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本の話

  一

 

 私の義兄(あに)、白石淳之介はその年の二月一日、静かな晩、神戸市外のK病院の一室で五十八歳の生涯を閉じた。喉頭結核であった。病名は喉頭結核であったが、事実は栄養失調死であった。自ら自身の肉を削り血を()らしてずかずか死の方へ向って歩いて行くという死に方であった。戦災でそれ一着しかない、教壇に立つにも炊事をするにも買い出しに行くにもそれ以外に着るもののなかった草色の国民服をきて、胸のポケットから炊事用のマッチをのぞかせ、二つ折りにした夏ざぶとんを枕にして横たわっていた。

 私は寝台の鉄棒に頭をおしつけ、時々遠くに水の走るような音をきいていた。病室の天井のテックスが二枚はがれ、鉛管が二本のぞいていて、水はそこを走るのかもしれなかった。

 

 前々日、私が東京で受け取った白石からの電報というのはノドワルシ、クスリモツテキテクレ、という不思議な簡単なものだった。ノドワルシとは何のことかよく考えられなかったが、何をすてても行かなければならない局面に達したことだけは感じられた。それは九月に私は姉が悪いという知らせを受けていた。私はその時すぐにも行く筈であった。風水害の時、戦災の時、度々の病気の時、それまでにも何度かそういう知らせを受けて行かないことはなかった。しかし今度だけは事情がちがっていた。終戦以来の変り方によって経済の根拠を失っていたということだけでなくゆきつまった家庭生活の変革を実現する準備として私は小さい子供二人をつれ碑文谷(ひもんや)の友だちのアトリエを借りうけ新らしい生活を築こうとしている矢先であった。食べるもののない日もお金のない日も味わった。それは初めての経験で、私にはせい一ぱいの生き方だった。今こそ私もいたわられてもいいという気もちがあった。それに一方、姉の闘病についての専門家ぶりには私はかなりの信頼を持っていた。きっとまたこの病気もうまく切り抜けてくれるに違いないというような心の手ごたえを感じ、その手ごたえに頼って一日のばしに関西行きをのばしていたというのが本当のところだった。だからノドワルシという電報はいきなり胸に来るものがあった。私はお勝手から家政婦の下駄を借りて駆け出し武石公子(きみこ)に電話をかけに行った。他に咄嗟(とっさ)に浮ばなかったからだ。公子にはひと言ですぐに通じた。電話口で考えているようだったが、一万円でいい、と云うのでそんなになくてもいいわ、と云ったが、その日のうちに手配をしてくれたと見えて、翌日の夜自分で切符と急行券とおかねを持って八重洲口に来てくれた。公子は日本橋の薬品会社の専務であったが、自身では昔からいつも貧乏していた。何か売ったんじゃないの、と訊くと、しょがない、あの小さい方のブラック売ったわ、と云って急にすこし惜しそうな顔をした。ピアノの上の壁にかけてあったその静物を、どんなに公子も私も気に入っていたかわからないのだ。私はその絵が剥がされた後の白い壁を思い(うか)べ、自分の胸から何か引き剥がされたような痛みを感じた。私は何だか涙が出て来そうなのでろくにお礼も云わず、丁度動き出した行列について歩き出し階段をかけ上ってしまった。

 そのようにして義兄(あに)臨終(りんじゅう)に間に合ったのだった。何か心に急ぐものをかんじてはいたが臨終に間に合うというようなことは頭の隅っこにもなかったし、病人は姉だとばかり思っていた私には、その姉を看護していた義兄が重態に陥っているなどとは考えも及ばなかった。私は呆然(ぼうぜん)としてしまった。二人は病んだ老鳥のように(よこた)わっていた。

 私がそばに寄って行くと義兄(あに)はびっくりするような細い手を出して私の手を握り、じっと眼を見開いて何か云おうとした。声は出ず、その手に()められた異常な力と、大きく見開かれた眼球が義兄の意志を伝えていた。

「おそかった――もうだめ――どうして早く、来てくれなかった……」

 奥の方で鳴っている、小さな音だった。こんなになるまで、一度も来てほしい、と云っては来なかったのだ。云わなくても来ると信じていたのだ。瞬間、私は何十年もの間、私たちの間柄が信頼によって結ばれて来たことを確認し、最後の瞬間に私がそれに(そむ)いたことを知った。

 あまりのむざんさに、哀しみより(いきどお)ろしさでいっぱいになり声も出なかった。

 義兄は手の力を抜き、眼をとじ、ききとれないくらい低く、

「いや、――もういや。」

 と呟いた。ああこの一ことを言うために義兄は私を待っていたのだと思えるくらい、それは重たく、哀切な響きを持っていた。私以外の誰に彼はそれを云うことが出来たろうか。急に、()き出すように涙が出て来、喰いしばった歯の間から声がもれた。

 義兄が何か云っている。

「勉強しているの……」

 私は子供のように素直にそれにうなずくことが出来た。それから顔を拭いて私もお金に困っていたこと、今度の家につれて来ている小さい子供がジフテリヤで入院したりしたことを話した。彼はよしよし分ったというような顔になり、

「可哀そうに――」

 と云った。私が(むさぼ)るように義兄の顔に見入っていると、一こと二ことはき棄てるように、

「学問だけ出来ても何にもならん。」

 と云った。私が驚いて見ていると、もう一度また先程の大きなキラキラ光る眼になり、

「毎日リンゴを七十円、さしみを××円、優子に毎日白身の魚をたべさせた、便器が二百円……」

 と云った。それも私にだけきいておいて貰いたいことなのだった。それから彼は眼を閉じ発作のためもう一度眼を開いた時にはもう言葉を云うことが出来ず、そのまま決して醒めることのない眠りについてしまったのだった。医者も看護婦も間に合わなかった。

 家政婦をひきとらせ、夜が明けるまで亡骸(なきがら)を守った。

 ねずみが多分毎夜の仕事なのだろう、枕もとの台の上に現れて米の袋をねらう。鹿のように首の長いねずみを、私は衛兵のように追い払った。

 夜が明けると義兄を慕っていた学生たちが来た。レスリング部の大きな六尺近い学生が顔を赤く泣きはらして屍体の処置されたあとの衣類や身のまわりのものを始末していた。可愛い息子のようであった。その学生の口から義兄のサン・ジュリアン・ロスピタリエのような半歳の苦しみの道が語られた。九月、姉があばら骨が一本一本かぞえられるようになった時、「よし僕の肉をとってつけてやろう」と云って毎日リンゴ、さしみ、果汁、新らしい鶏卵など姉の口に合う栄養物と云えば何処(どこ)まででも行って買い求めて来た。三千円にたりない大学教授の給料では彼自身に残されたものと云っては配給の粉と(いも)よりほか何もある筈はなく、義兄は誰の眼にもはっきり分るほど急速に痩せ細り、衰えて行った。それでも人手を雇わず、学校の講義は十一月末迄一度も休まずに続け、教壇でたおれそうになり強制的に病妻と同じこのK療養所に収容されるまで、学生同僚の救援を固辞し、親戚知人にも語らなかったのである。義兄の死の枕もとにあった白い美しい米粒は彼が病妻のために残したもので、最後まで彼自身の養いとすることを拒んだものであった。

 K療養所は松林をきり開いて山の上に建てられていた。義兄の(ひつぎ)が療養所を出るとき、激しい(あられ)がふりはじめ、展望をかき消し、私の髪の毛や襟巻にも白くとまった。その白さを見ているうち私はふと足許があやしいなと感じ、急にあたりのものが一せいに遠のいて行くような気がした。学生がすぐ寄って来て両脇から私を支え、自動車のところまで運んでくれた。

 

  二

 

 私の前にただ一つの、不思議な、苦しい道が開けていた。

 私は姉の寝台のそばで日夜、肉親というものについて、生命について、生命への執着について、愛情について考え(ふけ)った。

 姉の生命はつづいている。それ以上細くなりもしなければ太くなりもしない命の道を、ゆっくりと歩みつづけているようにみえる。それは私の心づかいと家政婦がいろいろな栄養物を(こしら)えてくれることによってささえられている。蓮根、リンゴ、大根、にんにく其他を食事ごとにおろしがねでおろし、布巾(ふきん)で絞り、黒焼にして卵の黄身を与え、新らしいさしみ、ほうれん草、その他幾皿もの副食物をつくり、二合の牛乳、七個のみかん、クリーム菓子、もなか等をたべさせることによってそれは持ちこたえられている。

 こうして有金を使い果し、売れるものを売りつくす間、姉は生きていてくれるであろう。義兄が自らの躯を削って姉を看護し(たお)れた道を私も同じように歩き、斃れればよいのかもしれない。しかし私がすべてのものを売りつくしてみすぼらしく姉の傍で第二の犠牲者となった時、一たい誰がこの悲惨な運命の後継者となって、姉を()とりつづけるであろうか。姉、この姉をもう私以外に一人でも愛しているものがあるであろうか。その私の愛情でさえも少女時代の仲のよかった思い出となつかしい母を共有した肉親の故であって、(ある)時期以後の姉の生活態度にはすこしも同感することが出来なかったではないか。自身の療養のスケジュールの完璧さを少しも崩すことなく現在の良人(おっと)のそのような骨身を削る苦闘に変貌して行くさまを見ていることが出来たということに、私は恐怖をかんずる。姉に与えるばかりで自分は何一つ与えられることなく死んでいった義兄を思うとき、私は市中をかけずりまわって高価なびんづめやかんづめを姉の枕もとへ運ぶ自分に恐ろしさをかんずる。姉がそれを求め――(かつ)て義兄に求めたであろうように求めれば、私はいくらでも運ぶであろう。ただその時でも姉が自分から求めるのでなく、私の心づかいから探すのであったら、どんなによかったろう、と思うのだ。与えるという精神を忘却した人の姿ほど哀れなものはない。私の家の子供たちの一人もこの姉には(なつ)かず、義母も、義兄の姉妹も、この姉を憎んでいるのだ。それはローソクの灯を人のそれにうつすように愛情の灯を人の心に(とも)さなかった生涯の果てではなかろうか。

 このような哀しい姉を私はどうしても見すてることは出来ないのだった。その一日も永く生きのびたいと思う心に添わずにはいられないのだった。このような生涯はあまりにも悲惨すぎる。このままで死なせたくない。――肉親というものの不思議さであった。不思議な妄執(もうしゅう)のようなものであった。姉の食事のすすむ日は私も心に張り合いがあり、姉の食慾が衰えると私も食物が喉を通らないような気がするのだった。

 私の心は三つにも四つにも分れ、暖流と寒流のように交錯した。義兄のあの眼球にはりつくほど落ち窪んだ(まぶた)やいたましい頬、それから、胸。姉はあの生々しい思い出とどのようなつながりでまた刺身をたべクリームをなめるのだろうか。私自身がそれを一箸、一さじ口もとへ運んですすめながら、心は苦しさでいっぱいになって行った。そしてまた、弱々しく病み(ほう)けて一寸(ちょっと)した衝撃にも潰れてしまいそうな姉にこうした嫌悪をひそかに抱く自分のきびしさをこわいものに思った。羽根をむしられた鳥のように、子供もなく五十をすぎて孤独となった、(うつ)ろな肺と(もろ)い精神よりほかに何一つもたぬ病人に対して、このような批判を加える自分が、人間の身分をとび越えた思い上ったもののように思えて哀しかった。

 要するに姉の闘病は続いていた。つづいている間、それはつづけなければならないものであったし、そのためにすべてのことが賭けられなければならない性質を私にとってそれは持っていた。療養所の庭の四五寸伸びた麦畑に寒い冬の風が吹いているのを見ながら、私はお金のことを考えていた。義兄とはちがった道はないものか、と考えた。たしかに、この世の中にはお金を儲けている人達がある筈だ。それはどうしても私に出来ないことだろうか。月に二万円の収入を得て初めて療養生活は確保されるので、しかもこの必要は三年も五年もつづくかもしれないのだった。

 二月七日、校葬のため参集した且ての義兄の教え子のなかに出て来た蜂須賀五郎兵衛という文字通り童顔純情の偉丈夫がいた。式後、山をのぼって療養所を見舞い、涙にくれ、男泣きに泣き、私を物蔭に呼んで、大きい紙袋とお金の束を出し栄養をとらせてあげて下さい、この品は僕のところで作っているものです、と云った。お金は三千円、包みの中はだしじゃこで二貫目ほどあった。――

 卒然として私はこのだしじゃこのことを思い(うか)べた。だしじゃこを蜂須賀さんから仕入れて売るとしたらどんなものだろう、と思いついた。この考えは大変な飛躍であったが哀しい気もちはしなかった。だしじゃこについて考えを纏めて行くうちにだんだん勇気さえ出て来た。

 だしじゃこは愛媛県の産物で非常に上質であった。消耗品で必要品に近く、量も大小売り易いものであるから値段さえ適当であればつづけて売ることが出来るのではないか、と思った。店など(こしら)えないで、持ちまわって売るのだ。殆んどどんな家庭へもすすめられる。まず仙貨紙で大小の袋をはり(お隣りの学習院へ通っている子供たちを動員する)家の子供たちに木版を刷らせ、五郎兵衛じゃことでも書き、のしを赤で右肩に押し、五十円百円の包みを拵え、市販の同類品の目方を参照して中身を入れる。純益二割位は確保できるであろう。十万円売れば二万円出来るわけだ。食品会社をやっているMさんや社会事業家のKさんも相談にのってくれるに違いないと思った。それから武石公子と棟方利一にはどうしても中心になって働いて貰わなければならないと思った。私は東京の友だちや知り人の顔を一人ずつ思い泛べた。誰も彼も貴族的な構えを持っていて、だしじゃことの対照は奇妙であったが、誰でも一袋や二袋買ってくれないことはないような気がした。軽蔑する人もあるかもしれないが、私がこうしなければならないわけを知ってくれれば皆賛成してくれそうに思えた。いよいよいけなければ有楽町の橋の上で売ってもよいのだし、これは碑文谷の家に来る家政婦の北畠さんが上手らしい。

 次々と色んな場面を考え、難関やそれに打ち克って行く道を考えていると、こんなすばらしいことはないような気がして来た。だしじゃこ。これはたしかに私の書く童話より味があって、人にもすすめられる有力なものであった。

 私は蜂須賀五郎兵衛に手紙を書き、それから武石公子と棟方利一に手紙を書いた。三通の手紙をコオトの袂ヘ入れて松林の道を抜けて四十分かかるS川の郵便局まで速達を出しに行った。雪や(あられ)が降る中を何度も歩いたこの道も、今日は春が来たような暖かさで、空の色や麦畑を(けむ)らせている美しい陽の色を見ていると何処かに楽しいことでもありそうな、浮々した気もちになった。私は棟方利一のことを考え、利一とでもこの道を一緒に歩いていたらどんなにいいだろうと思い、利一と二た月会わないことを思い不意に涙ぐみそうになった。利一にこれで三度も手紙を書くのだが一通も返事が来ない。利一から頼まれた童話を書かないから怒っているのではあるまいか。棟方利一とは去年の夏彼が私のところへ五枚の童話を頼みに来たときからつき合っている。彼は彼の云い方によると、東京で一番小さい子供雑誌の一番下っ端の記者、だった。それでも去年の夏から三篇私の童話をのせてくれた。夏も冬も同じ一枚の外套(がいとう)をプワプワ着て歩いている。あれはきっと東京で一番きたない編集者なのだろう。今度関西へ来ていろいろな青年に会ったが利一のような人には一人も会わなかった。関西という土地は美しく、何か特別に活動的なものを持っているが、不思議に心にふれてくるもののないところなのだ。人はみな、私に親切で愛想よくしてくれるが、例えば利一のように深いところで心に触れてくるようなものが全くない。私はここへ来てだんだん孤独である自分に気づき、利一を渇望している自分をかんじた。それは、危険なくらいであった。三四日前のこと、利一に約束した童話があるので、私は狼の話を書いた。それは、姉のいるK療養所の第四病棟は遠く、松林の丘に孤立していて、下界から全く逸脱した感じが好きだったが、そこに狼が出るという話は申分なく私を()きつけた。私は子供の頃読んだ虎や熊の生活、カンガルーの生活を思い出し、人間のために次第に()む場所をせばめられてゆく狼どもの心持がよく分るような気がし、女のジャーナリストが一ぴきの狐に変身して狼とインタービュウする話を書いたのだった。ところがその狼の話し方が全く利一の口調に同じになってしまったので、私は顔が赤くなるような気持で破いてしまったのだった。

 私は郵便局に行き手紙は一通だけ出し、公子と利一の分は出さなかった。一度東京へ帰ろう、だしじゃこのことも会って話さなければ駄目だと思った。それに東京にいて時々顔を合わせてさえいれば何でもないのに、こんなところに来てまるで恋人のことをでも考えるように利一のことを考えているなんて、莫迦(ばか)げているし無意味なことだ、と思った。

 その夜私は姉が寝入ったすきを(うかが)い療養所を抜け出した。あにが勤めていた学校の庭にミモザが咲いていたことを思い出し、それを盗みに行こうと思ったのだ。山裾の畑道を学校の方へ歩いて行くと黒々と海をふちどったN市の燈火が火の粉を散らしたように見えた。裏門から校庭へ入って行くとユーカリやさわらや(ひのき)などが枝をさし交して星空を(さえぎ)り、まっくらで何も見えなかった。私は手さぐりで一本一本下枝をさぐり、柔い群花の手ざわりや匂いをさがしたがもすこし粗くて痛い葉を何度かつかまねばならなかった。だがとうとうその粗い葉の小枝の中にかくれているカナリヤの胸毛のようなミモザの花をつかまえた。顔をもってゆくとつつまれるような懐しい匂いが胸をひたした。恰度(ちょうど)この季節、南仏リヴェラの野山一めんにむせる程の香りを(ただよ)わせて咲いていたこの花は、今の私にはすべての懐しいものの身代りのように思えた。私がきれいな一本の枝を()ぐりよせようと爪先きだった時だった。足許から私を驚かせて何かがバサッと飛びたった。不安げな羽搏(はばた)きは眼の見えない夜鳥であった。

 私は一本のミモザの枝をかかえ、二十九年義兄の精魂がそこにあった美しい校庭に別れをつげた。

 ミモザは病室の片隅の瀬戸の水差しにさして東京に帰った。

 

  三

 

 だしじゃこの話はしかし簡単なことでけりがついてしまった。蜂須賀五郎兵衛から返事が来て、だしじゃこが統制品であることが分ったからである。蜂須賀五郎兵衛はその代りに寒天の販売をすすめて来たので、私はそのためにもう一度関西まで出向いて行ったが、それも簡単な故障のために挫折してしまった。しかしこの時私は大阪で河辺興次(おきつぐ)という人物に会った。

 寒天の用件で私がある事務所に一人で腰かけて人を待っていると、色のおそろしく黒い、精力的な感じのする男の人が入って来た。この人はよく見ると何処か子供っぽいような顔もしていて、どういうつもりか胸にもも色のスイートピーを挿していた。これが河辺興次という風変りな実業家で、義兄の昔の教え子であった。義兄が亡くなったことはもう知っていて鄭重(ていちょう)なくやみを述べてから、私が寒天の話をするのをニコニコしながら聞いていた。そして「奥さんのような方が商売をなさろうというのは、小さい子供が溝のふちを歩いているようで危なくて見ていられない」ということを、せい一ぱい言葉に気をつけるようにして言った。そして私も上海から引揚げて来たばかりで、これからもう一度昔の商売を盛り上げようとしているところで、様子も分らず微力ではあるが出来るだけお力になりましょうと云ってくれた。そしてコーヒーを大口に引き出せるかもしれないからそれを売り(さば)くことと、特殊なライタアを作る人を知っているというので、それを売ることを考えてくれた。私はこの人の大阪の人らしい具体的な厚意の示し方を心強くまた気もちよく思った。

 一方義兄の死によって急にその生涯が省みられ、色々な方面から追悼(ついとう)金が集められ、相当の金額に達した。それは何ヶ月かの入院生活を支えることが出来る筈であった。私はいくらか重荷を減ずることが出来たが、それと同時に、そういう、人の(あわれ)みによって与えられた寄附金のような性質の金銭に頼らなければならないことが私の心を暗くしていた。何とかして他人の負担によらないでゆきたい、という気もちと、その金がなくならないうちに後の方法を考えなければならぬという気もちが入り混って私をせき立てたが、東京ヘ帰れば帰るで、私自身の生活の建て直しが大変で、その方に追われてしまうのだった。河辺興次が考えてくれた二つの方法もやりはじめてみると結局私の手に負えるものでないことが分り、私は頼まれた童話の原稿を細々と書いたり、オランダの童話を訳して本に出すことを利一に頼んだりしていた。しかしそんなことでは刻々と水位を増すような物価の昂騰(こうとう)の中に小さい子供たちと三人が生きつづけることすら難しかった。物を売って得た金で(しの)げる日数が、流れに足をさらわれるような速さなのに(おどろ)くばかりだった。姉の方のことは気にかかるばかりで日が経って行った。

 十二月に入ってとうとう、姉の病院の会計を預ってくれている学生から上京するという知らせを受け取った。手紙で打ち合わせたりしている余裕がないほど涸渇して来た療養資金について、膝詰(ひざづめ)談判にやってくるものに相違なかった。

 いよいよ、義兄の唯一の遺品である本に手をつけなければならぬ場合であった。義兄の本は戦災で焼いた残りが六百冊ばかり東京の武石の会社の倉庫に箱詰になって残っていたが、これを売って金にかえるなどということは誰一人考えて見るものもないくらいだった。それは義兄の生前の意志として本は一纏めにして郷里仙台の学校か(しか)るべき施設に寄贈して後人の利用にゆだねたい、ということが姉の執拗なほどの度々の言明によって関係者は周知していたし、故人の生涯がひたすら本の間に埋めつくされたことを知るものには、これは全く正当なことに思われたからであった。

 しかし今はこの本のことを考えるより外に何を考えることも出来なかった。その形勢を察したように、姉からは本だけは売ってくれるな、それ位なら施療病院へ入れてくれというような葉書が着いていた。私は姉のわからなさに吐息をついた。まだとるべき手段が残されているのに、姉を見棄てることが出来ないのは知れ切っていた。義兄が()し地下に口を利くことが出来たら、それでも本を売るなと云うであろうか。あの他人に迷惑をかけることの嫌いな義兄がそんなことを云う筈はなかった。

 それにしても、本を売るにもどうしたらいいのか分らないので、私はやっぱり公子と利一に相談した。しかし本の種目をきいて、二人とも薄笑いした。海上保険と云われてもどんなことなのか見当さえつかない彼等は、ただその耳遠さに呆れたという顔つきであった。どこか大学にでも買ってもらうより仕方がないが、大学には金がないから駄目だろう、というくらいの智恵しか出ないのだった。それから仕方なく、上京中の河辺興次に相談に行った。すると彼はさすがに実務家らしい無造作さでA新聞に適当な売込み先を紹介させましょう、と云ってくれた。

 学生広田はやはり想像していたような用件をもって上京して来た。姉に内密で本のリストさえ携行(けいこう)していた。私たちは河辺氏と同道してA新聞を訪れ、そこで或る大きな古書専門店の主任に宛てた紹介の名刺をもらった。それが直接学校とか図書館でなくて商人であることが一寸私を不安にしたが、急な場合だし、特別にこちらの条件について考慮してくれる筈だというので私達はそこを訪ねることにした、しかしその前に一度、本を倉庫で調べてみなければならなかった。

 武石製薬へ行って案内を頼んでいるとそこへ丁度公子が階段を下りて来た。後から下りて来る年とった紳士を眼で差してこれから商工省の会合へ行くところだと云って係の人を呼んで、テキパキした調子で自分の代りに倉庫に案内し、その後で昼食の用意をするように頼んで出て行った。本は全部で三十個、二十個が三階倉庫に、十個が地下倉庫に入れてあるということであった。最初に地下室の方から見ることにした。荷物用のエレベェタアをめぐってコンクリートの階段が地下へ降ってゆくそのあたりは、ま昼でも薄暗かった。荷造りを解いた縄や荷札がこぼれていた。倫理の先生のようにしかつめらしい茶色の服をきちんと着た倉庫係長が御先導という感じで降りるあとから私と広田は従った。木箱を動かしたり釘を抜いたりしている人たちが不思議そうに三人を眺めた。倉庫はずいぶん広くて薄暗い電燈の光では隅々まで見通せなかった。それに配給用の薬品をつめた大きい木箱が種別毎にまとめて積みあげてあるのが、市街地の模型のように見られた。本の箱のところヘゆくことが何何街の何番地と訪ねるような気がした。私は公子がこの荷物を預るとき、邪魔になるけれどかまわないわ、と云ったことを思い出して可笑(おか)しかった。十個の石油箱は互に身を寄せあって小さい場所を占めていた。鼠に(かじ)られても知らないことよ、と公子は云っていたが、それどころではなく箱はいたんだ板を丈夫な板ととりかえ、ていねいに釘をうち直し、どんな遠方へでもすぐ発送出来るようにキチンと縄がかけであった。その上荷札までつけて一一番号がうってあった。さすが行きとどいた公子の管理ぶりに私は思わず「まア」と云ってしまった。

「開けてごらんになりますか。」

 と係長が訊いた。私は一箱でもあけてみたいと思った。いずれ全部調べなければならないのだが、M古書店と話を始めることが急がれたので、とりあえず一箱だけあけてもらうことにした。さっき入口で働いていた人が呼ばれて、私たちの前で縄を切って釘を抜き出した。何かしら不思議な感慨が私の身内を走り出し、その人が板をもちあげるのが棺のふたを除くように思われて来た。あきらかに、まわりに積まれている清涼剤や歯みがきの箱と異ったものをこれらの箱は発散している。係長と箱をあけた人は出ていった。私はひざまずいて箱の中を見入った。本の不規則な配列や新聞包みや、結んだしでひもを鋏できったあとが目にはいった。三年間、人間の行為の跡がそのままこの箱の中に保存されている。この本をとり出すことは、この本を彼が詰めたことに直接続いている。私はしばらく手を触れることをためらわずにいられなかった。この箱の中にまだ義兄は生きている。(すくな)くとも彼がも一度これらの本を読むつもりでつめたという心の配り方が感じとられる。本が一ぱい詰っているのをみて広田は、

「だいたいみんなあるようですな。」

と云った。

「そうね。」

 私は木箱のふたをもとの通りに閉ざした。

 私たちはその足で書店へ廻って紹介状を出したが古書部の主任が不在なので翌日の昼会社で会うことに頼んで家に帰った。

 次ぎの日、その古書部の主任は約束通りに薬品会社へ来てくれた。四十年配の、小さいクリクリした眼の、笑うと愛嬌のある会社員風の人だった。流石(さすが)に大きい店の主任だけあって話のききとり方にも進め方にも無駄がなく情味も感じられた。

 私は義兄が仙台へ本を金に換えないで保存したかったことから始めて一通りのことをきいてもらった。そしてなるべく散逸させないでどこかへ納めたいことを希望した。主任はリストを見ていたが、ずいぶん古書を扱っている彼にも海上保険の英独仏伊の走り書きには閉口した様子だった。彼は正直にニコニコした顔で、しかし少しもったいぶって云った。さきほどからいろいろ御事情を承りましてだいたいのことは承知いたしました。それで、これは打あけ話でございますが、大変お金をお急ぎの御様子でございますが、私がこのまま頂戴いたしますと、どうしても見込み値段でうんとお安く頂戴いたさなければなりません。なにしろ専門書でかたよって居りますから、それで考えたのでございますが一の日(ごと)糶市(せりいち)が立ちまして東京中の古書屋が寄ります。そこへお出しになりますと一冊ずつ値をつけますからずっと高くなると思うんでございますが――。

 高くなるということが、百を意味するのか千か万か全然見当がつかなかった。いずれにしても私は本を全部一通り調べてみると云いはった。それでその日は九日だから、とうてい次の一の日、十一日にはお渡し出来ない。第一、それでは本が散逸(さんいつ)するからなるべく一括に納めるところを探して頂きたい、また私の方でも出来るだけ口をさがしてみましょう、そして全然手段がなければ二十一日の糶市(せりいち)に出して頂きますといって別れた。彼は遺族が本を売る時に中を調べたりはしないと云ったが、私はどんな紙片に何が書かれてあるかも分らないから、と云っているうちにまたあの本のたたずまいが思い出され、自分のしようとしていることに云いようのない苦しさをかんじた。

 その日の午後から、私と広田は整理にとりかかった。リストは義兄が心覚えの為に作っておいたもので完全なものでなかったので、新らしいものを作ることにして私がその役目になった。広田が本をとり出したり、すんだ分をつみ重ねたりした。私も本をとり出すことがあったが、一つ一つがていねいに新聞紙に包まれたその上に墨でケントとかテンプルマンとか著者の名や書名が書いてあった。結ばれた紐をほどく時が一番つらかった。義兄が結んだ時の手つきやその時の心もちまでが鮮かによみがえり、私は何度か涙ぐんでしまった。その上、本は意外にフランスの本が多く、昔パリにいた頃耳なれた地名や出版書肆(しょし)の名が出て来るのまでが懐しかった。ただ出てくる本も出てくる本もすべて海上保険なのには全く驚いてしまった。本はとじ目の糸が弱るまで読まれたものもあり、ま新らしい叢書(そうしょ)もあった。中には船会社のカタログ風な、洒落(しゃれ)た紙質の大判で細い緑と朱の活字や線を入れた本も出て来た。義兄がこんな本をもっていたのかと私は(あわただ)しいなかでほんの十秒ほど余計にそんな本にさわっていた。いかめしい人を威圧するような部厚くて重い辞書風な本も出て来たし、そのうちに泥のついた本が沢山出て来た。それは風水害の時の本にちがいなかった。

 倉庫は三時半になるべく終って欲しい意嚮(いこう)だったので箱はいくつも片づかなかった。私と広田は次の日も次の日も出かけて整理を続けた。一冊の本をとりあげてもそれが特殊なものなのか一般的なものなのか、どんな手がかりも持たないことがいかにもたよりなかった。例えばベエトオヴェンのソナタとかショパンのワルツというふうに、ピアノを弾く者の楽譜棚には必ず転がっていて、しかも価値のあるものなのか、それ自身は幼稚で原始的でも発生のあとを辿るために学究的に特殊な意味をもったものなのか、私は中世紀の宗教的音楽から土人のメロディまで、広汎な興味と必要を音楽の世界におきかえてみたり、絵画や文学の世界で想像してみるのだが、義兄の本では全くどんな価値判断も出来なかった。だが私はこの何百冊もの、英独仏の数十人の著者による海上保険の本を見ているうちに、出版年代の順に同じ本が改版毎に集められていたり、また典範や辞書や、ある大部の本のあとで、その著者についての論文や要約があったりすることを発見していって、これらの本は保険関係の会社等に入用なものではなくて、これを専攻する学者だけに必要なものらしいことを感じていった。エンジンや動力、船に関する本、商法や経済、交通に関する本も、(あつ)められた経路や研究の過程が次第に了解されてゆくにつれ、ことがら自体は未知なまま、私はよくぞあつめられたという喜びに胸がふくれるようであった。リトレの仏語の辞書には水害の泥のあとが残っていたし、独逸(ドイツ)語の文法の本には何年何月第二回目読了上京ノ途次米原ニテと終りの頁に記してあった。私は忙しそうに本を掘り出している学生広田に話しかけた。

「広田さん。あなたは義兄(おにいさん)の生徒さんで少しはお分りになるんでしょう。どの本でもかまいませんからもっていって下さいな。おにいさんだってきっとうれしいと思うにきまってますわ。」

 が、広田は魚屋がイッチョニィチョと魚を数えるように本をつみ上げるばかりで、

「いや、私は結構です。」

 と答えるのだった。私は本の蒐集(しゅうしゅう)の意味を傷つけない程度で語学の参考書一二冊と数学発達史という本を持ちかえった。日曜日を除いて最初の日から五日目に三階の二十箱は片づけることが出来た。日記帳と写真類とノートは一とまとめに箱にしまい、健康法の本や漢籍、伝記、日本の古い文学書などはまた別の箱につめた。

 

  四

 

 そこへ小さな椿事(ちんじ)が起った。

 河辺興次の上京期間中に一度夕食に招くぐらいのことをしたいと思っていたが、きれを売ったのこりの金があったので、いささかの酒を買い、十四日の午後、碑文谷の「アトリエ」といつからか皆が呼びならっている私の小さな家へ河辺氏を招待することにした。学生広田をねぎらう意味もあった。広田を旅館に泊めるような余裕はなかったので、「アトリエ」の一室にソファをあけてそこへ泊ってもらっていたが、本の方がなかなか(らち)が明かないので何時帰れるかわからない状態だった。公子も誘ったが年末で忙しいからと云って来なかった。御馳走をすることは好きだが、御馳走になるような機会は出来るだけ避けるという一流の流儀からでもあった。利一も来なかった。「知らない人と会うの面倒くさいや」と云っていたが、雑誌記者のくせに人見知りする含羞(はにかみ)やのせいばかりでなく、彼は十月から起きている結婚問題に悩んでいて最近では人中に出ることを殊更きらっていた。私のところには時々音もなく現れて三十分ぐらい煙草をすって帰った。気が向くとピアノの(ふた)をあけて「冬の旅」を弾きながら低い声で歌ったり、子供たちにいろはガルタを作ってやったりした。私はこの青年の孤独や才能や気の弱い善良さや時には間抜けさを愛したが、彼の中から立ち上って来るもののないことを物足りなく思った。彼は人生には疲労と退屈と虚偽(きょぎ)とがあるばかりだと云い、二十七歳で老年のような何もかも棄て切ったような顔をしていたが、私はそういう顔を時には(あわ)れなものに眺めることがあった。学生広田が義兄の本の一冊も欲しがらなかったように、利一も本やすべての人間の努力や情熱というものに無関心であった。私が明日のお米もないのにオランダの童話の翻訳もしないで、数学史や量子力学序説を拾い読みするのをいぶかしいものに眺めるらしかった。このようにして私は(つい)陋巷(ろうこう)に窮死するであろうと思い、それが私の理想です、と利一に云うことがあったが、そして利一はそういう私に限りない同感をよせるらしかったが、利一のとる意味と私が云おうとするところは違っていた。ただ利一は一方非常に現実的な膂力(りょりょく)のようなものを持っていて、最後の抵抗線に()って最低の生存の権利だけは主張するというような(たくま)しさがあった。米がない炭がないと云えば何処からか風呂敷につつんで持って来てくれるし、きれを預けておけば何処かしらで金にかえて来てくれた。そういう親切さや能力に対して感嘆しながらも、人間の生存をそういう水準に於てしか認めようとしない彼にもどかしい不思議さを感ずるのだった。――

 その夜、私の「アトリエ」は珍客を迎えて、太い男性的な声がひびいていた。河辺氏は私の風変りな住居を珍しがり非常に上機嫌で、一人で盃をみたしては面白い話をして私たちを笑わせた。彼は一流の相撲の愛好者で保護者であった。子供がない彼は大ぜいの力士たちを子供のように可愛がり食客にしたりしていたが、それは父祖伝来の家の業だと彼は云った。彼の祖父などは極めたる悪趣味で、庭に白砂糖の土俵を築いて三十六人の芸者を裸にしてその上で相撲をとらせ、本当の相撲とりたちには紋付をきせて酒をのませながら座敷でそれを見物させた、などという話をして子供のような顔をして笑った。そしてどうしても私たちに相撲の手を教え込まないでは気がすまぬというように、怪しい足許で立ち上っては熱心にいくつかの型を説明した。彼は人生のすべてのことを三十いくつか四十いくつかの相撲の手に還元して割り切っているらしかった。そういう単純明快な世界を考え、それはそれで立派だと私は納得した。

 酔っていても九時をすぎたころ、河辺氏はチョッキから時計を出して見て、形を改めて謝辞をのべて帰って行った。子供を寝せて私がその辺をかたづけていると、広田がオーヴァが無いと云い出した。信じられないことだった。こんな露地の奥のみすぼらしい家の庭にどんなものずきが来ることだろう。しかしすぐそばの椅子には私の外出着がかけられたまま残っているのに、広田のオーヴァだけ姿を消していた。広田は慎重にあたりを調べていたが、泥足のあととオーヴァのポケットに入れてあったというボールペンがおちているのを発見した。隣室で私たちが相撲の話に興じている間に、何者かが窓から忍び込んで広田のオーヴァ一つを持って行ったのだということを認めないわけにいかなくなった。それが、偶然であろうが恩師のために働きに来ていてくれる広田のオーヴァだったことが私をかなしませた。この十二月の寒空に、翌日から早速彼に何を着せたらいいのか私は全く途方にくれてしまった。一人になり、火鉢の前にいつまでも座って考えていたが、いい考えも浮かばなかった。

 次の日は十二月には珍しく晴れたいい天気だったので広田は学生服だけで出かけてくれた。その日M書店の人が来て保険会社の方が有望になって来たからリストを貸してほしいと云った。私はもう殆んど出来上っていたリストをわたした。そして日のかげらないうちに家に帰りつくことが出来るようにと広田を早目に引きあげさせた。こんな好天気が明日もまた続くとは思われない。何とかして今日のうちにと思いあぐみながら、自然に足が向いて数寄屋橋の利一の会社を訪ねた。近くのコーヒー店に入って、公子にも会ったが公子には言い出せなかった前夜のことを話し、どこかにオーヴァはないでしょうか、と哀願するようにきいてみた。

 利一は煙草のやにで色の変った細長い指に巻煙草をはさんで、煙草の煙りに眼を細めながら話をきいていた。しばらく考えて、

「……そいつあ、どうも、よわったなあ……」

 と、ひきのばしたように言って、言葉をきった。そして別のことを言い出した。学生広田を一日も早く帰すべきこと、広田がいるためにもう一万円以上もあなたは使っている。金のこともだがあなたは彼に対する心使いの為にすっかり疲れ果て、自身の生活を失ってしまっているではないか、というのだった。利一の眼はつめたく、意地悪いものを宿しているように見えた。いつか本を売る前に一度全部本を調べなければ、と云った時も彼は、そんなことをするんですか、と云って同じような顔をしたことがあった。私はかなしくなり、利一に話したことを後悔した。

 外へ出て、灯をつけはじめた街を襟巻に顔をうずめるようにして歩いた。利一が寄りそって来て、

「あれをごらんなさい」と云った。裸の街路樹が、散り残った一二枚の葉をこまかくふるえさせている向うに、冬の太陽が沈んだあとの真紅の残照に()かして、小さな面紗(ヴェール)のような雲が走っていた。

 二人は立ち止ってしばらくそれを見ていた。それから利一はいつもの郷愁をうかべたような顔になり、私の顔に見入るようにして、そんなことをしたこともないのに片方の手をさし出した。私はその手にちょっと(さわ)り、さよならと云って別れた。

 電車に乗っているうちに天啓のように私は「アトリエ」の箪笥(たんす)を売ることを考えついた。そして電車を降りるとすぐその足で建具屋の(ごん)さんを訪ねることにした。この建具屋には去年の暮から四千円の借金をしている。ガラス窓をつくってくれる時私はなかなか払えませんよと念を押したのだったが、権さんは金なんざいいですよと云って入れてくれたのだった。私はながい間ゆかなかった権さんの店の前に立った。仕ごと場には誰もいない。

「権さん。」

 私が呼ぶと(ふすま)が開いて三ちゃんという内弟子が出て来た。背が高いのに少年のような顔をしたその若い職人は私をみつけると珍しそうに奥にむかって、

「あの、ほら、何てったかな、小説の小母さんが来たよ。」

 と声高に呼んだ。私は小説なんか書いていない。(少くとも活字にしたことはない。)

「ごめんなさいね――」

 と云いかけると三ちゃんはお金を払いに来たのだと早合点したのか、

「いいんだよ小母さん。心配しなくたって金なんざ」

 と親方そっくりののみこんだ口ぶりでさえぎった。私はひどく恐縮したが嬉しくなって、そこへ出て来た権さんと三ちゃんに箪笥を売らなければならなくなった一ぶ始終を物語った。権さんは光の箱を私の方へさし出して、まあ一つとすすめ、自分もそれに火をつけてから、

「じゃあ、さし当ってあしたっから着るオーヴァがありゃいいんでしょう。箪笥売るったってそうさっ急には売れやしませんよ。おい三ちゃん。俺のオー ヴァとってきな。」

 と気軽に三ちゃんに云いつけた。三ちゃんが奥からもとの将校用のオーヴァをもって来た。それは少しくたびれていたが温かそうに見えた。

「これお着せなさい。私は着やしないんだから。」

 そして箪笥は春になったら薄く削ってとの粉を塗って新らしくして売ってあげましょう、そうすればずっといい値になるからと云ってくれた。私はホッとして身内が暖くなるほど嬉しかった。その上、三ちゃんは小母さん俺持っていってあげような、といってそのオーヴァをもって私を家まで送って来た。道々も三ちゃんは俺が削ってあげるよ、正月休みに一日つぶして、と安心させるように何度も云った。三ちゃん飴の罐がまだ一つあったかも知れないわ、と私は家に帰って戸棚をあけたがいつのまに使ったのかそれはなくなっていた。三ちゃんはいいよ、いいよ、じゃまたねと云って帰っていった。小柄な広田が外套の袖を通すと、道化じみておもちゃの兵隊のように見えるので私たちは笑いこけた。そしてともかく一つの難関がすぎたことを喜びあった。

 

  五

 

 翌日はやはり晴れていたが木枯のような風が吹いていた。私たちはオーヴァが借りられたことをしみじみうれしく思った。その日、私たちはまた地下室の作業をつづけたが、頻繁な停電のたびにローソクをつけねばならなかった。ローソクの光は眼をつかれさせ、十二月の地下室のコンクリートは膝の感覚をなくさせるほどで、私たちは難航に苦しんだが、その中に私は嬉しいものを見つけ出した。それは薄いフランスの本であったが著者の名前は日本人で、表紙をかえすと右肩に細い女文字のようなペン書きで白石教授に贈る、小西三郎と著者の名が書きこんであった。それは日本商法の本であった。それからしばらくしてもう一冊同じ著者の本が出て来たが、これにも同じ場所に同じ筆蹟で同じことが書かれていた。乏しい光に照らし出されたそのペンの跡をみているうちに私はふと明るいものに横ぎられたような気がした。それは、小西三郎という人はどんな人か知らないが、この人と義兄との間に生前何かの交友関係(おそらく学問上の交友と思われるが)があったとすれば、もしこの人が生きていてくれれば、この人が私に何か分らないことを分らせてくれるのではないか、という希望が、浮んだのだった。私は何よりも、この間から私の心の裡で大きな悩みになっていたこれらの本の価値について、この人から教えられたい、と思った。そしてまた、本の納め先についても或いは適当な処理方法を考えてもらえるのではないか、という甘えた考えも浮んだ。私は小西三郎という名を記憶して家に帰った。そうして電話で利一に小西氏のことについて調べられたら調べてもらいたいと頼んだ。

 広田が帰らなければならない日が近づくのに持ちかえってもらう金のあてもなく、オーヴァを買う金も出来ない。M書店の人はどこへ納めるにしても二割の手数料はとるのだから、金が入用ならば立替えておいてもいいと云ってくれていた。私はもうこれまで口をかけた以上たとえどこに納めるにしても礼金を出したいと思っているのだから、前借りすることもやむを得ないとまで考えた。次の日、会社へつくと受附の人からM書店から連絡があって、今日会いたいから四時に待っていると伝えられた。そこへ利一がヒョッコリ入って来て、

「あれ分りましたよ。」

 とポケットから紙()れを出した。

「まあ仙台にいらっしゃるの。」

 所書きをみるなり私は大きな声を出してしまった。

「東北大学の教授ですよ。大丈夫、生きていますよ、家の方へ速達出される方がいいでしょう。」

 利一をそこに待たせて、私はすぐ応接室の小卓の上で小西氏に手紙を書き出した。全く見知らぬ小西氏に唐突な相談の手紙を書くことは、いくらか書きにくくもあったが、義兄があれほど望んでいた仙台の、それも境遇も同じ教授だということが私を力づけていた。手紙は七八枚にもなり読み返すひまもなかったが、そのまま利一に渡した。

 その日、ほとんど全部の整理を終了した。四時にM書店にゆくと、主任は待っていてくれた。会うことが二度三度と重なってこの人が善い人でもあり腕のある商人でもあるように思われて来た。彼は保険会社がいよいよ買いそうですと云った。私は今日小西氏に速達を出したことを話して、もいちど本を売るについてのいきさつを()りかえした。義兄が仙台に本を送りたがったこと、姉の療養費を得る為だから出来るだけ高く売りたいこと、ただ仙台の場合は(ある)程度まで金銭を度外視しても義兄の遺志に添わせたいこと、など話した。彼は小西氏にリストを送ることは納得したが、今手もとにはないし仙台や学校関係では到底予算がないから保険会社の方になるべく買ってもらった方がいいでしょうと云った。彼のつける値段はひどく安いように思われたが、私にはそれを否定する根拠がなかった。それで私は本の蒐集の価値が相当のものであることを力説し何かの確信を得て最適当な場所に納めたいのだ、という私の気持を重ねてのべた。しかし、もう明後日に迫った広田の出発のために金を借りねばならなかった。私は一月一ぱい本を動かさない条件で二万五千円を借用することを頼んだ。その金は翌日店で受けとった。

 広田が帰って二日目小西氏からリストオクラレタシという電報がとどいた。私はその電報をもってその日は一の日で糶市(せりいち)にいる M書店へ主任を訪ねた。車座になって多勢の人が坐り本に札をつけている中に彼もまじっていた。入口に立った私を見つけると彼はすぐに席をたってオーヴァと帽子をとりあげその家を出て近所の喫茶店へはいった。

 私はすぐに小西氏にリストを送りたいから頂きに来ましたと云った。すると彼は一寸顔に難色をみせてもう保険会社の方で話がきまりかけている。そのために理事会を開いて可決されたから今日四時までに返事をすることになってそのため私は昨夜電報をさし上げた。あなたが来て下さったのはそのためだと思ったと云った。私は意外だった。何だか押しつけがましいものを感じた。私は小西氏にリストを送ることは一たん御相談をかけた以上礼儀だと思います。あなたにもそのことは申上げておいた筈ですと云った。彼は当惑したようだったがポケットから時計を出して、それでは保険会社へ一緒に行ってあなたの口からそのことを説明して頂きたい。多分心証を悪くするかも知れないしもうこんな口はないかも知れないと云った。二人は外へ出て四時には五分しかないのでタクシイをひろって急がせた。彼は明らかに不満らしかった。二万五千円を借りたことがこうなったのだ、と私は思った。彼は車の中で、最初云った値段よりも三万円位は上げられるかも知れないと云った。保険会社と彼の間にどんな値段が生れているのか、そのような幅がありうるということが、金の必要な私を哀しくした。

 会社の書庫は高いところにあった。彼がオーヴァと襟巻をはずしたので私もそれを見習ってコオトと肩掛けをはずした。書架の奥の窓際に二人の男と一人の女がいてじっとこちらをみていた。M書店の人が商人らしい腰の低さで真中の人に近づき礼を述べてから私をひき合した。私は書架にぎっしり詰っている本を見たとたんに義兄の本を思い出し、もはや小さいこの場の人情に負けてはいけない、自分が軽率に振舞うことがとりかえしのつかないことを招来するのだと引締まった心になった。専務取締役はオーヴァを着たままでどっしりした机の前に掛けていて本屋に鷹揚(おうよう)に会釈し、私にも立上って一通りの挨拶をした。それは決して尊大というのではないが(すこ)し冷く、彼が考えている自分と私の位置を感じとらせる通俗さをはっきりもっていた。本屋がリストのことを口を切ってから話を私にまわした。誠に申訳けございませんと彼が云うのを引きとって、私はまたここで最初からの多少の矛盾を含んだ経過を説明し、小西氏にリストを送りたい、そして返事が来るまでこの話を保留しておいて頂きたいと思いますと申述べた。専務取締役は私の云い分を了解してくれた。彼は勿論小西教授の名をよく知っていた。そして問い合せることは了解したが、もし小西氏があまりにかけ離れた値段をつけられた場合はこの話は御破算になる、何故ならばもはや理事会では M書店の申出た値段で可決してしまったのだからと云い小西氏が必要な本を抜きとられた場合も御破算になるものと御承知置き願いたいと云った。このようにその人が御破算、御破算と何度も云うのが、暮に迫って療養費に窮している私の耳にいかにも惨めさを感じさせた。その人が本のことについては重複するものがあるということ以外に何も云ってくれないことが寂しかった。誰氏の本も誰氏の本も買い受けた。と彼は私の後の書架を顔でさし示した。そこにはなるほど何文庫、何文庫と指名された分類があった。義兄の本というのがこの人が代表する会社では、そんなに多くの御破算に値いする必要程度なのかと私は著しく傷けられた気もちになった。私はもっとしん底からあの本を必要な人の手に渡したいんだのに、と思ってつい、私は最初に三万か五万頂けばいいのであとは月々一万円ずつはいればいいのですと云ってしまった。するとその人は口の辺りに憐れむような笑いをうかべて、

「いや、私共の方では莫大(ばくだい)な財産が後にどっしりと控えているのですから、頂くときまったらそんな月賦だなんてことは致しません。きれいに即金でお払い致します。」

 と云いきった。私は益々惨めになりながら莫大な財産と何の関りあいもない学究者の生涯を心に描いた。なにかしら金という熊手のようなもので無造作にここに沢山の本が(あつ)められて来ていることが割り切れない気持を起させた。義兄があの本を聚めるために費した年月や、苦心は桁ちがいの財産の前では何ごとでもなかった。あの六百冊の本は、本屋の棚から抜きとって来たものと同じことなのか。私は撫然(ぶぜん)とした気もちになるのだった。でも私は本屋がせっかく工作してくれたことを考えたり、また本を散逸(さんいつ)させない最低保証のために小西氏から返信が来るまで虫のいいお願いですが話を待って下さいと頼んでそこを引上げた。本屋と私は道に降りて省線まで一緒に歩いた。本屋は私に市価というものを考えるようにと忠告してくれた。文学ものや原論的なものとちがいますからなかなか売れませんよ、と私がよけいな手間をかけるので少しいらいらした様子で云った。

 

  六

 

 私はリストをそのまま小西氏に送るつもりで持ち帰ったが、ノート二冊と数枚の紙片に分れていて読みにくいのと、また送りかえしてもらうことが気の毒なので急に写し直す気になった。私は夕飯もそこそこにそのことをはじめたが保険会社の話をそのまま成立させることが義兄にも姉にもひどく不誠実なような気がして来た。私はあの専務取締役が本屋と同じように売れの遠いかたよった本ということを見抜いているばかりで、どの一冊の本にも心惹かれた様子もなかったことを思い出すと、それが義兄の本を納めるべき適当な場所のようにはどうしても思えなくなって来た。尠くとも私は義兄と姉の為にもっともっと手を尽すのが本当だと考えた。これが義兄自身ですることであれば、どこへどのように手放すことも、いたし方のないことかも知れないが、もうどんな発言も出来なくなってしまった彼から(ゆだ)ねられた私には別の義務が出来ている。私はあにが希望していた仙台に送ることを果すか、それでなければ真実の本の価値に確信を得た売買をするかどちらかだと思った。そうしてリストを次々と写してゆきながらそのことを思いつめ、これから仙台へ訪ねてゆこうと決心した。小西氏がどのような人なのか本が案外のものなのか、よく考えればそれは分らないのだが、私は骨惜しみしてはいけないと思った。それにしてもM本屋を紹介してくれた河辺氏に報告しておかなければならないと私は近所ヘ電話をかけにいった。河辺氏は私が仙台へゆこうと思います、というのをきくと驚いた口ぶりで、ともかく今夜はもう八時ですから明朝十時においで下さい。よく御相談しましょう、といってくれた。私は河辺氏にはもう充分迷惑をかけているのだから本のことはなるべく自分で始末をつけたいと考えていたのだが、現在こんなせっぱつまった気もちになったいきさつは話しておきたいと思って十時を約束して電話を切った。そしてそれからまたリストの作成を続けたが、夜明けに近くついうとうととしてしまい、眼がさめてみるともう九時になっていた。私はいそいで家をとび出して新橋にある河辺氏の宿へかけつけたが、二十分おくれていたために河辺氏は出かけたあとだった。二十四日には大阪へ帰る筈だしその日は二十二日であったから私はどうしてもその日のうちに会いたいと思いもういちど出直すことにして丸の内の方ヘ歩いていった。私は中央郵便局から出すつもりでもって来ていたリストをどこかで封筒に入れたいと思い、それを買ってから(ある)新聞社の中にはいっていった。河辺氏の仕事はその新聞社に関係が深いので、もしかしたら彼がそこに現れるかもしれないという期待があった。昨夜のつきつめた気もちもこうして人の出入の激しい新聞社のベンチにかけてみると仙台へゆくということはあまり自分かってな押しつけがましいような気がして来た。一刻の猶予(ゆうよ)も出来ないような胸苦しさが河辺氏に会いそびれたことから出来た半端な時間のために何の展開もなく心に残っていた。いま私の心に一ばん大きく浮んでいるものは本のことであった。それを包んでいた新聞紙とていねいに結んであったしで紐、それを解いた時の触感、広い硝子窓のむこうに見える橋や建物をじっと眺めているうちにぼろぼろと(なみだ)があふれて来た。リストに添えて出す手紙を小西氏に書こうと私は膝の上に紙をとり出した。そしてまだ会ったこともない小西教授に義兄の最後の生活と、どんなに彼が学問を愛していたかということとを書き綴った。本という字をかくたびに涙が頬にこぼれた。営業部の遠いデスクから一人の人が不思議そうに私を見ているのに気づいたが私はもうずっと前から大ぜいの中では孤独だったのだと、そんなことも遠いものに感じられるのだった。私は本の処理についての希望の全部を述べ、そのことがどんな事実によって裏づけられているかを書き尽した。一人の学者の生涯を同じ専門の学者に知ってもらいたかった。二通の部厚い封筒を閉じて私は中央郵便局から速達にして送った。

 夕方私はまた新橋の旅館に河辺氏を訪ねたが彼はまだ戻っていなかった。私は待つ間を玄関の椅子に掛けて、大きい子供とその友達から頼まれていたクリスマスの童話劇を書こうと思った。それは明日からでも練習しなければ間に合わないものだった。私はもし河辺氏の帰りがおそくて無駄に帰宅したとしてそれからこの原稿を徹夜して書いて、も一度明朝十時にここへ来られるだけの自信がなかった。疲労があまりに深かったから。私は顔馴染のそこの女主人に頼んで、部屋をとってもらった。そして「アトリエ」の戸締りをしてないことを思い出し、隣家の奥さんにそれを頼むつもりで電話をかけると、受話器に思いがけない利一の声がとび込んで来た。彼はある作家の原稿を取るためにきのう軽井沢に出かけていて留守のはずだった。

「まあもうお帰りになったの。」

 利一のゲラゲラ笑う声がして、

「帰りません、これから行くんです。今日一日あなたをつかまえるのに骨をおりましたよ、あなたはいったい何処(どこ)から電話なんかかけてるんです。」

 私はきのうから今日へかけてのことをかいつまんで話した。彼はふんふんときいてから、すこし話があるからそこへ行きます。わるい話じゃない、まあいい話でしょう。越冬資金が出来るかもしれません。じゃすぐ伺いますから、と電話をきった。

 利一はいつにない弾んだ声を立てていた。私は何なのだろう、と思った。そしてもしかしたら私が初めて書いた小説が売れてその原稿料をもってきてくれるのではないかと思った。この想像はたのしかった。私はすこし救われたような気もちで部屋に戻り、机の上に原稿用紙をのべて童話劇を考えはじめた。二三行、登場人物の名を無駄がきしていると、河辺氏が帰ったと知らせて来た。

 河辺氏は少し酔っていた。そして上機嫌だった。彼は私の話をきくと、まあそんなにくよくよしないで、もう今年も暮れですから来年私がそのM本屋の方の話はつけてあげます、と云った。彼は来年、来年と何度も云った。私はまだ本と云えばクシャクシャになりそうな顔をけんめいにもちこたえて彼の来年説にお願いしますと云って部屋を出た。河辺氏は酒の機嫌が手伝っていたけれどその親切と来年にという意見はよく分った。手もちの時間を一ぱいに頑張ろうと思いながら階段を降りて玄関へ出て行くと恰度(ちょうど)そこへ利一がはいって来た。

「あなたがいつか呉れた栖鳳(せいほう)いかがあったでしょう、売ろうと思ったらニセモノだって云われたいか……

 立ったまま、いきなりそんなことを云い出すのを、私は何のことか咄嗟には思い出せず、利一の顔を見ていた。

 「一万五千円で買うっていうんです。鎌倉のRさんに見せたんです、ニセモノなんかじゃない立派な栖鳳だって。年内に金くれるっていうから、あなたにきいて早く返事しなくちゃ、と思って今日、ずいぶん方々さがしたんですよ。」

 私はしん底からがっかりした。でも彼の親切な世話心は有難かったから、

「ありがとう」と礼をのべた。

 彼は私が夕飯もたべず、疲れ果ててこんな宿屋に寝ようとしているのを(あわ)れがり、今日は少しお金があるんです、と云って中華料理店へ誘い出した。彼は今夜すこし様子が変っていた。何処かでお酒をのんで来たらしく、すこしおしゃべりになり、何かこちらへ寄りそって来るような気の使い方をみせた。卓にならべきれないほど皿数を注文し、自分では食べないでしきりと何か話していた。そして急に黙ったり、じっと私の方を見たりした。その眼は私がそれをそのまま受けとめていることが危険を意味するような何かが籠められていた。

 私は体じゅうに散らばっていた疲れが次第に一箇所に集り、重い固まりになって行くのをかんじながら、きのうからの気持の上の出来ごとをこの青年に話そうかどうしようか、と考え、やっぱりやめようと思った。利一の方にもきっと彼が今話していることでない、他に何か話したいことがあることが分っていた。彼の結婚問題が何かの展開を見せているのではないか、と思われたが、私は今それを聞きたいとは思わなかった。利一と別れて宿へ帰り、すぐ灯を消して眠った。

 肩のあたりが冷えびえとして夜半に眼がさめ、冬の雨が屋根や中庭に降る音をきいた。私は起きて原稿を書こうとした。机の前に坐って灯をつけると昨夜原稿用紙の上においたペンが無くなっている。紫の風呂敷に包んだ原稿用紙と封筒より他に荷物のない私はどこも探しようがなかった。着物やコオトを調べきれいに寝床を畳んだけれど、ペンはどこにも見当らなかった。私は悲しかった。金の、美しい、よい字のかける、昔親しい友から贈られたペンだった。銀行の判であろうと何であろうと片ぱしから失くしてしまう私が夜眠るときも枕もとにおき、目をつぶっていてもすぐに在りかを云うことが出来たのはあのペンだけであった。私は悲しさにしばらく机にひじをついて左手に額を支えて瞑目していた。しかし、どうしてもペンを失った悲しみよりも童話劇を書かねばならないということの方が激しく私をゆすぶるのだった。その童話劇は一晩きりで捨てる筈のものだった。それでも私はいまは書こうと思いたった気もちを中断されたくなかった。私は悲しみに抵抗するように部屋を出ておかみさんのところへいった。人のいいおかみさんは私について来て自分でも部屋中をさがしてくれた。それから息子のペンを貸してくれた。

 私は机の前に坐り子供のための劇を考えているうちに今まであのペンの美しさを愛しすぎていたことに気づいた。もっと裸に、もっと謙虚になりたいと願った。どこにでもある宿屋の息子のペンを使いながら書くということの意味をあのペンを失うことによってしみじみと考えた。親しい友の心尽しのペンが、小西氏に書いた手紙を最後の仕ごととして私の手から消え失せてしまったことを満足に思った。私は詫びてくれる宿屋の主人に礼を云って、まだ暗い小雨の降る街に出て行った。ものが書けるようになるのはいつのことか分らないが私は(つい)えたくないと思った。

 

 その朝、私はひと月ぶりで田園調布の大きい子供たちのいる家に帰った。そして少しも早く童話劇を書きあげるために二階の子供部屋にはいって行った。子供たちはみな学校へ出かけたあとで、子供のいない子供部屋はいくらか乱雑であったが、懐しい子供の匂いがしていた。長男の机の上の壁に、見なれない色刷りの複製が大事そうに額縁に入れて懸けてあった。それはただ化粧室の内部を描いた絵だったが、そこにある異常な確かさ、豊かさ、正常さがあまりにもこの十数日私がその中で過した生活の度合とかけ離れていたために私は何か戸まどいをかんじた。私のなかにあるものが何時からか渇きもとめていたものがそこにあることは確かであった。それはボナールの絵であった。今その前に立っていると、やすらいや、のぞみや、智性や、愛情が、光粒子のように私のうえに降りかかるのをかんじた。

 私は絵に近づいて、それが何処から来るのか調べようとした。そこでは安心して曲線が最短距離を主張していた。把握と解釈の明確さが、不協和音を協和音より澄みわたらせていた。混濁しない(あたい)の重複、それはもはや過剰の危険に迫ろうとさえしている。裸婦や浴槽や犬の(かたま)りに対して細分された床のタイルは、大きい単位の音符に対する三十四分音符の、経過音を含む軽快さと繊麗さで位していた。フラスコとマットが描く半円の強弱、だがいったいどちらを弱いといったらいいのだろう。そう云っていけなければどっちを除き去ることができるといえるのだろう。私はこの絵の場の一つ一つを占めている描かれたものの重要さ、描いたものの愛情が、秩序というものを身にひき添えている好もしさにまったく引き入れられてしまった。

 それは、その絵がそのうしろに持っているフランスという国の豊醇で濃密な文化のすがたをありありと(うか)べていた。その組成である複雑な一つ一つの素材がどんな綿密さでつながり合い、その文化を支えているかと考えさせずにいなかった。私は絵の残像の絢爛(けんらん)さのなかに数百冊の海上保険の本を浮びあがらせた。そして日本人が専門と日常生活とのつながりをどんな浅いところにしか持っていないか、ということを改めてしみじみと考えた。原子物理学や実存主義や、時々の流行の(あわただ)しい潮流の上をかすめて熱狂はするが、目だたない底の営みは置き去りにされてゆく。私は二十九年その学問への情熱をうずめつくして病妻一人を養えなかった義兄のことを考え、保険会社の専務取締役を考え、いまごろどこを歩いているのか知らないが私たちからオーヴァと万年筆をとりあげて行った「泥坊」のことを考え、そういうものをのみこんでいる日本の社会というものを考えた。――

 私は気をとり直し、新らしい巻煙草に火をつけ、童話劇のつづきを考えようと思った。原稿用紙の上には、

 二幕目     登場人物

 気のいい男   権さん

 よい子ども   三ちゃん

 かわいそうな人 白太郎 (後に天使となる)

 そのともだち  利ちゃん

 と書いてある。白太郎がマントをなくして困っていると権さんと三ちゃんが自分のマントをぬいできせてくれる。するとそのマントが天使の羽根になって白太郎は天国へのぼるということになるのだが、白太郎の友達の利ちゃんはいったいどういうことになるのだろう、と考えた。

日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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由起 しげ子

ユキ シゲコ
ゆき しげこ 小説家 1900・12・2~1969・12・30 大阪府堺市に生まれる。掲載作「本の話」により1949(昭和24)年芥川賞を受賞。1924(大正14)年画家伊原宇三郎と結婚、三男一女をもうけ、終戦の年別居。のちに神坂市子らの勧めにより作家の道に踏み込んだ。

普通の市民感覚に裏打ちされた由起文学は、近代日本の作家と作品が概ね或る反社会性を足場にしていたのと異なり、戦前の文学環境ではついぞ見出すことの出来なかった特異さを戦後の文壇に純真に打ち出して、今なお生彩ある異色を放っている。

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