わしにまで嘘をついて辞めたのか」

 猪俣の口調は《鬼係》にもどっていた。

 

                 *

 

 三日間の無断欠勤は、五十嵐事務長の怒りをかった。一ヵ月経っても、事あるごとにそれをもちだす。けさも焼却炉のそばにやってきた五十嵐が、不機嫌な顔で、こと細かくあれこれ指図していた。

「無断欠勤なんて、ろくな人間じゃない。責任感のかけらもない人間がやることだ」

「事務長、灰がかかりますよ」

 新品の灰が山間の風で巻きあがる。幕がかかったような灰を透かし、春山の仙丈岳が霞んでいた。

「おい、何を話しているか、わかってるのか」

「そのぶん有給休暇の消化にあててください」

「なに寝ごといってるんだ。有給は事前の許可制だ。三日分はもう先の賃金でカットした。給与明細は見てないのか」

 好夫は無視した態度で、焼却炉に火を入れた。五十嵐は怒りを背中に残して立ち去った。

 午後には砂塵を巻き上げる風が吹いていた。

(佐久間綾美は一体どこに消えたのか?)

 猪俣と榊と出会った稜線から、綾美は駆けだしたまま消えてしまった。その後の消息はなかった。

(姉につづいて妹の綾美も自殺したのか?)

 好夫の心のなかには、暗い影がつきまとっていた。別れ際に、妹も危ないな、といった榊のことばがよみがえっていた。

 好夫は背後に人の気配を感じた。振り返ると、綾美が暗い表情で立っていた。好夫は即座にことばが出なかった。

「……、もう自殺したのかとおもってた。あれから一度も顔をみせなかったから」

「逃げ帰ってごめんなさい」

 綾美はことば少なく謝った。

 彼女に逢えたという感慨が好夫の胸のうちで、しだいに高まってきた。

「ここ一ヵ月間、どうしていた?」

「いろいろあったの」

「タバコ吸うかい。疲れているようだ、よかったら、ラバーの椅子に腰かけな」

 好夫は手で埃をはたいた。

「タバコいただくわ」

 腰を下ろした彼女は、すこし心を開いたように語りはじめた。……本妻から泥棒猫よばわりでののしられたうえ、黒沼と一緒に住んでいた別荘から立退かされたといった。あんな女と結婚していた男性かと思うと、黒沼にも多少のところ失望をおぼえたと話す。

 好夫は作業しながら耳を傾けていた。

「きょう、分骨の墓地をさがしにきてみたの。仙丈岳がみえる場所がいいとおもって」

 別荘をでた彼女は毎日、小さな分骨を持ち歩いていたようだ。

「だったら、この村が一番だな。梅やさくらが咲くころの仙丈岳は、見応えがある」

「決めようかしら、ここに。墓ができるまで、病院の焼却炉で働けない?」

「えっ? 重労働だし、見ればわかるとおもうけど、ゴミに囲まれた仕事だ。その細い腕では無理だよ。それに、この仕事は恐いしごとなんだ。感染性のある廃棄物もあるし。炉で火傷するおそれもある」

 好夫は注射針やメスの入った袋を持ち上げてみせた。このように密閉された容器や固形状の丈夫な二重袋にいれられていればよいが、医師や看護婦の不注意でふつうのゴミ袋に投棄されると、針がそれらを突き破って皮膚を傷つける。針刺し事故は、最悪の場合、取り返しのつかない病気に感染させられるのだ。

 いくつかの事例をあげながら、かれはくり返し危険を強調してみせた。

「何でもやるわ」

「もう一度先生になれば。臨時教員の仕事とかないの……?」

「教師など二度といやよ。思いだしたくもない」

「雇うかどうか、事務長にきいてみないとわからない。おれの判断で決められないし」

「頼んでみてくれない?」

 彼女が煙草を吸い終わった。もう一本勧めてみたが、首を横に振った。

 好夫は、五十嵐事務長との交渉の場を想像するだけでも、気が重くなった。

「わたしと一緒に働くのはいや?」

「そりゃあ、いっしょに働けたら、ありがたいさ。山岳レスキューをやっているから、もう一人いれば助かる。急な休みをとるたびに、事務長からいやな顔をされるし。救助活動の出動要請がきても、ここを任せられるものがいなかったから……。病院側の立場もわかるんだけど、おれは人命救助のほうを優先してきた。だから、代われるものがいれば助かる。何度もいうようだけど、危険な仕事だよ。女で《焼き屋》とは変り者だと、世間からレッテルを貼られる」

「世間体など、どうでもいいの」

 綾美の顔から退廃の表情は消えていなかった。

「手足や、場合によったら、顔の火傷も覚悟しておいたほうがいい」

「どうせ、死ねば焼かれる身よ。愛する黒沼さんでもいれば、肌を守りたい気持ちにもなるでしょうけど。こんなからだなんか、もうどうでもいいの」

 綾美にしろ、榊先輩の胎児を孕んだ姉にしろ、姉妹は《生》にたいする執着心がことのほか弱いのかもしれない。血筋というものがあるとすれば、放っておくと、姉と同様に、綾美も自殺するだろう。そんな予感がしてきた。

「事務長と、交渉してくる」

 好夫は病院の本館のほうにむかった。院内の待合室を抜ける好夫は、急激な胃痛をおぼえるほど強い緊張を感じた。きょう怒らせたばかりの事務長をうまく口説けるのだろうか。ドアのまえで自分を鼓舞しながら、好夫は事務所のなかに入った。

 好夫の話を途中で打ち切った事務長は声を荒らげた。

「ばかも、休みやすみいえ。女には負担が大きい。おまえもわかってるはずだ」

「ぼくの賃金を半割りにしてでも、雇ってほしいんです。おねがいします」

 事務長のまえでこんなにも平身低頭になったのは、何年ぶりだろう。

「賃金をたとえ半割りにしても、作業服は二枚必要だし、雇用保険などの負担もふえるんだ。病院経営は慈善事業じゃない」

「だったら、ここを辞めます」

「そうか、辞めたいか。それは都合がいい。この場で退職届を書け。おまえはこのたび無断で休んだ。レスキューならば、まだわかる。遭難者の救出にてこずり休む日数が延びても、無断欠勤とせず、理解してきたつもりだ。しかし、遺体の捜索なら、なんで事前に許可をとらない。レスキューとちがい、遺体の捜索は緊急性などないだろう」

 好夫は心のなかで、綾美の退院日に自殺を引き止める緊急性があったと反論していた。しかし、それは口に出していえなかった。

 五十嵐は、返事もろくにしない好夫のふだんの勤務態度にたいしても、もう堪忍袋の緒がきれた、我慢の限界を越えたという。

 事務長はさらにいろいろ不満をならべ立てた。とくに、無断欠勤した三日間のゴミ放置は、ぜったい許せないと強調した。

「後釜ができたしな。まあ、三〇日の解雇予告手当くらいは出してやる。法律で決まっていることだし」

 わかりました、と好夫は事務長をにらみつけてから、背中をむけた。

 焼却炉のそばにもどってきた好夫は、綾美にすまなそうな視線をむけた。

「だめだったの」

「おまえもクビだといわれた」

「どうして?」

「事務長には無断で写真家の遺体をさがしにいったから……。そのときにかぎって、厚生省の役人がやってきたんだ。医療廃棄物が山積みで、腐敗臭の強いゴミ置場を運悪くみられたらしい。それがまずかったみたいだ」

「悪いことしたわね。これからどうするの?」

 綾美の目が心から詫びていた。

「炭焼きで生計を立てるさ。ちょうどいい機会だ。去年、自分で炭焼き(かま)をこしらえたし、いま備長炭(びんちょうたん)に挑戦ちゅうなんだ」

 退職金や雇用保険で半年くらい暮らせそうだし、その間にも炭焼きで飯が食えるように、腕を磨くつもりだといった。

 いまや都会では隠れた炭ブームだし、炭火焼きの食品が流行(はや)っている。銘柄指定で炭の注文がくるようになれば、実入りはいい。当座は、売物になる備長炭がつくれるようになることだ。子供のころ、祖父の炭焼きを見ようみまねで手伝ってきたし、半年あればものになるはずだと、好夫は自信のほどを語った。

「わたしも手伝えない? 墓づくりのほかには、死ぬまでやることもないし」

 綾美がどこまで本気なのかわからなかった。相手の真意というか、綾美の心をさぐるように、好夫は彼女の顔を凝視していた。

「炭焼きの仕事だって、けっこう重労働だぞ。二晩寝ずのしごとなんだ。顔だって、煤や炭で真っ黒になる。それでもよかったら……。でも、都会のきれいな仕事のほうが似合ってるとおもうけどな」

「寝ずのしごとだって、平気よ。顔だって気にしないわ」

 こんな都会育ちの女は二つめの窯か、三つめの窯で、きっと逃げだすだろう。

 

                *

 

 材木に片足をかけた好夫が、先刻から鋸を挽いていた。杉の角材が八本ほどそろってきた。

 タオルで汗をぬぐうと、こんどは金槌を手にした。庭の一角には、四方を囲った枠組みができあがった。新品の金網を張ると、全体がみるからに鶏小屋らしくなった。

 三羽のチャボの雛がここに閉じこめられるとも知らず、庭先で気ままに遊ぶ。ぱっと羽をひろげて幼稚にかけだす雛、百日紅(さるすべり)の影でじっと座りこんだ雛、砂の遊び場で羽ばたきをする雛。餌を撒けば、三羽ともあわただしく集まってくる。金槌の音を立てると、今度はバタバタ飛び立つ格好で逃げていく。まだ雄雌とも見定められない三羽は、ずいぶん賑やかだった。

 雑種で赤毛の飼犬が、これまでになく、やたら吠えはじめた。村人がやってきたくらいでは吠えないはずだが……? 釘を打つ好夫が、生垣の外に視線をむけた。

「弟子入りにきたわ。突然で、ご迷惑だったかしら」

 緑色スーツと薄い水色ブラウスを上手に着こなした綾美が立っていた。

「本気で、炭焼きをやる気かい」

 好夫は額の汗を拭った。

「その気よ」

 彼女の視線は、吠える犬に向けられた。庭に入れず、立往生していた。

「冗談か、からかいかとおもってた」

 その実、好夫は心のどこかで期待していた。現実に、目のまえに綾美が現われたとなると、どう対応するべきかと、戸惑いをおぼえてしまった。大いに歓迎だよといえば、どこか下心があるように思われるかもしれない。

 好夫は次のことばを探しあぐねた。

「ばかもの、吠えるな」

 好夫は飼犬を叱りつけ、当座の自分をごまかしながら、ナツメの古木につないだ。蹴飛ばす真似で、もう一度、叱りつけた。

「作業着は持ちあわせがないけど……?」

 死を覚悟した綾美は、持ち物のほとんどを整理したらしい。身の回りのものはこれだけしかないと、手にするボストンバッグと大きなショルダーバッグをみせた。

 ボストンバッグにはおおかた衣類や洗面具、ショルダーには黒沼の写真集や額縁などが入っているのだろう。膨らみ具合から、そんなふうに推測できた。

「着るものなんか、炭で汚れるから何でもいいんだ。村のなかは普段着で充分だし」

 JAの売店なら、作業着の類などは安く買いそろえられると説明した。

「可愛い雛たちね、尾っぽの羽根がきれい。観賞用なの?」

 しゃがんだ綾美が手をさしむけた。

「卵を産ませるんだ。イタチやトビにやられなければのはなしだけど」

「これまで、被害を受けたことがあるの」

「なんどもだよ。こんど鶏小屋は二重構造の金網にするんだ。家のなかを見てみるかい」

「あら、ユリが」

 彼女の視線がふいに茅ぶき屋根にむけられた。年季の入った屋根には土埃が溜まり、ユリが三輪ほど咲いていた。屋根の葺き替えもしていないし、好夫にすれば、恥ずかしいところを見られてしまった心境だった。

「素敵ね。白いユリが屋根に咲いた家だなんて。感動ものだわ」

 土間に一歩入った綾美が煤で汚れた壁やら、天井やら、チョウナの荒削りの跡がある太い柱や(はり)などを眺めまわしていた。

 土間の半分を占領するように置かれた蕎麦機、(むしろ)おり機、(かいこ)のわらだを編む機械、糸とり機、モッコなど一つひとつをめずらしがる。母親の代まで使われていた櫓炬燵(やぐらごたつ)、長持ち、埃だらけの年代物の薬箱などは雑然と片隅に置かれていた。好夫にすれば、ただのガラクタの道具だった。彼女はどこまでも興味の目をむけていた。土間の井戸すら珍しがった。

「夏場になると、西瓜を井戸水で冷やすんだ。結構冷えるから」

「天然の冷蔵庫なのね。囲炉裏(いろり)のある家ははじめてだけど、こうなってるのね」

「上座は長老の爺さん、右手は親父、左手は客人、こっちの下座は一段下がっているから、嫁だったお袋がここなんだ」

 好夫は囲炉裏の構造やら、まわりに座る順序を説明した。決してよい風習だったとは考えないが、傍若無人にふるまった後妻の佳代子の態度を思い起すと、若干の秩序は必要だと思う。

「わたしがもしもこの家の嫁なら、毎日ここなのね。こんなふうに正座して」

 綾美が両手をついてみせた。

「むかしの風習は爺さんの代までだ」

 いまの時代は、どの家も嫁が上座だという。ここらあたりの嫁は農家の手伝いを一切やらず、車で町に通勤だし、月給をもってくるから姑より強いんだとおしえた。

「嫁がそんなに強くなって、どうするのかしら」

 綾美の顔の表情からしても、黒沼の本妻を意識しているようだ。彼女は囲炉裏のそばにあがると、自在鈎(じざいかぎ)に手をふれた。

「それは弁慶。川で釣ってきた魚を串でさして、囲炉裏の火で、じわじわ焼いていたんだ。いまはプロパンだけど。ところで、炭焼きは二時間ごとに火の調節が必要だから、通いでやるというわけにはいかないし……。どうするかな?」

 かれは話を切り替えた。

「住込みでいいんじゃない」

「部屋だけはいっぱいあるし、好きなところを使っていいんだ。なんなら、おれは庭にテントを張って寝てもいいし。村人は節穴からでも、他人の生活をのぞきにくるからな」

「わたしは世間体など気にしてないといったはずよ」

「おれも、別にいいんだけど……」

「囲炉裏はぜひ使ってみたいわ」

「好きに使うといいさ。こんなぼろの家だ、気色(きしょく)が悪くないかい?」

「味わいがある家だわ」

「すると、変人だ」

「的を射ているわ。この家はわたしにとって住込みの職場だから、たがいに自炊にしましょ。わたしは亡き黒沼さんだけを愛する女。それだから、なおさら一線を引いておく必要はあるの。異存はない?」

 綾美が上手に(くさび)を打った。

「もちろんだ」

 この家はかつて義母の佳代子を中心とした暗い葛藤と(いさか)いの場であった。食事は別にしろ、綾美が住むと決まっただけでも、好夫は室内に明るさを感じた。

「宗派を気にしなければ、よかったら墓が決まるまで、母屋(いえ)の仏壇に遺骨を置いてたら?」

「しばらく、そうさせて頂戴」

 縁側にそった仏壇の部屋へと、かれは案内した。窓の障子は日焼けで変色し、透過する陽光が精彩なく濁っていた。十二畳間のたたみはいくらかふやけ、足裏に弾力が感じられた。

 床の間と向かい合う仏壇は、黒檀で背丈ほどの高さがある。祖父が生前に自慢していた代物だが、いまや両開きの扉は開け放しで、金箔の内部など埃をかぶり、線香の燃え滓が残ったままであった。

 八月の盆と法事くらいしか仏壇を磨かない好夫は、恥ずかしさをおぼえた。こんな展開になるなら、ふだんから掃除しておけばよかったと後悔した。

 梁の太い鴨居(かもい)には、両親の遺影や、古ぼけた祖父母の写真がこちらを見下ろす角度で掲げられていた。

 綾美が仏壇のなかに黒沼の分骨をおいた。そして、両手をあわせる。正座した彼女の足の白さが好夫の目を惹いた。

 襖で仕切られた、となり部屋の八畳間を見せながら、ここを寝泊りにしたら、と勧めてみた。彼女はすくなからず気にいったようだ。

「鴨居に釘を打ってもいいかしら。黒沼さんの作品を飾りたいの」

 綾美が太い木材の鴨居を指す。

「なにをしても大丈夫だよ、こんなぼろ家だから。必要なら、いま雛の小屋を作っていたから、金槌と釘を持ってくる」

「あとでいいわ」

 ショルダーバッグから、朝焼けの北岳の写真が出てきた。さらには芸術的に雲が山頂にかかった、墨絵のような甲斐駒ガ岳の写真。彼女はほかに二作ほど取りだした。

「どれも個展に出展された、最高の作品ばかりなのよ」

 彼女は評価された内容を一つずつ説明する。

 黙ってきく好夫は、綾美が黒沼と連れ添ってこの家にやってきたような、複雑な心境というか、不快な気持ちになった。黒沼の写真は自分の目にふれるところに掲げてほしくない。しかし本心を率直にいえば、綾美は即座にこの家から立ち去ってしまうかもしれない。

「これほど山の表情を上手にとらえた写真家はいないでしょうね。あなたは登山のプロだから、作品の価値は理解できるわよね」

 といわれても、かれは彼女ほど作品に高い評価をもてなかった。

 綾美が最後にもう一つ取りだした。風に舞う雪煙が稜線を踊るように駈けている、仙丈岳の幻想的な写真だった。彼女はこれがいちばん好きだという。

「これだけの写真を撮れる人を、あなたは見殺しにしたのよ。素敵な写真をもっと残せた人だったのに」

 と批判したあと、彼女の目が潤んできた。ハンカチを取りだし、目頭にあてた。

 綾美は先に、黒沼の妻君に強く批判されたことから、伴侶だった写真家にも多少の幻滅をおぼえたと語っていた。それをもってしても亡き黒沼への想いというか、ふたりの愛はゆらぐものでなかったようだ。

 綾美にすれば、厳冬の山で自分の意に反し、黒沼との間をむごく切り裂かれたのだ。愛の結末が悲惨になるほど、相手の人格の善し悪しをも超越し、美化された強い絆が心に残るものらしい。すくなくとも綾美の心にはどの男性も踏み込めない、永遠の愛が根づいているように思えた。

 好夫は竹の絵が裾に描かれた押入の襖を開けた。上段、下段には両親や義母たちがつかっていた布団があった。黴臭くないかと案じた好夫は、二方の窓を開け、窓枠いっぱいにそれらを干した。

 手を貸す綾美の視線が裏手にながれた。

「あの煙は?」

「炭焼きの煙だ」

「あれがそうなの。案内してくださる?」

 家屋の裏手には手作りの炭焼き(かま)があった。四阿(あずまや)のような屋根だけの簡素な建物のなかに、亀甲形の窯が天井ぎりぎりで収まっている。面積は四畳半ていどだった。

「この窯を造るまで、どのくらい日数がかかったの?」

「五ヵ月くらいかな」

「ひとりで造ったの?」

「そうだよ。病院の仕事が休みの日に、コツコツ造ってたんだ」

 三キロ離れた川原から手ごろな石をバイクで運んできて、丁寧に形よく積みあげ、粘土で固めた窯だった。五十嵐事務長が連休をことさら嫌ったので、窯にはまだ五、六回しか火を入れていなかった。

「石窯でつくる炭は、備長炭とも白炭ともいうんだ。たたくとカーン、カーンと澄んだ、いい金属音がする」

 備長炭は着火しにくいけど、ひとたび火が点くと、長持ちする性質があると説明した。

 親父の代まで沢筋に泥窯をこしらえて炭を焼いていた。泥窯の炭は黒炭といって、着火しやすいけれど、火は長持ちしない。窯によって、出来あがる炭に特徴が出てくるんだ、と好夫は熱心に語っていた。

「泥窯はどうして沢筋なの?」

 真っ赤に焼けた薪を窯だしすると、すぐ水をふくんだ灰をかぶせる必要がある。急冷させることによって炭ができあがる。炭焼きには大量の水が必需品ゆえに、水場が必須となる。当然ながら、水場の近くの作業のほうが楽になる。

「それなのに、なぜ庭先に石窯をこしらえたの?」

 綾美の質問はとまらなかった。

「沢筋でない理由かい」

 炭焼きが盛んな時代は、どの家でも炭焼き窯をもっていた。ひと冬で手ごろな十二、三年の年輪を刻んだ薪をおおかた伐りつくす。翌年には沢水と薪をもとめながら、別の山を渡り歩く。都度、新らしい窯を作っていた。

 しかし、いまは電気とガスの時代だから、炭焼きの仕事は流行らない。界隈でも炭焼き窯が生かされているのは五、六軒だけである。そんな背景から、山林は伐り手がない。荒れてきた山には薪があり余っている。山林の持主はむしろ雑木の伐採を歓迎してくれる。

 そんな理由から、十二、三年ものの上質の(なら)(くぬぎ)がすぐ近くの山から無料で伐りだせる。この家にも簡易水道が引けた。だから、移動する窯は必要がないんだと、かれはくわしくおしえた。

「これが煙突だよ」

 窯の後方には、亀の尻尾のような、短い煙突があった。白煙がたなびく。

 好夫が高さ七段のハシゴにあがった。樹の油で真っ黒に汚れた煙突の出口には、三個の煉瓦で蓋がされていた。わずか二センチほどの隙間が開く。

「登ってきて、この煙に手を当ててみな。すごく湿っぽい煙なんだ」

 狭いハシゴのうえで、ふたりして肩と肩が触れ合う。煙のなかに彼女は手をおいた。

「ほんとうね。湿っぽい煙だわ。いま何百度くらいなの?」

 彼女はくりかえし、手を煙のなかに入れた。

「おれにはまだそこまでわからない。長老たちは煙の匂いと湿り気の感触で、窯のなかの炎の状態が判るらしい。長老は頑固者だし、訊いても教えてくれないからな」

「企業秘密なのね」

 彼女が横目でみた。

「そうだろうな。良い炭がたくさん出荷されると、値段が下がるから」

 一昼夜で薪が炭化してくると、こんどは二時間ごとに、煉瓦を二、三ミリずつ動かす。微調整しながら、煙突の穴を広げる。広げすぎると窯の火力が強まり、内部の薪が燃えつきてすべて灰になってしまう。

 窯からの煙は、内部の炎の状態で変わってくる。煙の色と湿気が目安だ。

 火力が弱いと中途半端にしか炭化しないし、できあがった炭には生木の芯が残る。

 煙突を塞ぐ煉瓦の調整が炭の仕上がりを決める重要ポイントだった。つまり、この煉瓦を動かす微妙なコツが、名人とヘボの差になるんだと、好夫が強調した。

「微妙といえばもうひとつ。窯口(かまぐち)のほうに回ってみようか」

 階段から下りてきたふたりが、釜の正面にむかった。薪を投入したあと、窯口はひとたび石と粘土で密封される。一昼夜たって薪が炭化してくると、窯口には小指が入るくらいの穴を開ける。空気を取り入れると火がぽっぽっと吹きだす。

「はじめは赤ちゃん。ぽっぽっ。ぽっぽっ。しだいに十代の娘さんの恥じらい、ぽーっと赤らんだ顔、これがコツだ、とおれの祖父さんがよくいってた」

「ぽっぽっ。ぽっぽっ。可愛いらしそうな炎ね」

 口まねした彼女が微笑む。

「おれはいずれ芸術的な炭をつくってみせる」

 炭焼きで人間国宝級になってみせるといいたかったが、咽喉の奥に引っ込めた。

「いまの腕前はどうなの?」

「それを訊かれるとつらいな。いつも失敗の連続だ。まだまだ中途半端な炭ばかりで出荷はできてない。長老たちの笑い者さ」

「すると、わたしはこの界隈でいちばん下手な職人のところに、弟子入りしてきたのかしら?」

「そういうことだ」

「炭作りの説明をきいているときは、プロ級の腕前かとおもってたわよ」

 綾美が苦笑した。

「そういうが、結構むずかしいんだ。もしも、そっちがおれよりも上等な炭を作ったら、将来をはかなんで、川に身を投げてもいい」

「ほんとう?」

 綾美が真剣な目をむけた。

「約束してもいいさ」

「忘れないでね。黒沼さんを見殺しにしたあなただから、いい復讐ができるわ」

「お手並み拝見だ」

「でも、ひとつの窯で、どうやって競争できるの?」

「二昼夜でひと窯だ。なか一日窯を休ませる。そしたら交替でやればいいさ。おれのほうは休みでもやることが一杯ある。畑は抱えているし。原木の伐りだしもある」

「交替で争えるのね。絶対あなたを身投げさせてあげるから」

 彼女の目には真に挑む光があった。

 

              *

 

 窯に火を入れてから、備長炭ができる窯出しまで四八時間かかる。その間の好夫は半袖のカーキ色の作業服だった。

 綾美のほうは農婦のような質素なスタイルを好み、農機具メーカーの名入り帽子を被る。帽子からはみだす豊かな黒髪は背中にながれて艶やかに輝いていた。足元はスニーカー。実利的だが、どこかちぐはぐな感じである。顔立ちのいい綾美だけに、かえって妙なみずみずしさがあった。

 綾美とふたりして交互に窯にむかうが、ともに失敗作の連続だった。

 火入れすれば、神経は窯に集中させられる。薪が炭化してくれば、細切れに二時間ずつしか睡眠がとれない。二時間ごとの微調整に失敗し、ふたりとも等級外のみじめな代物ばかりを作っていた。

 一日窯を休めた翌日、綾美と交替した好夫は山林に入った。伐採した木をかつぎ降ろし、庭の一角で一・二メートルの長さに切りそろえる。これがかなりの重労働であった。一方で、かれは新たな窯の作製に入った。手ごろな石をあつめてきて組み立てる。小屋掛けまで計算すれば、半年はかかるだろう。

「わたしが生きているうちに、新しい窯はきっと完成しないわね」

 炭で顔を黒く汚した彼女が、慣れてきた赤毛の犬の頭をなでていた。

「そのことだけど、写真家は真冬の山で逝ったんだから、墓は雪山に造ったら? なにも金を使って石屋に儲けさせなくても」

「どんなふうに?」

「雪の墓さ」

 写真家の遺骨は骨壷に入れず、雪のなかにじかに埋める。春がきて雪の墓がとけたとき、遺骨は自然にもどる。過疎の町に、いくらりっぱな墓を作っても、将来、面倒をみる人もいなくなる。風化してくる。だったら、とけて消える氷雪の墓でもおなじだ、と勧めた。

「墓が消える春先まで、遅くてもわたしのほうも死ぬ必要がありそうね」

「そんなふうに、ことばを曲げなくてもいいんだ。あわてて自殺しろとはいってない」

「いいのよ、別に。でもね、雪解けの時期までは、ここで頑張ってみるから」

 綾美はどこまでも生命に期限をつけていた。

 窯が休みだったある朝、好夫が母屋の窓から顔を出して天候をさぐっていた。山霧が谷間を流れる、天気の変わり目だった。

 土間からやってきた綾美が、茶だんすのうえに、花瓶がわりの牛乳瓶をおいた。

「誕生日、おめでとう、いま裏山で摘んできたの。まだ朝露に濡れているわ」

 彼女は野バラの花を二輪挿してくれた。バラの水滴が光ってみえた。わずか二輪だけど、綾美は花の向きを気にして活けなおす。

 後ろ姿を見つめる好夫は、花を贈ってくれた綾美の心をひそかに覗いていた。……綾美は黒沼への不滅の愛を抱いている。だが、死んだ黒沼はもはや呼吸も、感情の発展ももっていない。時は忘却をつくるという。

 榊先輩が語っていた、いくら深く愛していた女性でも死んでしまえば、去るものは日々に疎しだ、と。綾美の亡き黒沼への想いはいつか崩れ、疎くなるだろう。いまや、その兆候が現われてきたのだろうか。

 黒沼一辺倒の綾美の愛をこちらに引き寄せてみたい。しかしながら、かれには綾美への愛を勇敢に語れる、有能な男になれる自信はなかった。誕生祝いの贈り物の感謝のことばすら、上手に出てこないくらいだから。

「どんな感じかしら。この角度で」

 綾美の微笑は、これまでにないやさしさに満ちていた。

「気にいったよ」

「よかっか。ところで、わたしの方は非番になるから、午後から隣の山にいってみるわ。場合によったら、泊り込みになるかもね」

 綾美はこのところ近在の古老の炭焼き小屋に足をむけ、秘伝を授かっている。古老たちは、若い女が過疎の町にやってきた、炭焼きに興味をもった、永く留まってほしいとおしみなく指導しているようだ。

 綾美が窯に火を入れるとなると、あえてここまで脚を運び、指導する光景があった。人数は近ごろ増えてきた。好夫が当番で窯に火を入れるとなると、長老たちはぴったり来ないのだ。

「研究熱心だな。泊り込みとは」

「皮肉?」

「いや。誉めたんだ」

「わたしにはそんなふうに聞こえなかったけど……。実はちょっぴり言いづらくて黙ってたんだけど、先週、窯から取りだした炭がJAに出荷できたの」

「負けておれないな」

 好夫は強い焦りをおぼえた。

「炭焼きの勝敗はわたしのほうがずっと優勢ね。このさき、あなたが川に身投げしたら、どこに骨を埋めてあげたらいいのかしら?」

「いやなことを覚えてるな。雛がきょう卵を産んだ。おれの成果はそんなものだ」

「だったら、卵でオムレツを作ってあげましょうか。誕生日だから」

「一緒に食べるかい」

 好夫は愛の一端をほのめかした。

「あなたの誕生日でも、わたし黒沼さんの仏前で食べるわ。それだけは譲れない生活なの」

「まあ、いいさ。こっちも独り身の、自炊慣れしてる人間だから」

 肩透かしをうけた好夫は、投げやりの口調でいった。

 綾美の作った炭は出荷の都度、等級が上がり高値がつきはじめたようだ。長老たちは五年かかるところを数か月でマスターした、彼女は利口だと称賛しているらしい。

 好夫のほうは一箱も出荷できていなかった。

「くそっ。また失敗か」

 かれは窯の内部で燃えつきてしまった灰を掻き出す。なさけない心持ちだった。

「どうしたの?」

 背後に綾美が立っていた。

「別に」

「伝授しましょうか。炎にヒントがあるのよ」

「自分で研究し、成功させるさ」

 かれはふりむきもしなかった。

「基礎はしっかり教わったほうがいいみたい。なに事もそうだけど」

「余計なお世話だ」

「怒ってるのね。きょうもJAからまた入金があったし、ご馳走するわ。窯が休みの日に町なかに出てみない?」

「恵んでもらいたくない」

「相当すねてるのね。わたし黒沼さんにこだわり過ぎていたし、ふたりで食事くらいはしてもいいとおもったのに」

「自分の食い扶持は、自分で稼ぐさ」

「ご勝手に。意地っ張りなのね」

「ひねくれた性格だと、はっきり言っておいたはずだ。共同生活がはじまるまえに」

「そうかしら、記憶にないわ」

「口ではっきり言わなくても、感じていたはずだ」

 こんな会話のあと、好夫は裏山の畑にでむいた。一日じゅう農機具を動かした。彼方には青空を背景にした仙丈岳が白銀をまぶしく輝やかせていた。山岳はすでに冬支度をはじめている。これからは白雪が紅葉で染まった山肌を駈け下ってくるだろう。

 綾美が古老の炭焼き小屋に出掛けた直後、猪俣と榊がふいに立ち寄った。初冬の仙丈岳に登るのだ、一緒にいかないかと猪俣が好夫を誘った。窯に火を入れている最中だし、手があけられないと断った。佐久間綾美がここで炭焼きをしていると聞いて、とくに榊が驚いていた。

「距離のある生活ですよ」

 と説明しても、一つ屋根の下で生活すれば、人間は情が移るものだ、過去の経緯はともかく、彼女の憎しみが愛に変わる、と榊がいった。猪俣も同感だという。ふたりは好夫と綾美が結ばれるという愛の予言なるものを残して、仙丈岳の登攀に向かった。

 翌々日の朝から、山頂に重たい雲がかかりはじめた。これは仙丈岳特有の天候で、やがて大荒れになる兆候だった。好夫がにらんだとおり、夕暮から山麓にも雪がちらつき、仙丈岳が雲のなかに姿を消した。

「あしたは麓も雪だ。積もるぞ」

 かれは薪を割っていた。茅葺きの軒下には、薪がさらに積み重なっていく。

「山の天気はよく読めるのね」

「まあな、そろそろ氷雪の墓でも作りにいくか。スコップを用意して。自分の墓をみれば、あんたも心構えができるだろう」

「ずいぶん嫌味ね」

 綾美がいった。

 一ヵ月後、大雪が降った。長靴姿の好夫がスコップで、農道から窯の前につながる、傾斜道の雪を路肩へとかいていた。

 窯口のほうから綾美が、好夫に声をかけてきた。これまでで最高の備長炭ができたという。

 彼女は自分の腕に惚れぼれとした表情で、真っ赤な炭をとりだして見せた。

 好夫はスコップの柄を杖がわりにした格好で、さり気なく眺めた。好夫は出荷一つできないうえ、ここに及んで、さらに遅れを取ったという屈辱が心のなかに拡がった。

「わたし腕が一段も、二段も飛躍してきたような気がするわ」

「人間の生命は燃えつきるまえに、ぱっと咲くというからな」

「ずいぶんね」

「ひねくれ者のおれに、上等の炭を見せびらかすからだよ」

「わたし炭焼きに、もうすこし人生をかけてみたくなったの。死ぬ、死ぬと騒いできた、わたしを軽蔑してくれてもいいけど、この際、黒沼さんと別れることにきめたわ」

 彼女が鋸で炭の長さを切りそろえた。

「山岳写真とも、おさらばかい?」

「そうよ。今回、窯に火を入れるまえ、額縁は鴨居から外してバッグにしまいこんだの。捨ててしまうほどの決別はできないけれど。欲しい人があれば、差し上げられるわ」

「白い分骨の男よりも、真っ黒い炭のほうが好きになったというわけだ」

「おどろかないで。あなたが好きになったかもよ」

 綾美が本気とも、からかいともつかない目をむけてきた。

「冗談でなければ、うれしいけど」

「うそ、迷惑なくせに」

「そんなことはない……」

 次の言葉が口からうまくでない。

 好夫はただ綾美の顔を見つめていた。猪俣と榊が残した、愛の予言が脳裏を横切った。この場は無言でいたくなかった。彼女の心に深くひびくような、愛のことばをいいたかった。だがバカね、冗談よ、と綾美から軽くあしらわれそうで、この話題に深く入っていけなかった。

「いまのわたし、黒沼さんの分骨(たましい)をはやく地にもどしてあげたいの。偽らざる心境よ。黒沼さんとの決別をきめた以上、いつまでも遺骨を赤松家の仏壇におけないし」

「近々、氷雪の墓をつくりにいくとするか。山岳写真家の墓らしく、仙丈岳の山頂がいちばん美しく眺められる稜線に」

「おねがいするわ」

「三、四日後なら、すかっとした青空の、いい晴れ間になる。山岳(やま)はもう根雪で固いし、墓は造りやすいはずだよ」

 気紛れな仙丈岳は、冬の荒れた吹雪の日もあれば、穏やかな日和りもある。好夫は日ざしの強い日を見通していた。

 北沢峠からさらに登った場所で、ふたりは雪の墓を作り、写真家の遺骨を納骨した。

 フードをかぶった綾美が頭からそれを外し、合掌する。彼女のかなたには、青空のもと仙丈岳の巨大なカールが鮮やかに浮かぶ。稜線の雪が突風で吹き飛ばされている。

 墓前から立ち上がった綾美が山頂付近を指し、雪煙が魚の尾びれのようだという。

「おれには白い炎にみえる」

「白い炎……? わたしのもっている白い炎のイメージは窯のなかよ」

「というと?」

「ほら、窯のなかで樹の水分が蒸発してきて、炎が白っぽく、ぽっ、ぽっと見える状態があるわよね。白い炎がずっと維持できれば良い炭ができるの。それが発見できたときから、わたしの腕があがってきたわ」

「そうか、白い炎か。これはいただきだ、窯の適温が読めたぞ」

「あっ、失敗。口が軽かった。これだけは伝授したくなかった。あなた自身が発見してほしかったわ」

 彼女はことのほか悔しがっていた。

「白い炎の燃焼温度は判ってるんだ。かならず出荷できる炭を作ってみせる」

 好夫は自信に満ちた微笑みを浮かべた。

「じゃあ、期待してあげる」

 綾美はふたたび雪の墓標にむかって手を合わせた。そして、大きく木霊(こだま)するような声で、さようなら、と黒沼への惜別をいう。

 彼女の横顔には、人生の一つの区切りというか、音楽的にたとえるならば、休止符のような表情があった。

 

               *

 

 墓標づくりから一ヵ月半ほど経った。

 酷寒のある日、赤松家の庭には新たな窯が完成した。初窯はふたりの共同作業だときめていた。将棋盤ほどの狭い窯口から、五本ごとに束ねた一・二メートルの薪を窯の奥から順に、やや斜めに立てかけていく。綾美のシャツの背中は汗で染まっていた。

「火入れ式だ」

 綾美がちいさな炎を入れると、樹皮がパチパチと燃えはじめた。二時間ほど焼くと、窯口を密封した。これから一晩は生木を芯まで徐々に乾燥させていく。炭化してくると、二時間ごとの窯の内部の温度調整だった。初窯だけに、綾美が嬉々とした目で、用心深く煙突を塞いだ煉瓦を微細にうごかす。

 翌々朝の五時から窯だしをはじめた。好夫が灼熱色の薪を取りだす。うしろでは綾美が水分をふくんだ灰をかける。水蒸気と熱気が大気を支配する。あとは自然に冷ますだけであった。

「上出来な炭だ。一級品で出荷できるぞ」

「いい光沢(つや)ね。ふたりの努力の結晶だから、記念にすこし残しておこうかしら」

 微笑む彼女は記念品として七本を残した。そして木琴(もっきん)のように長さを切り揃え、序列をつけながら音階を調律していた。

「童謡くらい、奏でられるわよ」

 綾美が細い金属棒で炭をたたいて鳴らす。単調なメロディーの曲を奏でる。足りない半音階は口で補足する。

「さすが、もと音楽の先生だな」

 好夫が彼女の器用さに感心しながら、リクエストした。一方で、ふと伊興町のアパートで聴いた、ピアノの旋律を思い出した。音大卒の綾美はあれ以上の技量で弾けるのだろう。

 綾美が二曲ほど奏でたとき、電話が鳴った。それは川島組合長からで、好夫にレスキューの出動要請がきたのだ。受話器をおいたかれの顔がとたんに暗い表情になった。

 雪はいま小降りだが、次の低気圧が接近してきているので、山岳はかなり荒れるはずだ。

 かつての好夫は、父親の(たか)り根性が嫌だったことから、妻子をもった多くのものが死を恐れて踏みこめない岩壁でも、積極的にうけもってきた。死ぬ気など微塵もないけれど、死んでも悲しむ人間はいないさ、とわが身を困難にさらしてきた。

 その意味からしても、好夫の手をかりるときは難易度の高い救助活動を強いられるときでもあった。

「仙丈岳でレスキューなんだ」

「いつ帰ってくるの?」

 綾美の目が不安で光った。

「二、三日かもしれないし、それ以上かもな。行ってみないとわからない」

「わたしをここに残して、死なないでね」

 綾美がじっと好夫の顔を見つめていた。

「炭焼きで負けたんだ。一層のこと、おれが断崖から飛び込んでくるさ。あとはこの窯で焼いてくれ、好きなように」

「ばか」と平手打ちする彼女の手首をつかんだ。

「怒ったのかい?」

「あなたを失いたくない」

 綾美の目から涙が落ちた。

「なぜ?」

「あなたが好きだから。黒沼さんの遺骨を雪の墓に埋めるまえから、あなたのことを……。あなたの人柄に惹かれていたの」

 綾美が突如として、好夫の胸のなかに顔を埋めた。

 誕生日に花を活けてくれた。あれはすでに愛の表現だったのだろう。……一つ屋根の下で生活すれば、彼女の憎しみが愛に変わる、と予言した猪俣と榊のことばがまたしてもよみがえってきた。

 死なないでね、と綾美はからだをふるわせた。綾美が目をとじたまま顎をあげた。両唇が重ねあわさり、歯と歯がぶつかりあった下手で幼稚なキスだったが、好夫は強く抱きしめてふたたび唇を重ねた。

 四輪駆動車が敷地の奥までやってきた。キスするふたりのそばで、ことさら愉快そうにクラクションを鳴らした。かれはふだんから用意している登山道具をトラックに積みこんだ。

「死んだら、いやよ」

 綾美が恥も外聞もなく叫んでいた。

 雪道を走る車のなかで、好夫は目を閉じた。胸のなかに、彼女との唇の感触を大切にしまいこんだ。あまりにも幸せすぎて、かえって今回のレスキューがこわいような気がした。

 車は急斜面を登る。前方の雲のせわしない動きから判断すると、山岳はもはや荒れてくる気配をみせはじめている。

 このさき遭難者とはどんな関わりで、どんな結果が生じるのだろうか。稜線の白い炎が自分のいのちを狙って襲いかかるような、嫌な予感がする。場合によったら死ぬ。

 ここは死んでなるものか。無事に帰ったら綾美にこう言おう。このさき一生かけて名人といわれる炭焼き夫婦になってみないか、と。彼女はきっと承諾してくれるだろう。

(いまは仙丈岳から生きて帰ることだ)

 重い雲に見え隠れする山岳をにらみつけながら、好夫は自分自身を一層ひきしめていた。

 

 

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2015/07/03

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穂高 健一

ホダカ ケンイチ
ほだか けんいち 小説家。1943(昭和18)年、広島県生まれ。「千年杉」で第42回地上文学賞受賞。

掲載作は第11回あだち区民文学賞受賞作品で、2001年03月「足立区民の本」10として(財)足立区コミュニティ文化・スポーツ公社より刊行されたもの。

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