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女百貨店

   1

 

「ハロー。」

 貨幣の豪奢で化粧されたスカートに廻転窓のある女だ。黄昏色の歩道に靴の市街を構成して意気に気どつて歩く女だ。イヅモ町を過ぎて商店の飾窓の彩玻瑠(いろがらす)に衣裳の影をうつしてプロフエショナルな女がかるく通行の男にウインクした。

 空はリキユール酒のやうなあまさで、夜の街を覆ふと、絢爛な渦巻きがとほく去つて、女の靴の踵が男の弛緩した神経をこつこつとたたいた。つぎの瞬間には男女が下落したカワセ関係のやうにくつついて、街頭の放射線から人工呼吸の必要なところへ立去つて行つた。

 午後十一時ごろであつた。大阪からながれてきたチヨダ・ビルのダンサー達が(すた)れた皮膚をしてアスハルトの冷たい街路に踊る靴をすべらした。都会の建物の死面に女達は浮気な影をうつして、唇の封蝋(ふうらふ)をとると一人の女が蒼褪めた朋輩に話しかけた。

「あのなあ、蒙古人がやつてきやはつて、ピダホヤグラガルチユトゴリヂアガバラちうのや。わははは。」

「けつたいななあ、それなんや。」

「それがなあ。散歩してーえな、ちうことなのや。おお寒む。」

 酒と歌と踊のなかからでてきた男女が熱い匂のする魅力にひかれて、洪水のやうにながれる車体に拾はれると、夥しい巡査がいま迄の蛮地(ばんち)のエロチシズムの掃除を始めて、街は伝統とカルチュアが支配する帝王色に塗りかへられた。

 

 同じ時刻。太田ミサコの黒いスカートが冷い路上で地下の電光に白く(きらめ)いた。彼女の横顔が官衙(くわんが)と、銀行と、店舗のたちならんだ中央街の支那ホテルのまへまでくると細かく(ふる)へた。形のいい鼻の粗い魅力がうす黒い建物に吸ひこまれると灰色のホテルの壁にそつて彼女の影がコンクリートの階段を中年女の靴音をのこして一歩、一歩女の強い忍従が右に折れると、或る部屋の扉を繊奢(せんしや)な澱みもなく暴々しくノツクした。

「カム・イン。」

 太い男の声が扉のすき間からもれると、太田ミサコは部屋につかつかと這入ると、彼女は盲目のやうに寝衣の男を見つめた。

「やあ、部屋をまちがへた花嫁のやうにてれてゐるぢやないか。」と、巨大な男は彼女に青い尻をむけて云つた。

 すると太田ミサコは、ソフアに片脚あげて、ストツキングを結んだ華美な薔薇の花模様の結び目をゆるめると、

「いくら破廉恥でも淫売婦の逢ひ曳きぢやないのよ。」

「これは失礼。だが、不眠症になるやうな取引を申しこまれたのはどこのマクロー様かね。」

 太田ミサコは鉤形の鼻を鳴らして殺風景な部屋椅子に腰を下ろすと、埃のつんだ卓子(テーブル)に片ひぢついて、

「ほほ、それではバル・セロナ生れの伊達ものには見えないわ。それともお前さんは(わたし)に弱味でもあると思つてゐるの。」

 すると、奇怪な男がおどけて云つた。

「ミサコ女史よ、巴里(パリ—)ではミモザの花は一輪いくらしますか。」

「ムーラン・ルーヂユの恋物語でございますか。はい。一輪お高うございますわ。」

 色の黒い肥まんした男が腹をかかへてわらひだした。片ひぢついた彼女の鋼鉄のやうな腕に血管が運河のやうに青く浮きでた。

「それでご用は?」と、無作法に両股をひろげて男が云つた。

 すでに彼女は隠密にものを云ふ女になつてゐた。

「あら、かう云つたからつて妾は打算と赤鼻が好きさ。ぜひお願ひしますわ。と、云ふのは妾が愛撫してくれる男を待つてゐるわけぢやないわ。実はマクローにだつて衣裳が要るやうに、あなた妾を労働女にして街に棄てないでちやうだい。分つて。」

 厚化粧した彼女の羈絆(きはん)の下で男が云つた。

「わしはそのお礼によつて、あとくされと紛議をかもさないやうに奥さんにご用立てしませう。」

「利子は妾よ。」ずばりと彼女は云ふと、化学的な香料のにほひを発散させながら、黄煙草のけむりで太田ミサコは傲慢なわらひを浮べた顔をくもらせた。

 しかし、タイプライター刷のやうな事務的な男の言葉がつづいた。

「カアキイ色の小切手を出しませう。失礼ですが、奥さんは必要なもののありかをご存じですか。」

「いただくわ。契約するわ。」

「期日は。」

「只今だわ。契約期限切れは赤の他人だわ。」と、憤懣(ふんまん)の色をうかべて彼女がこたへた。

 赤い首巻きを締めるやうに、肥満した男の太い呼吸がばつたりやむと、人工的な都会の性格が夥しく(とこ)にあふれた。一刻後、太田ミサコはグリーヴァヷスな武者わらひをして、ハンド・バッグに一枚の紙片の重さを感じながら支那ホテルの階段に榴弾(りうだん)の音をたてて下降した。

 

   2

 

 戸外に彼女がでると、萎黄病(ゐくわうびやう)のやうに(くす)んでしめつた月が建物の肋骨にかかつてゐた。

 彼女が臘虎(らつこ)の外套に顔をうづめて銀色の夜半の燈のもとを、二、三歩すすまないうちに、金格子の門衛室の扉がひらいて青馬のやうな近視眼鏡をかけた小肥なボッブの女が小走りにちかづくと、悪意のあることばで、

「やあ、奥さん。あなたは身重になるつもり!」

「あゝ、あなた探訪記者だわね。」

「深夜のミイラとりだわよ。」

 彼女は女記者のむくんだ肩を美しく手いれされた指でふれて、起重機のそびえた黄色い空を見あげながら、

「ちよいと。」

「なーに。」

「これ少しよ。」

「まあ、妾に。でもこれぢや駄目だわ。」

 太田ミサコはとつさに記者の近視眼のめがねのしたで、ずるさうな意志が円解されてゐるのをみとめた。

「あなた、いらないの。」と、強く云ひきるとふたたび建物の影にそつて歩きだした。

 狼狽した女記者の太い拳が彼女の眼前につきだされた。夜半の都会が同盟罷業のやうな閑寂さを感じさせた。

「あなたいらないの。」

「いただくわ。」

「ではお願ひがあるわ。あなた妾を明朝たづねてきていただきたいの。妾の考へではあなた中々見こみがあるわ。」

 困憊(こんぱい)した女記者を尻目にかけて、彼女は一枚の名刺を手渡すと、既に通りがかつた車にのると、疲労したからだをクッションに埋めて都会の大桟敷を右に折れた。

「畜生! これつぽつしの目腐れ金で妾をろうらくして、売女奴(ばいため)!」

 

  仏国ポール商会代理店 太田ミサコ 日比谷街 36(原文は罫線で囲み)

 

と、記された花模様の名刺を太い手首に丸めこむと、かの女は豚のやうに空中に跳ねた。

 

   3

 

 翌朝、太田ミサコは支那ホテルからの電話でめざめた。

 肥大した男の恋愛のつづきを受理する女のやうに頑健な(あらは)な腕を寝床からさしだすと、受話器を整形された小さな耳にあてた。「あんたはミサコさんかね。」と、相手の男が云つた。われ鐘のやうな濁つた声が彼女に黒奴(ニグロ)のやうなヂヤマン・チーズの腐つた臭のする厚い唇を思ひ出させた。

「妾、太田ミサコですわ。」と、彼女がこたへた。すると男の工ロチックな天性が哀願的に、「わしは昨夜中あんたのことを思ひつづけると眠ることができなかつた。いまでもあんたの呼吸がわしの耳に鳴りつづけるのだ。するとわしはドイツの軍艦のやうなあんたのからだを思ふ。」「あゝ、もし、もし。」「わしは気がくるつてホテルの高層から飛おりようと思つた。」

「御用は?」

 電話の男がどもつて(さけ)んだ。

「あんたはわしのことをどう思つてゐてくれる。」

「妾、あなた様をおきらひ申しておりますわ。」と、かの女は冷やかにこたへると、そのまま沈黙して受話器を耳から離さなかつた。すると牀をける足音と、しばらくしてもの凄い音響が電流をつたつて彼女に勇気をあたへた。

 彼女は寝床に起きあがると中年女の壮烈な教練を始めた。窓のカーテンがひらいて眼下にヒビヤ・パークと警視庁の鉄筋の骨組が朝の太陽をもとに赤光をうけて眼ざめた。女の両脚のやうに緑色の電車路が横たはつて、そのうへを労働者の溢れた満員の割引電車が通り過ぎた。サラリーメンの洪水のために死骸のやうな建物の堰が破られて、室にそびえる高楼の窓が花のやうにひらくと、女事務員の青と赤の色の色彩が花粉の媒介の役目をした。

 前門の経済通報杜の万事相談室には早朝から夥しい人がつめかけてゐた。タイプライターと、夕刊新聞のタクシーと、自転車で疾走する給仕の金ボタンと、江東一帯の工場地から聞える仕事始めのサイレンの音響と人物の交錯のなかを、太田ミサコは小肥なボッブの昨夜の女記者の太い脚がアスハルトの道路をふんでやつてくるのを認めた。

 部屋のアザミの造花のおかれた卓子に、ミサコと対して女記者は巨木のやうな脚をくむと、すぱりすぱりと朝日の紙巻タバコの煙を吐きだしながら、

「お早うございます。マダム・ミサ。妾は中央ステイションでおりたのよ。あなた達の悪癖には妾顔まけして了つたわ。」

「妾のお願ひと云ふのはね。」

「ところがマダム、いくら流行病とは云ひながら彼のアマは朝の市街を厚化粧であるいてゐるんだ!」

「そのくらゐで結構、妾にはそれがだれだか分つてゐるのさ。」

 疑ふやうに女記者が彼女の顔をのぞいた。しかしミサコは冷却した女のやうにことばをつづけた。

「あなたにお願ひと云ふのはね、妾の同業の厚化粧ぐみをね、彼奴(あやつ)たちはどうせろくなことはやらないのさ。」

「まつたくですわ。ねえ、マダム。」

「妾は正道をあんたも知つてゐるやうに歩んでるわ。だからさ、妾はあんたのやうな正しい心をもつた、女らしい人が好きなのさ。」

「あら!」

 太田ミサコはとつさに、はにかんだ女記者のまへに二、三枚の紙幣をとりだすと、

「これ、手附さ。あいつ達のネタを一週間以内にもつてくれば手附の十倍の報酬を進呈するわ。」

「売こむのは?」

「××夕刊新聞。」

 ふたたびミサコは肥大した女を威喝するやうに女記者に云つた。

「あんた、もし裏切るやうなことがあれば妾がどんなことをする女か知つてゐる?」

 太く短い女は立あがると、いらいらして部屋を(かかと)のない靴であるいた。やがて落つきをとりかへすと女記者がこたへた。

「では、さやうなら、マダム。」

「さやうなら。あんたは、たのもしい方だわ。」と、彼女が云つた。

 しをれた女の足音が遠のくと、ミサコは女記者が青バスに太い拳をさしあげるのを見た。ふたたびカーテンを閉すと、強大な彼女の自信が昨夜からの疲労のために惨めにもくづれ始めた。

 

   4

 

 一刻後、太田ミサコはタクシーのクッションにもたれて官省広場の並木道を疾走してゐた。大島のかさねを黒いコートでつつんで、リスの毛皮を左乳に垂らした、頬紅をささない蒼白な厚化粧の女が、いつも一点をみつめ前後の気配を感ずる都会の女の乗つた車が、中央九番街のクロス・ワード模様の東洋銀行のまへで停止すると、彼女のフエルトの草履が石畳を踏んで衣服の黒い裾裏が地上を流れる風にはねかへつた。

 ミサコが廻転扉から出納口につかつかと進むと、コケットな彼女の嬌態に狼狽した行員が自覚を失つた指先で紙幣をかきあつめた。奥の大卓子(おほテーブル)の支配人が彼女にかるく会釈をかへした。一枚の小切手が一かたまりの紙幣となつて出納口からでてくると、銀行を背負つたやうな女は、ふたたび銀座方面ヘガソリンの尾を曳いた。彼女の傲がんなこころがすこしの反省もなく、イヅモ町の彼女経営の流行品店を素通りして、築地河畔のコルビジエ風のアパートメントの一室を訪れた。雑誌『流行』の宣伝部長のカリタは、ミサコを自室に案内すると、隣室の同棲者に三人の食事を云ひつけた。

 ミサコはお互の少時間の自由を、対岸を流れる濁水に眼をうつして云つた。

「あんた、妾××したかも知れないわ。」

「そんなこと、不思議なものか。あんたが奥さんである以上は。」

 彼女が片眼をつむつて、白魚のやうな指を鼻にまいて、「あんたの、ベビかもしれなくつてよ。」

「すると。」

「妾うれしいわ。」

 カリタが礼儀ただしく立あがつて食堂の扉を開いた。彼の同棲者が微笑しながら二人を迎へると、三人が食卓をかこんだ。シークな部屋であつた。

 飛行機が青空を踊り靴をはいて通過した。首からぶらさげた三角のナフキンに、茶褐色の斑点をつけてミサコが云つた。

「マダム、カリタは妾のことをどう思つてゐてくれますでせう。」

 彼の同棲者の細い首が食卓の魚の尾に傾いて、

「おくさま、カリタはいつもミサコさまのことを可愛い天使だと申してをります。」

「まあ、うれしい。」とミサコは艶然とわらふと、

「妾の困難な仕事も妾の道徳的な突進も妾の女馬鹿もいつもカリタの近代人らしい裁断によつて世間に通用するんだわ。」

 すると、『流行』の宣伝部長は化粧した冷酷な顔に鼻眼鏡をかけながら、

「さうさ、俺達の友情はこの東京で育つに工合がいいんだ。お前ミサコさんに世間ありふれたお粗末な友情でおつきあひしては不可(いか)んよ。」

「分つてゐるわよ。」と、彼の同棲者が意味ありげにこたへた。

 

   5

 

 イヅモ町の太田ミサ経営のポール流行品店では、早朝から商品窓のマネキンに黒山のやうな人だかりがしてゐた。入口の勘定台の女の鋼鉄のやうな指が動くたびに、金銭登録器がすばらしい音をたてて開閉した。そこから一列に輸入品の帽子が並べられて、その後で職業女の赤い唇がひらいたりしぼんだりした。左右の陳列棚にはスペイン・シヨールや夜会服が模造人形に装飾されて、その下に並べられた化粧品からは嗜好的な香が発してゐた。

 奥の三面鏡にはたえまなく綺羅を着かざつたブルジョワ婦人が、三面鏡があたへる美化された三つの姿態に惚れ惚れと見ほれてしまつた。すると女のやうな外交員が、もみ手をしながらおきまりの讃辞を役者のやうにしやべりだした。それが二階のビユテイ・パーラーの髪の焼ける臭気と、(こて)のかみあふ響と、シャンプする水の流れる音に交錯した。

 三階のマネキンの事務所では、競馬馬のやうな女の舞台女優気どりの饒舌がきこえてきた。衣裳をつけぬ女がけあいどりのやうに騒ぎまはつてゐた。このポール商会を太田ミサコの夫が事務服をつけて忙しさうに右往左往した。午前十時であつた。

 ミサコはポール商会のまへで車がとまつたとき、カリタに隣家のとざされた商店の買収のことを話してゐた。彼女が店につかつかと入ると同時にミサコの金属のかちあふやうな鋭い声がきこえた。

「ちえ、なんだい、マネキンは窓の外を男さへ通ればそわそわしてゐるし、陳列棚についたお前さんたちの白粉の粉が、お前さんたちを淫売とでもおもはすよ。まあ! あなた。その風態は何よ。もつと、紳士的に、もつと、威厳をもつて、まあ、この人は髭をそるのを忘れたわ、あゝ妾、死にたい!」

 恐る、恐る彼女の夫が云つた。

「お前、さつきから隣の地主が奥の部屋で待つてるよ。ところでお前、お前こそ唇に食事のあとがついてるぢやないか。」

 彼女の顔が廃艦のやうな色にかはると、ポール商会に金属的な悲鳴が聞えた。

「馬鹿、うすのろ、妾を侮辱したね、妾のプライドをきづつけたんだ。あゝ、口惜しい。」

 ミサコの馬の脚のやうな涙に驚愕して、彼女の夫は帽子をつかむと街路に逃げだした。うすい唇に白い歯をうかべてカリタが云つた。

「ミサコさん、あなたが泣くと僕はあなたといふ人がどんなに正直な美しい心を持つた女であるか分るんだ。僕は英国女のやうにもの堅いあなたを尊敬してゐるんです。」

 彼女が泣くのをよして、お化粧を一きは濃く塗りながら、

()の人は妾にいつも恥をかかすのです、彼の人が愚鈍なために、妾は、妾が良妻であるにもかかはらず世間から誤解をまねくやうなことになるんだわ。」

 ミサコが堅固な意志をとりかへすと、ふたたびポール商会は、事務と秩序と美にたいする感覚をとりかへして、使傭人たちが忙しさうに饒舌り、お世辞と商才が火華のやうに顧客を魅了した。

 

   6

 

「この方は妾の顧問弁護士でございます。」

 カリタをかへりみて彼女が相手の痩せた男に云つた。

「妾はいつも間違ひのないやうにお取引を致しますかはりに、それだけに、駈引のある商人的なお取引はいやなのでございます。それに妾は女でございますから、お話しがむつかしくなりますと手を引くより外に道がございません。では、三マルとして手を打つていただきたうございます。妾は女でございますもの、それなのにあなた様の土地は無力な妾がつねから欲しいと思つた土地なんでございます。三マルでおゆづりくださいませ。いつまでもご恩にきますわ。」

 痩せた老年の男が憤怒のために立あがつた。

「いまになつて三マルとはひどいではないか。昨日まであんたは四マル半ぐらゐなら妾がいただくから他には話さないでくれと狂気のやうになつてわしにたのんだ。わしはあんたを信じた。あんたは、わしが今日限り抵当ながれにならなくてはならないわしの土地についてはよく承知なんだ。」

「妾残念に存じます。妾の無力をわたしは悲しく存じますわ。」

「あんたはわしを死ぬやうな目にあはしなすつた。」

「どうか、妾を悪い女にしないでください、あなたのお顔を見てゐると、妾はいまになつてどうしていいか分らなくなつてしまつたのです。」

「万事休す。わしはだまされた。」

 影を失つた、老いた男を横目で見ながらミサコは右肩をかるくゆすつた。生真面目な顔をしたカリタが彼にむかつて、

「お気の毒に存じます。しかし何分相手が女だものですから、あさはかにも欲しい一念から堅い口をききましたのでせう。それでは抵当権はそのまま当方に引うけることに致しませう。値違ひ八千円をもつてお取引いたすことにしまして、私が代理人としてこれから登記所へまゐります。」

 ミサコは二人を送りだすと、(めまひ)を感じたが、そのまま都会の火事の騒音のなかに巻きこまれてしまつた。

 ふたたび、都会がパノラマのやうに彼女の眼前に展けてきた。それとともに彼女は夫の真剣な看護を意識した。

「おい、どうしたのだ。」

「妾、どのくらゐ寝てゐて。」

「いまさつき、アタゴ山のサイレンが鳴つたよ。」

「すると正午だわね。」

「さうだよ、おまへどうかしてゐない。」

 ミサコはいまさらのやうに善良な夫を見つめてゐたが、

「あなた、ナナコはまだ学校を引けないわね。」

「あのおてんばのことは、どうも、俺には分らないよ。」

「ねえ、あなた。妾はいいママだわねえ。」

「あの娘にとつて、お前はいいママかも知れないよ。」と、彼女の夫がこたへた。

 ミサコの二枚の唇が白昼のテーターテイトのなかで溺れた。

「妾はナナコにたいして厳格な精神をもつてゐるわ。でも妾は眼のまはるやうに(せは)しないのよ。妾があの家の土地を買収したのも、妾はこの土地にポール商会のビルヂングを建てるつもりなのよ。それについて妾は二重にも、三重にも金策をしなくてはならない破目になつてゐるのよ。あなた、分つて。妾が流行界の女王になつたらあなたどうするつもり? あんたやはりまへと同じやうに悠々としてゐるの、妾、それをかんがへるとなさけなくなるわ。妾のバッグにいま現金が一万円あるのよ。あなた、この金を月一杯で一万五千円にすることはできない。あなたがそんなに徐々な人だから、妾は一刻だつてぢつとしてゐることはできないわ。妾をとりまく事業と、企画とナナコと、妾の善良な夫のために妾はどんなことでもしてのけるわ。」

 ミサコは歳入のたらない夫の沈黙からはなれると、階下に彼女をおとづれた人々に居留守をつかつて裏口から銀座にあらはれた。

 

   7

 

 太田ミサコにとつて市街は相場の高低表であつた。しかし彼女にとつてこの街は無意味なものの羅列に過ぎなかつた。有閑者がこの街を自分の調査機関のやうにたえまなく往来して、記憶をタイプライターで刷りあげると、不生産的な、非社会的な報告書しかつくれないやうな愚な街であつた。

 だが、彼女はヲハリ町の十字路までやつてくると、中央の「ゴー」「ストップ」と書かれた赤い建札の廻転がはじめて意識的なものを彼女に感じさすことができた。ミサコがスキヤ橋の方向に顔をむけると、ふたたび生きた記録に彼女は接した。A新聞社の電気告知の綴文字が事件をたえまなく運搬した。

『ホンジツヲモツテキンユシユツハカイキンサレマシタ。』

『センダガヤノセウジヨゴロシノハンニンケンキヨサレマシタ。』

『ゾウワイジケンノタメシウヨウチウノ××ハフキソトケツテイイタシマシタ。』

『セイユウカイハツヒニカイサンカイヒウンドウヲステテカンブカイハ、ウンヌン』

 伝書鳩がまた新しい事件をもつて新聞社の楼上にまひ下りた。ラヂオの経済通報が全市にひびきわたつた。ミサコは通りがかりのタクシーに乗るとカブト町に向つて車を疾走さしてゐた。

 東株ビルヂングの石造の大建築が、人物をザンバのやうに呑みこんでゐた。数百の受話器が仲買人たちの耳に瞬間に数千の符牒を発した。踏ものが一巡するごとに、人々がなだれをうつて台場々々をうづめた。そのたびに、黒いつめゑりをつけた行員が矢のやうに場内を駈けまはつた。

 太田ミサコは売あびせのために底値を入れた××新株の反撥を予想して買ひあつめると、雑株安(ざつかぶやす)をねらつて、引たたぬ××百貨店株を後場引値で、これを指名人に買はすとさっさと場内を引あげた。強弱の火華を消して無念無想の境地をもとめて人々が四散した。

 

   8

 

 白いカラーをつけた、黒奴のジヤヅ・シンガーが高層から拡声器に厚い唇をあてて流行歌を唱ひだした。都会に宵暗がせまつて、満艦飾をした女がタクシーを盛り場にとめると、貴婦人気どりで歩道を行つたり来たりした。地下室の踊場では、タキシードの男と、夜会服から黄色い腕をだした踊子とが胸と胸の国境をデリケートな交錯で色どりながら踊った。

 ポール流行品商会の二階の美容室では、太田ミサコが弟子にからだ中に白粉をはたかせてゐた。ひる間商品窓に飾つてあつた、マルセーユの歌劇女のきるやうな華美な衣裳をつけて、白い羽のついた黒い帽子を目深にかぶり、ネロリ油の強烈な蠱惑的(こわくてき)な香をさしてサーカスの女のやうなミサコは高慢な夜を感じてゐた。

 夜の界わいを、極度に断裁された近代娘(モダンガール)たちが、短いスカートと男のやうな乳房と新しい恋愛教科書によつた独立の精神をもつた彼女たちが、キヤバレットとバーと夜の百貨店へくりだした。ホワイトマンによつて教練された女達のなかにまじつて、十九世紀の万国旗に包まれた太田ミサコが船出する。

 一刻後、東京劇場の中央の位置に人々は彼女を見出だした。幕間になると彼女は放蕩親爺の好色眼と、若い男たちの漫然とした不可解な顔と、理智的な侮蔑のなかをクジヤクのやうに満開して、奈落から通ずる楽屋へ座頭(ざがしら)のヤマヂ・マツノスケを訪ねた。マツノスケは彼女を見ると番頭を遠ざけてから云つた。

「やあ、奥さん。驚くべき美しさですなあ。あんたはいつでも僕に女性にたいする懐疑を棄てさせますよ。」

 ミサコはオペラ・バッグから祝儀袋をだすと彼にわたしながら、

「妾はあんたのお世辞をきくともう夢中になつてしまつてるのよ。しかし妾は宣伝はわすれないわ。幕間はあんた、場内の視聴を妾に貸してちやうだい。」

 マツノスケはわざと豪快にわらつてから、

「やあ、有がたう。今夜で千秋らくになると、わつちは関西でふたを開けやすが、あんたはどうなさる。」

 すると彼女の眼が炯々とかがやいた。欲情的に声をふるはせて、ミサコが云ふ。

「それはね、マツノスケ。妾はね。あんたに離れてはゐられぬし、かたがた大阪に急用があつて今夜これから出発するわ。妾、待つてゐてよ。」

「お後をしたつて。」と、頭を掻き乍らマツノスケは苦笑ひして云つた。奈落から拍子木がさえた音をたてた。

 マツノスケに別れると、ミサコはそのまま楽屋口から冷たい街路に出た。

 出発半時間前、中央ステイションのプラット・ホームには、ミサコの夫と彼女の女弟子たち、カリタ夫妻が彼女を見送りにきてゐた。後ればせに小肥な女記者がかけつけてきた。

 ミサコは、小さなワニ皮の旅行鞄に少時の憂愁をかくして、皮手袋を()ると見送りの人と握手をかはした。やがてサイレンが鳴りやむと、夜の急行列車が都会のアーチの門をくぐるやうに動きだした。

 列車が品川を過ぎると、彼女のかたわらに美男のアメリカ人がにこにこしながらやってきた。手品師のウヰルキンスであつた。ミサコが無愛想に云つた。

「ハロー、ウヰルキンス。よくやつてこられたのね。」

「かけおちしませう。ミサコさん。」と彼がなれなれしくこたへた。

 太田ミサコの顔が瞬間、青褪めたが、この計算を愛する女が事務的に男の愛情をためしてたづねた。

「ウヰルキンス。約束のもの持つてきて?」

「五百円、たしかに。」

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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吉行 エイスケ

ヨシユキ エイスケ
よしゆき えいすけ 小説家 1906・5・10~1940・7・8 岡山県生まれ。16歳でアナーキズムの洗礼を受け、ダダイスティックな詩で文学的出発をした。昭和に入り小説に転じ、1930(昭和5)年、新興芸術派倶楽部の結成に参加。上海と日本の間を何回か往復し、エキゾチシズム漂う作風と文体で、特異な作品世界を創出した。しかし間もなく筆を折り株屋を経営するが、1940(昭和15)年に急逝。吉行淳之介の父。

掲載作は「近代生活」1930(昭和5)年2月号に初出。百貨店を近代都市そのものの象徴とし、時代に対する鋭敏な感性が窺え、昭和初年代の風俗を知る上でも貴重な作品となっている。

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