少年兵における戦後史の落丁
一
僕は十六の年志願し水兵として海軍に入った。(志願兵の中には、教師や役場の兵事係などの甘い勧誘の口車にのせられてきたものも少なくなかったが、僕は直接誰からもそのような強制はうけなかった。したがって主観的には全く自発的な文字通りの志願である。)太平洋戦争開始直前の十六年春だった。それから敗戦までの四年余をほとんど前線の艦隊勤務で過ごした。その間幾度か海戦にも参加し、一度は乗艦(武蔵)の撃沈にあい遭難したこともある。敗戦時は二等兵曹だった。これが僕の軍歴のあらましである。
僕は子供の頃から兵隊が好きだった。わけても「スマートな海軍」(当時の僕にはそう思えた)に強く魅かれていた。狭苦しい山国に育った僕にとって、広々とした青い海と、その上を自由に走り廻ることのできる船というものはたまらない魅力だった。ことに「雄大な構成美をもつ威風堂々」たる軍艦への憧れは強かった。これにはニュース映画や、雑誌などの軍艦の絵や写真、また教科書にもあった『軍神広瀬中佐』で『軍艦生活の朝』、『日本海々戦』や『勇敢なる水兵』などの物語、受持教師から聞かされた面白い遠洋航海のエピソード、たまに町でみかけるいきなセーラー服、勇壮な軍艦マーチの旋律等、それに学校での徹底した軍国主義的教育の影響が大きい。また、時代も「兵隊にあらずんば人間にあらず」といったふうな状況で、どこへいっても兵隊が幅をきかせていた。すでに戦火は大陸に拡がっていて、兵隊は「時代の花形」だったのである。
僕はまわりで兵隊がそのようにチヤホヤもてはやされるのを見たり、聞いたり、また新聞や少年雑誌でいろんな勇ましい「戦場美談」を読んだりして、自分も早く大きくなって「国の為」「天皇陛下の為」に直接役立つ兵隊になりたいと思った。ほとんどそれしか考えなかったといってよい。そんなふうだったから、僕はすでに小学校三、四年頃から、将来自分は必ず兵隊になろう、兵隊で一生を過ごそうと固く心に決めこんでいた。
当時の心境をいま動機論的に一応要約してみると、「俺みたいな百姓の子だって兵隊になりゃ偉くなれるんだ。」(出世意識)「国を守り天皇陛下に尽せるのは兵隊だけなんだ」(忠誠意識)そして「その兵隊で死ねば俺みたいなやつでも天皇陛下がお詣りしてくれる靖国神社の神様になれるんだ」(価値意識)ということになろうか。
こうして僕は、幼時から「国家の規格品」として身ぐるみ兵隊につくられていたのだ。つまり、生まれ落ちてから一本調子に戦争の末端に組みこまれていたのである。やがて、というよりようやくのこと志願資格の最低年齢に達した僕は、その受付の第一日目に、雨の降る秋の田圃道を、自分で書いて捺印した願書をもって村役場に駆けつけたのである。十五歳の年だった。
二
海兵団に入ってしかし、僕の生活は一変した。はじめのうちはたしかに田舎出の僕にとって、見るもの、蝕れるものすべてが目新しく、こぎれいで豊かであった。僕はそこではじめて、メンチカツを食べ、毛のズボンをはき、皮靴というものに足を入れた。だが日がたつにつれて、軍隊というものが、娑婆で考えていたような生易しいものでないということが、僕にもだんだんわかってきた。しかし、それを決定的な形で思い知らされたのは、海兵団での新兵教育を終えて艦隊に乗り組んでいってからである。
艦隊の甲板は荒れた。そこはそのまま暴力と私刑のジャングルであったといっていい。その最もいい例が、夜の「甲板整列」であるが、僕らはそこで若い下士官や古い兵長たちからほとんど毎晩のように叩きのめされたのである。(これは善行章が一本つくまで、まる三年間つづいた)いってみれば、この甲板整列は、娑婆っ気を抜きとって、「人間」から「兵隊」を仕立てあげるための、いわば一種の儀式のようなものであったが、これに使われる責め道具にもいろいろ種類があった。まず一番よく使われたのが、渡し三尺あまりの太い樫の棍棒である。これは一般に「軍人精神注入棒」とか「水兵さんの尻泣かせ」などと呼ばれていた。このほか、グランジパイプ(消防蛇管の筒先)、ハンドレール(細かい環の鉄の鎖)、木刀、ストッパー(わざと海水にひたして固くした太い麻縄)、などが用いられた。
夜、釣床をおろし巡検がすむと、またはその前に、きまって甲板整列がかかるのだが、これをのがれられるのは当直中の番兵か休業患者ぐらいのものだ。僕らは右から年次順に受持甲板に整列する。するとそこへ片手に棍棒をさげた古い兵長たちが、入れ代り立ち代り前に出てきて、すでにこちらの聞きあきた「御託」を並べたてる。曰く、キサマらはたるんでいる、デレデレしてやる気がない、そんなことで内地の親兄弟に顔むけができると思うのか、等々あげつらえばきりがない。要するに殴る前の口実である。そして、そのあと僕らは一人ずつ順番に棍棒の前に走り出ていく。後ろでかまえた棍棒がいう。「尻を出して、足を開け、手を上にあげろ!」僕らはこの姿勢を拒むことはできない。絶対にできない。(上官の命今は直ちに朕の命令である。)僕らはそれにこたえて慄え声で叫ぶ。「一、軍人は忠節を尽すを本分とすべし。」「その通り。」途端に棍棒が尻をめがけて打ちこまれる。ぼこーんと肉の崩れるような音、いや、それは骨の芯まで打ち砕くようであった。そしてこれが「五ケ条」の数だけいつもおわたりなのだ。
当時、まだ大人の体になりきっていないやわな僕の体は、たいていその最初の一撃で、木ッ葉のように二、三間向こうへ吹っ飛ぶのだった。そうして甲板にぶっ倒れたなり暫らくは腰が立たない。すると後ろから「こらッ、起て、だばけるな!」僕は首っ玉をひっ掴まれ、またあるときは頭から海水をぶっかけられて引き起こされ、さらに悲愴な声をしぼりつづけなければならない。「一、軍人は礼儀を……」「元気がない、もう一度!」「一、軍人は……」「キサマ恐いか、もう一度、もう一度!」「一、軍人は……」僕の声は次第にかすれてくる。「一、軍人は……」「その通り、わかるかッ!」と次の力まかせの一撃。おお、僕はもはや自分を支える力を失って、このままひと思いに海に飛びこんで死んでしまいたいと思う。前方に広がる暗い海への誘惑と、尻を噛む棍棒の恐怖、僕はこの両方とたたかいおののきながら、心の中では夢中で母の名を呼びつづけた。ああ、しかしそのあい間にも、その一撃ごとに僕から必ず何かを奪い、吸いとっていく棍棒は容赦なく打ちこまれてくる。
そして、ようやくその整列から解放されるとき、肛門は血でじたじたと濡れてくるのだ。腰から下はしびれて感じがなくなり、全く自分のものではなくなっている。尻をさかいに体は二つに引き裂かれてしまったかのようだ。こうして毎晩のように殴られていくにつれて、引き裂かれたそこにはだんだん他人のような深い断層がうがたれていった。そしていつかそこには自分のとは全く別の血が流れるようになった。考えてみると、僕はついに海軍を出るまで断ち裂かれたこの二つの部分を、自分のものとして一つにつなぎ合わすことは出来なかった。いや、それは十五後の今もはっきりつなぎ合わすことが出来たとはいえない。僕は人間ではなく兵隊だった、僕らは陰で唄った。
鬼の「山城 」、地獄の「比叡 」いっそ「
金剛 」で首吊ろかビンタ、バッタの雨が降る
天皇陛下に見せたいな
私刑と死刑、一字のちがい
うっかりすると間違えられて
あなたまかせのあの世いき
こんなとことは夢にも知らず
志願するような馬鹿もある
同年兵の中には、附近の島に逃亡したり、航海中海に飛びこんで自殺したりする者もあったが、それはこのような残酷な私刑に耐えられなかったからである。僕は逃亡も自殺も企てなかったが、またその勇気もなかったが、星の降る暗い夜の甲板で、両足を開いて突っぱり、両手を上げ、歯をくいしばり、固く目を閉じて棍棒に尻をさらしながら、「軍人五ケ条」を叫んでいるあの殴打の姿勢、生涯消えることのない焼印をおされたあの屈辱的な姿勢を決して忘れることはできない。あれは決して「人間の姿勢」ではない。
三
この文の性格からいって、当然、その戦闘体験についても触れるべきであるが、これについてはすでに別に発表したものもあるので、ここでは主に「八月十五日」前後のことを語っておきたい。
僕は勝利を一途に信じていた。前線でときには暗い予感もないではなかったが、そう信じないではいられなかった。だから突然前ぶれもなくつきつけられた敗戦の事実は、やはり非常なショックだった。これまで自分のすべてを賭けてきたものが一挙に失われたのである。そこにはしたがって、これで助かった、という思いはみじんもなく、瞬間、死におくれた、という無念さだけが僕を噛んだ。そしてこれからは、静謐な死の暗がりを出て、明るいギラギラした太陽の下で生きていかなければならない。そう思ったとき、死ぬことよりも、生きることのほうが、はるかに恐しかった。僕は厠にとびこんで泣いた。いくら泣いても泣き足りない気持だった。その当座は眠れず食欲もほとんどなかった。毎日うつうつとしてぼんやりと空ばかり眺めていた。
やがてそのショックからいくらか立直った僕が、まず最初に考えたのは天皇のことだった。その身の上のことだった。一体これから天皇はどうなるのだろう? 当時一部の士官や下士官たちの間では、敗けた以上、天皇から重臣、各大臣、将官級までは、恐らくアメリカ軍の手で死刑にされるだろう、とまじめに話合っていたが、僕もひそかにほぼ同じことを想像していた。しかし、僕の考えでは天皇はそうされる前に潔く自決されるだろう。おめおめアメリカ軍の手にかかるまで生きておられるはずがない。恐れおおいことだが今となってはそれも仕方がない。自分の命令で勝つつもりではじめた戦争に敗けたのだ。三百万もの同胞をむざむざ犠牲にしてしまった上に国が亡びるのだ。天皇はきっと死をもってその責任を償われるだろう。天皇はそういう高潔なお方だ。と僕はそれを信じて疑わなかった。
しかし僕のこの天皇にたいする考えは、復員直後ものの見事に覆えされたのである。それは今も忘れないが復員して四日目のことだった。その日僕は秋の日の射しこむ縁側へ古新聞の束をもち出して、別になんということなくそれを一枚一枚めくっていた。そのときあのトップの五段ぶちぬきの大きな写真にぶつかったのである。そこには二人の男、両手をゆったりと腰にあてた背の高い開襟シャツの男と、モーニングを着ていやにしゃちこばっているヒゲの背の低い男とが、疋面むいて行儀よく並んでいた。僕には最初それが誰なのかよくわからなかった。しかし見出しのゴシック文字を見て驚いた。″天皇陛下マッカーサー元帥訪問″とあるではないか。しゃちこばっているモーニングは、なんと「われらの大元帥陛下」だったのである。おまけにあろうことか、となりの開襟シャツは、ついせんだってまで僕らが「いのちを的」に戦ってきた敵の総司令官、マッカーサーではないか。僕は一瞬めまいを感じた。暫くは体のふるえがとまらなかった。僕は正直「コン畜生」と思った。これがあの天皇だったのか。これが生命と引きかえてもいいくらいに崇拝していたあの天皇だったのか。
それとは知らず、僕はすべてを天皇のためだと信じていたのだ。信じたが故に進んで志願までして戦場に赴いたのである。僕は入団当日の感激を今もはっきり憶えている。いよいよ出発という日の明け方、僕は水風呂で体を清めてから、家の裏手の丘の上に立って宮城を遥拝し、そして言ったのだ。「これから陛下のために国の守りにつきます。もうこの命は自分のものではありません。陛下にお捧げしたものです。」僕ら少年兵は純粋だった。大人の兵隊に劣らず勇敢だった。勇敢に戦った。そして敗戦を知らされるまで「朕ガ陸海軍将兵ハ全力ヲ奮テ交戦ニ従事セョ」という宣戦の詔書をたいして、どんな戦場の苦しみにも耐えてきたのである。それだけではない。進んで天皇にいのちを捧げる機会を待っていたのである。それをまた「無上の名誉」だと本気に信じていたのである。すべてを天皇のために、それこそは僕のこの世の限りの信仰の告白だったのである。それがどうだ、敗戦の責任をとって自決するどころか、いのちからがら復員してみれば、当の御本人はチャッカリ、敵の司令官と握手している。ねんごろになっている。おまけに手土産なんか貰って、「マッカーサーがチョコレートをくれたよ」などと喜んでいる。厚顔無恥、なんというぬけぬけとした晏如たる居直りであろう。
僕は、羞恥と屈辱と吐きすてたいような憤りに息がつまりそうだった。それどころか、いまからでも飛んでいって宮城を焼き払ってやりたいと思った。あの壕の松に天皇をさかさにぶら下げて、僕らがかつて棍棒でやられたように、滅茶苦茶に殴ってやりたいと思った。いや、それでもおさまらない気持だった。できることなら、天皇をかつての海戦の場所に引っぱっていって、海底に引きずりおろして、そこに横たわっているはずの戦友の無残な死骸をその目に見せてやりたいと思った。これがあなたの命令ではじめられた戦争の結末です。こうして三百万ものあなたの「
とにかく僕の天皇観を覆えすのにはこの写真一枚で十分だった。そしてその時以来僕は天皇との「ヘソの緒」を断ち切ったのである。また、この体験を基軸にして、天皇を頂点とするこの国の国家組織の恐るべき偽瞞を見とどけていったのである。
四
戦後の僕は、もう心から笑うことも、泣くことも出来なくなった。何ものも信ずることが出来なくなった。そして、独り「戦後」にとり残されたまま全く孤立の状態におかれたのである。それは一つには復員後まもなく、戦場での疲れが出たのか結核を発病、長い療養を余儀なくされたことにも関係があるかも知れないが(それは現在もまだ十分回復するに至っていない)、何れにしろ、僕はその中で僕なりの仕方で「戦争」を内部的に処理しなければならなかった。それをはっきりさせないうちはどうしても前に出ていけなかったのである。ではどんなふうに……。以下その点をざっと記述しておきたい。
戦争の中に生まれ、戦争の中で育った僕には、戦争は地球上に空気があるのと同様自然なことだった。いわばそれは一種の「自然現象」のようなものだった。したがって、このようにはじめから戦争の中にとっぷりと首までつかっていた僕に、戦争そのものに対する疑問のおきる余地はまるでなかったといってよい。
では、それならば僕はこの戦争に対する責任から免れられるのか。それから完全に自由でいられるのか。答は否だった。どうしてもそうだとはいいきれなかった。いくら自分をかばい、自分に都合よく逃げて考えてみても、責任がない、ということでは自分を納得させることが出来なかった。どういう動機にせよ事実僕は戦闘に参加したのである。そこに自分の一切を賭けたのである。
僕はここではっきり言いたい。僕にはその責任がある、と。ではそれは一体誰に対する責任なのか。ほかでもない、「自己責任」である。「自分の自分に対する責任」(荒正人)である。例えば僕は天皇に裏切られた。しかし、裏切られたのは正に天皇をそのように信じていた自分自身に対してである。自分が自分の内部に幡踞していた天皇に裏切られたのである。これこそ自分が負わなければならない己れの責任である。むろん僕には戦争に対する政治的、刑事的責任はない。だが、自分の自分に対する責任から決して自由ではない。
たしかに僕は戦争について何も知らなかった。知らされていなかった。正義のためだと教えこまれていた戦争が、実は無道な侵略戦争であり、他国へのあこぎな強盗行為であったのだと知ったのは敗戦になってからである。しかし、だからといって僕もその共犯者の一人であったことに変わりはない。侵略の
法的にいえば、人間の「責任年齢」は満十四歳とされている。人間は普通ならこの年齢に達すれば、自分の行為とその結果を自分で判断できる責任能力があるわけだ。僕が志願の届出をしたのは十五の歳だった。すると、僕はすでにその年齢に達していたのである。僕はだから志願という決定的瞬間にあたって、自分はいま何のために、何が目的で、どういう行為をとろうとしているのか、またそれは先ざきどのような結果を招くことになるか、シンケンに考えてみなければならなかった。だが僕はそうしなかった。大事なその手続きをまるで省いてしまった。
戦争は悪である。なぜならそれは人間を苦しめ、人間同志の殺し合いを目的としているからである。ごくあたりまえな、この不易の真理についてすら、当時の僕は少しも考えおよばなかった。いや、これっぽっちも考えてみようとしなかった。そしてそのまま戦争をファナティックに讃美して、おめずおくせず「戦争悪」に身を売ったのである。(四十九人の級友中志願したのは僕を入れて三人だけだった。)しかも四年もの間、あの血腥い殺戮の現場に居合わせながら、なおまだ眼を開くことができずにいた僕だ。
その僕が戦争悪にはっきり目ざめるのには、三百万にのぼる、いや世界的には数千万を超えるという、気の遠くなるような尨大な人命の犠牲をまたなければならなかった。思えばそれはなんという高価な代償であったろう。何千万もの血の犠牲によって、はじめてあがなわれた責任意識。しかもそれは己れの内部からでなく、敗戦によって外から与えられたものである。このことを僕は忘れてはなるまいと思う。
そして僕は死なずに生きてきた。しかし「幸い」という言葉は差控えたい。生きるべくして生きてきたのではないからである。僕の手はたくさんの「人間の血」で穢れている。僕は砲手だった。僕は射ったのである。そして個人的には何の敵意もない米兵を倒したのだ。(今にして思えば僕はそれを同時に自分の心臓にも射ちこんでいたのだ。)また仲間の多くが死んだ。ある者は硝子屑のように海に散り、ある者は断末魔の苦しみにのたうちながら艦と運命を共にした。僕はそのおびただしい死骸を海底に沈めたまま、あまつさえ、ある場合には見殺しにさえして、自分だけ生きて帰ってきた。僕はこのことも生涯忘れてはなるまいと思う。
復員後、僕はこのような自己確認をクッションにして、めまぐるしく変転する「戦後」にむかってよたよたと歩き出したのだった。
むすび
あれから十五年、すでに数年前から「戦後は終った」、「もはや戦後ではない」という声が聞かれるほど、状況の解体と変質はいちじるしい。そして、そのようなうつけた変質過程と見合いながら、戦争の体験そのものも徒らに混迷と風化を重ね、しだいに見せかけの「泰平ムード」の中に埋没されようとしている。だが、はたして「戦後」は終ったのか。いや、その前にそもそもこの国に「戦後」なるものがあったのか。あったとすれば、それは一体何を指して「戦後」というのか。それが僕にはわからぬ。なぜなら終ったのは「戦争」ではあっても、戦争から戦後に持ちこされた問題ではないと思うからである。例えば死者の問題一つ取り上げてもいい。戦後われわれはその「死者の巨大な空白と沈黙」にどれだけ耳をかたむけたか。国民的総体験としてつきつめて、どれだけのものをそこから学びとってきたか。そこから何をどのような形で生かしてきたか。あらためて問を発するまでもない。死者と断絶したこの十五年のふやけた歴史の流れをみれば答はおのずと明らかである。
また広島、長崎に目をむけて見るがいい。両市合わせて二十数万といわれる被爆者たちは、経済繁栄を謳歌する今日この時点で、「世間の冷たい目」に耐え、「余計者」扱いにされ、身を裂くような孤独と絶望と焦慮のなかで、ある者は不可測の死におびえ、ある者は被爆者ゆえに生活に困窮し、またある者は希望のもてない無惨な手術を重ね、「自分の肉体を闘いの場」として、ひと知れず原爆の恐怖とたたかっているのだ。そして原爆症による死者は今もあとを絶たない。にもかかわらず「戦後は終った」という。
ああ戦後、この言葉ほど現在の僕の実感から遠いものはない。だがそんなことはどうでもよい。僕はただ僕なりに戦争体験を固執し、死者のなかに己れを生かしながら、そこに全身の重みをかけて、これからの人生に復讐していきたいと思っている。めめしく死者にこだわる、死者のなかに生きつづける。それ以外にもはや戦後に生き残った僕の生きる道はないようである。
僕の戦争体験は、そのまま「天皇体験」であり、「国家体験」であり、同時にまた死者との「共生体験」でもあった。
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2008/08/12
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