悪魔祈祷書
いらっしゃいまし。お珍しい雨で御座いますナアどうも……こうダシヌケに降り出されちゃ
いつも御
どうもコンナにお涼しくなりましてから、
失礼ですが旦那は東京のお方で……ハハア。東京の大学からコチラヘ御転任になった。○○科にお勤めになっていらっしゃる……成る程。コンナ時候のいい時は大してお忙がしく御座んせんで……ヘヘ。恐れ入りやす。開業医だったら大損で……まったく大学って処は有難い処で御座いますなあ。
実は私もコレで東京生まれなんで。
ヘェヘェ。そりゃあ、この××クンダリヘ流れて来るまでにゃガラ相当の苦労も致しやしたよ。途中で
コンナに降りますと、お客様もお見えになりませんな。いつ来て見ても、お客様が一人立ってお出でになる古本屋なら、大丈夫立って行くものです。ですから一人もお客様がお見えにならないと手前が自分でサクラになってノソノソ降りて行きまして、本棚なぞを整理致しておりますんで……これがマア商売のコツで御座いますナ。つまりその一人立っている人間が店の
ヘエヘエ。それは面白いお話も御座いますよ。ツイこの間の事……高等学校の生徒さんがゲーテの詩集を売りに見えましてね。ほかの参考書や何かと一緒に十冊ばかりを三円で頂戴いたしましたが、そのうちでも、ゲーテの詩集が特別に古いようですから、あとでよく調べてみますとドウです。千七百八十年に
「コンナ下らない詩集なんかモウ読んで遣らないぞ」
てんで地面にタタキ付けた。それから又拾い上げて先の方を読んで行くうちに、今度は三拝九拝して涙を流しながら、「ゲーテ様。あなたは詩の神様です。私は貴方のおみ足の泥を
とか何とか言ってオデコの上に詩集を押付けたってえ話が残っている。それがこの本に違いない。独逸人に持たせたら十万マークでも手放さないだろうテンデ、アトから中江先生が説明して下さいましたがね。お人が悪うがすよ中江先生は……ハハハ。もっとも私もこの本は東京へ持って行きゃあ汽車賃ぐらいの事じゃなさそうだ……ぐらいの事はカン付いていましたがね。欲をかいたって仕様が御座んせん。
ヘエヘエ。今度ソンナのが出ましたらイの一番に先生の処へ持ってまいります。大学の○○科で……ヘエ。助教授室……ヘエヘエ。
ヘエヘエ。法文科の中江先生ですか。よく手前どもの処へお見えになりますよ。古い本をお探しになるのが何よりのお楽しみだそうですね。いいお道楽ですよマッタク……
御覧の通り手前共では、学生さんが御相手でげすから、横文字の書物なら全部、大きく原書と書いて貼札をして同じ棚に並べて置きますので……ところがこの間ウッカリ、
CHOHMEY KAMO'S HOJOKY
って書いた奴を、何だかよく判らないでパラパラッと見たまんまに原書って書いた札をデカデカと貼って二円の符牒を付けて置きましたら、中江先生がソイツを棚の中から引っこ抜いてお出でになって、私の鼻の先に突付けて、お叱りになったものです。
「しっかりしてくれなくちゃ困る」
てえ御立腹なんで……成る程、よく読んでみますと鴨の長明の方丈記の英訳なんで。ハッハッハッ。ドッチが原書なんだか訳がわかりませんや。まったく恐れ入りましたよ。方丈記の英訳の中でも一番古いものだからと仰言って二十円で買って頂きましたよ。ゲーテの詩集の埋合わせをして頂いたようなものでヘヘヘヘヘ……。
まったくで御座いますよ。そのまま二円で買って行かれたって文句は御座いません。中江先生みたいなお方ばっかりだったら、苦労は御座んせんが、タチの悪いお客もずいぶん御座いますよ。ソリャア……一冊丸ごと立読みなんて図々しいのはショッチュウの事なんで、その又読み方の早いのには驚きますよ。店の本の上に腰をかけて、足の下を吸殻だらけにしいしい一冊読んじゃってから、私の処へ持って来て、
「オイ君。この本一円きり負からないのかい。大して面白い本でもないぜ」
なんて顔負けしちゃいます。大きなお世話でサア……文科の生徒さんなんかは、試験前にチョイチョイ来て、アノ棚の上の大きなウエブスターの辞書だの
もっと非道いのがありますよ。丸ごと本を持って行ってしまうんです。つまり万引ですね。しかもその万引の手段てえのが、トリック付きなんですから感心しちゃいまさあ。
自分で一冊か二冊、つまらない別の本を裸で抱えて、
ええ……そりゃあ一時の出来心もありましょうが、ズット前からの出来心も御座いましょうよ。何しろ修身のねえ学校の生徒さんでゲスから油断も隙もありゃあしません。コンナ手を矢鱈に使われちゃ遣り切れませんや。
しかもソレが脛っ噛りの学生さんばっかりじゃ御座んせん。相当の月給を取ってお出でになる修身の本家本元みたいな立派な紳士の方が、時々この手をお出しになるんですから驚きますよ。ヘヘヘ。大学の先生方もチョイチョイお見えになります。こちらの達人の方もお出でにならないじゃ御座んせんが、なかなか鮮やかなお手付のようです。ヘヘヘ。まさかお修身の代りに
もっともソンナのは大抵御本好きの方に限るようですね。珍しい本と思えば
面白いのは、その万引した本を持って帰って読んでしまってから、ソッと返しに来る人があるのです。御承知の通りこの頃の小説本と来たら、昔のエライ連中が書いたのと違って、一度読んじゃったら二度と読む気になれないものが多いらしいんです。又は持って帰って読んでみると大した本でも珍しい本でもなかったらしいんですね。ですから何も良心に
ヘエヘエ。そりゃあ、まったく返って来ないのも随分ありますよ。そんなお顔はコチラでチャント存じておりますがね。そこが商売冥利って奴で、黙って知らん顔をしております。元値を考えたら大したもんじゃ御ざんせんしね。ショッチュウ気を付けてケースの中味が在るかないか調べなくちゃならないのが面倒臭い位のもんでさ。そうして中味が変っているか抜けているかしている本の前に立っておられた方を、あの方、この方と思い出しているうちに、だんだんお人柄がわかって参りますから不思議なもンで……この間コンナのがありましたよ。これは又物スゴイ、素敵な本でしたが……。
××医専の生徒さんが夏休みに持込んで御座った本だったと思いますがね。本人は××の××の方で、先祖代々から伝わって来た聖書だと仰言ってね。一冊三円で頂戴いたしましたが、例の通り店番の片手間にここに坐ってよく調べてみますと驚きましたね。チョット見ると活字みたいですが、一六二六年に英国で出来た筆写本なんです。紙が又大した紙でね。日本の百円札みたいなネットリした紙にミッチリと書き詰めたもので、黒い線に青と赤の絵具を使った挿絵まで入っているんですから、それだけでも大層な珍本でげしょう。
ところがソレだけの事なら私も格別驚きません。金さえ出せば日本内地でも、相当にお眼にかかれるシロモノなんですが、肝を潰したのは、その聖書の文句でげす。あれが悪魔の聖書とでも言ったものでしょうか……これこそ世界中にタッタ一冊しかないと噂に聞いたシュレーカーの BOOK OF DEVIL PRAYER(
へエ……先生はソンナ
ヘエ。表紙はズット大型の黒い皮表紙なんで……HOLY・BIBLEと金文字の刻印が打込んで在って、牛だか馬だかわかりませんが、頑丈な生皮の
ヘエヘエ、むろんそうですとも。その学生さんは何も知らずに普通の聖書と思って売りに見えたに相違御座んせん。聖書なんてものは信心でもしない限り滅多に読んでみる気がしないものですし、その本を持ち伝えた先祖代々の人も、それがソンナ本だって事を言い伝える事も出来ずに、
中味の読出しは、みんな細かい唐草模様の花文字で、途中のチャプタの切り工合から中みだしなんかスッカリ
「われ聖徒となりて父の業を継ぎ、神学を学ぶうちに、聖書の内容に疑いを抱き、医薬化学の研究に転向してより、宇宙万有は物質の集団浮動に過ぎず、人間の精神なるものも又、諸原素の化学作用に外ならざるを知り、従って宗教、もしくは信仰なるものが、その出発点よりして甚だしく卑怯なる智者の、愚者に対する瞞着、詐欺取財手段なるを認め、地上に於て最真実なるものは唯一つ、血も涙も、良心も、信仰もなき科学の精神を精神とする所謂、悪魔精神なる事を信じて疑わざるに到れり。わが生まれ
歴代の羅馬法皇、その他の覇者は皆この悪魔道の礼讃実行者なり。万人の
全世界の人類よ。皆、虚偽の聖書を棄てて、この真実の外道祈祷書を
と言ったような熱烈な調子で、人類全般に、あらゆる悪事をすすめる文句がノベタラに書いて御座います。私はそれを読んで行くうちに、自分の首を絞められるような気持になってしまいましたよ。
その耶蘇教の
「神は弱者のためにのみ存在し、弱者は強者のためにのみ汗水を流し、強者は又、悪魔のためにのみ生存せるもの也」
「世界の最初には物質あり。物質以外には何物もなし。物質は欲望と共に在り。欲望は又、悪魔と共にあり。欲望、物質は悪魔の生まれ代り也。故に物質と欲望に最も忠実なるものは強者となりて栄え、物質と欲望とを最も軽蔑する者は弱者となり、神となりて亡ぶ。故に神と良心を無視し、黄金と肉欲を崇拝する者は地上の強者也。支配者也」
「強者、支配者は地上の錬金術師也。彼等の手を触るるものは悉く黄金となり、黄金となす能わざるものは、悉く灰となる」
「黄金を作る者は地上の悪魔也。彼等の触るる異性は悉く肉欲の奴隷と化し、肉欲の奴隷と化し能わざる異性は悉く血泥と
と言うようなアンバイです。
ですからこの悪魔の聖書では、旧約の処が「人類悪」の発達史みたいになっておりましてね。アダムとイブが、神様を信心し過ぎて肉欲を軽蔑している間は、子供が生まれなかった。それから蛇によって
……エジプトの王様は代々、自分の妻を一晩毎に取換えて、飽きた女を火焙りにして太陽神に捧げたり、又は生きたままナイル河の水神様の鰐に喰わせたりするのを無上の栄華として楽しんでいた。
……ペルシャ王ダリオスの戦争の目的は領土でもなければ名誉でもない。捕虜にして来た敵国の女に対する淫虐と、敵国の男性に対する虐殺の楽しみ以外の何ものでもなかった。彼は戦争に勝つ
……
……露西亜の
……こんな調子で世界を支配するものは神様でなくてイツモ悪魔であった。一切の科学の始まりは神様の存在を否定し、人間をその良心から解放するのが目的で、同時に一切の化学の始まりは錬金術であり、一切の医術の始まりは堕胎術と毒薬の研究でしかなかったのである。
……吾々は歴史に
……「この世の中の事は何もかも神様の
……そこでその当時ユダヤでも一番の名優であったヨハネと言う爺さんを雇って来て、この基督教のチンドン屋を遣らせてみたがドウモうまいこと行かない。そこでその次に出て来たユダヤでも第一等の美男子のイエスという男優と、ユダヤ第一の美しい女優のマリアと言うのを取組ませて、この宣伝を街頭でやらせてみたらコイツが大々的に大当りを取ることになった。
(三十行削除=原作に記)
……と言ったような調子で旧約聖書の文句が済みますと今度は新約でゲス。
……つまりそのデュッコって言う僧侶が聖書の中で基督に成り代って言うのです。
「吾は悪魔の救世主なり。皆吾に従え」ってんで、自分が先祖代々から受け伝えて来た悪魔の血すじを、系図みたいに書並べたのがソノ新約の書出しなんで、それから自分が虫も殺さぬ宣教師となって明暮れ神の道を説きながら、内心では悪魔の道を信仰して、女を殺したり、金を巻上げたりして来た恐ろしい悪事の数々を各章に分けてサモサモ勿体らしく書立てて在るのです。人間は神様と良心を蹴飛ばしちまえばドンナ幸福でも得られる。自分の師と仰ぐものはイエス・クリストじゃない、悪魔に魂を売った独逸の魔法使いファウストだってんで、ありとあらゆる科学的な悪の遣り方が、自分の体験と一緒に、それ相当の悪魔式のお説教を添えて書いてあります。
(四十七行削除=原作に記)
それから一番おしまいの詩篇の処へ来ると、極端な恋歌ばっかりですね。それでマトモな恋の歌なんか一つもないので、邪道の恋、外道の恋みたいなものを讃美した歌ばっかりなんで、呆れ返ったワイ本なんですがね……へエ……。
ナ……何ですか……その本が何処に在るかって仰言るんですか……ヘヘヘ。それが又面白いんです。
今も申します通り、その聖書は、ちょっと見た処、古い木版みたいな字の恰好ですからね。
ところがこの三月ばかり前のことです。驚きましたよ。いつの間にシテヤラレたものですか、その聖書の中味がスッポ抜かれちゃって、
あそこは店の中でも一番暗い処で、私が珍本と思った本だけをソーッと固めて置いとく処ですからね。あそこに来てジイッと突立ってお出でになる方はイッモ大抵きまっているんですからね。持ってお出でになった方もアラカタ見当が……。
オヤッ……先生のお顔色はドウなすったんです。御気分でもお悪いんですか……ヘエ。ヘエッ……これは三百円のお金……今月のお月給の全部……私に下さるんで……ヘエッ……あの聖書のお手付け……千円の内金と仰言るんで……これはどうも恐れ入りましたナ。あの本は先生がお持ちになったんで……ヘエ。それはドウモ何ともハヤ……ヘエヘエ……何と仰言る……。
ヘエエ……今年の春から先生の奥様にピアノを教えにお出でになっている音楽学校出の若いピアニストの方が、あの本を偶然に御覧になって、大変に珍しがって借りてお出でになった。先生もその時までは普通の聖書と思って何の気もなくお貸しになった。ヘエヘエッ……ド……ドッ……どうぞおち着きになって……お落ち着きになって……お静かに……お静かに……御ゆっくりお話下さいまし……ナナ……なる程。ヘエヘエ。
それから一週間ばかり経って、奥様が流産をなすった……妊娠三ヵ月で……成る程。お医者様の御診察ではその前にお二人で××にドライブをなすったのが悪かった……ナル程。あの国道はこの頃悪くなりましたな。無理は御座んせんよ。自動車が矢鱈に殖えましたからな。県の土木費はモトの通りなのに……まだある。ヘエ……。
タッタお一人のお坊ちゃんが、牛乳ばっかりで育ててお出でになったのが、四、五日前に急にお亡くなりになった。食餌中毒という診断だが、怪しいと仰言るんで……ヘエ。ドウ怪しいんで……ヘエ。あの本を借りて行かれたピアノの
ワッ……先生ッ。チョチョチョ、チョットお待ち下さい。チョットチョット。いいえ放しません。チョットお待ち下さい。血相をお変えになって何処へお出でになるんで……ナ何ですって……。そのピアノ教師をお訴えになる。あの本を取返して使った毒薬を発見して遣る……ま……ま……待って下さい。……ト……飛んでもない事です。まあお聴き下さい。落ち着いて……とにかくここへ今一度おかけ下さい。私のお話をお聞き下さい。御事情は私が見抜いております。事件の真相は私がチャンと存じておりますから、残らずお話致しましょう。
飛んでもない事ですよ、先生ソレは……。もし先生がソンナ事をなされますとあの本を何処から手に入れたと言う事が、警察でキット問題になりますよ。その時に私が警察へ呼ばれまして正直の処を申立てましたら、先生の御身分は一体どうなるんですか。
ハハハ。それ御覧なさい。まあまあモウ一度ここへお掛け下さい。このお茶の熱い処を一服めし上って下さい。私が何もかもネタを割ってお話致します。モトを申しますと何もかも私が悪いのです。
ソ……ソンナにビックリなさることは御座いません。コレ……この通りお詫びを申上げます。何もかも私が悪いので御座います。ヘエヘエ。この通りアヤマリます。どうぞ御勘弁を……。
何をお隠し申しましょう……ただ今まで私がお話致しました事は、みんなヨタなんです。出鱈目なんです。根も葉もない作り話なんでゲス。ハハハ。
あの御本はヤッパリ普通の聖書なんです。もちろん一六八○年度の英国の筆写本なんでゲスから相当の珍本には間違い御座んせん。三百両ぐらいの
実は先生が、大学でも有名な御本集めの名人でお出でになる事を、法文科の中江先生からズット以前に伺っておりました。今度、○○科へ本集めの名人が来たぜ。あの男は東京にいる時分から俺の好敵手で、どうして集めるんだか判らないが、俺の狙っている本を片端から浚って行ってしまいやがる。あの男が来ると俺の道楽は上ったりだ……ってね。よくソウ仰言っておられましたよ。
……ですから実はソノ……ヘヘヘ。先生があの本をお持ちになった時も私はよく存じておりましたからね。そのうちに奥様にでもお代を頂戴に行こうかと思っております処へ、今日ヒョックリ先生がお見えになる……トタンに今の夕立で御座いましょう。店には格別お珍しいものも御座んせんし、先生も雨上りをお待ちになってお出でになる御様子ですし、私も朝から店に坐っていてすこし頭がボンヤリして来たようですから、ツイ退屈凌ぎに根も葉もないヨタ話を一席伺いました訳で……若いうちにナマジッカな学問をしたり、
ヘエ。モウ降り止んだようで御座います。だいぶ明るくなって参りました。明日はお天気になりましょう。
ヘイ。御退屈様。毎度ありがとう存じます。ドウゾ奥様をお大事に……。
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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