本の話
一
私の
私は寝台の鉄棒に頭をおしつけ、時々遠くに水の走るような音をきいていた。病室の天井のテックスが二枚はがれ、鉛管が二本のぞいていて、水はそこを走るのかもしれなかった。
前々日、私が東京で受け取った白石からの電報というのはノドワルシ、クスリモツテキテクレ、という不思議な簡単なものだった。ノドワルシとは何のことかよく考えられなかったが、何をすてても行かなければならない局面に達したことだけは感じられた。それは九月に私は姉が悪いという知らせを受けていた。私はその時すぐにも行く筈であった。風水害の時、戦災の時、度々の病気の時、それまでにも何度かそういう知らせを受けて行かないことはなかった。しかし今度だけは事情がちがっていた。終戦以来の変り方によって経済の根拠を失っていたということだけでなくゆきつまった家庭生活の変革を実現する準備として私は小さい子供二人をつれ
そのようにして
私がそばに寄って行くと
「おそかった――もうだめ――どうして早く、来てくれなかった……」
奥の方で鳴っている、小さな音だった。こんなになるまで、一度も来てほしい、と云っては来なかったのだ。云わなくても来ると信じていたのだ。瞬間、私は何十年もの間、私たちの間柄が信頼によって結ばれて来たことを確認し、最後の瞬間に私がそれに
あまりのむざんさに、哀しみより
義兄は手の力を抜き、眼をとじ、ききとれないくらい低く、
「いや、――もういや。」
と呟いた。ああこの一ことを言うために義兄は私を待っていたのだと思えるくらい、それは重たく、哀切な響きを持っていた。私以外の誰に彼はそれを云うことが出来たろうか。急に、
義兄が何か云っている。
「勉強しているの……」
私は子供のように素直にそれにうなずくことが出来た。それから顔を拭いて私もお金に困っていたこと、今度の家につれて来ている小さい子供がジフテリヤで入院したりしたことを話した。彼はよしよし分ったというような顔になり、
「可哀そうに――」
と云った。私が
「学問だけ出来ても何にもならん。」
と云った。私が驚いて見ていると、もう一度また先程の大きなキラキラ光る眼になり、
「毎日リンゴを七十円、さしみを××円、優子に毎日白身の魚をたべさせた、便器が二百円……」
と云った。それも私にだけきいておいて貰いたいことなのだった。それから彼は眼を閉じ発作のためもう一度眼を開いた時にはもう言葉を云うことが出来ず、そのまま決して醒めることのない眠りについてしまったのだった。医者も看護婦も間に合わなかった。
家政婦をひきとらせ、夜が明けるまで
ねずみが多分毎夜の仕事なのだろう、枕もとの台の上に現れて米の袋をねらう。鹿のように首の長いねずみを、私は衛兵のように追い払った。
夜が明けると義兄を慕っていた学生たちが来た。レスリング部の大きな六尺近い学生が顔を赤く泣きはらして屍体の処置されたあとの衣類や身のまわりのものを始末していた。可愛い息子のようであった。その学生の口から義兄のサン・ジュリアン・ロスピタリエのような半歳の苦しみの道が語られた。九月、姉があばら骨が一本一本かぞえられるようになった時、「よし僕の肉をとってつけてやろう」と云って毎日リンゴ、さしみ、果汁、新らしい鶏卵など姉の口に合う栄養物と云えば
K療養所は松林をきり開いて山の上に建てられていた。義兄の
二
私の前にただ一つの、不思議な、苦しい道が開けていた。
私は姉の寝台のそばで日夜、肉親というものについて、生命について、生命への執着について、愛情について考え
姉の生命はつづいている。それ以上細くなりもしなければ太くなりもしない命の道を、ゆっくりと歩みつづけているようにみえる。それは私の心づかいと家政婦がいろいろな栄養物を
こうして有金を使い果し、売れるものを売りつくす間、姉は生きていてくれるであろう。義兄が自らの躯を削って姉を看護し
このような哀しい姉を私はどうしても見すてることは出来ないのだった。その一日も永く生きのびたいと思う心に添わずにはいられないのだった。このような生涯はあまりにも悲惨すぎる。このままで死なせたくない。――肉親というものの不思議さであった。不思議な
私の心は三つにも四つにも分れ、暖流と寒流のように交錯した。義兄のあの眼球にはりつくほど落ち窪んだ
要するに姉の闘病は続いていた。つづいている間、それはつづけなければならないものであったし、そのためにすべてのことが賭けられなければならない性質を私にとってそれは持っていた。療養所の庭の四五寸伸びた麦畑に寒い冬の風が吹いているのを見ながら、私はお金のことを考えていた。義兄とはちがった道はないものか、と考えた。たしかに、この世の中にはお金を儲けている人達がある筈だ。それはどうしても私に出来ないことだろうか。月に二万円の収入を得て初めて療養生活は確保されるので、しかもこの必要は三年も五年もつづくかもしれないのだった。
二月七日、校葬のため参集した且ての義兄の教え子のなかに出て来た蜂須賀五郎兵衛という文字通り童顔純情の偉丈夫がいた。式後、山をのぼって療養所を見舞い、涙にくれ、男泣きに泣き、私を物蔭に呼んで、大きい紙袋とお金の束を出し栄養をとらせてあげて下さい、この品は僕のところで作っているものです、と云った。お金は三千円、包みの中はだしじゃこで二貫目ほどあった。――
卒然として私はこのだしじゃこのことを思い
だしじゃこは愛媛県の産物で非常に上質であった。消耗品で必要品に近く、量も大小売り易いものであるから値段さえ適当であればつづけて売ることが出来るのではないか、と思った。店など
次々と色んな場面を考え、難関やそれに打ち克って行く道を考えていると、こんなすばらしいことはないような気がして来た。だしじゃこ。これはたしかに私の書く童話より味があって、人にもすすめられる有力なものであった。
私は蜂須賀五郎兵衛に手紙を書き、それから武石公子と棟方利一に手紙を書いた。三通の手紙をコオトの袂ヘ入れて松林の道を抜けて四十分かかるS川の郵便局まで速達を出しに行った。雪や
私は郵便局に行き手紙は一通だけ出し、公子と利一の分は出さなかった。一度東京へ帰ろう、だしじゃこのことも会って話さなければ駄目だと思った。それに東京にいて時々顔を合わせてさえいれば何でもないのに、こんなところに来てまるで恋人のことをでも考えるように利一のことを考えているなんて、
その夜私は姉が寝入ったすきを
私は一本のミモザの枝をかかえ、二十九年義兄の精魂がそこにあった美しい校庭に別れをつげた。
ミモザは病室の片隅の瀬戸の水差しにさして東京に帰った。
三
だしじゃこの話はしかし簡単なことでけりがついてしまった。蜂須賀五郎兵衛から返事が来て、だしじゃこが統制品であることが分ったからである。蜂須賀五郎兵衛はその代りに寒天の販売をすすめて来たので、私はそのためにもう一度関西まで出向いて行ったが、それも簡単な故障のために挫折してしまった。しかしこの時私は大阪で河辺
寒天の用件で私がある事務所に一人で腰かけて人を待っていると、色のおそろしく黒い、精力的な感じのする男の人が入って来た。この人はよく見ると何処か子供っぽいような顔もしていて、どういうつもりか胸にもも色のスイートピーを挿していた。これが河辺興次という風変りな実業家で、義兄の昔の教え子であった。義兄が亡くなったことはもう知っていて
一方義兄の死によって急にその生涯が省みられ、色々な方面から
十二月に入ってとうとう、姉の病院の会計を預ってくれている学生から上京するという知らせを受け取った。手紙で打ち合わせたりしている余裕がないほど涸渇して来た療養資金について、
いよいよ、義兄の唯一の遺品である本に手をつけなければならぬ場合であった。義兄の本は戦災で焼いた残りが六百冊ばかり東京の武石の会社の倉庫に箱詰になって残っていたが、これを売って金にかえるなどということは誰一人考えて見るものもないくらいだった。それは義兄の生前の意志として本は一纏めにして郷里仙台の学校か
しかし今はこの本のことを考えるより外に何を考えることも出来なかった。その形勢を察したように、姉からは本だけは売ってくれるな、それ位なら施療病院へ入れてくれというような葉書が着いていた。私は姉のわからなさに吐息をついた。まだとるべき手段が残されているのに、姉を見棄てることが出来ないのは知れ切っていた。義兄が
それにしても、本を売るにもどうしたらいいのか分らないので、私はやっぱり公子と利一に相談した。しかし本の種目をきいて、二人とも薄笑いした。海上保険と云われてもどんなことなのか見当さえつかない彼等は、ただその耳遠さに呆れたという顔つきであった。どこか大学にでも買ってもらうより仕方がないが、大学には金がないから駄目だろう、というくらいの智恵しか出ないのだった。それから仕方なく、上京中の河辺興次に相談に行った。すると彼はさすがに実務家らしい無造作さでA新聞に適当な売込み先を紹介させましょう、と云ってくれた。
学生広田はやはり想像していたような用件をもって上京して来た。姉に内密で本のリストさえ
武石製薬へ行って案内を頼んでいるとそこへ丁度公子が階段を下りて来た。後から下りて来る年とった紳士を眼で差してこれから商工省の会合へ行くところだと云って係の人を呼んで、テキパキした調子で自分の代りに倉庫に案内し、その後で昼食の用意をするように頼んで出て行った。本は全部で三十個、二十個が三階倉庫に、十個が地下倉庫に入れてあるということであった。最初に地下室の方から見ることにした。荷物用のエレベェタアをめぐってコンクリートの階段が地下へ降ってゆくそのあたりは、ま昼でも薄暗かった。荷造りを解いた縄や荷札がこぼれていた。倫理の先生のようにしかつめらしい茶色の服をきちんと着た倉庫係長が御先導という感じで降りるあとから私と広田は従った。木箱を動かしたり釘を抜いたりしている人たちが不思議そうに三人を眺めた。倉庫はずいぶん広くて薄暗い電燈の光では隅々まで見通せなかった。それに配給用の薬品をつめた大きい木箱が種別毎にまとめて積みあげてあるのが、市街地の模型のように見られた。本の箱のところヘゆくことが何何街の何番地と訪ねるような気がした。私は公子がこの荷物を預るとき、邪魔になるけれどかまわないわ、と云ったことを思い出して
「開けてごらんになりますか。」
と係長が訊いた。私は一箱でもあけてみたいと思った。いずれ全部調べなければならないのだが、M古書店と話を始めることが急がれたので、とりあえず一箱だけあけてもらうことにした。さっき入口で働いていた人が呼ばれて、私たちの前で縄を切って釘を抜き出した。何かしら不思議な感慨が私の身内を走り出し、その人が板をもちあげるのが棺のふたを除くように思われて来た。あきらかに、まわりに積まれている清涼剤や歯みがきの箱と異ったものをこれらの箱は発散している。係長と箱をあけた人は出ていった。私はひざまずいて箱の中を見入った。本の不規則な配列や新聞包みや、結んだしでひもを鋏できったあとが目にはいった。三年間、人間の行為の跡がそのままこの箱の中に保存されている。この本をとり出すことは、この本を彼が詰めたことに直接続いている。私はしばらく手を触れることをためらわずにいられなかった。この箱の中にまだ義兄は生きている。
「だいたいみんなあるようですな。」
と云った。
「そうね。」
私は木箱のふたをもとの通りに閉ざした。
私たちはその足で書店へ廻って紹介状を出したが古書部の主任が不在なので翌日の昼会社で会うことに頼んで家に帰った。
次ぎの日、その古書部の主任は約束通りに薬品会社へ来てくれた。四十年配の、小さいクリクリした眼の、笑うと愛嬌のある会社員風の人だった。
私は義兄が仙台へ本を金に換えないで保存したかったことから始めて一通りのことをきいてもらった。そしてなるべく散逸させないでどこかへ納めたいことを希望した。主任はリストを見ていたが、ずいぶん古書を扱っている彼にも海上保険の英独仏伊の走り書きには閉口した様子だった。彼は正直にニコニコした顔で、しかし少しもったいぶって云った。さきほどからいろいろ御事情を承りましてだいたいのことは承知いたしました。それで、これは打あけ話でございますが、大変お金をお急ぎの御様子でございますが、私がこのまま頂戴いたしますと、どうしても見込み値段でうんとお安く頂戴いたさなければなりません。なにしろ専門書でかたよって居りますから、それで考えたのでございますが一の日
高くなるということが、百を意味するのか千か万か全然見当がつかなかった。いずれにしても私は本を全部一通り調べてみると云いはった。それでその日は九日だから、とうてい次の一の日、十一日にはお渡し出来ない。第一、それでは本が
その日の午後から、私と広田は整理にとりかかった。リストは義兄が心覚えの為に作っておいたもので完全なものでなかったので、新らしいものを作ることにして私がその役目になった。広田が本をとり出したり、すんだ分をつみ重ねたりした。私も本をとり出すことがあったが、一つ一つがていねいに新聞紙に包まれたその上に墨でケントとかテンプルマンとか著者の名や書名が書いてあった。結ばれた紐をほどく時が一番つらかった。義兄が結んだ時の手つきやその時の心もちまでが鮮かによみがえり、私は何度か涙ぐんでしまった。その上、本は意外にフランスの本が多く、昔パリにいた頃耳なれた地名や出版
倉庫は三時半になるべく終って欲しい
「広田さん。あなたは
が、広田は魚屋がイッチョニィチョと魚を数えるように本をつみ上げるばかりで、
「いや、私は結構です。」
と答えるのだった。私は本の
四
そこへ小さな
河辺興次の上京期間中に一度夕食に招くぐらいのことをしたいと思っていたが、きれを売ったのこりの金があったので、いささかの酒を買い、十四日の午後、碑文谷の「アトリエ」といつからか皆が呼びならっている私の小さな家へ河辺氏を招待することにした。学生広田をねぎらう意味もあった。広田を旅館に泊めるような余裕はなかったので、「アトリエ」の一室にソファをあけてそこへ泊ってもらっていたが、本の方がなかなか
その夜、私の「アトリエ」は珍客を迎えて、太い男性的な声がひびいていた。河辺氏は私の風変りな住居を珍しがり非常に上機嫌で、一人で盃をみたしては面白い話をして私たちを笑わせた。彼は一流の相撲の愛好者で保護者であった。子供がない彼は大ぜいの力士たちを子供のように可愛がり食客にしたりしていたが、それは父祖伝来の家の業だと彼は云った。彼の祖父などは極めたる悪趣味で、庭に白砂糖の土俵を築いて三十六人の芸者を裸にしてその上で相撲をとらせ、本当の相撲とりたちには紋付をきせて酒をのませながら座敷でそれを見物させた、などという話をして子供のような顔をして笑った。そしてどうしても私たちに相撲の手を教え込まないでは気がすまぬというように、怪しい足許で立ち上っては熱心にいくつかの型を説明した。彼は人生のすべてのことを三十いくつか四十いくつかの相撲の手に還元して割り切っているらしかった。そういう単純明快な世界を考え、それはそれで立派だと私は納得した。
酔っていても九時をすぎたころ、河辺氏はチョッキから時計を出して見て、形を改めて謝辞をのべて帰って行った。子供を寝せて私がその辺をかたづけていると、広田がオーヴァが無いと云い出した。信じられないことだった。こんな露地の奥のみすぼらしい家の庭にどんなものずきが来ることだろう。しかしすぐそばの椅子には私の外出着がかけられたまま残っているのに、広田のオーヴァだけ姿を消していた。広田は慎重にあたりを調べていたが、泥足のあととオーヴァのポケットに入れてあったというボールペンがおちているのを発見した。隣室で私たちが相撲の話に興じている間に、何者かが窓から忍び込んで広田のオーヴァ一つを持って行ったのだということを認めないわけにいかなくなった。それが、偶然であろうが恩師のために働きに来ていてくれる広田のオーヴァだったことが私をかなしませた。この十二月の寒空に、翌日から早速彼に何を着せたらいいのか私は全く途方にくれてしまった。一人になり、火鉢の前にいつまでも座って考えていたが、いい考えも浮かばなかった。
次の日は十二月には珍しく晴れたいい天気だったので広田は学生服だけで出かけてくれた。その日M書店の人が来て保険会社の方が有望になって来たからリストを貸してほしいと云った。私はもう殆んど出来上っていたリストをわたした。そして日のかげらないうちに家に帰りつくことが出来るようにと広田を早目に引きあげさせた。こんな好天気が明日もまた続くとは思われない。何とかして今日のうちにと思いあぐみながら、自然に足が向いて数寄屋橋の利一の会社を訪ねた。近くのコーヒー店に入って、公子にも会ったが公子には言い出せなかった前夜のことを話し、どこかにオーヴァはないでしょうか、と哀願するようにきいてみた。
利一は煙草のやにで色の変った細長い指に巻煙草をはさんで、煙草の煙りに眼を細めながら話をきいていた。しばらく考えて、
「……そいつあ、どうも、よわったなあ……」
と、ひきのばしたように言って、言葉をきった。そして別のことを言い出した。学生広田を一日も早く帰すべきこと、広田がいるためにもう一万円以上もあなたは使っている。金のこともだがあなたは彼に対する心使いの為にすっかり疲れ果て、自身の生活を失ってしまっているではないか、というのだった。利一の眼はつめたく、意地悪いものを宿しているように見えた。いつか本を売る前に一度全部本を調べなければ、と云った時も彼は、そんなことをするんですか、と云って同じような顔をしたことがあった。私はかなしくなり、利一に話したことを後悔した。
外へ出て、灯をつけはじめた街を襟巻に顔をうずめるようにして歩いた。利一が寄りそって来て、
「あれをごらんなさい」と云った。裸の街路樹が、散り残った一二枚の葉をこまかくふるえさせている向うに、冬の太陽が沈んだあとの真紅の残照に
二人は立ち止ってしばらくそれを見ていた。それから利一はいつもの郷愁をうかべたような顔になり、私の顔に見入るようにして、そんなことをしたこともないのに片方の手をさし出した。私はその手にちょっと
電車に乗っているうちに天啓のように私は「アトリエ」の
「権さん。」
私が呼ぶと
「あの、ほら、何てったかな、小説の小母さんが来たよ。」
と声高に呼んだ。私は小説なんか書いていない。(少くとも活字にしたことはない。)
「ごめんなさいね――」
と云いかけると三ちゃんはお金を払いに来たのだと早合点したのか、
「いいんだよ小母さん。心配しなくたって金なんざ」
と親方そっくりののみこんだ口ぶりでさえぎった。私はひどく恐縮したが嬉しくなって、そこへ出て来た権さんと三ちゃんに箪笥を売らなければならなくなった一ぶ始終を物語った。権さんは光の箱を私の方へさし出して、まあ一つとすすめ、自分もそれに火をつけてから、
「じゃあ、さし当ってあしたっから着るオーヴァがありゃいいんでしょう。箪笥売るったってそうさっ急には売れやしませんよ。おい三ちゃん。俺のオー ヴァとってきな。」
と気軽に三ちゃんに云いつけた。三ちゃんが奥からもとの将校用のオーヴァをもって来た。それは少しくたびれていたが温かそうに見えた。
「これお着せなさい。私は着やしないんだから。」
そして箪笥は春になったら薄く削ってとの粉を塗って新らしくして売ってあげましょう、そうすればずっといい値になるからと云ってくれた。私はホッとして身内が暖くなるほど嬉しかった。その上、三ちゃんは小母さん俺持っていってあげような、といってそのオーヴァをもって私を家まで送って来た。道々も三ちゃんは俺が削ってあげるよ、正月休みに一日つぶして、と安心させるように何度も云った。三ちゃん飴の罐がまだ一つあったかも知れないわ、と私は家に帰って戸棚をあけたがいつのまに使ったのかそれはなくなっていた。三ちゃんはいいよ、いいよ、じゃまたねと云って帰っていった。小柄な広田が外套の袖を通すと、道化じみておもちゃの兵隊のように見えるので私たちは笑いこけた。そしてともかく一つの難関がすぎたことを喜びあった。
五
翌日はやはり晴れていたが木枯のような風が吹いていた。私たちはオーヴァが借りられたことをしみじみうれしく思った。その日、私たちはまた地下室の作業をつづけたが、頻繁な停電のたびにローソクをつけねばならなかった。ローソクの光は眼をつかれさせ、十二月の地下室のコンクリートは膝の感覚をなくさせるほどで、私たちは難航に苦しんだが、その中に私は嬉しいものを見つけ出した。それは薄いフランスの本であったが著者の名前は日本人で、表紙をかえすと右肩に細い女文字のようなペン書きで白石教授に贈る、小西三郎と著者の名が書きこんであった。それは日本商法の本であった。それからしばらくしてもう一冊同じ著者の本が出て来たが、これにも同じ場所に同じ筆蹟で同じことが書かれていた。乏しい光に照らし出されたそのペンの跡をみているうちに私はふと明るいものに横ぎられたような気がした。それは、小西三郎という人はどんな人か知らないが、この人と義兄との間に生前何かの交友関係(おそらく学問上の交友と思われるが)があったとすれば、もしこの人が生きていてくれれば、この人が私に何か分らないことを分らせてくれるのではないか、という希望が、浮んだのだった。私は何よりも、この間から私の心の裡で大きな悩みになっていたこれらの本の価値について、この人から教えられたい、と思った。そしてまた、本の納め先についても或いは適当な処理方法を考えてもらえるのではないか、という甘えた考えも浮んだ。私は小西三郎という名を記憶して家に帰った。そうして電話で利一に小西氏のことについて調べられたら調べてもらいたいと頼んだ。
広田が帰らなければならない日が近づくのに持ちかえってもらう金のあてもなく、オーヴァを買う金も出来ない。M書店の人はどこへ納めるにしても二割の手数料はとるのだから、金が入用ならば立替えておいてもいいと云ってくれていた。私はもうこれまで口をかけた以上たとえどこに納めるにしても礼金を出したいと思っているのだから、前借りすることもやむを得ないとまで考えた。次の日、会社へつくと受附の人からM書店から連絡があって、今日会いたいから四時に待っていると伝えられた。そこへ利一がヒョッコリ入って来て、
「あれ分りましたよ。」
とポケットから紙
「まあ仙台にいらっしゃるの。」
所書きをみるなり私は大きな声を出してしまった。
「東北大学の教授ですよ。大丈夫、生きていますよ、家の方へ速達出される方がいいでしょう。」
利一をそこに待たせて、私はすぐ応接室の小卓の上で小西氏に手紙を書き出した。全く見知らぬ小西氏に唐突な相談の手紙を書くことは、いくらか書きにくくもあったが、義兄があれほど望んでいた仙台の、それも境遇も同じ教授だということが私を力づけていた。手紙は七八枚にもなり読み返すひまもなかったが、そのまま利一に渡した。
その日、ほとんど全部の整理を終了した。四時にM書店にゆくと、主任は待っていてくれた。会うことが二度三度と重なってこの人が善い人でもあり腕のある商人でもあるように思われて来た。彼は保険会社がいよいよ買いそうですと云った。私は今日小西氏に速達を出したことを話して、もいちど本を売るについてのいきさつを
広田が帰って二日目小西氏からリストオクラレタシという電報がとどいた。私はその電報をもってその日は一の日で
私はすぐに小西氏にリストを送りたいから頂きに来ましたと云った。すると彼は一寸顔に難色をみせてもう保険会社の方で話がきまりかけている。そのために理事会を開いて可決されたから今日四時までに返事をすることになってそのため私は昨夜電報をさし上げた。あなたが来て下さったのはそのためだと思ったと云った。私は意外だった。何だか押しつけがましいものを感じた。私は小西氏にリストを送ることは一たん御相談をかけた以上礼儀だと思います。あなたにもそのことは申上げておいた筈ですと云った。彼は当惑したようだったがポケットから時計を出して、それでは保険会社へ一緒に行ってあなたの口からそのことを説明して頂きたい。多分心証を悪くするかも知れないしもうこんな口はないかも知れないと云った。二人は外へ出て四時には五分しかないのでタクシイをひろって急がせた。彼は明らかに不満らしかった。二万五千円を借りたことがこうなったのだ、と私は思った。彼は車の中で、最初云った値段よりも三万円位は上げられるかも知れないと云った。保険会社と彼の間にどんな値段が生れているのか、そのような幅がありうるということが、金の必要な私を哀しくした。
会社の書庫は高いところにあった。彼がオーヴァと襟巻をはずしたので私もそれを見習ってコオトと肩掛けをはずした。書架の奥の窓際に二人の男と一人の女がいてじっとこちらをみていた。M書店の人が商人らしい腰の低さで真中の人に近づき礼を述べてから私をひき合した。私は書架にぎっしり詰っている本を見たとたんに義兄の本を思い出し、もはや小さいこの場の人情に負けてはいけない、自分が軽率に振舞うことがとりかえしのつかないことを招来するのだと引締まった心になった。専務取締役はオーヴァを着たままでどっしりした机の前に掛けていて本屋に
「いや、私共の方では
と云いきった。私は益々惨めになりながら莫大な財産と何の関りあいもない学究者の生涯を心に描いた。なにかしら金という熊手のようなもので無造作にここに沢山の本が
六
私はリストをそのまま小西氏に送るつもりで持ち帰ったが、ノート二冊と数枚の紙片に分れていて読みにくいのと、また送りかえしてもらうことが気の毒なので急に写し直す気になった。私は夕飯もそこそこにそのことをはじめたが保険会社の話をそのまま成立させることが義兄にも姉にもひどく不誠実なような気がして来た。私はあの専務取締役が本屋と同じように売れの遠いかたよった本ということを見抜いているばかりで、どの一冊の本にも心惹かれた様子もなかったことを思い出すと、それが義兄の本を納めるべき適当な場所のようにはどうしても思えなくなって来た。尠くとも私は義兄と姉の為にもっともっと手を尽すのが本当だと考えた。これが義兄自身ですることであれば、どこへどのように手放すことも、いたし方のないことかも知れないが、もうどんな発言も出来なくなってしまった彼から
夕方私はまた新橋の旅館に河辺氏を訪ねたが彼はまだ戻っていなかった。私は待つ間を玄関の椅子に掛けて、大きい子供とその友達から頼まれていたクリスマスの童話劇を書こうと思った。それは明日からでも練習しなければ間に合わないものだった。私はもし河辺氏の帰りがおそくて無駄に帰宅したとしてそれからこの原稿を徹夜して書いて、も一度明朝十時にここへ来られるだけの自信がなかった。疲労があまりに深かったから。私は顔馴染のそこの女主人に頼んで、部屋をとってもらった。そして「アトリエ」の戸締りをしてないことを思い出し、隣家の奥さんにそれを頼むつもりで電話をかけると、受話器に思いがけない利一の声がとび込んで来た。彼はある作家の原稿を取るためにきのう軽井沢に出かけていて留守のはずだった。
「まあもうお帰りになったの。」
利一のゲラゲラ笑う声がして、
「帰りません、これから行くんです。今日一日あなたをつかまえるのに骨をおりましたよ、あなたはいったい
私はきのうから今日へかけてのことをかいつまんで話した。彼はふんふんときいてから、すこし話があるからそこへ行きます。わるい話じゃない、まあいい話でしょう。越冬資金が出来るかもしれません。じゃすぐ伺いますから、と電話をきった。
利一はいつにない弾んだ声を立てていた。私は何なのだろう、と思った。そしてもしかしたら私が初めて書いた小説が売れてその原稿料をもってきてくれるのではないかと思った。この想像はたのしかった。私はすこし救われたような気もちで部屋に戻り、机の上に原稿用紙をのべて童話劇を考えはじめた。二三行、登場人物の名を無駄がきしていると、河辺氏が帰ったと知らせて来た。
河辺氏は少し酔っていた。そして上機嫌だった。彼は私の話をきくと、まあそんなにくよくよしないで、もう今年も暮れですから来年私がそのM本屋の方の話はつけてあげます、と云った。彼は来年、来年と何度も云った。私はまだ本と云えばクシャクシャになりそうな顔をけんめいにもちこたえて彼の来年説にお願いしますと云って部屋を出た。河辺氏は酒の機嫌が手伝っていたけれどその親切と来年にという意見はよく分った。手もちの時間を一ぱいに頑張ろうと思いながら階段を降りて玄関へ出て行くと
「あなたがいつか呉れた
立ったまま、いきなりそんなことを云い出すのを、私は何のことか咄嗟には思い出せず、利一の顔を見ていた。
「一万五千円で買うっていうんです。鎌倉のRさんに見せたんです、ニセモノなんかじゃない立派な栖鳳だって。年内に金くれるっていうから、あなたにきいて早く返事しなくちゃ、と思って今日、ずいぶん方々さがしたんですよ。」
私はしん底からがっかりした。でも彼の親切な世話心は有難かったから、
「ありがとう」と礼をのべた。
彼は私が夕飯もたべず、疲れ果ててこんな宿屋に寝ようとしているのを
私は体じゅうに散らばっていた疲れが次第に一箇所に集り、重い固まりになって行くのをかんじながら、きのうからの気持の上の出来ごとをこの青年に話そうかどうしようか、と考え、やっぱりやめようと思った。利一の方にもきっと彼が今話していることでない、他に何か話したいことがあることが分っていた。彼の結婚問題が何かの展開を見せているのではないか、と思われたが、私は今それを聞きたいとは思わなかった。利一と別れて宿へ帰り、すぐ灯を消して眠った。
肩のあたりが冷えびえとして夜半に眼がさめ、冬の雨が屋根や中庭に降る音をきいた。私は起きて原稿を書こうとした。机の前に坐って灯をつけると昨夜原稿用紙の上においたペンが無くなっている。紫の風呂敷に包んだ原稿用紙と封筒より他に荷物のない私はどこも探しようがなかった。着物やコオトを調べきれいに寝床を畳んだけれど、ペンはどこにも見当らなかった。私は悲しかった。金の、美しい、よい字のかける、昔親しい友から贈られたペンだった。銀行の判であろうと何であろうと片ぱしから失くしてしまう私が夜眠るときも枕もとにおき、目をつぶっていてもすぐに在りかを云うことが出来たのはあのペンだけであった。私は悲しさにしばらく机にひじをついて左手に額を支えて瞑目していた。しかし、どうしてもペンを失った悲しみよりも童話劇を書かねばならないということの方が激しく私をゆすぶるのだった。その童話劇は一晩きりで捨てる筈のものだった。それでも私はいまは書こうと思いたった気もちを中断されたくなかった。私は悲しみに抵抗するように部屋を出ておかみさんのところへいった。人のいいおかみさんは私について来て自分でも部屋中をさがしてくれた。それから息子のペンを貸してくれた。
私は机の前に坐り子供のための劇を考えているうちに今まであのペンの美しさを愛しすぎていたことに気づいた。もっと裸に、もっと謙虚になりたいと願った。どこにでもある宿屋の息子のペンを使いながら書くということの意味をあのペンを失うことによってしみじみと考えた。親しい友の心尽しのペンが、小西氏に書いた手紙を最後の仕ごととして私の手から消え失せてしまったことを満足に思った。私は詫びてくれる宿屋の主人に礼を云って、まだ暗い小雨の降る街に出て行った。ものが書けるようになるのはいつのことか分らないが私は
その朝、私はひと月ぶりで田園調布の大きい子供たちのいる家に帰った。そして少しも早く童話劇を書きあげるために二階の子供部屋にはいって行った。子供たちはみな学校へ出かけたあとで、子供のいない子供部屋はいくらか乱雑であったが、懐しい子供の匂いがしていた。長男の机の上の壁に、見なれない色刷りの複製が大事そうに額縁に入れて懸けてあった。それはただ化粧室の内部を描いた絵だったが、そこにある異常な確かさ、豊かさ、正常さがあまりにもこの十数日私がその中で過した生活の度合とかけ離れていたために私は何か戸まどいをかんじた。私のなかにあるものが何時からか渇きもとめていたものがそこにあることは確かであった。それはボナールの絵であった。今その前に立っていると、やすらいや、のぞみや、智性や、愛情が、光粒子のように私のうえに降りかかるのをかんじた。
私は絵に近づいて、それが何処から来るのか調べようとした。そこでは安心して曲線が最短距離を主張していた。把握と解釈の明確さが、不協和音を協和音より澄みわたらせていた。混濁しない
それは、その絵がそのうしろに持っているフランスという国の豊醇で濃密な文化のすがたをありありと
私は気をとり直し、新らしい巻煙草に火をつけ、童話劇のつづきを考えようと思った。原稿用紙の上には、
二幕目 登場人物
気のいい男 権さん
よい子ども 三ちゃん
かわいそうな人 白太郎 (後に天使となる)
そのともだち 利ちゃん
と書いてある。白太郎がマントをなくして困っていると権さんと三ちゃんが自分のマントをぬいできせてくれる。するとそのマントが天使の羽根になって白太郎は天国へのぼるということになるのだが、白太郎の友達の利ちゃんはいったいどういうことになるのだろう、と考えた。
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
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