哀草果秀歌二百首 (高橋光義選)
米搗くがあまりのろしと吾が父は俵編みゐて怒るなりけり (山麓)
ひた赤し落ちて行く日はひた赤し
ぐんぐんと田打をしたれこめかみは非常に早く動きけるかも
入りつ日に尻をならべて百姓ら田なかの土を掘りやまずけり
田草とる
今日もまたひどき
百姓のわれにしあれば吾よりも働く妻をわれはもちたり
ひむがしの
あかがりに
この雨に病みつつも思ふ
先生に会ひに行くなれば
あかときと
繭売りて得たる
家並べて
工女にゆきし娘かへりて
遠空に
笹原に時雨のあめの音さびし山深く来て
旅行くと振り返りみれば吾が家の
病む父の足を揉みつつ
五月雨の日に日に降りて田草
この夕べ心いらだたしふり向きてほほづき鳴らす妻を叱れり
尊さよ稲の葉先におのづから水玉のぼり日は暮れにけり
稲を植ゑをる吾を目がけてひらひらと
雨はれてあかるくゆるる柿若葉この街道の塵しづまれり
まづしさをよしと思ひて生きなむか今日も田に出でて落穂を拾ふ
蚕を
稲の葉のひとつ蛍よ田のみづに影うつりつつ
繭ぐるま妻とし
氷はる冬田の隅に息たちて泉わくべの
雲に触れしとどに濡れてゐたりけりこの暁の杉の
繭を売り米をつくれど
箸を持つ手もかじかみて
おのおのは歯茎ならしてもの言へり
奥山に
岩鼻の椿
あかつきの暗き
栗の
荒れたりし今日の山とも思ほえず谷間にしづむあかき夕雲
険しき山を炭負ひくだるをみならが
風なぎしゆふべの山に
まなかひに霧はれゆけば現はれし
軒につきて雪のつもれる高窓に
雪のうへに顔おしつけし
窓あけてあかき月かげさす
病み
わが
犬飼君の
谷あひをラッセルしつつゆくわれのスキーの先を兎走れり
電灯のひかりふけたる
山風がはげしく
風邪
覇気なくなりし
荷を負ひて雨ふる山を
稲刈りてひろき田の
貧しさはきはまりつひに歳ごろの娘ことごとく売られし村あり
若者ら
冬枯れし山の低きを黒き牛しづかにゆくはさびしかりけり
心臓のおもぐるしくてめざめたるあしたの
ひむがしに海ひらけたる国ゆきて
わが村ゆ売られ売られて能登海の宇出津港に酌する
湖を音たててゆく雨あしに
血圧のことを書きたる
炭背負ひハモニカを吹く少年が草もみぢせる峠越えゆく
峠ちかき棚田の稲は青だちて刈る人なしに雪かむりけり
雪ふかき
腎病みて酒をのまねばあはあはとここ一年はすぎしごとしも
谷風が山の雑木の葉をかへしひかりかなしといはざらめやも
湯気こもる手術室にあはれにも片足になりて
次男勝也が足切
少年のわれ
山寺駅の構内に積みし鉄材に薬草あまたならべ干したり
雨降りて
雲海を
ひと
わが妻が
寒き夜の
徹夜する寒さしのぐと蜂蜜をあたためのみぬ
書聖梧竹の写真を壁にあふぎつつわが
製本をくりかへしつつ手放さぬ辞典ちぎれて使へずなりぬ
中空を雪音たてて吹きすさぶ片照る空にあこがるるかも
夕空は黄に冴えかへり流れ来る須川の瀬々に霧たちわたる
はしき
つきつめて生きたかりけむうら若き
憤りよろこびもちて帰へれども
悲しみに吾
北の空秋田あがたに鳴る
鳥海山のお花畠をたもとほりもしか亡き子に会ふかと思ふ
雪渓に湧きたつ雲にかくれつつ先行く友が歌声きこゆ
ただならぬ国のあゆみをおもふとき夜更くるへやに
わが妻を
雲に雲がかげをおとしてうごきゆくつらなる山のさかんなる青
このあしたいただく
わが風邪の熱おとろへてやすき夜を若葉にそそぐ春の
夢なかに老いたる妻を
西瓜きりて掛けたるごとき赤き月が
黒百合は
三千年かつてなかりし苦しさをたへゆく強き
愛情のことなど語りいましがたをりける吾等月の下ゆく
熔岩のけはしき山に汗はおち息づくときを雲走る音
雪におされし木々跳ねかへる音ひびく
雪の夜はけおさるるごとくしづかなりいでいるわれの息のみきこゆ
山村はおもはぬところに家ありて青葉のなかに
水晶を立てしに似たる雁戸山の高嶺の雪がゆふぐれむとす
雨ふりて
愛情はいよいよふかく狭くなり妻の外出を拒まばいかに
かがまりて
出づる日やはるか奥羽山脈にすれずれに太平洋にひかりひろがる
太平洋に日は昇りつつ朝日嶽の大き影日本海のうへにさだまる
以東岳の
わが死なば骨を粉にして以東嶽お花畑の風にし飛ばせ
以東嶽たたまる尾根の
湖のあらぶる波につなぎたる舟の
尾根越ゆる濃霧に立てば太陽が東より照り
朝の日は
雪渓が三段に
人間を拒みちかづけぬ牛首山ぎりぎりのときにわれはゆくべし
八月十四日の太陽越後にかたむきてチングルマの花みな西を向く
茫々と風吹く月の照る峰に一人息づくわがいのちなり
谷の上の尾根を幾時わたりゐていくらもうごかぬ烏帽子嶽の位置
雲うごき弁天沼の藍暗くなり木原暗くなり吾妻山暗し
二十二歳の田舎青年われ入門し五十九歳にて歩行さだまる
「貴方の顔はもつと黒かつた」二十年前をいふ君の顔は柔和に黒い
幸福は瞬間でよし
山行くは楽しからずや高山の青雲恋ひて今日も山ゆく
皿伏山に湧ける夏雲一押しに尾瀬沼うづめ
ワタスゲの冠毛が飛び来て水に浮き
日本は東海に張られし一本の弦平和の
太陽が地平のはてに沈むごとく
温き両手ねんごろに摩りあげむと急ぎ来にしにみまかりたまふ
鼻口出血が断続しつつ二週間目に全く止りてわれは生きたり
先生のあとにつづかば火も水もくぐらむものと覚悟し生き
わが恋ふる人住む
西南の師走夕空黄に焼けてとりとめなけれひとと別れ
谷川に山かげおちて夕づけば突きし
清遊が遊興になる過程をばまざまざと見て座を立ちてきぬ
国原はここに
花ならば
きみの背の
二つ
残雪が白く
海と川活動し合ひて成りし
吾妻山の残雪にあかき夕映が藍色に
高田君はみまかりしかと独り
蔵王山まともに仰ぐ家に住み七十年を気強く生きつ
生きるよろこびしみじみおもふ冬空が黄に夕焼けてうつくしければ
少年の日がそこにここに在るおもひ雪消えし
いましがた熟柿がおちて潰れたる木の下の雪ふりかへりゆく
正しき事には捨身に当ると覚悟決め力ありたけ生きなむ吾は
天が最も公平に分配する時間を貴重に生きむわれと決めたり
瞑想のまとまらぬまま床なかに
黙し立つ茂吉先生におづおづとわれの近寄る明方の夢
透明度きはまりのなき
波さわぐ朝の湖が雲海の起伏するさまにこもる大きさ
深谷の河床に並ぶ石々にふりたる雪が幾日消えざり (樹蔭山房)
左手がにはかに痔れ目がくらみ
朝夕の脱糞放尿と食事するこの大儀さや生きるは苦し
全身の毛が総立ちてそよぐごとき痛き注射をわれ
九死に一生を得て生きる日々雲の去来も
ひどく苦しきときは神に低頭し助け乞ふ
冬時雨たちまち晴れて西日照る机の前にしばしまどろむ (樹蔭山房以後)
わが孤独救ふはいつも山のみか
山々は皆
善麿の生活基盤に立脚し茂吉の実相観入実行したる作歌まさに六十年
人間は無より生れて無に還る平安無限無限平安
日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室
This page was created on 2006/01/06
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