道
一
山に
植込みと言っても、塀に沿って三かわ並べぐらいに雑木を配しただけの繁みであるが、家を構えてから十五年ほどになるので、雑木の何本かは、道路を隔てて建てられてある或る公共団体の二階建ての職員宿舎の
もともと広い敷地ではないが、長方形のいやにひょろ長い地面で、鰻の寝床に家を建てたようなところがあって、それを塀で囲んである。従って塀の一方はいやに長く、一方はいやに短いということになる。甚だ感心しない形の屋敷ではあるが、ただ一つ取得と言えば、犬を放し飼いにしておくにいいことである。前庭から裏庭へと塀に沿って駈け抜けて行き、庭の隅の欅の木をひと回りして帰って来ると──勿論時間にするとあっという間のことではあるが、日に何回も繰り返していると、二匹とも、まあ運動不足になることはないだろう。
息子から犬の道の話を聞いてから、私は犬が塀際の植込みの中を歩いて行くのを眼にすると、それとなくその歩いて行く道筋に注意するようになった。縁側の籐椅子に腰掛けている時のこともあるし、庭の芝生に降り立っている時のこともある。とにかく塀際の植込みの中を犬が移動して行くのを見ると、そこへ近寄って行ってみたり、反対に遠くに行って灌木の茂みを透かしてみたりする。何回もそんなことを繰返しているうちに、なるほど息子の言う通りだなと思った。確かに犬には犬の道があるようであった。木蓮の木にぶつかると、紀州犬も柴犬も右には回らないで左に回った。右に回った方が空地が広くてらくそうに思えるのであるが、犬たちはそうしなかった。わざわざ左に回って躑躅の株との間の体一つが漸く通れるような狭いところを通路にしている。そういうところは他にまだ何カ所かあった。灌木の茂みの中に小鳥のための水飲み場が作ってあったが、どういうものか、そこは避けて塀際へと
山に獣道があるという言い方を
こうしたことを食卓の話題にのせると、犬の面倒を一番よくみてやっている娘は、それは食物を匿している場所の関係からではないだろうかと言った。それぞれが自分の食物の隠匿場所を持っていて、お互いが相手の隠匿場所には近寄らない協定でもできているのではないかと言うのである。犬たちは時々与えられた食物を食べないで、どこかへ持ち去ってしまうことがあるが、暫くして帰って来ると、いつも鼻の頭を土で黒くしている。土の中に埋めてしまうのである。お互いがお互いの地中の隠匿場所を相手に知られないようにし、またお互いに相手のその場所に近寄らないでおこうといった協定が本能的に成立しているのかも知れない。そう言えば紀州犬は物置小屋の
柴犬も紀州犬も共に雌で、毛なみは白い。柴犬は生れたばかりのを家に連れて来てから十二、三年になる。老犬である。紀州犬の方はまだ満三年で、目下のところ若々しいエネルギーに満ち溢れている。喧嘩すると、柴は紀州の敵ではなく、ひとたまりもなくやられてしまうが、しかし、平時は柴の方が権力を持っていて、紀州の方は何かにつけて遠慮している恰好である。あとから家に引き取られて来た肩身の狭さがあるのであろう。
柴犬は家の者には誰彼の区別がなく愛想がいいが、紀州犬の方は飼われて三年になるというのに、いまだに誰にも
私がそうした紀州犬について話すと、息子は紀州のそういう面の面白さでは深夜のそれが最たるものであると言う。深夜、紀州は昼間どこかへ埋めておいた食物を咥えて、茂みの中の通路を伝って居間の前の芝生へとやって来る。どこで食べてもよさそうに思われるが、どうも毎日食器の置かれる芝生の一画を正式の物を食べる場所と思い込んでいるようなところがある。食物を口に咥えて芝生に姿を現わした紀州犬は、昼間とは打って変った落着いた態度で、食物をそこに投げ出し、少しもがつがつしたところは見せないで、悠々とあたりを眺めやったりした上で、さてそれではといった風に口を持参の食物の方に持って行く。月でも出ていようものなら、いかにも月でも観賞しながら食事をとっているといった恰好であると言う。
この話を聞いている時、私には自分の知っている二匹の犬の専用通路が全く異ったものとして眼に浮かんできた。食物を口に咥えた一匹の生きものを一点に配し、全体を夜の闇で包んでみると、それはもはやわが家の庭の貧しい犬道ではなかった。
二
先年嫁いで二児の母親になっている上の娘が家に来た時、私は二匹の犬の専用通路のことを話題に取り上げた。そして娘を庭の隅の杏の木の根もとのところまで同行させ、塀に沿った雑木の茂みの中を犬道がどのように走っているかを説明した。娘は生れ付きこうしたことには関心を持たない性格で、半ば迷惑そうに庭の隅までついて来ていたが、ほんとに犬の道があるわね、でもここはこう通るんでしょう、ほら、ここが道になっていますと、身を屈めて地面を覗き込みながら、私の説明を多少訂正するような発言をした。娘が指し示すところを見ると、山桜の白い花弁が一面に散り敷いている地面に、なるほど犬の足跡と覚しきものがたくさん
娘は言う。幼稚園の送り迎えをしていると、子供たちには子供たちの道があるということが判る。子供たちはいつもそこを通りたがる。どうしてこんなところを知っているのかと思うような裏通りの道で、時にはひとの屋敷ではないかと思うようなところをも小さい靴で踏んで行く。送り迎えは母親たちが交替でやるので誰かがそんな道を連れて通ったことがあるのであろうが、とにかく子供たちはそこを通りたがる。別段面白い道でも楽しい道でもなさそうだが、子供たちの足はその方へ
娘一家は二年ほど前に神奈川県の田舎に建てられた会社の社宅にはいっており、同じ会社の従業員の家族が何十組か三棟のアパートに配されている。もはや東京の子供たちには登校する道の選択などということは考えられないが、田舎に住んでいるお蔭で、孫娘の幼稚園の行き帰りにはまだそのような余裕が残されているのである。
娘に言われて、確かに子供には子供道があると、私は思った。犬道に気をとられて、子供道に思いを致さなかったのは、われながら不覚に思われた。私は書斎に引き返すと、縁側の籐椅子に
鮮やかな印象でそうした子供道の一つが思い出される。夏休みになると、子供たちは毎日のように
夏の思い出ばかりでなく、幼少時代に一度やって来て、その後再び訪れることのない周囲の自然との取引きの鮮烈な印象は、その多くが子供たちが自ら選んで支配下に置いた子供道の思い出につながっている。その後再び、そこにあったような夕映えの美しさも、薄暮の淋しさも、夜の怖ろしさも経験することはない。風の音までが子供道においては
夕方、娘が自家へ帰ると言って書斎に顔出しにやって来た。そして昼間杏の木のところで口に出した子供道の話に一応締め
その夜来客があった。画家であった。私はウイスキーを水で割ったグラスを口に運びながら、犬道と子供道の話を披露した。いかにして犬道を発見し、いかにして子供道なるものに思いを馳せるに到ったか、そういうことを酒席の話題にしたのである。そして一体、犬が犬道を、子供が子供道を選ぶということはそもそもいかなる意味を持つものであろうかと、客の意見を
そうじゃないか。現在僕たちは自分の道を持っていない。それどころではない多忙な時間に取り巻かれているし、大体そういう欲求はその片鱗すら感じなくなっている。高級になってしまったんだな。
それから客は先輩の老画家が軽井沢で毎夏一日も欠かさず、毎日同じ道を散歩していささかも倦むことないという話をし、これなども子供道とは明らかに違うもので、馴染道に属するものだと言った。ぜんまい仕掛の人形のようにただ機械的に同じ道を歩いているに過ぎない。健康を保持するために、生きたい生きたいと拍子をつけて歩いているようなものである。もはやその老人の散歩道には
私は二回窓のカーテンを開けて庭先に白い生きものの姿を探した。客に見せるためであったが、どこに潜んでいるのか、柴犬の姿も紀州犬の姿も見えなかった。
客が帰ったあと、私は昼間そうしたように書斎の縁側の籐椅子に腰を降ろして、ひとりでウイスキーのグラスを口に当てた。私は軽井沢の夏の終りの
私はその頃の軽井沢の風物が好きで、日に何回か仕事場を出て家の周囲をうろつく。私は馴染道というものは持っていず、その時の気分次第で足の向いた方に歩いて行く。日一日戸締まりした家は多くなって行き、住居人の居なくなった家の庭には小さい雑草の花が目についてくる。私は犬に会ったり、子供たちに会ったり、その老学者に会ったりする。犬に会うのは私が犬道に立った時であり、子供たちに会うのは子供道に立った時であろう。そして老学者に会うのは老学者の道に立った時ということになる。私は軽井沢の自家の周辺を三種三様の道が大きく、小さく、それぞれに曲線を描いて走っているのを眼に浮かべる。犬道と子供道は、客の意見に依れば犬や子供たちが本能的に選んだ道であり、老人の道はそうしたこととは無関係に老人が自分のものとした散歩道であり、馴染道である。
私は老学者に会うと短い挨拶を交す。時にそうした二人の間を犬が駈け抜けて行くことがある。老学者の道と犬道とがそこで交叉していたのである。それからまた子供たちが、時にひょっこりと横道から出て来て、私と別れて向うへ歩いて行く老人の前を横切って行くのを見ることがある。その場合はそこで子供道が老人の道と交叉していたのである。
私はこの夜、夏が終ろうとする軽井沢の自家の周辺をこれまでとは全く異ったものとして眼に浮かべていた。白樺の林と
三
父親の十三回忌で郷里の伊豆へ帰った。私の幼少時代は文字通りの山村であったが、今は附近の集落といっしょになって町制を敷いている。しかし、山村の時代に較べてさしたる変りはない。表通りに沿ってひとかわ並びに店舗らしいものが並んでいる一地区を外れると、あとは田野が拡っており、その田野の周囲を山が取り巻いている。父親の忌日には親戚の者や、生前の父と親しかった町の人たち、併せて三十人ほどが集った。その宴席で、これも故人になっている叔父の話が出た。父親は亡くなって十三年経っているが、叔父の方はまだ二年ほどにしかなっていず、父親の法事の席ではあったが、父親の話はあまり出ないで、叔父の話の方が多く一座の人たちの口に上った。
叔父は私の母親のすぐ下の弟である。叔父は二十一歳の時アメリカに渡り、晩年アメリカ人としての籍を持ったまま郷里に帰った。帰国して小さい洋館を建てたが、それができ上がると間もなく八十一歳で亡くなった。全く郷里で息を引き取り、郷里の墓地に眠るために帰国したようなものである。あとには叔母が
亡くなったのは五月の初めであったが、その前年の夏から秋にかけて、叔父は山際のN部落に通じている道を毎日のように散歩した。私たちの足では三十分足らずで往復できる距離であったが、叔父はそれに三倍の一時間半を費した。私も叔父がその散歩を日課にしていることは誰からともなく聞き知っていたが、酒宴の席で
叔父は毎日のように背広を着、ネクタイをしめ、叔母が磨いてくれた靴を履いて家を出、家の横手を通っているN部落へ通じている道を歩き出す。別に町を下田街道というのが貫いていて、この方はバスやトラックの往来が烈しいが、N部落への道は時たま山からの小型トラックが通るぐらいのことで、老人の散歩道としては恰好なものと言える。道は少しずつ登りになっているが、N部落の入口まではまあまあ平坦と言っていいようなものである。家から叔父の足で五分ぐらいのところに小学校があり、その附近までは家が並んでいるが、そこを過ぎると殆ど人家はない。道の両側は田圃になっているが、片側は何枚かの田圃が階段状にN川の流れている渓谷へと落ち込んでおり、片側は一間ほどの土堤の上に田圃が平坦に拡っていて、その上に立つと小さい丘を背にした神社や寺がその拡りの左手の方に見えている。
叔父はこうした道をゆっくりとN部落の入口まで行って、そこから引き返す。田舎のことなので親戚も二、三軒あるのであるが、決してその集落へははいって行かない。そこを引き返して来ると、小さい土橋を渡ったところがら神社へ通じている野良道にはいる。そして神社の近くまで行くが、この場合もそこから引き返す。決して神社の境内にははいって行かない。再びもとの道にはいって、そこを小学校の近くまで戻る。ここまで来ると自家はすぐそこであるが、叔父の足は家の方へは向かわないで、小学校の手前の崖縁の小道にはいって営林署の職員宿舎が二、三軒並んでいる前を通り、私の家の屋敷の外側を半周するようにして、その上で自家へと帰って行く。
宴席で、最初に話題になったのは、叔父がどうしてそのような道を毎日の散歩道として選んだかということであった。まだほかに幾らでも散歩道はある。富士の見える道もあれば、周囲の眺めの美しい道もある。それなのになぜあのような、ろくに眺望も利かない、なんの面白みもない道が選ばれたのであるか。それからまた服装と歩き方が話題になった。散歩するのにあんな他家を訪問するような恰好はしなくていいだろう。何のためにネクタイなどしめていたのか。靴もその度に光らせていたが、雨上がりの日など一度で泥まみれになってしまうではないか。それにしても、どうしてあんなに大きく手を振って歩いたのか不思議である。運動のために歩調をとって歩くにしても、あれでは若い者でも疲れてしまう。あの大仰な歩き方が、それでなくてさえ高齢で弱っていたアメリカさんの死期を早めたのではないか。またこんなことを言う者もあった。毎朝家をきっかり十時半に出る。そして帰って来るのは決まって十二時で、めったに五分とは狂わない。日本人ではあのようには行かない、えらいものだと言うのである。
その他にまだいろいろなことが言われた。叔父が雨上がりの日、野良道で靴をすべらして転んで難渋しているのを見たと言う者もあったし、道に沿って桜地蔵と呼ばれている地蔵さんの
叔父の日常を比較的多く見知っている私の妹が、──妹と言っても既に何人もの孫を持っている年齢であるが、叔父は子供時代の思い出が一番多く残っている道を散歩道に選んでいたのではないかと自分は思っていると、
私は、妹の見方にも、老人の見方にも、なるほどなと思うものは感じたが、そのいずれにも全面的に賛意を表する気にはなれなかった。私にはやはり叔父の散歩道は、叔父が帰国すると同時に目立って来た己が肉体の衰えを、何とかして取り返そうとして選んだ道であり、それ以外のいかなる意味もないであろうと思われた。軽井沢の老画家や老学者の散歩道と同じものであり、叔父にとってはいつか馴染みになってしまった道であったに違いないのである。叔父はアメリカ時代の習慣で、きちんと背広を着、ネクタイを結び、光った靴を履いて散歩に出たのである。きっかり一時間半の散歩をするために、叔父は散歩の途中何回か腕時計に眼を当て、歩度を早めたり、遅くしたりしたことであろう。大体、叔父がこの道を散歩道に選んだということは、最初時計を持って時間を計りながら歩いた道がたまたまこの道であったということに
翌日の午後、私は東京からいっしょに来ている末の娘と、前夜問題になった叔父の散歩道を歩いた。娘はその道で、東京へ持って行くために初夏の雑草を探した。花を着けているものもあり、着けていないものもあった。花はいずれも米粒のような小さいもので、赤いのもあれば白いものもあり、それぞれ趣向を凝らした咲き方をしていた。娘は、こんなにたくさんの種類の雑草があるところは伊豆でも少いのではないかと言った。
その日夕食の時、私がアメリカさんの道を歩いたことを話題にのせると、八十六歳になる母親は言った。あんな道は歩かない方がいい。いけない道だよ。その言葉でみんな母親の顔を見た。母親は続けて、その道がいかにいけないかを説明した。自分の幼い時のことではあるが、あの道で二人も神かくしに
母の口から "いけない道" という言葉が出た時、私ははっとした。母の言葉が生き生きとして心に飛び込んで来たからである。アメリカさんの散歩道も、そこを歩くアメリカさんも、私には今までとは異って生彩を帯びたものに見えた。母親の言うところに従えば、叔父は
今日、"いけない道" も "いけなくない道" もなくなっている。が、明治時代までは "いけない道" というものがあったかも知れない。人間がふいに気が触れて山に向って歩き出すような、そんな狂気を誘発しやすいような何らかの条件を持った道というものがあったかも知れない。
今日、そうした道があろうとなかろうと、私には昼間歩いたアメリカさんの散歩道が、何の特色もない平凡な道でありながら、妙に魂胆でも匿し持っている一筋縄では行かない道に見えて来た。そしてその道の上に置いてみると、私には叔父という人間もまた全く異った老人として眼に映って来た。孤独で、
母親が言ったように、叔父は "いけない道" を散歩道として選んで、そこを毎日歩いていたのである。母親のそうした指摘には、自分より早く他界した弟に対する無意識な
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2001/11/26
背景色の色
フォントの変更
- 目に優しいモード
- 標準モード