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白夜

 …それとも彼は束の間なりと

 そなたの胸に寄り添うために

 創られた人であろうか? …

         ツルゲーネフ

 

   第 1 夜

 

 素晴らしい夜であった。それは、親愛なる読者諸君よ、われらが若き日にのみあり得るような夜だったのである。空には一面に星屑がこぼれて、その明るいことといったら、それを振り仰いだ人は、思わずこう自問しないではいられないほどである──いったいこういう空の下にいろいろな怒りっぽい人や、気まぐれな人間どもが住むことができるのだろうか? これは親愛なる読者諸君よ、青くさい疑問である、ひどく青くさいものではあるが、わたしは神がしばしばこの疑問を諸君の心に呼び醒ますように希望する!……いろいろな怒りっぽい人や気まぐれな紳士方のことをいったついでに、わたしはこの一日を通しての、いとも殊勝な自分の行状を想い起こさないわけにいかぬ。朝っぱらから、何かしら驚くべきふさぎの虫がわたしを悩まし始めたのである。ふっと出しぬけにこの一人ぼっちのわたしがみんなに見棄てられようとしている、みんなわたしを離れ去ろうとしている、というような気がし出したのである。それはもちろん、どんな人だって、「だれだねいったい、そのみんなというのは?」とたずねる権利をもっているに違いない。なにぶんにも、わたしはもうこれで八年間ペテルブルグに暮らしていながら、ほとんど一人の知人をもこしらえる腕がなかったのだから。しかし知人なんてわたしになんの必要があるのだ? それでなくとも、わたしはペテルブルグ全体をよく知り抜いているではないか。つまり、それがために、ペテルブルグじゅうのものが急に腰を持ち上げて、それぞれ別荘地へ行ってしまった時、みんなに見棄てられるような気がしたのである。わたしは一人で取り残されるのが恐ろしくなって、自分がどうなっているのやら少しもわからず、深い憂愁をいだきながら、まる三日間、街じゅうをさ迷い歩いたものである。ネーフスキイ通りへ行っても、公園へ行っても、河岸通りをぶらついても、今まで一年間きまった場所で、きまった時間に出会い馴れた人に、一人として行き会わない。もちろん、向こうではわたしを知らないけれども、わたしは向こうを知っているのだ。彼らはわたしにとって近しい知人で、わたしは彼らの顔だちまでほぼ研究しつくしているくらいだ、──彼らが朗らかな時には思わず見とれるし、彼らの顔つきが曇っている時には、こっちも腐るというわけである。わたしは毎日きまった時間にフォンタンカで会う一人の老人と、ほとんど親交を結ばないばかりであった。ひどくものものしそうな考え深い顔つきをしていて、のべつ口の中でぶつぶついい、左手を振るのだ。右手には金の握りのついた、長い、節くれだったステッキを持っている。向こうのほうでもわたしに気がついて、心からわたしに興味を持っている様子である。たまたまわたしがきまった時間に、かのフォンタンカのきまった場所にい合わさないと、老人はふさぎの虫に見舞われるに違いない、わたしはそれを確信している。こういったわけで、どうかすると、わたしたちはすんでのことにお辞儀をし合わないばかり、ことに両方とも機嫌のいい時にはなおさらである。つい近頃も、まる二日出会わないで、三日目にまた行き会った時などは、両人ともあやうく帽子に手をかけそうになったが、幸い早く気がついたので手をおろし、暖かい気持ちで互いに傍を通り抜けたことである。

 家もわたしにとっては知合いである。わたしが歩いていると、一軒一軒がわたしの前へ駆け出して、ありったけの窓でこちらを跳めながら、ほとんどこんなふうにいわないばかりである。『今日は、ご機嫌いかがですか? わたしもお蔭で達者です。ところで、わたしは五月にもう一階建て増しをしてもらえるんですよ』とか、『わたしはあやうく焼けてしまいそうになりましてね、いや、驚きましたよ』といった調子である。それらの中にはわたしのひいきもあれば、親友もある。一軒の家はこの夏、建築家に治療を受けようとしている。もしひょっと治療のし損いをしやしないかと心配なので、毎日わざわざ行って見るつもりである、そんなことでもあったら大変だ!……が、一軒のとてもかわいい薄ばら色の家に起こった事件などは、一生わすれることでない。それは美しい石づくりの小家で、いかにも愛想よくわたしを眺め、さも誇らしげにぶざまな近所の家々を見渡している様子といったら、その傍を通りかかるたびに、わたしの心がよろこびに躍るほどであった。ところが突然、先週その街を通りかかって、ふと自分の親友を見ると、さも悲しげな叫びが聞こえるではないか。『わたしは黄いろいペンキを塗られています!』悪党め! 野蛮人め! やつらは円柱も蛇腹も、何一つ容赦しないのだ。こうして、わたしの親友はカナリヤみたいに真黄色になってしまった。わたしはこの出来事のために、あやうく肝臓が破裂しないばかりであった。それ以来、わたしはいまだに支那人のように黄いろく塗りたくられて、見る影もなくなった哀れな親友に、面会する気力がない始末である。

 右の次第で、親愛なる読者諸君よ、わたしがペテルブルグ全市と知合いのわけが、おわかりになったことと思う。

 前にもいったとおり、わたしはまる三日間、不安に苦しめられたが、やっとその原因を突き留めた。外へ出ても気分が悪いし(あれもなければ、これもない、だれそれはいったいどこへ行ったのだ、というわけである)、家にいてもさっぱり気が落ちつかない。いったいこの侘住居に何が不足しているのだろうかと、二晩わたしは苦心惨憺した。どうしてこの部屋はこうも居心地がわるいのだろう? とわたしは怪訝の念に打たれながら、緑色に塗った煤けた壁や、下女のマトリョーナのお手柄でしだいに殖えていく蜘蛛の巣だらけの天井をと見こう見し、家具類を仔細に点検し、椅子まで一つ一つあらためながら、いやな気持ちの原因をここかかしこかとさがしたものである(なぜというに、わたしは椅子一脚でも昨日と位置が変わっていたら、いても立ってもたまらないのだから)。こうして窓まで調ベるのだが、いっこうになんのかいもなく……気持ちはいささかも楽にならない! わたしは一度マトリョーナを呼びつけて、蜘蛛の巣を初めその他一般にだらしのないやり方を責め、父親としての訓戒を与えてやろうなどという気を起こした。しかし、マトリョーナはあきれ顔でわたしを見たきり、ひと口も返事をしないで向こうへ行ってしまった。という次第で、蜘蛛はまだ今日までつつがなく元の場所にぶら下っている。とうとう今日になって、ようやく原因がわかった。ちえっ! これはみんながおれを棄てて、別荘へ逃げ出しやがるからだ! どうか下品な言葉づかいをおゆるし願いたい、わたしは美辞麗句どころではないのだから……なにぶんにも、ペテルブルグじゅうのものが、別荘地へあるいは行ってしまい、あるいは行ってしまおうとしているのだ。堂々たる風采をした立派な紳士が、辻馬車を雇っているのを見ていると、たちまちわたしの目の前で、尊敬すべき一家のあるじとなってしまう。毎日のお役所仕事をすました後で、別荘にいる家庭の懐ろへ身軽に飛び込もうという寸法なのである。今はどんな通行の人でも一種特別な顔つきをしている。それはほとんど出会う人ごとに、『皆さん、わたしがここにこうしているのは、ほんのちょっとなので、もう二時間もしたら別荘へ行くんですよ』といわないばかりなのである。砂糖のように真っ白な細い指で、初め軽く硝子を叩いていたが、そのうちに窓をさっと開けて、かわいい娘が頭を覗け、草花の鉢を売っている男を呼び留める。それを見ても、わたしはすぐこんなことを想像する、──この花は息苦しい都会の住居で春の色を楽しむために買われたのでは更になく、やがてほどなく一家じゅう別荘へ出かけるので、草花もいっしょに持って行くつもりなのだ。のみならず、わたしはこの特殊な新しい発見に甲羅をへてしまって、一目みただけでも、これはどういう別荘に暮らしている人かということを、間違いなく見分けることができるようになったほどである。石島(カーメンヌイ)薬局島(アプテーカルスキイ)、ペテルゴフ街道などに住んでいる人たちは、凝りに凝った優雅な身のこなしや、洒落た夏服や、街へ出て来る時の見事な馬車などでそれと知れる。パルゴロヴォか、それよりさきの方角に住んでいる人たちは、その分別ありげな重味のある様子で、一目で人を『威圧する』し、十字島(クレストフスキイ)から出て来た人たちは、徹底した快活振りで見分けがつくのだ。わたしはよく、ありとあらゆる家具類を山のごとく積み上げた荷馬車の長い行列に出会うことがある。馬方は手に手綱を持って、大儀そうに車の傍について歩いている。テーブルや椅子や、トルコふうのやトルコふうのでない長いすや、その他さまざまな家具類が積み上げられたそのてっペんには、痩せこけた台所女が乗って、ご主人様のお道具をわが眼のように後生大事と守っていることがよくある。それから、家財道具をずっしりと積み込んだ舟が、フォンタンカやネヴァ河を滑って、黒河(チョールナヤ)や河口の島々まで下って行くのを見かけたが、そうした荷馬車や舟は、わたしの見ている目の前で十倍になり、百倍になって行く。どうやら、何もかもが足もとから鳥が立つように騒ぎ出して、無数の隊商(キャラバン)のように、別荘さして引っ越して行くような感じである。何かペテルブルグ全市が沙漠に変わりそうな気がして、とうとうわたしは恥ずかしくもあれば、癪にもさわり、情なくもなって来たほどである。わたしはもうこうなると徹頭徹尾、どこも別荘などへ行くところがないし、また行く必要もなくなった。わたしはどの荷馬車とでもいっしょに行きかねなかった。辻馬車を雇っているれっきとした風采の紳士なら、だれとでもいっしょに、どこかへ行ってしまいたかった。が、だれも、だれ一人として、いっしょに行こうとはいってくれなかった、まるでみんながわたしを忘れてしまったように、まったくわたしが彼らにとって赤の他人であるかのように!

 わたしは長いことさんざん歩きまわって、いつもの習わしで、いったい自分がどこにいるのやら、すっかり忘れてしまっていた頃、ひょっこりと街の見付に出て来た。とたんにわたしは愉快になって、遮断機をひょいと跨ぎ越し、畑や草場の間を歩き出した。もはや疲労も覚えず、何かの重荷が胸から下りて行くような気持ちを、体のふしぶしに感じるばかりであった。道ゆく人々はだれもかれも愛想よくわたしを見て、ほとんどお辞儀をしないばかりであった。みんな何かいかにも嬉しそうで、みんな一人のこらず葉巻をくゆらせていた。で、わたしもかつて覚えがないほど嬉しくなった。まるで不意にイタリアヘでも行ったかのよう、──街の四壁の中であやうく窒息しそうだった半病人同然なわたしは、それほど強く自然の美に打たれたのである。

 わがペテルブルグの自然は、春の訪れとともに、突如として天から授けられた力を残りなく現わして、芽をふき、葉を広げ、花を(ちりば)めはじめる時、何か言葉に尽くしがたいほど涙ぐましいものが感じられる……なぜかわれともなしにこんな娘が連想される。ひわひわして病身で、それを見ると時には憐み、時には同情の愛を感じさせられるが、また時にはまるで気がつかないような娘でありながら、ふとした瞬間にどうしたものか、説明のできないほど奇跡じみた美女となる。で、人は驚嘆し魅惑されて、思わずこう自問するのである、──そもそもいかなる力があの沈み勝ちなもの思わしい目を、このような焔に輝かせたのであるか? 何があのあおざめて痩せた頬に血をそそいだのであるか? どうしてあの胸がかくもふくよかになったのか? 何がかくも突然にこの哀れな娘の顔に、力と、生命と、美を呼び出したのか? 何がこのような微笑に満面を輝かし、このように燦々と火花を散らすような笑いで蘇らせたのか? 人はあたりを見廻し、だれかをさがし求め、やがて推察しはじめる……が、その一瞬も過ぎて、おそらくその翌日は、また同じもの思わしげなとりとめのない眼ざし、元と同じようなあお白い顔、依然たる従順なおずおずしたものごし、それどころか、束の間の浮かれ心を侮む気持ち、人の心を化石させるような憂愁と、腹立たしさの痕さえみとめるかもしれない……で、人はかくも速かに束の間の美が凋落して、仇に空しく眼前を閃めき過ぎたのが悲しくなる、──それに惚れ込む暇さえなかったのが、名ごり惜しいのである……。

 が、それにしても、わたしの夜は昼よりもよかった! それは次のようないきさつである。

 わたしが街へ帰ったのは大分おそく、自分の住居へ近くなった時には、もう十時が鳴った。わたしの道筋は堀端で、その時刻には犬っころ一匹通らないのである。もっとも、わたしの住居はひどく遠い町はずれにあったのだ。わたしは歩きながら歌っていた。というのは、わたしは幸福を感じた時には、必ず何か鼻歌をうたう癖があったからである。それは親友もなければ親切な知人もなく、嬉しい時に喜びを分かつ相手のない仕合わせ者が、だれでもすることなのである。と、不意に思いがけない事件が起こった。

 ちょっとはなれた所で、一人の女が掘割の手摺にもたれて立っていた。格子に肘をつきながら、どうやら堀の濁った水を一心不乱に眺めていたらしい。彼女は実にかわいい黄色の帽子をかぶり、仇っぽい黒のマンチリヤを羽織っていた。

『あの娘はきっとブリュネットに相違ない』とわたしは考えた。娘はわたしの足音に気がつかなかったらしく、わたしが息をひそめ、胸を烈しく躍らせながら傍を通り過ぎた時も、身じろぎさえしなかった。『奇妙だな!』とわたしは考えた。『きっと何かひどく考え込んでいるに相違ない』と、わたしは突然、釘づけにされたように立ちどまった。忍び泣きの声がわたしの耳朶を打ったのである。果たせるかな! それは間違いではなかった。娘は泣いていた、そして、ちょっと間を置いて、またもや歔欷(きょき)の声。ああ、なんということだ! わたしは心臓をしめつけられるような気がした。わたしは女性に対してはかなり臆病ではあったけれども、しかしこれはこんな時刻である! わたしは後へ取って返し、「お嬢さん!」と呼びかけようとした。もしこの呼びかけがありとあらゆるロシヤの通俗小説で、すでに幾千たびくり返されていなかったら、必ず口から出したに相違ない。しかし、わたしが適当な言葉をさがしている間に、娘はわれに返って、うしろを振り返ると、はっとした様子で目を伏せ、河岸づたいにわたしの傍を滑り抜けた。わたしはすぐにその後から歩き出したが、娘はそれと察して、通りを横切り、向かい側の歩道をあるき出した。わたしは道を横切る勇気がなかった。わたしの心臓はさながら捕まった小鳥のようにおののいていた。ところが思いがけなく、ある一つの偶然がわたしを助けてくれた。

 わが未知の女性からあまり遠くない向かい側の歩道に、とつぜん燕尾服の紳士が出現した。どうやら不惑の年齢らしかったけれど、不惑の足取りとはいいかねた。紳士はよろよろしながら、用心ぶかく壁に体を支えて歩いていた。娘はおどおどして、矢のように早く道を急いだ。それは概して、よる夜中、だれにもあれ男の口から、家まで送って上げましょう、などといい出されるのが無気味でたまらない、そういう立場に置かれたすべての娘がするような歩き方であった。で、もしわたしをその場に居合わさせた運命が、彼にうまいやり方を考えつかせなかったなら、もちろん、このふらふら紳士などには、とても追っつけっこなかったはずである。不意に紳士は、だれにもひと言もいわないで、猛然と奮い立ったと思うと、わが未知の女を追って一目散に駆け出した。娘は風のごとく走ったが、ふらふら紳士はしだいに距離をちぢめて、ついに追いついてしまった。娘はきゃっと一声さけんだ──そこで……わたしは運命を祝福する。この時、わたしは素晴らしい節だらけのステッキを右手に持っていたのである。わたしはたちまち向かい側の歩道へ飛んで行った。招かれざる紳士はとたんに事態を察した。わたしの手に否応いわさぬ具体的な論拠があるのを見て取って、無言のまま引きさがった。ただわたしたちが遠く離れた時、かなり猛烈な言葉をつかってわたしに抗議を提出したが、その声はわたしたちのところまでやっと届くか届かないかであった。

「さあ、手をおよこしなさい」とわたしは未知の女にいった。「もうあいつ、あなたにうるさいことなんか仕向けやしませんよ」

 彼女はまだ興奮と恐怖に慄える手をわたしに差し出した。おお、招かれざる紳士! わたしはこの瞬間、どれだけ彼を祝福したか知れない! わたしはちらと娘を見やった。それは実に美しいブリユネットであった、──はたしてわたしの想像どおり、その黒い睫毛には涙が光っていた。それは、つい今しがたの驚愕の涙か、それとも前からの悲しみの涙か、──わたしにはわからない。しかし、唇には早くも微笑が輝いているのであった。彼女も同様、わたしのほうをそっと盗み見て、微かに顔をあからめ、目を伏せた。

「ほら、ごらんなさい、なぜあなたはさきほどぼくを追っぱらったんです? もしぼくがいたら、こんなことは起こらなかったのに……」

「だって、あたしあなたを知らなかったんですもの。あたし、あなたもやっぱり……なにかと思って……」

「じゃ、今はぼくがわかってらっしゃるんですか?」

「ちょっとばかしね。だって、ほら、なぜあなたはそう慄えてらっしゃるんでしょう?」

「ああ、あなたはのっけから察しておしまいになりました!」わが少女が怜悧なたちなのを見て、わたしはうちょうてんになって答えた。これだけの美貌を持っていれば、怜悧ということはけっして邪魔にならないものである。「そうです、あなたはのっけから、相手がだれかってことを見抜いておしまいになりましたよ。まったくのところ、ぼくは女性に対して臆病なのです、ぼくはわくわくしています、それはあえて争いません。ついさきほどあの先生に脅かされた時のあなたに負けないくらいね……ぼくは今でも何かに(おび)えているようなあんばいなので。まるで夢みたいです。いや、ぼくは夢の中でさえ、だれか女と話をするなんてことは想像もしませんでしたよ」

「えっ? まあ、本当?……」

「そうなんです。もしぼくの手が慄えているとすれば、それはまだ一度もあなたみたいな美しい人の、かわいい小っちゃな手に握られたことがないからです。ぼくは女の人をすっかり忘れてしまいました、いや、女というものをてんで知らなかったのです。現に今だって知りゃしません、──何かあなたに馬鹿げたことをいいはしませんでしたか? どうかはっきりいってください。前もってお断わりしておきますが、ぼくは怒りっぽい人間じゃありませんから……」

「いいえ、なんにも、別になんにも、それどこじゃありませんわ。でも、はっきりいえとおっしゃるのでしたら、あたしいいますけどね、そういったふうの小心な方は女に好かれるもんですのよ。いえ、もしお望みでしたら、もっとはっきり申しましょう、あたしもそういう方が好きなんですの、だからあたし、家へつくまであなたを追っぱらったりなんかしませんわ」

「あなたの仕向け方がお上手だから」とわたしは歓喜のあまり息を切らしながらいい出した。「ぼくはさっそくびくびくしなくなってしまいそうです。そうなったら、ぼくの方法もおさらばだ!」

「方法ですって? いったいなんの方法ですの? それはもういけないことよ」

「ごめんなさい、もういいません、つい口がすべったのです。しかし、こういう場合……望みを起こさないようにしろったって、そりゃあなた無理な注文ですよ……」

「望みって、好かれたいとでもおっしゃるんですの?」

「まあ、そうですね。でも、後生ですから、お手柔らかに願います。まあ、考えてもみてください、ぼくはいったい何者でしょう? 何しろ、ぼくはもう二十六からになるのに、今までだれも見たことがないんですからね。さあ、それですもの、どうして上手に話すことなんかできましょう、うまくばつを合わすなんてことが? まあ、何もかもぶちまけて明るみへ出してしまったら、あなたに取ってもそのほうがおとくですよ……ぼくはね、気持ちが動き出したが最後、もう黙っていられない男なんです。いや、まあ、そんなことはどうでもいい……まったくなんですよ、女の人は一人も知らないんです、それこそただの一人も! まるで知合いがないんですからね! ただ毎日のように、いよいよいつかだれかに出会うだろうと、そればかり空想しているのです。ああ、ごぞんじないでしょうが、ぼくはもう幾度こんなふうに恋をしたか知れませんよ……」

「でも、どうして、だれに?」

「いや、だれも相手はないんです、理想の女に、夢に現われて来る女に。ぼくは空想の中で、幾つも小説を創るんですよ。ああ、あなたはぼくという人間をごぞんじないでしょう! もっともぼくも二、三の女に出くわしました、そういうことなしにはすみませんからね。しかし、それはどういう女でしょう? みんな下宿のおかみさんといったような種類で、その……しかし、一つ滑稽な話をして、あなたを笑わせて上げましょう。ぼくは幾度か往来で、上流の婦人に話しかけようと思ったことがあります、ざっくばらんにね。もちろん、相手が一人きりの時です。もちろん、臆病に、うやうやしく、しかも熱情的に話しかけるのです。つまり、たった一人で亡びかかっている人間だから、どうか追っぱらわないでほしい、自分はせめてだれか一人でも女性を識る方法がないか、とこんなふうにいって、自分のような不幸な男の臆病な哀願をいれるのは、むしろ女としての義務でさえあるということを相手に納得させようとしたものです。そして最後に、自分が要求するのは、ただ親身の気持ちで同胞らしい言葉をひと言聞かしてもらうこと、いきなり頭から追っぱらわないこと、自分のいうことをしまいまで聞いて、無条件で信じてもらうこと、もしなんなら笑ってもかまわないけれど、とにかく希望を持たせてほしい、何かひと言、たったひと言いってもらいたい、ただそれだけが全部であって、その後はもう二度と会わなくたって異存はない!……おや、あなたは笑っていますね……もっとも、ぼくはそのために話したんだけど……」

「気を悪くなさらないでくださいな。あたしが笑ったのは、あなたが自分で自分を不幸にしていらっしゃるからですわ。本当にやってごらんになったら、うまくいったかもしれませんわ、よしんば往来の真ん中だったとしてもね。ことは簡単なだけがいいんですわ……気立ての優しい女でしたら馬鹿でない限り、そして怒りっぽくない(たち)だったらなおさらのこと、あなたが臆病に願っていらっしやるそのひと言をいわないで、追い返してしまう気にはならないでしょうね……でも、あたし何をいってるんでしょう! もちろん、あなたは気ちがい扱いされますわ。あたし自分から推していってるんですのよ。あたしこれでも、世の中の人がどういうふうに暮らしてるかってことを、ずいぶんよく知っているんですからね」

「ああ、ありがとう」とわたしは叫んだ。「あなたがいまぼくのためにどれだけのことをしてくだすったか、あなたにはおわかりにならないでしょう!」

「よござんすわ、よござんすわ! では、一つ伺いますが、どうしてあなたはあたしがそういう女だってことをお見分けになりましたの、つまり……そんなに気をつけて……これなら交際してもいいとお考えになった……まあ、ひと口にいえば、あなたのおっしゃるおかみさん型でない、というふうに。いったいなぜあなたはあたしの傍へ寄ろうと決心なさいまして?」

「なぜ? なぜですって? でも、あなたはたった独りぼっちだったじゃありませんか。あの先生たらあまり失敬なやつだし、おまけに夜でしょう。そうじゃありませんか。それは男としての義務ですよ」

「いえ、いえ、まだその前ですわ、あちらに、通りの向かい側にいた時。だって、あなたはあたしの傍へ寄ろうとなすったじゃございませんか?」

「あちらで? 向かい側で? そう、なんとお答えしていいかわかりません、失礼になりはしないかと心配で。実はね、ぼくは今日とても幸福だったので、歩きながら歌を歌っていました。ぼくは郊外へ出て行ったんですが、今日みたいな幸福な気分になったことは、今までついぞないほどでした。ところが、あなたは……もしかしたら、そんな気がしただけかも知りませんが……まあ、いやなことを思い出させることになったら、堪忍してください……あなたが泣いてらっしゃるように思われたのです。で、ぼくは……聞いていられなかった……胸をしめつけられるような気がして……ああ、なんてことでしょう! ねえ、いったいぼくはあなたのために悲しんじゃいけなかったのでしょうか? あなたに対して同胞としての憐憫を感じるのは、罪悪だったのでしょうか? まあ、要するに、ぼくが思わず知らず、あなたの傍へ寄る気になったからって、それが侮辱になるのでしょうか……」

「よしてください、もうたくさん、おっしゃらないで……」と娘は瞳を伏せ、わたしの手を握りしめていった。「あたしが自分で悪いんですわ、こんなことをいい出して。でも、あたし嬉しいわ、あなたという人を眼鏡ちがいしなくって……でも、もう家へ来ましたわ。あたしこの横町へ曲らなくちゃなりませんの。もうすぐひと足ですの……さよなら、ありがとうございました……」

「じゃ、いったい、いったい、もうぼくたちは二度と会わないんですか?……いったいこのままでおしまいなんですか?」

「ほらごらんなさい」と娘は笑いながらいった。「あなたは初めたったひと言だけとおっしゃったくせに、今度はもう……もっとも、あたしなんとも申し上げませんわ……ひょっとしたら、お会いするかも……」

「ぼくあしたまたここへ来ます」とわたしはいった。「ああ、ごめんなさい、ぼくはもう要求してる……」

「ええ、あなたはせっかちよ……ほとんど要求してらっしゃるわ……」

「まあ、聞いてください、聞いてください!」とわたしはさえぎった。「ごめんなさい、もしぼくがまた何か変なことをいったら……でもね、そうなんですよ、ぼくは明日の晩またここへ来ずにはいられません。ぼくは空想家でしてね、本当の生活というものがあまりないものだから、こういったような、今のような時は実に珍しいので、それを空想の中でくり返さずにはいられないのです。ぼくはあなたのことを一晩じゅう、まる一週間、いや、まる一年間、空想しつづけるでしょう。ぼくは必ず明日の晩ここへ来ます、今日と同じところへ、同じ時刻に来ます。そして、前の晩のことを追想して幸福を感じるでしょう。もうあの揚所さえぼくには懐かしいのです。ぼくはもう現在ペテルブルグに、そういう場所を二つ三つこしらえているんですよ。一度などは昔を思い出して泣いたほどです、あなたのように……実際、あなたは十分前に、思い出のために泣いたのかもしれませんね……しかし、ごめんなさい、ぼくはまた前後を忘れちまって。もしかしたら、あなたはいつかここでとくべつ幸福を感じなすったのかもしれませんね……」

「よござんすわ」と娘はいった。「たぶんあたし明日の晩ここへ来るでしょう、やっぱり十時にね。お見受けしたところ、もうあなたを差し留めることはできそうもないんですもの……実のところをいいますと、あたしここへ来てなくちゃならないんですの。もっとも、あなたに逢びきのお約束をしてるなどとお考えにならないでくださいましよ、これは前もってお断わりしておきます、あたし自分の用でここへ来なくちゃならないんですからね。でもね、あの……いえ、あたしもうざっくばらんに申しましょう、もしあなたがいらしても、それはかまいませんの。第一、また今夜みたいないやなことが起こるかもしれませんものね。いえ、これは余計なことですわ……ひと口にいいますと、あたしただあなたにお会いしたいんですの……あなたにひと言いいたいことがありまして。でもね、こういったからって、あたしを悪くお思いになっちゃいやですよ。あたしが軽々しく逢いびきの約束をしたなんて、お思いにならないでね……あたしこんなお約束なんかしたくなかったんですけど、ただ……しかし、これはあたしの秘密にしておきましょう! ただこれから先、守っていただきたいことがありますの……」

「守ることですって? いってください、いってください、前にすっかりいっておいてください。ぼくはなんでも承知です。どんなことでも心構えしておきますから」とわたしはうちょうてんになって叫んだ。「ぼくは自分に対して責任を持ちます。──従順で、慇懃な態度を取ります……あなただって、ぼくって人間がおわかりでしょう……」

「わかっていればこそ、明日いらっしゃいと申し上げてるんですわ」と娘は笑いながらいった。「ようっくわかっていますわ。でも、よくって、いらっしゃるにつけては、一つ条件がありますの、第一に(ただね、お願いですから、あたしのお願いすることを実行してくださいね、ほら、あたし明けすけにいってるでしょう)、あたしに恋しないでくださいよ……それは駄目なんですから、はっきり申し上げておきますけど。おともだちのお付合いはけっこうよ、さあ、握手しましょう……ただ恋だけは駄目、これがあたしのお願いなの!」

「それはぼく、誓います」とわたしは彼女の手を取って叫んだ。

「たくさんですわ、誓いなんか立てないで<ださい。だって、あたしにはちゃんとわかってるんですもの、あなたは火薬みたいに爆発しやすいたちなんですもの。こんなことを申し上げるからって、どうか悪くお思いにならないでね。もしあなたが事情をごぞんじでしたら……あたしもやっぱり話相手が、相談相手がだれもないんですの。もちろん、往来で相談相手をさがすなんてないんですけど、あなたは例外ですわ。あなたって人は、まるでもう二十年からお友だちだったみたいに、よくわかるんですものね……よござんすね、約束に背きはなさいませんね?」

「まあ、見てらっしゃい……ただぼくはせめてこの一昼夜だけでも、無事に生き延びて行けるかどうか、それが心配なんです」

「ぐっすりとおやすみなさい、さよなら、──でもね、あたしがもうあなたを信用したことは、覚えていてくださいね。さっきあなたが叫び声をお立てになった、あれがとても感じがよかったんですもの。人間って一つ一つの感情を意識するわけにいかないでしょう。たとえ同胞としての憐憫だっても! まったくよ、あれをおっしゃったその言い方が本当によかったので、これは信頼できる方だって考えが、すぐ頭に浮かんだんですわ……」

「後生です、聞かしてください、いったいどういうことです、なんの意味です?」

「また明日。今のところそれは秘密としておきましょう。そのほうがあなたにもいいんですもの。遠廻しにもせよ、小説らしくって面白いでしょう。もしかしたら、明日あなたに話してお聞かせするかもしれませんわ。でも、もしかしたら、やめにするかも……まあ、もっとよくお話してみましょうね、もっとよくお知合いになりましょう……」

「ああ、ぼくのほうは明日にもすぐ、自分のことをすっかり話してしまいます! しかし、これは全体どういうことでしょう? まるで奇跡が出現したみたいだ……ああ、ぼくはそもそもどこにいるのだろう? でも、はっきりいってください、あなたはぼくに腹を立てないで、一番はじめに追っぱらってしまわなかったのを(ほかの女だったら必ずそうしたでしょうよ)、不満に思っていらっしゃるんじゃありませんか? 僅か二分間、それであなたは永久にぼくを幸福にしてしまったんですからね。そうです、幸福に。まったくのところ、あなたはぼくをぼく自身と和解さして、ぼくの疑問を解決してくだすったのかもしれませんよ……もしかしたら、そういう瞬間がぼくを訪れたのかもしれないけれど……いや、まあ、明日はすっかり話してしまいましょう、何もかもおわかりになります、何もかも……」

「よござんすわ、お受けします。じゃ、明日聞かせてくださいね……」

「承知しました」

「さよなら!」

「さよなら!」

 こうしてわたしたちは別れた。わたしはその晩、夜っぴて歩きつづけた。思い切って家へ帰る気になれなかったのである。それほどわたしは幸福だったのだ……明日までの辛抱!

 

   第 2 夜

 

「さあ、ちゃんと生き延びなすったじゃありませんか!」笑い笑いわたしの手を握りながら、彼女はこういった。

「ぼくはここでもう二時間から待ってるんですよ。ぼくがまる一日どんなふうだったか、あなたはとてもおわかりにならないでしょう」

「わかってますわ、わかってますわ……でも、用事にかかりましょう。あなたはなぜあたしがここへ来たかごぞんじでしょう? だって、昨夜(ゆうべ)みたいに馬鹿話をするためじゃないんですもの。そこでねえ、あたしたちはこれから、もっと悧巧なやり方でいかなくちゃ駄目よ。あたしこのことを、昨日ながいあいだ考えましたの」

「なんのことです、どういうことを悧巧なやり方でいくんです? ぼくのほうとしては、いつでもその用意ができています。しかし、正直なところ、ぼく今ほど悧巧にやってることは、生まれて以来かつてないくらいですよ」

「本当ですの? 第一にお願いしますが、どうかそうきつく手を握らないでちょうだい。第二に申し上げておきますが、あたし今日あなたのことを長いあいだ考えましたの」

「さあ、それで結局どうなりました?」

「結局どうなったかですって? 結局のところ、初めからすっかり出直しということになりましたの。だってね、最後の結論として、あなたって方はまだよくわかっていない、と、あたしこう決めたんですもの。昨夜のあたしのやり方ったら、まるで小さな子供みたいでしたわ。で、もちろんのこと、何もかも自分の善良な心のせいだ、ということになったわけですの。つまりね、自分のことをあれこれと穿鑿(せんさく)するときは、いつもそうなんですけど、とどのつまり、自分で自分を賞めたわけですの。こういうわけで、昨夜の間違いを訂正するために、あなたのことを、うんと詳しくおたずねしようと決心しましたのよ。ところで、ほかにたずねる人もいませんから、あなたがご自分でそっくり何もかも、裏の裏までお話しにならなくちゃなりませんわ。さあ、あなたはどういう人なんですの? さあ、早く始めてちょうだい、ご自分の身の上話を聞かしてください」

「身の上話ですって!」とわたしはびっくりして叫んだ。「身の上話ですって! ぼくに身の上話があるなんて、いったいだれがいったんです? ぼくには身の上話なんてありはしませんよ……」

「じゃ、あなたはどんなふうに生きてらしったんですの、身の上話がないとすれば?」と彼女は笑いながらさえぎった。

「身の上話なんて、てんで何もありゃしません! よくいうように、自分自身で生きて来たんです、つまり、まったくの一人ぽっちで、一人、まったくの一人きりで、──わかりますか、一人きりっていうことが?」

「でも、どうして一人きりなんですの? じゃ、一度もだれ一人ごらんになったことがないんですの?」

「いや、そりゃ見ることは見ますがね、──それでも一人ぽっちなんです」

「なんですの、あなたはだれとも口をおききになりませんの?」

「厳密な意味でいって、──だれとも」

「じゃ、いったいあなたはどういう人なんですの、よく説明してくださいな! ああ、待ってちょうだい、あたし察しがついたわ。あなたもあたしと同じように、お祖母さんがあるんでしょう。うちのお祖母さんは目が見えないんですのよ。そしてね、年がら年じゅうあたしをどこへも出してくれないものだから、あたし話すことをすっかり忘れてしまったくらいですの。二年前に、あたしが悪ふざけをしたもんだから、お祖母さんはあたしを呼びつけて、ピンであたしの着物と自分の着物をいっしょに留めてしまったじゃありませんか、──それ以来、あたしたちは毎日朝から晩までいっしょに坐ってるんですの。お祖母さんは目こそ見えないけれど、靴下を編みますのよ。あたしはその傍に坐って、お裁縫をするか、本を読んで聞かせて上げるかで、──こんな奇妙な習慣ができてしまったんですの、もう二年もピンで留められて……」

「ああ、なんてことだ、えらい災難ですね! いや、ありません、ぼくにはそういうお祖母さんはありません」

「おありにならないんでしたら、どうしてそう家にばかり坐っていられるんでしょう?……」

「ねえ、ぼくがどういう人間か、あなた知りたいですか?」

「ええ、そりゃもう!」

「その言葉の厳格な意味で?」

「ええ、もっとも厳格な意味で!」

「よろしい、それならいいましょう、──ぼくはタイプです」

「タイプ、タイプ! タイプってなんですの?」まるで一年間も笑う折がなかったように、きゃっきゃっと笑いながら、娘はこう叫んだ。「ああ、あなたとお話してると、とても愉快ね! ごらんなさい、ここにベンチがありますわ、かけましょうよ。ここはだれも通らないから、二人の話を聞く人はありませんわ、──さあ、身の上話を始めてちょうだい! だって、あなたには身の上話があるにきまってますもの、うち消さないでちょうだい、あなたは隠し立てしてらっしゃるだけよ。第一に、タイプってなんのことですの?」

「タイプですか? タイプって、それは変わり者です。実に滑稽な人物です!」相手の子供らしい高笑いにつられて、自分でもからから笑いながら、わたしはそう答えた。「それは一種の性格なんです。ねえ、あなたは空想家って、何か知ってますか?」

「空想家ですって! 失礼ながら、どうして知らずにいられましょう? あたし自身が空想家なんですもの! どうかするとね、お祖母さんの傍に坐ってると、それはそれはいろんなことが頭へ浮かんで来ますわ。まあ、そうやって空想をはじめると、夢中になって考えているうちに、おしまいには支那の皇子のとこへお嫁入りさえしかねないようになるんですのよ……でも、時によってはいいものね、この空想ってものは! でも、どうだかわかんないわ! 取りわけ、そんなのでなくって何か考えることがあればね」と娘は今度はかなり真面目につけ加えた。

「素敵ですね! あなたも一たん支那皇帝のとこへ輿入れしなすった以上、きっとぼくのいうことを綺麗にわかってくださるでしょう。じゃ、いいですか……しかし、失礼ですが、ぼくはまだあなたの名を知らないんですよ」

「あら、やっとのことで! ずいぶん早く気がおつきになったのね!」

「ああ、なんてことだろう! まるで考えつかなかった、それでなくてもいい気持ちだったものだから……」

「あたしの名は、ナスチェンカ(ナスチェンカはナスターシャの愛称。本名に父称をつけて名のらず、愛称を教えたのは、隔てのない親密感を表わす)っていうの」

「ナスチェンカ! それっきり?」

「それっきりですって? それだけじゃあなた不足なんですの、なんてまあ欲の深い人でしょう!」

「不足なんですって? 十分です、十分です、まるで反対ですよ、十分ですとも。ナスチェンカ、最初からあなたがぼくのために、ナスチェンカになってくださったところを見ると、あなたは優しい、いい娘さんに相違ありません」

「ね、ほらごらんなさい! さあ!」

「さあ、そこでね、ナスチェンカ、聞いてください、どんなに滑稽な身の上話が飛び出すか」

 わたしは女の傍に腰をおろし、ペダントじみるくらい真面目な姿勢をとって、まるで書いたものでも読むようにしゃべり出した。

「ペテルブルグにはね、ナスチェンカ、もしごぞんじなければ教えて上げますが、かなり奇妙な裏町があるんですよ。そういうとこへ差し覗く太陽は、ほかのペテルブルグの住民を照らすのとは違って、そういう隅っこのために特別注文したような、別の、新しい太陽なんで、一種特別の違った光で照らすんです。そういう片隅ではね、ナスチェンカ、われわれのいたるところで沸き返っているような、目まぐるしい華やかな生活とは似ても似つかぬ、全然べつな生活が営まれているのです。それはきわめて真剣なこの現代に、わがロシヤではまるで見られない、遠い遠い悪魔の国の生活みたいなんです。ところで、この生活は何かしら極端に幻想的なものと、熱烈な理想主義的なものと、色褪せた散文的な日常茶飯的なものとの混合なんですよ(悲しいかな、そうなんですよ、ナスチェンカ!)、お話にならないほど俗悪なものとまではいいたくないですがね」

「まあ、いやだ! なんてことでしょう! 本当になんて前置きなの! いったいこれからどんなお話を聞かされるのかしら?」

「いいことを聞かせて上げますよ、ナスチェンカ(ぼくはどうやらナスチェンカという名をいくらくり返しても疲れないらしい)、ほかでもありません、そういう隅っこには奇妙な人間、──空想家が住んでいるのです。空想家とは、もし詳しい定義が必要とあれば申しますが、これは人間じゃなくて、まあ、何かしら一種中性の存在なんです。彼らは主に、どこかしら容易に寄りつけないような隅っこに巣食います。まるで太陽の光線さえ恐れるようにその中に身を潜めて、いったん自分の巣の中へ入り込んだとなったら、蝸牛みたいにその隅っこに生えついてしまう、だからこの点からいうと、あの亀と呼ばれる驚くベき動物に似ています、動物であると同時に家でもあるんですからね。なぜ彼らは自分の片隅の四つの壁を、──いつも必ず緑色に塗ってあって見るも侘しく煤けて、ぶしつけなほど煙草のけむりで燻り切ってる壁を、どうしてそんなに好くとお思いです? この滑稽な紳士は、あまり数の多くない以前の知人のだれかがやって来ると(でも、結局、知人はみんな無くなってしまうんですがね)、不思議なほど当惑して、顔の色まで変え、まるで自分の四つの壁の中で犯罪でもやったか、それとも贋紙幣(さつ)でも造っていたか、さもなくば匿名で雑誌に送るため何かの詩でも作っていたか(その添え手紙には、本当の詩人はもう死んでしまったので、遺稿を発表するのを親友としての聖なる義務と思う、と書いてあるのです)なんぞのようにわくわくする、これはいったいどういうわけでしよう? どうしてこの主人と客の間に話がうまく流れていかないんでしょう、え、ナスチェンカ? 不意にやって来たこの友だちは、すっかりまごついてしまって、ほかの時にはなかなか笑い上戸なのに、どうしてその口から笑い声も出なければ、うまい洒落も飛び出さないのでしょう? うまい洒落ばかりか、美しき性の話も、その他さまざまな愉快な話題も聞かれないのはなぜでしょう? そして、最後にいいたいことは、どうしてこの友だちは、おそらく近頃の知人でしょうが、初めて訪問したのに──だって、こうなると、もう二度目の訪問なんてないでしょう、その友だちは来やしませんからね、──なぜこの友だちは頓智に富んでいるくせに(もしそんなものがあるとすれば)、主人の仰向けた顔を見ながら、もじもじしたり、四角ばったりしてるんでしょう? 主人はまた主人で、会話を滑らかにしたり、変化をつけたりしようとし、自分でも社交界の知識を示そうと努め、人並みに美しき性のことを話し出して、せめてこれくらいの従順さでもって、お門違いのところへ間違って来た気の毒な客のお気に入ろうとむだな大努力をした後で、すっかりとほうに暮れ、どうにもならなくなっているのです。かつ、最後にですな、客が帽子に手をかけながら、のっぴきならぬ用事を思い出したといって(そんなものなんか、ありはしないのに)、そそくさと出て行こうとし、一生懸命に後悔の念を示し、失敗を取り返そうと努力している主人の熱心な握手を、やっとこさと振りほどくのはなぜでしょう? またこの去って行く友人が戸の外へ出ると、からからと高笑いをし、すぐにその場で、こんな変人のとこへ二度と来るもんかと考えるのは、いったいなぜでしょう? ところが、この変人は実のところ、立派な青年なんですが、それと同時に、ちょっとした空想の気まぐれが、どうしても思い切れないんです。それは、たとえば、さっき話し合っている間じゅう、その話相手のつらを、漠然とではありますが、不仕合わせな仔猫に較べる、といったような(たぐい)です。その仔猫は子供らに揉みくたにされ、脅やかされ、不意打ちで(とりこ)にされた上、さんざんぱらいじめられたんですな。で、とうとう、椅子の下の暗がりにもぐり込んで、まる一時間、毛を逆立てたり、ふうっと唸っておどしたりしなければならず、それから暇にまかせて、ひどい目にあわされた顔を両手で洗ったりして、その後でまだ長いこと自然や、人生を恨めしそうに眺めるのです。おまけに、情深い女中頭が、ご主人の食ベ残りを取っといてくれたのさえ、容易に食べようとしない始末ですからね。いったいそれはなぜでしょう?」

「ねえ」しじゅう目を見開き、かわいい口をぽかんとあけて、わたしの話を聞いていたナスチェンカは、こうさえぎった。「ねえ、あたし、どうしてこんなことができたのか、そしてなぜあたしにそんなおかしい質問をなさるのか、まるで見当がつきませんわ。でも一つだけ確かにわかっているのは、そういうことがみんな本当に一つ残らず、あなたの身の上にあったに相違ないってことですの」

「そのとおり」とわたしはいとも真面目な顔をして答えた。

「ねえ、もしそのとおりでしたら、どうぞおつづけください」とナスチェンカは答えた。「だって、それが結局どうなるか知りたいんですもの」

「ナスチェンカ、わが主人公が、いや、それよりぼくといったほうがいいでしょう、なぜなら、この事件の主人公は、ほかならぬ小生おんみずからなんですからね、──ぼくが自分の片隅で何をしたか、あなたは知りたいんですね? ぼくが不意の来客のためにまる一日、あんなにもあわてて、とほうに暮れたわけが知りたいんですね? 不意に戸があいて友だちが入って来た時、ぼくがあんなにびくりっとして、顔をあからめたわけが知りたいんですね? ぼくが客のもてなしが下手で、自分自身のおもてなしが重荷になり、あんな恥曝しの敗亡をしたわけを、あなたは知りたいんですね?」

「ええ、そうよ、そうよ!」とナスチェンカは答えた。「それが肝腎なのよ。ねえ、あなたはお話がとてもお上手よ。でもね、なんとかして、そんなに上手でなく話していただくわけにまいりませんでしょうか? だって、あなたのお話はまるでご本でも読んでらっしゃるようなんですもの」

「ナスチェンカ!」とやっとのことで笑いをこらえながら、わたしは勿体ぶった厳めしい声で答えた。「かわいいナスチェンカ、ぼくは自分が上手に話すのを知っています、が、──失礼ながら、これよりほかの話し方ができないのです。今はね、かわいいナスチェンカ、ぼくはソロモン王の霊に似ているんですよ。千年の間も七つの封をした箱に入っていて、やっとのことでこの七つの封を取ってもらった、あのソロモンにね。かわいいナスチェンカ、ぼくたち二人があれほど長いこと別れていた後で、再びめぐり合った今は、──だって、ぼくはもうずっと前からこのめぐり合いを知ってたんですもの、ナスチェンカ、だって、ぼくはもう前からだれかをさがしていたんですもの、それはつまり、ほかならぬあなたをさがしていた証拠です、そして今めぐり合うような運命だった証拠です、──そういう今だから、ぼくの頭の中にある千からの蓋が開いて、ぼくは言葉の洪水を溢れさせずにはいられない、そうしないと、息がつまってしまいます。そういうわけだから、ぼくの話の腰を折らないでくださいよ、ナスチェンカ、おとなしくじっと聞いてね。さもないと、ぼくは話をやめてしまいますよ」

「ええ、ええ、ええ──けっして! どうか話してちょうだい! もうこれからはひと言もいいませんから!」

「じゃ、つづけましょう。ねえ、親愛なる友ナスチェンカ、ぼくは一日のうちで好きでたまらない時間があるのです。それはね、ほとんどすべての仕事や、お勤めや、義務がすんで、みんなが食事と休息にわが家へ急ぐ時です。みんな道々すぐ即座に、その晩と、その夜、つまり残った自由な時間について、まるで違った愉快なテーマを考え出すのです。その時、わが主人公も、──ナスチェンカ、もう三人称で話さしてくださいね、なぜって、一人称ではこんなことをベらベらしゃべるのが、とても恥ずかしいから、──さて、この時間に、やはり多少は仕事のあったわが主人公も、みんなの後から歩いてゆくのです。しかし、なんだか少々揉みくたになったようなあお白い顔には、奇妙な満足感が躍っている。冷たいペテルブルグの空に静かに消えて行く夕映えを、何か無関心でなさそうな目で眺めるのです。いや、『眺める』といったのは嘘です。彼は眺めるのじゃありません、疲れてはいながらも、ほかのもっと面白いことに気を取られている様子で、何か無意識に瞑想しているのです。というわけで、ほんのちらりと、ほとんどわれともなしにこういう周囲のいっさいに注意を割くだけなんです。彼は自分にとっていまいましい仕事を片づけたのに満足し、教室のベンチから解放されて、好きな遊戯やいたずらに急ぐ小学生みたいに、大喜びなのです。まあ、ナスチェンカ、彼の様子を横から見てごらんなさい。そのよろこばしい感じが彼の弱い神経や、病的に苛立っている空想に、早くも作用しているのが、一目でわかるから。彼は何やら考え込みました……あなたは晩めしのことだと思います? 今晩のことだと思います? 彼はいったい何を見ているのでしょう? 逸物をつけた素晴らしい馬車に乗って傍を通りかかった貴婦人に向かって、絵にかきたいくらい優美な恰好で会釈をした、堂々たる風采の紳士だと思いますか? いや、ナスチェンカ、彼はそんな瑣事には用がない! 今や彼は、自分自身の生活を豊富にもっているのです。彼はどうしたのか、ふっと金持ちになったのです。しだいに消えてゆく太陽の名ごりの光線が、楽しげに彼の前に閃めいたのも、うベなるかなです。それは彼の暖められた心から、無数の印象を呼びさましたのです。さっきまでは、どんな細かい瑣事ですら印象を与えた道も、今の彼はまるで気にとめない。今は『空想の女神』が(ナスチェンカ、あなたはジュコーフスキイの詩を読んだことがありますか)、早くもその気まぐれな手で金色の地を織りはじめ、彼の眼前に古今未曾有の(あや)しい生命の模様をくり広げて行く。もしかしたら、この女神はその気まぐれな手で、いま家路を辿っている見事な花崗(みかげ)石の歩道から、水晶づくりの第七天へ彼を運んで行った、かもしれないのです。今ためしに彼を不意に呼びとめて、あなたは今どこに立っていますか、どういう街筋を通って来ましたか? ときいてごらんなさい、彼はきっとどこを通ったかも、今どこに立っているかも、思い出すことができないで、いまいましさに顔をあからめ、なんとか体裁をつくろうために、何か出たらめをいうに相違ありません。こういった次第で、一人のとても上品な老婦人が、うやうやしく歩道の真ん中で彼を呼びとめて、道を迷ったから教えてほしいと頼んだ時、彼はどきっとして、すんでのことに叫び声を立てようとし、慴えたようにあたりを見廻したわけです。いまいましさに顔をしかめて、彼は先へ歩いて行く。そして通行人が一人ならず、彼を見ながらにやっと笑い、うしろから何かどなったり、どこかの小さな女の子が、彼の顔一面に広がっている瞑想的な微笑と妙な手振りを見て、おずおずと道を譲り、大きな声で笑い出したのにも、ほとんど気がつかないのです。しかし、やはり例の空想が、老婦人も、もの好きな通行人も、笑い出した女の子も、フォンタンカ(まあ、仮りにわが主人公が、その時ここを通りかかったとしましょう)をいっぱいにふさいでいる艀で、晩めしを食っている百姓どもも、万物ことごとく自分の魔法の翼に打ち乗せて、さながら蜘蛛が蝿を次々と自分の巣へ引っかけるように、自分のカンヴァスヘ面白おかしく織り込んで行くのです。こういう新しい獲物をもって、変人は自分の楽しい穴へ帰って来て、早くも食卓に坐る、やがてもうとっくに食事も終わって、年じゅう悲しそうな顔をしている女中のマトリョーナが、もうテーブルの上を片づけて、パイプを差し出したとき、彼はふとわれに返り、もう食事はすっかりすましたんだなと、びっくりして思い出し、どうしてそんなことになったのか、とんと合点がいかない。部屋の中は暗くなって、彼の胸の中はがらんとしてもの悲しい。空想の王国が一つ、彼の周囲で崩れたのです、なんの物音もなしに跡かたもなく崩れてしまい、夢のごとく過ぎたのです。しかも、彼は自分ながら、何を夢想したのか覚えがないのです。しかし、何かしら漠然とした感覚があって、そのために彼の胸は疼き、わくわくする。何かしら新しい希願が誘惑するように彼の空想をくすぐって、いつとはなしに数限りない新しい幻を呼び集める。小さな部屋の中には静寂が立ちこめて、孤独と怠惰が想像を柔らかに撫でてくれる。と、想像はかすかに燃えあがって、老婢マトリョーナのコーヒーわかしの中の水のように、徐々に沸き立って来る(老婢は隣りの台所で自分のコーヒーをこしらえながら、何の邪念もなくごとごとやっている)。やがて空想は早くも沸き返って、何のあてもなく出たらめに取り上げた本は、三ページも読まないうちに、わが空想家の手からばたりと落ちる。彼の想像はまた調子が整い、興奮して、不意にまた新しい世界、新しい魅惑の生活が、輝かしい遠景を見せながら彼の眼前にきらめく。新しい夢、──新しい幸福! 洗煉された甘い毒薬はまた更に服用された! ああ、彼にとってはわれわれの現実世界なぞ何の価値もないのです! 空想に(まかな)いされた彼の目から見るとね、ナスチェンカ、わたしやあなたなんかは、懶惰な張りのない生活をのろのろと引きずっているのです。彼の目には、われわれすべては自分の運命に不満でたまらず、自分の生活を悩みにしているのです! それに、まったく見てごらんなさい、われわれの間にあるものは何もかも、一見したところ冷たくって、まるで怒ってでもいるように気むずかしい……かわいそうなやつらだ! とわが空想家は考える。またそう考えるのも不思議ではないのです──まあ、彼の目のまえに魔法のような霊気に充ちた画面となって、いとも(あや)しく、果てしなく広々と展開されている、まよわしの幻を見てごらんなさい。そこでは前景に中心人物として君臨しているのは、もういうまでもなく彼自身です、わが空想家おんみずからです。まあ、なんという千変万化をきわめた冒険、なんという歓喜にみちた夢想が無限に蝟集していることでしょう。もしかしたらあなたは、彼が空想しているのは何か、とおたずねになるかもしれませんね。それはありとあらゆることです……初めは不遇で、後に月桂冠を与えられた詩人の役割、ホフマン(ドイツ浪漫主義の代表的作家、一七七六—一八二二)との交友、バルテルミーの夜(一五七二年八月二十四日の聖バルテルミーの祭日にユグノー派がパリで大量虐殺された事件)、ダイアナ・ヴァノン、イヴァン雷帝のカザン占領の時の英雄的な役割、クララ・モウブライ、ユーフィア・デンス(イギリスの作家スコットの小説の女主人公。いずれもスコットの小説の作中人物)、大僧正の会議と彼らの前に立つフス(一三六九—一四一五年、チェコの宗教改革者、一四一四年の宗教会議で火刑を宣告されて刑死した)、『ロベール(台詞スクリープ、作曲マイエルベールの歌劇『悪魔ロベール』一八二五年、パリで初演)』の中の亡者どもの一揆(あの音楽を覚えていますか? 墓場の臭いがするじゃありませんか!)ミンナとブレンダ(前者はジュコーフスキーの詩、後者はコズロフの譚詩)、ベレジナ河の戦闘(一八一二年十二月十四─十六日に行なわれた、敗走するナポレオン軍とロシヤ軍の戦闘)、V・D伯爵夫人のサロンにおける叙事詩の朗読、ダントン(フランス革命のジャコバン党の政治家)、クレオパトラe i suoi amanti(とその情夫)、コロムナの小家(プーシキンの作品、前者は小説『エジプトの夜』後者は同名の詩から)、自分の片隅、そばには可憐な乙女が冬の晩、目を見開き口をあけて、彼の物語を聞いている、ちょうどいまあなたがわたしの話を聞いているようにね、わたしのかわいい天使……いや、ナスチェンカ、この熱情的な懶けものに取っては、わたしやあなたが一心に憧れている生活なんか、物の数でもないのです! 彼はそんなものなど貧しい、みじめな生活だと思っています。そして、このみじめな生活のたった一日のために、自分の幻想的な長の年月を棒に振ってしまう悲しい時が自分にもいつか来るかも知れないということを、夢にも知らないでいるのです。それも、よろこびや幸福のために投げ出すのじゃないんですからね。いったいに彼は憂愁と、慙愧と、果てしない悲しみの瞬間には、選択などする気にならないのです。しかし、今のところそれは、その恐ろしい瞬間は訪れないから、彼は何一つ希望しません。なぜって、彼は希望を超越しているからです、彼にはいっさいが備わっているからです、飽満しているからです、彼自身が自分の生活の芸術家であって、毎時毎刻、自分の望みどおりに生活を創造しているからです。だって、その昔噺のような幻想の世界はいとも易々と、いとも自然に創られるんですからね! まったくのところ、それがみんな幻ではないように思えるんです! 本当にどうかすると、この生活が感情の興奮でもなければ、蜃気楼でもなく、想像のまどわしでもなく、それこそしんじつ現存の本質であると、信じ込むくらいですよ! ねえ、ナスチェンカ、どうして、どうしてそういう時には、息がつまりそうになるんでしょうね? 空想家はなにか魔法にでもかかったように、なにかしら未知の存在物の気まぐれに操られてでもいるように、脈が早くなって、目からは涙がはふり落ち、泣き濡れたあお白い頬は燃え、全身がえもいわれぬよろこびでいっぱいになるのですが、それはいったいなぜでしょう? 眠られぬ夜な夜なが一瞬のごとく過ぎて、ばら色の朝焼けが窓に輝き、暁はわがペテルブルグの常として、怪しい幻想的な光で陰欝な部屋を照らし始める時、へとへとに疲れたわが空想家は、いきなりベッドの中に身を投げて、歓喜のあまり病的な心を震撼されたため、身も心も消え入りそうになり、悩ましく甘い痛みを胸にいだいたまま、眠りに落ちるのですが、それはいったいどういうわけでしょう? ねえ、ナスチェンカ、こうなるとだれでもつい騙されますよ、彼の空な幻想の中には、手に触れることのできる生命が存在していると、われともなく信じたくなろうじゃありませんか! ところが、それが大変な考え違いなんですよ。現に早い話が、愛が心に宿ったとしましょう、そこには尽きることのないよろこびも、やるせない悩みも、何もかも揃っている……それは一目みただけで、だれでもそうに違いないと思い込むにきまっています! 彼の顔を眺めていると、彼が興奮した空想の中でそれほど恋い慕っている女を、本当はかつて一度も見たことがないのだ、などということが本当にできるでしょうか、え、ナスチェンカ? ただ魅惑にみちた幻として恋人を見たばかりだ、そんな愛情はただ夢で見たばかりだ、なんてことが信じられますか? でも、この二人は実にもう何年という間、腕を組み合わせて人生を歩んだのです、──たった二人きりで、世間も何もおっぽり出して、一人一人が自分の世界、自分の生活を、相手の生活と結び合わせていたんですからね。夜が更けて別れの時刻が来た時、彼の胸に身を投げ伏して、嘆き悲しみ、暗い虚空を吹きまくる嵐の音も耳に入らず、風が自分の真っ黒な睫毛から涙をもぎ取って、吹き散らすのにも気づかないでいたのは、はたして彼女ではなかったのでしょうか? いったいあれは何もかも空想にすぎなかったのでしょうか、──二人があんなにたびたび苔むした径をそぞろ歩きして、はかない望みをいだいたり、嘆いたりしながら、あれほど長く愛し合ったあの淋しい庭、──『あれほど長いあいだ優しく』愛し合った庭、──もの凄く荒れ果てた陰惨な庭、──彼女があんなに長いこと侘しくもの悲しい生活を送った、あの奇妙な曾祖父の代からの家、──やるせない気持ちでおのれの恋を秘め合っていた、子供のように臆病な二人を脅やかす、気むずかしやの、年じゅうむっつりしている、癇癖のつよい年取った亭主。二人はどんなに苦しんだことだろう、どんなに恐れたことだろう。また二人の恋はなんと清浄無垢だったろう。そして(これはもういうまでもないことだが)、世間の人がなんと意地わるだったことか! それからね、素晴らしいことがあるんですよ。その後かれは故国の岸から遠く離れた異郷の土で、かの驚くベき永遠の都(イタリアのローマをさす)で、灼けつくような南方の空のもとで、偶然、彼女にめぐり合うのです。光り輝く舞踏会、嚠喨(りゅうりょう)たる音楽の響、灯火の海に沈んだ宮殿(パラッツォ)(ぜひとも宮殿でなくちゃならない)木犀草と薔薇の一面に絡んだバルコン、そこで彼女はふと彼に気がついて、あたふたと仮面を脱ぎ、『わたしはもう自由なのよ』とささやくなり、全身を慄わして、いきなり彼の抱擁の中に身を投じる。二人は歓喜の叫びを上げながら、互いにひしと抱き合って、束の間のいっさいのことを忘れてしまう、──悲しみも、別離も、苦悩も、遥かな故郷の陰気な邸も、老夫も、淋しい庭も、最後の熱い接吻を交したベンチも……その時彼女は、絶望に近い苦悶に麻痺した男の抱擁から身をもぎ放すようにのがれ去ったものです……ところが、ナスチェンカ、まあ、どうでしょう、その瞬間に、のっぽで頑丈な体をした、陽気で、口の軽い、招かれざる友人が、ひょっこり戸を開けて、『ぼくはね、きみ、今パーヴロフスクから来たとこなんだよ』と洒々とした調子でどなられてごらんなさい、こっちは隣りの庭から盗んで来た林檎を、たった今ポケットヘ突っ込んだ小学生よろしく躍りあがって、もじもじと真っ赤な顔をせずにいられまいじゃありませんか。ああ、なんということでしょう! 老伯爵が死んで、筆紙につくせぬ幸福がめぐって来たのに、パーヴロフスクからやって来たなんて!」

 わたしはこういう言葉で悲愴な叫びを結ぶと、悲愴なおも持ちで口をつぐんだ。わたしはなぜか無理やりに大声で、からからと笑いたくなったのを覚えている。わたしは早くも自分の内部に意地の悪い小悪魔が、かすかに動きはじめる気配を感じたのである。もう喉がつまって、下顎が躍り、目はいよいよ潤みを帯びて来る……

 ナスチェンカは悧巧そうな大きな目を見開いて、わたしの話を聞いていた。わたしは、今にも彼女が抑えても抑えきれぬ、子供らしい愉快そうな笑いを爆発させて、げらげらと笑いころげることと覚悟していた。そして、これはあまり深入りしすぎた、あんなに何もかもベらべらしゃベってしまうのではなかったと、早くも後悔しはじめた。しかし、わたしにして見れば、これは久しい前から胸の中に溜まり溜まった感想で、それこそ原稿でも読むように話すことができたのである。何しろ、わたしはもうずっと前から自分で自分に対する宣告を準備していたので、今はどう我慢しても、それを読み上げずにはいられなかったのだ。もっとも、白状すると、他人に理解してもらえるとは期待していなかったのである。ところが、驚いたことには、彼女はなにもいわなかった。しばらくすると、軽くわたしの手を握りしめて、なにか臆病そうな同情をこめてこうきいた。

「いったいあなたは本当にそうして、今までずっと暮らしてらっしたんですの?」

「今までずっとですよ、ナスチェンカ」とわたしは答えた。「今までずっと。そして、これからもそんなふうで終わるらしいね!」

「いいえ、そりゃ駄目よ」と彼女は不安げにいった。「こんなことがあっちゃ、たまらないわ。それだったら、あたしもお祖母さんの傍で一生暮らさなくちゃならないかもしれなくってよ。ねえ、あなた、そんなふうに暮らすのは本当によくないわ」

「わかってますよ、ナスチェンカ、わかってますよ!」とわたしはわれとわが感情を抑える力がなくて、こう叫んだ。

「そして、ぼくが自分の生涯でも最良の年をすっかり無駄に浪費してしまったということは、いつにもまして今よっくわかった! ぼくいまとなってそれがはっきりわかった。そして、その意識のためになおのこと胸が疼くんです。というのはね、神様がぼくのとこへあなたを送ってくだすったからです。何もかも話して、それを証明するために、あなたという優しい天使を送ってくださったのです。今こうしてあなたの傍に坐って、あなたと話をしていると、もう未来のことなんか考えるのが、変なくらいです。だって、未来もまた孤独なんですもの、またあの()えたような役にも立たぬ生活なんですもの。それにもう現在あなたの傍にいてこんなに幸福なんですからね、もう何も今さら空想することはないじゃありませんか! ああ、あなたはかわいい娘さんです、どうかあなたに天の祝福がありますように。なぜって、あなたは最初からぼくをしりぞけなかったんですもの。もうこうなると、ぼくは自分の生涯のうち、たとえ二晩でも本当に生きた、ということができます!」

「いえ、ちがいます、ちがいます!」とナスチェンカは叫んだ。涙の玉がその目に光った。「いえ、けっしてそんなことはありません、あたしたちはもうこのまま別れっこありませんわ! 二晩なんて、それなんのこと?」

「おお、ナスチェンカ、ナスチェンカ! あなたは永久にぼくを自分自身と和睦させてくれたことを、ご自分でわかっていますか? ねえ、ぼくは時々自分のことを悪く思っていましたが、もうこれからはそんなことはないです。ねえ、ぼくもおそらくこれからは自分の生涯の中で犯罪をおかした、罪をつくったといって、くよくよするようなことがなくなるでしょう。なぜって、あんな生活は犯罪ですもの、罪悪ですもの。ぼくが何か仰山にいってるなんて、考えないでください、後生ですから、そんなことを考えないでね、ナスチェンカ。実際、ぼくはどうかすると、なんともいいようのない憂愁に襲われるんです……もうそういう時には、自分は本当の生活を生きる能力がないような気がするんです。自分は本当の現実的なものに処するこつというか、直覚というか、を失い尽くしたような気がするんです。こうして、とどのつまり、われとわが身を呪ったものです。なぜって、そういった幻想的な夜な夜なを過ごした後で、今度は覚醒の時がやって来るのですが、それが実に恐ろしいもんでしてね! しかも、自分の周囲では世間という大群衆がひしめき、渦巻いているのが聞こえる。普通の人間が生きているのが、現実に生きているのが感じられ、目に映る。彼らにとっては、生活は誂えものでないということが、はっきりわかる。彼らにとっては生活は夢でも幻でもない。永久に更新せられる若々しい生活で、その一刻一刻は互いに少しも似かよっていない。ところが、臆病な幻想は憂欝で、俗悪なほど単調なのです。それは影の奴隷です、理念の奴隷です、とつぜん太陽をおおう最初の雲の奴隷です、あんなにも自分の太陽を尊重するペテルブルグの住人の心を憂愁で締めつける雲、──そうした憂愁に囚われたら、幻想も何もあるもんですか! とどのつまり、不断の緊張のために幻想は疲れてしまい、この尽きることなき幻想が涸渇してしまうような気がするのです。だってなにぶんにも、自分が絶えず生長して、以前の理想を脱皮してゆくからです。古い理想は粉々に微塵となって砕けてしまいます。ところが、心は何か別のものを求め、欲するのです! こうして、空想家はさながら灰の中を掻き廻すように、自分の古い空想をさぐって、その灰の中にほんのかけらほどの火の粉でもさがし出し、それを丹念に吹き起こして、勢いを取り返した火で冷めた心を温め、かつてあれほど懐かしかったもの、胸を躍らしたもの、血を湧かしたもの、目から涙を搾り出したもの、あれほど美しく欺いたもの、そういういっさいのものを復活させようとする! ねえ、ナスチェンカ、そのあげくの果ては、どういうことになったかわかりますか? 実はね、ぼくはとうとう自分の感覚の一周年記念を催さなければならぬ羽目になりました。以前あれほど懐かしく思われたものの一周年記念をね、もっとも、そんなものは実際のところ、なんにもありゃしなかったんです。なぜって、その一周年記念は、いつものおなじ馬鹿げた実体のない空想のために行なわれていて、そんな記念をするのも、その馬鹿げた空想そのものさえありはしないし、その空想を生活しようにも、方法がないからなんですよ。だって、空想だって生活しなくちゃならないんですよ! 実はね、ぼくはこの頃あるきまった時期に、かつて自分流儀に幸福を感じた場所を思い出して、そこを訪れて見るのが好きになったんです。二度と返らぬ過去に調子を合わせて、現在を築き上げるのが好きなんです。こうして、よく必要もなければ目的もなく、影のように侘しくもの悲しげに、ペテルブルグの街々や横町をさ迷い歩くのです。その思い出のすばらしいこと! たとえば、ちょうど一年まえに、ここを、この歩道を、この時分、かっきりこの時刻に、今と同じように孤独で、しょんぼりさ迷った、ということが想い起こされる。そしてその時の空想もやはり沈み勝ちだったことを想い起こす。以前だって別にいいことはなかったのに、なんだかずっとよかったような、落ちついて暮らすことができたような気がする。いま自分に絡みついている真っ黒なもの思いもなく、現在昼も夜も心を噛みつづけている暗澹とした、陰惨な良心の呵責もなかったような気がする。そこで、いったいおれの空想はどこへ行ったのだ、と自問する。そして、頭をふりながら、年のたつのはなんて早いものだろう? とつぶやくのです。それから、またこうも自問する、いったいお前は自分の年をどうしたのだ? 自分の最もよき時代をどこへ葬ったのだ? お前は生きていたのかどうだ? いいか、気をつけろ、世の中は冷たくなっていくぞ、と自分で自分にいい聞かせる。また更に何年かたつと、その後に侘しい孤独がやって来る、老年が杖をついて慄え慄えやって来る、すると、更にそれにつづいて、憂愁と落胆が見舞うのだ。お前の幻想の世界は色あせて、お前の空想も()えしおれ、秋の枯葉のように散ってしまうだろう……おお、ナスチェンカ! 一人きり、まったくの一人ぼっちになって、哀惜するものさえ何一つ持たぬということは、なんと悲しいことだろう、──何一つ、それこそ何一つない……だって、何もかも残らず失くしてしまったんだからなあ。あると思ったものは、みんな無だったのだ。ばかばかしいまったくのゼロだったのだ。いっさいはただの空想だったのだ!」

「まあ、(ひと)を泣き落としにかけないでよ!」とナスチェンカは目から一雫こぼれた涙を拭きながらいった。「もうこうなったら、話はきまったんだわ! もうこれからあたしたちは二人いっしょよ、今後あたしの身にどんなことが起こったって、二人はもうこんりんざいわかれっこなしよ。ねえ、あたしはただの小娘で、あまり学問なんてないけれど(もっとも、お祖母さんは家庭教師を雇ってくれたこともあるのよ)、でも、あたしまったくのところあなたのおっしゃることがわかるわ。だって、今あなたが話してくだすったことは、あたしも自分で経験したことなんですもの、あのお祖母さんがピンであたしの着物を自分の着物に留めてから。そりゃもう、あたしはあなたみたいに上手には話せませんわ。あたし学問がないんですもの」と彼女は臆病そうにつけ加えた。わたしの悲愴な話振りと調子の高い言葉に対して、何かある尊敬をいだかされたのである。「でも、あなたがそうして、何もかもうち明けてくだすったので、あたしとても嬉しいわ。今こそあなたって人がわかりましたわ、すっかり、どこからどこまでも。でね、どうでしょう? あたしもあなたに自分の身の上話をしようと思うのよ、何から何まで少しもかくさないで。その代わりにね、その後であなたあたしに忠告をしてくださいな。あなたはとても賢い方ですから、忠告すると約束してくださいね?」

「ああ、ナスチェンカ」とわたしは答えた。「ぼくは一度も人に忠告などしたことがないから、まして賢い忠告などできっこないけれど、こうなってみると、もし二人がこんなふうに暮らしていったら、それこそ何かしら非常に賢いことになるよ。そして、各々がお互いにうんとこさ賢い忠告をするだろうよ! かわいいぼくのナスチェンカ、どんな忠告がしてほしいの? ざっくばらんにいって。ぼくは今とても愉快で、幸福で、大胆で、賢いから、言葉にまごつくようなことはありゃしない」

「いえ、いえ!」とナスチェンカは笑いながらさえぎった。

「あたしに必要なのは賢い忠告だけじゃなくって、兄弟のように隔てのない心からの忠告も必要なのよ、ちょうどあなたが今までずっとあたしを愛していらしったみたいに!」「よろしい、ナスチェンカ、よろしい!」とわたしはうちょうてんになって叫んだ。「たとえぼくがもう二十年間もあなたを愛していたって、それでも、今以上に強く愛することはできなかったでしょうよ!」

「じゃ、お手を!」とナスチェンカはいった。

「さあ!」とわたしは手を差し伸べながら答えた。

「じゃ、あたしの身の上話をはじめますよ!」

 

   ナスチェンカの物語

 

「あたしの身の上話の半分は、あなたもうごぞんじでしょう、だってあたしに年取ったお祖母さんがあること、知ってらっしゃるんですもの……」

「もし後の半分もそれと同じくらい簡単だったら……」とわたしは笑いながらさえぎった。

「黙って聞いてらっしゃい。まず第一に約束があるのよ。話の腰を折らないこと、でないと、あたしまごつくかもしれないんですもの。さあ、おとなしく聞いてらっしゃいよ。

「あたしには年とったお祖母さんがあるの。あたしがこの人の手にかかったのは、まだほんの小っちゃな時だったわ。というのは、お父さんもお母さんも亡くなったからなの。どうやらお祖母さんはもとお金持ちだったらしいわ。だって、今でも昔よかった時分のことを思い出すんですものね。このお祖母さんがあたしにフランス語を教えたり、家庭教師を雇ってくれたりしたの。あたしが十五になった時(あたし今十七なのよ)、もう勉強もおしまいになっちまったわ。その時なの、あたしが悪ふざけをしたのは。どんなことをしたか、それはあなたに聞かして上げはしない。ただね、その悪戯は大したことでなかった、とそれだけいえばたくさんだわ。でも、ある朝、お祖母さんはあたしを呼びつけてこういうの、わたしは目が見えないから監督がし切れない、とそういってね、ピンを取り出して、あたしの着物を自分の着物に留めてしまったの。そして、お前がよくならない限り一生でもこうして暮らすんだよ、ってそういうじゃありませんか。ひと口にいえば、初めのうちどうしても傍を離れるわけに行かなくって、仕事をするのも、ご本を読むのも、勉強するのも、みんなお祖母さんの傍なの。一度あたしずるを考えついて、フョークラに代わりになってもらいましたわ。フョークラは家の女中なんだけど、これが聾と来てるんですの。で、フョークラはあたしの代わりに坐ってくれました。その時お祖母さんは肘掛けいすに腰かけたまま、居眠りしてたもんだから、あたしは近くにいるお友だちんとこへ遊びに行きましたの。ところが、結局だめでしたわ。あたしがまだ帰らないうちに、お祖母さんは目をさまして、何かきいたんですの、あたしがやっぱりおとなしく元のところに坐ってると思ってね。フョークラは、お祖母さんが何かきいてると見ては取ったものの、ちっとも聞こえないものだから、どうしたものかとさんざん考えたあげく、ピンをはずして、そのまま逃げ出してしまったんですの……」 ここでナスチェンカは言葉をとめて、きゃっきゃっと笑い出した。わたしもいっしょに笑った。すると、彼女はすぐ笑いやめて、

「ちょいと、あなたお祖母さんのことを笑わないでちょうだいよ。あたしはただおかしいから笑ってるだけよ……だって、お祖母さんたらそんなふうなんですもの、しようがないじゃありませんか。でもね、あたしはなんてっても、お祖母さんがちょっとばかり好きだわ。でね、その時もあたしさんざんしかられちゃったわ。すぐにまた元のとこへ坐らされて、もうそれこそちょっとの身動きもできなくなりましたの。

「ところでね、あたしいい忘れたんですけど、あたしたちは、いえ、お祖母さんは、自分の家を持ってたんですの、といっても、小っぽけな家で、窓が三つしかない木造の家でね、お祖母さんと同じくらいぼけてるんだけど、上には中二階がついてるんですの。つまり、その中二階へ新しい間借り人が越して来て……」

「して見ると、古い間借り人もいたわけですね?」とわたしはちょっと口を入れた。

「そりゃもちろん、いましたわ」とナスチェンカは答えた。

「その人はあなたより黙るすべを知ってましたわ。もっとも、やっと舌を動かせるだけでしたがね。それは乾からびたようなお爺さんで、唖で、盲目で、跛だったもんだから、とうとうこの世に生きていられなくなって、死んでしまいましたわ。さあ、そこで新しい間借り人が要ることになりましたの。というのは、あたしたち間借り人なしじゃ生きていかれないんですもの、この間代とお祖母さんの遺族扶助料が、あたしたちの収入全部といっていいくらいでしたからね。その新しい間借り人がちょうどわざとみたいに若い人でしたの。ここの人じゃなくって、よそから来た人でね。その人は値切ったりなんかしないもんだから、お祖母さんも入れることにしたんですけど、後になってあたしにきくんですの、『ナスチェンカ、今度の間借り人は若い人かえ?』あたし嘘をいいたくなかったから、『そうよ、お祖母さん、ひどく若いというほどじゃないけど、まあ、年よりじゃないわ』

『それで、気持ちのいい様子をした人かえ?』とまたお祖母さんはきくじゃありませんか、あたしは今度も嘘をつきたくなかったので、

『ええ、気持ちのいい様子の方ですわ、お祖母さん!』というと、お祖母さんは、『ああ! なんの罰が当たったんだろう、なんの罪が! わたしがこんなことをいうのはね、ナスチェンカ、お前がその人をあまりしげしげ見ないようにと思ってだよ。ああ、なんて世の中になったんだろうねえ! そんなつまらない間借り人のくせに、気持ちのいい様子をしてるなんて、昔はそんなことはなかったがねえ!』

「お祖母さんは何でも昔のほうがいいんですのよ! 年だって昔は若かったし、お()さまも昔のほうがなんだか暖かったようだし、クリームも昔はこんなに早く酸っぱくならなかったし、──何もかも昔は、なんですの! その時あたしはじっと坐って考えたもんですわ、なんだってお祖母さんは自分のほうから、あたしにそんな考えを起こさせるんだろう? 今度の間借り人は若い綺麗な人かなんてきくんだもの。でも、ただちょっとほんのちょっとそう考えたきりなの。お祖母さんはすぐまた目を勘定しながら、靴下を編みにかかって、その後ではすっかり忘れてしまったふうですの。

「ところが、ある朝、その間借り人があたしたちのとこへ来て、部屋の壁紙を貼り変える約束だったが、とたずねるんですの。いろいろと話し合ってるうちに、お祖母さんは話し好きだもんだから、『ナスチェンカ、わたしの寝台へ行って、算盤を取って来ておくれ』といいました。あたしはすぐに跳びあがりましたが、どういうわけだか知らないけれど、顔を真っ赤にしてしまいました。そして、ピンで留められてることを、すっかり忘れてしまったんですの。間借り人に見つからないように、そっとピンをはずしたらいいものを、いきなりさっと立ったものだから、お祖母さんの肘掛けいすがぐらっと揺れたじゃありませんか。あたしは間借り人にすっかり見られてしまったと思うと、顔を真っ赤にして、釘づけにされたように、その場に立っていましたが、不意にわっと泣き出しました。その時はもう生きてるのもいやなくらい恥ずかしくって、つらくなったものですわ! お祖母さんは何をぼんやり立ってるの? ってどなるんですけど、あたしはもうなおのこと……間借り人はその様子を見て、あたしが恥ずかしがっているのを悟ったものだから、お辞儀を一つして、出て行ってしまいました!

「それからというもの、あたしはちょっとでも控え室で足音がすると、まるで死人みたいになったもんですの。あの間借り人が来たのじゃないかと思ってね。そして、万一の場合の用心にそっとピンをはずしましたが、いつも人違いで、間借り人はやって来ませんでしたわ。三週間ばかりたった時、フョークラを使いに寄越しましてね、自分はフランス語の本をたくさんもっていて、その中にはいろいろいい本があるから、お読みになってもよかろうと思います。お祖母さんも退屈しのぎに、お嬢さんに読んで聞かせておもらいになったら如何です? というのです。お祖母さんは礼をいって、その申し出を受けたのですが、ただ修身の足しになるような本か、どうかとたずねたものですわ。『だってね』とお祖母さんはいうんですの、『よくいかがわしい本があってね、ナスチェンカ、お前なんかにはこんりんざい読まされやしない、すぐ悪いことを覚えるからね』

『いったい何を覚えるんですの、お祖母さん? 何が書いてあるんですの?』

『何がって、お前、若い男が品行のいい娘をそそのかしてさ、自分がちゃんと引き受けると口先ばかりうまいことをいって、親の家から連れ出したあげく、とどのつまり、その不仕合わせな娘をどうなとしろとおっぽり出してしまう、それで娘の末路は哀れなことになってしまう、そういうことが書いてあるのさ。わたしもねえ』とお祖母さんはいうんですの。『そういう本をたくさん読んだけれど、とてもうまく書いてあってね、一晩じゅうじっと坐り込んで読んだものだよ。だが、いいかね、ナスチェンカ、お前はそういう本を読んじゃいけないよ。いったいあの人はどういう本をよこしたのかねえ?』

『みんなウォールター・スコットの小説ばかりよ、お祖母さん』

『ウォールター・スコットの小説! それならいいがね、だけどその中に何か悪企みはないかしら? 何か恋文でも挾んでないか見てごらん』

『いいえ、お祖母さん、手紙なんかありませんわ』

『でも、表紙の下を覗いてごらんよ、あいつらは時々表紙の下へ突っ込むからね、あの悪党どもといったら……』

『いいえ、お祖母さん、表紙の下にもなんにもありませんわ』

『まあ、それならいいけれど!』

「こうして、あたしたちはウォールター・スコットを読み始めて、一月ばかりの間に大方半分ばかり読んでしまいました。それから後も、その人はいろんな本をよこしてくれました。プーシキンもよこしてくれました。こんなわけで、しまいには、あたし本なしじゃいられないようになって、支那の皇子のとこへお嫁に行くことなんか、考えるのもやめてしまいました。

「こんなふうにしているうちに、ある時あたしはひょっくり階段の上で、その間借り人に会いました。何かの用でお祖母さんがお使いに出したんですの。その人は足を停めましたが、あたしが顔をあかくすると、向こうも顔をあからめるじゃありませんか。でも、笑いながら挨拶して、お祖母さんの加減なんかきいた後で、『どうです、本を読みましたか?』というのです。あたしが『読みました』と答えると、『何が一番お気に入りました?』とききます。『アイヴァンホーとプーシキンが一等すきですわ』とあたしは返事したものです。その時はそれだけでおしまいになりました。

「一週間ばかりして、あたしたちはまた階段で出会いました。その時はお祖母さんのお使いでなく、なんだったかしら、あたし自分で用があったんですの。二時すぎでしたっけが、間借りの人はその時分いつも家へ帰ってくるのでした。

『今日は!』と声をかけましたから、あたしも『今日は!』といいました。『どうです、あなたは一日お祖母さんと二人でじっとしてて、退屈じゃありませんか?』

「その人がそういうが早いか、あたしは自分でもなぜか知らず恥ずかしくなって、顔をあからめました。それに、なにか癪にさわるような気もしましたの。それはどうやら、よその人がそんなことをいい出したかららしいんですわ。あたしもう返事しないで、行ってしまおうとしましたが、それだけの気力もないんですの。

『ねえ』と間借りの人はいいました。『あなたいいお嬢さんです! あなたにこんな口のきき方をするのをごめんなさい。しかし誓っていいますが、ぼくはお祖母さん以上に、あなたのためを思ってるんですよ。いったいあなたはちょいちょい遊びに行くお友だちもないんですか?』

「あたしはそれに答えて、まるっきりありません、一人マーシェンカというのが、あったけれど、ブスコフのほうへ行ってしまった、といいました」

『ねえ、ぼくといっしょに芝居へ行きませんか?』

『お芝居へ? だって、お祖母さんをどうするんですの?』

『それはね、お祖母さんに内緒でそっと……』

『いけません、あたしお祖母さんをだますようなことしたくないんですもの。さよなら!』

『じゃ、さよなら』と答えただけで、何も申しませんでした。

「ところが、食事の後で、あたしたちのところへやって来るじゃありませんか。ゆっくり坐り込んで、長いことお祖母さんとお話してるんですの。どこかへお出かけになることがありますかだの、知合いがおありになりますかだの、いろんなことをきいていましたが、出しぬけに、『実は、今日オペラの桟敷を取ったんですかね。だしものは《セヴィリヤの理髪師》なんです。知合いのものが行きたいといったもんだから。ところが、後で断わって来たので、切符が余ってしまいましてね』

『《セヴィリヤの理髪師》ですって!』とお祖母さんは叫びました。「それは昔やっていたのと同じあれですの?』

『ええ、同じものです』と間借り人はいって、あたしをちらと見ました。あたしはもうすっかり悟ってしまって、顔を真っ赤にしました。心臓は期待の念で早鐘を打ち始めました。

『それならもう』とお祖母さんはいいました。『知っておりますとも! 現にわたしも家庭劇の催しがあった時、ロジーナの役をしたくらいですよ!』

『じゃ、今日いらっしゃいませんか?』と間借り人はいい出しました。『何しろ、切符が無駄になるんですものね』

『そうですね、じゃ行くとしますかねえ』とお祖母さんはいいました。『行っちゃならないって法はありませんからね。このナスチェンカだって、一度もお芝居へ行ったことがないんですもの』

「ああ、なんて嬉しいことでしょう! わたしたちはすぐ支度にかかり、おめかしをして出かけました。お祖母さんは目こそ見えないけれど、音楽だけでも聞きたいと申しましてね。それに、優しい心立ての人でしたから、まあ、おもにあたしを慰めようというわけだったんですの。あたしたち二人きりだったら、とても思い立つことはありゃしません。《セヴィリヤの理髪師》の印象がどうだったかって、そんなことはあらためていわないことにしましよう。間借りの人はその晩ずっと、とても気持ちのいい目つきであたしの顔を見つめ、気持ちのいい話をしてくれましたので、今朝あたしに二人だけでお芝居へ行かないかと誘ったのは、あたしを試験して見るつもりだったのだな、と悟りました。とにかくその嬉しいことといったら! あたしはなんともいえない誇りがましい、楽しい気分で床につきました。胸は烈しく動悸を打って、まるでちょっとした熱病にでもかかったようでした。あたしは夜っぴて《セヴィリヤの理髪師》のことばかり譫語にいっていました。

「あたしは、こういうことがあった以上、あの人はしょっちゅう家へ訪ねて見えるだろうと思っていましたが、そうでないんですの。もうすっかり(いたち)の道といっていいくらいでした。まあ月に一度も寄ることがあるかないかでしたが、それもただお芝居へ招待するためだけなんですの。その後、あたしたちは二度ばかり出かけましたが、あたしはちっとも嬉しくありませんでした。あの人はただ、あたしがお祖母さんに縛りつけられてるのが、かわいそうなという、ただそれだけの気持ちなんです。それがあたしにはちゃんと見えていたからですの。時が経つにつれて、あたしはだんだん気もそぞろになって来ました。居ても立ってもたまらないし、本を読もうとしても読めないし、お仕事をしようと思ってもできないんですの。時によるとお祖母さんに何か意地悪をしてみるかと思うと、時にはたださめざめと泣くばかりなんですの。とうとうあたしはげっそり痩せてしまって、ほとんど半病人になりました。オぺラのシーズンも過ぎて、間借りの人はまるっきり訪ねて来なくなりました。時たま出会っても、──もちろん、いつも例の階段の上でしたが、──向こうはただ黙ってお辞儀をするばかり、それも真面目くさって、話をするのもいやだというふうなんですの。こうして、その人が入口階段のとこへ下りてしまうまで、あたしは階段の中途に立って、桜ん坊みたいに顔を真っ赤にしているんですの。というのは、その人に出会うたびに、あたしは体じゅうの血が顔へ上るような気がしたんですもの。

「さあ、もうおしまいですわ。ちょうど一年まえの五月に、その間借りの人があたしたちのとこへやって来て、ここの用事もすっかり片がついたから、また一年ばかりモスクワヘ行って来なくちゃならない、とそうお祖母さんにいうのでした。あたしはそれを聞くや否や、さっと真っ青になって、死んだように椅子の上へ倒れてしまいました。お祖母さんはなんにも気がつきませんでしたの。その人は、ではこれでお暇しますといって、お辞儀を一つすると、出て行ってしまいました。

「いったいあたしはどうしたらいいんでしょう? 考えて考えて考えぬき、悩んで悩んで悩みぬいたあげく、とうとうあたしははらを決めました。明日はいよいよ出発という日、あたしは今夜こそお祖母さんが寝室へ入った時、何もかも片をつけてしまおうと決心したんですの。まったくそのとおりにしました。あたしはありったけの着物と、要るだけの肌着類を一包みにまとめ、その包みを手に持って、生きた心地もなく、間借りの人のいる中二階をさして行きました。あたしはその階段を昇るのに、まる一時間もかかったような気がしました。いよいよ部屋の戸を開けたとき、その人はあっと叫んで、あたしの顔を見つめました。幽霊かと思ったんでしょう。あたしがじっと立っていられないような様子を見て、飛んで行って、水を取って来てくれました。心臓はどきどきするし、頭は痛んでぼうっとしているのでした。やっと正気に返った時、あたしはいきなり包みを寝台の上へのせて、その傍に腰を下ろすと、両手で顔を隠して、滝のように涙を流しながら泣き出しました。間借りの人はどうやらすぐさまいっさいのことがわかったらしく、あかい顔をしてあたしの前に立ったまま、さも悲しそうな様子であたしを見つめているじゃありませんか。あたしは、胸が張り裂けそうでした。

『ねえ』とその人はいい出しました。『ねえ、ナスチェンカ、ぼくはどうすることもできないんです。ぼくは貧乏な人間ですから。今のところぼくは何一つありません、勤め口さえちゃんとしたのがないような始末ですからね。もしあなたと結婚したら、ぼくたちはどうして暮らして行くんです?』

「あたしたちは長いこと話し合いましたが、あたしはとうとうきちがいのようになってしまって、もうお祖母さんとこで暮らすわけにいかないから、逃げ出してしまう、あたしはお祖母さんにピンで留められるのはいやです、もしあなたさえいやでなかったら、いっしょにモスクワヘ行きます。だってあなたなしには生きていられないんですもの、といいました。恥ずかしさも、恋しさも、誇りがましさも、──何もかもが一どきに表現を求めたんですわね。あたしは痙攣(けいれん)に身を揉まれて、危くベッドの上へ倒れないばかりでしたわ。あたしは拒絶されるのが、怖くてたまらなかったんですの!

「その人はしばらくの間、黙って坐っていましたが、やがて立ちあがって、傍へ寄り、あたしの手を取りました。

『ねえ、かわいいナスチェンカ、優しいナスチェンカ!』と、同じように涙にくれながら切り出しました。『ねえ、誓っていいますが、もしぼくがいつか結婚のできる身分になれたら、ぼくに幸福を授けてくれるのはあなたのほかありません。まったくです、いまぼくに幸福を授けることができるのは、あなた一人きりです。ねえ、ぼくはこれからモスクワヘ行って、かっきり一年むこうに滞在します。ぼくはうまく仕事を処理できるものと思っていますが、その時ここへ帰って来て、あなたの愛が冷めてなかったら、誓っていいますが、ぼくら二人は幸福になれるのです。でも、今は駄目なんです。ぼくは何も約束することができません、そんなことをする権利がないのです。でも、くり返して申しますが、一年たってそうならなくっても、いつかは必ずなります。それはもちろん、あなたがぼくをだれかに見変えない場合の話です。だって、ぼくは何らかの言葉であなたを束縛するなんてことはできないし、そういう気力もないですからね』

「こういって、その人はあくる日たって行きました。お祖母さんにはこの話を一言もしないように、二人相談してきめました。それがその人の希望だったものですから。まあ、そういうわけで、あたしの身の上話もこれで大ていおしまいですの。ちょうど一年たって、その人は帰って来ました、もうここへ着いてからまる三日になるんですけど、でも……」

「でも、どうしたんです?」話の終わりが聞きたくてじりじりしながら、わたしはこう叫んだ。

「でも、今だに姿を見せないんですの!」とナスチェンカは、気力を奮い起こそうとするかのように答えた。「なんのたよりもないんですの……」

 そういって、彼女は言葉を止め、しばらく黙って(うなじ)を垂れていたが、不意に両手で顔をおおって、よよとばかり咽び泣きし始めた。その慟哭の声に、わたしは心臓が痺れるような思いだった。

 こうした大団円は、夢にも思いがけなかったのであった。「ナスチェンカ!」とわたしは臆病な、忍び入るような声でいい出した。「ナスチェンカ! 後生だから、泣かないでください! なぜそう独り決めに決めてしまうんです? ひょっとしたら、その人はまだ……」

「ここに、ここにいるんですわ!」とナスチェンカは引き取った。「その人はここにいるんですの、あたしちゃんと知っていますわ。あたしたちは一つ約束したことがあるんですのよ、まだその晩、出発の前の晩のことなんですけど、今あなたにお話したことを、二人でもうすっかり話し合って、約束ができてしまってから、ここへ散歩に出たんですの、ちょうどこの河岸通りにね、もう十時でしたわ。あたしたちはこのベンチに腰を下ろしましたが、あたしはもう泣いてはいませんでした、あの人の話を聞いてるのがいい気持ちで……あの人のいうにはね、ここへ着いたらすぐうちへ来て、もしあたしの心が変わらなかったら、二人でいっさいのことをお祖母さんにうち明けようって。ところが、今あの人は帰ったのに、──あたしそれを知ってるわ、──それなのに、あの人は来ない、来てくれない!」

 彼女は再び涙に沈んだ、

「困ったな! なんとか力をかして上げるわけにいかないかしらん!」とわたしはすっかりとほうに暮れて、ベンチから躍りあがりながら叫んだ。「ねえ、ナスチェンカ、せめてなりと、その人のとこへ行って見ることはできないかしら?」

「そんなことができるもんですか?」と急に顔を上げて彼女はこういった。

「だめだ、むろん、だめだ!」とわたしもわれに返ってつぶやいた。「じゃ、こうしたらどうでしょう、一つ手紙を書きませんか」

「いいえ、そりゃ駄目よ、そんなわけにはいきません!」と彼女はきっぱり答えたが、もう目を伏せてわたしの顔を見なかった。

「どうして駄目なんです? なぜそんなわけにいかないんです?」とわたしは自分の思いつきにしがみつきながら、言葉をつづけた。「だってね、ナスチェンカ、それはどんな手紙だと思います? 手紙も手紙によりけりですよ、それに……ああ、ナスチェンカ、それは本当です! ぼくにまかせてください、信頼してください! ぼくわるいことは勧めません。これはすっかりうまくやることができますよ! あなたのほうから第一歩を踏み出したくせに、どうして今さら……」

「いけません、いけません! そうすると、何か押しつけがましいような気がして……」

「ああ、優しいナスチェンカ!」とわたしは微笑をかくしきれないでさえぎった。「そりゃ違います、違いますとも。第一、あなたには権利があるじゃありませんか。だって、向こうが約束したんですものね。それに、いろんな点から察したところ、その人はデリケートな心を持っていて、立派な行動を取ったように思われます」自分の論証の筋道が立っているのに、自分でうちょうてんになりながら、わたしは言葉をつづけるのであった。「その人の取った行動はどうでしょう? その人は自分の約束で自分を縛ったじゃありませんか。自分はもし結婚するとしたら、あなた以外の女とけっして結婚しない、とそういって、あなたのほうは今すぐにでも拒絶していいという、絶対の自由を与えたんですからね……こういう場合には、あなたは第一歩を踏み出して差支えないんです。

あなたには権利があります、相手方に対して優先権を持っています、たとえば、その人の約束を解除してやるといったようなことでも……」

「ねえ、あなただったらどうお書きになって?」

「何をです?」

「その手紙をですわ」

「ぼくだったら、こう書きますね、──『拝啓』……」

「それどうしても必要なんですの、──拝啓って」

「どうしても必要です! もっとも、なに、ぼくの考えでは……」

「まあ、まあ! 先をいってごらんなさい!」

「『拝啓、まずおゆるしを乞わなければならぬことがございます』……いや、しかしおゆるしなんか乞うことはちっともありゃしない! この際、事実そのものがいっさいを証明しているんだから。ただ簡単にこう書けばいいんです。

『一筆さしあげます。わたくしの性急をおゆるしくださいまし。でも、わたくしはまる一年間ただ一つの希望で幸福だったのでございますもの、いま疑惑の一日すらも我慢できないからといって、それがわたくしの罪でしょうか? あなたは最早やお帰りになりましたが、ひょっとお気持ちが変わったのではございますまいか。もしそうでしたら、わたくしが不平もいわなければ、あなたを咎め立てもしないということは、この手紙が証明するでございましょう。自分があなたの胸を征服する力がないからとて、あなたを咎め立てなどいたしません。それがもうわたくしの運命なのですから!

 あなたは潔白な方でございます。わたくしのこの性急な手紙をお読みになりましても、にやりと笑ったり、いまいましそうに舌打ちしたりなさらないでしょうね。どうかこれを書いているのが哀れな娘だということを、想い出してくださいまし。その娘はたった一人きりで、だれも教えてくれるものもなければ、忠告してくれる人もありません。で、自分で自分の心を抑えるということが、どうしてもできないのでございます。でも、ほんの一分間にもせよ、わたしの心に疑いが忍び込みましたのを、どうぞおゆるしくださいまし。あなたはたとえお心の中だけでも、あれほどあなたをお慕いしていた、また今もお慕いしている娘を、侮辱するようなことは、おできにならない方でございます』」

「ええ、ええ! それはすっかりあたしの思っていたとおりよ!」とナスチェンカは叫んだ。よろこびの色がその双眼にかがやいた。「ああ! あなたはあたしの疑いを解いてくださいました、あなたは神様がお送りくだすった方ですわ! ありがとう、お礼を申します!」

「なんのお礼? 神様がぼくを送ったそのお礼ですか?」そのよろこばしげな顔をうちょうてんになって見ながら、わたしは答えた。

「まあ、そのお礼としてもいいわ」

「ああ、ナスチェンカ! ある人たちに対しては、いっしょに生きているということに対して、お礼をいいたいようなこともありますからね。ぼくはあなたと出会ったことに対して、一生あなたのことを忘れないということに対して、あなたにお礼をいいますよ!」

「まあ、たくさん、たくさんですわ! さて、そこでね、一つ聞いていただきたいことがありますの。その時の約束というのはね、あの人がここへ着いたらすぐ、ある所へ手紙を置いて、それで自分のことを知らせる、とこういう話になっていましたの。それはあたしの知合いで、気の優しいさっぱりした人でね、このことについてはなんにも知らないんですの。それとも、手紙ってものはいつだってなんでも書けるときまったものでないから、手紙をことづけることができなかったとしましょう。その時には、着くとすぐ、かっきり夜の十時に、二人で約束したこの場所へやって来る、そういうことになっていましたのよ。ところが、あの人の着いたことはもうわかってるんですけど、もうこれで三日目になるのに、手紙も来なければ、当人の影も見えないんですもの。あたしお祖母さんの傍を離れるわけにはどうしてもいきませんから、今お話した親切な人のとこへ、明日あたしの手紙を届けてくださらない。もし返事があったら、あなたそれを晩の十時にご自分で持って来てちょうだいな」

「でも、手紙は、手紙は! だって、その前に手紙を書かなくちゃならないでしょう! いったいあさってまで持ち越すんですか?」

「手紙ね……」とナスチェンカはやや当惑の態で答えた。「手紙ね……でも……」彼女はしまいまでいい切らなかった。初めちょっとわたしから顔をそむけて、薔薇のように真っ赤になったかと思うと、不意にわたしは自分の手の中に一通の手紙が押し込まれるのを感じた。察するところ、もはやとっくに書かれ、用意され、封に入れられてあったものらしい。何かしら懐かしい、優美な追憶が、ちらりとわたしの頭をかすめた。

「R,o─Ro,s,i─si,n,a,─na」とわたしはいいかけた。

「Rosina!」とわたしたちはいっしょに歌い出した。わたしは歓喜のあまりほとんど彼女を抱かんばかりにし、彼女はもうこの上どうにもならぬというほど顔を真っ赤にして、黒い睫毛の上で真珠のように慄える涙の隙から笑いながら。

「さ、もうたくさんよ、たくさんよ! では、さよなら!」

と彼女は早口にいった。「さ。これが手紙、これが持って行く先のアドレスよ。さよなら! ご機嫌よう! また明日ね」

 彼女はぎゅっとわたしの手を握りしめると、一つ頷いて見せて、矢のように早く横町へ姿を消した。わたしはその後を見送りながら、長いことその場に立ちつくした。

「また明日ね! また明日ね!」彼女が視界から姿を消した時、こういう声がわたしの頭の中に響いた。

 

   第 3 夜

 

 今日は悲しい日だ。雨が降って日の目も見えず、まるでわたしの来たるベき老年のよう。わたしは奇妙な思想や暗い感じに緊めつけられ、まだはっきりせぬ疑問が頭に蝟集して来る、──が、それを解こうとする気力もなければ、その気にもならない。そんなことはわたしに解けるわけがない!

 今日は会えそうもない。昨夜わかれる時に、雲が空に広がっていって、霧が立ち昇って来た。明日は天気が悪いだろうなとわたしはいったが、彼女は返事をしなかった。自分の意志に反したことをいいたくなかったのだ。彼女にとっては、この日は明るく晴れ渡っているのだ。一片の雲影も彼女の幸福をかげらしはせぬ。

「もし雨だったら、あたしたちは会えませんわ!」と彼女はいった。「あたし来ませんから」

 彼女は今日の雨に気がつかなかったろう、とわたしは思ったが、しかし彼女は来なかった。

 昨夜はわたしたちの三度目の逢びきだった。わたしたちの三度目の逢びきは白夜だった……

 それにしても、喜びと幸福は、なんと人間を美しくするものか? なんと心は愛に湧き立つものか! 何か自分の心を人の心に移したいような気がする、何もかも楽しくあれ、万物が笑ってくれればという気がする。そして、喜びというものはなんと人に感染(うつ)るものだろう! 昨夜の彼女の言葉にはどれだけ優しみがこもり、彼女の心にはどれだけわたしに対する親切が溢れていたことか……どんなにわたしの世話をやき、どんなにわたしに甘え、どんなにわたしの心を褒めそやし、撫でいたわってくれたことか! ああ幸福から来たあの媚態! ところが、わたしは……わたしは何もかも真に受けて、ひょっと彼女はわたしを……と思ったのだ。

 しかし、ああなんということだ、どうしてわたしはそんなふうに考えることができたのだろう? 何もかも他人に取られてしまい、何もかも自分のものでないのに、どうしてわたしはああも盲目でいられたのだろう? 第一、あの優しさも、あの心づかいも、あの愛情も……そうだ、わたしに対する愛情は、間もない再会のよろこびであり、自分の幸福をわたしに押しつけたいという望みでしかなかったのだ!……彼がついにやって来ず、わたしたちが待ちぼけを食わされたとわかった時、彼女は眉をひそめ、おじ気づき、びくびくし始めた。彼女の動作、彼女の言葉、何もかもが、最早やそれほど軽快でなく、浮き浮きと楽しそうでなくなった。そして、奇妙なことに、わたしに対して前より倍も注意深くなった。それはちょうど、彼女が自分に望んだもの、もし実現されなかったらと恐れた幸福を、わたしに流し込もうとするかのようであった。わたしのナスチェンカは、すっかりおじ気づき、おびえてしまったので、どうやら、とうとう、わたしが彼女を愛していることを悟り、わたしの不幸な恋を憐んだらしい。そうだ、われわれは自分が不幸な時には、他人の不幸をいつもより強く感じるものである。感情は割れないで、集中するのだ……

 わたしは彼女に会うのが待ち切れないくらい、胸一杯の思いをいだいて彼女のところへ駆けつけた。わたしは自分の感じさせられることを予感しなかった。この大団円がこんなことになろうとは、夢にも思わなかったのである。彼女はよろこびに輝いていた。彼女は答えを待っていたのであり、答えは彼自身であった。彼は彼女の招きに応じて必ず来なければならない、走って来なければならない。彼女はわたしより一時間も早く来ていた。初めわたしのいうひと言ふた言に笑い声を立てた、きゃっきゃっと大きな声で笑ったものである。

「あたしがどうしてこんなによろこんでるか、あなたおわかりになって?」と彼女は問いかけた。「あなたを見て、こんなによろこんでるわけが? どうして今日はこんなにあなたを愛しているか、おわかりになって?」

「え?」とわたしは問い返したが、心臓はどきんと鳴った。

「あたしがあなたを好きなのはね、あなたがあたしに恋なさらなかったからよ。だって、もしあなたの立場にほかの人がいたら、うるさくつきまとって、溜息をついたり、苦しそうな顔をしたりするに相違ありませんわ。ところが、あなたは本当によくわかった方で!」

 そういって、わたしの手を強く握ったので、こちらはあやうく叫び声を立てないばかりであった。彼女は笑い出した。

「ああ! あなたは素晴らしいお友だちだわ!」一分ほどして、彼女はひどく真面目な調子でいい出した。「本当に神様が授けてくだすったんだわ! ねえ、今度あなたがいらっしゃらなかったら、あたしどんなことになったでしょう? まったくあなたは無私なお方ねえ! あなたがあたしを好いてくださるその愛し方は、とても立派よ! あたしが結婚したら、あたしたちみんなうんと仲善しになりましょうね、兄妹以上にね。あたしあなたを、ほとんどあの人と同じくらいに愛して上げますわ……」

 この瞬間、わたしはなぜか恐ろしく気が沈んでしまった。しかし、何か笑いに似たようなものが、わたしの胸にもそろと動いた。

「あなたは発作を起こしてるんですよ」とわたしはいった。「あなたはびくびくしてらっしゃるんです。あの人が来ないかと思って」

「しようのない人ね!」と彼女は答えた。「もしあたしが、これほど幸福でなかったら、あなたが本当にしないで、あたしを咎めたりなさるので、泣き出したかもしれなくってよ。もっともあなたは、暗示を与えてくだすったわ、よっぽどよく考えなくちゃならないような問題をお出しになったんだわ。後でよく考えて見るけど、いま白状しますが、あなたのおっしゃったことは本当よ、ええ! あたしなんだかうわの空だわ。あたし待ち焦れているものだから、なんでも妙に易々と感じるんだわ。まあ、たくさん、愛情のお話はやめにしましょう……」

 このとき足音が聞こえて、闇の中に通行の人が現われ、わたしたちのほうへやって来た。わたしたちは二人ながらぶるぶる慄え出した。彼女はすんでのことに叫び声を立てないばかりであった。わたしは彼女の手を放して、向こうへ行きそうな様子をした。が、それは二人の思い違いで、彼ではなかった。

「何をあなたは恐れてらっしゃるの? なんだってあたしの手をお放しになったの?」またわたしのほうへ手を差し出しながら、彼女はこういった。「ねえ、どうしたっていうんですの? あたしたち、いっしょにあの人を迎えようじゃありませんか。あたしたちがお互いにどんなに愛し合っているか、あの人に見てもらいたいの」

「ぼくたちがどんなに愛し合っているかですって!」とわたしは叫んだ。

『おお、ナスチェンカ、ナスチェンカ!』とわたしは心に思った。『そのひと言でどれだけたくさんのことを聞かしてくれたか、お前は知っているのかい? 時によると、そうしたひと言でね、ナスチェンカ、心の中が冷たくなって、胸の中が苦しくなることがあるものだよ。お前の手は冷たいが、ぼくの手は火のように熱いじゃないか。ナスチェンカ、お前はなんと盲目なんだろう!……ああ、幸福な人間というものは、時によると、実にやり切れないことがあるもんだよ! しかし、ぼくはお前に腹を立てるわけにいかなかった!……』

 とうとう、わたしの胸はいっぱいに溢れて来た。

「ねえ、ナスチェンカ!」とわたしは叫んだ。「ねえ、今日いちんちのうちに、ぼくにどういうことがあったか知っていますか?」

「まあ、なんですの、いったいどういうことがあったんですの? 早く話して聞かせてちょうだい! なんだってあなたは今まで黙ってらしたんですの!」

「第一にね、ナスチェンカ、ぼくがあなたからの頼まれごとをすっかりすまして、手紙も渡せば、あなたの知合いのとこへも寄って、その後で……その後で家へ帰って床についたんです」

「たったそれだけのこと?」と彼女は笑いながらさえぎった。

「そう、まあ、大体それだけのことなんですよ」と歯を食いしばって答えた。なぜなら、わたしの目には愚かな涙が早くも溢れて来たからである。「ぼくは約束した時刻の一時間前に目をさましたんですが、しかしなんだかまるで眠らなかったような気持ちでした。いったいぼくはどうしたのか、自分でもわかりませんでした。ぼくはあなたに様子をすっかりお話しようと思って、ここへ歩いて来る途中も、なんだか時の歩みが停まってしまって、ただ一つの感覚、ただ一つの感情だけが、この時以来、ぼくの内部に永遠に残るベきである、というような気持ちなんです。一つの瞬間が無限無窮につづくべきであって、ぼくのために全生活が停止してしまったような……ぼくが目をさました時、とっくの昔から聞き覚えのある甘い音楽の一節が、ふと心に浮かんで来たようなあんばいでした。それは、以前どこかで聞いたことがあるのだけれど、すっかり忘れてしまってたんですね。そのメロディはしじゅうぼくの心から出て来よう、出て来ようとしていたのですが、やっと今になって……」

「まあ、なんてことでしょう、なんてことでしょう!」とナスチェンカはさえぎった。「それはいったいどうしたってことなんですの? あたしひと言もわかりませんわ」

「ああ、ナスチェンカ! ぼくはなんとかして、この奇妙な印象をあなたに伝えたいと思ったんだけれど……」とわたしは哀れっぽい声でいい出した。その中には、かすかなものではあるけれども、まだ希望のはためきが響いていた。

「たくさんですわ、よしてちょうだい、たくさんですわ!」と彼女はいった。彼女は一瞬にして悟ったのだ、油断のならぬ女!

 急に彼女はおしゃべりになり、はしゃいでふざけ出した。彼女はわたしの手を取って、きゃっきゃっと笑いながら、わたしにも同じように笑わせようとした。わたしがもじもじして何かひと言いうたびに、彼女は思い切って朗らかな声で、いつまでも笑い転げるのであった……わたしはいささかむっとした。彼女は急に媚態を弄びはじめたのだ。

「ねえ」と彼女はいい出した。「なんてってもね、あなたがあたしに恋なさらないのが、あたし少々ばかり癪なのよ。そうなって見ると、人間てものはわけがわからないじゃないの! でもね、あなたは不抜の意志を持った君子だけど、それでもあたしを賞讃なさらないわけにはいかなくってよ、あたしこんなざっくばらんな女なんですもの。あたしなんでもみんなあなたにいってしまうでしょう、どんな馬鹿な考えがちょいと頭に浮かんでも、みんな残らずいってしまうでしょう」

「ちょっと! あれは十一時らしいですよ」遠い市中の鐘楼から、鐘の音が響いて来た時、わたしはこういって注意した。彼女は不意に言葉を止め、笑うのをやめて、指折り数えはじめた。

「ああ、十一時だわ」とうとう彼女は臆病そうな、思い切りのわるい声でこういった。

 わたしは彼女を驚かし、時刻を数えさせなどしたのを、さっそく後悔した。そして、毒心の発作など起こした自分を呪ったものである。わたしは彼女がかわいそうになって気が滅入り、どうして自分の罪をつぐなっていいかわからなかった。わたしは彼女を慰めにかかり、彼の来ない理由を考え出し、さまざまな論証を試みた。この瞬間、彼女を欺くよりやさしいことはなかった。またこういう場合にはどんな人間でも、たとえ口さきばかりのお座なりであろうと、よろこんで人の慰めを聞くものである。もし釈明の影でもあれば、よろこんでそれに飛びつくものである。

「それに、第一、おかしな話じゃありませんか」とわたしはだんだん熱くなっていき、自分で自分の論証の明白さにうちょうてんになりながら、こんなふうにしゃベり出した。「あの人は来られるわけがなかったんですよ。ナスチェンカ、あなたはぼくまで一杯くわせて巻き込んでしまったものだから、ぼくも時間の勘定がわからなくなったんです……まあ考えてごらんなさい、あの人は手紙も受け取ったかどうかわかりませんよ。そうしたら、来られなかったはずじゃありませんか。ねえ、返事を書くことにしたかもしれない、すると、その手紙は明日より早くは届きっこないですよ、ぼく、明日は夜の引明けに行ってみて、すぐお知らせしましょう。まあ、そういうふうな場合は、百でも千でも想像できるでしょう。それから、まあ、手紙が届いた時あの人が家にいなかったために、今まで手紙を読んでいない、ということもあり得るわけですからね。ね、どんなことだってあり得るでしょう」

「そうね、そうね!」とナスチェンカは答えた。「あたし考えもしなかったけれど、もちろん、どんなことだってあり得るわけですわ」と彼女はいとも素直な声でつづけたが、その中には何か別な、遠い思想といったようなものが、苛立たしい破調となって響いているのであった。「じゃ、こうしてちょうだいな」と彼女は言葉をつづけた。「あすの朝、できるだけ早く行って、もし何かお受け取りになったら、すぐに知らせてくださいませんか。だって、あたしの住居をごぞんじなんでしょう?」そういって、彼女は自分の宿所をもう一度くり返し、わたしに説明し始めた。

 それから、彼女はわたしに対してひどく優しく、ひどく臆病になって来た……一見したところ、彼女はわたしの話を注意ぶかく聞いているようであったが、わたしが何か問いかけると、急に口をつぐんで、まごまごし、顔をそっぽへ向けてしまうのであった。わたしがその顔を差し覗くと、──はたして彼女は泣いているのであった。

「さあ、およしなさい、見っともない! やれやれ、あなたはなんて赤ちゃんでしょう! 子供じみてるじゃありませんか!……たくさんですよ!」

 彼女はにっこり笑って、気を落ちつけようとしたが、下顎が慄えて、胸は依然波立っていた。

「あたしね、あなたのことを考えてるんですのよ」と彼女は束の間の沈黙の後にまたいい出した。「あなたは本当に親切な方で、それを感じなかったら、あたしは石か木みたいな人間ですわ。ねえ、実はあたし、ひょっとこんなことを考えついたんですのよ。あたしあなた方二人を較ベて見てね、どうしてあの人があなたでないのだろうと思いますの。どうしてあの人はあなたみたいでないのでしょう? あの人のほうがあなたより劣っていますわ。もっとも、あたしはあの人のほうをよけい愛してはいますけどね」

 わたしはなんにも答えなかった。彼女はわたしが何かいうのを待っているらしかった。

「そりゃいうまでもなく、あたしあの人を本当に理解していないのかもしれませんわ、十分に知り抜いていないのかもわかりませんわ。実はね、あたしいつもあの人が怖いような気がしていましたの。あの人ったらいつもひどく真面目で、なんだか高慢なような気がしていましたのよ。そりゃもちろん、ただそんなふうに見えるだけで、心の中はあたしなんかよりも優しい方だってことは、あたしにもわかっています……あたしあの方の目つきを今でも覚えていますわ、ほら、あたしが着物の包みを持ってあの人のとこへ行った時なんですの。でも、あたしなんだかあまりあの人を尊敬しすぎて、まるであたしたち二人が対等の人間じゃないみたいね?」

「いや、ナスチェンカ、ちがいますよ」とわたしは答えた。「それはつまりね、あなたがその人を世界じゅうの何よりも愛していらっしゃる、自分自身よかもずっと愛していらっしゃる証拠なんですよ」

「そうね、それはまあそうかもしれませんわ」無邪気なナスチェンカは答えた。「ところでね、実は今あたし妙なことを考えつきましたのよ、これはあの人のことだけじゃなくって、一般に人間のことなんですけど、もうずっと前からこの考えが、しょっちゅうあたしの頭に浮かんでいたものなんですの。ねえ、ほかじゃありませんが、なぜあたしたちはみんなお互いに、兄弟同士みたいにしないんでしょうねえ? どんなにいい人でも、なんだかいつも他人に隠し立てでもしてるみたいに、むっつりと黙りこくってるんでしょう! これはけっして壁に向かってものをいってるんじゃない、ということがわかっていたら、どうして自分の胸にあることを、今すぐざっくばらんにいってしまっちゃいけないんでしょう? だって、みんなだれもかれも自分を本当よりも気むずかしく見せかけようとしてるんですもの、あんまりたやすく心の中をうち明けたら、自分の感情を辱しめることになりゃしないかと、恐れてでもいるようなあんばいなんですもの……」

「ああ、ナスチェンカ! あなたのいったことは本当です。それはなにぶん、いろいろの原因からおこるのでしてね」この瞬間、かつていかなる時よりも、われとわが感情を圧迫していたくせに、わたしはこうさえぎった。

「いえ、いえ……」と、彼女は深い感情をこめて答えた。「だって、現にあなたご自身、みんなみたいな、そういう方じゃありませんわ! あたしまったくのところ、自分の感じてることを、どんなふうにお話したらいいのかわかりませんけど、あなたは現在いまでも……あたしのために何か犠牲にしてらっしゃるような気がしますわ」ちらとわたしの顔を跳めて、彼女は臆病そうにこうつけ加えた。「もしあたしの言い方が間違ってたら、ごめんなさいね。だって、あたしはただの小娘で、あまり世間てものを見ていないんですからね。まったくのところ、時によると、話の仕方もわかりませんもの」何か心に秘めた感情のために慄える声でつけ足したが、同時に、にっこり笑顔を見せようと努力しているのであった。「でもね、あたしあなたに感謝していることは、申し上げたいと思っていますのよ、あたしだってそれくらいのことはすっかり感じていますもの……ああ、その代わりにあなたもどうか神様から幸福をお授かりになりますように! あの時あなたは空想家のことをいろいろお話になりましたけど、あんなことはまるっきり違ってますわ、いえ、言い間違い、あなたにまるで関係のないことですわ。あなたは健康を取り戻していらっしゃいます、まったくのところ、あなたはご自分でお話になったのとは、まるで違った方ですわ。もしいつかあなたが恋をなすったら、どうかお二人で幸福におなりになりますように! あたし女のかたにはなんにも祈りませんわ。だって、あなたといっしょになったら、幸福になるにきまってますもの。それはわかっています、あたし自分が女ですからね、あたしがこう申し上げる以上、あなたも信じてくださらなくちゃなりませんわ……」

 彼女は口をつぐみ、わたしの手をしっかと握った。わたしも同様、興奮のために何一ついうことができなかった。幾分か経った。

「どうやら今夜はあの人、来そうもないわ!」とついに彼女は顔を上げていった。「おそいんですもの!……」

「明日は来ますよ」とわたしは自信たっぷりの声で、断固としていった。

「そうね」と彼女も浮き浮きとしていい添えた。「今はあたし自分でもそう思いますわ、あの人あすでなければ来ませんわ。それじゃ、さようなら! また明日ね! でも、もしか雨だったら、あたし来ないかもしれませんわ。だけど、明後日はまいります、どんなことがあっても必ずまいりますから、ぜひともここにいてくださいね。あたしあなたにお会いしたいの、あなたに何もかもすっかりお話しますから」

 それから、二人が別れを告げはじめた時、彼女はわたしに手を差し伸べて、晴ればれとした目でわたしを見つめながら、こういった。

「ねえ、これからあたしたちはいつもいっしょにいましょうね、いいでしょう?」

 おお、ナスチェンカ、ナスチェンカ! わたしが今どんな孤独を味わっているか、それをお前が知ってくれたら!

 

 九時が打った時、わたしは部屋の中にじっとしていられなかった。天気が悪いのにもかまわず、着替えをして外へ出た。わたしは例の場所へ行って、ベンチの上に腰をおろした。彼女の住んでいる横町へ足を向けたが、恥ずかしくなって、窓をも見上げず、その家まで二歩というところで引っ返した。わたしはかつて知らぬ憂悶を心にいだきながら、わが家へ帰った。なんというじめじめした、いやな天候だろう! もし天気模様さえよかったら、夜っぴてあすこを散歩したのだが……

 しかし、明日のこと、明日のこと! 明日は彼女が何もかもすっかり話してくれる。

 とはいえ、今日も手紙は来なかった。がしかし、そうあるベきなのだろう。彼らはもういっしょになっているのかも……

 

   第 4 夜

 

 ああ、この一件はなんという結末をつげたことか、なんという大団円になったものだろう!

 わたしは九時についた。彼女はもうちゃんと来ていた。わたしはまだ遠く離れたところから、その姿に気がついた。彼女はあの初めての時と同じように、堀端の手摺に肘突きして、わたしがそばへ寄るのに気がつかなかった。

「ナスチェンカ!」とわたしは無理に興奮を抑えながら呼び彼女は素早くわたしのほうへふり返った。

「え、どうでしたの?」と彼女はいった。「さあ、早く!」

 わたしはけげんそうにその顔を眺めていた。

「さあ、手紙はどこにあるんですの? あなた手紙を持って来てくだすったんでしょう?」と彼女は手摺をつかみながらくり返した。

「いや、ぼく手紙を持ってやしません」わたしはやっとこういった。「いったいあの人はまだ来ないんですか?」

 彼女は恐ろしく真っ青になった。そして、長いこと身じろぎもしないで、わたしの顔を見つめていた。わたしが最後の希望を粉砕したのである。

「まあ、あんな人どうでもいいわ!」とついに彼女はと切れ勝ちの声でいい出した。「あんな人どうでもいいわ、こんなふうにあたしを棄てるんだったら」

 彼女は目を伏せた。それからわたしを見上げようとしたが、それができなかった。まだしばらくの間、興奮を押し静めようと努力していたが、不意にくるりとうしろ向きになり、堀端の手摺に肘突きして、わっとばかり泣き出した。

「たくさんですよ、たくさんですよ!」といいかけたが、彼女の顔を見ると、言葉をつづける勇気がなかった。またわたしに何をいうことがあろう?

「どうかあたしに慰めの言葉なんかいわないでちょうだい」と彼女は泣きながらいった。「あの人のことをいい出さないでちょうだい、あの人は必ず来るなんていわないで、あの人は(むご)たらしく、血も涙もなくあたしを棄てたんだわ、こんなやり方をするなんて、なんのためでしょう、いったいなんのためでしょう? あたしの手紙の中に、あの不運な手紙の中に、いったい何があったんでしょう?……」

 このとき、慟哭の声が彼女の言葉を中断した。それを見ていると、わたしは胸が張り裂けるようであった。

「ああ、なんて血も涙もない、惨たらしいやり方でしょう!」と彼女はまたいい出した。「それに、一行も、ただの一行も返事をくれないなんて! せめてお前は要らなくなった、おれはお前を棄てると、はっきり返事でもくれたらいいのに、まる三日間も待たして、ただの一行も書いてよこさないんですもの! ただあの人が愛しているということよりほか、なんの罪もない、頼りない、かわいそうな娘を侮辱するのは、そりゃもうやさしいこってすわ! ああ、この三日間に、あたしはどれだけつらい思いをしたでしょう! ああ、情けない! 初めてあたしが自分のほうからあの人のところへ行って、あの人の前で恥を忍んで泣きながら、せめて一雫の愛情でもと哀願した、あの時のことを思い出すと……ああいうことがあった後で!……ねえ」と彼女はわたしのほうへ振り向いてこういった。その黒い目はぎらぎら光っていた。

「これは考え違いかもしれませんわね! こんなことってあるはずがないわ、こんなこと不自然だわ! あなたか、さもなければあたしが、思い違いしてるのよ。もしかしたら、あの人は手紙を受け取らなかったのかもしれないわね? 今までなんにも知らずにいるのかもわかりませんわね? まあ考えてもごらんなさい、後生だからいってください、──あたしに説明してください、あたしどうしても合点がいかないんだから、──あの人があたしに仕向けたような、ああいう野蛮人みたいに乱暴な仕打ちが、どうしてできるものでしょう? ただのひと言も書いてよこさないなんて! この世で一ばん屑の人間だって、これよりはも少し同情のある扱い方をされるものよ。ひょっとしたら、あの人は何か聞き込んだのかもしれませんね、だれかがあの人にあたしのことを讒訴(ざんそ)したのかもわかりませんね?」と彼女は詰問の調子でわたしのほうへ振り向きながら叫んだ。「どう、あなたどうお思いになって?」

「ねえ、ナスチェンカ、ぼく明日その人のとこへあなたの名前で行って見ましょう」

「で?」

「その人に何もかもきいてみましょう、いっさいの事情を話して聞かせましょう」

「で、で?」

「あなた手紙を書いてください、ナスチェンカ、いやといわないでください、いやといっちゃいけませんよ! ぼくはいやでも応でも、その人にあなたの行為を尊敬させます、すっかり事情を知らせます。もし……」

「いいえ、ありがとう」と彼女はさえぎった。「いいえ、たくさんですわ! もうこれ以上ひと口もいいません、──一行も書きません、たくさんですわ! あたしあの人がわからない、あたしもうあの人なんか愛してやしません、あんな人、わ……す……れて……」

 彼女はしまいまでいえなかった、

「気を落ちつけてください、気を落ちつけて! ここへお掛けなさい、ナスチェンカ」といいながら、わたしは彼女をベンチにかけさせた……

「ええ、あたし落ちついていますわ。もううっちゃって。これなんでもありませんの! ちょっと涙が出ただけで、こんなのすぐ乾いてしまいますわ! あなたなんとお思いになって? あたしが自殺する、身でも投げる、とお思いになったんですの?……」

 わたしは胸がいっぱいになって、ものをいおうと思っても、声が出なかった。

「ねえ!」と彼女はわたしの手を取って、言葉をつづけた。

「ねえ、あなただったら、あんな仕打ちはなさらなかったでしょうね? あなただったら、自分のとこへ来た女の顔に、厚かましい微笑を投げつけたりはなさらないでしょうね、か弱い愚かな娘心を侮辱するようなことはなさらないでしょうね! あなただったら察してくださるでしょうね、その娘が一人ぼっちで、自分で自分の監督ができず、恋というものから自分を護ることができなかったからって、その娘がわるいのじゃないってことをね。何も悪いことはない……別になんにもしたわけじゃないってことを……ああ、なんてことでしょう、なんてことでしょう……」

「ナスチェンカ!」と、わたしはついに興奮を抑える力がなくなって、こう叫んだ。「ナスチェンカ! あなたそれはぼくをさいなむというものです! それは、ぼくの心を刺すというものです、それはぼくを殺すというものです、ナスチェンカ! ぼくは黙っていられない! ぼくはいよいよ、ぼくの胸のここのところに煮えたぎっているものを、いってしまわなければならない……」

 そういいながら、わたしはベンチから身を起こした。彼女はわたしの手を取って、驚愕のさまでわたしを見つめていた。

「あなたどうなすったの?」ついに彼女は口を切った。

「まあ、聞いてください!」わたしは断固としていった。

「ナスチェンカ、ぼくのいうことを聞いてください! これからぼくのいうことはみんな出たらめです、できそうもないことです、馬鹿げたことです! そんなことができっこないということは、自分でも知っていますが、もう黙っていられません。あなたが今くるしんでいらっしゃる事柄のために、ぼくはあらかじめあなたにお願いします、どうかゆるしてくだい!……」

「まあ、なんですの、なんですの?」彼女は泣きやめて、じっとわたしを見つめながらこういったが、しかも不思議な好奇心が、そのあきれたような目に閃めいていた。「あなた、どうなすったの?」

「こんなことは実現しっこないけれども、ぼくはあなたを愛してるんです、ナスチェンカ! そうなんです! さあ、もう何もかもいってしまいました!」とわたしは片手を振りながらいい切った。「これでおわかりになるでしょうが、あなたはいまいったようなことを、はたしてぼくに向かっていえるかどうか、これからぼくが話そうとすることを聞いていられるかどうか……」

「まあ、なんですの、なんだっておっしゃるの?」とナスチェンカはさえぎった。「それがいったいどうしたんですの? だって、あたしは前から知ってましたわ、あなたがあたしを愛してらっしゃるってことは。ただね、それは単純な愛し方のように思われましたの、いい加減な愛し方のように……ああ、どうしよう、どうしよう!」

「はじめは単純な愛し方だったんですよ、ナスチェンカ、ところが、今は、今は!……ぼくはね、ちょうどあなたが包みをもってあの人のとこへ行った、あれと同じなんです。いや、あれよりもっとみじめですよ、ナスチェンカ。だって、その時あの人はだれも愛しちゃいなかったのに、あなたは愛してらっしゃるから」

「あなたはなんてことをおっしゃるんでしょう。これじゃ、あたしあなたって方がわからなくなりますわ。ねえ、聞いてちょうだい、なんのためにあなたはそんなことをおっしゃるんですの、いえ、なんのためじゃない、なぜあなたはそんなふうにそう突然いい出しなさるんですの……ああ! あたし馬鹿なこといってるわ! でも、あなたは……」

 こういって、ナスチェンカは、すっかりまごついてしまった。その頬はかっと燃えた。彼女は目を伏せた。

「どうも仕方がありません、ナスチェンカ、ぼくにどうしようがあるんでしょう? 悪かったです、ぼく、自分の位置を濫用しました……しかし、違う、違います、ぼくは悪くなんかないですよ、ナスチェンカ。ぼくはそれを感じます、直感します。なぜって、ぼくの心は、お前は本当だといってるんですもの。なぜって、ぼくはどうしたってあなたを侮辱することはできませんもの! ぼくはあなたの親友でした。いや、今だってやっぱり親友です。ぼくは何一つ裏切りはしなかった。ほら、今だってぼくの目から涙が流れていますよ、ナスチェンカ。ええ、勝手に流れさしておけ、勝手に、そんなものはだれの邪魔にもなりゃしない、そのうちに乾きますよ、ナスチェンカ……」

「まあ、お坐んなさいってば」わたしをベンチに坐らせながら、彼女はこういった。「ああ、なんてことでしょう!」

「いや! ナスチェンカ、ぼくは坐りません。ぼくはもはやここにいられない人間です。あなたはもうぼくを見ることができないでしょう。ぼくは何もかもいってしまって、立ち去ります。ただぼくは、あなたがけっして知る折のなかったことをいいたいのです。つまり、あなたを愛してるってことを。ぼくは自分の秘密を守るつもりでした。ぼくは今のように、自分のエゴイズムであなたを苦しめるつもりはなかったのです。けれども、今は我慢しきれなかったのです。あなたが自分でこのことをいい出したんですもの、あなたが悪いのです、何もかもあなたが悪いので、ぼくのせいじゃありません。あなたはぼくを追っぱらうわけにいきません……」

「ええ、違いますよ、違いますったら、あたしあなたを追っぱらったりなんかしやしません!」とナスチェンカはかわいそうに、できるかぎり当惑を隠しながらいった。

「追っぱらわないんですって? 違いますって? それなのに、ぼくは自分であなたの傍を逃げだそうとしたんですからね。もっとも、ぼくは行ってしまいますが、その前に何もかもいってしまいます。なぜって、あなたがここで話してらしたとき、ぼくはじっと坐っていられなかったからです。あなたがここで泣いてらした時、つまり、その、つまり(もういってしまいますよ、ナスチェンカ)、あなたが棄てられたために、あなたの恋がしりぞけられたために苦しんでらした時、ぼくは自分の胸にあり余るほどの愛、あなたのための愛が溢れているのを感じました、直覚しました!……その時、ぼくはその愛であなたを助けることができないのかと思うと情けなくなって、胸が張り裂けそうになりました。で、ぼくは黙っていられなかったのです、いってしまわなければならなかったのです、ナスチェンカ、いってしまわなければ!」

「ええ、ええ! いってちょうだい、そんなふうに話してちょうだい!」言葉に捉えられぬ動きを示しながら、ナスチェンカはそういった。「あたしがこんなふうにいうのを、あなたは不思議にお思いになるかもしれませんが、でも……いってちょうだい! あたしも後でいいますから! 何もかもいってしまいますから!」「あなたはぼくが気の毒なんです、ナスチェンカ、ただもうかわいそうなんですよ。もう駄目になったものは駄目になったんだ! もういってしまったことは取り返しがつきゃしない! そうじゃありませんか? さあ、そこで、今あなたは何もかも知ってしまわれました。で、それが話の出発点になるのです。さて、それでよしと! もう何もかもけっこうです、まあ、聞いてください。あなたがここに腰かけて泣いてらした時、ぼくは心の中でそう思いました(ああ、どうかぼくの考えたことをうまくいわしてください!)、ぼくは思いました、その(いや、そんなことはあるべきはずがないんです、ナスチェンカ)、ぼくはあなたが……もしや何かの拍子に、その、ほんの何かのはずみに、あの人に愛想を尽かしてしまったのじゃないか、とそう思ったのです。その時、──ぼくはそのことをもう昨日も、一昨日も考えたんですよ、ナスチェンカ──その時、こんなふうにしよう、是が非でもあなたがぼくを愛するようにしなければならぬ、と思ったのです。だって、ナスチェンカ、あなたそういったじゃありませんか、あなたが自分の口から、もうほとんどすっかりといっていいくらいぼくが好きになったと、そういったじゃありませんか。さあ、それからなんだったかな? いや、これがぼくのいいたいと思ったほとんど全部です。いい残してるのは、もしあなたがぼくを好きになったら、その時はどうかということ、ただそれだけで、もうなんにもありません! まあ、聞いてください、──だって、なんといってもあなたはぼくの親友でしょう、もちろん、ぼくは貧しい、平凡な、つまらない人間ですが、もっとも、そんなことが問題じゃないのです(ぼくは見当ちがいのことばかりいってる、これは気まりが悪いからですよ、ナスチェンカ)。ただあなたを愛するのには、こんなふうにしなくちゃなりません、──もしあなたがあの人を愛しているとしたら、ぼくの知らない男を愛しつづけているとしたら、あなたに気づかれないように、ぼくの愛がひょっとあなたの重荷にならないように、そんなふうの愛し方をしなきゃならないのです。ただあなたが毎時、毎分、自分のそばで感謝に溢れた心が鼓動していることを、感じるようにしなきゃなりません。あなたのためなら……なにするのもいとわない熱烈な心が……おお、ナスチェンカ、ナスチェンカ! あなたはぼくを何ということにしてしまったんです!……」

「泣かないでちょうだい、あたしあなたが泣くのいやですわ」素早くベンチから立ちあがりながら、ナスチェンカはこういった。「さあ、行きましょう、お立ちなさいな、いっしょに行きましょう、泣かないで、泣かないでちょうだいってば」そういいながら、彼女は自分のハンカチでわたしの涙を拭くのであった。「さあ、もう行きましょう。あたし何かお話するかもしれませんわ……そうだ、もういっそあの人があたしを棄ててしまったのなら、──あたしはまだあの人を愛してるのに(そうよ、あたしあなたに嘘をいいたくないから)、あの人があたしを忘れてしまったのなら……でも、よくって、あたしのきくことに返事をしてちょうだい。もし仮りに、あたしがあなたを好きになったとしたら、いえ、もしあたしがひょっと……ああ、あなた、あなたはあたしの親友ね! それなのに、あたしったら、あなたを侮辱したんですもの。あなたがあたしに恋をしなかったからといって、あなたを褒め上げたりしたのは、あなたの愛に対する凌辱でしたわね、それを思うと、それを思うと! ああ、どうしよう! まあ、いったいどうしてこれを見通しておかなかったのかしら、どうして予感しなかったのかしら、どうしてあたしはあんな馬鹿だったのでしょう、でも……ええ、ええ、あたし決心したわ、みんないってしまいますわ……」

「ねえ、ナスチェンカ、ちょっと。ぼくはあなたの傍を離れてしまいます、本当に! これじゃただあなたを苦しめるばかりですもの。現にあなたはぼくを嘲弄したからって、良心の呵責に苦しんでらっしゃる。それがぼくいやなんです。自分自身の悲しみがあるのに、その上……そんなことはいやです。もちろん、ぼくが悪いんですよ、ナスチェンカ、さよなら!」

「待ってちょうだい、あたしの話を聞いて、あなたお待ちになることができて? 」

「何を待つんです、どうして?」

「あたしあの人を愛しています、けれどもそれは冷めてしまいますわ、冷めるのが当たり前ですもの、冷めないはずがありません。もう冷めかかってますわ、あたしそれが感じられますの……今日にもすっかり冷めてしまうかもしれません。だって、あたしあの人が憎いんですもの。だって、あなたはここであたしといっしょに泣いてくだすったのに、あの人はあたしをからかったんですもの。だって、あなたはあたしを棄てたりなんかなさらないでしょう。だって、あなたはあたしを愛してらっしゃるけど、あの人は愛してなんかいなかったんですわ。だって、あたし自身があなたを愛してるんですもの……そうよ、愛してるわ! あなたがあたしを愛してらっしゃるのと同じように、あなたを愛していますの。これは、あたしもう前にもあなたにいいましたわね、あなたお聞きになったでしょう、──あたしがあなたを好きなのは、あなたのほうがあの人よかいいかたなんですもの、潔白なかたなんですもの。だって、だって、あの人は……」

 かわいそうに、ナスチェンカはあまり興奮が烈しいために、しまいまでいい切ることができず、頭をわたしの肩にのせ、それから胸に押し当てて、よよとばかり泣き出した。わたしはすかしたり、慰めたりしたが、泣きやめることができなかった。彼女は絶えずわたしの手を握りしめて、すすり泣きの間から「待ってちょうだい、待ってちょうだい、今にすぐやめますから! あたしあなたにお話したいことがあって……あなたこの涙が……なにのせいだなんて思わないでちょうだい、これはただちょっと、気の弱りのためなんですから、落ちつくまでちょっと待ってちょうだい……」とくり返すのであった。ようやく彼女は泣きやめて、涙を拭った。

 で、わたしたちはまた歩き出した。わたしはものをいおうとしたが、彼女はまだ長い間、ちょっと待ってくれと頼んだ。わたしたちは黙り込んでいた……ついに彼女は気力を奮って、話しはじめた。

「あのね」と彼女は弱々しい慄え声でいい出したが、その中には思いがけなく、わたしの心臓のただ中を刺して、甘く疼くような何ものかが響いていた。「どうかあたしのことを、移り気で、尻軽な女だなどと思わないでちょうだいね。あたしがいとも易々と忘れてしまって、手軽に自分の愛情を裏切ることのできる女だなんて、そんなことを思わないでね……あたしはまる一年間あの人を愛しつづけて、神様の前ででも誓いますけれど、ほんの心の中だけでも、あの人に背くようなことはしませんでしたわ。それをあの人は馬鹿にして、あたしを笑い草にしたんですものね──まあ、あんな人なんかどうでもいいわ! でもあの人はあたしを傷つけたんです。あたしの心を侮辱したんですわ。あたし……あたし、あんな人を愛してなんかいません。だって、あたしが愛することのできるのは、寛大で、高潔で、あたしを理解してくれる人に限りますもの。あたし自身がそういう女ですから、あの人なんか、あたしに愛される価値がないんですの、──でも、あの人なんかどうでもいいわ! 結局、あの人はいいことをしてくれましたわ。だって、後で期待を裏切られて、正体を見せつけられるよかましですもの……あれはいよいよおしまいですわ! でもね、ひょっとしてわかりませんわね」と、彼女はわたしの手を握りしめながらつづけた。「もしかしたら、あの愛情は一から十まで、気の迷いだったかもしれませんわね、想像の戯れだったかも。あたしがお祖母さんの監視の下に置かれていたものだから、愚にもつかない悪戯から始まったのかもしれないわ。あたしはあの人でなく、ほかの人を愛さなければならないのかもしれない。あんな人でなく、あたしを憐んでくれるような、別の人をね。そして……まあ、よしましょう、こんな話はよしましょう」興奮のために息を切らしながら、ナスチェンカは自分で自分をさえぎった。「ただ、あたしがお話したかったのはね……あなたにお話したかったのは、あたしがあの人を愛している(いえ、愛していた、ですわ)のをご承知の上で、やっぱりあなたがあたしを……もしあなたがご自分の愛情が大きくてとどのつまり、あたしの胸の中から以前の愛を追い出す力がある、とそうお感じになったら……もしあなたがあたしをかわいそうだとお思いになったら、もしあなたが希望もなければ慰めもないあたしを、運命の翻弄にまかせてうっちゃって置きたくないとお思いでしたら、もしあなたが今のとおりに、いつまでもあたしを愛してくださるお考えでしたら、あたし誓って申しますが、感謝の念だけでも……あたしの愛はあなたの愛情に値すると思いますわ……さあ、今こそあたしの手をお取りになりません?」

「ナスチェンカ!」とわたしは慟哭に息を切らせながら叫んだ。「ナスチェンカ!……おお、ナスチェンカ!」

「さあ、たくさんですわ、た<さんですわ! さあ、もうこれで本当にたくさん!」と彼女はかろうじておのれを制しながらいった。「さあ、これでもうすっかりいってしまったわ、そうじゃなくって? そうでしょう? ねえ、あなたも幸福だし、あたしも幸福よ。だから、もうこれからひと言もこの話はしないことにしましょう。少し待ってちょうだい、あたしを容赦してちょうだい……後生だから、何かほかの話をして!……」

「そうだ、ナスチェンカ、まったくそうだ! この話はもうたくさんだ、今ぼくは幸福なんだから、ぼくは……さあ、ナスチェンカ、さあ、何かほかの話をしよう、早く、少しも早く始めよう。さあ! ぼくはいつでも……」

 けれど、わたしたちは何を話したらいいかわからなかった。二人は笑ったり泣いたりして、脈絡もなければ意味もない言葉を、際限もなく吐き散らすのであった。わたしたちは歩道をあるいているかと思えば、急に後戻りして、通りを横切り出す。それから歩みを停めて、また河岸通りのほうへ渡って行った。わたしたちはまるで子供のようであった……

「ぼくはいま、独りぼっちで暮らしているけれどね、ナスチェンカ」とわたしはいい出した。「明日は……いや、もちろん、ぼくはご承知のとおり貧乏だよ、ナスチェンカ、ぼくは年俸千二百ルーブリしかもらっていない、けれどそんなことなんでもありゃしない……」

「もちろん、なんでもありはしなくってよ、お祖母さんが扶助料をもらってらっしゃるから、別にうるさいこといやしないわ。お祖母さんは引き取らなくっちゃ」

「もちろん、お祖母さんは引き取らなくちゃ……ただマトリョーナが……」

「ああ、うちにもやはりフョークラがいるわ!」

「マトリョーナはいい女だけれと、ただ一つ欠点というのはね、ナスチェンカ、考えがないということなんだ。まるっきり考えというものがなくってね。しかし、そんなことはなんでもありゃしない……」

「どうせ同じことよ。二人とも置いといたってかまわないわ。ただね、あなた明日にも越していらっしゃいよ」

「どうしてそんなことを? あんたのほうへ? よろしい、ぼくはかまやしない……」

「そうよ、あなた、家の部屋を借りるのよ。家にはそら、中二階があるから。今あいてるんですもの。間借りの人がいたけれど、越して行っちまったの。貴族出の年取った女の人だったわ。お祖母さんたらね、若い男の人を入れたがるのよ。あたしがね、『なぜ若い男の人でなくちゃならないの?』ってきくと、お祖母さんがいうのにはね、『なぜってこともないけれどね、わたしゃもう年を取ってしまったからさ。ただね、ナスチェンカ、わたしがお前をその人のお嫁さんにしようと思ってるなんて、そんなこと考えるんじゃないよ』ですって。そこであたしは、なるほどそのためだなと察したのよ……」

「ああ、ナスチェンカ!……」

 わたしたちは二人で笑い出した。

「さあ、もうたくさんだわ、たくさんだわ。ときに、あなたのお住居はどこでしたっけ? あたし忘れちまって」

「あの**橋の袂の、バランニコフの持ち家」

「それはあの大きな建物ですの?」

「そう、とても大きな建物です」

「ああ、知ってますわ、いい家だわ。でもね、あなた、その家はやめにして、少しも早くあたしたちのほうへ越して来てね……」

「明日にも、ナスチェンカ、明日にもすぐ。ぼく、あすこの部屋代が少々借りになってるけれど、なに、そんなことなんでもありゃしない……もうすぐ月給をもらうから……」

「ねえ、もしかしたら、あたし子供のお浚えをしてやるかもしれなくってよ。自分でも勉強して、子供のお浚えをしてやるわ……」

「ああ、そりゃ名案だ……ところで、ぼくは間もなく賞与をもらうからね、ナスチェンカ……」

「じゃ、もう明日からあなたはうちの間借り人ね……」

「そうだ、ぼくたちはいっしょに《セヴィリヤの理髪師》を聞きに行こうね、今度また近いうちにかかるから」

「ええ、行きましょう」とナスチェンカは笑いながらいった。「いえ、それよか、何かほかのものを聞きましょう、《セヴィリヤの理髪師》でなしに……」

「ああ、よろしい、何かほかのものにしよう。もちろん、そのほうがいい。ぼくよく考えなかったものだから……」

 こんなことをいいながら、わたしたちは二人とも悪いガスにでも酔ったか、霧にでも巻かれたような気持ちで歩きまわり、自分でも、自分がどうなっているのか、わからないよう有様であった。一つところに長く立ちどまってしゃべり込んでいるかと思うと、またもややたらに歩き廻って、とんでもないところへ出てしまう。こうして再び笑い、再び涙……時にはナスチェンカが出しぬけに家へ帰りたいといい出す。すると、わたしはそれを引き止める勇気がなく、住居まで送って行こうとする。こうして、二人で歩き出すのだが、十五分も経つと、いつの間にか例の河岸通りのベンチのそばへ来ているのであった。かと思うと、彼女は急に溜息をついて、またぞろ涙が瞼に溢れる。わたしははっとして、身内が冷たくなる、けれども、彼女はすぐさまわたしの手を握って、ぐんぐん引っぱりながら歩き出し、しゃべり、話し込む……

「もうあたしお家へ帰る時分だわ。きっと遅くなったでしょうね」と、ついにナスチェンカはいい出した。「こんな子供じみた真似はたくさんだわ!」

「そうだね、ナスチェンカ、でもね、ぼくはこうなったらもう寝つかれやしない。ぼくは家へ帰らない」

「あたしもやっぱり寝つかれそうもないわ。でも、あなた送ってちょうだいね……」

「ぜひとも!」「でも、今度こそ間違いなく家まで行き着くでしょうね」

「間違いなし、間違いなし……」

「誓って?……だって、いつかは帰らなくちゃなりませんものね!」

「誓いますとも」とわたしは笑いながら答えた。

「じゃ、行きましょうよ!」

「行きましょう」

「ごらんなさい、ナスチェンカ、ちょっとあの空をごらんなさい! 明日は素晴らしいお天気ですよ。なんて青い空だろう、なんて月だろう! ごらんなさい、あの黄いろい雲がいま月を隠そうとしているところを、ごらん、ごらんなさい! いや、わきのほうをかすめて行っちゃった。ごらん、ごらんてば!……」

 しかし、ナスチェンカは雲を見てはいなかった。彼女は釘づけにされたように、無言のまま立っていたが、しばらくしてなにか臆病そうに、ぴったりわたしに身を寄せて来た。その手はわたしの手の中で慄えていた。わたしはその顔を見やった……彼女はなおもひしとわたしに寄り添った。

 その瞬間、わたしたちのそばを一人の青年が通りすぎた。彼は突然あゆみを停めて、じっとわたしたちを見透かしていたが、ややあって、また幾足か歩いた。わたしの心臓はおののきはじめた……

「ナスチェンカ」とわたしは低い声でいった。「あれはだれ、ナスチェンカ?」

「あれはあの人よ!」なおもわななく体をひしとわたしのほうへ寄せながら、彼女はひそひそ声で答えた……わたしはほとんどその場に立っていられなかった。

「ナスチェンカ、ナスチェンカ! お前じゃないか!」という声がわたしたちのうしろに聞こえた、とその瞬間、青年はわたしたちのほうへ幾足か近寄って来た。

 ああ、なんという叫び声! なんというおののき! 彼女がわたしの手を振りほどいて、彼のほうへ飛んで行ったその身早さ!……わたしは叩きのめされたように、じっと立って、二人を眺めていた。けれども、彼女は男に手を差し伸ベて、その抱擁に身を投じるか投じないかに、突如ふたたびわたしのほうへ振り返って、風のごとく、稲妻のごとく、わたしの傍へ飛んで来た。そして、わたしがわれに返る暇もなく、両手をわたしの頸に巻きつけて熱い熱い接吻をした。それから、わたしにはひと言もものをいわないで、またもや男のほうへ飛んで行き、その手を取って、ぐんぐん引っぱって行った。

 わたしは長い間そこにたたずんで、二人のあとを見送っていた……ついに二人は眼界から姿を消した。

 

   朝

 

 わたしの夜は終わって朝となった。いやな日であった。雨がじゃんじゃん降って、憂鬱な音を立てながら、窓硝子をたたいている。部屋の中は薄っ暗く、外は灰色に曇っていた。わたしは頭が痛み、目まいがした。熱けが四肢に忍び込んで来る。

「手紙がまいりましたよ、旦那様、市内便で、いま郵便屋が持って来ましたんで」とマトリョーナがわたしの頭の上でいった。

「手紙! だれから?」とわたしは椅子から躍りあがって叫んだ。

「知りませんよ、旦那様、まあ見てごらんなさいまし、だれから来たのか、そこに書いてあるかもしれませんよ」

 わたしは封を切った。それは彼女から来たものであった。

『おお、ゆるしてください、わたくしをゆるしてくださいまし!』とナスチェンカはわたしに宛てて書いていた。『膝をついてお願いします。どうぞわたしをゆるしてくださいまし! わたくしはあなたをも、また自分をも欺いたのでございます。あれは夢でした、幻でした……今日わたくしはあなたのために悩み通しました。ゆるしてください、わたくしをおゆるしくださいまし!……

『どうかわたくしをお責めにならないでくださいまし、だって、わたくしは何一つあなたに背いたことがないのですもの。わたくしはあなたを愛すると申しましたが、今でも現に愛しております。いえ、愛するというより以上でございます。ああ! もしあなた方お二人を一度に愛することができましたら! ああ、もしあなたがあの人でしたら!』

『ああ、もしあの人があなたでしたら!』という声がわたしの頭の中で響いた。ナスチェンカ、わたしはお前自身の言葉を思い出したのだ。

『神も照覧あれ、今わたくしはあなたのためなら、どんなことでもする覚悟でございます! あなたが苦しい、やるせない思いをしていらっしゃるのは、わたくしにもよくわかっております。わたくしはあなたを侮辱しましたけれども、おわかりくださることでしょうが、愛している人は長く侮辱を覚えているものではございません。ところで、あなたはわたくしを愛していてくださいますわね!

『ありがとうございます! ええ、わたくしはその愛のためにあなたに感謝いたします。だって、その愛はわたくしの記憶の中に()りつけられているからでございます。それは甘い夢みたいなもので、さめてからも長いこと忘れることができません。あなたがまるで兄弟のようにご自分の心を開いてくだすったあの瞬間、そしてわたくしの打ち(ひし)がれた心を寛大に受け入れて、大切に護り、めでいつくしみ、その痛手を癒してくだすったあの瞬間は、一生わすれはいたしません……もしあなたがわたくしをゆるしてくださいますれば、あなたの思い出はわたくしの心の中で、永久に変わることなき感謝の念によって昇華されることでしょう、それはけっして消えることはありません……わたくしはこの思い出を保存し、それに背くことがないように、また自分の心にも背かないようにいたします。わたくしの心はあまりにも節操を尊ぶのでございますから、つい昨日も永久に所属していた人のほうへと、苦もなく返って行った次第でございます。

『わたくしたちはまたお会いしましょうね、どうかわたくしどものほうへいらしてくださいまし、どうかわたくしどもをお見棄てないように、あなたは生涯わたくしの親友です。わたくしの兄さんです……どうかわたくしをお見かけになったら、お手を差し伸ベてくださいまし……そうしてくださるでしょう? 手を差し伸べてくださいますわね、あなたはわたくしをゆるしてくだすったんですもの、そうじゃございません? あなたはわたくしを以前どおり愛してくださいますわね?

『ああ、愛してくださいまし、見棄てないでくださいまし。だって、今この瞬間、わたくしはあなたを愛しているのですもの、わたくしはあなたの愛に値するのですもの、あなたの愛に対して恥ずかしくないだけのことをしますもの……懐かしい友! わたくしは来週あの人と結婚します。あの人は愛に充ちて帰って来たのでございます、あの人はけっしてわたくしを忘れたのではありません……わたくしがあの人のことを書いたからといって、どうぞお腹立ちのないようにお願いします。でも、わたくしはあの人といっしょにあなたをお訪ねしたいんですの。あなたはあの人を好きになってくださいますわ、そうじゃございません?

『どうかわたくしをゆるしてください、お忘れのないように、愛してくださいまし。あなたのナスチェンカ』

 わたしは長いことこの手紙を読み返していた。涙は瞼から溢れ出るのであった。とうとう、手紙は手からすべり落ちた。わたしは両手で顔をおおった。

「旦那様! もし旦那様!」とマトリョーナが呼んだ。

「なんだね、ばあや?」

「わたしゃ天井の蜘蛛の巣を、すっかり取ってしまいましたよ。もうこれならお嫁取りをして、お客さまをお呼びになっても、それこそ大丈夫でございますよ……」

 わたしはマトリョーナの顔を見やった。それはまだ元気な若い老婆であったが、どういうわけか知らないけれども、急にわたしの目には腰が曲って、目の光も消え、顔じゅうに皺の寄ったよぼよぼ婆さんに映った……そして、どういうわけか知らないけれども、とつぜんわたしの部屋が、ばあやと同じくらい、年取ってしまったように思われるのであった。壁も床も色あせて、何もかもどんよりとして、蜘蛛の巣など前よりももっと多くなったよう。どういうわけか知らないけれども、わたしが窓外に目を放った時、向かいに建っている家も負けず劣らず、同様に老いぼれてどんよりとし、円柱の漆喰は剥げ落ち、蛇腹は(くろ)ずんでひび割れ、壁も濃い鮮やかな黄色だったものが、変な斑になってしまった……

 それとも、不意に黒雲の陰から差し覗いた太陽の光線が、また雨雲の中に隠れてしまったので、何もかもがわたしの目の前で再びつやを失ったのだろうか。またそれとも、わたしの未来画が何から何まで味気なく、侘しいものとして眼前に展開され、十五年たって年寄りくさくなったわたしが、依然として今と同じように、同じこの部屋で、同じく独りぼっちで、このながの年月いささかも悧巧にならない同じマトリョーナといっしょに暮らしている、そういう有様を正しく目撃したのだろうか。

 しかし、ナスチェンカ、自分の受けた侮辱をいつまでも覚えているわたしだろうか! お前の晴れわたった穏やかな幸福の空に、暗い雲影を吹き送るようなわたしだろうか、苦い非難をぶっつけて、お前の胸に憂愁を吹き込むようなわたしだろうか、秘かな良心の阿責でお前の心を毒し、恋の三昧の瞬間に悩ましい鼓動で(おび)やかすようなわたしだろうか、お前が彼と並んで神前へ行くとき、黒髪の中へ編み込んだ可憐な花の一つだって、心なく揉みしだくようなわたしだろうか……おお、けっして、けっして! どうかお前の心の空の晴れやかであれかし、お前の愛らしい微笑の明るく穏やかであれかし、またお前自身、愛の三昧と幸福の瞬間に対して祝福されてあれかし、それはお前がもう一人の孤独な、しかも感謝にみちた魂に授けた三昧であり、幸福であるのだ!

 ああ、愛の三昧の完全な一とき! いったいこれが人間の一生に対して不足だとでもいうのか?……

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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米川 正夫

ヨネカワ マサオ
よねかわ まさお ロシア文学者・翻訳家 1891・11・25~1965・12・29 岡山県生まれ。東京外国語学校卒、大正五年外務省嘱託となり、ペトログラード駐在。後、早稲田大学などでロシア語を教える。日本ロシア文学会の二代目会長となり後進の育成、学会発展に尽力した。昭和二十五年(1950)より刊行された『ドストエーフスキイ全集』(河出書房)で昭和二十八年(1953)読売文学賞受賞。大正期の新潮社版『ドストエーフスキィ全集』には訳者の一人として参加、『カラマーゾフの兄弟』、『白痴』、『悪霊』を担当した。また十九世紀から二十世紀にいたるロシア文学の主要作品を殆んど翻訳し、日本文学に大きな影響を与えた。なかでもドストエーフスキイは終生の訳業である。

掲載作は『ドストエーフスキイ全集』(河出書房 昭和45年)より。

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