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月のない晩に

 私はちっぽけなおんぼろ船の中で(ひざ)をかかえてうずくまっている。とても狭い所に人がぎゅうぎゅうつめこまれていて、重くて沈んでしまわないかと心配になるほどだ。暗がりの中でだんだんにまわりが見えるようになってくる。鼻の下から(あご)まで髭をはやしている目つきばかり鋭い男。小さな男の子を連れた若い母親。隅のほうに釣り竿が何本も低い天井に届きそうに並んでいて、そこには年嵩(としかさ)の男たちばかりが集まっている。何かに取り()かれたみたいにぼう然としている人、おびえたようにしきりに視線を泳がせている人、でも目だけはみんな異様に光っている。むせかえるような空気は人の吐く息と汗の臭いのせいだろう。私は息を殺すようにして出航を待っている。隣をふり向くと、そこにいるのは若い頃のママだ。髪を真中で分けてお下げにした、可愛いえくぼの十七歳の少女だ。

 夢の中で、私はいつもママの大好きだったホア姉さんになる。ママは不安そうに眉間に(しわ)を寄せて震えている。「姉さん」と言ってママは私にしがみついてくる。「大丈夫。きっと無事にどこかにたどり着けるから」私はそう言ってママの華奢(きやしや)な肩を抱きしめる。ママは少し安堵(あんど)の表情を浮かべて目をとじた。でも私だって本当は不安で胸がつぶれそうなのだ。

 船頭が屋根を少しあけた。四角い空の中で星がひしめきあって(またた)いている。ぞっとするほど静かだ。どこかに無事にたどり着いて、陸の上から月や星を眺める日は来るのだろうか。私は今夜も、船に揺られママと一緒にあてどのない旅に出る。

 

 私の名前は雪村花。ママは時々私のことを「はな」と呼ばずに「ホア」と呼ぶ。ベトナム語で「ホア」というのは日本語の花を意味するらしい。私は日本生まれの日本育ち。ママの生まれた国のことは写真でしか知らない。小さい頃、私はママが日本人じゃないなんて知らなかった。ママは他のお友達のお母さんと同じように上手に日本語を(しやべ)ったし、顔立ちだって日本人とまったく変わらなかった。知らない言葉で子守唄を歌ってくれたことがあったけれど、私が「どういうお歌なの」って聞いても微笑むだけで何も教えてはくれなかった。いま考えると、ママは一生懸命に日本人になりきろうとしていたんだと思う。幼稚園のお弁当にはいつものり巻きやおむすびが入っていた。ひな祭りには七段飾りのお人形を飾って、ちらし寿司と(はまぐり)のお吸い物を作ってくれた。七夕には短冊にお願い事を書いて一緒に笹の葉につるした。ママのお父さんとお母さんは遠くに住んでいるって聞いていた。ママは毎年、短冊に「お父さんとお母さんが元気でいますように」って書いていた。十五夜になるとススキを飾り、お団子を供えてお月見をした。そのときのママときたらお月様をうっとり眺めていて、しばらくうわのそらになってしまうのだ。まだ小さかった私は、ママはかぐや姫になったつもりで月の世界に帰りたいと思っているんじゃないかと心配して、「ママ、かぐや姫っていうのは作り話なんだよ」と教えてあげた。私の方を向いてほほえんだママの顔は、なんだか悲しそうだった。とにかく我が家ではよそのうちよりも日本の年中行事をきちんとやってきたように思う。そしてそのときには必ずパパのお母さんが(うれ)しそうに訪ねて来ていた。

 まっすぐの黒髪を肩まで伸ばし、色白で目の大きいママは幼稚園や小学校でもとても目立った。私はそんなママが自慢だった。パパとママは大恋愛の末に結婚したらしい。パパは両親の反対を押し切ってママと二人で横浜の教会で式を挙げたのだ。そこまで愛されたママが私はちょっぴり(うらや)ましい。ママの本当の名はトラン・ティ・ランという。パパと結婚してしばらくしてから日本に帰化し、雪村蘭になった。それ以来ママは日本人になろうと無理して努力してきたのだ。辛い記憶を消したかったのかもしれない。

 ママが小さな船でベトナムから逃げて来たと知ったのは、私が小学校三年生のときだった。「そろそろ花にも本当のことを話さなくっちゃな」と言ってパパが私に話してくれたから。そのときのママは、にこりともせず怒ったような表情でパパの言葉を聞いていた。「パパがママのことを大好きになって結婚したんだ」って言ったときだけ少し笑った。

 けれども私の背丈が伸びて、ママの死んでしまったホア姉さんに日増しにそっくりになってきてからは、(しき)りに昔話をするようになった。最近では私とホア姉さんの区別がつかなくなることもある。パパはママがおかしくなってしまったのかもしれないって心配している。私はパパの顔を(にら)みつける。そんな風に片付けてしまおうとするパパは大嫌い。だってママはただちょっと昔と今を行ったり来たりしているだけなのだから。

 サイゴンが陥落してベトナム戦争が終ったのは一九七五年、ママが今の私より一つ年上の十五歳のときだった。その二年後の一九七七年にママは小さな船でベトナムを出国したのだ。

 

 月のきれいな晩は駄目だって船頭の男が言ったの。明るい晩では誰かに見つかってしまうからって。だから新月の夜を選んだの。家を出るとき、父さんと母さんは涙をいっぱいにためていた。でもママたちはまるで悲しいなんていう気分じゃなかった。それよりも、これからの運命がどうなるのか、一体どこに流れ着くのか、生きてどこかにたどりつけるのか、そればかり考えていた。船に乗りこむ前に見つかったらそのまま牢屋(ろうや)に入れられてしまう。それもとても怖かったの。だからもしかすると最後の別れになるかもしれないというのに、ママたちは父さんと母さんに五ドル紙幣をもらうとそれをぎゅっと握り締めてバスの停留所まで走ったよ。大きな荷物を持っていっては怪しまれるから、ちっちゃなカバンを一つだけ、ホア姉さんも弟たちもみんな持ち物は一つだけだった。父さんだって母さんだってせめてバスの停留所ぐらいまでは見送りたかったのだろうけど、そうすれば知っている人に会ってしまう。だから二人ともずっと戸口で手を振ってくれていたはずだわ。でもママたちは振り返る余裕なんてなかった。ママはそれでももう十七歳だったからこれからどんな大変なことが待っているのかは大体想像ができた。でも弟たちはね、何しろまだ十三歳と十二歳、今のあなたより年下で遠足にでも出かける気分ではしゃいでいた。ママと姉さんは二人とも怖くて震えていたけれどそれを弟たちに気取(けど)られないように必死だったわ。

 バスの中では、ママと姉さんは一言も言葉を交わさなかったけれど、弟たちったら鼻歌なんか歌っている。その頃サイゴンで流行(はや)っていた歌手の曲だった。でも他の乗客に気付かれないためにはかえって都合が良かった。カントー川の一つ手前の停留所でママたちはバスを降りた。その方が怪しまれないと思ったから。あたりには民家が点在していてママたちが川の方へ向かってぞろぞろ歩いているのを妙に思われないかと心配だった。ちょうどどこのうちも夕食の時分で、あたりには香草を煮たシーンとする匂いが立ち込めていた。ママははしゃいでいる弟たちをいさめながら黙々と夜道を歩いた。きっともう二度と美味(おい)しいベトナムの家庭料理は食べられないと思うと無性に寂しかった。スープを作る母さんの顔が浮かんできた。でももう引き返すことなんてできなかった。

 本当に暗い静かな夜だった。ちょっと人家が途切れて外灯もないところへ来ると、みんな一列になって手をつないで、先頭のホア姉さんは足をするようにして進んでいった。草が足に絡まってホア姉さんが立ち止まると、そのうしろの私は姉さんの背中にぶつかってしまったくらい。東京では考えられないでしょう。暗闇って本当になにもみえないの。そう、花がまだ小学生の頃、家族で八ヶ岳へ行ったね。あの時、まっくらで花が泣いたの、覚えている? 暗くて怖いし、この先何が起こるんだろうって、よけいにそんなふうに思えた。ホア姉さんの手がふるえているのが、はっきりとわかった。

 カントー川に着くと、草の茂みの陰から男の人の声が聞こえた。その人は、どこへ行くんだ、と聞いたわ。私たちは何と答えたらいいのか、もしも取り締まりの警官だったりしたら大変なことになってしまうから、黙っていた。すると今度は、船に乗るのか、と言った。ホア姉さんが私たちに耳打ちするように、シッ、と言った。でも、下の弟がすぐに、船に乗るんです、と言ったの。よし、こっちだ、と男は言った。それほど暑い晩ではなかったけれど、ママの胸は汗でぐっしょりになっていた。暗闇と同じ色だから、船がどこにあるのかさえわからない。ママたちは男の声のする方へ進んでいくと、黒い小さな影のようなものが、川の流れを受けて頼りない感じで揺れているのがみえてきた。姉さんが小さなリュックから金の延べ棒を二本取り出して男に渡した。父さんがこの日の為に隠しておいた我が家の唯一の財産だった。男はそれを確かめてから、あごを突き出して「乗りな」というしぐさをした。近づいて、だんだんに慣れてきた目でよくみると、ほら、いつかパパが連れていってくれた浅草の屋形船があったでしょう、あれをほんのちょっと大きくしたくらいの船だった。嵐がきたらひとたまりもないんじゃないかと思った。

 船の中はもう三十人ほどの人でぎっしりだった。ママたち四人は船のすみの方に腰をおろして出航を侍った。ママたちが乗りこんだ後からも十人くらいの人が乗り込んできて、どんどん奥のほうへ詰めさせられたよ。窓なんか一つもない船だから乗りこんでしまうと何も見えやしない。船頭が船の天井をあけるとちかちかと星が輝いているのが見えたの。それがサイゴンで見た最後の景色だった。

 

 ママは料理を作りながら、食器洗いをしながら、アイロンをかけながらそんな話をしてくれる。私には本当に目の前にいるママがそんなすごい体験をしたなんて信じられない。でもそれは、もしかするとママ自身が一番感じていることなのだ。この頃では同じ話を何度も繰り返したり、話の内容が少しずつ違っていたりすることもある。でもママはようやく本当の話ができるようになったのだと思う。今まで自分で忘れたふりをしていたことを、娘の私に話せるようになったのだから。

 ママの作る料理は、ほとんどが日本の料理だ。野菜の煮物や天ぷらや炊きこみご飯なんかとっても上手だ。ママは結婚したての頃、日本料理の学校に通って必死になって練習したらしい。日本料理は難しいからってよく言う。着物だって自分で着ることができる。七五三のときにもママが私に着物を着せてくれた。お正月が近づくと、ママは昆布巻きやお煮染(にし)めや栗きんとんをこしらえて上等の塗物のお重につめる。そして元旦には何本もの(ひも)をきゅっきゅっと器用に結んできれいに着物を着て帯を締めて、日本間にお人形みたいにちょこんと座って、新年の挨拶をする。全部義理ママつまりパパのお母さんからのプレゼントらしい。美人のママは日本の着物だってちゃんと着こなすけれど、何だかちょっと似合わないと私はいつも思っていた。それはきっとママが日本の人になりすましていた偽物のママだったからに違いない。

 二年前の結婚記念日にパパがアオザイをプレゼンドしたときには、ママは本当に嬉しそうだった。金色の縁取りをした薄い緑色のアオザイを着たママは、頬をほんのりピンクに染めて今まで見たことも無いほど輝いていた。アオザイをひらひらさせながら、バレリーナみたいにくるりと一回転して見せたママは「どう似合う?」とおどけて笑った。

 ベトナムでは結婚するとき鮮やかな真紅のアオザイを着るのだという。本当はママも結婚式の時にアオザイを着るのが夢だったのだろう。でもパパの両親がママとの結婚にすごく反対したんで、意地でも日本人になってやるって思ったそうだ。ママはずっと無理を重ねてきたんだね。

 この頃では週に一回はベトナム料理を作ってくれる。私は結構いけてると思う。「ママ美味しいよ」と誉めると「もうベトナムの味を忘れてしまったの。だってママがあなたくらいのときに、大変な戦争が終わったばかりだったから。母さんから料理を習うこともできなかったの」とママはため息をついて、少し恥ずかしそうな寂しそうな表情をするのだ。

 

 ママが十五歳のとき、何もかもが変わってしまった。ママの父さんはそれまで学校で英語を教えていたの。けれど英語の辞書や本はすべて焼き払わなければならなくなった。そうしないと何をされるかわからなかったから。同じベトナム人同士だけれど、ママたちの住んでいた南が北に負けたの。戦争に負けるっていうのはこういうことなのかと思った。父さんと母さんが一生懸命ためていた貯金もすべて没収された。そして英語を教えていた父さんは職を追われたの。父さんはしばらく廃人のように家でごろごろして酒ばかり飲んでいたわ。母さんは裁縫が得意だったから服を縫う仕事を続けていたけれど。そしてママの通っていた学校では今までの先生が全部辞めさせられて、新しい人がやってきた。授業ではホー・チ・ミンの生い立ちや、彼がいかに素晴らしいかということを教えられたの。家の中にまで彼の写真を飾らなくてはいけなくなった。少しずつ身の回りから自由がなくなり、底知れない恐怖をまだ子どものママでさえ感じはじめていた。今のベトナムは随分変わったと噂に聞くけれど、とにかくその当時のベトナムはそんなふうだったの。

 ママが十七歳になってすぐのある晩遅くに、父さんと母さんは大事な話があるからと言ってママたち四人姉弟を椅子に座らせた。家じゅうの鍵をかけて窓をぜんぶ閉めてこれ以上ないくらい用心しながら、父さんは声をひそめて話し始めたの。

「ホア、ラン、よく聞くんだよ。父さんと母さんはお前たちの将来のことを幾晩も話し合った。この国にいても、もう何の希望も持てない。この国はもう以前の祖国ではない。何もかもがすっかり変わってしまったんだ。でも父さんと母さんには国を離れる力は残っていない。幸いお前たちはまだ若くてとても健康だ。一刻も早くここを脱け出して自由な新天地で自分たちの未来を切り(ひら)いて欲しいよ」

 父さんの声は静かだった。でもげっそり()せた頬の間から、落ち窪んだ目だけがぎらぎら光りを放っていた。ホア姉さんをちらりと見ると姉さんはこぶしをぎゅっと握って肩を小さく震わせていた。私も喉がつまりそうで思わずごくりと(つば)を飲み込んだ。

「いいか。最近少しずつみんなが船で脱出を始めている。父さんは船の船頭と今日話をつけてきた。金の延べ棒二本で四人を船に乗せてくれるそうだ。船はうまくいけば三日ほどでマレーシアかタイにたどり着くはずだ。ここに五ドル紙幣がある。これでは何の足しにもならないだろうが、とにかくタイかマレーシアについたらそこで生活の基盤を築きなさい。あるいはアメリカかカナダに亡命するように申請しなさい。時間はかかるだろうが認められる可能性はある」そう言って父さんは黙ってしまった。

「と言っても、タイやマレーシアに着けるという保証があるわけではない。海流の関係で別の国に流れ着くこともある。万が一の場合、嵐で難破するおそれだってないとはいえない」

 そう言うと父さんは目を伏せ深いため息をついた。今まで黙っていた母さんがホア姉さんの目をじっと見つめて言った。

「決心がつかないのならここに残ったっていいのよ。ホアとランの意志に任せるから」

父さんも母さんも一番上のホア姉さんのことを格別に頼りにしていた。ホア姉さんは賢くて穏やかなしっかりものだったから。姉さんが何て返事をするかママはじっと侍っていた。ママは恐ろしくてたまらなかった。どれくらいたっただろう、姉さんが静かに、でもはっきりとした口調で「あたし行きます。妹や弟たちのことは守って見せます。きっと無事にほかの国にたどりついて父さんと母さんを呼び寄せるわ」と言った。すぐに続いて、弟たちが「そうだ、お船に乗って海に出るんだ! 僕らが姉さんたちを守ってやる!」なんて興奮して歓声をあげ始めた。

「しっ。静かに! 行く前に計画がばれたら牢屋に入れられてしまう。どこにスパイが潜んでいるかわからないんだよ」と母さんがあわてて弟の口をふさいだ。

 賢くて判断力のある姉さんがそう言うからには私も従わないわけにはいかなかった。「ランはどうだ?」と父さんに聞かれてもママはただ黙って(うなず)くしかなかったわ。何て返事をして良いのか、言葉なんて何も思い浮かばなかった。その晩、姉さんとママは長いこと寝つけなかった。隣に寝ている姉さんが重い口調でこんなことを言い始めたの。

「ねえ、ラン。海には嵐よりもっと恐ろしいものがあるのよ。タイやマレーシアの近海には海賊船がたくさんいるんですって。海賊船は見た目には普通の大型漁船と変わらないらしい。突然乗りこんできて、男たちの身ぐるみをはいで金目のものを奪い、女たちをさらっていくそうよ。もしもそれに逆らうものがいたら容赦なく切り殺されてしまうの。そして女たちは遠い国に売り飛ばされるのよ。何隻かの船が犠牲になったという噂を聞いたことがある」

 そして姉さんはふいに表情を硬くした。ママはますます怖くなって姉さんの腕にしがみついた。

「だからね、ラン。もし海賊船に襲われたら喉を切って海に飛び込みましょう。その為に姉さんはナイフをしのばせて行くからね」

 そう言うと姉さんは私の体を抱きしめてくれた。それから私の涙を姉さんの寝巻きの袖で()いてくれながら「でも大丈夫。きっと無事にたどり着けるよ。そこでみんなで力を合わせて頑張って、父さんと母さんを呼び寄せてあげようね」と力のこもった声で言った。でも、その姉さんの声も震えていた。だっていくらしっかり者だって、まだたった十九歳だったんですもの。

 

 私にはママがそんな大変な決意を十七歳のときにしなくてはならなかったなんて信じられない。今の私の悩みと言えば中間や期末試験がかったるいだけ。それだって適当にやっておけば赤点ぎりぎりでも何とかなる。他には友達と喧嘩したり、うるさくて嫌味な先生ににらまれたりするのがうざったいくらい。ふだんは毎日お気楽に友達と騒いでいるだけだから。もし日本が突然すごく住みにくくなって、出国の決意なんか迫られたら私は一体どうするだろう。考えただけで身がすくんでしまう。

 つい最近まで私はママのことを、パパに愛されて幸せな結婚をして、一人娘に過剰に愛情を注ぐ平凡な普通のお母さんだと思い込んでいた。パパだって口癖のように「ママは運が強いんだよ」なんて言うけれど、もしかするとパパも私も大きな思い違いをしていたのかもしれない。

 パパはママと同じ1960年生まれ。パパが子どもの頃、日本は今よりずっと勢いがあって急成長を遂げていた。パパは確かに優しくていいお父さんだ。お坊ちゃん育ちの気のいい普通のおじさんというところ。

「パパが小学生の頃〝70年代われらの世界〟という番組があったんだ。毎回のように、司会者が棒グラフを示して日本の経済成長率を誇らしげに語っていたよ。このままいくと日本は国民総生産が一位になって、世界で一番の金持ち国になるって、番組の中でいつも言うんだ。その頃の日本にはすごいエネルギーがあって、皆がそれを本気で信じていた。環境破壊なんて何も考えずに国の発展のためにがむしゃらに突き進んでいたから、国のあちこちで公害問題が発生した。排気ガスや工場の煙だって今のような規制がなかったから、その頃の空はスモッグだらけで灰色だった。最近の東京の空は、これでも随分きれいになったんだよ」

 パパは感慨深げに子ども時代のことを話す。パパは日本の成長と共に挫折を知らずに育ってきた人なのだ。

 パパのお父さんはちょっと偉いお役人で、一人息子のパパも期待されて難しい進学校から名門大学に進んだ。それからすんなり一流企業に就職した。そのときにボランティアで日本語を教えている同僚から、生徒だったママを紹介されて一目ぼれしてしまった。要するにパパとママはまったく正反対の生い立ちをしているわけで、その二人が結婚するなんて夫婦って不思議なものだなって私は思う。

「家族からは大反対されたけれど、パパはママと結婚した。花が生まれてから、ようやくおじいちゃんとおばあちゃんが許してくれたんだ。ママは苦労して日本にたどり着いたけれど、今は人並み以上の暮らしをして、可愛い娘にも恵まれて本当に幸せ者だよ。パパはママを幸せにできて良かったと思っている」

 パパは自信たっぷりにそう言うけれど、ママは本当に幸せだったのかしら、と私は最近疑うようになってきた。自分の生れた国を()て、ボートで逃げてきたことをひたすら隠して忘れようとして、日本人になりきる努力をして、それでママは本当に幸せだったのだろうか。最近のママの様子を見ていると、私にはどうしてもそうは思えなくなってくる。だからって、どうすれば良かったのかと言うと、私にもわからない。パパは、難民のママを救ってあげて、自分はすごくいい人間だと思っているようなところがある。好きで一緒になったのだから、救ってあげたもなにもないだろう。ママが不安そうにしていたり、突然泣き出したりしても、パパは「今こんなにいい暮らしができているのに、なぜそんなに情緒不安定になるのだろう」ってまるで理解できないとでも言いたげに首をかしげる。ママの苦しみは、私にだってよくわからないけれど、パパはわかろうともしないみたい。パパは悪い人ではないけれど、単純で鈍感なところがあるのかも。だから、ママの魂が今になって昔にさまよってしまうことがどうしても理解できないのだろう。

 

 ママはこの頃、土曜日の夜をベトナム料理の日に決めているみたいだ。さっきから(はし)を使って手品のように、薄い透き通った生春巻きの皮にパイナップルや香菜や豚の煮物をきれいにくるくるっと巻いている。春巻きの皮の透き通ったライスペーパーは米粉料理の最高傑作だそうだ。むかしベトナムの家庭では、一枚一枚自分の家で作っていた。ベトナム料理が日本でも流行り出してから、大きなスーパーマーケットでライスペーパーが手に入るようになったと言って、ママはとても喜んでいる。私も手伝うけれど不偽用なのですぐに春巻きの皮が破れてしまう。ママは笑って「花はもういいから勉強していなさい」なんて言う。それからママは、瓜を煮込んだ薄味のスープに砕いた干し海老を入れる。私はいつもスープの味見係だ。さっぱりしたいい味。一度も訪れたことがないママの母国なのになぜか懐かしい味がする。

「ねえママ、パパと結婚して幸せだったの?」

 私の突然の質問に驚いてママは一瞬手を止めたけれど、すぐ料理を大皿に盛り付け始めた。

「そうね。パパはママのことが好きだ、好きだって強引だったからね」私とママは目を合わせてくすりと笑う。確かにパパには強引なところがある。私に洋服を買ってくれるのは嬉しいのだけれど、いかにもおやじの趣味でださいやつを、「花にはこれが似合うから」と勝手に決めてしまう。お土産(みやげ)に甘いケーキをいくつも買ってきてダイエット中の私に食べろと無理やり勧める。もちろんパパが家族を大事にしているのはよくわかる。でもパパが私たちにしてくれるのは、本当に私たちがしてもらいたいこととはちょっと違う。それはいつでも、パパが考えている私たちの望みのような気もする。

 

 結局ママはギリシャ船に救助されて東京湾にたどり着き、それから三ヵ月間、千葉の修道院の附属施設で弟たちと一緒にシスターのお世話になった。でもその頃のことは脳みそがぐちゃぐちゃ状態でほとんど記憶がないという。日本の国が驚くほど近代的で、高いビルの間を縫うように高速道路が走り、街並みは美しく清潔で、まるでお(とぎ)の国に来たように思ったとか。当時のベトナムでは、日本人は未だにちょんまげを結い着物を着て、下駄や草履(ぞうり)を履いていると習っていたというから。日本の女の人がみんなきれいに化粧をして、お酒落(しやれ)をして堂々と歩いている姿に圧倒され、そのことが鮮明に目に焼き付いているそうだ。その後長崎の寮で一年、新潟の寮で四年、他の難民の人たちと共同生活をしながら日本語を学び、タイプライターの打ち方を習い、簡単な経理の仕事もできるようになった。そして再び東京に戻ってきた。もうかなり日本語が話せたので、品川の運送会社で事務員として仕事をしながら難民センターで日本語の上級クラスに通いはじめた。そのときの先生がパパの親友だったというわけ。

「日本人はみんな優しくてママはいやな思いをしたことがあまりなかったの。その中でもパパは特別に優しかった。大っちょではにかみ屋で見た目はパッとしなかったけれど、とにかくこれほど優しい人がいるのかなって思ったわ。こんなにしてもらってどうしようかってママはちょっと困ったくらい」

 ママは照れながらふふと笑う。ママの頬っぺたにえくぼができて今でもとても可愛い。きっとパパはこの笑顔にまいってしまったのだろう。その後ママの弟たちはベトナム人同士で結婚して、お嫁さんの親戚のいるカナダへ移住して行った。今ではバンクーバーにベトナムの両親、つまり私のおじいちゃん、おばあちゃんを呼び寄せて、平和に暮らしている。私はおじさんたちやおじいちゃん、おばあちゃんに会ったことがないけれど、写真が同封された手紙がしょっちゅう来るので、まだ一度も会ったことがないという気がしない。高校生になったらカナダを訪れて、親戚の人たちに会いたいと思っている。ママの弟には小学生の子どももいるのだけれど、英語だけしか話せない。私が日本語しか話せないのと同じというわけ。私はそのいとこにもぜひ会ってみたい。

 

 生春巻きに春雨サラダ、それからスープがきれいにテーブルに並んだちょうどそのときに、玄関のベルが鳴る。この頃パパは土曜日も出勤の日が多い。

「そうか、今日はベトナム料理の日だったな」

 パパはお腹がすいたと言ってすぐに部屋着に着替えて食べ始める。食卓の話題はおもに私の学校の話。中高一貫校だから受験こそないけれど、あまりひどい成績を取ると高校に上がれないという噂だ。パパはそれをとても心配している。私の成績は中の中か、中の下といったところ。いつも担任には「勉強すればできるのに、努力が足りない」って言われる。パパも同じように説教する。そんなの買いかぶりだと私は思うのだけれど。私はうんざりしてツンとしている。パパは少し教育熱心過ぎる。もう少しママの気持ちとかも考えてあげればいいのにと思う。ママはママで私の成績が悪いのは自分のせいだって思い込んでいる。普通の日本のお母さんみたいにきちんと勉強を見てあげられなかったから、って自分を責めている。私はママからベトナムの話を聞けたり料理を教えてもらえたりするだけで他の子よりラッキーって思っているのに。どうしてみんな勉強勉強って言うんだろう。勉強の話が終わると、今度は所属しているバレー部の話題。春の試合でどこと対戦するのかとか、今年はどこが強そうだとか。それから仲良しの久美や綾乃のことを聞かれる。パパの話はいつもワンパターンだから、大体読めてしまう。そんなところが憎めないと言えば憎めないのだけれど。

 

 パパはワインを飲みながら生春巻きを美味しそうに平らげた。

「ママの料理は相変わらず(うま)いよ。でもパパはやっぱり焼魚とか野菜の炊き合せの方がいいなあ」

 ママの顔が少しだけこわばる。パパのばか、間抜け! そんなこと言わなければいいのに。お酒に酔っているからってやっぱりちょっと無神経過ぎる。私はママのことが心配になって顔を見ると、もう普通の表情でスープの残りを飲んでいた。私はお気楽者だけれど、国際結婚ってこういうものなのかなって考えさせられることがある。日本人のパパとベトナム人のママ。もしかすると私はすごく貴重な体験をしているのかもしれない。夕食がすんで片付けが終わるとママは小声で「ホア」と呼んだ。「何?」と私が言うとママはしばらく黙ってじいっと私の顔を見ている。「何よ」といらいらして口をとがらすと「姉さんだ。姉さんたら生きていたんじゃないの」とママはつぶやいて私の頬をなでようとした。又その話かと思い、それに何だかてれくさくもなって、私は返事もしないで自分の部屋にかけあがった。友だちにメールを打たなければならなかったし、宿題もあったのだ。

 

 その晩、私がベッドでうつらうつらしているとき、なんとなく人の気配を感じてうすく目を開けてみた。闇の中に白っぽい影のようなものが浮かんでいる。私は思わず息を吸いこんで変な声を出した。白い影は何もいわずにこっちへ近づいてくる。私は身動きもできずにふとんに顔を半分かくしたまま視線を上げていった。それはなんと、ママだった。シャンプーしたての洗いっぱなしの髪をそのままにして、まるで海からあがって来たばかりの人みたいだった。

 ママははじめもじもじしていたが、「花、ママの話を聞いてくれる?」と言ってベッドのはじに座った。ママは近くにいるはずなのに何だかすごく遠くにいるみたいだった。だからそのときに聞いた話は夢じゃなかったのかと、今でも私は思うことがある。ママは私の方を向いて、確かにこちらを見ているのだけれど、私をこえて別の何かをみつめているようだった。いつもより一オクターブくらい低い声で、ママはゆっくり話し始めた。それは私にはとても想像もつかないような話だった。

 

 ママたち四人は船が動き出すのをじっと待ったの。これから何日続くともしれない旅が始まるというのに、ママたちが持っていたのは小さなカバンやリュックをそれぞれが一つずつ。それだけ。大きな荷物を持っていたら絶対に怪しまれるからね。花には信じられないだろうけれど、着替えも一枚も持っていなかったのよ。小さなタオルとハンカチ、それから三日分のパンと水筒だけがママのカバンに入っていたすべてだった。美味しいものがたくさんある日本でダイエットして痩せようとしている花にはきっと信じられないだろうけれど、出発が決まってからママたちは家で度々断食をしていたの。水以外には何も口にしないの。はじめのうちは辛いけれど、十日も経つと体の中から悪いものが出ていくみたいでだんだん体調が良くなっていくのよ。そんな習慣を身につけていたからママたちはしばらく何も食べられないことには我慢ができたのね。だからパンを一かたまりしか持っていなくても不安はなかった。それと大きめの水筒に川の水を一杯に入れて、それだけがママたちの口にできるものだった。何と言っても出発する前に見つかって牢屋に入れられてしまう方が怖くて仕方なかった。だから船頭が人数を数えて「全員揃ったな」って言ってゆっくり船を漕ぎ出したときには、みんなが小さな歓声を上げた。弟たちが騒ぎ出しそうだったので、ホア姉さんと二人で必死に押さえ付けていたの。

 船が動き出してから、少しずつ目が慣れてきて薄暗い船の中を見渡せるようになると、中に乗っているのは四十人を少し越すくらいだというのがわかった。一番年上で四十歳近い位の人がいたけれど、ほとんどがママと同じ位の十代から二十代の人たちだった。弟より小さい、まだ五歳か六歳の子どももいたの。可愛い男の子だった。その子と目が合うと、にこりと笑ってくれた。きっとあの子は意味もわからず船に乗せられていたんだろうね。そばには若いお母さんが心配そうに小さくなって座っていた。ママたちはその親子と最初に友達になったの。

 船はゆっくりゆっくりカントー川を下って行った。海に出るまではまだ安心できなかった。途中で()(とが)められる恐れがあったからね。窓も無い小さな船に四十人以上の人が詰め込まれて、むっとするような臭いがたちこめていた。でも人間なんていい加減にできているのね、すぐに臭いなんか気にならなくなってしまうの。船が出航したのがたぶん夜の十一時頃。ママたちは窮屈(きゆうくつ)な姿勢のまま、うとうとし始めた。

 船頭が船の天井を開けて、そこからもれる日の光で目を覚ました。夜明け過ぎにようやく船は海へ出たんだよ。海に出たらもう安心だ。ママは嬉しくってホア姉さんを揺り動かした。船の中の人たちもみんな起き出してきて「海だ、海だ」って騒ぎ始めた。ママは急にお腹がすいてきて、カバンの中の固くなっているパンを少しちぎって食べて、水筒の水も飲んだ。海に出たら数日で陸地へたどり着けるんじゃないか、あるいは親切な外国の漁船にでも助けてもらえるんじゃないかと、ママは楽観的に考えていた。少なくとも海賊船のことは考えないようにしていた。でもそれからが地獄の始まりだったの。

 船の中には釣り道具を持っている男たちが数人いたの。ママはきっとその人たちがみんなの分も釣ってわけてくれるのだろうなんて考えていた。でもそれは甘い考えだった。船が沖に出て男たちがバケツに数匹の魚を釣って火にあぶっていると痩せて体の弱そうな十歳ちょっとくらいの男の子が「おじさん、ぼくお腹がすいてたまらないんだ。少しわけてくれる?」と近づいて行った。はじめのうち、男たちは少年を無視していた。でもよほどお腹が空いていたのね、その子が何度もしつこくせがむんだよ。すると男たちは「ふざけるんじゃない。自分の食料くらい自分で探せ」と叫んで、少年が気絶するくらいに顔やお腹をまるでボクシングでもしているみたいに殴りつけたの。少年はかわいそうに(おび)えて泣き声も出せなかったし、怖くて誰も止めにも入れなかった。少年が苦しそうにうめいて倒れてから、ママたちはその子のそばに行って傷口をタオルで拭いてやった。少し落ちついてからパンを少し分けてあげたよ。その子は喉が渇いたって(しき)りに言うので水筒の水も飲ませてやった。それでも足りなくて、その子はよろよろしながら船のへりに出てバケツに海水をすくって飲み始めたんだ。海の水をたくさん飲んでは駄目だということをみんな知っていたけれど、気の毒で止められなかったよ。結局その少年は日に日にやせ衰えて弱っていき、ほとんど話も出来なくなった。結局彼が船の中で最初の死者になった。ママたちは少年の従兄と一緒に、静かに彼を海に流した。最後は眠るような死に方だったのが唯一の救いだった。その子はしばらく海の上を背泳ぎしているみたいに浮いて漂っていたけれど、じきに沈んで姿が見えなくなった。ママたちは手を合わせて最後まで彼を見送ったよ。

 もうその頃には、ママの水筒の水もパンもすべて無くなっていた。死んだ少年を見て「海の水を飲んではいけない」ということがあらためてよくわかったから、ママたちは自分たちのおしっこを水筒に入れて飲み始めたんだよ。花には信じられないでしょう? でも生きるか死ぬかという瀬戸際では、何でもできるんだね。それができない人たちは弱っていったわ。

 船に乗ってから初めて雨が降ったときには、みんな大騒ぎだった。雨水ならいくら飲んでも安心だからね。雨水が船の天井にたまるのを待って、水溜りにタオルや自分のシャツを浸して、それを口元によせてぎゅっと搾って飲むんだよ。雨水は海水と違って何て甘くて美味しかっただろう。一旦出国したからには何があってもひき返すまいと決意していたけれど、水だけは飲みたくて夢の中で何度もカントー川に戻って、船べりに腰かけ太くて長いストローで川の水を飲む夢を見たよ。そして目が覚めると喉がからからで、ママはいつも自分のおしっこを飲んだというわけ。弟たちもへっちゃらだったけれど、ホア姉さんはあまりおしっこが飲めなかったの。海水を少し口に含んだり雨水を飲むだけで我慢していた。だから姉さんも次第に弱ってきたのね。

 航海中に何度も大きな外国船とすれ違った。海賊船かと思わないでもなかったけれど、救助してくれることを期待して、みんなで船の天井に上って立ち、ハンカチやタオルを振って大声で叫んだ。でもどの船も気が付いてはくれずに遠ざかっていった。その度にどれほど落胆したことか。きっと面倒なことには関わりたくないと思って、私たちの船のことなんか見て見ぬふりをしたんだろうね。

 そのかわりというわけでもないだろうけれど、大型船がそばを通るときに、たくさんの生ごみを落としていくの。一番ありがたかったのは果物の皮だった。オレンジやグレープフルーツの皮が船のそばに漂ってくると、拾い上げてむさぼるようにして食べたよ。がりがりに痩せてげっそりしていたホア姉さんも、オレンジの皮だけは喜んで食べてくれた。大型船としばらくすれ違わないときには、海に浮いている木片を拾うんだよ。たいていの木片にはきのこが生えている。それをむしって食べるの。嘘のような話だけれどそれがすごいごちそうに思えた。

 十日ほどたって、一人、二人と弱った人が死んでいくようになった。もうタイやマレーシアにたどり着くのは絶望的だった。航路を完全にはずれてしまったのは明らかだった。その頃になるとママたちも意識が朦朧(もうろう)としてきて、哀しいとか怖いとかいう気持ちも麻簿してきてしまった。恐ろしいことに人の死というものにも慣れてしまうんだね。人が死ぬたびに、船頭が死体を海に投げ捨てるのをぼんやりと眺めているだけだった。すぐ横では、釣り竿を持っている男たちが釣りをして、自分たちだけで美味しそうに平然と魚を食べていたよ。

 夜になると、ママは弟たちと一緒にときどき船の天井に上って暗い海を見た。頭がぼおっとしていたからだろうけれど、波の間から人魚が顔を出して、おいで、おいでと手招きするのが見えるの。海の中は気持ちがいいから早くおいでって人魚たちがさかんに呼ぶの。ママはその度に海に飛び込もうとして、弟にぐいと腕を引っ張られた。弟たちのほうがよっぽど正気だったの。

顔中が真っ黒い髭だらけで、目ばかりぎらぎらと光っている、年のころ三十代後半くらいの男がいてね。いつの頃からか、みんなが彼のことを「先生」と呼ぶようになっていた。最初に雨が降った臼の前日にそれを予言したとかで、次第にその男の発言が信頼されるようになっていったの。

 ある時、その男が「あさっての海水は飲んでも大丈夫だ。塩辛くないし、体にも毒ではない」って、船の中で立ち上がって大きな声で断言するように言ったの。ずいぶん大きな男だった。ママはだけど半信半疑だった。それでも、二回、日の出を待って、船の先端に行って弟たちと一緒にバケツに海水を汲んでみた。なめてみると本当に塩の味がまったくしない。それどころか甘いようなとにかくすごく美味しい水だった。それから大騒ぎになった。船の中で比較的元気な者たちが次々とバケツに海水を()んで皆で回して飲んだんだよ。ホア姉さんも美味しそうにごくんごくんって喉を鳴らして飲んでくれた。考えてみると不思議だね。集団催眠にでもかかっていたんだろうか。それとも本当に甘い海水だったのかしら。

 それから突然その男が変なことを言い出した。

「この船の中で一番幼い男の子を海に放り投げなければ、この船はもうじき沈む」

そんなことを、みんなの前で演説し始めたの。一番幼い男の子というのは、ママが乗船して最初に仲良しになった男の子だったよ。目のくりくりした可愛い子だった。男はいきなりその子を指でさして、「そいつだ!」と甲高(かんだか)い声でヒステリックに叫んだ。

 たちまち猛反対の声があがった。特に女の人たちはみんな抗議の声を上げたの。ママや姉さんや弟たちも反対したわ。だって仲良しだったんだもの、その男の子と。普段はおとなしいホア姉さんが、「やめて!」と叫んで男の胸やら顔やらに拳骨で殴りかかっていった。でも、大勢の雰囲気というのは怖いものね。誰かが「全員の命と、一人の犠牲と、どちらを取るんだ!」と怒鳴ったの。それで、姉さんはたちまちそばにいた男たちに腕をひねり上げられてしまった。もちろん、いちばん抵抗したのは母親だった。まだ二十代前半の若いお母さんだったけれど、髭の男の足にすがって「私が身代わりになりますから、どうかそれだけは勘弁して下さい」って悲痛な叫び声を上げた。今でもそのときの声がママの耳に残っている。今こうして花の母親になってみると余計にあのときの母親の叫びがよくわかるの。

 先生と呼ばれていた男は、みんなが何を言っても表情も変えずに無視していた。そして、足に絡みついてくる母親のみぞおちをいきなり蹴ったの。母親は急に力を失って静かに目を閉じたわ。もうちっとも動かないの。はじめは死んでしまったのかと思ったけれど、そばにいた人が彼女の鼻のあたりに耳を近づけて、生きているって言った。それから男は、母親にしがみついたまま声も出せずにふるえている男の子のえりくびをまるで猫でもつかみあげるように片手ですくい上げた。男の子の顔は恐怖でひきつっていて声も上げられなかった。目と口がつりあがったまま表情が凍りついていた。男の大きな手のひらの下で必死にもがいて足をばたばたさせていたけれど、男はそんなこと気にもとめていない様子で、船の縁までいってボールでも投げるように遠くへ向かって放り投げた。男の子はまっ青な海の表面にすぐに浮きあがってくると、しばらく必死に船に向かって泳いできたよ。十分ぐらいは泳いでいた。でもだんだんに船との距離が離れていって、そのうちにふっと姿がみえなくなった。力が尽きてしまったのか、それともあきらめて泳ぐのをやめてしまったのか。ママは祈るような気持ちで、でも何もすることもできず息をのんでその光景を眺めていた。やがて母親が意識を取り戻して息子がいないのを知ると、まわりの人の制止をふりきって後を追うようにまっすぐに海へ飛び込んでいった。大きな水飛沫(みずしぶき)が上がって、そのまま海の底に沈んで行くのがずうっと見えていた。

 本当に地獄の光景だった。ホア姉さんは、その親子と特に親しかったので激しく泣いていた。それからも髭の男にくってかかっていったよ。涙がかれるほど泣いて、それっきり姉さんは一言も話さなくなってしまった。そしてもう雨水すら一滴も口にしなくなってしまったんだ。

 それから何回日が暮れて日が昇っただろうか。外国船にもすれ違わなかったから食料はほとんど何も無かった。雨もまったく降らなかった。たまに木片が浮かんでいるとそれを全部すくいあげて固い木の部分までかじって食べたよ。先生と呼ばれる男の標的にされるのが恐ろしくて、ママたち一家は船の隅の方に目立たないようにして固まっていた。ホア姉さんはもうほとんど眠りっぱなしで、たまに目をあけては少し微笑んでまた眠りについてしまう。もともと白かった肌の色がますます透き通るようになって、唇は紫色になっていった。それでもかすかに息をしていた。その頃には船の中の誰ももう話す元気もなくなって奇妙にしーんとしていたね。朝になると誰かが死んで海に放り投げ出される。ママは次はきっと姉さんじゃないかと恐れていた。

 ある朝「船が近づいてきたぞお」っていう大きな声で目を覚ました。弟たちは真っ先に舳先(へさき)に飛び出していって手を思いっきり振った。どこかの国の旗が見えた。随分立派な船が近づいてきた。海賊船ではなさそうだった。

 ママはホア姉さんを抱き上げた。姉さんはもう自力で立ちあがることはできなかったから。他にもかなりの数の人たちが死にかかっていた。

 私たちの船のすぐ横に、巨大な船体がどこまでも続いている壁のようにそそり立っていた。助かったのかもしれないという気持ちと一緒に、これから何が起こるのかしらという不安も感じていた。でも、もう怖いとかそんなことを感じる心はなくなっていたから、あとはじっと成り行きを見守っているだけだった。

 大型船からロープが投げられて男たちがまずそれにつかまって登っていった。力尽きて途中で海に落ちてしまいそのまま浮かんでこなかった人もいたよ。女たちのためには小さなゴムボートが投げ出されてみんながそこに乗りこんだ。もちろんママはホア姉さんをかついで乗った。ボートがシュルシュルと引き上げられる時、奇跡ってあるのかなってしみじみ思った。もう助からないってきっとどこかであきらめていたんだね。

 先生と呼ばれた髭の濃い男も救いあげられた。小船の中では随分大きな男だと思っていたのに、近くで見ると貧相な臆病そうな小男だった。あの男も一緒に日本に来たのだから、今頃はどこでどうしているんだろうか。時々思い出すとぞっとする。

ホア姉さんは大型船に引き上げられると一瞬だけ意識を取り戻して「ラン、海賊船じゃない? 海賊船じゃないよね?」って何度も心配そうに聞いたの。姉さんは折れそうな腕でシャツの中をさぐろうとした。そんなときになっても、姉さんはナイフのことを忘れてはいなかったの。「違うよ、ギリシャの立派な船だよ」って答えると、安心した表情を浮かべてまた眠りについてしまった。それっきり姉さんは二度と目を覚まさなかった。結局、助かった人は半分もいなかったのよ。

 

 ママは急に静かになった。そのうちにぐうという変な音がした。お腹のなる音かと思った。でもそれはママの声だった。そしてう、う、う、と奇妙な叫び声を上げてママは足をばたつかせ胸をかきむしって床を転げまわった。あんなふうにまるで絶望的とでもいう感じで人が叫ぶのを、私はそれまで見たことがなかった。それは人間の声というよりも、獣の叫び声のようだった。私はそんなママを見て途方にくれながらも、不思議と冷静だった。パパを呼ばない方がいいと、私は直感で判断した。そしてママを抱き上げ、ベッドに寝かせた。私はママを抱きしめてたった一つだけ知っているベトナムの子守唄のメロディーを口ずさみ、ママの背中をとんとんと叩いてあげた。ママの体は思っていたよりずっと華奢で、私が背中に腕を回すと骨がごりごり当たって痛かった。ママはひきつけでも起こしたように、体を震わせてひーひーとしゃくりあげていた。そのうちだんだん子どものようにえーんえーんと泣き始めた。私がさらに強くママを抱きしめると、少し落ちついたのかしゃっくりみたいなひくっひくっという声に変わり、私の胸に顔をこすり付けてか細い声で泣き続けた。私のパジャマはママの涙と鼻水でべとべとになった。ママの体を抱いたまま私は眠気に襲われ、泣き声を聞きながらついうとうとしてしまった。

 カーテンの隙間から射しこむ朝日で目が覚めた。時計を見ると六時半だった。その瞬間に私は夜中のできごとを思い出した。隣にママはいなかった。私は全身の毛がいっぺんに逆立つのがわかった。恐ろしい嫌な予感がして、あわてて部屋を飛び出してパパとママの寝室を開けた。パパはまだ眠っていたけれど、ベッドにママの姿はなかった。階段をかけおりてキッチンに向かった。すると、ママが何事もなかったように、お味噌汁を作っているところだった。

「花、おはよう。めずらしいじゃない、目覚ましの鳴る前に自分で起きてくるなんて」

 ママは平然とそう言って私に笑いかけたので私は拍子抜けしてしまった。夜中のことは夢だったのだろうか、私が寝ぼけていたのかなと思いながらママの顔をじっと見ると、まぶたがはれて目も真っ赤に充血している。明らかにいつものママではなかった。

「ママ、もう大丈夫なの?」

 私がおそるおそる尋ねると、ママは一瞬口を(ゆが)めて何か言おうとしたけれど、急に笑顔を作って「パパを起こしてきてちょうだい」と言った。その言い方は何だか有無を言わせぬほど強い語調だったので、私は仕方なくパパを起こしに行った。それからパパとママと私、いつもの通り三人で朝ご飯を食べた。お味噌汁の味がやけにしょっぱかった以外は何もかも普通どおりだった。パパがママの顔つきに気がついて「ママ、どうしたんだ。目がはれてるぞ」と言ったので、私はどきりとした。でもママは「昨日、夜中に目が覚めちゃってずっと本を読んでいたのよ。今日は何も用事がないからパパと花が出かけたらお昼寝でもするから心配しないで」なんて平気な顔で嘘をついた。ママって案外演技派なんだな、と私は驚いた。

 私が出かける時ママは「いってらっしゃい」と言った後に、「コン クン クア メ」って小声でつぶやいた。それはベトナム語で「大事な我が子」という意味で、私が落ちこんだときなんかにママが私を励ますためにおまじないのように言ってくれる言葉だった。私が「えっ?」って聞き返すと、ママは首を振ってさっきより大きな声で「いってらっしやい」と言ってにこりと笑った。ママのまぶたは相変わらずはれあがって目も充血していたけれど、何だか不思議とさっぱりした表情をしていた。そして私のことを見つめて「今日のお弁当は、花の好きな鶏のからあげとかぼちゃの煮物と炊きこみご飯だからね」と言った。

 夜中に子どもみたいに泣いていたママはもうどこにもいなかった。

 

 お昼休みを終えて、五時間目の退屈な社会科の授業にうんざりしているとき、教室に担任の中原先生が飛び込んできた。

「雪村、今お父さんから電話があった。お母さんが病院に運ばれたそうだ。とにかく早く行ってあげなさい」

 中原先生は青ざめた顔をしていた。クラス中に緊張が走った。仲良しの綾乃が思わず「先生、一体何があったんですか。花のお母さん急病なの?」と大声で尋ねた。先生はちょっと困ったような顔をした。私はそのとき、心配していたことが現実になったんだと確信した。どういうわけかまったく驚きはしなかったものの、あたりまえだけど、ものすごく暗い気持ちになっていた。目のまえに黒い幕がおりてきたような感じがしていた。

 私が教科書をかばんに入れて黙って立ちあがり教室の後ろの扉から出ていこうとすると、綾乃が駆け寄ってきて「先生、私も花についていきます」と言った。綾乃の気持ちは嬉しかったけれど、これは私とママにしかわからない問題だった。「サンキュー、綾乃。大丈夫だから」と答えると、綾乃は「何かあったらすぐメールしてよ」と言った。他のクラスメートたちも心配そうに見送ってくれた。

 私は中原先生が呼んでくれたタクシーに乗り込んでS病院へ向かった。中原先生の話だと、ママは間違えて薬をたくさん飲んで救急車で病院に運ばれたということだった。

 S病院は私も喘息(ぜんそく)で通ったことのある病院だった。私は病院に向かうタクシーの中で、ずっと手を合わせてママを助けてくださいと祈り続けた。私が小学生の頃喘息の発作を起こすと真夜中でも私を抱いて背中をさすり大丈夫、大丈夫と励ましながら病院に連れていってくれたママ。誕生日にはケーキを焼いてホイップクリームで「花、おめでとう」と飾りをしてくれた優しいママ。私が書道を習い始めると、ママにも教えてと言って筆を持って必死に練習していた努力家のママ……。

 病院に着いて受付で名前を告げると、ママは胃を洗浄中ということだった。三階のA病棟へ行くように指示されて、私は、ママお願いだから助かってと何回も何回も呪文のように心の中で繰り返しつぶやきながら、夢中で廊下を走った。途中で人にぶつかって看護婦さんに注意された。でも私はとにかく一刻も早くママの所に駆けつけたかったのだ。夜中にママを抱きしめたときのごつごつした骨の感触が腕によみがえり、うめき声が頭の中でこだましていた。

 三階のA病棟に着くと、廊下の長椅子にパパが頭を抱えて背中を丸めて座りこんでいた。パパは一回り小さくなったようでそれにすごく歳とって見えた。

「パパ」と私が呼ぶと顔を上げた。パパの目は真っ赤に充血していた。私はパパの隣に座った。

「ママはどうなの。助かるのよね」そう私が聞くと、パパは自分に言い聞かせるように何回も頷きながら答えた。

「大丈夫だ。絶対に大丈夫。ママはパパが時々服用する誘眠剤をワインと一緒に五十錠も飲んでしまったんだ。でも発見が早かったから多分肋かるってお医者さんが言ってくれた。今は胃の洗浄をしているんだよ」

「多分っていうことは、そうじゃないこともあるってこと?」

「そんなことはないさ。助かるさ、絶対に。パパも、花もいるんだから」

 パパの言っていることはわけがわからない。私の両掌は、汗でもうぐしゃぐしゃになっている。

 パパの話によると、今日パパはめずらしく大事な会議の書類を家に忘れたらしい。ママに会社に届けてもらおうと思って家に電話したけれど、何回鳴らしても誰も出なかった。おまけに留守番電話にもなっていなかった。朝食の時、今日は何も用事がないからってママが言っていたのにおかしいなとパパは思ったそうだ。朝のママの顔が普通じゃなかったのにも胸騒ぎがした。パパはお昼休みに家に書類を取りに戻った。玄関のベルを鳴らしても誰も出ない。鍵をあけて家に入るとママが寝室でものすごく大きないびきをたてて眠っていた。ベッドサイドのテーブルにはワインの入ったコップと、薬の袋。パパが一回一錠だけ飲む薬をママは五シート、五十個全部飲み干してしまったらしい。揺り動かしても、頬っぺたをぴんぴん叩いてもママはぐうぐういびきをかきつづけていたそうだ。それからパパはあわてて救急車を呼び、ママが病院に運ばれたというわけ。

 パパが今日に限って書類を忘れて家に電話をかけるなんて、何だか奇跡のような気がする。やはりホア姉さんが守ってくれたのだろうか。

 しばらくしてランプが消えてママが手術室から出てきた。ママは鼻にチューブを入れられて腕に点滴をされベッドの上に真っ青な顔で横たわっている。でも静かに呼吸をしているのがわかる。パパと私は医者の所に駆け寄った。医者はこちらをふり向かず、じっとママの顔を見つめたままだ。

 パパが「先生」と声をかけた。

「やれるだけのことはしました」

「大丈夫なんですね」

「心臓はしっかりしています。発見が早くて良かった。あと一時間遅かったら、どうなっていたか。とにかく目覚めるのを待ちましょう」

 ママは生きている。もしかすると今まで通りではないかもしれないけれど、でも遠くへ行ってしまったりはしない。私はママから離れない。いつまでも一緒。そう心の中でつぶやくと、目の奥がじんじんしてきた。

 

 ママは病室で静かに寝息を立てている。目を開けたら何て言ってあげようか。私はママの頬をさすりつづけた。

「コー ガン レン」

 パパが小さな声でつぶやく。私がエッと言うとパパが恥ずかしそうな顔で「ベトナム語で頑張れという意味だ。昔ママに習ったことがある。でもパパはあまり熱心にベトナムの話を聞いてやらなかった。ママが元気になったら、今度こそ花と二人でベトナム語を習って、三人でママの国を訪ねよう」と言った。パパも(はな)をすすっていた。私はパパの腕をぎゅっと握った。考えてみると私はママの国の言葉を未だにほとんど知らない。ママがどんな思いで国を脱出してきたのかだってまだ知らされたばかりなのだ。

「結婚したての頃、ママはいつも、あたしは日本の人に見える? とか、日本人はこういう場合どうするの? とか、不安そうにしつこいくらい尋ねたんだ。そのたびにパパは、うん大丈夫、日本人にみえるよって答えていた。あのときに、どうしてもっと違う答えをしてやれなかったのかと思う。ママがごく無理をしているのは、よくわかっていた。でも、ママが日本で生まれた日本人にみえることを、パパ自身も望んでいたんだ。それがママにとっても幸せなんだと、今までパパは思っていた」

 パパは肩をがっくり落として、頭をかかえている。パパはやっぱりいい奴なんだと私は思った。パパにめぐり合えたことはママにとって確かに幸運だったのだろう。ママが本当に幸せになれるかどうかは、これからにかかっている。それはママがちゃんと目を覚ましてから、ゆっくり考えればいいことだと思う。

「いつもママは夜になるとおびえていた。暗闇が怖いと言って電気を消して眠ることさえできなかったんだ。夜中に急に叫び声を上げてベッドから飛び降り、部屋のすみで泣き出すこともあった。そんなときパパはママを抱えて汗を拭い、背中をさすり、ママが落ちついて静かに寝息を立てるまでずっと抱きしめてやったんだ」

 私は昨夜のママのことを思った。そしてまだ若くて髪なんかもふさふさしていた頃のパパが、子どもみたいに泣きじゃくるママを必死に抱きしめている姿を目に浮かべた。それはちょっと気恥ずかしいような切ない光景だった。

「パパが少しでも怒ったりすると耳をふさいで、男の人に怒鳴られるのが怖いって。船の中でよほど恐ろしい目にあったんだ」

 パパはそう言うと眉のあたりをひくひくさせた。私はママの言葉を思い出していた。あの男のことだ。小さな男の子をまるでボールのように海に放り投げたあの男……。

「花が生まれたときに、ママはホア姉さんの生まれ変わりだって言って喜んだんだよ。確かにママの持っているホア姉さんの写真に、花は驚くほどそっくりなんだから」

 パパはそんなことも私に言った。私がホア姉さんの生まれ変わりかどうかはわからない。でもホア姉さんはどこかできっとママのことを見守っていてくれる。それだけは確かだ。そしてママが元気になったら、これからは私がホア姉さんの代わりにママを支えてあげなくちゃと思う。

 ママは穏やかな顔をして静かにすやすやと眠り続けている。まるで小さい子どもみたいにあどけない寝顔をしている。夢の中で子どもに返ってホア姉さんと野原を駆け回っているような気がしてならない。もしかするとママは今が一番幸せなのかな。それならもうしばらく夢の世界に遊ばせていてあげたい。でも必ず、ちゃんと目を覚まして。そして一緒にベトナムに行こう、ね、ママ。

「コー ガン レン」

 私もママの耳元に唇を寄せて小さく囁く。

 ママの唇がかすかに動いたような気がした。まるで笑っているように見える。ママは夢の中で何をしているんだろう。

 

            *

 

 ランは娘を見送ってからリビングのソファにそっと腰をおろした。ランは家族を送り出してから部屋の掃除をするまでに、いつも少しだけこのソファに腰をかけてくつろぐ時間が好きだった。決して広くはないけれど家族三人が住むには充分過ぎるような家で働き者の優しい夫と可愛い娘と共に暮らせるのがどれだけ幸せかランには良く分っていた。つい最近も、ランと同じ頃ベトナムを出国し日本にたどり着いたもののホームレスとなった男が、傷害事件を起こして逮捕されたというニュースを聞いたばかりだった。ランの住んでいる3DKの住宅は日本人にとっても贅沢(ぜいたく)なものなのかも知れない。エアコンのスイッチ一つで暑さも寒さも調整できる家に住み、お腹が空けば冷蔵庫の中に食べ物があり、眠くなれば快適なベッドに横になれるというのは、ランにとって何か現実のことではないように思えることがあった。もしかすると自分は、あのむせ返るようなボートの中でホア姉さんと一緒に死んでしまって、その後のことは全部夢なのかと思うことさえあった。目の前にあるものがすべて現実のものではないように思えるこの奇異な感覚と、ランは折り合いをつけることが出来ずにいた。

 

 そんなランが生身の感覚をほんの一瞬取り戻せたのはつい数日前のことだった。ランはPTAで知り合った母親たちをベトナム料理店に案内した。その店に行くのは初めてだったが、雑誌でもよく取り上げられている話題の店だった。狭い店内は満席で、数人が並んで待っているほどだった。日本人も好む生春巻き、手打ち(めん)の入ったスープ、春雨料理を食べ終わって、ランは母親たちの満足そうな表情に安堵(あんど)した。本当のところランはこういった母親たちとの付合いが苦手だった。彼女たちとの会話はランの胸に何も残さない。今日もただ無難に(なご)やかに昼食が終わることだけをランはひたすら願っていた。

 そろそろデザートを頼もうかというときになって、店の奥から髭をはやした目つきの鋭い男が現れた。店のオーナーは日本人だということだったが、料理を作っているのは主にベトナム人だと聞いていた。確かに微妙な味付けは、日本人には無理だとランは思った。その男も店でコックとして働いているに違いなかった。男はランの方をチラッと見てから店員に何かを指図して、もう一度ランの方を振り向いた。しばらく不思議そうにランをみつめていたがその内ににらむような目つきになり、しまいにはニヤリと不敵な笑みを浮かべた。ランの周りに生暖かい湿気を含んだ風が通りすぎた。友人の顔の輪郭がにじんでぼやけたかと思うと蝋のようにゆっくりと溶けだし、周りのざわめきが急速に遠のいていった。何も聞こえない闇の中にランは突然放りこまれた。

 気がつくとランは狭いボートの中にいて、その男の足元にすがりついて姉の命を助けてくれるよう懇願していた。髭をはやした男は体の弱ったものを船の中に乗せておくのは不吉だと言って、姉を海に放り投げるように命じていた。ランが声もかれるほど泣き叫ぶと男はふいにしゃがみこんでランの頬をさすり髪を撫でて「どうしてもと言うなら聞いてやってもいいがな」と言った。ランは少女の生真面目さで「どうすればいいのですか」とおびえながら尋ねた。男は「なに、怖いことはないさ」と言ってランのシャツの中にさっと手を伸ばした。ざらざらした指がランの乳房をいきなりぎゅっとつかんだ。ランが驚いて「やめて」と叫ぼうとすると、男の生暖かい舌で口をふさがれて押し倒された。木の板に頭をいやというほどたたきつけられた。頭がくらくらした。男の力は思った以上に強く、ランは両手をねじ上げられ抗うことができなかった。男の生臭く荒い息が唇を離れたかと思うと、今度は髭のざらついた感触が胸から下腹部に移動していった。

 ランは男にされるがままになりながら姉のほうに目をやった。姉は相変わらず浅い寝息をたてて眠っていた。ランは無性に腹が立った。ホア姉さんにそそのかされてこんな船に乗ってしまった。数日でたどり着くはずの陸地はまだ影も見えない。きっとこのまま自分たちの船は難破してしまうに違いない。いやその前に皆が飢え死にする可能性の方が高い。姉の怖れていた「海賊船」というのは、実はこの船だったのではないか。ホア姉さんのせいで自分はこんな目にあっている。そう思うと情けなくなり鼻の奥がツーンとして涙が込み上げてきた。母さんの所に戻りたかった。ホア姉さんなんか死んでしまえばいい。ランはその時激しく姉を憎んだ。

 

 ランは立ちあがって薬箱の中から夫がいつも服用している眠り薬を手に取った。それは、透き通った黄色いカプセルで、昔ベトナムの家の庭でみつけた蝶の卵に少し似ていた。これを飲んだらきっとぐっすり眠れるわ、とランは思った。できるなら子どもの頃の夢が見たい、とランは静かに笑った。

 

            *

 

 ホア姉さんがさっきから鬼になってみんなを探している。

「ラン、どこにいるの」ホア姉さんが悲しそうな声を張り上げている。だんだん心細くなってきたに違いない。もう十五分くらい広場を、うろうろ行ったり来たりしているのだ。姉さんはかくれんぼでいつも鬼になって、なかなかみんなを見つけられない。ランは草の茂みに隠れてじっとしていた。しゃがんでいるとホア姉さんのひざっ小僧がすぐそばに近づいてきた。もう見つかってしまうかとどきどきしていたら、ホア姉さんは気が付かずに広場を横切ってどこかへ行ってしまった。茂みの間から広場の向こうを窺うと、家の壁と壁の間に弟が隠れている。弟も姉さんに見つからないよう息をころしてじっとしているのだ。姉さんの声が聞こえなくなると、弟は壁から半分身を乗り出してきょろきょろし始めた。ランもしゃがみこんでいるのに疲れてちょっと立ちあがった。すると「ラン、みいつけたっ!」と姉さんが後から飛びついてきた。やられた! ホア姉さんは顔を真っ赤にして汗を流して、はあはあ荒い息をしながら嬉しそうに立っている。「今度はランが鬼だからねっ」と言うとホア姉さんは一目散に広場を横切って駆けて行った。夕ご飯まではまだ少し時間がある。ランは広場の真中でしゃがみこんで目をつぶり十数えた。さあ、これから姉さんを探さなくっちゃ、と思ったら、姉さんの赤いスカートが木のかげかちらちらと見えた。ホア姉さんたら、本当にかくれんぼが下手なんだから。ランは風をきってまっしぐらに赤いスカートめがけて走って行った。   (了)

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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橘 かがり

タチバナ カガリ
たちばな かがり 東京都杉並区生まれ。2003年「月のない晩に」で小説現代新人賞受賞。著書に『判事の家』(2008年、ランダムハウス講談社)、 『焦土の恋〝GHQの女〟と呼ばれた子爵夫人』(2011年、祥伝社)がある。

掲載作は『現代小説』2003年5月号(講談社)に収録。

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