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神話の空間

<目次>

第一章 出雲神話

 ・国引神話 ・八俣の大蛇神話 ・国譲神話 ・荒神谷遺跡と神話

第二章 たたらとヒッタイト

 ・ヒッタイト文明 ・聖書とヒッタイト ・消えたヒッタイト ・流浪のたたら

第三章 ラフカディオ・ハーン

 ・小泉節子 ・『雪女』とペルシア神秘性 ・神秘文学の系譜とハーン ・文学空間と建築空間

第四章 神話の空間

 ・神話に於ける喩の構造 ・出雲美術のペルシア性 ・空間化する喩 ・ペルシア神秘主義と出雲神話

 第一章 出雲神話

・国引神話

 

「出雲の國は、狹布(さの)稚國(わかくに)なるかも。初國(はつくに)()さく作らせり。(かれ)、作り縫はな」と()りたまひて、「栲衾(たくぶすま)志羅紀(しらぎ)三埼(みさき)を、國の(あまり)ありやと見れば、國の(あまり)あり」と()りたまひて、童女(をとめ)胸鋤(むなすき)取らして、大魚(おふを)のきだ()()けて、はたすすき()振り()けて、三身(みつみ)の綱うち()けて、霜黒葛(しもつづら)くるやくるやに、河船(かはふね)のもそろもそろに、(くに)()(くに)()と引き()縫へる國は、去豆(こづ)折絶(をりたえ)より、八穂爾支豆支(やほにきづき)御埼(みさき)なり。()くて、堅め立てし加志(かし)は、石見(いはみ)の國と出雲の國との(さかひ)なる、名は佐比賣(さひめ)山、(これ)なり。(また)、持ち引ける綱は(その)の長濱、是なり。(日本古典文学全集、『出雲国風土記』参照)

 

「出雲の国は出来だての国である。それ故作り縫わなければ」と言って「新羅の岬を国が余っていないかと見ると余っている」と言い、鋤を取り、大魚に鋒を突き刺す様に、鋤を大地に突き刺し、はたはたと風に靡くすすきの穂先を振り分ける様に土地を鋤で切り離し、三本より合せの太綱を土地にかけて、たぐり寄せ、そろりそろりと国よ来い国よ来いとかけごえかけて引き縫い合せた国は(平田市)小津の湾入した最深部の(大社町)日ノ御碕である。そして堅くしっかり立てた綱繋ぎの杭は石見と出雲の国境の佐比賣山(三瓶山)である。土地を引いた綱は薗の長濱(神門郡北部海岸丘陵地)である。およそ以上の様な意味となる。次に「北門(きたど)佐伎(さき)の國」を引いたのが、狹田(さだ)の國(鹿島町佐陀本郷)で「北門の農波(ぬなみ)の國」を引いたのが「闇見(くらみ)の國」(松江市本庄町新庄のクラミ谷)であり、「高志(こし)都都(つつ)の三埼」を引いたのが「三穗の埼」(島根半島の美保関町)であると言う。また「持ち引ける綱は、夜見(よみ)の嶋(鳥取縣伯耆の弓ヶ浜)なり。堅め立てし加志(かし)は、伯耆(ははき)の國なる火神岳(ほかみだけ)(大山)、是なり。」となっている。

 

「今は、國は引き()へつ」と詔りたまひて意宇の社に御杖衝き立てて、「おゑ」と詔りたまひき。(かれ)意宇(おう)といふ。(日本古典文学全集、『出雲国風土記』参照)

 

 「今国は引き終った、と言い意宇の社に杖を突き立て神社の鎭座地を標示し「おゑ(よし)」と言った。それ故に意宇なのである」と言うことであり国引神話はこれで終る。

 島根半島を国引きによって作り出雲の国を大きくしたのであるがスケールの大きい空間神話ではある。国引きを実行したのは勿論神であり人間ではない。朝鮮半島の西南新羅や高志の都々即ち能登半島の珠洲(すず)辺りから引いて来たと言うのはいいにしても「北門」はどうもシベリアの日本海岸、沿海州を指すらしいから古代出雲の人々の空間スケールは雄大であったと言える。但し通説では「北門の佐伎」は大社町鷺浦を、「北門の農波」は松江市の東北端湾入部を指しているが、これは極めて怪しい。島根半島を作るのに何故現在その一部となっている土地を指すのか、これでは島根半島を作るのに島根半島の一部を引いて来たことになるからあり得ない。「北門」を沿海州であると喝破しているのは古代史家古田武彦である。古田の諸説は独創性に富む余りその世界では異端扱いされている様であるがこの神話の空間スケールの大きさからすれば充分頷ける。直接講演会で聞いた彼の説の詳細は残念ながら失念してしまったが近年沿海州から日本の縄文時代の遺物とまるでそっくりなものが出土し、又青森県の縄文遺跡からは日本海側の北陸や山陰産の黒曜石も発掘されているとのことであった。縄文時代日本と沿海州との相当密接な交通があったことは最近明らかになっているから古田説もその一端であろう。国引きをしたのは神でありこの当時神は想像を絶する巨人としてイメージされていたのであろう。たとえ大魚と言えどもそれを捕獲する様に大地を捕獲し引いて来るこの空間イメージは地球を遥か高所から眺める視点を想定しない限り抱き得ない。

 出雲地方は海岸に丘陵部が迫り平地がそれ程広くもないむしろ狭隘な土地である。但し丘陵自体の高さはせいぜい100メートル内外であり襞が深いわけではないがこの土地に住みなれた人々が遥かなる高度から地球を見降す視点を有していたのであるから不思議としか言えない。現代の様に空高く飛べたわけでもないだろうからこの空間感覚は何に由来しているのか。沿海州や朝鮮半島から国引きしてきたのであるからこの神話を伝えた人々は環日本海のスケールで動いていたと考えていいのではないか。これらの人々は大海原を航行し、あの津、この津へと寄り上陸し各地を巡っている間にそこの山岳、峡谷、平原と言った空間的特徴を一気に把握する能力を身につけたに違いない。勿論そこに居住する人々の習俗に対しても同様であろう。場所と人とを結びつけた空間のイメージは確固たる像としてその人の記憶に焼付くに違いない。朝鮮半島から引いて来て出来上った日ノ御碕は島根半島の西北端でありここから実際に新羅に航行したであろうし、又ここに新羅人が居住もしていたのかもしれない。沿海州から引いて来たのは半島南部であり北陸から引いて来たのが美保関としている所を見ると沿海州は大陸の突端ではあっても古代出雲の人々には内陸のイメージが強く北陸や朝鮮半島の海辺は大地の突端と見えていたのかもしれない。

 この神話の空間イメージを鮮烈にしているのは大魚に見立た土地を逃がさないために繋ぎ止めている杭が大山であり三瓶山であるとしていることにある。大魚を大力で押え込んでいない限り逃げ出す危険性がありこれを取り押えるのが1000メートルを越す山陰の二大巨峰大山と三瓶山であると言うから素晴しい。山陰を旅するとこの二大巨峰が他の山々を圧して画然と起立している(さま)には筆舌には尽せない神々しさを感じる。しかも国を引いて来た綱が丘陵沿いの弓ヶ浜だったりするからゆるい曲線の海岸線と切り立つ巨峰との対比がここでも空間イメージの鮮烈さを際立たせている。

 

・八俣の大蛇神話

 八俣の大蛇神話は古事記や日本書紀に記されているが国引神話の方は『出雲風土記』にあって記紀にはない。逆に八俣の大蛇神話の方は大国主命の国護り神話同様『出雲風土記』では取り上げられていない。同じ出雲地方を舞台とする神話でも「国引き」と「八俣の大蛇」「国護り」は別系統の神話とされ、それが通説であった。しかし神話学者吉田敦彦によるとどうもそうではなさそうである。「国引き」と「八俣の大蛇」は同一の神話が二つに分化したものであると言う。この別系統と思われている神話の始源はメソポタミヤ周辺である。海に住むティアマトと彼女が生んだ七股や多頭の大蛇達の軍団にマルドウクが単身壮絶な戦いを挑むが、彼は巨大な網でティアマトを捕えその開いた口から烈風を送り込み、膨れた腹から矢を射込んで心臓を貫きこの恐しい女怪を絶命させる。同時に慌てて逃げようとした怪物達も網でみな捕える。そして彼はティアマトの頭を砕き死体を二つに切り裂き片方を天、もう片方を大地とした。彼女の頭部や乳房は山とされ、両眼からはティグリスとユーフラテスの両河が流れ出たとされた。「八俣の大蛇」も「その身に(こけ)また檜椙(ひすぎ)()ひ、その(たけ)(たに)八谷峡八尾に渡りて見ゆ」であったと言うからティアマト同様身体が大地の山河や谷として見られている。しかしこれだけでは「国引き」との親近性が明確ではない。メソポタミヤのマルドウク、ティアマトの神話に酷似するのが旧約聖書の『エゼキエル書』であるがそれではヤハウェがマルドウクに当り龍がティアマトに当る。水中から大魚をその眷族の無数の魚達とともに釣り上げる様にエジプトのファラオが龍の顎に鉤をかけて釣り上げ地面に投げ捨てそれを野獣や鳥達の餌食にしてしまう。吉田によれば龍自体が大地を覆う巨大さであるからそのまま大地と考えてよくそれも海から大魚を釣る様に釣り上げるのであるから「国引き」の「大魚の… 三身の綱打ち挂けて」云々を彷彿させる。

 更に吉田はマウイ神話にほぼ「国引き」同様のものがあると指摘する。主人公は兄達が漁に行くのに連れて行って欲しいと頼むが断られ、ひそかに舟に隠れて沖に出た時に姿を表わすが兄達に怒られ岸に連れ戻されかける。しかし釣針を持っていないからまあいいだろうとそのまま連れて行ってもらう。しかし彼は瀕死の祖母の下顎をねじり取って作った釣針を隠し持っていて、自分の鼻を思い切り殴りつけて出て来た鼻血を餌に海底から巨大な魚の形をした陸地を釣り上げた。彼は兄達にこの大魚を切りつけてはならないと固く注意して立ち去るが彼等はナイフで大魚を切り刻もうとしたため、魚は暴れ出し舟を壊し兄達はそれで海に溺れてみな死んでしまった。しかしこの時に兄達が切りつけた大魚の傷から山や谷が出来た。「国引き」神話とメソポタミヤ神話の中間である。中国にも亀が背中に島を背負っている神話があり亀が動くと島も動くのでその大亀を動かない様に圧える大力の神が禺彊でありこのメソポタミヤとマウイの神話を前提にすれば「国引き」のヤツカミヅオミツノ(国引きをする大力の神)と酷似している。但し大亀が大魚とされる神話も中国にはあり中国西南部の少数民族(イ族系)アシ族の神話や湖南省長沙市の馬王堆前漢墓出土の彩色帛画等からむしろ大魚の方が正形ではないかと吉田は推理する。スサノオが八頭八尾の八俣の大蛇を「切り(はふ)りたまへしかば、()の河血に()りて流れき」とある。八俣の大蛇が暴れ川である斐伊川であり八頭八尾は数多い支流と渓谷を指し血で赤くなったのは斐伊川上流のタタラの砂鉄流しによる赤い濁流ではないかとよく言われるが吉田の説く処からすれば必ずしもこの様に限定しなくてもいいであろう。

 神話を歴史の実話として理解するのには無理がありこれらの神話が発生、流布、伝播して来た経路、空間のスケールは想像を絶するであろう。北欧に巨龍を釣り上げたトールの神話がありマウイの「島釣り」によく似た構造をしている。大きく違う処はマウイの様な島釣りではなく広大な陸地である。但し「海底にいて陸地を一巻きにし自分の尾の先を口にくわえている、恐しい怪物の竜ヨルムンガント」(吉田敦彦・『日本神話の特色』青土社)を釣り上げるが逃げられてしまう。この神話では主人公トールが漁をともにすることを嫌がるヒュミルと無理矢理同行するが餌は自分で調達する。釣り上げた龍の糸を切って取り逃がしたのはヒュミルでありこの辺りは釣針と餌を自前で調達したマウイ神話の主人公と大魚を切り刻もうとする兄達との関係に酷似する。吉田は巨龍退治と国引きはメソポタミヤを中心とする中近東から北欧、中国の東海岸までユーラシア大陸の極めて広範囲に波及し果には日本や遠くポリネシアなどにも伝播したのであろうとする。誠以って雄大な空間スケールではある。メソポタミヤ神話がここまで雄大な空間スケールで出雲神話への波及、伝播が考えられるのであれば『謎の出雲帝国』(徳間書店)の著者吉田大洋の諸説も必ずしも荒唐無稽と一笑に付するわけにはいかなくなる。彼によれば八俣大蛇神話はメソポタミヤ以来のトーテム戦争なのである。記紀自体がシュメール語で解釈出来る個所が多く、確かに記紀の随所に日本語で意味不明の所がありかつて梅原猛はそれをアイヌ語で解いたが吉田はシュメール語で解く。そうして見ると出雲の古神社即ち神魂神社や熊野神社等の神主達として現在まで連綿と続いている「出雲神族」の伝承に殆ど重なる。彼によればスサノオは牛をトーテムとする部族であり出雲神族は龍蛇をトーテムとする。従って八俣の大蛇神話は牛族による出雲神族の征服物語でありそれは牛と龍蛇を神と崇める部族の宗教戦争であったことになる。又八俣の大蛇神話が出雲風土記に記述されなかったのは当然のことである。出雲神族が敗亡した記憶をどうして出雲神族が自分達の編集する本に載せるであろうか。

 

・国譲神話

 出雲はスサノオに征服されたのが八俣の大蛇神話であると出雲神族は伝えていると吉田大洋は言うがこの時には完全に征服されたわけではなかったのであろう。スサノオの数代後の子孫とされる大国主の時代に国護りが行われたとするから出雲神族が完全に自分達の国を失うのはスサノオよりは後の時代になる。天照大神に派遣され大国主に国譲りを迫る建御雷の迫力は凄まじい。

 

出雲の国の伊耶佐(いざさ)小浜(をはま)に降り到りて、十掬(とつか)の剣を抜きて浪の穂に逆に刺し立てて、その剣の(さき)(あぐ)()て、大国主の神に問ひたまへしく… (『新訂古事記』角川文庫参照)

 

 「問ひたまへしく」ではあっても実は国をよこせの命令的脅迫である。この神話を歴史事実として理解することも当然可能ではあろうがそれよりも剣を波頭に逆立ちさせきっさきにあぐらをかいて坐る鮮烈なイメージ、このイメージを生み出した出雲の浜辺の空間様相の方に関心をむけたい。しかしその前にこの部分の吉田大洋のシュメール語訳解釈を見よう。

 

出雲の地へ赴き、泥海(いなさ)の多くの王城をめぐる城下の船着場に船が押し寄せ、城門の四方を取り囲んだ。河水を注いで一帶の諸城を攻めとり、敵兵を生けどった。副王らしき者も一緒に討ち取り、黒黄種の(オオクニヌシ)に剣先を突きつけてこう言った。(吉田大洋『謎の出雲帝国』徳間書店)

 

 確かに剣を波頭に逆立ちさせそのきっさきにあぐらをかくなどとは現実に不可能であり吉田がシュメール語に訳すとその不合理は全くなくなり極く判り易い描写になってしまう。しかし大国主神話はこの国譲り以外でも極めてイマジネーティヴでありかつ優しさに充ちている。スサノオの荒々しさとは別種であることは確かであり征服され降服した王者の悲しさが切々と伝って来る何事かが大国主神話には濃厚に漂っている。怨念や怨恨にはなり得ない優しさであるが、記紀自体が勝利者である大和朝廷側の書であるから悲劇の王大国主が斯様に表現されるのも当然と言えば当然でもあろう。やはりここには出雲敗亡の性格が見事に表出されているのではないか。大国主は死して後巨大神殿によって祀られたが歴史上の反逆者や征服者である平将門、藤原純友、安倍貞任、アテルイ等が勝者である朝廷から丁重な扱いを受けたであろうか。勿論筑紫国造磐井も同様である。その代り敗北の王者である彼等が優しかったとする伝承は少なくとも勝利者側には皆無でもある。大国主は因幡の白兎を助けるがこの白兎は実は鰐を騙して皮を剥がれ大国主の兄達に助けを求めたのに逆にボロボロにされていたのであった。隠岐の島に住んでいた兎が因幡の多気岬に渡りたいと思い鰐(実際にはサメか)を一直線に隠岐から多気岬まで整列させその上を数えながら渡って行った。ところが最後に彼等を騙したと口を滑らしたら最後尾の鰐に皮を剥されてしまった。大国主の兄達は海の塩水で体を洗い「高山の尾の上に伏せ」と助言する。その通りにしたら却って傷が大きくなったと泣訴するのに大国主は眞水で傷を洗い蒲を敷いて休めと教え白兎を助ける。白兎とは隠岐の住人であり鰐は荒々しい海人達のことでもあろう。隠岐の島で平和に暮していればよかったものを本州に渡りたいと思ってか海人を頼ったのであろう。海人は時と場合によっては海賊にもなるのであって約束した報酬を拂わなかったために身ぐるみ剥いでしまったともとれる。

 この神話は日本列島の文明化とともに孤島化して行った隠岐をはじめとする離島住民の文明への憧憬を表徴しているのかもしれない。ともあれ大国主は自分達の生活圏の文明に憧れる孤島の住人を救済したことになろうか。もともと出雲の神である大国主が因幡を通ったのは兄達がそれぞれ因幡の八上姫を娶りたくて末弟の大国主に袋持ち即ち自分達の荷物全てを担がせて連れ歩いていたからである。しかし白兎は兄達が結局は思いを果せず八上姫を娶るのは大国主であろうと予言する。彼の優しさに心打たれたからに他ならない。兄達にとっては単なる政略結婚にしか過ぎなくても大国主ならば誠意をもって出雲と因幡の関係を構築してくれるに違いない。その誠意を信じて八上姫は嫁ぐであろうと白兎は言外に匂わしている。この如く心優しき王、大国主の面前の波頭に剣を逆立ちさせてその刃先きにあぐらをかいて坐り眼下の王に国譲りを強要する建御雷の猛々しさ、凄絶さ。ここには征服者側の強固な意志が極めて鮮烈な空間イメージを通して描かれている。文学作品として読む限りこれに優る描写もそれ程あるとも思えない。まさに見事である。八上姫は兄達に向って私は大国主と結婚します、貴方達とはしませんと宣言するが怒った兄達は大国主を何度も殺すのであるがその都度母神に助けられ蘇生する。大国主の受難である。結局このままでは兄達に殺されてしまうから「根の堅州国」にいるスサノオに相談せよ、何かいい知恵を授けてくれるであろうと母神に助言され「根の堅州国」に降る。ここは黄泉、死の世界であろう。スサノオは蛇や蜈蚣、蜂等を大国主の寝室に入れて試そうとするがすでにスサノオと会う直前に契りを交わしていたスサノオの娘スセリ姫に知恵をつけられていたから難なくこれ等の害から逸れ、又火矢で寝室の外の野が焼かれ絶体絶命になった時には鼠が来て助けてくれる。その他種々様々の試練を経て大国主はスセリ姫を背負って根の堅州国から逃げようとするとスサノオは追って来て大国主に「お前は姫を嫡妻とし大国主となり現世の神となり巨大神殿に住め」と言う。こうして大国主はスセリ姫を正妻として迎え国作りを始めるのである。それでも八上姫や越の沼河姫等も妃として迎えるのであるがスセリ姫は大変嫉妬深くこれに手を焼く様も描出される。要するに大国主は至って人間臭濃厚な神なのである。従ってこの大国主の作った現世の国自体も当然現実に存在したであろう。これが大和も含む広大な領域として古事記には描かれている。しかしスサノオにしても大国主にしても出雲と関る神は半面深く死の影を宿してもいる。即ち出雲は半面この世ではなくあの世、彼岸を表徴する場所であった。

 

・荒神谷遺跡と神話

 1984年7月12日、島根縣簸川郡斐川町の荒神谷と呼ばれる谷の傾斜面から358本の銅剣が四列に整然と横倒しになった姿で出土した。弥生中期後葉から弥生後期初頭にかけて鋳造されたものである。これは考古学会に於ける一大ニュースであった。記紀神話にあって重要な場所である出雲も弥生時代遺物の出土の密度がそれ程でもないことから神話で語られる国譲りなどはこの場所ではなく、大和国内のことではないかとさえする説が横行し始めた矢先きの一大発掘事件であった。それまで全国から出土した銅剣約300本を遥かに上回る量が一個所からいっせいに出土したのだから弥生時代に於ける出雲の重要性には疑問の余地がなくなったことは確かである。唯出土状態が異常である。四列とも整然と横倒しになっているからある意図をもって埋納された様でありしかもこの埋納地は穴を掘って急いで埋めたらしい形跡が濃厚である。何か緊急な異常事態が発生し急拠埋納された可能性が大きい。人によっては「国譲り」との関連を思い浮べるのではあるまいか。吉田大洋の古事記のシュメール訳は日本語表記よりもリアリティに富むがやはり船団を組んだ征服軍がやって来て荒し回り王に降服を迫ったのであろうか。その場所が現出雲市海岸ならば現斐川町までほぼ16キロ、急使をここから派遣しても充分宝剣を隠匿埋納する時間はあったはずである。宝剣は即ち祭器又は呪具である。これを敵に引き渡すことは祭祀権を放棄することであり、祭政未分離の弥生時代にあっては祭祀権の放棄はそのまま治政権の喪失でもあった。出雲王は当然何時かの再起を期して宝剣を隠匿することを命じたであろう。この荒神谷での一大発掘は以上のことを想像させ、地元の歴史学者速水保孝はほぼ似た発言をしている。(「銅剣358本の謎に迫る」島根斐川町)しかしこれとは全く異った異様とも思える発言をしたのが奈良の歴史学者水野正好である。

 水野は358本の銅剣の内一本たりとも地元で鋳造されたものではなく全ては近畿、畿内で製造され出雲に搬入されたものなのだと明快に断を下す。荒神谷で発掘された銅剣は中細型銅剣C種と呼び同種即ち中細型ではA・Bの順で一番新しい型でありA・B種が山陰で発掘されていない以上A~B~Cと伝承されたはずの鋳造技術の進展は見られず、突然Cの技術がこの地で開花するのは不自然である。たとえこの地で鋳造されたとしてもこの地の工人ではなく他地の工人が原料を携えてやって来た上のことである。原料は中国北部産である可能性が大であるとも言明する。他地の工人の他地とは北九州か畿内であるがまず間違いなく畿内であろう。但しこの種の銅剣A・B・Cともに多出するのは山陰と高知、香川、兵庫と言った四国、瀬戸内海域であり山陰から四国に搬入されたとは考え難いから大阪辺で鋳造され山陰や山陽(兵庫)、四国に配布されたであろう。要するに魏志倭人伝の邪馬台国は大和のことであり、この時点で大和は中央集権を完成させていたから出雲も含む地方は祭祀まで中央の方式に強制されていた、その何よりの証拠がこの荒神谷の358本の銅剣である。以上が水野説であるが随分勝手強引な見解に違いない。全国の出土分よりも遥かに多量のものが一個所で、いっせいに出土したのだから少なくともこの種のC型を祭器とする祭祀のセンターと仮定するのは最も自然であろう。しかもA・B・Cともにこの種のものは日本固有のスタイルであるからには当然鋳造場所も工人も荒神谷近傍地と考えていい。荒神谷のある斐川町は古代にあっては出雲国出雲郡出雲郷と呼ばれていて(『出雲風土記』)出雲が三重となる地名からもここが出雲の中心地だったと思われる。原出雲王権の都であったに違いないが荒神谷は正確には神庭(かんば)荒神谷と呼ばれることからしてまさに神聖なる祭祀の地であった。そのことがこの発掘で明かになったとするのが速水であるがこれならば納得し易い。

 もう一人古田武彦の見解がある。358本の銅剣が発掘された翌85年には同じ荒神谷から今度は銅鐸6、銅矛16本が発掘された。銅鐸は近畿圏、銅矛は北九州圏の弥生文化象徴であると言うのが通説でありその二象徴が同一場所から発掘されたのだから出雲は北九州、近畿の二大文化圏が丁度重なる場所であったことが証明されたとしてもおかしくない。しかし邪馬壱(台ではない)北九州説に依拠しながら古田は16本の銅矛に着目し「国譲り」を強制したのは大和朝廷ではなく筑紫王朝の方であり文化は出雲を媒介として近畿に伝わった、そのことを二度に亘る荒神谷発掘は証明していると自説を強調する。水野程には論理的ではなく国譲り神話との関連をこの発掘に読み取ったのがミソと言えば言える程度の見解であるが神話の豊庫である出雲の場合、神話に結びつけること自体さして問題はないであろう。しかし文化、政治の中心を筑紫に置くのでは水野の大和説と同位相でありしかも依拠するのが魏志倭人伝では単に水野の裏返しとしか言い様がない。北九州、近畿は弥生時代前期から相当高度な文化を有していたのは発掘から充分頷けることでありどちらが邪馬台国であるかなどそれ程重要なことではないのではないか。魏志倭人伝を素直、正確に読む限り邪馬台、投馬その他の諸国は九州であろう。(拙著『ヤマタイ国は阿蘇にあった』光文社)水野は荒神谷出土の16本の銅矛の鋳造場所として有力なのは佐賀縣であるとする。荒神谷出土のものと同型のものが佐賀縣に集中しそれを根拠とする。これが重大なのである。佐賀縣全体こそ魏志倭人伝では投馬国の可能性が高く、この当時近畿と九州の二大文化圏に酷似した二つの巨大王権がありその最大同盟国が投馬で九州では佐賀、近畿では出雲であったと思うからである。双子王朝論であるがどちらかが片側の影なのである。福岡縣南部甘木地方の地名は奈良縣中部の飛鳥周辺の地名と重なりしかも地理関係まで酷似しているとのことであるがこれは九州の邪馬台が東遷して大和になった恰好の例証とされる。しかし事はそうした一中心型視点では解き得ないであろう。九州、近畿双子王権を想定してこそ記紀の神話の重層性が無理なく理解出来ることにはならないか。しかも考古学的成果もそれを支持していると思える。その場合投馬に当る出雲の「国譲り」は征服王朝からの攻撃と強制ではあったにしてもやはり神話の様に最終的に出雲はそれ程激しい抵抗を見せず成就されたに違いない。そうでない限り征服王朝の承認の上で王(大国主)が神として後代まで崇められるはずもないであろう。これが投馬国が最大の同盟国になり得た実相であろう。

 第二章 たたらとヒッタイト

・ヒッタイト文明

 ヒッタイトは現在のトルコ中部アナトリア地方にBC1750年頃突然表われBC1200年頃又突然姿を消してしまった巨大帝国である。最盛期のBC1400年頃から1300年頃までの100年間はエジプトと覇権を争う程であった。この帝国は世界最初に鉄器を使用したことで有名でありアナトリアの原住民である原ハッテイはすでに鉄文化を有していたと言うから今から3800年前には人類はこのアナトリア地方に於いて鉄文化を開始していたことになる。実は今を去る3200年以前に消えてしまったヒッタイトと出雲とは見えない糸で繋っているらしい。まずはヒッタイトである。ヒッタイトの首都は現在のトルコの首都アンカラの東150キロ程の所にありハットウシャシュと言った。このハットウシャシュが位置するアナトリア地方にもっと古い都市趾がある。南部コンヤの東南ほぼ80キロの位置にチヤタルフェックと呼ばれる寒村の丘がある。ここで実は今から9000年も前の世界最古の都市遺跡が発掘されている。しかもその都市市域が6ヘクタールもある巨大なものであった。ホメロスのトロイの三倍の大きさなのである。従ってこのアナトリア地方は世界最初の都市文明が勃興した場所でありここは乾燥地ではあるが現在でも農地が広がりヒッタイトも農耕文明であった。今から3000年以上前、巨大帝国がこの地に栄えていたとしても別に不思議なことではなかった。ヒッタイトはインド、ゲルマン語族の言語を使用するアーリア民族の一種であり原郷はロシア南部黒海北岸地帶であろう。イランやインドに入り込んだのとは別の一隊があったのだ。ヒッタイト戦士は当時アーリアにしかない特有の技術を身につけていた。馬車を駆使することが出来たのである。馬車はヒッタイト以前にも戦争で使用されていたが120度の扇状厚板を三枚円板状にはぎ合せる極めて粗末な車輪でありこれでは戦争の主役にはなり得ない。処がヒッタイトでは六本の()を有する軽快車輪、二輪の馬車を工夫していたから戦争の仕方そのものが他の民族よりも数段優れていた。この機動力により彼等はまたたくまにアナトリアを征服し巨大帝国を作り上げてしまう。但しヒッタイトは先行文明であるシュメールや同時代文明のバビロニアとは違い平和的精神を有していた。

 バビロニアのハムラビ法典には「目には目を、歯には歯を」と言った報復条項があり概して凄惨で激越な傾向を残存させていたがヒッタイトの法典では罪や損失を賠償によって購うことが出来た。法の精神としてはより進歩していたことになる。この様な和解の精神によって民を治めたヒッタイトではあったがそれでも祖先から伝わる尚武の血を失わなかったのか戦争は強かった。馬車の機動力戦法は周辺国家にも波及し彼等のみのものではなくなったが何としても先行していた分だけ馬車の技術も一歩先じていた。BC1285年エジプトを破ったオロンテス河畔のカデシュ(現シリア、レバノン国境)の会戦ではヒッタイトは三輪馬車でかつ御者、戦士、楯持ちの三人乗りなのに対してエジプトはいまだ二輪の二人乗りであったから勝利は当然とも言えた。治政の良さの基底であった和解の精神も戦時には一心同体となって敵に対する共同精神として発露し戦意を高揚し得たに違いない。ヒッタイトが強大帝国として君臨するきっかけとなるのはBC1600年頃ムルシリシュがユーフラテス河を越えバビロニアを攻めハムラビ王朝を滅してしまったことである。それまではアナトリアの一候国程度であったが先代であるハットウシリシュの北シリア遠征も引継ぎ更にバビロニアのハムラビ王朝を滅ぼすに至って当時の国際舞台に華々しくデビューした。しかしこの偉大なる王は首都ハットウシャシュに凱旋後暗殺されてしまう。これから70年程が王の一族一門による暗殺横行時代となりハットウシリシュ、ムルシリシュ二代に亘る広大な占領地を全て失うことになる。

 BC1525年頃に即位したテリピヌシュが王国の相続法を決め、ようやく王位継承時の暗斗をなくし国を安定させることに成功する。しかしその頃には東に現在のシリア、インドにアーリアと極めて近い種族の国家ミタンニが興き強勢になっていた。ミタンニのアーリアも当然の様に軽快な二輪馬車を駆使していた。BC15世紀にはバビロニア、エジプトと鼎立するまでの強国になっていてヒッタイトもミタンニには圧迫され続けた。このミタンニを破ったのがBC1375年シュッピルリウマシュ王であった。この敗北によりミタンニは約一世紀間の覇権を失い国は二分されてしまった。これ以降がヒッタイトの最盛期となる。従ってBC1750年頃から滅亡のBC1200年頃までほぼ550年間ヒッタイトはそれなりに盛衰を繰り返していたことになる。特にミタンニを破るBC1375年までの400年近くの盛衰はめまぐるしかったと言える。ともあれBC14世紀後期から隆盛になりほぼBC13世紀までの100年間全盛を誇ることになるヒッタイトは戦車戦術もさることながらその原動力となったのは鉄の武器の使用であった。BC2000年紀の初めアナトリア高原に商業植民地を営んだアッシリア人達の『カッパドキア文書』にアムートゥムと言う装飾用の貴金属のことがあり銀の40倍、金の5倍の値段で取り引きされたとある。これが多分鉄であったと思われる。シュツピルリウマシュ王の孫であるハットウシリシュがアッシリア王に宛てた書簡には依頼の極上の鉄は今在庫なく製造中であり未だ仕上の段階に来ておらずさしあたり鉄の短剣一刀を送ると態のいい断りを書いている。このことからしても鉄はヒッタイトの専売特許であった様である。勿論これは鍛鉄である。これが後述する出雲のたたらとの関連であるがもう一つ注目すべきことがある。怪龍イッルアンカを酒で酔い潰し縄をかけて退治してしまう神話がありこれは八俣の大蛇退治に酷似している。「都市とそこに住む人々には嘆く… 人々は悲しむ… 誰がこんな(大きな)蛇(註、ラップ)を産んだのか? ベルは天上に(ラップの姿を)描く。長さ五十マイル、その頭は一マイル… 誰が行ってラップを(殺し)、広大な国を救い出し王国を治めるのか?(後略)」(ヨハネス・レーマン、内野隆司・他訳『ヒッタイト帝国』佑学社)

 

 そこで女神イナールは大きな祭りの用意をした。そのあとで女神は都市ジイガラッタで男を捜し、彼に事情を話して協力を頼んだ。男は女神と寝ることを条件に、協力を約束した。女神は承知し、男を連れ出して隠した。それから女神は美しく身を飾り、イッルアンカを祭りに招いた。イッルアンカは酔いつぶれると男は縛り上げた。そこで天候神は蛇を殺した (ヨハネス・レーマン、内野隆司・他訳『ヒッタイト帝国』佑学社)

 

 女神イナールが櫛名田姫、男と天候神で二役になっているのがスサノオであり神話の構造自体は殆ど同一と言っていい。スサノオは天候神の性格を持っているのは高天ヶ原で暴れる(さま)でも充分了解出来る。

 

・聖書とヒッタイト

 鉄の帝国ヒッタイトはBC1190年頃に突然歴史上から姿を消してしまい民族としてもその行方は杳としてわからない。この帝国の版図が最大となるのはBC1285年エジプトに勝利したカデシュの戦い以後であり南は現在のシリアの南部ダマスカス近くまで拡大した。しかし滅亡がBC1190年頃となればこの巨大帝国は100年強しか存続出来なかったことになる。この大変動はバルカン半島の奥から始まる民族移動の大波が波及した結果とみられ、これによりミケネもクレタも更にトロイのアカイア文明も呑み尽され消えて行ってしまった。唯一この激動に耐え得たのはエジプトだけであった。ヒッタイトが消えてしまった後アナトリア等の小アジアはバルカン半島から移住して来たフリュギア人の天地となった。しかしかつての巨大な版図からヒッタイト人が全く姿を消してしまったのかと言うとどうもそうでもなさそうである。旧約聖書には創世紀からヨシュア記まで随所にヘテ人として登場する。但しモーセの出エジプトがBC1250年頃とされるからカデシュの戦いから35年位後のことでありモーセを長とするイスラエルの民がエジプトから脱出せざるを得なかったのもこの戦いによるエジプトの敗北が大きな要因なのかもしれない。エジプトは所謂カナンの地を失ってしまったのであるから経済的打撃も大きかったであろう。それで他民族、言ってみれば居候であるイスラエルの民を邪魔にし始め過酷な労役を強いたのであろう。イスラエルの民が故地からエジプトに入ったのはエジプトの中王国を滅したイスラエル人と同じセム系の異民族ヒクソスを後援者としてだった。そのヒクソスが滅亡して新王国になるのはBC1570年であり後援者を失った彼等が労役につかなければならなくなってからでも300年以上の歳月が経っていたことになる。いわんやカデシュの敗北以降の過酷な扱いには到底耐え得なかったであろう。

 しかし出エジプト後シナイの荒野をさ迷い約束の地カナンに辿り着くのには相当の年月を経なければならなかった。イスラエルの民がカナンを武力によって占領するのは旧約聖書によればモーセの次の指導者ヨシュアの時代のこととされ出エジプトから100年程後のことであるからBC1150年頃である。この時にはヒッタイト帝国は跡形もなく地上から消え失せていた。その消えたはずのヒッタイト即ち聖書で言う「ヘテ人」が帝国の旧版図の一部であったヨルダン河西岸から地中海沿岸までのカナンの地に存在していたことがその聖書に記述されている。しかもユーフラテスからレバノンまでがヘテ人の全土となっていた。丁度現在のシリア、ヨルダンが「ヘテ人」の全土であったことになる。ヨシュア記によればレバノンの地中海沿岸の全地域の「ヘテ人」以下数族がイスラエル民に降服し労役を受け持ったとある。しかし地中海沿岸はいいとしてもレバノン山地や傾斜地、荒野等に居住していたヘテ人等異民族は全て殺されてしまった。従って聖書を読む限り地中海沿岸以外の「ヘテ人」は殆ど絶滅されてしまった。残ったヒッタイト人達はヨシュアの征服後は使役民となったとされてはいるが実は彼等が未開のイスラエル人達に鉄の文化を伝えていたのである。ともあれイスラエル人達の使役民となってしまったヒッタイトは別にしてもヨシュアに全滅されたとされるヒッタイトの人民も実は殺されたのは指導者即ち小国の王か貴族までではなかったろうか。鉄の技術を持った者までが殺害されることはなかったであろう。必ずやカナンの文化を携えて安全な地に逃れた一団があったはずである。旧約聖書にはイスラエルの人々の神ヤハウェが海に住んでいた龍蛇の形の多頭の怪物と戦い、勝利し天地創造の業を始めたとある。勿論メソポタミヤ神話の影響とも考えられるがもともとカナンの古い神話には多頭の龍蛇であるバールがありこれは聖書のレビヤタンに対応している。(『日本神話の特色』)但しバールはイスラエルの民がアシェーラとともに否定する偶像として記載されているからイスラエル人達のものでない。

 出雲の八俣の大蛇神話や国引神話とメソポタミヤ神話の近似性については先述したがカナン古来の神話や聖書と近似しているとすればこれを伝えた人々が存在したと考えても別に不思議なこともあるまい。これがカナンから逃亡したヒッタイト人達であったとしたら当然彼等自身の本国滅亡の様子も出雲神話の何処かに色濃く投影しているはずである。ヒッタイトの突然の滅亡は民族移動の大波に呑み込まれてのことだったと思われるがそれはバルカン半島からエーゲ海を越えてやって来た。従って敵はアナトリアの地中海沿岸の何処かの港に上陸しそこで一戦して一撃のもとにヒッタイトの主力軍を打破ったに違いない。しかも王を捕虜にし政権を一挙に奪還したであろう。そうでない限り突然あの大帝国が滅び去るはずがない。王が逃亡し生き延びておれば何処かで小国を形成し細々と存続したはずなのにその気配は全くない。こう見て来るとこれはそのまま大国主の国譲りではないか。それには吉田大洋によるシュメール訳の方が情景がぴったりしている。日本でも大国主の国譲り以前は出雲は巨大王国でありむしろ大和よりも強大であったかもしれない。古田武彦は大国主に国譲りを迫ったのは九州の筑紫王国であると言う。即ち西方から海を越えてやってきた侵略者によって滅されたのである。それならばなお一層ヒッタイトの滅亡情況と一致するではないか。こうなるとヒッタイトの東隣に存在した強国ミタンニは大和にたとえることが出来る。こうまで歴史的情況が重なって来ると日本の神話、特に出雲神話の中に消えたヒッタイトの行方が暗示されているのではないかとも考えたくなる。国譲りの際に大国主の二人の息子、兄の事代主は国を天ッ神に奉りましょうと言って乗船を転覆させて海中に沈んでいった。これに対して弟の建御名方は魔軍を率いて敵に挑戦したが結局は撃破され信濃の諏訪湖まで逃げ、追って来た天ッ神軍に国は奉るから殺さないで欲しいと嘆願してから諏訪湖の湖底に沈んでしまったと吉田は言う。しかし古事記の日本語読みのままならばどうも許されここで細々と子孫が続いたと思える。もしこれがヒッタイト王子の逃亡先きを暗示しているとすれば諏訪湖畔に相当するのがユーラシアの中部山地の湖畔と言うことになる。それはウラル山脈南部のアラル海の沿岸地帶ではなかったか。丁度現在のトルキスタンである。カナンから逃亡した少数のヒッタイトも同族の居住するこの地にいったんは落着いた可能性が高い。それでも後に辿り着いた彼等はこの地に落着くことは難しかったのではないか。彼等は又東へ東へと移動して行ったであろう。

 

・消えたヒッタイト

 消えたヒッタイトをもう少し追跡してみたい。その鍵は「鉄」である。ヒッタイトの後に鉄文化が極立つのはロシア南部に蟠踞した騎馬民族スキタイである。スキタイはBC1000年紀前半から中期にかけての頃黒海北岸を根拠地としていたがもともとはアジアが原郷でありボルガ河を渡って黒海北岸にやって来た。BC1000年紀の前半にはコーカサスと外コーカサス、現在のグルジア、アルメニア、アゼルバイジャンに相当する地域は鉄器の製造が盛んであった。それが黒海北岸にもたらされる。そこに入って来たのが遊牧騎馬民族スキタイである。コーカサスと外コーカサスはトルコの東北に位置するから当然ヒッタイトからの影響が強かった、と言うよりもヒッタイトそのものがこの地方に鉄文化をもたらしたとも考えられる。因みにBC2000年紀半ばを示すこの地の発掘物である金製コップの浮彫の人物はヒッタイトそのものの服装である。しかしBC1000年紀になると鉄文化は広範囲に普及する。北は中部ヨーロッパ、南はアフリカ北岸、西はスペインから東はコーカサス、メソポタミヤに至る広大な地域で鉄器が使用される様になる。スキタイもそんな時機にタイミングよく黒海北岸に入り込んで来たのである。スキタイの原郷である中央アジアのステップ、即ち南シベリアは銅と錫が豊富であり青銅器の制作が長く続き鉄器が優勢となるのはBC1000年紀の後半になってからであるからスキタイも原郷にある頃はいまだ青銅器の民であった。但しスキタイが無人の地である黒海北岸に入り込んだわけではない。彼等の以前には同じ騎馬民族であるキンメリア人が居住していたが小アジアに侵入したのちはがら空きになっていた、その空巣を占拠してしまったと言うことである。いずれにしてもスキタイが鉄文化を身につけたのは外コーカサスに侵入したBC1000年紀の半ば頃と言われているがどうもそうとばかりは言えない奇妙な考古学的事実に出会う。時代はBC5世紀頃のものであるがカスピ海の東方アラル海に東南から流れ込むシルダリアの流域で極めて発達した鉄文化の遺跡が発掘された。この遺物を使用していたのはイラン系の諸民族と言われている。

 鉄の遺物は武器、武具であり鏃、剣、鎧等であり特に鉄製の鎧は厚さ2ミリ縦横7センチの鉄片を3分の1ほど残して重ね合せる精巧なものである。大国主の国譲りに際して諏訪に逃げのびた建御名方は実はアラル海近辺に落ち延びたヒッタイトのことではないかと述べたが、ヒッタイトはイラン系と同種のアーリアであるからこの想像もあながち唐突なことにはならない。スキタイの旧地であるアラル海周辺は鉄が産出しないからここでは鉄文化を身につけたのではなくコーカサスに侵入して以降鉄の技術に熟達したとされていてしかもBC1000年紀の後半のことだった。それなのにヒッタイトの鉄文化と遭遇した同じ頃に鉄が産出しないはずのアラル海周辺に高度な鉄技術を身につけた民族が存在したのは何故なのか。一つの技術を完全に身につけ使用するまでには相当の年月を要するはずである。もともと鉄を産出もせず鉄文化を知らずに黒海北岸に移動したのがスキタイである。スキタイの故地であるアラル海周辺でスキタイに代って鉄文化の影響を受けた民族がここでその技術を熟成させたとは想像し難い。スキタイとは逆流して高度な鉄文化人が入り込んで来たとする方がより自然ではあるまいか。更に相当長期、数世代に亘る時間を要するはずの鉄技術をスキタイは一拠に自家薬籠中にしたと考古学事実は示しているとするがこれは怪しいのではないか。アラル海周辺にヒッタイトが逃げ延びたのは私の想像どおりBC1000年紀の初期でありいまだ故地にあったスキタイはここで鉄技術の基本を習得し、それから鉄の原料を求めて黒海北岸に移動し外コーカサスに侵入するまでになったのではないか。ともあれヒッタイトは歴史からは消え去ってしまった。もし上記の経過を辿ってスキタイが鉄文化を身につけたのであればヒッタイトはまずはアラル海周辺に足跡を残していたことになる。

 騎馬民族はジンギス汗の蒙古も含め総じて鍛冶師を尊重するがこれはスキタイから伝わる遊牧騎馬民族の一大特徴でもある。ヒッタイトは歴史からは消え去ってしまいその足取りも杳としてわからないが実は騎馬民族の中に溶け込み技術民化した可能性が高いのではないか。さてAD5世紀頃のことになる。ようやく強勢になって来た突厥(とつけつ)のカガン(王)が柔然(じゅうぜん)のカガンにその娘を嫁に欲しいと使者をやったら柔然のカガンは激怒し、もとは俺達の鉄工ではないのか思い上りもはなはだしいとののしった。このことからしても有力遊牧騎馬民族には鉄工が従属していたのは間違いない。そればかりではなく遊牧騎馬民族は首長自体か又はその祖先が鍛冶師だったとする伝説を抱えていることが多く蒙古ではジンギス汗が若い頃鍛冶師だったと割合最近まで信じられていた。又遊牧騎馬民族ほど鉄の霊力を恐れるものはなく突厥の首長である阿史那(あしな)氏などシャーマンであり鉄の兜をかぶって巫術を行い、その鉄の兜を「突厥(チュルキュト)」と言うから民族名にまでされてしまった。遊牧民族でなくても鉄の霊力を信じるのは古代ギリシャ、ローマでも見られる世界的な俗信でもあるが遊牧騎馬民族の場合特にはなはだしい。何故なのか。種々様々な理由は考えられるであろうが農耕民でない彼等は一方では農耕民からの掠奪者でもあって成員全員は戦斗員、武士である。当然武具、武器としての鉄には深い思いを抱くであろうがそれよりも高度騎馬文化の開始民族スキタイが鉄文化を身につけるまでの苦心惨胆の労苦の記憶が鉄を信仰の対象にまでさせてしまったのではないか。

 

・流浪のたたら

 1982年だったか3年だったかは失念してしまったが中国タクラマン砂漠の西カシュガルに数人で旅したことがある。ここの住人達はウイグル族で顔立ちは彫りが深く色白の明かにオリエント系の種族である。漢民族は彼等のことをハッシと呼んでいた。私達が訪れた時の直前にカシュガル市は始めて外国人に開放されたばかりであり随分珍しがられたがここには一週間近く滯在している間に民謡を聞く機会が何回かあった。そのうちの一つに出雲の安来節と酷似と言うよりも全くそのままのものがあり私は音楽を聞き分ける自信がなかったので仲間の音楽好きに聞いたら彼もまるでそっくりだと言う。この時私は漢民族がハッシと呼ぶのは実はハッテイのことではないかと直観した。消えたヒッタイトがウイグルとして存在しているのではないかと。カシュガルは随分古くから鉄細工が盛んで鉄製品の豊富なシルクロードのオアシスとして有名であった。それから安来節とそっくりの民謡も大昔から伝えられているとのことであった。古代出雲は砂鉄製錬の技術たたらの国であり安来節の踊は間違いなく砂鉄取りの姿を表わしているのであるから出雲のたたらは中国最西端のシルクロードオアシス、カシュガルから伝えられたのではないかと想像させた。それでなくても日本の祭ばやしと酷似する曲もあり同行の仲間達も盛んにその不思議を訝んでいた。それではそれはどの様な経路を経て伝来したのか。

 「たたら」はタタールを言うのではないかと言われ、これは俗説であるかもしれない。殆どの古代高度文化は中国から伝えられたのに砂鉄製錬や鍛造技術を中国語ではない「たたら」と呼ぶのであるからこの俗説もあながち無視すべきではあるまい。もし仮りに「たたら」の語源がタタールだとすれば遊牧騎馬民族であるタタール族がたたらを日本に伝えたか何処かで彼等から日本人が直接学んだのであろう。タタールの名が歴史の上に登場するのは突厥碑文に於いてである。732年外モンゴルの東北オルホン河東岸に建てられたものであり30姓タタールとある。中国文献に表われるのも旧唐書等の韃靼伝に於いてであり唐時代であるから突厥碑文からそう遠くない。タタールは興安嶺西側即ち外モンゴルの東北部を根拠地とする遊牧民でありジンギス汗のモンゴル族ももとはタタール族に属していた。これから独立するのはジンギス汗がこれを破って後である。タタールは突厥碑文に突厥の一氏族として記されているから突厥即ちトルコ系の種族である。モンゴル族がこれに属したと言うからトルコ系種族を首長として多数のモンゴル族がそれに従っていたに違いない。但しトルコ族とは言ってもモンゴロイドには違いないのであって後世西へ西へと移動し現在のトルコの支配民族とはなっているが先住のアラビヤ系の人々と混血を繰り返しているうちに現在ではモンゴロイドとは必ずしも見えなくなっているに過ぎない。従って現在のトルコ人を想像しては唐の時代に外モンゴルに居住した突厥の眞の姿を復元することは出来ない。

 「たたら」なる言葉が日本の文献に始めて表われるのは古事記であり神武天皇の妃にホトタタライスキ姫と言う国津神(出雲系の主に生産を司る神)出身の女性名として出て来る。「ホト」では余りに露骨に女性器を表わすので後にヒメタタライスキヨリ姫と改名したとある。古事記は712年に編纂されるから突厥碑文よりも20年早い。ともあれ「たたら」なる言葉は712年以前から使用されていたことになる。神武伝承が弥生時代からのこととしたらその妃の名に「たたら」が使用されているからこの言葉は相当古くから使用されていたと考えていいのではないか。我国の鉄製品の使用開始は考古学的には弥生時代初期であり九州に多く出土するが舶載品である可能性が高い。中期になると国産品が使用された。弥生中期、中国漠北には匈奴が勢力を張っていた。いまだ突厥が立ち表われていない。

 もし「たたら」がタタールであるのならば匈奴の中にタタール族が含まれていたことになるのではないか。突厥は匈奴から出ていると中国史書に記されているから匈奴の中にタタールがいたとしても別に不思議ではあるまい。匈奴の最盛期はBC200年頃丁度秦の始皇帝が中国統一を果した時に重る。中国で鉄の使用が始るのはBC5世紀頃とされているが中国では青銅が尊重され良金と呼ばれ祭祀用器物として使用されたのに対して鉄は悪金とされ鍬、鋤等の実用物に使用された。中華思想の漢族のことである、鉄は技術移入されたに違いなくそれ故に悪金とされたのであろう。これを伝えたのが外モンゴルから西のステップを遊牧していた匈奴の様な民族だったのか。それともカシュガルまでやって来たウイグルとなっていたヒッタイトの末裔達なのか。ともあれ日本にはタタールが直接鉄を伝えたのに違いない。中国経由ではなかった。匈奴は恐しく広範囲に亘って移動していて西はウラル海にまで達しここでスキタイと接触した。匈奴の墓を発掘したら棺の下に疾駆するトナカイ、獲物を寸断する山猫、牡牛と豹との格斗など、いわゆるスキタイ的特長の顕著な模様を表わしていた。(『世界歴史事典』平凡社)当然鉄文化も学んだはずである。突厥は柔然の鉄工部族と言われるから匈奴の中の鉄工として突厥の下部々族となってタタールが従属としていたのかもしれない。スキタイはヒッタイトから鉄文化を継承しそれを更に継承したのがタタールであったのかもしれない。その継承の時に常に影の如く付き従う技術者としてヒッタイトが存在したとしても別に不思議はないであろう。消え去ってしまったヒッタイトは鉄文化の伝達を媒介として遊牧騎馬民族の中に紛れ込んだのかもしれない。ウイグル族ももとは遊牧騎馬民族であった。この中にヒッタイトが紛れそれが自立してオアシス都市を作った。カシュガルのことである。ヒッタイトは遊牧騎馬民族の中にあって鉄文化を伝播拡張する役割を演じていたとするなら最終的には出雲まで達っしたのではないだろうか。出雲の直前に伝達したのは朝鮮半島南端の伽耶(かや)国、古代日本では任那(みまな)と呼んだ所であろう。伽耶国は鉄を産し鉄の技術に長じていた。倭(日本)は任那を自分の領土にしたがここの鉄と鉄技術こそ領土獲得の最大の理由であったに違いない。これを領有したのは369年であるからこの地から出雲に鉄文化が伝達されたのは多分これ以前であったであろう。2世紀の後半から3世紀の前半の頃なのかもしれない。出雲半島の東の付け根米子市の東隣に蚊屋(かや)があり平安時代にはすでにこう呼ばれていたからこれは伽耶の民が日本に移り住んだ痕跡を示しているのではないか。「カヤ」の地名はここ以外には全国何処にも見られないから出雲と伽耶の繋りを示す良い証拠ではあるまいか。いずれにしても伽耶国は日本に領有され562年にはそれも滅され新羅に併合されてしまう。

 さて明治や大正時代末まで我国にもサンカと呼ばれる流浪の民が存在したことは三角寛『サンカの社会』で有名であり、彼はサンカ研究で博士号まで取得している位であるから彼の著述は極めて確度が高いのは言うまでもない。彼によればサンカは出雲の鉄の技術民だったが国譲りの後であろう、山野を流浪する様になった。彼等の中には大正の末期でもシナドと呼ぶフイゴを所持し鍛冶屋や鋳掛師となっている者が多いがこれは一般民の中に溶け込んで一見サンカとは見えないとある。彼等の伝承では神武天皇の時代には鉄を使用していてそれどころか遥か大昔の高天ヶ原にもフイゴはあったと言う。高天ヶ原こそヒッタイトを滅亡させた海人達の原郷をも示しているかもしれず、ここに鉄文化がすでにあったのはヒッタイトから伝えられていたであろうから当然であろう。と言うよりもサンカの伝承は彼等の先祖が遥か遠い地の大昔の記憶を保持して来たことの証明とはならないだろうか。我国での鉄使用は考古学的にどう見ても弥生前期を逆上らないとすればサンカの伝承と考古学的知見の大きな誤差はそう理解するしかあるまい。サンカの祖こそヒッタイトなのではないか。彼等はアナトリアで滅され伽耶も滅亡、出雲も征服され結局は流浪の民とならざるを得なかった。

 第三章 ラフカディオ・ハーン

 

 出雲に関する神話と文学をモチーフにして出雲地方でホール、劇場を設計し建てた。神話は歴史解釈して建築の空間構成に転化、文学は空間のイメージに直接転換した。この章以下には出雲に関する言語空間を建築空間に転化する方法を記す。

 

・小泉節子

 ラフカディオ・ハーンは帰化して日本名小泉八雲と言うから定めし出雲に長期間居を定めていた様に思っていたが年譜を読んで見ると、そうではなく、明治23年(1980)8月30日に松江に着き、翌年2月に小泉節子と結婚、その年の11月には熊本に移っている。出雲には一年少々しか居なかった。しかしハーンは死ぬまで妻に好きな場所として松江、美保ヶ関、日御崎と伊豆地方の地を挙げていたらしくそれ以外ではマルティニークと焼津だけだったと言う。現在松江市にはかつてハーン夫妻が居住した武家屋敷が小泉八雲館となっていることもあり松江との縁の深さを強調されているがこれは居住期間の長さとは無縁である。ハーンにとって「出雲」とは妻小泉節子をして表われ出る出雲だったのかもしれない。節子がどの様な育ちだったかは残念ながら殆ど知る所ではないが彼女の『思い出の記』を読む限りそれ相応の教養を身につけていた様である。出雲は神話の国である。当然節子も数多い神話、伝説等を聞き読みながら幼年から少女期を過したに違いない。古事記や風土記の神話も国引きの勇壮なものを除けば殆どは敗亡の物語でありしかも日本の代表的なものばかりであるからこれを聞き読んで育つこの地の人々の心性は少なくとも明朗活達の陽気が生々と躍動することにはならないであろう。むしろ極めて陰翳に富んだ感受性を育むのではあるまいか。小泉節子にはその様な傾向が特に強かったのではあるまいか。『思い出の記』でことに印象深いのはハーンが節子を通じて『怪談』等の原話を聞くシーンである。節子はハーンには怪奇趣味があり又夢が好きで彼女の見た夢を興味深かげに聞き入っていたとも言う。怪奇趣味はハーンの作品を読めば誰にでもわかることではあるが彼の感受性が松江や出雲地方の風物に見事に呼応するのも彼のこの持って生れた怪奇趣味と無縁ではあるまい。ハーンが冬の日御崎に行ったことがあるかどうかはよくわからないが怒涛逆巻く岩礁の上に群れ飛び叫けぶ海猫の不気味さは充分に奇怪な風景ではある。

 

 淋しそうな夜、ランプの心を下げて怪談をいたしました。ヘルンは私に物を聞くにも、その時には殊に聲を低くして息を殺して恐ろしそうにして、私の話を聞いているのです。その聞いている風が如何にも恐しくてならぬ様子ですから、自然と私の話にも力がこもるのです。その頃は私の家は化物屋敷のようでした。私は折々、恐しい夢をみてうなされ始めました。(『思い出の記』)

 

 ハーンは原話を節子に覚えさせ彼女の言葉として表現出来る様になって始めて話を聞いたと言う。当然節子の感性を通して原話は変容されているはずである。

 

 たとえばあの『骨董』の初めにある幽靈瀧のお勝さんの話の時なども、私がいつものように話して參りますうちに顔の色が青くなって眼をすえているのでございます。いつもこんなですけれども、私はこの時ふと恐しくなりました。私の話がすみますと、始めてほっと息をつきまして、大變面白いと申します。「アラッ、血が」あれを何度も何度もくりかえさせました。(『思い出の記』)

 

 「幽靈瀧の伝説」は極く短い話ではあるが更にそれを縮めるとざあっと次の通りである。伯耆の国黒坂村にある幽霊滝。明治の初め頃、ある麻取場で女房娘達が休息を火鉢を囲んで怪談話に興じているうちに誰か幽霊滝に行って来る人はいないか、いたら今日取った麻を全部あげようとなった。大工の女房お勝はそれでは私が行って来ようと二才の一人息子を背負って夜道に出て行ってしまう。幽霊滝に着き賽銭箱(行った證拠)を取ろうとすると滝から「おい、お勝さん」と二度も恐しい声がしたが夢中で賽銭箱を抱えて走り帰って来た。女房娘達はその勇気に感心するがその中の一人老婆が子供を下したらと言って下しかけると「『あら、血が… 』半纏から床に落ちたのは、ぐっしょりと血の染みたひとくるみの子供の着物、そこから突き出ている日に焼けた小さな二本の足、日に焼けた二本の手—それだけであった。子供の頭は、もぎ取られていたのである。」この原話は『文芸倶楽部』に掲載されたものであるが筋はハーンのものと殆ど変らない。しかし表現は全く違っている。多分節子の話し方が原話の生硬な感じとは随分違っていたからであろう。「アラ、血が」と言った表現は原話の何処を探しても見当らない。節子が工夫してこの様な表現へと話を展開しそれを更にハーンが作品へと昇華させていったに違いない。この様な原話の表現変容の様子を見るとハーンの作品には色濃く節子の感性が投影されていることがわかる。彼女は話していてふと恐しくなることがありそれが余りひどい時にはハーンは一時中断させたと節子は書いている。多分節子自身にも怪談好きの傾向が強くそれがハーンの怪奇趣味との間に強度の共鳴を惹起したのであろう。節子の怪談好きは生来のものではあったのか、それは敗亡神話の国出雲女性としての共通の感性でもあったかもしれない。

 

・『雪女』とペルシア神秘性

 ある猛吹雪の夜、青年己之吉が老人の茂作と舟便が絶えてしまった舟小屋に避難しひと眠りして目覚めたら、小屋には若い女の姿があり、茂作老人に白い息を吹きかけている。しばらくするとその女は己之吉にも息を吹きかけようとするが止め、今夜のことは他言無用、さもなければ生命を取ると言って消えてしまう。茂作老人はすでに事切れていた。翌年の冬に仕事の帰り若い美女と行き合った己之吉はその女を娶り10人の子を成すが、つい若き日の雪女との一夜を妻に語ってしまう。するとその雪女は私ですと睨む妻は、子供可愛さに夫を殺すことなくやがて天に上って行ってしまった。猛吹雪の雪明りの夜の美しさを余す処なく描いた名作ではあるが、この物語そのものには特徴的な空間は何も描かれてはいない。処が極めて強い空間的な印象を抱く。強い吹雪で「大海に浮かぶ小舟のように軋んで揺れる」舟小屋の外部描写から真夜中に眼ざめると「全身が白装束の女」が「茂作の上にかがみ込み、息を吹きかけていた」とそこで一転して内部に突然場面は転換する。そこには「雪明りに照らされて、女が部屋にいる」のである。そして茂作老人に息を吹きかけている。「息は白く光る煙のよう」だった。茂作同様雪女に殺されかけた己之吉はようやく身体も回復し、翌年のある冬の日美女に行き合う。恐怖の一夜から幸福な日々への転換である。10人の子を儲け幸福の日々のある夜破局は一挙にやって来る。己之吉が雪女との約束を破ったからである。会話の極端に少ないこの物語にあって最後の場面だけは夫婦の会話で終始している。この肉声の交換に悲劇のリアリティが見事に表現されているが、これも映画ならばふたりの顔が大写しされる場面であろう。

 『怪談』の諸話には殆ど原典があるが『雪女』の原典は明らかにされていない。節子が物語ったのは確かであるから出雲地方によく知られた民話であったのか。たいした豪雪地帶でもなく又寒冷地でもない出雲にこの様な民話が広く流布していたとしたら不思議な気もするがこれを語った節子は『雪女』に立ち表われている猛吹雪の夜の怪しくも美しいイメージを創出する感性を有していたと言っていいのではないか。勿論ハーン自身の詩精神が美の昇華とも言うべきこの短編を生み出したのは言うまでもないが、『雪女』以外の諸話は必しも結晶美のイメージを現出していない処を見ると決った原典を翻案することのなかった分節子の美意識がそのままハーンに直接伝達されているとも思える。この『雪女』のみに強くペルシア神秘主義に近似した美意識を感じるのは何故なのか。何とも不思議なことではある。ペルシア神秘主義とはイスラム神秘主義、スーフィズムのことである。井筒俊彦の『イスラム哲学の原象』を手短く要約して見るとスーフィズムとは以下の如くである。「 …がある」とものの存在を表示するのが普通であるがたとえば「バラが赤い」「百合が白い」と言った場合と同様この「ある」と言う「存在」はものの属性として把握されているが存在の実相とは遠く隔け離れている。「花がある」のではなく実は「存在が花として顕現している」のであり「存在」が主語たり得べきである。「存在」即ち「神」であるのは一神教であるイスラム神学として当然であろう。私達を取り巻く世界の森羅万象は実は絶対存在である神の様々な顕現の様態であってこの無際限の分節も実は「一」なるものでありこの「一」なるものは本来無分節であり理性からすれば認知出来ない闇である。理性に現象するものはまさに森羅万象自体であり私達は日常これを眞実在として信じているがこれこそ幻影であり存在の仮象に過ぎない。この仮象の奥の奥に眞実在を認知し得るその認知力とはものごとを分別する表層の理性にはなく深層意識の中にしか具備され得ない。仏教ではアラヤ識、スーフィズムでは「ルーフ」である。C・G・ユングに於ける「集合の無意識」である。仏教でも道教でも存在の「無」と「一」なる実在との同一性とそれを感受する深層意識との関係は同じである。スーフィズムの大きな特徴には「光と闇」によってそのイメージが伝えられていることである。まさにゾロスター教の伝統がここに生きている。但しゾロスターは光と闇が善悪の徹底した二元論で語られているがスーフィズムでは光と闇が分節対立しているのではなく「存在」の二面でありそのもとは同一である。存在即ち神である「原存性」は無分節たる混沌の状態であるから当然「闇」「夜」の暗さでもある。処がその闇であるはずの夜が明るく照っているとスーフィは感じているのである。混沌とは形而上的夜でありここから全ての現象的存在が発出するからそれはまさに太陽の光によって事物が眼前に顕現する(さま)に似ている。形而上的夜が明るく照っているのはこの比喩に最も近い。

 さて『雪女』である。この物語の怪しいまでの美しさは猛吹雪のイメージを人間化し白く清々しい永遠の美女の造形に至った見事さに尽る。「土地の田舎者達は、お雪を素晴しい人だ、生れつき自分達とは違う人だ、と思った」のだ。己之吉の女房お雪はこの世を超越しているのであり異界の存在雪女とはイメージとして重なる。白い息を吹きかける雪女には吹雪の闇夜のかすかな雪明かりの美しさが形象化されていると言っていい。しかもこの世の存在ではないのに10人の子供達をこの世の存在として残している。超越的光である雪女、お雪が残した現実現象としての10人の子供達。即ち雪女が現象世界に顕現した諸相としてこの10人の子供達はある。この物語の透徹した結晶美はスーフィズム的世界構造に酷似している。このことから節子とハーンの夫妻にペルシア神秘主義が共時的に顕現した様に思えてならない。しかもそれが「出雲」と深い所で連携している。

 

・神秘文学の系譜とハーン

 『怪談』一冊を読むだけでもハーンには超自然的現象に対して止み難い嗜好性と鋭敏な感性を生来所持していたことが窺える。超自然的現象とは一般に神秘体験と不離不即の関係にあるから神秘体験と言える摩可不思議に巡り合わない限り超自然現象、即ち超常現象を記述出来ないはずである。しかしハーンにあっては必ずしも超自然的現象に巡り合わずとも日本や東洋の斯様な民話や文学を翻案することによって現実体験とほぼ似た情況を作り出すことが可能であった。即ち彼の神秘的事象に対する想像力にそれは由来していたと言うことになる。

 神秘文学と言うよりは怪奇小説と言う方が的確かもしれないがポーの『アッシャー家の崩壊』のことである。死んだはずの双生児の妹を柩に入れ蓋を螺釘で止め地下室に納め鉄扉を厳重に閉めて置いたはずなのに二週間後にその死人が柩から抜け出し重い鉄扉を開け階段を登って兄のもとへ来て倒れる。それと同時に恐怖によって兄は死んでしまい古い家系を誇ったアッシャーの血は絶え古色蒼然たる邸宅は音もなく沼の中に崩れ落ちてしまう。兄妹には双生児特有の以心伝心が可能であり死したはずの妹が地下室の闇の中密閉された柩の中でもがきつぶやく声を二階の部屋で二週間聞き続けていた。たとえ生きたまま柩に入れられたとしても常識ならば二週間の長きに亘って水も食もなくては生存不可能であろうし外から螺釘で閉密された蓋を開けることも出来ないであろう。それが出来たとなればまさに超常現象である。この小説は超常現象を描くよりも神経異常に陥った双生児兄妹のこの世を隔絶した古城での生活の最後と建物の自壊を描く。その自壊が嵐、雷光、瘴気漂う古沼と、極めて異常な自然状態を背景に進行する。その様子が読む者に恐怖を惹起させる、至って象徴性の高い短編である。

 ひゅうひゅうと吹き渡る風に靡く一面のヒースの原に孤立する古城を舞台に繰り広げられる異常な愛憎劇『嵐ヶ丘』も荒涼たる自然と古城を表現する『アッシャー家の崩壊』と酷似した空間設定となっている。エミリー・ブロンテのこの作は長編であるにも関わらず全編をこの荒涼たる舞台が生み出す愛憎劇として一点の緩みもなく描き切っているのは驚異である。要するに全編詩章である、この長編の作者の詩的想像力の持続が驚異なのである。これを支えているのが荒涼たる自然の徴に入り細に亘る描写であるのは言うまでもない。更にはこのヒースの原と孤立する古城を襲う嵐、雷光、闇から表われる幽霊の鳴き声、墓をあばく幽鬼の如き中年男の妄執、「ヒースの崖」を意味するヒースクリーフと若き日に愛する人を奪われた彼の飽くなき復讎心… 。嵐ヶ丘に連れられ来て養われた孤児ヒースクリーフはその古城の姫キャサリンに恋するが由緒あるリントン家に嫁ぐキャサリンとは生木を裂く様に別れさせられ嵐ヶ丘を失踪。三年後に嵐ヶ丘に帰って来た彼は復讎鬼と化していた。リントン家の姫を略奪結婚して生ませた息子ヒースクリーフとキャサリンの娘キャサリンとの恋までの二代に亘る因縁の愛憎劇が『嵐ヶ丘』なのであるが復讎鬼ヒースクリーフこそエミリー・ブロンテが創造した荒涼たるヒースの原を人格化した自然の化身なのである。従って雷鳴轟く嵐の闇夜にかつての愛人キャサリンの墓をあばき、彼女の幽霊と愛を交し死に行くヒースクリーフの狂気はそのままヒースの原の嵐の表徴でもある。

 ハーンが生存した一九世紀の末までは『嵐ヶ丘』はさほどに評価されていなかったらしく怪奇、神秘好みのハーンですら「その凄味のある想像力によって、近来批評家の注目をひいているので、将来あるいは新たな人気を博するかも知れぬ」と1900年から1903年まで勤めた東京帝国大学の講義で述べたと伝えられている。ハーンには『小説における超自然の価値』なる小論がある。この論の中で彼は作家の超自然描写はその作家の夢体験の再現でありそれ以外のものではあり得ないと力説している。フロイトやユングが出現する以前の所説であるからハーンの夢に対する執着はともあれ夢世界と文学の関連性に対する指摘は極めて先見性に富んでいる。この小論の中でポーにも触れ「ポーは恐しい音なんか使って、夢魔の他の特性を描いている。夢魔の中では、よく足音が近づいて来るような、陰にこもった音が聞えるが、この音はポーの『アッシャー家の崩壊』と言う話に、ひじょうにくわしく研究されているのを、諸君は見るだろう。」と述べている。この場合の音とは地下室からかすかに聞えて来る扉の軋む音、階段を登って近付いて来る足音等々… 死者であるはずの妹が発生させる音のことである。ハーンはポーの作品に特徴的である夢と魔が顕現する種々様々な現象、たとえば生命のないものが突然動き出す等を克明に描写すれば読者を恐怖に巻き込むことが出来ると明言している。「怖い夢は、宗教文學、あるいは迷信文學にも大きい影響を及ぼしている。死者の蘇り、天使や惡魔のまぼろし、こう言うものが描かれているばあいは、たいがいそれは夢の經驗の正確な引き冩しで、ときには、醒めているときの恐怖の要素が混じっていることもある。」としているが『怪談』の諸話もハーンは夢魔の顕現する風景として認識しながら書いたのに違いない。『怪談』に出雲地方の民話が取り上げられていないが出雲は神話の国である、この地方を特に愛したハーンは神話に埋っているこの地方の人々の「夢」に惹かれていたのかもしれない。出雲大社の北西日御碕の冬。海猫が群舞群棲し奇怪な鳴き声が暗雲垂れ込め怒涛逆巻く日本海にこだまする様は夢魔が現実世界に顕現したのではないかとさえ思わせる。妻節子はハーンの好きな場所として日御碕を挙げているが、多分それはあの海猫の群舞群棲する暗い海の無気味な風景を指しているに違いない。

 

・文学空間と建築空間

 

 私は先きにこの作品の堅牢な建築美について語った。いわば『嵐ヶ丘』の持つ構造美であるがそれを私は他の機会に『(嵐ヶ丘)の世界は?時間?と言う要素を床石に使った堅牢な二階建てのような構造を持っている』と書いたことがある。(『嵐ヶ丘』の訳者、田中西二郎の新潮文庫での解説)

 

 この場合の二階建てとは、ヒースクリーフとキャサリンとの恋が一階、彼等のそれぞれの二世であるヒースクリーフとキャサリンの恋が二階であって、余分と思われがちな二世達の恋を省略して一階のみとした映画「嵐ヶ丘」は原作ほどの感銘を与えなかったのはやはりこの「建築」には二階が必要であることを如実に示していると田中は言う。文学作品の構成が建築にたとえられることがままあるがその所説を展開する人々も建築については殆ど無知である場合が多く、単に「堅牢」「重厚」と言った単純な印象をキーワードとしているに過ぎない。文学空間と建築空間の類似性を叙述するにはもっと構造的解析を必要とするであろう。その点ハーンの「ゴシックの恐怖」は示唆的である。ゴシックの古い伽藍のある種の形は恐怖を呼び起すとハーンは言う。何故か考え続けたがわからない。建築の解説書も読んでみたが少しも役立たない。処が南洋で巨大な椰子の木を見た時に40年来の疑問は一拠に氷解したのである。森の屋根とも言うべき枝と蔓の絡み合いを突き抜けて椰子の木は天に向って伸びている。その天への意志と巨木を照り射す日光の荘厳に感動し、更に巨木がゴシック教会堂の柱列の様に並び枝や梢が絡る(さま)はアーチが連続しているのに酷似している。しかもこの柱列とアーチに似た椰子の巨木の群を凝視していると突然動き出すかに見え一瞬恐怖を覚えた。ゴシック教会堂に感じた恐怖も実は柱列が突然動き出す錯覚に襲われたこの椰子の巨木に対する恐怖と全く同じものであった。むしろ椰子の巨木に感じた恐怖はゴシックの古い教会堂に感じた恐怖の記憶が蘇って来たから起ったのであると彼は直感する。更に子供の頃にはアーチの尖った先きや曲線に得も言えぬ恐怖を抱いたのも植物成長の奇妙さへの畏怖の念が誇張されて表われたからかもしれないと思う。斯様な感想は誠以って当を得ていると言わざるを得ない。ゴシック教会堂の内部はハーンが直感した通りヨーロッパの深い森を形象化したものにだった。それは特にイギリスゴシックに顕著である。ハーンは又こうも書く。「ゴシック教会の内部は夜見ると、何か巨大な怪獣の骸骨の内部にいるような感じがする、と言う一節に感銘を受けた。特に大聖堂の窓を眼にたとえ、その出入口を『民衆をむさぼり喰らう』大きな口にたとえた、あの有名な比較に心打たれた。」ある小説の中のゴシック芸術に対する恐しさである。実は内部のみならずゴシック教会堂の外部もバットレスの林立する(さま)は動物の脇腹から肋骨が露出している様であり極めて不気味な印象を与えるものなのである。以上はハーンや他の小説家が古いゴシック教会堂の恐怖を建物の視覚的印象にからめて述べている、その描写の特徴を示した。しかし文学空間と言うことになれば以上の小説家の視覚的印象と彼の作品とどう関連するかを解明しなくてはなるまい。ハーンの『怪談』から『耳なし芳一』を対象としてそのことを試みる。

 盲目の琵琶法師芳一は平家の亡霊とも知らず高貴な屋敷に導かれ殿上人が居並ぶ広間で平家物語を弾じるが、実は安徳天皇の墓で真夜中ひとり淋しくじょうじょうと琵琶を弾いていたのであった。「芳一がただひとり雨の中で安徳天皇の御墓の前に坐って琵琶を弾き、壇の浦の合戦の段を大きな声で語っている姿を見つけたのである。(中略)墓という墓の上にも、たくさんの鬼火がさながら蝋燭のごとく燃えている」。芳一の琵琶に感動する亡霊が鬼火の跳梁として描かれるが、ともあれ芳一にとっては御殿で殿上人に弾いていたはずなのに墓場だったとする物語の巧みさもさることながら、「ただひとり雨の中」「御墓の前」「鬼火が蝋燭のごとく」と言った不気味な情景を重ねて芳一の幻想と対比させる。これを映像で表現するのは相当骨折れることかもしれない。ハーンは言葉のイメージ喚起力を活用して、至って短い描写で幻想と現実のギャップを鮮明に表出し、又赤間ヶ関の壇の浦の悲劇の場所とその雰囲気を見事な物語空間に転化出来た。言葉こそ現実を超越する最高の乗物であり、言葉で埋め尽くされる物語が人びとを異境に誘うのは当然としても、言葉によって現実の異境即ち建築空間創出をも可能とするのもまさに言葉の魔力、イメージ喚起力による。

 『耳なし芳一』は日本の物語であるがこれを書いたハーンは日本的空間感覚には至って乏しいはずである。それなのにこれだけ見事に怪奇な場面を描き切れたのはこの物語に感応するに充分な酷似の空間感覚を所有していたからに他ならない。これを仮りに「ゴシックの恐怖」としよう。夜たった一人で寺を留守していた処「芳一」と呼びつける声が聞える。盲目の芳一には声は唯一の実在なのである。ともあれ鎧兜が歩くごとに金属音を発するこの声の主に従って彼は宮殿へと導かれる。勿論盲目の芳一には実景を知る由もない。まず巨大で荘重な空間が彼の前に立ち表われる。闇に起立するゴシック教会堂の巨大な姿がこれに対応していまいか。宮殿の中の衣ずれの音と玉座の気配はステンドグラスから溢れる多彩な光や内陣の荘厳を思わせる。琵琶を弾き終えた芳一を日本一の巧者と女官にほめられるがしかし最後にここで琵琶を弾いたことは口外無用と釘を刺されてしまう。内部の荘厳に感動する気分が芳一のじょうじょうとした琵琶の音なのである。しかし宮殿は墓場、武士や女官、天皇は亡霊であった。これを知った芳一の恐怖こそハーンの言う「ゴシックの恐怖」ではあるまいか。不動のはずの柱列が突然動くその一瞬の幻影を現出させるゴシックの空間は文学空間としては亡霊と墓場で弾ずる芳一の姿として現象していると言えまいか。文学空間とは作中光景と読者の間に漲る緊張、厳密にはその作品の様々な個所が読者を刺激し揺り読者の中に現象する空間感覚を指す。これが極めて緊密な構築性を滯びて知覚される時にこそ建築空間と対比されるべきであろう。

 第四章 神話の空間

 

・神話に於ける喩の構造

 出雲神話として特に有名なのはスサノオの八俣大蛇退治と国引きであろう。八俣の大蛇は八頭の怪物であるがこれに酒を飲ませ酔って眠っている所をスサノオが討ち大蛇の腹中から草薙の剣が出て来て、それが天皇の三種の神器の一つとされる。この神話は多様な解釈が可能である。その一つとして暴れる大蛇とは大河の洪水のことであろうとされ、大蛇の流血によって「肥の河血に()りて流れき。」となるがこれは斐伊川上流から流れて来る砂鉄の赤を指すに違いないとされる。スサノオは当然洪水を止めた治水の英雄である。たとえば以上の解釈が可能なのも神話全体が喩として理解され易い多義性を有しているからに他ならない。八頭の大蛇など現実世界にはまず存在し得ない怪物でありそれだけでもこの神話に寓喩を読み取りたくなる。暴れる大蛇が大河と洪水の喩だとすれば八頭は数多い支流を意味することになろう。酔って眠ってしまうとは日照りで河が乾き、その間に王は治水に成功したのだともとれる。しかし神話を喩として捉えるのはいいとしても一つの解釈のみで理解されるべきではないであろうし又神話をまるごとそっくりそのまま夢物語同様に何の解釈も施すことなく受取るのでも何らさしつかえない。いずれにしても神話の超自然性を寓喩と感じるのも事実でありそれは何故なのか。

 喩には直喩と隠喩に大別出来るが喩を使用するのはコミュニケーションの受手に、より鮮烈な像を結ばせるためであり、優れた小説ほど作家の思想が巨大な喩として表現されているのは自明のことであろう。その場合は小説全体が隠喩であるのは言を俟たない。直喩は例えば「秀吉は猿の様な異相でかつすばしこかった」と言う場合、比喩の対象を「 …の様な(に)」と明示するのに対して「秀吉は猿」と言って「様な(に)」を省略してしまうと表現の直截性は失われるが内包性を増し表現が豊になる。これが隠喩である。神話が喩であるのならば当然隠喩であるのは言うまでもない。文字通り隠された喩であるから神話の一場面ごとに喩が隠されているかもしれないし全体に隠されているだけかもしれない。神話の場合八頭の大蛇や超人が物語の主要登場人(動)物でありその超自然性が喩を誘い込むと言える。国引神話も同様、ヤツカミヅオミツノと言う巨人が国土を海の向うから引いて来るのであるから超自然的事件である。神話に於ける喩が超自然性に由来しているのが確実であるとすればその場合の超自然性にこそ着目すべきであろう。超自然性とはハーンによれば夢世界のことであった。それでは八俣大蛇神話はC・G・ユング流の夢解釈からすればどうなるであろうか。蛇はとぐろを巻くと円錐形となるが平面的には渦巻状に表わされることが多い。又尾を噛む蛇はウルボロスと呼ばれ円形で表現される。円形はユング心理学では世界の始源の元型であると解釈されている。世界の始源は未分節の統一体「一」でもあるが混沌をも表わす。ウルボロスは「混沌」であるがこれがとぐろ巻き渦巻状になれば「混沌」たる始源世界が自己運動を開始したと言うことになる。まさに渦巻状に回転する銀河系宇宙の自己運動を思わせる。これを一刀両断するスサノオの行為は混沌たる世界を切り分け分節し秩序ある世界を現出することを意味する。腹中の草薙の剣は混沌世界の中心を示すものであり実はとぐろ巻く渦巻き運動の核を示すに違いない。だからこれが神器とされるのである。一方国引神話はどうか。海の向うから大魚を捕える様に国を引いて来たと言うから夢としては大魚を捕える光景としてもいいのであろう。水中に泳ぐ魚とは胎内の赤子である。それを捕えるとは母胎から赤子を引き出すことであるから誕生を意味するであろう。国引神話では引いた国は三個であるから誕生した赤子が三人ともとれる。この三人の赤子は勿論誕生したばかりの世界(国土)を表わす。八俣大蛇は始源世界(宇宙)を意味したのに対してこちらはそれが分節し生誕した個々の諸世界(諸国土)を示している。ユング心理学でよく言われる夢の進展過程からすれば八俣大蛇神話が先で国引きは後の順となる。

 大国主の国譲りには超自然的場面としては以下が挙げられよう。天上の国高天ヶ原から地上に降り立った天神が服命せずに地上で妻を娶りそのまま居付いてしまう。それを怒った天上では天上から地上に矢を放ち地上の天神を射殺してしまう。まずこれが一つ目。天上から派遣されたタケミカヅチが大国主の面前で海に剣を逆さに立てたきっさきにあぐらをかいて威嚇するのが二つ目であるが、この二場面とも八俣大蛇退治や国引きほどには超自然的ではないし国譲り神話全体も筋は極めて現実的色彩が濃厚である。これは現実にあった事件が神話化されている可能性が高い。又この神話は寓意性も低いのであって神話特有のおおらかさにも乏しい。出雲神話を辿って見ると八俣大蛇に表象される混沌から国引きに於ける諸世界の誕生を経て国譲りと言う政治の発生まで系統発生的構成になっていることがよくわかる。記紀や風土記など奈良時代に完成した古代文献に記述されている神話として一地方で出雲ほど系統的に整然と構成されている例はない。大和朝廷の根拠地大和地方にすらその様な神話世界は成立していない。その意味でも出雲は間違いなく神話の国と呼ばれるにふさわしい。しかし何故出雲に於いてのみこれだけ諸神話が系統的に構成されているのか。これは誰も答え得ないに違いない。しかしこの様に系統的に構成され、かつ豊饒でもある神話世界を所有して来た出雲の人々には他の地方の人々にはない神話的想像力が備っていると見てさしつかえあるまい。大和と出雲の対立が古代史家によってよく指摘されるがもしその様なことが実際にあったとしたらかつて大和朝廷成立前後の時代に出雲も大和と同程度の政治的経済的実力を備えていたことになる。但し記紀や風土記が成立した奈良時代には大和朝廷の支配下に置かれていた出雲には神話のみが残ったと言えば良いのであろうか。敗残は文学を生むが神話も文学の変種とすれば大和に成育せずに出雲で豊饒化したのも故ないことではない。

 

・出雲美術のペルシア性

 出雲地方には布志名焼と言う絢爛華麗でかつ透明感に充ちた陶器があり豪華絢爛の伊万里とは違った趣きを呈する。この焼物には模様も焼きの肌にも共通した清澄さがありかつ極めて華かでもある。これを一目見た時に思い出したのはペルシアイスラムのモスクの内部であった。ペルシアのモスクの内部一面には鏡モザイクが貼り巡らされステンドグラスを通して入って来る七色の光を一枚一枚の鏡小片が反射しまるで建物内部がダイヤモンドの様に多彩に輝いている。この輝きに近い美を布志名焼は具備している。同様の美を島根縣出身の日本画家橋本明治と石本正に見ることが出来る。多色を並列した極めて図式的な橋本の画法もさることながら石本正の婦人像「裸婦立像」には特にその感が強い。この作品は黄褐色の背景に胸より上部を露出した着物の婦人像であり着物は黒を地とした花模様であってむしろ地味なのに、絵は至って絢爛華麗である。人物の輪郭を囲う硬質の線には奇妙な程の透明感がある。布志名焼にしても橋本、石本の作品も芸術品である。これがペルシアモスクの内部の絢爛華麗に酷似していると言ってみても極めて直観的な感想でしかないし、又感想しか述べ得ない。しかしこの直観がそれほど的外れでないとしたらこのペルシア的美意識、もっと厳密に言うならモスクの内部空間に現象しているペルシア神秘学的美意識に酷似した美意識が何故出雲の芸術に顕現しているのであろうか。勿論これは文学に於ける『雪女』の美でもあった。

 出雲の人々の美意識を育む最大の要因はやはり宍道湖の夕日なのではあるまいか。湖の岸辺に坐して暮れゆく水面を眺めてつくづくそう思うことであった。水面に反射する夕日の美はまさにペルシアモスクの内部の光景を彷彿させる。一時の通過者がたまたま観た神秘的な光景を毎日眺めて暮す人々にそれはどんな影響を及ぼすであろうか。毎日のことであるから取り立てての感興を人々に与えはしないかもしれない。しかしこの光景が人々の深層に沈潜し彼等の生来の美意識と化した時にはそこから生れ出づる作品はこの光景を形象化したものになることは言を俟つまい。当然河井寛次郎にも言えるのであるが彼の焼物も布志名焼きと同種の美を蔵していると思えてならない。島根縣出身とは言え橋本と石本は出雲地方ではないが中海に面した安木出身の河井には当然なのかもしれない。ともあれ出雲美術に特有なペルシア神秘性をモスクの内部空間からもう少し詳細に検討してみたい。

 イランモスクは鏡モザイクが内部空間全面に貼り巡らされた壮麗なものであり、凹凸がきめ細かく繰り返される幾何学模様の浮彫に沿って鏡モザイクが貼られているから、これに射し込む光はまさにキラキラと輝くダイヤモンドのごとく目を見張る乱反射なのである。要するにダイヤモンドで出来上った巨大内部空間と考えて良い。その華美は筆舌に尽くし難いが、問題はこのことではない。無数の鏡の小片に映し出される光景は互いが互いを映し出しているから無限光明の空間を現出することになる。仏教の華厳経には無限光明、即ち光の粒子の散乱のイメージが鮮明に描かれている。まさに華厳経の世界が空間化されているのであった。このような空間を創造したのはいつの時代であり誰なのかは知る由もないが、最初にこれを構想した人の世界観を想像することは出来る。

 イランのモスクもほかのイスラム教国のモスク同様、中央に巨大なドームを戴くから、基本的には洞窟的空間であり、母の胎内を彷彿させる。外部は極彩色タイル貼りであり極めて絵画的な壁面で構成される。外部壁面は平滑単純であるのに、内部は種々様々の幾何学形が唐草紋様型に絡み合う浮彫装飾であり、まるで鍾乳洞である。もともと洞窟的空間構成であるのに、更に内部には鍾乳石が垂れ下がっているにも似た凹凸を見せている。しかもダイヤモンドにみまごうばかりに輝いているのであるから、明らかに世界の内側か人間存在の内側にまばゆい光明が想定されて出来上がっていることを示している。人間存在の内部とはそのままミクロコスモスと考えられていたことからすれば、この光明は表層の日常意識を神的世界へと誘う深い無意識、即ちアラヤ識、密教ならば曼荼羅の中心存在大日如来が放つ光明であろう。曼荼羅はそのまま「世界」であるとするのは密教的認識ではあるが、イスラム思想に於いてもほぼ同様のことが言われている。鏡モザイクを全面に貼り巡らす内部空間を抱くイランのモスクは、世界を内部からイメージし、救済も個人の内面から放つ強力な光明によって達成されるとする信念又は信仰から構想されたに違いない。事実ペルシアイスラム特有の神秘主義、スーフィズムはそんな世界認識を基調とする。

 ペルシアモスクと夕日の宍道湖を包む出雲地方の空間とはどう近似しているであろうか。宍道湖を囲む北側の島根半島も南岸一帶も緩い柔い曲線の低い山並みでできている。握り潰した和紙を延ばして拡げた時の皺に似て複雑な地形を成してはいるが信州の山岳地帶や富士の裾野の如く極立って特異な地形ではなくむしろ日本列島の中ではよく見かける優しい風景である。これはペルシアモスクの外観がトルコや他のイスラム国のモスクとそれ程大きく違っているわけではなく大きく異っているのは内部なのと似た関係を示している。宍道湖の特異性はペルシアモスク内部の総鏡モザイクの特異性に近似している。宍道湖を包む陸地の地形をモスクに見立てるなら外部に相当しこれが日本の他の地域に比して取り立てて特異性を呈していないのであるから、その意味では宍道湖とそれを取囲む地形はペルシアモスクの空間様相に極めて近い。出雲地方の地形は宍道湖や中海を除けば誠以って平凡であり逆に宍道や中海の潟の美しさだけが極立つ風景特性を有している。布志名焼も取り立てて特異な焼物ではない。その点絢爛豪華な伊万里や九谷の様な目立った特徴はないのだが地肌が他の陶器に見られない輝きを見せ極めて清楚である。石本正の「裸婦立像」その他の婦人像でも至ってなまめかしいのに妖艶と言うよりは清楚で高貴なのは何故か。要は布志名焼の美と同質なのだ。

 

・空間化する喩

 神話が空間化するのであればどの様な形式に於いてであろうか。神話がそのまま建築空間の様な容量をもった形態となることはまずもってないであろう。もしその様な例が存在していたとしても極めて稀れに違いない。神話が空間形式と化すのはやはり祭儀以外には考えられない。神話の国出雲は多彩な祭事に充ちているのはよく知られている処ではある。特に有名なのは国譲りを劇化している美保の諸手船神事及び青柴垣神事である。国譲りを強要された大国主は「三穂の碕」で釣をしている長子事代主に使者を出して判断を聞く。この時に仕立てられた船が快速船熊野の諸手船だった。事代主は父に国譲りを進言し自分は責を負い天の逆手と言う呪術の拍手を打ち船を傾け海に消えて行ってしまう。使者が事代主に判断を聞くまでが諸手船神事でありこれは12月3日。次に船を傾け海に消えて行く自殺の様子を再現するのが4月7日の青柴垣神事。双方とも二隻の船即ち事代主と使者の船を海に出して行われる。神話の舞台で神話劇を再現するのであるからこの両神事は極めて具体的な神話の空間化であるのは言を俟つまい。この神事で使用される建築空間は美保神社であるがこんな建築空間が神話時代に存在していたかどうかは定かではない。たとえ存在していたとしてもそれは神事の劇中の舞台装置として再現されるに過ぎず神話が建築空間化したこととは違う。美保神社の様な具体的建築空間が問題であるのではなくむしろ出雲神話全体の構成に対する美保の神事の意味が重要でありそれが神話の空間化を解く鍵となろう。

 古事記によれば高天ヶ原から追放されたスサノオは出雲に降り立ち八俣大蛇を退治し、クシナダ姫を救う。八俣大蛇は大河の洪水を象徴しているとされるが多分それは正しいであろう。又越の八俣大蛇と言うから越の大族を表わすであろう。八岐大蛇は蛇であるから蛇への驚異はそれが象徴する混沌の原初世界への回帰であろう。ともあれスサノオによって原初世界への回帰は回避された後、スサノオの子孫とされる大国主が国造りに励みそこは豊葦原の水穂の国と言われる程の豊饒な稲作国家となった。スサノオが降り立った時の出雲は高天ヶ原が天上であるのに対して地下のヨミの国に通じる死の国の入口であるに過ぎなかった。そのことは大国主がスサノオの娘スセリ姫を得るためにヨミの王スサノオの所に赴き数々の試練を耐え抜きついに地上に戻って来る、その地上が出雲であることからしても頷ける。死の国の入口に過ぎなかった出雲を豊饒の現世天国に面目を一新させた大国主に高天ヶ原は国譲りを強要しそれを実行してしまう。

 高天ヶ原とは不死の世界に違いないのだがそれが死すべき世界、現世の国を奪取するとは何を意味するのか。不死の世界がそれまで興味の対象ではあり得なかった死すべき世界を支配しようとしたとも考えられる。逆に不死の世界から訣別し死すべき世界へ参入し不死の世界の消滅を示しているのか。光耀く現実が観念的豊饒に過ぎない彼岸を呑み込んでしまう図式である。いずれにしても出雲は彼岸と対峙する程の豊饒さを現出していてそれを天上国に奪取され、その時に建国の英雄大国主父子は死の国へと旅立って行った。その時の模様を美保の神事は劇化再現しているのであるから不死と死すべき存在の一瞬の交代をこの神事は表徴している。又そう理解しない限りこの神事は単なる敗北の怨恨劇に過ぎなくなる。しかし出雲地方では古事記神話が大和朝廷と出雲王国の対立抗争、敗北として捉えられている傾向が顕著なのかこの神話を思想的に昇華していないきらいがある。同じ敗北の歴史を背負う北東北地方では近代以降でも宮澤賢治や太宰治など神話的語り手を輩出しているのに残念ながら出雲地方ではそんな人材が育っていないのではないか。

 神話を建築空間化することとはそのまま喩の建築空間化であり出雲神話についてならば不死と死の交代の喩としてそれは実現されなければなるまい。それならば出雲神話の喩の構造が建築空間に転化されたことがかつてなかったであろうか。答えは否である。余りに当然過ぎるので見過され易いが出雲大社こそまさに神話の空間化であった。しかしこの建物に於いて神話の喩の構造が空間構成を規定していると指摘した人は殆どいない。梅原猛が平面構成から国譲神話の眞相を追求したのが唯一の例ではないか。大国主は自ら死すに当って死後の住居を請求し「天つ神の御子の天つ日継ぎ知らしめさむ、と()御巣(みす)の如、底つ石根に宮柱太しり、高天の原に氷水(ひぎ)高しりて治めたまはば、()(もも)足らず八十熊手(くまで)に隠りて(さもら)む」と言う。これを生死の喩として読むならこうではあるまいか。不死の王国の王の宮殿と同じく大磐石に柱を太く立て大空に棟木を高く上げて作ってくれるならば私は隅に隠れていましょう。但し死の国の統治者となった不死の王にはこんな宮殿はもはや必要とせず死の世界に赴く私にこそ必要なのである。不死の宮殿を給わばたとえ私は隅に居ても私こそ不死の王となるに違いないことを言外に匂わせているのではないか。要するに不死の王よ貴方にとっては不要となった不死の世界の王に自分は交代するから不死の王の宮殿と同様のものをこの地上に建てよともとれる。従ってその宮殿は不死の世界天上をも突き抜ける如く飽くまでも高く持ち上げられなければならなかった。しかもそれは天と地を結ぶ宇宙樹である。伊勢神宮は天上の宮殿を天上に模した五十鈴川のほとりに建てた天上のコピーなのに対して出雲大社は天と地を繋ぐ巨大柱に支えられた宮殿であるから天上のモデルでもなければ地上世界そのものでもない。国譲りして現世を捨た建国の王が天上への参入によって得たまさに天地両世界への通路空間であった。

 

・ペルシア神秘主義と出雲神話

 出雲大社に言及したついでにもう少し神話と建築について考えたい。カール・ケレーニイ(『迷宮と神話』種村季弘・他訳、弘文堂)によれば迷宮は神話が空間化された典型例であると言う。迷宮は迷路と不離不即の建築であるのは言うまでもないが、迷路の基底図形として螺旋が挙げられるのが極く一般的である。迷宮は死を表象する空間であるのもほぼ自明のことだとケレーニイは言う。それでは何故迷宮は死を表象するのかと言えば螺旋と動物の腸、動物の腸と迷路の形態的近似性をまず前提とし動物の腸は混沌や死のイメージを喚起するから結果として迷宮が死を象徴する。但しメソポタミヤの粘土板に描れた二重螺旋図は実は腸による生死の占いのためのものでありこれが混沌や死のイメージを喚起している。これは考古学的検証であるから極めて言説の確度は高いであろうが神話の喩の構造が建築空間にどう転化したかを考察しているとは思えない。勿論それが主題ではないのだから当然と言えば当然であろう。しかしいまだ人々が素朴だったと思われる古代メソポタミヤ時代のことであるから神話が建築空間化するのにも、動物の腸占から死を導き出す極めて具体的経過を必要としたのも頷ける。その点は出雲大社の方が抽象度が高いかもしれない。但し今までの論者の殆どは高天ヶ原の宮殿を模して造られたとする古事記の記述をそのまま受け入れているに過ぎないから神話の喩と空間構成の関係に言及しているわけではない。

 さてメソポタミヤの腸占いと螺旋、迷路の関係に触れたわけであるからこれとメソポタミヤの後身文明ペルシアとの関係を推理することが可能であろうか。イスラムの一種としての神秘主義の建築と迷宮とは必ずしもイメージが重り合うことはない。むしろ逆の印象こそ強いとすら思える。処が出雲神話と迷宮ならば充分にその近似性を認めることが出来そうである。国譲りを不死と死の世界の交代に於ける地上の王の天上への参入と読むならば出雲大社の空間構成は的確に喩を転化している。しかしそれは国譲りの一瞬の出来事の空間化に過ぎない。スサノオの出現から大国主の国譲りまでの神話全体を表象しているわけではない。国引神話は古事記とは別系統であるからここでは古事記神話のみに着目するならば出雲神話全体としてはスサノオから大国主までの系譜は複雑怪奇、事件の筋道は捻転しそのまま迷宮的である。もしこれが現実的事件記述ならば国譲りの眞相はまさに「迷宮入り」であろう。しかしこの神話を日常化しているはずの出雲の人々はこれまで迷宮を造営して来た事実はなさそうである。勿論日本に迷宮の伝統が皆無であることにその最大の原因はあろう。但し出雲の人々の精神に迷宮性は投影されているとは言える。もしもそうならばメソポタミヤの迷宮とペルシア神秘主義との関連を探り出すことの延長線上に出雲神話とペルシア神秘主義との関連性を措定することが出来るかもしれない。ペルシア神秘主義がそのまま建築化した内部全面鏡モザイクのモスクには迷宮性は認められない。しかしこのダイヤモンドにも比すべきモスクが立地する都市全体は迷路の集積であり、逆に言うならその迷路状都市にまるで特異な光輝を放ってモスクは建っている。従って地である都市の住居集合の迷宮的様相とモスクとは極立って対称的である。これがペルシア都市の一般的形姿であるのだからダイヤモンドの如きモスクは混沌が空間化した迷宮状都市を背景にして始めて生れ出て来たものであると言える。同様出雲神話の迷宮性を背景即ち地として出雲美術の光輝性が図となり浮び上って来たのではないか。

 別系統と言われる国引神話は明朗闊達なイメージに充ちているのも実は古事記の出雲神話の混沌、迷宮性を背景にして始めて理解出来る気がする。それでは何故混沌の表象である迷宮状の都市空間から清澄の極致(ペルシア)神秘主義が生れ出るのであろうか。迷宮状の都市とは言ってもペルシア始めイスラム教圏の中東の乾燥地では庭園が都市風景の重要な要素であることは誰しも認める処である。イスラム庭園はエデンの園をイメージして造営されているから旧約聖書に親しんだヨーロッパの人々が始めてイスラム庭園に接した時にはたいがい失望してしまうらしい。想像したよりも遥かに樹木も水も少ないと感じるそうである。フランス周辺の緑と水に恵れた国の人々にとってはその感は特に強いであろう。しかし砂漠に覆われる乾燥地の眞只中に存在するオアシスに飢と渇きの果に辿り着いたキャラバン等のことを想像してみるがいい。水と緑の実際の量はたとえそれほどでもないとしても砂漠では救済となり天国と感じられたであろう。砂漠では逃げ水の蜃気楼に出合うと危険であると言う。幻の水を追って遂には行き倒れてしまうのである。ペルシア庭園はイスラム庭園の原形であり又イスラム庭園の中でも特に美しいとされる。平面は田の字を基本とした幾何学構成(四分庭園)でありヨーロッパの様に樹木の枝が剪定されることはない。それでも規則正しく等間隔に植られ、柱列にそっくりであり水路や噴水等も極めて整然と配置されている。要するに迷宮状の都市の中に斯様な庭園が点在し楽園を現出するのがペルシアの都市空間、風景なのだがこの楽園は神アラーが現出する空間であると彼等は認識している。現世の象徴としての迷宮状市街地と楽園の象徴庭園が曼荼羅模様を為しているのである。これはスーフィの表層から深層への意識階層を並列させて都市風景化しているとも思える。又こんな都市風景がスーフィの神秘主義を生むに至るとも考えられる。

 出雲に即して言うならば神話自体がペルシアの迷宮状都市風景に喩えられる。夕日をキラキラと照り返すあかね色の宍道の湖面は砂漠におけるペルシア庭園のイメージに似た「救済」を示していると言えまいか。国引神話は海面の上を巨大魚に見立てた島を引っぱって来る空間劇であり当然森羅万象を写し出す海のイメージが濃厚である。まさにこの神話にこそペルシア神秘主義の心象風景に通じる美を見出し得るのではあるまいか。これが出雲美術のペルシア性の謎を解き明かす鍵となるであろう。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2003/06/07

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渡辺 豊和

ワタナベ トヨカズ
わたなべ とよかず 評論家 1938年 大阪市に生まれる。

掲載作は、2003(平成15)年6月「電子文藝館」に書き下ろし初出。

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