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アセボ峠

《目次》

 

 

 

 

 

                                 

        1

 さく、さくと、歩くたび霜柱が、稲を刈り取るときのような小気味よい音をたてて、鳴った。冬の明け方。林道はまだ山ぶどういろの中にあった。その道を、子ども時分の僕が母と急ぎ足に歩いている。

 在所から東隣の町に抜ける峠道は開拓道路と呼ばれ、村の鎮守を祀る小高い丘を登り降りして、一里ほど先の山向こうでバス道につながっていた。春から秋にかけて雨に洗われ長石でささくれる道は、冬の間、朝ごとに立つ霜柱でやわらかくまぶされた。

 この道は、生い茂った灌木ですっかりふさがれてしまったうえ隣町側が住宅の造成で削り取られてしまい、現在では道があったことすら忘れ去られようとしている。だが、朝鮮戦争の特需景気から数年を経てもなお、村で車といって思い浮かぶのがせいぜい荷車ぐらいであった当時、村の者は隣町へ出るのに、丘陵の裾を帯を巻いたように迂回する大道よりも、アカマツの林をゆくこの道の方になじんだ。

 駱駝の背のようにいくつか隆起する峠は、総称して、アセボ峠と呼ばれていた。村では汗疹をアセボと発音した。夏とはいわず峠の登り降りには汗が水のように噴き出す。汗疹に悩まされることがあったとしても不思議はなかった。だが、正しくは馬酔木峠であると知ったのは、僕が大人になってからだ。壺形の小白花が魅惑を誘い、牛馬が食べると麻痺するというところから奇妙な漢字をあてがわれることになったツツジ科の灌木。アシビとも、アセビとも呼ばれるこの樹木は、擂鉢状の狭い谷地を耕すほかは、もっぱら薪炭作りで生きてきた村人たちにとって、もとより尊い樹木であったのだろう。思えば、この村は大津京の時代には甲賀牧と称され、牧の置かれた所でもあった。馬の名を冠した名前がふさわしくもある。何百年、何千頭と、人馬はどんな思いでこの峠を越えてきたことだろう。だがいまは、汗疹峠でも馬酔木峠でも、どちらでもよい。屈強な博労が馬を追い、荷車に満載の炭俵や割木を、ごとごと運んでいく。とにかく僕の生まれ育った昭和二十年代から三十年代半ばにかけては、まだこうした光景にでくわす時代だった。

 その峠道を、山ぶどういろに包まれながら、子どもの僕が母に手を引かれて歩いているのだ。母の背中には、ねんねこにくるまれて妹が負ぶわれている。小児麻痺をわずらった妹を遠い街の医者にかけるために、母と僕は家を朝早く発って、隣町にある国鉄駅に向かうところなのだ。妹は二歳。妹と二つしか年がはなれていない僕は、したがって四歳。これが、僕がこの世に生まれて持った、最初の記憶だ。

 僕はキツネの襟巻きを巻いてもらっている。母は小豆色のショールでねんねこごと襟元をおおい、他所行きの香りをさせながら、ひたすら前を見つめて歩いている。母に手をきつく引っ張られる感触があるのは、僕の足が遅れがちになるからだろう。

 しかし、人間の幼い日の記憶というものは、どうしていつも露出の足りない八ミリ映画か写真を見るように、コマ切れに、暗がりの中からしか立ち現れてこないのだろう。そして、焦点を絞ろうとすれば逆に露光が溢れ影を薄めていく、ちょうど暗幕を開け放ったあとのスクリーンか、あるいは西の空に傾いていく夜明けの月のようにしか。

 たとえば僕は、ショールやねんねこは覚えているのに、母がその下にどんな着物を着ていたのか記憶にない。顔の輪郭さえわからないのだ。無理に思い起こそうとすれば、僕が小学校に入学した年に、学校で撮った記念写真に映る母の顔が重なってくる。これが母と僕とが一緒に映った、もっとも古い写真なのだが、どういうわけか母は一番後ろにいて、顔の半分を他の母親の陰に隠しているのだ。

 もう少し覚えがあるものといえば、僕が半ズボンにアメゴム底のズック靴をはいていることだ。足裏で霜柱が啼き、それが半ズボンの臑にはねてつめたかった。

 ただ、そんなふうに、影絵のようにぼんやりとだが、夜が明ける前の、霜柱が凍ててホチキスの針のように立つ峠道を、妹を負ぶった母と歩いた昔の情景が、大人になったはるか後でも、幾たび、僕の脳裡に立ち現れてきたかしれない。ことに、立木がカーンと立ち割れするような寒い冬の夜ふけなどには――

 その記憶が、あるはっきりとした形をとるようになったのは、やはり今年の冬と同じように、めずらしく庭先にまで霜柱が立った、十年あまり前の正月のことだった。

        2

 

 妹はその頃、三十半ばに差しかかり、三人目の子どもを出産していた。だが、美穂と名づけた女児は、誕生を過ぎてもいっこうに歩き出そうとしなかった。前年の正月来、通院を繰り返していたがまったく原因がつかめない。脳に障害があるわけでも、股関節脱臼などの明らかな症状があるわけでもなかった。

 母は、やっぱりあいつの小児麻痺のせいかのうと、妹の足に障害を負わせてしまった己の不徳のようなものを、今さらながら後ろめたく責め、娘の、舅や姑を前にした立場を思って、眠れぬ夜を送っていた。妹は求められて在所を遠く離れた琵琶湖べりの農家に嫁いだのだが、小児麻痺の娘を嫁にもらってもらうことについて、母にはもともと濃い気兼ねがあった。

 それが、この正月を前にして歩き出すようになった。僕は、あえて母に取り合おうとしてこなかったのだが、ようやく不安から解放された母をみて、ふと、妹が小児麻痺をわずらった頃のことを聞いてみる気になった。この一年、突慳貪にしてきたことがなにか罪なことであったような思いが、母の気を引いてみずにはおれなくさせたのだ。

 案の定、母は、いきいきと話し出した。砂防仕事から帰ってきたある日のこと、いつもなら帰るが早いか納戸部屋の寝間から飛び出してくる明子が、その日は起き出してこない。もう二歳にもなろうというのに、いつまでも乳を恋しがる娘だった。乳など、もう何ヶ月も前から出ない。それでも玄関を一歩跨ぐと乳房が張ってくるから不思議だ。火照ってくる体を一刻も早く娘に差し出してやらねばならない。ほら。ほら。上がり框から呼んでも明子は起きてこない。納戸部屋に上がると、明子は寝床にうつ伏して食べたものを吐いていた。明子を裸にし、じぶんも裸になって胸に抱く。その熱さは、いままで夫に抱かれてすら経験したことのない熱さだった。村の診療所の紹介状を持って、それから二ヶ月間、汽車で片道三時間もかけて隣県の伊賀上野の街へ通った。まだじぶんたちが「ニコヨン」と呼ばれていた時世に、毎回千円もの治療費がかかった。その頃せっかく入った在所山の配当金がたちまち消え、親戚中を借金に歩いての通院。明子は病院に行くたび体を海老なりにされ、腰に太い注射を何本もうたれた。あばれ、泣き喚く。気が遠くなるような絶叫の中で、やがて明子は訴える声も枯れ、ぐったりと死んだようになって、頬に細い涙を流しているのだった。

 すっかり仕上がった一枚の絵のように、母はそれを話して聞かせる。後は声にならないつぶやきまで同じに。いままでどれほど、この話を聞かせられたことだろう。そのたびに、僕も必ずあの冬の明け方の光景を思い出し、母に問い返す。確か僕も一緒に連れていってもらったんだったね、と。ああ、汽車の中で握り飯を食ったがな。そのときからおまいは他人の前ではよう飯を食わん子どもやった。腹減らしてるくせに。そこへきて母はようやく僕を見下したように笑う。まったく、やりきれんわい。

母と僕との間で出来上がった会話のルールを、僕はこの日はちょっと踏み外し、母の話が終わったところで、明子が小児麻痺にかかったのは何月のことよ、と聞いてみた。明子の子が歩き出すようになったのは二歳と一ヶ月目だった。妹は、じぶんの子が立ち上がったちょうど同じ歳の頃、逆に、歩行を奪われたわけである。偶然にしかすぎないが、なにかしら奇妙な符号のようにも思われた。

「七月やけ」

 と、母はいった。

「七月?――」

「そや、七月の半夏生の日やった。その日は百姓やと鎌休めせんなん日ィやけど、砂防は山仕事やでかまわんやろう思てな。そんな日に働きに行ったのが因果やろかと、忘れもせんわ」

 一瞬息を呑むおもいで、それはおかしい、と僕は思った。伊賀上野までの病院通いに、僕が母に連れられて峠道を歩いたのは寒い冬の夜明けだった。だが、母は、それも七月から九月にかけての、夏の暑い盛りだったというのだ。

 なんということだ。なぜ僕はいままでそのことに気づいておかなかったのだろう。妹が小児麻痺にかかったのは二歳のときだと聞かされてきた。妹は十一月生まれである。したがって、満二歳を迎えた十一月か、少なくともその前後の月くらいに病状に見舞われたものだとばかり思い込み、記憶のつじつまを疑ってみたこともなかった。

「七月というと一歳八ヶ月、まだ二歳やないだろうが」

「まあ、そやけど」

 母は僕の逡巡など眼中にもなく、そういって終わりだった。僕は思わず抗議めいたが、口にしたところで、母がいった事実が翻るわけでもなかった。

 すると、あれは一体なんだったのだ、という疑念がつきあげてくる。ものごころがついてから一度だって僕の脳裡をはなれなかったもの。

 それは母ではなく、祖母だったとでもいうのだろうか。確かに僕は、祖母に連れられ、しばしば冬の峠を越えたことがある。隣町には父の長姉が嫁いでおり、祖母はよく小遣いを無心しに出かけた。それがあの時の光景だとも。だが、それはそれとして僕はよく覚えているのだ。

 祖母は峠の一角で、信楽焼や京都の清水焼に用いる陶土を採掘する仕事に従事していた。祖母は冬でも、素肌に半纏一枚ひっかけるだけのいでたちで土を掘っていた。土採り場には僕の背丈よりも高い五右衛門風呂のような木桶が仕掛けてあって、祖母は鍬や鋤をふるって粘土質の土を掘りあげると、この桶に放り込んだ。バケツで何杯も水を注ぎ込み、芋を洗うように、取っ手のついた板で掻きまわす。桶のぐるりには小さな池州が棚田状に並んであり、桶で濾された泥水が流れ込む。幾日かおいて水が澄むと、池州の底には、まるでバニラクリームのような粘土が横たわっているのだった。

 祖母は峠の道みち、この下には黄金が眠っているのだという話を、幼い僕に語って聞かせた。そしてそう、行く手の道に立つ霜柱は、凍てたホチキスの針のようなものではなく、頭に淡い黄土の土塊をもたげて、木立から透けてくる朝の光に乳色にまぶされ、産まれたての土筆んぼうのようにやわらかだった。

 だいいち、祖母は妹を決して連れて歩こうとしなかったし、この峠を越えるときだけは、母や妹をうとんじる祖母が、日頃見せたことのない大らかな笑顔を作ったことと合わせ、それはまた別の記憶としてある。

 すると、僕の、あの茫漠とした記憶は、ますますもって正体をあやうくしてしまう。ほんとうに僕は、母と一緒に峠道を歩いたのだろうか。

 僕は納屋を物色して、大学時代に友人と作った古い同人雑誌を引っぱり出した。僕はそこに、『背中の妹』と題する詩を書いていた。

<第一部『峠の道』>その詩は、「おくどさんの火が/あかあかと母の顔を照らし/ご飯がたけると/納戸から父が起きあがる」情景から始まる、六十行ほどの散文詩である。母はそのあと、土方仕事に出る父の弁当をつめ、病院に出掛ける準備をするのだが、詩の後半を僕は次のように詩っている。

 村はずれのみつ角から/別れた父の自転車の/あかりが一本の糸をひいて/遠ざかる/駅へ向かう峠の道にはいると/とたんに淋しくなって/黒いかたまりが/おばけのように少年をゆさぶる/少年は母の垢ぎれの手を握りしめて/「あきこ、痛いことするの」/母にいうと/母は黙って/握る手に力をいれてかえした/母の背中には/小児マヒの妹が/しずかな寝息をたてている/まだ誰もとおったことのない道は/霜柱がいっぱいかくれていて/やがて少年は夢中になって/兵隊さんの歩きかたで/まっすぐ踏みはじめた/山の向こうから/少年の乗る一番列車の/汽笛がはずんで高く聞こえると/母は足をはやめて/少年はかけ足になって/霜柱を/蹴散らしていく

 詩の中の「少年」というイメージは四歳そこそこの幼児にはそぐわぬし、しかも四歳の僕が、竃の前の母からはじまって、こんなに正確に覚えているはずはない。しかし、そこに創作はあっても、三十数年後の今日でさえ甦る記憶が、二十歳の頃には別のありかたをしていたとは思えなかった。それとも当時、僕は別の記憶を混在させて、まったく新しい創作をなしたのだろうか。感じやすかった二十歳の年頃、繰り返し母から聞かされていた話をもとに、感傷と陶酔の入り混じった心で創りあげた美しい追憶――そして僕がいまもってなにか意味ありげに抱いている記憶というものも、じつは十数年前の、僕が大人になる時期に創りあげた想像の産物ということになるのだろうか。

 そうとなれば、わからぬでもないのである。片道四キロの峠道は、大人の足で歩いてもかなりの道のりになる。夏ならともかく冬の夜道を、母が足手まといになる僕を連れて歩いたとは考えにくい。父や母の土方仕事がニコヨンと呼ばれていた時代でもある。妹の一回あたりの治療費だけでも日当のざっと四倍。借金を重ねる貧乏生活のさなかに、はたしてキツネの襟巻きがあてがわれていたかどうか。考えてみれば、半ズボンにアメゴム底のズック靴というのも、当時の小学生風のいでたちである。じっさい、僕たち貧乏人の子は学校にあがるまで、わら草履しか履かせてもらえなかった。

 それにしても、どうして僕の原初の記憶に、峠を越えようとする他所行きの場面と、他所行きの匂いがきざすのだろう。僕は生まれた時から、めったに外に出ることもなく山の砂防仕事に就いてきた母に抱かれてきたのだし、村中が華やぐ米作りの季節には、汗じめりした体を大らかにぬぐう母の脇腹や乳房をつぶさに垣間みて、母を恋しく思ったこともある。そこから僕の生涯が出発してもよかったはずだった。

 雑誌の続刊に、やはり僕は『背中の妹』第二部と称して次のような詩を書いている。

  <床屋>

 晴れた日は/少年と妹は二人っきり/歩けない妹が/日のささない納戸でむずがるから/少年は縁より外で遊べない/雨の降る日に/少年がいくのは村の床屋さん/父は納屋でゾウリを編んでいる/ついてくるのは/ナイムショウの砂防が休みの母と/背中の妹/でも妹は/床屋さんの中まではいらない/床屋さんの白衣をこわがって/妹は/母の背中ではねて泣き出す/小児マヒにかかって一年/妹の腰には固い注射のタコができている/だから少年は/イスに一人ですわる/鏡の中の少年が/坊ちゃん刈りに仕上がっていくのを/母と背中の妹は/蛇の目の傘で待っている          

 

 これは僕の思い出せる限り二番目に古い記憶を詩ったものであり、どうやら本当のことだ。「ナイムショウ」とは、戦前の天皇制の下で、警察や地方行政など国内政治全般を統括した内務省のことである。戦後、解体され、その所掌事務の一つであった土木事業を管轄する建設省が創設されて後も、母たちは依然として古い呼び名でよんでいた。それが幼心にも強く残っている。ただ、母が妹を負ぶって僕を理髪店に連れていってくれたというのは創作だった。母がその日なにをしていたかは記憶にない。梅雨の季節だった気がするから、他家の田植えにでも雇われていっていたのかもしれない。いずれにしろ確実なのは、その日、妹を負ぶってきたのは祖母であったことだ。

 ――因果なことでよ。

 祖母は道行く人があるたびにそんな会話を交わしながら、苦虫を噛みつぶしたような顔をして、店の外で立っていたのだった。

 僕はだが、そんなふうに詩にすることはできなかった。別段、祖母が嫌いだからということではない。むしろ僕は祖母を愛していた。伯母に小遣いを無心することはあったが、祖母はおおかた自分で稼いでいた。陶土採掘のかたわら、僕を水蘚採りや楮刈りに連れ歩いた。秋には在所山に分け入って松茸をとる。それらを村に買いつけに来る業者に売って現金にかえていた。母にびた一文渡すでなく、孫の僕らにおやつの一つも買い与えてくれるわけでもない。祖母はせっせと自分の着物をため込んでいた。それでいて家の中で威張っているのが子ども心に頼もしかったし、毎冬悩まされる霜焼けを、囲炉裏であぶった大根をあてがって癒してくれる、祖母のそんなやさしさも僕は知っていた。だがこの詩の場合も、妹を背中に背負っているのは、やはり母でなければならなかった。母と背中の妹。それはひとつのものだった。

 僕の詩作は結局、この二篇で終わっている。妹がようやく立ち上がり歩き始めたのは、三歳から四歳にかけてのことだ、と母はいう。僕は五歳から六歳。おそらく僕は妹のことを書きついでいくつもりだったと思う。次ぎに書くとすれば、当然、立ち上がった妹のことになる。だが僕は、三作目以降を書かなかった。

 詩おうとして詩えなかったもの。それはたぶん、こういうことだ。巨きな芋虫のように這っていた妹が、ある日突然立ち上がり、船頭が船を漕ぐように傾ぎだす。ただ奇妙な存在に過ぎなかったものが、立つことによって現した絶望――僕は小学校入学を前にした五歳から六歳。他所の親子が目に映るようになり、わが家と比べはじめていたにちがいない。

 僕がしっかりと妹の立つ姿をみなければならないと考えるようになったのは、それから二十数年後、詩を綴ってからでもなお十年の時を経てからのことだ。

        3 

 その日は、娘が通っている保育園の運動会だった。日曜日、朝九時から、近くの小学校のグラウンドを借りて行われることになっていた。僕は役員ではなかったのだが、ある係をまかされたため役員の集合時間の七時に間に合うよう家を出た。まだ十月のかかりだというのに、晩秋を思わせる肌寒さだった。長袖のスポーツシャツの上にトレーニングウェアをはおっていても身震いした。

 学校までの道には、新興住宅が切れ目なく続いていた。県庁所在地の都市近郊に広がっていた田圃が、次つぎと造成されはじめて十年あまり。僕も結婚と同時に、その一角に建つアパートを借りて七年になっていた。住宅地の周辺にコマ切れに残った水田には、青味の濃い稲穂が朝の風になびいていた。夏には冷夏がさわがれ、かなりの減収が予想された。

 グラウンドに着くと、会場準備の打ち合わせが始まろうとしていた。準備といっても、すでに前日にテントが設営され、資材も整えられてあった。それでも放送設備を点検したり、机を動かしてみたりと、父親たちの緊張した息づかいで、そこだけむんむんしていた。

 新聞社に勤める僕は、運動会の写真係を頼まれていた。二年前、娘のなずなが初めて入園した年の運動会で撮影した写真が父母の好評を得たようで、それいらい三回目になる。どの家庭にもカメラが普及して子どもの写真もめずらしくなくなっていたが、競技中の表情アップや、動きのある場面をタイミングよくとらえているのが好評の理由らしい。「さすがは新聞記者ですね」といわれると照れくさくもあり、内心、まんざらでもない気分になる。だが、近頃のカメラブームのようなものはあまり好きではなかった。つい最近、東京本社が行った世論調査でも、仮に災害に見舞われた際にまず何を持って避難するかという問いに、年配者の多くが位牌をあげるのに対し、若い者ほど自分のアルバムだと答える傾向が、はっきりと出ていた。位牌と答えた人は、位牌が象徴する先祖の像を通してある種のふるさと像を思い描くのだろう。だが、それにしたところで、家の仏間に位牌を映像化した肖像写真を掲げている人は少なくない。その好き嫌いは別にして、現代の若者や年若い夫婦が、自分や家族が生きた証を、ほとんど唯一の形としてアルバムに残そうとするのを見ると、ちょっと複雑な気持ちになる。たとえば運動会でも競技そっちのけで我が子の前に群がる。そんなことから、僕はなるべく自分の子どもにだけこだわることはしないで撮ってやろうと思ったのが、そもそものはじめだった。

 打ち合わせで、進行係の主任保母が競技内容を詳しく記したプログラムを配ってくれた。僕はもう一人の写真係の父親と、撮影する競技の分担や撮影枚数などの撮影計画を相談した。二歳児クラスのなずなが出場する種目は、プログラムでいくと三番目と四番目になっている。平均台を渡り、跳び箱をよじ登って越える「野こえ山こえ」を最初、園児だけがやる。その次が親子混合競技で、父母が子どもの所までハイハイして、そのあと肩車でスタート地点まで駆けもどることになっている。写真を撮るのはよいが、こういうふうに人目に自分の演技のようなものをさらすのは、なぜか苦手だった。僕は妻にまかせる気でいた。

 昨夜、僕が夜遅く帰るのを、妻の加奈子はなずなの運動着のアイロンがけをしながら待っていた。

「遅かったのね」

 いかにも待ちくたびれたという思いが、その口調に出ていた。

「あした一日休もうと思うと、ストックをつくっておかんなんからね」

 すぐ食事にする? と聞いて加奈子は台所に立った。

「なずなの運動会だけど、あなたが出てやってね。机の上に園だよりがあるでしょ。競技内容が書いてあるから」

「そっちが出てやってよ。僕は写真係だから」

「うまく逃げるのね。写真を撮る人なら、もう一人いるんでしょ」

「いるけどね。僕の方が中心なんだ」

「あなたは他人のいうことなら聞くけど、なずなのことなんか、いつも私まかせね」

 加奈子は軽く睨みかえしてきた。食卓に夕食を並び終えると、加奈子は再びアイロンを手にした。

「運動会に着せる服だろ。そんなにアイロンが必要なのか。疲れてるんだったら、休めばいいだろう」

「それだからあなたは気楽なのよね。なずなを園に迎えに寄って帰ってくると六時半でしょ。洗濯物がみな、湿ってしまうのよ」

 とんだヤブヘビだったと、苦笑まじりに思い起こしているうちに、プログラムはなずなのクラスの親子競技まで進んでいた。

 二組ずつ競技がはじまった。小学校に勤める加奈子が車の免許を取ってから、僕はめったになずなの送迎をしなくなった。園児の顔はどうにか覚えているものの、父母の顔と一致しない。やはり、顔を知らない父母も何人かいた。

 肩車で駆ける親子を、目の高さよりも低い位置で追う。下からアップ気味に撮ると表情が明るくとらえられるというのは写真の初歩だ。僕はファインダーから目を離さず、シャッターを切り続けた。

 何組目かのとき、ファインダーに、ひどく上下に揺れながら近づいてくる親子がとびこんできた。どうしたのだろう。僕はカメラを降ろして、肉眼でその親子をみてみた。肩車の下は母親だった。彼女は片足をくの字に曲げて、大きなビッコをひいていた。三十に少し前ぐらいの、初めて見る顔だった。僕は素速くカメラを構え直した。その瞬間、撮るのがはばかれる気持ちがふっと湧いた。この写真は運動会のあと、保育園の廊下に貼り出される。父母が毎年、くい入るような目で我とわが子の写真を探していくのを僕は知っていた。彼女は、いったいどんな思いでそれを見るだろう。そのとき、母親の姿が一瞬、妹の明子にだぶった。明子も、四歳の女児と十ヶ月の男児を保育園に通わせている。こんな光景を見れば、おそらく、もらい泣きするだろう母の顔も浮かんだ。

 シャッターにのせた指が動かなかった。ファインダーからその母子が消えて次の親子が現れる。歓声がたっている。明子はどうしているのだろう。カメラを構えたまま、僕はシャッターを切るのを忘れていた。

「おとうちゃん」

 と、なずなが呼ぶ声が聞こえた。僕たち親子の番がきたようだった。

 急性灰白髄炎、俗にいう小児麻痺は、ポリオウイルスによって起こるのが大部分で、ウイルスは消化管から進入してウイルス血症を起こし、脊髄灰白質を主とする中枢神経細胞を侵すものだという。麻痺をきたさない不顕性感染、不全型、非麻痺型のほかに麻痺型があり、麻痺型は一日から五日の発熱などのあと解熱とともに麻痺を生じ、下肢筋、上肢筋に麻痺が多く現れる。脳神経核が侵される麻痺もあり、呼吸中枢が侵されると死亡することもある――

 そんなことを、保育園の運動会の翌日、図書館で調べてみて初めて知った。

 小児麻痺は昭和二十二年に届出伝染病に、三十四年には指定伝染病に加えられている。妹はちょうど、このど真ん中で罹病したのだ。だが、三十六年にはじまった経口ポリオワクチン投与の予防措置で激減し、五十一年には、ついに発生零になった。そして、それ以降も発生はなく、発生自体は過去の病気になりつつあった。

 明子の症状は、麻痺型の中でも、下肢部型とでもいってよいものなのだろう。右足に運動機能障害が残った。小児麻痺には脳神経麻痺があり死亡する例もあることを僕は知らなかったが、母は医師から聞かされたことがあったのだろうか。だがたとえ、そのことを当時から知っていたとしても、母にはなんの気休めにもならなかっただろうし、僕にしたところで、妹一人が絶対だった。

 明子は、最初に立ち上がったときから傾いでいた。右足が松葉杖のように細く、じっさい、足に松葉杖をはめこんだようにして歩いた。そして、妹が大きくなるにつれ、右足だけはますます陽があたらぬ枝木のように育ち遅れ、そのぶん、ビッコだけが確実に形をとっていった。また、その育ち遅れを正常な側の足になんとか合わそうと、背伸びし、爪先立ちするものだから、やがて踵が浮き、右足の踵は小学生の頃でも五センチ、娘時分になると十センチ近くも地面から浮いていた。

 僕には、歩き出してからの明子の記憶がほとんどないのだ。小学校は集団登校だったから、少なくとも四年間は、学校までの二キロほどの道のりを明子と一緒に通っていたはずだ。毎日のことなのに、明子がどうしていたか、まるで覚えがなかった。僕が勤めるようになってから、その頃のことを母に尋ねると、「兄ちゃんと一緒に来るないうて、いつも除け者にしてたやないか」といった。もちろん、僕にはその覚えもなかった。

 集団登校だとはいえ、親が交通当番に立つような時代ではなかったし、その道にしてからが、野良道といかほども変わらなかった。僕たちはすぐに列を乱し、土手のタンポポを摘んだり、溝川でオニヤンマを探したりして、思い思いに学校に通ったものだ。明子はひとり離れて、ちまちまとビッコをひきながら、僕たちが蹴散らした花の首でも拾っていたのだろうか。

 高校時代に、「ピテカントロプス」と渾名される教師がいた。人類の起源を初めて論じたドイツの生物学者ヘッケルは、『自然創造史』という著書の中で、人間とサルを結ぶ進化の鎖部分がまだ発見されていないことを指摘し、これを「失われた環」(ミッシング・リンク)と呼んで、人間とサルの中間の性質を持った動物の化石が必ず発見されるだろうと予言した。この想像上の動物に、ラテン語のサル(ピテク)と人間(アントロープ)とを組合せて命名したのがピテカントロプス。そして、ヘッケルの予言どおり、オランダの解剖学者デュボアが一八九一年、ジャワで最初に発見した化石人類。

 その教師は、若い頃に脊椎を傷めたらしかった。背中に真っ直ぐな、一本の鋼鉄の棒を差し込んだような姿勢をしていた。つまり彼の渾名は、別名「ホモ・エレクトゥス直立原人」という、単語の語意からきていた。社会科で地学を学んだ上級生が代々、後輩に引き継いでいったものだが、彼は担当教科の世界史の試験で羽田闘争の感想を書かせるような教師だったから、生徒に評判が高かった。学校の中で、彼の愛称がどれほど飛び交ったことだろう。だが僕は、そのたびに、明子をイメージしなければならなかった。

 明子の場合は、姿、形がそのままくる。右足を除いた身体の他の部位は人並みに発育しているわけだから、妹は全体としてみると、異様に長い手と大きな頭、おまけに父に似て、首筋から背中にかけて濃い体毛を持っていた。それが、頭を前に突き出し、手をぶらりと下げ、膝を曲げて前屈みに歩く。ヘッケルの説ように決して想像の上だけではない存在。なぜ、僕はこんな妹をもたねばならないのだろう、という思いは、こうして高校時分にも去らなかった。

 大学に入り、僕はマルクスやエンゲルスの著作に親しんだ。しかし、「今日なお生存しているヒトニザルはすべて直立することができ、また二足だけで動きまわることもできる。しかしそれは応急策としてだけのことであって、しかもきわめておぼつかなげである。たいていのものはこぶしの関節を大地について、足は後退させたまま身体を長い両腕のあいだでゆすりながら・・・・・・」(『猿が人間化するにあたっての労働の役割』)などといった叙述に出会うと、僕はいきなり、妹の原始の世界へと連れもどされるのだった。

 貧乏なことは、それじたい罪悪だといった人がある。僕は、不格好もまた罪悪だ、とはげしく思ったものだ。

 保育園の運動会の写真撮影は、そのあと重たい気分になって、けっきょく最後まで気持ちがのらなかった。それが写真に反映していた。

 写真が出来あがってきた夜、「どう、うまく撮れてる?」と加奈子が聞いてきた。

「うん、どうも」

 僕が生返事をすると、加奈子は先走り、

「あなたは他人の評価を気にしすぎよ」

 と、笑った。

「他人の目を気にしていたら、生きていけないんじゃない」

 いつもなら軽い冗談の一つもいって笑い飛ばしてしまうところだったが、その晩、僕はそのまま笑えなかった。なにか切なく、一種腹立たしい思いがこみあげてくるのだった。

――人目を気にしないと、生きていけないということもあるさ、と僕は言い返したかった。

 貧乏はそれじたい罪悪だとはうまくいったものだ、と僕は改めて思った。父と母は、金のことをめぐって喧嘩ばかりしていた。父は字も書け、弁舌もうまかった。そんなことから村人たちの口車にのせられるままに、金にならない村役や宮役で動いていた。十六歳で京都の桶屋に丁稚奉公に出たこともあり、手仕事が器用でもあった。割木出しをしながら、たまに桶作りの仕事を頼まれると、人の良い父は金をもらおうとしなかった。いきおい母が、砂防仕事に精を出し、休日にも請け負い田植えをするなど、家計の主導権を握らねばならなくなる。それがまた父の気にくわない。気にくわないが、最後は、母の小言をしぶしぶ聞くしかないのだった。もっとも、母に一度も手をあげなかったことは、男らしいといえば男らしかった。その父も、僕が中学二年のときに、単車で転倒する事故で頭をうち、仕事や家計のことも一切合切、気にとめないような人間になってしまった。普請をかさねる家々があり、三種の神器といわれる電化製品も村に入ってきた。だが、そんなものが僕の家に何ひとつあるはずもない。勉強机もなく、僕が勉強をしようと思えば、夕食後、ただ一つしかない卓袱台を、妹を泣かせて独り占めするしかないのだった。

 母は早くから、僕と明子を、高校にはあげようと考えていたようだ。僕には「おまえは家の跡取りやし」といい、「明子は足が悪いさけ、家庭科に入れてやって、手に職をつけてやらんと」と口にしていた。ところが、妹の場合は、そうはいかなかった。

 明子が中学三年になった二学期のある夜、村の口利きが訪ねてきてから母の態度ががらりと変わった。口利きは、明子を紡績会社に入れよというのだった。足が不自由でも坐ってできる仕事があるし、二万円の就職支度金もつく。おまけに会社には高校に準じる学校だってある。どや、ええ話やないか。

 村には昔から目や足の悪い人がいたが、裁縫や按摩をして食っていた。母にはそんなイメージがあったはずである。足の悪い娘だから手許において村の中で生かせてやる。うまくいけば嫁に欲しいという人もあるやもしれない、と。だが、そんな時代ではないと、母は口利きにいいくるめられたのだろう。たとえ知恵遅れの子どもであっても、田畑にくる雀や鴉を追い払ったり、牛馬を見張ったりと村で生きる天地を持っていたという話も、確かにその頃は遠い昔話になっていた。

 僕にしたところで、当時、母以上の考えを持っていたわけではないし、妹が、紡績工場という名の、なにか得体の知れぬ巨大なものに吸い込まれていくという不気味な感触を抱いたにすぎなかった。ただ、僕は、母が妹を売ったのだと思った。

 僕は高校の普通科に進んだものの、卒業したら就職するつもりでいた。しかし二年生の秋頃から、いよいよ進路問題が差し迫ってくると、級友たちが当たり前のように大学をめざすのを知った。僕は新聞部の部長を務め、文化クラブを代表して生徒会役員にも推されていた。その生徒会の役員たちはもとより、正直いって遊び惚けているようにみえた連中たちも進学を口にした。また、新聞部の先輩も部室に顔を出し、大学を出たうえ将来マスコミの世界に入るのが部長の代々の伝統だといった。僕がその歴史を途切れさせるかも知れぬことなど、彼らは夢にも思わぬふうだった。

 小児麻痺。それは僕にとって、ただ見た目の不格好さだけではなかった。農村ではありながら瓦葺きの大きな明るい家が次つぎと新築されてくるなかで、いつまでも茅葺きのまま、雨でも降れば家中がじめつく薄暗い家をもひっくるめて、貧しさのうちだった。こういう家の人間がどういうふうに生きるのか。それはおそらく、三食喰えない家などとっくに姿を消した村で、けっして小さくない関心の的だっただろうと思うのだ。あるいは、まったくの無関心かのどちらか。体裁をいうのではない。人の目を前に、こんな家に生まれた僕でも、いやこんな家に生まれたからこそ、どうかしてまともに生きてやろうと思うことはあるだろう。

 しばらく考えてから僕は、運動会のできごとを加奈子に話してみた。加奈子はあの母親のことをよく知っていた。

「そうよ。あのひと、昔、水痘症をわずらったんだって」

「えっ、水痘症だったのか」

「それがどうしたの?」

「いや、てっきり、小児麻痺だと決めこんでいたものだから・・・・・・」

 写真が撮れなかったよ、と僕は率直にいった。加奈子は少し思いつめる目になった。

「あなたの場合は、同情とかそんなものではないわね。変な言い方かもしれないけど、あなたは、どの障害者の人を見る目も他人意識じゃなく、身内意識で見ているのじゃないかしら。明子さんがそうだから、自分のことのように思ってしまうのね。心の痛みがわかるとか・・・・・・」

 加奈子はそこまでいって、あとの言葉をにごした。

――身内意識か。

 それはそうかもしれない、と僕は思った。明子は紡績工場に就職したが、高校だけは企業内の学校でなく、県立の定時制に進んだ。だが、明子がじっさいに定時制高校に通い出すようになると、自分の中に立ち上がってくる負い目をぬぐい去ることができなかった。明子は健常者との間にあるハンディを、たとえば母が思い描いていたように裁縫を身につけるとか、正常な部分の能力を開発して縮めるなど、独立し、自立できる手段を充分獲得させてもらえないまま社会に放り出された。僕は、自分が立場を交替してやるべきではなかったかと思うことがあった。世間が障害者を閉ざそうとすれば、罪のない者が己ばかりを責めるか、せめて身の内だけはかたまろうとしても不思議はない。互いに傷をなめあうことも、それはそれで、人の心をつなぐあり方ではあるだろう。

 だが、それが何なのだという思いが湧いてくるのを、僕はどうしようもなかった。負い目は負い目として、ハンディはハンディとして、いったい何がどう変わるというのか。じぶん自身、嘘を吐いている気がした。結婚してから、加奈子が「明子さんじゃなく、あなたが小児麻痺だったら自殺でもしていたのじゃないかな」と冗談めかしにいったことがある。その方がまだ、僕の正直なところだった。

「相談したいこともあるし、いっぺん逢わない?」

 明子から県庁の記者クラブに電話がかかってきたのは、保育園の運動会からひと月ほど後の、すでに冬をおもわせる日だった。県庁の地下街にある喫茶店に出向くと、明子が先にきていて、耳のあたりで小さく手をふった。まるで、赤子にするバイバイみたいじゃないかと、一瞬、腹が立ちかけたが、そうだ、妹にはまだ十ヶ月少々の乳児がいるのだと思い直した。

 明子は定時制高校の三年のとき、京大病院で整形外科の手術を受けた。踵が地面と十センチ近く離れていて不自由だった右足は、足首がボルトで直角に固定されて動かせないものの、四、五センチほどのコルク製の足盤を踵裏につけると、左足と釣り合い、ビッコをひかなくてもすむようになった。一年間休学し、五年かかって定時制高校を卒業した明子は、県庁近くの書店に勤めをかえた。リハビリテーション医学の発達は、明子の生活や労働をかなりのところで支えていた。

「このあいだの日曜日に家へ帰ってきたんやけど、父ちゃん、だいぶボケてきてるし、二人とも歳をとってきたわよ」

 ちょくちょく実家に帰り、気をつけてやろうというのが明子の相談事だった。十五歳で家を放り出されながら、どうしてこうも実家のことが気遣えるのか、僕には不思議でならなかった。

「兄ちゃんたち、お盆に帰ったやろう。そのときの、なずなちゃんの手の跡がね、障子の磨りガラスに残ってるんやて。お母ちゃん、それを拭かんと、毎晩、眺めてるそうよ」

 僕と妹はしばらく本の売れ筋や子育ての話などをしたあと、喫茶店を出て、県庁の一階にあがった。そのとき初めて、明子がビッコをひいているのに気づいた。

「どうしたんや、その足」

 僕は思わず、大きな声を出していた。

「足盤、はずしたんよ」

 と、明子はさりげなく笑った。

「お風呂場では足盤をはずさんなんやろう。はずすと、タイルの上をうまく歩けないで滑るんよ」

「――」

「子どもをお風呂に入れるときに、怪我させられへんからね。いつまでも夫にばかり頼っていられないし、ふだんから、こうして練習してるの」

 また、なずなちゃんを連れて帰ってやってね。明子はもういちど念を押すと背中を向けた。

 ふと、明子が足の手術をしたときのことを思いだした。初めてギブスがとれた日、明子は病院のベッドで足盤をあててもらい、いつの間に買っておいたのか、赤いエナメルの靴を履いたのだった。

――兄ちゃん、うちもやっと一人前になったんやね。

 その明子が、足盤をつけない足で、県庁の廊下を一歩一歩、確かめるように歩いていく。冬の日射しがさす西玄関のガラス扉を押して、道路に向かう。そのとき、僕の目に、ガラス扉がカメラのファインダーのようにみえた。それを透して明子の後ろ姿が躍る。僕の奥底で一枚いちまい、シャッターが高い響きをたてて落ちた。

        4

 三人目の子どもの美穂が歩き出した正月、明子は、長女と長男も連れて帰省してきた。長女は小学五年になり、明子が風呂をつかわすために足盤をはずしたという長男も、二年生になっていた。

 いま考えてみても、あの時の妹の背中に、十分な真実が含まれていなかったとは思わない。いや、むしろ、妹は十分、真実を背負って立っていた。だが、そういうふうに考えてしまえば、もう何も思い悩むことはないし、世の中は万事、安泰である。

 しかし、人生は安心立命とはいかない。この八年の間だけでも、いろいろなことがあった。妹と県庁の喫茶店であって半年もしないうちに父が死に、僕には二人目の娘が生まれた。妻と何夜にもわたって相談を重ねて帰郷を決断し、母と一緒に暮らすようになったのも、この年月の間のことだ。三歳の保育園年少組だったなずなも、小学四年になった。二番目の娘ですら、春には小学校にあがる。この同じ歳月を、妹も経てきているわけである。僕も妹も、生きる歩幅において、真実といえるものを、日々、更新していかねばならないのだ。

 明子は少しやせたようだった。その妹の顔を見たとたん、そんな思いが頭をよぎった。

 明子と入れ替わるように、加奈子は娘たちを伴って実家へ行っていた。妻がこさえておいてくれたお節を妹たちと食べ、風呂も済ます頃には夜の九時を回っていた。僕は妹と久方ぶりに、ゆっくりと話し合った。

「ほとんど一年半ぶりだな」

「うん。去年はあのことで帰れへんたからね」

 妹は昨年、美穂の足のことで、盆や正月どころではなかった。妹が帰ってきたのは、その前の年の六月、父の七回忌法会を営んで以来のことだった。

 僕は、母が自分の蒲団で寝かせるため納戸部屋に連れていった美穂の、丸まると太った顔を思い浮かべた。

「どうみても田舎の顔だな」

「そういわんといてよ、あっちに似たんやから。でも、どっちに転んでも田舎やけどね」

 明子はそういって笑いながら、隣の部屋で遊んでいる子どもたちに目を向けた。二人は「新案・ラッキー人生ゲーム」という双六に熱中していた。やあとか、わあとか歓声をあげている。クリスマスに、なずなに買ってやった小学生雑誌についていた付録だった。双六といっても、僕たちの子どもの頃とはまったく体裁が違っているのに驚いたものである。サイコロの目によって、途中から、実業家、タレント、会社員の三コースに道が分かれる。どのコースとも、コマごとに人生の浮き沈みがあり、金が出入りする。そして最後に全員がゴールした時点で、稼いだ金の多い少ないが人生の勝敗を分けるという仕組みだ。じっさいにオモチャの札束まで付いていて、サイコロを振るたびにやりとりする。なんというゲームだ、と思いつつやってみると、これが異様におもしろい。そしてわかるのが、会社員コースに進むのが最も勝算が高いということだ。実業家やタレントコースは成功したときは大きいが、ヨット、車、ゴルフと浪費するふうに仕掛けがあって、みんな会社員コースに行きたがる。歓声が立つのはその分岐点である。冬休み、わが家の娘たちもこのゲームの虜になり、本来なら目くじらをたてる加奈子までもが、めずらしく夢中になったものだ。

「ちょっとあんたら、静かにしよし」

 明子が叱るが、効き目があるのは最初のうちだけだ。

「で、どうだったんだ」

 僕はかまわず、美穂の足のことを聞いた。

「最初から全然問題なかったんよ。この頃、たまにあるらしいんやけど、医者はね、本人の歩こうとする意欲だけだっていうの。だからね、高い所のものに興味を示させてみたり、必死で立たそうとするんやけど、あかんかったの」

 けど可笑しなものやね、といって明子は続けた。

「兄ちゃん、カタカタて、知ってる?」

「ああ。手押し車みたいな玩具だろう」

「そう。それに掴まってたかと思ったら、カタカタだけがすうっとこっちに転がってくるの。あっ、なんやろと思って見たら、もう、一人で立って歩いてたの。人間が立ち上がる時って、意外にあっけないものね」

「でも、よくやったっていう感じがあるじゃないか」

 僕は本当にそう思っていった。妹から報告を受け、電話の前で涙ぐんでいた母の姿が、しみじみと蘇ってきた。

「自分の足のことって考えた?」

「それがね、うちが、一番先に医者に聞いてるの。自分でも、なんかおかしかった」

 と、明子は思い出し笑いのように笑った。

「お義父さんや、お義母さんはどうだった」

「よく気を遣ってくれるわ。息子が連れてきた嫁だから、文句もいえないと思うしね」

 そやそや、兄ちゃんに話してなかったけど、といって明子は少し顔を曇らせた。昨年の正月、年賀状で、妹を中傷する文面が届いた。そこには女性の字体で、足が悪いくせに威張るな、と殴り書きしてあったというのだ。同じPTAの母親だと思う、自分はPTA役員に選ばれているが、なにもそんなこと、と明子は首を横にふった。

「お義父さんがね、それは俺に来たんやていうてくれたの。村役をしていて、きついこともいうてるからって、自分の手で破いてくれたわ。うち、少し泣いたけど」

 そうか、そんなこともあるだろうなと僕は静かに思った。

「うちも、みんなには迷惑はかけてないつもり。コンバインだって、ちゃんと一人前に運転してるんよ」

「その一人前という言い方、ちょっとおかしいんじゃないか。頑張るのはいいけど、じゃ、乗れない人間は一人前じゃないのか。だったら、おまえには一人前でも人並みでもないことがいっぱいあるぞ」

 言わずもがななのだけれど、僕は一度いってみたいと思っていたことを口にしてみた。明子が初めてエナメルの靴を履いたとき、兄ちゃん、うちもやっと一人前になったんやね、といった言葉が、妹をその後どのように作用させているか、この頃、しきりと気になっていたのだ。とくに美穂の足のことがあって以来、よけいにその思いが募っていた。また、最近、町役場の中堅職員が過労死するという事件が起こっていた。たまたま僕が取材を担当したのだが、家族の証言によると、彼は吃音の癖があり、毎夜明け方近くまで、テープレコーダーを相手に是正に励んでいたという。それが労災法上の過労死になるか、いま、運動が取り組まれているのだった。

「靴のこと?」

 と、明子は即座に応じた。

「うち、靴はとうとう、エナメルにしろ革靴にしろ、履けへんかったわ。だってね、右の足が左の足より一センチ半ほど小さいの。片方ずつ売ってたらいいけど、二足もいっぺんによう買わんしね。大きい方に合わさんとあかんし、そうすると右がガバガバで、雨の日は、ハネがあがってしょうがないの。だから、ずっとズックよ。紐でしばりつけるの――」

 思いがけない答えだった。妹は足の太さも左右で違うため、もっぱらスラックスを着用していた。僕は、そのスラックスの右足部だけに点々とハネがあがった姿を想像して、用意していた言葉を呑み込んだ。

「――それに、兄ちゃんのいうとおりよ。学校で親子競技なんかがよくあるけど、うち、代わりに誰かに走ってもらってる。子どもたちには、一人ひとり顔がちがうのと同じように、走れる人間もいれば走れない人間もいるって、いってるの。飛べる人間もいれば、飛べない人間もいるって」

 あっ、これは違うか、と明子は大きな声を出して笑った。そして、ちょっとあれね、と明子は、隣の部屋を気にした。上の二人の子どもたちは、美穂と明子とふたりも足の不自由な人間がいたため、家では何かとよく気遣ってくれるが、どうも明子が学校に来ることは嫌がっているらしいという。

 それは、子どもが母親のどんな記憶を刻みつつ生きていくか、はるか大人になっていくまでの、子ども自身の問題だ。僕がそうだったように。それにしても、飛べる人間もいれば飛べない人間もいるというのは悪くないな、と僕は思った。

「おまえらがやかましいで、ちょっとも寝よらへんでよ」

 母が美穂をねんねこで負ぶって居間に出てきた。

「重たいやつやのう。だいぶ甘えかしたるな」

 母は、涙なしに美穂を抱けることが嬉しくてならないのだ。口とは裏腹に、さも満足げな笑みを浮かべ、

「ちょっと外に出てみようか」

 首をまわして背中の美穂に話しかけると、玄関の三和土に、下駄をからからと響かせた。

「風邪をひかさんといてよ。それでのうても、ここは寒いとこなんやから」

 明子は、自分のマフラーを持って母のあとを追った。

「えらそうにぬかすな。おまえらもこうして育ててきたんやわい」

 母が玄関の外に出ていくと、

「兄ちゃん、知ってる?」

 明子は、なにかわけありげな顔つきで戻ってきて、急に声をひそめた。

「お母ちゃん、昔、家を出ていったことがあるらしいよ」

「どういうことなんだ」

 急いで記憶の底をまさぐってみても、思い当たる節はないし、だいいち、夫婦の睦み事まであっけらかんと喋ってしまうような母の口から、そんな言葉が一度だって漏れたことはなかった。

「半年ぐらい前かな。まだ美穂が歩けない頃、店に電話してきて、いきなりそんなことを言い出すからびっくりした。うちに、帰って来たくなったらいつでも帰って来いっていうし、どうしようかと思ったわ」

 明子によると、それは明子が四歳頃のことだという。母には京都に嫁いでいる妹がいた。夫の方も母とは従弟で、母が唯一、気兼ねをしないで済む家だった。母はそこへ身を寄せて、旅館の賄い婦でもして暮らしていこうと考えたそうだ。

「そうそう、兄ちゃんも、うちと一緒に連れていったそうよ。うちが四つの頃というと、兄ちゃんは六つやろう。覚えてない?」

「――」

「そうや、 確かに兄ちゃん六つのときよ。しばらく叔母さんにかくまってもらっていたけど、兄ちゃんが小学校にあがらんなんから、また自分の方から戻ってきたんやて」

 僕は、あっ、という声にならない驚きに捉えられた。

 そうだ、あの記憶なのだ。僕を三十年以上もとらえて放さなかった、もっとも古い記憶。母に手を引かれ、アセボ峠を越えたのは、てっきり自分が四歳の頃だとばかり思ってきたが、六歳だったのか。明子は四歳とはいっても、まだ歩き出したかどうかの頃だろうから、背中に負ぶわれていたとしても不思議はない。母が出ていったというその日こそ、朝が山ぶどういろに凍ったあの日なのだ。

 影絵のようにぼんやりとしていた世界に、いきなりフラッシュライトがあてられたように感じた。僕が半ズボンにアメゴム底の靴を履いていたと覚えているのも、たぶん本当のことなのだ。僕が小学校にあがるのを控え、母が秘かに、誂えておいてくれたのにちがいない。

 なぜ母が家を出ようとしたのか。それは明子も聞かなかったという。父や祖母との間で諍いがあったのか、それとも村にいられぬなにか事情があったのか。いまとなっては想像するしかないし、いまさら母に問うてみることもないだろう。

 茫漠とした記憶に強い光があてられて、しかし、その記憶が、僕の四歳のときの、小児麻痺の妹の治療に行く、昔から思い続けてきた光景であったとしてもかまわない、と僕は思った。はっきりしているのは、僕と妹が母に連れられ、冬の峠を越えたことがあったということだ。

 いずれにしても、そのとき母は必死だっただろう。僕は四歳だったにしろ六歳だったにしろ、詩で書いたように、兵隊の歩き方で、勇ましくまっすぐに霜柱を踏んでいるようなことはなかったはずだ。もっとも兵隊の歩き方が、いつも勇ましいとは限らないけれども。おそらく僕は、峠の中腹に放り出されるかもしれないという恐れや、首に巻いてもらっている金色の産毛のようなキツネの襟巻きが、いつ本物のキツネに化けてしまうかもしれぬという不安でいっぱいで、母の踏む足音だけが頼りだったのではないだろうか。

「わあ、もう十一時よ。あんたら寝よし」

 明子は立ちあがり、やはり傾ぎながら、子どもたちのいる隣の部屋へ入っていった。

 母が外庭を歩いている気配がある。庭にはアセボ峠の土が撒いてあった。父は生前、まったく働かなかったけれど、これだけは、祖母が死ぬまで掘っていた土採り場から、一輪車で、せっせと運んだものだ。

 さく、さくと、母が土を踏む音が響いた。霜柱が立っている。ああ、この音だった、と僕は思った。

 僕のあの記憶は、もやは再び、ぽっかりと宙に浮かび、彷徨することはないにちがいない――

        5

 今年の小正月のことだ。近所のお梅さんが四、五日前にアセボ峠でキツネに化かされたらしいという話を母が聞いてきて、僕は、ほぼ十年ぶりに、峠の名を思い出した。

 峠を越えた隣町には、昔は結核療養所だった国立病院がある。お梅さんは、その病院に出かけたまま、夕方の六時を回っても帰ってこなかった。正月も、松があけると日が長くなる。村では、年寄りたちがよく、「正月十日、あほでもわかる」と口にした。暦に唱えるような上品な格言ではないけれども、真実は言い当てている。とはいえ、五時を過ぎると暗くなる。それで家族が騒ぎだした。

 病院に電話を入れると、昼の一時には診療を終えたという。あちこち手分けして探し回ったが、夜の十一時になっても見つからない。これはもう、消防団に頼むしかないな、と思った矢先、隣町の無人駅のJR駅で、ぽつんと立っているお梅さんを最終列車の乗客が発見し、警察に連絡した。お梅さんは素足で、持って出たはずの手提げ袋も身につけていなかった。二日ほど後になって、お梅さんの草履と、病院の診察券や薬袋の入った手提げが、アセボ峠に落ちていたことがわかった。イノシシを獲りに山へ入った猟師が、峠の中腹で見つけたのだった。

「あの子、なんで、あんな峠に行っきゃったんかのう」

 と、母は首を傾げた。

お梅さんは、母より三つ年上だが、母とは娘時分からの砂防衆仲間だった。母も七十を越えたとたん、急に腰が曲がり、ここ二年ほど、骨粗鬆症の治療で、お梅さんとは通院仲間になっていた。子どもは頼りにならんなと、僕たち息子をののしり合いながら、いつも近所の年寄り同士四、五人でタクシーをチャーターし、仲良く病院に通っていた。それだけに、なぜ、お梅さんが一人で出かけ、はたまた峠道を帰ろうとしたのか。母たちには、それが不思議でならないようだ。お梅さんは、その日の記憶をまったくなくしているという。

「それにしても、よう歩いたこっちゃ。やっぱり、キツネが憑きよったんやろな」

 僕がまともに取り合わないのを見てとると、

「賢い子やったけど、まあ、アルツハイマかもしれん」

 と、母はめずらしく、あっさり前言を翻した。僕は、ちょっと母をからかってみたくなった。

「どうや、もういっぺん、アセボ峠を歩いてみるか」

「あほなこと。キツネに化かされたらどうするよ――」

 母は真顔で、僕をにらみ返してきた。

「――もう、どこにも行きとうないわ」

 腰が曲がった母は、胸を突きだし、頭を上げようとするぶん、両手を後ろに残して歩く。その姿は、羽を広げたニワトリか、ペンギンに似ていた。もう孫はおろか、割木の一束だって背負えないだろう。歳をとったのだ、と思った。

 節分の日の朝、たまたま仕事が休みだった僕は、妻の加奈子に頼まれていた柊を採るため、久しぶりに、アセボ峠へ行ってみようと思い立った。

 集落を抜け、人家の途切れるあたりから山に入っていく林道は、入り口から二、三百メートルあたりまでは軽トラックの轍がついていた。どうやら、ゴミを捨てにくるらしい。冷蔵庫や洗濯機、車のタイヤなどが谷間のあちこちに転がり、落ち葉に埋もれていた。だが、そこから先、大八車二台がゆうにすれ違えるほどの幅があった道は、両側からクマザサが進出し、登るにつれ、灌木が立ちふさがりだした。

 一キロほど歩くと、土採り場に着く。祖母は僕が高校一年のときに亡くなったのだが、そこにもアカマツが自生し、直径二、三十センチほどの大木に育っていた。それでも、黄みがかった白い地肌が、所どころに残り、アカマツの梢から漏れてくる冬の弱い日差しをあびていた。

 そのとき、ふと、黄土いろした土塊が動く気配がした。一瞬、鳥肌だって、よく見ると、キツネがこちら向きに立っていた。僕が飼っている柴犬を、ひと回り小さくしたくらい。逆三角形に尖った顔は、まぎれもなくキツネだった。冬にはキツネも毛が生え替わるのか、胸元はふさふさした白い胸毛で覆われていた。目と目があい、僕たちはしばらく見つめ合った。一分間はそうしていたかと思うが、あるいは数秒くらいだったかもしれない。

 キツネは、きびすを返すと、二十メートルほど真っ直ぐ走り、いきなり直角に折れて、灌木の茂みに飛び込んだ。その刹那、背中からピンと、一直線にのびた太い尻尾が、朝の光をはじいて金色に輝いた。

 僕には、なぜだか、キツネが少年のように映った。そして、いまや四十数年前の出来事となった、あの記憶が思い浮かんだ。僕はキツネの襟巻きをしていたのではなく、ほんとうは、峠でキツネと出会ったのではないだろうか。小学校にあがる前のことだったとはいえ、やはりキツネの襟巻きは僕にとっては贅沢すぎる。キツネは、峠を通る僕たち親子を、明け方の薄闇の向こうから、じっと眺めていたにちがいない。いま、僕にはその光景が、まざまざとみえた。

 キツネが飛び込んだ灌木の辺りまで行ってみると、それは馬酔木だった。柊ほどではないが、常緑の緑葉に小さな鋸歯がある。馬酔木はすでに、その葉の先に房状の蕾をつけていた。

 今年の冬は、僕が帰郷して以来、もっとも凍てつく日々が続いてきたが、それでも春は確実に近づいているのだった。

 僕は、柊の代わりに、馬酔木を手折って帰ることにした。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2011/05/22

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木下 正実

キノシタ マサミ
きのした まさみ 小説家。1950(昭和25)年、滋賀県甲賀市信楽町生まれ。

掲載作は、「神戸ナビール文学賞」受賞、『アセボ峠』(2003年、同時代社刊)に所収。

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