(上)
雨の日が幾日も続いた。工場の多い芝浦の埋立地にも春の雨は柔かな柳の芽を促して、さすがに暢然とした気分を湧かした。芝浦鉄工所のけたゝましい六時半の汽笛を聴いてから、最う三十分と経つた頃だツた、下宿の婆さんは階段の下から味も素ツ気もないやうな声で大石を呼んだ。
『大石さんツたらありやしない。今日も休むんですか。大石さん、何ですね毎晩々々夜更しばツかりする癖に。』
二階からは何の返辞もなかつた。
最一度お婆さんは大きな声を出して、
『大石さん、今日もくたばツてるんですかツて』毒付いて見た。大石は仍何とも応へなかつた。
大石は芝から程遠からぬ郡部の護謨会社の機械職工として毎日お婆さんの宿から通つてゐた。一体彼は小さい時から疳性の負け嫌ひの男であつた。加之に彼はまた天性の機械師であつた。越後の田舎の某鉄砲鍛冶の弟子となつてゐる頃から、当時流行り出したモ−ゼル銃の装填装置を模倣たり、或は自分で鉄輪の自転車を拵えて村人を驚かしたこともあつた。東京に出たのは十六の冬であつた。深川の瓦斯会社に入つたのが彼が蒸気機械を知つた始であつた。先天的に機械的の頭を有つた彼は二三ケ月で一人前の機械師になつた。たゞ彼の欠点ともいふべきは彼の短気と飽きつぽいことであつた。今の護謨会社に来たのは辛と四五ケ月前のことであつた。それでも彼としては辛抱して務めた方であつた。彼は朝の五時から百五十馬力の汽機を動かして夜の十時に芝の下宿に皈るのであつた。
昨日の午後であつた。機械部主任の堀内技師が課長室に彼を呼んだ。
『大石、お前が汽機の方を扱ふやうになつてから脂油と、絲屑が非常に減つて行くが一体どうしたんだい。』
『そりや——、何も私が知つたことぢやありません。脂油はみんなあの汽機が飲んだんでせう。絲屑は汽缶室の後にありますあの埃箱が食つて了つたのでせう。』
『何つ? 馬鹿? 何で汽機が脂油を飲むものか人を馬鹿にしてる』
主任の声は震へてゐた。
『何も私は貴方を馬鹿にしてるんぢやありません。そりや無論以前より脂油も減つたでせう。絲屑も沢山入るやうになつたでせう。ですがね』
『生意気言ふな。何がですがねだ……』
『まあ、待つて下され。脂油も減つたでせう、絲屑も減つたでせうさ。だがね私は人様のやうに会社の金を喰つたり、職工の血を絞るやうなことは致しませんからね』
大石は平然として語り出した。
『汝の今の言葉は何だ。最一度言つて見ろ。叩き出してやるぞ。明日から米櫃があがつたりだぞ』
『主任さん、何も其麼に露骨になつて怒ることはないでせう。私は何も貴方が什うの斯うのと申した訳ぢやないんです。兎も角汽缶室から汽機室の方を一と通り御覧になつたら宜いでせう。調制器が調制器の働きもせず、汽筩からは蒸汽の洩れるやうな汽機がお好みなら脂油も絲屑も入ますまい。』
『何時までもぺら々々饒舌るな』
『饒舌るなつて言ふんなら饒舌りますまい』
『が、言ふだけのことは言はして下さい』
『汝』は最う帰れ。其麼奴は俺ん許には使へない、帰れ。』
『帰れツと仰しやるんですか。はい、帰りませう』
『だがね、主任さん、脂油と絲屑を存分機械に食はせるやうな職工がゐなくツちや会社は成立ますまいぜ。袖の下で金を食ふやうな技師ばツかしぢや今に汽機も錆び着いて了ツて、あの高い煙突には蔦が這いませうよ。はい。さようなら。』
斯うして彼は護謨会社を辞して了つた。
何時もの時間でもない午後の三時頃漂然帰つて来た大石を見た時、下宿の婆さんは、怪訝な貌をして彼を凝視めた。
『大石さんまた喧嘩ですか。』
『また喧嘩だよ、お婆さん。』
『誰となんです。』
『主任の髭とよ』
『堀内さんと?』
『最う解傭たんだよ』
『真個ですか』
『うむ』
お婆さんとの対話はこれでお了ひになつた。婆さんは明日は復たあれでも会社に出るんだらうと思つて、腹の中では例の疳虫発生ツたのだ位に考へてゐた。その夜は彼は遅くまで飲んでゐた。
(下)
翌日のことである。
幾月目かに太陽のある間に銭湯に行つて帰つた彼は、古ぼけた半ば壊れかゝつた手摺にもたれながら雨の音を聴いた。屋根越しに見ゆる深川の煙突やお台場の青い草が雨に煙つて、捨てられたやうな小舟が一本の竹棹に繋がれて、波の胸に揺られながら黒ずんで見えた。沖の鴎が埋立地の草原の上まで翔んで来てはまた沖の方に見えなくなつた。
彼には今日まで落ち着いて物事を考へるといふことはなかつた。自分といふこと、社会といふこと、生といふこと、死といふこと、生れて十幾年ついぞ想察へたこともなかつた、生れてから始めて彼は泌々と自分といふことを想察へた。
『俺は今日から食ふことを考へなければならぬ。昨日までは兎に角会社が俺に食はして呉れた。』
彼は従来色んな会社に勤めて幾度も解傭れたり、或は自分で辞したこともあつた。そして幾日も職を求めて遊んだこともあつた。しかし一度も未だ今朝のやうなことを考へたことはなかつた。
『何処でも俺を傭つて呉れなかったら什うしやう』
斯う想察へて来ると彼は食ふといふこと、言ひ換へて見れば生きるといふことよりも、まづ働くといふことの出来ない苦痛を切実に感ぜずには居れなかった。
『最う八時だ会社の汽機は宜い機械だつた。毎朝飛輪を廻す毎に俺は思つた。彼麼に具合の宜い機械は他にはありやしないよ』
大石は今朝つくづくと食を獵つて得ぬ人の不安を感じたが、それも何時の間にか消えて了つて、幾年来親しんだ汽機の滑動や飛輪の噪音か懐しくなつて、辛と頭を擡げかけた食うといふ事や、生きるといふやうな事や、傭口のない杞憂などは煙のやうに滅えて了つた。
『俺は什うしても脂油の香と、機械の活動の中に生きてる人間だ。俺は行かう。そうだ深川の方に行つたら傭つて呉れるだらう。』
彼は褞袍を浅黄の労働服に着替へた。
『其麼風で何処に行くんです。御飯をお上んなさいな』階段を下りた時お婆さんはお世辞笑をして言つた。
『あ、ありがたう。僕ね鳥渡深川まで行つて来るから。』
朝飯も食はずに彼は芝の往来を源助町の方に行つた。
『俺は今度は千馬力位の汽機が使用つて見たいな。』這麼ことを繰り返しながら街を急いだ。
朝来の小糠雨は終日竭まなかつた。
その日の午後浅黄服の一人の男が深川△△△造船工場の前に立つてゐた。