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戦艦武蔵の最期(抄)

この一編を、

北緯一二度五〇分、東経一二二度三五分、

水深一三〇〇メートルの

海底に眠る戦艦武蔵の戦友にささげる。

  (二)

「総員退去ッ!」

「生存者は急げッ!」

 伝令の声はつづいた。

 語尾を太く長くひいて、高くうわずったその声は、断末魔の武蔵そのものの絶叫のように、通路に反響し、デッキを震わせ、鉄壁を打ち、暗い甲板に右往左往している士官や水兵たちの鼓膜を噛んだ。

 伝令はいったん上甲板に降り、その足でまた号令を連呼しながらバタバタと右舷の通路を後部に向って駈けて行った。

「総員退去、急げ、急げッ!」

 伝令のその足音を聞きながら、おれの心臓はおれより慌てた。血が一時に頭にのぼった。眼先が揺れてくらくらした。が、それもほんの一瞬だった。

 おれは急いではずしてあった略帽にあご紐をかけ、背中にしょっていた鉄カブトを床に投げすてた。それを見て村尾一水が起き上がろうと片足をばたばたさせたが、おれはそれにはかまわず出口に向って駈けだした。

 が、ものの二、三歩といかないうちに、いきなり誰かに後ろから足首をつかまれてつんのめった。肩が泳いだ。おれはあわてて壁に片手をついてのびた体を支え、その手をもぎ放そうと後ろを振返った。みると村尾が腹這いになったまま両手でスボンの端にしがみついている。

 彼は下から真っ青にゆがんだ顔をあおのけて、

「こわい、こ、こわい、ね、いっしょに連れてって……。」

 とわなわなと胴ぶるいしながら、ずるずるとおれのほうに副木をあてた体を寄せてきた。

 だが、こんなに切迫した状況のなかで、他人(ひと)のことなどかまってはいられない。いまとなって自分ひとりが無事に逃げられるかどうかもわからない。それに村尾は膝の骨を砕かれていて、肝心の足がきかない。かりに海に飛びこんだところで一分と浮いていられないだろう。見殺しにするようで可哀想だが仕方がない。(村尾よ、許してくれ、じゃこれでお別れだ……。)

 おれはいきなり蹴とばすように二、三度から足を踏んで、しがみついている村尾の手を邪慳に振りはらった。が、村尾も必死だった。はげしく肩をよじりながら、おれの左足に顔をぴったりすりつけて、

「こわい……、こわい、……上に……上に連れてって、……連れてって………。」

 瞬間、おれは自分と闘ったが、闘うまでもなく言葉はすでに用意していた。

「離せ……村尾……離せ……おい、離せったら離せッ……。」

「お願い……お願いです。……死ぬのは…………いやだ……いやだ、こわい……ね……矢崎兵長……上に……上にあげて……お願い……上にあげてッ。」

 村尾は喘ぎあえぎ、眼をむいていよいよ固くおれの足首を抱えこんでくる。万力(まんりき)でしめつけるように……。 おれはもう一度力まかせに足をふったが、とても離れそうにない。震えているその膝と腿に副本をあてて巻きつけた厚い繃帯が山のように盛りあがっている。それがおれの眼にへんに近づいたり遠のいたりする。おれは重心をたちまち失なってよろめいた。

 その時、油だらけのいんかん服を着た機関兵の一団が、なにか叫び叫び、反対側の通路をバタバタと後部のほうへ駈けぬけていった。頭と腕に繃帯を巻いた一人は、両脇から抱えられるようにしてよろよろと走っていく。

それを見ておれは促されたように、咄嗟にしゃがんで村尾を抱き起した。どうせ駄目なら彼の気のすむようにしてやろうと思い直したのである。おれは瞬間、自分の気弱さを悔いながら、急いで彼のほうに背中をむけて、

「よし、いいか、しっかりつかまってろ。」

 と叫んで村尾をおぶって駈け出した。が、出口のラッタルのところまでいって顔をあげて立ちどまった。ラッタルのまわりには負傷者がひしめいている。負傷者は踏み段のうえにも折り重なっている。とても上に出られそうもない。

 おれはあわてた。頭は一つのことでいっぱいになって、じんじん痛んだ。さて、どうしたらいいか……。その時ふと、さっき機関兵が反対側の通路のコーミングから抜けていったことを思い出した。そっちにどこか別の出口かあるのかもしれない。行ってみよう。おれはひき返した。電灯が消えかかってちらちらしたが、幸い消えずにすんだ。おれは先にコーミングをくぐり出ておいて村尾をひっぱりだした。

 飛びこんだとなりのデッキには見覚えがあった。以前ここで艦内実習の座学をうけたことがある。

(大きい艦になると同じような区画が多く、位置の見分けが難かしかった。)この隣はたしか通風機室になっており、そこの狭いラッタルを登っていくと、左舷上甲板、士官私室の手前に出られるはずであった。

 おれは駈けた。床はそこも血のりでぬらぬらしている。そしてところどころに、行き倒れのように負傷者が倒れている。這いずりながら肩をふってもがいているものもいる。そのためときどきまたぎそこねて足がもつれたり、滑ったり、前にのめったりよろけたりした。一度は血のりに足をとられて眼から星が飛ぶほどつんのめったが、おれはすぐまた起き直って村尾を背中にずり上げた。

「村尾、いいか、手をはなすな……。」

 村尾はおれの肩にいよいよ固くしがみついて、

「はい……す………すみません、……すみません……。」

 と、半分泣き声になっていいつづけた。

 デッキは壁ぎわにチストが並んでいるだけで、がらんとしていた。それだけに何かものものしく一層不気味だ。デッキがいまにも逆立ち、でんぐり返り、木っぱ微塵に砕けるのではないかと思われる。おれは右手で棒になった村尾の右足をおさえ、左手は滑ったときの用意に前にあそばせながら、夢中で駈けていった。通風機室の横のラッタルを這うようにしてどうにか上りつめ、やっと上甲板の士官私室の前に出た。

 これで私室の通路を二区画後ろに戻れば、そこの防水扉が閉っていない限り、そこからすぐ露天甲板に出られるはずだ。途中で通路の電灯が消えた。あたりは急に真っ暗になった。おれはあせりにあせった。そして闇の中をあっちにぶつかりこっちにつまずき、よろけながら夢中で駈けた。それからもう一つコーミングをくぐって、そこの主計科倉庫の前から壁づたいにつぎのデッキに進み、そしてようやく露天甲板に通ずるラッタルの前にたどりついた。

 ラッタルは手摺りの片側がふっとんで斜めにかしいでいたが、登るには差支えなさそうだ。上の防水外扉は吹っとんでいてなかったが、鉄板の大きなめくれ目から、濃いよもぎ色の空がぽっかり見えた。(ああ、やっと着いた。)時間にしたら、ここまでほんの二、三分だったろうか。だが、おれにはそれが気の遠くなるような無限の長さに思われた。

 露天甲板に上がってみると、ここも逃げまどっている生存者でごったがえしていた。仄暗い夜の空気をゆり動かして、青ざめた顔や恐怖におののいた声が龍巻のようにどよめいていた。上衣を脱いだまま、思案にくれて舷側をいったり来たりしているもの、両手を口にあてて大声で班員をかき集めている下土官、下のハッチから釣床をひっぱりだしているもの、少しでも浮力をつけようと、カラの水筒を腰のバンドに巻きつけているもの、四、五人で一枚の道板を抱えて転げるように後甲板へ駈けていくものもある。

 そこにはもう軍規も階級もない。いまがいままで保たれていた艦の秩序はなかった。乗員を動かしているのは、もはや艦長ではなく、血も凍るような死の恐怖だった。

 武蔵は甲板にうごめいている乗員の絶望と恐怖を乗せたまま、左側へじわじわと傾いていく。海はそぎたった白い牙をむいて、いつでも呑みこんでやろうと、舷側をくわえこむようにして噛んでいる。(ふな)べりはもう海面すれすれだ。もはやいかなる処置も、この傾斜を押しとどめることはできないだろう。沈没は寸前に迫っているのだ。

 おれはまわりの騒ぎに巻きこまれながら、おぶってきた村尾を急いで三番主砲のわきにおろした。だが、ここまで連れだしてきて見捨てるわけにはいかない。何か手につかまるものをあてがって海に飛びこませてやろう。火にあぶられるように、甲板の上でじりじりと死の瞬間を待っているよりそのほうが楽だろうし、あるいはひょっとして助かるかも知れない。おれはそう思って、甲板におろしたあともおれのズボンの裾にしがみついている耳に口をあてて叫んだ。

「ちょっとここで待ってろ、いまなにか探してくるから、いいか、ここを動くな。」

 だが、村尾はそれでおれに見離されたと思ったらしく、

「いかないで、ねえ、いかないで……。」

 と、はげしく顔をふってわめいた。

「ばか、いくもんか、すぐ戻ってくるから……。」

 おれはいって、急いで村尾の手をもぎ離した。後部の短艇庫にいけば、壊れたランチかカッターの板切れか何かあるだろうと考えたのだ。村尾の叫び声をうしろに聞きながら、おれは後部にむかって駈け出したが、五、六歩いって、鉄甲板の波よけをまたいだ時だった。

 突然、甲板をゆるがすような物凄い音が背後に聞えた。同時に耳もとをサッと風がかすめた。右舷に移動してあった防舷物が傾斜のあおりをくって転げだしたのだ。その音といっしょに悲鳴があがった。血しぶきが飛んだ。何人かがそれに押し潰されたらしい。

 おれは腰をかがめて思わず振りむいたが、見ると、いまのいまそこにおろしたはずの村尾の姿がどこにも見えない。

「村尾ー、村尾、村尾ーッ。」

 おれは大声で村尾の名を連呼したが、返事がない。

 暗くてあわてていたせいもあって、おれもまさかあの防舷物がロープもかけずにおいてあるとは気がつかなかったが、重さ四十貫もある(かさ)だかの防舷物だ。村尾も、おそらくその下敷になって海に巻かれてしまったのかも知れない。だが、それ以上、彼の行方をさがすだけの余裕はおれにはなかった。

 艦の傾斜はすでに二十度を越えていた。右舷が大きくせり上がってきているので、ちょうど片屋根の上にでも乗っかっているような感じだ。おまけにそこらじゅうに血糊が散っていて滑るので、立って歩くのがやっとだった。

 おれは三番主砲の前に立って、いっときどっちへ出ようか迷ったが、足はしぜんに後甲板へ向いた。後部のほうが飛びこむのに比較的安全だという固定観念があったのである。村尾をおぶってからずり落ちていたズボンのバンドを締め直しながら、おれは急いで三番主砲の塔壁を右へと廻りこんでいった。

 するとその時だ。ざわめいている後ろのほうから、

御真影(ごしんえい)だ、御真影だ、どけ、どけッ。」

 と、人をどかすのを当然と心得たような、居丈高な叫び声が、耳を刺すように聞えた。

 おれは反射的に足をとめて後ろを振りかえった。

 見ると晒布(さらし)で包んだ大きな額をたすき掛けに背中に背負った二人の下士官が、まわりを四、五人の士官たちに守られながら、先頭に立って叫んでいる先任衛兵伍長と衛兵司令の後ろから、傾いたマストの下をこっちにやってくる。それが「御真影」らしかった。

 武蔵ではふだん「御真影」は右舷上甲板にある長官公室に納めてあった。旗艦をやめて連司(連合艦隊司令部)がおりてからも同じ場所だったが、出撃の際、損傷しては畏れおおいというので、特に下甲板の主砲発令所の中に移した。ここは四方を厚いアーマーで囲ってあって、どこよりも安全だったからである。それをいま艦長の命令でわざわざ下の発令所から出してきたのだ。

「御真影」と聞いて、おれははっとしてみんなと一緒にあわてて道を開けたが、「御真影」の一団は、まるで箒で落葉でも掃き散らすように、そこらにおろおろしている兵隊たちを、手を振って押しのけ、突きとばし、甲板を這いまわっている負傷者の頭の上を乱暴にまたぎながら、しゃにむに艦尾のほうへ抜けていった。そのため、それでなくても混乱している甲板は、一層攪乱された。

 それを見ておれは、この火急の場合に「御真影」は出さずそっとしておいたほうがいいのにと思った。武蔵も「天皇の艦」である以上、それが「大事な写真」にはちがいないが、写真はあくまでも写真である。生身(なまみ)の天皇でも皇后でもない。それよりも今はできるだけ無用な混乱は避けて、一人でも多くの兵隊が無事に退去できるように考えるのが本当ではないか。それにあの二人の下士官だって、命令とはいえ、あのガラス入りの重い額を背負ったまま飛びこんだところで、おそらく自由には泳げないだろう。ひょっとしてあの紙片一枚のために、助かる命も助からないのではないかと思って、おれはうっかり頭も下げなかった。いまは死ぬか生きるかの瀬戸際、「御真影」どころではなかったのだ。おれは「御真影」の一団をそっけなくやり過しておいて、再び後甲板のほうへ急いだ。なにか適当な浮遊物を探そうと思ったのである。

 鉄甲板が血のりで滑るので、ときどき四つん這いになって進んだ。おれの前後左右を、やはり同じような格好でうろたえた兵隊たちが駈けていく。その間をぬって、あっちこっちから、恐怖にかられた兵隊たちの喚き声がひっきりなしに聞えた。

「沈むぞッ、早く飛びこめ、早く、早く……。」

「そっちゃ危ない、渦に巻きこまれるぞ、右へまわるんだ。」

「おーい、おれは泳げないんだ、誰か、おい、誰か助けてくれッ。」

「タキモトはいないか、タキモト、タキモト……。」

「服はぬぐなッ、いいか、着たまま飛びこめ、冷えてしまうぞ……。」

 舷側から艦内に残っていた角材や道板、マット、釣床などがつぎつぎに海に投げこまれた。

 そのあとから兵隊たちが、ぶつかり合いながら転げおちるように飛びこんでいく。しかし角材や道板の数は知れたものだった。すでにその大方を応急作業に使いはたしていたので……。だから退去がおくれてそれにあぶれたものは身一つで飛びこまなければならなかった。そして数からいってもそのほうがずっと多かった。そのため波に呑まれてそれっきり浮かんでこないものもかなりあった。

 みんな先を競って飛びこんだが、なかには飛びこむ決心がつかなくて、血相かえてそこらを狂ったように飛び廻っているものもいた。泳げない兵隊たちだった。

 艦尾のジブクレーンと旗竿のまわりにも、そういう泳ぎのできない兵隊たちが、途方にくれて一つところを意味もなくぐるぐると廻っていた。大抵まだ入団して日の浅い十五、六歳の少年兵だった。戦局が逼迫していたので、彼らは海兵団でも泳法はほとんど教えてもらえなかった。ただ短期の速成教育をうけただけで、そのまま艦に送りこまれてきたのだ。そのうちの三、四人が、肩をくっつけ合って斜めに傾いた旗竿にしがみついて叫んでいる。

「お母あーさん、お母あーさん……。」

 声がわれたように咽喉にからんでいるのは涙のせいだろうか。恐怖に舌がひきつれているせいだろうか。暗くてよくわからないが、その顔はおそらく真っ青に凍りついているにちがいない。額には脂汗がぷつぷつ玉になって吹いているにちがいない。おそろしい死を前にして、彼らの最後のよりどころはおっ母さんだ。ほかの誰でもない、たった一人のおっ母さんだ。だが、そのおっ母さんはここにはいない。おっ母さんは遠い遠い遙かな海の向うだ。いくら呼んでも叫んでも海の向うのおっ母さんには聞えはしない。とどきはしない。だが、それでもやはり母を呼ばずにはいられないのだ。

「お母あーさん、母あちゃーん、母あちゃーん……。」

 おれは彼らのそばを駈けぬけたが、どうしてやることもできなかった。手ひとつ出してやることもできなかった。ひと声、かけてやることすらも……。おれは自分のことしか考えていなかった。自分のことだけで精一杯だった。

 それにしてもおれたちをここまで追いつめたやつは、一体誰だ、誰だ、誰なんだ……。突然、はじけるような激しい怒りが胸いっぱいに突きあげてきた。それを誰にむけていいのかわからなかったが、おれは口の中でのろいの声をあげつづけた。

 彼らはきっと旗竿にしがみついたまま、艦と運命をともにしてしまうだろう。海中にひきずり込まれてしまうだろう。そしておそらく暗い海底に引きずりこまれていきながらも、なお声をかぎりに母の名を呼びつづけているにちがいない。

 のどを裂くような彼らの叫び声は、いつまでもおれの耳について離れなかった。

  (三)

 海はしだいに暗い夜の(とばり)につつまれてきた。右手にさっきまでうすく條目(すじめ)だっていた水平緑も死体のように黒ずんで、もう見えない。月は傾いた艦橋のこびんに、夜露にぬれた砲塔の天蓋に、甲板にうごめいているおれたちの肩のうえに、薄い光をあわれっぽくふり注いでいた。

 おれはその月あかりにあたりを透かしながら、ようやく後部右舷の短艇庫にたどりついた。そこの入口にも、兵隊が七、八人かたまってうろうろしていたが、おれはかまわず中へ飛びこんでいった。そして闇に眼をこらして、急いで奥のほうをのぞいてみた。が、そこに積んであったはずの円材はもうなかった。一本残らずきれいに持ち去られてしまっていた。ついでに壁ぎわを手さぐりして、ランチの救命ブイもさがしてみたが、むろんそれもなかった。それから反対舷の短艇庫にもまわり、さらにもう一度後甲板に駈け上がって、キャタパルトのまわりもさがしてみたが、やはりつかまれるようなものは何ひとつ残っていなかった。

 おれはがっかりして、一層あわてた。おれは泳ぎに自信がなかった。泳ぎといえば、子供のころ村の山あいの小さな川でぱしゃぱしゃやったぐらいで、あとは海兵団でプールに入ったのが五、六回、艦隊勤務に移ってからは、まもなく開戦となったので、それどころではなかった。そのため犬かきと平泳ぎの真似事がいくらかできる程度だ。が、もうこうなったらいちかばちか、運のおもむくままに素手で飛びこむ以外になかった。

 おれは以前「ボカ沈」組から聞いた体験談をふと思い出して、腹が冷えないように、急いで上衣の裾をズボンの中にたくしこみ、そのうえからバンドをきつくしめておいて、右舷のへりに体をたてた。乾舷が大きく傾いてしまっているので、右舷の海は眼下に裾をひいて遠くに暗くかすんで見える。おれはそこに吸いこまれそうな自分を意識しながら、一瞬眼をとじて身がまえた。腰がういて上体が前にせりだしていく。が、つぎの瞬間くるりと横向きざまにぶっ倒れた。段落をつけるように傾いていく艦のあおりをくったのだ。立ちそこねた体は、そのまま艦の勾配を左舷にむかって転けだした。あわてて手をばたばたやったが、どこにもひっかかりがない。滑るようにごろごろ転がっていく。そのたびに、真上の月が見えたり隠れたりする。ああ、もう駄目だ、艦の下敷だ、と思った。が、途中でキャタパルトの旋回艦にぶつかって体がとまった。はずみでその角で脇腹と頭をしたたか打った。瞬間、息がつまり、眼から星がとんだ。おれはいっとき激しい目まいとたたかったが、はっとしてわれにかえって素早く起きなおった。

 左舷の海面は盛りあがるように背後に迫っていた。波はぴたぴたと舷側にからまりついて黒くゆれていた。舷からつき出ているキャタパルトの先端とは、もう一尺と離れていない。だが左舷から飛びこむわけにはいかない。倒れかかっている甲板の下に巻きこまれてしまう。おれはまた四つん這いになって、甲板を右舷のほうへ登っていった。途中何度か滑って鼻トンボをついた。鼻から生ぐさいものが流れているようだったが、おれは無我夢中だった。いまは寸刻をあらそう瞬間だ。きわどい生と死の境目だ。艦はすでに人参色の艦底を宙にもちあげてきているではないか。

 傾斜は加速度的にくわわっていく。

 四十二度、四十五度、四十九度――。

 突然、艦体ががくんと前にのめって艦尾をあげた。右舷のスクリューが二基とも宙に浮いた。真鋳製の大きなスクリューの羽根が闇のなかに不気味に光る。そしてその上にも、四、五人の兵隊がのっかって、なにか金切り声で叫んでいる。

 後甲板には一部の負傷者が寝かされていたが、彼らは艦の傾斜とともに、折り重なって海へ転げ落ちていった。それといっしょに、そこらに投げ捨ててあった防毒面、鉄カブト、短靴、土官用の皮脚絆や軍刀、双眼鏡、そのほか右舷側に移動しておいた弾薬筺、要具箱などの重量物が、いっせいにがらがらと転げだした。悲鳴があちこちにあがった。身を刻むような悲鳴は海の中からも聞えた。

 おれは登りつめた右舷側に、かぶさるように急いで胸をふせ、はあはあと荒れた呼吸を肩できった。眼下に波が黒くうねっている。夜光虫のせいだろうか、舷のまわりがかすかに鈍い光を帯び、そこだけがうす青く不気味に浮きあがって見える。おれはその一点を見つめながら、空いているほうの片手で、眼にたまった汗をぬぐった。それから両手をへりにかけ、伏せっている肩から下を鉄甲板から引き剥がすようにして、向う側へ体をかわそうとした。が、気持はあせっているのに、全身がしびれたようにつれて、いうことをきかない。さっきの打身のせいだ。

 おれは、早く早くと自分に呼びかけながら、なおも体をゆすぶってあせった。同時に、焼けるような恐怖を背中いっぱいに感じた。畜生! 畜生! おれは自分で自分にじりじりして、いきなり、へりの鉄板を口にくわえこんだ。鉄板は分厚くざらざらして口にあまったが、その角に前歯をたてておれは夢中で噛んだ。ギギギギギギギイイイイイイイイイイ……。ああ、この舷の鉄板をひと思いにザックリと噛みきることができたらどんなに気持が楽だろう。そんな思いで、むちゃくちゃに下あごをふって噛みに噛んだ。悪寒がそくぞくと背筋を走る。眼の前にひらひらと黒い幕が揺れる。

 五十五度、六十度、六十八度――。

 傾斜の鈍い、くぐもった反動が、抗でも打ちこむようにズズン、ズズンと、伏せている下腹に響いてくる。前部のほうで、なにか崩れ落ちる音がつづけざまに聞えた。やがて艦橋が横倒しになり、甲板はほとんど垂直に傾いた。同時におれの体は棒のように甲板にぶらさがってしまった。もうどこにも足をひっかけるところがない。鉄板をくわえていた前歯がはずれて、両腕ものびきってしまった。指先の爪が、わずかにへりの角にかかっているだけだ。

 だが、ここで手を離したらもうおしまいだ。それこそ艦の下敷だ。そう思うと、身のすくむような恐怖に、全身が突然発作的に震えだした。冷たい汗が顔から首へ、首から背筋へと湧くように流れる。吸う息、吐く息までがのどをしめて苦しい。垂れ下がった体の重みで、首がひとりでに肩にめりこんで、いまにも腕がぬけそうだ。

 おれはその姿勢のまま、さらに靴の爪先で甲板を蹴りあげ蹴りあげ、向う側へ体をかわそうとあせった。あせりながら、口から熱い息を吐きつづけた。早く、早く……。亀裂が走ったのか、甲板のどこかがピシッと鳴った。傾いてくる甲板におされて、略帽の庇が折れて額にぴったりくっついてきた。眼をふさがれた。おれは無意識に体を横へ横へとずらしていった。そして無限のように思えた何秒かが過ぎた。片足がやっと繋留環の角にかかった。のびきっていたあごが上がった。同時に両ひじがどうやら向う側へかわった。つづいて、すくんでいた首が、肩が、胸が、そして腰から下がくねるように上にあがってきた。おれは立ちあがった。

 すると、立ちあがったおれの限の前に、べた一面牡蠣殼(かきがら)におおわれた、白っちゃけたサビ色の艦底がもり上がるように茫洋と迫ってきた。艦が大きく一回転しようとしているのだ。

 おれはとっさに腰をかがめ、横むきになると、艦底の上を斜めにつっきって走った。走りながら踏みくだいていく牡蠣殼のジャリジャリいう音を聞いた。暗い視野のなかに、何か白いものが激しく入り乱れた。おれは夢中だった。いちど牡蠣殼に足をとられて膝をついたが、すぐはね起きてまた走った。走りに走った。そしてそのまま艦尾のスクリューの手まえから、両手をひろげ、転げこむように体を海に投げだした。

 おれが、いったん沈んだ海中から浮び上がったのと、艦底が宙に(さか)立ったのとは、ほとんどまばたきするぐらいの間しかなかった。危ない。少しでも艦から離れなければ……。おれは泳いだ。両手でめちゃくちゃに波をたたいて泳いだ。

 波のうねりは上で見ていたときより高かった。手のひとかきごとに波が大きく顔にかぶさってくる。体が横っとびにはねる。そのためなかなか前に進まない。ただ、ひとつところを空しく廻っているようだ。おれは後ろにそそりたった艦底をせつないほど背中に意識しながら、それでもどうにか三十メートルほど離れたとき、もう一度、総毛立つ思いで後ろを振りかえってみた。

 そしてその瞬間だった。

 武蔵は、もう精も根もつきはてたように、艦底を高々と空にさらして転覆した。艦橋が、マストが、煙突が、砲塔が、そしていっさいの艦上構造物が、逆さまにひっくり返った一瞬、突然、轟然たる大音響とともに、眼もくらむような凄まじい火焔が空に噴きあがった。火焔は巨大な一本の柱となって、旋風のように沸騰し、ひらめき、(ほとばし)り、閃々と空を突いて屹立した。海は()え、空は轟き、空気は煮えたぎった。重油タンクか弾火薬庫の爆発らしかった。瞬間、あたり一帯は白熱し光芒に赤々と染めだされ、海は焔の光をはじいて、さながら真昼のように照り映えた。武蔵はその爆発の衝撃で、艦体を割って全身火だるまとなり、ついに濛々とたちこめる喪服のような黒煙につつまれながら海中深く沈んでいった。(時に午後七時三十五分だった。)

 この時、艦内にはまだ多くの負傷者や逃げ遅れた兵隊たちがとり残されていた。が、武蔵は彼らをもいっしょに巻きこんで沈んでいった。彼らの何人かは、おそらく海底についてからも、しばらくは密閉された艦内で生きていただろう。隔壁に爪をたてて悶えていただろう。だがしかし、その暗黒の深海のなかで、彼らが()めなければならなかった断末魔の苦しみが、どれほどのものであったか、それは誰も知ることはできない。

 焔のおさまったあとには、吐きだされたおびただしい重油と無数の甲板の木っ片が、ただそっけなく波間に浮遊しているだけだった。

  (四)

 爆発音が消えたあと、おれは伏せていた顔をあげてまたうしろを振りかえってみた。武蔵の姿は、もうそこにはなかった。瞬間、虚脱したような、ある不思議な寂しさにおれは胸を突かれた。それはまるで不意打ちのようにおれを襲った。おれは武蔵に乗りくんで二年になるが、おれにとって、武蔵はけっして乗り心地のいい艦ではなかった。それどころか、きびしい監視の眼に()かれながら、毎日のように殴られ、追いまわされ、ホゾを噛むような屈辱を受けなかった日はないといってよかった。

 むろん軍艦と名がつけば、どこも似たりよったりだということはわかっていたが、それにしても武蔵はひどった。そこには何ごとも艦隊の模範にならなければならぬ、という大艦の四角にかまえた矜恃があった。傲慢さがあった。おれたち若い兵隊にくわえられた苛酷な私的制裁も、実はそこから発していたのである。おれはそれがいやで、できれば早く他艦にかわりたいと思っていた。

 これは受理されなかったが、一度は呉に入港したとき思いあまって転勤願いを出したこともあった。が、その武蔵もいまおれの眼の前で、船体を割って消えてしまった。海中にその姿を永久に没してしまった。そしておれははじめて武蔵から、やっと自由になれたのだ。にもかかわらず、はげしく胸をいたぶる陰湿なこの寂しさはなんだろう。二年間をそこで過した自分へのいとおしみの情だろうか。行くあてもなく突然海におっぽりだされてしまった孤独感からだろうか。

 おれは「()ったな……」と思って、かぶる水を口から吐きだしながら、両手で夢中で水をかいた。沈没の巻きぞえをくわないためにも、できるだけ遠くへ離れなければならなかった。そこへ上から爆発で吹きあげられた破片や甲板の木っ片が、ばらばらと落ちてきた。その一つが、おれの肩にも当ってはねた。

 おれはいっとき首をすくめ、眼ざとくあたりをうかがった。何かつかまれるものはないかと思って……。見ると、すぐ鼻っ先に黒いものがぷかぷか浮んでいる。ドラム罐だ。飛行機格納庫あたりから吹きとばされてきたのかも知れない。腹の一部をわずかに海面に出しているだけだが、ひと一人つかまるぐらいなら十分だ。それはおれをこの無為なあがきから救ってくれるように思えた。つかまっていさえすれば、あとはどうにかなる。ドラム罐まで五メートルとなかった。

 おれは下手な平泳ぎでなんどか波をやりすごしながら、それに向って両手をのばした。片手がやっとドラム罐のへりにかかる。誘いかけるような固い手ざわりがそこにあった。ああ、もう大丈夫だ、そう思っておれはひと息いれ、つぎに全身の重みをあずけるために、もう一方の手をかえそうとしたその時だった。どういうわけかそれまで規則的にうねっていた海面が、不意に下から掘りかえされたように盛りあがったと思うと、のっぺらと白く泡立ちながら、轟々と廻りはじめた。背後からもなにか異様な唸り音が聞えた。

 と見る間に、水平にあげていた両足が変にもつれて、上体がくるりとねじれた。同時に片手でおさえていたドラム罐が、そのあおりをくって横に跳ねとんだ。ドラム罐はそのままくるくる廻りながら、平らにならされたような波のうえをものすごい勢いで後ろのほうへ滑っていく。おれはあわてて体の向きをかえて、それをつかまえようとしたが、途端にのばした両手がきかなくなった。つづいて、タガにでもかけられたみたいに、全身をはげしく締めつけられた。

「あッ渦だ、渦巻きだッ。」

 おれは顔をあげ、思わず両足でめちゃくちゃに水をけった。渦巻きはいよいよその勢いをくわえていった。渦巻きはおれの頭の中にもおこった。おれは夢中で首をふりふり、渦からのり出ようともがいた。のけぞった。ふとこのままどこかへ押し流されていくような錯覚におそわれたが、みるみるうちに体が棒だちになってしまった。海面に出ているのは、もう鼻から上だけだ。鋭いうねりの切っ先が追いかけるようにピシャッ、ピシャッと頬を打ってくる。渦のうねりは求心的な円をおしひろげて旋回しながら、粘るように手足にからまりついてくる。これに引きずりこまれてはならない。どっかに出口を見つけて、なんとか逃れ出なくてはならない。おれはもがきながら大声で、誰かを呼ぼうと思ったが、水がのどにつまって声にならなかった。

 突然、棒立ちのまま体が廻りだした。ま横から突きとばされるように、体はうねりに押されて右へ右へ大きく廻っていく。それにつれて海が廻った。空が廻った。月が廻った。なにもかもいっしょにぐるぐる廻りだした。

 おれは水にむせながら、ねじあげたあごを左右に振りつづけた。その真上の空に、月が飛ぶように廻っている。が、それもまたたくまに視野から消えた。なにか得体の知れない強烈な力が足首をつかんで、底のほうへぐいぐい引きずりこんでいく。それを振りきろうとおれはもがいたが、足は()えたように動かなかった。両手も背中に羽交いじめにのびきったままだ。

 鼻の奥につーんと水がさしこんでくる。耳が割れるようにごうごう鳴る。と思うまに、体はエビのようにまるまって硬直した。自分から本能的にそういう姿勢をとったのか、渦にもみくだかれているうちにそうなったのか意識しなかったが、おれはそのまま弾みのついたコマのようにぐるぐる廻りながら、螺旋状に海の深みへ引きずりこまれていった。むろんその間も、もがき通しにもがいたが、それも気持の上だけだった。……ああ、もう駄目だ、全身波のタガの中だ。もがけばもがくほど、いよいよきつく締めつけてくる渦の鉄環の中だ。

 おれは、次第に霧のかかってくる意識の中で、〈おれもこれでおしまいだな……〉と思った。とうとうその時がきたと思った。しかし不思議にそれはおれの心をそれほど打たなかった。むしろそこには、長い間がんじがらめに縛られていたものからやっと解きはなされたような、あるやすらぎがあった。眠いとき眠りのなかにずり落ちでいくような深い陶酔感があった。身も心も大きな海の自然のふところに一つになって溶けこんでいく。さっきまで耳の外でうるさく鳴っていた水の音もう感じなかった。不安も恐怖もなかった。なにもかも白く澄んで深く静かだった。そしておれはもうこれでいいと思った。渦にさからう気持もなかった。と、その一瞬、これまでのいろんな思い出が、稲妻のように青い尾をひいて頭のなかをめぐり、かすめ、一気につっ走っていくのをおれは意識した。

 ……独楽、メンコ、凧、鯉(のぼり)、水鉄砲、太鼓、綿菓子、クレヨン、笹舟、ブランコ、花火、山車、火じろ、机、スリッパ、オルガン、牛車、螢、西爪(ママ)、兎、鎌、いなご、脱穀機、稲むら(「みよう」と原文に注、ママ)、山葡萄、釣竿、やまめ、背負子、草鞋、餅、竹馬、どんどん焼き、自転車、サボテン、きのこ、蚕、水筒、鋸、トロッコ、わらび、麦笛、いのしし、枕、ピンセット、炭俵、蛙、苗代、馬力、ポスト、山門、スカート、本棚、ノート、万年筆、旗、アーチ、鉄橋、ハンカチ、……。

 記億の糸はそこでぷつりと切れた。ほの白い最後の光がつるりと意識の端から消え、かわりに鎧戸をおとしたように漆黒の闇がかぶさってきた。おれはまるまった姿勢のまま、手足から感覚がぬけいくのを感じた。意識はそこまでしかなかった。そしてそのまま眠るように空白の世界へ引きこまれていった――。

  (五)

 それからどれくらい経ったろうか。武蔵は沈みながら、途中で二度目の爆発を起こしたらしかった。そしてそれ以上に考えられないが、おそらくその時の水圧によったものだろう。おれはまた奇蹟的に上に吹き上げられたのだった。

 おれは生きていた。気がついて眼をあけてみると、真上にうすぼんやり黄色く光ったものが見える。それは、はじめのうちはおぼつかなく瞼のうらに錯綜し、ちらちらと消えてしまいそうに思えたが、昏迷していた意識が回復するにつれて、レンズを絞るように形がだんだんはっきりしてきた。

 それが月だとわかったとき、おれははっとして、仰向けになっていた体をかえして無意識に両手で水をかきだした。波がぴたぴたと顔にかぶさってくる。はげしい悪寒(上衣もズボンも渦巻きと爆風のためにいつのまにか脱げて裸だった)とともに、突然、つよい吐き気がきた。下腹は、さっき飲みこんだ海水ではちきれそうに膨らんでいる。口の中にも重油が入ったのか、きついいやな臭いがした。だがいくら吐こうとしても、何かどろどろした塊りがぬるっとのどにこみあげてくるだけで、うまく吐きだせない。おれはそのたびに窒息しそうになって顔を上げてあえいだ。

 周囲には黒い布でもかぶせたように厚い重油の層が一面に黒々と広がっていた。波は、広がった重油にあたまをおさえられて、低くゆっくりと動いている。だが、見まわしたところ、つかまれそうな浮遊物は見当らなかった。おれは重油が口ヘ入らないように、できるだけあごをあげながら、平泳ぎで早く重油の外へ出ようとあせったが、実際はぶざまな立ち泳ぎの格好で、ひとつところをぐるぐる廻っているだけだった。足がうまく上がらないのだ。足を上げようとすると、あべこべに頭が下がって重油に顔を突っこんでしまうのだ。

 ときどきあごや肩先に木っ片がぶつかってはねた。手でかきよせてみたが、どれもつかまるには小さすぎた。そのうちに、顔のまわりに不意に青いこまかな光の粒がチラチラしだした。夜光虫だ。重油の層はそこから切れていた。波のうねりが急にはずんで高くなった。

 おれはやっと海面に顔をつけて、口のまわりについた重油を拭いながら、まわりに眼をくばってみた。やはり生存者の姿はどこにも見当らなかった。飛びこむ前、沖のほうに遊弋(ゆうよく)していた護衛の駆逐艦の姿も見えなかった。それにしても、一体みんなはどこへ行ってしまったのか、どっちへ泳いでいったのか、それともみんなあの渦に巻きこまれてしまったのだろうか。

 すると、それから間もなくだった。後ろのほうでなにやら人の気配がした。おれは急いで顔をまわして、月明りに透かしてみた。波のむこうに小さく黒い影が揺れている。きっと生存者にちがいない。暗くて数ははっきりしないが、ぼそぼそ話し声もきこえるではないか。その低いささやくような人声は、おれの心に刺すように沁みた。妙になつかしく体が震えた。海に飛びこんでからはじめて聞く人間の声だった。おれは急に元気をとり戻した。仲間といっしょなら気づよい。下腹のつっぱったこの苦しみも、なんとかまぎれるだろう。

 おれは、おーい、と声をかけておいて、彼らのほうへ泳いでいった。ふくれている腹の苦しさも忘れて、手にも足にもひとりでに力が入った。近づいてみると、七人の兵隊が一列に角材につかまっている。水面に顔だけだして揺れていたが、みんな元気そうだ。

 おれは片手をあげながら誰にともなく、

「すいませんが、つかまらせて下さい。」

 というなり、角材の端にしがみついた。ああ、この固い木の手ざわりはどうだ。いままでずっとつかみどころのないやわらかな水をかきまわしていただけに、固い木の感触は、ドキッとするほど新鮮に心にせまった。その固さは同時に漂流の恐怖を消した。おまけに仲間が七人もいる。おれは助かったと思った。が、それまでどうにか浮力を保っていた角材は、あらたに加わったおれの重みで、ぐらりと傾いて沈みかかった。角材の浮力は六、七人が限度だったのだ。みんながあわてておれのほうを振りむいた。誰かが大声で怒鳴った。

「おい、お前、あっちへ行け、こっちが沈んじゃうじゃねえか。」

 だが、おれだって沈みそうなのだ。

「お願いだから、ちょっとつかまらせて……。」

 すると端にいた下士官らしいのが、凄味のきいた声で、

「この野郎、どけったら、どけッ。」

 と叫んで、いきなり固めたげんこでおれの顔を殴りつけた。瞬間、おれは投げとばされたボールのように、仰向けにひっくり返ったが、あわててかぶった水をふりはらって、夢中でまた角材の端にしがみついた。この角材を離したら、それっきりになってしまうかもしれない。おれは意地でも離すまいと思って、両手で角材をしっかり胸ぐらに抱えこんだ。が、相手も必死だった。空いているほうの片手でおれの首をしめ、ところかまわず顔を殴りとばし、それでも離れないとみると、こんどは垂れさがっている足を使って、腹のあたりをめちゃくちゃに蹴とばしてきた。腹はそれでなくても海水でふくれていて苦しい。そこを思いきり蹴られたからたまらない。おれは水にむせ、体をよじって、角材からずり落ちてしまった。それから苦しまぎれに、しばらく水中をもがき廻った。

 その間に彼らは遠ざかってしまったらしい。気がついたときには、付近にそれらしい人影は見えなかった……。

 おれは角材組と別れてから、流れてきた土官用の椅子につかまっていたが、あれから何分たったのか、何時間たったのか、時間の観念はまるでなかった。どっちへ流されているのか、それもわからなかった。体はもうすっかりまいってしまっていた。手も足もなまって、くたくたに疲れて、波がきてももう乗りきる力はなかった。ただ背あての壊れた椅子の木枠につかまって、どうにか顔だけ出して浮いているのがやっとだった。

 おまけにひどく寒い。裸のままずっと海につかっていたので、体の芯まで冷えきってしまったようだ。そのせいか下腹がたえず差しこむように痛む。吐潟もなかなかとまらない。おれは下腹の痛みと寒さに歯をがちがちふるわせながら、重油のまじったいがらっぽい腹の水をゲーゲー吐きつづけた。吐いても吐いても吐きたりない気持だった。

 おれはもう一度顔をあげて周囲を透かしてみた。見わたす限り暗い海の広がりだ。もうどこにも逃げ道はない。どこにも辿(たど)りつくところはない。どこにも人声はない。どこまでも不気味にあっけらかんとした暗い夜の海だった。おれはまわりのすべてから閉めだされてしまった何ともたとえ難い孤独と寂寥に噛まれた。そしてとうとう生きる望みを絶たれてしまったのを感じた。

 ここまで追いつめられてはもうどうにもならない。助かりはしないだろう。とすれば、死ぬ以外にないではないか。それに体もすっかり弱ってしまった。この漂流状態があといつまで続くかわからないが、とても泳いでいられそうもない。ここらが限度だ。おれは節々の力がぬけてぐったりとなった体を意識しながら、はじめて自分で死のうと決心した。これからの先の長い漂流の苦しみに較べれば、そのほうがずっと楽かもしれない。どうせ駄目なら、もうこれ以上わるあがきはしたくない。そう思ったのである。

 おれは出撃以来死は覚悟していたが、こういう状態での死は考えに入っていなかった。艦上で一撃のもとにうち倒されることばかりを考えて、生きたまま海に放りだされるなどということは予想していなかった。武蔵は簡単に沈む艦ではない、という期待と楽観が、どこかにあったのだろう。だが、いまとなればそれはどちらにしても同じことだ。艦上であろうと海中であろうと、いずれは死ななければならなかった。

 すると、これまでよく死に直面するたびに、歯ぎしりするような思いで自分をいいくるめ、納得させてきたあるあきらめごとの断片が、ひらひらと頭の中に舞いこんできた。……地球も宇宙も無限に続く。その無限の長さに較べたら、おれの一生なんて一ミリの何億分の一にもあたらない。それこそ眼に見えない一点のシミのようなものだ。いまおれがここで十九で死んでも、これから仮に長生きして五十年か六十年先に死んだところで、この宇宙の無限の長さからみれば、たいしたちがいはない。早いか遅いかのちがいはあっても、どちらも一点のシミであることにはかわりはない。

それだけのことだ。なんのかんのと騒いでみても、人生なんてもともと夢の夢なんだ。幻なんだ。

 おれは一瞬そんなとりとめのないことを反芻(はんすう)しながら、一方では、このまま死につくことに身をふるわせた。なにもかもまだこれからというのに、ここでいのちを閉じる。その思いは耐えがたかった。おれは誰かに、誰でもいい無性に誰かに訴えたかった。聞いてもらいたかった。ここで、こんなふうに死んでいかなければならないくやしさを、(かな)しさを、そして(むな)しさを……。だが、ここは茫漠とした南の絶海なのだ。おれは絶望して眼を閉じた。

 思えばあっけない一生だった。この世に生まれて十九年、その間まだこれという楽しみも喜びもなかった。むろん倖せといえるようなものもなかった。母のたもとをひいていたころの甘い思い出をのぞけば、あとは戦争にまつわる索漠とした思い出だけである。戦争をぬきにしては考えられない窮屈な、かわいた生活だけがそこにあった。とりわけ海軍に身をおいてからは、四角四面の殺風景なデッキの中で、棍棒と罰直におののきながら、一日として心のやすまる日はなかった。一日として存分に手足をのばしたこともなかった。むろん心から笑ったこともなかった。くる日もくる日も、身を焼くような屈辱と羞恥と苦痛の連続だった。そして今にして思えば、それもこれもすべて、今日のこの場所につながっていたのだ。結局おれは戦火のなかに消えていくように運命づけられていたのだ。

 でももし人間がふたたび生まれかわってこられるものなら、おれはこんどこそ戦争のない、平和な、誰もが屈託なく明るく笑って暮らせるような、そんな世の中に生まれてきたい。そして、あらゆる意味で自分をまっすぐ伸ばせるような、生甲斐のある充実した生活をこの手で(つく)りだしてみたい。……あの月明りにけむる水平線の彼方には、そんな爽かな生活のいぶきは流れていないだろうか。あの沖のトビ色の雲の彼方には、固く冷えきったこのおれの心をふたたびやわらかく温めてくれるコスモスの花は咲いていないだろうか……。

 おれは、いっとき真上の暗い星空をあおいで、「死ぬんだ、死ぬんだ」と自分にむかってなんども叫んだ。のどがつかえて声にはならなかったが、()かれたように、心の中で夢中で叫んだ。そうでもしなければ、なにか自分にふんぎりがつかなかった。おれは思いきりわるく、つかまっていた椅子を手から離した。椅子は重みをはずされたはずみで、ぽかっと水面にはねあがった。おれはそれが波の背にのって右へ流れていくのをちらっと眼の端にいれながら、無意識に両腕に頭をかかえ、息をつめ、そのまま足を折り曲げるようにして海中に沈んでいった。

 耳の外で海がごうごうと鳴っている。微粒子のような無数の青い細かな光が、ふさいでいる瞼の裏がわに入り乱れ、舞うように広がっていく。鼻の奥がつーんとして、くいしばっている奥歯が(きし)む。だんだん息がつまり、心臓のあたりがひきつれて、いまにもぶっ裂けそうになる。つづいて身を刻むような激しい窒息感がのどを締めつけてきた。……あ、もうすこしだ、もうすこしの我慢だ、もうすこしで死ねる、もうすこしで死ねる、………が、ものの一分とたたないうちに、体のほうが、死のうとする意志にそむいて、ゴム毬のように浮び上がってしまう。おれは苦しまぎれに顔をあおのけながら、ひとしきりばたばたもがいてまた頭をかかえて沈んでいく。……それ、こんどこそ、こんどこそ息がたえる、浮いちゃいけない、浮いちゃいけない、それ、もうすこしで死ねる、もうすこしで、もうすこしで楽になる。……おれはこの死のこころみを何度も何度も執拗に繰返した。浮く、沈む、浮く、沈む、……だが、やはりひと思いには死にきれなかった。

 おれはまたさっきの椅子をひきよせて、それにかぶさるようにしがみついた。ひどく胸が苦しい。内がわを何かにぎりぎりと咬まれているようだ。おれは椅子の木枠にあごをつけたまま、しばらく肩で息をきりながら、こんどは舌を噛み切ろうと思った。いつだったか、分隊長から「生きて虜囚の(はずか)しめを受けず」という訓話を受けたとき、いよいよ進退きわまったならば「(いさぎよ)く舌を噛み切って死ね」といわれたことをふと思いだしたのである。

 むろんいまも捕虜になる危険がないわけではない。ここは戦場だ。いつ海のむこうから敵の艦が現われないともかぎらない。そのとき、こんなところで漂流しているところを発見されれば、そくざに引掲げられて捕虜になってしまうだろう。その時になってから、じたばたしてみてももう遅い。とりかえしはつかない。瞬間、おれは敵艦の甲板にあげられて青い眼の敵兵にとり巻かれた自分を想像してぞっとした。その想像は、へたばっているおれの胸をはげしく突き上げた。

 おれは暗い沖のほうに眼をあげながら、いまにもそこから敵の艦がやってきそうな気がして体が震えた。だが捕虜はいやだ。捕虜になれば、ことはおれ一人だけのことですまない。親兄弟までその累をかぶらなくてはならない。生涯消えることのない卑怯者の刻印。それだけはいやだ、絶対いやだ。そんなら意識のはっきりしている今のうちに、早く自分で自分を始末してしまったほうがいいのだ。

 おれは眼を閉じて、舌の先を下歯のうえにのせた。それから上歯でそれをしっかり抑えつけ、あごを左右に振りつづけた。ざらついた舌の先が歯のあいだに喰いこんでいく。喰いこんだまま、めくれるように上にそりかえる。……それ、もっと力をいれて、もっと、もっと……。おれはあごに力を入れるために、垂れさがっている足の膝を胸にくっつくほどちぢめたり、また突っぱるようにぐっと伸ばしたりした。だが、いくらやっても舌は生ゴムのようにぐにゃりとするばかりでうまく喰い切ることができない。あごを振るたびに、重油の混ったぬめぬめした黒いよだれが歯のあいだから吹き出るだけで、あごに思うように力が入らないのだ。おれにはもうこの柔らかな舌すら噛み切るだけの力も残っていないのだろうか……。

 それからまた石をかむような何分かが過ぎた。

 おれは椅子につかまったまま、ぐったりと肩を落して波にゆられていた。波はおれを持ちあげたり、下げたり、顔をたたいたり、肩口ではねたり、耳や口をふさいだりしたが、おれはもうそれを避ける気力はなかった。瞼をあげているのさえおっくうだ。眠い。むしょうに眠い。そのうちに眼の前が暗くぼんやり濁って、麻酔をかけられたときのように、意識が朦朧としてきた。何だかこのまま暗い深い穴の中へずるずると引き込まれていきそうだ。おれは体のどこかでしきりにそれにさからいながら、なんどかわれにかえってうす眼をあけてみた。眼のまえに黒い幕のようなものが、はたはたと揺れている。その幕のうえに煙がたったように、ふーっと母の顔が浮んだが、すぐに闇ににじんで消えてしまった。耳のまわりでうるさくざわざわしていた波の音もしだいに遠のいていく……。

 

 ……内火艇(ランチ)が大宮町の東駅に着く。(身延線はいつからランチになったのかな。)おれは艇長の倉岡兵曹に敬礼して、トランクを下げてホームヘ降りる。ランチは滑るように線路の上を走っていく。(さあ着いたぞ。)おれは駅の改札口を出る。正面の赤い鳥居の上にカラスがとまっている。(いやにいっぱいたかっているな。)駅前通りには、よそゆきの着物を着た人たちがぞろぞろ歩いている。(あ、今日は浅間(せんげん)さんのお祭りだな、道理で人出が多いんだ。)おれは神田橋の赤い欄干の擬宝珠にもたれて立ちどまる。杉の森にかこまれた朱塗りの社殿と白い幟、社前の広場に立ち並んだ出店にまじって、サーカスの小屋掛けも見える。(あれはいつもの柴田サーカスだな。)石垣の上には大砲が据えつけてある。三連装の武蔵の副砲だ。(あれで花火をあげてるんだな。砲尾に鉢巻をしめて立っているのは星野と石巻だ。高場班長もいるじゃないか。白い上下(かみしも)なんかきて、きっと神主に借りたんだな。なんだ、むこうの川っぷちの旅館の前にも、機銃が並んでるぞ。(お、稲羽も、杉本も、村尾もいるじゃないか。)萱ぶきの本殿の屋根の上にもカラスが群がっている。カラスはうしろの森の上にも黒々と飛びまわっている。(いや、まてよ、あれはカラスじゃない、なんだ敵機だ、TBFだ、F6Fだ。それで杉本も稲羽もみんな配置についているんだ。だけど、おれはもういやだ、いやだ、戦闘なんていやだ、うちへ帰るんだ。)出店のまわりの人だかりが急に消える。サーカス小屋の前にいた村の留さんや辰にいも、丸くなって西町のほうへ駈けていく。社殿の森に赤い柱がたち、わきの神田川に水柱が噴き上がる。おれもトランクを放り出して、みんなのあとについて駈けていく。赤い火の玉がつむじ風のように駈けていくおれのうしろから追っかけてくる。(早く逃げなくちゃやられちゃうぞ。)だが、足がすくんで走れない。夢中で駈けているのにちっとも前に進まない。金物屋が燃え、呉服屋が倒れ、とっつきの映画館も火を噴く。(杉本たちはなにをやってるんだ、早く撃ち落してしまえばいいのに。)おれはやっと西町駅のホームに飛びこむ。ホームには、さっきのランチがひっくり返っている。幌の上に、軍帽をかぶった倉岡兵曹の首だけがのっかっている。そのまわりは一面水兵服の死体だ。おれはホームに立ってどっちへ逃げようかと迷う。(貴船のほうは危いな、中里へ逃げるか。だけど中里のうしろは山だ。追いつめられたら越えるのに大変だ。そうだ、やっぱり貴船から淀師のほうへ突っきっていこう。)おれは淀師の川っぷちを一目散に駈けていく。鱒の養漁場(ママ)の土手に武蔵が横付けになっている。(こんな狭い川をよく入ってこられたな。しかももとのまんまだ。武蔵はやっぱりやられなかったんだ。)舷門に田畑兵員が着剣して立っている。(見つかったら大変だ。)おれは下の田圃道に駈けおりる。妹のみつえが田圃でせりを摘んでいる。(兄ちゃん、遅かったじゃない)おれは立ちどまって怒鳴る。(おい、敵の飛行機がやってきたぞ。お前も早く逃げるんだ)妹は笑っている。(なにいってんの、兄ちゃん、ありゃカラスだよ、きのう富士山に山火事があったもんで、山のカラスがみんなこっちヘ来ちゃったんだよ。)(だって神田橋の辺は爆弾で燃えてるぞ。)(ありゃ仕掛花火だよ、ことしは豊年だから、浅間(せんげん)さんのお祭りも盛大なんだってさ。)(馬鹿いえ、早く逃げるんだ。)(おかしな兄ちゃんだよ、だったら先にうちに帰ってりゃいいじゃん。あたいはせり摘んでいくんだから、兄ちゃん、せり好きずら。)(お前ひとりできたのか。)(勘兄ちゃんとマー坊もいっしょだよ、ほら、向うの田圃でたにしを取ってるのがそうだよ、兄ちゃんにご馳走するんだってさ。)おれはおそるおそる武蔵のほうを振返ってみる。前甲板に白い事業服を着た兵隊たちが整列している。総員集合だ。だけど、おれはもういやだ、いやだ。おれは妹にいう。(いいか、おれのことは誰にもしゃべるな、逃げてきたんだからな。それじゃおれは先に行くぞ。)おれは養魚場の土手の下をかくれるようにして、富丘の小学校の裏の国道を青木のほうへ向って駈けていく。やっと坂下の店の前に出る。そこの店先に西瓜が並んでいる。(おばさん、いま時分西瓜なんて珍らしいな。)(お祭りにと思ってとっておいただに。)西瓜のまわりに蛇がとぐろをまいてたかっている。(なんだい、この蛇は。)(蛇の体はつめてえから西瓜を冷やすにゃいいんだよ。どうだい、土産に一つ、おまはんも手ぶらじゃ帰りにくいずらに。)(そんな蛇の西瓜なんかいらないよ。)おれは青木坂のほうへ駈けていく。坂の上に敵のTBFが群がっている。おれは坂の登り口で、あわてて引き返し、こんどは裾の細い田圃道を突っきって発電所の前に出る。発電所から坂上にかけて太い水道鉄管が一本張りに通っている。おれはその鉄管づたいに坂を這うように登っていく。坂の上からTBFが突っこんでくる。(みつえのやつ、カラスだなんて嘘つきやがった。)鉄管に爆弾が命中し、そこから水がもの凄い勢いで噴き出す。発電所はたちまち水に呑まれる。水はさらに馬見塚から外神、北山の部落をつつみ、富士山の五合目あたりまで海のように轟々と溢れていく。(浸水だ、浸水だ。)おれは水の中をもがきつづける。(助けて、誰か、助けてくれ、おれは帰るんだ、うちへ、うちへ帰りたいんだ!………。)

 

 どんと、なにかに背中を押されて、おれは泥沼の底から持ちあげられるようにわれに返った。いままで夢を見ていたのか、それともそれはうつつだったのか、そこらの境目がぼやけて自分でもはっきりしない。おれは重い頭をふって眼をあけてみた。背中をついたのは防舷物のようだった。細長い袋みたいなものが、波に持ちあげられたりおろされたりして一つところを廻っている。そのうちすぐまた誘いこむような睡気がかぶさってきた。引きこまれるなと思った。するとそれまで一つに見えていた月が、くもった瞳孔の中で、ばらばらに崩れはじめた。ガラスのようにこまかく割れて、海の向うにゆれながら消えていく。一生懸命それをつかまえようとするが、月はへんに白っちゃけたまま、しぼむように遠のいていく。つづいて、空が星座ごとぐらりと傾いて頭上にかぶさってきた……ああ、おれもこれでおしまいだなあ。どこかで、遠くのほうで軍歌のような声がきれぎれに聞える。あれは生存者たちだろうか、それとも夢だろうか。

 ………………………

 それからどれほど経ったろうか。気がついたときには、おれは駆逐艦浜風の後甲板に寝かされていた。手をのばすと、ざらざらした鉄の甲板が指にふれた。暗く青ずんだ空のうえに散らばっている星も見える。星はちち色に光っていた。見ていて頭がぐらぐらした。腹のうえにうすい帆布(ケンパス)が一枚かけてあった。おれはやっと片手をあげて、重油でべとべとしている頬や口のまわりをそっとなでてみた。そしてその時になって、腿のあたりにひねられるような鋭い痛みを足に感じた。痛みは間歇的にきた。おれは反り身になって肩をちぢめながら、思わず呻き声をあげた。すると横のほうから顔の上に黒い影がかぶさってきた。

「おー、矢崎、気がついたか。」

 おれはぼんやり顔をまわして、

「誰?」

「おれだよ、古宮だよ。」

「コ、ミ、ヤ?………あー、四分隊の、古宮兵長……。」

「おーさ。」彼はおれの肩を抱き起しながら、

「気がついたらこうして起きていたほうがいいんだ。」

 といって、おれを後ろの塔壁にもたれさせてくれてから、しばらくして、助けられたときの模様をかんたんに話してくれた。

「おれは早く助けられたんだ。ずっとみんなといっしょに円材につかまって、元気づけに軍歌なんか歌いながら、かたまって泳いでいたからな。それに飛びこんだのも早くて、渦にもまかれなかったからよ。おれたちは揚げられてから、駆逐艦の兵隊といっしょに、竹竿や綱梯子をさげて救命作業を手伝っていたんだけど、お前はいちばん遅い口だったぞ。バーメン(艦員)がよ、気を失なったのが一人いるから手をかしてくれっていうんで、降りていって担ぎあげてきてみたらお前だった。なんでもバーメンの話じゃ、お前は椅子につかまったまんま、とんでもないほうに一人でぽつんとぷかぷかしていたんだってさ。それを最後のランチが帰りがけに見つけて揚げてきたんだから、お前、運がよかったんだ。危ぶねえところをよ。それから駆逐艦の軍医が水を吐かせて注射を一本うってくれたけど、こいつはこのまま放っておくと本当に眠っちゃうかもしれないから、誰かそばについて叩いていてやれっていうんで、おれがときどき顔をひっぱたいたり、足をつねったりしてついていたんだ……。」

 さっきのあの間歇的な腿の痛みはそれだったのか。おれはまだ海中に漂っているような、なにか折り合いのつかないぼんやりした気分のなかで彼にいった。

「お世話になったね。」

「なに、お互いさまよ。……それよりも、どれ、おれがいま気つけ薬の火酒(かしゅ)をもらってきてやるからな、駆逐艦でみんなに配給してくれたんだ。ちょっと待ってろや。」

 古宮兵長はいって腰をあげると、前部のほうへ出ていった。彼は上衣をつけていたが、見ると下半身は褌一枚だけだった。

 おれは塔壁にもたれたまま、まわりを見廻して見た。暗くて顔はよくわからないが、後甲板は救助された兵隊でいっぱいだった。舷側に肩をよせあって、うずくまっているもの、濡れた上衣を頭にかぶって坐っているもの、甲板に腹ばいになって顔をふせているもの、煙突の下に小さくなって風をよけているもの、……だが、みんな疲れきっていると見えて話声はどこからも聞えなかった。

 まもなく古宮兵長が湯呑に入れた火酒をもって戻ってきた。礼をいっておれはそれを口にふくんだ。ぷんと酒の匂いがした。ちょっと吐き気がしたが、残さずに飲み干した。熱くて体にしみとおっていくようだった。重く濁っていた頭のなかが、それでいくらかはっきりしてきた。おれは湯呑を返しながら古宮兵長に同年兵の石巻のことを聞いてみた。

「石巻、あいつは死んだよ。」

「いつ?」

「第五次のしょっぱなだったかな。頭をやられてそれっきりだった。威勢のいいやつだったけどな……」

 月は水平線に落ちようとしていた。その余映をうけて、そのまわりだけ扇形に黄色くふるえている海ぎわに、おれはぼんやり眼をむけながら、石巻のことを思った。いつもせっかちで怒りっぽくて、そのくせ世話ずきで気のいいところのあった石巻、成績がよくて、この十二月には砲術学校の高等科に入ることになっていて、おれは海軍で一生めしを食うつもりだといっていた石巻、その石巻も死んでしまった。

 おれが武蔵に転勤になってきたとき、分隊の同年兵は、星野、杉本、稲羽、石巻、山口とおれの六人だった。このうち山口は去年、休暇でくにもとに帰って自殺してしまったが、それからおれたち五人はずっと一緒だった。お互いにかばいあって今日までずっと一緒にやってきた。もっとも石巻だけは四分隊に残ったが、それでも集まるときはいつも一緒だった。一人が何かうまいものでも手に入れると、呼び集めて仲良くわけあって食べてきた仲だった。切れたときには一本の煙草を五人でまわしのみしてきた仲だった。だが、石巻も死んだとなれば、これで同年兵で生き残ったのはおれ一人だ。とうとうおれだけが五人と幽明を異にしてしまった。稲羽がいつだったか冗談に、死ぬときは五人一緒に仲良く死のうや、といっていたが、おれだけがとり残されてしまったのである。

死はおれの足もとにまできていたのに、おれだけを見離してしまったのである。

 おれはふと、死んだ四人を羨ましいとさえ思った。ついさっきまで死を恐れていたのに、そしてこうして危うく助けられたことを心のどこかで受けとめているのに、あらためて死のほうに吸いよられていく心の傾きをおさえることができない。みんなが死んで、自分だけおめおめと生き残ったことに納得がいかないのだ。おれも死ぬべきであった。死ななければいけなかったと思う。死は過去のすべてからおれを解きはなしてくれるはずだった。救ってくれるはずだった。それなのにおれはまたもとのいじましいデッキの生活にもどっていかなければならない。死の暗がりを出て、これからまた明るいギラギラした太陽の下で、兵隊として生きていかなければならない。死ぬことをいくらか先へ猶予された形で、また苛酷な兵の勤務に耐えていかなければならない。死におくれたうしろめたさに、鬱々と心を咬まれながら……。これからの索漠としたそのなりゆきはおれにも見えるような気がする。のがれることのできない生き残りの苛責と羞恥と……。おれは、いまにして死ぬことよりも、そうして生きていくことのほうがはるかにつらく恐ろしいと思った。

 月が落ちた。海は急に暗くかげり、深さをまし、空を(くま)どって左手にかすかに見えていたシブヤン島の稜線もしだいに濃い闇につつまれていった。

 浜風は、武蔵の沈没水域をしばらく徐航したのち、やがて僚艦の清霜とともに、針路を北々東にむけて速力をあげた。救助作業を打ちきったのだ。おれはこれが見納めかと思いながら、やっと顔をおこして遠ざかっていく暗い沖のほうを眺めた。おれたちはここで一日悪夢のような敵の雷爆撃にさらされていたのだ。咆哮する鉄と焔と、散乱する血と肉の阿鼻叫喚のなかで……。そしていま摩耶の戦死者をふくめ、艦長以下千数百名の乗員を海底に残したまま戦場を離れていくのだ。おれは闇に眼をすえてその場を動かなかった。

 

 波は北上する浜風の舷側にはげしく打って砕けた。ドドドーッと砕けては散った。それはあたかも死者の慟哭のように、いつまでも闇のなかに聞えていた。

  あとがき

 この作品はさきに発表した『海の城』の続編ともいうべきものである。『海の城』ではおもに軍艦の内務生活をあつかっているが、ここではレイテ冲の海戦を舞台に海上戦闘がその中心となっている。

 私は当時一水兵として武蔵に乗組んでいたが、本書はそのときの私の体験をもとに、機銃の配置から武蔵の戦闘状況をできるだけ記録的に描いたものである。といっても軍艦内における兵員の戦闘配置はほぼ一箇所に固定されており、他の部署のことはなかなかわかりにくい。これは軍艦のもつメカニックな構造にもよるが、とりわけ戦闘中は他の部署の状況はほとんどわからないといってよい。そこでそういう点については、沈没後にコレヒドール島に収容された(武蔵沈没の事実が部外に漏洩することをおそれて、私たち生存者は同島に約一ヵ月罐詰になっていた)とき、いろいろ仲間から聞いた話や、またその後復員してから生存者に個人的に会ってたしかめたことなどによってその補いをつけた。

 敗戦の年、私はやっと四年余の海軍生活から解放されて娑婆に出たが、以来今日まで、あの悲惨な戦火のなかで共に戦った仲間たちのいのちが、いかに理不尽に奪い去られていったかを書かなければならないと思いつづけてきた。生き残りの一人としてそれをひそかに自分に義務づけてきた。しかしなかなか書けなかった。そう思ってこれまでにも何度か稿を起こしてみたが、どうしても最後まで書きあげることが出来なかった。

 むろんそこには私の非才ということもあったが、それ以上にあの戦闘の体験は私にとって、いつまでもつい昨日のことのように生々しく、一体どこから手をつけていいのかわからなかったし、ある距離をおいてそれを醒めた眼で見とどけるだけのゆとりもなかった。いってみれば、自らの体験の重さに私自身が圧倒されていたのだった。

 それだけにそれは容易に文字にのってこなかった。やっとつかまえたと思っても、そう思った瞬間からそれが嘘であるような気がして、そのたびにこれはとても自分の手には負えないという絶望感にさいなまれた。それに、書くためにはいやでも苛烈な戦闘をもう一度体験しなければならない。それと正面から向きあっていなければならない。私にはそれがなんとも耐えがたかった。できることならこのまま何も書かずにすべてを忘れてしまいたいとさえ思った。

 そんなわけで私はこれを書いている間も何度かいやな戦場の夢にうなされた。ある時は烈しい火焔と水柱をあび、血まみれの死体にふれ、母親を呼んでいる少年兵の金切り声をきき、ときにはひっくり返った艦底を総毛だって駈けずりまわっている自分の姿をそこに見た。そんなとき私はきまってわき腹にじっとり寝汗をかいて眼をさまし、息をのんで床に起きなおっては、あわてて部屋のなかを見まわしたりした。〝ここは艦じゃない、おれはもうとっくに(おか)に上っているんだ〟と納得してみても、それからはもう寝つけない。私は夜、床につくのが恐ろしかった。そしてそういう夜が幾晩もつづいた。本書はそのような欝屈した内的葛藤のなかでようやくまとめ上げたものである。

 あれから茫々二十七年、これでどうにか自分の体験に、あるひとつの形をあたえることが出来たという気もするが、いや、これだけではまだほんのその一端しか書けていない、という身を揉みたてたくなるようもどかしさも一方にある。むしろそのほうがずっと強い。だがいまは、これだけが私の精一杯である。

 私は内心これさえ書きあげれば、思い出すだけでも怒りにふるえるあの忌わしい戦争の記憶から、すこしでも身をかわすことが出来るかも知れないと思っていたが、そうではなかった。実際はさらに出口のない暗い体験の泥沼にいよいよ深く嵌まりこんでしまったようである。私は多くの仲間を海底に残し、ある場合には見殺しにさえして、自分だけおめおめと生きて帰った一人であるが、これからもやはりその負い目と罪責からのがれることは出来ないだろう。死者にこだわりながらこれから先もそこに思いを屈して生きていくほかないだろう。戦争の体験というものはそういうものかも知れない。

 

 さいごに本書を書くについては、長い間にわたっていろんな方から有益なご教示と助言をいただいた。とくに貴重な資料を心よく提供してくださった加藤憲吉(武蔵副長)、猪口嘉子(武蔵艦長夫人)、高橋幸作の諸氏をはじめ武蔵の生存者の方々、朝日新聞社出版局図書編集第一部の方々にも終始お世話をおかけした。本書がこれらの方々のご厚意とお力添えによって上梓できたことを記し、心からお礼を申し上げたいと思う。

  武蔵沈没二十七周年秋

渡辺 清

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2008/11/08

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渡辺 清

ワタナベ キヨシ
わたなべ きよし 作家、日本戦没学生記念会(わだつみ会)元事務局長。1925年~1981年。静岡県生まれ。1941年、高等小学校卒業後、海軍に志願。42年から戦艦武蔵に乗り組み、マリアナ、レイテ沖海戦に参加、44年武蔵が撃沈された際、遭難したが、奇跡的に生還した。45年復員。主な著作は、『戦艦武蔵の最期』、『海の城――海軍少年兵の手記』ほか。

掲載作は『戦艦武蔵の最期』(朝日新聞社、1971)より第五章(二)以降を抄録し、著者の思いが籠っている前扉の文章とあとがきをそのまま付した。

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