風流懴法
横河
今朝
横河は叡山の三塔のうちでも一番奥まってゐるので淋しい事も亦格別だ。二三町離れた處にある大師堂の方には日によると參詣人もぼつ/\あるが、中堂の方は年中
和尚サンは布團から丸い頭だけ出して
余は和尚サンの部屋を出て玄關の並びの自分の部屋に戻る。机に
其から二時間程余は用事をしてゐて何事も忘れてゐた。ふと氣がつくと和尚サンはまだ寝て居られる。雨はまだ靜かに降つて居る。臺所に物言が聞えるやうだ。不思議に思って行つて見ると、暗い臺所に白い
「君は何處の小僧サン」
と余が聞くと、
「大師堂」
と大きな聲で答えて、
「どうして昨日湯に入りに來なかつたの」
と友達のような口をきく。
「
「折角僕がわかしてやつたのにナア」
「君がわかしてくれたのか、其はすまなかつた。此次は
「僕はあすうちへ歸るのだヨ」
「君のうちはどこ」
「僕のうちは東京、だけれど京都に伯母サンがゐるの、あすは伯母サンのうちへ行くの」
「伯母サンのうちは京都のどこ」
「
「祇園町」とは一寸意外であつた。
「祇園町といふのは何處」
と
「祇園町を知らないのか。馬鹿だナア」
と小僧サンは甚だ輕蔑した調子で、
「君はいつまで此處に居るの」
「僕か、僕も明日京都へ行く積りなの。いゝヨこゝに
「まア貸したまへ僕が拭いてやらア。明日京都へ行くのか。此次は這入るナンテ、今度いつ湯がわくと思ってゐるのだ。間抜けだなア、五日目/\で無けりやわかないのだヨ」
機鋒鋭くして當るべからずだ。
「さうか、其ぢや大師堂のお湯にはもう這入れないね。困ったナア」
「困らなくたつていゝや。アンナ汚ない湯に這入らなくつたつて京都にいくらでもいゝ湯があらア。君、湯は東京より京都の方がいゝヨ。京極にいゝ湯があるぜ、蒸氣でわかすのだヨ」
「君はいつ小僧サンになつたんだい」
「二月」
「二月つて今年の二月かい」
「ウン」
「東京にはいつまで居たの」
「去年まで。尋常を卒業するとコチラヘ來たの。君、櫻田小學校知つてるかい。僕あそこに行つてたんだヨ。山崎や
小僧サンは茶碗や皿を戸棚に片附けて臺所を掃除して、ヅン/\余の部屋に這入つて來る。
「君勉強してゐるのかい。君全體何しに來たの。遊びに來たのかい。‥‥馬鹿だナア。コンナもの書いてらア。全體何の畫だい。下手だナア。僕の方がよつぽどうまいや」
と火鉢の向うに坐って机の上に置いて置いたノートブックを開けて痛罵を試みはじめる。
暗い臺所から明るい部屋に來て見ると小僧サンはなかなか美少年だ。年は十二三で、色白で、目が大きくつて、口元が締まつて居る。
「よう君、何を書いたんだい。
元來
「『
と余の顔を見る。大きな目に冷笑の光を
「全體君は何だい。何を仕事にしてゐるんだい。妙な事を書き留めとくんだナア」
と獨り言のやうにいひながら、紙の間に挿んであつた鉛筆を取つて余の顔を寫生し始める。一寸
「駄目だナア、君は動くから駄目だ。こゝの和尚サンを書いて見ようか。こゝの和尚サンは大きな頭をしてゐるだらう。こんな頭だぜ。それからねえ、耳がこんなに‥‥まるで
とだん/\聲を張り上げて來て、
「それからねえ君、和尚サンの耳は動くぜ。不思議だぜ。どうかしたはずみにぴこ/\と猫のやうに動くんだもの、僕ア不思議だと思つちやつた」
和尚サンは「ウーン」と布團の上に白い片肱を突き出して片々の手で
「ヨセ/\、ソンナ人の惡口をいふものぢやない。君は
と余は
「有難う」
と早速一つ頬ばる。余の飮みさして置いた茶碗の上に冷たい茶を注ぎ足して飲む。
和尚サンは、
「アゝ、よく寢たこっちや」
と
「
「邪魔なんかするものですか」
と手帳の上に和尚サンの欠びの圖を書いて顔中口にする。さうして其口から棒をひいて「一念キテイタカ、オ客サマノジヤマシテハイカヌゾ」と書いて、又耳から棒を引いて「コノ耳ウゴク」と書く。余ば覺えず噴き出す。一念は知らぬ顔をして、
「寶珠院サンは今日
と一寸和尚サンの方を見てすぐ今度は眼鏡を掛けた和尚サンの似顔を描く。見ると成程
「けふは十二日だな」
と迂遠なことをいわれる。
「十四日ですよ」
と余は答へる。
「十四日か。もうさうなるかな。あなたが來たのがをとと
余は、もう五日間滯在して居る、其を一月程にも覺えるのに和尚サンは
「あなた
「納豆は閉口ですが、蕗の薹は結構です」
「それではあすお歸りまでに蕗の薹の
一念は聞かぬ風をして「明治二十八年十月二日
と鉛筆を壓へ附けて四角な字をノートに書いて居る。
「蕗の薹の田樂といひますのは」
「蕗の薹を串にさして味噌を附けて燒くのぢや。よほど
「そりや結構でせう。兜率谷といふと
余はこゝに來てから全く精進料理許りを食つて居る。それも煑豆に
一念は余の机の上を掻き探してゐたが、
「これ、君何だい」
と安全
「剃刀だよ」
「剃刀だつて。馬鹿だナア。こんな剃刀で君は
と頻りにひねくつて見て居る。
「一念、御邪魔をせんやうにして、少し臺所の事でも手傳つてくれよ」
「一念君は最前もう大變働いてくれました。茶碗や皿をすつかり洗つてくれました」
「さうであつたか。其は御苦勞であつた。
一念はだまつてまだ剃刀をいぢつてゐる。
「どうやつて
「斯うやるのサ」
と余はやつて見せる。
「馬鹿だナア」
と再び受け取つて
「君いつ剃つたの。今剃つて見たまへな。よう、剃らないのかい。馬鹿だナア」
と感心する時も不平な時も「馬鹿だナア」といふ。
「一念、お湯をわかして呉れまいか」
と和尚サンはゆつくりと又くりかへされる。
「君、和尚サンが何かいつて居られるぢやないか」
「剃つて見ないのかい。間抜けだナア」
と一念はいかにも殘り惜しさうに剃刀を見返りながら臺所に立つて行つた。程なく茶釜の下を
「中々才ばじけた小僧サンですね」
「どうも
と和尚サンは火燵から出て背延びをせられる。大きな頭が目についてをかしい。一念は何をしているのか只松葉のはねる音が聞える許りだ。
和尚サンは火燵櫓をのけられる。其趾がすぐ爐になる。其處に鐡瓶をかけて其邊の
「お茶を入れう。仕事の切れ目ならお出でんか」
「頂戴しませう」
と爐の向う側に坐る。
「わしは冬でも藤枕をするので‥‥けふはどういふ具合であつたか頭がしびれたやうだ」
と下にしてゐられた右側を
「寢がへりもなさらず片側許り下にしてゐらしつたからでせう」
「寢がへりといふものは平常からあまりしませぬて。戒律に
と和尚サンは
「和尚サンおいくつです」
「わしかな、もう丁度ぢや」
「五十ですか」
「さうぢや。もう來年位からは小僧か男を一人置かぬと、自炊が
「さうでせうとも。一念サンは寶珠院サンの御秘蔵ですか」
「寶珠院は持てあまして居るのぢや。わしに預つてくれともいふとるのぢやが、わしの手にもあまりさうぢやて。ハヽヽヽ」
と最中の壊れてゐるのを掌に載せて丁寧にたべられる。爐の緣にこぼれたのを指尖でおさへて口へ持つて行かれる。
「和尚サン、お湯が沸きましたよ。サヨナラ」
と一念の聲がする。
「さうか、其はお世話であつた。もう
と延び上るやうにして大きな聲を出される。成程和尚サンの耳は少し動く。ノートに書いた一念の畫が思ひ出されてをかしい。併し一念はもう裏口から帰つたものと見えて返辭が無い。
一力
「其が名高い赤前垂れかね」
と聞くと 、お艶は 一寸氣取つて蝋燭の
「さうどす。これは
といふ。阪東君が、
「一寸立つて見せたまへ 、長いのかい」
ときくと、お艶はだまつて立つて、帶に挾んであるのをはづして見せる。大幅の緋の
「
といふ聲が聞える。舞妓は余等の前に指を突いて、
「姉はん、今晩は」
とお艶に
「お前いくつ」
「十三どす」
「ほんまに可愛い兒どすやらう。私等毎日見てますけど、見る
とお艶は
「其帶は妙な結びやうね」
「これどすか、かうやつて、こゝをかう取つて 、こつちやに折つて、かう垂らしますのや」
と赤いハンケチを膝の上でたがねて見せる。白い指が其ハンケチにからまつて美くしい。
「何といふの其名は」
「だらり」
「
「
「櫛は 」
「これどすか」
と白い手を前髪の後ろにやつて、
「花櫛、これは前髪くゝり。あなた何書いとゐやすの」
と余のノートを覗き込む 。
「三千歳はん、今日
「ハー」
「何というてお拜みだ」
「
銀紙の衝立の蔭から又人形が一つ出る。
「
「姉はん今晩は」
と三千歳に並んで坐つて、
「今日お詣りやしたか」
と三千歳の手を取って自分の膝の上に置く。
「ハー」
「歸りしなにあとお向きやへなんだか 」
「向かしまへなんだ」
と三千歳は靨の上を兩手で壓える。
「面白さうなお話ね」
と聞くと、
「虚空藏様に詣つて戻り道にあと向くと智惠かへしますてやわ。あの染菊はんな、つい忘れてあと向かはつて、歸らはつてから阿呆にならはつたて、おゝいや」
とお艶がいふ。
「いやらし」
と三千歳と松勇は同じやうに眉をよせて同じやうに背中の帶に手をやる。一つの絲で二つの人形が一所に動いたのかと思はれる。ちりけ元から垂れた帶は松勇のが殊に長く疊の上に流れて居る。
「其帶は何といふ結びやう」
と又松勇に聞いて見る。
「これどすか、だらり」
「髷は」
「京風」
と同じ事をいふ。
銀紙の衝立の蔭から今度は人形が二つ出る。
「
「
「姉はんおほきに」
「姉はんおほきに」
と二人並んで燭臺の向うに坐る。
「二人の帶は」
と又聞くと、
「これどすか、だらり」
と喜千福が玉喜久を見る。
「髷は」
「京風」
と玉喜久が喜千福を見る。
「同じ事お聞きやす」
と三千歳は笑つて又ノートを覗き込む。
「喜千福はん、あんたの顔見て書いとゐやすわ。妙な顔にお書きやしたえ」
と三千歳がいふ。皆が笑つて喜千福の顔を見る。
「おゝ晴れがまし」
と喜千福は長い袂の中程で顔をかくして、
「姉はん、
「お花はん貰ひにやつたの、もう來やはるやろ。あんた都踊にお出るのン 」
「ハー」
「踊りばつかり」
「踊りと鼓」
「三千歳はんは」
「踊りばつかり」
銀紙の衝立の蔭から今度は五十餘りの藝子が出る。
「お花はんあげます」
「姉はんおほきに」
とお艶に會釋して坐ると、
「姉はん」
「姉はん」
「姉はん」
「姉はん」
と四つの人形が先を爭つて、老妓にお辭儀をする。
子供
『牡丹に戯れ獅子の曲』
とお花が少し
『目前の
と
『暫く待たせ玉へやと』
と其から調子が進んで來て、
『獅子とらでんの
の處でパタ/\と勇ましく拍子を踏む。余は便所に立つ。
「あぶのつせ」
といひ乍らついて來る。
『獅子の座にこそなほりけれ』
といふ聲がかすかに後ろで聞える。下座敷も
「君來てるのかい」
といふものがある。ふりかへつて見ると一念だ。
「祇園町知らないなんて嘘いつてらア。君今日
となつかしさうに寄つて來る。
「君の下山た翌日に下山たのサ。‥‥こゝが伯母サンのうちかい」
「さうぢやないんだい」
「僕の座敷に來たまへナ」
「厭だ」
「なぜ、叱られたら僕が詑びてやるから來たまへ」
と手を取つて連れて戻る。
『玉椿の八千代までもと
と松勇が踊るのをお花は
「一念はんおいなはつたン。旦那はん知っとゐるの」
と三千歳は一念を小手招きして其傍に坐らせる。一念も大人しく其傍に坐る。
「旦那はん、あんたはんどつから其御夫婦連れといやしたの」
とお艶がいふ。
「何これが御夫婦なのかい」
と余は驚いて二人を見る。
「あたい一念はんに惚れてるのどつせ。
と三千歳は可愛ゆい口をむつと閉ぢて一座を見る。
「えらいおのろけ、かなはんな」
とお花は
「またこんな事かいてるナ。『ウーンと首』つて君何の事。『きといた』つて君何の事」
「きとおゐやしたといふ事をさういひますがな」
と三千歳は美しい顔を一念にすりつけるやうにしてノートを覗き込む。
「さっきもいろ/\書いとゐやした。この畫けつたいな畫やおへんか 」
「下手な畫だねえ。これ誰を書いたのかい。三千歳さんかい」
「喜千福はんどすがナ。
「けったいえなあ。一念はんほんまに動くのか。さうか、妙な耳えなあ」
「一念はん。尋常卒業おしたんか」
「したヨ。三千歳サンは」
「しました。去年、一念はんは」
「僕も去年」
「さうか同じやな。一念はん優等か」
「僕は一番だつたよ。すつかり甲だつたよ」
「さうか、おゝえら」
「三千歳サンは」
「一年の時はお
「何が乙だつたの」
「體操」
「三千歳サン、斯ういふ字知つてるか」
「知りまへん、そんなむつかしい字。一念はん知つとゐるか」
「
「そんな
「そんな
「
「そんな藝者の事なんか知つてたまるかい。其なら斯ういふ字よめるかい」
「むつかしい字えな。知りまへん」
「
「そんなら一念はん斯ういふ字知つとゐるか。書いてしまふまで見んと置きや」
と長い袖でノートを隱すやうにして何やら書く。花櫛が
「さあお見。これ何といふ字どす」
「馬鹿だナア。へのへのなんか書きやアがった 」
「君達は僕のノートをオモチヤにするんだナ。よろしい。其を横河の和尚サンに送つて一念は嫁サンがあつて二人でこんないたづらをしました、とさういつてやるよ。いゝかい」
「いゝやい。間抜け」
「一念はんの事お告げやしたらひどい目に合はせまつせ。今度お出でやしたら殺したげまつせ」
「こはい事。旦那はん、こはいこつちやおへんか。三千歳はんに殺されたら痛い事どすやろ」
「赤い血が出ないで白い血が出るかも知れない」
「なんぼとおなぶりやす。ナア一念はん二人でひどい目に合はしたげまほナア」
「間抜けの顔を僕が書いて見ようか。そらこんな四角な顔だらう」
「そや/\」
「こんなに眼尻が下つてらア」
「そや/\」
「こんなに鼻がふくれてらア」
「そや/\」
「こんなに頭が
「そや/\」
「こんなに首が延びてらア 」
「そや/\、本間によう似てるわ。松勇はんお見んか。旦那はんの顔によう似てますやろ。一念はんは畫が上手えなあ」
「さう男はんの
「いやな姉はん。いふとくれやしたらするのに。
囃子が始まる、三千歳と松勇の太鼓に喜千福と玉喜久が
「
と阪東君が醉眼を開く。お花が三味線を取り上げると、今度は小末が踊る。
「わしが在所は京の田舎の片ほとり、
一念も三千歳も並んで大人しく見て居る。小末といふのは十七八で、髪は江戸ツ子の島田に結つて
「君食はないか 」
と
「僕は坊主だから食はない」
「其で君三千歳サンに惚れられたり、小末サンに見とれたりしていゝのか」
「何いやがるンだい」
といひながら三千歳の前の皿にある林檎の切れを取つて食ふ。
「中のえゝ事」
と松勇が逃腰をしていふ。
「よろしおすやろ」
と三千歳はツンとすます。
『手を引いて、グードバイして
といふ今度は今めかしい唄をお花がうたつて玉喜久と松勇が踊る。其内小末と喜千福も一所に踊り出す。そこがいかん、ここがいかんとお花が直ほす。
『手を引いて、グードバイして二足三足‥‥』
と同じ唄が何遍といふ事なくくりかへされる。まるでお稽古が始まつた樣だ。しまひには阪東君が立つてをどり出す。不器用な踊り具合がをかしい。お艶が笑ふ。
下から仲居のみねが、
「一念はん。伯母はんが迎へに來やはりましたえ。早うお歸り」
といつても一念はだまつてゐる。
『互いに見合わす顔と顔』
といふ處で阪東君の眼つきがをかしいといつて皆がどつと笑ふ。一念も笑ふ。
「おい一念君、伯母サンが迎ヘに來なすつたつていふぢゃないか。叱られぬやうに早く歸りたまへ。そらお土産だ」
と今持って来た許りの生菓子を半紙に一包やる。
「叱られたつていゝやい」
とお菓子をひつたくるやうに取つて、
「もう君横河ヘは歸らないのかい。僕
といつてお菓子を兩手に持つたまゝ歸りかける。
「一念はん、ハンケチ貸しまひよか」
と三千歳は立上つてハンケチを振る。一念は一寸振りかへつたが知らぬ風をして踊の中をかけぬけて歸つて行つた。
京都名物のむし
「三千歳はん、一念はんが歸らはつて
「おほきに」
「利口な小僧だなア。三千歳さんが惚れるのも無理はない」
「お父つあんもお母はんも無いのやてな。可哀想やおへんか。どうして横河みたいな
と三千歳は沈んで居る。
横河の夜は
「ハーーイーー」
といふ子供衆の長い返辭が楼中に響きわたつて聞える。
叡山詣をして東塔、横河等に滯在してゐる間に天台の教への諸法實相、一念三千等の教義を聞くともなく聞いた。一念、三千を割つて一念、三千歳としてこの一篇を書いたのである。『ホトトギス』掲載。
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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