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  一

 山に獣道(けものみち)というものがあると何かの本で読んだことがあるが、なるほどそういうものがあるかも知れない。家の二匹の犬が庭の植込みの中を歩いたり、駈けたりする道はいつも決まっている。そんなことを言い出したのは息子である。息子の書斎は二階にあって、縁側から庭の大部分を見降ろすことができるので、いつとはなく二匹の犬の通る道が一定していることに気付いたのであろう。私の書斎も庭に面しているが、一階なので事情は少し違う。縁側からも、仕事机の横の窓からも、前庭と、それに続いている裏庭の両方を、いやでも終日眼に収めないわけにはゆかず、塀に沿った植込みの中を駈け抜けて行く二匹の犬の姿はよく見掛けるが、その駈け抜けて行く道が一定しているというような観察はできない。植込みの間を白い生きものが、ある時は分別ありげにゆっくりと、ある時は(あわただ)しく移動して行くのを見るだけである。

 植込みと言っても、塀に沿って三かわ並べぐらいに雑木を配しただけの繁みであるが、家を構えてから十五年ほどになるので、雑木の何本かは、道路を隔てて建てられてある或る公共団体の二階建ての職員宿舎の目匿(めかく)しになる程度には育っている。塀際には(さわら)(かし)などの常緑木が並んでいて、そのこちら側には雑然と花木が植わっている。山桜、梅、(あんず)(すもも)、ライラックといった木が、それぞれに時季が来ると花をつける。何本か欅も混じっていて、この方はやたらに大きく育っている。そしてそのもう一つこちら側には、躑躅(つつじ)とか木瓜(ぼけ)とか、沈丁花(じんちょうげ)とかいった類の丈低い灌木が配されている。

 もともと広い敷地ではないが、長方形のいやにひょろ長い地面で、鰻の寝床に家を建てたようなところがあって、それを塀で囲んである。従って塀の一方はいやに長く、一方はいやに短いということになる。甚だ感心しない形の屋敷ではあるが、ただ一つ取得と言えば、犬を放し飼いにしておくにいいことである。前庭から裏庭へと塀に沿って駈け抜けて行き、庭の隅の欅の木をひと回りして帰って来ると──勿論時間にするとあっという間のことではあるが、日に何回も繰り返していると、二匹とも、まあ運動不足になることはないだろう。

 息子から犬の道の話を聞いてから、私は犬が塀際の植込みの中を歩いて行くのを眼にすると、それとなくその歩いて行く道筋に注意するようになった。縁側の籐椅子に腰掛けている時のこともあるし、庭の芝生に降り立っている時のこともある。とにかく塀際の植込みの中を犬が移動して行くのを見ると、そこへ近寄って行ってみたり、反対に遠くに行って灌木の茂みを透かしてみたりする。何回もそんなことを繰返しているうちに、なるほど息子の言う通りだなと思った。確かに犬には犬の道があるようであった。木蓮の木にぶつかると、紀州犬も柴犬も右には回らないで左に回った。右に回った方が空地が広くてらくそうに思えるのであるが、犬たちはそうしなかった。わざわざ左に回って躑躅の株との間の体一つが漸く通れるような狭いところを通路にしている。そういうところは他にまだ何カ所かあった。灌木の茂みの中に小鳥のための水飲み場が作ってあったが、どういうものか、そこは避けて塀際へと迂回(うかい)して、窮屈な場所へと身を運んで行く。と言って、窮屈な場所ばかりを好んで通っているわけではなかった。大体においては駈け抜けて行き易い恰好な場所を選んでいるのであるが、そうした場所を(つな)ぎ合せている通路の中に何カ所か、人間の眼から見ると、理解に苦しむような場所が選ばれているのである。ゆっくり足を運んで行く分にはそれでもいいが、庭の隅などに(いぶ)かしげな音が起ったのを聞き(とが)めて、急遽(きゅうきょ)馳せ参じなければならぬといった一旦緩急の時でも、紀州犬も柴犬も、疾風の如くそこを駈け抜けて行くのである。

 山に獣道があるという言い方を真似(まね)れば、わが家の庭にも犬道があるのである。と言って、二匹の犬は全く同じ通路を選んでいるわけではなかった。これは私自身の観察によることであったが、紀州犬が通るのに柴犬が通らないところと、柴犬が通るのに紀州犬が避けているところとがあった。庭の隅に煉瓦(れんが)で造った物置小屋があるが、紀州犬はその背後を迂回して通り、柴犬の方はそこを敬遠して欅の木の根もとに道を作っている。それからもう一カ所、大きな躑躅の株が何本か身を寄せ合っている一画を、柴犬は右回りし、紀州犬は左回りする。

 こうしたことを食卓の話題にのせると、犬の面倒を一番よくみてやっている娘は、それは食物を匿している場所の関係からではないだろうかと言った。それぞれが自分の食物の隠匿場所を持っていて、お互いが相手の隠匿場所には近寄らない協定でもできているのではないかと言うのである。犬たちは時々与えられた食物を食べないで、どこかへ持ち去ってしまうことがあるが、暫くして帰って来ると、いつも鼻の頭を土で黒くしている。土の中に埋めてしまうのである。お互いがお互いの地中の隠匿場所を相手に知られないようにし、またお互いに相手のその場所に近寄らないでおこうといった協定が本能的に成立しているのかも知れない。そう言えば紀州犬は物置小屋の背後(うしろ)側からふいにひょっこりと姿を見せることがあるし、柴犬の方は欅の木の右手の茂みから、これまた時ならぬ時に立ち現われて来ることがある。食物の隠匿場所であるかどうかは別にして、そこがそれぞれの、決して他を入れない休憩場所であると見れば見られないことはない。

 柴犬も紀州犬も共に雌で、毛なみは白い。柴犬は生れたばかりのを家に連れて来てから十二、三年になる。老犬である。紀州犬の方はまだ満三年で、目下のところ若々しいエネルギーに満ち溢れている。喧嘩すると、柴は紀州の敵ではなく、ひとたまりもなくやられてしまうが、しかし、平時は柴の方が権力を持っていて、紀州の方は何かにつけて遠慮している恰好である。あとから家に引き取られて来た肩身の狭さがあるのであろう。

 柴犬は家の者には誰彼の区別がなく愛想がいいが、紀州犬の方は飼われて三年になるというのに、いまだに誰にも(なつ)かない。誰かが食物を盛った器を持って庭に現われると、柴犬の方はすぐ寄って来るが、紀州犬はいったん茂みの中に身を匿し、灌木の間から家の方を(うかが)い、人が家の中に引き揚げて暫くしてからでないと、絶対に姿を現わさない。野性を失っていない証拠で、人間というものを信用していないのである。猜疑心と警戒心で全身を固めているこういう場合の紀州はなかなかいい。樹間に一匹の野性の生きものが居る感じである。白い毛色が少し青味を帯びて見え、身の構えば精悍である。そして家から誰ももう再ぴ庭に現われないということを見定めた上で、紀州は塀際の茂みから芝生の上へ姿を現わして来る。いささかの隙もない感じである。そして食物の方に近付いて行くと、持ち運びのできないものはそこで食べるが、肉片などの場合は口に(くわ)えてどこかへ持ち去って行く。

 私がそうした紀州犬について話すと、息子は紀州のそういう面の面白さでは深夜のそれが最たるものであると言う。深夜、紀州は昼間どこかへ埋めておいた食物を咥えて、茂みの中の通路を伝って居間の前の芝生へとやって来る。どこで食べてもよさそうに思われるが、どうも毎日食器の置かれる芝生の一画を正式の物を食べる場所と思い込んでいるようなところがある。食物を口に咥えて芝生に姿を現わした紀州犬は、昼間とは打って変った落着いた態度で、食物をそこに投げ出し、少しもがつがつしたところは見せないで、悠々とあたりを眺めやったりした上で、さてそれではといった風に口を持参の食物の方に持って行く。月でも出ていようものなら、いかにも月でも観賞しながら食事をとっているといった恰好であると言う。

 この話を聞いている時、私には自分の知っている二匹の犬の専用通路が全く異ったものとして眼に浮かんできた。食物を口に咥えた一匹の生きものを一点に配し、全体を夜の闇で包んでみると、それはもはやわが家の庭の貧しい犬道ではなかった。大袈裟(おおげさ)な言い方をすれば、山野を貫き走っている長い獣道に他ならないのである。そしてそこを伝って、漸くにして芝生の一画に立ち現われる紀州犬の姿には、野越え山越え千里の道を遠しとせずやって来たといった孤独精悍なものがあるのではないかという気がする。実際に見ていないので何とも言えないが、わが家の犬道も、そこを伝い歩く犬も、夜になると昼間とは全く異った生き生きした表情を持ってくるのではないかと思われた。

  二

 先年嫁いで二児の母親になっている上の娘が家に来た時、私は二匹の犬の専用通路のことを話題に取り上げた。そして娘を庭の隅の杏の木の根もとのところまで同行させ、塀に沿った雑木の茂みの中を犬道がどのように走っているかを説明した。娘は生れ付きこうしたことには関心を持たない性格で、半ば迷惑そうに庭の隅までついて来ていたが、ほんとに犬の道があるわね、でもここはこう通るんでしょう、ほら、ここが道になっていますと、身を屈めて地面を覗き込みながら、私の説明を多少訂正するような発言をした。娘が指し示すところを見ると、山桜の白い花弁が一面に散り敷いている地面に、なるほど犬の足跡と覚しきものがたくさん()されてあるのが見られた。帯状をなしているその部分だけ、白い花弁は泥にまみれて無慚(むざん)な感じになっており、確かにそこが犬の通路になっていることを示している。私が犬の通路であると考えていたところは樫の切株の向うを回っており、白い花弁の散り敷いている場所からは外れていた。しかし、眼の前に証拠を突き付けられた恰好で、私は娘の言うことに従わないわけには行かなかった。すると娘はこんなことに大騒ぎする父親の気持が判らないとでもいうように、友子だって、ちゃんと自分の道というものを持っていますよと言った。友子というのは娘の子供で、私にとっては孫娘に当る六歳の幼女である。この間までは幼稚園に通っていたが、この春から小学校に通い始めている。

 娘は言う。幼稚園の送り迎えをしていると、子供たちには子供たちの道があるということが判る。子供たちはいつもそこを通りたがる。どうしてこんなところを知っているのかと思うような裏通りの道で、時にはひとの屋敷ではないかと思うようなところをも小さい靴で踏んで行く。送り迎えは母親たちが交替でやるので誰かがそんな道を連れて通ったことがあるのであろうが、とにかく子供たちはそこを通りたがる。別段面白い道でも楽しい道でもなさそうだが、子供たちの足はその方へ()かれて行く。どうせ遊びなんだからと思って、自分が当番の時はいつもそこを通ってやるが、ああいうのは子供の道とでも言うのではないであろうか。

 娘一家は二年ほど前に神奈川県の田舎に建てられた会社の社宅にはいっており、同じ会社の従業員の家族が何十組か三棟のアパートに配されている。もはや東京の子供たちには登校する道の選択などということは考えられないが、田舎に住んでいるお蔭で、孫娘の幼稚園の行き帰りにはまだそのような余裕が残されているのである。

 娘に言われて、確かに子供には子供道があると、私は思った。犬道に気をとられて、子供道に思いを致さなかったのは、われながら不覚に思われた。私は書斎に引き返すと、縁側の籐椅子に(もた)れて、柴と紀州の二匹の犬が春の陽光を浴びて寝そべっているのを眺めながら、犬道ならぬ子供道のことを考えた。私は伊豆半島の中央部の天城山麓の山村に育っているが、子供の時のことを振り返ってみると、村中を何本かの子供道が走っていたことに気付かざるを得ない。渓谷の共同風呂に行くにも、隣村の親戚に使いに行くにも、子供たちは自分たちだけの道を持っていた。毎朝の登校路など今考えてみると奇妙なものである。田圃の畔道(あぜみち)を通り、小さい崖を降り、何軒かの農家の背戸を縫った上で、小学校の前を走っている往還に出る。そんなことをしないでももっとまともな道があった筈であるが、子供たちは何とはなしに旧道でも新道でもない自分たちの専用道路を作っていた。歩きにくい上に遠回りになる、道とは言えないような道を選んで、専らそこだけを使っていた。

 鮮やかな印象でそうした子供道の一つが思い出される。夏休みになると、子供たちは毎日のように渓川(たにがわ)の水浴場へ行くのが日課であったが、いつも崖の斜面の細い道を伝って渓間の小さい淵へと急ぐ。大人などのめったに通らぬ子供たちだけの道であった。渓に落ち込んでいる側の斜面には血のように赤い鬼百合の花が咲き、山側の斜面ではそこを埋めている木立から雨のように蝉の声が降っている。(ひる)下がりの陽光に上から照り付けられながら、半裸の子供たちは一列になって、その道を駈けている。蜻蛉(とんぼ)の群れが次々に顔にぶつかる。青い水を(たた)えたインキ壷のような淵に一刻も早く身を投じたいだけの思いで、子供たちは今にも点火して燃え上がりそうな体を必死に川瀬の音の聞えている渓間へと運んで行く。今思うと、そこにはこれこそ夏であると言えるような夏があったのである。その後再ぴ訪れて来たことのない強烈な夏が、確かにその幼時の子供道にはあったと思う。

 夏の思い出ばかりでなく、幼少時代に一度やって来て、その後再び訪れることのない周囲の自然との取引きの鮮烈な印象は、その多くが子供たちが自ら選んで支配下に置いた子供道の思い出につながっている。その後再び、そこにあったような夕映えの美しさも、薄暮の淋しさも、夜の怖ろしさも経験することはない。風の音までが子供道においては凛々(りんりん)と鳴っていたのである。

夕方、娘が自家へ帰ると言って書斎に顔出しにやって来た。そして昼間杏の木のところで口に出した子供道の話に一応締め(くく)りをつけておこうとでもいうつもりか、でもこの春から小学校に通い出したでしょう、こんどは集団登校ですから、もう子供道は通れませんと言った。孫娘のことであった。集団登校の一団の中に()め込まれている小さい姿が眼に浮かんで来た。その小さい体が全身で抗議しているように、私には見えた。

 その夜来客があった。画家であった。私はウイスキーを水で割ったグラスを口に運びながら、犬道と子供道の話を披露した。いかにして犬道を発見し、いかにして子供道なるものに思いを馳せるに到ったか、そういうことを酒席の話題にしたのである。そして一体、犬が犬道を、子供が子供道を選ぶということはそもそもいかなる意味を持つものであろうかと、客の意見を(ただ)してみた。客は煙草に火を点ずる短い時間だけを置いて、犬道も子供道も恐らく野性というものと無関係ではないであろうと言った。原始の紐を体に着けている幼少時代だけ、人間は犬と同じように子供道を持つに違いない。崖を()じたいし、原野の中に身を置きたい。人工の跡の少い山道や田圃道を歩きたいのである。が、長ずるに従って、原始の痕跡が心身から消えて行くと共に、そういうものに惹かれる気持もまた薄らいで行き、果ては全く失くなってしまうと言うのである。

 そうじゃないか。現在僕たちは自分の道を持っていない。それどころではない多忙な時間に取り巻かれているし、大体そういう欲求はその片鱗すら感じなくなっている。高級になってしまったんだな。(もっと)も、僕などは銀座へ出るとこの二、三年決まった同じ通りしか歩かなくなっているが、これは犬道や子供道の場合とは違う。はっきりと説明がつくよ。自分の場合は幾つかの特定の画廊と画廊とを結んでいる線の上を歩いているに過ぎないんだ。絵でも観るぐらいのことしかこの人生には欲望を感じなくなっているからね。まあ、名付ければ馴染(なじみ)道とでも言うべきものであろう。

 それから客は先輩の老画家が軽井沢で毎夏一日も欠かさず、毎日同じ道を散歩していささかも倦むことないという話をし、これなども子供道とは明らかに違うもので、馴染道に属するものだと言った。ぜんまい仕掛の人形のようにただ機械的に同じ道を歩いているに過ぎない。健康を保持するために、生きたい生きたいと拍子をつけて歩いているようなものである。もはやその老人の散歩道には落莫(らくばく)たる秋風も渡らないし、沛然(はいぜん)たる雷雨が叩くこともないと言うのである。

 私は二回窓のカーテンを開けて庭先に白い生きものの姿を探した。客に見せるためであったが、どこに潜んでいるのか、柴犬の姿も紀州犬の姿も見えなかった。

 客が帰ったあと、私は昼間そうしたように書斎の縁側の籐椅子に腰を降ろして、ひとりでウイスキーのグラスを口に当てた。私は軽井沢の夏の終りの()びれた別荘地区を眼に浮かべていた。犬と土地の子供たちと老人の姿がいやに眼について来る時季であった。私は客が話した老画家には面識はなかったが、やはりその老画家と同じように毎日散歩をする老学者を知っていた。客の言い方に従えば、健康を保持したいだけのために、生きたい生きたいと拍子をつけて歩いている人種の一人と言うことになる。

 私はその頃の軽井沢の風物が好きで、日に何回か仕事場を出て家の周囲をうろつく。私は馴染道というものは持っていず、その時の気分次第で足の向いた方に歩いて行く。日一日戸締まりした家は多くなって行き、住居人の居なくなった家の庭には小さい雑草の花が目についてくる。私は犬に会ったり、子供たちに会ったり、その老学者に会ったりする。犬に会うのは私が犬道に立った時であり、子供たちに会うのは子供道に立った時であろう。そして老学者に会うのは老学者の道に立った時ということになる。私は軽井沢の自家の周辺を三種三様の道が大きく、小さく、それぞれに曲線を描いて走っているのを眼に浮かべる。犬道と子供道は、客の意見に依れば犬や子供たちが本能的に選んだ道であり、老人の道はそうしたこととは無関係に老人が自分のものとした散歩道であり、馴染道である。

 私は老学者に会うと短い挨拶を交す。時にそうした二人の間を犬が駈け抜けて行くことがある。老学者の道と犬道とがそこで交叉していたのである。それからまた子供たちが、時にひょっこりと横道から出て来て、私と別れて向うへ歩いて行く老人の前を横切って行くのを見ることがある。その場合はそこで子供道が老人の道と交叉していたのである。

 私はこの夜、夏が終ろうとする軽井沢の自家の周辺をこれまでとは全く異ったものとして眼に浮かべていた。白樺の林と落葉松(からまつ)の木立の間を犬が歩いていたり、子供たちが歩いていたり、老学者が歩いていたりする。野性的な生き生きしたものと、人生の果てに置かれた惰性的で無気力ではあるが、やはり静穏と言っていいものが、抽象絵画の曲線のように入り混じったり、平行したり、交叉したり、反転したりして、風景の中を走っている。その一枚の絵にはもはや不思議に季節の感覚というものはなかった。

  三

 父親の十三回忌で郷里の伊豆へ帰った。私の幼少時代は文字通りの山村であったが、今は附近の集落といっしょになって町制を敷いている。しかし、山村の時代に較べてさしたる変りはない。表通りに沿ってひとかわ並びに店舗らしいものが並んでいる一地区を外れると、あとは田野が拡っており、その田野の周囲を山が取り巻いている。父親の忌日には親戚の者や、生前の父と親しかった町の人たち、併せて三十人ほどが集った。その宴席で、これも故人になっている叔父の話が出た。父親は亡くなって十三年経っているが、叔父の方はまだ二年ほどにしかなっていず、父親の法事の席ではあったが、父親の話はあまり出ないで、叔父の話の方が多く一座の人たちの口に上った。

 叔父は私の母親のすぐ下の弟である。叔父は二十一歳の時アメリカに渡り、晩年アメリカ人としての籍を持ったまま郷里に帰った。帰国して小さい洋館を建てたが、それができ上がると間もなく八十一歳で亡くなった。全く郷里で息を引き取り、郷里の墓地に眠るために帰国したようなものである。あとには叔母が(のこ)っている。叔父夫婦は郷里ではアメリカさんという呼び方で呼ばれた。親戚の者たちも、町の人も、アメリカさん、アメリカさんと言った。アメリカで一生を過したばかりでなく、(れっき)としたアメリカ人でもあったから、呼ぶ方にしてみると、アメリカさんという呼び方が便利でもあり、自然でもあった。

 亡くなったのは五月の初めであったが、その前年の夏から秋にかけて、叔父は山際のN部落に通じている道を毎日のように散歩した。私たちの足では三十分足らずで往復できる距離であったが、叔父はそれに三倍の一時間半を費した。私も叔父がその散歩を日課にしていることは誰からともなく聞き知っていたが、酒宴の席で(にぎ)やかに話題として取り上げられたのは、そのアメリカさんの散歩についての話である。

 叔父は毎日のように背広を着、ネクタイをしめ、叔母が磨いてくれた靴を履いて家を出、家の横手を通っているN部落へ通じている道を歩き出す。別に町を下田街道というのが貫いていて、この方はバスやトラックの往来が烈しいが、N部落への道は時たま山からの小型トラックが通るぐらいのことで、老人の散歩道としては恰好なものと言える。道は少しずつ登りになっているが、N部落の入口まではまあまあ平坦と言っていいようなものである。家から叔父の足で五分ぐらいのところに小学校があり、その附近までは家が並んでいるが、そこを過ぎると殆ど人家はない。道の両側は田圃になっているが、片側は何枚かの田圃が階段状にN川の流れている渓谷へと落ち込んでおり、片側は一間ほどの土堤の上に田圃が平坦に拡っていて、その上に立つと小さい丘を背にした神社や寺がその拡りの左手の方に見えている。

 叔父はこうした道をゆっくりとN部落の入口まで行って、そこから引き返す。田舎のことなので親戚も二、三軒あるのであるが、決してその集落へははいって行かない。そこを引き返して来ると、小さい土橋を渡ったところがら神社へ通じている野良道にはいる。そして神社の近くまで行くが、この場合もそこから引き返す。決して神社の境内にははいって行かない。再びもとの道にはいって、そこを小学校の近くまで戻る。ここまで来ると自家はすぐそこであるが、叔父の足は家の方へは向かわないで、小学校の手前の崖縁の小道にはいって営林署の職員宿舎が二、三軒並んでいる前を通り、私の家の屋敷の外側を半周するようにして、その上で自家へと帰って行く。

 宴席で、最初に話題になったのは、叔父がどうしてそのような道を毎日の散歩道として選んだかということであった。まだほかに幾らでも散歩道はある。富士の見える道もあれば、周囲の眺めの美しい道もある。それなのになぜあのような、ろくに眺望も利かない、なんの面白みもない道が選ばれたのであるか。それからまた服装と歩き方が話題になった。散歩するのにあんな他家を訪問するような恰好はしなくていいだろう。何のためにネクタイなどしめていたのか。靴もその度に光らせていたが、雨上がりの日など一度で泥まみれになってしまうではないか。それにしても、どうしてあんなに大きく手を振って歩いたのか不思議である。運動のために歩調をとって歩くにしても、あれでは若い者でも疲れてしまう。あの大仰な歩き方が、それでなくてさえ高齢で弱っていたアメリカさんの死期を早めたのではないか。またこんなことを言う者もあった。毎朝家をきっかり十時半に出る。そして帰って来るのは決まって十二時で、めったに五分とは狂わない。日本人ではあのようには行かない、えらいものだと言うのである。

 その他にまだいろいろなことが言われた。叔父が雨上がりの日、野良道で靴をすべらして転んで難渋しているのを見たと言う者もあったし、道に沿って桜地蔵と呼ばれている地蔵さんの(ほこら)があるが、その祠の背後に回って、大きな蟇蛙(ひきがえる)をもの珍しそうに見入っている叔父の姿を見掛けたと言う者もあった。いずれも、アメリカさんという郷里出身の、いまは他国人になっている老人のすること()すことへの関心と疑問が含まれていた。

 叔父の日常を比較的多く見知っている私の妹が、──妹と言っても既に何人もの孫を持っている年齢であるが、叔父は子供時代の思い出が一番多く残っている道を散歩道に選んでいたのではないかと自分は思っていると、(あたか)もそれが結論ででもあるかのような言い方をした。叔父の子供の頃には小学校はまだ今の場所には移っていず、小学校の敷地あたりからN部落へ行く道に沿った地域一帯が、子供たちの遊び場所になっていた。従ってあのN道に沿った地域には叔父の幼少時代の思い出がいっぱい詰まっているので、叔父はどうせ毎日散歩するならあの道を歩こうと思ったのであろう。すると親戚の一人で、叔父にとっては二従弟(ふたいとこ)に当る老人が、自分は少し違った見方をしていると言った。アメリカさんはどうも町の誰にもなるべくは顔を合せないですむ道を選んでいたのではないかという気がする。N部落の入口まで行くが、決して部落の中にはいらないのは人に会うのが厭なのであり、神社の近くまでは行くが、決して鳥居をくぐらないのは、その境内に幼稚園があって、人と顔を合せなければならないからであろう。営林署の職員宿舎の前は通るが、あそこに居るのはこの土地の人ではないからな、と老人は言った。

 私は、妹の見方にも、老人の見方にも、なるほどなと思うものは感じたが、そのいずれにも全面的に賛意を表する気にはなれなかった。私にはやはり叔父の散歩道は、叔父が帰国すると同時に目立って来た己が肉体の衰えを、何とかして取り返そうとして選んだ道であり、それ以外のいかなる意味もないであろうと思われた。軽井沢の老画家や老学者の散歩道と同じものであり、叔父にとってはいつか馴染みになってしまった道であったに違いないのである。叔父はアメリカ時代の習慣で、きちんと背広を着、ネクタイを結び、光った靴を履いて散歩に出たのである。きっかり一時間半の散歩をするために、叔父は散歩の途中何回か腕時計に眼を当て、歩度を早めたり、遅くしたりしたことであろう。大体、叔父がこの道を散歩道に選んだということは、最初時計を持って時間を計りながら歩いた道がたまたまこの道であったということに()るものではないか。折角時計で計って歩いてみた道を、他の道に変えなければならぬ理由というものは、叔父にはどこにも発見できなかったのである。N部落にはいらなかったのは、そこから急坂になっているからであり、神社にはいらなかったのは、鳥居の前の何段かの石段を登ることを避けたためであったろうと思われる。私はこうした自分の考えをよほど一座に披露しようかと思ったが、すんでのところで思い留まった。味もそっけもない見方であったし、一座の、やはり同郷人の暖かさがどこかに感じられるアメリカさん観に(いたず)らに水をさすようなものであったからである。

 翌日の午後、私は東京からいっしょに来ている末の娘と、前夜問題になった叔父の散歩道を歩いた。娘はその道で、東京へ持って行くために初夏の雑草を探した。花を着けているものもあり、着けていないものもあった。花はいずれも米粒のような小さいもので、赤いのもあれば白いものもあり、それぞれ趣向を凝らした咲き方をしていた。娘は、こんなにたくさんの種類の雑草があるところは伊豆でも少いのではないかと言った。

 その日夕食の時、私がアメリカさんの道を歩いたことを話題にのせると、八十六歳になる母親は言った。あんな道は歩かない方がいい。いけない道だよ。その言葉でみんな母親の顔を見た。母親は続けて、その道がいかにいけないかを説明した。自分の幼い時のことではあるが、あの道で二人も神かくしに()っている。一人は若者で、半年後に痴呆になって帰って来、一人は子供で数日後天城の山の中で発見された。いけない道である。あんな道を毎日歩いていたから、アメリカさんも折角日本に帰って来たというのに、ろくに親戚回りをする暇もなく慌しく亡くなってしまった。母親は耄碌(もうろく)していて、話すことによっては取りとめなかったが、幼少時代のことになると正確で、話の内容も話し方も、別人のようにちゃんとしていた。

 母の口から "いけない道" という言葉が出た時、私ははっとした。母の言葉が生き生きとして心に飛び込んで来たからである。アメリカさんの散歩道も、そこを歩くアメリカさんも、私には今までとは異って生彩を帯びたものに見えた。母親の言うところに従えば、叔父は(かつ)て二人の人間が神かくしになった"いけない道"を歩いていたのである。そこを毎日の散歩道に選んでいたのである。

 今日、"いけない道" も "いけなくない道" もなくなっている。が、明治時代までは "いけない道" というものがあったかも知れない。人間がふいに気が触れて山に向って歩き出すような、そんな狂気を誘発しやすいような何らかの条件を持った道というものがあったかも知れない。

今日、そうした道があろうとなかろうと、私には昼間歩いたアメリカさんの散歩道が、何の特色もない平凡な道でありながら、妙に魂胆でも匿し持っている一筋縄では行かない道に見えて来た。そしてその道の上に置いてみると、私には叔父という人間もまた全く異った老人として眼に映って来た。孤独で、狷介(けんかい)で、気難しい老人なのだ。叔父は失敗者とは言えないにしても、決して成功者とは言えなかった。子供も持っていなかったし、異国で半生をかけて造り上げた資産も戦争で失っていた。そして八十歳近くなってから故国へ引揚げて来たのである。帰国後二年で亡くなったが、その間、叔父がいかなる心境にあったか誰も知っていない。私も身近い関係にありながら、知っていると言えるような知り方はしていないのである。もちろん母の言った "いけない道" というものはたまたま叔父が自分の散歩道として選んだだけのことであって、叔父とその "いけない道" との間になんの関係もあろう筈はなかった。しかし、その "いけない道" というものの一点に叔父を置いてみると、叔父の姿はある烈しさを持ってくる。叔父は本当は山にでも向って歩き出して行きたかったのではないかという気がしてくる。日本を棄ててアメリカに行き、アメリカを棄てて日本に来たのであるから、もうこの次は実際に山へでもはいってしまう以外、どこにも行き場所はなかったのである。

母親が言ったように、叔父は "いけない道" を散歩道として選んで、そこを毎日歩いていたのである。母親のそうした指摘には、自分より早く他界した弟に対する無意識な(いたわ)りがあるかも知れなかった。私には軽井沢の老学者の歩く道よりも、そして恐らく私の知らない老画家の歩く道よりも、叔父の散歩道は烈しいものに思われた。(むし)ろそれは、どこかに子供道や犬道に通ずるものがあるように思える。どこかにやはり野性の臭いがする。

 

 

井上靖文学館(日本ペンクラブ第9代会長)

 

 

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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井上 靖

イノウエ ヤスシ
いのうえ やすし 小説家・詩人 1907・5・6~1991・1・29 北海道石狩国(現・旭川市)に生まれ、静岡県田方郡に育つ。日本ペンクラブ第9代会長。文化勲章 藝術院会員

掲載作「道」は1971(昭和46)年6月「新潮」初出、後に『桃李記』に収められる。

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