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川端康成 瞳の伝説

  初対面まで

 

 一昔前まで、編集者は担当した作家に深く関わって、その作品の完成に、何らかの意味で貴重な役割を果していた。また作家の中には、編集者が一心同体となって取り組んでくれなければ、よい作品は書けない、と言う人たちがあった。現在では、人間らしいものはせいぜい電話の音声くらいで、あとはすべてを無機質な機械が代行するようになり、その結果、作家は編集者を無視し、編集者は作家を軽んじる状態が出来つつある。

 作家と編集者──この密接な関係の壊れる以前、幸いにも、私は昭和期を代表する幾人かの大作家との関わりを持つことが出来た。

 川端康成先生も、その中の一人である。その謦咳(けいがい)に初めて接したのは、昭和三十六年(一九六一)の晩秋であった。正確な日付の記録は失ってしまったが、場所は鎌倉の川端邸のお座敷で、勤務していた中央公論社出版部の編集者として、川端先生の担当を命じられての初めての訪問であった。年表によれば、川端先生はその年数えで六十三歳になっておられる。私は三十三歳だったが、その日から昭和四十七年四月十六日のご逝去の時まで十年余、先生から数々の思い出を頂くことになった。

 逝去から二十五年の歳月を(けみ)した平成九年(一九九七)四月、生前の先生にゆかりのあった方々と、先生の在りし日のことを語り合い、われわれの感じた現身(うつしみ)のぬくもりを再現することによって、あたら宝の山と言うべき遺産に眼を背けているいわゆる「活字離れ」の世代の人たちに、川端文学の魅力の一端を伝えることが出来たら……と企てて、私の編集者時代に厚誼を得ていた九氏──進藤純孝氏、今東光夫人きよ氏、高見順夫人秋子氏、佐伯彰一氏、高井有一氏、ドナルド・キーン氏、E.G.サイデンステッカー氏、栗原雅直氏、荻野アンナ氏──にお願いしたところ、快諾と賛同を得て、『川端康成 瞳の伝説』と題する一冊をPHP研究所より上梓した。この小文はその対談の解説のようなかたちで草したものである。

 

 私が初めて川端文学の一端に触れたのは、二十歳前後の頃で、太平洋戦争が終って二、三年が経っていた。読書の年齢としては遅いほうであろうが、戦争中の女学校では、大っぴらに現代小説などを読めなかったし、新刊書を手に入れるのも難しかったのである。戦争が終った後の混乱期に、殺伐とした青春を過してそのみじめさに苛立ち、敗北感に(ほぞ)を噛みながら、私は専ら古典に関心を向けていた。近代・現代の日本文学とは、ほとんど無縁で過していたと言ってよい。そんな私が、ある日何かのきっかけで読んだのが、川端先生の『ほくろの手紙』である。

 この小説は、昭和十五年に「愛する人達」と題した連載短編の一つとして雑誌「婦人公論」に書かれたもので、単行本としての『愛する人達』は翌年の暮、太平洋戦争勃発の頃に新潮社から出版されている。現在も書店で手に入る新潮文庫版には、高見順氏の解説で終戦直後に重版が出されたことが記され、「戦争中の小説集が終戦直後そのままの形で出版し得たということも稀な事柄に属するのであった」とあるから、私はそれを誰かに借りて読んだのかも知れない。いずれにしても単行本で読んだらしいことは、後に『愛する人達』全体を再読した時、『母の初恋』や『ゆくひと』その他、一緒に収録されている小説に覚えがあったことで推測出来るが、当時はそれらの他の小説はすべて忘れてしまった。『ほくろの手紙』からは、こんな小説を書く人がいる、と、衝撃と言ってもよいほどの感銘を受けた。他の作品を忘れたのは、その印象があまりにも鮮烈過ぎたためであろうか。『ほくろの手紙』のヒロインは、自分にはよく見えない右肩にあるほくろを、無意識に触る癖を持ち、その癖のために夫からうとまれることになり、常に孤独を噛みしめている。やがて去って行った夫にあてて、読んでもらうことを諦めながら書いた手紙そのものが、小説になっている。癖を夫は嫌ったが、ヒロインは、ほかでもない、その癖そのもので、口に出し得ぬ夫への愛をあらわしていたのだ、という訴えで終る。それほど長くはない小説だったが、その女心は、当時の私の胸に深く沁みた。ともあれ、この『ほくろの手紙』が、私の川端文学との最初の出会いであり、同時にそれが私の日本近代文学濫読のきっかけとなった。

 後にサイデンステッカー氏が、この作品を、『雪國』その他の代表作に続いて英訳しておられるのは、短編として、やはり傑作であるとの判断からであろう。やがて同氏からも直接『ほくろの手紙』に愛着を感じておられることを聞いた。

 昭和二十五年暮から「朝日新聞」に連載された『舞姫』や、併行して発表された『山の音』や『千羽鶴』に続いて、二十七年一月号から「婦人公論」に『日も月も』が連載され、翌二十八年四月発売の五月号で終って、五月十日に単行本が中央公論社から上梓されている。たまたまその頃、谷崎潤一郎先生が『源氏物語』の現代語訳の執筆中、高血圧症のために、原稿が行き悩んで口述の筆記者を捜しておられ、偶然私がその役を仰せつかって、結局私はそれがきっかけで中央公論社に入り、数年の後に思いがけず、川端先生の担当を兼ねるに至った。

 付け加えると、『日も月も』は後に川端先生のノーベル賞受賞記念として、改版が出版された。私はその単行本の製作にも携わったのだが、一介の愛読者に過ぎなかった私に、そんな将来が来ることなど、想像も出来なかったのはいうまでもない。

 

 そのあたりの事情をやや詳しく記すと、昭和三十六年夏、会社の方針として、私はそれまでの、谷崎先生の許に常駐する仕事から、東京本社の出版部にいて必要のある時に熱海の谷崎家に出張する、という日常に変り、谷崎先生以外に、編集者として数人の先生方を受け持つことになったのである。

 その一人が川端先生であった。

 谷崎家に詰め切って、他の作家の事情を知らなかった私は、単純に、『日も月も』や『ほくろの手紙』の著者に逢えるのを嬉しいと思ったが、会社内でのイメージでは、先生は "偉すぎて難しい人" の五指に数えられていたらしい。いつもあの大きい眼でにらんだまま、自分からは何も喋って下さらないので取りつく島もなく、いたたまれなくなるそうだ、女の人なんか、たいてい泣きながら帰って来るらしいよ、三島由紀夫さんがそう書いてるじゃないか、と、一人が言えば、まあ、谷崎さんに揉まれていれば大丈夫だよと、冷やかし半分に慰める人もあり、中には羨む人さえいた。いずれにしても文学とは関係のない次元での話だが、会社というところでは、こんなふうにものを考えるのが普通だったのかも知れない。

 ところで、三島由紀夫氏が川端先生について書かれた『永遠の旅人』の中に、

 

「……世間には気の長い人があって、相手が黙っているほど楽であり、黙っている人の相手をしている分には、ちっとも疲れないという人がある。川端さんは大体このタイプに属し、何か別のことを考えておられて、あまりお疲れにならぬらしい。だから川端さん係りの編輯者もそういう人が最適であり、何時間でもぼんやり沈黙の雰囲気(ふんいき)をたのしむ人でなければならぬ」

 

とあり、また、

 

「初対面の人に対する川端さんのとっつきの悪さは有名である。黙って、ジロジロ見られるので、気の弱い人は冷汗を拭うばかりである。或る若い初心の編輯嬢が、はじめて氏を訪ねて、運悪く、あるいは運よく、他に来客はなかったのだが、三十分間何も話してもらえず、ついにこらえかねて、ワッと泣き伏した、などというゴシップがあるくらいである」

とも記されている。会社の同僚が "女の編集者なんかたいてい泣きながら帰って来る" と言ったのは、この「ゴシップ」のことらしいが、これはかなり有名な話で、「川端先生」を語る時には必ず、と言ってもいいほど繰り返されたものであった。

 

 先生はその年(昭和三十六年)の一月号から、雑誌「婦人公論」に『美しさと哀しみと』を連載しておられた。雑誌と書籍と、両方の編集を持っている出版社では、特別の場合の他は、自社の雑誌に連載された作品は自社で単行本化する。雑誌の編集部にはそこでの担当者がおり、書籍として上梓するのは、書籍編集部の担当者がいる。雑誌の編集部では、いうまでもなく、原稿を初めて活字にして掲載するのだけれども、一月というサイクルは短くて時間的な余裕が少い上に、担当者は他の連載ものを何本も持っており、おまけにその月だけの特集や座談会など、一人ひとりがいくつもの記事を抱えている。

 一方、書籍の編集部では、掲載の終った作品を単行本化するに当って、まず、長く続いた連載の間に生じた矛盾点や不備を指摘したり、著者の大幅な推敲・加筆を手伝ったりする。私が長い編集者生活の間に担当した作家は何人もあったが、連載の後、ほとんど手を入れずに書籍にされたのは、丹羽文雄氏だけであった。今は機械化が進んで印刷もオフセットだけだが、当時は植字工の手で一つずつ活字が拾われ、それを何度も校正した上で、活版で印刷していたから、完全な原稿が出来てから何ケ月もかけて一冊を作り上げていた。従って、一人の編集者は常に進度の違う数冊を抱え、そのほかに書き下しや全集の担当もあって、同じ編集と言っても、雑誌と書籍とでは、質の違った仕事であった。

 私が書籍出版部の新しい担当者として、川端先生に挨拶に伺ったのは、雑誌「新潮」に連載された『眠れる美女』が完結し、朝日新聞の『古都』の連載が始まっていた時で、先生はその執筆のために、京都にも仕事場としての家を借りておられた時期であるから、京都と鎌倉との往復の日々の、合間だったのではなかろうか。あるいは、その十一月に文化勲章を受けておられるので、その授章式の前後だったかもしれない。

 

  稚児太子

 

 以下、少々饒舌になるが、先生との初対面の思い出を振り返って記すことにする。

 鎌倉へ向ったのは、曇り空の冴えない日で、私は買ったばかりの、焦茶色と燈色の混ざった花模様の、折りたたみの傘を持っていた。「婦人公論」の編集部で当時『美しさと哀しみと』の担当をしていたのは、Aさんという、私より何歳か年下の女性で、紹介役の出版部の先輩と、三人連れで行くことになったが、横須賀線の電車の中で、Aさんは、「川端先生は原稿を頂くのには苦労だけど、お人柄は、皆が思っているほど難しい方ではないわ」と言った。しかし、私はやはり緊張していたのであろう、傘を座席に置き忘れて鎌倉駅に降りてしまった。こんなつまらないことを覚えているのは、二人を巻き添えにして駅長室に立ち寄り、思わぬ手間を取って、訪問を約束した時間に遅れそうになり、川端先生にはもちろんのこと、先輩にもAさんにも迷惑をかけてしまった、と気を揉んだことが、その日の川端家の印象と、()い交ぜになって思い出されるからである。傘はすぐに見つかり、私の帰りまでに鎌倉駅に取り寄せておいてくれる、ということになったが、川端家へは裏側の改札口を出る方が近いのに、駅長室へ寄ったことから、八幡様側の改札口を出ることになった。

 駅前から乗ったタクシーのドアには、黄色い銀杏の葉のマークがついていた。私はそれまでに、このマークのタクシーで今日出海(こん・ひでみ)氏のお宅を何度か訪問していたが、川端家のある長谷は、今氏の二階堂とは反対の方角であった。運転手には、鎌倉のめぼしい人々の住所が、全部頭に入っているらしく、タクシーは駅前を離れるとすぐ、若宮通りを八幡宮を背にして海の方に走り、やがて右に折れると、江の電の踏切を越えた。そしてしばらく行った右側の消防署の角をまた右に、細い道を入ると、突き当りの甘縄(あまなわ)神社の石段の前の、鳥居の見えるところで止った。左に入る道があり、道端に紅く色づいた桜が何本か、大きな葉を散らしていた。

 突き当りに、大きな板戸の門があって、そこが川端邸の入口であった。Aさんが、この門は正門ではなくて、裏門なのよと言う。なるほど引き戸をあけて高い敷居を(また)ぐと、すぐに井戸があって、右手は勝手口らしく、取り次ぎのお手伝いさんが出て来て、左の庭の方に案内した。庭は一面の芝生で、まわりを高い木立が取り囲んでいたが、その庭に面して右側に建物があり、座敷の縁側のガラス戸を開けて、大きな白い(くつ)脱ぎの石から(あが)るのであった。

 ガラス戸の外側の雨戸は、全部は取り込まずに、座敷の次の間とおぼしい左手の奥のあたりから先は、雨戸を立てたままであった。その向う側に正面の玄関があるらしいのだが、暗くてよくは見えなかった。

 広い縁側から座敷に入ると、右側が床の間になっており、軸がかかっていた。床の間の横の違棚(ちがひだな)の下に、一メートル余りの高さの仏像のようなものが置かれていて、黒光りのする肌のところどころに、朱の(うるし)らしい色が、障子を通して入って来る薄い光線に浮いて見えた。.

 黒い和服姿の川端先生が、庭と反対側の障子をあけて、部屋に入って来られた。高血圧のために肥り過ぎを心配しておられる谷崎先生の体格とも、谷崎家で逢った志賀直哉先生のほっそりと背の高い姿とも違って、痩せた、かさ

の小さい人であった。

 初対面の挨拶がすんで、私が顔を上げてその「恐い」と言われている眼を見ると、たしかに、心の底まで見透すような大きな眼であったが、澄んでいてどこかに温かな光を宿していた。先生は私たちに座布団を勧めて床の間を背にして座らせ、自分は座卓を中にして向い合った位置に座られたが、その座り方はちょっと普通とは違って、片膝を立てた姿であった。

 先生は、やがて運ばれて来たお茶を皆に勧めるにもほとんど声を出さず、自分の前に置かれた特別に大きな志野のような肌の湯呑みを、両手で抱えるようにして、何度も口に運ばれた。そして、先輩が堅苦しく口上を述べ始めるのを肯きながら、黙って懐ろから煙草を出し、火をつけて、ちょっと顔を背けるようにしてふうと吹かれた。煙はしばらくたゆたって、流れて行った。

 続いてAさんが、連載についての事務的な連絡など、しばらく話をしている間、私は背後の像が気になって、知らず知らず何回かそっと振り向いて見ていたらしい。像は、目尻の上った涼しい眼をちょっと伏せた幼な顔の中に凛とした気品が漂い、上半身は裸形で、ふっくらとした両の手が、何かを包むように柔らかく合されている。そして下半身の袴の(ひだ)に、他より多く残ったらしい朱が、落ち着いた美しさを(たた)えていた。

 先生はAさんに相槌を打ちながら、私を見ておられたようである。突然、こちらへ顔を向けると、

「聖徳太子なんですけど……小さい頃の」

と言われた。私は、ただ「はあ」と言ったまま、あとの言葉は飲み込んでしまったが、初めて聞く声には、関西の(なま)りがはっきりと残っていた。京都生れの私には、その訛りがなつかしく、また先生は、初対面だというのに会談中によそ見ばかりしている私の無礼を、とがめる表情ではなく、大きな眼が和んで、微笑まれたようであった。

 やがて黙っていた先輩が、続け様に新しく火をつけた煙草を揉み消すと、

「それではこれで。今日はご挨拶だけでございますから」

と立ち上ろうとした。その言葉に従って座布団を退(しさ)ってお辞儀をしようとすると、先生が、

「はあ、そうですか。……でも、他へ廻らないなら、まだ、いいじゃありませんか」

と言われた。

 それから何度か、立とうとするたびに引き留められて、結局、三人は二時間ほど、黙ってその場にいることになってしまった。

 門を出たところで深呼吸した先輩は、ああ長かった、やっぱり自分は川端さんは苦手だ、と言った。一方、私は、元来決して「何時間でもぼんやり沈黙の雰囲気をたのしむ」ような性質ではないにもかかわらず、関西訛りに親近感を持つことが出来たのも手伝ったのか、その時間に、不思議に心ひかれるものを感じていた。

 のちに知ったのだが、作家高井有一氏は新聞記者として、先ごろ他界された文芸評論家進藤純孝氏は編集者として、先生の許に出入りされた頃、やはりあのお座敷の、床の間を背にして座り、立とうとしては引き留められて、何時間も黙って先生と対座しておられたという。両氏とも、先生の大きな眼の光は.引き込まれるようで、なつかしいものだった、と語っておられた。ひょっとすると、『永遠の旅人』の「ゴシップ」は、三島氏独特の作り話だったのではなかろうか。その話が三島氏の期待通りに、いつか伝説的なものになったのであろう。

 ついでに言えば、床の間の横に置いてあった稚児太子像は、「鎌倉時代の作で、昭和三十三年秋から胆石で入院中に入手したもの」と、日本近代文学館から出された「没後二十年川端康成展」の図録に、写真を掲載して記されている。

 

  秋草の花束

 

 翌三十七年、一月に『古都』の新聞連載が終ったが、『美しさと哀しみと』の雑誌連載は続いていた。そのうちに夏を迎えて、川端先生は軽井沢の別荘に行かれた、と聞いた。

 吉川英治氏の訃報がもたらされたのは、九月七日のことであった。会社からは社員の何人かが、吉川家の手伝いに馳せ参じたが、お通夜の当日の午後、私は吉川邸の門の前にしつらえられた受付の係を命じられていた。作家のお宅に何かあれば、編集者が駆けつけて雑用を手伝うのは珍しいことではない。執筆関係者の顔と名前とを覚える絶好の機会になることから、特に新入社員にはよく命じられる仕事であった。長く谷崎家に出向していた私にとっては、初めての経験であった。

 他社から来た先輩格の女性も混った五、六人が、残暑のきびしい門前の道端のテントの下に、組み立てられた机を前にして並んだ。ついさっき紹介された隣にいる女性から、いろいろと教えて貰いながら、私は、なるほど、こういう仕事は新米の社員にはまことに適切なものなのだ、と、ともすれば脚の下に小石がはさまって、ガタガタと(かし)ぐ折りたたみ椅子に、腰掛けたり立ったりしながら、つくづくと合点した。今まで名前しか知らなかった作家など、著名な人たちが次々に見えて、署名をしては門の中に入って行かれるので、間近に、しかも一人ひとりを確かめることが出来た。受け取った香奠(こうでん)の扱い方や作家の場合の葬儀の慣例を、逐一、覚えることの出来る機会でもあった。となりの女性は、馴れた口調で何かと私に教えながら、客足の途切れた暇に、今の方は○○社の雑誌○○の編集長で△△先生のお気に入りなのよ、とか、××新聞の人で銀座のバアの顔なのよ、とか、噂話までしてくれた。蘭や薔薇や百合に小花をあしらって豪華に生けられたお供の花篭も、幾度となく運び込まれ、ひっきりなしに弔電が届けられた。

 やがて、門から少し離れた突き当りの角に停った車から降りて、こちらに向って近づいて来る黒い影を、私と同じ受付に立って指揮していた他社の男性が見つけると、

「あ、川端先生がいらっしゃった」

と、緊張した声で言った。周りではっと息を呑む気配がした。私は、夏の間御無沙汰していた川端先生を遠目に見た。

 すぐに何人かが、こわばった面持でばらばらと駆け寄り、しきりに頭を下げて挨拶をしているその様子は、よほど畏怖する人に対しての態度のように思われた。しかし、多くの弔問客が、すぐ近くまで乗り付けて来られるのに、わざと離れたところで車を捨て、徒歩で来られる足どりや、出迎えた人々に何か声をかけておられるしぐさには、尊大なところが少しも感じられなかった。私は、持ち場を離れるわけには行かず、その場に立ったままでいた。

 受付に来られた先生は、私を含めた顔見知りたちに、ちょっと微笑んで会釈をされた。その手には、デパートか何かの包み紙を裏返しにしたもので、無造作に包んだ、花束が抱えられていた。紙のすき間から、吾亦紅(われもこう)や尾花や歯朶(しだ)が覗いていたが、萎れて葉の先がカサカサと縮んでいるように見え、先ほどから届けられている花篭とは、趣きがひどく異っていた。先刻先生をみつけた人が、恐る恐る、

「先生、お荷物をお預かり申し上げましょうか」

と言った。先生は、

「荷物? ああ、これね。これは軽井沢の、吉川さんの別荘の花ですよ。お棺にね」

と、一瞬、照れたような笑みを浮かべると、ちょっと周りの私たちを見廻し、「お手伝い御苦労様ですね」と、誰にともなく声をかけて、そのまま奥へ入って行かれた。久しぶりに聞く言葉に、あの関西訛りがまじっていた。

「軽井沢から駆けつけて、上野駅に着いたその足で来られたんだね」

「わざわざねえ、大変だったなあ。あれは軽井沢の花なんだね」

と、囁き合う人たちがいた。

 後に、昭和四十一年一月四日、五日の東京新聞に発表された、川端先生の随筆『美智子妃殿下』の中に、「吉川英治さんの通夜に行った」ことが記されている。それによると、軽井沢滞在中に逝去の知らせを聞かれた川端先生は、「吉川さんの庭に、なにかの花が咲いてゐれば、愛してゐられた山荘のことだから、お葬ひの花は吉川別荘の花をつんでゆくのが、地味ではあっても、心はあると思って」捜しに行かれたらしい。しかし別荘には、「おしろい花が木かげに貧相に咲いて」いただけであった。通夜の前日、再び別荘を訪ねて「かへでの小枝や、笹や、しだや、弱いおしろい花」を摘み、別に包んだ道すがらの野の草と、近くの民家の畑で切ってもらったダリアを添えて持参された、という事情だったのである。吉川夫人は、そのすすきや笹の葉を、亡き人に見せるために、「焼香をする側からは裏向きに供へられた」ということであった。

 

 『眠れる美女』と『瘋癲(ふうてん)老人日記』

 

 追憶の記が長くなったが、本稿は勢い、しばらくこのままの形で時を追ってみたい。

 当時の編集者は、取り立ててこれと言った用事がなくても、始終担当の作家の許を訪れるようにせよ、何気ない雑談を聞かせて貰うのも、徒然(つれづれ)の相手をするのも、大事な仕事だと、教えられたものである。吉川家の一件があってから、私はいよいよ先生が懐かしく、訪ねる足が繁くなって行った。

 そのうちに、先生は私の出自や経歴などを尋ねられ、問われるままにいろいろと話すことになった。私が「新譯谷崎源氏」以来の原稿を口述筆記していることに、川端先生は特に興味を持たれたようであった。

 先生は、その後何かにつけて、僕はこうだけど、こんな時谷崎さんならどうですか、と尋ねられることがあった。それはあながち、先生が殊更に谷崎先生を意識しておられた、ということであったかどうかはわからない。

 一方、私は最初に担当した谷崎先生が作家の典型だと思い込んでいたので、その後に昵懇(じっこん)にしていただいた作家の誰方にも、谷崎先生へと同様に対するよう心がけた。そのことがいつの場合も、相手には思いがけないサービスを受けたと喜んで貰える結果を生み、意外なことに、川端先生にまでそんな言葉を頂くことになった。

 私にはいつか、川端先生と谷崎先生とを、比較して考えるという悪い癖がついてしまった。一つには、同時に両方の担当者であった時期が、何年も続いたからであろう。

 ところで、『眠れる美女』が発表されたのは、私が川端先生にまみえる前のことだが、この小説は、雑誌「新潮」の昭和三十五年一月号から六月号までの連載のあと、中断して休載となっている。六月号発売の直後、先生がアメリカ国務省の招きで渡米、続いてブラジルで開かれた国際ペン大会に出席されたからである。続きが掲載されたのは、三十六年一月号からであるが、実はその一月号が発売された三十五年暮、谷崎先生が心臓の発作で、東大病院の上田内科に入院しておられ、私はその三階の病室に毎日通っていた。ある日、行ってみると、病室では大騒ぎが起っていた。何があったのか、谷崎先生はベッドの上に起き上って、松子夫人に、

「早くったら、は、や、く! 早く行って、謝って来て頂戴よ!」

と、不機嫌に怒鳴り散らし、夫人は、はあ、もうじきに、着物が来ましたら……、と受け流して、お手伝いさん二人に、まだかしら、遅いわねえ、と、繰り返しておられたが、そのお手伝いさんは二人とも、「申し訳ございません」と言い続けながら、雑巾を持って床を這い廻っていた。

 聞けば、掃除のために水のいっぱい汲んであった大きなバケツが、どうかしたはずみに先生の足に引っ掛かってひっくり返り、床が水びたしになって、真下の病室にまで漏れてしまったらしい。ところが、その下の病室というのは沖中内科なのだが、偶然にも川端先生が入っておられるというのである。お手伝いさんの一人は、「それで、松子奥様がお詫びにいらっしゃるからって、熱海のお家にあるお召物を、出入りの植木屋さんが預かって届けて来ることになったのに、あのおじさん、どこをうろうろしているのかまだ着かないし、銀座までお見舞いの品を調えにいらっしゃった渡辺の奥様(松子夫人の令妹)もまだお戻りにならないんです」と、半分泣き顔になっていたが、彼女にはよほど印象の深い出来事だったとみえて、後々まで、折にふれて「あの時ねえ」と繰り返すのが例になってしまった。

 結局、松子夫人はよそゆきの縮緬に着替え、お供のお手伝いさんに大きな菓子箱を持たせて、二階へ降りて行かれたのだったが、ある時、私はそれを思い出して、川端先生に話したことがあった。先生は、

「ああ、あの時ね。あなた、三階にいたんですか。でも、知らなかったでしょう? 僕の上に、谷崎さんの雨が降って来たんですけど」

と言って、くっくっ、と笑われた。お茶を持って来て、途中から聞いておられた秀子夫人は、

「奥様は、お姫様のお輿入れの行列のようにして、ご挨拶にいらっしゃいました。ね、お父さま」

と笑顔を先生に向けられたが、先生はそれには答えず、煙草の(けむり)を、ふう、と吹かれた。

 川端先生の話し方には、「……なんですけど」と、独特の言い廻しがあり、それにいつも、「ですよ」が、少し、デシヨ、というふうに聞えて、関西の訛りとともになつかしい響きを持っていた。そして、笑い声は、谷崎先生が大きい口を開いてあっはっはあと笑われるのとも、三島由紀夫氏の、我が意を得たりというような皮肉っぽいイシシシシとも違って、喉の奥に引き込むような音で、「くっくっ」と笑われた──。『伊豆の踊子』に、主人公の学生が、裸身で走る無邪気な踊子の姿を見て「ことこと笑ふ」という記述があって、英語訳の時に苦労したと、サイデンステッカー氏は言っておられる。

 

『眠れる美女』は三十六年十一月号の「新潮」掲載で完結したが、同じ月の「中央公論」に、谷崎先生の『瘋癲(ふうてん)老人日記』の連載が始まっている。『眠れる美女』が新潮社から刊行された晩秋に、私は川端先生に初めて逢ったわけだったが、ちょうどその頃、私は一方で『瘋癲老人日記』の連載の、三回目あたりを筆記していたことになる。こちらは、三十七年五月、連載が終ってすぐ──吉川英治氏の訃の三ヵ月ほど前──単行本になった。

 佐伯彰一氏は、川端先生と谷崎先生とは、状況はまるで違うけれども、「老年の性」という点に限って言えば共通の世界が題材になっていることに、興味を持って発言されたことがある。これは全くの私の想像だが、もしかすると、谷崎先生の『瘋癲老人日記』の構想は、『眠れる美女』を途中まで読んだ段階で、かねて温められていたものが触発されて、形をなして来たのではないだろうかと思うのである。というのは、ちょうど『眠れる美女』前半の連載の頃が、時間的に考えて谷崎先生の脳血管異状による臥床中の、快復期の読書の時期に重なること、川端先生の渡米の頃には一旦回復して、その年の暮に心臓の発作で入院──これが川端先生の上に「雨が降った」時である──、時を同じくし再開された『眠れる美女』後半の、翌年の連載の途中、八月から、突然『瘋癲老人日記』の口述を始められたこと、の二点による。

『眠れる美女』は、三十七年度の毎日出版文化賞を受賞し、ドナルド・キーン氏は、『瘋癲老人日記』より高く評価しておられるが、当時の世評は逆であった。川端先生は、自作の評判がよくなかったにもかかわらず、たいして気にかけておられる様子はなかった。そして『瘋癲老人日記』を絶讃され、谷崎先生はそれを無邪気に喜んでおられるふうであった。『瘋癲老人日記』には、昭和三十七年度の毎日芸術大賞が贈られている。

『瘋癲老人日記』への称讃の言葉はそれとして、川端先生には、内心この小説と比較しての、『眠れる美女』へのかなりの自負があったことは想像に難くない。

「僕はまだ瘋癲老人じゃありませんよ。あんなにはなっていませんもの。谷崎さんは前から大分そうですけど」

と、眼を光らせて悪戯っぽく笑いながら言われたことがあった。

 蛇足ながらAさんも、京都の仕事場に滞在中の先生がそんなことを冗談っぽく繰り返しては、隣接する谷崎先生の旧居にしきりに興味を示されたことがあったと語っている。

 

『眠れる美女』と『瘋癲老人日記』という二つの小説の主題が「老年の性」という共通のものであるとは言っても、死、あるいは死者、あるいは死後の世界、についての両先生の認識は、根底から違ったものであったと私には思われる。川端先生にとって、幼少年時代から「死」はつねに身近なものであり、極端に言えば、「死後の世界」は現世よりも懐かしい場所であったろう。幼時から先生の周囲で起ったおびただしい死の現実は、動物としての人体がいかに無慙(むざん)なものに成り果てて行くかを、少年に、とくと見定めさせたに違いない。先生の逝去後、今東光氏が、「あいつは信仰を持ってなかったからなあ。あの世なんてあるもんか、って思ってたからなあ」と、しみじみと嘆かれたことがあったが、川端先生は思索の場で、死の世界、または「魔界」に、自由に行ったり来たりすることが出来、それを文学に昇華させられたのであろう。

 一方、谷崎先生ほど「病気」と「死」を恐れた家はいない、と言われている。晩年の谷崎先生は、自分を襲う病気と、迫り来る死に追い詰められ、それを材料にすることによって文学を生み出されたのではないかと考えられる。『瘋癲老人日記』の結末を、ドナルド・キーン氏は、老人の死によって締めくくるべきであったと評されたことがあるが、私も原稿筆記者の立場にいながら、それは全く同感であった。しかし、「瘋癲老人」は死なない。生き長らえた老人は、死後の世界の幻想をも、美女の足の下に踏まれる愉悦の場所として、現世に引きずり込む。そして『瘋癲老人日記』に続く最後に構想されていた小説では、主人公は「向う側」の世界から現世を見ることになっていたけれども、間もなく先生自身に死が訪れ、その作品はついに書かれることがなかったのである。

 

 話は前後するが、川端先生の京都の仕事場というのは、主として『古都』の執筆のために、昭和三十六年に借りられた、下鴨の(ただす)の森に近いT家の一室であった。そこは、谷崎先生が数年前に処分された旧居と背中合わせの位置にあった。川端先生はここで『古都』を書き終え、『美しさと哀しみと』の筆を進めておられたのである。

 昭和三十八年の春、五月十日発売の「中央公論」六月号から谷崎先生の『雪後庵夜話』の連載が始まり、五月下旬、谷崎先生は京都北白川の仮寓に滞在されたので、私も原稿筆記のために京都に出張し、ホテルからそこへ通う日が何日か続いた。折から、川端先生も京都の仕事場におられ、Aさんも京都に出張して来て、「婦人公論」七月号の、川端先生の原稿を受け取るために、私と同じホテルに泊って待機していた。先生の原稿は、いつもギリギリになって気を揉むのだが、不思議に印刷の機械が動き出す直前に出来上って、用意して開けておいたページに、ぴったりと納まるのが常だ、ということであった。

 それから二日ほどして、いよいよ今日こそという午後になっても、川端先生の原稿が仕上らない。あと二枚ばかり、というところで、Aさんはどうしても東京へ帰らねばならぬ用事ができて、残りの原稿は私が受け取って、電話で読み上げて送る、ということになった。先生にも了承を得て、Aさんはあたふたと発って行き、私は、本来の谷崎先生の仕事を片付けた後、旧居を処分された時から数えて六年目、久しぶりに、下鴨への夜の道を辿った。午後十時過ぎであった。

 T家にはあかあかと灯がともっていた。この家の持ち主で、滞在中の先生の身の周りや朝食などの世話を引き受けているという、上品な年配の婦人が出迎えて、先生の部屋に案内された。先生の部屋は、広い式台のある玄関を入って右で、婦人の住む左の側とは、玄関で振り分けたようになっていた。十畳ほどの広さの表座敷が仕事部屋で、襖で仕切られた更に奥の間に、先生用のベッドがあったらしい。

 先生は部屋の入口を背に、庭に面して据えられた大きな座卓に向って、やはり和服姿で、原稿用紙の上に覆い被さるようにして執筆しておられたが、私にとって、川端先生の執筆姿を見るのは、もちろん初めてであった。

 私の気配を知ると、先生は、やあ、と、こちらに向いて座り直された。笑みを浮かべた優しい顔であったが、ちょっと普段の先生の表情と違って見えた。というのは、小さい黄楊(つげ)の櫛が額の上に挿してあったためらしい。執筆のために俯いた際、髪の毛が垂れて視界の邪魔をしないように挿してあるのだ、と、すぐに判ったが、真っ直で(こわ)い感じの、量は多いが大方白くなった髪の毛に、黄楊の黄色が妙に似合っていた。先生はその櫛を外しながら、そんな格好を私に見せたことで、ちょっと恥じらうような笑いを浮かべて、

「遅くまですみませんね。あなた、昼間の谷崎さんの仕事で疲れているでしょうに。とんだ迷惑をかけますね」

と言われた。

「まだ一枚半しか書いてないんですけど。……でも、字はちゃんとしてますよ。こんなに丁寧に書いてありましょう? お習字みたいでしょう?」

と、先生は、私に原稿用紙を渡して、宿題を忘れて叱られている子供が言いわけをするような調子で言われた。まことに原稿の文字は、一画だに(ゆるが)せにせず、彫り込むようにしっかりと、楷書で書かれている。私には、その先生のはにかんだような「言いわけ」が、心にしみた。

「あなた、早く電話をかけたいでしょうけど、でも、ちょっといいじゃありませんか。お茶だけでも、飲んでいらっしゃい」

 机の向うの広縁の外の庭は、かなり広いらしく、夜の闇の中に一層黒々とした木立が、まわりを取り囲んでいるようであった。京都の初夏の湿った空気に、そこはかとない若葉の匂いが漂っている。

「あの向う側に谷崎さんが住んでいたんですね、そこへあなたが来ていたんですね」

と、先生が言われた。

 闇の彼方は、谷崎先生の旧居であり、ちょうど十年前、私はそこで初めて『新譯源氏物語』の原稿の筆記をし始めた。先生のご機嫌に振り回され、戸惑ったり途方に暮れたりしながら始まった仕事が、思いがけずも、今、川端先生の仕事に繋がっているのである。川端先生自身には、谷崎先生の旧居への、ほんの好奇心だけしかなかったのかもしれない。しかし、「そこへあなたが来ていたんですね」という声の温かさが、その頃の私の手探りの努力へのねぎらいのように聞えたのは、果して私の感傷に過ぎなかったのだろうか。

 私はその夜、いったんホテルに帰って、出張校正室に電話を入れ、受け取って来た一枚半の原稿を読み上げてから、二時間ほどの後、もう一度、川端先生を訪ねた。残りの半枚を深夜の電話で送り終え、ざわざわした校了気分の伝わって来る受話機の向うで、Aさんが、「そこで(つづく)でいいのね、有難う」と言うのを聞いて、深々とした安堵と満足感とに包まれてベッドに入ると、やがてカーテンの外の空が白んだ。

『美しさと哀しみと』が完結したのは、その年の十月号であった。

 

 ある時、川端先生のどちらかの眼が、ごみが入ったようにころころするので、近くの眼科医院で診察を受けられたところ、「粉瘤」というのか、ごく小さな脂肪の塊の粒が瞼の裏に出来ており、それを切り取る手術をされた、ということであった。手術は簡単なものだったらしく、私が伺った時には眼帯も外しておられて、

「瞼をひっくり返して、鋏で切ったんですけど。……眼のお医者さんは、上手に瞼をひっくり返しますね。あれは、びっくりしちゃいますよね」

と、楽しそうである。お痛みはなかったでしょうか、と私が尋ねると、

「痛くなんかありませんよ、ちっとも。だって、麻酔をかけていますもの」

「でも、恐そうでございますね」

「そりゃあ、恐いですよ、鋏の先が見えてますから。でも面白いんですよね、パチンパチンって、音がして」

 これがもし谷崎先生だったら、どんな騒ぎになっただろうと、私は思った。川端先生はそんな私の気持がすぐに判ったとみえて、

「谷崎さんなら、あなた、大変ですよ。あの人は恐がりですもの」

 そしてまた、くっくっ、と笑われた。

 

 それからまた、ある時、川端先生のお腹から出た胆石、というものを見たことがある。小さな箱に脱脂綿を敷いて入れた、薄いベージュ色の小石と言うより荒目の砂のかたまりのようなもので、二つ三つあった。僕のお腹から出た石を、是非欲しいと言う人がいて、今日、取りに来るらしいので用意してあるのですよ、ということであったが、先生は例のようにくっくっと笑いながら、

「漫画を書いてる横山隆一さん、妙なものばかり集めてるんですよね。僕のお腹の石も、そのコレクションに入れたいんですって。僕が捨てるつもりだと言ったら、あわてて、是非ほしい、って。こんなもの貰って、一体どうするつもりなんでしょう」

 そういえば、いつぞや谷崎先生の『台所太平記』の装幀を依頼するために、私が横山隆一氏の令弟の漫画家横山泰三氏を訪ねた時、どういうわけかそのコレクションの一部が泰三氏の画室にあって、自慢して見せられたことがあった。蝶の標本を入れるような大きさの、中に小さい仕切りがしてある箱がいくつもあり、誰それさんの庭のとかげのしっぽ、といった類の、得体の知れない小さなものが、それぞれの仕切りの中に入っていたが、その時泰三氏は説明に夢中になって、装幀のために私が書いて行った寸法書きを、もう少しで、箱の下でしわくちゃにされるところであった。川端先生の石は、これがお腹から出たと言われれば、ちょっと薄気味悪くもあり、ただの小石だと思えば何の変哲もないものにも見えた。

 横山氏は、今もあのコレクションを大切にしておられるのだろうか。

 

  編集会議

 

 さて、昭和三十八年の初頭から、中央公論社では、創業八十周年記念出版の一環として、『日本の文学』と銘打った全八十巻の現代日本文学全集を企画し、翌年早々の発売に向けて、編集作業を進めており、私も制作スタッフの一人に加わっていた。編集委員は、谷崎潤一郎、川端康成、伊藤整、高見順、大岡昇平、三島由紀夫、ドナルド・キーンという、七人の方々であったが、その七月三十日に、編集委員全員の出席の下に最後の編集会議が開かれた。

 私がその会議に同席するように命じられたのは、それまで欠席のままであった谷崎先生が、最終回だけは出席されることになり、その会議中にメモの必要を感じられた時の筆記のために、ということからであった。ニューヨークから到着して早々のキーン氏も出席された。私が谷崎先生に随いて、おずおずと入って行くと、初めての会場で緊張している私に、それぞれが思いやりの深い目を向けて下さったが、川端先生は特に親しげな笑顔であった。キーン氏は、その著『声の残り』に、当日のことを、

 

「この会に出なければとても知ることの出来ないような文壇の秘密に、自分も関与しているのを、私は実感していた」

 

と記しておられるが、いうまでもなく、「全集」に作品が収録されるかどうかは、作家にとってその存在の価値を問われることであり、編集委員はその生殺与奪の権を握ると同時に、見識の高低を露わにすることになる。私は初めて実見する会議の緊迫した雰囲気に、目を瞠る思いであった。『続高見順日記』にはこの会議の様子が、「例によって激論」と記されているから、それまでの何度かの会議にも、真剣な討論がなされていたに違いない。

 会議の結果、「森鴎外」「島崎藤村」「徳田秋声」「永井荷風」「志賀直哉」に各二巻、「夏目漱石」「谷崎潤一郎」に各三巻という結論になったこと、「川端康成」に二巻を割り当てようという意見を、先生自身が固辞された結果、一巻になったことなどは、旧著(『われよりほかに 谷崎潤一郎最後の十二年』に記したので今は触れない。ただ、そこには書かなかったが、私に強烈な印象を残した一つの出来事があった。

 巻割を決めて行く段階で、「今東光」の一巻を加えるかどうか、が話題になった時のことであった。当時今氏は、直木賞受賞の流行作家として活躍しておられ、その著書は次々にベストセラーになっていたので、会社としても、当然全集の中に名を連ねて頂きたいという意向があった。谷崎先生も、古くからの懇意として、今氏を推薦出来れば、と思っておられたようであった。ところが、川端先生が言下に否定されたのである。

「しかし、今さんは川端先生の大事なお友達でしょう」

と、三島氏が言われた。

「入れなくていいんですか」

「いいんです。入れてはいけません」

「どうして?」

「作品がありませんもの」

「そんなこともないでしょう、『稚児』や『闘鶏』なんか、どうですかしら」

と言われたのは、伊藤整氏ではなかったろうか。谷崎先生は『闘鶏』はいい出来ですがね、と、独り言のように呟かれたが、川端先生の眼には峻厳な光があった。

「『闘鶏』は短編です。あれだけじゃ、仕方がありません。それにあれだって、そんなによくはありません」

「川端さん、厳しいなあ。そんなにおっしゃると、僕の巻も辞退したくなっちゃう」

と、高見氏が冗談めかして言われた。独特の優しさのこもった気配りであった。大岡氏はそれに続いてとりなすように、

「じゃあ、『闘鶏』だけでも、他の何人かの小説と一緒に『名作集』に入れたら? どうですか、谷崎先生」

「はあ、それはよござんすけれども……いやあ、私には別に意見は……」

「いいえ、そんな形で入れては、かえって彼のためになりません」

 川端先生がそれでよろしいなら、と、それだけで「今東光」の一巻は見送られて、すぐに別な話題になったが、私は、川端先生の厳しい顔の色に胸が迫っていた。

 川端先生は、小説と同時に文芸批評家として早くから活動していた方である。先生が、常に、作者の人柄の如何に捕らわれることなく、またいささかの私情も挿し挟むことなく、純粋に作品そのものを評価されたことは、ほかにも例を聞いている。しかし、今も私は、あの時の先生の眼が、果して厳しいだけのものだったかどうか、もう一度確かめたい、という思いに駆られる。もしかすると、あの時、峻厳と見えた先生の眼は、実はかなしみに満ちたものではなかったろうか。

 今氏の当時の活躍を、川端先生が喜んでおられなかったはずはない。新しい全集の編集委員として、誰よりもまず、出来ることなら今氏を推薦したいと思われたのは、川端先生に違いない。しかし、全集には『夜明け前』や『暗夜行路』や『細雪』や『雪國』などの名作が並ぶ。それに名を連ねて恥じぬ作品が、親友には、実は、ない……と、改めて気付かれた時の無念さは、川端先生の胸を締めつけたに違いない。後年、今氏の参議院選挙出馬の時に、全力を尽して応援されたのは、学生時代に世話になった今家への恩返しの気持からであった──このことについては後述する──と言われていて、それに違いはないのだけれども、単にそれに留まらず、先生の気持のどこかに、この全集から今氏を締め出したことへの償いめいたものがちらつきはしなかったか、と、私はふと想像することがある。

 

 七月の編集会議が終った後、夏から秋にかけての編集室は、翌年二月の『日本の文学』刊行に向けて、多忙を極めていた。

 この全集の特色として、谷崎先生を除いた編集委員の各氏に、実際に何巻かの責任編集と担当巻の解説執筆とをお願いすることになって、川端先生は「徳田秋声(一)」「横光利一」「宇野千代・岡本かの子」の巻を担当、川端先生の巻は、三島氏の担当、と決定された。また、第一回配本をどの巻にするか、は、取りあえず「谷崎潤一郎(一)」「川端康成」「太宰治」の三冊を同時に進行させながら状況を見て決める、ということになった。「状況」というのは、その秋のノーベル文学賞を、谷崎・川端両先生のどちらかが受賞される可能性があり、受賞が決まれば当然その先生の巻を優先することになる。どちらも受賞されない場合、谷崎先生の巻を第一回にしたいのだが、それには依然として歴史的仮名遣いを墨守しておられる谷崎先生が、新仮名遣いに妥協して下さらなければならない。それらの条件が満たされなかった場合は、「太宰」になることもありうる、ということなのであった。結局は、谷崎先生が新仮名遣いを諒承され、「谷崎潤一郎(一)」が第一回配本(二月五日)、「川端康成」が第二回(三月十六日)、「太宰治」は第三回(四月十五日)配本となった。

「川端集」は、会社の方針として、ちょうどその九月発売の「婦人公論」十月号で連載の終った『美しさと哀しみと』を、単行本化するに先立ってこの集に入れ、それを類書とは違う魅力にしよう、という狙いがあった。この作品を収録すると、どう計算しても、川端先生の代表作を漏れなく一冊に収めることは不可能であった。やっぱり、あの編集会議の時に、川端さんを説得して二巻割り当てておくべきだった、と、責任編集を担当した三島氏は諦め切れない表情であったが、結局、決定した収録作品は次の通りであった。

 目次の順に記せば、長編の代表作として『雪國』『千羽鶴』『眠れる美女』、それに最新作の長編である『美しさと哀しみと』を併せ、川端文学の原点となった記念碑的な作品『十六歳の日記』と『伊豆の踊子』、昭和十年前後の短編として『抒情歌』『イタリアの歌』、戦後の『反橋』『しぐれ』『住吉』三部作、「(たなごころ)の小説」から『月』『夏の靴』『有難う』、随筆・評論として、『末期の眼』『文學的自叙傳』『純粋の聲』『哀愁』『横光利一弔辞』、という計十九篇である。『山の音』と、あの『ほくろの手紙』を割愛せざるを得なかったことを、三島氏はいつまでも惜しんでおられた。煩をいとわずここに収録作品を列挙したのは、この三島氏の編集が、川端文学の新しい読者への、指針となるに違いないと考えたからである。

 私は編集作業を進めるために、川端先生の初期からの作品を、改めて通して読む機会を得、また、先生自身からも、収録作品についての感想や訂正を聞くことが出来て、それは得難い収穫となった。そのすべてを記す紙幅はないが、一応、川端先生の生涯を追う形でその内容を、参考になる程度に記しておきたい。

 

  『十六歳の日記』

 

『十六歳の日記』は、大正三年五月、川端先生の数え年十六歳、中学校三年生の時の、死に至る病床の祖父を看病しながら綴った十数日間の日記を、二十七歳の時に伯父の家の倉で見つけ、写し取って発表した、というもので、ところどころに、大正十四年初発表の際の、十六歳当時の状況を説明する自注がついている。その時の「あとがき」がある上に、五十歳を記念して上梓された新潮社版全集の際の「あとがきの二」、さらにその時に発見されたという日記の追加があること、そこに「十六歳」の時の原文を、発表時に写し取った段階で破棄した、とあること、加えて「あとがきの二」に、「『あとがき』は小説のつもりで書いたので、少し事実とちがふところがある」とあり、また「私がこの日記を発見した時に、最も不思議に感じたのは、ここに書かれた日々のやうな生活を、私が記憶してゐないといふことだつた」という一行、また、十六歳の少年のものとは俄かに信じがたい文章の完成度から、初発表の二十七歳の時の創作ではないかとして、川端文学を論じる上でしばしば問題にされる作品である。

 先生はこの作品を『日本の文学』に収録するに際して、自分の生い立ちを私がどう思うかと、ちょっと興味を持たれたようであった。先生の生後間もなく相次いだ両親の死去、姉と別々に祖父母のもとで育てられた幼年期、小学校一年生の秋の祖母との死別、それに続く姉の訃報等々、幼少年時代に起った出来事に題材を取った作品は、『十六歳の日記』以外にも数多くあるが、私はそれらを身につまされて読んでいた。実は私も七歳で父を失っている。兄弟姉妹もいない。またその父も物心ついて以来、ほとんど入院生活をしていたから、父に関する私の記憶は、断片的なものでしかない。それに私の場合、父方母方ともに、祖父母は私の十四歳までに死んでいる。大人の眼から見れば、その時期の子供といえば、当然いたわられる対象だが、子供の側からは、その保護者の体力を思うと、自分のほうがむしろ保護者にならねばならない、という、いじらしい責任感のようなものを自然と持つようになる。

『十六歳の日記』の「あとがきの二」に、

 

「この祖父の死によって、十六歳の私は一人の肉親もなくなり、家も失つたのであつた」

 

とある。戦前から川端文学論と言えば「孤児の感情」について論じるのがきまりのようになっていて、少し言い立てられ過ぎた気がしないでもないが、私は、先生が全くの「孤児」になられた後よりも、お祖母さんの逝去後、眼の不自由なお祖父さんと二人だけで過した八年間の経験が、その文学の苗床になった、という気がする。一般に、七、八歳から十六、七歳までの生活環境が、その人の生涯の基礎となる、と言われている。『油』『祖母』『骨拾ひ』『葬式の名人』『父母への手紙』『父の名』『故園』『思ひ出すともなく』『落花流水』等々、その他、幼少時代にふれた片言隻句(せっく)のすべてに、先生の文学を育てたものが示唆されていると思われる。

「中学三年生の田舎の子供が、ろうそくの灯の下で書いたんですもの、変な文字遣いをしているところがあったんです。それを直して原稿用紙に写した──つまり書き直した──だけですよ。いろいろ言う人がありますけど」

と言われる先生の言葉を、私はごく自然なものとして聞くことが出来た。

「一人の肉親もなくなり、家も失つた」川端少年を取り巻いていた環境、特に母方の親戚筋の人々は、物質的にはかなり豊かであったに違いない。一般に、保護者を失った少年が、残されたわずかな遺産をさえ、周りから寄ってたかってむしり取られてしまうような例は数多いが、川端少年の場合、周囲の人々が誠意を以て学資や生活費を確保したこと、郷里を出た少年の残した山林や什器を処分する際にも、ちゃんと挨拶がなされたことなど、珍しいと言えるのではなかろうか。先生自身が後に中学五年生の秋に家屋敷が売られた時、一切を「叔父達に任せて一言も口をいれなかつた」のに、従兄や叔父さんが「誠心から私の利益を図つて下さつたのは、ほんたうに感謝すべき事であつたやうに思ふ」(大正五年十二月三十一日の歳晩感)と書いておられるのがその一つの例である──もっとも精神的には、同情に対してすら相当に複雑な思いの起伏があったことは、『葬式の名人』の、「私の心の半ばは人々の心の恵みを素直に受け、半ばは傲然と反撥した」という、こんな文言の片鱗からも、容易に想像されるのだが──。

 茨木のことに話が及ぶと、いつも先生の眼は、遠くに向けられていた。

 

  『伊豆の踊子』

 

『日本の文学』に収められた作品では、年代的にはここで『伊豆の踊子』が順序である。ちょうどこの年の春に、吉永小百合主演、西河克巳監督で四回目の映画化があり、先生はその撮影の現場にも行かれ、二、三、随筆を書いておられる。撮影中の伊豆の風景の中に先生と吉永さんが一つの画面に入っている写真を見せながら、先生は、

「映画ではきれいですけど、本当の人達は埃まみれでしたよ」

と言われた。昭和四年に書かれた『私の七箇條』には、『伊豆の踊子』はモデル小説だが、あの踊子の兄と嫂とは大きな腫物を出して、

 

「床の中でも温泉の中でも痛がつてゐたのが、ほんとの姿だし、嫁の母の汚さと云つたらなかつたが、モデルのそんな点を描くことは、どうしても私には出来ない」

 

と記されている。その踊り子の兄には、先生の父「榮吉」の名が与えられている。余談になるが、「榮吉」は、初期の作品『大黒像と駕籠』にも、先生自身の名として使われている。その姓は、川端家の祖先として、生前のお祖父さんが執着しておられた北條である。やはり父君への思いには特別なものがあったのであろう。そして、後の『父の名』(昭和十八年)にそれらが集約されることになったのであろう。

  『雪國』と『美しさと哀しみと』

 

『日本の文学』の編集の際、この全集に最新作として初収録された『美しさと哀しみと』を、先生は、往々『雪國』と対比して語られることがあった。

『美しさと哀しみと』には、京都に住んでいる画家で四十歳になる上野音子と、その若い弟子、坂見けい子との、二人の女性が登場する。音子は十七歳の少女の頃、当時三十一歳の、妻子のある小説家大木年雄の子を早産して失い、自殺を企てたことがあったが、大木への心はひたすらに変らず、日本画家として一家を成した今も、彼との愛の思い出に生きている。一方、大木は彼女をモデルにした小説「十六七の少女」が出世作となって、その愛読者は多く、名声を得て平穏な家庭を持っているが、やはり音子への想いは、深い痛みとともに心の底に沈んでいる。けい子は、音子の東京での個展を見て惹かれ、高校を出てすぐに、半ば強引に弟子入りした娘だったが、けい子の妖しい美しさと激しい情熱に、音子は溺れながらも、大木への無償の愛を、やがて二十五年ぶりに再会した後も変えようとしない。けい子は、そんな音子への愛執と嫉妬から、上野先生の復讐をすると言って大木を誘惑し、その息子の太一郎をも琵琶湖のほとりのホテルに誘う。そして夕色迫る湖に、ためらう彼を強いていざなってモーターボートを出す。

 そのボートの事故のニュースを聞いた音子が、車を飛ばしてホテルに着くと、けい子は救われてベッドに眠っており、窓から見える夜の水面には、太一郎を捜す多くの灯が、慌ただしく動き廻っていた。

 

「モオタア・ボオトの群れの不安な明りの動きをよそに、赤い装飾燈をつらねて、ホテルの岸へゆっくり近づいて来る、遊覧船もあった。向う岸に花火のあがるのも見えた」

 

というのが、連載時の最終行である。

 先生は、このままでは中途半端な結末で気持が落ち着かない、もう少し書き加えたい、と言われた。

 その秋は、先生は東京の旅館、四ツ谷福田家や、ホテル・オークラの一室を仕事部屋にして、鎌倉のお宅と東京とを往復しながら『片腕』(八月号より翌三十九年一月号まで「新潮」に連載)を書いておられた時期である。先生は私に、

「この頃、眠れなくて困ってるんですよ。だから余計に、仕事が進まないんですよね、またあなたに迷惑をかけますね」

と言いながらも、問題の加筆に踏み切れずにおられた。事実、私の仕事は大変に重なっていたが、忙しければ忙しいほど、川端先生が黙ってたばこをふかしておられる前に座っている時間は、むしろ私にとって憩いになった。先生も、

「あなた、そんなに急いで帰らなくてもいいじゃありませんか。僕だって、いっぱい仕事はあるんですけど、もう少しいいでしょう」

と引き留めて、あの結末をどう思いますか、やはり替えた方がいいでしょうねえ、と、私の意見を求められた。

 私はそれまで、どの先生にも、作品についての詳しい感想や意見を言ったことがなかった。谷崎先生が、面と向っている人が自作について何か言うのを、極端に嫌っておられたからである。私は、作家は誰でも、自作について軽々しく云々されるのは嫌なこと違いないと考えていた。川端先生ほどの方が、本気で私の意見を聞きたいと思っておられるのだろうか……。

 先生に再三促されて、私はとうとう、おずおずと言った。──気が済まない、とおっしゃるのなら、私は時間の許す限りお待ちしますし、決して迷惑だとは思いません。でも、あの結末の部分は、太一郎が助からないことも、その結果、けい子の「復讐」は音子に絶望をもたらすだけだったことも、十分に読者に通じると思います。あの余韻が、私は好きです──そんな意味のことであったが、先生は、「そう思ってくれればいいんですけど……」と言いながら、なお、逡巡しておられる。私はふと、それまで遠慮をしていたのに似ず、大胆なことを言ってしまった。

「先生のお作は、総じて、終りらしい終り方ではないと思います。『雪國』も、『山の音』も。でも、『源氏物語』の終りもそうですから、いいのではないでしょうか」

 これには先生も驚かれたらしい。はあ……と言ったまま、私を上から下まで眺めて、しばらく絶句しておられたが、やがて、くっくっ、と笑って、

「それはそうですけど……。じゃあ、ちょっとだけ書きましょう。毎日、来て貰うことになって、気の毒ですね」

 川端先生の言われた「ちょっとだけ」は、結果として三枚余になったが、『美しさと哀しみと』の最後は、駆けつけた大木夫妻が琵琶湖のホテルに登場して、音子の絶望が決定的に印象づけられ、

 

「けい子は目をあいた。涙をきらきら浮べたまま音子を見上げた」

 

と、締め括られた。

『雪國』も、いったん完結の形をとって昭和十二年に初版が刊行された後、最後の「雪中火事」の部分が書かれ、何度か加筆を加えて、完結版が出たのは戦後の二十三年である。今度の場合は「雪中火事」に比して短く、完成のための手順も複雑ではないが、この成立事情は同じである。

 先生はまた、全体にエロティックな場面が目立ち過ぎはしないか、こんな書き方をして問題になることはないか、と、案じておられた。私が、そのご心配はないと思います、『雪國』の方がずっとそういう場面が多いのに、今まで問題になったこともなく、冒頭の部分だけとはいえ、教科書に載っているくらいですから、と言うと、先生は、

「あれはわからなく書いてますもの。みんなトンネルのところだけ読んで、安心な小説だと思っちゃうんですよ。でも、今度のは、『雪國』ほどわからなくは出来てませんからね」

と、笑いながら言われた。

 単に先生のこの言葉によって、『雪國』とこの作品とを対比しようというのではないが、まず、上野音子と坂見けい子とは、『雪國』の駒子と葉子とに当り、大木年雄は、島村に当るだろう。島村が訪ねるトンネルを抜けた先の雪の村は、一方では除夜の鐘の鳴る京都である。駒子は「島村には虚しい徒労とも思はれる、遠い憧憬とも哀れまれる」姿である。その駒子の「精いっぱい」の生きかたは、音子の殉愛と重なり、島村が駒子を通して葉子と知り合い、やがて駒子を越えて葉子に心を惹かれる設定は、音子を越えてけい子に傾く大木に繰り返される。また細部では、駒子の両の乳房を比較する官能的な描写が、けい子の場合には左右を変えて反復されている。

 小説の中の作家、大木の出世作「十六七の少女」は、彼の作品の中で「もっとも長い寿命を保って今も広く読みつづけられて」おり、「今ももっとも売れつづけて」「若いときの代表作」と言われて、この作によって「名と金を与えられた」ことになっている。

 

「大木は小説家としてふがいないようで、(改行)、『いやだなあ』とひとりで憂鬱にもなるけれども、考え直してみると、そこには青春のみずみずしさがあるのだろう。また定評というものに支えられてしまったような世間の愛好は、たとえ作者自身が抗議してみたところで動かせないのである。作品はもう、作者をはなれて生きているようだ」

 

という作中の感想は、そのまま『雪國』と『伊豆の踊子』の作者としての先生の感慨であると言ってもよい。

 先生はしばしば、この小説は『雪國』のようにうまくは行かなかった、と言われたが、それはどういう意味だったのだろうか。『雪國』の火事の場面に対してこちらは水で終ることになるが、憶測すれば、『雪國』のバリエーションにしようとして、なりきれなかった、ということだったかも知れない。エロティックな場面が『雪國』ほどわからなくは出来ていない、という先生の言葉も、この作品は『雪國』のように推敲の洗練度が行き届いていない、ということであったのかも知れない。

 それにしても、「十六七の少女」というその年齢は、先生にずっとつきまとった年齢である。先生が現実に、初めて結婚を決意されながら実らなかった恋の相手で、『篝火』『非常』『霰』『南方の火』に描かれた女性も当時十六歳であり、駒子は十七歳で雪国に来たことになっている。その駒子をはじめ、十六歳のヒロインが登場する作品は枚挙に(いとま)がない。十六歳という年齢は、先生にとって、やはり特別なものだったのであろう。

 ちなみに、音子は十七歳で大木の子を早産するが、その女児の命ははかなく、「音子のそばには連れて来られなかった」という場面がある。このシーンは、先生の実際の体験が材料になっているらしく、秀子夫人の著書『川端康成とともに』には、若い頃の出産のあと、

 

「子供はすぐ亡くなって、顔を見ているのは主人だけで、私は見ておりません。『可愛い女の子だよ』って主人が申しましたのでびっくりしましたが」

 

と記されている。

 川端先生に限らず、何度も版の重なっている作品は、その都度何らかの手が入るので、底本が定めにくく、異同が多くなり、そのあげく、どうしても文章に矛盾した個所が生じて来る。校閲部の綿密な作業の結果、校正刷に、七夕さまの短冊のように色とりどりの付箋を貼って持参し、細々(こまごま)とした疑問を一つ一つ点検する私に、先生は呆れた顔で、

「今までに『雪國』や『伊豆の踊子』は、何度こういう全集に入ったか、数えきれないんですけど、あなたみたいな細かい疑問を言って来た人は初めてですよ。僕がどんなにいい加減なことを書いていて、それが今日までそのまま通用していたかって、びっくりしちゃいますよね」

と言われた。疑問があったのを、ああ、その一行を取っちゃえばいいですよ、と、あっさり直して行かれるので、私は恐縮し、かえって落ち着かぬ気持になった。

 この時期、ほとんど三日にあげず、という調子で先生の許に通い、いつも、あの稚児太子像のある座敷で校正刷を中にして話をしていたのだが、先生は、相変らず立て膝をして座り、私の繁雑な質問に、少しも面倒臭そうな顔をせず、根気よく答えて下さるのが常であった。一段落すると、先生が、

「おい」

と、小さく呼ばれ、夫人がお茶を運んで来て下さった。

 その年、昭和三十八年暮れの私の手帳を見ると、川端先生はホテル・オークラに滞在しておられ、私は十二月二十五日から二十八日まで、毎日、先生を訪ねて、時にはホテルの食堂で一緒に夕食を摂ったりしながら、校正刷の疑問個所をチェックして頂き、二十九日と三十日は印刷所で校了の打合せ、正月早々の四日と十一日とに、鎌倉を訪問して、最後に残った疑問点を解決して頂いている。

 どんな全集でも、「月報」とよばれる付録がついているのが通例である。『日本の文学』の付録には、毎巻、その巻の著者と、責任編集を兼ねて解説を執筆された先生との、対談を掲載することになっていた。川端先生と担当の三島由紀夫氏との対談が行われたのは、一月十四日の午後四時から、場所は川端先生の定宿の一つ、四ツ谷の福田家であった。その朝、当時の国電の蒲田駅で事故があって、ちょっとダイヤが乱れたが、午後には平常に戻り、鎌倉から来られた先生は、私が出迎えた新橋駅に、予定通りの時刻に着かれた。

 対談は六時前に終り、六時十五分に始まる岸田今日子主演の「ジャンヌ・ダーク」をみんなで観に行こう、と、三島氏が誘われた。福田家から劇場までの車の中で、川端先生と並んで座っておられた三島氏は、身を乗り出して、助手席の私に、

「ねえ、あなたって、小説の細かい矛盾を見つけるのが凄くうまいんだって? 川端先生が、あれにはびっくりした、って僕におっしゃったんだよ。今度、僕の作品も全部、読み直して、変なとこ見つけてくれないかなあ」

と言われた。驚いた私が、えっ、と、体を斜めにねじ向けると、川端先生も横から、私をからかうように笑いながら、

「そうなんですよね。この人、閻魔様みたいに、すっかり嘘を見つけちゃうんですけど」

 私は恐縮しきって、いえ、あれは私ではなくて校閲部から出た疑問です、それに、どうでもいいような些細な食い違いや、表記の末端の疑問で、文学、という次元のことではありませんのに、いちいち、しつこく伺って煩わしい思いをおさせしました、申しわけありませんでした、と言うと、三島氏は、

「何言ってるのよ。その些細なことが大事なんだよ。その細部が、小説を支えているんだよ。さっきの対談でも言ったでしょう、あれは、そういうとこのことなんだよ。あすこは生かして原稿作ってくれなきゃだめだよ」

と言われた。「あすこ」というのは、対談の終りに、文学批評について三島氏が、小説の質は細部で保たれているのだから、批評の際にも、ディテールを無視してはならない、と発言しておられる部分を指している。「月報」では、

 

「……だからそういうものの無視の上に成り立った批評は、いかに純文学を論理で擁護(ようご)しても、擁護したことにはならないと思うんです。細部というもので楽しむ批評が出てこなければ、純文学擁護の批評にはならない。問題は細部なんだから」

 

と、三島氏が言われ、それを川端先生が、

 

「細部に意味をつけるんです」

 

と受けておられる。

 さて、劇場に着くと、正面の、前から三列目あたりに席が用意してあり、居合わせた観客が注視する中で先生方と並んで座るのは、勇気が要った。おまけに三島氏は、ポケットから出した大きくて真っ黒なサングラスを、派手なしぐさで掛けて見せて、嬉しそうに笑いながら、

「これをかけないと、照明で目がやられるんですよ。眩しくなくて楽ですよ、試してご覧になりませんか」

と、その眼鏡を、自分の顔から外して川端先生の顔に当てがおうとされ、先生が尻込みされると、

「ほら、見てご覧」

と、私にもかけさせようとされた。

 

『日本の文学』は、爆発的な人気を呼んで、全集物では空前と言われるほどの売れ行きであった。その世評に乗ってか、全集に収録された諸作家の作品の中からいくつかを選び、その作品のイメージを着物や帯にデザインし、それを陳列した展示会が試みられたことがあった。主催者の名も、展示会のあったデパートがどこだったかも忘れてしまったが、その中の一つに川端先生の『千羽鶴』が入っていた。

『千羽鶴』は、深く澱んだ男女の想いと死が絡み合う中に、その埒外に立つ人として、一人の清純な乙女が配されている。彼女の持っていた「桃色のちりめんに白の千羽鶴の風呂敷」が作品の一つの象徴になっていて、それが小説の表題の所以(ゆえん)でもある。「千羽鶴」は、文様の名として辞書にも出ている。私が「千羽鶴」という言葉を聞いてまず連想するのはこの文様で、折り鶴をつないだ束とは区別があった。小説の『千羽鶴』は、私の予想では様式化された波の文様の上をおびただしい鶴が飛ぶ、裾模様になっているはずであった。ところが、展示会が始まって見に行くと、青紫のような色の地に、折り鶴をぱらぱらと散らした着尺で、どちらかといえば江戸好みの、粋な雰囲気のものであった。いうまでもなく、京都にも折り鶴を散らした着物などがなかったわけではないが、模様の名称としては、どんなにたくさんの折り鶴が染めてあってもやはり「千羽鶴」とは言わず、「折り鶴」と言った。展示の着尺の前で驚いた私が、東京育ちの同僚の女性に尋ねてみると、彼女は、なんでびっくりしているのか判らない、という顔つきで、自分たちは「千羽鶴」という言葉からまず第一に連想するのは文様でなくて折り鶴の束であり、「千羽鳩の模様」といえば折り鶴をたくさん染め出したものを思い描くから、小説の『千羽鶴』の風呂敷の柄も、以前から折り鶴だと思っていた、と言った。

 あの小説を読む時に具体的な風呂敷の図柄を想像する必要はなく、かえって邪魔にさえなるかも知れない。しかし、私はやはり納得が行かず、大分経ってから先生に聞いてみたことがあった。先生は、何を今更、という顔をして、

「もちろん折り鶴じゃありませんよ。でも、それがどうかしましたか」

と言われた。

『千羽鶴』には続編があって、それは『波千鳥』と題されている。その「波千鳥」も、丸い可愛らしい形に様式化された千鳥が波の上に飛んでいる、光琳ふうの図柄である。

『日本の文学』の「川端康成」が刊行された昭和三十九年の三月から約一年後の、四十年二月に、『美しさと哀しみと』は、連載当時から挿画を担当された加山又造画伯の装禎で、単行本として上梓され、同月、篠田正浩監督によって映画化された。また、この作品は連載中は旧仮名遣いであったが、『日本の文学』収載時に新仮名遣いに改められ、単行本も同様となった。

 その頃だったと思うが、加山画伯にお礼を言いたい、という川端先生の意向で、一緒に画伯のお宅を訪問したことがあった。画伯は、夫妻で大変な歓待をして下さり、画室では、最近作から初期の銅版画まで遡って、様々な作品を取り出して見せて下さった。展覧会で見た覚えのある大作もあり、初めて見る小品もあった。川端先生は私の表情を見ておられたらしい。加山画伯が、飼い犬を見せたいので庭にご案内しましょう、と、履物の用意をしておられる隙に、

「何か好きな絵がありましたか。どれか一枚、可愛いのを貰ってあげましょう。どれがいいですか」

と言われた。私はただ驚いて、とてもそんな厚かましいことは、と、固辞したために、それは実現しなかったが、

「そうですか、それじゃまあ」

と言われた先生の眼が、ひどく残念そうに見えた。あの時、先生の言葉のままに、「では、あの絵が好きです」と言った方がよかったのだろうか。私はその眼の色を見ているのが辛くなって、画伯の飼い犬の、大きなブルドッグに視線を逸らした。犬にはオゴダイという名がついていて、画伯が、

「ジンギスカンの息子の名前なんです」

と説明し、

「オゴダイ君、オゴダイ君」

と呼ばれると、彼は、垂れ下がった皮で塞がったようになっているまぶたをちょっと動かして、体に似合わぬ甘えた声を出した。川端先生も笑顔に戻って、

「はあ……そうですが。……オゴダイ君」

と、呟かれた。

 

 昭和四十年七月三十日、谷崎先生が逝去された。三十一日に小田原の火葬場で荼毘(だび)、翌日八月一日、東京虎ノ門の福田家で、通夜が営まれた。虎ノ門の福田家は、川端先生のお馴染みの四ツ谷の福田家の親戚筋に当り、谷崎先生の定宿になっていた。ちょうど二年前、あの『日本の文学』の編集会議が行われたのもこの福田家であった。私は逝去の日の朝から、湯河原の谷崎家に詰め切っていたが、通夜の当日は福田家の廊下で、玄関の受付から会葬客の控室までの案内役になっていた。中央公論社の社員が多数動員されていたが、私もその一員として、その役目を命じられていたのである。文壇関係、親族、友人や知人等々、次々に見える顔見知りの方々は、私を見ると、皆、「お役目ご苦労様、大変ですね」と、ねぎらいの言葉をかけられた。

 大勢の来客の中に、川端先生の姿があった。先生は私を認めると、他の誰にも目をくれずに、まっすぐに私の前に来られた。まわりには、ああ、川端先生、と声をかけて挨拶しかけた著名な人々もあったが、先生はそちらには会釈もせず、私をひたと見て言われた。

「あなた、今日ここに来ている人の中で、一番悲しいのはあなたです。お客の案内なんてしていちゃいけません。誰かに任せて、あなたは、祭壇の傍にじっとしていらっしやい。こんなとこに立って接待してたんじゃ、泣きたくても泣けないじゃありませんか」

 先生の声は低かったが、確乎とした強い調子であった。眼は厳しくて、何かに向って怒っておられるように見えた。

 その時の私は、谷崎先生の逝去が、まだ実感として身に迫っていなかったので、悲しいだろうと言われればそうに違いはなかったが、泣くことで悲しみを紛らしたいと思うほどの気持にはなっていなかった。それに、祭壇の傍らには谷崎家の親族がおられて、私の行く場所ではない。しかし、私が普通の担当者とは違う原稿の口述筆記に長年携わった者として、谷崎先生の逝去を深く悲しんでいるに違いないと、いわば私の「私的」な心情を思い遣る言葉を、ただ一人かけて下さったことに、私はかえって涙ぐんだ。

 葬儀は、八月三日、青山葬儀所で行われ、川端先生は日本ペンクラブを代表して弔辞を読まれたが、続けて八月十七日、高見順先生が逝去され、その葬儀には葬儀委員長を勤めておられる。その後、残暑の厳しい東京、鎌倉を離れて軽井沢に滞在された。

 その滞在が、もうじき切り上げられるという九月半ば、私は山荘に先生を訪ねた。高原特有の霧雨がたちこめ、かなり冷たい日の夕刻であった。山荘は広い芝生のスロープの上にあって、斜面の処々に、歯朶の大きな株が茂っており、その株を巡りながら芝生を上る、細い丸太で支えた段々がついていた。

 部屋は板間で、暖炉に火が燃えていた。先生は私に椅子を勧めると、

「ついさっきまで、そこに美智子さまが座ってらしたんですけど」

と言われた。

 吉川英治氏の葬儀のことを述べたくだりで、私は先生の随筆『美智子妃殿下』を引用したが、この随筆に、当時礼宮様を身ごもっておられた美智子妃殿下の、お忍びでの川端山荘ご訪問の情景が記されている。その記事の当日、お迎えに見えた皇太子殿下と浩宮様と三人連れ立って帰られた後に、私が現れた、というわけであった。

 もうじき、鎌倉に引き上げなくてはなりません、すぐ寒くなりますからね、それで片付け物をしているとこでした、と言いながら、先生は暖炉に、不要になった果物の箱や、そこに詰めてあった鉋屑(かんなくず)や、文殻(ふみがら)などを次々に投げ込まれた。その度に、炎がちょっと弱ったかと思うと、次の瞬間には前より激しく燃え上る。火の粉がはぜて、その(あか)い色が先生の頬に映る。私はただ炎を眺めていた。妃殿下と先生との間にどんなお話があったのか知る由もなく、また知りたいとも思っていなかったが、先生は、長い沈黙の後、ただ一言、

「ここにいらっしゃる間だけは、お気楽ですから」

と言われた。私が「はい」とだけ言うと、またしばらく黙っておられた。先生は炎を見るのが好きだ、と、前にも聞いたことがあった。数え年八歳の秋に祖母を、十六歳の初夏に祖父の遺骸を焼いた焔は、翌々年に恩師の亡骸を同じ故郷の村で焼き──『師の柩を肩に』に書かれた──同様の焔はその後もさまざまな知人、親戚、親友を焼いた。『雪國』の最後も、葉子を滅ぼし、島村と駒子との愛を葬る劫火(ごうか)である。先生はやがて、ふと私を振り向いて、

「炎はきれいですけど、あんまり見つめていては駄目ですよ。眼を悪くしますから」

と言って微笑み、

「谷崎さんも、高見君も、いなくなっちゃいました。暑い夏でしたね」

と言われた。

 ベランダの外は、霧雨が降ったりやんだりしていた。このベランダを舞台に、「愛する人達」の『ゆくひと』が書かれているのだ、と思った。十五、六歳の少年が、年上の、結婚を前に控えた若い女性とともに、ベランダから浅間山の爆発を見る短編である。しかし、現実のその日は、霧雨にけぶって山は見えなかった。

 

  ノーベル賞の年

 

 昭和四十三年の夏、参議院議員の選挙に今東光氏が立候補され、川端先生が、その選挙事務長を引き受けられた。正直言って、私には、今氏の立候補そのものが、理解に苦しむことであった。今氏は照れ臭そうに、自民党から話があって断りを言いに行ったのだが、何かとやりとりをするうちに、いつの間にか承諾したような雲行きになってしまったんだよ、と、弁解するように言われた。

 令弟の日出海氏の次女のM子さんと私は、それより十数年前に東光氏の許で知り合って以来親しくしていたが、M子さんも立候補が腑に落ちかねる様子であった。最初選挙事務長に予定されていた日出海氏が、文化庁長官に就任されたために、急遽、川端先生がその任を引き受けられたということであったが、私たちの戸惑いをよそに、今氏も川端先生も、すっかりはしゃいでおられるように見えた。一度、東京の街角で、偶然、今氏の宣伝カーに出会った時、今氏がいつもの闊達な笑顔で窓から盛んに手をふっておられる向う側に、川端先生が、ここにいるのが当り前だ、というふうに座っておられた。その上機嫌の顔付きは、いつもよりふっくらと健康そうで、まるでドライブを楽しんでおられる風情であった。先生自身がその後書かれた『選挙事務長奮戦の記』には、「『今東光、今東光』の大声の連呼のくりかへしが単調で、子守歌みたいに」なり、いい気持に居眠りをして、自分でもおどろいた、と書き、「スポオツの一種と思ってしまへば、別につかれはしませんでした」と記しておられる。そして、その「奮戦の記」は、

 

「ともかく、私が今東光の役に多少とも立つたのはしあはせに思つてゐます。ちやうど五十年前からの友だちですが、十九か二十のころ、今東光の父母も私を温かく家に迎へてくれ、天涯孤独の私をあはれんで、大晦日の夜や正月に私を家族なみに招いてくれたものです。その恩愛は忘れられません。今、ここを書いてゐても不覚の涙が流れます」

 

と結ばれている。司馬遼太郎氏の『街道をゆく』の中にもこれに触れた記述があるが、川端先生は私にも、この旨を語ったおられた。実は私も、今家の温かさについての思い出を持っている。東光夫妻にももちろんお世話になったが、家郷を離れて一人、谷崎先生の邸に近い熱海で自炊生活をしていた時期、ほとんどの週末を、M子さんに招かれて、鎌倉の今日出海氏宅で「家族なみに」くつろいで過させて頂いた。日出海氏ご一家の厚情は終生忘れられないものである。今家の「恩愛」の温かさは、家の風だったのだろうか。

 そのM子さんが、ある日、鎌倉から東京へ向かう横須賀線の電車で、川端先生と出会ったことがあった、という。M子さんの話では、彼女はその頃、伯父の東光氏の立候補への違和感を、まだ払拭することが出来ず、また身内のことで先生を煩わせている申しわけなさに、ためらいながら、「周囲には何が何でも当選させるために、手段を選ばない人たちもいるでしょう、それは善意からのものだとしても、もし法律に触れて、先生にご迷惑をかけることになったら、一体どうお詫びしたらよいかと心配しています」と言うと、先生は穏やかに、しかしはっきりと、こう答えられたと聞いた。

「伯父様が決心して、やろうとしておられるのに、そんなことを言ってはいけませんよ。立候補したからには、当選しなければなりませんもの。みんな一所懸命ですけど、当選させるためなら、何でもやりなさいと言ったのは、実は僕なんですよ。違反で関係者が検挙されたら? その時は選挙事務長の僕が代表して刑務所に入ればいいだけで、東光君はじっとしてて大丈夫。そのために、僕は最高責任者を引き受けたんですよ。いいじゃありませんか。刑務所の暮らしなんて何だか面白そうですけど、普通じゃ行こうたって行けないでしょう? 僕が捕まって監獄に入れられたら、かえって東光君の宣伝になりますよ。牢の中じゃいろいろ珍しくて、退屈する暇もないでしょうけど、時間をもてあましたら小説書いてればいい、書くのはどこでだって書けるんですから。小説書けない泥棒なんかは困るでしょうけどね」

 その言葉に、M子さんは改めて先生の覚悟の厳しさと、東光氏への友情の深さを思ったという。若い頃、大正十三年三月三十日の日記に、「私は稀に大胆不敵な振舞ひをする」と書き、十五年三月三十一日の日記に「幽霊と地獄にでも平気で住み得ると思ふが、僕平常の覚悟なり」と書かれた先生の「覚悟」は、まさしくこの時にも発揮され、先生の気持の中には、昔から荒々しい試行錯誤を繰り返して来たこの親友が、せっかく文壇にも仏教界にも相当な地位を築き上げた今、また政治という新しい世界に乗り込むなら、是が非でも当選させなければならない、という、決意があったのだろう。

 結局、今東光氏は、高得票で当選された。

 

 秋、十月十四日に、京都大学の名誉教授で『萬葉集注釋』の著者である澤潟久孝(おもだかひさたか)先生が、講演旅行中の静岡で急逝された。私にとっては恩師であり、『萬葉集注釋』は中央公論社から刊行の最中で、私はこれも担当していたので、葬儀のために慌ただしく京都と東京とを往復していた。その折も折、十月十七日の夜に、川端先生のノーベル文学賞受賞が決まった。私は京都から帰った十九日の土曜日、鎌倉に駆けつけたが、すでに報道関係の人波が引き、お祝い言上の訪問客も一段落して、お座敷はいつものように静かであった。すぐに伺えなかったことをくどくどと詫びる私に、先生は、ノーベル賞は、僕が貰ったのじゃありません、日本が貰う番になっていただけですよ、でもこの受賞が、あなたの恩師を失った悲しみを慰めてくれれば、ちょっとは役に立てて嬉しいですね、と言われた。

 十一月二十九日、受賞を祝うパーティーがホテル・ニューオータニで開かれ、十二月三日、先生は授賞式のために、スウェーデンに向って発って行かれた。

 中央公論社でも、慶祝の記念出版を計画して、三冊の書籍が上梓された。一つは『日本の文学』のあの一冊を改編したもので、装傾は東山魁夷画伯、三島由紀夫、E・G・サイデンステッカー、ドナルド・キーン三氏の寄稿を加えた『川端康成作品選』で十一月三十日発行、第二は、昭和十二年出版の『級長の探偵』を『川端康成少年少女小説集』として深沢省三・紅子画伯夫妻の装幀挿画で、十二月十日発行、第三は、昭和二十八年五月初版の『日も月も』を加山又造画伯の装幀で、版を新しくし、翌四十四年二月二十日の発行である。私にとって、特に『日も月も』は、「婦人公論」連載の時に愛読し、前述のように初版の出た時にちょうど谷崎先生にまみえた、という因縁めいた思い出もあって、自分の手で再編の作業の出来ることが嬉しかった。

『日も月も』は、京都の光悦寺の茶会の場面から始まっている。恋人に背かれて痛手を抱えた若いヒロインの松子が、これも妻──松子の母──に裏切られた父の朝井とともに、いたわり合うようにしてその茶会に出席する。父と娘というテーマは、初めて連載を読んだ当時、父を持たない私の若い娘心を夢のように誘った。加えて、鷹ケ峰、源光庵、玄啄(げんたく)の土橋別荘など、私にも馴染みのある、光悦寺近辺の名前が出て来て親しみを感じ、その頃通っていた大学の研究室の休みの日に、改めてそのあたりまで行ってみたりした。また、松子が、当時新築されて全国的に話題になっていたブリヂストン美術館で見る、モネの「睡蓮」などの絵にあこがれて、時々会議で上京する伯父に、図録を買って来てもらい、いつか自分が東京に行ったら、まっ先にこの美術館を見よう、などと考えもした。松子の着ている「ウェストを少し上目にきゆつとしめた」「プリンセス・スタイルの外套」は、その頃の流行で、松子の姿はすぐに想像出来たし、恋人に「けたたましく」吠えかかる「毛の長い白犬」は、当時競って飼われていたスピッツを思い浮かべ、父娘で行った「ドイツ人のリイド歌手」のリサイタルというのは、恐らくゲルハルト・ヒュッシュの「冬の旅」だったのだろうと、私自身も聴いた京都での公演を重ね合わせたこともあった。

 高井有一氏との対談の場で、「風俗が生きていないと小説は面白くならない」ということが話題になったことがある。『日も月も』の各所の描写が、その好例だと言えようか。

  『源氏物語』について

 

 ノーベル賞受賞に出発される少し前のある日、鎌倉のお宅に着くと、今まで別な来客があったらしく、(あか)い陽の当る縁側のガラス戸の内側に毛氈(もうせん)が敷いてあって、そこに、無造作に、幾つかの古美術品らしい焼物が置かれていた。そして先生がその前に、例のように立膝をしてすわり、器の一つを手にして眺めておられた。

 庭づたいに入って来た私をガラス戸越しに見て、先生は、ああ、と笑顔になり、戸を開けて挨拶する私に、いきなり、

「これ、乾山(けんざん)なんですけど」

と言われた。思わず引き込まれて、沓脱ぎの石に立ったまま覗き込むと、先生が手にしておられるのは、一辺が三十センチくらいの大きさの、厚手の角皿であった。毛氈のまわりに、古びた真田紐のついた木箱が雑然と置かれて、その蓋と身との間から、仕覆(しふく)の布がはみ出していた。皿の内側には、力強い黒と、鮮やかな濃い緑で、松が二、三本描いてあった。後に立原正秋氏が書かれた『川端文学のエロティシズム』の中に、川端邸で乾山の皿を一枚見せて貰った、という記事があるが、それは川端先生逝去の前年のことらしく、また「細長い」皿であったというから、私が見たのは、それとはまた違うものであったかも知れない。

 とりあえず縁側に上った私に、先生は、

「さっき、箱書きを頼まれちゃったんですけどね」

と、呟くように言って、その角皿のほかに、膝のあたりに重ねてあった菓子皿や、わざわざ箱から出した茶碗等々を、これは織部ですけど、これは了入ですけど、などと言いながら、次々に並べて行かれた。

「持って見ませんか、かまやしませんよ」

 その数々の名品の真価が鑑賞出来るわけもなかったが、尾形乾山の作という角皿の、大胆な図柄に目を奪われて、私は恐る恐る毛氈の端に膝をついた。

「もっと見せてあげましょう。こっちへお入りなさい」

 毛氈の上の器はそのままでよい、という言葉に従って、座敷に入れば、床の間の片方に寄せて、大方二、三十ほども、掛軸の箱が積み上げられ、稚児太子の蔭にも、いくつかの額が立てかけてあった。先生は掛軸を、次から次へと箱から出して、床の間の横から矢筈を手に取り、これは誰、これは誰、と、明り障子の鴨居や次の間との境の襖の上の、額受けの釘や、ちょっとした出っ張りに引っ掛けて、いくつもいくつも吊って行かれた。掛軸は、二重にも三重にも重なった部分が出来て、垂直には下らず、途中が妙にふくれたり、波打ったようにねじれたりした。もし外れて落ちたら、と、ひやひやしながらも、ただ、呆れて眺めているだけであったが、どれもこれもが貴重な品であることと同時に、先生の扱い方があまりにも無造作なのに驚いて、眼を瞠っている私の顔が、先生にはよほど面白かったとみえて、くっくっと笑って、

「まだありますよ」

と、今度は違い棚の下から額の類を引っ張り出し、襖の裾や柱にもたれさせて畳の上に並べて立てて行かれたので、部屋の中は、日本画も油絵もごちゃまぜで、足の踏み場もなくなってしまった。先生は、笑いながら、

「お金、まだ全然払ってないんですよね。みんな借り物なんですけど」

と、面白そうに言われた──ついでに言えば、こんなふうにして所蔵の美術品の数々を見せて下さったことは、その後も何回かあったが、先生の古美術好きは、いわゆる骨董の好事家が、秘蔵して愛玩するのとも、ましてや資産として収集するのとも、全く違っていた。「いいものなら偽物でも結構」という態度だった。一方、心を打たぬ物については、厳しい拒否が貫かれる。たとえば乾山について言えば、昭和三十七年に書かれた『自慢十話』の中の「佐野新乾山」に、

 

「騒々しくて、品格が卑しい。器の形も悪い。ここで悪いといふのは、乾山のものとはちがふ、乾山のニセモノであるといふ意味よりも強い。乾山であるかないかより、それ以前の否定である」

 

と、完膚なきまでの言葉が連ねられている。

 さて、美術品に囲まれた座敷で、先生はふと思いついたように、谷崎さんの源氏の訳は、どれくらいの時間がかかりましたか、と言われた。私は戦前の、最初のいわゆる「谷崎源氏」の頃の事情はよく知らないけれども、自分の関わった「新譯」は十年前後、晩年の三回目の訳「新々訳」はかな遣いを直すことが中心だったので二年ほどですと言うと、続いて、「新譯」がどういう手順で執筆されたかを、詳しく問い質された。そして、

「実は僕も、源氏を訳してみようかと思ってるんですけど」

と、ぽつんと言われた。胸が高鳴って、私が思わず喉をごくんと鳴らすと、

「谷崎さんのように学者のブレーンを頼まなくても、あなたが手伝ってくれれば、まあ五年で完結するでしょう。どうですか」

 編集者なら、誰でも、こんな言葉を聞いて有頂天にならない方がおかしい。ぜひともお手伝いさせて下さい、そして中央公論社から刊行させて下さいと、返事は口まで出かかった。先生が、私にそう言わせようとしておられることは明らかで、「どうですか」と言われる眼が、それを物語っている。しかし、社内での私は、出版物の決定を云々出来る立場ではなく、ここで安請け合いをするわけにはゆかない。私は辛うじて言葉を飲み込むと、先生から『源氏物語』のお話が伺えたらどんなにすばらしいでしょう、出来るだけのお役には立ちたいと思います、とだけ言った。先生は、もう仕事を始めているんですよ、見せてあげましょうか、と、原稿用紙を取り出して、私の前に広げ、

「ほら、こんなにちゃんと、もう書いているんですよ」

と言われた。四〇〇字詰原稿用紙二枚に、二段に分けて、「桐壷」から「夢浮橋」まで、五十四帖を、あの「お習字みたいにきちんとした字」で書いて、一つずつにルビがふってあった。正直なところ、それはただ帖名が並んでいるだけである。これでもう書き始めた気持になっておられるとすれば、なかなか、前途は遼遠だという気がした。

「どうですか、ちゃんと書いてあるでしょう? あなたが手伝ってくれれば、すぐなんですけど」

 私は(はや)る気持を押えて、さっきの返事を繰り返した。すると、先生はふと話題を変えて、『源氏物語』のことはなかったように部屋の周りにぶら下っている軸物のことを言われたが、しばらくして、短い沈黙があった後、また、初めてする話だ、という顔で、

「『源氏物語』の訳をしてみようと思うんですけど、あなたが手伝ってくれれば、早いですよね」

と言われた。そんなことが何度か繰り返された。

 私はとうとう、会社に帰って相談してお返事に伺います、と言うと、早々に辞去したが、先生はその日に限って、「まだいいじゃありませんか」とは言わず、ただ「そうですか」と言われただけであった。

 帰りの横須賀線の中で、私は気が気ではなかった。先生は、期待通りの返事をしなかったために、もう私を見放して、この話を他社に廻されるかもしれない。帰りがけの先生の顔色を考えれば、きっとそのつもりになっておられるだろう。私にとっては、こんな魅力的な話はない。しかし、会社と谷崎先生との縁は特別なものがあるから、いくら谷崎先生がすでに故人であり、川端先生が、今、ノーベル賞作家として脚光を浴びている人だとは言え、「谷崎源氏」を捨てて「川端源氏」に傾くというようなことは有り得ないだろう。ただ、今はノーベル賞受賞で川端先生のブームになっていて、古い作品でも改装して売り出そうとしている時である。すでに執筆の約束の出来ている原稿でさえ、昨今のこの忙しさでは果して書いて戴けるか、と心配を囁く人もある時期に、先生の方から声をかけて下さったものを、出版社としてみすみす見逃してしまう手はないではないか。こんなタナボタを無駄にするなんて。

 中央公論社からは、池田亀鑑氏の『源氏物語大成』という、学問的に貴重なものも出ている。そこへ「谷崎源氏」があり、また「川端源氏」が加わったら、この上もない会社の財産になるのではないか。何とかして三本を並び立たせることはできないものだろうか。私自身にしても、谷崎先生の「源氏」はいちおう学んだものとして、新しく川端先生と「源氏」を語れたら、どんなに収穫になることだろう。しかし、もし会社がどうしても駄目だと言ったらどうしよう。ひとり会社を辞めてでも、お手伝いします、と、さっき何故言わなかったのだろうと、私はすっかり夢中になって会社へ駆け戻り、これからすぐ、鎌倉へ同行して契約書を交して下さいと、上司にしきりに訴えたが、返事は思った通り否定的で、ノーベル賞受賞のお祭り気分の中で、あなたをからかって冗談を言われたのだよ、と、鼻であしらわれて終りになった。私はいつまでも諦め切れなかった。

 先生が敗戦前後の頃、横須賀線の電車の中で、木版の『湖月抄』本の「源氏」を愛読されたことは有名だが、ノーベル賞の年十二月に発表された『茨木市で』(『新潮日本文学』第十五巻月報、十二月十二日刊)には、その頃を振り返って、

 

「現実を忘れて恍惚に遊びながら、『源氏物語』がまつたく今日の自分の世界と同じに感じられるおどろきを新たにした。また、『源氏物語』を現代語に翻訳するために、この一年間ほど読み親しむにつれて、現代訳の不可能を感じ強まるのに合はせて、その不必要も感じ強まつた」

 

と書いておられる。文中に「きのふ(十一月十三日)」とあるところから、書かれたのはこの月の十四日の朝のことであると思われる。先生が、私に「訳をしたい」と言われたのが何日であったか、よほどあわてていたとみえてメモがない。私がいい返事をしなかったのが、もし『茨木市で』を書かれる直前のことだったとしたら、諦めようのない申しわけなさである。

 私は今でも、あの時、もし先生の訳業を引き受けていたらどうなっていただろうと、仮想することがある。先生の自裁は、それから三年半の後であるから、「源氏訳」はまだ終っていなかったはずである。あるいは悲劇をくいとめることが出来ていただろうなどと、おこがましい想像をするわけではないが、少くとも、先生の『源氏物語』観を聞くことぐらいは出来ただろうと惜しまれる。

 川端文学と『源氏物語』とが、いかに密接な関連を持っているかの一例を挙げれば、「源氏」の世界は、視覚のほかに、触覚と嗅覚とが重要な役目を果す世界である。恋人の人柄や教養、時には容貌や肉体まで、視覚よりも触角と嗅覚がものを言う。川端文学の触角や嗅覚は、たしかに『源氏物語』に共通する。

 谷崎先生は訳業を三回もされたために、その文学に「源氏」の影響を読み取ろうとする批評が多いが、私には、谷崎先生の「源氏」への興味は、原文の言葉を新鮮な現代語に置き換えて行くレトリックの興味と、自己の文学への素材としての利用に、重きがおかれていたように思われる。川端文学と「源氏」とは、もっと根源的なところでつながっているのではなかろうか。実は私は『山の音』や『千羽鶴』や『母の初戀』に光源氏の恋人の一人夕顔と、その遺児玉鬘の影を見、『雪國』に宇治十帖を連想し、その他、いたるところに『源氏物語』との関連を感じるのだが、このことについては、いずれ稿を改めて書きたい。

  『竹の聲桃の花』

 

 昭和四十五年の春、私は長く所属していた書籍出版部を離れて、雑誌「中央公論」の編集部所属となった。「中央公論」は、もともと文芸欄が重要視されていたのに、昨今は他に文芸雑誌の数がおびただしくなるにつれて影が薄れて来ており、この辺でもとのように文芸欄を充実させたい、また谷崎潤一郎賞選考委員会の会社側の担当者がいないから、というのが、私の配置転換の理由であった。

 その年の十二月号は、「中央公論」創刊一〇〇〇号記念特大号として、川端先生に短篇を頂いた。それが『竹の聲桃の花』である。目次には、ほかに、"短編『壺』井上靖、『創作ノート細雪』谷崎潤一郎、対談『破裂のために集中する』石川淳・三島由紀夫、新連載『不良少年』結城昌治、新連載予告『蓮如執筆前』丹羽文雄、連載第三回『静原物語』水上勉"等々の名が並んでいるが、振り返ると、結城氏以外はすべて私の担当だったので、綱渡りをしているような毎日であった。

『文學的自叙博』の中で、先生は、

 

「……私が第一行を起すのは、絶体絶命のあきらめの果てである」

 

と書いておられる。執筆を了承して下さったのは八月の下旬に軽井沢を訪問した時であり、十月中旬に他の原稿がすべて揃うまでにも何度もお目にかかっていたのに、やはり執筆は難航した。

 十月二十三日から編集部は校了態勢になって、印刷所の出張校正室で徹夜の作業になったが、先生の原稿はまだ、題が決まらない。電車の中吊り広告の校了ギリギリになった十月二十六日、ようやく『竹の聲桃の花』の題がきまった。

 雑誌には冒頭のページに装画が入る。すでに東山魁夷画伯に依頼してあったので、翌二十七日、私は早速、題が決まったことを市川の画伯邸に報告に行き、その足で鎌倉へとって返した。その日から執筆を始める、と、先生は言われたが、出張校正室では皆が殺気立っていて、全体の進行を取り仕切っているデスクは、中吊りも目次も校了になって、もう刷り始めるというのに、一行も原稿が入っていないのはどういうことか、と、眼が血走っていた。

 二十八日、東山画伯からは、見開きページを大きく飾る美しい竹林の絵が届けられた。私の寸法書き通りの比率に書かれていた。

 その日、指定された午後三時に、鎌倉に着くと、いつもの座敷の雨戸が、ほんの二十センチばかり開いているだけで、あとは全部閉っていた。これはどういうことなのだろう、私が伺うことは判っておられるのだし、お手伝いさんも門を開けてくれたのに、これには何か意味があるのだろうか、今日も駄目なのか、と思った途端に、突然、その二十センチ程の隙間から、原稿用紙を一枚、ひらひらと下げた片手が突き出されて、秀子夫人の声が聞えた。

「今日はこれだけ。お父さまは昨夕からやっとここまで書いて、今、お寝みになりました。わたくしも、ずっと起きておりましたので、これから寝ませて頂きます。ごめん下さいまし」

 原稿を受け取ると、その手は雨戸の奥に消えた。

 今になってまだ一枚、ということでは、この先何日かかるだろう。そういえば、「婦人公論」の連載の時、Aさんが、先生は不思議に最終的には間に合わせて下さる、と言ったことがあったから、書き出して下さったからには、まさか白いままのページが残るということはあるまい。何度も東京と鎌倉とを往復することになるけれど、他の担当記事は全部終っているので、先生のためならそれはかまわないとして、執筆の速度をデスクに説明するのが苦労なのだ。みんな私の顔さえ見ると、ほんとうに大丈夫か、間に合うのか、と、目を吊り上げて言う。私は板挟みになっている……。先生の顔を見ないで帰るのは、何か心残りでもあり、車を待たせておけばよかった、と思いながら、私はいつもの通用口を出た。受け取った原稿用紙は、裸のまま、手に持っていた。川端家の外は、初めての訪問の時と同じように、道端の桜が、紅く色づいた大きな葉を落している。

 社員の代りは何人もいるが、原稿の代りはない、もし原稿をなくしたら即座にクビだと思え、と、コピー機やFAXのない時代の編集者は教えられたものである。私は不注意を恐れて、原稿を受け取るとすぐに封筒に入れ、どんなに中身を覗きたい時も、開けないで会社まで持って帰る習慣を、自分に躾けて来たのに、今度ばかりは我慢しきれず、手に持ったままの原稿を、二、三歩あるいたところでそっと広げて見た。

 

「竹の声、桃の花が、自分のなかにあると思ふやうになつたのは、いつのころからであらうか。

 今はもう、竹の声は聞えるだけではなく、桃の花は見えるだけではなくて、竹の声が見えたり、桃の花が聞えたりもする。」

 

と、あの「お習字のような字」があった。

 その翌日、私は印刷所と鎌倉との間を四度往復した。疲労から熱を出して、足元をふらふらさせつつ通って来る私を見て、先生は気の毒そうな顔をしながら、まだ半枚ですよ、まだ三行しか出来ていませんよ、と、自分のペンとインク壼──茶道具の漆塗りの(なつめ)にインクが入れてあった──を私に示して、出来た部分を写し取って行ってもらうより仕方がない、毛布と温かな飲み物を用意させますから、少し横になりなさい、と言われた。私はそうして写した三行の原稿を持って帰る自分に、雛に与える小さな餌をくわえて、よろよろと飛んでいる鳥を連想した。

 最後の原稿を受け取ったのは、十月三十日の夜であった。どうやら下版にこぎつけたのは日付の変った三十一日の未明、印刷機の動き出す直前であった。

 後のことになるが、先生の逝去後、昭和四十七年八月に出た「新潮」の追悼のための増刊号に、もと雑誌「人間」の編集長木村徳三氏の「哀悼の底で」という文章が載っている。そこには、「川端さんは『私の小説は、編集者との共同作品ですよ』と、よく言われました。『どんどん書けてゆく若いうちはともかく、年をとると編集者がいるから書けるようなものですよ。しょうことなしに書くんですから。』」とあり、また、ある夜、泊まり込んで原稿を待っていると、先生が激しく吐いておられる苦しそうな声が聞え、「あの深夜の烈しい声が、川端さんの骨身を削る音ときこえて今なお慄然とし、忘れられません」と記されている。私もやはり、その編集者の一人なのであった。

『竹の聲桃の花』は、ある春の夕映えの、ぼんやりと薄い桃色の中、主人公宮川の家の裏山の、枯れた松の梢に鷹がとまっていた、という十五枚の小説である。長谷の川端邸の裏には小高い丘があって、その頂きに枯れた松の木が突き出したように立っているのを、私は前から見ていた。無事に発行出来た掲載誌を届けた日、先生は私の労をねぎらい、帰りがけに一緒に庭におりて来られた。通用口の方へ歩くと、母家の屋根が切れて、奥に土蔵があり、その背後に裏山がよく見える。『山の音』の山でもある。私が見上げていると、先生は、

「あの松なんですけど」

と言われた。鷹がとまっていたのは、あの、左に突き出た枝でしょうか、と言うと、

「ええ、あの枝ですよ」

と、先生の眼は和やかであった。青い空に浮き出ている枝に、私も鷹を見たと思った。

 

 先生は、この翌年十一月号の「新潮」に、短篇『隅田川』を書いておられるが、小説はこれが最後であり、『美しさと哀しみと』が終って間もなく、昭和三十九年六月から書き継いで来られた『たんぽぽ』も、ノーベル賞受賞以後そのままになって、未完である。

 その『たんぽぽ』の一節、精神に異常を来して入院しているヒロイン稲子の母の会話の中に、すでに「竹の声桃の花」という言葉が使われている。彼女は稲子の恋人久野に、

 

「花にもいろいろね。(竹の声に道を悟り、桃の花に心を明るむ)といふ言葉があるでせう。稲子もここのたんぽぽの花や、竹や木の葉ずれの音で、さとらなくてもよろしいけれど、ただこの言葉通りの意味で、心を明るめてくれるといいですね。早くね」

 

と言う。そして、「(心を明るむ)といふのは、心の暗いのを明るくするといふのと、少しちがふ」と言う。未完であるから、この小説がどんな展開になって行くのかはわからないし、「竹の声桃の花」の出典が何であるかも、寡聞にして私は知らない。ただ、先生が、『たんぽぽ』中断から、少くとも満二年後に裏山の鷹の小説を書かれるまで、この句を心にとめておられたのは確かである。昭和二十五年の『舞姫』以後、盛んに作品の中に取り入れ、この『たんぽぽ』のはじめの部分にも使われている「仏界入りやすく、魔界入りがたし」という一句については、いろいろと論じられているようだが、もしかすると先生は、ノーベル賞受賞記念講演『美しい日本の私』で「仏界、魔界」を論じられた後、すでに「竹の声に道を悟り、桃の花に心を明るむ」心境に達しておられたのではないか。先生には何か、成層圏に突き抜けてまわりが空一色になったような、硬質の明るさがあった。私には、これ以上深く立ち入って論ずる力はないが、これほど美しく澄み透った心域と、やがてこの一年半後に訪れる自裁との間に、何か関連があるのではないかと思われてならない。

 

  夕映えの空の鷹

 

「中央公論」十二月号が発売になった十一月十日から旬日を経て、正月号の校了が迫った二十五日、三島由紀夫氏が自衛隊本部で劇的な自決をとげられた。私にはその意味がよく理解出来ず、殊に石川淳氏との対談の直後のことで、驚愕と悲しみが大きいばかりであったが、川端先生はすぐに市ケ谷の現場に赴き、その足で三島邸に行かれたようであった。一部の新聞に、現場で三島氏の遺骸と対面されたと報じられ、やがてそれは誤報だと判ったが、先生なら動じることなく、冷静に見詰められたとしてもありうることだと思った。私が三島邸に駆けつけた時は、門前に報道陣が渦巻いていたが、邸内には、親族の他には川端先生だけが、傷心の瑶子夫人に付き添っておられるということであった。

 三島氏の葬儀は、翌四十六年一月二十四日、築地本願寺で行われ、川端先生が葬儀委員長を勤められた。その日、文学者としての三島氏を送る葬儀であったのを不満とする過激な人達がいる、という噂が、何日か前から流れていた。三島氏を右翼的な思想家として崇拝するグループが、自分たちへの挨拶なしに、葬儀を行うのはけしからぬと憤慨し、最中に乱入して遺骨を奪う計画でいるらしい、と、噂は無責任にエスカレートしていたのである。『三島由紀夫葬儀あいさつ』は、先生の全集に活字化されているが、その日の先生の声は、亡き人の静謐(せいひつ)を乱すいかなる無礼も、自分が許しはしない、という気概にみちていた。

 先生はこの少しのちに、三島氏を悼んで、もっと同氏の行動を積極的に理解するよう努力をすべきであったか、と、自分を責めた文章を発表しておられる。その後の一年余、先生は都知事選挙の応援、来る四十七年秋に開催されることになったペンクラブ主催の国際日本学会議のための募金その他、雑事に忙しく過しておられたが、十月、養女麻紗子さんに男の赤ちゃんが出来たのを、大変喜んでおられた。上機嫌で「孫が二人になったんですけど」と言い、庭先の芝生で、初孫のあかりさんを相手に、笑いながら大きなボールを転がしておられた姿が、今も目に残っている。

 

 昭和四十七年四月十六日の日曜日、北鎌倉の東慶寺で、その年の田村俊子賞の授賞式があった。毎年、命日であるこの日に、お墓のあるこの寺で行われる式である。北鎌倉の駅から境内に至るまで、桜、連翹(れんぎょう)、桃、木蓮等々の花が咲き満ち、青々と晴れ渡った空がひときわうららかであった。

 式の後、同じ墓地にある高見順氏のお墓にも詣で、帰りに川端先生のお宅に寄ろうか、と思っていると、同じ授賞式に出席しておられた立原正秋氏と、宇野千代氏とに呼び止められた。立原氏は、小堀遠州の『作庭記』を参考に自分で設計した庭が完成したので、ぜひお目にかけたいと、宇野さんを誘っているところだが、あなたも一緒に来ませんか、と言われた。川端先生とは約束しているわけではなかったし、花時の日曜日の鎌倉の混雑を避けたい気持もあって、この機会にと、随行することにした。この日の宇野氏の立原邸訪問のことは、立原氏自身、先に引いた『川端文学のエロティシズム』に書いておられるが、その宇野氏とともに私もいたわけである。

 梶原山の高みにある新築の立原邸は、すばらしい眺めであった。夫人の手料理の歓待を受け、宇野氏と立原氏との文学談を聞きながら、こんな機会が得られたことを有難く思った。川端先生には近々改めて伺うことにして、今日のこんな話を報告しよう、と満ち足りた気持であった。立原氏自慢の庭から見渡すと、春の日長の明るい西空に、一筋の細い雲が光っていた。

 

 先生の急逝を聞いたのはその夜遅くであった。

 編集長の指示で、サイデンステッカー氏と同乗した車で駆けつけると、顔馴染みの福田家の女将さんが、泣きながら案内して行き、先生の顔にかけられた白布を取ってくれた。

 先生は、白い布の中で眠っておられた。はっと声を呑むほど安らかで、幼児のようなあどけない寝顔であった。父の死を見た七歳の時以来、私はどれほど多くの死顔に逢っただろう。しかし、こんなにうつくしい、こんなに穏やかな死顔は初めてだと思った。

 十八日の密葬の時、私は例によって出版関係の人達と一緒に、雑事を手伝っていた。ざわざわと人が出入りするのは、いつもの庭の沓脱ぎ石からではなく、お正月の集まりの時にだけ通ったことのある、表の広い玄関であった。運び込まれたおびただしい供花が庭にあふれているのを見ると、東慶寺の満開の花々が思い出された。まだ二日前のことなのに、と、嘘のように思われた。その庭から裏山の松を見上げて、鷹が、永久に飛び去ってしまった、と思った。

 何日かして会社の人が、不思議な経験をした、と私に話をした。彼は鎌倉に住んでいるのだが、あの日曜日、七里ヶ浜の先まで魚釣りに出かけていたそうである。「輝くほどよく晴れた青空だったよね」と彼は言った。私が立原氏の庭から眺めた空のことである。

「そう、そうなんだよ。波も穏やかでね、いい気持で岩の上にいて、夕景になって江の島の方を見たら、美しい雲が光って、こんなきれいな夕焼け雲は見たことない、とびっくりしたんだよ。そしてしばらくしたら、急にその雲が赤紫とも茜色とも、何とも言えない色に変って、風がざあっと吹いたと思ったら、何百とも知れない千鳥が、どこからか一斉に飛び立ったんだ。それが、発表された川端先生の死亡推定時刻に合うんだよ。あの時なくなったんだと、僕は思いますね……」

 先生は夕焼けの好きな方であった。美しい、あまりに美しい夕映えが先生の心を誘い、あの、立原氏の庭で見た細く輝いた雲が、来迎の光ともなって、永遠の安息へ先生を導いたのであろう。無数の千鳥のはばたきも、先生にはふさわしいお供であった。

    ──了──

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2002/07/26

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伊吹 和子

イブキ カズコ
いぶき かずこ 編集者 1929年 京都市に生まれる。『われよりほかに──谷崎潤一郎最期の十二年』により日本エッセイストクラブ賞受賞。

掲載作は、PHP研究所より1997(平成9)年刊の同題単行本に拠り加筆訂正。1961(昭和36)年より1972(昭和47)年の逝去までを担当した川端康成の素顔を描くとともに、かつて「編集者」が担っていた協働作者たるの意義を伝えている。

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